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「こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。」(Ⅱコリント4:12)

我が友よ!

私たちが本当に神の祭司にふさわしい者とされるためには、全ての民が川を渡り終えるまで、ヨルダン川の川底に立って、最後まで契約の箱をかつぐ者とならなければならない、ということを以前に読みました。私たちではなく、他のクリスチャンがキリストにあって富む者とされるために、私たちは最後まで川底で死を耐え忍ぶ者とならなければならない、ということを読んだのです。その意味がようやく頭でなく、身体で分かりかけて来たような気がしますよ。

話が急に変わると思われるかも知れませんが、長い失業状態の後に再び職を得たとき、私にどんな欲求が生じたと思いますか? 実は、「生きたい!」という焼けつくような望みがこみ上げてきたのです。失業状態にある人には、まるで社会参加の機会はないかのようです、日々色々な心配に心塞がれているために、交友関係ですらそれほど気晴らしになりません。失業状態というのは、まるで生きる望みそのものを絶たれているかのような圧迫なのです。

ところが、そんな孤独な状態を抜け出し、急に大勢の人々の中に入れられ、生き生きとした活動が目の前に展開されるのを見るとき、まるでずっと飢えていた人が突然、目の前に食物を見せられた時のように、その活動をただちに我が手に握りしめたいという欲求がこみ上げて来るのです。目の前にある魅力的な人脈を掴み、それを我が物として何かしらの将来につなげ、目の前にある活動を掴んで、そこに生きがいを見出し、社会の中に居場所を占めて、「何者か」になれるかも知れないという期待が無意識に動き出すのです。そしてもう少しのところで、前後の見境もなく、私はそのパンのように見える石に飛びつき、それを握りしめようとするのです。

けれども、主が荒野で石をパンに変える奇蹟をきっぱり偽りとして退けられたように、活動の機会を奪われていた人が、目の前にある活動を掴んで早急に自己実現したいという焼けつくような望みも、しばらくすると、はかない偽りとして過ぎ去って行くのです。私は、仕事が自己実現の手段でないどころか、一種の閉じ込めであり、死であることを見出すのです。そして、この重い漬物石のような閉じ込めの下で、人として何者かになろうとか、何かを築き上げようとかいった欲求が、日々、死んでいくのを見るのです。

これはあきらめとか、消極性とかのことを言っているのではありません。もちろん、一生懸命、誠実に仕事をしますよ。それによって日々の糧を得、満足も得るのです。さらに評価もされます。にも関わらず、それは決して私の自己実現の手段ではないということを知らされるのです。主がそれを望んでおられないことが分かるのです。

同じことが家庭についても言えます。多くの人が幸せな家庭を築き、そこで何者かになっているのを私は見ます。何と家庭は人にとって栄光を与えることでしょう! そこで主に問うのです、主よ、彼らには、家庭において自己実現することが許されているのに、どうして私は未だに何者にもしていただけないのでしょうか?と。

同じことが福音を宣べ伝えることについても言えるのです。多くの人がメッセージを語ったり、自分の集会を開くことによって、人から尊敬を受け、栄光を受けて、やはり何者かになっているのを私は見ます。そこで、私は主に問うのです、あの人たちには福音を用いて、人から尊敬を受けることが許されているのに、どうして私が証をするときには、私はますます無価値なとされて、絶えざる痛みを身に負わなければならないのでしょうか?

しかし、これら全ての局面において、本当に死の中にとどまるということが何を意味しているのか分かり始めるとき、この閉じ込めをかえって喜ばしいものとして、主の御手から黙って受け取ろうとする心が生まれるのです。むしろ、肉における欲求がその閉じ込めの下でことごとく死んでいくのに同意さえできるようになるのです。ああ、それは、まだ時でないのに、イシマエルを生もうとする肉の努力でした! それは人の目には実にもっともらしい主張に聞こえ、実に当然の権利にさえ見えるでしょうが、それでも、イサクではないのです!

こうして私は華やかな活動の場を離れて、主と二人きりで向かい合うのです。それは決して、厭世的になるとか、内省にふけるとか、活動そのものをやめるということではなくて、私は依然として世にあって活動し、日々、手ずから働いて生きているのですが、もはや心が活動に奪われなくなるのです。活動によって何かを掴みたいとか、自己実現しようとかいうあの欲求、自分も他の人たちのように何者かになりたかったというあの焼けつくような欲求が死に絶えることに同意するのです。

そして、私はただ主と二人きりになって、主は私の心のすべてを知っておられるという確信の中に安息するのです。時に、はらはらと涙をこぼして言わなければならないかも知れませんが、それでも、主がイサクをお与えになるまでは、何も欲しくないと申し上げるのです。他の人々がたとえ私の死骸を踏み超えて先へと歩いて行こうとも、もはや気になりません。むしろ、「後の者が先に」なって構わないのです。私の心は黙って言います、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」。

