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ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」(マタイ24:38)

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13-14)

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師は、ただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。あなたがたは地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、すなわち、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。
人の子が来たのは、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。
」(マタイ20:25-28)

不正を行なう者はますます不正を行ない、汚れた者はますます汚れを行ないなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行ない、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい。」(黙示22:11)

 



10.宗教指導者を「霊の父母」とし、これに絶対的に帰依する信者の家庭を増加させることで、地上天国を成就させることを目指す思想は異端である


さて、この論稿は、前の記事の続きとして、信者の家庭をエクレシア建設の単位とみなし、地上でクリスチャン家庭を増やすことにより、神の国が招致されるとする思想が根本的に誤っていることを、各種の異端思想と比較して明らかにすることを目的としている。

だが、同時にこのテーマは、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師にとっての家族モデルとは何なのかを明らかにする目的で筆者が追究し始めたものでもあるため、まずはそこから話題を開始して行きたい。


・「霊の父母」を作ることにより、縦の関係を絶対化する偽りの教え

 
カルト被害者救済活動を率いるアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の村上密牧師は、約十四前、同教団に属していた鳴尾教会において、当時の鳴尾教会の主監者であり、自らの義理の父であった津村昭二郎牧師と協力して、津村氏の後継者と目されていた伝道師夫妻を教会から追放した。(この事件については記事「村上密牧師による鳴尾教会への不当な介入問題 まとめ」を参照。)

伝道師夫妻の異動は、一見、彼らが自主的に異動届を出した結果であるかのように見せかけられていたが、実際には、その裏に村上氏と津村氏からの伝道師に対する圧力があったことが、後に教団が公にした伝道師らの書簡によって判明した。そのため、鳴尾信徒らの間には、教団と津村氏・村上氏に対する根強い不信感と疑惑が生まれ、これが、鳴尾教会に長く続く混乱をもたらす原因となった。

しかし、教団は津村氏と村上氏をかばってこの不正な事件をもみ消すために、教会の混乱の原因を後に鳴尾教会に赴任した山田牧師夫妻に転嫁しようと試み、かつて伝道師らを追放した時と全く同様に、山田牧師夫妻に対する異端の疑惑をでっちあげようとした。(村上密氏のブログ記事参照)。
 
鳴尾教会はこのデマを信じず、信徒らの総意により、かえってこの腐敗した教団から離脱する道を選んだため、教団側の目論見は頓挫した。教団は裁判にまで及んで鳴尾教会の教団離脱を阻止し、これを手中に取り戻そうとしたが、それもことごとく敗北に終わった。


村上密氏は、今年になってもまだ、鳴尾教会がやがてアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団とは別の教団に属することになるだろうことを見越して、これを何とか阻止しようと、負け犬の遠吠えのごとく、懸命に山田牧師夫妻の印象を貶めようと叫んでいるが、みっともないことである(村上密氏のブログ記事参照)。

こうして、自分に対する離反者には長年に渡り、容赦なく制裁を加え、教団を去る者には呪いのような非難の言葉しかかけることのできない、この牧師の自己本位で執念深い性格は、同氏の記事において十分に明らかになっている。これを読めば、
信仰を持たない一派市民でも、この教団には疑問と恐怖を感じて近寄らなくなるであろう。

村上氏率いるカルト被害者救済活動は、教会に恨みを持つ(元)信者ばかりを集めては決起させることによって、信者を懺悔させることを目的に、教会や信者を裁判に引きずり出しては懲罰を加え、諸教会の平和な信仰生活を妨害して来た。その上、教団離脱した教会に対しても、将来に渡ってまで悪影響を与えるような制裁を今も公に加え続けているわけだから、これでは教団の評判も落ちようというものである。

このようにキリストの福音を平和的に伝道するという牧師の第一義的な使命から著しく逸脱し、他の牧師の伝道を妨害することしかできなくなった牧師にこそ、しかるべき厳しい処分を下すのが、教団の本来の組織としてのあるべき姿である。

しかし、そのようなことはこの教団には言っても無駄であろう。何しろ、村上密氏のカルト被害者救済活動は、村上氏個人が率いているものとはいえ、教団そのものの理念とも、密接な結びつきがある。もともとこの教団が推進するペンテコステ運動は、聖書に基づかない弱者救済活動として始まったものであり、なおかつ、リバイバル招致による地上天国という異端的な偽りの神の国を目指している。このように、神に反逆する人類の一致を唱えている以上、その裏面として、キリスト教を内側から破壊する理念を持つ運動が現れて来ることは避けられないのである。そのことは以下で明らかにする。

