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以前の記事より、アーサーT.ピアソン著、海老沢良雄訳、『信仰に生き抜いた人 ジョージ・ミュラー ―その生涯と事業―』、いのちのことば社、から

人が器に注目しないようになるのは、たいへんむずかしいことだ。そして、厳密に言って、行為者は唯一であることを忘れがちである。行為者は働く本人であり、器はその行為者が働く際に用いる道具にすぎない。」(pp.228-229)

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確信を実行に移すには、高価な犠牲を払わなければならないことは言うまでもない。またそれを実行に移す時には、捨てるべきものを捨て、離れるべきものから離れなければならないために、妙な損失感と孤独感に襲われるものである。しかし、わしのように、雲一つない大空にかけ上り、神の日光の下に住もうとする者は、どちらかと言えば孤独な生活に耐えなければならない

わしほど孤独な鳥はほかにいないわしは決して群れを成して飛ぼうとはしない一羽、多くて二羽――それははつがいであるが――で、それ以上がいっしょにいることはない。しかし、神のために生きる生活は、たといどれほど人間の道づれを失っても、常に神とふたりだけで交わることができる

また、その主がかつてされたように『いつも神のみこころにかなうことをしている』人は、主と同じようにこう言うことができる、(御父は)わたしをひとりで置きざりになさることはない『わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである』(ヨハネ八・二九、一六・三二)

神の与えられるどんな光にもすぐに従う人は、人間の意見や習慣、伝統、あるいは賞賛などがどうであれこの言葉の深い意義を学び知ることができるわたしたちがせつに主を知ろうとして従うなら、知ることができる』(ホセア六・三 英訳)。」(pp.247-248)

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祈りに対する神の真の答えには、しばしば否定されたかのように見えるものがある神は外面的な要求の下に秘められている内なる切願をお聞きになる。そして、人間の要求の不完全な誤りの多い表現の言葉に従って応答せず、御霊のみこころに従われる。更に、その無限の知恵によって、私たちの求める次善的なものを与えるよりも、保留するほうがより多くの祝福を与える結果となることを知っておられる。

それゆえ、真の祈りというものは、神が最善と見られる答えを与えて下さると信頼すべきである。しかもそれは、私たちの欲する時期に、私たちの欲する方法によってではなく、また、私たちの言い表した願いのとおりでさえなく、むしろ私たちのうちにいます御霊の、言葉に表わせない切なるうめきに基づいて応答されるのである。この御霊こそ、私たちの真の願いを私たち自身よりも正しく判断することのおできになるかたである。」(p.231)

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【信じる】
神は、目に見えないし、耳に聞こえないし、肌に感じられない存在ですよね。おおよそ、人が人を知るような方法では、認識できないわけで。ご自身を隠されているわけですから、我々が、頑張っても、あがいても、泣き叫んでも、無理なんです。唯一、神に至る道は、イエスによる信仰だと思います。私の信仰の力というよりは、「キリストの中で」神を信じるということなんだな、と、最近、思い知りました。
【Re:信じる】
神は御霊を通して私たちの霊の内に直接、ご自身を現されます。

私たちは人間を知るに当たっては、肉体の感覚を通してその相手をとらえる必要があります。しかし、五感によって人を知るということにはだいぶ大きな限界と距離があり、もしも相手が私たちの感覚によって知覚できない場所へ行ってしまえば、あたかもその人は私たちにとってもう存在していないかのようです。

しかも、五感によって対象を知るということの中には、非常に堕落したアダム的な要素が含まれており、五感は常に貪欲に自分の感覚的満たしだけを追い求めます。最も愛する人と接触している時であっても、究極的には自分の欲(目の欲、肉の欲、持ち物の誇り)を満たそうとしているのです。その自己中心の分だけ、感覚を通しては、相手を本当の意味で知ることはできず、また、そのような知り方では、私たち自身も決して本当の満足に至ることはないのだと言えましょう。

神はそのように五感においてではなく、霊において、ご自身を私たちに現されます。それは信仰がなくてはできませんし、御霊によります。「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」(Ⅰコリ2:10) 神の聖なる御霊以外に、神がどのような方であるかを知っており、それを伝えられる方はありません。その御霊が私たちの霊の内に直接、主を啓示して下さるのです。それが真の啓示です。

ニーの著書にもありますが、霊においても、魂と似たような知覚が備わっているということです。それは肉体的感覚のように不完全なものではありません。むしろ、霊的な秩序は、この世の全ての秩序にまさるリアリティです。神の子供たちは再生されたときから、神に対して霊が生かされていますが、その霊に備わっている知覚によって私たちは”I AM”と言われる主を知り、また、この世のリアリティにまさるまことのリアリティである神の国をとらえます。しかし、それはこの世の物理法則によって支配されていないため、外的現象によっては説明できないのです。それでも、主がご自分を私たちに啓示されるとき、それが御言葉の成就であることを私たちは確かに知ります。なぜなら、主は御言葉なるお方だから、御言葉を伴って来られるからです。私たちは主が我が内におられるということを確信を持って知ります。

「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。」(ヨハネ14:20)

これが主を知るということの意味です。「わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。」(ホセア6:3)「わたしは真実をもって、あなたとちぎりを結ぶ。そしてあなたは主を知るであろう。」(ホセア2:20)御霊の油塗りも、このように内側から、私たちに御言葉を啓示します。

