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・韓国キリスト教(ペンテコステ運動)のシャーマニズム化の危険

ところで、以前に天声教会のことに触れたので、ここで少しばかり、韓国のキリスト教、中でも韓国キリスト教の中で特に勢力を伸ばしている韓国のペンテコステ運動の独特の特徴について補足しておきたい。韓国のペンテコステ運動には、日本とは異なる独特の歴史と形態がある。それは韓国という国が辿って来た歴史とも無関係ではないと思うが、韓国キリスト教(以下、主として全てペンテコステ運動を指す)には、必ずしも日本のクリスチャンにとって(世界のクリスチャンにとって)決して好ましいものではない異教からの影響が強く見られると筆者はみなしている。

ペンテコステ運動については、日本、韓国を問わず、異端であると筆者はみなしていることはすでに述べたが、中でもとりわけ、韓国におけるペンテコステ運動には、シャーマニズムの強い影響を受けていることが様々な指摘から読み取れる。

掲載元のPDFを見つけることができなかったので、別サイトに転載された内容を引用するが、たとえば、渕上恭子著「韓国のペンテコスタリズムにおける『祈禱院運動』の展開―キリスト教土着化論の考察―」(南山大学南山宗教文化研究所懇話会、2010年10月)という興味深い考察においては、韓国のキリスト教におけるリバイバルの発生時期と異端の発生との関連性、また、韓国キリスト教の興味深い成り立ちが説明されている。
 

韓国・朝鮮のキリスト教史において、1907 年の大復興會運動に始まって、国家が危機に瀕し大きな社会変動に直面する時、熱烈なリバイバルが沸き起こってきたが、これらのリバイバル運動と連動しながら、キリスト教史の節目節目で種々の「祈禱院運動」が現出してきた。民族の危機にあって、宣教奇蹟と謳われる韓国キリスト教の急成長を牽引してきた大復興會運動と、「祈禱院運動」を担った異端キリスト教や新興宗教、さらにはシャーマニズム化したキリスト教が、各々の信仰形態を流入させ合って、今日の韓国キリスト教の基本的性格を形作ってきたと考えられる。


引用は最小限にとどめるので、詳しくはご自分で本文を読んでいただきたいのだが、この考察から分かるのは、韓国キリスト教界においては複数回の「リバイバル」が起きた時期があること、そのリバイバル発生時期は、大体、国家が存亡の危機に脅かされた時期に重なっていたこと、また、そうした「リバイバル」の発生の陰には、初期の異端である「祈祷院運動」などのような疑似キリスト教的な神秘主義的な異端の発生が常につきまとっていたという事実である。

何より興味深いのは、「国が存亡の危機にある」という危機感が、韓国の「リバイバル」の発生の土台となったという指摘である。なぜなら、「自己が脅かされている」という危機感は、これまで当ブログで述べて来たように、グノーシス主義の発生にはうってつけの土壌だからである。

おそらくは全世界で「リバイバル」の発生時期と神秘主義的な異端の発生は常に並行しており、両者の境界は極めて見分けがたいのではないかと思う。上記の考察からも分かるのは、韓国でも、リバイバルが起きると同時に、神秘主義異端の様々な潮流も隆盛を極めたという事実であり、さらに、韓国におけるペンテコステ運動は、初めから正統な教義と異端の二つが見分けがたく混合し、さらにそこにシャーマニズムなどの土着の民間信仰の影響も合わさって、キリスト教と非キリスト教的な要素が混合して生まれたものであり、韓国キリスト教はこの独特の成立過程のために混合の性質を否定することができないものとなっているということである。

なお、上記の考察以外にも、今日の韓国キリスト教の基本的性格が、シャーマニズムに大きく影響を受けており、非キリスト教的民間信仰と切り離せない関係にあることは、他の場所でも指摘されている。

韓国キリスト教には、早天祈祷などの「祈祷」を特別に重んじる習慣がある。彼らの「祈祷」への熱中は、日本人の常識を超えるものであり、特に、韓国人のペンテコステ運動の信者は、祈りを通して聖霊と交わることにより、自分に超自然的な能力が付与されるとみなし、熱心さの表れとして、文字通り、朝から晩まで祈祷に没頭し、現実生活が送れなくなっているほどである。

しかしながら、こうした異常とも見える熱烈すぎる「祈祷」の習慣も、もとを辿れば、特に早天祈祷などは、非キリスト教的な他宗教の習慣に由来するものであるという。

以上の考察によると、韓国キリスト教の早天祈祷の習慣は、韓国最初のリバイバルの立役者である吉善宙牧師(Kil,Sun-Ju:1869~1935)が、キリスト教徒になる前に入信していた朝鮮民族伝来の神仙思想である仙教の習慣を取り入れて始まったものだという。
 

その際、吉善宙が仙教に帰依していた時分に、仙門では降神の時間とされている夜明けに祈禱をしていた習慣が、キリスト教徒となった後までも引き継がれたことにより、朝鮮のキリスト教で早天祈禱が行われるようになったのである。このようにして、古代朝鮮の仙教で降神の方法として行われていた早天祈禱が、吉善宙牧師の宗教遍歴を介して、韓国キリスト教に入り込んでくることとなった。


このように、今日の韓国キリスト教のあり方には、儀式的な側面においても、他宗教の影響が見られ、さらに、韓国キリスト教の根本には、シャーマニズムが欠かせない要素として存在することが様々な場所で指摘されている。たとえば、<随筆>◇韓国文化のシャーマニズムパワー◇ 広島大学 崔 吉城 名誉教授(東洋経済日報 2009/11/13)から抜粋する。
 

