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⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-5)

・キリストの十字架によらず、神秘主義体験を通して、自力で神に到達したと豪語するDr.LukeとKFC

さて、これまで、偽りの教えの特徴が、人を聖書の神の御言葉に従って歩ませるのではなく、自己の感情や感覚に従って歩ませようとするものであり、そのためならば、悪霊は魂の領域に偽物の霊的経験を作り出すことも行い、偽りの神秘体験をあたかも神や聖霊から来るものであるかのように思い込ませて信者を欺く、ということを見て来た。

さらに、ペンテコステ・カリスマ運動が、そのように信者が自ら味わう神秘体験を「神との交わり」だと思い込むことによって、信者が聖霊によらず、「異なる霊」の導きに従い、キリストの十字架を介さずに、あたかも自力で神との合一に達し得たかのように思い込む偽りの「疑似霊的運動」である、ということを見て来た。

グノーシス主義とは、もともとは悪魔が人類を欺いて、人間が神の御言葉に背き、自己の感覚に従って、事の是非を勝手に判断し、自分の欲望に従って生きることを通して、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と、人類が神以上の存在になれるかのように教えた欺きから始まっている。

そこで、悪魔に由来する偽りの教えはすべて例外なく、人間が「神のようにな」ることを最終目的としていると言って良い。

むろん、聖書は、人間が神に至る道はただ一つ、十字架を経られたキリストにしかなく、この方を介さずに神に受け入れられる者は誰一人としていないことを教えている。しかし、偽りの教えはすべて、キリストを介さずに(たとえキリストの名を掲げていたとしても、キリストの概念を歪曲することによって、人を救う力のない偽りのキリストを作り出し)、人が生まれ持った自己の能力を刺激・啓発することによって、自力で神に至ることができるかのように教える。

Dr.Lukeは、すでに確認したように、霊界との交信によって、正体不明の「霊の波動」に耳を傾け、無意味な音声の羅列に過ぎない偽物の「異言」を「神のことば」とみなし、これを授かったことにより、自分たち(Dr.Luke及びKFC)は「神である」と主張する。

ちょうど筆者がこの記事を書いている最中にも、自己の神格化という恐るべき罪を正当化するために、Dr.Lukeは新たなブログ記事で次のように述べている。(エロヒムとは「神々」の意。)
 

あなたがたはエロヒムだ!(Dr.Lukeの2016年07月04日の記事から抜粋)

今週のメッセはいわゆるキリスト教(特にニッポンキリスト教)の神学オツムにはかなり刺激的だと思う。あるいは挑発的か。われわれの真のアイデンティティーに覚醒せよ! われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである! WOW!

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定するのだから。知ろうとせず、闇の中を行き来する、ことのないように!

【賛歌。アサフの詩。】神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。
 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」
彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。地の基はことごとく揺らぐ。
わたしは言った/「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。
しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。
神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう。-Ps 82:1-8


以上のDr.Lukeの告白は、同氏が受けたのがまさに人類をそそのかした悪魔から来る反キリストの偽りの霊、人間の堕落した自己を神格化する自己栄化の霊であることを何よりもよく物語っている。

信じがたいことに、以上の記事には一言も、キリストの御名が登場しておらず、贖いの十字架もない。そして、Dr.Luke及びKFCが、自分たちが「新創造」とされたとする根拠は、旧約聖書に求められているのである。

以下の信者の誰もになじみ深い御言葉は、彼らの思考の中で、どこへ消え去ったのであろうか。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

キリスト者が新創造とされる根拠は、この御言葉の通り、十字架の死と復活を経られたキリスト以外にはない。

だが、Dr.Lukeの言説からは最も肝心なキリストが消え失せている。そして、「御霊はわたし(=イエス)の栄光を現します。わたし(=イエス)のものを受けて、あなたがたに知らせるからです。」(ヨハネ16:14)と聖書が述べているのに、同氏は主イエス・キリストの御名にすら言及せず、その告白は、イエスの栄光を全く現していない。

そうしたことからも、「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」とDr.Lukeが述べる根拠が、キリストにはないこと、同氏を導いている霊が、反キリストの霊であることが明白である。

キリストの十字架以外のものによって、人が新創造に達しうるかのような教えは、ことごとく偽りだからである。

むろん、このような恐るべき自己の神格化は、長い時間の積み重ねの中で起きることであって、サンダー・シングだけが原因で生じたものではない。

空中にどれほど病原菌があっても、健康な人がそれに感染しないのと同様、異端の教えも、それを受け入れる素地が心にない人にとっては脅威とはならない。異端の教えに感染するのは、本人の心の中にそれを培養できる一定の条件が整っている人だけである。そして、その土壌は一夜にして形成されるものではない。

