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「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」(Ⅱコリント12:9-10)

以上の御言葉は、現在の筆者にとってはまさに音楽のように響く。

私たちの弱さの中で、神の強さがどれほど大胆に働くか。私たちの取るに足りない力が、どのようにして、信仰によって強められ、百倍、千倍もの実を結ぶものとなるか。

筆者はこの不思議な現象を、日々、現実として体験している。この法則を学び、収穫を得ることは、我々キリスト者にとって死活的重要性を帯びた課題である。
 
ところで、一つ前の記事で、筆者はここ最近、連続して文書作成の仕事を行ったために、もはや誤字のチェックをするのも億劫なほどの状態になったと書いた。今もまだその疲労状態が残っているが、その文書は、暗闇の勢力に対する宣告文として筆者が作成したものであり、書いている筆者自身にとっても、容易ではない仕事であった。

だが、何よりも容易でなかったのは、時間が十分に確保できなかったことにある。文書を作成する作業は、決して他の仕事と両立するようなものではない。十分に考える時間の余裕がなければ、決して納得のいく内容を作り出すことはできない。

それにも関わらず、筆者はこのような文書を作り続ける仕事が、自らの天命のような仕事であって、決して途中で投げ出すわけにいかない重要な作業であると確信している。

そこで、改めて、主の御前に、自分の本分と思われる仕事のために、十分な時間を確保したい旨を申し上げたところ、主はただちに休息の時間を与えて下さった。もちろん、そのためには、大きな戦いと、勝利が必要であったが、主はこれを達成させて下さった。

ところで、筆者は先に書いた消化不良に終わった文書についても、持ち前の責任感から、訂正が必要ならば、そうするつもりだと申し出たが、その必要はないと皆に断られた。

おそらく、この文書を受け取ったすべての人々は、今後、この文書が一枚たりとも増えることを願っていなかったのであろう。そこで、筆者の作成した文書に、訂正が必要だと認める者は一人もなく、むしろ、内容は十分に理解できたので、訂正しようなどと決して考える必要はないと、かえって誰もが援護射撃に回り、説得された。敵対勢力でさえ、訂正してくれるなと言わんばかりの様子であった。

こうして、筆者自身が不満足と考える出来栄えの文書が、まるで非の打ち所のない完成された作品であるかのように、すべての人々に承認された一方で、筆者がメールだけで、暗闇の勢力と格闘して解決を目指した案件については、彼らが専門家の正式なチェックを経て送り届けたはずの文書に重大な誤りが見つかり、筆者はこれをフィードバックして、彼らにやり直しを求めた。

暗闇の勢力は、筆者の作った文書に訂正を要求しなかったのに、筆者は、暗闇の勢力が専門家に命じて作らせた文書に訂正を求めたのである。

こうした出来事を見るにつけても、筆者は、筆者の弱さを、神がどれほどご自分の強さによってしっかりと守り、覆って下さっているかがよく理解できる。

聖書を読む限り、神の目には、筆者はキリストご自身と同じように、完全な人間と映っている。それだけでなく、神は筆者のなすことすべてに「完全」という検査済みの証印をすでに押して下さっている。

それは、この世で人の目に映る、不器用かつ不完全な筆者の姿とは全く異なる霊的現実である。だが、この霊的現実が、地上で肉眼に映る現実を上回る圧倒的な事実であるがゆえに、筆者の仕事に異議を唱えられる人は、誰もいないのである。

このような現実がある限り、筆者の間違いは、常に神の完全さで覆われ、筆者の足りなさは、常に神の余りある命の豊かさで覆われ、筆者の弱さは、神の強さで覆われる。
 
何かミスを犯したと思う時であっても、キリスト者には、かえって自分の間違いによって助けられるという、逆説的な現象が起きる。前の記事に書いた通り、神を信じる者たちには、すべてのことが働いて益となるのである。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

ちなみに、筆者はこれまで、ごく些細な紛争から、大きな紛争に至るまで、自分の訴えを文書にして提起したことが幾度かあるが、筆者はどんなトラブルでも、訴訟にできるとは思っておらず、訴訟にする価値のあるものと、そうでないものが確かに存在すると考えている。

多くの人は、どれくらいの金額を請求できるかをまず念頭に置いて、訴訟を起こすかどうかを検討するのであろうし、弁護士は特に利益のない訴えに関わりたくないので、そのように考えることであろうが、筆者はそういう観点からは、訴訟というものを全くとらえていない。

筆者の目から見て、訴訟にする価値があるかどうかの分かれ目は、その訴訟が、それを提起することによって、世の中を少しでも変えるリーディングケースとなりうるだけの内容を備えているかどうかにある。

学術研究においても、研究成果が認められるためには、先行研究のカバーしていない未踏の領域に着手せねばならない。それと同じように、ありふれ過ぎた訴えは、請求金額がいかに大きかろうと、どれほど勝算があろうと、訴訟にするだけの価値がなく、むしろ、訴訟以外の方法で、いくらでも解決が可能であると筆者は確信している。
 
