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以前に、村上春樹氏のエルサレム賞受賞のスピーチ原稿をご紹介しましたが、今回は、村上さんが6月9日にスペインのカタルーニャ国際賞の授与式で行なったスピーチを掲載します。スピーチ原稿の全文は以下でお読みになれます。

村上春樹さん、カタルーニヤ国際賞スピーチ原稿全文
 
 
 
☆ ☆ ☆

このスピーチは、原発問題について、まさに私の言いたかったことを代弁してくれているようで、深く共感することができたものです。スピーチの存在を今まで知らなかったのですが、気づくと同じ頃、この問題について、村上春樹氏とほとんど同感の意見を色々な人に向かって述べていました。私にはどうにも、このスピーチが原発問題にとどまらず、キリスト教界やクリスチャンの問題にも重なって見えてならないのです。そこで、以下は私の感じることを書かせて下さい(ご興味のない方は村上春樹氏のスピーチのみでもご視聴いただければと思います)。

私たちはきちんと現実から出発せねばならない。自分にとって都合の良い夢、自分の見たい夢を「現実」と呼びかえ、自分の作った幻を現実にすりかえるのでなく、たとえ自分にとって厳しくとも、本当の現実を直視して、そこから逃げることなく、出発せねばならない。

私たちは今、さまざまな事柄について自分に都合の良いすりかえを許してきたそのツケに直面させられているのではないかと思う。本当はきわめて危険なものに対しても、呪文のように「安全だ」と唱えることにより、警戒心を眠らせ、自分の耳に心地よい嘘だけを信じて、正真正銘の真実から目を背けて来た。そうしていれば、現状に対して何の責任も負わずに済み、より良い未来を切り開いていくために、自ら声をあげ、「夢想家」のレッテルを貼られ、今日の目に見えるパンを危険にさらしながら、手間隙をかけて犠牲を払わなくて済んだからだ。我々は手間を省くために、効率主義、目に見える利益優先という薔薇色の夢幻のまどろみの中に逃げ込み、目を覚まして、何が起こっているのかを直視することを拒んだのだ。

それはキリスト教界も同じである、聖書の事実を曲げてまで、多くのクリスチャンが「神の愛」をしきりに強調することにより、「神は愛であるから、誰をも罰したり、滅ぼしたりしない」と、神の裁きの存在を否定し、個人の行いに応じて主は報いをされるという確かな聖書の事実をさえ隠して来た。「愛」、「愛」と、呪文のように唱え続け、人間の耳に心地よいことばかり語っていれば、自分でも何かしら良いことを言っている気になり、耳の痛い警告を放つ人間を排除できた。そうして、人々は自分に都合の良い夢幻しか見なくなって、薔薇色のカプセルに閉じこもって、自分の直面したくない厳しい警告のすべてを退けて来たのだ。

しかし、薔薇色のカプセルは弾け飛ぶ日が来た。私たちの目の前で、事実、安全神話は崩れ去った。事実、原子力は少しも安全ではないことがはっきりと立証された。全くそれと同じように、神の愛は、太古の昔から、ノアの洪水で神に不従順な人類を滅ぼされ、神の独り子なる主イエスを私たちの罪のために十字架にかけられ、罰せられるべき者を罰せずにおかない、決して義なる裁きを曲げない、純粋で、聖なる、義なる愛であり、それは決して罪人に有利に裁きを曲げて、不従順な人々の悪事を覆い隠すような、人間本位な、不公平な「愛」のことではなかった。

神の御思いは人間の思いよりもはるかに高い、神の愛を人の愛によっておしはかることはできない――キリスト教界の忘れかかっていたその事実は、反カルト運動の敗北やら、歪められた愛の福音を信じてしまった人々の悲しい人生を通して、これでもかというほどに、昨今、改めて立証されて来た。

