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「預言者ハバククが、幻で示された託宣。

 主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのに
 いつまで、あなたは聞いてくださらないのか。
 わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに
 あなたは助けてくださらない。

 どうして、あなたはわたしに災いを見させ
 労苦に目を留めさせられるのか。
 暴虐と不法がわたしの前にあり

 争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。
 
  律法は無力となり
 正義はいつまでも示されない。
 神に逆らう者が正しい人を取り囲む。

 たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。

 諸国を見渡し、目を留め
 大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。
 それを告げられても、お前たちは信じまい。

 見よ、わたしはカルデア人を起こす。
 それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め
 自分のものでない領土を占領する。

 彼らは恐ろしく、すさまじい。
 彼らから、裁きと支配が出る。

  彼らの馬は豹よりも速く
 夕暮れの狼よりも素早く
 その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て
 獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。

 彼らは来て、皆、暴虐を行う。どの顔も前方に向き
 砂を集めるようにとりこを集める。

 彼らは王たちを嘲り
 支配者たちを嘲笑う。どんな砦をも嘲笑って
 土を積み上げ、それを攻め取る。

 彼らは風のように来て、過ぎ去る。
 しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。

 主よ、あなたは永遠の昔から
 わが神、わが聖なる方ではありませんか。
 我々は死ぬことはありません。
 主よ、あなたは我々を裁くために彼らを備えられた。
 岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた。

 あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。
 人の労苦に目を留めながら捨てて置かれることはない。
 それなのになぜ、欺く者に目を留めながら黙っておられるのですか
 神に逆らう者が、自分より正しい者を
 呑み込んでいるのに。

 あなたは人間を海の魚のように治める者もない、
 這うもののようにされました。


 彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、
 投網を打って集める。

 こうして、彼らは喜び躍っています。

 それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ投網に向かって
 香をたいています。

 これを使って、彼らは豊かな分け前を得食物に潤うからです。

 だからといって、彼らは絶えず容赦なく諸国民を殺すために
 剣を抜いてもよいのでしょうか。 


 わたしは歩哨の部署につき砦の上に立って見張り
 神がわたしに何を語り 
 わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。

 主はわたしに答えて、言われた。
 「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように板の上にはっきりと記せ。

 定められた時のためにもうひとつの幻があるからだ。
 それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。
 たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

 見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。
 しかし、神に従う人は信仰によって生きる。
  (ハバクク第1章1節~2章4節)


* * *

今、非常に大きな感動が心に込み上げて来る。
これほど、上記の御言葉がタイムリーに響く瞬間が他にあろうか。

筆者は昨年、暗闇の勢力から挑まれたおびただしい数の不法行為に対して、ふさわしい裁きが下されることをを待ち望み、この争いを司法の場に持ち出した。

結審するまでの間に、極めて激しい戦いがあったことは先の記事で記した。筆者は、提訴、控訴、反訴の脅しのすべてに立ち向かって、この脅しを粉砕しなければ、判決にたどり着くことができなかったのである。

だが、そこで戦いは終わりとならなかった。

結審から判決が出るまで3ヶ月。その間にも、空中で激しい論戦が行われた。

口頭弁論が開かれていた頃にも、暗闇の勢力からは、嘘に満ちた険悪な議論が、書面および口頭にて幾度もしかけられた。その際、この事件を担当してくれた裁判官は、親切で善良な人であったので、筆者がこれ以上の権利侵害を受けて、より一層の身に危険が及ぶことを案じて、議論がひどくなる前に制止してくれたり、筆者が答弁する前に、被告らに対して、筆者の答弁を代弁するかのようなしかるべき注意を述べてくれたこともあった。

裁判官は、か弱い一人の女性としての筆者の身を案じ、何とか審理が平和裏に解決することを願っていたのであろう。だが、それは人間的な観点からは正しい措置であったかも知れないが、しかし、筆者には、依然として、自分一人で受けねばならない「杯」が残っていたことが分かっていた。

筆者はキリスト者として、誰の力にも頼ることなく、自らの意思により、信仰の証しを貫徹して、霊的戦いを制することができなければならない。

この裁判に限らず、筆者が心の底から待ち望んでいる正義の判決は、筆者自身が、死に至るまでの従順によって、神に従う決意表明をすることなしにば、勝ち取れないものなのである。

