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 ④互いに訴え合うというカルト被害者救済活動の敗北


 このように聖書は、兄弟同士が裁きあうことそのものを認めていないにも関わらず、村上密氏など、カルト被害者救済活動の支援者たちはかねてより、教会内で起こった不祥事を解決するに当たり、被害者の信徒が教会外のこの世の裁判に訴えて自分の正義を主張し、裁判を通して受けた被害を取り返し、悪人に対しては有罪判決をもたらすことで報いをなすように積極的に奨励してきました。しかし、教会で起こった争いごとをクリスチャンがこの世の裁判に訴えて解決することも、聖書は全く勧めていないどころか、反対しているのです。

 聖書が告げていることはまず、私たちクリスチャンは不当な事件を経験する時にも、自己の義に基づいて悪人に立ち向かうのではなく、神の義に基づいて、神自らが私たちを弁護してくださるように、神に助けを求めなさい、ということであり、また、神が正しい解決を下されるのを忍耐して待つようにということです。

 「わが訴えを弁護して、わたしをあがない、あなたの約束にしたがって、わたしを生かしてください。」(詩篇119:154)とダビデは祈りました。自分の遭遇した理不尽な事件について、ダビデはその是非を世に問おうとはせず、また、世人に理解や助けを求めるべきだとも考えませんでした。ダビデはまず神に向かって問題を申し上げ、神が御約束に従って、彼の訴えを弁護し、彼の命を守って下さるように求めたのです。ダビデは世の弁護人に頼るよりも、神に弁護を求めることの方がはるかに有益で、御心にかなっており、力があることを知っていました。

 クリスチャンが自らの正当性をこの世の裁判を通じて証明しようとすることの危険性は、私たちが真に弁護して下さる方である神を退けてまで、世を頼ろうとすること、そして、私たちが神の義によらずして、自己の義により頼むことで、自分を正しいと思い込んでしまうところにあります。聖書は言います、加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、強者であろうと、善人であろうと、悪人であろうと、すべての人が神の目には生まれながらに罪人だと。 「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10) 被害者だから正しいとか、弱者だから正しいといった考えは聖書にはないのです。神の目に義とされた方はただお一人であり、この方を通さなければ、私たちは義とされません。人の生まれながらの自己のうちには、何らの誇るべきものもないことが示されているのです。パウロは言いました、「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」(ローマ7:18)

 私たち自身の中には何の義もない、だからこそ、私たちは自分で自分を弁護し、自分で自分を義とすることは無理なのです。生まれながらに罪の中に死んでおり、「生まれながらに怒りの子であった」(エペソ2:3)私たちのために、罪のない神の御子イエス・キリストが身代わりに十字架にかかられ、死なれました。もしも私たちのうちに何らかの義があるとするなら、罪のない神の御子が十字架にかかる必要はなかったのですが、私たちのうちに義がないからこそ、神は御子を地上に送られたのです。被害者であろうと、加害者であろうと、罪の大小に関わらず、この贖いの意味は同じなのです。この御子の贖いを信じることにより、本来は永遠に罰せられ、滅ぼされてしかるべき罪人に過ぎなかった人たちが、貴い子羊の血潮によって無代価で義とされたのです。これが福音であり、これが信仰による義です。

「…すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ローマ3:23-26)

 自分がただ神の憐みと恵みにより、無代価で罪赦された大いなる罪人であると知っていればこそ、クリスチャンは他の人々の罪も赦すべきである、と聖書は勧めているのです。兄弟同士が裁き合ったり、告発しあうことを奨励するような仕組みを公に作ることなど全く聖書が奨励していないのはそのためです。

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ4:32)

「互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ3:13)


