忍者ブログ

「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。
それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れたました。」
 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
 そこで、神であるは女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

<…>

 また、(神は)アダムに仰せられた。

 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと、
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみとを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、額に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3:8-19)


「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落語する者がひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:10-11)

筆者がゴットホルト・ベック氏の集会を訪ねていた時分、一体、この集会の何がおかしいのか、最初に気づくきっかけを得たのが、ある遠方の障害者をこの集会に誘ったことであった。

筆者より1つか2つ年上なだけの重度の障害者の姉妹は、日々、車いす生活、もしそのまま何も有効な手を打たなければ、やがて体が麻痺して行って自由を失い、何もできなくなるという症状に見舞われていた。

だが、そうは言っても、心は体とは全く関係なく、元気で、活発に活動を求める。生まれながらの障害者ではないので、倒れる前の元気だったときの生活スタイルや、ものの考え方は今も生きている。だから、彼女は筆者に向かって、しきりに寂しい、と繰り返していた。人との出会いが欲しい、人並みの幸福な生活を送りたい、だが、どうやって出会いのきっかけを得るべきか分からない、などと相談して来るのであった。

筆者の方でも、その当時はまだ月曜日から金曜日まで働きアリのように働く労働者に過ぎず、自分自身のためにも、なかなか時間が取れない有様だったので、筆者に提案できることと言えば、「クリスチャンの交わりに出てみたらどう?」ということだけであった。

むろん、今ではそういう働き方も、交友関係もすべて改め、クリスチャンの友人に関しても、全く違った観点から交わりを持つようになったのだが、当時はまだそのようなライフスタイルの改変の前であった。だから、「ずっと家に閉じこもっていても、何も起きない。すでに通っている教団には満足できない。何もしなければ、体が弱って行くだけ。それならば、なおさらのこと、活動した方が良いと思う」と筆者は提案した。

その障害者が住んでいる土地は、筆者の住まいからは随分、離れているため、筆者自身が彼女を案内することはできなかった。だが、ベック氏の集会であれば、全国各地の色んなところで、集いが開かれているし、親切なクリスチャンに頼めば、車いすの障害者も、健常者と同じように、何の問題もなく受け入れてくれるはずである。実際、この集会には障害者も多数、集っていたのであるから。

そのようなわけで、筆者は当時の知り合いの信者を介して、自分が行ったこともない遠方の集会に、彼女を連れて行ってくれるように頼んだのであった。できるだけ、その集会に彼女と同じ年代のまだまだ若い人たちが大勢、集っており、話が弾むことを願いつつ・・・。

筆者は、彼女が新しい出会いを求めて自分から立ち上がる決意に至ってくれたことを喜び、興奮しながら、主が何をして下さるのだろうかと期待して、結果を待っていた。

ところが、その集会から帰って来るや否や、彼女は大爆発して筆者を責めるのである。まず、気温があまりにも暑く、外出するのにはあまりにも負担が大きかったため、死ぬかと思った、ということから始まり、集会には老人しか集っておらず、期待したような若者は一人としていなかった、挙句の果てには、その老人たちから上から目線で、「毎週、日曜礼拝にはちゃんと出席しなさい」などと、説教めいた叱責を受け、自分が落ちこぼれの信者であるかのように侮蔑的な扱いを受け、婦人たちはみなベールをかぶって説教を聞いているところを見ても、集会全体の進行がこの上なく不気味であった、よくもこんなとんでもないひどい無意味で高圧的な集会に自分を誘ってくれたものだ、この失望と幻滅をどうしてくれるのだ、と言うわけである。

彼女が筆者に向かって「爆発」したのは、これが最初で最後ではなく、体調不良に見舞われると、それに連動して、心の状態も不安定になる病者にありがちなこととして、彼女との関係は最初から最後までトラブルの連続だった。

だが、体の疲労と、「集会には老人しかいなかった!!若者との出会いがなかった!!」という理由がメインで、筆者を責める彼女には、半分は八つ当たりだと呆れながらも、それでも、もう半分では、彼女の思いの中に切実な悲鳴のようなものを感じたので、その訴えを真摯に受け取り、また心に留めた。期待した効果が全く得られなかったのは残念なことではあり、責められるのも割に合わないことではあるが、そんな結果になったのも、何かの警告かも知れないと筆者も心に留めたのである。

