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高慢とは何であろうか、真の謙遜とは何であろうか。

実は、その実態は、多くのクリスチャンが考えているのとは真逆であると筆者は思う。「私は神の恵みに値しない」という考えほど、うわべは謙遜に見えて、その実、悪質な高慢はない。

筆者は幼い頃からのキリスト教徒であったので、清貧貞潔な生活へのこだわり、社会的弱者への憐れみ、などの感情を物心ついた頃から持っていた。そのため、ある時期が来るまで、貧しいことは悪いことではなく、病に陥ることは悪いことではなく、追い詰められて死を願うことも、悪いことではなく、そのような困難な状況にある人たちに、信者は積極的に手を差し伸べ、大いに同情や共感を持つべきである、と考えていた。

ところが、不思議なことに、信仰生活を送れば送るほど、実際はその逆である、ということが分かって来るのだった。困難の中にある人に同情し、助けの手を差し伸べれば差し伸べるほど、同情する側も、同情される側も、ますます困難の中に居直り、深みにはまり、そこから抜け出せなくなっていくという堂々巡りが起きるのである。

このようなことを言えば、早速、「あなたは社会的弱者を追い詰めるつもりか」という非難がやって来るであろう。ちょうどカルト被害者救済活動の支持者が、この活動の欺瞞性を指摘した筆者を断罪したようにだ。

だが、今、筆者はそんなことを目的にこれを書いているのではない。

筆者が、貧しさや、困難や、病や、死を心から憎むようになったのは、かなり前からのことであり、カルト被害者救済活動と訣別した頃には、すでにその考えの原型が心に固まっていたのだが、その完成となる事件は、KFCで起きた。

その事件も今から振り返ると相当に昔のことであるが、その当時、雇用情勢はますます悪化し、ブラック企業が横行し、正常な仕事を見つけるのが難しくなっていたが、筆者が職を変わる時、兄弟姉妹に祈りの支援を求めていたことが、KFCで災いし、これが嘲笑の材料とされたのである。

KFCにいた信者たちは、筆者よりも20~30歳ほど年上の世代ばかりで、比較的裕福な閑人が多かった。ほとんどが年金生活者か、働いていない者たちであった。だから、月曜から金曜まで真面目に労働に明け暮れ、なお、豊かにならない若者世代の苦しみを、そんな彼らの世代が、理解すること自体が、無理な相談であった。それでも、ある時期までは、信者たちの幾人かは、決して筆者の祈りのリクエストをあざ笑ったりすることなく、共に祈り、それなりに心配もしてくれていたのである。

ところが、KFCがいよいよ異端化していることが明確になる頃、そこにいた兄弟姉妹たちは、あからさまに弱肉強食の原理を信仰生活に持ち込み、そこに世代間格差のエキスも混ぜ合わせて、自分たちが「神によって恵まれた特権的な豊かな信者であって、それ以外の貧しい信者とは違う」と、年少世代の苦境をあからさまに嘲笑するようになったのである。

筆者が彼らに相談事を持ちかけたり、祈りの支援を乞うたりしたことが、悪用された。そうした相談事が、あたかも筆者が「信仰的に自立できておらず、神の恵みを拒んで人に甘え、人に頼っているがゆえに、いつまでも抜け出せない困難の堂々巡り」であるという決めつけの根拠とされ、「ヴィオロンなどには同情する意味もなければ、助ける価値がない」と結論づけられ、筆者の抱えていた窮状は全て「不信仰の産物」として片付けられて、嘲笑され、踏みつけにする材料とされたのである。

むろん、そのような考えの発信源はほかならぬDr.Lukeであって、同氏がいつものように取り巻きをけしかけて不都合な信者に集団イジメをしかけただけであった。KFCでは筆者の他にも、絶え間なくそのような事件が起きて、年少者でなくとも、何かの理由をつけられては、信徒が見下され、仲間から批判されていたのである。