私は学校で教育を受けるにつれてシャーマニズムを遠く避けるようになり、批判的になった。そしてクリスチャンになった。多くのキリスト教会はシャーマニズムを迷信として扱った。しかし、シャーマニズムは消滅するものではなく、キリスト教会の核心部分において信仰として生き残っていることが分かった。多くのキリスト教会が土着化する中でシャーマニズム化する現象が起きているのである。教会の中で病気治療のための祈りなどはシャーマニズムと変わりがない。


この著者は幼い頃からシャーマニズムに接し、その後、シャーマニズムを離れてクリスチャンになったが、韓国のキリスト教を振り返ると、まさに韓国キリスト教のシャーマニズム化が起きているとしか言えないと結論づけるのである。

さらに、「キリスト教受容における韓日の比較 (A comparative Viewon the Reception of Christianity in Japan and Korea)」(朴 正義(Park Jung-Wei) 圓光大学校 師範大学 日本教育学科副教授 日本語教育学科長)では、韓国の土着の信仰であるシャーマニズムの世界観が、韓国人のキリスト教の受容と理解にある程度、役立ったことを肯定的に評価しつつも、シャーマニズムは韓国キリスト教の信仰生活のあり方に必ずしも良いとは言えない大きな影響を及ぼしている事実を指摘する。
 

四、韓国におけるキリスト教とシャーマニズム

 キリスト教、特に改新教の韓国伝来期において、衰退した仏教・儒教はキリスト教に対抗する力はなく、唯一対抗する力をもっていたのは巫俗信仰シャーマニズムだけです。すでにお話いたしましたように、巫俗信仰は、韓国民衆の中に深く根を下ろした民衆の現世利益をかなえる唯一の宗教といえます。しかし、この巫俗信仰が意外にも、韓国民衆のキリスト教理解に大きな役割を果たしたのです。<中略>

 シャーマニズムは本来汎神論ではありますが、しかし全体の霊界を支配する最高神が存在するという観念をもっています。韓国において古くから〔ハン〕という語がありますが、これは天を意味する語で、また唯一とか偉大という意味も含んでいます。このハンに韓国語の人格的な尊称であるニム(様)を付け、つまりハンニムとなりますが、これは天の神様とか唯一神または偉大な神の意味です。さらに、このハンニムの音を分けハヌニム・ハナニムと呼んでいます。いずれにせよ宇宙を支配する最高神で、この神が雨を降らし収穫を左右する神と信じられており。祈雨祭を捧げる対象の神となっています。韓国において、儒教と仏教がともにこの神の存在を認めております。

  そして、これは全知全能でこの宇宙の支配者であるキリスト教の唯一神を容易に理解させる助けとなっており、さらに、キリスト教は天主の意味としてこの名称(ハナニム)を使用することによって、キリスト教の神に対する民衆の違和感を取り除いています。最近ではハナニムがハヌニムと区別され、キリスト教の独占物のように使われていますが、元来は韓国シャーマニズムの最高神の名称です。また、シャーマニズムがもっていた雑霊邪鬼とこれとは区別されるハナニムの存在は、キリスト教の神と天使・サタンの世界の理解を早めるのにも役立っています。


このように、シャーマニズムの世界観が土台となって、韓国民衆のキリスト教への理解と受容が促進されて来たのは事実であろう。だが、以下の引用にあるように、韓国教会とシャーマニズムとの接近はそれだけにとどまらず、教会は自ら積極的にシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきた事実があるという。著者はシャーマニズムとの接近の結果として、「韓国キリスト教のシャーマニズム化」が起きたこと、つまり、現在の韓国のキリスト教自体がシャーマニズムに大きな影響を受けて成立していることを認めている。

見ようによっては、こうした事実はクリスチャンにとって極めて危険なものである。なぜなら、たとえ世界観が似ていたとしても、シャーマニズムを導く「霊」は、聖書における神の聖霊とは全く別の霊に由来することが明らかだからである。そこで、キリスト教とシャーマニズムの混合が、キリスト教に良い影響を及ぼすことはまずありえない。韓国キリスト教には何かの異変が起きていると考えるのが妥当であろう。

しかしながら、以下に見るように、ここで「シャーマニズム化」と呼ばれている現象は、具体的には、信者が自己の魂の平静さを失って、一種の「神がかり状態」のような熱狂と狂乱に陥った状態で祈祷を捧げるなど、今日の世界各国におけるペンテコステ運動が異常だと非難されている点とさほど変わらない。特に、そのような祈祷を現世利益を求めて行うことが、韓国シャーマニズムの特徴であるのだと著者は言う。
 

 また、韓国教会の祈祷会に、特に世界で初めて韓国で聞かれたとされている早朝祈祷会に参加すれば、信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景にでくわします。そして、祈りの言葉のほとんどが、現世利益を追求するものです。これは、日本の教会で見られるような静かな祈りの光景とは全く異質のもので、同じ宗教とは思いがたいものがあります。韓国キリスト教は、自らのシャーマニズム性を否定しますが、「韓国のキリスト教は、厳密な意味においてシャーマニズムと対決し精算しなければならない問題点が多い」と、キリスト教者自らが言わざるを得ないように、韓国キリスト教のシャーマニズム化は否定できないでしょう。
  以上のように、韓国人の原宗教的要素であるシャーマニズムは、韓国人がキリスト教を受け入れるにおいて、障害とならずむしろキリスト教理解の助けとなっており、そして、キリスト教はシャーマニズムを取り入れることによって韓国人の共感を呼びおこし発展してきたと言えます。