最も注目に値したのは、古参信者たちから彼女への上から目線の警告であった。なぜなら、その集会は出入り自由と謳っており、日曜礼拝に人を束縛するようなことは決してしない、と表向きに公言していたからである。にも関わらず、結局は、日曜礼拝に出ることが義務づけられているのだとしたら、それは二重性というものだ。さらに、もしその集会が本当に正しいのであれば、世の中の片隅でかろうじて生きているような弱い存在の一人にも、ただ失望と屈辱的な思いを味わわせるだけには終わらなかったであろうと思われた。

アッセンブリーズ教団の信者であったその障害者に対して、筆者は当時、彼女の置かれていた困難な境遇ゆえに、少しでも助けにならなければいけないように感じ、また彼女も信仰者の一人だと考えていたのだが、それが適切な友情ではなく、また、アッセンブリーズ教団の信者と関わっても何一つ良いことは起きないということが、まだ当時は十分に分かっていなかった。

その障害者は、筆者よりも世故に長けていたので、自分の憤りを、決して筆者以外の人間にはまき散らさなかった。集会の人々には何か適当なことを言って、二度とそこへ行かなくて済むように丁重に断っておき、筆者にだけ本心をむき出しにしたようである。つまり、筆者に色々なことで助けを求めながら、他者の奔走を適切に評価することができなかったのである。そこには、やはり自分は障害者だから、哀れまれ、助けの手を差し伸べられるのは当然という思いがあったのではないかと思う。そして、案の定、結局、その障害者はベック集会への拭い去れない恨みを抱えながら、元のアッセンブリーズ教団へ戻って行っただけであった。

だが、アッセンブリーズ教団の教会でも、彼女は期待したような交わりを得られていたわけではなかった。そのことは折に触れて彼女が筆者に不満をぶつけていた。だからこそ、当時は、筆者自身が、まだ兄弟姉妹の交わりを探し求めていたこともあって、別の信者の交わりを求めてはどうかと提案したのであるが、それも効を奏することはなかった。

だいぶ後になってから、もうベック集会とは関わりがなくなって後、筆者はようやくこの障害者の人生相談に乗ることを一切やめて、彼女に向かってはっきりと言った、「あなたの不満は理解できる。ベック集会には私も同意できない。そういう点で、意見が同じ部分はたくさんある。でも、私はもうこれ以上、あなたの相談には乗れない。」と。
 
そして、問題なのは、ベック集会だけではなく、アッセンブリーズ教団や、既存の教会組織を訪ねても、そこで決して心からの満足は得られないと筆者は考えているため、すべての教会組織を離れて、ただ神だけに直接、心の願いを申し上げ、相談するように勧める、と述べた。
 
少なくとも、自分の通っている教会には片方で良い顔を向けながら、遠方にいる無関係の筆者をまるで教会への苦情窓口のように考えることは正しくない。そのような相談に乗ることはできないし、その関係から生まれて来るものは何もないと考えている。
 
だが、もしも本物の交わりを心から願っているならば、その夢がどうすれば達成できるのか、人の助けによらず、神様に正直に打ち明けて、答えが得られるまで本気で模索すべきであり、神はその願いを理解して下さると筆者自身も確信している・・・。

おそらく、筆者の印象では、この信者はその後も、アッセンブリーズ教団を離れることはなかったのではないかと思う。アッセンブリーズ教団というのはそういう弱みを抱えた人たちを取り込んで成り立っている組織だからだ。多くの弱みを抱えた人たちに寄り添って、巧みに彼らを助けてやる風を装いながら、教会員として利用し、団体に拘束し、彼らの悲劇の物語を団体の手柄に変えて、宣伝材料にして行くということが行われている。このような教団から見れば、障害者は、その障害が重ければ重いほど、利用できる宣伝材料である。

最近では、こういう心理的トリックは感動ポルノとして障害者自身からも批判を浴びるようになって来たが、当時はまだそういう風潮も生まれてはいなかった。こうした事情から、結果的に、格別な弱みを抱えた人たちばかりがこの教団に集まっている。何年間、この団体に所属しても、彼らはいつまで経っても、その弱みから抜け出すことができない。だから、今も上記の信者がずっと同じ不満を抱えながらこの教団に通い続けているのだとしたら、それは極めてむなしいことである、と筆者は思う。

