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⑤ Dr.LukeのKFC(Kingdom fellowship church)の理念の異端性(続-4)

・悪霊が人の魂(思いと感覚)の領域に作り出す「偽物の霊的体験」としてのペンテコステ運動や、サンダー・シングの教えに欺かれたDr.LukeとKFC
 

Dr.Lukeはメッセージの中であからさまにサンダー・シングに言及してはいないが、それでも、両者の言い分を比較すれば、実に多くの共通点があることがすぐに分かる。

たとえば、サンダー・シングの著書には、「祈りと波動」という項目もあり、その付近には次のような記述が存在する。
 

「<略>神は無限であり、人は有限である。人は無限なる神を十分に理解することはできないが、神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」(『聖なる導き インド永遠の書』、p.151)

「<略>脳は多くの繊細な感覚を備えた実に敏感な器官で、瞑想中にみえざる世界からの情報を受けとり、普通の人間をはるかに超えたアイデアを刺激する。脳がこのようなアイデアを生むのではなく、上にあるみえざる霊界からこれを受け、人間にわかりやすい言語に変換するのである。夢の中でこうしたメッセージを受ける人もいれば、異象の中で受ける人もおり、また瞑想中の覚めた時間に受ける人もいる。

 祈りは、こうして得られた情報の中から有用なものと無用なものとをふるい分ける。真の祈りの中で神からの光が解き放たれ、良心、倫理観の座である霊魂の最奥部、一番敏感な部分を照らすからである。色鮮やかな色彩、心地よい音楽その他、見えざる世界からの素晴らしい光景や音色が、脳の内部で反射される。画家や詩人は、その本当の源を理解することもなく、彼らを打つこうした見えざる実在を詩や絵に写そうと試みるが、瞑想する人はこうした実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わうのである。それらの出所である霊界と本人の霊魂とが密になっているからである。」(同上、p.150)


瞑想中にみえざる世界からの情報を受けと」るとか、「実在のいわば核心部分に触れて無上の歓びを味わう」とかいった個人的な神秘体験を強調するサンダー・シングの記述は、Dr.Lukeの「霊界からの振動・波動を聞く」といった主張や、KFCやペンテコステ・カリスマ運動が常に強調する(偽物の)「聖霊のバプテスマ」や「異言」といった恍惚体験にほぼ重なる。

ここで、サンダー・シングは、「神は人の中に神を味わうことのできる感覚をお造りになった。」と、人間があたかも己の感覚を通して神に至ることができるかのように教える。そして、「実在(=神)との交わり」の甘美さを強調するために、人の五感を刺激する巧みな描写を用いて、彼の言う「霊界」の魅力的な世界を描き出そうとつとめる。

サンダー・シングが聖書に則って「神を知る」という表現を用いずに(たとえばヘブル8:11では主を「知る」と表現される。ここでの「知る」という言葉には人格を持った者同士の親密な交わりの意味がある)、あえて「神を味わう」と、まるで神を食べ物(対象物)であるかのように表現していることにも注意が必要である。

このように、人間の味覚を使って神との合一の甘美さを表そうとする特徴は、Dr.Lukeの「神との交わりは甘い」という言葉や、鈴木大拙の「二度目の林檎を食べぬといけない」という表現にも表れており、さらに、以前にも記事で紹介した通り、それは何よりグノーシス主義に見られた特徴なのである。

たとえば、ヴァレンティノス派のグノーシス文献、『真理の福音書』では、キリストの十字架そのものが、人間を喜ばせるための甘く喜ばしい「果実」へと変えられる。その十字架は、聖書の教えるような、人類の罪のための贖いの犠牲ではなく、「人が内なる神的自己を発見する機会」に歪曲された十字架である。
 

「……木に釘づけにされた。彼は父の知識(グノーシス)の実になった。しかし、それは食べ[られ]ることによって破滅を与えるものになるのではないそうではなくて、それを食べた人々が見いだすことに喜ぶようになる原因を与えたのであるなぜなら、彼は彼らを自らのなかに見いだし、彼らは彼を自らのなかに見いだしたからである。……」

