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我が愛する友よ!

私はキリストにあって、今、人知を超えた平安の中に住まわっています。どんなものもこの喜びを打ち破ることができないほどです。ただ喜びのうちに主の御業とご計画のはかりがたさを心から思うのです。

友よ、考えてもみて下さい、私たちがうわべだけでなく、真に我が身を切り裂いて福音を宣べ伝えるようになってから、どれほど世の栄光が過ぎ去って行ったでしょう。もしも主をこれほど真剣に信じ、求めなかったならば、もうちょっと「適当に」生きてさえいたならば、きっと私たちにはこの世での数々の成功と安楽なる人生が保証されていたに違いありません(私は実に将来を嘱望される若者でさえあったのです)。

けれども、世の栄誉は、私が偽りの人生を捨てて、キリストのまことの命を選び取ったとき、それとひきかえに全て過ぎ去りました。いいえ、今になっては、それらは私にとって失うという言葉さえふさわしくないほど、ふん土以下の価値しか持っていません。

友よ、我が身を通して御言葉を証し、十字架を語り、真理を追い求めるようになってから、私たちは絶えず罵られ、辱められています。御言葉と真理を証する者に対する世の敵対ぶりは、驚くほどに徹底しており、私たちが喜べば、それが嘲笑の的となり、悲しめば、それが非難の的になると言った具合で、私たちの行なったことの中で、世に受け入れられたものは何一つありません。主イエスがそうであられた通りに、鎖につながれて十字架を耐え忍べば、十字架から降りて自分を救えないのかと罵られ、自由の身として真理を語っている時には、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ!」(ヨハネ19:15)との怒号がわき起こり、私たちが福音を世に伝えるために払った犠牲は何も、私たちに栄誉をもたらしませんでした。

しかし、友よ、これこそが主の深い憐れみであり、私たちへの神の深いご計画なのです。「あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。」(ヘブル12:3)。私たちも、以前には彼らと全く同じような罪人であり、自分の行なっていることの意味が全く分かっていなかったのです、ですから、彼らを憎むことはできません、私たちよりも先に、罪人らの徹底的な反抗を忍ばれた方の忍耐と従順が、私たちのうちで力となってくれることを信じようではありませんか。

多くのクリスチャンは使徒職に就くことを自ら求めています。しかし、使徒職のために投げ打つべきものの大きさのことを考えていないのです。使徒が語ったのは次のことでした、「神はわたしたち使徒を死刑囚のように、最後に出場する者として引き出し、こうしてわたしたちは、全世界に、天使にも人々にも見せ物にされたのだ。わたしたちはキリストのゆえに愚かな者となり、あなたがたはキリストにあって賢い者となっている私たちは弱いが、あなたがたは強いあなたがたは尊ばれ、わたしたちは卑しめられている。」(Ⅰコリント4:9-10)

神の御前で真に栄光を受けたいならば、私たちは最も小さな者、最も仕える者とならなければならないことを考えてみるべきなのです。私たちはキリストにあって、真に兄弟姉妹に仕える者となることの意味を知らされるためにこそ、このように最も見栄えのしない者となり、最も弱い者とされ、最も愚かな者、嘲笑される者、誤解される者、最後尾に立つ者とされたのです。まるで最後に出場される死刑囚のように、福音のために閉じ込められ、絶えず死に渡されているのはそのためなのです。

友よ、正直に言うならば、当初、私にとって、この立場はとても苦しい、悲しいもののように思われました。世の無理解や無慈悲が我が身を切り裂くほどの悲しみに感じられました。そこにこそ主のご計画を全うする喜びがあることにはなかなか気づかなかったものです。ところが、今となっては、これこそが主の道であることが十分に理解できるようになって来たのです。主は言われました、「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。」(マタイ10:25)

パウロは続けてこう言っています、「今の今まで、わたしたちは飢え、かわき、裸にされ、打たれ、宿なしであり、苦労して自分の手で働いている。はずかしめられては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉をかけている。わたしたちは今に至るまで、この世のちりのように、人間のくずのようにされている。」(Ⅰコリント4:11-13)

キリストのゆえに低められることの幸いを理解するまでには、少し時間がかかります。義人ヨブが苦しみを受けたとき、それが何のためであるか理解できる人は周りに一人もおらず、まして、主イエスの十字架の苦しみについては、人々は勝手にこう思ったのです、「しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」(イザヤ53:4-5)

ああ、主のご計画のはかりがたさよ! それはこう書いてある通りなのです。「ああ深いかな、神の知恵と知識との富は。そのさばきは窮めがたく、その道は測りがたい。『だれが、主の心を知っていたか。だれが、主の計画にあずかったか。また、だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。」(ローマ11:33-35)

この箇所に注目しましょう、「だれが、まず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」 まず主に与える、それはどういうことなのでしょうか。それは私たちが自分の栄光を受けるより前に、栄光を失うこと、すなわち、主の懲らしめの御手の下にへりくだり、十字架に服する従順を学ぶことを言います。神の御手の下で徹底的に取り扱われることに同意し、我が身を祭壇に横たえ、全焼の聖なる供え物として自分自身を神に捧げることを言います。

以前にも書きましたが、もしもキリストの道にならうならば、主のご計画のはかりがたい深さを、私たちは必ず理解させられることになるでしょう。アベル(主イエス)を通して、カイン(この世)を救うことが神の御心であったのです。主は弟ヤコブを通して兄エサウを救われ、弟ヨセフがエジプトに売られたことにより、彼の兄たちは命を救われたのです。主はまず、「主に与えて、その報いを受ける」者たちを選び出されました。そしてその者たちの従順によって他の者が命を得るようにされたのです。

