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・東洋思想の無常観と美の密接な関係 ~命をディスカウントして成立する東洋的な美の概念~
 
さて、かなり駆け足で重要なテーマを見て来た。前回までに記した三島由紀夫に関する一連の分析記事は、これまで書いた記事の中でも、苦労の多い分析であった。

当ブログでは何年も前から、東洋思想が本質的にグノーシス主義と同一であることや、いろは歌や般若心経に流れる無常観がグノーシス主義と同じであることを、記事で指摘しようと試みて来た。それがなかなか形にならなかったのは、グノーシス主義の分析にはかなりの厄介さが伴うせいでもある。

この種の思想は、通常の文章とは異なり、シンボルで出来上がっているため、一つのシンボルの中に幾通りもの解釈が込められ、言葉の後ろにある方程式を読み解かねばならない。その上、詭弁とダブルスピークによって成り立っているこの思想を丹念に解体して聖書と対比しながらその詐術を論理的に証明して行くのはかなり厄介で骨の折れる作業である。
 
そして、そのテーマに関心を払う人も、その作業を遂行できる人も、地上にそう数多くいるとは思えないが、だからこそ、それははかりしれない重要性を帯びた仕事である。この仕事に取り組もうとすると、各方面から激しい妨害が起きて来ること自体、どんなにこのテーマが喫緊の課題であるかをよくよく物語っていると言えよう。

記事は形にまとめることを最優先したため、文章の推敲、修正が必要な箇所は多く、さらなる考察が必要であることは否定しない。だが、そこで触れている一つ一つの事項は、それだけで独立した論文のテーマに値するようなものだ。特に、グノーシス主義における美の概念などについては、それ自体が長大な紙面を割いた考察に値する。だが、今は長大な分析をしている余裕はないため、今回は最後の補足として手短に結論だけを述べたい。

東洋思想は、すべての命がディスカウントされ、死によって脅かされているという危機感の上に成立している。東洋的な美の観念や、「もののあはれ」といった概念も、すべては滅びゆく被造物の無常観によって呼び起こされる情感であり、それは突き詰めて行くと、有限なる被造物の無念(被害者意識)に通じる。

東洋的な「美」の概念は、あらゆる命が死によって脅かされる儚いものであることを前提として生まれる。その意味で、東洋的な美の概念は、死や滅びと密接に結びついており、死と無縁の、死によって脅かされることのない完全な美というものは、この思想の世界観の中には存在しない。仮にそのようなものが出現すると、たちまち、三島の金閣寺のようなことになって、その完全性が憎むべきものとされて排除されるのである。

鈴木大拙は、東洋思想の根底には「母を守る」ことがあると述べたが、そこで言われている「母」とは、脅かされている人類を指す。東洋思想とは、言い換えれば「人類が脅かされている」という被害者意識、また、人類が脅かされねばならないほどか弱い存在であることへの無念を出発点に発生している思想なのである。

だが、この思想では、一体、何によって人類は脅かされているのか? なぜ「母を守る」必要があるのか? 直接的には、「母」を脅かしているのは、死の脅威であるが、さらに突き詰めれば、「聖書の父なる神の脅威によって脅かされている「母=人類」を守らなければならない」というのが、この思想の至上命題ということになろう。

グノーシス主義は、ディスカウントの教えであると言っても良い。ここでのディスカウントとは「本来の価値を値引くこと、尊厳を辱めて貶めること」といった意味である。

グノーシス主義の起源が、聖書の創世記に登場する蛇の教えにあることは幾度も指摘した。創世記で、蛇の形を取った悪魔が、人類に向かって、「神が人類を神よりも劣った存在として創造したことは、神の側から人類に対する不当なディスカウントだった」と嘘を吹き込んだのである。

悪魔のその嘘を信じてしまった瞬間に、人類の価値は値引きされ、その尊厳が傷つけられ、被害者意識が入り込んだ。それまでは神は人類の創造主であり、庇護者であり、まことの主人であったが、悪魔の嘘を信じた瞬間に、神は人類の抑圧者ということになってしまったのである。

ここに、東洋思想の「母を守る」という発想の起源があると言える。その後、人類が悪魔の勧めに従って神の掟を破って堕落したことにより、人類は実際に死という現実的な脅威に脅かされるこようになったのだが、堕落以前から、本当の意味での「ディスカウント」は、人類が悪魔の嘘を真に受けて、神を抑圧者であると考えるようになった瞬間に始まっていた。

悪魔は人類に向かって、人類は創造の初めから、神のもうけた不当な制約のために、いたずらに貶められた存在であり、それに気づいて神のもうけた不当な制約の抑圧の下から抜け出すことなしに自由になれないという偽りの知恵を吹き込んだのである。

いわば、グノーシス主義は、人類が神の形に似せて、神より劣ったものとして創造されたこと自体が、人類にとっての不幸の源であり、人類の誕生そのものが悲劇だと言っているに等しい。実際には、神は人間を創造して、これを見て「甚だ良い」と言われたのであって、その誕生は祝福であったのに、これを抑圧された悲劇に変えてしまったのである。

