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「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
 主はこの地を圧倒される。

 地の果てまで、戦いを断ち
 弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
 
力を捨てよ、知れ
 わたしは神。
 国々にあがめられ、この地であがめられる。

 万軍の主はわたしたちとともにいます。
 ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」(詩編46:9-12)
 
さて、判決が近づくに連れて、言い知れない喜びが心に込み上げて来る。そして、心静まって、これを厳かに待ちたいと願わずにいられない。神が私たちのためになして下さった勝利と解放のみわざが、どれほど偉大なものであるか、神がご自分を愛してその約束を忠実に待ち望む民に、どれほど不思議で驚くべき方法で応えて下さるか、生きてこの目で確かめ、その喜びを心に迎えるめに、自分自身を整えたいと思わずにいられないのだ。

上記の御言葉の11節は、口語訳では「静まって、わたしこそ神であることを知れ」とあり、こちらの訳は、全被造物が、神の偉大な裁きの前に、静まり、沈黙せねばならないことをよく表しているようで、筆者には耳慣れて、気に入っているフレーズである。

私たちの神は、偉大な神、力ある神、真実で、正義を実行される方、正しい者を力強い御手で苦難から救い出し、悪人には容赦のない裁きを宣告される方である。

今回の訴訟の決着には、主イエスの御言葉の正しさが、神の国の権益がかかっているわけであるから、どうして神がこの紛争をご覧にならず、これを心に留めず、見捨てて通り過ぎて行かれるようなことがあろうか。

そこで、筆者は、心から神を信頼して待ちつつも、まず筆者自身が、その大いなる正しい裁きに服する者として、深く頭を垂れて、厳粛に判決を待ちたいと思うのだ。
 
筆者は地上の裁判官の善良で情け深く親切な側面しか知らない。警察官についても同様で、筆者は彼らと常に市民として関わって来た。どんなにやきもきする瞬間があっても、彼らは筆者の目には、常に市民の権利を守る側に立っていたのであり、筆者は自分の思いのたけを彼らに告げることが許されており、彼らは筆者を威嚇したり、筆者の権利を否定し、これを取り上げて、追い払ったりするような恐ろしい人々ではなかった。

だが、権威を行使するということには、もう一つの恐ろしい側面が確かに存在する。筆者は彼らの手に、悪人どもへの裁きと報復を委ねた以上、これらの人々が、ふさわしい人々に向かって処罰を下すという恐るべき権限を行使することを願い出、かつ許したのである。

そこで、今、筆者は、改めて神の御前に心静まり、私たちの信じている神が、偉大な裁き主であって、恐るべき権威を持ち、しかるべき刑罰を下すことのできる方であることを思う。

もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。

モーセの律法を破る者は、二、三人の証言に基づいて、情け容赦なく死刑に処せられます。まして、神の子を足げにし、自分が聖なる者とされた契約の血を汚れたものと見なし、その上、恵みの霊を侮辱する者は、どれほど重い刑罰に値すると思いますか。

復讐はわたしのすること、
 わたしが報復する
と言い、また、
主はその民を裁かれる
 と言われた方を、わたしたちは知っています。生ける神の手に落ちるのは、恐ろしいことです。」(ヘブライ10:26-31)
 
もしかすると、今回の訴訟の最も大きな収穫の一つは、それであったかも知れない。つまり、これまで筆者は、この事件を自分自身で持ち運び、可能な限りの策を自分で講じ、また、悪事を働く者どもに対しては、その報いが、正しい裁きが確かに存在することを警告して来たのだが、今や、その裁きは他の人々の手に委ねられたのだ。

従って、筆者が受けた仕打ちのために誰よりも憤り、筆者の名誉を守るために毅然と立ち上がり、そして、筆者に害を加えた悪人どもに対して、容赦のない裁きの宣告を下す存在は、筆者自身ではないのである。

少し前の記事で、筆者は、私たちに加えられた攻撃が、キリストに加えられた攻撃とみなされるほどまでに、私たちとキリストとは一つにならなければならない、と書いた。

ただ個人が攻撃されているというだけでは、神は立ち上がって下さらない。神が本当に立ち上がって、これ以上、悪事を見逃しておくことはできないと、怒りに満ちて天から裁きの宣告を下されるためには、神の国の権益に触れる事態が起きていなければならないのである。

そこで、そうなるまでに、キリストの十字架は、私たちの肉を深く貫通していなければならない。私たちのセルフは死んで、それ以上に深い攻撃がなされ、もはや、私ではなく、キリストに対する攻撃がなされ、神の国の権益が害されていると言えるだけの根拠が必要になる。

そこで、今回、白昼堂々、掲示板で犯罪行為が行われたことには、おそらくは深い意味があるに違いないだろうと思う。こうしたことは、何年も前から行われて来たことなのだが、やっと今になって、誰もが知りうる客観的事実として明るみに出され、ようやく彼らに処罰されるだけの根拠が整った。

