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・ハンセン病の絶対隔離政策に見る、「慈愛」や「同情」を装う偽りの救済事業」の危険性
 
さて、これまで、グノーシス主義がしきりにキリスト教の父性原理に基づく二分性を糾弾し、「慈愛」や「慈悲」によってすべてを包容する「母性的情愛」を高く掲げていることを見て来た。

今回、私たちは、グノーシス主義がしきりに善良な要素として掲げる「母性的情愛」なるものが、本当に人間を解放することに少しでも貢献するのか、むしろ、「慈悲」や「同情」といったうわべだけは美しく響く概念が、どれほどその美名とは裏腹に、人間をディスカウントして貶め、人を弱さの中に閉じ込めてそこから受け出せないように支配する口実として利用されるかということを、以前にも一度触れたことのあるハンセン病の絶対隔離政策を例に見ていきたい。

ハンセン病患者に対する強制隔離政策は、我が国で、約90年以上も続けられて来た。

ハンセン病は、我が国では、古来から、世間では「家系に伝わる不治の病」「業病」などと呼ばれて、不当な差別の対象とみなされて来た過去があるが、我が国で、国家レベルでハンセン病者に対する差別的な隔離政策が推進されるようになったのは、明治になってからのことであった。
 
明治になってから、我が国は、近代国家としての体裁を急ごしらえで身に着けようと、西欧諸国にならって文明開化を急いだ。「内地雑居」により、欧米人が自由に日本国内を行き来できるようになった頃、当時の日本政府は、ハンセン病患者の存在を、文明開化した国にはふさわしくない、未開の国の無秩序状態を示す「国家の恥」とみなして、ハンセン病者を「国辱」であるかのように考え、排除を決定したのであった。

つまり、欧米人の前で、国家の見栄や体裁を保ちたいという理由で、国はハンセン病者を社会的に抹殺・隔離・根絶することを決め、それに基づいて、明治以降、平成に至るまで、政府が率先して絶対隔離政策を長年に渡り、推し進めて来たのである。

以下は、後ほど紹介するように、絶対隔離政策がようやく違憲として廃止された後、2005年に厚労省でとりまとめられた「ハンセン病問題に関する検証会議による最終報告書」からの抜粋である。そこには、明治政府が、1907年に「癩予防ニ関スル件」という法を定め、ハンセン病者の隔離政策に踏み切った理由が、対外的な見栄を保つためであったことが示されている。
 
そこから、欧米人と肩を並べる列強として、文明開化された強い軍事力を持つ国であることを対外的に演出したかった当時の明治政府から見て、ハンセン病患者は、アイヌ民族や、精神障害者と並んで、「野蛮」や「汚濁」を象徴する存在として、覆い隠さねばならない存在とみなされたことが分かる。

 

当時の日本の衛生政策は、防疫、すなわちコレラなどの急性感染症への対処に追われていて、とてもハンセン病への対策を実施する余裕はなく、ハンセン病患者への医療は、こうした宗教的施設に依存するばかりであった。

では、なぜ、1907(明治40)年、法律「癩予防ニ関スル件」を公布し、国家はハンセン病患者の隔離に踏み切ったのであろうか。その契機は2 つある。1 つは、1897(明治30)年、ベルリンで開かれた万国癩会議で、ハンセン病が感染症であり、その予防策として隔離がよいと確認されたことであり、もう1 つは1899(明治32)年に欧米諸国との間の条約の改正により新条約が発効し、「内地雑居」が開始されたことである。

「内地雑居」により、欧米人たちは日本国内を自由に居住し、旅行できるようになった。

当時、
ハンセン病には遺伝病という認識が支配的であったため、患者は家族・親戚への差別を恐れて、自宅に隠れて暮らすか、家を出て放浪して行方をくらますかの、いずれかの境遇を強いられていた。

放浪する患者のなかには、神社・仏閣などの門前で物乞いする者も多く、「内地雑居」が始まると、そうした放浪患者の姿を欧米人に見られることは国家の屈辱と考えられた。なぜならば、当時、ハンセン病は北米やヨーロッパには少なく、アジア・アフリカ・ラテンアメリカなどに多くの患者を発生させていたからである。

1900(明治33)年12 月、内務省が初めておこなったハンセン病患者調査では、患者数3 万0359 人、「血統戸数」19 万9075 戸、「血統家族人口」99 万9300 人と報告されている(国立療養所史研究会編『国立療養所史』らい編、厚生問題研究会、1975 年)。ここで、「血統」という表現を使用しているが、これは内務省がまだハンセン病=遺伝病説に固執していたということではなく、家族に患者を抱えている戸数と家族の人口という意味である。すなわち、「血統家族人口」とは、家族間で感染している可能性があり、今後、発症するかも知れないという人口を意味しているのである。

この数字は、国家にとって大きな衝撃であった。日清戦争に勝利し、条約の改正にも成功した本にとり、アジア・アフリカの植民地並みの患者が存在することは国辱以外のなにものでもなかった。

ちょうど、この頃、1899(明治32)年に「北海道旧土人保護法」が成立し、1900(明治33)年には「精神病者監護法」が成立しているが、法律「癩予防ニ関スル件」もまた、これらの法律とともに「内地雑居」との関連性をもって評価されるべきであろう。


すなわち、アイヌ民族への「保護」を掲げた「北海道旧土人保護法」や精神障害者の座敷牢ヘの監禁を認めた「精神病者監護法」について、小熊英二は「欧米人の視線から<野蛮>ないし<汚濁>とみなされかねない存在を隔離し被いかくす対策」の一環とみなしているが(『<日本人>の境界』、新曜社、1998 年)、法律「癩予防ニ関スル件」もまた、その一環とみなすべきである。

