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カルト被害者救済活動はなぜ誤っているのか


――ブログ「随想 吉祥寺の森から」の著者 杉本徳久氏による
多数のクリスチャンに対する聖書と法に基づかない虚偽の告発と
カルト被害者救済活動の非聖書性と危険性についての考察――


 
目次

1.カルト被害者救済活動はどのように暴走して行ったのか

――杉本事件のあらまし――

①「随想 吉祥寺の森から」に見るカルト被害者救済活動の暴走
②最近の裁判におけるカルト被害者救済活動サイドの敗北
③自らカルト監視機構になろうとした「随想 吉祥寺の森から」
④カルト被害者救済活動によって悪用された「カルト」の概念
 
2.神の義によらない、自己の義に基づく救済運動の危険性
 
3.裁判の無用性

4.互いに訴え合うというカルト被害者救済活動の敗北
 
”いのちの御霊の路線”で生きるクリスチャンへの迫害




「わたしはあなたを民のうちに立て、
ためす者、試みる者とした。
あなたが彼らの道を知り、
それをためすことができるようにするためである。
彼らはみな、強情な反逆者であって、
歩きまわって人をそしる。
彼らは青銅や鉄であって、みな卑しいことを行う。
ふいごは激しく吹き、
鉛は火にとけて尽き、
精錬はいたずらに進む。
悪しき者がまだ除かれないからである。
主が彼らを捨てられたので、
彼らは捨てられた銀と呼ばれる』。」(エレミヤ6:27-30)



1.カルト被害者救済活動はどのように暴走して行ったのか
――杉本事件のあらましについて――


 2009年末、カルト被害者救済活動を支持する杉本徳久氏は、インターネットを通じて自身のブログ「随想 吉祥寺の森から」の中で、私ヴィオロンと、当時私の執筆していたブログ「東洋からの風の便りⅠ、Ⅱ」の一連の記事、および、当時私と関わりのあったクリスチャンの関係者一同を標的にして、いわれなく、約1千件以上のコメントを伴う虚偽に満ちた事実無根の非難・告発の記事を掲載し、これを機に、著作権侵害、肖像権の侵害、実名を公表したことによる名誉毀損などの数々の違法な行為を行ない、「東洋からの風の便り」を一時閉鎖に追い込み、また関係者一同の名誉を著しく傷つけました。

 前掲の「罪と罰――Sさんへの手紙」は杉本氏が起こしたこのような常軌を逸した事件に関して、私ヴィオロンが2010年にブログ上に第一回目に掲載した杉本氏への呼びかけです。文中のSさんとはすべて杉本徳久氏を指します。

 ここにおいて私は、杉本氏が私や関係者を非難するためにブログに掲載した記事内容には膨大な虚偽が含まれていることを指摘し、さらに、杉本氏がそれまでブログ上で率先して行なってきた、キリスト教界にいるおびただしい数のクリスチャンの兄弟姉妹への告発・非難が、あまりにも度を越えて行き過ぎた行為であり、無実の兄弟姉妹を傷つけるものであり、この告発はただ杉本氏の個人的判断に基づいて行なわれているだけであって、全く正当な根拠がなく、さらに事実にも著しく反しており、個人のプライバシーの権利をも侵害しているなど、この世の数々の法律にも抵触していることから、違法な行為であり、何よりも聖書に著しく反している点で、クリスチャンにあるまじき所業であることを訴えました。

 この書簡において私は、キリストにある兄弟として、杉本氏に真摯な反省を促し、彼がこれ法律を無視して、キリスト教界を敵対視し、クリスチャンの兄弟姉妹をいわれなく告発・断罪する作業をやめるように呼びかけ、杉本氏自身も神の憐れみによって罪赦された罪人の一人として、キリストの十字架に立ち戻り、聖書の真理に立って、自分を傷つけた人々を赦し、キリストにあって心の慰めを得るように、また、彼が訴えてきた兄弟姉妹と和解し、平和を追い求めるように呼びかけました。

