忍者ブログ

・グノーシス主義・東洋思想とは、聖書の父なる神を差し置いて、人類を神以上に高く掲げる母性崇拝の思想である。

前回、かなり急いで説明したので、もう一度、ここでグノーシス主義の基本構造をおさらいしておきたい。

グノーシス主義・東洋思想とは、根本的にキリスト教に敵対する秩序転覆の思想であり、同時に、厭世的で悲観的な哲学・世界観でもある。(すでに書いたように、筆者は東洋思想もその構造から見ればグノーシス主義の一種に分類されるととらえている。)

この思想が秩序転覆の思想であるという理由ば、グノーシス主義・東洋思想の根本には、(各神話の細かい差異はさて置き)、万物の生命の源を「神秘なる母性」に求め、この「母なる神(=神秘なる母性)」を聖書における「父なる神」以上に高く掲げる信仰が横たわっているからである。

万物の生命の源を「母なるもの」に求め、「母なるもの」をすべてを包容する慈愛に満ちた存在として崇める思想は、非キリスト教的・異教的な世界、特に東洋諸国においては、明確な宗教や信仰として認知されておらずとも、漠然と、空気のように広く普及している。東洋的世界観は、まさにこの「母なるもの」と切り離すことのできないものである。

しかし、グノーシス主義的な世界観における、「母なる神」という概念は、ただ単に万物の生命の源の象徴としての「母」を指すだけではない(ただし、筆者は、聖書によれば、万物の生命の源は、「母」にはなく、むしろ「父」にこそあると考えているので、生命の源が「母」にあるという考えそのものに同意できない)。ここで言う「母」とは、何よりも、神に造られた被造物としての人類そのものを指す。

聖書の記述によれば、人類最初の女性であるエバは、人類最初の男性であるアダムのあばら骨から、アダムの助け手となるべくして造られたとされる。この男女の秩序は、聖書において、変えられないものであり、また多くのことを象徴している。だが、この男女の秩序は、決して、フェミニズム神学者が言うように、聖書が女を男に比べて劣った、不完全な存在であるとみなして、聖書が男尊女卑の思想に貫かれているなどといった皮相な事柄を意味するのではない。

聖書において、アダムとエバの関係は、二人の罪による堕落ゆえに正しく機能しなかったが、この二人の秩序は、「最後のアダム」であるキリスト(霊的にはただ一人の男子)と、キリストのわき腹から生まれる花嫁たる教会(エクレシア)との結婚を予表するものであった。そうした意味において、人類とは、キリストの花嫁、神の助け手となるべく造られた、霊的な「女性」なのである。

ここで言う「霊的な女性」という概念の中には、人類は本来的に、神を礼拝するために造られた被造物であり、「神から命を受ける器」であり、「神の宮」であるという意味が込められている。だが、そのことは、「神の宮」としての人類の神聖を意味するものでは決してない。宮が貴いのは、神が住まわれるからであって、神を抜きにして、宮が自分だけで聖なる存在となることはない。もしキリストとの結合がなければ、人類は堕落した存在に過ぎず、もし神が住まわれないなら、宮は宮としての貴い価値を失う。宮は、神が住まわれることによって初めて清められ、貴くなるが、神をよそにして、宮が一人だけで神聖を主張するのはナンセンスである。このような意味においても、聖書における神と人類との(霊的な男女の)秩序は覆せないものである。

しかしながら、グノーシス主義は、このような神と人類との秩序を覆してしまう。グノーシス主義は「父なる神」以上に「母なる神」を高く掲げるが、そこから、フェミニズムのように、母性を神格化することで、男女の秩序を転覆しようとする発想も生まれて来る。フェミニズムの思想は、決して単独で産まれたものではなく、その背景にはグノーシス主義がある。こうした思想は、女性をまるで男性の被害者であるかのように主張することで、男性を憎悪すべき罪深い加害者とみなし、かつ、被害者性によって女性を美化することで、女性を男性よりも高く掲げ、あわよくば、男性を無用な存在として退けつつ、この世における男女の秩序を転覆しようとする。だが、こうした思想は、より深い次元では、人類を神の被害者とし、神ではなく人類を崇拝の対象として掲げることによって、神と人類との秩序を覆そうとする欲望が潜んでいる。男女の秩序を覆す思想とは、結局、根本的には、神と人類との秩序を覆すことと同じなのである。

だから、グノーシス主義・東洋思想における「神秘なる母性」への崇拝とは、結局のところ、人類が聖書におけるまことの神を退けて、神の被造物に過ぎない自分自身を神よりも高く掲げ、自己を賛美しようとする自画自賛・自己崇拝の思想であると言える。だから、そこで崇拝されている「神秘なる母」とは、要するに、人類自身のことなのである。

