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我が友なる方々!

不思議な命の流れの中に浸されています。主イエスの命が私を通して、より低い方へ、より命を必要としているほうへ流れていきます。けれども、寄せては返る波のように、私自身もその命の中に入れられ、浸されています。私たちは皆とても低いところに立っているようなので、誰が最も恵まれているのか、競争してもきっと答えは出せないだろうほどです…(笑)。

荒野でイスラエルの民が毎朝マナを集めたように、主が私たちに下さる命の力はちょっとずつかも知れません。今日も、明日も、あさっても、全速力で駆けていけるだけの力を、今日一度に下さいと願ってもきっとかなえられないでしょう。けれども、主の恵みは私に対して十分なのです。そして主こそ私たちの命なのです。

主の御名の中に集う二、三人の交わりは、まことに弱い、助けのないような人々の集まりかも知れません。私たちは一人ひとりが孤独や、病や、人生の重荷を目一杯背負っています。けれども、この欠乏が、毎日、主に対する必要へと変わるのです。

人一倍、もしくは人の何倍もの、と言っても良い困難の中を、一人でくぐり抜けて来た我が友の一人が言いました、人生のパートナーを早く得たいと。その願いに私は共感しないことはできませんし、主がその願いをかなえて下さらないはずはないと信じています。たとえ困難な条件をどれほど列挙することができるにしても…。

けれども、私たちが自分の必要について主に懇願する前に、なぜ現在のような閉じ込めの中に、あえて主は私たちを置かれたのか、それが日々の十字架であるということを考えないわけにはいきません。

主はただ友の心の全てをお求めになっておられるのだ、と私は思います。その栄誉ある召しに応答してみることによって、きっと私たちは絶大な祝福にあずかるに違いありません…。早くイサクを与えて下さいと願うよりも前に、私たちは自分の心のイサクを神にお捧げし、神の御手からイサクを受け取ることが求められているのかも知れません。そのような思いが、私の心に去来したのでした。

私たちは毎日、自分に何が足りないかを数え上げ、何かを早急に補わなければならないように感じ、自分自身の手によって、自由を掴もうと切望しています。私たちは毎瞬、自分で腰に帯を締め、自分で行きたいところへ行きたいと願い、より一層、自分を強化することによって、ますます自分自身に頼って歩けるようになりたいと願っているです。

ところが、神の事実は、それとは正反対であり、キリストにあって、私たちはすべてを得ている、というものです。私たちは自分を見て、何かが足りないように感じます。ところが、神は私たちはキリストにあって、すべてを得ていると言われるのです。キリストご自身のうちに、私たちの必要のすべてがあり、我が内におられるこのお方が、私の必要の全てを満たして余りある方だと言われるのです。それなのに、何と私たちはこのお方をわずかしか知らないのでしょうか。けれども、キリストに全面的に依存することによって、私たちは命を得るのです。そのことを知りたいと切に願うのです。

私たちが主に何を願うかよりも前に、主が私たちに何を願っておられるのかを考えることのできる人は幸いだと思います。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示4:20)

主が叩いておられる扉が、私たちの閉ざされた心の扉であることは言うまでもありません。神は私たちに向かって、まず彼に心を与えよ、と言っておられるのです。私たちが自分を満たすためだけに心を砕き、心に思い浮かべるあれやこれやの活動よりも前に(その中には私たちが「神のために」と言って行なう活動も含まれています)、まず彼に心を与えることを主は願っておられるのです。

どんなに主の御名において行なわれる正しい活動も、私たちが真心から主に捧げる愛や信頼には代えられません。神が得ようとして求めておられるのは、私たちの心そのものであり、戸を叩いている彼への真心からの従順な応答なのです。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)

「だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:35-36)

* * *

「私は眠っていましたが、心はさめていました。
 戸をたたいている愛する方の声。
 
『わが妹、わが愛する者よ。
 戸をあけておくれ。
 私の鳩よ。汚れのないものよ。
 私の頭は露にぬれ、
 髪の毛も夜のしずくでぬれている。』

 私は着物を脱いでしまった。
 どうしてまた、着られましょう。
 足も洗ってしまった。
 どうしてまた、よごせましょう。

 私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。
 私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。
 私は起きて、
 私の愛する方のために戸をあけました。
 私の手から没薬が、私の指から没薬の液が、
 かんぬきの取っ手の上にしたたりました。