(厚労省「ハンセン病問題に関する検証会議、最終報告書」、pp.52-53)



こうして、もともと国家の対外的な面子を保つ上で、ハンセン病患者の存在自体を「国辱」とみなす考え方が生まれ、それを土台に、光田健輔のように、ハンセン病患者の治癒後も含めた生涯に渡る絶対隔離の必要性や、断種による患者根絶の必要性を強力に唱える(ある意味ではマッドサイエンティストのような)医師が登場して、多大なる影響を行使した結果、「癩予防ニ関スル件」、「無らい県運動」、「らい予防法」などの、日本政府による数々の非人道的な絶対隔離政策が成立して行ったのである。

このように、医学的な見地に立つよりも、むしろ、中世あるいはヘイトのような差別感情に基づくものと呼んだ方がよい我が国におけるハンセン病者への絶対隔離政策は、1943年にアメリカ合衆国で「プロミン」の治療効果が報告されて、ハンセン病の治療が可能となり、その後、これを改良した治療薬が開発されて、ハンセン病が事実上、不治の病ではなくなった後も、撤廃されることなく長年、続行された。

「らい予防法」に基づく絶対隔離政策がようやく終焉を迎えたのは、2001年5月11日に国立ハンセン病療養所に入所している元ハンセン病患者が起こした「らい予防法違憲国家賠償訴訟」において、熊本地裁が絶対隔離政策を違憲とする判決を出し、国が控訴を断念し、ハンセン病患者・元患者に謝罪を行ってからのことである。

1953年(昭和28年8月15日)に制定された「らい予防法」それ自体は、1996年(平成8年4月1日)の第136回国会で廃止されていたものの、この時点では、「らい予防法」に基づく「絶対隔離政策」や「患者絶滅政策」の違憲性は何らまともに検証されていなかった。こうした政策そのものが反人間的な違憲の法であったことが初めて明らかにされたのは、上記の熊本地裁判決においてである。

その熊本地裁判決が出された翌年の2002年に、政府は「ハンセン病政策の歴史と実態について、科学的、歴史的に多方面から検証を行い、再発防止の提言を行う」ことを目的に、検証会議を設置し、その後、2年半に及ぶ調査の結果、2005年3月1日に検証会議が「最終報告書」をとりまとめて厚生労働省へ提出した。

この最終報告書は、検証会議が行った療養所における患者や元患者への膨大な聞き取りや実態調査、さらに、長い歴史時代に渡って培われた差別構造についての多角的な考察や検証などを含んでおり、極めて重大な意義を有するものであるが、それでも、この調査報告がまとめられただけでは、それはハンセン病者らの不当に奪われて来た人権が回復されるための最初の一歩に過ぎない。

その後、政府は、「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」を設けることににより、絶対隔離政策の犠牲となった元患者らへの補償金の支給を決定したものの、この補償金は、法律の施行からわずかに5年間の間しか請求できないと制限がつけられ、その5年の間に請求がなければ、受給できないものとされて、2006年6月で請求期間が終了した。

だが、その申請期間に、この法律の対象となりうるどれだけの患者・元患者らが、この法律の存在を知って、請求を行ったのかは、その後の調査もなく不明である。何しろ、90年間もの長きに渡り、差別と隔離の歴史が続き、自分の病気を患者が公表することもはばかられる環境が作り出されて来たのだ。その後で、ようやくその悪法が違憲と認定されてから、わずかに5年の間に、新しい法律に基づき、補償金の申請をせよというのは、あまりにも元患者らにとって、不親切・不案内かつ配慮に欠ける措置ではないだろうか。

療養所を退所した後、かつて隔離されていた過去をひた隠しにしながら息をひそめて生きたであろう多くの人々の存在を考えてみると、未だ差別意識に苦しめられているがゆえに、そのような権利があることを知っても、あえて行使しなかった人々もいると思われる。しかも、この補償金が違憲の法律によって家族のメンバーを残酷に家庭から奪われた人々などは対象としていないことにも、決してこれが政府による隔離政策に対する十分な反省や償いを示すものとは言い難いことは明らかである。

国は戦後、かつての軍人やその遺族に手厚い恩給や年金を支給しているのであるから、長年、隔離され、人権を奪われ続けて来たハンセン病者やその家族に対する補償は、決して期限付きの自主申請に基づいて行われるべきものではなかったと考えられてならない。

政府が90年以上もに渡る隔離政策の後で、療養所の入所者や退所者に関するきちんとした後追い調査をせずに、補償金の受け取りをただ元患者らの自主申告に委ねたことは、大きな間違いであると思われてならない。

こうして、元患者らへの、隔離によって奪われた人生の年月や、残酷な断種政策によって侵害された人権に対する償い、また、隔離施設の中で、非人間的な差別的扱いのもとで開かれた「特別法廷」で出された判決の再検証などの取り組みについては、法曹界からの声などは上がっているが、政府からは、今も個別の訴えがない限り、遅々としてなされていないのが現状であると言える。

もしも真の「国辱」とは何であるか、真の「野蛮」や「未開」の概念とは何を意味するかを考えるなら、このように、政府が自ら不当に弾圧して来た人々の人権の回復に積極的でなおい態度を取り、いたずらに補償金の受け取りを制限し、絶対隔離政策のもたらした害を個人の責任として押しつけて放置するような態度を取っていることこそ、文明国家の恥であると言えよう。

