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2.神の義によらない、自己の義に基づく救済運動の恐ろしい危険性

 今、クリスチャンは、キリスト教界にカルト被害者救済活動のような恐ろしい運動がどうして発生したのか、今一度、真剣に振り返ってみるべきではないかと思います。

 何よりもまず、キリスト教界の罪があって、それにつけこむ形で、カルト被害者救済活動という運動が発生してきたのだということを思うべきなのです。

 キリスト教界がこれまで多くの異端の教えを検証もなく受け入れて教え、多くの信徒を真理の外に迷い出させ、つまずかせ、深く傷つけたこと、それ自体は打ち消せない事実です。キリスト教界の腐敗の問題はこれまで多くの兄弟姉妹の憂いの種でした。しかし、キリスト教界の腐敗という問題が起こったのは、そもそもクリスチャンが聖書の御言葉から逸脱し、御霊を悲しませ、まことの神ご自身から離れたことが原因であり、この背信の罪をクリスチャンが自ら認め、神の御前にへりくだって悔い改めることなしに、つまり、キリストの十字架に立ち戻ることなしに、依然として己を義として自分の過ちを認めないままで、どんな方法論を振りかざしてみたところで、教会の問題が解決されることなど、決して、決してあり得ないのです。

 罪の悔い改めさえまともに存在していない状態で、まして、それを聖書によらない方法で、信仰によらない方法で解決しようとしても、無駄であるばかりか、さらに状況は悪化するだけであって、最終的には、それは神ご自身の御思いに敵対する道にさえなっていってしまうのです。

 カルト被害者救済活動が初めから、キリスト教界に混乱以外の何も生み出さない、何の希望も持たない絶望的な運動であったと言える最大の理由は、この運動の支援者たちが、教会の腐敗という問題に対して、”神を抜きにした解決”、つまり、十字架を抜きにした”己の義”を掲げ、”神の義”を退けて”己による解決”を目指したことにあります。クリスチャンを名乗っていたにも関わらず、カルト被害者救済活動の支援者たちが、聖書の真理に反する人間的な方法を用いて、十字架を抜きにしてキリスト教界を改革・浄化しようとしたゆえに、この運動は聖書の真理に敵対・挑戦するものとなり、そうであるがゆえに、神ご自身を敵とし、キリスト教界と全クリスチャンを敵に回してキリストの御名を踏みにじり、果ては社会までも敵に回しながら、霊的盲目の内に滅びるしかないのです。

 カルト被害者救済活動の支援者たちを何よりも盲目にしたのは、「弱者に対する憐れみ」の情と、不正が行なわれるのは許せないという正義感でした。彼らは、教会の問題を解決するに当たり、生まれながらの人間の自己の義に頼ろうとしました。彼らは被害者や弱者に対する人の生まれながらの憐れみの情と、自分たちの生来の義憤に基づいて、自分たちの側には、他の人たちにはない正義があり、キリスト教界を改革する力と資格があると思いこんでしまったのです。問題は、彼らが生まれながらの自己の内に正義を見いだそうとしたこと、その”正義”に基づいて、弱者を自らの手で救うことができると思い込んだこと、また、その目的のために、自分たちが教界とクリスチャンの上に君臨して、裁きを行なう資格があると思い込んだことにあります。

 弱者への憐みを口実にして、神の義ではなく、人間の生まれながらの正義に基づいて、御子の十字架を介さずに、人自身の力によって悪に立ち向かい、教界を浄化しようとしたその驕りこそ、カルト被害者救済活動が何よりも深く聖書の真理に抵触した点であり、彼らの霊的盲目性と、敗北原因だったのです。

 しかしながら、この運動の支援者たちの掲げた「被害者の救済」というスローガン、つまり、「虐げられた貧しき人々や、見捨てられている社会的弱者のための正義」という響きは、生まれながらの人間の耳には実に正しそうに聞こえ、生まれながらの人の魂の情に深く訴えかけるものがあるだけに、これは非常に欺かれやすい、サタンの巧妙なトリックだと言えるのです。

