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ほむべきかな。日々、私たちのために、
重荷をになわれる主。
私たちの救いであられる神。

神は私たちにとって救いの神。
死を免れるのは、私の主、神による。
            (詩篇68:19)

どうして私は、わざわいの日に、
恐れなければならないのか。

私を取り囲んで中傷する者の悪意を。
おのれの財産に信頼する者どもや、
豊かな富を誇る者どもを。

人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。
自分の身のしろ金を神に払うことはできない。
――たましいの贖いしろは、高価であり、
永久にあきらめなくてはならない。――
人はとこしえまでも生きながらえるであろうか。
墓を見ないであろうか。
            (詩編49:5-9)

一つ前の記事において、信者がアダム来の古き性質を自己のアイデンティティだと思わず、キリストにある「新しい人」を実際として信仰によって掴むべきだということを書いた。

キリストにある新しい人を単なる「道徳的な人間」ととらえているだけの人間には、筆者が書いているようなことは、トリックか、机上の空論のようにしか感じられないだろう。

「現実の私はこんなに罪深いままなのに、どうしてそれをキリストのご人格と同一視するようなことができるでしょう。そんなことは、あまりにも畏れ多いことです」

と言う人もあるかも知れない。

だが、聖餐式の時に差し出されるパンと葡萄酒を、信者は自分がそれに値するから手に取るわけではない、ということを思い出していただきたい。信者がこれを手に取ることができるのは、世人と違って、その信者には、キリストの十字架における死と復活を、自分自身のものとして受け取る信仰があるためである。キリストへの信仰こそ、信者が神の御業を受けとるに必要なものであって、信仰がない人が、それを受けとるにふさわしくないのである。

キリストの贖いの御業に値する人間は、そもそも、この地上に誰一人いない。誰も信仰によらなければ、神の贖いを自分自身のものとして受け取ることはできない。

だとすれば、キリストにある新しい人格に値すると言えるだけの人間は、地上には誰一人おらず、ただそれを信仰によって受けとる道が与えられているだけだということである。だから、信者の目にたとえ自分がどれほど罪深く、キリストからほど遠い人間に見えたとしても、キリストの御業は、信者がそれに値するから与えられたものではなく、ただ信じることによって信者に適用されることを思うべきなのである。

そもそも、人間の地上にいるすべての人間は例外なく罪人であって、神の御業には誰も値しない。だからこそ、人は自己の努力によって救われることはできず、神の御言葉を信じて受け入れる者だけが救われるのである。

そうである以上、いや、そうであればこそ、キリストにある「新しい人」は、ただ恵みによって、御言葉に基づき、信じる者に与えられる。その恵みを受けとることこそ、信者に必要とされる。

さて、神の恵みによって生きるとは、地上の事柄に責任を負わない人生を意味する。

聖書には、神が私たち信ずる者のために、日々、重荷を担われる、と書いてある。神が私たちのために心配して下さるのだから、神に重荷を預けて、生活のことなどであれやこれやと思い煩うことをやめなさい、とも書いてある。

神の国とその義をまず第一に求めなさい、そうすれば、必要のすべては添えて与えられます、と書いてある(マタイ6:33)。

だから、私たちは自分の背負っている地上的な重荷を一つ一つ、自分の手から放して行くのである。それは無責任になることや、罪に対して開き直ることとは異なる。そもそも自分に責任の取れないことに対して責任を負わない、という当然の姿勢である。

この地上には、自分の人格改善に対して責任が取れる人間は一人もおらず、自らの生存に対して責任を取れる人間も誰もいない。そのような自分の能力や責任範囲をはるかに超えた事柄に対して、あくまで自分の力で何とかしようと拘泥し、懸命に努力し、あるべき状態を作り出そうと試行錯誤を繰り返しながら、重荷を抱える人生と訣別することである。

たとえば、筆者は、つい先ごろまでは、世人と同じように、地上の職業に就いて働き、地上において何者かになることを目指して生きていたが、そのようにして自分で自分を養う生き方ではなく、自分の全てを神に明け渡し、神の国の働き人として生きるために、神によって直接、養われる生き方へ移行すべきだという結論に達した。