それでも、クリスチャンはまだ耳の痛い警告からは耳を背けて、自分に都合の良い幻だけを信じ続けるのだろうか? それとも、今、ここで薔薇色の偽りの夢とはきっぱり訣別して、目を覚まして、つらくとも警告を拒んだ己が過ちを真摯に認め、過去の過ちと訣別して、厳しくとも現実を直視して、そこから方向転換して、力強く未来へ向かっていくのだろうか?――私たちは今、選択を求められている――。

今後、私たちは何を目的に生きていくのか、深刻に問われることになるだろう。事故処理という、はかりしれない負債の返済を目指すだけでは、個人にとっても、会社にとっても、今後を生きていく目標とは全くならない。なぜならば、罪の負債を帳消しにして、信頼を回復し、安全を取り戻すということは、最低限、当たり前の事実を取り戻すことを意味し、今の状況では、それだけでも途方もなく困難な課題であるとはいえ、仮にかつてのような安全が再び戻って来たとしても、それはただ以前にあったものが復興されたに過ぎず、マイナスがゼロになっただけであり、そんなものは前提に過ぎず、目標とは呼べないからだ。

目標とは、もっと力強い何かであり、ただ人が死の恐怖を逃れて、せめて今日を安らかに暮らせれば良いというような消極的なものではない。善悪の路線でどんなに議論を重ね、自分が罪に定められないために、どんなに精一杯、身を正し、自分で自分を義としようとしても、その努力は決して「いのち」へと結びつかないのだ。

目標とは、「いのち」に関係する何かだ。それは本当は、単に今日どう生きるかというアダムの古き命に関わる問題ではなく、キリストの永遠の復活の命に関わるものであり、今日だけでなく、明日へ、未来へと向かうもの、命の最奥底から、人の存在の最も深いところから、その人の自主性に基づいてほとばしり出て来て、ゼロから力強くプラスへ向かって永遠に残る実を結ぶもの、死をも、生存を脅かされる恐怖をもはるかに超えて、圧倒的な力があって、今の時代を突き抜けて、はるか未来の、永遠へと貫くようなもの、揺るぎない理念と永続するヴィジョンに裏打ちされた力強い意志であるはずではないだろうか。そのような揺るぎないヴィジョンがなければ、私たちはこの時代の暗やみを貫いて、明日へと残せる確かなものを手にすることはできないのではないだろうか。

私たちは今日の「効率」を重視したがために、明日を売り渡してしまったのだ。「効率」とは今日の目に見えるパンを確保するために、目に見えないパンを後回しにし、犠牲にし、売り渡すということだった。目に見える価値だけを最優先に掲げて、目に見えない価値を踏みにじり、ないがしろにしたためにこそ、私たちは今、このような事態に直面しているのではないか。

原発派遣労働者の生き様の中に、私たちは、この悪しき効率主義の縮図を見ることができる。ただ今日の目に見えるパンを確保するためだけに、明日という日そのものを売り渡さざるを得ない人々がいる。今日を生きるために、明日を引き換えに求められる人々がいる。ある人々においては、今日の目に見えるパンのために、自分自身の明日の命さえ、本当に犠牲とせざるを得ないような、そんな恐ろしいパラドックスが、効率主義の行き着く最悪の結果として、すでに現実となりつつあるのだ。

私たちは派遣労働者の制度の中に、これと同じ構造を見ることができる。多くの派遣労働者は、原発には派遣されない。だから、彼らの現実はまだそこまで極端にはなっていないと言われるかも知れない。しかし、そうではない。彼らもまた同じあり地獄の中でもがいている、ただ今日のパンを確保するために、何もかも犠牲にせねばならない、家庭も、将来の夢も、人であることさえも。

