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「友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる。」(箴言17:17)

我が隣人よ

今日はぜひとも小説の言葉で語らせて下さい。『アッタレーア・プリンケプス』という話を知っていますか。ロシア文学の中ではかなり有名なガルシンの作品なのですが、温室の中で育てられた木が、じかに太陽を見たいと願うあまり、温室を突き破って成長し、吹雪の中で死んでしまったという、今の時代の人から見れば、何の落ちもなければ、面白みもないような、ただやりきれないお話なのです。

この話は、実は人間を暗示しているのだと私は考えています。帝政ロシア末期の貴族社会において、恵まれた境遇にありながら、生きがいを見つけることができず、社会の中で疎外を感じて我が身を持て余している孤独な貴族の青年(余計者)が、生きがいのある実生活をひたすら夢みた挙句、生活の中に飛び込んでみると、耐える力が全くなくて、ひ弱さのために死んでしまった…というような、当時の貴族社会の一般的な状況を物語っています。温室(帝政)が時代遅れな束縛であるということは誰の目にも明らかであり、多くの若者が理想的な社会を夢見ながら、それなのに、温室から逃れては彼らには生きる力もなければその方法もないことだけが分かるという悪循環、閉塞した社会に生きる知識人の叫びを物語っているのです。

ところで、覚えていますか、私はいつかあなたに言いましたね、なぜ多くのクリスチャンは自分が恵まれることばかりを願い求め、神の主権のために、いかなる犠牲をも払おうとしないのかと。彼らにとって福音はただ自分が霊的な高みに昇る手段であるか、もしくは自己の安寧を打ち立てる手段でしかなく、この人々にとっては、神のために自分があるのでなく、自分のために神があるだけなのだと。

その時、私はこの痛烈な批判に加えて言いました、私は吹雪の中にいて戦っているのに、あなたは幸せな温室にこもって、戦いを避けているのではないかと。でも、いつかはその温室のガラスも割れて、あなたも本当の生活の中に投げ出される時が来るに違いないと、けれども、果たして、その時、ずっと温室の中にいた人には、そのショックに耐えられるだろうかと。

これはとても意地悪で高飛車な台詞と聞こえておかしくなかったでしょう(実際そうだったのです)。けれども、これは今の一般的な社会状況をも含んでいます。私よりも上の世代の人々には、私たちの世代が今社会で遭遇している数々の試練については考えが及びもつかないのです。ですから、苦しんでいる若者を見ても、助けようという気持ちも起こらなければ、ともに戦い、ともに耐え忍ぼうという気持ちも起こらないのです。私たちの苦しみは全く他人事であり、それをともに担う何の責任も自分たちにはないと思っているのです。しかし、私たちの世代にとって、今の時代は、あなた方には想像もつかないほど本当に過酷なのです。

けれども、この言葉はただ社会状況のことだけを指しているのではなく、私のもどかしさをも表していました。私にはもどかしかったのです、あなたが私とともに、泥まみれになって戦ってくれなかったことが。いや、世界の誰一人として、私の苦痛をも、悲しみをも、ともに耐えてくれる人がいなかったことが…。

あなたは自分は平凡な人間であり、何の特別な強さも持っていないと言うかも知れません。けれども、私の目から見て、あなたはとても強かったのです。さまざまな恵みと豊かさに溢れ、まさに脅威に思われるほどに、強かったのです…。そしてその強さが失われることなどありえないように見えたのです…。

そうして、私は失望して去って行きました。恵まれた人々がその特権を捨てるのは何と難しいのだろうかと思いながら。彼らには試練を通過することの意味は最後まで分かるまいと思いながら…。そんなにも代価を払うことを嫌っていて、一体どんな真理が体得できるのだろうといぶかしみながら…。

「…わたしは今彼らの歌となり、彼らの笑い草となった。」(ヨブ30:9)

しかし、どういうわけだか分かりませんが、とても驚いたことに、その後、間もなく、あなたのガラスの温室は本当に音を立てて派手に砕け散ってしまったのです。

どうしてそんなことになったのか、分かりませんが、きっと、それがあなたへの主の愛の深さであり、憐れみであったのでしょう(主に愛され、訓練される人でなければ、試練が与えられることもないのです)。あり得ないことが起こったと思いながら、私はただ一部始終を遠くから冷ややかに、傍観者的に眺めていました。

