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③裁判の無用性

 何度も述べて来たことですが、カルト被害者救済活動という運動そのものが、キリスト教の装束をまとっただけの、非キリスト教的な運動です。一体、聖書の御言葉を無視し、神の義にも敵対し、キリストの十字架を排除しながら、法にも基づかず、日本全国のキリスト教会とクリスチャンに容赦のないいわれなき弾圧を加えて、教会が教会を訴え、兄弟が兄弟を告発するように仕向け、そのような告発を認める制度を公に作ろうと提唱しているこの運動が、一体、どうしてキリスト教的な温和な改革運動でありうるでしょうか。

これは神の概念を用いていていも、実際には神を抜きにした人間の作り出した恐ろしい懲罰運動なのであり、キリスト教界を内側から崩壊させる危険性を持った運動であることは明らかです。これは次章でも説明するように、断じてキリスト教とは全く無関係の、キリスト教を装った偽りのイデオロギーなのであり、それにも関わらず、うわべだけキリスト教の装いをして、巧みにキリスト教界の中に入り込み、人間に優しい”弱者解放的な”スローガンを掲げて多くのクリスチャンを魅了しているだけに、より事態は深刻なのです。

 聖書に照らし合わせれば、カルト監視機構という発想自体が、いかに反聖書的で、サタン的とさえ言える発想であるかがすぐに分かります。まず、聖書は兄弟たちが互いに愛し合うように、と随所で命じており、「教会のカルト化を防ぐ」という美名の下、兄弟(クリスチャン)が兄弟(クリスチャン)を訴え、兄弟が兄弟を裁くことを奨励するようなシステムの存在を全く認めていません。

 イエスは言われました、
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイ7:1-2)

「…あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、私に対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう』と書いてある。だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。」(ローマ14:10-13)

「そこで、あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ2:1-4)

 聖書は、まことの裁き主はただ神の御子イエス・キリストお一人だと教えており
(ヨハネ5:22,27)、人間が神に成り代わって自ら裁き主となって、他のクリスチャンたちの信仰を裁いたり、まして、不信仰を理由に兄弟に制裁を加えることを認めていません。異端を識別する努力をし、何が聖書に合致しているのかを目を覚まして調べることそのものが悪いのではありません、しかし、自らが悪人とみなした人物に対して自らの力によって制裁を加えることはそれとは全く別のことです。たとえ理不尽な被害に遭ったとしても、クリスチャンは決して自分で復讐してはいけないと聖書は言います。クリスチャンの信仰について裁かれる方は御子であり、そして、悪人に報復することは、人間の仕事ではなく、神の仕事なのです。

 イエスは言われました、
「悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を拒むな。」(マタイ5:39-42)

 パウロはこう勧めています、
「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさいなぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである

むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:17-21)


 また、パウロは、人の心の内に隠されている事柄を明らかにし、物事の是非を真に明らかにされるのは神ご自身の仕事であるため、御子が再び来られて裁きを行なうその時まで、先走って、誰も自分自身で裁きを行なわないように戒めています、「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(Ⅰコリント4:5)
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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