おそらくは、神を知らない堕落した罪深い人類の欲望は、今後、テクノロジーによって、生命それ自体をコントロールする秘訣を見いだし、自らの力で老いや死を克服して、永遠の命を手に入れる方法を開発しようというところへ向かって行くであろう。テクノロジーは、すでに多くの病を克服することで、長寿を可能としたが、やがては死の克服と、永遠の命の獲得を目的に据えるようになるだろう。人類は自らの力で死を克服し、生命を操る秘訣を手にすることによって、神によらずに人類の力だけで、永遠の命を生む「母」になりたいという欲望を抱えているのである。

このように、グノーシス主義的「母性崇拝」の思想には、人類が神を抜きにして単独で神の叡智に到達し、永遠の命を得たいとする欲望が流れているのだが、それはナルシシズムに満ちた、人類の自己崇拝の思想であると同時に、まことの神に対する被害者意識に満ちた思想でもある。

すでに見て来たように、鈴木大拙は、東洋的な世界観の根本には、「母が脅かされている(から母を守らなければならない)」という考えがあると述べたが、そのような発想は、言い換えれば、「聖書の父なる神によって、母(人類)脅かされているから、父なる神の脅威から母(人類)を守らなければならない」という被害者意識を土台としているのだと言える。母(人類)を脅かしている存在とは、聖書の神を指すのである。

グノーシス主義は、このように、聖書の神に対する敵意、被害者意識に基づく思想である。聖書の神が、人類が罪によって堕落したため、全人類に対して、十字架において死の判決を下され、人類が自力で神に回帰する道は永久に途絶えたことを、この思想は、どうしても認めたくないのである。人類は、当初は神によって、神に似せて造られたが、被造物に過ぎず、かつ堕落してしまったので、神の神聖からほど遠いものとなり、神ご自身のように聖ではないということを、この思想は、どうしても認められないのである。

そこで、この思想は、人類がこのように堕落し、その美と栄光を失ったのは、人類が悪いのではなく、神が悪いせいだと考える。この思想は、人類の罪を決して認めないので、人類に罪と死の判決を下した神を悪者とし、人類を神の被害者とする。そして、人類が神を否定することで、自らに死の判決を下した神を否定的に乗り越え、自ら神になり代わって、神に復讐を果たすべきとそそのかすのである。ちょうどフェミニズムの思想が、女性は男性によって劣った存在として規定され、愚弄されていると考えて、男性を嫌悪し、男性を乗り越えることによって、男性を抜きにして、女性が単独で「完全な存在」となることを目指しているのと同じように、グノーシス主義は、創造神を、無知で、劣った悪神として、侮蔑と愚弄の対象とし、被造物に過ぎない人類を、神よりも高く掲げることで、神と人との秩序を覆し、神に対して復讐を遂げようとするのである。聖書の神に対する敵意と被害者意識が、この思想には徹頭徹尾、流れている。

グノーシス主義は、悲観的・厭世的な世界観であればこそ、ハンス・ヨナス教授が述べているように、世の中が混乱し、人々が希望を失い、社会に絶望と被害者意識が満ち溢れるような時代には、いつでもどのような場所にでも、生まれうるものである。

ただし、筆者は、グノーシス主義のような世界観は、異教的な文化的土壌とも密接な関わりがあるものと考えている。

病原菌が、人の肉体的な弱さや傷につけ込まない限り、人の中で増殖して害をなすことができないように、グノーシス主義も、それを受け入れ、培養するにふさわしい土壌が人の心にない限り、決して発生しない。

そして、グノーシス主義が発生するためには、怨念、被害者意識、厭世観、無常観などといった背景が、人の心に必要なのである。こうしたものの溢れる社会には、グノーシス主義は極めて集団的に発生しやすいと言える。

だが、東洋思想に流れる無常観は、まさにグノーシス主義にとっては、最適な寝床であったのではないかと筆者は考えている。インド哲学や仏教などの根底に流れる無常観は、まさにグノーシス主義の悲観的・厭世的な世界観に通じるものと考えられる。

グノーシス主義の発生は、原則として、時代や場所を問わないが、それでも、キリスト教対グノーシス主義の戦いの構図の中では、西洋対東洋といった図式が盛んに見え隠れするのも、そのせいである。西洋世界においては、キリスト教が普及したために、グノーシス主義は弾圧・駆逐されたが、その後、東洋世界こそ、グノーシス主義を保存する母体となって来た歴史があるためである。

ちなみに、筆者が一連の記事で用いている異教的世界観という用語は、かなり荒っぽく大雑把なため、誤解を呼ぶ恐れがあるかも知れない。そこで断っておくと、この概念には、時代を問わず、場所を問わず、聖書のまことの神を受け入れず、聖書の父なる神以上に、異なる神(々)を高く掲げるすべての思想や文化が含まれる。たとえば、国家神道や、共産主義思想のように、宗教という形態を取っていない思想も、広義においては、異教的世界観に含まれると筆者はみなしている。

国家神道もそうであるが、共産主義思想なども、その基本構造から判断するに、宗教に匹敵するものであり、その土台は、まさにグノーシス主義に他ならない。共産主義思想は、決して宗教のように「神聖」という概念を用いず、「弱者の神聖」を謳っているわけでもないが、その基本構造において、事実上、虐げられて自己存在を脅かされた弱者を「聖なるもの」として掲げ、抑圧された者たち(の怨念と被害者意識)を神格化し、それを核として世界の変革を目指していることは否定できない。