……いつくしみ深い忠実なイエスが、苦難を身にひき受けて耐え忍んだ、……なぜなら彼は、彼のこの死が、多くの人々にとって命であることを知っていたからである。……彼は木に釘づけにされた。……彼は自らを死に至らせるが、彼は永遠の命を身につける。滅びの衣を脱ぎ捨てて、不滅をまとうのである。……」。(『ナグ・ハマディ写本』、エレーヌ・ペイゲルス著、白水社、p.169-170)


このように、異端の教えは、神だけでなく、キリストの十字架の概念も歪曲し、十字架を人間にとって都合よく、人間を喜び楽しませるための「甘く麗しい果実」へと変えてしまう。 

(筆者がcandy氏のブログタイトル「十字架の恵みが溢れて」という標題そのものに深刻な違和感を覚えるのもそのためである。)

そこでは、十字架はもはや人類の罪のための身代わりの刑罰ではなく、むしろ、人間の生まれながらの自己を高めるための道徳的感化や、新たな知識やインスピレーションの源へと歪曲される。そして、イエスの十字架の死が、しばしば、苦しみに満ちた出来事ではなく、まるで喜ばしい出来事であったかのように描写されるのである。

偽りの霊が、このように十字架の概念を歪曲するのは、そこに何とかして十字架から人類の罪に対する神の刑罰としての側面を除き去り、人間に下された神の刑罰を否定して、人間を無罪放免したいという欲求が働いているからである。

そのために、偽りの霊は、十字架を甘い砂糖菓子のように人間に都合よく味つけし、花輪で飾り立て、十字架を人間にとって罪や恥辱や刑罰の象徴ではなく、むしろ、人の生まれながらの自己を飾り立て、高めるための、喜ばしく楽しいツールへと変えてしまう。そうすることによって、彼らは、「神が罪人と自分を同化するために死んで下さったのだから、罪人はもはや罪人ではなく、神なのである」と主張して、十字架さえも、人が堕落した自分自身の内にありもしない「神的自己」を見いだす手段へと変えて行くのである。

グノーシス主義とは、その名が示す通り、人が本来的な自己に目覚めさえすれば、その知識によって「神のようになれる」とする神秘主義の教えであり、もともとは悪魔に由来する偽りであるが、この思想は、自らの主張を正当化するためならば、聖書のあらゆる概念を歪曲し、捏造する。

サンダー・シングの言葉も、一見、聖書に似ているようであるが、御言葉と対照しながら読んでみると、すべての概念が歪曲だらけ、捏造だらけで、結局、その言わんとしているところは、聖書の御言葉とは真逆であることが分かる。

例を挙げれば、Dr.Lukeは記事「
サンダー・シングのことば」(2008年1月17日)で、サンダー・シングの文章を無批判に大量に引用しているので、いくつかその中から例を挙げてみよう。
  

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」

「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」

今われわれは、富も地位も名誉も望まない。いや、天国さえも望まない。ただ、自分の心を天に変えしめた主のみを必要とする。主の無限の御愛は、それ以外のすべてのものに向けられる愛を一掃した。クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。」

「神の化肉について

かつて、ヒマラヤ山中にいた時、わたしはサトレジュ河を渡ろうとしたが、橋がなかった。とても泳いで渡れるところではなかった。どうしたものかと考えていた時、一人の男を見つけたので、彼に声をかけた。

「向こう岸に行きたいのだが、橋もなければ船もないのです。」すると彼は、「心配ない。空気が向こう岸につれてってくれるさ」と答えたので、私はびっくりした。空気を吸うことは出来るが、吸った空気で体が持ち上がり、対岸にいけるわけでもない。すると相手は獣皮をとりだして、空気をそこに吹き込み、ゴムボートにしてそれに乗れと命じたのである。こうして私は安全に向こう岸に辿りつけた。空気は皮の中に閉じ込められることによってのみ、私を運ぶことができた。