 私はグノーシス主義に関する分析記事を書いていた時に、20世紀後半のキリスト教界に現れた「解放神学」なるものが、このカルト被害者救済活動と非常によく似た構造を持っていることに気づき、そのことを指摘しないわけにはいきませんでした。

 「解放神学」とは何であったかということをかいつまんで振り返るなら、1960年代以降、中南米のゲリラ闘争の中から南米解放神学が起こり、その流れは世界各地に波及し、黒人解放神学、女性解放神学、韓国の民衆神学などを次々に生み出していきました。これらの「解放神学」の根底に共通して流れていたのが、”キリスト教神学は社会の貧しき者たち、疎外された者たち、抑圧された者たち、見捨てられた弱者に奉仕し、彼らを解放するものでなければならない。社会的弱者に奉仕しないようなキリスト教(=伝統的キリスト教)はすべて非キリスト教的異端である”という主張だったのです。「解放神学」とは、おおざっぱに言えば、抑圧された社会的弱者を救済するという目的のもと、これまで弱者に憐みを示さなかった既存のキリスト教界を”異端化した似非キリスト教”として激しく非難し、これを暴力革命によって打倒して、そこに弱者の天国である”真のキリスト教”を打ち立てることを目的としていました。

 記事の中で紹介した著書『解放神学 虚と実』(勝田吉太郎他著、荒竹出版)において、神学者を含む専門家らは、「解放神学」とは社会的弱者に都合良く改造された偽りの神学であり、要するにキリスト教に名を借りた(擬似キリスト教的な)政治的イデオロギーであって、しかも、キリスト教の装いをしてキリスト教界に入り込み、その実、キリスト教界の既存の秩序転覆を呼びかけて、キリスト教界を崩壊に至らしめようとする大変悪質で、危険な教えであることを指摘しています。

 カルト被害者救済活動にも全く同じことが言えるのです。カルト被害者救済活動は”暴力革命”をこそ唱えませんが、その全体的な秩序転覆の構造は解放神学とほとんど同じだと言えます。(むしろ、その背後にある霊的影響が同じであるからそうなると言った方が早いのですが。)

 まず、カルト被害者救済活動は、キリスト教というものを「社会的弱者(カルト被害者)」の救済のための手段に貶めてしまいます。彼らはそのようにして、キリスト教の主要目的を、罪人がキリストの十字架の贖いを信じて唯一の神に立ち帰ることにあるのでもなく、クリスチャンが信仰によって神に喜ばれる生活を送り、神を礼拝し、御霊による内的刷新により、キリストの似姿へと変えられていくことに見いだすのでもなく、事実上、社会的弱者を解放するための政治闘争に置き換えてしまうのです。

 そして、この運動の支援者たちは、既存のキリスト教界を敵対視し、それに戦いを挑みます。彼らは”カルト被害者”という社会的弱者を生んだことを、既存のキリスト教界の罪として激しく非難し、これまで弱者を虐げ、抑圧してきた罪の責任を取らせようと、深い不信感と敵意を持って、既存のキリスト教界を告発し、攻撃し、裁きます。

 20世紀の解放神学者たちの唱えた”暴力革命”の代わりに、今日のカルト被害者救済活動の支援者らは、弱者を解放するための方法論として、既存の教会に裁判をしかけたり、また既存のキリスト教界の腐敗を取り締まるためのカルト監視機構の必要性を訴えたり、あるいは杉本氏のブログで行なわれたような、既存のキリスト教界とクリスチャンを抑圧するための、法に基づかない事実上の懲罰システム(私刑)の存在を容認したりします。そうして自分たちが、キリスト教界に君臨して裁きを行なうシステムを実際に作り出した上で、それらを用いて既存のキリスト教界を攻撃して弱体化させ、その後で、「被害者を救済する」という名目で、キリスト教界の実権を自分たちの手に移そうと画策するのです。

 これらの人々は外側から見るならば、キリスト教徒を名乗っており、まことにキリスト教徒らしく見えるかも知れませんし、教会の嘆かわしい現状を指摘して、それを憂うがゆえに教会を改革しようとしているのだと言って賞賛をさえ受けているかも知れません。しかし、「弱者解放」という響きこそ美しく聞こえますが、実際に弱者を解放するためにこれらの人々の掲げている理念と方法論、そしてその行ないによる実践をつぶさに検証してみるならば、それらは真のキリスト教からはかけ離れた、いや、元々キリスト教ではあり得ない何かであることが分かります。

