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遅ればせながらニュース動画を記念に挙げておきます。
【報道ステーション】2016年3月18日放送 
ワイマール憲法の”教訓” なぜ独裁がうまれたのか? 


 
罪と罰 カルト被害者救済活動はなぜ聖書に反するのか。」を再掲しましたが、この記事は未完のため、まだまだ多くのことを書き足さなければなりません。

この記事を掲載した当時、記事は大きな反響を呼び、杉本氏サイドからも巨大な反発がありましたが、それはクリスチャンを決して「命の御霊の路線」に至らせず、再び「善悪の路線」へと引きずりおろそうとする彼らの目的が暴かれては困るためであったと私は見ています。

KFCとドクター・ルークの活動とは私は現在、無関係ですし、KFCの理念の誤りについても、詳細な分析をせねばなりませんが、それにしても、当時、ルーク氏の述べていた主張の中には、今日も見落とすことのできない極めて重要な内容がありました。それは主に次の二つの原則に集約されます。
 
➀キリスト教界をエクソダスせよ
②善悪の路線ではなく、命の御霊の路線に生きよ
 

➀については、約20年ほど前から、村上密氏のように、キリスト教界の諸教会のカルト化という問題にしきりに訴えては警鐘を鳴らす人々が現れました。こうした人々は、カルト化した教会やその牧師などを告発・非難することにより、キリスト教界のカルト化問題を解決したり、被害を食い止めることができるとしていたのです。

しかしながら、こうした人々の活動が恐ろしい方向へ暴走していくだろうとの予想を私が述べ、実際に、そうなったことについてはすでに何度も述べてきた通りです。当時、キリスト教界のカルト化という問題について、これとは全く別の見解が存在していました。それは、キリスト教界全体に救いがないこと、この教界は存立の時点からすでに聖書に反しており、フェイクであり、改善の見込みがないため、エクソダス(脱出)するしか信者が正しい信仰を保つ道はない、ということが提唱されていたのです。

実は、カルト被害者なる人々の出現は、この点で、非常に画期的な意味を持っていたのではないかと私は見ています。
 
カルト被害者については、これまで良い印象がほとんど語られてきませんでした。村上密氏や杉本徳久氏の率いるカルト被害者救済活動の異常な暴走がそれに追い打ちをかけ、カルト被害者という言葉すら、最近は、あまり聞かれなくなったようです。

おそらく、当のカルト被害者も、自分たちの存在に何か重要な意義があるとは思っていないでしょう。むしろ、自分たちは弱く無知であったために犠牲にされ、人生の敗者になったのだと考えて自分を恥じ、二度と犠牲者にならなくて済むように、弱さと無知の克服に取り組んでいるかも知れません。

しかし、私はこうしたこの世の観点とは全く別に、カルト被害者の存在には、極めて重要な霊的意義があったと考えているのです。それはまず、彼らがキリスト教界から離脱した点にあります。

人が悪事の被害を受け、犠牲になることは、この世では、何ら良いこととはみなされませんが、カルト被害者の存在について、それを単なるマイナスの出来事と決めつけることができないのは、キリスト教界につまずくという出来事があったために、彼らはキリスト教界の偽りに気づくきっかけを得た点です。そして、何より、その出来事があったおかげで、そこを出て純粋な信仰生活を探求しようとする人々が現れた点です。

もし何らかの出来事をきっかけに従来の組織に絶望するということがなければ、信者がキリスト教界を離れることはありません。

何かの被害が発生して初めて、信者は自分の属していた教会に対する根本的な疑いを持つ可能性が出て来るわけであり、その組織の中では本当の信仰を持てないことを知り、これを離れ、まことの神を探求する可能性が生まれるのです。その際、多くの信者が、たまたま自分の属している教会にだけ重大な問題があったのではなく、キリスト教界そのものに根本的な矛盾があることに気づく可能性があるのです。

神の御前で極めて重要なのは、神を求める人々の心の真剣さ、純粋さではないかと私は思います。そこで、キリスト教界につまずいたことをきっかけに、キリスト教界を告発して報復を果たそうとするのではなく、まことの神ご自身を純粋に知りたいと心から願う人々が出現したことに、はかりしれない価値があったものと私は考えています。   
 