そこで、結審を勝ち取ったことそれ自体は、極めて大きな勝利だったとはいえ、この戦いは、裁判が結審しても、終わりにならず、筆者は、土の器である自分がさらに裂かれることに同意せねばならず、その後も、暗闇の勢力からの論戦は、掲示板に飛び火して、そこでこれまで以上に徹底的な誹謗中傷と、権利侵害がなされたのである。

これがこの訴訟におけるいわば最終戦で、弁論が打ち切られた後も、暗闇の勢力はこれを場外乱闘に持ち込んだのだと言えよう。

むろん、この世の法に違反する者は、この世の法によって裁かれる。従って、彼ら不法行為に及んだ者どもが、処罰に値するのは言うまでもない。そして、しかるべき措置は取られている。
 
だが、筆者がここで言いたいのは、キリスト者には、主の御名のゆえに、受けねばならない苦難があって、それは私たちが信仰を守り抜く上で、避けては通れないものであり、私たちは御名の栄光のために、その代価を払うことを惜しんではならないということである。

この世の人々は、弱い者の身に危険が及ばず、より一層の権利侵害が起きることを防ぐためには、議論を早々と打ち切って沈黙することが、最善であるかのように思っているかも知れない。

だが、そうではない。キリスト者には、決して語ることをやめてはならない瞬間があり、絶対に退却することのできない戦いがある。

たとえ、ある瞬間に、誰かキリスト者が、自分の身を案じて、語ることをやめたとしても、その戦いは、決してそこで終わりにならないだろう。キリスト者は、一つの戦いに自分で立ち向かって勝利をおさめない限り、生きている間中、それに圧迫され続けるだけなのである。従って、身の安全を考えるならば、まずは暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、敵の武器をへし折ることなくして、圧迫も脅かしも止むことはないと知るべきなのである。

当ブログにしかけられている論戦は、人間対人間の争いではなく、それを超えた領域にある、神の聖霊と、それに逆らう霊的勢力との間で行われている激しい戦いである。

それが証拠に、当ブログに対して投げつけられている非難と悪罵の言葉をよく見れば、誰しも、その根底には、聖書そのものに対する非難と悪罵があることがすぐに分かるだろう。

たとえば、当ブログの証しが「妄想」によるものであって、精神病の産物であるかのように主張している人たちは、驚くべきことに、聖書の記述そのものが、荒唐無稽なファンタジーであるかのように主張している。

彼らは、創世記において、エデンの園において、悪魔が蛇の姿を取って人の前に現れ、人類をそそのかしたなどという記述は嘘であると言う。むろん、ノアの洪水や、悪魔や悪霊の存在なども、みなファンタジーに過ぎず、そもそも聖書は古代文献の一つでしかなく、そこに書かれていることは、神話であって、額面通りに信じること自体が愚かしいことだと主張している。

恐るべきことに、当ブログに激しい論戦を挑んでいる彼らは、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、聖書が、神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、聖書は人間が書いたものに過ぎないなどと主張している。

彼らの主張を要約すれば、「悪魔なんてない。暗闇の勢力もない。そんなものはみな精神病の産物だ」ということになろう。

そこから察するに、人類の堕落も、悪魔の存在も、ノアの洪水も認めない彼らは、当然ながら、マリアが聖霊によって身ごもってキリストを生んだなどの記述も、認めていないであろう。

だとすれば、聖書をファンタジーに満ちた古代文献に過ぎないとしている彼らは、結局のところ、クリスチャンを名乗っているにも関わらず、キリストが神の独り子であって、人類の罪の贖いのために十字架にかかられたという聖書の基本的な真理を、全く認めていないことになる。

そこから導き出される結論はただ一つであって、彼らが当ブログをバッシングすることで、真に広めようとしていることは、結局、キリストは神の子ではなく、人類の救い主ではないという一言に尽きる。