今日、日本に存在する韓国系の教会でも、このような「信者たちが一種の陶酔状態の中で個人個人が大声で自己の救いを求めている光景」は見られる。むろん、それは必ずしも韓国キリスト教だけの特徴とは言えず、ペンテコステ運動自体に共通する特徴だと言えるのだが、それでも、韓国のペンテコステ運動には、世界のペンテコステ運動と比べても、とりわけ現実逃避的な性格が強い様子が見受けられると筆者は考えている。

なぜなら、キリスト教における常識的な見解においては、信者はすでに聖書の信仰に立って自己の救いを得ているわけだから、改めて自分の救いのために祈る必要はない。信者が様々な困難に直面する時などを含め、日々、信者は神に具体的な助けを求め、信仰生活において祈りることが必要であるとはいえ、その祈りは、必ずしも、教会の礼拝堂や、祈祷院にこもってしかなされ得ないものではなく、日常生活の様々な場面で、信者は様々な用事をこなしながら、心の内で自ら神に祈ることはできる。さらに、祈りと同じほど重要なのは、信者が家庭や、社会において、信仰を態度で表しながら具代的に行動して生きることである。

ところが、信者が自分がすでに得た信仰的事実に基づいて実際に行動することよりも、「大声で自己の救いを求めて」教会や祈祷院にこもって祈り続けることを優先する韓国クリスチャンの姿には、信仰に基づいた現実的な行動よりも、ただ祈りを通して、すべてを神に解決してもらいたいという受け身の姿勢、あるいは、祈っているうちに何か超自然的な現象が起きて、自分が直面していた問題が劇的に消失してほしいとでも言うかのような、他力本願で現実逃避的な願望が非常に強く表れているように筆者には見受けられる。

このような韓国ペンテコステ・キリスト教徒のあまりにも熱心かつ長時間に渡る祈祷への没頭には、韓国人信者たちを現実生活から引き離そうとする何かしらの良くない願望が表れているように筆者には思われてならない。このような祈祷に没頭し続けている限り、信者は家庭や社会から引き離され、クリスチャン以外の人々の間で信仰を表明する機会を失い、現実の諸問題に自ら向き合いながら、現実を力強く生きて行くことはできなくなるであろう。しかも、その祈りの内容が、現世利益を求めるものであれば、なおさらのこと、自己中心な内容のために、祈祷は社会との広い接点を失い、ますます内向きになる結果になりかねない。

日本における韓国系のキリスト教会では、実際に、早天祈祷会から、夜の断食祈祷会などまで、朝から晩まで祈祷が行われているわけであるが、そのように信者が家庭や社会で現実生活を送ることを妨げるほどまでに祈祷に熱中することは、果たして正常と言えるのであろうか、現実逃避でないと言えるのかどうか、筆者は深く疑問に思う。さらに、その祈祷が、「キリスト教のシャーマニズム化」と評されるのであれば、そもそも何の霊と交信しているのか分からない祈祷の効果は薄いというよりも危険ではないかと思われる。
 
このように、韓国キリスト教は、その成立過程で、シャーマニズムや他宗教や異端思想の影響を強く受けているという複雑な事情を持ち、そうした歴史ゆえに韓国キリスト教と異教との境界線は極めて分かりにくいものとなっている。

だから、このような韓国ペンテコステ運動を導く霊が何であるのか、それについては警戒が十分に必要であると思う。これまで筆者は、ペンテコステ運動がグノーシス主義的・東洋思想における母性崇拝の霊を基調とする疑似キリスト教であることを指摘して来たが、この異教的な基礎は、原始宗教であるシャーマニズムにも通じるところがあるかも知れない。

特に、シャーマニズムには、巫女(女性だけでなく男性も)のように、霊媒のような存在が必要とされる。人々は特別な力を持つシャーマンを通してお告げを聞いたり、厄除けをしてもらう。そのような「霊を受ける器」としての霊媒の存在は、ペンテコステ運動におけるカリスマ指導者の役割にも非常によく似ていることを思わせる。

「牧師」という名で呼ばれるために疑いが生じにくくなっているだけで、特別に神の霊を受けたとして超自然的な力を誇示したり、神がかり状態となって理解できない言語を話し続けたり、預言と称して正体不明の霊のお告げを語るペンテコステ運動の指導者は、本質的にはシャーマニズムと同じ霊媒師なのだと考えるのが適切ではないかと筆者は考える。
 
韓国キリスト教に限らず、ペンテコステ運動の基礎は、原始宗教を含めた異教的な信仰にあり、ペンテコステ運動そのものがキリスト教に仮装したシャーマニズムだとさえ言えるかも知れない。

少なくとも、韓国キリスト教が明らかにシャーマニズム化しているという危険な特徴や指摘を見落として、信徒が教会行事を全て正しいものと考えて没頭していれば、おそらく、その信者は現実における家庭や社会での生活からますます遠く引き離され、ありもしない夢のようなお告げや祈祷に熱中し、現実感覚を見失って行くだけであろう。

ペンテコステ運動は、それ自体が、悪い意味での宗教的「阿片」であり、目くらましのための、まやかしの信仰である、と筆者は考えている。この運動に接触した信者は、現実生活に起きる諸問題に勇気を持って直面しながら、これを解決して行く力を失い、むしろ、自分を哀れんで現実のあらゆる問題から逃げ出し、神に他力本願でな期待を託すという受け身の生き方に転じる。このような現実逃避運動にどれほど没入してみたところで、その信者は、人生の貴重な時間を失って、ますます人格が弱くなるだけで、現実の諸問題に立ち上かう知恵と勇気を得ることはないであろう。
 