こうして、キリスト教界の虚偽性から離れ去り、聖書のまことの神を真実に知りたいと願う信者の一群が現れたことにより、初めて、組織としてのキリスト教界とは関係のない、これとは全く異なる、聖書だけに立脚した信仰生活が生まれる可能性が生じたのです。

この点で、カルト被害者なる人々の存在は重大な意義を持っていましたが、それゆえ、その後、彼らがどこへ向かって行くのか、彼らが従来の教会生活を離れて、どのような形で信仰生活を維持し、まことの神に仕えるのかという問題もまた、ある意味、全宇宙的と言っても差し支えないほどに、測り知れない重要性を持っていたのではないかと私は考えています。

だからこそ、カルト被害者を含め、キリスト教界を離れた信者らの行方を巡って、実に激しい争奪戦が今日に至るまで繰り広げられて来たのです。それはひとことで言えば、「組織から脱出した人々を、絶対に組織から逃がさず、再び人間の奴隷とすること」を至上命題とする暗闇の勢力が、モーセとイスラエルの民の脱出を妨げようと、彼らを追ったエジプト軍のように、全力を挙げて激しい欺きと妨害によって、キリスト教界を脱出した信者らの前進を妨げて来たためです。

もし信者がキリスト教界にとどまっていたならば、こうした妨害はなかったでしょう。キリスト教界にいる限り、信者は、人間の教えや言い伝えにがんじがらめにされて、自由がなく、まことの神に出会う可能性もほとんどありません。

キリスト教界には、牧師や教職者といった目に見える人間の指導者に信者を従わせるべく、何重ものヒエラルキーや規則が定められており、その伝統的なしきたりや序列を守り、偉い指導者の言うことに聞き従い、彼らの面子を傷つけないことが、あたかも正しい信仰生活であるかのように説かれています。

しかし、これらはすべて人間の言い伝えであり、人を神ではなく人間に従わせる教えであって、このキリスト教界を出ない限り、信者はこの偶像崇拝の体系から、つまり、人間の作り出したこの世の思想に基づいて地上の目に見えるヒエラルキーに人間を従わせようとする偽りの体系から、一歩たりとも外に出ることはできません。

信者が人間の作り出した地上の組織の囲いに閉じ込められて、人間の指導者の顔色を第一に伺って生きている限り、彼は決して真にキリストだけを主と仰いで生きることはなく、キリストの命に基づいて天的な生活を送る可能性もありません。ですから、信者がキリスト教界に所属している限り、悪魔にとって、彼は何ら脅威とはならないのです。

しかし、もしも信者がこの壮大なフェイクであるキリスト教界を離れ、人間の指導者に帰依することを拒み、見えないキリストだけに頼ることを宣言して新たに出発すれば、その信者の行動は、暗闇の軍勢には大変な脅威と映ります。

こうした信者の一人でも、真にキリストと共なる十字架の死を経て、キリストの復活の命に到達すると、そこから、全宇宙を左右するほどの測り知れない天的な歩みが始まります。

そこには、復活、自由、真理が生まれ、悪魔の獄屋が打ち破られて、その虚偽がことごとく明るみだされ、とりこにされていた人々が解放されるきっかけにもつながりかねません。

そこで、信者たちがキリストにあって真に自由で正常な信仰生活を送ろうとしてキリスト教界をエクソダスして、人間の作った組織の囲いから出て行くことは、暗闇の勢力にとっては、極めて重大な脅威なのです。

ですから、こうした人々を組織から逃さず、再び、人間の前に跪かせ、人間を恐れさせ、人間の奴隷とするために、暗闇の勢力は全力を挙げて彼らの妨害に回ったのです。

その目的を遂げるために、彼らは、一方では、カルト被害者を優しくかばい、助けてやる「救済者」を装う偽善的な指導者を立て、彼らの甘言により、被害者を欺いて、彼らが自主的に人間の指導者に従うよう仕向けました。それがかなわないと、今度は、暴民のような自称「信徒ら」を送っては恫喝し、恐怖によって、信者らを再び人間に従わせようとしました。

この点では、KFCも、カルト被害者救済活も、どちらも人間の作った組織の囲いの一つであり、キリスト教界を脱出した信者らが、決してキリストだけに頼る真実で自立した信仰生活に到達しないように、神と信者との中間に立ちはだかる障壁、目くらましとしての機能を果たしたと言えるでしょう。