さて、以上で挙げたハンセン病に関する検証会議の最終報告書は、「ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書」(厚労省)および「ハンセン病事業検証調査」(公益財団法人日弁連法務研究財団)のホームページで見ることができる。
 
だが、おかしなことに、厚労省が出しているホームページでは、「第四  1953年の「らい予防法」―強制隔離の強化拡大の理由と責任― 」における「第4  藤楓協会および皇室の役割」の項目には、個別のリンクが貼られていない。

よくよく探せば、この項目は、その上にある第三の全体版に合体されていることが分かるが、他のすべての項目では個別のPDFが存在するにも関わらず、皇室の責任を問うたこの項目だけに、個別のPDFのリンクが存在しないことは、非常に奇妙に感じられる。偶然のミスなのであろうか。

さて、以下では、この最終報告書を参照しつつ、皇室および、宗教界の中から、キリスト教を例にとりつつ、これらの宗教勢力が、なぜ絶対隔離政策を廃止する原動力とならないどころか、むしろ、強力にこの人権侵害を黙認し、むしろ、擁護するための大義名分の役割を果たしたのか、それぞれの「救済観」の誤りという問題に照らし合わせながら、考えてみようと思う。

まず、皇室からである。

ハンセン病者は、「慈悲深い皇室」というプロパガンダを国民に流布するために大いに利用された。絶対隔離政策は、ただ暴力的に患者を隔離するという方法で推進されたのではなく、皇室がハンセン病者に「慈愛の涙を注ぎ、救済の手を差し伸べる」という「神話」や美談によってカモフラージュされながら、推進されたのである。

> 近代日本の皇后像を研究した片野真佐子は、「皇室を慈善恩賞の府、とりわけ慈善の府となし、皇恩の広大さを目に見えるかたちで国民に知らしめるもっとも有効な事業はなにか。的は『救癩』事業にしぼられた。問題は国家の体面にかかっている。『癩』の問題を放置する国家を、西洋社会は文明国家と認めないからである」と述べ、皇室と「救癩」の接点となったのが貞明皇后節子さだこであったと結論する(片野真佐子『皇后の近代』講談社、2003 年)。

たしかに、貞明皇后(節子は1926 年12 月25 日に大正天皇が死去した後は皇太后となるが、本報告書においては諡名である貞明皇后で表記を統一する)は、1930(昭和5)年、癩予防協会設立の基金に「御手許金」を「下賜」し、1932(昭和7)年11 月10 日には、大宮御所の歌会で「癩患者を慰めて」と題して「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」などの歌を詠むなど、皇室の「救癩」の象徴となっていく。

では、なぜ、象徴の役割が貞明皇后でなければならなかったのか。これについては、片野も引用している次田大三郎「地方局の思い出を語る・上」(『自治時報』1959 年5 月号)に詳しい。それによれば、癩予防協会設立時、内務省地方局長であった次田は内相安達謙蔵に対し、「一つ、皇室のお力を借りられたらいいのではないか。大臣が皇后に拝謁されて、あの光明皇后―奈良時代の光明皇后の先例にもあるから、皇后が、そういう哀れなるらい患者のために大御心をわずらわすということにされたらいいと思う。そういうことをお願いなすつて、皇后がそれをやつてくださるということであれば、それはもう皇室中心の日本で、きゆう然として世論がそれにしたがつて来るだろうと思う」と述べ、安達もそのとおりに、貞明皇后に願い出て、同意を得たという

次田は、隔離政策に国民の理解を得るための「プロパガンダの一つの方法」として、貞明皇后を担ごうとしている。そして、その根拠は光明皇后の「救癩」伝説にあった。かつて、光明皇后がハンセン病患者の背を流し、膿を吸ったという伝承を現代に再現する意味で、貞明皇后は象徴となり得たのである。 
(ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 p,144)



光明皇后に関する「神話」に重ね合わせる形で、貞明皇后が「救癩」の象徴として担ぎ出された。それは、皇室が主体となって、ハンセン病者を「救う」という「お涙頂戴物語」を隠れ蓑にして、政府が事実上、「国辱」とみなしていたハンセン病者を、可能な限り、穏便かつ早急に社会から排除するためであった。

そのために、「皇后じきじきにハンセン病者の苦悩に寄り添い、慈悲をかけられた」という「救済神話」が作り出され、恐るべき隔離政策が、皇室に由来する費用の下に、「同情」の名のもとに進められて行った。

こうして、「慈悲」や「救済」の概念の下、ハンセン病者の「根絶」や「絶対隔離」という忌むべき政策の非人道性が覆い隠され、国を挙げての人権侵害が正当化されたのである。
 

貞明皇后は、すでに1925(大正14)年、後藤静香が主宰する教化団体希望社を介してハンセン病患者の処遇に関心をいだき、「女官一同」の名で、金一封を後藤に贈っていた(加藤義徳「後藤静香と救癩運動」、『JLM』571 号、1980 年11 月)。希望社は全生病院への慰問や群馬県草津の鈴蘭園への支援をおこなうなど、隔離を前提にした患者の「救済」を実践し、希望社が発行する『希望』は宮中の女官にも読まれていた。

貞明皇后は安達内相の申し出を受けて、1930(昭和5)年11 月10 日、「御手許金」24 万8000円を内相と拓務相に「下賜」した。このうち、20 万円が癩予防協会の基金に組み込まれ、残りは日本国内と朝鮮・台湾の計10 か所の私立療養所への補助、公立療養所職員への慰安、および公私立療養所入所者への慰安に使用された(関屋貞三郎『皇太后陛下の御仁慈と癩予防事業』、癩予防協会、1935 年)。