つまり、たとえあからさまに「神聖」という概念を用いておらずとも、事実上、「社会的弱者を神聖視し、弱者が怨念と被害者意識によって団結することによって、弱者と強者との秩序を転覆して、弱者が強者を抑圧して復讐を成し遂げようとする思想」は、みな根本ではグノーシス主義に属するのであり、こうした神によらない人類の自己救済の思想はみな、当ブログでは、異教的な世界観の中に分類される。


・「イゼベルの霊」とは、キリスト教とグノーシス主義・東洋思想を合体させて混合宗教を作ろうとする母性崇拝の霊である

さて、長い前置きを終えて、ようやく本題に入るが、今回の記事のテーマは、異教的な世界観を総称するものとして、聖書にも警告されている「イゼベルの霊」というものの危険性について考えることにある。

結論から述べれば、「イゼベルの霊」とは、「霊的な女性である人類が、自己を神以上に高く掲げ、神に逆らって己が罪を否定して、神を乗り越えて自らを神格化しようとする思想」であり、言い換えれば、グノーシス主義的・東洋思想的な母性崇拝(人類の自己崇拝)そのもののことである。

聖書になじみのない人は、「イゼベルの霊」という言葉を聞いても理解できず、突然、どこへ話が飛んだのかという印象しか持たないかも知れない。そこで、まず「イゼベルの霊」という用語が、クリスチャンにとって何を意味するのか、この反キリストの霊に対して込められた糾弾の意味について、予め説明しておくことが必要であると思う。

「イゼベル」という名自体は、旧約聖書と新約聖書の両方に登場する。旧約聖書に登場するイゼベルの人物像は、夫であるアハブ王をそそのかして背教に陥れ、国全体を背教によって堕落させて神に背かせ、神が遣わした預言者をも殺意を持って迫害し、まことの神への信仰を駆逐しようとする悪女として描かれる。他方、新約聖書においては、この同名の女性の名は、特定の人物を指すものというよりも、聖書に反する堕落した教えを言い広める悪霊そのものか、もしくは、その悪霊にとりつかれ、誤った教えを広める要塞となった信者たちを象徴的に指す。

早い話が、「イゼベルの霊」という呼称は、聖書の信仰に立つ信仰者から見れば、到底、容認できない、背教や、誤った異端の教えを流布する偽りの霊(またはその霊に操られる信者)を象徴的に指す。

新約においてイゼベルの霊に該当する聖書箇所は以下の通りである。聖書によれば、正しい信仰から逸れてしまった「イゼベル」と、その霊の影響を受けた信者たちには厳しい裁きが待ち受けている。

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。

見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。

また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。」(黙示2:20-23)

ところで、当ブログにおいてはこれまで、聖書の黙示録に登場するバビロンとは、異教的な信仰と、キリスト教とを混ぜ合わせて(両者の霊的姦淫によって)出来上がる混合宗教、すなわち、疑似(似非)キリスト教を指すものであると書いて来た。

「イゼベルの霊」も、以上に見るように、偶像崇拝を指していることから、その本質は、バビロンと同じ疑似キリスト教であると考えられる。つまり、イゼベルの霊もまた、うわべは敬虔なキリスト教徒を装いながら、内面では聖書の唯一の神に対する貞潔さを失って、異教の神々と結合して出来上がった堕落した宗教としての疑似キリスト教を指すものとみなせる。

旧約聖書におけるイゼベルが、正しい信仰に偶像崇拝を混ぜ込むことによって、国を堕落させたように、今日においても、「イゼベルの霊」は、キリスト教に聖書にはない異教的な要素を「つけ加える」ことによって、キリスト教を堕落させようと狙っているのである。

ところで、「イゼベルの霊」が生み出す混合宗教の最たるものとして、ここで挙げたいのが、ペンテコステ運動である。すでに述べた通り、この運動は、あたかもプロテスタントの一派のようにみなされているが、その本質は、異教的な母性崇拝にあることを、これまで一連の記事において見て来た。その事実は、広義においてペンテコステ運動と同種の運動であるカリスマ運動の指導者である手束正昭牧師が、自らの著書において、フェミニズム神学に基づき、聖霊を「母なる霊」と呼んでいる事実に明白に表れている。フェミニズム神学とは、「キリスト教には父性原理の二分性ばかりが強すぎて、母性的要素が足りないので、キリスト教は厳格で偏った宗教になってしまった。母性的要素を補うことによって、キリスト教は欠点を是正され、バランスの取れた宗教になる」などと主張して、キリスト教の中に、聖書にはない母性崇拝をひそかに持ち込むことによって、東洋的な母性崇拝とキリスト教とを合体させた混合宗教を作り上げようとするものである。

