忍者ブログ

ですから、私はあなたがたに、食事をとることを勧めます。これであなたがたは助かることになるのです。あなたがたの頭から髪一筋も失われることはありません。」(使徒27:34)

「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。
それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:12-18)

かつて巨大なエクソダスが起き、筆者が初めてキリストの十字架の死と復活に同形化されることの意味を知った時の出来事を思い返している。というのは、それとほぼよく似た体験をつい最近もしたばかりだからである。

一つ前の記事において、神から信者への御言葉による光の照らしを筆者はレントゲン写真にたとえたが、これは少しばかり不適切なたとえかも知れないと思う。なぜなら、神による照らしは、レントゲンのように有害な放射線によらず、また、我々が自分を吟味していただくお方も、あくまで神であって、目に見える誰か人間に向かって客観的に自分の状態を確認してもらうことが目的ではないからである。

以前、筆者は、獣医の誤診によってさんざん無益な狂奔をさせられた事件について書いたことがあるが、医者という存在は、どこかしら牧師にもよく似ていて、もしも自分の体のことを自分で管理できない不安を抱く患者が安易に助けを求めるならば、医師たちは、そのような患者をあたかも問題から助けてやるかのように見せかけながら、さらにその問題を悪化させ、よりひどい依存状態へとがんじがらめにして行くということが、全くないわけではない。

だから、キリスト者が頼るべきは、人間の医師ではなく、まことの医師たるキリストであって、キリスト者を生かす命は、人間による外科治療や薬による外的影響力ではなく、内側から働くキリストのまことの命なのである。キリスト者が受けるべき検査は、人体に有害な人工的な光の外側からの照射による検査ではなく、神の無害な御言葉の光の内側からの照射による検査である。

前回の記事で、筆者は『キリスト者の標準』を引用しながら、ウォッチマン・ニーが憔悴状態にあった時の体験に触れたが、彼には何かしらの持病があったらしく、それが悪化した際に、一度は重篤な状態に陥り、兄弟姉妹からも命を危ぶまれ、診察した医師からも、余命いくばくもないと宣告されたことがあるそうである。その体験を、筆者は別な著書で読んだ。だが、ニーはその時、息も絶え絶えの病の床で、医師から受けた死の宣告を、信仰によって拒否し、そして、実際に彼は奇跡的な回復を遂げるのだが、それからしばらく経って、たまたま読んだ新聞の死亡欄に、自分を診察した医師の名前を見つけ、神は生きておられると痛感した、というくだりがあったと記憶している。

筆者もそれにかなりの部分で同意する。筆者は、信者が医学的な治療や、薬や、検査を一切拒否すべきとまで言うつもりはないが、極力、そのようなものは受けないに越したことはないと考える。そういったものに頼って自分の健康を維持しようとすることは常に失敗に終わる。

たとえば、誰しも分かるように、薬などによって症状が抑えられるのは、ほんの一時的な間でしかない。たとえどんなに小さな傷であっても、患者の体自身に受けたダメージから根本的に治癒する力がなければ、患者が薬を飲み辞めた時点で、また症状が再発するだけなのだ。そのように外側からの影響力に頼って、人間が自分の状態をごまかそうとすることは、回復というよりも、目くらましに近い。薬のせいで、傷があるという事実が忘れられ、さらに、傷が治らないか、あるいは治る見込みが薄ければ、今度は、外科治療によって体の部位ごと切除しましょうという話になる。医師たちから見れば、それこそ「治療」である。だが、もし患者がそれに同意すれば、患者は最初に受けたダメージよりも、はるかに大きなものを永久に失わなければならなくなる。体に必要な部位を切除すれば、体に必要な器官がなくなるわけだから、その悪影響は、何年後かにまた必ず現れて来る。一つの症状は治まっても、今度は体の部位がなくなったことから来る弊害のための「治療」が必要になるのである。

だから、信者は、このような無限ループのようなごまかしに近い療法で満足するのではなく、根本的な原因は何かというところに目を向けて、目くらましの治療ではごまかせないもっと深いレベルまでで、人間ではなく、神によって根本的な治療をしていただかなければならない。人間は常に外からの影響力に頼って問題の本質をごまかし、なおかつ、人間の肉眼で見える証拠しか採用しないので、しばしば判断を間違うが、神はキリストを通して、人間を内側から生かすことのできるまことの命をお与えになっているのであって、その診断は決して間違うことなく、その命は、患者をいかなる外的影響力にも依存させずに自ら立ち直らせる力のあるものである。

キリスト者には、地上で様々な圧迫や苦しみが起きて来ること自体は避けられない。どんなにすべての思い煩いを神に委ねているとしても、色々な出来事に対処を求められる過程で、また特にサタンによって引き起こされる様々な問題に立ち向かう上で、極度の憔悴や、疲労困憊に追い込まれることは実際にないとは言えない。だが、信者がそのような圧迫によって起きた状態を、「取り返しのつかない現実」であると考えて、死や、損失を、避けがたいものとして受け入れるか、もしくはそれに信仰に立って徹底的に抵抗して、信仰によってその損失を拒否し、命を選び取るかどうかは、あくまで本人の選択による。

キリスト者はその生だけでなく、死によっても、神を証すべき存在であり、殉教と、サタンの攻撃や不摂生の結果として起きただけの病死や、もしくは老衰などによる死は、決して同列に論じるべき事柄ではない。アブラハムや、モーセがそうであったように、信者は老いてもますます神の命によって支えられ、輝かされるくらいでなければ普通とは言えない。病についても同じことが言える。信者の歩む道は自然の法則によるものではないのである。

だから、もし抵抗できるなら、信者は最後の瞬間まで、病や、圧迫や、死を拒んで、いのちを選び取るべきなのである。それはただ自分が苦しみたくないとか、死にたくないといった自己中心な利益を求めてなされる抵抗ではなく、もしキリストの御名のためならば、いつでも死を辞さない覚悟はあるが、それでも、キリストの死を打ち破った命が、人間をすべての圧迫から救い出すことができ、神は人に死ではなく命を与えるためにこそ人を創造されたのだと、天地の前で生きて証明するために堅く信仰に立って抵抗し続けるのである。