サンダー・シングも、ペンテコステ運動も、おそらく、Dr.Lukeがこれまでに受け入れて来た偽りの一端でしかなく、自己の神格化という同氏の発想の基礎は、ローカルチャーチの時代か、あるいはもっと以前から存在していたものと考えられる。

さて、話を戻せば、すでに述べた通り、Dr.Lukeが自己の神格化を正当化するために引用している詩編も、文脈が歪曲されており、Dr.LukeやKFCが自分たちを「神々である」とみなす根拠とは全くならない。それどころか、それはむしろ、彼らのように、自らを神々とみなして高慢になっている者たちを辱める文脈で書かれたものなのである。

この詩編は、それが書かれた当時のイスラエルで、賄賂を取って正義と真実を曲げて、貧しい者たちを不利に陥れる不正な裁きを行いながら、自分たちは「神々である」と誇っていた不義なる裁判官らを罪に定める文脈で書かれたものである。そして、主イエスも同じように、地上におられた当時、自分たちは律法を完全に守っている立派な教師なので、通常の信者たちの及ばない高みに達している神聖な存在であると考えて自己義認し、救い主を否定して、人々に自分への尊敬を要求していたユダヤ教の聖職者らを辱めるために、この詩編を引用されたのである。

エロヒム・ヤハヴェはエロヒムの会議で裁定する」(=「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる。」)というくだりは、「さばきが神の家から始まる時が来ているからです。」(Ⅰペテロ4:17)との御言葉とあまり意味が変わらない。

つまり、いつの時代にも、神の裁きは、「我々は神の家にいて、最も神に近い存在であり、神と一つであるから、従って神々のようなものだ」と、自分を誇り、他の信者を見下している者たちを筆頭として行われるのである。自分こそ最も神に近く、他の信者とは別格だと考えて高慢に陥っている者たちを先頭に、神の裁きの御前に立たされることになり、そこで自らの不正な行いの数々を咎められるのである。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。」(Ⅰペテロ4:17)

自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。
『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ18:9-14)

そこで、神聖な会議の只中で、神の裁きの対象となっている者たちとは、まさに「われわれは神の新創造、ニュークリーチャー、新生命体、スーパーヒューマン、そしてエロヒムである!」などと叫び、自分たちを「神々」であるとみなし、他の信者を押しのけて、まことの神ご自身とその御言葉までも退けながら、自己を神と同一視している者たちなのである。

「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」


この文面も、KFCにそのままそっくり当てはまる。Dr.Lukeは自らの罪を覆い隠すためならば、不正な裁判を起こすことも厭わず、自分に有利な裁きをさせて、真実と正義を曲げた。そのような行動は、自分に逆らう者たちに対しては容赦なく濡れ衣を着せ、恫喝裁判を起こし、教会や信者を敵に回しながら、無差別に迫害して来た村上密氏率いるカルト被害者救済活動のような、神に逆らう者たちの活動と一体、何の違いがあろうか。

ところが、彼らよりももっと悪いことには、Dr.Lukeは表向きには、カルト被害者救済活動や、キリスト教界と一線を画し、自分は彼らとは全く異なる信仰的立場に立って、彼らよりも優れて真理を知っているかのように振る舞いながら、水面下ではカルト被害者救済活動の支持者や、現役のキリスト教界の信者らと公然と手を結び、彼らと結託して、無実の信者を陥れる計画を練って来たのである。カルト被害者救済活動が弱者を食い物にして成立しているように、KFCもまた、寄る辺ない者たちを見下し、踏みつけにして、自分たちの栄光を築き上げる道具として利用して来たのである。そうでありながら、一体、どんな理屈で、彼らがキリスト教界を非難できるのだろうか?

いつまでこうした連中は不法と搾取に頼り、己の栄光のみを求め続けて神に逆らうのであろうか。神は彼らの不正をすべて覚えておられ、必ず彼らに報復される。そして残忍な彼らの手から、苦しむ者を救い出される。

そこで、「彼らは知ろうとせず、理解せず/闇の中を行き来する。」という非難も、ニッポンキリスト教界ではなく、まさに霊的盲目に陥った高慢な人々(ここではDr.LukeとKFC)に当てはまる。

さらに、「あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と。しかし、あなたたちも人間として死ぬ。君侯のように、いっせいに没落する。」という御言葉も、Dr.LukeやKFCのように、己を神以上に高く掲げる高慢な罪人らに対する文字通りの死の宣告なのである。

君侯のように、いっせいに没落する」という訳は、「君主たちのひとりのように倒れよう」という新改訳よりもより厳しい響きである。御言葉を否定して、闇の中を歩いている者たちに、滅びは、盗人のように突如として襲いかかるのである。

「人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」(Ⅰテサロニケ5:3)

従って、Dr.Lukeがどんなに聖書の文脈をさかさまにしてその意味を歪曲しようと試みたとしても、この詩編は彼らを「神々」として持ち上げる根拠とはならず、また、そこにある滅びの宣告も、ニッポンキリスト教界ではなく、彼ら自身に向けられるものなのである。