さて、ベック集会に話を戻せば、筆者は若者との出会いを求めてこの集会に通ったわけでは全くなく、エクレシアを模索する上での通過点でしかなかったのだが、その後、この障害者が味わったのと似たような体験を、筆者も覚えることになった。筆者は新たにこの集会とはもともと何の関係もなかった、ある相当に年配の「兄弟」を集会に紹介した。それは、集会の人々の熱心さには、筆者の心にも何かしら解せないものがあって、一体、長年の信仰者である第三者の目から、この集会はどう見えているのかを判断するためのリトマス試験紙とするためでもあった。

当時、その兄弟は筆者に近しいところにおり、すべての事柄について同意できる意見を持っていたわけではなかったが、それでも筆者の芽には、経験豊かな信仰者だと見えていたので、もしその人の目から見て、この集会に危険があるようであれば、必ず、筆者にそのことを教えてくれるはずだと思ったのである。

ところが、またしても予想外のことが起き、事態は違う方向へ進んだ。長老のような風格のその年配者の「兄弟」を集会に紹介するや否や、それ以前に、筆者と親しくしてくれていた兄弟姉妹の関心が、一斉に彼に移ったのである。何しろ、当時、その兄弟は70代、筆者は30代の半ばである。年齢だけを見るならば、40歳近い年の差があり、筆者など、全く比較にならないほんの小娘に過ぎない。特に、ウォッチマン・ニーを重んじ、年功序列を重んじていたその集会では、ウォッチマン・ニーに精通する長老級の人物の登場を目の前に、筆者の存在はまるでないがごとくに忘れ去られた。

いや、忘れ去られたくらいならばまだ良かったのだが、何かしら、それまでには一度も見たことのないような、訳の分からない侮蔑的な眼差しが、他の兄弟姉妹から感じられるようになったのである。つまり、筆者が自分で紹介したその長老級の兄弟と、もともと集会にいた兄弟姉妹たちが、いつの間にか、筆者の知らないところで結託し、筆者についてよからぬ噂話を色々言い広め、その結果、彼らが筆者をまるで青二才のような侮蔑的な目つきで見下し始めたことがうすうす感じられたのである。

案の定、しばらくすると、その侮蔑的な眼差しはやがて非難の態度へと変わって行き、以前には親しく交わっていたはずの信者たちから、筆者の態度が不遜だ、とか、自分の子供だったらそんな態度は許せない、とか、集会に対する貢献が十分でない、等々の非難が起きた。

その時、筆者は、かつてこの集会に出席した障害者が味わった苦痛が、一体、どこから来るものであったかをよくよく理解した。「高齢者が高圧的な態度で威圧して、上から目線で偉そうに説教して来た。自分などそこでは全く相手にされていなかったし、歓迎されてもいなかった。しかも、自分のことは何でも知っているかのように初対面の信者からほのめかされ、不気味この上なかった。自分は何か薄汚い罪人の一人のように、粗末にしか扱われなかった。断じて許せない」という彼女のクレーム内容を明確に理解したのである。

すでに当時、筆者はKFCの事件をも通過した後で、KFCでいわれなく「悪魔扱いされた」という出来事ですっかり免疫が出来てしまっていたため、信者から侮蔑的な態度を取られたり、いわれない非難をこうむったり、良からぬ噂を立てられるなどのことは、日常茶飯事として、ほとんど動じないまでになっていた。そのように仲間の信者を絶えず陰で中傷し、様々な憶測に基づいた噂を言い広めて酷評しているような団体は、およそまともな団体ではないので、そこにいる人たちから覚えめでたい人間になろうと努力する必要など全くないのである。むしろ、そこで高く評価されているような人間は、決まってまともな人物ではないと判断して差し支えない。

さらに、他の事件を通して、筆者はこの長老級の「兄弟」の性格をもよく理解していた。この集会に限らず、別の交わりでも起きたことであるが、この兄弟を別な信者に紹介すると、誰もが、彼を師と仰ぐようになって、この兄弟に心酔してしまうのである。そして、筆者が紹介した人間が、この兄弟に「弟子化」され、そこに教師と生徒のような序列が出来上がり、すっかり交わりが壊されてしまうのである。筆者から見ると、このような効果は決して良いことではなく、ただ集会の側だけに原因があって起きていることだとも思えなかった。もともとその兄弟の心の中にあったものが、外に出て来て、集会の人々の心の中にあるものと響き合って、序列や差別を生んでいるだけである。

