忍者ブログ

1.「カルト監視機構」の危険性について

 初めに、「カルト監視機構」が設立へ向けて動き出したというニュースを紹介させていただこう。
 ウィリアム・ウッド氏の主催する真理のみことば伝道協会の記事は、かつて一度、挫折に終わった村上密氏とウィリアム・ウッド氏の協力による「カルト監視機構」設立の計画が再び稼動したことを伝えている。

「■ 『カルト監視機構』、設立へ
 村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。
構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。
また、『集団のカルト度に関するアンケート調査』も作成しています。その内容は六つの項目(組織、指導者、信者の実生活、組織活動、家庭生活、被害)に分かれており、百以上の質問からなっています。一つの団体に関する、正確でかつ公正な判断を下すのに不可欠な資料になると思われます。自分の属している団体の『カルト度』を計りたい方に、『集団のカルト度に関するアンケート調査』をお送りします。」

 短い文章であるが、どうか目を凝らして、熟読していただきたい。これは大きな危険性を秘めた計画だからである。

 このような計画は、ずっと以前から存在し、今まで実現を見なかったが、着々と実現に向けて動いてきた。その間にも、村上密氏はカルト対策活動を続けてきた。沖縄リバイバル・チャーチその他の裁判を見ても分かるように、被害者からの通告に基づいて、村上密氏は、カルトの疑いのある教会の実情を調査し、被害者代表として、裁判を支援することによって、カルトの疑いのある教会へメスを入れることに積極的に関わって来た。

 今回の「カルト監視機構」の設立は、まだ萌芽の段階に過ぎないとはいえ、このような村上密氏のこれまでの活動が、一牧師の信念に基づいた試みという枠組みを超えて、理解者を呼び、超教派的広がりを持つようになり、さらには、プロテスタントの枠組みさえも超えて、異なる宗教も含めて、日本の宗教に広がり、宗教全般に対する統一的な、いわゆる統一の異端審問所が生れようとしていることを思わせる。

 どうか次の文章を見逃さないでいただきたい、
「構成は、カルト問題に精通している宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家など、6人から12人ほどです。先日、プロテスタント教会、聖公会、日蓮宗、及び天理教の教職者で、カルト問題に取り組んでいる方々への協力要請の手紙を出し、六月中に最初の会合を持つことを予定しています。」

 この文章を読めば、この「カルト監視機構」が、決して、プロテスタントのキリスト教界内だけの浄化作用をはかることを目指して生れたわけではないことが分かるだろう。ここには、クリスチャンであると明言されていない宗教家、臨床心理士、弁護士、法律家などの有識者が含まれているだけでなく、カルト問題に取り組んでいる「日蓮宗、および天理教の教職者」が含まれる可能性があるという、驚くべき記述がある。

 村上密氏、ウィリアム・ウッド氏などがこれまで行ってきたカルト対策に、プロテスタントの各教会、聖公会が本腰を入れて協力することを決めただけならば、話は理解しやすいが、しかし、一体、なぜ、村上密氏が主導で行ってきた「カルト対策」の延長線上にある「カルト監視機構」に、日蓮宗や天理教の教職者までが協力を求められる事態となっているのだろうか。
 クリスチャンと、日蓮宗や天理教の教職者との間に、カルト問題をめぐって、どのような協力と一致が可能なのであろうか。

 いずれにせよ、この機構が、キリスト教の枠組みを超えての活動を始めようとしているという思惑を、ここに汲み取ることができるのではないかと思う。ここには、将来的に、この機構の活動範囲が、いずれ、あらゆる宗教に及ぶものとなることが初めから想定されているように思われてならない。いずれ、どの宗教の教職者たちも、「カルト監視機構」の監視と無縁では活動できなくなる日が来るかも知れない、という私の予測が行き過ぎたものかどうか、考えていただきたいのである。

 私は昨年に書いた記事の中で、フィクションの物語に話を託しながら、「カルト監視機構」というものは決して設立されてはならない、ということを申し上げた。それは、「カルト監視機構は一旦、出来上がれば、やがて必ずキリスト教界内の統一的な異端審問所となり、秘密警察としての機能を発揮するようになり、教界を恐怖政治に陥れ、教界を破壊するだろう」との予測があったためである。

