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我が愛する友へ

誰にも知られない、静かな出発です。主と、それから、両手にも満たない、ほんの数えるばかりの友がいるだけ…。まるでトランク一つで旅立とうとしている旅人のように、今の私には持ち物は何もないのですが、それでも、これだけはと思うわずかで最高のものを、主は私のために残して下さいました。だから、嘘でなくこう言えるのです、私はとても恵まれた人だと…。

少し前に、慣れ親しんだ場所を黙って去りました。そうせねばならないと感じたからです。すべてを主の前に置き、自分の主張も、もう一度、厳しく吟味しなければならないと思ったのです。私たちは古くから聞いた「健全な教」(テトス2:1)にとどまるべきであって、新種の、目新しい考えに押し流されて、逸れて行くべきではありません。

こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。 」(ヘブル2:1)

たとえば、隣人を愛すること、これがどんなに今、馬鹿にされ、見失われているでしょう。確かに、何でも愛して、赦して式の人間本位に歪められた甘えの福音は大いなる問題なのです。

しかし、偽りを非難する主張のあまりの声高さによって、御言葉がはっきりと愛を追い求めなさい。」(Ⅰコリント14:1)と私たちに告げていることまで、かき消され、覆い隠されそうになっているのは、サタンの策謀に他なりません。

偽りの教えに対する非難の中には、巧妙に、神の愛を追い求めることそのものに対する嘲笑や蔑視が入り込んで来ています。それは次第に、地獄の火で煽り立てられて、兄弟姉妹が互いに愛し合う必要性を否定するのみならず、誠実さや、憐れみや、真実ささえも馬鹿にし、神のあらゆる美徳を踏みにじるような主張へと徐々に変貌して来ているのです。

カルトはアンチカルトと同一である、そのことを以前に書きました。ここでも同じことが起こっているのです。どんな偽りに遭遇したとしても、私たちは、御霊によらずに、人間の肉(自己)によって生まれた主張と力によってそれに対抗してはならないのです。

霊的な攻撃を受けたとき、自分の肉の思いによって対抗してしまうこともひとつの危険ですが、教養ある人々はとかく知識による議論に走ってしまいがちであり、そのようにして、人の造り出した思想によって、虚偽に対抗しようとすることも、御霊によらない方法です。もしも人の肉から出た方法で、虚偽と対決しようとするならば、それは、結局、完全な失敗へと至るだけでなく、私たち自身をも滅ぼすでしょう。(キリストの十字架以外に人間の罪、腐敗、偽りを清算できるものはないからです。他の方法を用いて偽りに立ち向かうことは、どんな正義感に基づいていたとしても、私たち自身が神に対して反逆することになってしまうので、自滅を招くのです。)

ですから、私たちは世に偽りがはびこり、闇が深くなればなるほど、何度でもただ十字架へ、キリストへ、神へと立ち返らねばなりません。神の御前に自分は完全に無知であること、私たち自身はどんな罪人とも相違ないほどの罪人であり、ただ滅びにしか値しないことを認め、へりくだって、このお方の贖いに身をゆだね、このお方に真実を示していただくよう求め、内なるお方の光の啓示によって真理へと立ち戻ること、ただそれだけが偽りに対する処方箋なのです。

もしも誰かが別の形で、人間の腐敗に対する処方箋を提示しようとするならば、その人はただ浄化に失敗するだけでなく、最後には自分が最も憎んでいたものと同化して滅びるに至るかも知れません。

真実な愛はただ神のうちにしかありません。私は人生で最も弱くされたときに神に個人的に出会いました。その時に、最も愛するに値しない私へ主のきめ細やかな愛、へりくだった愛が注がれました。

主がどんなにへりくだっておられ、弱い者に対して仕える姿勢を取って下さる方であるか、また、主がどんなにユーモラスでチャーミングな方であり、私の性格や行動の実に細かいところまでをご存知で、不思議な方法で僕を喜ばせ、慰めて下さる方であるか、それはまさにダビデが驚いて歌ったとおりなのです。

「主よ、あなたはわたしを探り、
 わたしを知りつくされました。
 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、
 遠くからわが思いをわきまえられます。
  ・・・
 あなたのみわざはくすしく、
 あなたは最もよくわたしを知っておられます。」(詩篇139:1-14)

このように複雑できめ細やかで、このようにへりくだって、柔和で、このようにまで真実な愛によって愛することのできるお方は他にいません。この方だけが、私たちを本当に満たすことができるのです。それなのにどうしてこの方の愛を離れることなどできるのでしょう。いいえ、神を決して他の何者にも見代えてはなりません。

友よ、私はキリストと私との間に立ちはだかる一切のものを投げ捨てて、ただこのお方のもとにだけ帰るのです。神の奥義は、ただキリストのうちにのみあるのです。キリストのうちにこそ、すべてがあるのです。

わたしが…どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力を十分に与えられ神の奥義なるキリストを知るに至るためであるキリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。わたしがこう言うのは、あなたがたが、だれにも巧みな言葉で迷わされることのないためである。」(コロサイ2:1-4)

あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言い伝えに基くものにすぎないキリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。」(コロサイ2:8-10)

「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。」(ピリピ4:8)

すべての無慈悲、憤り、怒り、騒ぎ、そしり、また、いっさいの悪意を捨て去りなさい。互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」(エペソ4:31-32)

友よ、どうか私たちが互いに心を励まし、愛によって結び合わされ、神の奥義なるキリストご自身を知るに至りますように!

 
 

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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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