 たとえば、カルト被害者救済活動の支援者である村上密氏はかねてより、教会内で起こった不祥事の解決方法を、教会外のこの世の裁判という手段を用いて解決することを提唱していましたが、教会の問題をこの世の法廷での争いを通じて解決しようとすることを聖書は全く勧めていません。

 パウロによれば、そもそも兄弟(クリスチャン)同士が訴え合うこと自体があまりにも情けない事実であり、しかもその事件を教会が自分たちの間で解決する力も知恵も持たないことはあまりにも嘆かわしい事態であり、さらにその事件を解決したいからといって、信仰者でないこの世の人たちの手に委ね、わざわざ教会外のこの世の法廷に持ち出すなど、教会の恥さらし以外の何物でもなく、容認できることではない、そんなことをするくらいならば、むしろ兄弟が兄弟に騙されても分からないふりをして甘んじて不義を受けていた方がまだましだとパウロは示唆しています、「あなたがたの中のひとりが、仲間の者と何か争いを起した場合、それを聖徒に訴えないで、正しくない者に訴え出るようなことをするのか。それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。…それだのに、この世の事件が起ると、教会で軽んじられている人たちを裁判の席につかせるのか。…いったい、あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。しかるに、兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだなぜ、むしろ不義を受けないのかなぜ、むしろだまされていないのか。」(Ⅰコリント6:1-7)

 教会を表わすエクレシアという単語の語源には、ギリシア語では元々、「~から召し出す、呼び出す」という意味があり、クリスチャンとは「(神の招きによって)この世から召し出された者たち」のことです。クリスチャンはキリストの十字架を通して、この世に対して死んでおり、もはやこの世に属してはいません、
「あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。」(ヨハネ15:19)「この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。」 (ガラテヤ6:14)。教会とはこの世から召し出された者たちによって構成される霊的共同体です。

 ですから、パウロが、兄弟たちが自分たちの争いごとを解決するためにこの世の裁判に訴え出ることに反対したのは、決して世に対して教会の見栄を飾ろうとしてのことではなく、そもそも世から召し出されたはずのクリスチャンが、御霊に知恵を求めるのでなく、世に知恵を求めるために再び世に出て行こうとすることは、クリスチャンが世の助けなしには自存できないと告白するに等しく、それはただ不信仰であるだけでなく、クリスチャンがこの世に逆戻りすることを意味し、御霊の法則によって治められるべきことを、この世の法則によって治めさせようとする転倒した試みであるから、それによって教会の中にこの世が入り込み、結果的に、教会と世を隔てる十字架がなくなってしまい、教会が再びこの世の支配下に置かれてしまう一つのきっかけを作ることが分かりきっていたからなのです。

 つまり、クリスチャン同士の争いごとが収拾がつかなくなった時、この世の裁判に頼ってそれを解決しようとすることは、人間の目には手っ取り早い、何の問題もない、善良な解決のようにさえ見えるかも知れませんが、その実、そうすることによって、クリスチャンが世に逆戻りし、サタンの支配下に逆戻りし、教会に対するこの世の支配(=サタンの支配)を認めることになるという点では、実に巧妙な誘惑がそこにあるのです。

 ところで、このようにして私が、カルト被害者救済活動がこの世の裁判に頼って教会の問題解決をするように積極的に奨励していることが、どれほど反聖書的であり、重大な危険性を持っているかを説明しようとすると、カルト被害者救済活動に深く関わったクリスチャンの多くは大抵、私に向かって憤りを隠そうともせずに言いました、「そうは言ってもね、ヴィオロンさん、昨今の教会には自浄作用がまるきり働かなくなっているからこそ、私たちは仕方がなく、この世の裁判という教会外からの強制力を抑止力として使わざるを得ないのですよ。こうしてこの世的な方法を使って外側からメスを入れるしか、教会の腐敗はもう手がつけられない状態になっているのです。それなのに、裁判を使うなと言うことは、被害の拡大を黙って認めろと言っているのと同じなのですよ。あなたは被害者を見殺しにせよと言うのですか!?」