はっきり言えば、『権威と服従』の内容を額面通りに受け取り、自分は年長者だから、親だからと、すっかり心の中で偉くなってしまった人たちが、自分をひとかどの信仰者だと己惚れ、これを他者にも認めさせようと、互いに連帯して、自分たちよりも若く未熟で、説教相手になりそうな信者を捕まえて来ては、彼らを従わせるために包囲網のような城壁を築き上げているだけである。筆者はいつの間にかそれによって追い詰められていたのである。

そのことに気づいた瞬間、筆者は全力でそこから逃げ去った。老人たちに取り囲まれて罪人として非難され、彼らの注文に従わないと、いずれ「悪魔扱いされて追放される」という、あまりにも見え透いたお決まりのパターンに至るよりも前に、そのような愚かしい出来事によって精神的に打撃を受けることを拒否してその場を去ったのである。

その際、ただ単に逃げ出すだけでは、彼らの非難を十分にかわすことはできまいと思ったので、去り際に、最後の交わりの際、それまでに筆者が観察して気づいた集会のすべての自己矛盾を洗いざらい彼らに提示しておいた。

雑居ビルの半地下のようなところにある食堂での会話であった。二対一で責められ、まるで筆者が何か悪いことでもしたかのように、懺悔を迫られそうになる状況の中で、筆者はひるまずにこう反論した。

「私を含め、あなたがたが『集会に従順でない』と思う人たちを一方的に責めるよりも前に、この集会そのものの異常さを考えてみるべきではないでしょうか。なぜあなたたちの集会では、牧師制度を持たないと言っているのに、ベック氏という、牧師にも何倍にもまさる絶対的な権威を置いているのですか? これはまさに偶像礼拝以外の何物でもありませんよね? ベック氏を神様にしてしまっているのではありませんか? それに、どうして集会では兄弟だけがメッセージをし、家庭集会では、姉妹だけが料理をするのですか? この男女の古典的・差別的な役割分担は何でしょうか? なぜあなたがたの集会では、出入り自由と言いながら、実際には、集会に毎回、出席しないといけないプレッシャーがかけられるのですか? 全く出入り自由じゃないですよね。しかも、どうしてある人たちは、まるで謹慎のような処分を受けて、集会に出入り禁止にされたりしているのですか? どうしてあなたたちは献金の使途を明らかにしないのですか? どうしてあなたたちは証と称して、自分たちの過去の罪を赤裸々に語り、互いのプライバシーをあけすけに共有しては、噂話に明け暮れているのですか? どうして集会で発行される証集の中に信徒の学歴を記し、立派な社会的地位をもった人々を積極的に集めようとするのですか?

なぜあなたがたは、一方ではあることを題目に掲げながら、他方では、それに公然と矛盾した行動を平気で取るのですか? それは嘘であって、偽善ですよね。そんな偽善に比べれば、最初から約束などしなかった方がよほど誠実です。牧師制度を持たないと言っていながら、牧師制度以上に強力な指導者崇拝を作り出しているあなたかたは、あなたがたが非難している牧師制度を持つ教会よりももっと罪が重いのではありませんか…。」

筆者の疑問は無限にあったのだが、それを聞いた人たちは、特に、ベック氏の権威に関して筆者が投げかけた疑問を、たじろぎながら懸命に否定していた。それは偶像崇拝ではないかと言う筆者に向かって、彼らは言うのだった、「いや、人間の指導者なしに、我々は信仰を保つことはできない・・・」

まさに「本音が出たな」と感じられる瞬間であった。ドストエフスキーの大審問官の姿が心に思い浮かんだ。結局、KFCと同じように、神だけに信者が従うのではなく、人間の指導者に信者を従わせ、人間の作った組織の序列の中に信者を拘束して行くことが本当の狙いなのである。牧師を持たない、指導者を置かない、我々の集会は対等な兄弟姉妹の交わりだから、序列などない、などと言いながら、その舌の根も乾かないうちに、どんな牧師制度よりももっと強力で絶対的な指導者を作り出し、その独裁者の前に信者たちが跪くのである。そして、その指導者を頂点として、信徒たちの序列を作り出し、自分よりも弱く未熟な者たちを自分の配下に従えて行くのである。そんな生活が、主イエス・キリストだけに従う信仰と何の関係があろうか。