その際、入江大宮大夫より「熟ら思召さるゝには世に不幸な者多しと雖も癩病患者の如く治療の方難く家庭の楽もなき悲惨なるものあらしと最も御同情遊はされ、又其の患者を救護し事務に尽瘁する人々の献身的の至誠に深く御感動あらせられ、今般此種の社会事業に対し夫々御下賜あるべき旨御沙汰あらせらる」という「謹話」が発表され、貞明皇后の「同情」が強調された(『山桜』12 巻10 号、1930 年10 月)。

また、1934(昭和9)年3 月、中央社会事業協会主催の社会事業中央講習会で、「皇室と社会事業」の題で講演した前宮内次官関谷貞三郎も、貞明皇后と「救癩」の関わりについて詳しく論じている。この講演は、同協会より冊子になり刊行されているが、全体47 頁のうち、貞明皇后と「救癩」についての叙述が7 頁を占めている。講演は、古代から近代に至る内容であったことを考えると、その比重の大きさは否定できない。<略>

貞明皇后のハンセン病患者への「仁慈」は植民地にも流布される。<略>

さらに、1942(昭和17)年、「大東亜共栄圏」に日本のハンセン病患者を送り出し、現地の患者を看護させようという「救癩挺身隊」構想が、長島愛生園などから提起されると、同園事務官宮川量(ペンネーム東洋癩生)は「八紘一宇の理念さらに我等に尊い皇室の御仁慈がある。これを大東亜の病める兄弟姉妹に頒ち与へ、共に大恵に浴さしめたい」と訴え(東洋癩生「大東亜救癩進軍譜」、『愛生』13 巻1 号、1943 年1 月)、入所者の間にも、隔離された自分たちでも御国に奉公できるという意識が強まり、星塚敬愛園の入所者は、貞明皇后の「つれづれの友となりても慰めよ」の歌をもとに皇室の「仁慈」が「大東亜共栄圏」のすべてのハンセン病患者を救済する「御歌海を渡る日」を待望していた(南幸男「南方救癩に処する我等病者の心構え」、『愛生』13 巻3 号、1943 年3 月)。

結局、「救癩挺身隊」構想は、戦局の悪化で実現しなかったが、貞明皇后のハンセン病患者への「仁慈」がこうして、患者の戦争動員の論理にも適応されていった。

このように、ハンセン病患者は皇室の「仁慈」を顕在化させる恰好の対象とされた。しかし、その一方で、ハンセン病患者は皇室の権威を借りて排除された事実も指摘しなければならない。
(同上,pp.144-145)



もちろん、この残酷な絶対隔離政策に、患者自身が抵抗しなかったわけではない。当時のハンセン療養所では、強制的に隔離された患者たちが、脱走や逃亡を企てたり、反乱が起きることもなかったわけではない。

しかしながら、療養所では、貞明皇后がハンセン病者を哀れんで詠んだとされる歌や、皇后の「慈愛」に満ちた「救癩」の取り組みがしきりに強調されることにより、隔離された患者らの心には、「皇后じきじきに関心を持って下さるのだから、私たちは国家の恥として見捨てられ、抹殺された存在ではない」とか、「私たちは差別されているだけの惨めで哀れな存在ではない」などという考えが植えつけられ、患者らは、皇后が自分たちに慈悲を垂れたという美談によって自分を慰めることで、おとなしく隔離に自主的に応じるようマインドコントロールがなされて行ったのである。

こうしてハンセン病者は、皇室が「慈悲深い救済者」であり、見捨てられた社会的弱者の「救済事業」を主体的に行っているという「美談」や「神話」を作り出し、身分差別を強化・固定化していくための大いなるプロパガンダとして利用されたのである。

そうした伝統は戦後になっても受け継がれる。

こうした藤楓協会が国民に強く訴えたのが皇室の「仁慈」である。一般的に、日本の医療・福祉関係の施設・団体には多くの皇族が顔を並べている。日本赤十字社を筆頭に多くの皇族が名誉総裁などの地位を占め、また、皇族が旅行すると必ずと言っていいほど、病院や福祉施設を慰問する。

戦前は、男性皇族は軍務に就き、女性皇族は軍事救護や福祉に関わるという、まさに厳父と慈母というイエ制度に基づくジェンダー的役割分担をおこなってきたが、戦後は男女とも、福祉の顔を国民に向けることになった。

ハンセン病に関しては、特にそれが顕著である。藤楓協会のみならず、菊池恵楓園、邑久光明園の園名には、いまだに皇后たちの印章や謚号が使われている。戦後の皇族は、どれほどハンセン病と関わってきたのか。

皇族のなかでは高松宮宣仁が頻繁に療養所を訪れている。高松宮は、藤楓協会の初代総裁であり、1987(昭和62)年に死去した後は、妻の喜久子が総裁を継いだ。貞明皇后に続き、高松宮は皇室のハンセン病患者への「仁慈」の象徴となった。

ここで、特に注目するべきは占領期の高松宮の行動である。高松宮は1947(昭和22)年から1951(昭和26)年までの5 年間に、全国9 か所の療養所を廻っている。これは、高松宮の自発的なものだったとは考えられない。皇族の行動には、それなりの意味がある。(同上,pp.151-152)


ロイヤルファミリーという特権階級の存在意義を世間に納得させ、その威光を社会に輝かせるためには、彼らが絶えず、自分たちが最もひどく搾取している対象である弱い人々を気にかけ、特に打ち捨てられた社会的弱者に関心を寄せ、彼らに救援の手を差し伸べているというポーズを取ることが必要不可欠である。