 確かに、プロテスタントの教界において、カルト対策、そして異端の排除を何らかの形で早急に行う必要があることは誰しも否定できない事実だ。異端の排除が適切に行われなかったがゆえに、今日の教界では、イエス・キリストが神であることを否定するような教えすらも、誰からも非難忠告を受けることなく、公然と講壇から教えられているという嘆かわしい現状がある。このような状況が放置されてはならないことは明らかである。

 だが、だからと言って、「異端審問」が、決して、誰か特定の、あるいは複数の少数者の思惑によって利用され、宗教的な権力闘争の手段として利用されたりすることは、あってはならない。プロテスタントのキリスト教界が、合同してカルト化対策を行い、カルト監視のための機構、すなわち、異端審問所のようなものを設けることを決めるのであれば、必ずその際に、何があっても、前もって絶対に考慮しなければならないのは、その異端審問所が、もしも誤った考えを持つ宗教指導者の手に握られ、その人物の悪しき考えによって動かされるようになれば、各教会にとってどれほど恐ろしい結果をもたらすか分からないという危険性である。

 もしも異端審問所が、教界内の権力闘争の手段として悪用されてしまった場合、各教会はそれによって破滅的な影響をこうむることになるだろう。そこで、カルト監視機構のようなものを設立するならば、その組織が人間の思惑によって悪用される危険性があるということを十分に理解した上で、それに対する予防策を十分に講じてからでなければならない。

 ところが、今、プロテスタントの教界において設立されようとしている「カルト監視機構」には、この機構が悪用される危険性をあらかじめ警戒する要素は少しも見受けられないどころか、参加者はいずれも自分が「カルト専門家」であるとの自信を持っている方々ばかりである。初めから、カルトの疑いのある教会を悪と想定し、それに対し、制裁を加えるこの「カルト監視機構」の活動を是とする、単純な勧善懲悪的な前提があるように感じられてならない。だが、一体、どんな基準に基づいて、この機構は善悪を判断するのか? プロテスタントの教界を超えた有識者、他宗教の専門家を含むことを初めから予定しているこの組織が、聖書的な根拠にのみ基づいて、善悪を判断する組織にはならないだろうことは明白である。

 村上密氏にしても、彼はこれまで、異端に関する神学的議論、つまり平和裏な議論を中心にしてカルト対策に取り組んできたのではなく、主として、裁判による解決を推進して来た活動家である。このような人物の考案を基に作られている機関なのだから、カルト監視機構は、設立の初めから、そもそも平和的な議論ではなく、司法の場での闘い等の活動を考慮して作られているように思われてならない。従って、聖書の理念に基づいたのでないこのような機構の設立は、キリスト教界を重大な過ちに導くだろうという予感がしてならない。

 私の考えでは、プロテスタントのキリスト教界における異端の排除は、まず、何よりも、複数の権威ある神学者たちによる、テーブルでの平和な議論、キリスト教界の専門家による開かれた話し合いから始まらなければならない。教界内の問題を扱うのだから、そこには、他宗教の専門家は交じっているべきではないし、非クリスチャンの有識者も必要ない。
 何が異端であるかを見極めるためには、神学的な専門知識が必要である。そこで、そのような知識を持つ牧師たちが、疑わしいと通告のあった牧師の礼拝説教、および著書などを調査し、明らかに異端と分かるメッセージが語られていた場合、当該人物に勧告を行い、再教育を受けてもらい、それでもその人物とそれに従う信徒たちが誤った考えをどうしても改めない場合は、最終的には教団の決定により、教会ごと除籍すれば良いのではないだろうかと思う。

 聖書は、異端を警戒するよう幾度も呼びかけているが、異端となった教会に対して、他の教会の指導者が裁判を起こしたり、教会を取り潰すべく活動するようには教えていない。むしろ、異端に染まって分派を起こし、去るものは去るに任せるように聖書は教えていると私は思う。

「もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際をしないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい」(テサロニケⅡ3:14-15)

「異端者は、一、二度、訓戒を加えた上で退けなさい」(テトス3:10)

「あなたがたはかねて反キリストが来ると聞いていたように、今や多くの反キリストが現れてきた。それによって今が終りの時代であることを知る。彼らはわたしたちから出て行った。しかし、彼らはわたしたちに属する者ではなかったのである。もし属する者であったなら、わたしたちと一緒にとどまっていたであろう。しかし、出て行ったのは、元来、彼らがみなわたしたちに属さない者であることが、明らかにされるためである。」(ヨハネⅠ2:18-19)