だが、今日、ペンテコステ運動に限らず、異教的な母性崇拝の要素は、キリスト教の中に様々な形態を取って公然と入りこんでいる。プロテスタントからは偶像崇拝として非難されているカトリックにおける聖母マリア崇拝などもその一つであり、こうしたものも、「イゼベルの霊」と呼ばれてしかるべき教えである。

結局、「イゼベルの霊」とは、グノーシス主義的・東洋思想的な世界観そのもののことであり、東洋思想的な母性崇拝の霊であると言える。だが、母性崇拝と言っても、結局は、それは人類の自己崇拝の思想を指すのである。

それだからこそ、イゼベルの霊に影響された信者たちは、ほぼ例外なく、歪んだナルシストになって行くのである。カトリックの聖職者による性的不祥事などを例にあげるまでもなく、得体の知れない「母なる霊」に導かれるペンテコステ運動の信者たちにも、以下に述べるように、極度の自己陶酔・ナルシシズム・自己崇拝が観察される。

ペンテコステ運動に関わる信者たちは、ほとんど例外なく、自らの非凡な神秘体験をあからさまに人前で誇り、聖書の記述に反して、誰にも理解できない「異言」を公然と語り、見せびらかし、そうした超常現象を通して、自らが「神の偉大な霊の器」であることを自己顕示し、神ではなく、自分を高く掲げる。

この運動に関わる信者たちの「信仰の証」なるものを聞けば、その内容が、徹頭徹尾、自己の差別化と、自画自賛に溢れていることがすぐに分かる。そうした信者たちのブログ記事、メッセージなどは、隅から隅まで自画自賛に貫かれ、その行き過ぎた自己陶酔、ナルシシズム、自己顕示によって、自分自身を絶対化していることが理解できる。さらに、そこに、誰が見ても不自然で胡散臭いとしか思われないような、非日常的な神秘体験と、極度に情緒的で不自然な感動体験がちりばめられ、それらの体験によって、いかに彼らが他の凡庸な信者たちとは別格の、神に近い特別に祝福された存在であるかが強調されている。

また、この運動においては、牧師として専門教育を受けたわけでもなく、何の資格もなく、訓練も受けていない信者が、ただ「神の霊を受けた」と自称しただけで、突然、メッセンジャーとなって、セミナーや集会で預言者のごとく語り出すということも日常茶飯事で、「自称牧師」、「自称預言者」、「自称メッセンジャー」が至る所で縦横無尽に活動していることでも知られる。こうした無秩序の行き着く先は、大抵、偽りの霊に導かれる彼らの誤った「預言」によって、多くの信者たちが人生の道を踏み誤り、混乱の中に投げ出されるという悲しい結末で終わる。

ペンテコステ運動は、神ご自身を退けて、宮に過ぎない人間が自分自身を誇り、そのような厚かましく愚かで自画自賛的な霊的運動を、特定の教会ばかりか、全世界にまで拡大し、全世界を一つの霊の配下におさめようと、「リバイバル」を提唱する。だが、問題は、この運動を率いる霊とは、一体、何なのかということである。彼らは、自分たちを導く霊は、「聖霊である」と主張するが、彼らの行いは、あらゆる面から見て、ことごとく聖書に反しているため、そうした「実」から判断しても、この運動を支配する霊が、到底、神の聖霊ではないことは明白であり、なおかつ、聖霊を「母なる霊」とする手束氏の主張なども合わせるならば、ペンテコステ運動はそれ自体が、明らかに聖霊に偽装する偽りの霊に導かれる偽りの運動なのである。

そこで、敬虔な信者の目から見れば、このように無秩序かつ盲目的で非聖書的な「俺様主義的な」厚かましい運動を、全世界にまで拡大されるほどにはた迷惑なことはない。だが、この運動の当事者は、自己陶酔のあまり、それが神の御旨であると信じ込み、他者の迷惑などお構いなしに、大真面目に「リバイバル」を目指し、そのために必死で活動し、日夜、祈祷を繰り広げている。そして、彼らの信じる「リバイバル」に反対したり、彼らの自己陶酔的な集会に疑問を投げかけたり、もしくは、「偉大な霊の器」である彼らの欠点を指摘したり、その集会を批判し、この運動の威光を曇らせるような人間は、みな「悪魔の手下」であり、「イゼベルの霊」に違いないと決めつけられ、こうして、彼らは自分たちに歯向かう者に悪魔との罵声を浴びせ、自己に対するいかなる批判も受けつけないまでに頑なになっている。

だが、残念ながら、筆者の目から見れば、「イゼベルの霊」という非難は、目に見える人間の指導者を神以上に絶対化・神格化し、母性崇拝に陥っているペンテコステ運動そのものと、また、この運動に関わって自己陶酔と自己の神格化に至った信者たち自身にこそ向けられなければならない。ペンテコステ運動の提唱する「リバイバル」も、単に彼ら自身のナルシシズムから生まれて来た自己増殖を目的とする歪んだ欲望以外の何物でもない。