それが、筆者に矛先が向いたのは、筆者が常日頃から、Luke氏が聖書の御言葉から著しく逸脱していることを、面と向かって同氏に忠告し、かつ、Br.Taka夫妻を含め、メッセンジャーたちが信徒の上に立って勝ち誇っていることを強く非難し、指導者と信徒との霊的姦淫の関係が結ばれるべきではないと言ったので、ついに筆者の「生意気さ」に同氏の我慢の限界が来て、報復行為に及ばれたのであった。

その当時、神への霊的純粋さを失い、なおかつ、決して他の信徒を教える立場から離れることができなかったDr.Lukeにできることといえば、高みに立って、己が富を誇り、聖書に立ち返れと叫ぶ信者の貧しさを嘲笑することくらいしか残っていなかったのであろう。

KFCはもともと外側の物質的豊かさを、まるで内側の霊的豊かさのように誇り、自分たちは「天の特権階級だ」と他人を踏みつけにすることを、よすがのようにしていた。そのような方法で、自分たちは他のクリスチャンに比べ、特別に神に恵まれ、覚えられている存在であることを強調することだけが、この団体の特徴になってしまったのである。Dr.Lukeは取り巻きの老人たち(もはや婦人たちという言葉さえ、使うのがもったいない)を巻き込んで、筆者の置かれていた状況を、筆者を見下すために悪用したのだが、それによって、御言葉から逸れている自分たちに対する筆者の非難をかわせると考えていたのであろう。

だが、以上のような事件は、当時はまだ筆者にとってショッキングに感じられはしたが、ある種の「霊的平手打ち」となり、筆者がよりはっきりと目を覚ますきっかけとなった。その頃から、悪魔に対しては、弱みを見せるどころか、とことん見栄を張らなければならない、ということが筆者に分かって来たのである。

以来、筆者は悪魔に魂を売った連中に、「不信仰だ」などと後ろ指を指されて、嘲笑されるような機会を決して作らないように、自分の生活の欠乏を他者に打ち明けて、祈りの支援を乞うことを、やめてしまった。特に、そのような連中に助けを求めるなど言語道断であるから、彼らとの兄弟姉妹の絆を絶ち切り、彼らをキリストの御身体から断ち切って、彼らと完全に訣別し、自分の生活に起きるすべての状況と、すべての思いを、ただ天の父なる神だけに完全に委ねるようになったのである。

世の中の情勢は、その頃から今に至るまで、寸分たりとも改善することなく、刻一刻と悪くなっているだけである。我々の世代を取り巻く状況は、今も悪化を繰り返しているだけで、何の将来の見込みもない。

だが、だからと言って、筆者がその時代の趨勢に従って歩むべきかと言えば、そんなことは全くないのである。こうした状況は、そもそも果たして筆者の負うべき責任であろうか。むしろ、そういった世の悪しき状況は、どちらかと言えば、年長世代の貪欲と怠慢によって引き起こされたものであり、彼ら自身の罪の結果だと言えよう。それなのに、その状況が、なぜ年少世代に自業自得であるかのようになすりつけられなければならないのか。そんな理由はどこにもないのである。

そんなわけで、筆者はこの「刻一刻と悪化して行く世の情勢」なるものを、自分とは無関係なもの、筆者には責任のないもの、さらに、すでにキリストが十字架で終止符を打たれたもの、神の御心に反する悪魔の憎むべき嘘として、自分から切り離したのであった。

そして、今までのように、「世の中がこうだから」という理由で何かをあきらめ、妥協することをせず、自分が何を願っているのかだけを、世の情勢に頓着せずに、率直に神に申し上げ、あきらめずにそれを神に懇願し続けた。その際、人には全く頼らず、相談もせず、どんな細い道を通らされる時にも、ただ天におられる父なる神だけを見上げ、神がすべてのことを良きにはからって下さるという確信だけを胸に抱いて、今日まで歩み続けて来たのである。

その過程で、筆者は度々、ジョージ・ミュラーのように信仰を試されるに至った。むろん、まだまだジョージ・ミュラーほどの経験には及ばないことは知っている。それでも、この世には一切、保証を求めず、人に助けも乞わず、ただ祈りだけによって、すべての必要を神に叶えていただく、その秘訣を、筆者は、確かに学び始めたのであり、ミュラーと同じ道を今も歩き続けているのである。むろん、その道は、ミュラーが開拓したものではなく、イエス・キリストが切り開かれたものである。