・女性を男性の「被害者」とみなすことで、男女の秩序を覆そうとするペンテコステ運動の異常性――天声教会のメッセージから

さて、このような韓国キリスト教の独特の成り立ちと性質を踏まえれば、こうした教会のどこに警戒すべき危険があるのかも理解できるだろう。筆者がKFCの姉妹教会である天声教会のあり方について深刻な危惧を覚え、いくつかの記事を記したのも、こうした事情があるためである。

天声教会においては、教育訓練の欠如したパスタ―が講壇に立って信徒を教え、教会を拠点に信徒の結婚生活を侵害するようなあるまじき生活を送っているという問題があることを指摘したが、それに加えて、同教会には、祈祷への現実逃避的な熱中を含め、韓国ペンテコステ運動につきものの、およそ正常とは考えられない様々な危険な特徴が見受けられる。

天声教会のメッセージの主題を見ただけでも、同教会のメッセージ内容はペンテコステ運動のすべての危険な特徴を踏襲していることがよく分かる、すなわち、➀地上的な豊かさを求めるご利益信仰に信者の関心を引きつける手法、②悪霊との目に見えない戦いを極度に強調することで、信徒の心に恐怖と疑心暗鬼を植えつけ、教会指導者への忠誠を要求する手法、さらに、KFCにも共通して見られたように③荒廃と破滅の預言によって、教会の外の世界は荒廃と衰退の一途を辿り、教会しか安全地帯はないと信徒に思わせることで、教会に囲い込んで行く手法、④信徒の心に罪悪感と被害者意識を植えつけることで支配の手がかりとする手法、などがある。いくつか目についたタイトルを挙げておく。

大地が喜んで実りを結ばせるために(創世記1:24-31) 主日礼拝2部 2016年11月20日(Sun)
ダビデに仕えた勇士たち - 登録された三十勇士と除外されたヨアブ(2サムエル記23:18-39) 2サムエル記講解説教 2015年11月19日
悪しき者に占拠された都の中で働く御国のスパイ達(2サムエル記15:24-37) 2015年9月21日
「サタン 偽りの言葉巧みな二等兵(ルカ10章17-20節)」 主日礼拝2部 2015年10月18日
イゼベルを為すがままにするなかれ(黙示録2:18-29) 金曜徹夜祈祷会 2016年9月2日(Fri)
世界の荒廃の預言 - 全ての人は等しくなり格差は破壊される(イザヤ24:1-13) 이사야 강 해설교 イザヤ書講解説教 2015年11月18日

➀は繰り返される年中行事のようであるが、「大地が実りを結ばせる」という用語そのものに、キリスト教ではない異教的な要素を強く感じざるを得ない。なぜなら、キリスト教においては、実りをもたらす方は神しかおられないが、世界各国の様々な国では、大地を「母なるもの」として賛美し、大地そのものが豊穣をもたらす源であるという異教的な考えが強く残っており、豊穣を祈願して「母なる神」に様々な供物が捧げられるためである。

②では、神と悪魔との戦い、悪霊との戦いなどが強調されているが、ペンテコステ運動が常にそうであるように、こうした「霊の戦い」は終始、拡大解釈がいくらでも可能なほのめかしによって語られ、具体的に説明されない。指導者が「悪霊」や「サタン」という言葉を用いて一体、何を糾弾しようとしているのか、現実的にどのような危険を指して信徒に警告しているのか、聖書の例話が比喩として語られるだけで、具体的に説明がされない。そこで、こうした漠然とした形で霊の戦いについて聞かされた信徒の間では、恐怖が募り、疑心暗鬼が蔓延し、結果として、教会指導者に従わない信徒を互いに悪霊扱いし始めたり、自分自身が「悪霊」として非難されないために、より一層、教会指導者に尽くそうなどと考えるのである。

このように、すでに救われて教会を訪れたはずの信徒を改めて「敵・味方」に分類し、仲間を疑わせ、神への愛からではなく、敵とみなされて排斥されたくない恐怖心から、信徒がより一層指導部への忠誠を誓うよう仕向ける方法は、カルトの常套手段である。かつては我が国で「非国民」という言葉を使うことによって、国民を「敵・味方」に二分し、国の指導に従わない国民を事実上、悪魔扱いして排除していたのである。

彼らがこうしてしきりに「スパイ」や「悪霊」などを引き合いに出し、敵に脅かされているかのような印象や、疑心暗鬼を信徒に植えつけるのは、指導者自身を疑わせないためである。実際には、このように、人々の心に恐怖を煽る二項対立を持ち出して、信徒を敵味方に分類し、信徒を見えない神ではなく、目に見える人間の指導者の判断に従わせて行こうとする方法こそ、悪霊に由来するものである。すでに述べた通り、天声教会が追放しなければならない「イゼベルの霊」も、既婚者でありながら教会指導者と教会を拠点に共同生活を送り、教会全体を思うがままに操るような信徒を指すのであって、そのような信徒に牛耳られている教会のあり方に危機感を覚え、外から異議を唱える信徒たちを指すのではない。

にも関わらず、こうしたメッセージでは、すべてがさかさまにされ、自分たち教会は「聖なる者」とされて絶対化される一方、自分たちの信仰生活のあり方を疑ったり、批判する者はみな「悪魔」扱いされる。このような極度に単純化された図式に逃げ込むことで、自分たちへのいかなる批判にも耳を塞いで、ただ教会だけを安全地帯としてそこへ引きこもることで現実逃避をはかるという完全な錯誤が成立しているのである。