キリストのまことの命が信者を生かすようになると、信者の内側に未だかつてない新たな確信が生まれると共に、信者の滅びゆく肉体の幕屋にも新たなエネルギーが注がれる。

キリストの十字架の死と復活に信者があずかることは、信者の生涯で決して一度では終わらない体験であり、この原則は、信者の人生に極めてダイナミックな出来事の形を通して適用されることもあれば、そうでないもっと些細な出来事によって適用されることもある。

だが、表面的な見え方がどのように違えど、地上におけるごくごく軽い患難を通して、永遠の重い栄光にあずかることは、信者の生涯に渡る絶え間ない体験である。 文字通り、自分が地上で受けるすべての悩み苦しみについて、信者はこの原則を適用することができるのである。

ごくごく最近も似たような体験をしたばかりなので、改めて書いておくと、筆者が、2009年当時に初めてキリストの復活の新しい命が自分を生かしていることを知った時に、真っ先に感じたことは、このまことの命は、たとえ地球が七回核爆弾で滅んでも、それでも滅びないほどまでにとてつもない力を持つ命だ、ということであった。 つまり、この物質世界で起きるどんな脅威をも打ち破るほどの、何かしらのとてつもないエネルギーをもたらす新たな強力な命が、自分自身の力には全くよらずに、自分の内側に存在することを感じたのである。

次に、理解できたのは、こうして信仰によって新しく与えられた御子の復活の命が、筆者自身の脆く弱く朽ちゆくはかない有限な肉体の幕屋にも、絶えずエネルギーを送り込む主電源となっている、ということであった。

当時を思い返すと、十字架の死が霊的に適用されるまでの間に起きた様々な圧迫のせいで、筆者はかなり憔悴していた。その当時はまだ、十字架の死と復活が信者に適用される直前には、多々そのような予期せぬ圧迫が起こることを知らなかったので、多くの出来事が不意打ちのように感じられ、そのために翻弄され、悲しんだり、悩んだりしたせいで、心身が極度に憔悴していたのである。

ところが、主の死に霊的に同形化され、よみがえりにも同形化されると、キリストの復活の命が、はっきりと自分自身の中で働きを始めたのが分かり、そして、その瞬間を境に、それまで死に向かって処刑台を行進させられる囚人のように憔悴の一途を辿っていた心身が解放され、肉体は強められて健康に回復され、疲弊していた魂は新たなエネルギーを得て生き生きとし、生きた人間として自分がまるごと刷新され、活性化されたのが分かるのである。

サタンの圧迫によって苦しめられたり意気消沈していた魂はたちまち健康を取り戻し、体には食欲の増進が起き、あらゆる食べ物が極めて美味に感じられ、体がそれまでの霊的死のために通らねばならなかった疲労状態から回復するために、急速にエネルギーを回復している様子が分かった。だが、それは決して病的な傾向ではなく、真に健康であるがゆえに、食事を楽しむことができるという幸福なのである。そして、採った食べ物が、どんなストレスにも妨げられることなく、体を生かすための栄養源になるという幸福な状態なのである。

幾度も書いている通り、信者の人生には、しばしば、十字架の死と復活の原則が適用されるために、思いもかけない激しい戦いのような出来事が起きることがある。十字架の死を迎える瞬間までは、信者はまさに死のクライマックスに向かって自分が行進をさせられているかのように感じ、まるでこの世全体が自分にスクラムを組んで敵対しているのではないかとさえ感じるであろう。

しかし、それが、何ら予期せぬ出来事でもなく、思いもかけない不審な事柄でもなく、ただキリストと共なる霊的死にあずかるために、信者が避けて通れない軽い患難、小さな杯であることが分かれば、信者は、そういう事柄に心を煩わせる必要が全くないことを理解するであろう。それは、自分の信仰が試されているだけであり、その苦しみの先には、はかり知れない栄光が待ち受けていることを、まだその苦しみが終わらないうちから、大胆に確信でき、天の褒賞にあずかる喜びを楽しみにさえすることができるようになる。そして、実際に信者が御子の復活に同形化されると、かつての苦しみによって受けたすべての損失が嘘のようにそれを補って余りあるほどの回復、祝福にとって代わる幸いを見ることができる。

苦しみによってダメージを受けた心や体が回復されるだけでなく、さらに、失われたこの世の富も、回復されるであろう。信者に与えられた新しい神の命は、すべてを統治・支配する命であるから、信者のために必要な全てを(肉体のエネルギー源のみならず、生活の必要の全て、また信者の心の願いを)自然な形で供給することができると分かるはずである。

キリストは地上におられた時、何も財産を所有しておらず、職業を持っておらず、生計を立てるための具体的手段を持っておられなかった。それにも関わらず、神の国の宣教は、信仰によってのみ支えられたのである。こうして、今日、キリストだけでなく、信者自身も、持って生まれた権勢、自己の力で築き上げた権勢によらず、生まれつきの才覚や、後天的に獲得した優れた能力によらず、職業的な専門技術によらず、親族や知人のコネに頼らず、神への信仰を生きて働かせることだけによって、すべての必要を神に供給していただくのである。

キリストはご自分も肉体を持っておられ、人としての弱さを知っておられたにも関わらず、決してご自身の必要のためだけに人々に関わられたり、懇願されることはなく、むしろ、常に人々に豊かに与える側に回っておられた。そのキリストが信者の内側に住んで下さることは、キリストが地上におられた時にすべての必要をただ信仰を通して神によって供給していただいたのと同じ法則性が、信者の内に生きて働くことを意味する。

だから、 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」(マルコ16:15)という命令を実行する力と条件を信者に与えるのは、神の側の仕事なのである。信者はただ信仰を働かせ、すべての必要をイエスの御名によって父なる神にかなえていただくのであり、それを実際に可能にするのが、信者の内に住んでおられるキリストの支配する命である。

また、その命は霊であり、その中に神と信者との交わりの中心がある。そこで、信者はキリストの復活の命を知ると、それまでのように、神との交わりを求めて自分の外をさまよい、神を知るためにあれやこれやの指導者を訪ね歩く不安に満ちた生活から、ただ自分自身のうちに住んでおられるキリストへと平安のうちに関心を転換することができる。