 この考察では、まず、杉本氏とそのブログ「随想 吉祥寺の森から」がカルト救済活動の中で果たした役割を確認し、このブログが辿った暴走の経緯を振り返ることで、まず、カルト被害者救済活動の危険性はどのような点にあったのか、どのような形で証明されたのかを現象面から確認していきます。

 次に、カルト被害者救済活動の理念に踏み込んで、その非聖性について、聖書に照らし合わせながら詳しく確認します。そしてこれが、「弱者救済」という美名の下に隠された擬似キリスト教的イデオロギーであることを、過去の類似した異端的運動などと比較しながら論じます。

 そして最後に、杉本氏とカルト被害者救済活動の支援者らによる私たちクリスチャンに対する告発・断罪が、現代のクリスチャンに対する迫害の様相を帯びていること、とりわけ、”善悪の路線ではなくいのちの御霊の路線”で生きているクリスチャンに対する激しい迫害であったという事実を指摘し、なぜ彼らがウォッチマン・ニーを初めとして、アンドリュー・マーレー、ジェシー・ペンルイスなど、クリスチャンの霊的先人たちの書物をことさらに敵対視したのか、これらの先人たちの証に表れているキリストの”いのちの御霊の路線”とは何であるのかを明らかにします。


①「随想 吉祥寺の森から」に見られるカルト被害者救済活動の暴走

 「随想 吉祥寺の森から」は、当初、教会のカルト化に警鐘を鳴らすという名目で、全国各地のキリスト教会の不祥事に関する教会の内情暴露的な記事を次々に掲載しては、クリスチャンの注目を集めていました。このブログは、その絶頂期には読者数が一日当たり約一千人以上に及ぶという、個人のブログとしては異様と言っても良い規模を誇り、キリスト教界のカルト化という問題に対するクリスチャンの世論の関心の高さを伺わせました。

 しかし、当時から、杉本氏によるクリスチャンへの告発記事が牧師や教会の実名入りで発表されていたことに対しては、それは個人のプライバシーを著しく傷つけるものとして、数多くのクリスチャンから反対が寄せられていました。しかし、杉本氏がそれに耳を傾けることはありませんでした。

 また、(裁判や、カルト監視機構の設立という)、この世的方法論を用いてキリスト教界の浄化を目指していたカルト被害者救済活動そのものに関しても、たとえばⅠコリント6:5-7を参照してもすぐに分かるように、これは聖書にのっとった正しい解決方法ではないから、問題の解決にならないどころか、教会にさらなる混乱を生むだけであると、多くのクリスチャンが懸念を表していました。

 こうしたクリスチャンたちの懸念が的中して、杉本氏らの支援していたカルト被害者救済活動は、驚くほどの短期間で混乱し、暴走していきました。そこには、教会の不祥事に巻き込まれて実際に深刻な被害を受けた真の被害者だけでなく、”自称”被害者や、”自称”被害者の支援者や、”自称”カウンセラーなど、様々な思惑を持った人々が入り乱れた結果、こうした被害者サイドの訴えには、真実の訴えと虚偽の訴えが入り混じって、議論が紛糾に紛糾を重ね、誰も真偽のほどを見分けることのできないほどの混乱した有様となりました。

 カルト被害者救済活動の支援者たちは、きちんと事実を検証しようともせずに、ただ被害者を名乗る人々の訴えだけに基づいて、自分たちが”カルトの疑いがある”とみなした牧師やクリスチャンを一方的に非難断罪していったため、運動はついには魔女狩りのような様相をさえ帯び、多くの無実のクリスチャンに著しい汚名を着せる全く無秩序なものへと変わり果てました。しかも、この運動は、当初、法に基づいた裁判による問題解決を提唱していたにも関わらず、それとは裏腹に、もう一方では、自分たちの掲げる独自の正義に基づいて、全く法を無視して、標的として狙い定めた牧師やクリスチャンに対して、インターネット上で一方的に誹謗中傷の限りを尽くすという、身勝手な私刑を次々に実行する違法な懲罰運動のようになったのです。そして、多くの無実のクリスチャンの名誉を傷つけた挙句、著しい犯罪性を帯びるまでなりました。