このような御言葉を引用した以上、その報いは、必ず彼ら自身に実際に及ぶことになるだろう。それは霊的法則性であるから、変えようがない。ただ一つこの報いを逃れる道は、悔い改めてまことの神に立ち返ることだけであるが、ニッポンキリスト教界への憎しみを放棄することが、果たしてDr.Lukeにできるだろうか。病もここまで進行すると、後戻りは不可能に思われてならない。すでに述べた通り、彼らをここまで霊的盲目に陥れられたのは、神ご自身であると考えられ、それは真理を喜ばず、悪を喜んでいた者たちが悔い改めて癒されることなく、裁かれるためなのである。

「この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、
 自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:10)

なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:10-12)



・キリスト教界に対する憎しみと被害者意識による連帯 KFCとアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の同化と、彼らの「東洋的な福音への回帰」

それにしても、Dr.Lukeのニッポンキリスト教界に対する絶え間ない侮蔑・嘲笑・憎しみが、ついに時至って、聖書の御言葉と、キリスト教そのもの、神ご自身に対する挑戦・敵対へと変わりつつあるのは恐ろしいことである。

ニッポンキリスト教や英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」というDr.Lukeの言葉は、西欧キリスト教に幻滅し、靴の塵を払い落としてアジアの国々へ向かったサンダー・シングの姿とほぼ重なる。サンダー・シングは西欧キリスト教を拒んだだけでなく、それを機に、御言葉の二分性を否定して、「東洋的な愛と赦しの母性的受容の福音」を捏造したのであるが、Dr.LukeとKFCが「英語圏キリスト教」から離脱して向かう先も、サンダー・シングと同じように、「東洋的な福音へ回帰する」ことだと思われてならない。

(カタカナ英語を振りかざすことで、先駆的なイメージを演出しようとして来たDr.Lukeが、「英語圏キリスト教のマトリックスから解かれよ!」と主張するのは、正直に言って、可笑しいほどの自己矛盾であり、そのように主張するならば、まずは不自然なカタカナ英語を捨てて、聖書の引用も、英語以外の言語にすれば良いだろう。

思い出されるのは、筆者が初めてDr.Lukeと面会した際に、同氏がキリスト教徒というよりも、禅寺の住職に極めて近いという印象を受けたことである。"Pastor"よりも、むしろ「坊主」と呼んだ方がしっくりくるような風貌ゆえであったが、これも一種の予感だったのであろうか。)

だが、むろん、当然のことであるが、「東洋的な福音」などというものは、実際には存在しない。福音には西も東もなく、英語圏も非英語圏もなく、ただ一つ同じ聖書が存在するだけである。もしあえて東洋的な福音というものがあると仮定するならば、それは、ペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えのように、東洋的神秘主義とキリスト教の混合としてのバビロン宗教だけなのである。

だが、Dr.Lukeにとっては、ニッポンキリスト教界を踏みつけにし、これに対して勝ち誇ることさえできれば、何を利用しても構わないのであろう。同氏にとっては、伝統的なキリスト教徒よりも優位に立つことだけが、すべての目的となってしまっているのである。

このようにキリスト教界をどこまでも敵とみなす考え方は、キリスト教界の不祥事を次々と探し出しては、これを告発することを生業として来たアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、カルト被害者救済活動の支持者と根本的な共通性・親和性を持つものである。

このような現象が起きるのは、彼らの心に巣くう闇であるキリスト教に対する憎しみと被害者意識赦せない思いに悪霊がつけ込んだことにより、それがキリスト教そのものへの敵意と憎しみに発展し、最終的には、聖書の神ご自身に対する反逆へと発展しつつあるからに他ならない。

つまり、Dr.Lukeや、カルト被害者救済活動の支持者らを、キリスト教界に対する敵対行動に駆り立てているものは、キリスト教そのものに対する彼らの被害者意識なのであり、こうした人々に共通する被害者意識の一端を、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信者のcandy氏の記事にも見ることができる。

すでに記事でも書いたように、2010年の時点で、candy氏は未信者の夫と自分自身を、迫害されているイエスになぞらえて、キリストと同一視する記述をブログに記している。すなわち、主イエスが彼女に向かって(彼女の夫を指して)「私のために祈っていただけませんか」と懇願されたと述べて、彼女は夫とキリストを同一視し、それによって信者と不信者の区別、神と人との区別をうやむやにし、かつ、キリストを自分自身よりも下に置くのである。
 

主と一つ (candy氏のブログ「十字架の恵みが溢れて」から抜粋)
 2010.11.18 Thursday  から抜粋

 サウロは主の弟子たちを脅迫し、迫害し、男も女も縛り上げ、エルサレムに引いてくるためにダマスコに向かっていた。
 その途中の出来事だった。
 このときはすでにイエスご自身はこの地上にはおられなかった。でも主がサウロに現れておっしゃったことは、
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」と語られた
「なぜわたしを信じる者たちを迫害するのか」とは言われなかった。
「なぜわ・た・し・を迫害するのか」と仰せられたのです。