「…神の選びの計画が、わざによらず、召したかたによって行なわれるために、『兄は弟に仕えるであろう』と、彼女に仰せられたのである。『わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ』と書いてあるとおりである。…神はモーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。…だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者をかたくなになさるのである。」(ローマ9:11-18)

今日、キリスト者に求められていることは、私たち自身が裂かれて命を流し出す管となること、私たち自身がまさにアベルとなり、ヤコブとなり、ヨセフとなり、主イエスの道を通ることなのです。それは他の者が命に与るためです。福音を自らが栄光を受ける手段として利用するのではなく、福音のゆえに自らを仕える者として最も低くすることが求められているのです。最前線に立ちたいならば、最後尾に並ぶべきなのです! 強い者となりたいならば、弱くされるべきなのです! そうして、ご自分を裂かれ、十字架の死に至るまでも従順であられた主イエスにならうことなのです。愚かしい敵対のゆえに痛めつけられる時、世にあって低くされるとき、友と考えてより頼んでいた人々に裏切られるとき、主の御名のゆえに罵られ、傷つけられるとき、私たちはただ悲しみ、落胆するだけに終わるのでしょうか? それとも、罪人たちの反抗を耐え忍んだ方を思い、彼らのために飽くことなくとりなし、我らが死を通してどれほど多くの人々が豊かな命に与るかを見出し、収穫の時をじっと待ち望んですべてを耐え忍び、その報いを受けて、人々と共にキリストの命の供給を分かち合い、喜ぶ時を迎えるのでしょうか?

我が友なる人々よ、主の御前に低められることの、このはかりしれない喜びと幸福を、言葉ではとても説明することができません。人々が私たちの死のゆえに命に与ることの幸福を説明することはできません。それがなぜ私たちにとってこれほど大きな幸福であるのか、説明することができません。しかし、主は御子を十字架にかけるために世に遣わされたほどに世を愛されたのです。ですから、罪人たちへのはかりしれない神の愛を、神が私たちのうちに全うさせて下さることを願います。そうして、主イエスが世を救うためにその御身体を投げ出されたように、私たちも自分自身を裂かれた聖なる供え物として神に捧げ、それにより、神の愛が私たちのうちに全うされて、多くの人々に命をもたらすようになることを願うのです。

このような文脈でとらえるならば、殉教は今までと全く違った角度から見えて来るでしょう。主のへりくだりにあずかることには、永遠につながる報いが伴いますが、それはただ私たち自身が義とされ、キリストに似た、聖なる者として全うされるためだけではなく、他の人々が豊かな命の供給にあずかるためなのです。私たちだけが個人的に信仰の偉人のようになることを神は決して願っておられず、むしろ、私たちが裂かれることにより、主は私たちを貫いて命を流し出す管(高速道路)を作ることができ、それによって御身体全体が富む者とされることを神は願っておられるのだと信じて疑いません。

ですから我が友よ、この世において神によって低められ、命を流し出す管とされた者たちは、来るべき世では大いなる幸いな者と呼ばれることでしょう。とにかく、これほどまでに主イエスの道に歩むことを求められるその光栄な召しの前に、何をか恐れることがあるのでしょう? 鎖が何の意味を持ちましょう? 「この福音のために、わたしは悪者のように苦しめられ、ついに鎖につながれるに至った。しかし、神の言はつながれてはいない。」(Ⅱテモテ2:9) そうです、私たちはつながれていても、福音はつながれていないのです! 

私たちがどれほど欠けだらけの、不真実で、脆く、みすぼらしい土の器であろうとも、あらゆる点で、「神の真実が、わたしの偽りによりいっそう明らかにされて、神の栄光となる」(ローマ3:7)ために私たちは召されたのですから、自らの不真実のゆえに恐れる必要はないのです。何のために私たちは絶えず追いつめられ、絶えず窮乏し、絶えず迫害され、絶えず弱さを知らされているのでしょう? 「その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」(Ⅱコリント4:7) 

ハレルヤ! これが私たちの種まきです。これは涙の多い仕事ですから、当初は喜ばしい仕事には思われないでしょう。しばしば自分の限界につまずき、神の大能の御力を信じることさえ不可能に思われる時があるでしょう。けれども、涙を持って種まく者が、どれほどの豊かな収穫の喜びに与るときが来るかを私は痛切に思い知らされており、不信は打ち砕かれて消えゆき、むしろ、キリストの絶大な命の供給の中で、人知を超えた喜びに、私たちも他の人々と共にすでにあずかっている事実を見出すのです。

ですから、友よ、私は大胆に言います、兄弟姉妹が富む者とされるなら、私たちはこの先、喜んで貧しさに耐えましょう。彼らが命に与るためならば、喜んで私たちは死に与り、塵と灰に伏しましょう! 彼らが栄誉を受けるならば、私は喜んで罵られましょう。彼らが鎖につながれないために、私たちは喜んで鎖につながれましょう!

すべての労苦は無駄ではなかったのです! 主の御名のゆえに傷つけられ、苦しめられ、辱められることに、何ひとつ無駄はありません! 私たちが日々の十字架を負い、御名のゆえに死に渡されることに同意する時(主がそれを成し遂げて下さいます)、この死が主の死と一つになり、主の死を通して、他の者のうちに多くの命の実が結ばれるのです。これが人知を超えた御国の拡大の法則性であり、私たちが福音を運んでいるのはそのためなのです。
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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