 さらにパウロは、教会は自分たちの間で生じた争いを自分たちの間で解決する知恵を持っているべきだと言います。パウロは、もしも教会で起きた紛争を解決する知恵がクリスチャンに足りないのなら、クリスチャンは神にその知恵を求めるべきであり、信仰者でないこの世の人たちの手で事件を解決してもらおうと、兄弟同士の争いごとをこの世の法廷に訴えるべきではないと言います。そんなことをするくらいならば、むしろ兄弟が兄弟に騙されても知らないふりをして不義を甘んじて受けた方がましだと言うのです。

「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。…それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを裁判の席につかせるのか。…いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだなぜ、むしろ不義を受けないのかなぜ、むしろだまされていないのか。」(Ⅰコリント6:1-7)

 ヤコブの手紙にはこうあります、
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。」(ヤコブ1:5) 

 聖書は、教会で何か大変な問題が起きた時、それをクリスチャンがこの世の裁判において解決するようにとは教えていません。まず御霊による知恵を神に求めるようにと勧めています。しかし、このことを私が説明しようとすると、カルト被害者救済活動に関わったことのあるクリスチャンは、憤りを隠そうともせずにこう言うのでした、「そうは言ってもね、ヴィオロンさん、昨今の教会には自浄作用がまるきり働かなくなっているからこそ、私たちは仕方がなく、この世の裁判という教会外からの強制力を抑止力として使わざるを得ないのですよ。他の方法を全部試しても、無駄であり、誰に訴えても聞き入れてもらえなかったからこそ、裁判を選ばざるを得なかったのです。これは最後の手段なのです。本当に言うのもひどい事件が教会の中で起きているのです。この世的な方法を使ってでも、外側からメスを入れないと、被害はずっと続いていくのです。裁判を起こすことも、私たち市民に認められている正当な権利です。それなのに、裁判を使うなと言うことは、被害の拡大を黙って認めろと言っているのと同じなのですよ。あなたは被害者を見殺しにするのですか!?」

 なるほど正論のように聞こえるでしょう。このような考えは「被害拡大の防止」や「被害者の救済」を最優先にしていることから、人間に優しく、うわべはまことに道徳的で、思いやりに満ちているように聞こえるでしょう。しかし、やはりここにも巧妙な論理の概念のすりかえがあることに気づかなければなりません。

 クリスチャンがこれ以上の被害に遭わないために教会をエクソダスすることと、教会や牧師などに対する裁判に自ら訴えることで、世に対して自分の正当性を主張し、被害を取り返し、悪人に報いようとすることはまるで意味が違うのです。私は被害者が理不尽な被害をいつまでも耐え忍べば良いと考えているのではありません。クリスチャンは神の栄光を表わすために、神がお選びになった器なのですから、正常な信仰を失い、腐敗した異常な教会にいつまでもとどまって、自ら悪事に巻き込まれてその犠牲となってはいけないのです。当然のことですが、信仰そのものが歪められ、身の安全さえも脅かされ、自立を保てない危険のあるような場所からは脱出すべき(エクソダスすべき)なのです。それは聖書に反しません。(Ⅱコリント6:14-18参照。)

 しかし、腐敗した教会をエクソダスした後で、腐敗した教会の中で罪を犯し続けている悪人に対して自ら裁判を起こすことで、自分の正当性を証明しようとすることはそれとは意味が違います。

 ロトの妻のように後ろを振り返ることがかえって危険な場合があります。エクソダス後も、裁判を通して、悪人たちと自ら関わろうとすることで、どんな危険が生まれるでしょうか? そのようにして、
「その出て来たところ」(ヘブル11:15)を振り返り、エクソダス後も、裁判を通じて悪人たちと積極的に関わろうとするならば、彼らの不義にいつまでも触れ続けることになりかねません。悪人が更生するかしないかという問題は、その人自身の問題であり、裁判を起こしたからと言って、相手の心を変えられる保証はありません。もしもその人に誠意がなかったなら、悪しき関わりが続くことでより一層の損害をこうむるかも知れません。また、多くの場合、裁判という方法を通して、被害者は本当に微々たる恩恵しか受けることができず、それどころか、被害の立証が困難であれば、法廷で破れ、逆に自分が訴えられて、さらなる損失が生じる危険さえあるのです。