 この箇所を読むたびに、思い出すことがある。
 それは主人の闘病中に語ってくださった主の言葉を忘れることができない。
 初めて外来での抗がん剤を投与する日、主人を送ったあと、病院の駐車場に向かっているその時だった。

 主の御名を呼び求めながら歩いていると
 「私のために祈っていただけませんか」
 という御声を感じた。
 
 私はその御声を聞くと同時に、それが主人のことであることがわかった主は、主人のことを祈るように言われたのではなく、
 私のために祈って欲しい・・と語られたのだ。

 私は・・・胸がいっぱいになって言葉を失い、驚きと共に涙がどっと溢れ出た。
 それほどに、主はご自身と、信じる者とを一つとしてくださっている。主の中で区別などないほどに
 ひとつとしてくださっているのだ。
 あなたがたはキリストのからだであって、
 ひとりひとりは各器官なのです。
 第一コリント12:27
 
主の深い愛を褒め称えます。
詩篇の歌を持って褒め称えます(以下略)


ここに、「主の中で区別などないほどにひとつとしてくださっているのだ。」と書かれているように、ここでは、神の聖なるものと、汚れたものとの区別が事実上、なくなっており、人間がキリストと同一視されて、神と人との区別までが消え失せている。

こうした考えは、ちょうどサンダー・シングとウォッチマン・ニーの鉄と火のたとえ話のように、神と人間とが親密に「混じり合う」のみならず、もはや「区別などないほどに一つ」となって、神と人との境界線まで消え失せて、信仰がなくともまるで人がそのまま神であるかのように神格化されて行くのである。

また、そこでは、「御声を感じた」とあるように、五感に訴えかける感覚体験が強調されるが、このように、第三者による客観的に立証が全く不可能な個人的な幻や神秘体験を信仰の証であるかのように強調することは、ペンテコステ運動の大きな特徴である。

さらに、この記事に限らず、ペンテコステ運動に関わる信者たちの告白には、不自然で大げさすぎる感情表現が目立つ。以上で挙げたDr.Lukeの記事もそうなのであるが、その不自然な抑揚から、彼らを突き動かしているものが、冷静な思考ではなく、自分を熱狂させてくれる感情と感覚の刺激であることが、どの記事を読んでも、すぐに分かるのである。

このように大袈裟な感情表現を用いて、絶えざる熱狂と不自然な感動の涙に明け暮れ、絶えず自分の気分と感情を高揚させてくれる魂的・肉体的な刺激を求めずにいられない中毒患者のような症状も、ペンテコステ運動に関わる信者に特徴的である。

こうした大袈裟な感情表現は一見、「神」を口実にして、信仰の証のような形式を取ってはいるが、実際にはすべて自己の満足のためになされるものであり、流される涙も、熱狂も、全て自己のためである。Dr.Lukeは自分たちが「神々である」と言って、神以上に自分自身を高く掲げて熱狂し、candy氏はキリストが彼女に現れて、彼女の前でひざをかがめて(夫を指して自分のために祈って欲しいと)懇願されたとして、自分(と夫)を神に等しい者として掲げながら、自分のために感動の涙を流すのである。

こうした自己陶酔的な告白には、常にある種の自作自演的・作為的な印象がつきもので、不自然な印象が拭い去れない。何よりも、こうした自己陶酔的な感動や熱狂は、彼らの実年齢に照らし合わせて、あり得ないほどに子供じみているという印象を受けざるを得ない。10代の少年少女ではなく、それなりの年齢に達しようとしている壮年の大人が、これほど子供じみた一方的な熱狂に周りもわきまえずに没頭し、自画自賛しながら、一方的な涙に明け暮れたり、あるいは熱狂の雄叫びをあげる様子は、極めて奇妙かつ不自然、そして不気味な印象を与える。なぜペンテコステ運動の信者らには、年齢相応の落ち着きが全く見られず、絶えず自己を中心とした軽薄な浮かれ話しか話す話題がなく、自分がいかに満たされたかという体験だけで、年がら年中自画自賛にふけっていられるのであろうか。その幼児化と言っても差し支えない自分への熱中こそが、彼らを突き動かしている衝動が誤っていることの一つの明白な証拠だと言えるのではないか。

ペンテコステ・カリスマ運動が信者を感情と感覚の刺激にばかり駆り立て、落ち着いてものを考えさせないせいで、この運動に関わった信者らの知的成長が遅れるということは、十分にあり得る。人は他者の言葉の受け売りばかりをどれほど繰り返し、あるいは、刺激的な体験を受け続けても、そんなことでは、人格が成長することはない。人は自らものを考え、自らの判断で試行錯誤しながら、逆境を切り抜けて前進して行ったその度合いによって成長する。それは信仰によるキリストとの歩みも同様で、誰にも知られないところで、どれくらい静まって、主と共に一人で問題に立ち向かって来たか、どれくらい密室での知られざる祈りと信仰による知られざる行動を積み重ねて来たかがものを言うのである。