しかし、それでも、ドクター・ルークの主張の中には、若干、カルト被害者救済活動の指導者らよりも前進していた点がありました。それが、上に述べた二つの原則なのです。

二つの原則のうち、後者の「命の御霊の路線」について考えてみましょう。

「善悪の路線」とは何か、ひとことで言えば、それはクリスチャンが罪の自覚と決して手を切ることのできない生活です。

キリスト教界に所属していると、信者は自分がいかに罪人であるかという自覚だけが深まっていき、決してその罪意識から解放されることができません。キリスト教界でよく見られる風景は、信者が、神を知る前の自分がどれほどひどい生活を送っている罪人であったかという懺悔のような赤裸々な告白の証を、繰り返し、繰り返し、語らせられている風景です。

このような「かつての悪い自分」についての告白を続けることで、信者は余計にその負の記憶から抜け出られなくなり、罪の意識から解放されるどころか、教会を離れるとかつてと同じような罪人に戻ってしまうという恐怖にがんじがらめにされていくことになります。

こうした罪意識は、信者は神を信じているつもりでも、根本的に自分は全く変わっておらず、教会の助けがなければ、更生不可能であるという自覚から生じています。つまり、信者の「救い」が、宗教組織に質に取られていることによるのです。

信者は自分ではあたかも自主的に神を信じて生きているつもりでいても、実際には、彼は地上の宗教組織に属さずには、信仰生活は送れないのだと思い込まされています。

このような思い込みに陥っている限り、信者は、地上の宗教組織を離れることに恐怖を抱き、その組織の人間の指導者から見放されたり、良い評価を得られなくなることが、「不信仰」であると考え、人間の指導者の顔色を第一に伺う生き方から抜け出られません。

ですから、そのような場合、信者は神を信じているつもりでも、実際には、地上の組織、目に見える人間の指導者に従い、人の思惑に基づいて生きていることになります。そして、組織を離れると、救いが失われるかのように思い込まされているのです。

このように、信者にとっての「救い」が組織の所有である限り、組織から承認を得られなくなり、追放されれば、自分は救いを失うのだという恐怖や罪意識から、信者が自由になることはできません。

つまり、信者にとっての「救い」が、本当に自分に属するものではなく、組織から貸与されるものに過ぎない限り、彼には完全な救いの自覚が生まれないのです。キリストの血潮が永遠に自分を救うことができることの意味を知らず、根本的に自分は罪人だが、教会のおかげで何とか普通に生きられているだけだと思い込んでおり、教会からの承認という「応急処置」がなくなれば、自分は恐ろしい罪人に逆戻りするだけなのだという罪悪感から決して抜け出すことができないのです。このような考え方では、真の救いも、罪からの解放も、自由も、決して信者は味わうことができません。

さらに、信仰を持たずとも、複雑怪奇なこの世の仕組みに適合し、そこで人々の評価を十分に得て成功して生きるのは、誰にとっても、かなり難しいことですが、宗教団体に入ると、信者はさらに厳しい道徳的基準を守るよう求められるようになるため、まさにがんじがらめの生活が始まります。

この世においても、社会にうまく適合する術を知らない人々が宗教組織に入ると、そこで救いを得られるどころか、今度は宗教組織の中で、この世よりももっと厳しい基準に適合するよう求められ、それができない信者は、罪の自覚が恐ろしく増し加わり、下手をすると、その重圧のために精神まで破壊されるということが起きます。

このように組織や指導者の意向や都合にがんじがらめにされて、罪意識から一歩も抜け出せない生活こそ、人が自分で自分を義としようとする「善悪路線」に基づく生活であって、これはキリストの血潮に悪質に逆らう偽りなのですが、そこから出て、信者がただ聖書だけに基づいて、見えない神を仰いで生きるようになる時、信者はようやくキリストが十字架において流された血潮が、無条件に信じる者を義としてくれることの意味が分かるようになります。

そして、自分の救いは「組織」にあるのではなく、信仰を通して、他ならぬ自分自身に与えられているのであり、他人の思惑によって奪われたり、取り上げられたりするような不確かなものではないことが分かります。

キリストの流された血潮によって、神の目に自分が永遠に義とされていることが分かった信者は、ようやく従来の罪意識から解放されて、世からの評価を失うことを恐れて汲々とし、絶えず自分を責めながら生きる必要がなくなります。

