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「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)

私がこれまでに再三に渡り、目撃して来た忘れられない光景があります。それは人が滅びに至る道に足を踏み入れていく前には、必ずと言って良いほど、それに先立って、偽りの信仰告白を行なう、ということです。まず、偽りの信仰告白がすべてに先立ち、その人々が真の望みではありえないものに望みを置いていることが明らかにされた上で、実際の行動における背信が続くのです。

「愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分のたましいのわなとなる。」(箴言18:7)

ある人は「これからは、生まれながらの自己を罪深いものとして厭うのをやめよう。自己が十字架の死にしか値しないなど信じまい。もっとありのままの私を愛そう」と宣言して後、自己を神とする偽りの教えに深く落ち込んで行きました。どうか注意して下さい、私たちが同じようにして、自分自身で行なった告白によって罠にかかることのないように。自分自身も含め、決して目に見えるものに対して望みをかけ、間違った信仰告白を行なうことがないように。

私たちは自分が何によって生き、何によって生かされているのか問われるとき、答えに注意する必要があります。なぜなら、答え方次第によっては、真理ではないものに信仰告白してしまい、それをきっかけに、まことの命なる方を見失ってしまう危険性があるからです。

さあ、私たちは何によって生かされているのでしょうか?

もしも私たちが「金銭がなければ人は生きていけない」と告白するならば、それは金銭がすでに私たちの内側で王様になり、信仰になってしまっていることを意味するでしょう。

ペテロは言いました、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3:6)

この時、ペテロとヨハネには金銀は全くなかったに違いありません。ですから、もしも二人が金銀に頼って生きていたならば、彼らはすでに死んでいたことでしょう。そして、彼らの目の前にいる哀れな人も、金銀がないために、生きる望みが絶えかかっていたのです。

しかし、ペテロは目の前の人に向かって恥じることなく、金銀は私にはない、と言うことができました。それは金銀にまさる、この世の全てにまさる名によって自分が生かされていることを知っていたからです。それが主イエス・キリストの御名であり、キリストこそ、彼らを生かすまことの命でした。彼らの内に住まわれる御霊によって、彼らはそのまことの命なる方を、他の人々にも告げ知らせることができ、信仰によって、その命は他の人々に実際に力強く分け与えられたのです。その御名は金銀が決して与えることのできないものを、人に与えたのです。その人を自由にしたのです。

もしも私たちが「衣食住がなければ人は生きていけない」と言うならば、それは私たちの内で、衣食住が王様になり、衣食住が信仰になっていることを意味しましょう。

主は荒野での40日間の断食の間に、空腹を覚えられ、サタンによって試みられました。その時、主は答えられました、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ4:4)と。主は目に見えるパンが目の前から絶えてなくなったときにも、目に見えるパンが直接、ご自分を生かしているのではなく、パンを供給しておられる方が天におられ、その方のまことのパンがご自分を生かしているのだという事実を知っておられました。

もしも主がこの時、「人はパンがなければ生きていけない」と告白していたなら、信仰を持たない人と同じように、荒野で餓死するほかなかったに違いありません。

かつてイスラエルの民が40年間、荒野をさまよったことは、主の40日間の断食の予表でした。しかし、イスラエルの民は荒野においてひっきりなしに神を試み、自分たちを生かしているものが、目に見える地上のパンではなく、その供給者であるまことの神であるという事実をついに認めるに至りませんでした。そこで、どれほどの人数が荒野で倒れて行ったことでしょう? 彼らが倒れたのは、彼らがむなしい地上の物質に望みを置いて、真実な神の真実な約束に望みを置かなかったためであることを見ます。キリストが来られ、罪深い人の達成できなかった従順を成し遂げられました。

ですから、私たちも、自分が信じたものに命を預けることになるのです。もしも目に見えるものに私たちが望みを置くならば、その目に見えるものが私たちの命を支配することになり、その目に見えるものが目の前から絶えてなくなったときが、私たちの終わりとなるでしょう。それが自分自身であっても、クリスチャンの交わりであっても、信頼する誰かであっても、です。自分の誠実さ、人からの評価、善良で人好きのする性格、あの人この人に比べて勝っているあらゆる長所、知識、教養、美徳、技術、経歴、家庭、私たちを慕って来てくれる人たちとの楽しい交流、私たちの全ての名誉と信頼、私たちの義、それら全てが、真により頼むべきものではないのです。

「私たちの義はみな、不潔な着物のようです。」(イザヤ64:6)

ですから、私たちは今一度、自分が何によって生かされているのかを確認する必要があります。

「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4) 「見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。」(口語訳)

「信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさいそうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:30-33)


最近、あるクリスチャンが「人は一人では生きていけない」(=兄弟姉妹との交わりを離れるとクリスチャンは生きていけない)と告白するのを聞きました。ああ、その人は神がどのような状況にあってもその人を生かして下さると告白する代わりに、兄弟姉妹の交わりがなくては生きられないと告白してしまいました!