 さらに大きな危険は、裁判を起こすことによって、「私は何も間違ったことはしていないのに、理不尽な損失をこうむった」という思いだけが強くなり、それが「私は被害者であるがゆえに正しい」という、生まれながらの自己の義に頼る思いになっていき、神の御前での悔い改めが失われ、その理不尽な出来事の背後にも及んでいる主の御手が見えなくなってしまうことです。教会で起きる不祥事には、巻き込まれる側にも、真理についての正しい知識が足りないことが言えます。加害者の悪事が正当化されてはならないのは確かですが、しかし、真理を知らないがゆえに御言葉につまずき、神が望んでおられなかった悪事に加担してしまったことについては、被害者もまた神の御前では自己の正当性を主張できないのです。この点については、被害者側にも神の御前に真摯な悔い改めが必要であり、この悔い改めなしに、自分の正当性だけを神に訴えたとしても、神がお聞き届けになることはまずありません。
「もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。」(詩篇66:18)

 ところが、裁判という方法を選んでしまうと、被害者自身が正しい信仰を知らなかったがゆえに悪事に巻き込まれ、真理につまずいてしまったことを神の御前に真摯に悔いる機会が失われていき、かえって、彼らが自己の正当性に頼るという結果が生まれるのです。そして、裁判を起こすことで、被害者たちの関心は、より一層、神ご自身ではなく、世に向かうことになってしまいます。裁判に勝つためには、世に向かって自分の正当性を訴えるためのアピールが必要となりますので、どのようにして世論を動かすか、どのようにして世に自分の主張を受け入れてもらうのかという方法論に熱中しているうちに、クリスチャンの心はますます世に向かって行き、信仰から逸れて行ってしまうのです。そして、そのようにしてクリスチャンが世に助けを求めることは、最も公平な裁き主であられ、もっとも公平な弁護者である神を信仰者が自ら退けて、最も不公平な世の判決に身を委ねることを意味しますので、それによってクリスチャンが利益を得ることはほとんどないでしょう、なぜならその方法は神に栄光を帰さないで、人や世に栄光を帰してしまう道だからです。

 カルト被害者救済活動の指導者たちは、被害者に対して裁判を勧めることで、被害者から神の御前での真実な悔い改めの機会を奪っています。そして、「自分は被害者であるがゆえに正しい」という思い込みを助長し、また、憐れみに満ちた神ご自身がクリスチャンの最も良き弁護者となって下さる事実から目を背けさせ、聖書に反して、被害者が自ら悪人たちに立ち向かうよう勧めています。こうして、カルト被害者救済活動の指導者たちは被害者たちの関心を神ご自身から遠ざけているだけでなく、まるで自分たちこそが、被害者を救ってやれる最も有力な助け手であり、弁護者であるかのように振る舞い、被害者が神ご自身に頼るのではなく、自分たちに頼り、自分たちに栄光を帰するように仕向けているのです。しかし、それによって最も損失を被るのは被害者自身です。神ご自身による解決や、神の裁き、神の義を退けてまで、人間的な義を掲げ、人間による裁きや人間的な解決方法に頼ることの末路は、エレミヤ書に書いてある通りです。
「主はこう言われる、「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。」(エレミヤ17:5)

 この世の宝を失うことについては、聖書が一貫して何を訴えているのかを思い出さなければなりません。イエスは言われました、
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ17:32-33) 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。…あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」(ルカ14:26-33)