 杉本氏のブログ「随想 吉祥寺の森から」は、カルト被害者救済活動の、このような法に基づかないいわれなき懲罰運動の中核をなしていました。杉本氏は自身のブログにおいて、大勢のコメント者たちを巧みに誘導しながら、自分たちが”カルトの疑いがある”とみなしたクリスチャン、また、自分たちの活動に反対するクリスチャンを次々と標的にして、本人の何の同意も承諾もないところで、一方的にその人たちの行動をあげつらったり、文章やメッセージを引用したりしながら、その人たちの名誉を傷つける数々の誹謗中傷を行ない、断罪し、制裁を加えていったのです。


②最近の裁判に見られるカルト被害者救済活動支援者サイドの敗北

 私たちは、杉本氏の掲載したこうした一連のクリスチャンに対する告発記事が、どれほど信頼性の低い、誤りの多い、不確かな情報であったかを、最近のいくつかの裁判の判決からも知ることができます。

 たとえば、杉本氏がブログで厳しく非難してきたビュン・ジェーチャン牧師には、2011年5月20日に無罪判決が確定しています(ウィキペディア参照のこと)。ビュン・ジェーチャン氏の事件に関する報道は、当時、杉本氏のブログにおいて最大のスクープだったと言っても過言ではなく、クリスチャンの世間にも大きな反響を呼びました。しかし、この判決を見るならば、杉本氏らのサイドの主張は、司法の場では全く信頼性のあるものとして取り上げられなかったことが分かります。

 また、村上密氏、杉本氏など、カルト被害者救済活動支援者サイドがこれまでしきりに「異端者」、「教会をのっとった」などと非難してきた山田牧師夫妻の牧会する鳴尾キリスト福音教会の裁判においても、カルト被害者救済活動支援者サイド(村上密氏サイド)の訴えは全面的に退けられ、敗北しています。ここにおいても、杉本氏らのサイドが報道して来た内容は、司法の場では完全に事実無根として全面的に却下されています。(判決の詳細については、「鳴尾キリスト教会から皆様へ」を参照のこと。)

(※鳴尾キリスト福音教会の裁判では、教団からの教会の離脱が争いの争点となった。鳴尾キリスト福音教会は2010年5月27日付で日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団より離脱し、単立教会となった。これに対し、アッセンブリー教団が文部科学省に対して離脱手続の違法性を訴え、認証取消しを求めた審査請求を行なっていたが、2010年12月1日付で教団側の訴えは棄却された。また、離脱に反対していた信者が村上密氏を相談役として起こしていた裁判も、2011年3月7日付で全面的に棄却された。村上密氏を相談役に離脱に反対していた信者が起こした裁判の控訴審(二審)においても、2011年10月20日大阪高等裁判所にて全面却下が言い渡された。これらの判決を通して明らかになったのは、山田牧師夫妻の導く鳴尾キリスト福音教会は、正式な手続きを経て教団から離脱したのであり、そこにはカルト被害者救済活動支援者サイドが訴えたような「違法性」は全く確認されず、また、被害者救済活動支援者サイドの訴えていたような山田牧師夫妻による「教会ののっとり」の事実も全く確認できなかったということである。)

 こうした事実に照らし合わせるならば、カルト被害者救済活動の支援者サイドの訴えが、無実のクリスチャンにいわれなき汚名を着せるものとして、世(警察・司法)からは全く信頼性のない主張として一顧だにされていないことは明らかです。杉本氏自身が司法試験に合格した法学の出身者であることを考え合わせると、彼の主張が司法の場でかえりみられていないことは、大変、重く見るべき事実です。

 こうした状況があるにも関わらず、カルト被害者救済活動の支援者サイドは、未だにインターネット上に自分たちに有利な事実だけを一方的に膨らませて発表しているため、世情に疎い人々の中には、彼らの主張にどれほどの違法性、虚偽性が含まれているかに未だに気づいていない人も存在します。このような偏った報道姿勢を取ることで、カルト被害者救済活動の支援者サイドは今になっても、自分たちの主張が敗北している事実を押し隠し、また、自分たちの訴えの虚偽性を押し隠そうとしているのです。

