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オリーブ園、エバン・ロバーツ小品集日毎の十字架から、

カルバリの十字架だけが私たちの救い主にとって唯一の十字架だったわけではありません。彼はまた、彼の十字架を日毎に負われたのです。彼についてこう記されています、「悲しみの人で、苦悩を知っていた」

どうしてこの聖なる方は悲しみと苦悩を知っていたのでしょう? それは、彼は苦難を通して完成されなければならなかったからです(ヘブル2:10)。もし私たちが完成を求めるなら、私たちも苦しまなければなりません。十字架を拒否することなく、日毎に十字架を負おうではありませんか。十字架の道は冠の道です――命の冠、完成の冠の道です。なぜなら、ヤコブは信者について、「試みられる時、命の冠を受けます」(ヤコブ1:12)と言っているからです。この冠は試みを受けた者たちのためなのです!


「ああ、私の父よ、もしできることなら・・・・この杯を私から過ぎ去らせて下さい」――これは神の御子にとってゲッセマネの園の十字架でした。裁きの間では彼の十字架はどこに立っていたのでしょう? 今、兵士たちに打たれ、茨の冠で王にされます!今、大祭司は民衆と共に「十字架につけよ!」と叫びます。

次に、偏見を持つピラトがやって来て、「私はこの人に何の咎も見いだせない」と言います。しかし、それにもかかわらず、彼をユダヤ人の手に渡したのです! ああ、役立たずの男よ! ああ、偽善者よ! ピラト、ピラトよ! あなたの名前は朽ち果てよ! あなたの上に、義なる裁き主の混じりけのない罪定めが降りかかれ! ローマ、ローマよ。あなたはあなたの大使が不義を働くのを認めるのか?それなら、あなたの滅亡は正しいことである!


不義は重い十字架です。苦しむ信者よ、あなたの十字架を持ち上げて、向こうの丘まで歩いて行きなさい。なぜなら、善と善良さは依然として十字架につけられるからです。

イザヤ書53章はキリストの「十字架(複数)」について描写しています。彼の生涯における十字架、彼の死の十字架を描写しています。彼のさげすまれた生涯における十字架と、彼の拒絶された死における十字架です。

・・・
人にはそれぞれ生涯担うべき十字架がありますし、その十字架を日毎に負わなければなりません。私たちは十字架に降伏しなければなりません。十字架を放り出したり、他の人に渡してはなりません。私たちがその下で死ぬまで、日毎にその十字架を担わなければなりません。飼い葉桶から十字架まで、キリストはさげすまれました。彼は御父の愛する御子だったにもかかわらず、彼は悲しみの人で苦悩を知っていたことがわかります。しかし、あらゆる苦難のまっただ中にもかかわらず、彼は御父に受け入れられる実を結んだのです。

「私の義なる僕は高くされ、とても高くされる」。これはエホバの御言葉です。しかし、人がキリストを高くしたのは、キリストを十字架に上げることによってだったのですキリストは釘づけられ、あざけられ、そこで死に、捨てられたのです

「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」。これは主の十字架の孤独であり、十字架につけられた一人一人の信者の孤独です。もし私たちが彼の苦難の交わりを知ることを願うなら、私たちは孤独の苦痛を知らなければなりません。「私は孤独で困窮している」――今日、これが多くの人の心からの叫びです―――孤独、孤独、孤独! 霊的格闘で「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか?」と死に際に叫ぶことがどれほどあることか。

文章はまだ続きますが、引用はここまでにします。このメッセージは意外にも、現在置かれている状況に対して、私の目を開いてくれました。

ああ、罪のない人を罵り、嘲り、訴え、「十字架につけよ!」と叫ぶ群衆もまことに罪深いのですが、それにまさって罪深いのが、ピラトのような偽善者なのです。ああ、偽善者よ、罪のない人が虐げられているのを見て、「あなたは正しい、あなたには罪がない、あなたが虐げられ、嘲られる理由はない、あなたは可哀想だ、私はあなたを助けたい」と言いながら、結局、誰よりも不正な判決に彼を堂々と売り渡す者よ! 主は相応の報いを与えられないはずがあるでしょうか?

けれども、主は与え、主は取りたもう、主の御名は誉むべきかな! 私たちに十字架を与え、十字架を負わせてくださるのも神なのです。ですから、私たちは自分で十字架を「負わねばならない」のではなく、主が負わせて下さるのです。そして私は思うのですが、時に、私たちに代わって、ほんの少しの間、十字架をかついでくれる人さえ神はお与え下さいます。主イエスは神からも捨てられましたが、しかし、私たちはたとえ絶望の只中を、死の陰の谷を通らされることがあったとしても、主イエスのゆえに、神から捨てられることはないのです。

だから、今は言います。御心が成りますように…。私は災いを恐れません…。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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