到底、分かり合うことのできないその会話の最後を、筆者は次のように締めくくった。「私にはそのような自己矛盾と偽善に満ちた不誠実な理念に基づく集会が、本当に聖書に合致したエクレシアの姿だとは到底、思えません。ですから、たとえそんな集会に集っている偽善的な人々から非難され、罪に問われたところで、私が悪いのだとも思っていません。むしろ、間違っているのはあなたがただと確信しています。」

多分、そうでも言わないことには、それまで集会で受けて来た数々の恩恵を返せと責め立てられかねない雰囲気であった。彼らは非常に憤慨し、筆者を生意気だ、不遜だ、恩知らずだ、と考えて、鼻息荒く責め立てようとしていたが、もうそれ以上のことは、聞いても無駄である。親戚でもなければ、親でもなく、ほんの数ヶ月程度の知り合いでしかない人間から、そこまで言われる筋合いも全くない。筆者も何も言わせず、退席した。

筆者はこうして、その集会でかつては親しくしてくれていた、恩人のようでありながらも、今となっては筆者に尽きせぬ憤りを燃やすようになった信者たちを振り切って逃げた。彼らの知的レベルも、KFCとは異なっていたので、悪魔だとか、イゼベルだとか、ユダだとか、そういう愚かしい非難の言葉が飛び交う、あまりにも馬鹿げて幼稚な修羅場は避けられたが、それでも、ほんの小娘に過ぎない人間が、20も30も年上の複数の信者たちに囲まれて、その非難を交わすのは大変な労力が要る。まるで、カルトである。もちろん、筆者の心には恐れはなく、誤った教えと序列に導かれる団体に対するどうしようもないやるせなさと拒否感があるだけであったが、それでも、町を歩いているうちに、悪徳キャッチセールスにつかまって、怪しげなオフィスに連れて行かれ、理不尽な説得によってさんざん不当な契約を迫られながら、命がけで何とかそれを拒否して逃げて来た市民のような気分であった。

それと並行して、筆者の紹介で、集会に後からやって来たのに、筆者を差し置いて、すっかり集会の「権威」となってしまった長老級の兄弟にも連絡を取ってみた。その際、やはり、筆者の知らないところで、この兄弟が他の兄弟姉妹と筆者の情報を内密にやり取りしていたことを、兄弟自らが白状した。

その兄弟が無言のうちに言わんとしているのは、要するに、こういうことであった。「他の兄弟姉妹に助けを求めても無駄だよ。あなたの弱みは、全部、私だけでなく、彼らももう知っているのだからね。観念して、私たちの言うことに従いなさい。」

こういう事態も、その時が初めてではなかった。何年も前に、やはり筆者が紹介して始まった別の交わりでも、この兄弟はこのように、筆者を中傷することによって、筆者が紹介した信者を筆者から遠ざけ、自分に心酔させた上で、筆者を交わりから排斥しようと試みたことがあったのである。その事件をはっきりと思い出した。そして、やはりあの時起きたことは、筆者が確信した通りだったのだなと理解した。

またしても、筆者は、この人物によって出し抜かれ、交わりを奪われて、弾き出されてしまったのである。だが、そんなことは筆者にとってどうでもよかった。ようやくこの「兄弟」の心の本質が見えたことに、かえってほっとする思いであった。つまり、交わりにおいて自分が教師のように注目されて、その交わりの中心人物となり、交わりを作るために助力してくれた人間を追い出して、それを私物化したい、というのがその「兄弟」の本当の狙いだったのである。

普通の人であれば、いつの間にか、信頼していた人たちに裏切られていたと分かれば、それだけで相当なショックを受けるであろう。だが、筆者にとっては、こうしたことは、すでに気づいていた予定調和的な結末に過ぎなかったので、特に驚かなかった。

だが、その兄弟は筆者から頼りとしている信者を剥ぎ取ったことで、心理的打撃を与えることができたと思ったのであろう。それを機に、彼は強気になって、あろうことか、筆者の方がこの集会に先にやって来て、筆者の紹介で自分がその交わりに出るようになったというのに、完全に筆者を小娘扱いして、明らかに断罪口調で、次のように言った、「ヴィオロンさん、〇×兄弟姉妹に無礼を謝りなさい! あなたの生活には十字架がない! あなたにはちゃんとした教会に所属することがぜひとも必要です!! これからも日曜ごとに〇×集会に出席しなさい!!」