さらに注目すべきことは、天声教会が、聞く者(特に男性)の心に罪悪感や、自己嫌悪感を呼び起こすようなメッセージを語り、聖書において神に従った人物のイメージを極度に歪め、女性の被害者意識を煽るようなセンセーショナルなタイトルをメッセージに使っている点である。

一度に強姦加害者の親、強姦被害者の親となってしまったダビデ(2サムエル記13:7-19) 2サムエル記講解説教  2015年9月3日

通常のキリスト教会では、どんな牧師も自分のメッセージにこんな題名をつけることはしない。そんなことをすれば良識を疑われるだけである。通常の教会においては、ダビデの罪が語られる時には、必ず、それと並行して神の赦しが語られる。ダビデは大きな罪を犯したが、その罪は、神の御前にはすでに赦されている。ダビデはこの失敗のために、人生において厳しい刈り取りをし、苦しみを受け、神はそのことをご存知で、もはやダビデを責めてはおられない。

だから、ダビデの失敗を通して、今日、クリスチャンの目に明らかになっているのは、人間の罪の深さと、それに対する神の憐れみの深さであり、人はたとえ思わぬ罪を犯しても、ダビデのように悔いることさえできれば、神に立ち返る道は常に開かれているという事実である。

イエス・キリストが、ダビデとバテシェバの子孫から生まれたという系図を見るだけでも、二人の関係が、最終的には、神に受け入れられたことが分かる。ダビデはバテシェバを愛し、二人の子孫の系譜はキリストの誕生へと続く。それを考えると、バテシェバの人生は単なる不幸な被害者や、悲劇の主人公として終わらなかったことが分かる。人間が罪を犯すことは、あるべきでないとはいえ、この出来事にも神の深い配材があり、ダビデの過ちも、最終的には神のご計画を妨げるものとはならなかったのである。

しかしながら、上記のメッセージはあまりにも歪曲に満ちており、こうした深い文脈で物事をとらえようとせず、父なる神がすでに赦された罪に対して、ダビデの失敗をとげとげしく非難し、彼の落ち度を針小棒大にあげつらい、ダビデの犯した悪事を標本のように見立ててさらし者とし、他方で、バテシェバは「強姦被害者」であるとして二人を貶める。こんな天声教会のメッセージの何といやらしく意地悪く、高慢なことであろうか。

だが、このような物の見方は決して偶然に生まれて来るものではない。彼らがバテシェバを一方的な被害者と見なしているところにも、ペンテコステ運動に流れるグノーシス主義的な特徴が見ごとに表れている。結局、このメッセージが言わんとしているのは、「女性は男性の被害者だ」ということに尽きるのである。

天声教会の指導者は、バテシェバをダビデの被害者と見ることを通して、男性とは欲望に満ちて、暴力的で、わがままで、女性を常に虐げ、踏みにじる悪しき存在であるかのように描いている。なおかつ、こうした歪んだ物の見方に基づいて、男女の関わりそのものまでも否定的に、汚れた、悲劇的で、歪んだ、嫌悪すべきもののように描き出すことで、神が定められた男女の本来的にあるべき健全な秩序や関わりそのものまでも歪めてしまっている。

こうしたメッセージの根底に隠れているのは、女性の心に男性への対する嫌悪を植えつけ、被害者意識を煽ろうとするフェミニズムの思想であり、このメッセージは、ただ歪んだ男女の関係を極度に誇張し、男性を断罪するだけで、人間の罪の悔い改めに与えられる神の赦しの完全性や、キリストがご自分の花嫁なる教会を愛されたような夫婦の健全なあり方への視点が欠落している。また、ダビデの生涯に渡るバテシェバへの愛情も全く否定されている。ここに見られるのは、ただ男女の関わりそのものに対する徹底的な嫌悪感、拒否感だけである。

すでに説明したように、女性を男性の「被害者」とみなし、男性への憎悪を煽るフェミニズムの思想は、もとを辿ればグノーシス主義から出たものであり、ペンテコステ運動も、グノーシス主義に起源があると筆者は考えている。

グノーシス主義に起源があればこそ、ペンテコステ運動はマイノリティを美化し、女性を美化し、女性を男性の「被害者」であるかのように描き、男性には罪悪感や自己嫌悪を植えつけ、女性には被害者意識と男性への憎しみを植えつけることで、女性と男性を闘争関係に起き、男女の秩序を転覆しようと狙うのである。フェミニズムとは、結局、神と人類との秩序を覆そうとする試みであるから、この運動は人類の側から神に対して挑まれた闘争なのである。

グノーシス主義は、被害者意識を軸として、力の弱い者が、力の強い者との支配関係を覆そうとする秩序転覆の思想であり、フェミニズムの思想が男性を女性への加害者として描く目的は、男性に罪悪感を持たせることによって、男性の力を封じ込め、女性を男性よりも上位に置いて、男女の秩序を覆し、女性が男性を支配することで、男性に対して復讐を果たすことにある。

この手法はペンテコステ運動においては、人類を神の被害者とすることによって、人類が神を訴え、神を乗り越え、自ら神となるという構図となる。だが、一応、ペンテコステ運動はキリスト教に偽装しているので、あからさまに神を加害者とすることはせず、隠れたプロットの中でそれを持ち出すのである。

天声教会の上記のメッセージは、ダビデを罪深い加害者、バテシェバを罪なき被害者として描くことで、男性を罪深い加害者とみなして、女性をその被害者とみなすフェミニズム的思考パターンをよく表している。

だが、このメッセージは、より深い意味では、グノーシス主義的な秩序転覆の構図を示すものであることは、ダビデとバテシェバの関係を、神と人類との関係に置き換えると理解できる。