同じく、神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。

「わたしを見たものは、すなわち父をみたのである。」われわれは、イエス・キリストの化肉の中に、生ける父を見ることができる。

世を救うために、全能の神自らが化肉されたのは、まさにその愛のためなのです。」


こうした文章がどれほどもっともらしく聞こえ、説得力のあるたとえ話を用いていたとしても、実際には、聖書が何を言っているのかに逐一照らし合わせて検証せねばならない。

たとえば、「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである。いのちは言葉となった。その方はこの世の河を渡りたいと願う人々を安全に天国へ運んでくださる。」といったサンダー・シングの文章も、キリストを単に人間のために天国への橋渡し役をつとめるボランティア船頭に過ぎないかのように描いて、キリストの十字架が人類の罪の贖いのためである、という聖書の真理を全く覆い隠している。
 
驚くべきことに、ここには十字架という言葉さえも登場してはいない。「神もまた、人を救うために受肉されなければならなかったのである」とは言っても、一体、人類を何から救うために、神は受肉されたのか? 全く文脈が定かではないのである。

また、「
キリスト者は塩のようなものでなければならぬ。塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。自己犠牲にこそ、訴える力はある。」という文章も、一見、もっともらしく聞こえるが、聖書を著しく歪曲していることが分かる。聖書は次のように述べる。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

この聖書のたとえには、「塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」などという事は一言も書かれていない。そもそもこれはサンダー・シングの述べているような自己犠牲による道徳的感化の価値を示すための話ではないのである。

この御言葉は、その直後に
「あなたがたは世界の光です。」、「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:14,16)とあるように、「地の塩」、「世の光」という両方のたとえが指しているのは、同じように、「あなたがたクリスチャンは、神によってこの世から召し出されたのだから、この世と迎合して同化したりせず、むしろ、御言葉に従って、何が神に喜ばれることであり、何がそうでないのか、その区別を公然と世に示し、天におられる父が栄光を受けられるようにしなさい」ということに尽きる。

つまり、「地の塩」や「世の光」といった表現を用いたたとえ話は、神の子らである信者たちと、この世との明確な区別を示しているのであって、神に聖別された者たちが、その区別を自ら失ってはいけないという戒めなのである。

ところが、サンダー・シングは、「
塩は溶けてはじめて効き目をあらわす。」と話をすり替えることにより、御言葉の意味を真逆にして、信者とこの世の区別をうやむやにする。塩(クリスチャン)が水(この世)に溶けてしまえば、この世と信者との区別は失われる。にも関わらず、そのようにして自分を取り巻く環境(この世)と調和して自らの信仰を主張することをやめることが、信者のあるべき自己犠牲であるかのように、文脈をすり替えるのである。

さらに、上記の引用で、サンダー・シングは、「
福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などとも述べており、ここでも、またもや「味覚によって味わう」表現が登場すると同時に、聖書の御言葉の二分性に基づく知的分析が否定されている。

だが、考えればすぐに分かることであるが、ミルクはこの世の有限な物質からなるので時間の経過と共に腐敗もしようが
、「聖書は廃棄されるものではない」(ヨハネ10:35)のであり、聖書の御言葉は、人の短い一生を超えて永遠に変わらずに残るものであり、その御言葉が、人間の束の間の分析にも耐えられないようなことがどうしてあり得ようか。

むしろ、
のみことばは混じりけのないことば。主の炉で七回もためされて、純化された銀。」(詩編12:6)

とあるように、聖書の御言葉はあらゆる検証に耐えうる永遠の不変性を持ち、人間の知性による分析や考察を排除するものではないのである。

しかしながら、すでに書いたように、東洋思想は、聖書の二分性に基づく知性による分析や考察を嫌い、感情と感覚に基づいて直観的に行動することこそ、人間の本質であるかのように主張する。

