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「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:2) 

「愛はどんなものでも良いものだ」と考え、「どんな人でも、可能な限り、愛するのがキリスト者の使命だ」と思いこんでいるクリスチャンが多く存在します。しかし、このような考えは、以下で説明するように、大きな誤りなのです。

これまでにも述べて来たことですが、愛情には異なる種類のものがあります。一つはアダムの天然の命(魂)から出て来る愛であり、それは生まれながらの人間の自己を喜ばせようとする動機、自己保存の動機に基づいており、決して神の御心を満足させることができません。もう一つは、キリストのまことの命から出て来る、聖く、汚れない愛情であり、自己が十字架で死に渡された上で、御霊によって生まれるこの愛だけが、神の御心を真に満足させることができます。

結論から言うならば、私たちの天然の魂から出て来る愛情は、アダムの命に属する古き人から出て来るものであって、どこかの時点で、ことごとく十字架の死の刻印を経なければなりません。十字架を経ていない愛情は、人の目にどんなに麗しいものに見えても、決して、神の御前に喜ばれることはありませんし、永遠に至る実を結ぶことができないのです。

私たちの愛はことごとく、神の試みを経て、十字架の死のテストに合格しなければなりません。私たちが真に神の愛で人を愛せるようになるのはそれから後のことです。しかし、これは人にとって、とてもつらいことだと言わざるを得ません。

アブラハムはモリヤの山で、最も大切な一人息子イサクに対して刀を振り上げることを神に求められました。世間は問うでしょう、一体、これは正気でしょうか? 彼は息子への愛を失ったのでしょうか? こんな風に人間にとって脅威になる行動をさせるのが、神の愛なのでしょうか? 彼の行動は、愛に基づいたものだと呼べるのでしょうか?

いいえ――私たちキリスト者は知っています――アブラハムの天然の魂から出て来る愛は、一旦、十字架ではりつけにされ、死の刻印を経なければなりませんでした(そこで屠られたのは、イサクであると同時に、アブラハムの天然の魂の愛情でした)。十字架を経て初めて、彼の愛は、御霊によって、神の御前に良しとされ、そして彼の天然の愛の死が、多くの国民という、永遠に至る実を結ばせるための、葬られた一粒の麦となったのです。

私たちクリスチャンの愛情も、一旦、十字架で屠られねばなりません。そうでなければ、神の愛に合致する愛となりません。どれくらいの人々がこのことを知っているでしょうか? このような試みを経るまで、私たちは自分には思うがままに人を愛する権利があると思っており、それを手放すことを願いません。そして、私たちはしばしば思うがままに天然の魂の愛でクリスチャンを愛し、失敗するのです。神が願っておられることは、私たちが旧創造から出て来る愛で、旧創造を愛し、旧創造を保とうとすることではないのだと知り、自分自身の生来の魂から出て来る愛情がことごとく十字架ではりつけにされねばならないと分かるまで、どれほどの失敗を経なければならないことでしょうか。

試みを経るまで、私たちは自分が愛だと思っているものに、すっかりうぬぼれています。自分は何と人を愛しうる、心の広い人間なのだろうかと思い、自分の感情に酔いしれ、自分を愛してくれる人々にすっかり満悦し、あまつさえ、そのような愛を、他人にまで強制しようとする有様です。しかし、試みを経た後では、もうそのような押しつけがましい愛情を二度と誰にもひけらかしたいとは願わないでしょう。私たちの魂は十字架につけられ、以前の自分の思いと行動を振り返って恥じ入ります。そして、私たちはもはや以前のように勝手気ままに人を愛することを願いません。私たちは魂の衝動を恐れ、警戒し、自分の天然の魂が十字架につけられることを自ら願います。

私たちの愛は、自分自身から解かれなければなりません。私たちの愛は、自分自身の手を離れて、主の愛とされなければなりません。ですから、真に主に従う意志があるならば、私たちは人生のどこかで、アブラハムと同じように、モリヤの山を通過せねばならないのです。自分が最も愛しているもの、「良き感情だ」と思っているものを根こそぎ捧げるよう求められ、自分の天然の魂の愛情に御言葉の徹底的なメスが入れられるのを忍び、以前には最も大切にしていたものが、価値のない、役に立たない、死んだ行ないとして剥ぎ取られ、取り除かれることに同意しなければなりません。

これは人にとって葬りの期間にも等しいものです。自分の愛していたものすべてに対して死んで、自分の心のすべてがただ神のみに捧げられ、自分の愛が聖別されるまで、ずっと耐え忍ばなければなりません。それからでなければ、誰をも愛することができないのだとようやく分かるのです。それは、初めはつらいことに思われるでしょう。キリスト者になったということは、自分のすべてが神に捧げられたということを意味していますから、もはや、自分の愛したい対象を思うがままに愛する権利はないのですが、そのことを知らないうちは、思うがままに心惹かれる対象を愛そうとして、失敗を繰り返すのです。そして、実はそんなことは少しも御心ではなく、それが神が私たちに望んでおられる愛ではなかったのだということにようやく気づくのです。