 だが、今現在、プロテスタントの教界において、カルト対策という名で行われていることは、教義面から異端を審議し、教義面で袂を分かった団体を静かに排除するための平和的な運動ではない。たとえば、もし教義面から異端を取り締まるならば、カルトの疑いのある教会の牧師の礼拝説教を公開して、その異端性がどこにあるかを公にし、世間の誰もが理解できるように、警戒を呼びかけた上で、教会が教えを改めなければ、除籍するということができるはずだが、教義に関する穏やかで粘り強い議論と、適切な訓戒という、教義面からのカルト(異端)対策はほとんど行われず、むしろ政治的な争いだけが続いているように見受けられる。

 今日、行われているのは、異端を教義としてとらえて、誤った教義を批判することではなく、異端を「カルト化」という現象面からとらえ、異端との闘争を、神学的議論ではなく、司法の場に持ち出すことによって、解決しようとする試みである。これは異端との闘いを、事実上、この世の政治的闘争に変えてしまい、聖書の教義ではない、別の面から決着をつけようとする試みである。

 従って、カルトについて、司法の場で議論することが、クリスチャンの目から見れば、聖書的な解決の仕方であるようには全く思えないのは当然である。このことについては、コリント人への第一の手紙、5章、6章に基づいて記事ですでに述べた。

 従って、このような世俗的な形でのカルト対策を推進してきた者は、決して、牧師としての信仰に基づいて、聖書の御言葉に基づいて、異端を排除しているのではないということが言えるのではないだろうか。しかし、もし信仰に基づいて異端を排除しているのでないのだとすれば、では、一体、どういう目的を持って、異端の排除に取り組んでいるのであろうか。その答えは各自の判断に委ねたい。


2.村上密氏の活動に対してORCを守る有志の会から提起された疑義について

 私は沖縄リバイバル・チャーチの活動を支援しておらず、この教会によって甚大な被害を受けた原告の訴えが裁判で退けられたことを残念に思う。私は教会のカルト化問題の解決に、司法が有効であるとは考えていないが、判決の如何に関わらず、原告の主張には正当性があったと信じる一人である。
 信徒を搾取し、苦しめた沖縄リバイバル・チャーチの体制を、私は擁護するつもりは今もこれからも微塵もないし、ORCを守る有志の会を支援する目的で、彼らの記事を引用したいわけでもない。このことを初めにはっきり申し上げておきたい。

 しかしながら、2009年3月2日にORCを守る有志の会によって書かれた村上密氏への疑念「本当に専門家なのだろうか?」の中には、私達クリスチャン全員が十分に考慮しなければならない訴えが含まれていると感じざるを得ないため、以下、引用する。(ここでA教団のM牧師とされている人物が、村上密氏を指していることは、村上氏自身が記事の中で認めているので、疑問の余地はないであろう。)

「今回の問題で原告支援者となっているカルト問題専門家と称する、A教団K教会のM牧師について、私たちは多くの疑問を持ちます。(略) 
このM牧師は、キリスト教界に別の問題を生み出している気がしてなりません。すなわち、キリストの体として霊的にも組織的にも多様性のある教会について、自身の論理と経験だけでカルト化を判断し活動を進めているなら、かなり問題ではないかということです。明らかに犯罪性が確認されるケースは別として、とても慎重に扱わなければならない事柄のはずです。

 素朴な疑問・・・

・教会カルト化の判断基準がおかしくないか?
・広くキリスト教界のコンセンサスを得た判断基準なのか?
・本当のカルト被害者と自称カルト被害者を識別することをしているのか?そもそもその気はあるのか?
・相談があれば教会カルト化を前提に対応しているのではないか?
・自身の思想信条、教会観、牧会観を核とした偏ったものの見方をしているのではないか?
・専門家というには、情報収集の偏り、思い込みや決めつけが強いのではないか?
・問題解決手法がかなり粗雑ではないか?
・聖書的手順を踏んでいると言っているようだが、裁判権やマスコミ活用の強調等から、聖書的解決よりも裁判による解決に性急になっているのではないか?
・M牧師自身のもとに集まってくる相談者を、牧師として本当に信仰的に正しく導いているのか?
・原告や原告支援者と思われる者たちのネット上での低俗な書き込み、一部ORC教会員への嫌がらせ行為や 営業 妨害を黙認しているのはなぜか?(まさか知らないとは言わないでしょう?)
・A教団の牧師を名乗って相談センター等の活動をしているが、A教団も彼の活動を支持あるいは容認しているのか?
・A教団本部には、地域牧師会の声明文通知も含めて、M牧師の活動、手法について問題提起をしているが、何か対応をしてくれたのか?
等など、あげればきりがありません。