要するに、イエス・キリストが神の子であることを否定し、十字架の贖いを否定したいがために、彼らは2009年に当ブログに発表された「キリストの十字架以外に救いはない!」という記事に猛反発し、それ以来、執拗に当ブログに対するバッシングを続けて来たのである。

従って、そのバッシングの根底にあるのは、聖書の御言葉が真理であることを否定して、イエスが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定する反キリストの思想である。

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:18-21)

従って、このような恐るべき聖書の御言葉を否定する冒涜的発言が投げつけられている時に、我々が沈黙しているとすれば、それはまさに我々が反キリストの思想に屈したことを意味するだけである。

この争いは、人間対人間の争いではなく、神と悪魔との間で繰り広げられている激しい論戦であり、私たちキリスト者は、その戦いにおいて、最後まで、固く神の側に立って、聖書の御言葉の正しさに立脚して、暗闇の勢力の前で、自らの信仰の証を毅然と続けねばならない。

初代教会の使徒、信者たち、全世界のクリスチャンたち、また、日本における戦前、戦中の信者たちも、同じように迫害を受け、そこで信仰の証しを選び取るのか、身の安全を選び取るのか、選択を迫られたのである。

誹謗中傷がなされたからという理由で、さっさと退却しているようでは、そこですべてが終わりとなり、激しい戦いを勝ち抜いて信仰の証しを守り切ることなど決してできるはずもない。
 
我々はこの地上の全被造物の前で問われている。我々にとって最も大切なものは何か。自分の名誉や、身の安全か。それとも、神の御言葉の正しさなのか。

私たちは、悪人にはふさわしい裁きが下されることを願い求めているが、それが実現する前に、まず、自分の信じている神の御言葉の正しさを公然と世に証明せねばならず、そのために自分の持てるすべてを捧げ、死をも辞さないという覚悟で、すべての圧迫に立ち向かって、勝利をおさめるべきである。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

とある通りである。もしも私たちが命をかけて証をしなければ、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)すなわち、サタンを天から投げ落とすことはできない。

「イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる。」(ルカ9:23-26)
 
口先だけの内実の伴わない言葉では、悪魔と暗闇の勢力に対して、何の脅威をも圧迫をも、もたらすことはできない。

仮に私たちが自分の命を惜しんだとしても、それによって自分の命を保つことはできない。自分の命を真に大切にするならば、なおさらのこと、主に従い抜くために、死に至るまで自分の命を惜しまない覚悟で、御言葉の確信に立ち続け、信仰の証を守り通すことが必要となる。それによって自分の命を再び得ることができよう。
  
それが、主イエスの受けた辱めを負って、この世の宿営の外に出て、御許へ召されることの意味である。世の人々が、私たちの信仰をどんなに嘲笑い、罵ったとしても、その脅かしを恐れてはならない。もしも私たちが真に主の民に属し、心の内で、主の御名のゆえに苦難を受けていることを知っているならば、その杯を最後まで受け切ることを恐れてはならない。
 
「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに行こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」(ヘブライ13:12-14)

このように、キリスト者が、完全に自分自身を主の死に同形化するとき、初めて暗闇の勢力の最大の脅しも打ち破られて無効化され、復活の力の大胆な現れが起きて、彼らは退却して行く。

さらに、それに伴って、大きな富の明け渡しが起きるだろう。

前の記事で書いた通り、神はご自分を信じる民を、絶望の中に沈黙して見捨てて行かれるような方ではない。神は私たちを苦難の中に見捨ててはおかず、ふさわしい時に、力強く御手を伸べて、私たちを救い出して下さる。

しかし、山々を引き裂いて天から降りて来て、すべての被造物を一瞬で沈黙させ、圧倒的な裁きを下すことのできる神は、まずは地上において、私たち信仰者自身が、果たすべき責任を果たすのを待っておられる。

そのために、私たち自身にも、代価を払うことが求められる。すなわち、私たちは、古いもの(魂、肉体)に霊的死の働きがなされることを許し、自分を祭壇に横たえ、全勝のいけにえとして、自分自身に御言葉の剣が刺し通されるのを許さなければならない。

そうして、私たちの古いものがまず死に渡され、私たちがキリストの苦しみにあずかるとき、私たちの内に、より一層の清めと、肉に対する霊的死の効果が働き、私たちはキリストの死に自分を同形化しつつ、彼の復活の力を知って、戦いに勝利することができるようになる。