そのような思想的大転換が起きた後で、人類の思いの中で生じたディスカウントは現実となり、人類は堕落により神から遠く切り離され、創造当初の輝きを完全に失って、神に遠く及ばない存在になり、神のようになるどころか、人間性さえも喪失した。だが、実際に堕落が起きる前に、人類がすでに思いの中で悪魔のディスカウントを受け入れてしまったことに注意しなければならない。

こうして、グノーシス主義においては、まず人類の創造自体が神によるディスカウントであったと事実を塗り替えるところから始まり、その後、すべてのものが「死や滅びによって脅かされている」という危機感や被害者意識を終わりなく生み出していく。

無常観とは、「ディスカウントされている」という被害者意識、無念を基礎として生まれるのであり、そこでは、美意識も含め、すべての価値が、傷つけられ、不完全で、死の響きを帯びている。だが、「すべては有限であり、本質的には無であるが、滅びゆくものだからこそ美しい(=愛(かな)しい)」といった哀惜の情が生まれ、それが美的概念として受け止められるのである。

東洋的世界観では、儚く脆い実体のないものの有限性に対する同情や被害者意識が、美意識や愛情を生んで行く。死に脅かされている被造物同士だからこそ、同情や共感を持ち合い、互いに寄り添いましょうという被害者意識による連帯が、あたかも愛であるかのように錯覚されるのである。

だが、実際には、そこには、真の同情も愛情も存在しない。人間同士が愛情によって結びついたり、同情によって連帯していると見えるのは、ある種の錯覚に近く、この世の滅びゆく存在である限り、人間は自らの欠乏を満たすために他者を利用することをやめられないため、自分の必要を離れて純粋に他者と関わることができないのである。人は最も純粋な愛情が自分にあると思っている時でさえ、その関わりの中には必ず、他者の存在によって自己を満たそう(自分を喜ばそう)とする欲望が含まれている。

人は他者を見ることによって、また、手で触れたり、声を聞いたり、会話したりすることで感覚的な満足を得て、自分が満たされたいと願い、そうした欠乏と関係なく、自分の欲望を一切交えずに、他者と関わりを持つことができない。さらにもっと低い次元では、人は食べたり飲んだりして、外界から物質的な栄養を絶えず摂取しなければ、自分の命を保てない。

このように、人は己が欲望によって外界と関わり、外界から必要を満たされることによらなければ、決して自己存在を保つことができず、満たされても、満たされても、再び飢え渇くだけで、決して飽くことがない存在であるがゆえに、物質的世界の奴隷であり、自己の欲望の奴隷なのである。

本当は、人はキリストと共なる十字架の死と復活を経て、アダムの命に対して死ぬことによって、このようなしがらみに対して死ぬ道が備わっているのだが、神が不在で、被造物だけしか存在しないグノーシス主義には、十字架も、救いもなく、どこまで行っても、その思想の中で、滅びゆく被造物に、物質世界の有限性から脱する道はない。それゆえ、そのような世界観では、人間は自己存在に対して尽きせぬ悲哀を感じないわけに行かないのである。

さらに、グノーシス主義はその悲哀も、間違った方法で克服しようと試みて、さらなる悲劇に陥る。すなわち、人は神より劣った存在として創造されたという「コンプレックス」を自力で解消しようと、アダムの命のままで、自力で自己を高めて「神のように」なろうとし、神に反逆して自分を滅ぼすのである。

本当は、そうなる前に、人が神よりも劣った存在として造られたことが人間の悲劇だという考え方を捨てるべきであり、神の創造を不当なものとみなして、自分の「かたち」を憎み、自分が置かれているすべての状況を神のせいだと考えて創造主と他者だけを責め続ける不毛な堂々巡りから抜け出なければならない。神が人類をディスカウントしているのではなく、人類が自分自身をディスカウントしていることにこそ、真の問題があるのだ。

だが、グノーシス主義者は、どうしても自分を「可哀想」だと考えることをやめられない。彼らは人類を「哀れむべき存在」とみなすことが、人類へのディスカウントであることにさえ気づかず、同情や自己憐憫を美しいものだと考えており、そのことがこの人々が絶えず自己存在をディスカウントされ続ける最大の原因となっているのである。

神の創造そのものに意義を唱えている彼らは、弱い自己を哀れみ、あらゆるものをその被害者意識に染め上げながら観察し、被害者意識と無関係のものを見つければ、早速、それを傷つけることで自分と同じように不完全なものにしようとし、さらに何とかして自分を「神のように」見せかけることで、己の無念を自力で解消しようとする。彼らがしようとしているのは、自分が創造された形そのものに対して意義を唱えること、それを何とかして自分の力で変えることによって神に達することである。

あなたがたは転倒して考えている。陶器師は粘土と同じものに思われるだろうか。造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。 」(イザヤ29:16)

グノーシス主義化された疑似キリスト教であるペンテコステ・カリスマ運動にも、同様のことが当てはまる。一方では、この運動は、偽物の「聖霊のバプテスマ」を造り出し、その霊を受けることによって、人が霊的に高められ、神のような偉大な存在となれるかのように教える。ところが、もう一方では、この運動の中から、カルト被害者救済活動のような、嫉妬と怨念に基づく破壊的な運動が生まれて来る。