 私が、愛する方のために戸をあけると、
 愛する方は、背を向けて去って行きました。
 あの方のことばで、私は気を失いました。

 私が捜しても、
 あの方は見あたりませんでした。
 私が呼んでも、答えはありませんでした。
 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。
 彼らは私を打ち、傷つけました。
 城壁を守る者たちも、
 私のかぶり物をはぎ取りました。
 
 エルサレムの娘たち。誓ってください。
 あなたがたが私の愛する方を見つけたら、
 あの方に何と言ってくださるでしょう。
 私が愛に病んでいる、と言ってください。

 女のなかで最も美しい人よ。
 あなたの愛する方は、ほかの愛人より
 何がすぐれているのですか。
 あなたがそのように私たちに切に願うとは。
 あなたの愛する方は、ほかの愛人より
 何がすぐれているのですか。」(雅歌5:2-9)

女の中で最も美しい人よ、と呼ばれた者が、夜回りに打ちつけられても、城壁を守る者たちにかぶり物をはぎ取られても、姿を追い、探し求めずにいられなかったお方…。主よ、どうかあなたご自身が私たちの心を訪れ、私たちの心をそのようにとらえて下さいますように…。


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【無題】
おはようございます。^^

内に流れてくるいのちは、なんとお互いを健やかにし、
主の愛で潤して、活力に満ち溢れさせてくださるのでしょう。
昨日はヨハネ第一の手紙を読んでおりました。
 
「彼が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むならば、私たちは互いに交わりを持ち、彼の御子イエスの血が私たちをあらゆる罪から清めてくれるのである。」ヨハネⅠ 1:7

 なんという素晴らしいお約束でしょう!!

 主は心のうちの真実を喜ばれるお方。
心の闇を照らし出し、光へと導き出してくださったお方が、この光の中を歩むことによって、互いに交わりを持ち、さらに、イエスの血がわ・た・し・た・ち・をあらゆる罪から清めてくれる!!

 真実の交わりが、この方の光の中にあり、その光の只中で、私たちが受け取るべく祝福ははなんと絶大なものでしょう!
御体になされる主のいのちの力、光の中にあってなされる主の清らかないのちの恵みに与る喜び
互いに愛し合うことによって、互いの間を主のいのちは何も妨げられることなく自由にゆき巡り、私たちを健やかにしてくださる。素晴らしいお約束が隠されていますね!!

 

>キリストにあって、私たちはすべてを得ている、というものです。私たちは自分を見て、何かが足りないように感じます。ところが、神は私たちはキリストにあって、すべてを得ていると言われるのです。キリストご自身のうちに、私たちの必要のすべてがあり、我が内におられるこのお方が、私の必要の全てを満たして余りある方だと言われるのです。それなのに、何と私たちはこのお方をわずかしか知らないのでしょうか。けれども、キリストに全面的に依存することによって、私たちは命を得るのです。そのことを知りたいと切に願うのです。

☆心込めて、アーメンです。

「ほら、(今ここで)私は戸口に立って、戸を叩いている。もし、私の声を聞き、戸を開けるならば、わたしはその者の所に入って客となり、彼と一緒に食事をし、彼も私と一緒に食事をするであろう。」黙示録3:20
(岩波訳)

 今、ここで と書かれてある言葉に、心から応答したいと願わされています。

 「キリストの奥義の幅、長さ、高さ、深さがどれほどであるかをすべての聖なる者たちと共に把捉し、」
 ひとりではなく、すべての聖なる者たちと共に、と書かれてあるわ!
 キリストにあって、共にキリストの愛の深さ、高さ、広さを共に、味わってゆきましょう!
 共に光の中を歩みつつ!!
  