どんな時にも、信者は自分は心の内側で、聖なる御座へ進み出て、誰をも介さず、神に直接、全てを願い求め、祈り、交わることができる。自分の霊の内側に祭壇があって、そこで、いつでもキリストを通して、どんな問題についても、父なる神に直接、祈り、相談し、求めることが可能になるのである。神はもはやどことも知れない遠くにおられて、自分をいつでも見捨るかも知れないような不確かなお方ではなく、たとえ目で見られず、耳で聞こえず、肌で感知できずとも、生涯の終わりまで、共にいて下さり、信じる者を力強く守って下さり、すべての必要を満たして下さる方であり、信者は、祈る時にはいつでも天に直結してその願いが聞き届けられていることを知る。

だが、このような命が信者に与えられているのは、ただ信者一人だけの満足のためではない。信者は自分自身がキリストの復活の証人として世に出て行く使命を負っているのであり、そのためにこそ、主と共に死からよみがえらされて証人として立たされているのである。

キリスト者が伝道するのは、多くの信者たちが誤解しているように、教会組織の人数や権勢を拡大するために、神を求めていない人の関心をあの手この手で引こうとすることとは断じて関係がない。キリスト者が人々に奉仕する意味も、自己変革によって神に到達するための精進などでは決してない。すでに、全ての全てであられる方を内に得ているのに、何のために自己変革などするのか。信者がもし自己変革などを目指すとすれば、それはただ地上において、軽い患難を耐え忍ぶことを通して、重い天の栄光があることをより深く知り、より深くキリストの十字架の死と復活に同形化されて、内に住んでおられるキリストと深く交わり、この方への愛を深め、御子に似せられて行くことのためだけである。だが、それは信者が何かしら偉大な人格者へと変えられることにより、世から賞賛を受けることとは何の関係もない事柄である。

キリスト者が世に出て行くのは、世に自分の欠乏をかなえてもらうためではなく、世の欠乏をかなえるためでもなく、むしろ、惜しみなく与えることを願うキリストの命を注ぎだすことにより、神の召しに応え、神の愛を全うするためなのである。

こうして、信者が自分自身を注ぎだすのは、まず第一に神のためであり、信者がまだ反抗的な罪人であった時に、信者のためにすべてを捨てて下さった方の愛に応えるために、自分自身も彼にならって、この方にすべてを捧げるのである。だが、それが成就した時に、実に不思議な形で、信者自身の地上的な必要も満たされ、また、多くの場合、信者をとりまく人々の必要も満たされるのを信者は知るであろう。その順序は決して逆にはならない。

もし信者が神のために一切のものを留保せずに惜しみなく捧げ切ることができれば、この地上で信者が神を証して生きるために必要なその他の一切は、すべて自然に与えられる。まるでそうしたものは、全く取るに足りない付属物に過ぎないもののように、軽やかに、ごく自然に、悩みなく与えられ、成就するのである。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

 

PR


「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)

「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。


 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。


私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:16-18)

巨大なエクソダスが完了して、不思議なほど心が平安に満たされている。

一つ前の記事で、「キリストに従うことに、そんなにも多くの代償が伴うなら、信じることに何の意味がありますか。キリストを信じたゆえに、世からの理解を失い、迫害されるなら、生きることが前より苦しくなるだけで、信じることにどんなメリットがあるのでしょうか」という不信者の問いを取り上げた。

確かにキリストに従うことには代償が伴い、多くの患難がつきものである。不信者のほとんどはそれを聞いただけで、踵を返すことであろう。ちょうどイエスのために全財産を捨てることをためらった金持ちの青年のように。

だが、キリスト者は、イエスに従うことに伴う代償だけに注目して、恐れ、失望したりはしない。なぜなら、地上における患難が、むなしい代償では終わらず、永遠の重い栄光をもたらすことを知っているからである。

今回は、キリスト者にとっての苦しみと栄光との不思議な関係について、つまり、十字架の死と復活の原則について、信じる者が代価を支払ってキリストに従うことに伴う恵みが、どれほどはかりしれないものであるかについて、少しばかり書いておきたいと思う。

さて、冒頭からまたもや突飛な展開だと言われるかも知れないが、今、筆者が思い出すのは、次の聖書箇所である。これは筆者が好んで使っている箇所なので、以前にも幾度か引用したかも知れない。

「ところが、アンテオケとイコニオムからユダヤ人たちが来て、群衆を抱き込み、パウロを石打ちにし、死んだものと思って、町の外に引きずり出した
しかし、弟子たちがパウロを取り囲んでいると、彼は立ち上がって町にはいって行った。その翌日、彼はバルナバとともにデルベに向かった。

彼らはその町で、福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない。」と言った」(使徒14:19-22)

パウロは、かつては熱心なユダヤ教徒であったが、主イエスに出会って、十字架の贖いを知り、福音の使徒とされてから、かつては仲間であったユダヤ人や律法学者から激しく憎まれ、妬まれ、執拗に命をつけ狙われ、迫害されるようになった。

上記は、ユダヤ人たちに扇動された群衆に取り囲まれたパウロが、石打ちに遭い、あわや命を失う寸前まで追い込まれる場面である。当時の石打ちは、死罪を宣告する行為であり、つまり、ユダヤ人たちは、個人的にパウロの働きを妬んでいただけでなく、パウロがユダヤ教の教えに基づく律法による義を捨てたことを深く恨みに思っていたので、何の罪も犯してなかったパウロを、勝手に死刑にしようと狙っていたのである。

その恨みと憎しみの背後には、キリストの十字架によって人類が贖われ、罪赦されるという、律法によらない、信仰による義そのものが、決して認められない、というユダヤ人たちの思いがあった。

それは、人が自分の努力によらず、神の一方的な恵みを信じることによって、信仰によって義とされる道が開かれてしまうと、ユダヤ人たちが日々熱心に律法を守って、落ち度なく立派に行動することによって、自分で自分を善人とし、義としている一切の努力が水泡に帰するからである。そこで、ユダヤ人たちは、パウロの宣教によって、自分たちの教えそのものが危機に晒されていると感じ、自分たちの必死の涙ぐましいまでの努力が無にならないために、パウロの宣べ伝えるキリストの信仰による義を何とかして否定しようと、パウロをつけ狙い、迫害し、神が罪赦された聖徒であるパウロをあわよくば再び罪に定めて、自分たちの手で処刑して死に追いやろうと執拗に試みていたのである。