実は、そのどちらもが根底には被害者意識を抱えているのである。カルト被害者救済運動は、表向きはカルト化教会の牧師に立ち向かうとしているが、その本当の敵は、聖書の神であり、正常なクリスチャンであり、神を毀損し、クリスチャンをディスカウントすることに真の目的がある。教会生活の中で心傷つけられて、正常な信仰を見失い、被害者意識を抱える元信者たちが、神に従って生きている正常なクリスチャンを妬み、これを中傷して傷つけることで、自分たちと同じレベルへ引きずり降ろそうとしているのである。

このように、ペンテコステ・カリスマ運動と、そこから生まれて来たカルト被害者救済活動は、見かけは全く異なるように見えても、本質的には同一の運動である。そして、以下に記す通り、そこにはバベルの塔の精神が脈々と流れている。それは自己を神のように高めようとするナルシシズムと、嫉妬と怨念に狂って神とクリスチャンから聖なる性質を奪い取ろうとする二つの側面から成る本質的に同一の運動であり、その運動の根底にあるものはどちらも神に対する嫉妬と怨念と被害者意識に基づく神の簒奪なのである。

こうした運動に関わる人々の心の根底に流れるものは、東洋的無常観と同じく「人間が可哀想だ」という自己憐憫と被害者意識の叫びである。なぜ人間が可哀想なのか? その理由を突き詰めれば、結局、神がそもそも人間を自分よりも劣った有限なる存在として創造されたことが間違っていたという結論になる。いずれにしても、聖書の神が悪いのであって自分たちは悪くないという話になる。彼らは自分たちの罪や弱さをそのままで、何らそれを悔い改めることも反省することもないままに、彼らの存在を哀れみ、被害者意識を慰め、優しく包んでくれそうな東洋的な「慈悲」や「慈愛」や「同情」や「もののあはれ」などの感情に、見境もなく飛びつく。そして、真綿の中でがんじがらめにされて身動き取れなくなるように、同情に見せかけた歪んだ支配の中でますます弱くされて自己を失って行くのである。
 
だが、実際には、そうした偽りの「同情」や「慈悲」といった感情の根底にこそ、人間存在を残酷にディスカウントし、弱さの中に閉じ込める悪魔的な思いが隠されていることに気づかなければいけない。偽りの美辞麗句を弄して人を弱さに閉じ込め、立ち上がれなくさせてしまうこの思想の世界観の異常さに気づき、これを拒否せねばならないのである。
 
同情という感情は、人が自分以外の誰かの弱さや苦しみに直面して初めて生まれる感情であり、逆に言えば、他者が傷つけられるのを見なければ、生まれることもない感情であるため、そこには言外に、苦しんでいるのが自分ではなく他人で良かったという安堵が含まれている。

聖書の神は、人の弱さに同情することのできない神ではないが、神の同情は、単なる言葉や感情にとどまらず、人の抱えるすべての問題に対して、その痛み苦しみを共に担い、分かち合いながら、なおかつ、現実的な解決策を与えてくれる。キリストは、まずはご自分が人の形を取って地上に来られ、人間のすべての痛み苦しみを味わわれ、弱さを体験され、人類のための刑罰を身に背負われた。その過程を経ていればこそ、キリストは人間の苦しみに心から同情する根拠を持っておられるのであり、しかも、死を打ち破られた復活の命によって、悲しむ人には慰めを、病める人には癒しを、罪には贖いとしての十字架を、死には復活を提供することがおできになる。

何よりも、死からよみがえられたキリストの復活の命は、人間を自分自身とこの世の欠乏の奴隷状態から解放する力を持っている。神の同情はただの言葉や感情だけの内実のない同情ではないのである。

だが、それに引き換え、人間が人間に与える同情は、何も生み出さず、何の救済も与えないばかりか、人間を悪質にディスカウントする。人はただ他者の苦しみを前に、自分も同じように脅かされている人間として、他者の苦しみに自分の苦しみを重ねながら、自分の被害者意識のために憐憫の涙を流すことができるだけである。苦しむ他者にどんなに寄り添い、救済を与えたいと願っても、人間が与えられるものは、せいぜい口先だけの言葉や、束の間の寄り添いや、すぐに尽きる物質的支援くらいで、それは一瞬の慰めの後で、さらに相手を卑しめ、ディスカウントし、依存関係を生み出すことはあっても、解放には結びつかない。

同情する者とされる者とは、共に抱き合い、涙を流すことによって、一時的に一つになったかのような共感を抱くかも知れないが、そこにはれっきとして、同情を施す側と、施される側の立場の差があり、優劣がある。その共感からは何も生まれず、さらに悪いことに、そこでは、同情する者が、同情される者を利用して優位性を誇り、栄光を受けることが常態化し、支配関係が生まれることさえある。