だが、同時にそれは、いわばこの訴訟の最後の総仕上げであって、この訴訟が、筆者のセルフ(生まれながらの古き自己)を擁護する目的のためでないことが、公然と証明されるために必要な段階でもあった。

つまり、これから読み上げられる判決は、筆者のセルフを擁護するためであってはならず、また、筆者が、自分の弁論の巧みさや、もしくは、生まれながらの頭脳や、知性、受けた教育、社会的地位などの優位性によって、勝ち取ったものであってはならず、それはただ純粋に、神の御言葉の正しさを擁護するためのものであり、また、御言葉に立脚するがゆえの正しい裁きでなくてはならないのである。

そこで、この訴訟において、栄光を受けるのが、微塵も、筆者の生まれながらの自己であってはならない。そのために、筆者の自己はさらに深く徹底的に主と共に十字架で死に渡され、いかなる肉的な要素も有利にならず、また、主の他には、誇るべきものが何もないという地点へともたらされることが必要だった。

そして、この段階まで来たからこそ、神が筆者を擁護して下さること、これから筆者に起きることが、神の御言葉の正しさを公然と証するものであって、神の誉めたたえられるべき栄光に満ちたみわざであって、断じて筆者の力によるものではないと言えるのである。
 
このように、真に神に味方していただきたいと願うならば、私たちは、もはや自分の生まれながらの自己には、何の弁明の余地もなく、それによって状況を有利に変える見込みが全くなく、ただ神に対する全身全霊の信頼と希望以外には、何一つ頼るべきものがないという地点まで、もたらされなければならない。

そうなったとき、神は初めて私たちを擁護するために、天を引き裂いて降りて来られ、大胆に力強く私たちを苦難から救い出し、私たちのために勝利を宣言して、汚れたものの一切の痕跡を、私たちから断ち切り、私たちの涙を拭い去って、滅びの縄目から完全に解放して下さるだろう。

さて、筆者はこれから判決言い渡しまでの間にも、作成せねばならない新たな書面がいくつもあるが、今回の民事訴訟においても、次の御言葉を引用して、いずれ掲示板で行われているような犯罪ネットワークの全貌が、万人の前に明らかにされる日が来るだろうと予告して来た。

人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:26-31)

今回、民事訴訟に関わってくれた人々も、おそらくは今起きている騒ぎを知って、筆者が訴訟において訴えていた事実を、より深く知ることになっただろうと思う。そこで、このタイミングでこうした出来事が明るみに出されたことは、決して偶然ではなかったと思うが、今後も、筆者はこの訴訟に関わってくれたすべての人々に向けて、さらに事実を明らかにし続けていきたいと考えている。

聖書においては、神は隠れたことをみておられる」(マタイ6:6)方であると記されている。

また、「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。」(ローマ2:16)とある通り、裁きの日には、神は人々の隠し事を明るみに出され、イエスを通して裁かれると予告しておられる。

だが、「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」というのは、何も終わりの日のことだけを指しているわけではない。

今日、神をも畏れず、御言葉への反逆を続けている人々は、自分たちが暗闇の中で行っていることは、常に自分たちしか知らず、決して人々に知れ渡ることはないと高をくくっているのであろうが、そのような者に対する宣告は、次に記す通りである。

あなたは言った、「わたしは、とこしえに女王となる」と。そして、あなたはこれらの事を心にとめず、またその終りを思わなかった。 楽しみにふけり、安らかにおり、心のうちに「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもなく、わたしは寡婦となることはない、また子を失うことはない」と言う者よ、今この事を聞け。

これらの二つの事は一日のうちに、またたくまにあなたに臨む。すなわち子を失い、寡婦となる事はたといあなたが多くの魔術を行い、魔法の大いなる力をもってしてもことごとくあなたに臨む。
あなたは自分の悪に寄り頼んで言う、「わたしを見る者はない」と。あなたの知恵と、あなたの知識とはあなたを惑わした。あなたは心のうちに言った、「ただわたしだけで、わたしのほかにだれもない」と。
しかし、わざわいが、あなたに臨む、あなたは、それをあがなうことができない。なやみが、あなたを襲う、あなたは、それをつぐなうことができない。滅びが、にわかにあなたに臨む、あなたは、それについて何も知らない。 」(イザヤ47:7-11)
 

バビロンは、自分を神以上の存在であると思い上がって、「わたしは、とこしえに女王となる」と心に思っただけでなく、「わたしを見る者はない」とつぶやいて、自分の悪事が誰にも知られておらず、暴かれることは決してないと考えた。

だが、神は彼女の悪事を確かに見ておられ、しかも、その報いを彼女に二倍にして返すと宣言された。しかも、その日は盗人のように思いがけない形でやって来ると言われている。

さて、筆者はこれまでの記事で、暗闇の勢力からの言いがかりに対抗するための弁論を、ほぼ言い尽くして終了したと思うが、今言い足すことがあるとすれば、ごくわずかに次の通りである。