確かに、死の陰の谷がそこにありました。私よりもずっと強く、高いところに立っていたあなたが、突如、私も、いや、どんな人々でさえ及ばないほどの深い穴の中に投げこまれてしまったのです。

もしも信仰がなければ、ただ死が待っていたであろうところを、信仰がその人を救いました。

「人の歩みは主によって定められる。
 主はその行く道を喜ばれる。
 たといその人が倒れても、
 全く打ち伏せられることはない。
 主がその手を助けささえられるからである。」(詩篇37:23-24)

助ける人はいなかったのかも知れませんが、主がその手を支えられたのです。

世間的に見れば、これですべてが終わったと言っておかしくなかったでしょう。私たちの立場は全く逆転したのでした。

これほどまでの格差が生じた以上、そしてこんなにも重大な瞬間に、私があなたのそばに不在であった以上、私たちのかかわりは終わったに違いないと思いました。そして、今度は、私の傍観者的な冷ややかな眼差しが、責められるに違いないと…。

ところが、結末はどうなったでしょう、ガラスの温室を後にしたあなたは、雪の中、転びつ、まろびつ、やって来て、満面の笑みをたたえて、温室が砕け散ってくれて本当に良かった、と私に言ったのです。私の言った言葉は厳しかったけれども、その点では、確かに正しい主張が含まれていたのだと…。

その時、私は驚きのあまり耳を疑いました。いや、今でも、私はまだその言葉を真に受け入れるには至っていません(私はまだ自分を赦していないのです)。けれども、私に分かることがひとつあります。この途方もない苦しみの中からあなたが私に示してくれた真実、誠実さ、愛、信頼を踏みにじってはならないということです。

「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう。」(箴言10:12)
「愛を追い求める人は人のあやまちをゆるす、人のことを言いふらす者は友を離れさせる。」(箴言17:9)

その時、私の冷ややかさは恥となりました。霊的戦いに勝利し、神の主権を打ち立てようとの自負さえ、愚かさとなりました。ああ、勝敗などどうでも良いのです。そして、私に必要なのは同情ではありません。

あなたは同情をはるかに超えたものを私に提供してくれました。それは、あなた自身が私の目の前で裂かれ、徹底的に無力とされたことであり、にも関わらず、なお、神に対してはむろんのこと、私に対してさえも、望みを持ち続けたことなのです。あの強かったあなたが、私よりも、もっと無力とされたのに、その無力の中から、無言の愛を示してくれたこと、神への愛と信頼を持ち続け、その中に、私への愛も保ち続けてくれていたことなのです。

敵意と隔ての中垣となっていた温室は打ち壊されました。

友よ、あなたは私を通りすぎて行きました。私がいた地点よりも、さらに低いところへ向かって歩いて行きました。私はまだあなたに追いつけないのです。けれども、思い出します、ある人が書いていたように、エクレシアの敷居をまたぐ前に、私たちは戸口で死んでいなければならないのです。私たちは十字架の死の向こうでしか、出会うことのできない民なのです。あれやこれやのこの世の荷物や宝物を両手いっぱいに抱えたままで、決して私たちは出会うことができないのです。

友よ、あなたは主の憐れみに触れて砕かれ、降りて行きました。沈黙のうちに、ただ降りて行きました。その姿を見るとき、私は、平手打ちされるように目を覚まさせられるのです、そして、見せられた光に忠実でなければならないと思うのです。

あまりにも、あまりにも、今日、福音が曲げられているのです! 福音は私たちが栄光を受ける手段ではないのに! けれども、弱さの中に置かれながら、それでもまだ真に弱さに甘んじられていなかった私のために、主は憐みをもって、あなたという友を先に遣わして下さったのかも知れません…。

我が最愛の友なる主イエスよ、もう少しだけ待って下さい、あと少しだけ時間を下されば、私は必ず、「みこころが成るようにしてください」(ルカ22:42)と言います、握っているものをあなたにお渡しいたします…。

「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜った。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。」(ピリピ2:6-11)

「愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント14:1)
「信心に兄弟愛を、兄弟愛に愛を加えなさい。」(Ⅱペテロ1:7)
「これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」(コロサイ3:14)


 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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