しかし、聖書は何と言っているでしょうか? 

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。『主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。』」(ヘブル13:5-6)

「主はこう仰せられる。
人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ
 そのような者は荒地のむろの木のように、しあわせが訪れても会うことはなく、
 荒野の溶岩地帯、住む者のない塩地に住む。

 主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように
 その人は、水のほとりに植わった木のように、
 流れのほとりに根を伸ばし、暑さが来ても暑さを知らず、
 葉は茂って、日照りの年にも心配なく、
 いつまでも実をみのらせる。」(エレミヤ17:5-8)


エレミヤ書の言葉には、人間の権勢により頼む者の行く末が書かれています。先ほど述べた通り、私たちが命を預けるものが、私たちの命を左右することになります。もしも、私たちが真の望みでないものに望みを置くならば、その偽りの望みが絶えたときが、私たちの終わりとなるのです。ですから、真の望みでないものはすべて、私たちを破滅に至らせる力を持っていると知るべきです。

ちょうどこの記事を書こうとしていたその時、あるクリスチャンが私に電話をかけて来て尋ねました、「あなたは今どこ(の教会)に所属しているの?」と。これは未だかつてない珍しいことでしたので、私は心の中でやれやれと思いながら、「所属ってどういうことでしょう?」とあえて問い尋ねました。そのクリスチャンの通っている集会は、「教会に所属する」という概念そのものを忌み嫌っていたはずの所だからです。

クリスチャンの国籍は天にあるのだから、エクレシアには地上の組織に人を拘束するようないかなる制度もあってはならず、キリストにあって自由とされた民である私たちは、堅く立って、二度と、組織や、人の奴隷となってはならない、というのがその集会の方針でした。だから、その集会には人を束縛しようとするどんな雰囲気もなければ、立ち去る人を罪定めする雰囲気もなく、どんな人でも、出入り自由だったのです。その自由のために、組織の奴隷となって疲れ果てた多くの人々に安らぎを提供していました。しかし、その問いかけを聞いたとき、目に見えるものの偽りがついに迫り来て、そのような時代はもう終わったのだと思わざるを得ませんでした。

そこで、私ははっきりと申し上げたのです、”私には地上の所属場所などありませんし、持ちたいとも願いません。離れたのは、変だと思い、危惧を感じたからです。きっと私がどこにも所属していないので、不憫に思われたのかも知れませんが、それならそれで構わないのです。実際、今、どれほど多くの兄弟姉妹と交わりを得ていたとしても、私はそれを高らかに誇ったりはしますまい。神の御前に「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない」(黙示3:17)と誇り、「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない」(黙示18:7)と言うくらいなら、人には捨てられたが、神には選ばれた生ける石であられるお方に似ることを願います。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:3)と言われる方に似ることを願います。

ですから、私の地上における立場は寄留者であって、何も持たないやもめ、みなし子です。寄る辺ない人と思われていた方が良いのです。けれども、天におられる御父が私の真の保護者なのですから、何を恐れることがありましょう、私は弱くとも、主は強いのです。そして、私の国籍は天にあります。神は天に蓄えられた無尽蔵の富の中から、いつでも私の願いを聞き入れて、私に必要な助け手を送ってくださり、また、必要な兄弟姉妹との交わりも、随時、お与えて下さるのです。ですから、決して私は一人になることがありません。

けれども、あなたちは、いつから所属という固定概念に縛られるようになったのでしょう? あんなにもそういう考え方を嫌っていたはずなのに、いつから所属場所を持たないクリスチャンを不憫だなどと思うようになったのでしょう? いつから主が内におられるにも関わらず、地上の集会に所属していなければ、信仰を失うなどと恐れるようになったのでしょうか? 主は弱さの中に完全に現われる方です、あなたのその恐れはどこから来たものなのですか?”