そうこうしているうちに、筆者に対して己が富を勝ち誇っていた人々は、時代の趨勢の悪化に伴い、凋落して行ったようであった。もともとそうでなくとも、筆者より年長の世代は、普通に考えれば、筆者よりも早く亡くなるのが当然である。彼らが筆者の貧しさや苦しみを嘲笑していた時、筆者はまだ人生のほんの駆け出しであったが、他方、彼らはすでにとうに頂点を通り過ぎ、あとは次の世代にバトンを預けるのみの状態であった。にも関わらず、そんなことも考えずに、彼らは筆者の前で、自らの栄耀栄華を誇っていたのである。今になっても、彼らは舞台から降りるどころか、「神になり」、自分たちの時代を永遠に謳歌するつもりでいるらしい。

だが、もしそのように主張するならば、彼らは老衰にも、死にも、打ち勝たなければならない。普通の老人たちのようにただ老いて、病に倒れ、生活を縮小し、先細りとなって活動をやめるというのではなく、モーセのように、人生最後の瞬間まで、気力が衰えず、生涯の終わりに近づけば近づくほど、ますます若者のように明るい輝きを放ち、神の命の永遠なることを世に立証せねばならない。それでこそ、自分はただの人間ではなく、神が内に生きておられると、はっきり言えるであろう。

今、彼らの凋落を、彼らの不信仰の産物だと筆者が言うのは、彼らの発言の裏返しである。彼らは、自分たちが時代の幸運に見舞われていた時には、それを信仰の手柄のように誇った。もしそうならば、時代が悪化した時に、なぜ彼らの信仰は役に立たず、彼らの凋落を食い止める手立てとならなかったのであろうか。それは最初から、彼らが誇っていたものが、信仰の産物などではなかったからだ。

時代の趨勢によって手に入れただけのものは、時代の趨勢によって奪い取られる。時代に媚びる人間は、時代に逆らう術を持たない。自分が富んでいる時に、貧しい者の悩みを蔑み、悩んでいる者に助けの手を差し伸べることを拒み、祈りの支援を乞うた仲間と共に祈ることを拒み、その人の願いをあざ笑って、蔑み、呪い、貧しい者を自分たちとは全く無関係な人間として突き放していれば、自分自身が衰えて凋落した時に、人からも同じように冷たい態度を返されるのは仕方ないであろう。

だが、筆者にとっては、以上のような人々の仕打ちでさえ、有益な教訓となったと思うのは、人の心には、神の恵みを受けとることに、常に恐れやためらいを感じる瞬間があり、たとえ信者であっても、神の恵みを素直に十分に受け取れるようになるまでには、時間と訓練が必要だからである。

特に、清貧貞潔、弱者救済、などの理念を掲げて生きて来た人ほど、貧しさを憎み、病を憎み、死を憎んでこれを拒絶し、キリストの命を選び取ることが難しい。

彼らは、貧しくあることが高潔であり、弱者であることが、美徳であるかのように思い込んでいるからだ。

そこで、筆者が貧しい時には、それを不信仰だとあざ笑っていた人たちが、いざ自分たちが貧しさや、病や、老齢や、苦難に見舞われると、一体、どうするのかを見ていると、それらの欠乏をまるで自分を飾る美しい衣のように大切に握りしめるのである。

そして、「苦しみや、困難の中で神に従い、健気に生きている自分」を美化する。そして、そのように苦難に耐えるのが信仰だと言い始める。

彼らは病にしがみつく。貧しさにしがみつく。卑小な自分自身にしがみついて、物乞いのぼろ服を後生大事に抱え込み、いつまでも、これを手放そうとしない。「病に打ち勝つ信仰」などと言いながら、いつまでもずっと病の話ばかりを続けているのである。その話をやめられないこと自体が、そのテーマが、彼らの中で過去になっていないことの何よりの証である。そんな姿は、彼らが筆者をかつてあざ笑っていたのと何の違いがあるのであろうか?

