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我が友なる方々!

このブログを始めてから、読者の顔ぶれがガラッと変わったのがよく分かります。ある意味では、読者がふるい分けられたに違いありません。けれども、私の歩みにどんなに紆余曲折があっても、ずっとお読み下さり、私を変わらず愛し、祈り、支えて下さっている方々がいらっしゃることに感謝します。

「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。」(ヘブル5:7)

私たちは主のゲッセマネの園での祈りのことを知っていますが、それ以外の場面で、主がどんな風に激しい叫びと涙を持って、神に祈りと願いを捧げられたのかを知りません。ただ分かっていることは、主はご自分には自分を死から救う力が全くないことを知っておられ、その力を御父に求めるために、度々、人里はなれた寂しいところへ去っていかれたということです。

荒野での40日間の断食もそうでしたが、主は試練を通して、自分が一人では全く無力であることを知らされ、ただ御霊によって、御父から与えられる御言葉によって生かされることを学ばれたのです。

ですから、私たちも同じように、自分の無力を知らされることがないならば(言い換えるならば、私たちが自分の「強さ」を打ち砕かれることがないならば)、決して、自分の無力さを覆う、上よりの御霊の力を知ることもないでしょう。御霊は私たちの肉の上には注がれることができないのです。

愛する懐かしい兄弟たちよ、私たちはずっと一緒に話し合って来たではありませんか。聖霊はキリストを証しするのであり、自己栄化の霊ではあり得ないと。ですから、もしも御霊によって語っていると言いながら、その人が、自分の信仰の正しさや立派さを誇り、自分の強さを誇り、自分の知恵を誇り、自分の富を誇り、自分の栄光を証しているとするなら、それは決して御霊に導かれているのではないことを、すぐに理解できるはずです。

ジョージ・ミュラーの伝記を読んだときに、このようなことが書いてあったのを覚えています。ミュラーは孤児院で定期的に出している刊行物に、「ジョージ・ミュラーに対する神のお取り扱い」という副題をもうけており、そこで、自分が日々どのような罪を主に示されたか、自分がどれほど冷淡な人間であると気づかされたか、自分にどのような不信仰があると気づかされたか、などを赤裸々につづっていたのです。

彼は多くの人々から栄誉を受けておかしくない立場にありました。彼がただ信仰だけに立って、孤児院経営を成し遂げたことは、当時から多くのクリスチャンに賞賛されていました。ですが、彼は自分がまるで信仰の偉人であるかのように人から賞賛を受けたり、自分の信仰こそが正しい、優れた、立派な信仰であるかのように人前に見せかけることを堅く拒んだのです。

彼はむしろ、自分がキリストの御前で、いかに愚かで無力な腐敗した一人の人間に過ぎないかということを、全ての人々が知ることができるように書き記していました。彼は自分の生涯を、罪人である自分に対する神のお取り扱いの連続であると考えていたのです。そして、彼はいかに自分が「神に取り扱われれる必要のある人間であったか」を恥じずに告白していました。それは彼が全ての栄誉を自分にではなく、ただ一人キリストにのみ帰するために行なったことです。

私は今、クリスチャンの信仰はこのような地点にまで戻らなければならないと痛切に感じます。これは自己卑下を奨励しているのではありません。私たちが内省にふけり、自分の罪深さばかりを見つめるようになって落胆するためでもなければ、あるいは罪の告白がデモンストレーションのようになされるためでもありません。

ただ、神の御前で私たちが自分の生まれながらの強さによって武装し、裸の惨めさを隠そうとすることがどんなに罪であるかを思うのです。私たちが自分の正しさや、自分の強さによって、神と人との前で立ちおおせようとすることが、どれほど忌まわしい偽善であるかを思うのです。さらに、私たちがもしも自分の信仰の正しさによって、人からの栄誉を受けてしまうならば、それはもはや信仰ではない、何か別のものになってしまうと言って過言ではありません。

さて、straysheepさんがずっと翻訳して下さっている記事を紹介します。どれもお勧めなのですが、今回は「いのちに至らせるかおり」から

「主の教会の成長にとって、主がいのちの主導権をとられ、中心であらねばならないのです。私は確信しているのですが、いのちが中心になるなら遅かれ早かれ二つのうちどちらかが起こります。すなわちそこではキリストが完全に徹底的に拒絶されることが極めて明白になるか、それとも逆に増し加わる成長があるかであります。

いのちにはとてつもない力があります。そしてその主のいのちは駄目になるか逆に息づくかのどちらかであります。いのちに対して取る人の態度によるからです。主はいのちに対してはいのちの香りであり、死に対しては死の香りであります。決して事態が中立で終わることはないのです。」

エクレシアとは、人の作り上げる組織や団体のことではありません。一人または複数の優れたリーダーやメッセンジャーに導かれるいわゆる教会組織のことでもなければ、定期的にそこで開かれる集会のことでもありません。ただキリストだけを第一に尋ね求め、キリストのいのちの中で、主の御名によって集まる二、三人とともに、主がおられるのです。主はこのような人々と喜んでともに集ってくださるのです。

思い出します、私が遠い地方にいて周りに一人も同信の友を見つけられなかったときに、「一人でも神の宮なのだから、エクレシアなのだよ」と兄弟たちが言ったこと。けれども、「二、三人と書いてあるからには、主は必ずパートナーとなる信仰者を与えてくれるはずだ」とも言ってくれたこと…。そして確かに主はその時、その時で、私にパートナーを与えて下さり、ある姉妹と二人で旅行をしていたときには、「こんなにも何もせずにのんびりしているだけなのに、主はともにいて御業を成して下さるんだね」と語り合ったこと…。

人の正しさを主張し、人の栄光を築き上げるために作られたもっともらしい人工の装置や装飾物はもう要らないのです。そのようなものは今後も、衰退の一途を辿るだけでしょう。主が集められる礼拝は、野の花のようにさりげなく、気取りなく、何の気負いも、力みもなく、弱りきって、絶望している人々をも傷つけないほどに、自然なのです。そこには圧倒的なパワーで人をなぎ倒すようなメッセージもなければ、天に昇るような麗しい賛美もなく、荘厳な雰囲気もなく、メッセンジャーさえもおらず、祈りの形式もなく、もしかすると、私たちの知っている全ての礼拝形式もないかも知れません。

それでも、私たちは確かに主がともにいて下さり、主が私たちを結び合わせて下さったことを知るのです。その交わりの全工程において、最高にへりくだっておられるお方が、腰に帯をしめて、私たちのために給仕して下さっていることを知るのです。そのへりくだった愛の中で、私たちもまた互いに愛を示し、仕え合うのです。

主は言われました、「主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。よくよくあなたがたに言っておく、僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。」(ヨハネ13:14-17)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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