このような人間の神格化及び自己陶酔の運動は、まさに人類の自己崇拝の思想である「イゼベルの霊」からしか生まれ得ないものである。

だが、ペンテコステ運動に限らず、もしもキリスト者が、神ご自身以上に自分自身を高く掲げ、神ではなく自分自身に栄光を帰するならば、その人も「イゼベルの霊」の影響下にあるのだと言えよう。だから、ここで非難されるべきは、ペンテコステ運動だけではないのである。

筆者は再三に渡り、プロテスタントの牧師制度自体が誤ったものであると指摘して来たが、それは牧師制度というものが、信者を目に見えないキリストではなく、目に見える人間の指導者に従わせ、人間である指導者に栄光を帰し、指導者を拝ませる偶像崇拝(人類の自己崇拝)だからである。

カトリックにおける法王の神格化や、聖職者のヒエラルキーなどが誤っているとすれば、プロテスタントにおける牧師制度も、それと同じほど誤っているのだと言える。どちらも人間に過ぎない存在を神と同等もしくは神以上に高く掲げ、神の神聖を横取りしている。だが、中でも、とりわけ、ペンテコステ運動は、超常現象を操るカリスマ的な「偉大な霊の器」を誉めそやし、こうした指導者への集団的な陶酔、服従などを要求している点で、通常の牧師制度に輪をかけて、なお一層、深い人間崇拝の罪に落ちていると言えよう。


・「イゼベルの霊」とは、主人を裏切る人妻の霊であり、「子らを抑圧的に支配する異常な母の霊」である

さて、この記事の末尾に、Eden Mediaの警告動画を二つ掲載しておくが、この動画の説明だけでは、「イゼベルの霊」の本質について、不十分で誤解を招きかねない部分があると思うため、ここでもう少し、説明を補っておきたい。

まず記しておかねばならないのは、「イゼベルの霊」とは、聖書における「大淫婦バビロン」と同じように、その根源は、グノーシス主義的な母性崇拝にあるため、それはただ単に「女性の霊」であるばかりでなく、「母の霊」だということである。

「イゼベルの霊」とは、夫(唯一の神)を裏切り、我が子(信者たち)を抑圧的に支配する「異常な母の霊」である。「異常な母」であると言うのは、もし正常な「母」であれば、自分が生んだ子を養い、子が成長すれば、やがて自分を離れて独立するよう促すであろうが、イゼベルは、自分の子らを一生、自分の欲望をかなえる道具として、自分の支配下に閉じ込めてしまうからである。

イゼベルの霊とは、人妻であり、母の霊である。だから、もし聖書における「イゼベルの霊」の持ち主が、若くて美しく魅惑的な独身女性や、あるいは、いかがわしい商売に従事する美麗な女性たちだけに限定されると考えている人があるならば、その人は早めに考えを改めた方が良い。

聖書の箴言にはこうある。

「命令はともしびであり、おしえは光であり、
 訓戒のための叱責はいのちの道であるからだ。

 これはあなたを悪い女から守り、
 見知らぬ女のなめらかな舌から守る。

 そのまぶたに捕えられるな。

 遊女はひとかたまりのパンで買えるが、
 人妻は尊いいのちをあさるからだ。」(箴言6:23-26)

以上の聖句において、「人妻」が、「遊女」よりもさらに恐ろしい危険な誘惑の源として警告の対象にされていることに注意したい。こうした警告がなされる理由は、「遊女」(娼婦)はただ金銭のために一時的に身を売るだけであり、はっきりとそれと分かる身なりをしており、限定された場所にしか存在しておらず、彼女たちは世間から軽蔑される職業に従事しており、到底、誰からも真実な愛情の対象とはみなされないが、堕落した「人妻」は、敬虔かつ貞淑そうな装いをしながら、どこにでも出かけて行き、真実な愛情に見せかけて、数多くの人々を誘惑し、隠れて主人を裏切り、他者の人生を滅ぼすからである。

上記に挙げた新約聖書のイゼベルに関する記述においても、彼女には多くの「愛人」がいるだけでなく、「子供たち」がいることが言及されている。

聖書においては、大淫婦バビロンも、「母」と呼ばれていることに注目したい。

「その額にには、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。」(黙示録17:5)

このように、バビロン、イゼベルの霊は、基本的に、「人妻」であり、「母」である。彼女たちは、唯一の主人に結ばれていながらも、主人を裏切って、多くの愛人を持つ堕落した「人妻」であり、なおかつ、自分の「子供たち」を抑圧的に支配して自立を妨げる異常な「母」である。

彼女たちは「異常な母」でありながら、同時に、自分を慈愛に満ちた聖母のように見せかけ、偽りの美しさによって多くの人々を魅惑する。イゼベルの美しさは、彼女の母性本能から来るものである。

だが、うわべは慈愛に満ちているように見えても、「イゼベルの霊」は決して人を慰めることも、癒すことも、解放することもしない。ただ閉じ込め、道具として支配するだけである。