そうなると、同情を受ける人は、弱さを抱えた時点ですでに命をディスカウントされている上に、他者から同情を受けることによって、自己の尊厳をより一層ひどく傷つけられ、ディスカウントされて行くことになる。それにも気づかず、うわべだけの感情がもたらす満足により、自分の立場が何一つ変わっていないのに、あたかも救いの手を差し伸べられたかのように錯覚しながら、まるで麻薬を求めるように、すぐに消えてえしまう仮初の感情的な満たしを求めて、泥沼に足を取られるようにして果てしないディスカウントの中に落ち込んで行くのである。
 
そうした偽りの同情が、偽りの救済論として体系化されると、「救う者」と「救われる者」との間の差別的支配関係が固定化される。「救われる者(弱者)」は「救う者」の満足の手段として、永久に弱さの中に閉じ込められたまま、徹底的に利用されることになる。人間同士が互いの弱さに寄り添い、同情しているつもりが、ますます互いをディスカウントしながら、弱く、卑しく、惨めな境遇に閉じ込め合うことになるのである。カルト被害者救済活動のようなものには、まさに偽りの同情がもたらす悪しき支配関係が最も典型的な形で表れていると言えよう。

このように、被害者意識による負の「絆」で結ばれることによって、人類が互いを守り合うことは決してできない。それは助け合いでもなく、解放でもないため、その絆はかえって人をますます罪や弱さの中に閉じ込めるだけで、何の自由を与えないのである。
 
だが、東洋思想の中には、「死によって脅かされない命」が存在しないため、被害者意識によらない連帯という発想が全く生まれる余地がない。そのようなディスカウントとは無縁の、自由に基づく関係が生まれるためには、まずは人間が罪の奴隷、欠乏の奴隷状態から解放されていなければならないが、そのような人間自体がこの世界観の中には存在しないからである。

聖書においては、この物質世界の外におられる霊なる永遠の存在である神が、人類の救済のために、その独り子を地上に送られたことにより、今や御子を信じる者たちが、神の子供たちとされて、「人となられたイエス」の死と復活に同形化され、有限なる被造物でありながら、同時に、永遠の命を持つことができる。

しかし、東洋思想には、神と人との仲保者なるイエス・キリストが存在しないため、この思想の中には、永遠という概念自体がない。霊的世界と物質世界との接点もなく、完全という概念もなく、この思想は、最初から最後まで、物質世界の外に一歩も出ることがないので、永遠という概念が生じようがないのである。(物質界にあるものはすべて一時的だからである。)

東洋思想における生成と消滅の背後にある無限の循環という概念は、永遠の偽物である。なぜなら、真に永遠を考えるためには、まずはこの世の時空間という概念の外に出なければならないが、この「輪」は、無窮とも言える果てしない時間軸の上に成立する歴史的概念であって、決して物質世界の外にある時間と無関係の概念ではないからである。

そこで、結局のところ、東洋思想には、永遠の偽物があるだけで、永遠が存在しない以上、完全もないのである。無限の循環は、この世の諸現象によって作り出される偽りの概念でしかない。

このように、東洋思想は、一方では永遠に憧れ、被造物の有限性という制約を覆すことを目指しながらも、他方では、滅びゆく物質的世界を一歩たりとも外に出ることができず、死によって脅かされることのない、ディスカウントとは無縁の、完全性に到達する道をどこにも見いだせないのである。

そうなるのは、もともとこの思想が、被造物を神とする「神不在」の思想であって、被造物としての物質世界だけで成り立っているからである。創造主に属する霊の秩序ではなく、被造物に属する物質世界が真のリアリティとされる転倒した唯物論的思想なので、このような思想の中では、「わたしはある」という確固たるリアリティである聖書の神や、神の完全という概念が受容されない。そればかりか、このような世界観には何一つ絶対的な価値が存在せず、欠けるところのない完全性、ディスカウントされない命というものが存在し得ないのである。

グノーシス主義には「永遠の女性美」といった概念が存在しているように見えるかも知れないが、それさえも究極的には「脅かされている母」であり、永遠ではなく、死や滅びと無縁の存在でもない。

このように、すべてが死を帯びて、不完全であり、有限なる滅びゆく世界に、いざ永遠に絶対的な価値が出現すると、どうなるだろうか、大変な問題が持ち上がる――なぜなら、両者は完全に異質だからである。

三島作品における金閣寺への放火には、神殿破壊、すなわち、エクレシア殺しという隠れた意味が込められていることを説明した。むろん、三島はそのような隠れたプロットを想定していなかったであろうが、真の意味での「永遠の女性美」とは、神の復活の命によって生かされるエクレシアにしか存在せず、それゆえ、宮を破壊するという行為は、ただ単に人が神の神殿である自分自身を破壊することばかりか、それに加えて、永遠に揺るがされることのない完成した女性美であるキリストの花嫁たる教会を破壊するという隠れた意味合いを持つ。それは人が自分の完全な救いであるキリストを退け、自分自身が神の花嫁となる可能性を根こそぎ否定することを意味する。

ここに、二つの全く異なる存在がある。一方には、東洋思想の死によって脅かされる脆く弱い「母」(エバ、人類)があり、もう一方に、キリストの復活の命によって生かされる神の教会たるエクレシア(キリストの花嫁、新しい人)がある。