しかしながら、群衆が獣のごとき暴行に満足して、パウロはすでに死んだものと思い込んで立ち去った後、パウロはまるで何事もなかったかのように起き上がり、自分で歩いて町に入って行った。そして、その後、危篤状態に陥ることもなく、入院することもなく、翌日にはもう別の町に向かって出発し、そこで福音を宣べ伝えて多くの人々を悔い改めに導き、キリストの弟子とした。

パウロの身に起きたことは、多くの信者たちを驚かせたと同時に、勇気づけた。すなわち、パウロは、キリスト者には、地上での生涯を終えて、完全に神の国に入るまでの間に、多くの苦難が残っているが、それだからと言って、決して信者が失望する必要はなく、勇気を出しなさいと勧めたのである。なぜなら、神はキリスト者に、地上で受ける全ての患難を乗り越えるに十分な力をお与えになっているだけでなく、信者が地上で失ったものの代償として、天で栄光に満ちたはかりしれない重い褒賞を用意して下さるからである。だから、たとえ地上で予想外の事柄が起き、人々の思わぬ反対に直面し、物事が順調に行かないように思われる時にも、勇気を失うことなく、むしろ、あらゆる患難には死を打ち破ったキリストの復活の命が働くことによって、信者にはいかなる損失も生じず、天の御国に収穫がもたらされることを知って、勇気を出してしっかりとこの道にとどまり、信仰を捨てないようにと勧めたのである。

聖書の他の箇所を見ても、御霊を通してパウロの内に住んで下さったキリストは、パウロの内なる人を通して、彼の外側の限界ある肉体をも強め、人知では考えられない力を与えていたことが分かる。

キリストと共に十字架の死を経ると、その信者を生かしている命は、滅びゆくアダムの命から、死を打ち破ったキリストの復活の命へと変えられる。その復活の命は、キリスト者が地上で使命を終えるまで、信者のすべての必要を供給し、信者がこの世で受ける全ての圧迫を超えて、神から受けた召しを果たす力を与える。

贖われた人々は、自分を生かす命が、キリストの新たな命となったことを知った瞬間から、神の超自然的な命の力が自分を支えていると同時に、悪魔と地獄の全軍勢の尽きせぬ憎悪の前に、自分がキリストの復活の証人として立たされていることを知る。この人間のものではない、超自然的な、神の非受造の命のゆえに、キリスト者を巡っては、暗闇の勢力からの激しい陰謀や妨害を含む、途方もない規模の霊的対立が起きるのである。

信者が主と共に十字架の死と復活に同形化されると、信者の意志とは関係なく、信者を巡って、常識では考えられないような極めて異常で極端な出来事が起きるようになる。だが、それは信者にとっては当たり前のことで、驚くには値しない。逆に言えば、もし信者に地獄の軍勢の憎しみに直面している自覚がなく、何らの激しい対立や圧迫も起きないならば、その人が本当にキリストのものとされているかどうかは極めて怪しい、と言えよう。

さて、筆者は、偽りの宗教体系を含めて、信者が訣別すべきこの世の教えの体系からエクソダスを果たす際には、多くの圧迫や激変が起きることを書いた。そうした圧迫は、人間の目には、無用な苦しみでしかないように見えるかも知れないが、信じる者にとっては、大きな栄光の前触れである。冒頭で挙げた御言葉の通り、キリスト者が受ける苦難には、すべて後々報いが伴うのである。

人間は生まれつき試されることを喜ばないので、神の手から与えられる患難や試練を忍耐強く乗り越え、これを喜んで受けることを学ぶまでには、少しばかり時間がかかる。だが、聖書の御言葉は真実であり、キリスト者が地上で受ける苦難は、どんな種類のものであっても、すべて「軽い患難」に過ぎない一方、これを耐え忍んだ対価として与えられるのは、天での「測り知れない、重い永遠の栄光」である。

だが、不信者は言うだろう、「いや、ちょっと待って下さい。ユダヤ人に憎まれ、扇動された群衆にあらぬ罪を着せられ、石打ちになって殺されそうになることのどこが、「軽い患難」なのでしょう。しかも、パウロは生涯に渡って、ずっとそういう迫害に直面していたのでしょう。」それでも、筆者は言う、そういうものはみな軽い患難でしかないと。たとえ、信者が殉教に至り、地上の肉体の幕屋を破壊されたとしても、それもすべて軽い患難でしかないと。

重要なのは、そのような一つ一つの患難に対して、神はそれをただ耐え忍ぶのみならず、勝利を持って乗り越える力を信者にお与えになり、多くの場合、信者のこの地上での人生がまだ終わらないうちに、それに対する報いとしての天の栄光を垣間見せて下さり、それによって信者が十字架の死と復活の法則が信じる者の内に生きて力強く働いていることを知ることなのである。

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」という御言葉が意味するのも、同じことなのである。もしキリスト者が、地上では苦難しか味わえず、敵意や、辱めや、嘲笑や、迫害にしか遭遇することなく、その報いとして与えられる栄光や喜びは、すべて死後になってしかやって来ない、などと考えるなら、それはあまりにも大きな間違いである。信者が地上で受ける全ての苦しみは、信者が自分を低くするために与えられるものだが、日々の十字架を耐え忍んだ代価として与えられる栄光を、信者は生きているうちにも、日々見ることができる。

多くの場合、信者が地上で受ける苦しみは、神が信じる者を高く上げて下さることの前触れである。信者は、神が大きな解放の御業をなし遂げて下さろうとしている時には、ほとんど決まって、人の目から見ると苦しみとしか思われない事柄が前もって起きて来るのを理解するようになる。だが、その苦しみは栄光の前触れでしかなく、信者が心騒がせずに神を信頼してこれを受けるならば、そこに、天の法則が働いて、人の思いもかけない解放が起こり、神が願っておられる通りに天の栄光がもたらされる。

キリスト者は、この地上にありながら、内にキリストをいただいていることにより、すでに来るべき世の統治の中に入れられているのであり、天の支配下に生きているのである。そこで、死後を待たずとも、キリスト者の内には、絶えず天的法則が働いて、御言葉が実際として成就する。だから、こう書いてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらす」と。