彼らが「加害者」として糾弾しているのは、ダビデだけではなく、その背後に存在し、ダビデを義と認められた父なる神である。そして、彼らが「被害者」としてかばっているのは、バテシェバとその死んだ子だけでなく、堕落した人類という「母子」なのである。

このメッセージの本質がグノーシス主義にあることは、グノーシス主義神話を通して理解できる。すでに述べた通り、グノーシス主義神話においては、幾通りかのパターンで筋書きに多少の差異はあるものの、その中には、自ら神のようになろうとして、単独で子を生むという過失によって天界から転落しかかったソフィアが、自分の過失によって生まれた醜い悪神にさらに凌辱されて、その子孫として人類が誕生するという筋書きもある。

このようなグノーシス主義神話では、人類の直接の父は、この世を支配している暗愚で暴力的な悪神だということになり、この悪なる父を否定的に乗り越え、その上に自らの本当の父があるという事実を見いだすことによって、人は神に回帰するというのがこうした思想の基本的な考え方である。

そこで、このような神話に照らし合わせれば、人類とはまさに「父による母への凌辱」の結果として生まれた悲劇の子供ということになるため、「父」は悪者である。天声教会のメッセージには、このような意味で、グノーシス主義神話の構図を、ただ聖書におけるダビデとバテシェバの関係に置き換えただけとしか言いようのない隠れたプロットが存在することが分かる。彼らがダビデの行為を「強姦」として糾弾しているのは、実は、グノーシス主義的な文脈における人類の誕生のことで神を非難しているのである。

むろん、このような思想を人間に語らせるのは霊である。(その意味でも、ペンテコステ運動の指導者は霊媒師であると筆者は言うのである。)彼らの語るメッセージは、彼ら自身が自分の知性で思いついたものではなく、彼らを支配する霊が、自らの思想として語るものである。それが聖書に由来するものでなく、悪霊の思想に他ならないことは、聖書の御言葉との対比と、いつの時代も変わらない悪霊の思想共通の特徴がある事実によって見分けられる。

このことが分かれば、以上の天声教会のメッセージが、隠れた霊的暗示の効果を持っており、そこにおいては、ダビデが象徴的に「悪神」になぞらえられていること、その「悪神」による暴力の結果、侮辱され、愚弄された「母」(バテシェバ)と、さらに「父」の暴力の結果生まれて来た悲劇の「子」が、被害者として美化されていることが分かる。

このように「父」の横暴の犠牲となった「悲劇の母子」にスポットライトを当てて、これに同情し、彼らを無罪放免し、このような「神の不当な暴力の被害者」を救済しようとするのが、グノーシス主義の目的であり、このメッセージは、そうした意味で、グノーシス主義の基本理念にまさに合致している様子が見えて来る。

結局、このメッセージが暗に言わんとしているところは、「人類は(神の)被害者である」ということに尽きる。ダビデを「加害者」の立場に置くことによって、このメッセージは暗黙のうちに、男性全体だけでなく、聖徒らをも罪に定め、ひいては神までも「加害者」の立場に起きつつ、他方、自分たちは、その被害者だということにしてしまうのである。

こうした考えは、聖書の象徴的な意味を無視している。ダビデの罪の結果として生まれて間もなく死んでしまった子供は、最初の人間アダムをも暗示していると見ることができる。そして、ダビデとバテシェバから生まれ、父の王国を受け継ぐ子供となったソロモンは、第二のアダムであるキリストを暗示する。第一のアダムは、罪に堕落したゆえ命へ至る道を見つけられずに死んだが、第二のアダムは、神への従順ゆえに義とされて命と安息に至る。こうして「後の者が先になる」――というのは、聖書の至るところに共通する型である。

しかしながら、以上の天声教会のメッセージは、死んでしまった子供のために同情し、これを父の罪の結果であるとして糾弾する。そこから見えて来るのは、バテシェバと死んだ子供という「母子」を「弱者」としてかばうことで、神に創造されながらも、罪に堕落したために神から切り離された人類をかばい、人類を父なる神よりも高く掲げ、無罪放免しようというグノーシス主義的な思惑である。

彼らの考え方には大きな錯誤がある。それは、バテシェバも、その子も、ダビデと同じような罪を犯さなかったかもしれないが、罪人の一人に過ぎず、決して罪なき聖なる存在ではないということである。人間を義とすることができるのは、神であって、人ではない。ダビデを義とされたのは神であって、バテシェバが彼を赦したから彼の罪が消えたわけではないのである。

だが、ペンテコステ運動の支持者たちは、すべての人間関係をただ「加害者・被害者」という二項対立のフィルターを通してしか見ようとせず、「被害者」を神聖なまでに美化し、祀り上げる一方で、「加害者」を罪人として断罪する。そして、ただ被害者によって無罪放免されることだけが、人間の罪が赦される唯一の道であるかのように主張して、ひたすら、人を罪意識や被害者意識に閉じ込め、人間の罪を赦す権威は、神にこそあって、人間にはないという聖書の事実を忘れさせるのである。そして、被害者を名乗る人たちが、気のすむまで「加害者」を断罪し続け、償いを要求することを「救済」に置き換えて行くのである。

ペンテコステ運動を導くイゼベルの霊は、被害者意識の霊であると筆者は述べて来たが、この霊の手口は、他人に不当な因縁をつけて恐喝するヤクザの手法と同じである。ヤクザに脅され、ゆすられ、たかられている人は、恐怖のあまり、ヤクザから解放されるためには、ヤクザに赦しを乞うしかないと思い込む。だが、どんなにヤクザに赦しを乞うても、赦されるどころか、ますます弱みを握られ、責められ、思うがままに操られるだけである。人が悪魔に罪の赦しを乞うても無駄なのである。