 私や関係者について杉本氏の記した告発記事についても、その記載内容の虚偽性は公に認められています。2010年、この件に関して警察が捜査を開始し、「随想 吉祥寺の森から」の問題となった記事の全ログが差し押さえられ、また、虚偽の記載をしたコメント者が一旦は刑事責任を問われるという事態にも至りました。

 なお、つけ加えておきますと、この頃、私と関係者は、できるならば杉本氏とキリストにある兄弟姉妹として穏やかに話し合い、対話による事態の解決ができないかと願っていましたので、直接対話を杉本氏に申し込んでいますが、その提案は残念ながら、杉本氏によって拒否されました。また、「罪と罰――Sさんへの手紙」の中で、私は杉本氏に対して穏やかに呼びかけ、クリスチャンへのいわれない断罪・告発をやめるよう依頼しましたが、彼がそれに真摯に耳を傾けることはありませんでした。

 その後(それ以前からそうだったのですが)、私や関係者には、杉本氏からメールで盛んに脅迫状が送られて来るようになりました。そこで杉本氏は筆舌に尽くしがたい罵詈雑言と脅し文句を盛んに用いて、彼の支援するカルト被害者救済活動に反対する者たちを容赦なく罵っていました。この常軌を逸した内容の杉本氏の書簡は、私とDr.Luke、山谷少佐の三者に宛てて送られていたため、杉本氏が自分の活動に反対する者に対して全く自分の感情を抑えることができない人であり、怒りと憎しみの発作に駆られずにいられない人であることが複数名によって確認されています。


③自らカルト監視機構になろうとした「随想 吉祥寺の森から」

 私は数年前から、カルト被害者救済活動がどれほど危険な運動であるかについて、ブログ上で再三に渡り、クリスチャンの読者に警告を発してきました。一連の記事を通して、私は、教会の腐敗という問題の解決方法として、カルト被害者救済活動が掲げているような”裁判”や、”カルト監視機構の設立”といった外的強制力に頼ることが、いかに無意味であるばかりか、教会を新たなる危険にさらす、聖書に反した、危険な発想に基づいた試みであるかを訴えてきました。私は、教会の問題については、クリスチャンが聖書の真理に立ち戻り、まことの神に立ち戻り、キリストの十字架に戻ることのみが唯一の処方箋であり、聖書の勧めるこの信仰的な解決を捨てて、司法での争いや、法に基づかない懲罰運動や、調査や、監視や、取り締まりや、その他のこの世的・人間的な方法に頼ろうとするなら、教会の問題の解決は遠ざかるばかりでなく、キリスト教界に未だかつてない恐ろしい混乱がもたらされるきっかけを作ることになるだろうと警告していたのです。

 私は個人的に杉本氏から非難されなければならないようなことを何もしていません。私と彼は未だに直接の面識がありませんし、彼のブログのコメント者とも、私は面識がありません。互いに会ったことも、話したこともなく、互いをほとんど知らないにも関わらず、杉本氏が自分のブログで私や関係者を激しく非難・断罪したのは、私の発表していた一連の記事が(私はそういった記事の中で特に杉本氏の名を挙げたり、彼のブログにリンクを貼ったことは一度もないのですが)、カルト被害者救済活動には反対の立場から書かれていたために、杉本氏の癇に障り、彼は自分の活動を名指しで批判されているのだと思い込み、怒りを抑えることができなくなって、これ以上、彼の支援するカルト被害者救済活動に反対意見を述べさせまいと、私や関係者に制裁を加え、黙らせようとしたのではないかと思われます。

 話が急に変わるようですが、ここで、カルト監視機構というものに対する私の意見をもう一度、述べておきたいと思います。なぜなら、カルト監視機構は結局、今の時点では設立に至っていないものの、杉本氏らが従事して来たカルト被害者救済活動というものの性質を考える上で、避けて通れない重要なテーマだからです。