ここで「私たちのうちに働いて」と言われているのは、患難が「私たちキリスト者の内なる人を通過することによって」、重い栄光をもたらすと述べられているのと同じである。

つまり、キリスト者にとって、患難とは、それが自分の内なる人を通過することによって、そこに天の法則が働いて、測り知れない、重い永遠の栄光がもたらすきっかけでしかないのである。その証拠の一つに、石打にされそうになったパウロが、別の町で行った宣教の際に、新たな弟子たちが起こり、天に収穫がもたされたことがある。他にも色々な収穫があったかも知れないが、要するに、パウロが受けた苦難を通して、十字架の死と復活の法則が働いて、人々の魂が神に立ち返り、御国に大きな収穫がもたらされたのである。

このことは、キリスト者が地上で苦しみを受けることによってしか生まれ得ない天の栄光が存在することを教えてくれる。だが、誤解してはならないのは、これは決して信者が自ら苦しみを求めて良いという意味でなく、人が自分で自分を苦しめることとは全く異なる。信者の意志とは関係なく、神が許されて、地上で患難が与えられ、信者がそれを己を低くして信仰によって受け止める時、天で大きな報いが伴うのである。

さて、信者の「内なる人」とは、キリストと言い換えても良いかも知れない。確か、ウォッチマン・ニーがどこかの解説に書いていたように思うが、キリストの御霊が、信者の内側に住んで下さることによって、信者の内側では、御霊と信者の霊とが分かちがたく結びついている。

これはちょうど一人の人の中に二つの人格があるようなものだが、しかしながら、それは病的な二重人格ではなく、あるいは、ローカルチャーチの教えのように、「神と人とが混ざり合う」ことでもない。キリストと信者との結合は、ただ霊においてのみの結合だからである。

信者の内側で、キリストの人格と、信者の人格は、互いに分裂して押しのけ合ったり否定し合ったりすることなく、調和の取れた形で不思議に同居している。それが、キリストの人格が、御霊を通して、信者の内に住んで下さることの意味である。だが、それは自動的に達成される調和ではなく、信者の側からの協力が必要であり、信者にはキリストの人格を無視することもできるし、拒絶し、否定することもできる。もし信者がキリストの御声に聞き従うのをやめれば、キリストの人格は信者の中で働きをやめ、その状態が続けば、御霊はやがてその信者を去るだろう。

正常な状態の信者にあっては、信者の「内なる人」が、キリストの内住によって満たされ、強められているがゆえに、信者は外側ではこの世の滅びゆく肉体を持った有限な存在に過ぎず、魂においては、地上の人としての記憶や意識を持っているが、それでも、信者の内側には「キリストの成分」とでも呼ぶべきものがあって、それが信者の「内なる人」を形成するのである。つまり、信者の「内なる人」は、信者自身の霊と、キリストの御霊との結合から成り、この二つの人格を共に指していると言っても良い。

それゆえ、信者が地上で苦しみを受け、患難が鋭い矢のように信者の内側を通過してその存在を射るとき、その苦しみは、ただ信者という一人の人間を通過するだけでなく、信者の内におられるキリストをも通過するのである。それによって、ただ地上の滅びゆく有限なる存在としての人間が苦しめられただけでは、決して起き得ない現象が起きる。つまり、信者が受けた苦しみが、天ではキリストの受けられた苦しみに加算され、それが天の権益に関わる事柄として受け止められ、そこに天の法則が働いて、栄光に満ちた収穫がもたらされるのである。

パウロが「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」と言った言葉の意味はそこにある。キリストが十字架で受けられた苦難は、それ自体、完全であって、人間によって補わなければならない欠点はない。だから、信者が地上で苦しみを受けることで、キリストの御業に何かをつけ加えたりするわけではない。だが、それにも関わらず、神は地上において、あえてキリスト者一人一人が、主イエスに従う過程で苦しみを受けることをお許しになる。神はそれを通して、信者一人一人を練られ、ご自分にならう者として鍛え、その心を吟味されると同時に、さらに、その苦しみを通して、信者に栄光をお与えになり、何よりも教会に栄光をもたらされる。上記の御言葉は、前後を踏まえて引用すると次のようになる。

「ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです
私は、あなたがたのために神からゆだねられた努めに従って、教会に仕える者となりました神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:24-25)

つまり、パウロが受けたような迫害は、キリストのからだなる教会のためだというのである。パウロは教会に仕える者として患難を受け、そこに天の法則が働いて、神の国に収穫がもたらされるのだというのである。

この死と復活の法則は、ステパノの殉教にも当てはまるだろう。パウロの回心という巨大な事件は、ステパノの殉教なしには起こらなかった出来事であると考えられる。

キリストの弟子とされた後、「ステパノは恵みと力とに満ち、人々の間で、すばらしい不思議なわざとしるしを行なっていた。」(使徒6:8)。つまり、ステパノは、イエスの力ある弟子であった。これに対し、その当時、パウロ(サウロ)はまだ青年で、キリストを知らず、熱心なユダヤ教徒として、教会を迫害する側に回っていた。サウロは個人的にステパノの石打に大いに賛成しており、群衆によるステパノ殺害の場面にも立ち会っていた。

しかし、当時は何のためらいもなく、確信を持って、ステパノを迫害する側に立っていたパウロが、ダマスコ途上で復活のキリストに出会って、キリストの僕に変えられる。この出来事は、直接的には、ステパノの死とは関係がないように見えるが、それでも、これは信仰者の目から見ると、ステパノが受けた患難なしには決して起き得ない収穫だったものと思われる。

ステパノが殉教した場面で、彼が群衆に向けて語った最後のメッセージの締めくくりと、群衆の反応を、ここに引用しておこう。ステパノは群衆に向かって言った、

かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです
あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。

人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした
しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、こう言った。
「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」

人々は大声で叫びながら耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。そして彼を町の外に追い出し、石で打ち殺した

証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。

こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。

「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」(使徒7:51-60)