しかし、ペンテコステ運動を含め、グノーシス主義は、人間の罪というものを、神に対して犯されたものではなく、人に対して犯されたものとしてのみ理解することによって、罪を指摘したり、罪を赦す権威が、あたかも被害者である人間にあって、被害者意識を持つ人間は、自分の被害者意識を盾に取って、他者を永久に脅し、断罪し続けることが正当化されるかのように考えている。

天声教会のメッセージ内容には、男性にしきりに罪悪感や嫌悪感をもたせることで、思うがままに支配しようとする「イゼベルの霊」の精神構造がよく表れていると言えよう。

すでに述べたように、統一教会における「エバ国家」の概念に見るように、他者の心に罪悪感を植えつけることで、その人間を脅し、思い通りに支配して行こうとするのは、悪霊の常套手段である。村上密牧師が、統一教会を脱会して後も、自らの心に植えつけられた加害者意識を捨てられず、キリスト教に入信後も、自分自身を依然、「加害者」の立場に置いて、キリスト教会で傷つけられたカルト被害者の救済活動にいそしんでいることについて書いたが、天声教会の指導者も、これと同様に、自ら男性でありながら、自分自身をダビデに重ねて「加害者」の立場に起き、「被害女性」の心境に寄り添うかのようなメッセージを語ることで、「被害者」の心を慰撫し、彼女たちに暗黙の懺悔を果たそうとしているのである。

だが、このようなフェミニズム的な思考の影響を受け、自己嫌悪、負い目の意識を背負わされた男性たちは、自分への健全な自信を失って行くことになる。ダビデの罪を責めている彼らは、彼を責めることによって、自分自身を罪に定めているのだとは気づかないのである。

しかし、自分自身をこのようにしか見られなくなった人間は、どんなに自己批判を続けても、その負い目の意識は払拭できないであろう。こんなメッセージは、語っている本人ばかりか、聞いている人の心にも、男性への嫌悪と、男女の関わりへの嫌悪を植えつける。

人間の罪に対する神の憐れみの深さと、人間の罪を超えて働く神の計画よりも、ただ人間の罪に対する負い目と、嫌悪感だけが募って行くことになる。早い話が、男性であれ、女性であれ、そのようにまで自分の性についてこれほど悲観的な考えを持つに至った人々が、健全で幸福な結婚生活を送り、伴侶を愛して、共に手を携えて生きることは、まず無理な相談ではないかと考えられる。

以上に挙げたような天声教会の極端に誇張された男性嫌悪のメッセージは、KFCがそうであったように、自分を夫の被害者であると考える女性信徒たちの思いが強く投影・代弁され出来上がっているものだと言えよう。日ごろから、家庭において、社会において、何かの被害者意識を持つ女性たちが、自分たちの被害者意識を、真の加害者に向けられないので、他の誰かに吹き込み、代弁させるのである。心傷ついた、子供のような誰かをターゲットとして捕まえて来て、自分好みのメッセ―ジを語らせ、自分を虐げる男性たちの代わりにその人間を懺悔させることで、自己を慰めるのである。ターゲットとされる人々にも、母親に愛されないで育ったなどの何らかの弱みがあって、その弱点と、自分を認めて欲しいという願望を担保に取られ、彼女たちに利用される結果となるのである。

こういう関係こそ、その本質は、霊的姦淫に他ならず、糾弾されてしかるべきものである。真に問題なのは、姦淫の罪を犯したが、それを神と人の前で真摯に悔いることができたために罪赦されたダビデではなく、自ら霊的姦淫の罪を犯していながら、その罪を隠し、認めようともせず、誰の前にも悔いようともしない教会指導者と信徒たちの方にこそある。

神が罪とみなしておられるのは、男女関係そのものではなく、結婚の枠組みを侵害するような男女の関わりであり、姦淫の罪とは、何も肉体的な関わりだけを指すのではなく、霊的姦淫という罪もある。ある信徒が、他の信徒を家庭から引き離し、日常生活から引き離し、配偶者から引き離し、教会生活や宗教行事に過度に没頭させ、その心を神や配偶者や家族から奪って自分に向けさせるなどのことも、霊的姦淫の罪である。

教会指導者自身が、誰よりも誤解を呼ぶような、他者の結婚生活をないがしろにする生活を教会を拠点に送り、他の信徒の心を盗んでいる状態で、他の信徒に向かって、姦淫の罪について警告するのは、まさに笑止としか言えない。この指導者は、姦淫の罪の本質を、男女の肉体的な関係だけに限定することによって、霊的姦淫という、それよりもさらに恐ろしい罪の本質から目を背けているのである。

他のメッセージのタイトルや内容からも判断できるように、この教会で語られているメッセージは、KFCと同じように、常に自分たちを他の信者たちと引き比べて、他の信者の失敗や欠点をあげつらいながら、自分たちだけは、彼らの誤りを踏襲せずに、神に受け入れられる優秀な信徒であり続けられるかのような内容となっている。こうして他者の誤りを引き合いに出すことで、自分自身を高く掲げるのである。先人たちの失敗を意地悪くあげつらい、彼らの信仰の薄さと罪深さを心の内で断罪しながら、自分たちだけは決してそんな愚かな誤りは犯さず、神に見捨てられることのない、正しい道を進んでいけると豪語しているのである。