 周知の通り、カルト被害者救済活動の主たる支援者の一人である日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団(以下、アッセンブリー教団と省略)所属の村上密牧師は、かつてキリスト教界のみならず、宗教の枠組みを超えて、全宗教界の腐敗(カルト化)を取り締まるために、「カルト監視機構」なるものの設立が必要だと提唱していました。要するに、日本全国のカルト化の疑いのある教会を取り締まるために、様々な分野の専門家から構成される教会外の独立した機関(第三者委員会のようなもの)を設立し、この機関に、各教会に対する監視や調査の権限を与え、腐敗した教会を取り締まることのできる何らかの実質的な権限を持たせることが必要だとしていたのです。

 2009年、私はブログ記事の中で、このような機構を設立するという発想は、兄弟(クリスチャン)同士の裁きあいを助長するものであるから、聖書に反しており、また、教会に対する事実上の調査・監視・懲罰機関を設立することであるため、教会の自治を破壊する試みであり、もしこのような機構が設立されれば、教会の問題を解決するどころか、教会を未だかつてない混乱に陥れるだろうと警告しました。

 株式会社の不正を取り締まる場合であれば、法律に基づいて、独立した第三者委員会を設置するのも有益でしょう。しかし、教会を株式会社と同じに考えることはできないのです。経済活動ならばまだ取り締まり可能でしょうが、そもそも、信仰の事柄をどのようにして誰かが調査したり、取り締まることができるのでしょうか? それは人間の内心の自由(信教の自由)という、最も侵しがたい領域に人が手を触れることを意味するのではないでしょうか? しかも、村上氏によるカルト監視機構の定義においては、この機構がどこまでの権限を持つものであるかも明確にされていませんでした。

 ですから、私は訴えました、 もしもプロテスタントのキリスト教界に一旦、カルト監視機構が設立されたなら、「カルトを取り締まる」という名目で、それは何者にも制限・監視されることのない(諜報・懲罰)機関として暴走していくのではないだろうかと。 最も恐ろしい危険は、信仰生活という、人の内心の自由をすら監視し、取り締まることのできるような絶大な権限を持った機関が公に設立された後で、その絶大な権限が悪意ある人間によって悪用されて、組織そのものが暴走していくことであると。キリスト教は性善説に立ってはいませんので、人間の罪深い本質というものに照らし合わせるならば、そのような疑問が生じない方がおかしいと言えます。もしそうなれば、必ずや、カルト監視機構は現代の異端審問所のようになり、カルト化教会とクリスチャンの取り締まりは暴走して魔女狩りを生み出すだろう。各教会は、秘密警察のように活動するようになったカルト監視機構を恐れてものが言えなくなり、キリスト教界の言論の自由は弾圧され、プロテスタント教会の自治は破壊され、クリスチャンの間では虚偽の密告などが横行し、クリスチャン同士、また、牧師同士、教会同士が互いを我先にと告発しあうような、恐ろしい疑心暗鬼の仕組みが出来上がり、血で血を洗うような闘争が繰り広げられることになるだろうと。だから、カルト監視機構のような非聖書的な監視・懲罰機関は、クリスチャンがどんなことがあっても、絶対に設立してはならないものなのだと。(詳細は当時の記事参照のこと。)

 当時、村上密氏はこの問題の核心を、カルト監視機構の設立の年月日の問題にすりかえることで人々の関心を逸らし、これを私による誤報と断定した上で、当のカルト監視機構が持つはかりしれない危険性、この監視機構の反聖書的意義については、全く議論せずに沈黙してしまいました。

 そもそも、カルト監視機構という発想自体が反聖書的であり、そうであるがゆえに非常に大きな危険性を持った(サタン的)発想であると断言できる最大の理由は、これが「教会のカルト化を防ぐ」という美名の下、兄弟(クリスチャン)が兄弟(クリスチャン)を訴え、兄弟が兄弟を裁くことを奨励するようなシステムを作り出そうとしている点にあります。まず、教会内部から不祥事を通報する情報提供者が現われないことには、カルト監視機構は教会に対する調査を開始することはないでしょう。ですから、これは事実上、密告を奨励する制度であり、なおかつ、問題があると認められた教会やクリスチャンに制裁を加えることのできる報復制度を確立することにさえつながりかねないのです。

