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以前の記事より(ただし、一部加筆修正、聖句は新改訳より引用)

第一テサロニケの手紙にはこうあります、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださるように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。」(5:23)

このように、聖書ははっきりと、人は霊、魂、肉体の三部分から成っていることを告げています。

さらに、御言葉は言います、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:12-13)


神の言葉は人の魂と霊を切り分けることができると聖書は告げています。これは人の天然の魂から出て来るものと、御霊から来るものは、決して混同されてはならない異質なものであり、それらを神ははっきりと識別されるということを示しています。にも関わらず、今日、クリスチャンの間には、霊と魂とは切り分けできないものだと思い込ませ、この問題を曖昧なままやり過ごさせようとする惑わしの力が強く働いています。

なぜ私達の霊と魂は切り離されなければならないのでしょうか。なぜその問題がクリスチャンにとってそれほど重要なのでしょうか。

それは、私達の生まれながらの魂は、アダムの命(プシュケー、古き命、魂の命、動物的な命)の支配下にあり、肉の支配を受けて、罪に支配されているため、その状態が、私達クリスチャンが御霊に従って生きる妨げとなっているからです。生まれながらの人は、肉体だけでなく、魂もまた、罪の下に売られているのです。たとえ救われて信者となっても、私達の魂は依然として、日々、十字架に立ち帰り、御霊によって新しくされる必要があります。それだけでなく、私達の霊は魂から切り離され、魂は霊によって治められるようになる必要があるのです。

キリストにあって、私達が受けたものは、永遠の命(ゾーエー)であり、私達が生まれながらにして持っていたアダムの命、魂の命、動物的命(プシュケー)とは異なります。しかし、主イエスを救い主として信じて受け入れ、永遠の命を得た後でも、もしもキリストの十字架の御業をより深く実際として経験することがないならば、私達の魂は、罪に汚染されたアダムの動物的な命、肉の強い影響下に置かれたままなのであり、つまり、私達の魂はサタンの作業場となってしまいかねない危険性を持っているのです。

今日、クリスチャンの間では、人の生まれながらの肉体が堕落しており、罪と死の法則に支配されていることは一般的に知られていますが、私達の生まれながらの魂も、もしも十字架、聖霊、御言葉によって取り扱いを受けないならば、古き人の一部として御霊の導きに逆らい、邪悪な勢力の働く要塞となりかねないことは、ほとんどかえりみられていません。

人の肉とは、ただ肉体のみを指すだけでなく、アダムの動物的な古い命によって支配される人間の機能の総称とも言えます。私達の魂の機能も、御霊の導きの下にないならば、堕落した肉の支配下にあるのです。

たとえば、人の魂は、御霊の喜びや平安で満たされることができるだけでなく、御霊の支配下にない時には、さまざまな地的な思い、邪悪な想像や、悪意や、疑いや、激しい怒りや、憎しみや、恐れや、絶望、嘲笑、蔑み、敵意、驕り、妬みなど…に占領され得ます。人の魂は悪しき思いに支配され得るだけでなく、喜びや安らぎを覚えているときでさえ、自分自身によって満たされており、飽くことなく自己の満足だけをさらに追い求めます。また、肉体を通してやって来るさまざまな感覚にも左右されます。

人の生まれながらの魂は、非常に欺かれやすいものであり、自己を中心として生きることしかできないだけでなく、まるで錨のない船のように、絶えず肉体や環境の条件の影響を受けています。そのため、たとえ私達のうちに御霊が住んで下さっていたとしても、私達が自分の生まれながらの魂を主人として生きているうちは、純粋に御霊の導きに従うことは、とても難しいのです。魂から出てくるさまざまな思いや計画や感情が、御霊の導きを邪魔するか、それに逆らい、私達が霊のうちに感じる御霊の声を、すっかりかき消してしまいかねません。

さらに、魂は自己の座です。私達の魂は、生まれながらの特徴として、自己を喜ばせることを願い、神に従うことを願いません。自己はいくらでも自分を実際以上に良く見えるように、演技したり、フリをすることが出来ますが、そのような演技は神の御前に腐敗しています。人は悪意を善意のように見せかけたり、憎しみを愛のように見せかけたり、自分を有利にするために駆け引きをし、ずるく嘘をついて立ち回ることができます。自分が得をするために、神を利用することさえします。さらに言うならば、人は自分の心が何を願っているのか、自分でも把握できずに、自分の心に欺かれて生きていることがしょっちゅうあります。それほどまでに人の心の欺きは深いのです。