 なるほど、このような台詞は、「被害の防止」や「弱者の救済」を最優先にしていることから、うわべは実にもっともらしく、普通の人々の耳には正論のように聞こえるでしょう。しかし、私たちはクリスチャンである以上、まず、教会が世に助けを求めることで、御霊による統治から逸れて行き、この世の統治に服するようになることの恐ろしさを今一度、立ち止まって考えてみなければなりません。

 隣同士にありながら、長年に渡って対立しているAとBの二つの国があったとしましょう。昔、A国はB国の占領下にあり、B国によって重税・苦役を強いられ、圧制の下に苦しんでいました。しかし、大きな戦いがあって、A国はB国に勝利し、B国の重いくびきを振りほどいて独立し、今やB国よりも栄え、何事においてもB国より有利にあるようになりました。しかし、B国はA国が戦いに勝ったことを面白く思っていないので、チャンスがあるならば再びA国に攻め込んで、かつてのように属国にして支配しようと狙っています。ある時、A国の中で国民同士の深刻な争いが起こり、それが内乱に発展し、にっちもさっちも行かないまでの状態になりました。国内で事態の収拾がつかなくなったA国が、もしも内紛を鎮圧するために、B国に助けを求め、B国からの軍隊の派遣を求めたらどうなるでしょうか? A国の内乱は鎮圧されるかも知れませんが、A国にはもっと恐ろしい事態が起きるでしょう。B国による占領です。B国はA国の弱体化と派兵を求められたチャンスに乗じてA国を占領し、A国の中にB国の軍事拠点を作り、いつまでもA国から出て行こうとはせず、必ずや、A国をB国の属国に変えてしまい、A国の全ての富を我が物とし、再びA国を重いくびきの下に置くでしょう。

 聖書は言います、
「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」(コロサイ1:13) クリスチャンは闇の世の主権者の支配とは別の支配の下にいます。御子キリストの支配する王国の中へ救い出されています。教会とは本来、愛する御子の統治が、つまり、キリストの主権が、御霊による支配が、神の御国の支配が及んでいる領域(目に見えない霊的な領域、王国)のことです。それはこの闇の世の主権者の統治とは何の関係もありません。私たちは依然としてこの世に身を置いていますし、この世との何らかの接触も避けられませんが、それでも、クリスチャンの立場は、この世に対しては十字架につけられたというものであり、「世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。」(Ⅰヨハネ2:15)

クリスチャンであれば誰しも、
「全世界は悪しき者の支配下にあることを、知っている」(Ⅰヨハネ5:19)し、 また、「この世の君」(ヨハネ14:30)とはサタンに他ならないことを知っています。

 この世とは何なのでしょうか。今一度、次の説明に耳を傾けてみましょう。

 ”「この世」とは、神に対立してサタンによって確立された一種の霊的体系を指します。例えば、宗教・哲学・科学などは一見人の目にとっては高貴なものであって、問題はないかのように見えますが、真の神であるの御言葉や価値観に対立しているとすれば、神の目から見れば良しとされません(例えば進化論を考えて下さい)。むしろそれらはもっともらしい装いによって真の神を見えなくすることにおいては、単なる罪の享楽よりも、狡猾なサタンの欺きと言えます。

すなわち、「この世」とは、真の神である主と私たちの間に立ちふさがり、私たちの信仰を破壊し、神との交わりを絶ってしまうあらゆる要素を含んだサタンによって組織された一つの霊的体系と定義されます。したがって人間的価値判断による善か悪かということから切り離して考えないと、「この世」を霊的文脈において正しく評価し、それに適切に対処する際に、混乱や誤りを生じることになりますあくまでも神の目から神の御言葉に基準を置いて判断する必要があります