やんごとなき人々が「慈悲深い姿」を社会に見せることが、支配階級を存続させるための絶好のプロパガンダであるという認識は、日本だけに限ったことではない。

そのような慈善事業は、一見、支配階級が格差や差別によってできた溝を埋め合わせるために行っているように見えるかも知れないが、真の目的はそれとは正反対である。それは格差や身分による差別をより一層、強化・固定し、永遠にそれが覆されることがないよう、支配階級に対する弱者の怨念の一種のガス抜き、うわべだけのプロパガンダとしてなされているだけなのである。

つまり、やんごとなき人々が、雲上人の高みから、どん底の苦しみの中にいる人々に関心を示し、同情の涙にくれて手を差し伸べるという「神話」が作り出されることにより、うわべだけ、「差別する側」と、「差別される側」との間の感情的対立が緩和され、両者の和解が成立したかのように見える。

差別階級は、「慈悲」の名のもとに、被差別階級のために涙を流し、被差別階級は、その涙を見て、自分たちの労苦がかえりみられ、差別階級が反省を示して歩み寄りをしてくれたかのように考えて自分を慰める。ところが、現実には、「慈悲」という隠れ蓑の下で、「哀れむ側」と「哀れまれる側」との間にある圧倒的な不公平や身分差別は、なくなるどころか、より一層、強固に固定されて行く。

「哀れむ側・施す側・助ける側」だけが一方的に栄光を受け、「助けられる側」は、ますます惨めな境遇の中に閉じ込められて、支配階級の栄光と満足の道具とされて行くのである。

従って、その慈善事業は、実際には、社会的強者を永久に強者のままにしておき、社会的弱者を永久に弱者のままに留め置くための「ポーズ」でしかない。その実態は、「救済」どころか、「不当な支配や搾取の正当化」であり、人々を弱さの中に閉じ込め続けることで、永遠に搾取の対象とすることにあり、実際には「救済事業」という見せかけの美しい名目とは正反対の役目を果たしているのである。

こうして、「慈愛」や「同情」や「救済」の美名のもとに行われる排除、支配、差別、隔離、マインドコントロールが存在する。

当時、ハンセン病のほとんどの療養所では、貞明皇后がハンセン病者を「慰める」ために詠んだとされる歌が、皇室からハンセン病者への「御恵み」として宣伝された。以下の記述を通して、ハンセン病者を利用して「慈愛に満ちた皇室」のイメージが作り出され、それがまるでカースト制のような、差別に基づく支配構造を固定化するために大いに利用されていた様子が分かる。

「我々国民として最も尊ぶ皇室」の威光を輝かせるためには、それと正反対の「日本で一番虐げられて居る、踏みにじられている癩者」の存在が大いに役立ったのである。

「癩予防協会」は、1931 年3 月に、絶対隔離政策を支持する世論作りのために、大正天皇の后、貞明皇太后節子が深く関わり設立されたものである。この時ハンセン病医療のために出された節子の「下賜金」25 万円の内の10 万円が設立の基金とされているが、基金ということ以上に、皇太后節子の関わりは世論形成に大きな意味を持った。

癩予防協会は、節子の誕生日である6 月25 日を「癩予防デー」と定め、「癩撲滅」「絶対隔離推進」の世論喚起の取り組みを行い、11 月10 日を「御恵みの日」と定め、「我々国民として最も尊ぶ皇室皇太后陛下が日本で一番虐げられて居る、踏みにじられている癩者に御手を下し給ふた」ことが皇室の慈愛として強調されていったのである。

ハンセン病問題における皇室の存在の大きさは、節子が「癩患者を慰めて」と題して詠んだ「つれづれの友となりても慰めよ 行くことかたきわれにかはりて」という歌の歌碑が、私立も含めて、ほとんど全ての療養所(菊池恵楓園は額装のみ。現在は倉庫に格納されている)に存在し、現在も大切に扱われていることからもうかがえる。「御恵みの日」の11 月10 日は、この歌が詠まれた日にちなんでいる。

光田健輔は、療養所内の反応を「患者たちにとりては、境遇上虐げられ、さいなまれた夜が明けたように有難く思うたことであろう」と述べ、「その声が療養所から叫ばれるとき、民衆は一日も早く病者を恩恵の楽天地に送ることを心がけるであろう」(『愛生』3 号 1932 年)というように、皇太后節子の存在を、絶対隔離政策推進の大きな力として感じとっている
(同上、pp.436-437)


だが、こうして、残酷な隔離政策、差別と支配の構図の上に立って、ハンセン病者を利用して存分に栄光を受けたのは皇室だけではなく、宗教界も同じであった。

最終報告書には、キリスト教がどのように隔離政策の推進に利用されたかというくだりもあるため、読んでみよう。
 

信仰によって苦難もよく之を征服する事を得べく、苦難に遭遇し初めて真の信仰に生きる事が出来るのだ、我々は苦難に打ち勝ち初めて意義ある人生の光明を見出す事が出来る。(「苦難の恵み」仁人 『甲田の裾』1931 年9 月号)

苦難を恵みとして受けとめ、それに打ち勝つことが「真の信仰」なのだと受けとめられている。
このように信仰による安らぎを与える「慰安教化」活動は、そのまま入所者に対して「隔離の受容」を植え付けていくことと表裏となるものであった。