だが、自分を喜ばせてくれる感覚刺激や神秘体験にばかり明け暮れているペンテコステ・カリスマ運動の信者らは、まるでひっきりなしにジェットコースターに乗り続けている乗客のように、一切自分の考えを放棄して感覚刺激に身を委ねているだけなので、彼らがどれほど数多くの「恵まれた」体験談を披露しても、それは人を成長させる力のない、あまりにも自己中心で薄っぺらい感動でしかなく、そのような「感動」には、周囲の人々を突き動かす力もない。しかもその喜びはすべて外界からの刺激に依存したものであって、本人の信仰によって困難を粘り強く耐え抜いて得られた勝利ではないので、説得力もなく、そんな浅はかな熱狂からは、全く本人の人格的生長が見えず、そうした「喜ばしい」体験談を聞けば聞くほど、作り事のようなわざとらしさと不自然な誇張に対する胡散臭さだけが印象に残るのである。

自分を喜ばせてくれる超自然的な神秘体験ばかりを追い求める人々は、自分ではその不自然さが分からないのであろうが、早い話が、彼らの人格的成長は著しく止まってしまうのである。止まってしまうくらいならばまだ良いが、何かしら退行現象のようなものが起きて、次第に、物事の考え方・受け止め方の範囲が著しく狭まり、思考が幼児化して行くのである。そして、最後には、自分にとって何が「快」であり、「不快」であるかという、赤ん坊のように単純な基準を通してしか物事を判断できなくなってしまう。

そういった現象は、サンダー・シングのように、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、知的考察を退けたことの結果として起きるのであり、何を信じるのも本人の勝手とはいえ、筋力も使わなければ衰えるのと同様、人間の思考力も、使用しなければ無いも同然に退化するのだということを覚えておかなければならない。

自分に二本の足があって自由に動けるのに、わざわざ車いすに乗って移動する人がどこにあるだろうか? 同じように、神は人間に健全な思考力や判断力や、自ら考察する力を確かにお与えになったのであり、しかも、一人一人の人間には、他のどんな動物と比べても、はるかに優れた思考力が豊かに与えられているのである。にも関わらず、なぜ人間がわざわざ自らの存在を「全一的」にとらえず、自分自身の一部である知的な思考能力だけを悪いものであるかのようにみなし、これを退けて、己の情と感覚に従って生きようとする必要があるのだろうか? そのようなことは人間の自主的な後退以外の何物でもない。

さらに、福音をミルクにたとえるにしても、神は人間をいつまでも哺乳瓶にしゃぶりついている赤ん坊のように弱い存在として造られたわけではない。福音にも、信者の成長段階に応じて種類があり、ミルクだけでなく、堅い食物も存在することは、聖書が示している通りである。にも関わらず、いつまでもミルクばかりを飲んで生長しようとしない信者を叱責して、パウロは次のように述べた。

あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。」(ヘブル5:12-14)

サンダー・シングのように、信者が自分の頭を使って自ら考えることを嫌い、ただ受動的に「ミルクを飲む」ことだけを勧める偽りの教えに聞き従っていたのでは、信者は永久に霊的幼児のままこの世を去ることになろう。信者が自ら思考を働かせ、識別し、考察しようとしなければ、その信者には「良い物と悪い物とを見分ける感覚」が訓練されることは永久にない。自ら思考を放棄していながら、「考え方においてはおとなにな」る(Ⅰコリント14:20)ことは誰にもできない相談である。

だから、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような思考停止の教えを受け入れた信者の人格的成長が完全に止まってしまうのは当然であると言える。

どんなに「幻を見た」とか「主イエスの御姿を見た」「御声を聞いた」と誇ってみても、キリストの御言葉に従わない人たちに、信者としての成長などあるはずもなく、肉の思いで幻を見たことを誇るだけで、キリストに結びつかない根無し草のような信者たちについては、聖書は次のように警告している通りである。

「あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、かしらに堅く結びつくことをしません。」(コロサイ2:18-19)

さらに、もう一つ重要なこととして、candy氏が「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの御言葉に、キリストご自身を追い出す形で人間に過ぎない自分自身を投影し、まるで迫害されているのが、主イエスではなく、自分たち人間であるかのように表現していることにも注意が必要である。