三島作品における金閣寺への放火は、東洋的世界観の中には、永遠に揺るがされることのない美、もしくは、キリストにあって完全とされた新しい人という概念が決して存在し得ないこと、つまり、被造物の贖いや、完成というものが決してないことをよく表している。この思想の中では、死を帯びていない何物にも脅かされることのない傷のない完全なものは、決して存在してはならないのである。

『金閣寺』の主人公は、コンプレックスや惨めさや無念を心に抱え、まさに滅びゆく被造物としての不完全性の象徴のようである。そして彼は、東洋思想の原則にのっとって、完成された女性美を、この世界や自分とは全く無縁・異質なものとして憎み、これをディスカウントし、毀損して、自分のレベルまで引きずりおろすことにより、抹殺しようと試みる。

その行為には、すでに述べたように、無意識のうちにも、エクレシアに対する悪魔の憎しみ、死を打ち破ったキリストの復活の命に対する悪魔の憎しみが込められている。このプロットから読み取れるのは、いかに悪魔が、被造物の贖いが完成して、被造物が完全な美を取り戻すことを心から憎んでいるかということである。

悪魔は被造物を永遠にディスカウントしておきたいのである。間違っても、被造物が被害者意識を帯びた「もののあはれ」や無常観とは関係のない、傷つけられたり、脅かされることのない完全な美を取り戻すことを望まないのである。

キリストの復活の命は、死を打ち破る力を持っているが、悪魔は人を攻撃し、ディスカウントしては、信仰を弱め、人が傷ついて、弱く、脆い存在になるよう引きずりおろそうとする。その悪影響は、しばしば、贖われたキリスト者にさえ到達する。

使徒パウロはコリント人への手紙で言う、「あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」(Ⅰコリント11:30)これはキリストの復活の命によって生かされる信者であっても、不信仰ゆえに、滅びゆく世界の不完全性に逆戻りさせられ、弱さのゆえに死んだ者が数多くいることを示す。

弱さ、傷、病、死などは、決して聖書によれば、美化されるべき概念ではなく、キリストの命の本質とは無縁である。有限なる被造物の、死によって脅かされる脆く儚い、過ぎ行く有様に「もののあわれ」を見いだすような情緒は、聖書とは一切無縁である。それは悪魔のディスカウントした世界を抵抗もせずに受容し、すべてが不完全で弱く傷ついている転倒した有様に喜びを見いだすことであるから、まさに倒錯した嗜好と言って良い。

悪魔は完全なもの、傷のないもの、死によって脅かされないものを憎み、人間を偽りの「慈愛」や「慈悲」や「同情」などの美的概念で騙しつつ、何とかしてキリストの復活の命に達しないよう、滅びゆくアダムの有限な命の世界から逃がすまいとしている。

東洋思想の世界観は、悪魔が人類を騙し、ディスカウントしておくための格好のツールであり、相手が信者であっても、悪魔は信者が被害者意識に陥れて自らの弱さを甘んじて受け入れ、抵抗をやめるか、アダムの命を改良して、自ら神に至ろうとのむなしい努力をするかのどちらかに誘導しようとする。間違っても、アダムの命に対する霊的な十字架の死が適用されて、復活の命が現れることがないよう、細心の注意を払い、もしそれが現れたなら、早速、あらゆる攻撃を加え、ディスカウントし、引きずりおろそうと準備しているのである。


・「和の精神」とはバベルの塔建設における人類の一致の悲願を指す

さて、前回の記事では言及できなかったが、「和の精神」についても補足しておきたい。「和の精神」とは、バベルの塔における人類の一致という、罪人たちの悲願を表す。そう考えれば、実に多くの事柄に納得がいく。

グノーシス主義の偽りの霊性は、常に目に見える人間集団を建て上げることによって、人類の圧倒的な威信を全世界に見せつけ、自己を誇り、人類の一致という悲願を達成しようとする。
今一度、バベルの塔建設のくだりを聖書から引用しよう。

「 全地は同じ発音、同じ言葉であった。時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。

こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。

こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。 」(創世記11:1-9)

以上のバベルの塔建設における人類の連帯の中には、「和の精神」が見られたのではないだろうか。何しろ、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。」と言われたくらいなので、そこにはどんなことによっても妨げられないほどに統制された瞠目すべき人類の一致、協力、連帯が見られたのではないかと思う。

さて、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」という言葉は、まさに以下のような精神を彷彿とさせる。
 

国体の本義
第一 大日本国体、一、肇国から抜粋

大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国(てうこく)の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。」

現御神にまします天皇の大御心・大御業の中には皇祖皇宗の御心が拝せられ、又この中に我が国の無限の将来が生きてゐる。我が皇位が天壌無窮であるといふ意味は、実に過去も未来も今に於て一になり、我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展することである。我が歴史は永遠の今の展開であり、我が歴史の根柢にはいつも永遠の今が流れてゐる。



「万世一系の天皇皇后」というフィクションの神話に基づき、全世界を一つの家とみなして「一大家族国家」を形成し、これを歴史を貫いて輝かせ、永遠に到達しようという思想は、事実上、「町と塔(国家)を建てて、その頂を天に届かせよう」という発想と同じである。