 いわゆる破壊的カルト団体は実在し、真の被害者の方々もいらっしゃいます。それに対して、反カルト活動を行い、被害者救済を行うことは大切なことだと思います。
 しかし、もしその活動が暴走し、『相談者』をよく識別もせずに『カルト被害者』として受け入れ、『偏った基準』で次々とキリストの教会に『カルト化のレッテル貼り』をして、裁判を起こしていくとすれば・・・牧師先生方、信徒の方々は、どう思われますか?」
(引用、終わり 太字は筆者による)

 もちろん、村上密氏の活動に疑念があるからと言って、カルト化した教会がそれを隠れ蓑にして、自分達が聖書を曲げて、誤った牧会活動を行って、信徒を不当に苦しめたことの責任から逃れることはできない。それは明白である。その意味で、ORCには原告を非難する資格がない。

 しかしながら、これまで何度も訴えてきたように、カルト化教会も大きな問題であるが、誤ったカルト対策も、それと同じ程度、あるいは、カルトよりさらに見逃せない大きな危険性をはらんでいる。その点で、村上密氏の活動に警戒を呼びかけている上記の記事は、今一度、考察に値すると私は考えている。


3.N教会が村上密氏から異端の嫌疑を受けているという問題が提起されたことについて

 私がアッセンブリーに籍を置いていた当時、属していたN教会は、村上密氏の親族にあたるT師が長年、牧会していたが、T師に関してはいくつかの疑惑が浮上したために、教会の分裂的騒動が起きた(この件については後述する。)
 T師はその責任を取ってN教会を辞職した。村上密氏はこの件を仲裁し、T師を村上氏のいるアッセンブリー京都教会へ移らせた。そして、一旦、教職を引退したT師に教職活動を続けさせた。このような、T師の責任をうやむやにするような、村上氏の処置が不適切であると私が考えていることについては、すでに記事に書いたので、繰り返す必要はないだろう。

 当ブログへの読者からの次のコメントはその後のN教会に起こったことを示している。

「後任の牧師夫妻は、教会の建て直しに奮闘するも、村上氏とアッセンブリー教団から異端とのレッテルをはられ、数年前から攻撃を受けていたようです。
今春、その事実が明らかになり、教会を守るため教団からの離脱を決定しました(略)。
昨日、教団理事会から信者に直接、手紙が届きました。(略)教団離脱が正当なものか、信者を集めて事情聴取をするそうです。牧師夫妻、役員さんには届いていないそうです。手紙を読むと、信者よりも財産が気になっているように感じました。
私達の教会は、潰されてしまうかもしれませんが、同じようなことがおこらないよう、祈るばかりです。」

 私には、N教会の現在の牧師夫妻に対する異端の疑いについて、詳細が分からないため、この件の真偽と、異端の疑いの妥当性について判断することはできない。だが、いずれにせよ、コメント内容を信じるならば、村上密氏がN教会牧師夫妻の教えを異端であると判断し、アッセンブリー教団全体がその考えにならっているということになろう。

 アッセンブリー教団においては、村上密氏がカルト問題に関する代表的なスポークスマンであるため、この教団内の異端を主導的に取り締まっている牧師は、村上密氏を置いて他に考えられない。前述のORCの疑義では、「A教団の牧師を名乗って相談センター等の活動をしているが、A教団も彼の活動を支持あるいは容認しているのか」という問題が提起されているが、恐らく、今や、アッセンブリー教団全体が、村上密氏の活動の支持母体となっているだけでなく、教団全体が、氏の異端の判断基準にならって、異端の判断を下しているというのが現実ではないかと想像される。

 N教会と村上密氏との間には、T師が主任牧師であった時代からの因縁のような縁がある。

 もし仮にN教会の教えと活動に何らかの異端性があるのだと仮定しよう。だが、それでも、上記のコメントが事実ならば、現在、進められているような形での「異端審問」は、非常に大きな問題を含んでいると言わざるを得ない。まず、情報が公開されないまま、つまり、信徒が置き去りにされたまま、「異端審問」が密室で進められていくことに恐ろしさがある。もしこのコメントの通り、村上密氏が数年前からN教会の教えの異端性を指摘していたのだとすれば、氏は、N教会の教えが異端であるという根拠を、どうして(ブログ等で)公にしないのであろうか。