果たしてこんなことが人として生きるということを意味するのだろうか。今日、命をつなぐためだけに、すすんで明日を放棄せねばならない、それが生きるということなのだろうか。そんな若者たちと貧しい人々の犠牲の上に、私たちが自分の日々のパンの望みを託し、積み上げているという現実を、私たちはどう考えるべきなのか。私たちは効率主義というものが、もはや行き着くところまで行き着いて、人命のあからさまな使い捨てという、最も残酷な本性を露呈しているのをきちんと見なければならない。安全神話という薔薇色の夢の上に築かれた楼閣は、今や、いつ収束するとも知れない事態のために、黒い死の恐怖の翼を広げて全国に影を落としているだけでなく、今日のパンが欲しい人々の、なけなしの願いを質にとって、彼らの命を飲みつくしつつあるのだ。私たちはそんな取引に同意したのだろうか? そんな犠牲を平然と肯定する国民になったのだろうか? 後の時代になって、歴史は語るだろう、人材派遣という恐ろしい仕組みが、原発にて多くの貧しい人々の明日の命を削って彼らを資材のように使い捨てたと、しかも、それを分かっていながら、多くの人々が自分の今日のパンのために彼らを見捨てたのだと。

私たちは今、効率主義がここまで非人間的で悲惨な結末を生んでいるのを見て、いい加減に目を覚まし、知恵の限りを振り絞って、根本的な方向転換をはからなければならない時に来ているのではないか。

しかし、たとえていえば、このことは、教会の目に見える地上天国建設という甘いプロジェクトの実現のために、使い捨てられていったクリスチャンの悲鳴に耳を傾けることにも根底で通じているように感じられてならない。反カルト運動は、教会によって踏みにじられた真の被害者たちの叫びを抹殺して、彼らを舞台から外に打ち捨てて、自分たちの政治闘争を有利に導くために、被害者を都合良く利用し、偽りの被害者運動を組織して行った。彼らは被害者を政治闘争の道具として扱い、そしてその結果、運動は当然のごとく瓦解したが、真の被害者たちは、ほえたけるししのような彼らの粗末で幼稚な議論のために、踏みにじられ、もう声を上げることもできなくなって、舞台の外で沈黙している。原発労働者についても、私たちは同じことをするつもりなのだろうか。

私たちが目標だと思い、目に見える領域に打ちたてようとしたものは、目標ではなかった。目に見える望みは、望みではなかった。目に見える今日のパンは、真の望みではあり得ない。従って、今日を生き延びるために、明日を売り渡すことを是とするような仕組みは、生活と呼べるものではない。見える価値を最優先して、見えない価値を全て犠牲にして後回しにするような生き方は、断じて、人として健全な生活とは呼べず、クリスチャンの信仰と呼べるものでもない。

信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)

目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょうもしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:24-25)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(自分の)いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょうそのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします。」(マタイ16:24-27)

今、私たちは今日、自分の命をつなぐために、今日の目に見えるパンを何よりも優先して追い求める「現実主義者」、「効率主義者」であることをやめて、今こそ、明日の目に見えないパンを失わないために、目に見えない望みを熱心に抱いて待ち望む「非現実的夢想家」になるべきではないだろうか? 自分にとって都合の良い、今日の目に見えるパンをこそ何よりまず第一に求めるべきだと甘くささやく薔薇色のカプセルの中でまどろむのをやめて、目を覚まして、その偽りの夢を打ち破って、正真正銘の現実としての、見えないリアリティであるお方を信じ、そのまことのリアリティに根ざし、そのいのちによって生きていく「非現実的夢想家」になるべきではないだろうか? 

今日のパンを失いたくないという恐怖から、今日の生存のために沈黙するのではなく、今、一人ひとりが未来について何か言葉を発するべきではないだろうか。今、一人ひとりが自らの意志によって、明日を自分自身の手に本当に取り返すために、立ち上がって、未来を夢見る者として、力強く、大胆に語り始めるべきではないだろうか? 現状に異議を唱え、自分の意見を語ることを恐れてはならないのではないだろうか?