この「異常な母の霊」は、被害者意識に満ちており、あたかも子供たちを養ってやるように見せかけながら、子供たちに自分と同じ被害者意識を植えつけ、子らが被害者意識という見えないへその緒で彼女と結ばれて、永遠に「マザー・コンプレックス」となって、彼女の支配を離れられず、生きている限り、「母を守る」ことを使命として、彼女の自己防衛や、欲望をかなえる道具となって生きるように、巧妙な形で自分の「マトリックス(子宮)」に閉じ込めてしまう。

イゼベルの霊とは、グノーシス主義や、東洋思想において神格化されている「母なる神」であるが、この「母なる神」とは、聖書の父なる神に対抗して、自己を脅かされている異教的な神(々)である(同時に、それは人類のことでもある)。

東洋思想に流れる「子が母を守るべき」という考えは、「母が脅かされている」という被害者意識からこそ発生している。「母なる霊」であるイゼベルの霊は、絶えず自分を脅かされていると感じていればこそ、「母子ともに家が脅かされている」という恐怖感、危機意識を子供たちに植えつけ、被害者意識を共有することで、子供たちと運命共同体となり、子供たちが彼女を守る防波堤となって、彼女の支配から一生、抜け出せないようにしてしまうのである。彼女が子供たちを閉じ込める「マトリックス」は、「脅かされている家」であると言える。

この霊の支配がどれほど恐ろしいものであるかは、「母を守る」という異教的な考え方が、どれほど多くの人を犠牲にして来たかを見ることによって理解できる。

一つ前の記事において、筆者は「母なるロシアを守る」という考え方が、キリスト教から生まれたものではなく、異教的世界観を土台として生まれたものであること、この概念は、ロシアという国を、国民にとって絶対的なまでに神格化し、国家を守るために国民はすべてを捧げるべきという、国家への絶対的なまでの忠誠・服従を要求する「信仰」にも近いものとなっていることを述べた。そして、そのように「母なるロシア」という概念を用いて、「国」を神聖視・絶対化していればこそ、ロシアの為政者たちは、「神聖な母なるロシアとの結婚」を盾に、自らの権力を強化して来たのであり、その結果、この国の歴史は、異常なまでに肥大化した国家権力が、国民を抑圧的に支配するということの連続となったのである。

ちなみに、ここでは、「母なるロシア」と、神聖な母性と同一視されている国家そのものが、国民を閉じ込める「マトリックス」となっている。

異教的母性崇拝としての「イゼベルの霊」は、このように、国家レベルにまで高められることがある。ロシアと同様の現象が、かつて我が国では、国家神道(国体思想)において見られた。国体思想においては、「子が親を守るべき」という考えに基づき、「臣民は天皇の赤子であるから、天皇のために命を捨てるべき」と説かれ、国民は、天皇制維持(国体の護持)のための防波堤となって、天皇のためにすすんで死ぬことが奨励(ほとんど強制)されたのである。

かつて『国体の本義』において、確認したように、国家神道(国体思想)においても、「マトリックス」の役割を国家が果たした。そこでは、国家は、天皇を中心とする「一大家族国家」とみなされ、臣民は生まれ落ちたその瞬間から、国家と切り離せない関係にあり、その関係は、個人による選択の余地のない、離脱の許されないものとみなされた。国家を離れての個人という概念は、無きに等しい抽象概念であるとされたのである。

さらに、今日、ペンテコステ運動においては、目に見える人間の指導者が「霊の父母」として神格化され、「霊の子」である信者たちは、「霊の親」への事実上の絶対的なまでの従順(崇拝と言って差し支えない)を求められる。そして、そのような歪んだ家族モデルに基づく「霊の家」を全世界に押し広げることが、「リバイバル」であるとみなされる。

この運動においては、教会や、教団などが、信者を閉じ込める「マトリックス」の役割を果たしている。それだからこそ、ペンテコステ運動に属するアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団は、自らの教団から信者や教会が離脱することを決して許そうとしないのである。アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団京都教会の村上密牧師は、自らの教団を自主的に離脱した鳴尾教会のような小さな教会に向かって、徹底的なまでに悪罵の言葉を浴びせ、離脱を許すまじと非難しているが、そうした自由なき恐るべき主張は、ペンテコステ運動が、母性崇拝という「イゼベルの霊」の歪んだ信仰の入れ物となり、この霊の支配に基づき、自教団という彼女の「マトリックス」に信者を閉じ込め、そこから決して逃がすまじとしている姿勢をよく示すものである。こうして、信者から自由と自己決定権を奪い、信者を「子」として教団というマトリックスに閉じ込めることによって、残酷な「母なる霊」の支配から決して抜け出られないように拘束しているのである。

このような側面から見ても、ペンテコステ運動は、キリスト教ではなく、異常な母である「イゼベルの霊」に導かれている悪しき偽りの運動であると言える。異常な母の霊の支配する運動だからこそ、子らが自立して、自らの意志によって自分自身の人生を選び取り、母を離れて自由に生きて行くことを許さないのである。

