忍者ブログ

「平 和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(Ⅱテサロニケ 5:23-24)

キリストの命は私たちの霊、魂のためだけでなく、私たちの身体のためでもあります。神は私たちの霊と魂だけが聖くされるだけでは決して満足されません。も ちろん、肉体の完全な贖いは、来臨の時を待たねばなりませんが、地上に生きている間にも、私たちは主イエス・キリストの贖いが私たちの霊、魂、肉体のすべ てに及ぶものであることを知ることができます。繰り返しますが、主イエスの贖いは私たちの肉体のためでもあります。そのことを知って、私たちは思いと、肉 体を攻撃するあらゆる病、弱さ、圧迫、死を拒絶し、信仰によってこの身体を健全なものとして守り通すべきです。

良きサマリヤ人のたとえを私たちは知っています。道に行き倒れていた旅人の姿は私たち自身です。そして隣人とは主イエスです。ある兄弟が語ってくれた通り、律法に照合するなら、民数記19:11-12に記されている、死人に触れた時の3日目の清めは十字架の型です。私たちはかつては真理を知らず、無分別で、情欲と快楽の奴隷となり、悪意と妬みで日々を過ごすだけの生まれながらに神の怒りの子であり、罪によって神に対して死んでいました。

しかし、主イエスは死んでいた私たちのそばを通りかかり、私たちの苦しみを見過ごしになさらず、私たちを抱き上げて乗り物に乗せて、宿へ連れて行ってくださり、その治療にかかる全ての代金を支払ってくださいました。

これは、主イエスの十字架を信じて、私たちが罪と肉とこの世に対して死に、死から命へと移され、神に対して生きる者とされたことを意味します。しかし、聖 霊の証印を受けて、私たちの知ったこの3日目の贖いは手付金に過ぎません。私たちの治療には本当は「もっと費用がかか」るのです。それは私たちの贖いには まだ続きがあることを意味します。

何ということでしょう、主イエスはこう言われるのです、「もっと費用がかかったら、私が帰りに支払います」(ルカ10:35)と。これは、主イエスが再び戻って来られることと、その時に私たちの完全な贖いをなして下さることを告げています。その時に私たちは7日目の清めを受け、この肉体においても全く聖くされ、復活の身体を受けて、主の栄光の似姿へと変えられるのです。

今、私たちは3日目から7日目の間にいます。7日目は近づいています! この喜びをどうして霊の内に感じずにいられるでしょう? 冒頭に挙げた御言葉はこの観点に立って、私たちが来臨に備えるように呼びかけています、私たちが、霊、魂、肉体のすべてにおいて、来臨の日に「責められるところのないように」、完全に守られるように神に願いなさいと教えているのです。

私たちはこの文脈についてよく考えてみなければなりません。なぜならこの御言葉は、もしも私たちが霊、魂、肉体のすべてにおいて神の完全な守りが備えられ ていることを信じず、その守りの中にとどまらないならば、不信仰のゆえに、来臨の時に責められる者となってしまうかも知れないと警告しているからです。今 回は、特に、私たちの身体が完全に守られることの必要について考えてみましょう。

これは私たちが苦難や病に遭ってはならないと言っているのではありません。ヨブがそうであったように、神は私たちを子として訓練されるために、時に私たち を病にあわせ、肉体を打たれ、苦難にあわせられることがあります。神は苦難を通して私たちの信仰を練られます。しかし、主は決していつまでも怒られ、いつ までも私たちを懲らされる方ではなく、私たちが御手の下にへりくだり、服従を学ぶなら、速やかに私たちにもとの繁栄を、いや、もとの二倍の繁栄をさえ返し て下さり、私たちを自由とし、健やかな者として下さいます。

私たちは忘れてはなりません、「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。」(ローマ8:6)  ですから、私たちは決して、自分から苦難を求めたり、まして、死を求めるべきではありません(否、私たちはすでに死んだ者であって、私たちの命はキリストとともに神のうちに隠されているのです)。ダビデが述べたように、私たちは時に「死の陰の谷」を歩くかも知れませんが、それでも私たちは「わざわいを恐れません」、なぜなら、「あなたが私とともにおられますから」(詩篇23:4)

私たちは決して、全ての苦難が神から来ると思うべきではありません。十字架という名目を装う、サタンからやって来るいわれのない圧迫、無用な苦しみ、病、 死は拒絶すべきです! 何が神の与える苦しみで、何が罪やサタンから来るいわれのない苦しみであるか、私たちははっきりと見分けなければなりません。そし て後者を拒絶し、追い返すべきです!