すでに幾度も引用して来たように、鈴木大拙は、以下の文章で、エデンにいた時、人間は「行」のみの世界に生きていたが、善悪知識の木の実を食べたことによって、「知」が発生したのであり、それこそが失楽園の原因だとなったと述べて、知性による分析を悪しきものとみなし、これが消滅するか、もしくは「行」と一致して、悟りによって新たな世界が出現しなくてはならないと述べる(それが同氏の言う「二度目の林檎を食べる」とい言葉の意味である)。
 

人間の本質とでもいうべきは、理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである。知性はどうしても二分性を根本的に帯びている。それゆえ、表面的になりがちである。すなわち薄っぺらだということになる。これに反して情意的なものは未分的すなわち全一的であって、人間をその根本のところから動かす本能を持っている。人間は行為を最先にして、それから反省が出る、知性的になる。知が行を支配するようになるのは、知がその本質からはなれて、その底にあるものと一つになるところが出なくてはならぬ。

アダム、イブの世界には『行』のみがあって『知』がなかった。それでエデンの楽園が成立した。一旦、知が出ると、失楽園となったのである。入不二法門の世界では、その知をそのままにして、もとの行の世界、意の世界を、新たな面から再現させている。この点で入不二界はエデンと相違するのである。一段の進出といってよいのである。二度目の林檎を食べぬといけない。」(『東洋的な見方』、p.195-196)


このように知性による考察や分析を「悪しきもの」として退け、物事を自らの知性によって深く考えることを厭う傾向は、鈴木大拙・サンダー・シングに全く共通しており、東洋思想そのものの特徴なのであるが、これもまさに聖書をさかさまにした偽りなのである。

すでに見て来た通り、聖書における人類の失楽園のくだりは、人間が知性によって神の御言葉を理解し、これに聞き従うことを捨てて、己の情と欲に誘われて、己の欲することを後先考えずに行動した結果として起きた堕落であり、鈴木氏の言うように、聖書の二分性に基づく知性が人類の堕落の原因となったのではないのである。

すなわち、人間の堕落は、神が何を是とし、何を非として戒めているのか、御言葉による区別(二分性)を己の知性で吟味・理解し、それをわきまえて行動することをやめて、むしろ、「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」と鈴木氏が言うように、知性による考察自体を放棄して、自分の行動の意味やその後先を全く考えることなく、ただ己が欲に誘われるままに、己の欲するところを行ったことによって起きたのである。

言い換えれば、人間の行動が意味と切り離されて、ただ情と感覚だけに基づいて、己の感覚的欲求を満たすことだけを究極目的とするようになった時、人類の堕落が起きたのである。

その堕落とは、人間が神に対して、神を喜ばせるために生きることをやめて、ただ己の満足だけを念頭に置いて、自己のためだけに生きるようになったという価値観・人生観の一大転換を意味する。その瞬間から、人間の全ての行動は自己の満足しか念頭に置かないものとなった。御言葉の二分性に基づく知性を放棄して、何が真に是であり非であるかをわきまえることなく、自分にとって好ましいものだけを全て「良い」ものと判断し、何もかもを自己の感覚を通して判断するという「全一的」存在になろうとしたことによって、人間は自己を客観視する能力までも失ったのである。
 
従って、そのような浅はかで衝動的で考えなしの自己満足的行動こそが、「薄っぺらだ」と非難されるべきであって、そのように知性と結びつかない短絡的衝動が人間の本能であるというのは、大変、嘆かわしい事実でしかなく、それもただ単に人間から知性を切り離して、堕落した動物的本能だけを指して本能だと言っているに過ぎない。

軍隊であっても、指揮命令を下すのは司令部であって、前線の兵士ではない。前線の兵士が受けた命令をどうして「薄っぺらだ」と言って拒めよう。同様に、人間が真に「全一的」であるためには、人が知性によって自らの行動の全てを律することが必要なのであって、その逆は決してあり得ない。「行」が「知」より優先されたり、「行」が「知」を支配することで両者の一体化を目指す世界は、反逆の世界でしかない。
 