多くの人は、それを聞けば、「あなたは浮浪者にでもなるつもりですか? 何と無責任な」と言うかも知れない。だが、そのようなことにはならない。それどころか、キリストの命の豊かさ、健全さを筆者が生きて知ることができるようにと、実際、すべての局面において、神は、筆者が誰の助けにもよらずに生きられる健全な自立の方法を備えて下さったのである。

これまで、多くの信者たちが、筆者には色々な能力や知識や経験があるのだから、それを活かしてこの世で働くべきだと助言したし、筆者自身も、聖書に「手ずから働きなさい」と書いてあるのだから、働くことは良いことだと考えてそうして来たのであり、なおかつ、常に筆者自身が自らの望みに応じて、仕事を選ぶことができるように、神ご自身が助けて下さった。

こうして筆者は世の情勢にも関わらず、常に仕事に困るとか、生きるに困るということを経験しなかったが(ただし信仰による訓練はあった)、それにも関わらず、どうにも最近、筆者の目には、この世の仕事と呼ばれるすべてが異常となり、破壊され、歪んでおり、ただ人間を苦しめるだけの苦役と化しており、この国では、まるで社会主義国における労働のように、労働の意味が歪められており、それはただ人間が自分で自分の罪を贖うための終わりなき苦役のようにしか見えてなかった。

そもそも労働ということの意味がおかしいのである。年々、それはますます歪んで、人を生かすことも、救うこともできない、人間性を貶めるだけのむなしい苦役に近づいていることが感じられてならないのである。

たとえば、我が国には、新卒採用という異常かつ不合理なシステムがあって、その不合理なシステムのせいで、何かの理由で新卒採用の道を外れた人間には、一生涯に渡る不合理なディスカウントが待ち受けている。たとえより良い条件を求めて転職したとしても、その人の努力では、決してディスカウントの仕組みから抜け出すことはできない。

だが、それならば、新卒で採用された人は「勝ち組」なのかと言えば、決してそうではない。この労働システムの中に勝ち組なるものは存在しない。新卒採用というのは、要するに、不都合な事実を決して人に見せず、聞かせないために、学生が自分で物を考え、疑う能力が芽生える前に、企業に奴隷として取り込んでしまえというシステムに他ならない。

新卒採用という制度は、もしたとえるならば、18歳や19歳の世間を知らない未婚の娘が、いきなり60歳や70歳の離婚歴のおびただしい老人に嫁がされるようなものであって、今でも開発途上国などでは、女性に不平等を耐え忍ばせるために、若いうちに女性を結婚させる仕組みが残っているところがあるが、新卒採用というのは、まさにそれを企業と社員の関係に置き換えたものに過ぎない。

世の中の不条理に気づかせないために、また、無知の中に留め置いて徹底的に搾取するために、できるだけ人が若く、未熟なうちに、物事を深く考え、自主的に自分の人生を決めたりする力が生まれるよりも前に、さっさと企業との「結婚」の関係に追いやって、そこから逃げ出せないように拘束してしまおうというわけなのである。

そのような不平等を強いる存在に誠意があることは決してなく、その関係が両者にとって真に有益なものとなることもない。学生の方では、仮にやる気に溢れた初々しい「初婚」だとしても、企業の方は、それまで数知れない社員をリストラし、太り続けて続けて生き残った「老人」である。そういう意味で、企業(むろん、ここには民間企業だけでなく、官公庁などあらゆる組織や団体が含まれる)は、おびただしい数の「離婚歴」を抱えた老人同然であり、もっと言えば、結婚詐欺師のような存在と言える。

何しろ、「初婚」で企業と結婚した社員のほとんどは、何年か後に、ただ失望と幻滅だけを抱いて、悲しみのうちに「家を出される」ことになるかも知れないからだ。しかもその際、その社員には「子供が産めない(=思ったほどの業績が出ない)」などと言った理不尽かつ不面目な理由がつけられて・・・。

こうしたシステムは、いわば、確信犯的に慣習として行われているのであって、60歳、70歳、80歳、90歳の老人同然の組織や団体が、10代の後半、20代の初めの初々しい人間を思い通りに娶って己が欲を満たすために作られた、あまりにも不合理で不平等な差別のシステムである。