人の人生には、その人自身が作り出したとしか思えないような幾多の困難が存在する。多くの人たちは、不幸は不運な偶然や、事故が原因であると思って、可哀想な人々にいたく同情している。

だが、クリスチャンの人生には偶然というものはなく、すべての出来事が、天の采配であると同時に、本人が信仰によって選び取った結末なのである。信者が神の側に立っているのか、悪魔の側に立っているのか、すべての出来事を通して、信者は自分の信仰を表明しなければならないのだ。

だから、たとえ一時的に困難に見舞われることがあったとしても、それも神の栄光のために用いることができることを信じなければならない。預言者が空の器を次々、油で満たしたように、神は信者の生活の欠けを隅々まで満たすことがおできになり、従って、我々の弱さや欠乏は、神によって満たされ、神が栄光を受けられる材料に過ぎないと思うべきなのである。

聖書における病人たちは、主イエスに会って病を癒された。死んだ者たちはよみがえらされた。主イエスは病人たちに同情の涙を注いで、ただ施しをして終わりにはせず、彼らが本当に自立できるまことの命をお与えになった。主は貧しい人たちを空腹のままで去らせたわけではない、目に見えるパンが、目に見えないパンからできていることを教え、すべてを手に入れるための本当の秘訣であるご自身の命を人々にお与えになられたのである。

ところが、どういうわけか、今日のキリスト教では、困っている人たちにキリストの命によって立ち上がるよう求める代わりに、施しや、同情という網でがんじがらめに捕えて、慈善事業に明け暮れている。こうした慈善事業はどんなに繰り返しても、決してキリストの命にたどり着かない。

だが、そのようにして人間が人間の欠乏を満たし合うという関係を離れ、キリストの御名を通して、天におられるまことの神に向かって自分の欠乏を差し出すならば、それは必ず、不思議な方法で満たされるのである。満たされた欠乏は、すでに欠乏ではない。それは神の栄光である。だから、神に従う人間には、どんな困難があっても、それらはすべて神の最善を証する機会へと変えられる。信者を嘲笑していた人たちが真に恥じ入るのは、そのような瞬間が来た時である。らい病人が癒され、死者が立ち上がり、喪にくれていた人たちが喜びに涙し、悲しむ者が慰めを得、貧しい人が食べ飽き、義に飢え渇いていた人が、義に飽き足りるようになる時である。

その瞬間は、遠い未来のことではなく、今なのである。今、すべての欠乏を抱えたまま、天の父なる神の御前に進み出て、神の限りなく愛なること、神の限りなく善なることを告白し、神は信者が悪魔とその手下どもに嘲弄されるままの状態を、決してお見逃しにならないことを信じるべきである。

「主よ、お聞きください、暗闇の軍勢がこう言っています、信者が貧しいままなのは、あなたの助けが足りないからだと。信者が苦しんでいるままなのは、神に見捨てられているからだと。信者に力がないのは、神など存在しないからだと。私に対する侮りの言葉は、すなわち、あなたに対する侮りの言葉であることを覚えて下さい。

しかし、悪魔とその軍勢がどれほどあなたの御名の偉大さを否定し、あなたの助けを貶め、信じる者には助けがないと言ったとしても、私は断固、そのようなことを事実として信じておりません。私は、私が地上で何者であるかに関わらず、ただあなたの御名において、あなたのものとされた人間として、私に対するあなたの守りと助けの常に完全であることを信じています。

御力を現して下さい。この虐げられて、疲れ切って、弱々しくなっている民に、あなたの御名にふさわしい新しい力を与えて下さい。新たな衣を着せ、足腰を強めて立ち上がらせ、枯れた骨のような人々を、一人の新しい人に、神の軍隊に作り変えて立ち上がらせて下さい。御名がこれ以上侮られ、辱められることのないよう、あなたの名で呼ばれている民を、立ち上がらせて下さい・・・。」

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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