ダビデは言います、「あなたのむちと杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4) これは神から来る苦難が、私たちに結果として慰めを、いつくしみ、恵み、命をもたらすことを示しています。しかし、サタンの与える苦難は、人の霊、魂、肉体をいたずらに傷つけ、人生をただ荒廃させるだけなのです。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリント7:10)。 私たちは苦難には二種類あることを見なければなりません。もしも神の御心によって人が懲らされるなら、その時に生じる悲しみは、へりくだり、悔い改め、救 い、平和といった実を結びますが、サタンの与える無用な苦しみは、人を悔い改めや救いに導くことなく、かえって心頑なにし、ただ無益な苦痛を長引かせた上 で、ついには死へと追いやるのです。

私たちはサタンから来る苦しみを拒絶し、サタンによって人生が盗まれ、荒廃させられ、死へと追いやられることを拒絶すべきです! 私たちは死に立ち向か い、主イエスが与えて下さる命を選び取り、しかも、豊かに命を得るべきです。それが神の御心だからです。主イエスは言われました、「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10) 

主は地上におられた間、信仰によって応答した人々の病を癒され、死の恐怖のとらわれから解放し、自由を得させました。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」と言った病人に向かって、主は言われました、「わたしの心だ。きよくなれ。」(マタイ8:2-3)。このことは、私たちが、霊、魂、肉体の全てに渡って、聖められ、新しくされ、完全とされることが、神の御心であり、私たちの肉体も健やかであるようにと神が願っておられることをはっきりと示しています。

ですから、私たちは生きている限り、神のいつくしみと恵みとが、私たちを追ってくることを求めるべきです! 敵前で主が私たちのために食事を整え、私たち の頭に油を注いでくださることを求めるべきです! 悩みの日に、主が私たちの完全な守りの砦となって下さり、私たちを悪しき者の全ての圧迫から完全に守っ て下さることを信じるべきです! 私たちは無用な圧迫を全て退けるべきであり、苦難を日常的なものとして迎え入れてはなりません。たとえ束の間、主に懲ら されることがあっても、断じて、必要以上に苦難の中にとどまろうとしてはなりません!

注意して下さい、多くの異端の書物は、死後の世界の美しさについてまことしやかに語り、私たちの心を巧みに死へと誘います。病、貧困、死を甘く美化する多 くの書物があります。多くの人たちはそれに欺かれて、病や、死をまるで美しいもののように考えて憧れ、まだ主の定められた時が来ないのに、時期尚早な死を 遂げた人々を美化し、それが、神の御心であるかのように勘違いしています。そうしているうちに、自分も早々と召されることを願うようになり、地上で果たす べき召しを軽視するか、あるいは、あきらめてしまうのです。

しかし、私たちは苦しみや、病や、死を美化する誘惑的な教えを心に受け入れるべきではありません! 生きている今から、病や死と戯れたり、死と協定を結ん だりしてはなりません! 私たちはいわれのない病や、無意味な苦しみ、時期尚早な死を断固、拒否すべきです。そして、信仰によってキリストの命を選び取る べきです! なぜなら、御言葉ははっきりと、私たちが御霊によって生きるべきであること、いや、それが私たちに与えられた権利であることを告げているから です、「もしイエスを死人の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

私たちの目の前には、いつでも、命の道と死の道が置かれています。何を信じ、何を選ぶのか、決めるのは私たち自身であり、私たちは自分で意志を活用して、 積極的に御言葉によって真理を選び取り、虚偽を心から退けねばなりません。私たちの肉体のうちには、常に罪と死の法則が働いており、もしも何も考えずに、 ただ肉に従って生きるなら、私たちは死ぬ他ないでしょう。しかし、キリスト・イエスにある命の御霊の法則は、私たちを罪と死の法則から解放したのであり、 この事実を信じ、選び取り、その事実のうちに堅くとどまり、御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ8:13)

思い出しましょう、ラザロが死んだ時、主はマルタにこう言われました、わたしは、よみがえりです。いのちですわたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)

マルタは信仰によってこのことを信じると告白したことにより、死んだ兄弟をよみがえらせてもらいました。使徒の時代にも、命の御霊の法則により、幾人かの死んだ者が復活にあずかったことを私たちは知っています。しかし、私たちはそこからさらに進んで、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありませんという衝撃的な御言葉の意味を考えてみたいと思います。これは携え上げのことを言っているのではないでしょうか。主はマルタに問うたように、今日、私たちに問うておられるのではないでしょうか、「このことを信じますか」と。

ですから、私たちは死を見ないで生きたまま主にお会いして、携え上げられるかも知れないという望みを持つべきです。いや、それを目指すべきです!