だから、仮にめでたくそこで「結婚」(=新卒採用)が成立した人がいたとしても、喜ぶのは早すぎる。少しでも人間としての心があれば、娶られた側の若者にも、その関係が実は騙されたも同然のものであり、自分の仕えている主人が、自分の若さにも誠意にも値しない存在であり、おびただしい数の「妻」を犠牲にしつつ、私腹を肥やすことしか眼中にない我利我利亡者だということがすぐに分かるであろうし、それでも、あえてその関係の中にとどまり続けようとするならば、自分もやがて良心を売って、彼らと同じような詐欺師の仲間入りをするしかないのである。

かつては、この国ではそういうやり方で、若者の特攻への選抜が行われ、有力な大人たち(老人たち)、国家の面子を保つために、青年が戦争で無益な死に追いやられていたが、そのような歪み切った精神性は、今になってもこの国に変わらず受け継がれているのである。

だからこそ、この国では未だ若者への搾取と収奪が終わらず、どちらを見ても、弱い者から収奪する以上の考えが生まれて来ないのである。そんな中で、新卒採用されれば幸福だと思うのは大きな間違いで、それはただ騙しと搾取のシステムを気取られないように美しくコーティングしたものに過ぎず、新卒採用された者も不幸であれば、新卒採用から「ドロップアウト」した者たちも不幸で、我が国の不合理な労働市場の競争システムは、結局、どこまで行っても、決して誰をも幸福にしないのである。

こうしたシステムは、我が国のグノーシス主義的世界観から発生している。戦後を経ても、このような価値観に終止符が打たれなかったのは、その背後に、独特の宗教的世界観が横たわっているためである。グノーシス主義思想は、終わりなきヒエラルキーを上昇して行くことを至高の価値とする世界であり、そこでは個人の普遍的な価値というものは、ヒエラルキーの序列の中で定義される相対的なものであって、実際はないに等しい。個人はヒエラルキーの階段を上ってこそ価値が認められるのであり、そのヒエラルキーを温存する場所が、組織や団体である。そこでは、組織や団体の価値観が個人の価値を定義するのであって、組織や団体の生き残りは、個人の生き残りよりも優先される。ヒエラルキーを上った個人は助かるかも知れないが、それ以外の個人は、全体のために犠牲になるのが使命だと考えられているのである。

これは一種の優生思想である。このように、個人の命よりも、組織の面子と生き残りを重視し、そのためならば個人は犠牲にされて構わないとする悪意ある歪んだシステムの中に居続けている限り、たとえ望んでいなくとも、誰もがこの不合理なシステムを助長する駒とされるのは避けられない。

だとすれば、残る道は、そこから脱出することだけである。聖書には、地上の経済がやがて反キリストの王国に集約されることが記されているが、このような悪しきグノーシス主義的世界観に支えられた地上の経済に仕えて生きる生き様そのものから、脱出せねばならない時が迫っているのである。

かくして、筆者は、労働によって人が己の生存を支え、自分で自分を贖うという終わらない苦役をやめて、ただ神の恵みによって生かされる単純な道へ移行することに決めた。

かつて社会主義国ソ連で、詩人ブロツキーが労働に従事しなかったために、当局に呼び出され、「徒食者だ」と非難された(詩人であることは、社会主義国では職業とはみなされなかった)。その国では数多くの人々が無実の罪で投獄され、奴隷的囚人労働に従事させられていた。

我が国の有様は、実のところ、これとほとんど変わらない。我が国が資本主義国であるというのはほんのうわべだけのことで、実質的には、社会主義国とほとんど変わらない現状が広がっている。すでに新卒採用について触れた通り、我が国における労働システムは、ただ単に人が働いて生きる糧を得るための場所ではなく、それ以上のより深い意味を帯びており、結局、それは組織や団体にとって都合の良い人材を育成・確保するための方法論に他ならない。

つまり、社会主義国において行われていた愚かしい「労働による再教育」と同じように、我が国における労働システムも、生涯、プロレタリアートとなって資本家にとって都合の良い労働力の提供者となる者を育成・確保するために、労働による絶え間ない人間性の変革(=再教育)が行われているのである。これはすでに一種の歪んだイデオロギーであり、労働を通じてこのシステムに参加することは、自ら再教育に志願することと同じなのである。