だが、人間による知性の放棄と、動物的衝動への邁進と、その結果としての神への離反を後づけで正当化するために、鈴木大拙氏は「人間は行為を最先にして、それから反省が出る」生き物だ、と言うのであるが、このように東洋思想は、「行」の方が人間の本質であって、「知性」は本質ではない、と言うのである。

このような主張こそ、人間が自らの行為の罪深さを覆い隠すために作り上げた自己弁明のための詭弁なのである。しかも、鈴木氏がそこで悪者にしようとしている「知性」とは、聖書の御言葉の二分性のことではなく、むしろ、人類が善悪知識の木の実を取って食べたことにより、悪魔が人類に吹き込んだ偽りの思想、偽りの知性を指している。

従って、もし「知性」による分析や考察が悪者にされるのだとすれば、その非難は、聖書の神の御言葉に基づく知性に対してではなく、悪魔が吹き込んだ偽りの思想に対してこそ向けられねばならない。ところが、東洋思想はこれを全てさかさまにしてしまい、悪魔に由来する偽りの「知性」に対する非難を、聖書の神の御言葉に向けようとするのである。

このように聖書を転倒させた詭弁は、まさにグノーシス主義に見られた特徴であり、東洋思想とは、すでに述べて来た通り、グノーシス主義を保存する入れ物の一つに過ぎないのであるが、こうしたものは、聖書の御言葉の二分性に基づく知性を捨てて、己の情と欲に走った人間が、己の堕落を神に責任転嫁して、聖書の御言葉を悪者にするために、聖書をさかさまにして作り上げた詭弁なのである。

そこで、今日も、東洋思想の中には、人間とはもともと「理性的、知性的なものでなくて、むしろ情性的、意欲的なものである」という考え方が根強く生き残っている。それは結局、生まれながらの人間が自己の罪と堕落を正当化するために作り出した考えなのであり、こうした主張を繰り広げる人々は、人類の堕落の瞬間から今に至るまでずっと、神に離反した人類の罪を正当化するために連綿と偽りを作り出しているのであり、それによって延々と「善悪知識の木の実」を食べ続けているのだと言える。このサタンに由来する「善悪知識」は、人間にとって都合が良いように、聖書のすべての概念を歪曲し、さかさまに変えてしまうのである。

従って、クリスチャンは、東洋思想の言うように、人間を直感的・動物的・衝動的な生き物とみなす考え方の恐ろしさを理解して、そのように知性による考察を侮蔑する考えがどれほど危険なものであり、聖書の御言葉に従うことの妨げになるかに気づかなければならない。

大体、人にじっくりと時間をかけて自分自身で物事を深く考える暇を与えようとせず、人がただ己の欲求に基づいて感情的・衝動的に行動することばかりを促すのは、詐欺師の手法である。
 
そこで、一体、サンダー・シングが何のために、「福音というミルクは飲むものであり、分析すべきものではない。分析しているうちにミルクは腐ってしまう。」などと言って、聖書の御言葉を知性によって考察する作業を軽んじて、信者の吟味や疑いを退けながら、可能な限り、信者が自分では何もものを考えずに。ただ己の直感だけに基づいて、自分にとって心地よいと感じられる行動に出る方向へと誘導しようとしているのか、気づかなければならない。何のために、彼は知性による考察を退けているのか、そこにどんな危険を隠そうとする意図が込められているのか、よくよく考えてみる必要がある。

結局、そこにあるのは、人間の思考を眠らせることによって、嘘を暴かれまいとする意図である。一見、もっともらしく、良さそうに聞こえるサンダー・シングの言葉が、少しでも聖書の御言葉に照らし合わせれば、どれほど著しく矛盾しているか、誰にでもすぐに分かってしまう。そこで、自らの述べている思想の虚偽を暴かれないために、予め読者の思考を眠らせておこうと、サンダー・シングは以上のような論法を使っているのであって、そこにトリックがあることに信者は気づかなければならないのである。