こうして、主の苦しみにあずかり、試練を忍び通して勝利を得る決意を固めることが、私たちの「心の武装」である。

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」(Ⅰペテロ4:1-2)

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして使者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)

主イエスは地上におられた間、絶えず、パリサイ人や律法学者から論戦を挑まれ、罪人たちから猛烈な非難を浴びせられ、その反抗を耐え忍ばれた。

そこで、私たちも、あらゆるいわれのない論争をしかけられる時にも、忍耐強く応戦して行かねばならない。もしかしたら、一人くらいは、その論戦を見聞きして、考えを改める者も出て来るかも知れない。

へブル書にはこうある、

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」(ヘブライ12:1-3)
 
* * *

これまで2009年来、当ブログをバッシングして来た人々が、最もひどい攻撃の対象として来たのは、プロテスタントの教会の中でも、いわゆる聖霊派と呼ばれる、聖霊の働きを強調・重視する教会の関係者に対してであった。

ペンテコステ運動の中には、怪しげな霊の運動も混入しており、今や数々の混乱が引き起こされているのは事実であるが、上記の人々が、聖霊派の教会や信者に対して最もひどいバッシングに及んだ背景には、彼らが、聖霊の働きを心底、憎んでいることが挙げられる。

それはちょうど戦時中、キリスト教徒の中でも、ホーリネス信者に対して、最も激しい迫害が行われたのと、構図は同じである。ホーリネス信者は、その当時、「新生」「聖化」「神癒」「再臨」を文字通り信じており、そこには聖霊の目覚ましいわざが働いていた。それが国体思想の持主にとって最も恐るべき脅威と映ったであろうことは想像に難くない。
 
ホーリネスの運動が形骸化した後、その流れを汲んで登場して来たのがペンテコステ運動であり、さらに、ペンテコステ運動が当初の純粋性を失った後では、御霊の働きは、この運動を離れて信仰を守る民に最も顕著な形で受け継がれた。

聖霊は、やがて来るべき神の国の秩序そのものであり、サタンがどんなことをしても手を触れることのできない、破壊することもできない復活の領域である。そこで、サタンは、聖霊を攻撃できないので、信者を攻撃するのであり、暗闇の勢力は、いつの時代も、キリスト教の中でもとりわけ、聖書の御言葉を文字通り真理であると信じ、信仰を通して、御言葉を忠実に体現し、これを実際として地に引き下ろし、神の聖霊のみわざを大胆に実現しようとしている人々の証を、集中的に攻撃・破壊しようとして来た。
 
ちなみに、聖書には「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)とある。

悪魔と暗闇の勢力には、聖霊そのものを冒涜することも、破壊することもできないが、信者は人間であって、旧創造から成る贖われていない部分を持っているので、神の聖霊を持ち運んでいる外側の「器」としての信者を攻撃することは、暗闇の勢力には、ある程度、可能である。そこで、敵は、信者の心と体という旧創造の部分に対して、激しい攻撃をしかけて来る。

私たちが心を圧迫され、肉体が危険にさらされることを案じて、早々に信仰の証しをやめることが、彼らの狙いである。
 
しかし、これは、人間対人間の争いではなく、
聖書の御言葉の真実性を否定する思想の持ち主と、聖書の御言葉の真実性を証する者との間の、霊的な激しい論戦であるから、私たちは、自分の魂と肉体に対してしかけられる攻撃に対して、主と共なる十字架の死に自分を同形化して応戦せねばならない。

その時、私たちの霊的死の只中から、目覚ましい復活の命の働きが起きて来る。死がなければ、復活も生じず、私たちがまずキリストの苦しみにあずかり、その死の中に、大胆に御言葉が信仰によって働くことなくして、復活の命の現れはないことを知るべきである。

黙示録を見ても、キリストが再び来られるまでの間、エクレシア(教会)は激しい戦いを戦い抜かなければならないことが分かる。

そこで、私たちも、試練を通される覚悟を固めるべきであり、おびただしい証人たちの前で、自分に定められた競争を勇敢に走り抜き、賞を勝ち取ることができるかを試されていることを思うべきであろう。