その山を通過するまでの間、愛情を手放すことは、私たちにとって苦しいことです。私たちの宝のあるところに心もあるからです。私たちの天然の魂は、自由に愛する権利を手放したくないと、自分の宝にしがみつき、御旨に従いたくない、と駄々をこねるでしょう。しかし、それでも、神は私たちをあきらめられません。私たちが試みられて、長い交渉の末に、自分の天然の愛を手放し、従順を学んだその後でようやく、神は私たちに御心にかなう、御霊による愛とは何であるか、徐々に教えて下さいます。

このような時が来るまで、私たちはどんなに口先で「愛」、「愛」と唱えていたとしても、実際には、その主張はやかましいドラや、うるさいシンバルと同じで、神が私たちに望んでおられる愛からはかけ離れた、腐敗した何かでしかありません。神の愛とは何であるのか知るために、ここでも避けることができないのが、十字架なのです。

以下は、ウォッチマン・ニー著、キリスト者の標準、pp.286-289より

「魂は種々の愛情の座です。私たちの決心と行為のいかに大きな部分が、これらの愛情に左右されていることでしょう。もちろん、それらの愛情自体には、徹底して罪深いというものはありません。ただ、私たちのうちには、生来の愛情を通してほかの人の所に出て行き、その結果、私たちの行為の全コースに悪い影響を与えてしまうようなものがあることを言っているのです。

従って、私たちに提示されている四つの聖句の第一において、主はわたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七、三八)と言われねばならなかったのです。十字架の道において主に従うことこそ、私たちに対する正常な、そして唯一の主の道として定められていることに、注意したいものです。

この御言葉のすぐ後につづくものは、自分の命(魂―英訳)を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命(魂―英訳)を失っている者は、それを得るであろう。」(マタイ一〇・三九)という御言葉です。私たちの主は、ピリポ・カイザリヤにおいて、御自身がやがてユダヤの長老たちの手によって死に渡されることを、弟子たちに告げられたばかりでした。

その時、ペテロが、主に対する心からの愛をもって、主をいさめました。「主よ、そのようなことをなさってはいけません。御自愛なさって下さい。そのようなことは決しておこりはいたしません。」ペテロは主を愛するからこそ、主に御自分の命を救うようにと訴えたのです。しかし、主はあたかもサタンをとがめるかのように、ペテロが神のことを思わずに人のことを思うといって、ペテロをいましめられたのです。そして、そこにいるすべての者に、次の言葉を重ねて語られたのです。

だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者はそれを救うであろう」(マルコ八・三四、三五)

ここでも問題のすべては魂です。この場合は、特に魂の自己保存に対する欲求について述べてあります。そこには「もし生きることが許されるならば、私はなんでもする。どんなことでも喜んでする。とにかく私は生きなければならない」という魂の巧妙な働きがあります。そこにおいて、魂は助けを求めて叫ばんばかりです。「十字架のもとに行って、十字架につけられる――ああ、それはあまりにも大きな犠牲だ。自分自身をあわれめ。おまえは、自分の意志に反してまで神と共に行こうというのか。

神と共に進むためには、多くの場合、自分自身の声にしろ他人の声にしろ、魂の叫びに逆らって進み、自己保存の訴えを沈黙させるために十字架を介入せねばならないということを、ある人々はよく知っています

私は神のみこころを恐れているでしょうか。私の人生の途上において、非常に大きな影響をもたらした愛する聖徒のことを、私はすでに述べました。その人は、私に何度も「あなたは神のみこころが好きですか」とたずねました。これは恐ろしい質問です。彼女は、「あなたは神のみこころを行なっていますか」とはたずねず、常に「神のみこころが好きですか」とたずねたのです。

この質問は、他の何ものよりも深く切りつけます。私は彼女が一度、ある事がらで主と争っていたことを覚えています。彼女は、主が何を望まれているのか知っていました。そして彼女もまた、心の中ではそれを望んでいたのです。しかしそれは困難なことでした。私は彼女がこのように祈ったのを聞きました。「主よ、私はそれが好きではないことを告白します。けれどもどうか、私の願いに譲歩しないで下さい。主よ、少し待って下さい。そうすれば、あなたのみこころに必ず譲歩いたしますから。」

この聖徒は、主が彼女の前に譲歩して、彼女への要求を弱められることを欲しなかったのです。ただ主をお喜ばせするということが、彼女にとって唯一の願いであったのです。

多くの場合、私たちは神の御旨がなされるために、私たちが善であり貴重であると思うものを――たとえそれが神御自身に関するものであっても――進んで放棄するところまで来なければなりません。ペテロの関心は主に対するものであり、主に対する生来の愛によって表わされました。あえて主をいましめるとは、ペテロは主に対する驚くほどの愛を持っていたに違いないと私たちは思います。強い愛のみが、このような思いきったことをなすことができると、私たちは考えます。なるほどそうでしょう。

しかし、もし魂という不純物が混じっていない純粋な霊のみが存在するならば、あなたはペテロの間違いを犯すことはあり得ませんそして神のみこころを認め、みこころのみがあなたの心中に深い喜びをもたらすということを発見するでしょうまたあなたは、もはや肉に同情して涙を流すことさえないのです。まさしく主の十字架は深く切り込みます。そして私たちは、ここにおいても、十字架が魂を徹底的に処理しなければならないことを知るのです。

 
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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