 村上密氏は、記事「内輪の論理」において、カルト化教会の問題を、司法の場に持ち出すことによって、教団理事会などの密室で決定される「内輪の論理」による事実の隠蔽を防ぎ、問題を広く明るみに出すことができると述べている。

「キリスト教の諸団体の理事会が、問題を解決する機関を設けることは、団体の自浄作用として重要です。しかし、しばしば客観性と平等性、透明性が確保できず問題が生じます。内輪の論理が働き、隠蔽する傾向にあります。それは、様々な宗教団体で不祥事が相次ぎ、社会的批判を浴びることで証明されています。
 このような内輪の論理防ぐために裁判に訴えることは重要です。必ずしも裁判が社会的正義を実現しなくても、宗教という密室の出来事を公の場に出すことは問題の予防に役立つからです。」

 確かに、教団外で、自らが積極的に関わって来たカルト化教会の腐敗状況については、村上氏は裁判を通してだけでなく、具体的に踏み込んだ内容を記事に書いて、不祥事を公にすることに貢献してきた。それは事実である。

 しかし、不明な点は、そのようにして内輪の論理に対抗することの必要性を唱えながらも、同時に、村上密氏が、アッセンブリー教団内でこれまで行ってきた紛争の解決について、「内輪の論理」以上のものを提示せず、自らの判断の根拠を決して明るみに出そうとしていないことである。

  もしも、キリスト教会のある指導者が、他の教会指導者の教えが異端であると批判するならば、その人はその根拠を明確に述べる必要があるだろう。そして、何よりも、異端の教えにさらされている信徒たちに、早急にその説明を行い、信徒を誤った教えから救う必要がある。しかし、村上密氏はN教会信徒に対して、そのような説明を行っているように見受けられない。
 もしも氏が本当にN教会の牧師夫妻の教えを危険な異端であると考えて数年前から活動してきた事実が存在するのであれば、自らの考えの神学的根拠を、氏はN教会の信徒たちに対しても、分かりやすく説明することができるだろう。そして、それを行わなければ、信徒を正しい教えに導くことはできない。
 しかし、今のところ、全ては「内輪の論理」の中で片付けられており、異端問題に関して、信徒は数年間も、完全に蚊帳の外に置かれたようであるから、実際に教会の存続問題が持ち上がるまで、信徒は異端問題に関して置き去りにされてきたという風にしか見受けられない。

 もしもこのような件が進行中であることが事実ならば、村上密氏には今後、N教会での事件について、誰にでも分かる明確な説明が求められることになるだろう。氏の今後の言動が注目される。


4.N教会にかつて起こった紛争への村上密氏の介入について

 さらに、ここから先は、N教会に関するかなり込み入った要件になるため、興味のない方は結びまで飛ばしていただいて結構である。
 今、私の手元には、2001年、N教会がT師に関する騒動の真っ只中にあった時、N教会に勤務していた伝道師夫妻によって書かれた手紙の写しがある(この伝道師夫妻は、現在のN教会牧師夫妻とは別人である)。

 この手紙の写しは、N教会の信徒がこの事件の内容を理解する目的で、当時、一般に配布され、公表された資料の一つである。詳細は個人のプライバシーに関わることであるがゆえに、伏せておき、N教会教職者の間で当時、起こった紛争の内容の中で、今、改めて私が注目に値すると考える部分だけを引用させていただく。

 N教会では、当時、この大規模な騒動の原因は、T師の伝道師夫妻に対する抑圧的な言動と、両者の間の行き違いにあると考えられていたが、この手紙の内容を改めてよく吟味するならば、そこには、両者の間を不適切かつ不明瞭な形で取り持った村上氏が関与していたこと、村上氏が両者に与えた影響が見逃せないほど大きかったことが浮かび上がって来る、そこで村上氏にも、この件に関して重大な責任があったのではないかという疑いが生じるのである。
 以下では、この騒動ゆえに、信徒からの篤い期待にも関わらず、N教会を去る決意をした伝道師夫妻(名前は○○とする)の手紙から、村上氏に関わる部分だけを引用する。