そこでは確かに「我が国が永遠の生命を有し、無窮に発展する」という、永遠にまで到達しようという果てしない欲望が述べられている。このような思想に基づき、八紘一宇というスローガンのもと、全世界の国民が、一つ屋根の下に集まるように、同じシンボルのもとに集結すべきとしたのであるから、まさにバベルの塔の精神に他ならないではないか。

ここでは繰り返さないが、『国体の本義』が西欧文明の個人主義に対して激しい批判を展開し、西欧文明の長所と東洋思想との合体の末に新日本文化の創設なるものを唱えていたことを思い出したい。なぜ彼らがこのような塔=国家の建設にこだわったかという動機の根底には、「母が脅かされている」(西洋キリスト教文明の個人主義によって東洋文化が脅かされている)、すなわち、言い換えれば「聖書の父なる神によって人類が脅かされている」という被害者意識が存在したことが読み取れるのである。

そう考えると、「和の精神」とは、人類が聖書の神に対する被害者意識から、己が欲望によって自己を高ぶらせて、自力で神の領域にまで達しようとする悪魔的な一致・協力を指すことになる。一つ前の記事で、個人の意思決定権を認めず、集団だけにそれがあるかのようにみなす「和の精神」とは、まるで「かしら」を失った「首のない体」、つまり、精神に統御されない体と同じだと述べたが、首がない体だからこそ、自力で天に到達し、何とかして自分の力でかしらである神につながろうとしているのだと言えるかも知れない。

国家神道が「日輪(太陽=天照大神=天皇)」を神としていたということの中にも、首のない体(人類)が自力で天に到達しようとしていた願望を見ることができるのではないだろうか。そして、このような悪しき塔建設の試みは、必ず、個人単位ではなく、集団で行われるのである。

このような人類の神に対する反逆の試みに対する裁きがとりわけ厳しいものであることは言うまでもない。バベルの塔建設作業には、神の鉄槌が下されて分裂と混乱で終わり、塔も未完に終わったが、今日、そのような悪しき思想を信じる者には、個人単位でも、滅びが降りかかる。

前回、三島がいかに人類の果てしない欲望に対する神の霊的な刑罰を象徴するような最期を遂げたかを見て来たが、それと共に思い出されるのは、使徒行伝でペテロが語ったイスカリオテのユダの最期である。

「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり『血の土地』と呼ばれるようになりました。

詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ。
 そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」(使徒1:17-20)

ユダも自殺して体が真っ二つに裂けてはらわたがみな飛び出したというから凄まじい最期である。ちなみに、マタイの福音書では、ユダはイエスを銀貨三十枚で売ったことを後悔して、祭司長や長老に金を返そうとして断られ、銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、その後に首をつって死んだとある。

「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。」(マタイ27:3-8)

この記述が使徒行伝の記述と食い違うと主張する者もあるが、高所で首をつった後、体が地面に転落して裂けたなどのことも考えられるため、表面的な描写だけを取って、死に様が食い違うと考えるのは早いものと思う。

いずれにしても、首を吊った上に腹が裂けたというのだから、あまりにも凄絶な見せしめ的な最期であり、それは三島と同様に、キリストの十字架に敵対する者の最期を思わせるものである。キリストの十字架に敵対してい歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

ユダの体が真っ二つに裂けたことは、ユダが神と悪魔の両方に心を売ろうとして、最後までどっちつかずの生き方をしたことに対する厳しい報いと受け止められないこともない。そこには、バベルの塔同様に、分裂という要素も見られるし、自力で自分を高めて神以上の存在になろうとする人類が、最後には自分の正常な形までとことん失う様子を見て取れる。また、ユダがイエスを売った血の代価で買われたのが「陶器職人の畑」だったことにも、意味がなかったわけではないだろう。なぜなら、旧約聖書において、陶器師は何度も創造主なる神にたとえられているからだ。そして、そのたとえの中では、神が人の身も心も思うがままに、救おうと思う者を救われ、滅ぼそうと思われる者を滅ぼすことがおできになることが示されている。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」(ローマ9:18)

エレミヤ書第18章にも、神がご自分を陶器師にたとえる記述が登場する。そして、造られた者でありながら、創造主に逆らう民を、神が滅びに引き渡され、その宣告を告げさせるために預言者を民に向かわせるが、その預言者にも、民は耳を傾けず、かえってその宣告を憎み、彼を殺そうとする。これはまさに今日起きていることではないだろうか?
 