多くのクリスチャンは、決して、神の御前に一人きりで立とうとしません。彼らは神の御前に一人で立たされることをとても恐れています。安楽な礼拝や、様々なメッセージや、書物、催し物、勉強会、様々な活動、人々との楽しい交流、人から受ける栄光、等々を失った状態では、決して、神の御前に一人ぼっちで本当に裸になって立とうとしないのです。

そのような人々は誰かが、本当に主ご自身と向き合い、主ご自身だけを求め、主ご自身だけに頼るために、「自分だけで寂しい所に行」こう(マタイ14:13)とすると、一斉に、「あれは変わり者だ」、「教会を離れては信仰を失う」、「あれは色々な集会を遍歴しているだけの変わり者なのだ」、「何と人づき合いが悪いのだろう」、「どこにも定着せずに、所属場所を持たず、絶えず移動することが果たして主の御心なのだろうか」などとさかんに罪定めし、揶揄するのです。

ところが、世の人間中心主義的な考え方を脇において、しっかりと目を開いて聖書を見てみましょう。すると、聖書には、地上での私たちは旅人であり、寄留者であるとはっきり書かれてあるのです。ですから、それに反して、目に見える地上に自分の座を固定し、そこから動くことを頑なに拒み、自分の周りに城壁を堆く張り巡らして、寄留者としての立場をすっかり放棄してしまった人々の生き方の方が、むしろ聖書に反しており、神の御心に背いているとはっきり私たちは知ることができるのです。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょうしかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:15-16)


さて、これは今になっても忘れることのない、私の好きな言葉の一つです。

エクレシアの集まりは 
変幻自在、伸縮自在、臨機応変、そして神出鬼没
です。

ですから、一度たりとも そこに先回と全く同じもの
ある固定、安定、形式が感じられるとしたら、それは
復活のキリスト以外の何ものか であると見なすべきです


多分それは 
先ずは私が率先して、キリストと共に十字架上で 
死ななければならないことを示唆しているに
違いありません


変幻自在、伸縮自在、臨機応変、神出鬼没とは、決してこの世の時空間にとらわれることなく、また、この世に座をすえることがないということです。

それに引き換え、「クリスチャンは地上のどこそこ集会や交わりに所属しないと一人では生きられません!」といって地上のあの山、この山に人を拘束しようとする方法は完全に非聖書的です。人に恐怖を抱かせることによって、自分たちの団体から出られないように閉じ込めてしまおうとするその方法は、「先祖の祟り」を強調して、お布施を要求する霊感商法とそれほどの違いはないと言って良いのです。

聖書は言います、

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」(ローマ8:15)

地上の全ての組織、団体の枠組みを超えて、私たちは天におられる父なる神に向かって、「父よ」と呼べる、子として下さる御霊を受けました。この特権は、人の思惑や、私たちの地上的立場の如何に関わらず、永遠に変わらないものです。私たちはキリストの御名を通して、目に見える仲介者なしに、神と交わることのできるとてつもない特権を与えられ、そして、御霊ご自身が、私たちに真理を教え、神ご自身が、主の御名によって集まる二、三人を自由に選び出して下さるのです。ですから、真実なものが現われる前に、朽ちゆくものが衰えていくのは、かえって当然のことであり、朽ちゆくものにしがみついて、それを守ろうとすべきではないのです。

私は衰え、彼は栄えるのです! 目に見える、朽ちゆくものは、朽ちないまことの命であられる方の前に、立ちおおせません! 私たちを生かして下さる方は、この見える世界をはるかにこえた、まことの命であられるお方、死を打ち破られた方がともにいて下さるのですから、私たちは地上で旅人であり、寄留者であると告白することを恐れる理由は何もありません。たとえ試みの日に、死の陰の谷を一人で歩むことになるとしても、ダビデが言ったように、全てのクリスチャンはこう言えるのです、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4)と。

もしもダビデが死の陰の谷を歩むとき、「私は災いを恐れます、なぜなら、人は一人では生きられないからです」と告白していたなら、彼は死の陰の谷で死ぬほかなかったことでしょう。しかし、ダビデは「義人は信仰によって生きる」という事実を知っていましたので、人間により頼まず、神により頼んだのです。だからこそ、信仰によって、彼は大胆に一人ではないと言えたのです、「あなたが私とともにおられますから!」

わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。」(ヨハネ8:29)

このように、クリスチャンはどのようなときも決して一人になることはありません。世の終わりまで、わたしはあなた方とともにいると言われた方が一緒だからです。ですから、一人では生きられないなどという脅しに屈して、どうして今更、地上のあの山、この山に束縛されていく必要があるのでしょうか。