 聖書が全体を通じて一貫して述べているのは、朽ちゆく地上の宝よりも、信仰によって得られる天の宝の方がはるかに絶大な価値があるのであって、たとえ理不尽な事件によって不当にこの世の宝を奪われたり、いわれなき悪評をこむることがあったとしても、それが信仰の道で起こったことであるならば、クリスチャンは「弱者としての自分の地上での諸権利」が奪われたことだけに目を留め、その損失に憤り、悪人と自ら戦うことによって地上的損失を穴埋めしようとするのではなく、すべてを見ておられ、寄る辺のない者の保護者となって下さる神を信じ、公平な裁きと解決を求めて神に頼りなさい、ということです。それは、私たち自身が損失を取り返すために世の方を振り向いて戦わずとも、神ご自身が私たちの名誉を守って下さり、神自らが私たちの受けた損失を豊かに償ってくださり、また、私たちに悪事を働いた人たちにも正しく報いて下さることを私たちは信じて良いということです。時に、神の解決はあまりにも遅いように思われますが、忍耐強く待っていれば、必ず解決が与えられます。私たちがより頼むべき相手は、世ではなく、神なのです。
「聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。」(ローマ10:11)

 ですから、理不尽と思われる事件に遭遇する時にも、信仰によって神を信頼し、仰ぐなら、受けた悲しみに対しては必ず神の愛と慰めが注がれ、この世では得られない恵みを神から豊かに受け取ることができることをジョージ・ミュラーは説明しています、
「クリスチャンはだれも、試練や苦しみ、喪失、痛み、病気、死別を、自分の益のために神様が用意された贈り物として考えることをしません。けれども、これらの困難は信者の益のために、今も変わらず用意されているのです。神様のお取り扱いを受けるときはいつも、その御手を認めるよう求め、すべてが真に私たちの益となるために用意されていることを信じるべきです。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ8:28)

 主にある兄弟姉妹、特に次のことをお勧めしたいと思います。ひとり子を与えてくださった神の愛と恵みの深さを求めるように。そして私たちのかわりにご自分を与えて下さった主イエスの愛と恵みの深さを知るように。 そうすることで徐々に肉体や精神の力、時間や才能、賜物や財産、地位も階級も持っているものすべてを愛と感謝に迫られて主にささげるようになります。持っているものはすべて主のものだからです。」(『ジョージ・ミュラー 信仰』、ランス・ワベルズ著、斉藤登志子訳、いのちのことば社、p.38)


 これは私たちが理不尽な事件に遭遇するときに、憤ったり、悲しんだり、泣いたりしてはいけないということではありません。理不尽さを感じてはならないとか、悪事に対して神の正しい裁きを求めて叫んではいけないという意味でもありません。それらは私たちにとって本当に痛みに満ちた出来事です。私たちには理不尽な事柄について神に向かって正しい裁きを願い求めることが許されています。憤りも、悔しい思いも、正直に神に申し上げて良いし、悪人に対して神が報復して下さることを熱心に求めても良いのです。しかし、それでも、私たちはその解決を神ご自身に委ねるのです。なぜなら、神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべての事を働かせて益としてくださることを、私たちは知っているからです。

 ですから、クリスチャンの信仰とは、この世で受けた損失を自分で取り返そうとして、自分を守るために自分で戦う道ではなく、すべての出来事を通して、より一層、神を仰ぎ、神の公平な裁きに信頼し、神に頼る道なのです。この世的観点から、何かを「失うまい」としたり、「保とう」としたり、「取り返そう」とすることは、人の目にはあたかも正しいことのように映るかも知れませんが、信仰の観点から見れば、それほど重大な損失はありません。なぜなら、それは主がその事件を通して私たちのために用意して下さった目に見えない天の祝福を逃してしまうことになりかねないからです。

 「もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。悪い事をして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。」(Ⅰペテロ2:19-21)

「愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかってくる火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現われる際に、よろこびにあふれるためである。キリストの名のためにそしられるなら、あながたはさいわいである。その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。

あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、あるいは、他人に干渉するものとして苦しみに会うことのないようにしなさい。しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。かえって、この名によって神をあがめなさい。」(Ⅰペテロ4:12-16)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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