前の記事で引用したイザヤ書の預言の通りである。ユダヤ人たちは、福音を聞いても耳を塞ぎ、神の御言葉を携えてやって来たイエスの弟子たちを見ないために目を覆った。彼らは、自分たちは律法を守り、落ち度なく行動しているという自負のゆえに、信仰による義を認められず、福音を全くの有難迷惑として退けた。彼らは福音をただ受け入れなかっただけでなく、福音を語った神の僕にも、尽きせぬ憎しみを燃やし、迫害し、石で打ち殺すまでに至ったのである。

これは、決してユダヤ教対キリスト教などといった対立構造を示すものではなく、神の義対人類の義の霊的対決を示すものである。すなわち、ステパノが神の恵みとしての信仰による義を語って、人類が自らの力で神の義に達しようとしている必死の努力を否定したために、有史以来、常に自力で神に到達するためにバベルの塔建設に励んでいる人類が、人類の涙ぐましい努力を否定する神の福音を、人類を冒涜するものとして理解し、これを宣教することが、死罪に当たる「罪」であると考え、福音を聞かないために耳を塞いで、神の義を否定しながら、その証人である神の僕を迫害して殺したことを意味する。こうして、世は人類の存在しない「聖」や「尊厳」を守るために、常に神を冒涜し、神の御言葉を退け、神の僕をも退けるのである。

先に引用したパウロの石打ちの場面とは対照的に、ステパノはここで殉教して生涯を閉じる。しかし、これら二つの場面に共通しているのは、パウロが、ユダヤ人たちの憎しみによって内面的に全く影響を受けなかったのと同様、群衆の激しい憤りと殺意に直面したステパノも、その出来事によって全く魂を触れられなかったことである。

ステパノは群衆が福音を拒絶することや、悪意に満ちた反応を返すことを前もって完全に予測していた。彼は霊的に贖われない人々が福音に対してどういう反応を示すか、理解していたのである。だから、彼は群衆の反応に動じることもなければ、彼らの憤りの前に譲歩することもなかった。彼は憎まれることを承知で群衆の前に立ち、拒絶されることを知っていながら福音を語り、殺されることも覚悟の上で、あえて真理を宣べ伝える神の僕として、最後まで世の前に立ち続けたのである。

そして、群衆の激しい憤りに直面しても、ステパノの人格が傷一つ受けず、動揺することも、悲しみに暮れることも、怒りをかきたてられることもなく、彼の心が、群衆の反応とは一切無関係に、最後まで平静を保ち、外側の肉体の幕屋が傷つけられても、内側では全き平安のうちに、揺るぎなく真理の確信に立ち続けることができるように守ったのは、主イエスご自身であった。

このように、全世界から激しい憎しみと悪意を向けられ、ついには命さえ奪われても、それによって全く微動だにしないような、人知では説明のできない、圧倒的な内なる平安が、ステパノの全人格を覆っていた。それは、パウロも全く同様であった。

このように、神の福音は、これを信じて受け入れた人々を、世から完全に切り離し、神だけに全幅の信頼を置いて、神の僕として立たせる。使徒たちは、人に拒絶されても、誤解されても、否定されても、そのような世の反応によっては全く変わらず、揺るがされることのない、圧倒的な平安を伴う内なる満ちた確信を持っていた。それは、決して相手に見返りを求めない、神の無条件の愛から来るものであり、神の愛が、それに捕えられた人々をも、キリストと同じようにあらゆる苦しみに耐えられるよう励まし、力づけ、勇気づけるのである。

このように、人の目から見て苦難が最大になった時にも、信者がその中でなお真理の確信に立ってこれを力強く守り抜く力を与えるのは、神ご自身である。ステパノの殉教の後、回心したパウロも、やがてはキリストご自身や、多くの弟子たちにならって、殉教することになる。使徒行伝にパウロの殉教の場面は描かれていないが、彼は皇帝ネロによるキリスト教徒への大迫害の時代に、ペテロなどと共に殉教したと言われている。おそらくは、描写もはばかられるような形で非業の死を遂げたに違いないと想像するが、最後までキリストの僕として、喜びと確信に満ちて大胆に主を証しつつ、衝撃的でドラマチックな形で生涯を閉じたのであろう。
 
このような殉教の場面を、信者ならば理解することができる。人間の目にどのように見えようとも、どれほど多くの人たちが理解せずとも、もし代価を払って主イエスに従うことができるなら、それは言葉に言い尽くせない栄光だと感じるのである。もちろん、人間の努力によってはそんなことは達成できない。誰も自らの目に損失と見えることを願う者はない。だが、信者が代価を払うことに心から同意し、自分の全ての利益よりもキリストを優先することを願い、神に自分自身を完全に捧げるならば、神がふさわしい時に全ての機会を用意して下さり、何が起きても、最後まで動じず、確信に立ち続ける力を信者に与えて下さると、はっきり言うことができるのである。

だが、不信者はこのような話を聞けば、ますます疑念を深めるだろう、「私はそんな人生を送りたくありません。そんなのは狂信者の道ですよ。あなた方の神は、信じる人々にそんな重い代償を要求なさる神なのですか。苦難を与えた上に、命まで捨てて殉教までせよというのですか。一体、そんな人生のどこに「測り知れない、重い永遠の栄光」があるのですか?」

これを人に分かるように説明するのは難しく、以上のような意見の持ち主を説得するのは不可能であろう。ステパノの殉教と、パウロの回心を直接的に結びつけることができないように、どうやって信者の中で患難が栄光を生むのか、それは理屈によって説明できることではない。だが、それでも、「今の時の軽い患難」「測り知れない重い永遠の栄光」と一つに結びついている、というのは確かな御言葉だと言えるのである。地上での些細な苦しみさえそうなのだから、ましてパウロやステパノが辿った殉教がそうでなかったはずがないのである。

ダマスコ途上でパウロに現れた復活のキリストは、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)と名乗られた。このことは前述した通り、キリストのものとされた信者たちの内側には、キリストが住んで下さっており、その意味で、彼らはただの地上の人間ではなく、彼らは「キリストのからだ」を構成しており、それゆえ、信者たちの内面を苦しみが通過する時、それは信者の中におられるキリストの人格をも通過することを意味する。だからこそ、信者たちが受けた苦しみを、神はキリストが受けられた苦しみと同じものと考えられ、イエスは、迫害されている教会が、ご自身であると言われたのである。