何か現実というよりも、絵に描いた物語のようだと、心の中で呆れる展開であった。ほんの数ヶ月前に、筆者の紹介で、後から来たはずの兄弟が、まるで集会の長年の古参信徒のように、集会へ出席しなさいと筆者に説教して来るのにも恐れ入ったが、それをしかも、常日頃から、「エクレシアは組織ではない」とか、「ベック氏を頂点とする集会のあり方には疑問を感じる」などと筆者に隠し立てなくあけすけに語っていた人が言うだけに、この自己矛盾というか二重性には、心底呆れるのであった。その「兄弟」はリーダーを置かない交わりのあり方を提唱していたので、ベック氏が集会の頂点に立っていることには、もとより感心していなかったのである。

以前の筆者は、今よりもはるかに未熟で、自分の判断に自信がなく、繊細で、感じやすく、周囲の人々の言動に影響されやすく、彼らの助言を相当に重んじていたために、もし突然、身近な兄弟姉妹の誰かから叱られたり、非難されたりすれば、自分に落ち度があったのではないかと思い、あれやこれやと思い悩んだことであろう。少なくとも、深刻なショックを受けたものと思う。だが、この頃には、すでにKFCでの前例があったため、こうした人々の主張にあるカラクリが、予め手に取るように見えてしまっていたのである。

要するに、結局、そこにあるのは年功序列、男尊女卑などの、この世的な数々の差別や弱肉強食の理念と、そうした世的な価値観に基づく地上的な組織・人間関係の中に、信者をからめ取り、支配し、従わせようという欲望だけなのであった。年長者が権威となって年少者に君臨し、目下の人間を犠牲にして、その人間から栄光を吸い上げ、収奪の対象としたいという欲望によって、組織全体が支えられているだけなのである。そこでは、目に見える人間の序列のピラミッドが絶対化され、その中に信者を組み込んで、霊的搾取の材料にするために、各種の説得や感化が試みられているだけで、神や聖書や信仰は、この支配と搾取の体系を正当化するための隠れ蓑に過ぎない。むろん、本当に信仰を持つ信者たちもいるにはいるのだが、この偽りの体系の中では、制約を受け、どうすることもできない。そんなものが、聖書に基づく適切な信仰生活や、信徒の交わりではあり得ない、筆者は今でもそう考えている。

しかも、そこでは、ただ霊的搾取が行われるだけではない。KFCを振り返ればよく分かるように、彼らのひそかな楽しみは、常に誰かに罪人・落伍者・失格者という烙印を押して、彼らを集会から排除する一方で、自分たちは合格者だ、神の選ばれし勝利者だ、選民だ、義人だと優越感に浸り、排除した人間を苦しみに追いやって、自分たちは楽しい行事に邁進して勝ち誇ることにある。

いわば、霊的カースト制を作って、常に誰かを見下し、排除し、懲罰を加え、賤民の階級に投げ落としては、必要のない苦悩を味わわせ、その人々に君臨して優越感を味わうことによって、それを自分たちの「霊的な進歩」の証拠とみなし、高慢な自己肯定の根拠としているのである。もしそのように誰かを見下す優越感がなければ、つまり、排除したり、罰したりする相手がいなければ、彼らの自負心は満たされず、その偽りの「信仰生活」は一歩たりとも前に進まなくなるであろう。もし彼らが心の中では蔑んでいる「賤民」たちが、彼らの正体を見抜き、彼らの魔の手を振り切って逃亡し、反撃し、自由になろうものならば、たちまち彼らの「偉さ」も幻想として失われ、消えてなくなるであろうと思う。

だから、筆者は、そのような考えを持つ人間から、日曜礼拝に出席しないことや、特定の集会に属さないことを「罪」として断罪されても、まるで他人事のように影響を受けることなく、冷静に言葉を返した。「〇〇兄弟、でも、あなたはエクレシアは人間の作った組織ではないとあれほど言っていましたよね。日曜礼拝を義務化している教会は、間違っているし、おかしいとあれほど言っていましたよね。毎週、同じ指導者を見物するために、同じ場所に、同じ時間に、一定のお客が集うなんて、そんなものは神への礼拝でもなければ、信仰生活でもないと、言っていましたよね…。なのに、どうしてあなたは、自分でも間違っていると最初から分かっているものを人に勧めるんですか? どうしてそんな提案に私があえて応じなければならない理由があるんです…?」