 
さて、本題に戻ると、今回のテーマの一つは、なぜ十四年前から現在に至るまで、村上氏が鳴尾教会に関して、義理の父である津村氏と一心同体のようになって行動を共にしたのか、という疑問を、同氏がかつて深く関わっていた異端思想に照らし合わせて検証することにある。

つまり、村上氏にとって「父」とは何か、という問題にスポットライトを当てることによって、なぜ津村氏・村上両氏が、なぜ長年に渡り、鳴尾教会にいわれなき制裁を加え続けたのか、その理由も幾分、明らかになると考えるのである。
 
村上氏は、義理の父とはいえ津村氏とは互いに別の人間であるから、たとえ津村氏が大先輩の牧師であっても、同氏の判断に絶対服従せねばならない理由はない。まして、村上氏には自らの牧会する教会が別にあるのだから、直接の関わりのない鳴尾教会に対して、わざわざ教団や教会内規則を踏み越えてまで、内政干渉しなければならない理由もない。

にも関わらず、鳴尾文書を読んでも分かるように、村上氏は十四年前の当時から現在に至るまで、常に義理の父である津村氏の意向を忠実に体現し、津村氏と一体となって、自分ではなく津村氏の願いを実現させるべく、鳴尾教会の内政に不当に介入して来たのである。

その有様を見ると、なぜここまで父子が一つになって行動しているのだろうかという疑念が生じないわけにはいかない。


この疑問に対する答えとして挙げられるのは、統一教会を脱会して、キリスト教の牧師になった後でも、村上密氏はかつての統一教会流の、指導者を絶対化するカルト的思考を捨てられずに今日に至っているのではないかという疑惑である。

特に、統一教会には指導者夫妻を「真の父母」とする独特の「霊の家族」モデルが存在する。そして、次の論稿で示す通り、プロテスタントには、ペンテコステ・カリスマ運動の枠組みの中から登場しながら、この運動の枠組みを超えて、福音派を含む諸教会に「バイブル」のように受け入れられた「教会成長論」という異端的な家族モデルが存在する。

統一教会は、文鮮明を再臨のキリストとみなし、この宗教指導者夫妻を「真の父母様」として褒めたたえ、その教えに帰依し、合同結婚式を通して、彼らの家族モデルに加わることによって、信者は「聖なる血統」にあずかり、罪から救われて清められ、聖家族に加えられると教えている。

このような統一教会が理想とする家族モデルを、村上氏はこのカルト団体を脱会した後も、心に持ち続け、さらにそれが上記のペンテコステ・カリスマ運動において提唱されている「教会成長論」の異端的家族モデルとも合わさって、ますます補強されて行ったのではないかということが言える。


つまり、村上氏は合同結婚式にまで至ることなく統一教会を脱会したものの、その後、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の中でも相当の権威とみなされていた教職者・指導者である津村昭二郎夫妻のクリスチャン家庭の一員に加わることによって、また、津村氏夫妻を師のように仰いで、その意向に忠実に従うことによって、あたかも「聖家族」に連なったかのように、理想的なクリスチャン生活を体現でき、「聖化」が成し遂げられるかのように考えていたのではないかと推測される。
 
村上氏にとって、津村氏は単なる「義理の父」ではなく、その教えに背くことが決して許されないような宗教指導者であり、自身の「霊の父」なのである――そういう事情でもない限り、村上氏・津村氏らがそこまで長年に渡り、思想的に一致して鳴尾教会への迫害という行動を共にして来た理由が見当たらないのである。
 



・「子」が「親」を守り、「家」を守ることを要求する転倒した家族モデル

これから見て行くように、統一教会であれ、カリスマ運動であれ、国家神道であれ、異端的な家族モデルにおける「縦の関係」は、「子」に「親」への絶対的な従順を要求するという共通点がある。