こうして信者は、罪に定められることへの恐怖からあれやこれやの規則を厳格に守って生きようとする恐れに満ちた生活から抜け出て、その代わりに、自分の心からの願いに従って生きることが可能となります。自らの願いをキリストと分かち合い、信仰によって、それを実現しながら生きるという別の生活が開けるのです。

こうして、キリスト教界を出たことにより、信者の人生の目的は完全に変わるのです。以前は、人の目に罪に定められたくないという恐れから、自分を何とか人の目に正しく落ち度なく見せようと、各種の「べき論」にがんじがらめにされて生きていた信者が、今や、絶え間ない罪の意識から解放され、そういう応急処置のようなやり方で自己改善を目指すことがなくなり、キリストの内なる義に従って、自分が何をしたいのかという願いに基づいて良くなるわけです。

罪意識は常に恐怖と、強迫観念を生み、信者から自由を奪いますが、罪意識から解き放たれたところでは、人は何を「せねばならないか」ではなく、何を「したいか」を中心に人生を生きることができるようになります。これは放縦な生活を意味するのではなく、人が神に自分の願いを知っていただき、神と共同で自らの人生を治める生き方を意味します。

さて、話を戻せば、カルト被害者救済活動の支持者サイドからの攻撃は、このように、キリスト教界の罪定めから自由となって、「いのちの御霊の路線」に生き始めたクリスチャンを、再び「善悪の路線」に引きずりおろすことで、罪意識の奴隷にすることを目的としてなされたものでした。

今はっきり言えることは、一旦、キリストだけを頼りに、神だけに従って生きると決めたのならば、信者は、二度と人間の顔色を伺う生活に戻ってはいけないということです。

人間の歓心を失わないことを第一に生きる(つまり、世間の評価を気にしながら、世間と調子を合わせて、世と折り合いをつけて生きる)ことを目指し始めると、信者はたちまち「善悪の路線」に落ちて、キリストにある自由を失ってしまいます。

なぜ聖書に次のような御言葉があるのか、その意味を考えてみましょう。

たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときに勝利を得るため。」
 と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

つまり、この世(と世に属する人々)の評価を失うことを恐れながら、同時に、神だけの評価を求め、神だけに従って生きるというのは、不可能であり、世の評価を絶え間なく気にする生き方と訣別しなければ、信者はキリストにある良心の潔白と、自由を保つことはできないのです。

これは、ある人々にとっては、極めて理解しがたいことに映るでしょう。なぜなら、多くの信者は、この世の常識やら、伝統やら、世間体やら、しきたりやら、空気やらを、極めて重要なものとみなしており、こうした世の考え方を気にせず生きるなど、あまりにも大胆不敵で傲岸不遜な、人としてあるまじき放縦な生活だと誤解しているからです。

多くの信者は、道徳的で品行方正な生き方を目指すあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。あるいは、弱者救済などの慈善事業を評価するあまり、それこそが、信仰生活だと誤解しています。

しかし、ぞれらはいずれも、人間の目に道徳的と見える生き方に過ぎず、こういった生き方を「信仰生活」だと誤解している人々は、この世の最も優れた道徳でさえ、神の義には遠く及ばないどころか、神の義に悪質に対抗するものであることが分かりません。人の目に善と見えるものが、必ずしも、神の目にも善ではないということが分からないのです。

むしろ、神の義とは、恵みとして与えられるものであり、人間が自らの努力によって達成しようと目指す義とは全く無関係なところにあるのです。だからこそ、キリストにある命の御霊の法則は、この世の善悪の法則とは全く異なるものなのです。

私は何度もマザー・テレサのことを書いて来ましたが、彼女のように、この世において立派で優れた生き方をしているように賞賛されている人が、必ずしも、神を親しく知っているわけでないどころか、むしろ、神から見放されたという絶望的な思いに苛まれているがゆえに、この世において立派な生き方を続けないわけにいかないという逆説(強迫観念)に陥っている場合が往々にしてあります。

生涯、弱者救済にいそしむ慈善家のような人々にはこのようなタイプが非常に多いのです。つまり、彼らは、自分が神によって完全に救われているという確信がないがゆえに、絶え間なく外面的に立派な行動をすることによって自己を取り繕わないわけにはいかず、その慈善は真実な愛から出て来たものではなく、むしろ、内心の絶望や恐怖に裏付けられた善行だということです。
 