暗闇の勢力は、聖書の御言葉の真実性を破壊するために、キリストの十字架に逆らい、聖霊に逆らって、神に反逆しており、あれやこれやの信者を迫害することで、聖書の御言葉の真実性そのものを破壊しようとしている。だが、私たちはそれに対抗して、より一層、公然と御言葉の正しさを世に掲げなければならない。
 
もちろん、私たちの主は、遅れることなく、速やかにやって来て、最後まで忍耐して勝利をおさめた者たちには栄光を与え、悪人にはふさわしい裁きをなして下さる。

だが、それを待つ側である私たちは、主を迎える準備が出来ていると言えるだろうか? よくやったと主人に褒められる働きを確かになしたという確信があるだろうか?
 
判決を待ちながら、主の再臨を思う。そして、地上に置かれている間、より一層、心の武装をして、御言葉を実際として地に引き下ろし、サタンのわざを無効化し、御霊の自由と解放を実現するための方法を知らねばならないと思う。主の再臨は、そのように御言葉を実際として生きる主の民の存在によってこそ、早められ、引き寄せられることであろうと確信する。「主よ、来たりませ」と言いたい。



* * *

さて、暗闇の勢力から当ブログに対する非難が最も激烈なものとなった時期の一つが、昨年の5月頃であり、それは当時、国際社会でエルサレム問題が再び注目されていたこと密接な関係があった。

2017年末から、米国のトランプ大統領は、エルサレムをイスラエルの首都として公式に認めると宣言しており、昨年5月にはイスラエル独立式典70周年の記念式典に合わせて、それまでテルアビブに置かれていた在イスラエル米国大使館が、エルサレムに移転された。また、同月、トランプは現職大統領として初めてエルサレムの「嘆きの壁」を訪問し、ユダヤ教徒の装束でユダヤ教式の祈りを捧げるなどしている。

(この問題については、
米、エルサレムをイスラエルの首都と承認へ 各国で初めて」(BBC news 2017年12月6日)、
焦点:米大使館移転で中東緊迫化、「エルサレム問題」とは何か」(REUTERS 2018年5月15日)、
トランプ家とユダヤ教、その浅からぬ関係 現職で初めて聖地「嘆きの壁」を訪問した意味」(東洋経済ONLINE 内田 通夫  2017年5月30日)、
エルサレム問題」(コトバンク、知恵蔵 大迫秀樹 フリー編集者 2018年の解説)などを参照されたい。)

だが、日本を含め、国際社会の多くの国々は、イスラエルがエルサレムを自国の主都と宣言していることを認めておらず、依然として大使館をテルアビブにおいており、米国大使館の移転に伴う式典にも代表者を送らなかった。その移転に伴い、パレスチナ側からの抗議行動も高まり、イスラエルによるパレスチナ占領を非難する論調が、マスコミを通じて一気に広まり、ネット上でも大々的に拡散された。

その時、マスコミは一斉に、トランプ大統領を以上のような行動に突き動かしたのは、彼の有力な支持基盤であるキリスト教福音派(米国プロテスタント)であるとして、キリスト教福音派は、親イスラエル的な態度を取って、国際社会の非難を無視してイスラエルの不法な占領を正当化しているとして、一斉にキリスト教福音派をバッシングするニュースを展開したのである。

その際、マスコミは、一般の日本人にはそれほどなじみのないエルサレム問題を訴えることで、キリスト教福音派を攻撃するのではなく、むしろ、キリスト教福音派がLGBT(同性愛)を聖書に基づかないものとして否定しているとか、妊娠中絶を否定しているなどの理由を挙げつつ、あたかも福音派が、現代社会になじまない非常に偏狭かつ狭量で短絡的な主義主張をいくつも掲げており、それゆえに、エルサレム問題についても、イスラエルの占領を正当化しているかのように結びつけて、キリスト教福音派を非難するという態度を取った。