さらに、「子孫は先祖のために尽くし、年少者は年長者のために仕え、子は親のために命を捨てるべき」といった東洋的な世界観は、W.ニーの著書『権威と服従』などに見られる「年長者の兄弟姉妹の指示に年少者の兄弟姉妹は無条件に従うべき」といった考え方の中にも受け継がれていると言えよう。

このように、「子は親に仕え、子が親を守るために命を捨てるべき」という考えは、偽りの思想につきものの転倒した思想である。すでに他の記事でも述べた通り、本来は、子こそ、親によって守られなければならない存在であり、子が自分よりも強い者である親を守るために命を投げ出すべきなどといった異常な思想の下では、子は親の付属物とみなされて、独立した人格を否定され、成長するために必要な助けを親から得られないばかりか、下手をすれば、親の利益のために自分の命までも失ってしまうことになる。そのような転倒した価値観の下では、子は親の見栄や欲望をかなえる道具として搾取され、犠牲とされるばかりで、正常な生活を送ることは決してできない。早い話が、グノーシス主義・東洋思想における母性崇拝としての「イゼベルの霊」のもたらすものは、親子関係というよりも、搾取と人殺しの思想であると言えるであろう。


・「イゼベルの霊」とは、聖書の神によって自己存在を脅かされていると感じる生まれながらの人類(罪人)の被害者意識のことでもある

イゼベルの霊とは、被害者意識の塊である。なぜなら、この霊の根本には、「聖書の神とキリスト教によって、人類が不当に存在を脅かされている」という恐怖があるためである。

イゼベルの霊は、悪魔に由来するものであり、悪魔は自分が神を裏切っており、まもなく神に裁かれ、永遠の滅びと恥辱に投げ込まれることを本能的に理解している。だが、悪魔とそれに導かれる諸霊は、決してその判決を受け入れることができないので、そこで、「神の下された判決は不当だ」という被害者意識を持っている。そして、この被害者意識に基づき、神に反逆するために、自分と同じような恐怖感や、被害者意識を持つ人間をたくさん集めて来て、被害者意識によって連帯することで、自己防衛の砦を作り上げ、聖書のまことの神という「脅威」に対抗するための霊的要塞を作り上げているのである。

だから、イゼベルの霊は、傷ついた心や、被害者意識を持つ人々を好んで探し出し、犠牲者にふさわしい人間を見つけると、母性本能を最大限に発揮して、聖女のように、慈愛に満ちた優しい母のように振る舞いながら、問題を抱えた人々に寄り添い、かいがいしく世話を焼いてやることによって、警戒心を緩め、そうして彼らの心の弱点を巧みに探り出し、その人間の心を操って行く。

彼女は、初めから悪鬼としての正体を表したりはせず、ターゲットとした人間を優しくかばってやうに見せかけながら、その人間が、自己憐憫と、自己正当化の思いと、被害者意識から抜け出られないようにして行き、その弱みを担保に、自分の繭のようなマトリックスの中に取り込み、偽りの安全、偽りの慰めを与え、彼女のもとを永久に離れられないように拘束して行くのである。

だが、彼女の優しさは、偽りである。だから、イゼベルの霊の支配に落ちた人間は、「自分は悪くない」という思いに凝り固まって行き、他者を責めるばかりで、傷ついた自尊心が回復することもなく、やがて被害者意識から立ち上がれなくなる。そして、その被害者意識によって、「脅かされる母」であるイゼベルと見えないへその緒で結ばれて、イゼベルの自己防衛の手段として使い尽くされて行くことになる。

ペンテコステ運動に関わる信者たちに接触して、彼らの人生についてつぶさに耳を傾ければ、ほとんど例外なく、彼らが何らかの根強い被害者意識を持っていることが分かるであろう。概してこの運動の支持者に共通しているのは、既存のキリスト教界において信仰生活につまづいた過去を持ち、それゆえ、キリスト教界に対して根強い不信感や恨みを持っていること、また、その恨みの裏返しとして、自分たちがキリスト教界の知らない高邁な霊的真理を知っており、神と親しく交わることのできる特別に選ばれた存在であると考えることで、既存のキリスト教界を見返そうとしていることである。

ペンテコステ運動を支持する指導者のメッセージを聞いてみると、その内容は既存のキリスト教界に対する根強い敵意と反感に貫かれ、他の堕落した教会とは異なり、自分たちこそが「神に受け入れられる正しいキリスト教である」という自惚れ、自己の差別化の意識が随所に見られることであろう。

こうした運動の支持者の多くは、幼少期に家庭生活において大きな心の傷を受けており、親に対する恨みを心に持ち続けていたり、あるいは、若い時分に異性との関わりにおいて何か決定的な心の傷を受け、異性に対する不信感や恨みを抱えていたりする。また、社会的弱者である場合が多いため、社会生活において色々と不利な立場に立たされ、この世に対する敵意、被害者意識などを持ち続けている例も往々にして見られる。

そうした被害者意識が、大人になってからは、配偶者に対する恨みに発展し、特に女性の場合は、信者たちは、自分は配偶者から不当に抑圧されている被害者だと考えている場合も少なくない。