ここに、教会を迫害することの恐ろしさがある。今までにも書いて来たように、神に贖われてエクレシアとされたクリスチャンを迫害することは、あれやこれやの地上の人間を苦しめることだけを意味せず、キリストの御身体だを傷つけることを意味し、文字通り、「キリストを迫害する」ことと同義だからである。パウロの場合のように、その人々がまだ福音を知らず、回心する余地が残っていれば良いが、もっと恐ろしいのは、群衆を扇動した首謀者としてのユダヤ人や律法学者や、あるいは、福音を知り、キリストの弟子を名乗りながら、神を裏切ったような人々に、果たして、悔い改めの余地があるかどうか分からず、場合によっては、アナニヤとサッピラに降りかかったような報いが及びかねないことである。

パウロは書いている、「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」(Ⅰテモテ1:20)

御使いたちをさえさばく権限を持っている教会は、信者を名乗りながらも信仰を捨て、御言葉を否定し、神を裏切った人々を「サタンに引き渡す」権限をも持っている。昔であれば、それは教会から信者を除名することと同義に解釈されたのであろうが、地上の教会がむしろ不信者によって占拠されている今の状況で、筆者は、これをそういう文脈では解釈しない。「サタンに引き渡す」とは、信者が御言葉を否定する者たちに向かって、その者が「神の家族でなく、兄弟姉妹でもなく、神の守りの外にいて、サタンの支配下に追いやられていることを公然と宣告する」といった意味である。もっと簡単に言えば、信者がある人たちに向かって、「この人たちは私たちと同じ神の家族には属していないよそ者であって、私たちは彼らを守りません。この先、悪魔が彼を好き勝手に翻弄して、彼らの魂を占領しても、私たちはそれに対して一切、責任を負いません」と宣言しているのと同じである。

パウロを通して教会からこういう宣告を受けた二人にどういう結末が降りかかったのかは分からない。彼らに悔い改めの余地があったのかなかったのかも分からない。しかしながら、教会が彼らを見捨てると同時に、彼らの魂が悪霊に引き渡されて、サタンの思うがままになり、その人生が尋常ならぬ破滅へと向かって行ったであろうことは予想がつく。

ステパノは自分を殺した群衆を罪には定めなかった。それは、多くの群衆は扇動されていただけであって、自分が何をしているかも理解していないことを知っていたからである。しかし、それはあくまでそれまで福音を聞いたことがなかった人々に対する神の憐れみであって、確信犯的に福音に敵対し、神の御言葉を闇に葬るために、群衆を扇動してでも、陰謀を巡らしていたような人々の中には、おそらく神の憐れみも届かない人々が含まれていたことであろう。ステパノを拒絶した群衆も、その後、どれだけの人々が悔い改めることができたのか分からない。悔い改めなければ、いずれにしても、罪の報いが降りかかるのである。

このように、クリスチャンは世の人々にとって重大な試金石であって、外見がどんなに無力に見えるありふれた地上の人間であっても、内側に、測り知れない神の力である御言葉を携えている以上、信者の存在を通して、御言葉が人々をふるい分けるのである。信者の内におられるキリストが人々をふるいわける。そのため、御言葉を宣べ伝える使者が現れる時、人々の心の内に隠されていた、人が思ってもみなかったような内面が明らかにされる。多くのパラドックスが生じ、人の目に賞賛されていたものの醜さが明るみに出され、人の目に正義と見えていたものが、むしろその逆であることが判明し、ある人々は、御言葉につまずいて、あからさまに福音の敵と化す。ここで、応答の方法を間違えると、その人の人生全体が、取り返しのつかない方向へ向かって転げ落ちて行きかねない怖さが存在する。

だが、クリスチャンはある人々を「サタンに引き渡す」ことまではしても、その人の命運に最後まで手を下すことはしない。それは神の領域だからである。そこで、暗闇の軍勢との激しい闘いの中にある時、信者は、どこまでその闘いに関与して良いかについて、その程度をも、神に教わる。

たとえば、かつては兄弟姉妹と呼ばれた信者の中から、福音を否定し、教会の迫害者となるような者たちが現れ、彼らに勧めても、説得しても、何の効果もない場合、ある時点を境に、信者は彼らを公然と「サタンに引き渡」し、その人間どもから手を引かねばならない。神に逆らう人々をいつまでも相手に語り続けることがキリスト者の使命ではないからである。

そして、「サタンに引き渡」されたその瞬間から、彼らの存在は、聖徒らの全く手の届かない領域に去る。すべてのつながりが断ち切られ、彼らに降りかかる一切の事柄の責任は、聖徒には及ばないものとなる。そうなると、聖徒らはもう二度と彼らの命運を気遣うことも、関わることもない。

最近、筆者は、そのようなことを経験したばかりである。ある出来事を通して、あたかも、神が御使いらと共にこう言われたかのようであった、「ヴィオロンさん、あなたはよくやりました。あなたはやれるところまで十分にやりました。しかし、もうこれ以上、この出来事にあなたが関与する必要はありません。ここから先は、私たちの領域です。心配することなく、私たちにすべてを任せなさい。」こうなると、この世的な観点から見れば、決着がついておらず、まだ打つ手が残っているように見える場合でも、信仰的観点から見て、信者はその出来事から手を引かねばならないのである。あとは神と御使いたちの出番となる。

信者は、天と地の前でキリストの復活を証する使命を負ってはいるが、信者の目的は、人間的な思いで人々を説得することにはなく、人間的な観点から見て、すべての人々と折り合いをつけることにもない。この世は、ちょうどソドムとゴモラの町のようなものであって、その町で、キリスト者と住人とがどんな「折り合い」や「決着」をつけることが可能だろうか。

だから、キリスト者の使命は、福音を拒絶する人々を力づくで説得することで、自分の正しさを論証することにはなく、世に向かって語りはしても、世と交渉もしないし、深入りしない。世の敵意に直面しても、世と交渉するうことで、これをやわらげようとはしない。もしも、世に向かって、信者が自己の正当性をどうしても分からせようと、あるいは、何とかして福音を受け取らせようと、御言葉に逆らう世人を説得したり、論争に熱中したりして、世に深入りして行くと、結局、信者は世人の思惑に翻弄され、信仰による義から逸れて行くことになる。