このように、昨年5月にエルサレム問題がマスコミで取り上げられ、トランプ大統領の支持基盤であるキリスト教福音派へのマスコミによる攻撃的なニュースが流されたことを機に、それに煽られた愚かな人々が、未だかつて一度もエルサレム問題など論じたこともない当ブログにまで押しかけ、大いなるバッシングを加えたのであった。

彼らの言い分は、要するに、当ブログが、すべてのプロテスタント教会と同じく、聖書を神の霊感を受けた書物であって、そこに書かれている記述は真理であると信じて、信仰の証しを続けていること自体が、許しがたいことであって、当ブログが、同性愛に反対し、LGBTを擁護せず、妊娠中絶を認めておらず(当ブログは一度もこの問題を論じたことがない)、イスラエルによるパレスチナ占領を非難した記事も見当たらないことが、その証拠だというのである。

そういう決めつけを持ち出して、彼らは、聖書を額面通りに信じるキリスト教徒こそ、現代社会において許容されない恐るべき差別と偏見を生み出すカルト思想の思想の持主であって、要するに、聖書を文字通りに信じることは恐るべき誤謬であると主張して、当ブログを非難したのである。

ちなみに、この滅茶苦茶な問題提起の中には、あまりにも多くの錯綜がまじりあっているため、誤解のないように丹念に紐解いて行かなくてはいけない。

まずはエルサレム問題からだ。

ここで、まず、マスコミが十把一からげに用いているトランプの支持層であると呼ばれている「キリスト教福音派」という用語を我々は整理しなければならない。

キリスト教福音派とは、元来、聖書の記述を真理であると信じる米国プロテスタント全体を指すような、かなり広義かつあいまいな用語であって、現存する一定の団体などを指すものではないから、プロテスタントのどれくらいの信者をこれに含めることができるのかも、正確には定義できない。

実際には、プロテスタントには数限りない流派があって、考え方も詳細は様々に異なり、むろん、キリスト教福音派の中にも、イスラエルによるパレスチナ占領に反対しているクリスチャンは存在している。そこで、キリスト教福音派全体が、米国大使館のエルサレム移転をみな歓迎しているかのような言い方自体が、正確ではないと言えよう。

エルサレムをイスラエルの主都と認めることを歓迎しているプロテスタントのキリスト教徒とは、結局のところ、米国福音派というよりも、米国プロテスタントに浸透している「キリスト教シオニズム」に感化された人々を指すと言うべきである。

彼らの考え方がどのようなものであるかは、「イスラエル首都エルサレム移転」を福音主義者が支持するのはなぜか? 」(BizSeeds 2017年12月19日 )などを参照されたい。ここで「福音主義者」とされているものを、「キリスト教シオニズムに影響を受けたプロテスタント信者」とすれば、彼らの考え方が見えて来る。

「これらの記述を信じている福音主義者たちは、「イスラエルがユダヤ人のものであり、イスラエルの首都がエルサレムだ、ということは神が決めたことであり、議論の余地はない」、「イスラエルが神の意向に沿って、エルサレムを首都とした形で再建されれば、イエス様が再臨してくれる」と本気で信じているわけである。」



一言で言えば、キリスト教シオニズムに影響を受けたプロテスタントの信者らは、世界中に散らされた民であるユダヤ人が、イスラエルに集まって自分たちの国を建国し、エルサレムを首都と定め、そこに第三神殿を再建することが、聖書の記述に合致しているものと信じ、それらの出来事は、聖書の預言の成就であるから、絶対に起こらねばならず、さらに、それはキリストの再臨をもたらすために不可欠な将来的な歴史事件であるから、その実現を早めるために、イスラエルを支援するのは当然だ、と信じ込んでいるのである。

こうして、彼らはイスラエルによるエルサレム占領と神殿建設を推し進めることによって、キリストの再臨を引き寄せることができると信じ込んでいる。

一体、現在の米国プロテスタントにどのくらいの割合で、キリスト教シオニズムが浸透しているのか、筆者はよく分からないが、恐るべきことに、このような考え方は、米国プロテスタントには相当に広く普及している可能性があり、筆者が知っている限り、米国のみならず、日本のプロテスタントにおいても、相当に広くプロパガンダされつつあることは確かである。