だが、Dr.Lukeはそのような「しかけ」には全く気づこうともせずに、サンダー・シングの文章を手放しで賞賛している。

「クリスチャンと呼ばれる人々の中に、主の尊い、生命を与える臨在感を実感できない人々が多いのは、キリストが彼らの頭や聖書の中に生きているだけで、心の中に生きていないからである。人は心を明け渡す時のみ、主を見出す。心[ハート]はキリストの王座である。王たるキリストの支配する心(ハート)こそ、天の都である。

というサンダー・シングの言葉にも、西欧キリスト教に見られるような、伝統的なクリスチャンに対する嫌悪と侮蔑の感情が込められている。自分は「神の臨在を直接味わっている」のであって、西欧のキリスト教徒のような、神の臨在を全く実感できないでいる「頭でっかちな」可哀想な連中とは違うのだという自惚れが満ちている。

サンダー・シングの伝統的なキリスト教徒に対するこのような上から目線の批判と侮蔑は、ニッポンキリスト教界を見下し、侮蔑するDr.Lukeの心境にはさぞかしよく合致したことであろう。

「神との交わりとは、私たちの中に神があり、神の中にわたしたちがいるということである。とはいえ、これによってわれわれの個別性が失われるわけではない。鉄が火の中に置かれれば、鉄の中に火がおこる。だからといって鉄が火になるわけでも、火が鉄になるわけでもない。」

というサンダー・シングの「鉄と火のたとえ話」も、以前にも記事で引用したように、不思議なことであるが、「神と人とが混ざり合う」と教えているローカルチャーチから出されたウォッチマン・ニーの著書とされている全集の中の記述にぴったりと合致する。
  

「さらに完全な結合

神はすでにわたしたちをキリストの中に包含されました。わたしたちは今どのようにしてキリストがわたしたちの中へと造り込まれるのかを見なければなりませ ん。キリストが わたしたちの中におられる時だけ、わたしたちの結合は実際であり、完全であり得ます。そして、その時はじめて、キリストが持っておられた あらゆるものが、わたしたちの中へと造り込まれます。このキリストとの関係こそ、その究極的で最高の意味での結合です。

ある日、わたしは鍛冶師が作業しているのをじっと見ていました。彼が大きな一塊の鉄を火の中に投じ、炎を燃え立たせてから、その赤くなった金属を鉄槌で打 ち始めました。脇に立っていた一人の弟子が火を得ようとしていました。彼は一枚の紙を巻き、それを火に突っ込むことをしないで、その端を赤くなった鉄に触 れました。たちまちその紙に火がつきました。わたしは火が鉄から出て来たのを見て非常に驚きました。この一塊の鉄は、今は他のすべての鉄とは違っていまし た。あなたはそれを鉄であったと言うかもしれません。しかし、またそれを一つの火の球と考えることもできます。火は鉄の中に、また鉄は火の中にあったので す。それは鉄の性質と鉄の様相とを持っていました。あなたがそれに一枚の紙を置くと、その紙は燃え上がりました。

神はわたしたちとキリストとの結合がその鉄と火の結合のように親密なものであることを願われます。神はわたしたちのすべての罪を赦されました。そして、わ たしたちの古い人をキリストの中で終わらせました。しかし、神はそこで終わりにされませんでした。鉄と火が一つであったように、神はわたしたちがキリスト と完全に一つであることを欲しておられます。鉄のあらゆる分子は火と混ざり合い、その火のあらゆる性質は鉄の中で現されました。神はこの程度にまでキリス トをわたしたちの中に造り込むことを欲しておられるのです。」(ウォッチマン・ニー全集(第二期 第二七巻、正常なキリスト者の信仰、日本福音書房、 1997、p.200-201)


上記のような教えを信じる人々は、鉄と火が混じり合うように、「神と人とがほとんど区別がないほどまでに一体になれる」と教えるのである。しかしながら、問題は、このたとえ話によって、一体、キリストと信者との結合は何によって保障されるのか、という最も肝心な点が、覆い隠されている点である。聖書は言う、

「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:20-21)

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」(ヨハネ14:23)