もう一度言いますが、私たちは時ならぬ死を来たらせるだけの世の悲しみや苦難を拒絶して、苦しみを美化したり、苦しみの中で感傷にふけるのをやめて、その ようなものを心から追い出し、命を選び取るべきです。時が来て、もしも主が私たちに殉教を求められるなら、それに従うことも素晴らしいことではあります が、何よりも、携え上げを願うべきではないでしょうか。殉教とは、キリストのよみがえりの証人として立ち続けることと同義ですから、殉教を願うならば、何 よりも、その者自身が、この地上において、死を打ち破ったキリストのまことのよみがえりの命を知って、その命に生きるべきです。復活の命の何であるかを知 ることもないうちに、絡みつく罪と、地上の重荷と、サタンの圧迫にひしがれて打ち倒されることを、私たちは断固、拒否すべきです。私たちは無意味な苦難を きっぱりと拒絶し、死を戸口まで追い返すべきです。ハデスの門を閉ざすべきです!

ラザロの死を目の前にした時、主は「霊の憤りを覚え、心の動揺を感じ」(ヨハネ11:33)ら れました。神は罪と死を憎んでおられます。神が最初に人間を造られた時、そこに死はありませんでした。死はサタンを通して人類に罪が入り込んだ結果として もたらされたのであり、死は罪の終局的な実です。主イエス・キリストは、御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を得るために、ご自分の肉体を 裂いて十字架で死なれたのであり、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人人を解放してくださった(ヘブル2:14-15)のです。

パウロはコリントの教会の信徒たちに宛てて、彼らの間に多く見られる肉体の弱さ、病、死は、不信仰の結果であるとして責めています、「そのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。」(Ⅰコリント11:30) 弱 々しさの中に平然ととどまっていたコリントの信徒たちに、パウロは異議を唱えました。死を打ち破った方のよみがえりの命をいただいているのに、彼らのうち に神の命の強さがほとんど現れていないのはどうしてなのでしょう? なぜ信徒たちは絶え間なく圧迫され、地上のことばかりを思い、互いに争い、食い合って 相身を滅ぼし、自分の命のことばかりで絶え間なく思い煩っているのでしょうか? それは神の御心を退けることを意味するのではないでしょうか?

パウロは肉体に一つのとげを与えられていましたが、その弱さ のうちに、絶えず、神の強さの供給を受けていましたので、決して、自分の弱さについて人の同情を乞う必要はありませんでした。また、何か並外れた障害を抱 えている弱者、受難の人として、自分をアピールしたり、人の助けを求める必要もありませんでした。パウロが「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(Ⅱコリント12:9)と言ったとき、それは「キリストの力が私をおおう」ことを誇っていたのであり、彼は「神の強さ」を誇っていたのです。だからこそ、彼は「私が弱いときにこそ、私は強い」(Ⅱコリント12:10)と大胆に言えたのです。

ですから、キリスト者は、断じて、自分の欠陥、自分の弱々しさを誇りとすべきではありませんし、苦しみが作り出す「受難の人」のイメージを、自分の信仰の美的なシンボルにすべきでもありません。神は私たちがどんなに弱くとも、御言葉のうちにとどまり、御言葉を行うならば、
「力ある勇士たちよ」(詩篇103:20)と 呼びかけて下さるのであり、私たちはキリストの強さが自分を覆うことを信じるべきです。欠乏や、弱さや、病や、死と感傷的に戯れ、それらを両手で大事に抱 きかかえ、いつまでも仲良く手を携えて歩けると思ってはなりません。そんなことをすれば、死が私たちを捕えて飲みつくすでしょう。しかし、キリストの命は 統治する命であり、私たちを真に健やかに、自由とします。それは私たちをあらゆる欠乏から解き放ち、死の奴隷的恐怖から解放し、真に健やかに自分自身を治 めることを可能とし、さらには地を治めることさえも可能とします。