 しかし、クリスチャン同士が互いに裁きあうことを聖書は認めていません。イエスは言われました、
「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」(マタイ7:1-2)

 聖書は、まことの裁き主はただ神の御子イエス・キリストお一人だと教えており、人間が裁き主になって、他のクリスチャンの信仰を裁いたり、まして、懲罰を加えることを認めていません。父なる神は裁きに関すること一切を御子にお任せになりました(ヨハネ5:22,27)。クリスチャンの信仰について裁かれる方は御子であり、そして、報復するのは人間ではなく、神の仕事なのです。

 ですから、パウロは言います、
「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさいなぜなら、『主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである

むしろ、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:17-21)


 パウロは、人の心の内に隠されている事柄を明らかにし、物事の是非を真に明らかにされるのも、神の仕事であると言います、ですから、御子が再び来られて裁きを行なうその時まで、クリスチャンが先走って、自分自身で裁きを行なわないように戒めています、
「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(Ⅰコリント4:5)

 主は言われたのです、「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)


 当時、カルト監視機構に対する私の警告は、多くの人たちの耳にはただ私の悲観的すぎる想像に基づくものに過ぎないように聞こえたかも知れません。しかし、事実を見るならば、そうではなかったことがお分かりいただけるのではないかと思います。

 ブログ「吉祥寺の森から」の著者杉本氏は、恐らく、村上密氏のカルト被害者救済活動を支援していた立場から、また、自分が教会のカルト化問題を取り締まるために何らかの重要な役割を果たしたいという思いから、まだカルト監視機構が設立されもしないうちから、自分のブログにカルト監視機構のような役割を担わせようと考えたのでしょう。

 杉本氏は、各地の教会の内通者(=情報提供者)から続々と寄せられる情報を基にして、自分のブログ上に、数多くのコメント者と一緒になって、”カルト化の疑いがある”とみなした教会や牧師やクリスチャンについて、彼らを激しく非難する記事を掲載していきました。そして、そのようにして”疑いのある”クリスチャンの名誉を貶めることで、彼らに事実上の制裁を加えたのです。

 私たちはここで重要な事実に気づかないわけにはいきません、それは、カルト被害者救済活動の支援者らは、多くのクリスチャンらの反対に遭ってカルト監視機構の公の設立に失敗した代わりに、杉本氏個人のブログに教会のカルト化の監視と取り締まりのための事実上の”権限”を持たせようとし、実際に、この個人のブログを、彼らが”疑わしい”と判断した人物を次々と非難し、弾圧するための(最)重要拠点として用いたということなのです。これは、杉本氏個人のブログが事実上のカルト監視機構の役割を果たしたことを意味すると言っても過言ではありません。

 もちろん、杉本氏のブログにそんな権限を与えることを、クリスチャンは誰一人承認したわけではありませんし、杉本氏という一個人にそんな取り締りを行なう権限があろうはずもありません。ですから、これは完全に違法な行為であり、杉本氏が教団教派の枠組みをすら超えて、日本全国の各教会に属するクリスチャンと、教会に所属していないクリスチャンに対してまでも、自ら君臨し、すべてのクリスチャンの監督者、裁き主のように振舞っていることは、恐ろしいことです。これは一個人に許される行動の限度をはるかに越えており、神の主権を侵そうとする試みでさえあり、ただ暗闇の勢力だけが、このようなことを成し得るのだと言う他ありません。