「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

鉄と火のたとえ話を何万回繰り返しても、聖書の御言葉を守らない信者は、キリストとの合一にあずかることは決してできない。キリストとの合一に達したいならば、最も肝心な点は、信者が御言葉を守り、従うかどうかということである。だが、サンダー・シングや上記のウォッチマン・ニーの著書(福音書房)は、たとえ話のもっともらしさばかりを強調することによって、信者が「聖書の御言葉を守る」ことなしにキリストとの合一には絶対に達し得ない、という事実を教えないのである。

心[ハート]はキリストの王座である。」というサンダー・シングの言葉にも注意が必要なのは、ここにもまた聖書の歪曲が潜んでいるからである。「神は霊です。神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:23)という御言葉に表れている通り、神と交わることができるのは、人の霊のみであって、魂ではない。信者はむろん、霊においても、心においても、自分のすべてを尽くして神を愛し、神に従うのであるが、だからと言って、人は己の情や感覚を通して神を知ることはできないのである。人の魂と肉体の感覚の領域には、神との霊の交わりは存在しない。

だが、サンダー・シングが「心(ハート)」を強調するのと同じように、Dr.Lukeもしきりに「マインド(思い)」を強調する。(メッセージの主題を見るだけでもそのことは分かる。「マインドのゲートキーパー」(2016年4月3日)「祝福のマインドフルネス」(2016年5月29))

このように、しきりに信者の「心(魂)」における活動を強調し、あたかも、天国(神の国)が人の魂の領域に存在するかのように主張する教えが危険なのは、ペン-ルイスが指摘するように、悪霊が信者を霊に従ってではなく、堕落した魂の思いや感覚に従って歩ませるために、人の思いや感覚を刺激して、甘美な体験を味わわせることによって、信者の魂の領域に、「偽物の霊的世界」を作り出し、偽物の霊の感覚を、聖霊の働きと取り違えて歩ませようとすることがあり得るからである。

ペンテコステ・カリスマ運動もそうであるが、信者は自分が個人的に受けた体験が非常に甘美で心地よく、自分のニーズに合致しているために、それが聖書の御言葉と矛盾していても、注意を払うことなく、「自分は聖霊に導かれて、霊的な体験を受けているのだ」と思い込みながら、自ら感覚体験の虜とされて行くのである。この種類の欺きに対して、ペン-ルイスは次のように警告している。

  

サタンの欺く霊どもは、真の霊のいのちの偽物を魂の領域に造り上げて、信者を欺こうとします。信者はこの偽物に気がつきません。彼らの狙いは、信者をおびき寄せて、無意識の内にふたたび魂の領域の中を歩ませることだからです。

霊を魂から解放されて「切り離された」霊の人は、魂や体によってではなく、によって歩み、によって支配されている人です。しかしこれは、霊の人は二度と魂のいのちに巻き込まれることはありえない、ということではありません。

霊の人でも、霊の法則を知らず、霊に治めさせることに失敗するなら、ふたたび魂のいのちに巻き込まれるでしょう。何がからであるのかを識別する方法、霊を自由に保ち、神の霊に開き続ける方法、絶えず聖霊と協力するのに必要な条件を、霊の人は学ばなければなりません。

霊の人は、悪霊どもの攻撃を見抜いて、対処することができなくてはなりません。悪霊どもは、霊の人の霊を攻撃して、神との交わりを妨げようとします。あるいは、霊の機能を麻痺させ、受動的にさせて、霊を魂に追いやろうとします。これに失敗すると、悪霊どもは霊の人の霊を過度の活動に駆り立てようとします。その狙いは、自分たちの攻撃に対する絶え間ない抵抗を阻止して、妨害することです。
(『魂と霊』、ジェシー・ペン-ルイス著、第5章 「霊的な」(プネウマチコス)クリスチャン、霊のいのちの法則、より抜粋)