「イスラエルのために祈れ」とか、第三神殿の再建に注目することで、聖書預言の成就を観察することができるなどと言っている人たちがそれに当たる。

ちなみに、当ブログは次の記事でも詳しく根拠を記すように、そのような人々と同じ考えには立っていない。そして、キリスト教シオニズムのような考え方が、聖書の記述を忠実に信じた結果として導き出されるとも到底、考えられないものとみなしている。
 
むしろ、当ブログで危惧しているのは、プロテスタントのキリスト教界が、カルト被害者救済活動(当ブログをバッシングしている勢力)の恫喝に屈して信仰の証しを保ち続けられなくなった以上、プロテスタントはすでに霊的に役目を終えており、新たな信仰回復運動が待たれるが、こうして、御言葉に基づく信仰の証しを離れ、御霊の息吹を失って、形骸したプロテスタントは、この先、反キリストの到来の下準備に利用されていく危険があるということである。

その際に非常に大きな役目を果たすのが、キリスト教シオニズムではないかと考えられるのである。
 
いずれにせよ、マスコミは、米国大使館のイスラエル移転をきっかけに緊張が高まったエルサレム問題を利用して、本来、「キリスト教シオニズム」に限定して向けられるべき非難を、ターゲットをすり替えて、プロテスタント全体(福音主義)へ置き換え、さらに、それをあろうことか、「聖書を文字通りに真理であると信じる信仰」(聖書信仰)に置き換え、聖書の記述を真理であると信じるすべての人々の信仰を非難・攻撃する材料として利用した。

それに便乗して、かねてより、当ブログに対して非難を展開していた人々が、これに飛び付いて、当ブログの信仰の証しに今まで以上に悪質なバッシングを加える材料としたのである。

だが、彼らの主張の根本は、すでに述べた通り、LGBT擁護や、妊娠中絶の容認や、エルサレム問題の考察にはなく、要するに、彼らは、聖書は荒唐無稽なファンタジーであって、それを額面通りに信じるなど、まさに愚の骨頂であり、精神病の産物に過ぎないという主張をしたいだけなのであり、エルサレム問題は、彼らが聖書を攻撃して、自らの反キリスト的思想を述べる新たなきっかけとなっただけである。
  
同性愛や、LGBTや、妊娠中絶を肯定する記述が聖書に存在しないことは、すでに記した通りであるから、反論するまでもない。ただし、エルサレム問題については、上記した通り、これはプロテスタント全体を新たな恐るべき誤謬に陥れる可能性のある非常に危険な思想的問題をはらんでいることから、このテーマについては次の記事で詳しく論じるつもりである。

* * *

予告として、多少、先走って述べておくと、プロテスタントはカルト被害者救済活動の恫喝に屈し、すでに霊的に役目を終えているが、M,Kなど、カルト被害者救済活動に迎合したクリスチャンの指導者らが、みな東洋思想からの強い影響を受けていることにも見られる通り、当ブログにおいては、終末のバビロンは、キリスト教と東洋思想を融合した「混ぜ合わせた福音」であるという考えを、これまで幾度となく述べて来た。

戦前・戦中の日本の国家神道・国体思想も、西洋思想と東洋思想の融合を掲げていたのである。

当ブログでは、東洋思想の根底にはグノーシス主義があること、すなわち、「母が脅かされているから、母を守らなければならない」という恐怖と被害妄想による自己防衛の連帯願望があることを述べて来た。東洋思想は、日本で「禅」という、最も洗練されて完成された形態にまで発展したが、そこで指摘されている、「母」を脅かしている存在とは、「父」すなわちキリスト教であるということも論じた。

つまり、東洋思想の根底には、自分(この思想の持主)がやがてキリスト教によって罰せられ、駆逐されるという潜在的な恐怖があるのだと言える。言い換えれば、これは聖書の父なる神を敵として、人類の罪意識から出て来た自己防衛の思想なのである。

さて、戦前・戦中の日本の国体思想は、日本という国を、「万世一系の天皇家という神聖なる血統とそれに赤子として連なる臣民」を容れるための「神聖な母体」であるとみなすものであったが、このような思想が起きて来たこと自体が、東洋思想の側から、キリスト教に対する必死の自己防衛反応であったと言える。