友よ、主が出なさいと言う時が来るまで、私たちは永久にでも、ヨルダン川の底にとどまっていましょうね…。死が私たちに働くとき、いのちは私たちの存在そのものを通して、他の人々に及んでいくのです。


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【amen】
自分の環境と、その苦しみからなんとか逃れたいと願う日々を送っています。あらためて、この記事を読んで、今、魂の騒ぎが静まることを感じています。主に感謝します。

主の重い御手に服すること、死の中に留まることを、頭で理解するだけでは、体と魂の、生きようとする衝動を抑えることが出来ないことを、痛感しています。十字架の痛みを逃れようと、無意識のうちに、叫んでみたり、体をくねらせたりしてしまうのです。

しかし、主は、痛みを麻痺させるぶどう酒をなめただけで、受けられはしませんでした。我々もそうあるべきだと思います。死の杯を、主が与えようとする分すべて、彼の御手から受け取らなくてはなりません。

友よ、あなたも、御国のために、主の苦難をその身に負うておられる。その存在に感謝します。主が、かの日、豊かに報いてくださるように。王国が、もたらされますように。
【Re:amen】
Sasukeさん

コメント感謝します。地震後、ご無事でいらっしゃることが分かり、何より安心しました。今多くのご苦労を負っておられるSasukeさんの上に、主の豊かな慰めと励ましと力づけがありますように!

どうか主が上よりの知恵を賜り、Sasukeさんが今直面しておられる状況を主の喜ばれる方法で乗り越えられますように! そうしてただ主に栄光が帰されますように!

>主の重い御手に服すること、死の中に留まることを、頭で理解するだけでは、体と魂の、生きようとする衝動を抑えることが出来ないことを、痛感しています。十字架の痛みを逃れようと、無意識のうちに、叫んでみたり…、

そうですね、全く私も同じことを経験しています。一見すると誰も非難できないような「善良そうな」願いが、どれほど主に逆らう願望となって現われるか、そういったことを数ヶ月かかって学ばされているところです…。

なぜ主イエスが、「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われたのか、その意味が分かるまでには、私には学習が必要でした(もちろん生きている限り学習ですがね!)

たとえば、自分の努力で十字架を「負おう」としてみたり、それに抵抗している間は、何が「軽い」のか、その意味は全く分かりませんが、Sasukeさんの書いておられる通り、自分が負うのではなく、主が負ってくださるからこそ、軽いのですね。

今日、サウル王に命を狙われてダビデが逃げている頃の箇所を読みました。それを通して、主がご自分の愛される者にあえてさまざまな危機を通らせ、それによって僕をどれほど砕かれるかを思いました。主の恵みのゆえに、手の業すべてが栄えたダビデも、それゆえに強い妬みを買い、王に命を狙われるようになると、最初はサウルをどれほど恐れて逃げ惑ったことか…。主が与えられる栄光には、必ず、試練も伴うようです。

ダビデはもともと貧しい出身の一介の若者、王に命を狙われては、生きる道は絶たれたように思われたでしょう。(その恐れは人として当然です。)けれども、王の迫害さえも、主の御手の中にあることが分かり始めると、命を狙われる脅威に対し、彼は恐れなく立ち向かうようになり、勇敢に毅然とサウルの前に立つようになります。しかも自分の命を最優先して守ろうという態度ではなく、やがて、状況そのものを信頼して主にお任せし、我が身の安全よりも主の御旨を求めるようになります。

その時、主が誰を選んで味方しておられるのかが公然と人前で明らかにされました。しかしその時のダビデは、もはや自分一個の身の安全が確保されたことを喜ぶのではなく、むしろ、イスラエルを代表して、王が失われ主の民が損失を受けたことを嘆くダビデになっていました。

私たちが十字架のもとで砕かれる時は、このように、ただ自分の権益だけを最優先して守ろうとする「一介の個人」であることをやめ、「主の権益」を守るために、民を代表して戦う国境警備兵として召されている時だと思います。自分の幸せを何が何でも最優先する態度では、警備兵として戦うことは決してできないのです。主の権益を確保する戦いは、私たち一個人の権益の死の向こう側にあるからです。しかし、このことを知るには学習が必要であり、主の憐れみによって砕かれる必要があるのです…。

>友よ、あなたも、御国のために、主の苦難をその身に負うておられる。その存在に感謝します。主が、かの日、豊かに報いてくださるように。王国が、もたらされますように。

感謝します。私たち一人ひとりが主に従う上で受けた苦難と、その中で持ち続けた信仰には、主が必ず豊かに報いて下さることを信じています。どうか神がお住まいになる民にふさわしく、私たちが練られ、御国のために真に実を結ぶ者となりますように! どうか主が私たちを訓練して下さると共に必要な慰めと平安をも、随時、与えて下さいますように!

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネ12:24)

「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイ6:33)

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:29-30)
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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