「主からエレミヤに臨んだ言葉。 「立って、陶器師の家に下って行きなさい。その所でわたしはあなたにわたしの言葉を聞かせよう」。
わたしは陶器師の家へ下って行った。見ると彼は、ろくろで仕事をしていたが、 粘土で造っていた器が、その人の手の中で仕損じたので、彼は自分の意のままに、それをもってほかの器を造った。

その時、主の言葉がわたしに臨んだ、 「主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。 ある時には、わたしが民または国を抜く、破る、滅ぼすということがあるが、もしわたしの言った国がその悪を離れるならば、わたしはこれに災を下そうとしたことを思いかえす。
またある時には、わたしが民または国を建てる、植えるということがあるが、もしその国がわたしの目に悪と見えることを行い、わたしの声に聞き従わないなら、わたしはこれに幸を与えようとしたことを思いかえす。

それゆえ、ユダの人々とエルサレムに住む者に言いなさい、『主はこう仰せられる、見よ、わたしはあなたがたに災を下そうと工夫し、あなたがたを攻める計りごとを立てている。あなたがたはおのおのその悪しき道を離れ、その道と行いを改めなさい』と。

しかし彼らは言う、『それはむだです。われわれは自分の図るところに従い、おのおのその悪い強情な心にしたがって行動します』と。
それゆえ主はこう言われる、異邦の民のうちのある者に尋ねてみよ、このような事を聞いた者があろうか。おとめイスラエルは恐ろしい事をした。レバノンの雪が、どうしてシリオンの岩を離れようか。山の水、冷たい川の流れが、どうしてかわいてしまおうか。
それなのにわが民はわたしを忘れて、偽りの神々に香をたいている。彼らはその道、古い道につまずき、また小道に入り、大路からはなれた。 自分の地を荒れすたれさせて、いつまでも人に舌打ちされるものとした。そこを通る人はみな身震いして、首を振る。わたしは東風のように、彼らをその敵の前に散らす。その滅びの日には、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない」。

彼らは言った、「さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう」。」

バベルの塔の精神は、まさに人類が被害者意識によって連帯して、創造主なる神に逆らい、立ち向かいながら、神が自分の主人であることを否定して、神に代わって自分が自分の人生の主人となり、欲望に従って思うがままに生きられるかのような、人類の集団的な思い上がりを示している。彼らがれんがとアスファルトで塔を建てたというのも、神の霊に属する性質ではなく、肉の性質を使って、神に到達しようとしたことを表している。

「和の精神」もその本質はこれと同じで、それは創造主に逆らって己を神とする人類の集団的な思い上がりと反逆、肉の思いによる高ぶりを示している。彼らは飽くことのない繁栄を望むが、首を失った体に対する裁きは厳しいものであり、分裂と、滅亡と、荒廃とが待ち受けている。

キリスト者の道は、このようなものとは全く異なる。筆者は、三島やユダの最期を思うにつけても、やはり、グノーシス主義者の滅びには、一切、キリスト者は手を貸さない方が良いと考えざるを得ない。

筆者は、周りで起きている激しい妨害を知らないわけではなく、それに当然の権利を持って立ち向かい、言葉を返し力を行使しようと思えば容易なことであるのも知っているが、グノーシス主義者には、まずは彼らの心のうちを隅々まで吐露させ、その悪しき思いが誰も否定できないほどにはっきり形を取って現れるまで、好きにさせておけば良いのではないかと考えている。なぜなら、彼らには、必ず、彼らの悪しき思想が形となって結実し、滅びとして身の上に降りかかる時が来ると分かっているからだ。
 
人は自分で自分の生き方を選択していると思っているかも知れないが、自覚せずとも、必ず、何らかの思想に導かれて生きている。その人の思想こそが、その人の生き様を形作っているのである。その思想とは、大きく分けて、この世には二種類しかない。聖書の神に従うのか、従わないのか、そのどちらかしか人間に選択はないのである。

文学作品は、現実から乖離したフィクションに過ぎないと言う人がいるが、実はそうではない。たとえ小説であっても、そこには、著者の世界観、思想がよく表れており、むしろ、小説であるからこそ、現実の何倍もの凝縮された形で端的に著者の思想が込められている場合が少なくない。

著者が作品の中でほとんど無意識に行った告白が、やがて著者の身の上に極めて教訓的な形で結実することはよくある。そのことは三島作品を読めば分かることだ。もし三島の書いた作品が単なる「フィクション」でしかなかったのならば、三島には作品中の主人公と同じような最期を遂げる必要は全くなかったであろう。しかし、実際には、作品中で行われたのはみな三島の死のリハーサルだったのである。

そこで、筆者は、グノーシス主義者らの行く末については、放っておいても、彼らの誤った思想それ自体が、彼らを当然の滅びに引き渡すであろうと考える。そこで、あえて二、三歩、退いて、その生き様を傍から観察し、彼らにふさわしい最期がやって来ることを見届けようと思う。

このように言うのは、「ディアボロス」すなわち「中傷する者=悪魔」に味方する人々に降りかかる裁きが、格別に厳しいものとなることが、予め分かっているためである。筆者はその結末に微塵も責任を負うつもりはなく、それは彼ら自身が選んだ結末としてはっきり身の上に現れなければならない。それがあまりにも悲惨な末路となることが明白であればこそ、キリスト者はその結末に手を貸さず、屠られる羊のように黙しつつ、この世の手段を用いず、ただ小羊の血潮と証の言葉のみに立って、すべての虚偽に立ち向かうことに意味があると考える。肝要なのは、血肉の戦いに精魂を費やすことではなく、まずは偽りの思想という要塞そのものを暴き出し、粉砕することである。

