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引き続き、アンドリュー・マーレーの「キリストの十字架」から、前後しますが…

* * * 
 

第二章 自分を否んで十字架を負う

「だれでも私に従いたい者は、自分自身を否み、日ごとに自分の十字架を負って、私に従いなさい。
誰でも自分の命を救おうとする者はそれを失い、
誰でも私のために自分の命を失う者はそれを救うからです」(ルカ9:23, 24)


私たちは前の黙想で、弟子が十字架を負うこととキリストに従うこととの間には何と深く緊密な関係があるか見ました。ここではさらなる思想が示唆されています。「自分を否み、自分の十字架を負って、私に従いなさい」。十字架を負うことと従うことの最も深い本質がここで明かされています。

クリスチャンがキリストに従おうと熱心に努力し、ある程度自分の十字架を負っている時でさえ、隠れた力があって抵抗し、反対し、妨げます。願い、意志、心を傾けて完全に従うことを祈り、誓い、そのために奮闘しているように見えても、その人の最も内側の自己は主が召しておられる十字架を拒んでいるのです

自己は人の存在の真の中心であり、統制する力であり、十字架を受け入れることを拒みます。十字架を負うことについて二度目に語られた時、キリストがペテロと私たちに教えて下さったように、自己を全く否むところから始めなければならないのです。

 

十字架は死を意味する


十字架を負うことは死の受容、死への降伏を意味します。自己は人の内なる実際的命であり、死ななければなりません。これから始めない限り、十字架を負うことにもイエスに従うことにも絶えず失敗するでしょう。自己を否み、自分の十字架を負いなさい。自分の命を失う者はそれを見いだします。

自分の命を憎み、失うよう、キリストは私を召しておられます人生に正当な価値を与えるもの、私自身の正当な人格を否むよう――私自身を否むよう、キリストは私を召しておられます。ではどうして、この命をまず十字架の下に置き、それから十字架に付けなければならないのでしょう? どうして、彼が私のために十字架上で死なれ、私のために命を勝ち取って下さったのに、なおも私は死に、自分自身を否み、日ごとに私の十字架を負わなければならないのでしょう?

 

なぜ十字架なのか?


その答えは単純ですが、それでも理解するのは容易ではありません。理解できなくてもイエスに従うことに同意する人に対してのみ、真の霊的答えが開かれます。アダムの罪を通して、人の命は高い状態から落ちてしまいました。堕落の前、人は神が御力と祝福とをその中に働かせるための器でした。しかし、人はこの世の力の下に陥ってしまいました。

この世では、この世の神が統治支配します。そのため、人は奇妙で不自然なこの世の命に取り憑かれた被造物になってしまいました。神の御旨、天、聖潔のために人は創造されたのに、それらは人にとって暗くなり、失われました。肉の快楽、この世の快楽、自己の快楽はみな、悪霊の暗闇の呪われた働きであるにもかかわらず、自然で魅力的なものになりました。

それらがいかに罪深く、惨めで、致命的か、人には見えず、わかりません――それらは神から離れており、みな自分自身の内に地獄の種を宿しています。そして、この自己、この人の命の根幹を、人は大いに愛していますが、自己は神からではなく悪しき者から出たすべてのものの集合体に他ならないのです
自己には天然的な美点や見かけ上よく見えるものがたくさんありますが、自己の力と高ぶりはすべてを堕落させ、自己をまさに罪、死、地獄の座とします。

ひとたび、人が自己を完全に否むこの生活に同意するなら、
 

十字架を歓迎し


愛するようになります。十字架は神に定められた力であり、私たちを悪の力から解放します。私たちが神の御子のかたちに同形化される上で悪の力は唯一の妨げですが、私たちはこの悪の力から解放されて、御子と同じように御父を愛し、御父に仕えます。自己を否むことは内なる精神であり、十字架を負うことはその現れです。

「自分自身を否み、日ごとに十字架を負い、私に従いなさい」。自己を否む意義を洞察するなら、なぜ日ごとに十字架を負わなければならないか明らかになります。十字架を負うことは特別な試みではありませんし、十字架がそれへと召す特別な苦難でもありません。平穏で繁栄している時でも、十字架を負う必要性は依然としてますます逼迫しています自己は常に身近な敵であり、常にその力を取り戻そうと狙っています

パウロは第三の天から下って来た時、高ぶる危険性がありました。自己を否んで十字架を負うことは、日々の心がけでなければなりません。パウロは「私はキリストと共に十字架に付けられました」「私には十字架以外に誇ることがあってはなりません。この十字架によって私はこの世に対して十字架につけられたのです」と言いましたが、彼は自分自身について言ったのであり、十字架に付けられた命を毎瞬生きていました。


あなたは十字架を持つ手の図案を見たことがあるかもしれません。それには Teneto et Tenem という標語が書いてあります。この標語の意味は、私は担い、担われるです。もっと砕けた言い方をすると、私は担ぎ、担がれるです。

キリストの十字架の前に述べられた言葉――「あなたの十字架を負って」――はよく知られており、前者の思想を表します。あなたの十字架を受け入れ、それを担いなさい。キリストが十字架に付けられた後に聖霊によって与えられた言葉――「キリストと共に十字架につけられました」――は、私たちの命として栄光を受け、啓示されましたが、どちらかというと後者の面を示します。

彼の十字架、十字架につけられた方があなたを担って下さると信じなさい。この御業が成就される前は、「あなたの十字架を負いなさい」しかありませんでした。今、成就された御業が啓示され、「私はキリストと共に十字架につけられました。私は十字架を担い、十字架は私を担います」に昇華されます。「私はキリストと共に十字架につけられました。キリストが私の内に生きておられます」十字架の担う力によってのみ、私たちは十字架を担うことができます


 

あなたの十字架を負いなさい


そうです、彼に従うために満たすべき条件として最初に語られたことが、その祝福された成果となるのです。「私に従いなさい」という召しを私たちが聞く時、私たちはそれが自分にとって何を意味するのかもっぱら考えがちです。そうするのは必要なことです。しかし、それは最も重要な問題ではありません。信頼に足る指導者は、道中全責任を負い、全ての必要を備えてくれます。自己を否んで日ごとに十字架を負うことについて考える時、私たちはその意義を何と少ししか知らないか感じ、自分の知っていることを何と少ししか実行できないか感じます。

私たちは、十字架を負って従うよう私たちを召しておられるイエスに堅く心を傾ける必要があります。カルバリで彼はこの道を先立って行き、私たちのために道を拓かれましたこの道は神の御力の御座にまで至る道です私たちの心を堅く彼に傾けましょう彼が弟子たちを導かれたように、彼は私たちを導いてくださいます

十字架は奥義です。十字架を負うことは深遠な奥義です。キリストと共に十字架につけられることは贖いの最も深遠な奥義です。神の隠された智恵は奥義です。キリストに従いたいという真実な願いを持って彼に従いましょう。そして、彼のように御父の栄光のために生き、彼と共に死を通り抜けて私たちの指導者である彼と共に充ち満ちた命に至りましょう。


 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

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こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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