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我が友なる方々よ!

勤務のために身体はクタクタで、起き上がることさえ難しいほどに疲労しているのですが、心には喜びが溢れています。あなた方が主にあって豊かに富む者とされたことが嬉しくて、踊り出したいほどの喜びです。

こうして文章を書き続けていると、私の一言一句を、主が確かにお読み下さっていることを、幾たびも感じてきました。時折、自分では全く意味が感じられなくなることもありましたが、しかし、主は常に私をじっとご覧になって、私が一体、いつ、主の御心にかなう貴重な言葉を発するのかと、ずっと見定めておられるのだと思うのです。

御心に反して、私があれやこれやの祝福を自分のためにだけ求め続けている時には、主はあたかも耳を背けて聞いておられないかのようです。ところが、御心にかなった一言が発せられると、それがどんなに小さな一言であっても、待ち構えていたかのように、主は素早く応答して下さいます。いや、そんな時には、むしろ、私の口に一言も上らないうちから、主は私の祈りを聞かれ、それに応えようとすでに立ち上がっておられるのです…。

エレミヤ書の次の言葉が心に響きます。

「それゆえ主はこう仰せられる、『もしあなたが帰ってくるならば、もとのようにして、わたしの前に立たせよう。もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。」(エレミヤ15:19)

友よ、これは大いなる約束ですよ! でも、「貴重なこと」とは一体、何でしょうね? それは、試練の只中にあって、私が自分の安楽のためにあれやこれやの恵みや祝福を求めて祈るのではなく、まず、十字架でその肉体を裂かれ、血を流された主イエスを思い、自分も同じように徹底的に裂かれることに(たとえしぶしぶながらであってもはっきりと)同意することを指しているのです。つまり私が、自分の権益をきっぱり捨てて、主の権益を求めて祈る態度を取る時、たちどころに、すべては変わるのです。その時、私たちの祈りは御心にかなった祈りとなり、私たちの捧げる言葉は、御旨を成就する言葉となり、死にかけていたエクレシアにも、命が流れ始め、御業が次々となされ始めるのです!

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

主は私たちを豊かに恵むことを拒んでおられるわけではないと信じます。主は私たちに命を豊かに与えたいと常に願っておられるのです。けれども、私たちがどんな時でも自分自身を基準にして物事を考え、自分のためにだけ行動し、自分の利益だけを守ろうとすることが、主の権益を著しく損なっているため、かえって、神は私たちを恵むことを止めざるを得ない時があるのだと思います。

キリストのまことの命が存分に流れるはずの管をせきとめて、エクレシアに動脈硬化をもたらしているものは、いつも私たちの自己なのです! けれども、十字架はまことに大いなる掃除機であって、管をつまらせているこの自己を砕き、追いやり、そして豊かに命を流れさせることができます。

友よ、あなたも言っていた通り、十字架とは多くの場合、大々的な出来事ではなく、とても些細な事柄を通してやって来るのですね、たとえば、「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」(箴言27:17)と書いてあるように、霊の家の中で、隣り合う礎となるために、人手によらず切り出され、運ばれて来た石である私たちが、ぶつかり合い、こすりあい、いさめあい、慰め合い、励まし合い、互いを研ぎ合って、調整し合っていることも、主の配剤によるのであり、これも十字架の働きだったのです。

多くの人々は、十字架で自己を否むという話を聞くと、痛ましい自己犠牲しか思い浮かべられず、首を振って去って行きます。そこにはただ死しかないと考えるからです。けれども、私たちは知り始めています、主の死の働くところに、主の命がどんなに豊かに働くのかを! 私たちは未だにとても臆病で愚かであり、十字架の死を拒んで逃げ出しやすい存在ですが、それでも、キリストのまことの命の絶大な働きを少しでも知ってしまった以上、自分自身は死に服して、この命の路線に立ち続けたいと願わずにいられないのです。

ああ、神が自由に働かれること、これ以上の恵みと幸いがあるでしょうか! どうか主よ、不信によってくらまされている目を明らかにし、偽りの闇を駆逐し、真理の光で私たちを照らして下さい! 人の心を変えられるのはあなたであって、私たちの努力ではありません。たとえどんなに物事が正確に見えたとしても、私たちの努力によっては何一つ変えられません。ダマスコ途上のパウロを照らされたように、ただ主よ、あなたが御言葉の光で私たちの心の暗闇を照らし、御光で私たちの自己を打ち倒し、光なるお方をもっとはっきりと心に啓示して下さいますように!

私たちがどんなに救いようのないほどに愚かであっても、光なるお方が私たちを倒し、殺し、そして再び、主にあって生かすことを信じます。主よ、私たちを変えられるのはあなたの責任です、私たちを復活の領域で生かすことはあなたの責任です、私たちは自分自身をあなたに委ねるのです。もしも私たちが自分の側の責任をきっちり果たし、一粒の麦として葬られるならば、主よ、あなたも私たちへの責任を果たして、多くの実を結ばせて下さると信じます。私たちは主にあって新しい人とされ、「信仰によって生きる」でしょう! エレミヤ書の上記の箇所はこう続いています。

「彼らはあなたの所に帰ってくる。しかしあなたが彼らの所に帰るのではない。
 わたしはあなたをこの民の前に、堅固な青銅の城壁にする。
 彼らがあなたを攻めても、あなたに勝つことはできない。
 わたしがあなたと共にいて、あなたを助け、
 あなたを救うからであると、主は言われる。
 わたしはあなたを悪人の手から救い、無慈悲な人の手からあがなう。
(エレミヤ15:19-21)
 
ハレルヤ! 主の御名を讃えます!

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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