聖書はこのような人の心について言います、

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれの生き方により、行いの結ぶ実によって報いる。」(エレミヤ17:9-10)

私達クリスチャンは、人の心が邪悪である事実を知っていますし、自分の心の中に、神に従うことの妨げとなるものが満ちている現実に直面しています。生まれながらの人の肉体が、人を罪に引きずっていく力を持っているように、人の生まれながらの魂(もしくは自己)もまた、クリスチャンに御霊の導きを見失わせたり、憎むべき罪の方へと引きずって行く力を持つのです。蛇はエバの魂に働きかけることによって、彼女を誘惑しました。魂の堕落は人を罪の支配下にとどめる強力な力を持っているのです。

パウロはうめきを持って言いました、私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。<…>ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、わたしの肉のうちに善が住んでいないのを知っています。」(ローマ7:15-18)

私達も自分の魂の腐敗に直面する時、同じようにうめきます。霊と魂とを御言葉によって切り分けていただき、霊と魂に属する事柄を識別できるようになることが、クリスチャン生活には死活問題であると言って差し支えありません。御霊の導きに従ったと思って成し遂げたことが、実際には自分の天然の魂から来た事柄であったと判明することがあります。大抵は、幾度も、失敗を重ねた後で、私たちはようやく自分の偽りに満ちた心を主人とし、自分の魂に導かれて生きるのでは、決して、神を満足させることはできない事実を知ります。

「…あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:22-23)

このように、御言葉は、私達のアダムの命に支配されて生きる古き人が、日々、十字架によって死に渡され、私達の魂も、キリストの十字架の御業により、深みまで、御霊によって新たにされて、真に神にかたどって作られたキリストを着せられて生きる必要があること、それが可能であるばかりか、主の御旨であることを示しています。このことは、私達の魂が消失することを意味せず、私達の魂が御霊に明け渡されて、御霊に服し、自己に対してでなく、神に対して生きるようになることを意味します。

逆に言うならば、もしもクリスチャンが自分の魂のうちに潜む罪を認めず、自分の生まれながらの腐敗した魂を何のためらいもなく主人として良いと考え、自分の肉体と魂が、絶えずキリストの十字架の死に渡され、御霊に服するものとなる必要を認めず、キリストと共なる十字架の死のうちにとどまる必要を否定して、そこから離れてしまうならば、そのことが、その人が己の魂を神とし、自己(セルフ)に導かれて生きる者となってしまう危険に道を開くのです。

(現代のクリスチャンの間に働いている非常に大きな偽りと惑わしの力は、まず、生まれながらの人の内にある罪を認めようとしないことです。人のもろもろの罪を認めないのですから、真の悔い改めも存在しません。悔い改めがなければ、子羊の血による赦しもありません。にも関わらず、十字架における愛と赦しだけを強調することによって、かえって人を罪のうちにとどまらせてしまう偽りの教えが教えられています。

さらに、アダムの命にある罪(単数形)も認めないという惑わしの力が働いています。これによって、旧創造がすべて滅びにしか値せず、十字架の死に服すべきであるという事実が見失われています。また、私たちの旧創造に対する十字架の深い取り扱いが存在すること、人が新創造へ至るための十字架の意義が覆い隠されています。さらに、霊と魂との切り分けを否定するという惑わしの力が働いています。そのため、御霊によってしか成し遂げられない事柄を、堕落した魂の領域に模造品として造り出そうとする大きな力が働いています。今日、あたかも御霊の働きであるかのように見せかけて、人の魂を喜ばせようとするさまざまな目に見える装置が魂の領域に作り出されているのはそのためです。

こういったことのすべてが「愛」という見せかけのもとに行なわれています。しかし、これからも見ていくように、愛にも異なる出所があり、旧創造から出て来る愛、人の天然の魂を由来とする愛は、神の御前に腐敗しており、永遠の実を結ばせる何の役にも立たないということを私たちは知らなければなりません。今日、霊の働きと魂の働きを識別することは、私たちにとって必要不可欠な焦眉の課題です。)

私達は血潮や十字架の死を拒んで、自分の魂がサタンの作業場となることに同意して生きるのでしょうか? それとも、私達の魂に対して、主が十字架を日々実際として下さることを願い、私たちの天然の魂に属する事柄が、御言葉の剣によって、御霊に属する事柄から鋭く切り分けられることを願い、信じるでしょうか? 終わりの時代には、特に、霊か魂か、キリストかセルフかの選択は、クリスチャンにとってとても厳しいふるいわけとなるように感じています。

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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