2)「隔離の受容」の植え付け

「隔離の受容」の植え付け、このことが、ハンセン病問題に対する宗教の責任を明確にしていくうえでもっとも重要な事柄と言える部分である。

まずキリスト教の事例から考えていきたいが、多磨全生園のある入所者は、次のように述べ、ンセン病は天主(神)が人間に対して許可した疾病で、それには霊的すなわち宗教的な意味があるはずだと主張している。<略>

十字架の贖罪にしめされた天主の愛を知り、新生を経験した癩者の魂は、かつては自らの生ける屍を埋めるために来た墳墓である癩園を、聖寵の花園に変える。肉親との離別の寂寥、病まざりしならば知り得たであろう人間生活の諸々の愉しみ、病気の肉体的苦痛、それらをすべていと小さい犠牲として捧げる。それらは云いがたい霊魂の冨となって、彼の中に浄らかな喜びを溢れさせるだろう。」 (「癩と信仰」光岡良二『声』1954 年6 月号)

イエスの十字架上での苦しみと死を通して神の愛を知る者は、苦しみを神に捧げる貴い犠牲として受け入れることができ、そのことが療養所の中で生きていく上で喜びをもたらすとの理解である。

一言で言えば、病気とそれゆえの隔離の苦しみを受容し耐え忍び、喜びと変えて療養生活を営んでいくための支えとして、キリスト教は役割を果たしてきたと言える。そのことは、次の神山復生病院院長岩下壮一の「祖国の血を浄化せよ」というタイトルの講演でも顕著である。

この講演で岩下は、宗教あるいは信仰の果たす役割を「納得の装置」とみなし、なぜこの病気にかかったかという質問にどう答えるのかとの友人の質問に、「これはただの道徳や慈悲の心では解決できない、信仰の世界に入らなければ納得させることができない、実に癩問題には必然、宗教問題が伴わなければ満足な解決は得られない」(『岩下壮一全集・第8 巻』)との考えを示している。

ここでの信仰の世界とは隔離政策を受容し、自分の病気の苦しみを犠牲として神に捧げることである(岩下壮一「病者の栄光の日近づく!」『声』No.736 1937 年5 月号)。要するに隔離政策の中で生きていくには十字架にかかったイエスを思い起こす信仰によって不満や怒りを鎮め、さらに皇恩を感謝して生きるようにと促していくのである。
(同上、pp.444-445)

ここで、宗教あるいは信仰が、あらゆる理不尽な人権侵害に対する「納得の装置」としての役割を果たしたと指摘されていることは興味深い。

療養所において、キリスト教界の伝道者らは、ハンセン病患者が、このような病にり患したという不幸な事実だけでなく、その上に、政府の不当な絶対隔離政策によって社会から排除されて、残酷に人権を剥奪されて暮らさねばならなくなったという不幸をも、あたかも「キリストの十字架の苦難」にならうことであるかのように説くことにより、患者らの抵抗を静めることに貢献した。

キリスト教の伝道者らは、療養所を訪問しても、病者に向かって、苦しみの中に、「神の御心」を見いだすことによって、苦難を感謝しつつ耐え忍ぶように説いて聞かせるばかりで、決して政府の隔離政策そのものの不当性を訴えることはなかった。

このように、患者らが病という苦しみに冒されるだけでなく、絶対隔離政策という人権侵害の苦しみまでも耐え忍ぶことを、伝道者らは「霊的研鑽を積み、神に近づくための尊い宗教儀式」であるかのように説こうとしたのである。

このように、国家神道だけでなく、キリスト教界も、信仰を隠れ蓑にしつつ、患者らに不当な苦難を、抵抗することなく、甘んじて受け入れるように教え、人権侵害を正当化し、覆い隠す一種の「アヘン」(「納得の装置」)としての役割を果たした。さらに、カトリックは、そこからすすんで、患者らが療養所に隔離されていること自体を、あたかも出家者が俗世を離れて山奥で隠遁生活をするように、修道院生活と同一視することで、患者らが世俗の社会を離れて霊的な修練を積み、神に近づくことに専念できる生活は幸いであるとする考え方までも生んだ。
 

さらにキリスト教の信仰を持つものに対しての隔離の受容ということの極めつけは、療養所を修
道院と見なすことである。前出の多磨全生園の入所者は「癩と信仰」というタイトルで次のように記している。

「癩園にも特有の人間の悪意があり、醜さがある。其処と言えども原罪、自罪から自由に離れた世界ではない。しかし国家社会の保護の下に、生存競争の激しさから免れ、静穏な療養にいそしむ事の出来る此処は、世の嵐からの避難所であり、憩いの場所であり、或る意味でのユートピアであろう。この様な環境を最もよく利用する道は、此処を肉体的疾患の療養の地としてのみでなく霊魂の鍛錬、浄化の場所として用いることであろう。自らの療養生活を修院生活として自覚し実践することであろう。」 (『声』918 号、1954 年6 月号)

カトリック教会には修道生活の伝統と生活が美しく伝えられており、療養所を修道院と見なして生活することを理想とするようなメンタリティーも、カトリックの信者にとって隔離の受容に大きな役割を果たしたと思われるである。

そしてこの療養所は「修道院」という考え方は、カトリック系私立療養所の入所者にとって、大きな意味をもつものであった。

このたびの検証会議のなかで行われた被害実態調査の調査結果からもうかがえることであるが、カトリック系の療養所においては園内結婚は認められていなかったといってよい。それはカトリックの教義と深くかかわっており、療養所で働き生活をするシスターたちは、「清貧」「従順」「貞潔」がモットーとされ、信仰の上において男女関係を絶つ生活が貫かれていた。そのことが宗教的に価値のある生き方として、入所者に対しても求められていったのである。また、子孫をもうけること以外の目的での性交渉はカトリックの倫理観に強く反するものとされ、断種や堕胎は宗教上の「罪」であり許されるものではなかった。