 「実はAPTSを卒業する前に七条教会で村上師と卒業後のことについて話し合う機会がありました。××××年の冬だったと記憶しています。
村上師の話では、『T師は二年後に引退する意志がある』 『引退はN教会の役員会も承知のことである』 『その上で○○をN教会の後継として招聘したい』 『礼拝説教も少なくとも月に一度は○○に任せる。二年目からは月に二度は依頼する』との事でした。

私達は当然、村上師個人の見解というよりもむしろ一理事の発言として理解しました。(略)理事の見解がそうであるならと祈りつつ備えました。(略)×月×日に正式にN教会の伝道師として就任しました。

 しばらくして気付いたのは、村上師の認識とT師や役員会の認識との間に相当のズレがあるという事でした。先ず、T師が二年後の引退を毛頭考えておられないこと、役員会は何一つ知らされていないこと、T師は主管を退く意志はあっても、その後もN教会で奉職したい希望を持っておられること等でした。

また礼拝説教に関しましても私が××××年度に奉仕させていただいた回数は合計5回でした。因みに××××年度は×月×日現在で10回です。実際、私達は派遣されて二年近くになりますが、未だに教会の経済状態がわかりません。過去の教会資料に関しても牧師館にしまわれていて全く分からない状態です。
 この時点で我々の立場は何なのだろうかと戸惑いましたが、とにかく理事会に任命された以上、務めを果たそうと努力してまいりました。

 そして、××××年の×月×日、理事会が終わった翌日の朝、突然村上師より電話を頂きました。話があるので午後、訪ねていってもいいかとの事でした。我々としては理事会の翌日のことでしたので、人事のことかもしれないと推測しました。
 村上師の話の内容を正確に伝えますと『T師は××××年に引退なさる意志はなく、少なくとも教会50周年を迎える77歳までは現役でいたい』ということと『○○を後継者とみなすには疑問を感じる』との事でした。但し、これはあくまでも村上師から伺った話であり、T師本人からはこの旨を一度も伺ったことはありません

 村上師は後継として疑問を感じる点については次の二点を理由に挙げておられました。(中略)
 村上師は以上の二つの理由を挙げられた後、『今後、先生方はどうなさいますか』と尋ねられました。誤解にならないように申し上げますが、直接、移動届けを出せという促しは一度もありませんでした。但し、我々としては移動させたいというニュアンスを感じたのは事実です

私としては『もし、移動を我々が希望するならT師の許可を得ないで黙って理事会に提出してもいいのですか』と尋ねました。これに対して村上師は『T師には私から伝えるから構わない』との事でした。(略)

 三時間ほど話したでしょうか。私は人事の手続きに明るくありませんし、どうも筋の上で釈然としないものを感じました(略)。
 もし、村上師がT師の本音を我々に隠しておられたなら、事態はここまでこじれなかったかもしれません。しかし、間接的にではあれ、T師の気持ちを聞かされた以上、今までどおりの気持ちで奉仕するのは困難です」

 この文章は、村上氏が当時、T師の後継者になることを前提としてN教会に派遣されていた伝道師夫妻を、N教会からよそへ異動させるために具体的に働きかけを行ったことを示している。
 若かった伝道師夫妻は当時、N教会の信徒たちからは慕われており、T師の後継者になるものと信じられ、期待が寄せられていた。伝道師夫妻はN教会の信徒になじんできており、伝道師と信徒との間には、何の問題もなかった。そして、T師自身も、この手紙に対する反論の中で、「⑤両師の正教師任命後、私は来年、主管者になって欲しいという希望を両師に対して個人的に述べた」と、夫妻に後継としての期待を寄せていたことを隠していない。

 その後、T師と伝道師夫妻の間に、信徒には見えないところで、たとえ何らかのトラブルがあったにせよ、少なくとも、N教会の信徒たちは、伝道師夫妻にT師の後任として不適切な要素があるとは少しも考えていなかったし、信徒自身が伝道師の異動を望んだ事実はなかった。

 仮に、説教および教会奉仕に関して、信徒の知らないところで、主管と伝道師との間に、何か込み入った問題が生じ、それが後継者問題に発展したのだとしても、その解決は、あくまでN教会の教職者の間でまず行われるべきことであった。T師と伝道師の間で、腹を割った話し合いすら実現していないうちに、他教会の牧師である村上氏が率先して介入すべき事柄ではなかったと言えるだろう。