パウロはコリントの信徒への手紙で、「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。」、「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。」(Ⅰコリント7:7-8)と記し、あくまで主のために生涯を捧げるのが最善であって、娶ったり嫁いだりすることは、積極的には勧められないという考えを示している。

だが、すでに結婚している信者に対しては、「妻は夫と別れてはいけない」「また、夫は妻を離縁してはいけない」。」(Ⅰコリント7:10-11)と述べて、夫と妻が別れることを禁じた。だが、これにも例外がもうけられている。

「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと、妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。」(Ⅰコリント7:15-16)

信者であると言いながら、イエス・キリストが神の独り子であることを否定したり、あるいは、御言葉にそぐわない異端の教説を信じている者が、後者に当てはまるのは当然であろう。

このように、パウロは地上における結婚に全く積極的でなかったどころか、むしろ、それを地上的な移ろいゆく些末な事柄として奨励せず、それよりも、信仰にあって救いを保ち続けることの方が、はるかに重要であるとみなしていた。地上のどんな関係にも、信者の救いを失わせたりするほどまでの価値はないと彼は断言していたのである。

そこで、今、筆者は、地上の目に見える富や、自分を取り巻く擁護者の人数でなく、私たちのために天に用意されている恵みに満ちた栄光を思いつつ、次の御言葉を思う。

「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(ヘブライ12:22-24)

むろん、筆者はまだこれらの言葉の具体的な成就を見ておらず、シオンの山も、無数の天使たちの祝宴も、長子たちの集会も、見たことはない。だが、それでも、自分が近づいている生ける神の都である天のエルサレムを思う度に、言い知れない喜びが込み上げて来る。その晴れやかな祝宴には、一体、どれほどの栄光、喜び、感謝が満ち溢れていることであろうか。

「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、私たちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませか。約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。」(ヘブライ10:19-23)

前から幾度も書いている通り、地上の法廷は、天におけるまことの裁き主なる神の御座の絵図である。

そこで、筆者は、王妃エステルがすべての覚悟を決めて、王の前に進み出た時のように、塵と灰を被り、さらに入念にイエスの死を身に帯びて、王の王、万軍の主なる神の御前に進み出る。

前よりも随分、大きな苦難をかぶったために、やつれたかも知れないが、その分だけ、喜びも大きくなり、「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」(黙示7:14)と言われる殉教者らの道に、また一歩近づいたと言えるだろう。

こうして、イエスがご自分を割いて開いて下さった「新しい生きた道」を通って、筆者は聖なる裁きの御座に進み出る。そこには、白い衣を身に着けた人々の大群衆はあっても、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)の姿はない。そこは聖なる場所であって、汚れた者はそこに立ち入れず、彼らのための余地は全くないのだ。

こうして、心は清められ、もはや良心のとがめはなく、体は清い水で洗われて、ただ神を信頼しきって、真心から、御前に進み出て、こう言うことができる。

全能者である神、主よ、
 あなたの業は偉大で、
 驚くべきもの。
 諸国の民の王よ、
 あなたの道は正しく、また、真実なもの。
 主よ、だれがあなたの名を畏れず、
 たたえずにおられましょうか。

 聖なる方は、あなただけ。
 すべての国民が、来て、
 あなたの前にひれ伏すでしょう。
 あなたの正しい裁きが、
 明らかになったからです。」(黙示15:3-4)

「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。

救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである。

 また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。

 「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉、力、威力が、
 世よ限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン。」

 すると、長老の一人がわたしに問いかけた。「この白い衣を来た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。
 そこで、わたしが、「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はまた、わたしに言った。

彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。


 それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、
 昼も夜もその神殿で神に仕える。
 玉座に座っておられる方が、
 この者たちの上に幕屋を張る。
 彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
 太陽も、どのような暑さも、
 彼らを襲うことはない。
 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
 命の水の泉へ導き、
 神が彼らの目から涙をことごとく
 ぬぐわれるからである。」(黙示7:9-17)

我が主よ、あなたは正しい方、真実で、偉大な誉めたたえられるべき方。ご自分の約束を忠実に守り、あなたに頼る民を決して見捨てず、心砕かれた者を軽んじず、卑しめられた者を蔑まれない方です。あなたは永遠に変わらない、確かなお方であって、あなたを信じる民は、決して恥をこうむることなく、失望に終わることがありません。

ハレルヤ。主よ、来たりませ。私たちは喜びを持ってあなたを迎えます。栄光はとこしえにあなたのもの。力と威光と尊厳もあなたのもの。私たちの誉れと賛美はとこしえにあなただけに、ただあなたお一人だけに捧げられます。

我が主よ、あなたは私たちにとってどれほど偉大な喜びであり、かつ希望でしょうか。あなたはとこしえに私たちの主、そして私たちはあなたの民です。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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