そんな「労働」に寸分たりとも人間性を変える力があると思うのは誤りである。そのような意味においての「労働」には、人間性を貶める以外に何の効果もありはしない。それは人間が自己の力によって自己を変革しようとする偽りの救済システムの一環である。

だから、筆者は「労働によって人が己の罪を贖い、人類が自己浄化をはかる」という、呪われたシステムの体系の外に出ることを決意したのである。

振り返れば、筆者だけでなく、信仰の先人たちはみなほぼ例外なく、この道を辿って来たようである。彼らは世の経済の繁栄のために働いて生きることをやめ、神の国の権益のためにのみ働いた。そして、どんな時にも、彼らは世に助けを求めず、自分たちの窮状や欠乏を信者に巧みにアピールして助けを乞うこともなく、すべての必要を、神が彼らのために信仰に応じて備えて下さるに任せたのである。

筆者の人生にも、そういうことが幾度も起きて来た。筆者自身が働いて自分を養っていると思っていた間も、幾度もそういう不思議が起きて、主が筆者のために必要を天に備えて下さっているのを見せられて来たのである。だから、地上の経済から、天の経済への移行は、筆者がはっきりとその道を自覚する前から、徐々に行われて来たのだという気がしてならない。

このようにして、筆者は、聖書が教えている健全な自立のために信者が手ずから働くことと、信者がこの世の歪んだ市場経済の犠牲となることは、全く意味が違うのだという結論に至りついた。

蒔くことも刈ることもしない野の花も、空の鳥も、神は養って下さっているのだから、人が自分の生活のことで思い煩って、明日の心配をするのをやめなさい、と聖書は言う。主イエスは、人間は鳥よりも優れた者なのだから、どうして神が養って下さらない理由があろうか、だから、人は自分の命の心配を第一として生きるのではなく、神の国とその義を第一として生きなさい、と語られたのである(マタイ6:25-34)。

これこそ、人の生存の基本であると、筆者は考えている。人の生存を保障して下さるのは、天におられる神である。神が心配しなくて良いと言っていることについて、なぜ信者がくよくよと考え、己の力で何とかしようと奮闘する必要があろうか? それよりももっと考えるべきこと、見るべき課題が他にあるではないか。それが神の国の権益である。

おそらく、企業や団体に雇われて働いている人たちには、「こんなにも自分は一生懸命にやっている」という自負があると思われる。彼らには、雇われていない人、働いていない人、働けない人たちに比べて、自分は社会に貢献しており、優位に立っているという自負もあるだろう。だが、それは裏を返せば、それだけ彼らが理不尽を耐え忍んで不満がたまっているということに他ならない。

しかしながら、たとえそのように理不尽を耐え忍んでも、悪事に加担し、己が労働を誇るその生き方からは、何も生まれて来るものはない。この世には、そんなにも一生懸命に「主人」に尽くしていながら、それに見合った対価を受け取っている人はほとんどおらず、多分、あと少しすれば、彼らの努力は本当に全く報われないものになろう。

私たちは、自己の努力によってではなく、神の恵みによって生かされている。世という悪い「主人」によって養われているのではなく、聖書のまことの神というただ一人の「主人」に養われているのである。信ずる者は、世の栄光のためではなく、神の栄光のために生きている。その基本を忘れ、この世を「主人」として栄光を帰する人間は、悪魔に騙され行くだけであろう。

この世の経済はますます追い詰められて滅びに向かっている。人が自分で自分を養っているという自負は、偽りであって、その仕組みは決して成り立たないことだけが間もなくはっきりするであろう。聖書にある通り、魂の贖いしろは高くて、人には払いきれない。

こうした自明の理が明らかになる前に、筆者は滅びゆくバビロンから逃れ、神の恵みによって生きるために、天の経済に移行し、野の花や、空の鳥のように、自由に、さりげなく、生き生きと、被造物としての美しさ、健全さを現して、神に栄光を帰して生きたいと考えている。神はその御言葉の確かさを様々な知恵を通して信じる者にこれからも証明して下さるであろう。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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