国体思想の中では、東洋思想と西洋思想を合体して新たな日本文化を創造することがその使命であると提唱されていたことも確認したが、このような発想の中には、「敵にやられる前に、敵に近づいて、敵を味方に取り込み、敵と合体することで、何とかして生き延びよう」という東洋思想の側からの生き残りをかけた必死のあがきが見て取れる。

さて、単純に言えば、この国体思想を、思想の形態は違えど、基本形は同じまま、日本からイスラエルに置き換えたようなものが、キリスト教シオニズムであると筆者はとらえている。

なぜなら、キリストを救い主と認めないユダヤ教徒は、メシアは自分たちの只中から将来的に出現すると信じ、イスラエルという国は、その母体となるとみなしているからである。しかも、現在のユダヤ教およびイスラエルには、国が消滅し、全世界から迫害され、散らされて来たという歴史的過去のために、自分たちが絶えず脅かされているという潜在的な被害者意識と自己防御の願望がある。そして、彼らをそのように脅かしたのは、キリスト教国の人々であり、とりわけ、プロテスタントであると言うことができるであろう(この点については、後述する)。

そこで、ユダヤ教の中にも、キリスト教に対する潜在的恐怖が内包されていると言えるのであって、それゆえに、今やユダヤ教のシオニズムの側から、キリスト教に対する(融合のための)手招きがなされているのである。

その罠を見抜けず、この招きにキリスト教徒を名乗る人々の一部が浅はかに乗り、ユダヤ教とキリスト教の折衷案のようなアイディアを作り上げたものが、現在のキリスト教シオニズムである(ただし、これは現在のプロテスタントに広まっているものを指し、キリスト教シオニズムそれ自体はもっと古い起源を持つ)。

その結果、ユダヤ教徒は、イスラエルをメシアを生む母体となる国(国体)であるとみなし、キリスト教シオニズムに感化されたキリスト教徒は、イスラエルはキリストの再臨を促す神聖な母体であるかのように考え、両者ともに、地上の国としてのイスラエルとその諸政策を賛美することにより、ユダヤ教とキリスト教の融合という、歴史最後の最も洗練された「混ぜ物の福音」のカクテルを作っているところなのであり、彼らはそのようにして、まさに反キリストの到来の下準備をしているというのが、当ブログの見解である。

そこで、これから先の、目に見える組織や団体としての日本のプロテスタントは、戦前・戦中に国体思想を受け入れてこれと合体することで、真実なキリスト教徒を迫害する側に回ったように、今また新たに東洋思想との融合という「混ぜ物」の作業に加えて、最後の総仕上げとして、ユダヤ教シオニズムを内に取り込み、キリストの再臨を願うと言いつつ、イスラエル発の新たなる「国体思想」に賛同し、時間をかけて、反キリストの到来に道を備え、人類最後の蜂起へと向かって行くという恐るべき仕事を果たすことになるのではないかと考えられる。

いずれにしても、カルト被害者救済活動に立ち向かうことができなかった時点で、プロテスタントはすでに役目を終えている以上、これから先、これが新たな信仰回復運動の源となることはもはや見込めない。役目を終えたものが存続し続けると、どういう諸政策が起きるかは、改めて説明する必要がない。

私たちは、聖書原理主義者とか福音主義者などと呼ばれる人々が何を主張しているのかに注目するのではなく、聖書そのものが何を言っているのか、自分できちんと吟味し、考えなくてはならない。聖書原理主義者が唱えている内容が、すなわち、聖書に書かれている内容ではないからである。

聖書はユダヤ教(キリスト教)シオニズムを全く唱道してなどいないというのが、筆者の考えである。それは歴史的には成就する出来事を含んでいるかも知れないが、むしろ、反キリストへとつながる動きなのだとみなされる。従って、そのようなことを口実に、当ブログがあたかもイスラエルによるパレスチナ占領やその他の諸政策を奨励・賛美しているかのようにみなして、「キリスト教原理主義者」とか「福音主義者」などとレッテルを貼って、聖書に忠実に歩む当ブログの信仰の証しを非難するのは、まさしく完全な筋違いと言う他ない。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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