さて、話を戻せば、キリストの復活の命に至りつくためには、個人的な信仰がなくてはならず、それは集団的な連帯によって獲得することは決してできない。その個人的な信仰の歩みは、バベルの塔の連帯とは真逆の方向性である。だからこそ、グノーシス主義者らは必死になって、「集団を離れての個人は存在しない」とか「孤立は死だ」とか言いながら、人が個人としての真実な信仰の探求を行うことを何とかして妨げようと努力しているのであろう。

しかし、「和の精神」は、人類の悪魔的な一致の願望であるから、このような偽りのスローガンのもとで、有限なる被造物を神として崇め奉る組織や集団に帰属している限り、人は永久に復活の命にはたどり着けない。そうした組織の中には、牧師という目に見える人間を神の代理人とする集会も含まれている。

できるなら、これまで何度も引き合いに出して来たオースチン-スパークスの論説私たちのいのちなるキリストが現される時……を、もう一度参照されたいが、そこでは、はっきりと、終末に向けて、反キリストに属する「人造のキリスト教」が大規模に発展すること、それはキリストや、キリストの命に見せかけた「キリストご自身の代替物」を用意して、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」によって膨らんで行くことが指摘されている。

今日、ペンテコステ・カリスマ運動のように、また、牧師制度を有するすべての組織に見るように、キリストを礼拝すると言いながら、被造物を拝み、被造物の命を偽りの霊性に見せかけて発展させようとするグノーシス主義と合体した虚偽のキリスト教が、キリスト教界を席巻している。彼らは「事物、人、運動、制度、組織」などを中心に据えて、目に見える指導者のもとに、目に見える集団を建て上げ、「大衆を引きつけ、群衆をとらえる」要素をちりばめた、見せかけの礼拝を行うことに心を砕いている。

そうした人々は、主日礼拝を守るとか、安息日を守るとか、祝祭日を守るとかいった表面的な儀式を守ることを敬虔と勘違いし、うわべを飾ることに腐心している。だが、聖書はこれらの人々についてはっきりと言う、

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。

偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」(コロサイ2:16-19)

ここに、「頭であるキリストにしっかり付いていない」すなわち、「首のない体」が登場していることに注意したい。こういう体に属する人々は、いたずらに思い上がり、自分たちの努力で天にまで到達しようと様々な儀式を守り、偽りの従順を演じ、自らの努力をうず高く積み上げ、そうしていればいつか「頭」が得られるかのように思い込んでいる。

だが、どんなに努力を重ねても、彼らはずっと「首のない体」のままである。どんなに偉大な宗教指導者を組織の頂点に据えても、被造物はすべて体に過ぎないので、頭にはなれない。首のないその体に、どんなに「和」が働いても、そこにあるのは、神をわきまえる知性を捨てた「肉の思い」すなわち堕落した欲望でしかない。

もしもこの先、信者が少しでも「事物、人、運動、制度、組織」に気を取られ、このような価値観を受け入れるならば、欺かれて終わるだろう。「影」に過ぎず「本体」ではない本質的なものでないものに気を取られれば取られるほど、命の制限が生じるだけである。

被造物を神とするあらゆる制度から離れねばならないが、残念ながら、今やこの時代のキリスト者には、現人神のように人間を崇め奉る牧師制度のような偽りの教職者制度を離れ去るだけでなく、己を神として生きる全ての個々の人間からも離れ去ることが要求されている。

以下の御言葉は当ブログでは幾度も引用して来たが、今や隅から隅まで成就したことに慄然とする思いである。

「しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい。」(二テモテ3:1-5)

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。

この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(二テモテ3:13-16)


以前にも書いたが、今やこの世、宗教界を問わず、至る所で終末のバビロン化が大規模に進行し、目に見えない洪水がひたひたと押し寄せて来るように、周囲にいるすべてが水の中に飲み込まれて行く様を、筆者は箱舟の中にいながら、静かに見る思いがする。信者を名乗る人々が創造主なる神と神の民に反逆し、国は虚偽と不正と腐敗と搾取にまみれて機能停止し、すべてのものが支離滅裂な思想に汚染され、その中に飲み込まれつつある。悪いものは極端に悪くなり、およそ秩序という秩序が転倒させられている。

だが、ノアの時代、洪水から救われたのは、たった8人であった。イエスは言われた、「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いて下さる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」(ルカ18:7-8)
 
我々の脱出の道は常にキリストを通して備えられている。それは決して多くの人が見いだすことのない狭き門ではあるが、確かな救いであり、ディスカウントされることのない、まことの命である。オースチン-スパークスの以上の論説も警告している、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となることであると。神の霊の実際の働きは、すべてのものをキリストに帰することであるから、我々はその命だけに頼って生きる方法を学ばねばならないのだと。

キリストだけが我々の内なる人の命となるときに初めて、私たちは、被造物の限界に脅かされることなく、彼の中で強くあることができる。もしも私たちが、この方だけに頼ることをやめ、自分自身や、他の人々や、物事に頼ろうとするなら、たちまち弱くされてしまうであろう。我々は、すべての「影」に過ぎないものを退け、「本体」であるキリストの力だけで、すべての逆境を切り抜ける秘訣を学ぶ必要がある。そして、そのために必要なすべての備えが、この命なる方の中には存在するのである。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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