本来、「家」とは、強い大人たちが弱い子供たちを守るのでなければ立ち行かない。赤ん坊や、未成年や、子供たちが自分で自分を守れるはずもなく、彼らには大人たちの保護が必要である。このような非力な子どもたちが、親を守る防波堤になどなれるはずもないし、家を守るために立ち上がって戦う戦士にもなるわけがない。家を守るのは大人たちの仕事である。

また、当然のことであるが、子供たちはいつまでも子供のままでいることが望ましいのではない。やがて親から自立し、一人の人間として独立し、生まれ落ちた家を離れて、自らの人生を切り開いていくことが求められる。

しかしながら、異端的な家族モデルは、「子」を「家」(親)を守り、支えるための道具とみなし、なおかつ、「子」の「家」(親)からの自立を決して認めない。そこでは、アジアの貧しい農村の家庭で、朝早くから子供たちが学校にも行かず、労働力として働きながら、家計を支えているのと同様に、「弱い者」である「子」が「強い者」である「親」に仕え、「子」が「親」を守り、「子」が「家」に名誉と繁栄をもたらすために生きることが義務とされ、親子の縦の関係から「子」が離脱することが許されないのである。

このようなものを筆者はアジア的な家族モデルとみなしているのだが、これを教会生活にあてはめ、指導者夫妻を「霊の父母」、信徒を「子」の立場に置いて、親子の縦の関係を絶対化するのが、異端的家族モデルである。

こうして指導者(親)が信徒(子)を守るのではなく、信徒(子)が指導者(親)を守り、指導者(親)に仕えて生きるという、転倒した家族モデルを教会の基礎とみなし、同じ家族モデルに連なる信者の家庭を地上で増やしていくことによって「リバイバル」を引き起こし、全人類を「一つの霊の家族」に帰依させて、地上天国を実現できる、とするのが、あらゆる異端の教えに共通する基礎的な型である。

村上氏は、こうした異端的な家族モデルにのっとって、義理の父である津村氏を絶対視し、宗教指導者と信者との縦の関係を絶対視すればこそ、鳴尾教会もまた指導者である津村氏に絶対服従すべきであると考えていたのではないか。そこで、鳴尾教会が、主監者であった津村牧師の不祥事を追求して告発したり、津村氏の不祥事を明るみに出すことによって、同氏を辞任に追い込んだり、村上氏と津村氏による伝道師らの理不尽な追放という事件についてもためらうことなく真相を追究し、教団と村上氏・津村氏の対応に不信感を突きつけ、こうして「弱者」であるはずの教会が、「強者」である教団や指導者に責任を追及し、物申して事態を明らかにしようとしたこと自体が、「(霊の親たる教団と指導者に対する)あるまじき反逆である」、とみなしているのではないだろうかと考えられる。
 


・全人類を「一つの霊的家族」に結びつけようとする教えは神への反逆である
  
村上氏は、一方では、「教会のカルト化の危機」を叫んで、教会から被害を受けたとする信者らを積極的に集めては、「疑わしい」牧師や教会に裁判をしかけ、教会の破壊活動にいそしみながらも、他方では、統一教会や教会成長論に見られるような異端的家族モデルに基づいて、信徒は自らの宗教指導者に絶対服従すべきという教えを振りかざし、自分たち(身内)に対する離反や告発は決して許さず、離反者に対しては長年に渡り厳しい報復行為に及んで来た。
 
この二つの運動――身内の指導者や教団の権威の絶対化――と、自分たちの集団に属さない指導者や教会の権威を容赦のない制裁によって引きずりおろすこと――は、一見、相矛盾する行動に見えるかも知れないが、ともに聖書の御言葉に基づかず、人をキリストではなく人間に従わせる異端的家族モデルから生まれて来る活動なのである。
 
端的に言えば、それらはともにキリストの霊に属さない、人の生まれながらの古き「自己」が行う果てしない「自己保存」と「自己増殖」の試みでしかない。

たとえば、村上密氏が率先して行って来た裁判による他教会の取り潰しや併合は、「他家」を容赦なく取り潰して「我が家」に併合することで、果てしなく「我が家」の拡大(自己増殖)を目指し、やがて全人類を「我が家(自己)」に同化させて、同じ「霊的血統」に属する一つの家族に帰依させることにより、地上にユートピアが到来すると教える異端的家族モデルの現実的な運用なのである。村上氏が提唱している「カルト監視機構」も同じであり、これは宗教界全体を己の支配下に治めるための試みに過ぎない。