信仰者とは違った意味合いで発せられているとはいえ、村上春樹氏の次の言葉が、リフレインのように私の頭に響くのである。「夢を見ることを恐れてはならない。「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追い付かせてはならない。われわれは力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならない。」

私は今、神が人を地上に造られたその際、どんなに人を愛され、人のためにどんなに祝福を惜しみなくお与えくださったかを思い出さずにいられない。

「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』

ついで神は仰せられた。『見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」(創世記1:28-30)


「生めよ。ふえよ。地を満たせ」――!! 人が創造された時、神が人間に望まれたのはそのことだった。男女が結婚し、子供が生まれ、家族が増え、人が地を満たすこと、それはもともと神が人にお与えになった大いなる祝福であり、そこには、人口が増加すれば食料が足りなくなるとか、人口の増加は地球にとって脅威だとか、人間によるエネルギー消費は地球環境を汚染するであるとか、節電に励まなければ、文明都市生活が崩壊するかも知れないといった恐れは入り込む余地がなかった。神は人が豊かに暮らすことのできるだけの食物を地球上に用意された上で、こう言われたのである、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」と! これが人と地球の創立の理念であった。

ところが、今やどうして、これと反対のスローガンが堂々と私たちの生活に入り込んでいるのだろうか。それは私たちの生存を許さず、私たちが生むこともふえることもできず、人が地を満たすことがそもそも害であり、人口の増加は悪であり、消費は悪であり、人が地を治めることは人類の悪しき野望に過ぎないというような考え方なのだ。

もちろん、創造の後で、アダムとエバが堕落したために、人は当初の尊い存在と地位を失って、地は実を結ばなくなり、人は額に汗して働かなくてはならなくなった。それでも、堕落の後でさえ、神を信じる者に対しては、主はこうおっしゃっているのだ。

「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんかあなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。…こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられますだから、あすのための心配は無用ですあすのことはあすが心配します労苦はその日その日に、十分あります。」(マタイ6:26-34)


「あすのための心配は無用です」、この言葉は、断じて、今日の思考停止の勧めではない。今日の目に見えるパンを確保するために、明日をすすんで犠牲にせよとの勧めではない。むしろ、明日へと続く見えないヴィジョンをもたらす、神の下さる見えないパンによって、今日のパンも、明日のパンも満たしなさい、そういう勧めなのである。

私たちを生かしているのは、今日の目に見えるパンそのものではなく、それも含めて、私たちの必要を満たして余りある(モザ・ザン・イナフ!) 見えるもの見えないものすべての源である、見えない神の国と神の義、神の口から出るレーマとしての御言葉である。これは我々に与えられた神の目に見えない御約束のことである。私たちは思い出さなければならない、我々の神が、どれほど真実に私たちを養ってくださる方であり、きめ細やかに面倒を見てくださる方であり、約束を誠実に守って下さる方であるかを。私たちは自らの力で石をパンに変えよとささやく「効率」とか「便宜」とかいった誘惑を退けて、ただこの見えない神に信頼を置き、神ご自身の揺るぎない約束に信頼を置いて、そこから全ての必要な糧を引き出し、目に見えないリアリティを信じる「夢想家」として、信仰によって、大胆に、力強い足取りで未来へ向かって歩いていくのである。

「金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』

 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。
主は私の助け手です。私は恐れません
 人間が、私に対して何ができましょう。』」(ヘブル13:5-6)


「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。』 イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのでははなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:3-4)


「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
 私たちは夢を見ている者のようであった。
 そのとき、 私たちの口は笑いで満たされ、
 私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
 そのとき、国々の間で、人々は言った。
 『主は彼らのために大いなることをなされた。』
 私たちは喜んだ。

 主よ。ネゲブの流れのように、
 私たちの捕われ人を帰らせてください。

 涙とともに種を蒔く者は、
 喜び叫びながら刈り取ろう。
 種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、
 束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る。」(詩篇第126篇)
 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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