さて、私たちは今、自分が何により頼んで生きているのか、深く主に心を探られているように感じています。今年が始まったとき、私は「命の道と死の道」という記事の中で、今年は厳しいふるいわけの年(過越)の年になると書きましたが、それから今に至るまで、より一層、ふるいわけが進んでいるという印象を受けます。

恐らく、神ご自身が、それぞれのクリスチャンが心の中で最も大切にしているものは何なのか、探っておられるのではないかと思います。神ご自身が、それぞれの心の中にある隠れた事柄を明るみに出し、その人が何に望みを置いているのか、はっきりと告白させようとなさっておられるという感じを受けているのです。警告がほとんど意味をなさないような時代に入りました。まずは、私たちが何を本当に信じているのかを告白し、次に、それぞれが蒔いた言葉を刈り取らなければならないのです。

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:8)

「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。」(ルカ17:32-33)

ロトの妻は、「振り返る」という行為によって罠にかけられました。彼女はソドムを脱出したのですから、この背信の街に下された滅びはとりあえず免れたのです。ところが、その後で、自分の偽りの望みによって彼女は罠にかけられました。ただ地上のものを振り返るという――たった一つの行為が、彼女の取り消すことのできない偽りの信仰告白となってしまったのです。

「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。」(ヘブル11:14) ああ、彼女は「出て来た故郷」を振り返ってしまいました! そのたった一つの行為が、彼女の思いがどこにあるのかを全世界の前で明らかにし、彼女を永遠に罪定めしてしまったのです。

私たちは自分も同じように罠にかけられないように目を覚まして注意していなければなりません。一体、私たちとロトの妻との間にはどのくらいの相違があると言えるでしょうか? 私たちの望みは今、目に見える地上に置かれているのでしょうか? それとも、見えない天のふるさとを仰ぎ見ているのでしょうか? この世のあれやこれやの事物が私たちの心の中で王座につき、クリスチャンからの賞賛や寵愛を得、自分は決してやもめではないので、孤独になることもなければ、悲しみも知らないと、他人に向かって豪語できる座を占めることが、私たちの主要な関心になっているのでしょうか? それとも、たとえ約束のものを地上で受けなかったとしても、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白しながら、天のふるさとを目指してつつましく歩み、たとえ人からの賞賛や同意が得られなくとも、見えない神だけを心のすべてとして生きるのでしょうか? 

まだ時間が許されているうちに、次のように言う人は幸いです。「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(Ⅱコリント5:7)

「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。」(Ⅰコリント7:29-31)

「そして、ノアの時にあったように、人の子の時にも同様なことが起るであろう。ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぐなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。

ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄が降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。人の子が現われる日も、ちょうどそれと同様であろう。
」(ルカ17:26-30)

もしも私たちが、王をお迎えする僕や侍女であるならば、今、何に最も気を配るべきなのでしょうか? まことの王が地上に来られた時に、十分な敬意を持ってお迎えできるかどうか、王が私たちをご覧になって喜んで下さるかどうかに気を配るのが、僕の最も重要な務めではないでしょうか。まことのリアリティである方が現われる時が迫っています。そこで、まことのリアリティでないものに、深入りしないようにと忠告を受けているのです。娶ったり、嫁いだり、飲んだり、食べたり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりすることは、すべて自分に関する事柄であり、地上の移ろいゆく有様に過ぎません。それら真のリアリティではないものに心を奪われて、真に大切なこと――まことのリアリティであるお方をお迎えすること――をないがしろにすることのないよう、私たちは警告されているのです。

その日、私たちが心の中で最も大事にしていたものは何であったかが、主の御前で、全被造物の前で露にされます。私たちの目は本当に見えない神ご自身だけを見つめていたのでしょうか? それとも、地上的な幸せに心奪われていたのでしょうか。その日、私たちが世に対して、見えるものに対して、どれくらいはりつけにされて死に、復活のキリストによって生かされていたのかが、明らかにされます。私たちの思いが、言葉が、態度が、ロトの妻のような偽りの信仰告白となって表われることがないよう願うばかりなのです。

私たちのうちに望みを起こさせてくださり、かつ、それを実現に至らせてくださる神によって、全てのことがなされますように。見える地上のものによってではなく、信仰によって歩み、天にあるふるさとに望みを置いて、まことの神ご自身だけを頼みとする人々は幸いです。

「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:15-16)

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」(マタイ6:19-21)

「こういうわけで、もしあなたがたがキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:1-3)



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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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