 私は、カルト監視機構なるものが設立されれば、必ずや、このような恐ろしい無秩序状態が生まれ、実際にカルト化の疑いがある教会だけでなく、無実の数え切れないクリスチャンが、”カルト”や、”異端者”の濡れ衣を着せられて、次々と弾圧されることになるだろうと予め警告して来ました。実際に、カルト監視機構の設立を待たずとも、カルト監視機構の重大な危険性は、杉本氏の個人ブログを通して十分に証明されたのだと言えます。しかも、杉本氏は単なる一個人のブログに過ぎない場所で、どんな公の承認も受けずに、自らは誰からも監督されることもなく、話し合いの申し込みにも応じず、開かれた専門からの協議にも頼らずに、ただ彼個人の意思だけに基づいて、暗闇の密室の中で、無実のクリスチャンを吊るし上げて、同胞の名誉を傷つけ、貶める作業に従事していったわけですから、これは公にカルト監視機構が設立されるよりも、もっと悪い事態だったと言えなくもありません。


④カルト被害者救済活動の支援者らによって悪用された「カルト」の概念

 杉本氏は恐らく、初めのうちは、ブログにおいて自分が本当に”カルト化の疑いがある”と判断した牧師だけを糾弾していたのだろうと私は思います。しかし、このブログの告発記事は、杉本氏が情報提供者から寄せられる情報を鵜呑みにして、その真偽のほどをきちんと検証もしないまま、次々と記事に掲載していったために、次第に事実から遠くかけ離れたものとなり、ついには、ブログそのものが嘘の温床と言っても差し支えない状態にまでなったのです。

 ここで、私たちが注意しなければならないのは、彼のブログの目的が、当初は実際に”カルト化の疑いがある”人物を告発することから出発しながらも、次第に、杉本氏や、彼のブログのコメント者らが自ら”疑わしい”と判断した人物を闇雲に信頼できる証拠もないままに非難することへと変わっていき、ついには、彼らの活動に反対する全てのクリスチャンに無差別的な制裁を加えることへと転じて行ったことです。

 杉本氏のブログは、教会に対して恨みや不満を持つ”自称”クリスチャンたちが夜昼となく集まっては、クリスチャンを辱め、見世物にする目的で、一方的に誹謗中傷の限りを尽くすという、信仰とは何の関わりもない、違法かつ反社会的な運動・集まりとなり、クリスチャンの処刑場のようになったのです。

 それにも関わらず、杉本氏らは自分たちの行なっているクリスチャンに対する残酷な制裁が、あくまでキリスト教的な大義名分に基づいて行なわれているものであり、私怨に基づくものではないと見せかけるために、ターゲットとして狙い定めた無数のクリスチャンに、”カルト”、”異端者、”狂信者”、”マインドコントロールされている信者”など、思いつく限りの「罪状」を作り上げては、盛んに虚偽の告発を行いました。

 つまり、ここでは”カルト”の概念が巧妙にすりかわり、杉本氏自身が”正義”の体現者になり代わり、杉本氏自身の個人的判断が、カルトかどうかを判断する絶対的な判断基準となって、杉本氏の判断は絶対的に正しく、彼に逆らう者が”カルト信者”であり、”悪人”であり、”狂信者”であり、”異端者”であるということにされたのです。

 こうして、杉本氏のブログにおいては、キリスト教界の改革のために教会のカルト化問題に警鐘を鳴らすという当初の目的は名ばかりのものとなり、もはや”カルト”の概念さえ踏みにじられ、「カルトを取り締まる」という美名の下、”カルト”という言葉そのものが、杉本氏個人の活動に賛成しない者に制裁を加えるための都合の良い口実として無限に拡大解釈されたのです。

 杉本氏のブログにおいてはこうして次々とクリスチャンに対する虚偽の”罪状作り”が行なわれた結果、もはや魔女狩りと呼んだ方が良い事態が展開されるようになりました。このブログは今もこうして、日本の無実の数え切れない兄弟姉妹にありもしない”罪状”を果てしなくでっちあげては、兄弟が兄弟を訴えるように仕向け、教会とクリスチャンを弾圧し、キリストの御名を辱め、キリスト教界に法にも聖書にも基づかない、身勝手で終わりなき暗黒の異端審問(杉本氏による私刑)をもたらすためだけに存続していると言っても過言ではありません。