 特に、N教会の後継問題は、N教会にとって大問題であったため、T師と伝道師夫妻、そしてN教会の役員会を通して公に解決されるべき事柄であったと言える。にも関わらず、T師の親族であるという立場を用いてか、あるいは、理事であるという立場を用いてか、村上氏は他教会の教職者と役員、信徒の間で公に決められるべき事柄に直接介入し、N教会の役員会と信徒の判断を無視して、信徒の頭越しに、はっきりした証拠を何も残さない密室の話し合いの中で、N教会の命運を分けるような、重要な決定を伝道師夫妻に促してしまったのだということがこの手紙の文面から理解できる。

 村上氏は、本来、T師自らがはっきりと伝道師に伝えるべきであった内容(後継に関する具体的な約束と、伝道師を教会の後継として認められなくなった理由の説明)を、自分がT師の代理として伝道師に伝えることによって、T師が伝道師夫妻に対して直接、果たすべき説明責任を奪ってしまった。
 さらに、それだけでなく、手紙の文面から判断するならば、村上氏がT師の見解であるとして伝道師に伝えた内容にも、随分と現実との食い違いがあったため、村上氏がT師の代理としてT師の意見を伝えたことで、結果的には、より大きな誤解が生まれてしまったことが分かる。

 さらに、もしも伝道師夫妻に異動届を出すことを求めることが、教団にとって適切かつ不可欠な解決であると判断して、村上氏が伝道師との対談を行ったのであれば、村上氏は自らの責任において、異動届の提出をはっきりと伝道師に勧告すべきであった。だが、村上氏はそのような、責任の伴う明確な発言を何もせずにおいて、ただ阿吽の呼吸で、異動届を提出するのが最善の策であるという微妙なニュアンスを汲み取るよう、伝道師に促しただけであったことが文面から伺える。

 そして、伝道師たちは、このような話し合いの結果、実際にN教会から異動してしまった。こうして、村上氏が証拠を残さぬ、曖昧な形で介入したことにより、当時、N教会の後継に関する問題は、信徒を一切蚊帳の外に置いた密室の話し合いの中で、信徒には何も分からないまま、決定されてしまった。このことが、N教会にその後、何年間も続く紛争を起こさせる最大の要因となっただろうことを私は確信している。

 なぜT師の後継として期待を寄せていた伝道師を、訳の分からない形で、教団から奪われなければならないのか、その理由が明確にされなかったために、N教会の信徒たちは当惑し、教団への不信感すらわき起こった。その後、信徒の間では、T師の行状や、伝道師の行状どちらに原因があったのか、何がこの問題の根本原因だったのか、といった議論が延々と繰り返されたが、責任の所在がどこにあるのかは、結局、不明のまま、ただ月日だけが過ぎ去った。

 しかし、今、改めて、資料を読み返し、この事件のことを考えると、村上密氏の介入がこの事態にさらなる混乱を招き、T師と伝道師との直接対話の機会を奪っていたこと、密室での話し合いが、信徒の前での公の議論を妨げたことがはっきりと感じられる。これはかなり昔の事件であるとはいえ、村上密氏の仲裁者としての能力に疑いを呼び起こす一件である。

 今となっては、ただ想像で語ることしかできないが、もしも村上氏が、N教会内でこの問題を十分に話し合うことの必要性を認識して、自らは脇に退き、この問題の解決を、T師と伝道師の直接対話、および、N教会役員会、臨時信徒総会に任せていたなら、つまり、信徒を置き去りにする形で、自らの手によって問題を解決しようと介入することがなかったならば、この事件はN教会にこれほど長年の禍根をもたらすほどの大問題に発展することなく、もう少し、平和裏に解決していたかも知れない。

 そして、今また、N教会の牧師に、教団と村上氏から異端の嫌疑がかけられているという情報が真実ならば、過去同様の同じ過ちが、N教会で二度も繰り返されることは、何としても、防がなければならない。異端の疑いに正当性があるにせよ、ないにせよ、教会の存続に関わるような重大な問題が、密室での会議、すなわち、「内輪の論理」で解決されてはならないことは明白だ。

 これまで、「内輪の論理」に反対し、裁判という公の場での紛争解決を積極的に後押しして来た村上密氏であるのだから、N教会の件にも、もし氏が深く関与しているのであれば、今後、早急な情報公開の作業が求められるだろう。他教団に関する紛争は表に出し、日本全国の世間の前で、その教会の恥を赤裸々に暴露しておきながら、自教団内で起こっている事柄は、「内輪の論理」によって表ざたにせずに、闇のうちに解決するという矛盾した態度を維持する人があるならば、そのような不透明な態度を取る者を、カルト対策の専門家として信頼することは、誰にもできない相談であろう。