私たちの霊的経験における「この世」の位置付けは、したがって、それが私と神との交わりにどのような影響を及ぼすかという点から評価する必要があります(注)。サタンの意図はすべて信仰による私と神の交わりを阻止することにあります。サタンはそれを阻害するためにはあらゆるものを用いますが、一つは私たちの「肉」です(→「『肉』について」参照)。「肉」は私たちが神を知らない頃に自らの必要を満たし、この世で生存を担保するために獲得した、大脳に刷り込まれた価値判断や行動パターンですが、サタンは「この世」をこの私たちの「肉」を刺激するために用います。”

 ”「この世」とは、神に対立してサタンによって確立された一種の霊的体系である”というDr.Lukeの説明に、異議を唱える必要は感じません。クリスチャンが教会の問題について、この世に助けを求めるために、この世の裁判を積極的に自分から選びとっていくとき、そのクリスチャンは自分ではただ裁判という出来事だけに関わっているつもりかも知れませんが、それを通して、この世の霊的体系そのものに接触することになるのです。人間的な価値判断に照らし合わせれば、教会で起きる不祥事による被害拡大防止のために、クリスチャンがこの世の裁判を利用することは、何ら責められるべきでない、法律的にも許された当然の権利であり、人間的に見ても、まことに善良な行為であるように見えるかも知れませんが、それを通じて、教会が霊的にこの世の支配下に置かれ、自ら進んでこの世に服していく時、そこにはクリスチャンの信仰を破壊して、クリスチャンが神に向かわないように仕向け、問題が起きた時にはいつでも、神ではなくこの世にお伺いを立て、この世の法則性に従うように仕向けようとする、巧妙なサタンの働きがあるのです。

 そして、この世と、人の堕落した肉とは連動して働く、というよりも、この二つは深いところでつながっており、それはどちらも、サタンに起源を有する堕落した罪深い性質を帯びています。ただし、ちょっと話が脱線しますが、上記の説明の中でただ一つ私が異議を唱えねばならないことがあります。それはDr.Lukeによる肉の定義です。Dr.Lukeは、「「肉」は私たちが神を知らない頃に自らの必要を満たし、この世で生存を担保するために獲得した、大脳に刷り込まれた価値判断や行動パターン」であるとし、「『肉』について」の説明の中でも、「「肉」とは神を排除した自己の経験において刷り込まれた自己の情緒反応あるいは行動パターンです。」「これは自分が生きてきたこれまでの神なしの経験から学んだ方法であって、心理学的には「条件づけされた情緒反応あるいは行動パターン」と言えます。」と説明していますが、この定義は正確ではありません。これでは、肉とは、人が地上に生れ落ちた後で、神を信じる以前(救われる前)に後天的に獲得した経験の蓄積によって、後天的に獲得された何らかの価値判断や情緒反応や行動パターンということになってしまいます。

 そうではありません。聖書は、
「肉から生まれる者は肉である」(ヨハネ3:6)と言っています。つまり、人は生まれた時からすでに肉なのです。生まれた後で、神を信じて救われるまでの間に身につけた聖書の真理に反する様々な自己中心な価値観や情緒反応や行動パターンが肉なのではなく、人は先天的に、生まれた時からすでに堕落した肉を受け継いでおり、御霊によって再生されるまでは、人=肉と言っても差し支えないのです。

 さらに、この堕落した肉は、人の堕落した肉体とも深いかかわりがあります。私はDr.Lukeの次のような肉体の定義にも賛成することはできません。

”「(flesh)」という用語は主にパウロの文書によく見られるものですが、その意味はいろいろに使われています。あるときは単に物理的肉体を意味しますが、実際の信仰生活をする上で重要なのは、「」と対立する使い方をしている場合です。
例えば「肉に従って歩む」とか、「御霊によって肉の働きを殺す」とか、「肉の行いは明白であって、不品行、汚れ・・・」と言った場合です。このようなケースの時、間違えてはならないのは、私たちの物理的肉体そのものを差しているのではないことです。肉体そのものは中立的なものであって、ある時は罪の奴隷として差し出すこともできますし、ある時は義の武器として差し出すこともできます。それは私たちの意志によります。肉体そのものが汚れているとか、腐敗しているという思想はもともとグノーシス思想に由来します(注)
(注)このような思想によって、イエスは卑しい肉体を持っていない単なる霊的存在であるとする異端「キリスト仮現論」が生まれました。ヨハネはこれに対して明確にイエスの受肉を主張しています。”