(※ある意味で、最も卑劣なのは、杉本氏のブログの無責任なコメント者たちと、杉本氏に虚偽の情報をつかませて杉本氏を罠に陥れた情報提供者たちだと言えるかも知れません。杉本氏の記事が虚偽化していった背景には、こうした無責任なコメント者らの書きなぐった虚偽のコメントと、情報提供者のつかませた嘘の情報が大きく影響しています。卑劣なコメント者たちは、自分たちの嘘が追及されて都合が悪くなると、自らの発言の責任をただ杉本氏だけに負わせて、沈黙を決め込んで逃げ去っています。杉本氏は生来の正義感を悪用されて、こうした無数の無責任な人々によって陥れられたのだとも言えます。ただし、こういったことをすべて考え合わせても、やはりこのブログの最終責任が杉本氏にあることは否めず、こうした暗闇の連鎖はまさに聖書が次の言葉で予告している通りなのです、「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて、悪から悪へと落ちていく。 」(Ⅱテモテ3:13) もしも今後、この運動が早急に終わりを告げず、カルト被害者救済活動の支援者たちがそれでもまだ自前の正義を振りかざして運動を続けるならば、今までよりもさらにはかりしれない恐るべき暗闇の中に落ち込むことになるでしょう。

 こうして私たちは「教会のカルト化を憂い、警鐘を鳴らす」という名目で始まったはずの杉本氏のブログがどのようにして常軌を逸した懲罰運動へと変わり果てて行ったかを見て来ました。この現状を見るならば、カルト被害者救済活動というものの絶望性がよく分かるだけでなく、もしもプロテスタントのキリスト教界が、教会のカルト化問題を取り締まるためにカルト監視機構が必要だと判断して、そのような機関を実際にもうけていたなら、どれほどの大規模で恐ろしい事態が展開されていたか、あえて説明するまでもないと思います。

 良心的なクリスチャンは杉本氏のブログの内容が反聖書的で常軌を逸していることにとうに気づいてそこから遠ざかっています。また、当のカルト被害者たちもほとんどが、杉本氏らの主張があまりにも行き過ぎているのを見て取って、ずっと前にこの活動から身を引いています。従って、最も世情に疎く、最も与えられた情報を疑うことを知らない、最も愚かな読者だけが、最後までこのブログの虚偽の情報に踊らされ、そこで無実の同胞をいわれなく吊るし上げ、見世物にする側に回ったのだと言えましょう。

 たとえこの世で責任を追及されることがなかったとしても、その残酷な行為の責任については、いつか一人ひとりが主の御前で申し開きを迫られるときが来るのです。

「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである。」(マタイ12:36-37)

「…あなたは、なぜ兄弟をさばくのか。なぜ兄弟を軽んじるのか。わたしたちはみな、神のさばきの座の前に立つのである。すなわち、『主が言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、私に対してかがみ、すべての舌は、神にさんびをささげるであろう』と書いてある。だから、わたしたちひとりびとりは、神に対して自分の言いひらきをすべきである。それゆえ、今後わたしたちは、互にさばき合うことをやめよう。」(ローマ14:10-13)



⑥ 杉本氏によって傷つけられたクリスチャンへ

 杉本氏のブログにおける行き過ぎたクリスチャンの告発は、あまりにも多くの無実のクリスチャンの名誉と心を深く傷つけました。これから先、残る人生において、杉本氏はもしも彼が悔い改めて主の懐に立ち帰らないなら、このブログで犯した罪をずっと宿業のように背負って行かねばならないでしょう。それは一人の人間にとって耐えられる重さをはるかに越えているように私には思えてなりません。さまざまな紆余曲折を経ながら、信仰の道を歩んできたはずの前途ある一人の有望な青年が、聖書の真理を退けて、神の義に敵対し、教会を敵とし、多くの兄弟姉妹を敵としてまで、兄弟たちの告発者として歩む道を自ら選んでしまったことは、まことに残念でなりません。

 しかし、キリストの十字架の贖いの御業は、どんなに深い罪に対しても開かれています。杉本氏にはまだ年月が残されていますので、彼の残る人生に悔い改めの余地が与えられ、キリストの御業が現われることを願うしかありません。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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