その兄弟はさすがに電話口の向こうで苦笑した。「それはそうですが…、ヴィオロンさん、でもね、それは私たちだからこそ分かっていることで、彼らにはその真理がまだ見えていないんですよ。彼らは教会からは出たかも知れないが、まだどういう交わりがあるべき姿なのか、分かっていないんです。だから、自分たちが作っている制度が中途半端で、不完全で、間違っているということも、彼らには分からないんです。彼らの礼拝はまだ不完全なんですよ、ヴィオロンさん。彼らには見えていないのだから、仕方がありません。

でも、問題は、彼らの作った制度は不完全でも、彼らに信仰はあることです。だから、私は一概に彼らを切り捨ててしまうことはできないんです。私はそんな彼らに仕えているんですよ。責めるんじゃなく、仕えているんです。彼らが気づいてくれるようになるまでです。もちろん、彼らが交わりの扉を閉ざすなら、それは仕方がありませんが、そうならない限り、私は彼らにも働きかけます。

あなたにはそういう気持ちはないんですか? あの人たちが、あなたが納得するレベルに達していないから、だから我慢がならないと、あなたは彼らを切り捨てるんですか? 彼らが分かるようになるまで、見守って、助けてあげようとは思わないんですか?」

筆者は憤りを感じつつ、それでも冷静に答えた。「要するに、それは自分には真理が分かっていて、彼らにはそれが見えていないから、真理が分からない可哀想な人たちの目が開かれるまで、自分が彼らの世話をしてあげようという話ですよね。そんなのは、私に言わせれば、親切心でもなければ、謙遜でもなく、兄弟姉妹に仕えることでもないと思います。ただ単に人を上から見下しているだけです。

そんな考えでは、ミイラ取りがミイラになるだけですよ。彼らのほとんどは絶対にベック氏から離れることはないと思いますし、ベック氏に理解を示さないあなたが、ベック氏から離れるようにという影響を彼らに与えることが、彼らにとって本当に益になると思いますか。そんな方法で彼らを目覚めさせ、変えることができるとは私は思いません。むしろ、それは集会に分裂をもたらそうとすること以外の何物でもないのではないでしょうか。たとえベック氏を信奉することが間違っていたとしても、彼らがその罪に自主的に気づくまで、誰にもどうしようもありません。あなたがそれに関わることに何の意味がありますか? 

あなたのしていることは人助けではない。自分の望むレベルに達していないと、心の中で密かに見下し、蔑んでいる人たちをわざわざ相手に選んで、その人たちにかいがいしく上から手を差し伸べ、助け起こし、尽くしてやって、彼らもいつかは自分のように目が開かれて進歩するだろうと思いながら、自分の優しさや親切心に、自分で酔いしれる、それは本当の親切ではないです。

そんなのは高慢であって、奉仕でもなければ、人助けでもない。ただ自分が人よりも優位に立ちたいから、指導的立場に立ちたいから、いつも自分よりも明らかに劣っていて、弱みを抱えて、真理が見えていない人間をそばに呼んで、関わろうとしているだけであって、それは恐れや劣等感から来たことであって、そこには彼らに対する真の敬意がないのです。しかも、あなたの親切は、彼らにとっては全く無用の長物で、有難迷惑でしかないでしょう。

彼らはベック氏から離れないと思いますよ。そんな風に、相手を見下げながら、その人たちの集会をかき回し、分裂に追い込むような関わり続けても無益でしかないと私は思います。間違っていると分かったものからは、ただ静かに離れるだけのことです。自分でも間違っていると分かっているものに、わざわざ関わり続けることは有害です。誤謬の中にある人を目覚めさせようとしても、自分が害を受けるだけです。しかも、誤謬の中にある人を捕まえて来て、その人たちと一緒になって、私を責めようというのではナンセンスです。あなたはまるで私が十字架を経ていないかのように言いますが、真に十字架を経ていないのは、一体、誰なんでしょう?」
PR


この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(03/20)
(03/05)
(02/28)
(02/22)
(02/17)
(02/15)
(02/14)
(02/11)
(02/04)
(01/31)