 結び
 N教会に起こった事件の詳細については、興味がないから聞きたくないという方も多いかも知れないし、また、カルト問題など、自分には一切、関係ないと考えている信徒も多いかも知れない。
 しかし、私は、今回、村上密氏とウィリアム・ウッド氏の協力によってまさに設立されようとしている「カルト監視機構」には、全てのクリスチャンにとって、看過できない重大な危険性が含まれていると感じざるを得ない。

 プロテスタントの教界にとどまらない、全日本的な広がりを見せようとしているこの機構が、今後、宗教の枠組みを超えた異端審問所として実力を発揮していくことが憂慮される。そこで、この問題についてどうか考えていただきたい。その意味で、前述のORC有志の会の訴えを、私達はただ荒唐無稽なものとして退けるのでなく、もう一度、考慮してみる必要があるのではないだろうか。

反カルト活動を行い、被害者救済を行うことは大切なことだと思います。
 しかし、もしその活動が暴走し、『相談者』をよく識別もせずに『カルト被害者』として受け入れ、『偏った基準』で次々とキリストの教会に『カルト化のレッテル貼り』をして、裁判を起こしていくとすれば
・・・」

 カルト化教会が危険であるのと同じように、カルト監視機構の活動も危険である、そう私は感じざるを得ない。 まず、何よりも、真っ先に懸念されるのは、この監視機構が、「キリストの体として多様性を持つはずの教会」の自主性を押しつぶし、奪い去り、教界全体を一元化する組織となるのではないかということである。

 しかも、この問題は今や、キリスト教界だけでなく、全ての宗教者にとって他人事ではなくなろうとしているのだ。
「カルト監視機構」の設立目的をもう一度、読み返そう。

「この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。」

 たった一人の信徒の証言であっても、その団体をカルトと疑問視する根拠としては十分になるのだろう。カルトと疑問視された全ての教会が、この「監視機構」の調査対象となると言われているのだ。つまり、この「カルト監視機構」は、事実上、キリスト教界に属する全ての教会のお目付け役を買って出ようとしているのだ(どれくらいの教会がそんなことに同意したのだろうか?)。

 だが、この機構が行う調査が、具体的にどのようなものなのかは分からないところに、空恐ろしさを感じずにいられないのである。どんな調査も、秘密裏に行わなければ、本当の意味での実態調査とはならない。従って、カルト化の疑いのある教会側に、それとは気づかれないような方法で、監視機構が調査を行うであろうことが予想される。
(つまり、教会の指導者には見えないところで、信徒へ直接、調査が行われることが予想される。)

 さらに、極めて疑問に思われるのは、クリスチャンでない、聖書を知らない有識者(日蓮宗、天理教の教職者も含まれるかも知れない!!)によって、どうやってキリスト教のカルト化教会に、異端としての「適正な判断」を下せるのかという点である。

 その上、カルトの解決方法としては、この機構は、調査結果を「発表すること」としているが、本当にそれで終わりになるものだろうかという疑いが生じる。すでに幾度も裁判を支援してきた村上氏が、今後も、裁判という手段を行使することなく、穏やかに話し合いのテーブルの席上で、調査結果を報告するだけで、カルト問題の解決と考えるとはまず想像できないのだが…。
 いや、弁護士、法律家が「カルト監視機構」のメンバーに加わっているのを見れば、この機構が、そもそもの初めから、自分達が法律のプロ集団であることを誇示し、いつでも自分達の判断次第で、司法の場に問題を持ち出せることを示して、教界ににらみをきかせながら、各教会に対して秘密裏に様々な調査を行っていく組織となるだろうことが明らかに予想できる。
 つまり、カルト監視機構はいずれ、自らが敵とみなした教会に現実的な制裁を加える機関となることが予想されるのである。

 この機構はやがて教界内の秘密警察になり、あらゆる教会がその取り締まりの対象となっていくかも知れない、さらにはキリスト教の枠組みにとどまらない宗教的異端狩りが始まるかも知れないという憂慮を改めてここに述べて、記事の結びとしたい。

 皆さんは、このようなことをどう思われますか?

PR


この記事へコメントする








絵文字:
Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字









「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(08/14)
(08/06)
(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)