以上のような警告を読むと、なぜペンテコステ・カリスマ運動の影響を受けた信者らが、頻繁に不自然で大袈裟な感動の涙を流し、芝居じみているとしか思えないほどに誇張された行動や感情表現を繰り返しながら、絶えず過度の熱狂に陥っているのかも理解できる。それは悪霊によって過度に活発化された魂の活動であり、絶えず信者の霊を圧迫し、静穏な思考を妨げ、信者を霊の平安の静けさの中から、自分自身の騒がしい思いと感覚という魂の領域へと誘い出し、その領域にとどめおいて、霊ではなく魂の感覚に従って歩ませるために行われる欺きのための「疑似霊的活動」なのである。

むろん、有害で不快な感覚体験を通しても、悪霊は信者が霊に従って歩むことを妨げることができるが、同時に、心地よい体験を通しても、信者を欺くことができ、そのようにして、信者を御言葉ではなく、自分自身の感覚体験の虜として行こうと狙っているのである。この種の偽りを見抜くために信者に必要なのは、信者が自分にもたらされる全ての感覚体験を疑うことなく受け入れるのをやめて、それが自分にとって心地よいかどうかという基準に従って是非を判断するのではなく、御言葉に合致しているかどうかという基準によって是非を判断し、御言葉に合致しない体験は、どんなに好ましく感じられたとしてもこれを否み、そこから遠ざかることだけである。

特に、信者の静穏な思考そのものを妨げるほどに強烈で受け身の絶え間ない感覚的刺激を求めさせる教え、過度な熱狂、不自然な感動、絶えず流される滂沱の涙、恍惚体験、行き過ぎた歓喜などを伴う感覚体験ばかりを強調する教えは、とことん警戒して退けることである。

サンダー・シングやペンテコステ・カリスマ運動のように、信者が聖書の御言葉に従うことの重要性よりも、「神との甘美な交わりを味わう」という個人体験ばかりを強調することによって、こうした体験が信仰生活の本質であるかのように主張する教えは、例外なく、信者を霊ではなく魂の領域で己の感覚に従って歩ませるために作り出された偽りであり、そこで強調されている「霊的体験」とは、結局、魂の領域に作り出された偽物なのである。
 

 サタンの欺く霊どもは、人の霊の偽物を魂の領域に造り上げることができます霊的な信者はこのことを理解しなければなりません。これは重要です。欺く霊どもは、策略を用いて外なる人に接触することにより、次に霊からではない動きをその人の中に生じさせることにより、これを行います。このような動きは霊的に見えるかもしれませんが、いったん主導権を握ると、真の霊の動きを封じ、圧倒するほど強くなります。もし信者がこのような敵の戦略を知らないなら、たやすく真の霊の動きを棄ててしまうでしょう。彼は、「霊にしたがって歩んでいる」つもりなのですが、霊的な感覚の偽物にしたがっているのです

 真の霊の動きがやむ時、「神は今、新しくされた思いを通して導いています」と悪霊どもはほのめかすかもしれません。これは、彼らの偽りの働きと、人が霊を用いていないことを隠すためのたくらみです。それと同時に偽りの光が思いを照らし、続いて偽りの推論や判断などが生じます。その人は、「自分は神からの光を持っている」と思います。なぜなら彼は、自分が「霊にしたがって歩く」ことをやめてしまったこと、そして今、天然的な思いにしたがって歩んでいることに、気づいていないからです。

 霊の人が直面するもう一つの危険は、彼を肉(体)にしたがって歩ませようとする、サタンの欺く霊どもの巧妙なたくらみにあります。欺く霊どもは、人が「霊的」だと思う感覚を体の中に生じさせることにより、「自分はなおも霊にしたがって歩んでいる」という確信の下で、人を肉にしたがって歩ませようとします

これらの策略を打ち破るには、超自然的事柄を知覚するすべての肉体感覚だけでなく、通常の事柄を知覚する過度の肉体感覚をも拒まなければならないことを、信者は理解しなければなりません。なぜなら両方とも、思いを「霊にしたがって歩むこと」から逸らし、肉体的な感覚に向かわせるからです。 (同上)
 

<続く>

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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