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今日、職場でいつものように単調な繰り返し作業をしながら、ふと、偶然と思われるような小さな出会いの中に、主が働いておられるのを見た。

私のために、まさに絶妙にお客さんの配置を考えて下さっている主を…。

冗談のような、不思議で絶妙な出会い。それに気づいたとき、同時に、自分の不信仰にも気づいた。私は自分の仕事を主が守って下さるようにと祈りながらも、この仕事の中で、主がともに働いて下さるなど、ゆめにも期待していなかったのだ…。

なぜって、それくらいにこの仕事は味気ないものだったから。心のどこかで割り切っていた。これはただ生活のために過ぎないと。膨大な時間を日々投入しながら、そこに、いのちを見出せるとは期待していなかった不信仰な私がいた…。

ところが、主は本当に不思議なお方なのだ。こういう時、主は何という方法で私の覆いを取り除けられるだろう。「彼は神です!」と、天を指差してウォッチマン・ニーは度々言ったそうだが、同じ驚きを、別の言葉で表現したい、神は本当にユーモラスでチャーミングなお方だと。ともすればただ通りすぎるだけの平凡な日常の中に、誰一人として目を留める者もない私の栄光のない日常の中に、実に細やかに、鮮やかに、絶妙に、主は働かれる。

「ほうら、見てごらん、私は今もあなたとともにいるんだよ。もしそうでなければ、これが、私以外の誰にできるか言ってごらん?」

まるで小さな子供がそう語りかけられているかのように、主は不思議な方法で、ご自分がそばにいることを示される。私が主を忘れているか、もしくは自分の作業に没頭し、あるいは極度の緊張状態にあって、不安を感じているような時にも、そっと寄り添って下さる。

「あなたはまた自分は忘れられていると思っているのかも知れない。けれども、私はあなたを忘れていない。それどころか、私のように、私以上にあなたを知ることのできる者は他に誰もいない。私に心を向けなさい。私はここにいてあなたの心の扉を叩いている。」

「見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。」(イザヤ49:16)

「わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。 」(イザヤ46:4)

「たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。」(詩篇27:10)


けれども、それはとても細い御声…。

いつも思い出すのは、たった一日だけの猶予を与えられて、横浜に家を借りに来たときのことだ。主のはからいにより、無事に契約を結ぶことができたその時、説明をするサービス員のカウンター越しに、フランクのヴァイオリンソナタ・イ長調がかかっていた…。

その数年前、私はこのソナタのピアノパートを暗記し、そして、発表する出番が来るのを切に待ち望んだものだが、その機会はめぐってくることはなかった…。

それでも弾きたかったのだ。何のために、と聞かれても、理由はない。ピアノとヴァイオリンのソナタであるから、その二つともが主役なのであり、従って、ピアノパートだけも、十分に聴かせることができる曲なのだが、今はそんなことが言いたいのではない…。

何もかも手放して郷里に帰ったとき、他の全てが手につかない状態であったのに、ピアノを弾くことだけはやめられず(それが私の心の全ての置き所に近かったからだ)、近所のNGOに置いてあるグランドピアノを探し出して、とにかく弾きに行った(これが自由に弾けたことも、また主の絶妙なはからいであった)。

それが何のために必要だったのかは分からない。聴いてくれていた人はいたが、だからといって、何かの益になったかどうかは分からなかった。道端の木がなぜそこに生えているのかと問われても、誰も説明できないように、私はただ弾いていただけであった…。

その後、私が死の陰の谷を通過し、キリストの御霊を知り、希望に満ち溢れて出発しようとしたその時、「あなたの心が辿ってきた全ての過程を私は知っているよ」とばかりに、主はさりげなくこの曲を私に聞かせて下さった…。それは祝福でもあり、慰めでもあり、同時に、主が本当に私の心の全てをご存じであることを証明していた。私の経験した悲しみも、砕かれた願いも、愚かしいほどのこだわりさえも、主は全てご存知であられた…。

今はもうそのような熱意でピアノを弾くこともないが、とにかく、このようにチャーミングでさりげない方法を通して、主は私の心の全ての軌跡を、ただ一人ご存じであること、そして、私の歩みがどんなに愚かであっても、すべてをともに耐え、ともに苦しみ、ともに味わい、ともに感じて下さっていることを示される。むろん、喜びだけでなく、悲しみや、痛みや、挫折や、紆余曲折でさえも、ともに負って下さっていることを示されるのだ…。

喜びのうちに主を知るのはたやすい。だが、苦しみの中にあったり、置き去りにされているようなときに、あるいは、単調で味気ない仕事をしているときに、主がともにいて下さると信じることはそれほど簡単ではない。私たちが心を閉ざしてしまうことがどれほどあるだろう。

ところが、神は私たちの不信をさまざまな方法で打ち破り、神が私たちの人生の全ての行程において、どんなにともにいたいと願って下さるか、また実際にともにいて下さる方であるか、主イエスが私たちのどれほど深い理解者であり、信頼できる助け手であり、慰め主であるか、どれほど近しく、親しく、私たちに寄り添って下さる友であるかを示される。もしも私たちがせつに望むなら、どんなときでも、神は主イエスが友であることを知らせて下さるだろう…。

「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)

全能の神が、私たちとともにいたいと自ら願ってくださる、それだけでなく、地上の全てにまして、私たちの心を一心に得たいと願っておられる。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ12:30)、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」(ヤコブ4:5)、これ以上に不思議なことがあるだろうか。

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。すべての羊と牛、また野の獣、空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。」(詩篇8:4-9)

よろずの物をその足の下に置かれたお方とは誰でしょう? それは人の子なる主イエス以外にはいません。神が私たち人にお心を留められるのは、ただキリストのゆえなのです。私たちが恵みにより、御霊によって新しく生まれた神の子供たちとなり、キリストにある新しい人とされ、キリストを長子とする神の家族とされたため、そして、私たちの内に住まわせたキリストの御霊を、神は妬むほどに愛しておられるからなのです…。



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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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