ところが、ほとんどのクリスチャンは一度たりとも主を知るとは何であるかを経験したことがありませんし、その意味も知らないのです。それは、肉体的・知的・感情的な満たしや高揚感を、神との交わりと取り違えて、ずっと感覚的満たしを追い求めているからでもあります。いいえ、”I AM”と言われる方は霊ですから、ご自分の存在を私たちの肉体的感覚によって証明されることはありません。(主と出会うことに喜びが伴わないはずがありませんが、その喜びは後からついて来るものであって、私たちの感情的な満たしがすなわち交わりなのではないのです。)

霊において主が私たちにご自分を啓示されること、それが神が私たちに答えて下さる愛の形であり、それが神が人にご自分を知らされる方法であり、神が人にお与え下さる交わりです。ですから、キリスト者は霊において主と交わることを追い求めるべきなのです。

神がご自身を私たちに知らされるのは、ただ神の側から約束に基づいて行なわれる奇跡以外の何物でもなく、私たちの努力によって到達できるものではありません。それでも、「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブ4:8)とある通り、私たちは主を知ることを切に追い求めるべきです。あきらめず扉を叩き続けるべきです。それが神が願っておられることだからです。

そして、多くの場合、なぜ私たちが主を知ることができないのか、その理由も、聖書に明確に書かれています。前述のヤコブの手紙はこう続きます、「罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。」「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。」(ヤコブ4:3)「不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。」(ヤコブ4:4) つまり、聖なる御霊は汚れた肉の上に注がれることはできない、私たちの罪が、世へ誘われていく二心が、生まれながらの自己が、肉欲が、主を知る妨げとなっているのです。

「彼らのおこないは彼らを神に帰らせない。それは淫行の霊が彼らのうちにあって、主を知ることができないからだ。 ホセア5:4」
「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。」(ヘブル12:14)

ですから、主を知りたいならば、知りうる限りの悪事、罪を離れようと決意し、きよさを追い求め、主以外の一切のものに心を向けない必要があるのは言うまでもありません。あれやこれやの地上の事柄に心を奪われ、地上の栄誉に心惹かれ、感情的・肉体的な満たしのために忙殺されていて、どうして霊の事柄に耳を澄ますことができましょう?(「わたしの目をほかにむけて、むなしいものを見させず、あなたの道をもって、わたしを生かしてください。」詩篇119:37)

しかし、何よりも、私たちの肉(旧創造)が本当に十字架の死に至らしめられることこそ、主が私たちの内にご自分を啓示されるための大前提なのです。私たちが自分の満足や、快楽や、名誉欲のために主を追い求めている限り、絶対に主はご自分を私たちに啓示されないでしょう。地上の事柄と天的な事柄が混じり合うことは決してありません。私たちの生まれながらの自己の完全な霊的死が土台となって、初めて、主が私たちと出会うための最低限度の前提が築かれるのです。

神の御前に自己の義によって立とうとしないこと、生まれながらの自己が厭うべきものであり、生まれながらの自己がただ十字架の死に服すべき存在であるという事実を認めること、十字架の下に真に砕けた心を持ってへりくだること、自分に神を近づけて、神を自分の満足のために利用しようとするのではなく、真に神に近づくために、神の聖にふさわしくない汚れた一切のものを焼き尽くしていただきたいと願うこと、その願いがあれば、きっと神ご自身が私たちをご自分に近づけるために、二心をきよめて下さることでしょう(それは神の側の仕事です)。

ですから、私たちは主を知ることを切に追い求めるならば、たとえ身を切られるようであっても、主が私たちの旧創造を本当に十字架で対処して下さることを、ためらわず熱心に願い求めるべきではないかと思うのです。

また、それだけ全ての事柄を従順になしたとしても、主が何らかの目的があって、ご自分に従順なクリスチャンに、あえてご自分を隠され、沈黙されているときがあります。それは私たちが信仰を活用して、さらに神を熱心に追い求めるためにそうなさっておられるのです。そのような時も、五感に従って主を知ろうとするのではなく、信仰によって、約束の御言葉に基づいて、主の内にとどまり続けるのです。

雅歌の中で、乙女が愛する方を探して町へ出て行き、夜回りに打ち付けられる場面があります。ある人は、これを熟練したクリスチャンでも、あたかも神に見捨てられたように思われる瞬間があり、そのような時には、かえって信仰の浅い人々に笑いものにされるようなことがあるのだと解釈していました。いずれにせよ、主に出会うためにはそれなりの代価が必要であることを私たちは覚悟すべきだと思います。

「…天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイ13:45-46)

「だれか自分の命をかけてわたしに近づく者があろうかと主は言われる。」(エレミヤ30:21)

「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(マタイ22:14)のです。最も高価な真珠の価値を知っていた商人は、それを買うために価値のない地上の財産のすべてを売り払いました。その一方で、主イエスに招いていただきながら、地上の財産を捨てることができず、悲しみながら去って行った金持ちの青年もいました。どちらの道を選ぶのか、それは私たちの心次第でしょう。しかし「人にはできないが、神にはできる。」(マルコ10:27)のです。「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:13)

私たちの心に願いを起こさせてくださる主こそ、すべてを成就して下さるお方です!
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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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