この世の顔色をどんなに伺って、どんなにこの世に対する義務を果たし、人から賞賛されたとしても、それによっては、人は永久に義とされることはありません。ただ苦労と内心の絶望だけが果てしなく増し加わって行くだけです。

この世は人がどんなに努力しても、人を義とすることができないからです。しかし、御言葉に基づいて、キリストの血潮によって義とされる道を選び、人の思惑に従うのではなく、神のみに従って生きるならば、信者は自分の一切の行ないによらず、いつでもただちにイエスの血潮によって義とされることができるのです。

しかし、信者自身にとっても、このキリストの新しい命に基づく道を歩むことは、極めて大きな発想の転換を意味します。

真にキリストの復活の命に生き始めた時、初めて、信者は、自分がこの目に見える世界全体、生まれながらの人類全体と、その道徳体系にとって、大変な脅威、敵とみなされるようになったことを知ります。

信者は、この世の霊的体系を脱して、キリストの霊的体系を生きるようになって初めて、自分がもはやこの世の所属でなくなり、キリストがこの世から受けられたのと同じ理由なき憎しみを自分も向けられていることが分かります。

それは、彼がこの世ではなく、キリストだけの所有となったことによるのですが、信者は、今まで慣れ親しんで生きて来たこの世全体が、もはや自分の仲間ではなくなり、敵となったことに、しばらくは当惑するでしょう。

さらに、この世の法則は、信者がキリストと共なる十字架で世に対して死んだ後も、全力で彼を再び世の奴隷として取り戻すべく、あとを追って来るでしょう。

こうして、信者は、キリストの命にある自由を失わず、復活の領域を歩み続けるためには、この世とそれを支配する暗闇の軍勢から来るあらゆる敵意と妨害を潜り抜けて戦わなくてはならないことが分かります。

その戦いの過程で、信者はどんな妨害があっても、この世と世に属する人々の圧迫を恐れてはいけないという事実と、たとえ世からどんな妨害があろうと、キリストの命にある力がそのすべての圧迫に勝る勝利を与える、という事実を理解するようになります。

この世が信者に向けて来る憎しみは、人の予想をはるかに超えて、悪質であるにも関わらず、信者はそれにたじろいではならず、圧迫されて後退してもならず、これに対していかなる時にも勝利する秘訣が、キリストの命の中にあり、その命なる方が信仰を通して自分自身の中に宿って下さっていることを理解するのです。

もし信者が、暗闇の勢力からの圧迫を恐れるゆえに、人の言い分に耳を傾け、人に憎まれないことを第一目的として生き始めるならば、彼は再びこの世の奴隷となって敗北するしかなくなり、キリストの天的な命に基づく生活は維持できなくなります。

ですから、たとえ突然、何万人の反対者が現れようと、どんなに親しい兄弟姉妹に裏切られようと、どんな予想を超える出来事が起きようとも、信者は、世と世に属する人々を恐れずに、ただ聖書の御言葉に立脚して、神の義に頼り、これを証し続け、キリストの命だけによってすべてを切り抜ける秘訣を学んで行かねばならないのです。

そうこうしているうちに、こうした戦いの過程で、どんなに心細さを覚える瞬間にも、神以外のいかなるものにも頼らないこと、神の中に全ての問題の解決の秘訣が実際にあることを信者は学ばされて行くのです。

自分を見るならば、信者は自分には何もなく、外からの助けなしには、到底、あらゆる困難を切り抜ける力がないように感じられるかも知れませんが、その天然の無力さにも関わらず、内なるキリストの命が全てを供給するのです。

文字通り、キリストがすべてを供給するのです。救いはすでに一生分、いや、永遠に至る分まで、信者に与えられています。ですから、信者は世にあれやこれやの助けを求める必要がないのです。ただ神だけに頼って前進するならば、信者は信仰によって実際にあらゆる困難が打ち破られること知らされるのです。困難が打ち破られるのみならず、神が願いを成し遂げて下さるのです。ですから、これは途方もない道です。

生まれながらの人類は、この終わりの時代、自己の「道徳」を掲げては、自分たちの存在を美化し、生まれながらの人間の威信を築き上げるために、独自のしきたりを作り、これに一人でも多くの人を取り込むために、あらゆる規則を掲げ、強大な組織を作るでしょう。そして、それにそぐわない人間を容赦なく罪に定めるでしょう。