「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(マタイ5:48)、と主は言われました。神の御心は、私たちが非難されるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝」(ピリピ2:15-16)くことです。

このことは私たちの品性や、行いや、霊や魂の状態について言えるだけでなく、身体についてもあてはまります。律法の時代に、神に捧げられたのは傷のない動 物でしたが、私たちは今日、神に捧げられた生きた供え物です。主が望んでおられるのは、傷のない完全な供え物であることを、私たちは思い出す必要があるの ではないでしょうか。多くの人は、それは自分とは関係ないことだと思っていますが、断じて、そうではありません。主が迎えようとしておられるのは、
しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会」(エペソ5:27)であり、そのために、神は私たちを世界の基が置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。」(エペソ1:4) 

神が私たちを聖く、傷のない者にしようと願っておられることに心を留める必要 があります。御心を退けてまで、弱さや、傷や、不完全さにしがみつくことに何の意味があるでしょうか。キリストの統治する命がどのような力と性質を伴うも のであったか、私たちは思い出す必要があります。主イエスは言われました、「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」(マルコ16:17-18)

私たちは自分自身から目を離し、青銅の蛇――すなわち十字架のキリストを見上げます。主の死 を見つめ、主の死を受け入れ、主の死と一つとなるならば、私たちは蛇の致命的な毒から救われて、主のよみがえりの命によって生きるのです! 今までは蛇が 私たちをつかんでいましたが、今は、私たちが蛇をつかみ、ふるい落とすのです! 私たちは自分がどのような瞬間へ向かって歩いているのか、もう一度、思い 出す必要があります。私たちは7日目の清めに向かって、すなわち、完全な贖いに向かって歩いているのです! その日には、私たちはキリストとともに栄光の うちに顕れます。もはや死も、悲しみも、苦しみもありません。なぜなら、神ご自身が私たちとともにおられるからです。

「私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとと もにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったか らである。」(黙示21:3-4)

今、私たちはまだ死の陰の谷の存在するこの地上を歩いています。私たちの肉体はまだ完全に贖われていません。しかし、私たちは聖霊によって、来るべき世の 前味をすでにいただいています。御国はすでに私たちの只中に来ています。そして、この邪悪な時代の只中にあって、私たちはキリストのまことの命を灯火とし て輝かせる純潔の花嫁として召し出され、立たされているのです。ですから、私たちはキリストのよみがえりの命の絶大な力を、生きて味わい知ることをもっと 追い求めるべきではないでしょうか。キリストとともに死んだのですから、もはやこの世は私たちに害を及ぼすことはできないことを信じるべきではないでしょ うか。私たちはキリストの十字架を通して、自分自身に対して死に、神に対して生かされたのですから、豊かに命を与えて下さるよう神に願い求めて良いのでは ないでしょうか。それによって、神ご自身が栄光をお受けになるのです。主こそまことの牧者、命を与える方、生ける者の神だからです。

私たちはキリストと共なる十字架によって、アダムの命に死に、この世に対して死んで、キリストのまことのよみがえりの命によって、神に対して生かされたこ とを信じています。私たちは絶えず主イエスの死をこの身に帯びています。ですから、この世のもの、地上のものが自分に触れて、死が私たちの内側に入り込む ことを、断固、拒否すべきではないでしょうか。弱さ、欠乏、貧困、思い煩い、死を来たらせる悲しみ、病、死を戸口まで追い返し、ハデスの門を閉ざし、次の 御言葉が、今から私たちの大胆な宣言であるべきではないでしょうか。なぜなら、主イエスがすでにご自分の死によって死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死は勝利に 飲まれてしまったからです。

「死は勝利に飲まれた。…死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげは、どこにあるのか。」!!(Ⅰコリント15:54,55)

「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(ヨハネ11:25-26)



(後日追記) この記事はある闘病生活を送る信者にキリストにある健康と癒しを求めることを促すために書いたものであるが、その信者は癒しを信じず、この記事をも半ば嘲笑ぎみに拒否し、健康を求めることはなかった。(健康を求めることについては、キリストによる超自然的な癒しの他にも、移植を受けるなどの現実的な手段があった。たとえそれが応急処置でしかないと言われたとしても、それでも、ある程度、時間を引き延ばすことは可能だったのである。)