私たちは、杉本氏らの支持するカルト被害者救済運動が、聖書の真理そのものに対する激しい敵対であり、挑戦であったことを確認します。

 まず、聖書が告げているのは、加害者であろうと、被害者であろうと、弱者であろうと、強者であろうと、
「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)、ということです。聖書はすべての人が生まれながらに罪人であると教えています。被害者だから正しいとか、弱者だから正しいといった考え方が入り込む余地はそこには全くありません。すべての人が生まれながらに罪人である以上、人の生まれながらの自己のうちには、何らの誇るべきものもないのです。

 そして、聖書はすべての人が生まれながらに罪人であると教えながらも、同時に、イエス・キリストの十字架における贖いを信じることにより、すべての人が無代価で義とされると教えているのです。これが信仰による義です。

「…すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ローマ3:23-26)

 ですから、人が義とされることはただキリストによるのです。それは罪の大小に関わらず、信じる全ての人に与えられる恵みなのです。ですから、ローマ人への手紙でパウロは次のように続けます、「すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。」(ローマ3:27-28)

 にも関わらず、カルト被害者救済活動の支援者を名乗っている人たちは、神の義に頼らず、キリストの贖いの十字架を退けて、自分たちの生まれながらの自己から出て来る、行いによる正義を掲げました。彼らは被害者の弱者性に同情するあまり、被害者性の中に「神聖」を見出すことさえし、被害者による正義を掲げて、キリスト教界を糾弾し、キリスト教界に自ら裁き主として君臨しようとしたのです。

 こうして、弱者の正義という美しい言葉を口実にして、彼らが、神の義によらず、行いによって義を打ちたてようとした結果、どうなったでしょうか。カルト被害者救済活動は、己は正義であるという思い込みの下、自分自身の罪が全く見えなくなって、ただカルトの疑いがあるとされた人々だけでなく、自分たちに同情・共感しようとしない全ての人たちを「愛や憐れみや謙虚さがない」などと断罪し、自分たちに反対する者を容赦なく傷つけて踏みにじり、延々と自分たちの被害だけを世に訴えて、他者の幸福を容赦なく踏みにじってはばからない、自分を基準としてしか物事を見ることができない、歴史上、クリスチャンの名に最もふさわしくない、愛にも憐れみにも正義にも欠けた、利己的で無分別で愚かな運動となったのです。

 カルト被害者救済活動は、もはや人間による正義の運動というよりも、キリスト教界に恨みを持つ者たちの、クリスチャンに対する手当たり次第の無差別的な復讐になって行ったと言った方が適切でしょう。こうして、自己の義に頼って正義を打ちたてようとした人たちは、自ら非難していたどんな悪人よりも、さらにひどい悪人となってしまったのです。これが十字架を退けて、自分で自分を義としようとすることの必然的な結果なのですが、他人の罪を激しく糾弾しながら、これほどまでに自分の罪が見えなくなることほど、恐ろしいことはありません。

 クリスチャンは己の義により頼むことによって、自分で自分を義としようとする集団ではありません。神の義であるイエス・キリストを通して、罪赦されて、義とされた罪人です。私たちはこの神の義であるイエス・キリストを信じる信仰によって、御子のいのちをいただいて生かされています。

 悪魔は別名を告発する者と呼ばれ、クリスチャンのもとにさまざまな訴えを持ってきては、私たちがいかに不完全な者であり、間違いやすい者であり、神の御旨から遠く離れているかを示して、神が御子イエス・キリストを通してお与え下さった信仰による義を疑わせるでしょう。私たちは確かに自分で自分を義とすることはできません。自分の中に何の良いものも見いだせないのを知っています。
「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。」(ローマ7:18) しかし、自分自身の力で神の義に達することができないと知っているからこそ、私たちはいつでも自分に頼らず、ただ子羊の血にのみ頼ることによって、罪咎を覆われて、神に義と認められ、神の御前に近づくことができるのです。