実際に、筆者が訴える価値がないとみなしたトラブルは、どれもこれも深刻化する前に無事に終結して終わって来た。
 
そこで、社会の前に自らの訴えを持ち出すからには、その訴えの内容は、単なる個人の利害を超えた、より大きな普遍的テーマと、先見性のある内容を含んでいなければならないと、(他人の考えはどうあれ)筆者は考えている。

これまで多くの人々が苦しんで来たにも関わらず、一度も、本来あるべき形で提起されたことのない問題に、未だかつて誰も取ったことのない新しい方法でアプローチし、光を当てるからこそ、その勝負は、非常にやりがいのある、面白いものとなるのである。

しかも、その過程で、隠されていた真実が明らかにされねばならない。

多くの人々は、訴訟における被害は、これを訴える側に立証責任があるため、証拠が全て揃っていないのに、訴訟を提起することは、無謀な行為でしかないと考えるだろう。しかし、筆者は必ずしも、そうは考えない。

なぜなら、以下の御言葉にある通り、我々キリスト者の場合は、世の光としての役目があり、光に照らされた存在は、闇の中を逃げ隠れすることができないためである。私たちの役割は、暗闇の中に隠されていた事実を明るみに出すことにあり、私たちの存在そのものに、そうした機能が託され、備わっているのだと言える。

従って、闇の中に隠れている事柄を明らかにするために、しなければならないことは、必ずしも、そう多くはない。私立探偵のような調査をせずとも、ただ光を上に掲げるだけで、下にあるものは照らされる。最初から全ての証拠が揃っている必要はなく、対話の中で、真実が明らかにされていくからこそ、面白いのである。

「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:13-16)

ちょうど、新約聖書に、イエスが道を通りかかられた際、悪霊がその姿を見ただけでひれ伏して命乞いをしたくだりがあるように、光の子らが、暗闇の勢力と対峙すると、闇の子らは、ついに最後には、彼らが占領していた領域を明け渡さざるを得なくなる。

闇の子らは、どんなに卑劣な嘘をついていても、結局のところ、光の子らの「職務質問」を無視するわけに行かないのである。問われれば、支離滅裂な返答であっても、答えないわけに行かず、立ち退きを要求されれば、最終的には、立ち退かないわけに行かない。

そこで、私たちキリスト者の発するすべての言葉は、彼らにとって、宣告であり、命令である。だから、私たちは飽くことなく、真の責任者に向かって罪を宣告し、償いを要求することをやめてはならない。むろん、悪事についての真の最終責任者は、悪魔なのであるが、私たちは、様々な訴えを通して、悪魔と暗闇の勢力に対して打撃をもたらす宣告を突きつけ続けることで、闇を後退させることができることを忘れてはならず、彼らは我々キリスト者が執拗に訴え続ければ、どこかの時点で、必ず我々から手を引き、領土を明け渡して引き上げざるを得なくなるのである。

こうして、暗闇の勢力が後退したことによって、真実が明らかにされること自体が、どんな金銭的補償にも匹敵しうるほどに大きな戦利品だと言えよう。

人々は、訴訟の勝敗を分けるのは、賠償金のような分捕りものの大きさだと思っているかも知れないが、実のところ、事実が認定されることにより、責任を負うべき者が誰であるかが明らかにされ、その者の信用が揺るがされる以上に、大きなインパクトはない、と筆者は考えている。社会は、金銭だけでは動いておらず、信用によって左右されているからである。

だからこそ、筆者は、訴訟においては、最新かつ真実な情報が争われるべきだと考えている。裁判官は、ただ職務として書面を読んでいるだけで、そこに記された情報がどれほど価値を持つかという点には着目しないかも知れないが、筆者は、新聞記者が新たなニュースを求め、学者が新しい発見を探し求めるように、訴訟の場においても、ただ当事者の利害が争われるだけでなく、これまで決して客観的に明らかにされることのなかった、闇の中に隠されていた事の真相が、社会の前に明らかに提示され、その是非が論じられることにこそ、訴訟が提起されることの価値があると考えている。

あらゆる文書には、記録としての価値があるが、裁判所に保管される記録にも、歴史文書や学術研究と同じほどの価値がある。それゆえ、記録されるに値する価値あるテーマだけを、訴訟にして残すべきだと考えずにいられない。

もちろん、裁判所に保管される文書は、学術論文でもなければ、芸術作品でもないので、そのような観点から、完成度を問われるものではないにせよ、それでも、訴訟として社会全体の前に提起する価値のない争いは、すべて他の方法で解決すべきだという考えを、筆者はこの先も捨てることはないだろうと思う(ただし、裁判を受ける権利は誰にでもあるため、これはあくまで筆者の個人的見解である)。
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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