終わりの時代、生まれながらの人類の全精力が、人間の威信を強化するために注ぎ込まれるでしょう。宗教とは、神の名を用いながら、その実、神によらずに、人間が己のプライドや威信を建て上げるために作りだす壮大な嘘の体系に過ぎません。

キリスト教界の教えは、全体として、信者が神ではなく、目に見える人間に従うべきというもので、そこには、牧師を筆頭として、信者が従うべき無数の重層的ヒエラルキーがあり、人間の序列に反することが、「罪」とされているのです。

神に従わないことが罪なのではなく、人間の定めた教えに従わず、人間の威信を傷つけることが、「罪」とみなされているのです。早い話、そこでは人間が神となっているのです。

いかに人間の目に麗しく、人間に優しく、上品で、道徳的に見え、そつなく、あたりさわりないものであっても、こうして、聖書の基本から逸れて、神への愛と従順を失い、むしろ、神を退けて、生まれながらの人間を義とするために作られた体系には、何の価値もありません。

だからこそ、このような偽りの体系からはエクソダスが必要なのです。

人間の作り上げた偽りの体系は、どこまでも信者を奴隷にしようと、後を追って来るでしょう。しかし、信者が第一に心を砕き、従うべきは神の御心であって、人間の思惑ではありません。

「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方とすべきです。」との言葉は決して誇張ではなく、行き過ぎでもないのです。神を愛することと、この世を愛することは決して両立しません。

神に従うとは、場合によっては、この世の全ての人々の思惑の全てに反してでも、ただ神の御言葉のみに従うという決断と行動を意味します。これには代償が伴います。

以前にも挙げましたが、旧約聖書の列王記Ⅰ第13章には、人間の言葉を優先して、神の戒めを破った預言者が、野の獣に食い殺された場面があります。この結末を残酷すぎると私たちは異議を申し立てることができるでしょうか?

この世的な見栄えの良さを保とうとする生き方と、真理に従う道は、ほとんどの場合、両立しません。もし信者が、世の評価や人の歓心を失わないことを第一に生きるならば、遅かれ早かれ、彼は真実を売り払って、無難な善人を装いながら、沈黙を守って生きるしかなくなります。それは偽善者の道です。

もし信者がこの世に配慮し、世の人々に同調して生きるならば、同胞が見殺しにされることに沈黙するくらいのことでは飽き足らず、かつてキリストが十字架につけられた時と同じように、今日も、罪なき神の御子を見捨て、裏切り、代わりに人類の代表である罪人のバラバを赦して、キリストを再び十字架につけよと叫ぶ羽目になるでしょう。

世を愛する道は、いつも変わりない結論に至りつきます。それは、罪なき神の御子を再び十字架につけて罪に定めてでも、生まれながらの人類を義とし、名誉回復したいという願望なのです。

そして、逆説的に、神を抜きにした人類の名誉回復という偽りの願望は、決して人類を解放に導くことなく、今まで以上の恐ろしい裁きと罪定めの中に人類を落ち込ませるだけなのです。

主に従う道は、人類が己の義とプライドを強引に押し通す道ではありません。主に従う道は、人が神を退けてでも、己の命を保とうとする道ではなく、むしろ、キリストのために人が自分の命を憎む道であり、キリストのために自分の命を捨てる者がそれを得ると聖書にあります。

戦いは戦いぬけば、必ず、勝敗がつきます。たとえ、この世から憎しみや妨害がやって来たとしても、恐れるには足りません、信者には「世に勝った」方が共におられるからです。

信者が自分の命を惜しまずに、死に至るまで真理を証し、神の義に徹底して立ち続けるならば、悪者は恥をこうむって逃げ去り、代価を払った者が神の御前に良しとされるでしょう。

黙示録によると、臆病者は罪に定められ、火の池に投げ込まれることになっています。ですから、主にあって、臆することなく、勇敢でありましょう。悪魔の罪定めは、その言い分を真に受けて、恐れを感じた人にとってだけ効力を持ちます。イエスの血潮に立脚する信者に対しては、悪魔の言い分は効力を持たないのです。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。
 私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。
兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。

それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12:10-12)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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