【Re:無題】
Candyさん

地震の影響等がありまして、お返事が遅れましたこと申し訳なく思います。今は十分に睡眠を取ってようやく疲れを癒したところです。名古屋は被害が軽かったとのこと、皆さんの無事と、それからcandyさんのご家族の早いご帰宅を祈っております。

「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」との御言葉にすがりつつ帰宅しましたが、家のドアを開けるまでの間、主が小鳥の命まで守って下さるとは半信半疑でした。

そんな不信仰にも関わらず、主は私(たち!)家族を守って下さいました。ちなみに、ご紹介が遅れましたが、私が飼い始めた鳥は、candyさんもおなじみのオカメインコです。私の母がとてもオカメインコを気に入っており、いつかはと思っていたのです。

さて、日曜日の夜には、我らが友人の姉妹と電話で交わっていました。candyさん、私は思いますが、へりくだった人の言葉を真に受け取るためには、受け取る人も同じくらいへりくだっていないと無理なのですね、それが最近、徐々に分かり初めて来ました。

友人の言葉は虚飾がないだけに、人の注目を集めず、多くの人が気にも留めずに、むしろ軽んじて通りすぎてしまうかも知れません。けれども、正直な人の証言というのは、小さな一つ一つの言葉が、とても重い意味を持っているのですね。内容の如何に関わらず、それを受け取る人にも、その重さを汲み取るだけの理解が必要となることを思わされます。

私たちクリスチャンは、交わり、交わりとさかんに言って、自分が一人で生きているのではないことを得意満面に吹聴しがちですが、さて一体、その交わりから、私たちは主が与えようとしておられる必要な栄養素を本当に受け取ることができているのでしょうか? それは私たちの態度次第だと思うのです。

特に、ぶどう園の農夫のように、主が遣わされた人々の忠告を拒み、小さな兄弟姉妹の証言を軽んじ、かえって強い者に媚びたりする姿勢では、主が配置された人々からやって来るせっかくの光を、ないがしろにしてしまって不思議ではないと思うのです。

主がお与えくださっている光を理解するのには、謙遜であることが必要であり、それがなければ、たとえ良き交わりがあったとしても、その人はそこから何も学ぶことがなく、光を受け取ることも無理なのだということを思わされるのです…。

光というものは人(の自己)を打ち倒しますし、御言葉の剣、と言われるように、御言葉は霊と魂を切り分けるものであり、必ずしも、私たちにとって心地よくない効果を発揮します。それは肉を切断するため、もしかしたら、私たち自身も刺し通されるような痛みを味わうことがあるかも知れません。

ですから、もしも本当に光を受けたいと願うならば、「砂糖まぶし」の交わり――つまり、ただ自分にとってだけ居心地のよい交わりを願うことはできず、良いことずくめの平和で波風立たない交わりの中だけを願うことはできず、むしろ交わりを通して、自分が砕かれ、自分に厳しい事実が示されたとしても、それに直面する勇気と覚悟が必要となるのですね。

「すべての人を偽りとしてでも、神を真実な者とせよ」との御言葉通り、たとえ自分にとって不利益となる事柄が示されたとしても、あるいは(望ましいことではありませんが)多くの人々が誤解して去り、たった一人残されるようなことがあっても、それでも、神を是とし、御言葉によって鋭く切り分けられることを願うことができる人は幸いだと思わずにいられません。

「神の国とその義とをまず第一とせよ、そうすれば、その他のものは全て添えて与えられるだろう」との御言葉の通りに、聖徒らとの交わりも重要ではありますが、他のどんなものにも、神ご自身は代えられないのです。その意味で、私が兄弟たちに教わった「神の御前での単独者」の必要性はどれほど強調してもし足りません。

主との関係が私たちに全てを供給し、主との関係が他の兄弟姉妹との関係も決定すると言って過言ではないのです(主との関係が不自然にゆがむと、必ず、それは兄弟姉妹との関係にも響いて来るものです。)ですから、裸でただ一人、神の御前に立つ姿勢がなければ、その上に成り立つはずの兄弟姉妹との関わりもありえないのです。

ですから、candyさん、私たちはまず何よりも、主にまっすぐに向かっていく民でありたいですね! 活動や交わりも含めてですが、他のどんなものに目を奪われないでいましょうね! ただ主をまっすぐに見つめさえすれば、必ず、主は兄弟姉妹との横の関係も健やかに保ってくださり、必要のすべてを適時に供給して下さると信じます。そのような民であり続けましょうね! ただキリストにあってのみ一つとされる民でありましょうね!
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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