その結果として、以前は温泉に行ったり交わりも可能であった信者は、手術による体の切除、抗がん剤治療などに手を伸ばし、さらには生活環境の悪化による転居により、中心部での生活もできなくなった。自分自身の体も含め、次から次へと色々な宝を手放して行かなくてはならなかったのである。もはや二度と以前のように温泉で楽しく交わることなど不可能であろう。

筆者はこのようなことは決してキリスト者の歩むべき道ではないと確信している。信者に一時的な闘病生活はあり得るかも知れないが、長期に渡る、いや生涯抜け出せない不自由な闘病生活とその結果やって来る必然的な弱体化と死ーーこのようなものには断固憎むべきものとして立ち向かい、神に命がけで解放と自由を懇願することがぜひとも必要であると考える。そうでなければ、ただ死に飲まれてしまうだけである。そこにはただ誰にでも分かるこの世の悪魔的法則が働いているだけで、神の解放のみわざもなければ、キリストの命の完全さもない。聖書には、悪霊によってもたらされる病が確かにあって、信者がそれに縛られ続けることが神の御心ではないと分かる。主イエスが長血の女を解放された時のことを思うべきである。

だが、中には病を自ら選び取る信者もいる。闘病生活を美化し、困難な生活を美化し、悲劇や問題の渦中にあって健気に生きているという自己イメージから生じる周囲の同情や共感を捨てられないためである。それは一種の自作自演劇のようなもので、あるいは自己から逃避するためのイチヂクの葉による擬態のようなもので、病によって隠したい何かがその人の心に存在するのである。こうして、何か別のもっと深刻な問題(多くは自分自身の真の姿)から逃げるために、自ら解放よりも苦しみを選び取る人々が存在し、彼らは苦しみによって自己を美化するために、ひっきりなしに、次から次へと自分で問題を呼び込んで来る。その生活は本人が選び取っているので、これを周囲の説得によって変えるのは難しい。なぜ病を憎むべきものとしてとらえないのか、なぜ解放されることに抵抗し、健康になれと言う人を嘲笑するのか、そこに確かに心理的な(霊的な)問題が存在するのであるが、本人はこの世の常識に目を塞がれているので、たとえ説得したところで、目を開く可能性は低い。求められないのに奇跡を行うことは神もなさらない。

こうして、貴重なかけがえのない時間を常に病や問題のために消費し、大切なものを次々に失いながら、ついには当然のごとく死へ至る。筆者は本当にこうした結末を心から憎むべきものと捉えている。

ちなみに、その信者は、キリスト教会からのエクソダスを考えていたこともあったが、夫の病のために教会員が祈ってくれたことに感動したことをきっかけに、キリスト教会からのエクソダスを断念したのであった。ここでも、後ろを振り向く原因となったのは、同情である。病が家庭に深く入りこんでいた。そして、病と親しみ、それがもたらす美しいイメージにのめり込みすぎた結果、誰からも同情される必要のない自由を手にすることよりも、不自由な人間として人に同情されて生きる道を選び取ったのである。

これは筆者の目から見てあまりにも愚かなことであるが、多くの人は同じようにここでつまづいてしまう。すなわち、人に真の解放を見失わせる同情という感情が持つ悪魔的な厄介さに気づかないのである。同情には人を生かす力も、癒す力もなく、かえって心密かに他人を上から目線で哀れみ、蔑みながら、優しさと見せかけて、その人を依存状態に置いて、立ち上がる力を失わせ、不自由な状態に永遠にとどめてしまう。そこで、人からの同情によりかかり、これを受け入れると、不自由な状態に対する憤りと、絶対にそこから立ち上がって自由になってみせるという強い抵抗、自由への希求が失われるのである。

多くの人たちが同情の持つ悪魔的な策略の罠にはまり、人に同情され、注目されただけで満足してしまい、この厭わしい呪われた感情を振り切って、誰からも哀れまれたり、手を差し伸べられたりする必要のない、真に自立したキリストにある完全な命に至り着こうと思わず、かえって弱さを美しいものとして握りしめるのである。人情によってベタベタにされた神の命からほど遠い共同体が、その時 、人を神の約束された命の自由と解放に決して至らせないための束縛の枷として作動する。

PR


この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(08/14)
(08/06)
(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)