 ですから、どうして私たちは敵の訴えを恐れる必要があるのでしょう? むろん、私たちクリスチャンはあらゆる角度から訴えにさらされ、あらゆる角度から責められるでしょう。たとえ私たちが完全に無実であっても、あらゆる角度から包囲され、蔑視と、誤解と、非難と、危険と、迫害と、孤立に耐えねばならない時があるかも知れません。ダビデは言いました、
「わたしはわが兄弟には、知らぬ者となり、わが母の子らには、のけ者となりました。」(詩篇69:8)と言い、「そしりがわたしの心を砕いたので、わたしは望みを失いました。わたしは同情する者を求めたけれども、ひとりもなく、慰めるものを求めたけれども、ひとりも見ませんでした。」(詩篇69:20)「あなたはわが知り人をわたしから遠ざけ、わたしを彼らの忌みきらう者とされました。」(詩篇88:8)「わたしは多くの人に怪しまれるような者となりました。」(詩篇70:7)

「しかしあなたはわたしの堅固な避け所です。」(詩篇70:7) 

「悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。」(詩篇37:32-33) 「正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。」(詩篇37:39) 

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇55:22)

 ですから、私たちには
「…極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟」(Ⅱコリント1:8)
するような時でも、「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みにする」(Ⅱコリント1:9)恵みが与えられています。そして神は私たちのこのような信仰に誠実に応えて下さる方なのです。

 ですから、敵のあらゆる卑劣な訴えに取り囲まれる時にも、私たちはこれに対して、ただ一つの答え――子羊の血―ーを見せることができます。一体、そんな時に、私たちの強さ、もしくは弱さや、あれやこれやの能力や、被害者性や、生まれながらの善意や、正義感などといった自己の義などが、何の役に立つでしょうか。それらすべての「美徳」は神の御前に腐敗した役に立たないものでしかなく、ただお一人父なる神の御心を完全に満足させた御子キリストの血潮だけが、嵐のような敵の熾烈な訴えの最中にも、神の御前に私たちを大胆に立たせ、恐れなく御前に進み出て、恵みの御座に近づくことを許してくれるのです。「あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。」(詩篇23:5)

 だから私たちは、
「ほえたけるしし」(Ⅰペテロ5:8)が咆哮を上げ、暗闇の勢力が卑劣の限りを尽くして虚偽の訴えでクリスチャンを取り囲んだとしても、臆することなく信仰によって立ち上がり、子羊の血と、証の言葉によって立ち向かうのです。私たちには勝利となるものがすでに与えられているのです。

「今や、われらの神の救と力と国と、
神のキリストの権威とは、現れた。
われらの兄弟らを訴える者、
夜昼われらの神のみまえで彼らを訴える者は、
投げ落とされた。
兄弟たちは、
小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、
彼にうち勝ち、
死に至るまでもそのいのちを惜しまなかった。
それゆえに、天とその中に住む者たちよ、
大いに喜べ。
しかし、地と海よ、
おまえたちはわざわいである。
悪魔が、自分の時が短いのを知り、
激しい怒りをもって、
おまえたちのところに下ってきたからである。」(黙示12:10-12)


今後、カルト被害者救済活動はまことのクリスチャンを欺くことはもうできなくなるでしょうし、聖徒らに手を触れることもできなくなるはずです。まことのクリスチャンに対して、彼らの虚偽の訴えや、偽りの脅かしは何の意味も持ちません。
「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。」(Ⅰヨハネ5:18)ことを私たちは知っています。

 しかし、これから先、それでも好んで自らこの活動に関わり続けるクリスチャンがいるならば、もろともにさらに深い闇へと落ち込んでいくでしょう。なぜなら、聖書にこう書いてあるからです、
「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 」(Ⅱテモテ3:13)「キリストの十字架に敵対して歩いている者…の最後は滅びである」(ピリピ3:18)と。

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。そして、あらかじめ定めた者たちを更に召し、召した者たちを更に義とし、義とした者たちには、更に栄光を与えて下さったのである。

それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなあら、だれがわたしたちに敵し得ようか。ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず、万物をも賜らないことがあろうか。

だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを
罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている。』と書いてあるとおりである。

しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。」(ローマ8:28-39)

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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