ここで「なぜわたしを迫害するのか」という聖書のフレーズが登場するのは決して偶然ではない。ペンテコステ運動(中でもとりわけアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団)は、病者、障害者、元ヤクザ、元統一教会員、等々、社会や教会から打ち捨てられて来た弱者を積極的に伝道対象として来たが、そのように弱さを抱えた人々の心には、往々にして、自分たちは社会から冷遇され、打ち捨てられ、疎外されて来た弱者だという被害者意識と、深い厭世観が横たわっている。

カルト宗教が様々な弱点を抱えた人々を積極的に勧誘するのは知られていることであるが、こうした人間的な弱点が、ペンテコステ運動と結びつくと、それまで彼らが持って来た厭世観や疎外感が、彼らを見捨てて来た伝統的なキリスト教と、神ご自身への恨みとして向けられることになる。

もちろん、彼ら自身は、自分たちは正しい神を信じている正統なキリスト教徒だと思い込んでいるので、キリスト教を敵視しているという意識は必ずしもないかも知れない。

だが、実際には、統一教会やエホバの証人やものみの塔の信者も、自分たちを「クリスチャン」であると名乗っているのと同様、自らクリスチャンを名乗っているからと言って、その人々がどんな教義を信じているのかは、調べてみなければ分からないのである。

ペンテコステ運動は、これまで見て来たように、その教義自体が聖書から逸脱しており、異端としか言いようのない構造を持っている以上、どんなにこの運動に関わる人々が、自分たちは敬虔なキリスト教徒だと自称したとしても、この運動自体が、伝統的なキリスト教に対する対抗・挑戦となることは避けられない。

こうした運動に関わる人々の心の根底には、従来のキリスト教界に対する敵意と反発が無意識のうちに根を張っており、それが異端の教義と合わさって、自己の弱さを神格化することで、キリスト教全体の上に立ち、これを見返すというところにまで至るのである。

マザー・テレサが「貧しい人たちの内にはキリストがおられる」と述べて、信仰のない貧しい人々をそのまま神格化しようとしたのと同じように、弱者救済の運動として始まったペンテコステ運動も、人の弱さそのものをあたかも「神聖なもの」であるかのように祀り上げ、もてはやす。さらに、そこに御言葉を深く考察・吟味しようとせず、人間の五感に心地よく訴えかけて来る偽りの神秘体験に飛びつくことによって、信者が手っ取り早く神に近づけるかのような誤謬が合わさって、この運動の影響を受けた人々は、地道な信仰の歩みの積み重ねなしに、自分の弱さと神秘体験を通して、あたかも「一足飛びに他の信者を超越して神に近い存在になった」かのように思い込むのである。

ペンテコステ・カリスマ運動のような偽りの教えは、人の弱さをありのままで肯定しながら、なおかつ、それを恥ではなく、「神聖な要素」にまで高め、さらに、弱さを抱える人々を一足飛びに、通常の人々の及ばない高みにまで引き上げ、栄光化してくれる点で、生まれながらの人間、特に様々な問題や弱さから抜け出せずに、コンプレックスや恥の意識を心深くに抱えて来た人々にとっては極めて都合が良いのである。

上記の記事で、candy氏が信仰を持たない夫をキリストと同一視する理由も、「弱さ」にこそあると考えられる。自分たちは、様々な弱さによって社会的に追い詰められ、苦難をくぐり抜けて来た弱者であるからこそ、迫害されているキリストに近い存在なのだ、という思想が無意識に影響しているのではないかと考えられる。

「多くの苦難を通り、追い詰められて来た弱者であるからこそ、神聖である」――そういう自覚が、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」というくだりに自分たちを重ね合わせ、迫害されているキリストに自分たちをなぞらえるという発想を生んでいると考えられるのである。そのようにして、病や、障害や、苦難を美化し、自分たちの弱さをあたかも神聖なものであるかのように祀り上げて美化し、追い詰められている自分たちをキリストと同一視して、自分たちのために自己憐憫の涙を流すのである。

こうした記述の背後に隠れているのは、ペンテコステ運動が、弱者救済の名の下にしきりに助長・肯定して来た人間の弱さ(もしくは罪や、被害者意識)そのものの美化、神格化である。

聖書に目を向けるならば、使徒行伝において、主イエスを迫害したのはあくまで信仰を持たない人間(サウロ)の側であった。だが、以上の記述では、人間が迫害されているキリストに置き換えられることによって、聖書の文脈が全く覆い隠され、真の被害者は神であるという事実が、隠されている。

たとえサウロが迫害した対象が教会であっても、結局、そこで迫害されているのは、個々の信者ではなく、キリストご自身なのである。そして、生まれながらの信仰を持たない人間は、今日もサウロと同じく、神に対して迫害者なのであり、悔い改めて立ち返らなければならない立場にある。

ところが、candy氏のような記述では、迫害されているのは、神ではなく人間、しかも、彼ら自身であるかのように立場が置き換えられ、人間が神に対して犯した罪というものが、全く言及されない。不信者は、神の御前に悔い改めねば受け入れられない罪人であるという事実は否定され、むしろ、不信者が「神」の立場に置かれ、神はただ人間の苦難に寄り添い、あるいは人間の本来的に神聖なることを追認するための存在でしかなくなり、聖書の文脈がまるで完全にさかさまにされているのである。このような聖書の文脈の歪曲は、まさにグノーシス主義の特徴である。

だが、では一体、彼らは自分たちが何によって迫害されていると言うのか? 