これらのことから、国立療養所において隔離がもたらした大きな人権侵害である「断種」「堕胎」「不妊」手術は、カトリック系療養所では、国立のそれとはまったく背景の違うところで、少なくとも建前上は実施されなかったのである。

この結果、結婚をしようと思う入所者は、国立療養所などに移っていくより仕方がなかった。

また、患者作業についても、国立のそれとはやや趣を異にするといってよい。
カトリック系療養所において、「労働」は、毎日の「ミサ」と並んでひとつの「宗教的行為」と位置づけられていた。前にも触れたが、1959 年にカトリック系宗教誌で、神山復生病院の70 周年の特集が組まれた時、そのキャッチコピーが「祈りかつ働く生活」であった。

宗教施設における労働は、「神の願いを地上に実現するための行為」なのである。これは「修道院」の精神であり、神山復生病院が修道院になぞらえていたことがうかがえる。そのような修道院的環境の中で、患者作業への従事を施設側は入所者に求め、それに応えようとした入所者が存在していたことは確かであろう。国立療養所の患者作業との違いとして注目しておきたい。
(同上,pp.444-445)


この指摘は、カトリックの修道院生活を決してロマンチックで浅はかな幻想で美化してはおらず、修道院生活の中に、根本的に療養所生活に通じる「人権の剥奪」という概念が横たわっていることを見ている点で、非常に興味深いと言える。

むしろ、療養所生活の残酷さを通して、修道院生活の残酷さをも浮かび上がらせているとさえ言えるかも知れない。

こうして、療養所が修道院と同一視されることにより、「神への献身」「清貧」「貞潔」「従順」といった美名のもとで、患者らに、私有財産の剥奪、社会からの隔離、結婚の禁止や、子供を持つことの禁止などの様々な人権の制限・剥奪を加える行為が、宗教的な装いによって正当化されたのであり、その行為の残酷さが覆い隠されたのである。それらのことは、あたかも信者となった患者自身が自主的に望んで行われる神への献身であるかのようにみなされたのである。

さらに、療養所では、患者らの労働が奨励され、患者自身への日常生活の世話や、死んだ者の火葬でさえ、患者たち自身の仕事とされていたが、こうした労働についても、「カトリック系療養所において、「労働」は、毎日の「ミサ」と並んでひとつの「宗教的行為」と位置づけられていた。」。こうした刑務所の強制労働のような作業も、搾取や、支配や、苦役ではなく、自主的な宗教儀式の一環であるかのように、美化され、正当化されていたのである。

さて、最終報告書では、キリスト教界のみならず、仏教や天理教などが絶対隔離政策に果たした役割についても公平に記述されており、全宗教界がこの隔離政策の推進に加担した事実があるわけだが、本記事では、それぞれの宗教について語ることが目的ではないため、そろそろ最終報告書の記述を離れよう。

なぜ、これらの宗教は、絶対隔離政策の非人間性を何一つ指摘することもなく、むしろ、それに対する抵抗を眠らせる「アヘン」(「納得の装置」)としての役割を果たしたのであろうか。

その問題を考えるとき、私たちは、こうした宗教すべてが、それ自体が、「隔離」の原則に基づいて成立しており、ハンセン病者が隔離されていたのみならず、これらの宗教そのものも、人間に真の自由を与えず、むしろ、「愛」や「慈悲」の名のもとで、弱さの中に閉じ込め、人間の作り出したヒエラルキーの下に束縛することしかできないという、全く同じ構図を持っていた事実を見ることができるのではないだろうか。

筆者は、以上の宗教はすべてグノーシス主義的ヒエラルキーに基づいて成立した偽りの宗教であるがゆえに、本質的に、ハンセン病者に対する絶対隔離政策と同じ弊害を内に宿していたと考えている。たとえば、貞明皇后が、戦前の日本社会のヒエラルキーの頂点に存在する者として、最下位に位置するハンセン病者に慈悲を垂れるという構図は、グノーシス主義的な「簒奪の模倣」の願望を、ある程度満足させるものである。

つまり、至高者のような、下々の者たちには手の届かない高みにいる存在が、ほんの束の間、最下級の者たちに自分を現すだけで、下級の者たちにとっては、「神に等しい存在」である者が、自分たちに「存在を分かち与え」てくれた行為であるかのように、この上ない幸いとして受け止められる。

だが、現実には、何一つ、分かち与えられるものはなく、かえって奪い去られるだけである。慈悲という名目で、やんごとなき人々は、下級の者たちを救うどころか、より一層、辱める。「行くことかたきわれにかはりて」と詠まれた通り、貞明皇后が自ら直接ハンセン病者の世話をすることはなく、彼らの前に姿を現すこともない。患者に求められているのは、ただ「皇后が慈悲を示された」というフィクションの物語に感涙し、それを理由に、自分たちに対して行われている人権侵害を黙って受け入れ、耐え忍ことだけである。下賜金さえ、療養所の隔離政策を推進するために投入されたに過ぎず、ハンセン病者の自由のために用意された費用ではない。