こうした思想はすべて、異端思想が一様に提唱する「全人類一家族理想」のモデルーー宗教指導者夫妻を「霊の父母」として崇め、それに「子」として連なる信者を増やすことにより、人類全体を自己に同化させて「一つの家族」としようとする試み――から来るものであり、そのようなものは断じて、聖書の神が望んでおられるキリストの花嫁たるエクレシアの建設ではなく、それはずっと古くからある神に反逆するための建物の建設の試みである。

「さて、全地は一つのことば、一つの話ことばであった。そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。
彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。

そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」

そのときは人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。
は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。

こうしては人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、が人々をそこから地の全面に散らしたからである。」(創世記11:1-9)

結局、全人類をともに「一つの霊の家族」につなげることにより、地上で「リバイバル」を呼び起こせるとしている「教会成長論」は、神に反逆するバベルの塔建設の試みに他ならない。それはどんなにキリスト教の中から生まれて来た運動のように見えても、実際には、神に対する人類の思い上がりの必然的な結果として、キリスト教界に分裂と、混乱しかもたらさないのである。

そこで、地上天国としての「リバイバル」を唱えているペンテコステ・カリスマ運動の只中から、教会に裁判をしかけては破壊と混乱をもたらしているカルト被害者救済活動が出て来たのは、偶然ではない。それらは共にコインの表と裏のように、同じ性質を持つものであり、表向きに掲げている「全世界の一致」と、それに完全に相反するように見える「分裂と混乱」――これら二つの側面は、全人類が一致して神に反逆しようとする試みに必ずや伴う両面を示しているに過ぎない。
 
このように、聖書の神に逆らう悪魔的な発想としての全人類の一致・地上天国建設の計画は、何度頓挫しても飽きたらずに、繰り返し、繰り返し、キリスト教の中に、聖書の教えを装って現れて来た。聖書を見ると、そうした教えは、失敗続きの中でも次第に肥え太り、最初は単なる小さなバベルに過ぎなかった町が、最後には「地上の王たちを支配する大きな都」(黙示17:18)バビロンにまで成長しているのを見ることができる。ちょうど創世記では小さな蛇だった悪魔が「巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇」(黙示12:9)になったのと同様である。

このバビロンこそ「大淫婦」、すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」(黙示17:5)である。

最初は「町」だったものが「都」になっただけでなく、それは今や性別と人格が与えられ、「母」や「女」と呼ばれている。なぜ大淫婦なのか? その理由はクリスチャンならば誰でも知っていよう。聖書の御言葉に反するあらゆる虚偽の教えを喜んで奉じ、キリストだけに従う真実と貞潔を捨てたからである。

しかし、ここでバビロンが女性の名で呼ばれていることに注意が必要である。なぜ「母」なのかは、この論稿を読み進めて行けば分かるはずである。

それは東洋思想と密接な関係がある。結論から提示するならば、これは東洋思想の誉め讃える女性原理・母性原理を人格化したものだからである。

大淫婦バビロンとは、聖書の御言葉の「二分性」を否定して、御言葉の持つ「分割」や「切り分け」という父性原理を否定して、御言葉に基づいて善悪を識別することをやめ、何でも愛して受容する東洋的な「母性原理」を高く掲げる東洋的(オリエント的・ヘレニズム的・アジア的)な思想の総称なのである。いや、堕落したキリスト教が東洋思想と相通じた結果として生まれて来た混合物を意味するのである。
 
こうした東洋思想とキリスト教とを混合させることで、キリスト教を堕落させる試みは、キリスト教の中から、あたかもキリスト教のような仮面をつけては、度々、登場して来た。以下で見て行くペンテコステ・カリスマ運動もまたその混合物の一つであることがよく分かるであろう。

ペンテコステ・カリスマ運動はキリスト教ではない。それはキリスト教と、聖書が最も憎むべきものとみなしているものとの混合である。そこで、このような運動には決して関わらないことを勧める。これに深く関わり、その教えを信じた人々は、必ずや、聖書の御言葉に対する真実性と貞潔さを失う。そして、御言葉の切り分けを曖昧にし、神と人との断絶を否定した上で、最終的には、まことの神を押しのけて、自らを神とする異端的告白へと行きつくのである。
 
<続く>

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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