そこで言外に示されているのは、「自分たちは聖書の神と御言葉とキリスト教とクリスチャンによって不当に迫害されて来た弱者だ」という主張である。

アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師や、Dr.Lukeのような人々が、なぜキリスト教界そのものを敵とみなすかのような活動を繰り広げて来たのか、その理由を考えてみたい。彼らがクリスチャンを名乗っているからと言って、信者はそれに惑わされるべきではない。彼らが最も「敵」とみなして戦っている相手は、伝統的なキリスト教、伝統的なクリスチャンたち、聖書の御言葉、ひいては聖書の神ご自身なのである。

サウロは信仰を持たない時代に、ユダヤ教徒の観点から、救い主なるイエス・キリストを否定して教会を迫害していたのであるが、グノーシス主義者らは、今日、聖書の文脈をさかさまにして、聖書の御言葉を曲げる自分たちこそ、神であって、彼らは(残酷な)キリスト教徒たちによって、不当に迫害されている弱者であり、迫害されている神である、と言う。

従って、Dr.Lukeの文章にも、candy氏の文章にも、彼らのキリスト教に対する被害者意識が、言外に表れているのだと言えよう。candy氏は「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という主イエスの言葉を自分たちに当てはめて自己憐憫の涙を流し、Dr.Lukeは以下の御言葉が、自分たちの不正に向けられた非難ではなく、ニッポンキリスト教界が彼らに対してなしてきた悪事に対する非難であるとして文脈をすり替える。

 「いつまであなたたちは不正に裁き/神に逆らう者の味方をするのか。〔セラ
弱者や孤児のために裁きを行い/苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ。
弱い人、貧しい人を救い/神に逆らう者の手から助け出せ。」

こうして彼らは、自ら聖書の御言葉を曲げ、その信用を毀損しておきながら、自分たちこそ、キリスト教によって虐げられた被害者である、と言うのである。

こうした文脈のすり替えは、偽りの霊だけがなしうることであり、偽りの霊は、人間の持つ何らかの被害者意識を足がかりとして人の自己の内に侵入し、それを増幅させて、「自分たちは不当に追い詰められている弱者である、ゆえに最も神に近い神聖な人々である」という自負を作り出す。そして、聖書の文脈を乗っ取って、御言葉からまことの神を追い出して、人間に過ぎない自分自身を神の座に据え、他の愚かな信者たちには、無知ゆえに、自分たちが神であることが分からないため、自分たちを不当に迫害するのだ、と言うのである。

だが、こうして「迫害されている」被害者の立場に自分を置こうとするところに、すでに書いた通り、悪霊たちの将来に対する動かせない予感が込められていると言えよう。悪魔と悪霊は、自分たちを待ち受けている神の裁きが否定できないものであることを確実に知っており、キリストの贖いの十字架を退けた人間が、どんなに自分は神だと叫んでも、彼らに待ち受けている末路が恐ろしいものとなる事実を知っている。

特に、悪霊たちは、自分たちの嘘偽りを知っている神ご自身と、彼らを罪に定める聖書の御言葉と、クリスチャンの信仰告白に対する本能的な恐怖を持っているのである。

その恐怖は、マタイによる福音書で、イエスと出会った悪霊たちが、まだイエスが何も言わない先から、自分たちが罰せられることに怯え、「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめるために来られたのですか。」(マタイ8:29)と叫んだことにも見て取れる。

だから、キリスト教界に対するDr.Lukeや村上密のような人々の憎しみと攻撃にも、同じことが見て取れるのである。彼らのキリスト教界に対する被害者意識は、個人的にはどんな出来後が原因となって生じたにせよ、その根底にあるのは、彼らを導く悪霊どもが、自分たちが反キリストの霊の持ち主であることを暴かれたくないという本能的な恐怖に由来する。自分たちが羊に偽装して群れの中に入り込んだ狼であることがいつか必ず暴かれて、自分たちがキリスト教徒の真の「敵」として攻撃され、排斥されることへの本能的な恐怖があればこそ、彼らは自分が訴えられないために、先手を打って、キリスト教そのものを「悪者」として告発し、クリスチャンに濡れ衣を着せようとしているのである。