これとほぼ同じ構図が、カトリックのヒエラルキーや、プロテスタントの牧師制度にも、見いだせるのである。もちろん、キリスト教以外の宗教も皆同じなのだが、伝道者らは常にハンセン病者よりも高いところに立って、彼らに慈悲を垂れる存在として、患者らのもとを訪れた。それらの宗教は、それぞれの人間の抱える弱さに、常に「救済」めいた解決案を示すことと引き換えに、信者となった者たちを、宗教指導者とのヒエラルキーに従属させ、かつ、信者が宗教団体のもとに来て、これに所属し、奉仕や献金をすることで仕えるよう奨励する側面を持っていた。

いわば、これらの宗教そのものが、大きく見れば、信者を俗世から「隔離」し、宗教団体の支配の道具として行くという側面を持っており、信者を人間を中心とする宗教的なヒエラルキーの中に束縛して行くちう性質を持つものなのである。そして、常にそのきっかけとして大いに利用されるのが、人間の抱える弱さや問題なのである。

キリスト教に入信する多くの信者たちは、この世で味わった何らかの挫折体験をきっかけに、己が罪を自覚し、それを克服する手立てを見つけようと教会を訪れる。しかし、教会の方では、彼らの弱さに耳を傾け、相談に乗り、助けの手を差し伸べるように見せかけながら、実際には、その悩み相談をきっかけに、信者となる人々から、「救い」を質に取る形で、その信者を宗教指導者を頂点とするヒエラルキーの中に組み込み、神に奉仕するという名目で、支配を受け入れさせた上、宗教団体の中に束縛し、「隔離」して行く。

はっきり言えば、キリスト教界であろうと、それ以外の宗教界であろうと、目に見える人間を宗教指導者として立て、信者がその者の教えに従い、宗教団体に帰依することで、人間が人間に「救済」を与えようとするすべての宗教には、本質的に、ハンセン病者の隔離政策に通じる残酷な支配と搾取、「隔離」の側面が含まれていると言えるのである。そうであるがゆえに、これらの宗教は、絶対隔離政策の誤りを見抜くこともできず、それを糾弾することができる立場にも初めからなかったと言えるのである。

当ブログではこれまで、ペンテコステ・カリスマ運動から出現して来たカルト被害者救済活動を例として、なぜこのような「弱者救済運動」が、偽りであると言えるのかを説明して来たが、つまるところ、この弱者救済活動の失敗も、国家神道がハンセン病者を「救済」という名目で隔離したのと同様に、「人間による人間の救済はすべて偽りである」という事実を表しているだけなのである。

うわべは「慈悲」や「同情」に基づいてなされる人間による人間の「救済事業」の究極的な目的は、決して人間を弱さから解放することにはなく、むしろ、弱さの中に永久に閉じ込めて支配することにこそある。それは「イゼベルの霊」のなせるわざであり、支配する者とされる者とのヒエラルキーの中に、弱さを抱える人間を永久に閉じ込める事を目的とする偽りの「救済」なのである。

人の弱みを足がかりにして、「救う側」と「救われる側」の差別が作り出され、その差別構造を固定化するために「慈悲」や「同情」という名目が用いられる。それをありがたいものとして受け入れれば、ターゲットとされた人間はどんどんディスカウントされて、その支配に抗う力を失って行くのである。

こうしたグノーシス主義的被造物崇拝と偽りのヒエラルキーのもたらす歪んだ差別と支配の構造が、ハンセン病者の絶対隔離政策には、究極の形で現れていただけであると、当ブログでは考えている。療養所の外に出れば、そこには自由な世界が広がっていたのかと言えば、全くそうではなかったのである。

療養所を訪れた宗教界の人々は、ただハンセン病に罹患していなかっただけで、宗教界にも、療養所と本質的にはそれほど変わらない風景が広がっていた。軍国主義時代の日本人の国民生活は自由でなく、宗教界の信者の生活も同じであった。人々は自分たちの弱みを宗教団体や社会に質に取られつつ、現人神のような誰かに生殺与奪の権を握られて、その者に仕えることで、自分を正当化し、何とかして自分の弱さを克服しようともがきながら、現実には、いつまで経ってもその弱さを克服できずに、支配と搾取の関係の中に閉じ込められ、隔離されていただけなのである。

さて、当ブログの本題に戻ろう。私たちは一体、どうすればこのようなグノーシス主義的な忌まわしい差別や支配と搾取の構造から逃れ出ることができるのであろうか? 

どうすればイエスが与えようとされた自由に人は至り着くことができるのであろうか?

そのためには、まずは目に見える宗教指導者に帰依することをやめることであろう。「やんごとなき人々」を探し出しては、彼らに自分の悩みや問題を打ち明け、他人に弱さを解決してもらおうと、彼らの「慈悲」や「同情」を乞うことをやめ、目に見える一切の教師たちを心の中から投げ捨てて、ただ目に見えない神だけに頼り、神にすべての重荷を負ってもらうことである。

イエスは地上におられた間、人々に同情の涙を注ぐことによって永久に人を弱さの中に閉じ込めようとはされなかった。むしろ、ご自分の復活の命を、信じる人たちに分け与えることにより、ご自身が救いとなって、その人を内側から解放されたのである。イエスは盲人の目を開き、足の不自由な人を立ち上がらせ、らい病患者を癒され、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)と言われた。

人間は被造物に助けを求めている限り、罪に罪を増し加えるだけで、決して解放されない。キリストだけが唯一の救い主であり、十字架を通して人を内側から解放する力を持っておられるのである。

あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。<略>まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」(ヨハネ4:21-23)

あなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要はありません。この油が万事について教えます。それは真理であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(Ⅰヨハネ2:26)

わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:31)

主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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