だが、真に夫から抑圧されている不幸な妻たちと、以上のような人々との決定的な違いは、ペンテコステ運動の信者たちは、仮に自分を夫の被害者だと考えて自己を哀れみ、夫を加害者のように主張したとしても、決してその不幸な状態に終止符を打つための現実的な努力をしないことである。彼女たちは、愚痴は言うが、決して勇気を持って夫のもとを去ることをせず、夫と真正面からぶつかってでも、自分が望む生活を打ち立てるための努力をしない。むしろ、「夫が改心してキリストの僕になってくれたら、すべては見違えるように変わるだろう・・・」などといった他力本願な解決に漠然と希望を託すことで、現実から目をそらし、考えることをやめ、自らの行動の責任を放棄して、打つべき対策を講じず、状況に翻弄されてなすがままになるのである。だから、彼女たちの愚痴を聞いていれば、結局、あらゆる試行錯誤を行って、真に自由になることを願っているのではなく、ただ何もしないまま、「自分は被害者である」という立場に居直り、すべてを人のせいにして、かつ、自分の努力によらずに、奇跡的な解決が訪れることに期待して生きているだけなのだということが次第に分かって来る。そのような諦めに満ちた生き方は、無責任を助長するだけで、前進を生まない。

カルト被害者にしても同じなのである。仮に裁判によって自分を傷つけた教会や悪徳牧師に一矢報いることができたとして、その先に何が待っているのであろうか? 真実な信仰はどのようにして養われるのか? 多くの場合、カルト的な団体に接近する人には、そうなる以前から、自分の心に、異常な世界観を呼び寄せる土壌が存在する。病原菌が人に害をなすためには、人に何かの弱さがなければならないように、悪霊が人につけ込むためには、ターゲットとなる人の心に何らかの傷が存在しなければならないのである。

だから、信者は、悪しき霊につけ込まれる隙となった自己の弱さを見ずして、自分はただ騙されただけの被害者だと一方的に主張していれば、なぜ自分がそのような場所へ引きつけられたのか、どのような弱点を持っていたためにそうなったのか、その事実を知ることもできず、聖書に反する道を歩んだことを反省する余地も失われてしまう。こうして、きちんと過去の総括の作業をしないまま、自分を一方的な被害者と考えることで、自分を慰めていれば、いつまでも心の弱点はなくならず、一つの悪しき団体を脱会しても、その次にはまた同様のカルトに自ら捕まってしまうだけであろう。

「あなたは被害者である」という偽りの慰めは、人に自己肯定、自己正当化、自己憐憫の思いを吹き込み、被害者意識の中で、真摯な自己反省、自己吟味の機会を奪ってしまう。この偽りの優しさと慰めは、あらゆる事件を通して、人が神の力強い御手の下にへりくだり、自分で思ってもいなかった深みまで、自分の心が探られ、明るみに出されることを妨げる。

何かの事件によって、心傷つけられた人は、当初は、自分は絶対に悪くないと思い込み、ただ耐え難い出来事が身に降りかかったとしか思わないであろうが、なぜ神がそのような出来事が起きるのを許されたのか、それが自分にとってどんな教訓を意味するのかは、何年も、何年も、経つうちに、ようやく分かって来る。一体、自分に何が足りなかったために、そのような事件が起き、自分の弱点がどこにあったのか、自分の側にも完璧に落ち度がなかったとは到底、言いきれないことを、一定の時が経過して、初めて人は理解するのである。

だが、安直な偽りの慰めは、人に「自分は悪くない」という思いをもたらすだけで、人が苦難に真正面から向き合って、自分の心を探る勇気と試みを妨げ、人格的な成長の機会を奪ってしまう。何よりも、自己憐憫の感情と、人間から得られる安っぽい慰めが、問題の只中で、深く、真摯に神に向き合い、信仰によって、ただ神の慰めと神の解決だけを求め続けることを妨げるのである。

結局、イゼベルの霊がターゲットとする人に与える表面的な慰めや、優しさや、同情は、すべて人を真の慰め主である神に至らせず、かえって被害者意識によって、その人を神の敵へと変えて行くための欺きであり、偽りなのである。だから、このような偽りの助けにすがった人間は、ことごとく、歪んだナルシストとなり、やがては自己を絶対化して、自分を神以上の存在として掲げることになる。

イゼベルの魅惑的な美しさは、彼女の優れた母性本能と、あたかもキリストに結ばれた貞淑な花嫁のような偽りの外見から来るものである。この霊は、自分を慈悲深い母、聖女のように崇高な存在に見せかけることができる。母であり、人妻の霊だからこそ、巧妙な誘惑の手練手管に長けており、その罠は、見えにくく、巧妙で、したたかなのである。





(イゼベルの霊と、彼女の霊に支配される「子ら」としてのナルシストたちは、車の両輪のように一体である。それを考えれば、常に指導者の神格化や、信徒の自己陶酔を生んでいるペンテコステ運動が、どのような偽りの霊に導かれているのかも理解できる。)

PR


この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)
(02/28)
(02/22)