そういう目線に立っていればこそ、この教会の指導者は、自分たちはまるで被害者であるかのような立場に立って、自分自身が現実に犯している罪には一言たりとも言及しないまま、自分たちは心美しい、罪なき人間であり、残酷で暴力的で自己中心な連中や、堕落した「スパイ」どもとはわけが違うと主張するのである。

こうした人々の思考においては、すべてがさかさまに見えている。彼らは悔い改めて罪赦されたクリスチャンを断罪し、加害者呼ばわりする一方で、自分たちは悔い改めることもなく罪赦されるはずもないのに、「被害者」であると主張することによって、自分自身を一方的にて無罪放免しながら、改めて、聖徒らを訴えようとしているのである。

だが、このようにひたすら他者の罪をあげつらいながら、自分自身を義とする高慢な人間にこそ、「私たちは見える」と言い張った罪が残り続けることであろう。

最後に、ダビデの失敗は、ただ単に姦淫の罪の恐ろしさと共に、人間のナルシシズムの罪を示しているように思われてならない。ダビデは、若い時分には、大変美しく、活発であり、バテシェバに出会うまでは、自らの美しさ、若さ、力といった、天然の生命の力や美を疑うことはなかったに違いない。バテシェバも大変美しく、ダビデは彼女を見たとき、自分にふさわしい人間を見つけたと思ったに違いない。そして、おそらくは、バテシェバの方でも、ダビデがあまりにも魅力に溢れていたので、その行動を疑うことができない心境にあったのではないかと考える。平凡な人間であったウリヤに比べ、ダビデは彼女の心を圧倒する様々な術を持っていたのではないだろうか。ダビデはそれまで、望むものを何でも手にすることができた。女性の心も思いのままであり、何を望んでも罪になることがなかった。だが、彼が自分の力に慢心し、自己の美や力を当然のものと考えた時、失敗が訪れたのである。この出来事があって初めて、ダビデは自己の存在の根本に潜む罪なる性質に気づいたのではないかと思われる。

人間の判断は極めて身勝手で、人間は自分の感覚にとって心地よく、美しいものだけを好む。自分にとって美しく映るものを義ととらえ、醜く映るものを悪ととらえ、新鮮で、若々しく、命の力に溢れた、自分の目を楽しませてくれる美に価値を見いだす。しかし、人間の目にどう映るかとは別に、美というものの中には、根本的に悪に傾きやすい危険が潜んでいること、その危険性が自分自身のうちに潜んでいることに、ダビデは気づいたのではないだろうか。サタンは、自己の美しさに慢心して神への反逆に至った。もしもサタンが美と無縁であったなら、高慢に陥ることは決してなかったであろう。

ダビデの息子の一人であるアブシャロムは、父よりも美しかったと思われる。その美しさのゆえにも、ダビデは彼を愛したのであろう。だが、この息子が自らの美しさに慢心し、ダビデへの反逆を企てることになる。その姿を見て、ダビデは、自分の外見の美の力を疑うこともなかった若い当時の自分自身を思わなかったであろうか。人間の美というものがいかに人々を眩惑して物事の本質を簡単に見失わせる欺きに満ちたものであり、その美の持ち主自身をも狂わせるものであるかを考えなかっただろうか。

このようなことから見ても、人間の罪というものは非常に巧妙で見えにくく、ダビデは罪を犯したがバテシェバは一方的な被害者であって罪がないなどと簡単に言えるような図式は存在しないことが分かる。ダビデの犯した罪は、女性も含め、人間そのものに根本的に流れる罪なのである。

なのに、こうした事実を見ずして、人が自分の目と耳を喜ばせてくれるうわべだけの綺麗事に熱中し、この綺麗事を握りしめて、それによって自分自身の存在を美化し、正当化し始める時、その人間は真実から逸れて、罪なる本質の中に陥って行くのではないだろうか。

ダビデがバテシェバを何が何でも手に入れようとしたように、今日、多くの宗教指導者は、エクレシアの強奪に余念がない。キリストの花嫁たるエクレシアは、神にとっての宝である。だが、この花嫁たる教会をめぐって、人はどれほどの争いと罪を繰り広げて来ただろうか。

ペンテコステ運動の指導者たちは、ダビデがウリヤを殺してでもその妻を奪ったように、心ある信者たちを追放してでも、教会を私物化し、残る信者たちの心を神や配偶者から盗んで自分に向けさせている。こうして教会を自分の栄光、手柄の手段へと変えている。

ダビデと違って、彼らはこれを恥ずかしいと思わず、霊的姦淫の罪とも考えない。彼らはあまりにも自己の力に慢心しているので、教会が自分の前に跪くのは当然だとさえ思っている。ペンテコステ運動が支持者にもたらすのは、このような不遜なまでの、あるいは痛ましいまでの、自己の力へ慢心、自己の美への賛美である。こうした指導者たちはあまりにも己惚れすぎているために、誰から指摘されても、その状態が罪であるということに気づけない。本当は、こういう指導者こそ、霊的姦淫の罪により糾弾されるべきである。

こうした指導者は、片方では、信徒の耳に都合の良いことを約束しながら、もう一方では、公然と「世界の荒廃」などを予告して、破滅や呪いの予言を語り、信者を恐怖と疑心暗鬼に陥れることで、自分の教会に束縛し、思惑通りに行動させようと促す。(その点でも、KFCと天声教会は似ている。)そういうことになるのは、この人々が神から遣わされた預言者ではなく、ただ自分自身の心の欲望と荒廃を信徒に向かって語っているだけだからである。こうした指導者に着いて行けば、羊には正常な未来はまず望めないであろう。
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

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