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アンドリュー・マーレーの「キリストの十字架」をゆっくり再読しています。罪のない神の御子でありながら、私たちと同じ罪人のようにして、ご自分を低くされ、神の御手の下に徹底的にへりくだられ、神の取り扱いを受けられた主…。

私たちは主イエスが導かれたのと同じ十字架の御霊に導かれて、彼の御跡を同じように歩むことが求められています。しかし、それを成し遂げるのは、私たち自身の努力や決意ではなく、私たちのうちに住まわれるキリストの御霊なのです。どうか主イエスを導いた御霊が、私たちにも、十字架こそ神の命と力が流れる源であることを啓示して下さいますように。そして私たちを真に主イエスの歩まれた道を歩む者として下さいますように!

* * *

第三章 十字架は神への道

「キリストも罪のためにひとたび苦しまれました。
義なる方が不義な者たちのために苦しまれたのです。
それは彼が私たちを神にもたらすためでした」(1ペテロ3:18)

 

十字架は罪を示します。神に対する憎悪としての罪を完全に認め、罪の邪悪さの責任を負わない限り、人は神のもとに来ることはできません。

十字架は呪いを示します。罪に対する神の裁きを示します。この裁きを正しいものとして受け入れ、認めない限り、人は神の臨在に回復される術はありません。

十字架は苦難を示します
。苦難の中で神の御旨を受け入れ、すべてを明け渡す時初めて、神と結ばれることができるようになります。

十字架を死を示します
。人が今の命をきっぱりと完全に手放し、それに対して死ぬ覚悟ができたとき初めて、人は神の命と栄光の中に入れるようになり、神に完全に受け入れてもらえるようになります。これをすべてキリストは行われました。彼の全生涯は十字架の霊がその原動力でした。

彼が十字架を負い、神の聖なる臨在の中に入ったことにより、一つの道が開かれました。この道によって私たちも近づくことができます。彼が罪に対する神の裁きを負って死なれたことにより、罪は除き去られました。彼は罪の終わりとなられました。罪定めと呪いと死を負って、彼は罪を運び去られました。彼は死の力を持つ者の力を無効にして滅ぼし、彼の囚人たちであった私たちを解放して下さいました。

キリストの十字架と血と死は罪人に対する神の保証です。この救い主を受け入れて自分を委ねる人はみな、ただちに無罪放免され、永遠に神の好意と友好を受けることができます。神の律法が私たちに突きつけていたすべての要求、罪とサタンが私たちの上に有していたすべての力、すべては終わります。イエスの死は罪と死の死だったのです。十字架の道はキリストが私たちのために開いて下さった道です。この道により、私たちは神に近づく完全な自由と力を持ちます。

十字架は人が神のもとに行く唯一の道です。この道をキリストご自身も歩まれ、この道を彼は私たちのために開いて下さいました。この道を私たちも歩みます。私たちが他の人たちを導きうるのはこの道しかありません。

 

十字架の道


十字架の道はイエスが人として個人的に全生涯を通して歩まれた道でした。彼は私たちの先駆者として、私たちのために神の御前に行き、そこに現れることができます。「彼は苦難を通して完成されたので、彼に従うすべての者たちに対して永遠の救いの創始者となられたのです」。イエスご自身にとって、十字架は神への道でした。

死による以外に、完全に命を明け渡す以外に、キリストが神に至る道はありませんでした。それならなおさら、罪人が神のみもとに来て神の命で満たされる道は、これしかないにちがいありません。そして今や、キリストの死は成就された事実である以上、私たちが彼の中で受ける死と命は、私たちの内に働くそのような完全な明け渡しの力であり、私たちを導いて幸いな内住へと至らせます。

この信仰により人は喜びをもって、「私はキリストと共に十字架につけられました。私は十字架を誇ります。十字架によって私はこの世に対して十字架につけられました」と言うことができます。この十字架の霊はこの世に対抗し、この世から分離します。また、自己を喜ばせるものをすべて放棄させ、死に至るまでも神に対して絶対的に従順にならせます。この十字架の霊が全生涯と歩みを特徴付けます。日ごとに十字架を負い、それを誇るとき、十字架はまさに神への道になります。

 

祝福への道


この道で私たちは勝利を得、他の人々を祝福することができます。キリストは人々のために自分の命を与え、十字架に付けられることにより、人々を祝福する力を勝ち取られました。ペテロが第一の手紙で述べているように、栄光への道であるキリストの苦難を完全に受け入れることにより、彼は主のために証しする大胆さで満たされました。

パウロは彼の主の苦難に完全にあずかることを熱烈に願いましたが、この情熱が彼に使徒としての力を与えました。教会が自分自身を神にささげ、人々のための犠牲としてささげる時、その度合いに応じて神の御霊の力は教会を通して働きます。

十字架につけられたキリストが人々を救われます。十字架につけられたキリスト、私たちの内に生きて息吹を与えて下さる方は、私たちを彼の救いの御業のために用いることができますし、用いて下さるでしょう。そして、彼が私たちの内に生きて働かれるということが意味するのは、私たちも彼のように他の人々のために自分の命を与える用意があるということに他なりません。これが意味するのは――自分自身を忘れ、自分自身を犠牲にし、失われた人を勝ち取るためにすべてを耐え忍ぶということです。

 

死から出た命


最初、キリストと共に十字架につけられて彼の死を身に負うという真理の中に魂が入る時、魂はその主な目的は個人的な聖別であると思います。罪に対する死、この世に対する死、自己に対する死を、命の道、魂に対する祝福と見なします。しかし、このような願いは魂をキリストに信頼するよう真に導くことはできません。キリストにおいてのみ、死と死から出た命とを知ることができ、見いだすことができます彼と接触することなしに、彼の御父に対する従順と罪に対する勝利はすべて、個人的な栄光のためではなく彼の周りにいる人々の救いのためであった、という秘訣は開かれることはありません

他の人々のために喜んで働き、自分の命を与えようとする人でなければ、十字架の道を歩むことはできないことを信者は学びます。他方、他の人々を祝福する唯一の真の力は、この世と自己に対する死である十字架が私たちの日々の生活の法則となる時、与えられます

十字架は神に至るキリストの道でした――彼ご自身にとってそうであり、私たちにとってもそうです。十字架は神に至る私たちの道です――私たち自身にとってそうであり、他の人々にとってもそうです。十字架は私たちのためであり、それは他の人々にとってもそうなるためです。

教会は常に、救いの奉仕の力の秘訣について話しています。しかし、この世に対する唯一の力はこの世に対して十字架につけられることであることを、何と少ししか知らないことかこの世に対する唯一の力は十字架につけられたキリストです。十字架につけられたキリストは人々にとってつまづきの石であり愚かですが、「私はキリストと共に十字架につけられました」と言いうる人々によって栄光を受けます。このように経験され、栄光を受けた十字架の宣べ伝えこそ、神の力なのです。 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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