それは律法学者やパリサイ人たちが、自分たちの不義が暴かれないために、主イエスを十字架にかけて殺したのと同じ敵意・憎しみ・殺意である。すべては罪人らが神の刑罰としての十字架を退けて、自己義認、自己正当化するために行なわれていることである。しかも、救い主を拒みながら、なおかつ、自分たちは被害者だと居直っているのである。結局、彼らの言いたいことは、「自分たちは聖書の神の被害者だ、十字架という人類に対する刑罰は不当だ」ということに尽きる。彼らが告発している相手は、ニッポンキリスト教界や、個々のクリスチャンや教会ではなく、まことの神ご自身なのである。



・コンプレックスと復讐心の裏返しとしての「エリート主義の福音」

さて、グノーシス主義は、「エリートの福音」である(以下注参照)。グノーシス主義者は、自分たちが(キリストの贖いのゆえにではなく)自己の弱さのゆえに、あるいは罪のゆえに、生まれながらに本来的に聖なる存在とみなし、そのように考える自分たちが、聖書から逸脱しているのではなく、むしろ、一般信者には知り得ない「隠された教え」にあずかったのであり、他方、一般会衆は愚劣で盲目であるがゆえに、それを知覚できないだけだと考えて、他の信者を見下しながら、自己の高慢をどこまでも正当化して行く。

エリート主義というのは、そもそも見下し、踏みつけにする相手がいなくては成立しない。グノーシス主義が踏みつけにする相手とは、キリスト教である。グノーシス主義はそれ自体が旧約聖書の神に対する敵対・挑戦として生まれて来たのであるが、その教えは東洋思想を経由して今日までも連綿と受け継がれ、あたかもキリスト教であるかのように偽装して、神の教会に入りこみ、神の御手から聖徒らを奪い、教会の建造を押しとどめようと狙っている。

だが、エリート主義とは、決して真に優れた人々から生まれて来るものではなく、むしろ、人間の弱さと劣等感の裏返しとして生まれるものであり、人が自らの罪や弱点から目を背け、弱さを持ったままで一足飛びに他者を超越して高みに達し、そこから自分よりも強い者を見返そうという復讐願望から生まれた心理的トリックである。
 

(注:荒井献氏は、グノーシス主義ナハシュ派(ナハシュとはアラム語で「蛇」の意)の文献である『トマスの福音書』の解説の中で、次のように記している。

「以下に収録されたイエスの言葉の意味は、一般会衆には「隠され」ている。それは、イエスによって「覚知(グノーシス)」を得る用意のある宗教的エリートにのみ保留されている。これがグノーシス主義の根本的立場といえよう。「隠された言葉」は、ここではコプト語で言い表されているが、これをギリシア語で表現すると「アポクリュフォン(その複数形が「アポクリュファ」)となる。そしてこの表現は、グノーシス文書の標題に多用されている(例えば『ヨハネのアポクリュフォン』『ヤコブのアポクリュフォン』など)。そしてこれが、一般的には「秘書」あるいは「秘教」と訳されるように、われわれのトマス福音書のイエスの教えも、トマスによれば、「秘教」そのものなのである。」
『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社学術文庫、1994年、p.120.


真に優れた人間は、自己の優れた能力をもって他者の欠点を補い、他者を生かそうとするものであり、決してそれを自己の手柄として誇示したりしない。自分の強さによって他者を貶めたり、他者の弱点につけ込んで救済者になろうとはせず、他者に君臨することを目指さない。そういうことをするのは、常に、弱さと劣等感を抱える人間だけである。

キリスト教界を告発することにより、神と教会と信者に復讐を果たそうとするカルト被害者救済活動も、ニッポンキリスト教界を踏みつけにして勝ち誇ろうとするDr.Lukeも、同じように、キリストご自身につまづき、神と聖書の御言葉につまづき、これに被害者意識を持った人々である。

こうした人々がしきりにキリスト教界に悪罵を投げつけているのは、それによって、彼らのありもしない「エリート性」を誇ると同時に、彼らが聖徒らから正体を見抜かれ、排斥されることを避けるためでもある。

この人々は、本能的にキリスト教を恐れているのである。それは、自分の時が短いことを知って怒り狂う悪魔の焦りにも似て、自分の終わりを予感していればこそ、その前に、可能な限り、聖書の御言葉を毀損して、できるだけ多くの信者を欺きに巻き込んで苦しめ、神の栄光を傷つけようと、暗闇の軍勢が彼らの存在を通して、絶えず神とキリスト教とクリスチャン全般に対して霊的攻撃を続けているのである。このような偽装信者に対する裁きは昔から滞りなく行なわれており、彼らが相応の報いを受けずに済むことは決してない。

にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。」(マタイ7:15-16) 

人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24:4-5)

「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。

「イエスは弟子たちに言われた。「人の子の日を一日でも見たいと願っても、見られない時が来ます。人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。」(ルカ17:20-23)

「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。」(Ⅱテサロニケ2:9-12)

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(Ⅱテモテ4:3-4)

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを 買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。」(Ⅱペテロ2:1-3)

 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18)

義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。」(Ⅱペテロ2:21)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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