どんなに神の福音が正しいものであっても、それを受けとるかどうかはあくまで個人の自由な選択に委ねられており、御言葉を聞いても従わない人間の末路は、信者の責任の外にある。世は始まって以来、福音を拒絶し続け、神の僕を迫害し続け、キリストを十字架にかけて殺したのであり、今に至ってもその悪しき性質は寸分たりとも変わらず、これを変えることがキリスト者の使命でもない。

だから、信者は、決して世から受け入れられることを願うべきではなく、むしろ、主イエスが地上でどのような扱いを受けられたかを思い起こし、低められることの中に、十字架の死の原則が働くことを思い起こすべきなのである。ソドムとゴモラの住人と、人間的な観点から折り合いをつけたり、彼らから歓迎されたり、理解されることが可能だと思えば、とんでもない間違いに陥るであろう。むしろ、神の目から見て、有益な結果が結ばれるためには、必ず十字架の死をくぐらなければならないこと、誤解や、拒絶や、否定や、蔑みや、迫害があって初めて復活の原則が働くことを思うべきなのである。何より、人が自分を真に高くしたいならば、低くされることに甘んじねばならないのである。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:2-4)

主イエスが罪人たちの反抗を耐え忍ばれ、はずかしめをものともせずに十字架を忍ばれたのは、「ご自分の前に置かれた喜び」を見て、来るべき栄光を確信しておられたからであった。つまり、神はご自分に従う者を決して見捨てられず、辱めが辱めで終わらず、苦難が苦難で終わらず、死が死で終わらないことを、予め知っておられたからである。だから、我々聖徒たちも同じように、自分が低められ、卑しめられる時に、落胆するようなことはなく、むしろ、一つ一つの苦しみに対して、天でどんなに栄光に満ちた報いが待ち受けているかを確信しつつ、この天の褒賞をまっすぐに見つめて、喜ぶ。

信者は、キリストの新しい命が、地上で受けるどんな損失をも補って余りあるものであることを確信しており、地上で起きる苦難には目もくれず、天に備えられた栄冠が、すぐそこに見えており、すぐ手の届くところにあることを知って、それだけを見つめて喜ぶのである。

ある信徒は言った、「悪魔は本当に愚かです。悪魔は、キリストを殺せば、復活という、悪魔が最も恐れる出来事が起きてしまい、悪魔の最大の武器である死が打ち破られて、役に立たなくなることを知っていたのです。それにも関わらず、地獄の軍勢は、抑えがたい殺意によって、キリストを十字架につけて殺害しないことがどうしてもできなかったのです。彼は自分で自分にとって最も不利になることをやってしまったわけですね。」

これは信徒が遭遇するあらゆる患難に同じように当てはまるであろう。信者たちは、至る所で、憎しみや、反目や、敵意や、辱めや、殺意にまで遭遇する。地獄の軍勢は彼らを見て歯ぎしりし、聖徒らの背中を踏みつけて、「自分たちは勝った」と誇るであろう。しかしながら、その次の瞬間、思いもかけないことが起きる。聖徒らの受けた一つ一つの苦難の中に、「十字架の死と復活」の原則が働いて、暗闇の軍勢が駆逐され、天の収穫がもたらされるのである。暗闇の勢力が占拠していた地には、復活の旗が立てられ、すべての名に勝る名を持つ方が高く掲げられて、この方が、すべてのものを足の下に踏みつけられる。サタンは彼のかかとで踏みにじられ、聖徒らもこの方と共に高く上げられて栄光にあずかり、共に喜ぶのである。

もちろん、私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:4)という御言葉が完全な形で成就するのは、キリストがやがて再び地上に来られる時である。だが、その時を待たずして、この地上で彼を待っている間にも、聖徒は様々な患難を通して主と共に栄光にあずかり、常に来るべき時代の栄光の前味を知ることができるのである。

この法則は、自分が低められることを拒み、ひたすら自分の正しさだけを主張して、人前に自分を義と認めさせようとしている世人や暗闇の勢力には決して理解できないものである。

今日、「人造のキリスト教」であるキリスト教界は、パウロやステパノのような弟子たちよりも、むしろ、彼らを迫害したユダヤ人や律法学者に似たものとなっている。そこにいる人々は、あらゆる努力を払って、人前に立派な善人と見られ、敬虔な信徒と認められようと、外見を飾り、熱心に奉仕に励み、自分の正しさを人前で主張することをやめられないでいる。彼らはあまりにも心頑ななので、人前に自分を折ることができず、己が罪を認めることもできず、熱心さの上にも熱心さを増し加え、ひたすら努力によって神に到達することが可能であると考えている。そして、彼らが神に至る手段だと思っている熱心な奉仕を否定する者が現れると、尽きせぬ憎悪をむき出しにし、教会から追い出し、迫害を加える。

だが、見落としてはならないのは、クリスチャンは一体、誰の目に義と認められる必要があるのか、という点である。私たちは、神の目に義と認められたいのか、それとも、神を知らない世間の目に認められたいのか、あるいは、クリスチャンの世間の目に認められたいのか、自分自身の目に正しい存在と認められたいのか。

外見的に自分を正しく見せかける能力に長けていることは、人にとって極めて不幸なことである、と筆者は思う。なぜなら、そのような能力が巧みであればあるほど、その人は十字架の死の意味が分からず、己を低くすることもできず、それゆえ、復活の命に至るチャンスが失われるからである。彼らは、自らの巧みな演技によって他者を欺くだけでなく、自分自身をも欺く。自分でイチヂクの葉で編んだ衣装、自らの手で建設した城壁に夢中になって、自分はこれほどまでに精進したのだから、すでにひとかどの人間になったはずだ、と思い込み、自分と同じように精進に励む仲間と一丸となって、人に対してだけでなく、神に対しても、自分たちを集団的に義と認めさせようと迫るのである。

だが、神はそのようにして人間の振りかざす義を退けられる。神が認められるのはキリストだけだからである。聖書にはこう書かれている、キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:6-11)


ここに、キリストが神の御前に高く上げられたのは、まさに彼がご自分を徹底的に低められ、十字架の死にまで渡されるほど、低められたためであることが分かる。だから、今日、キリストにならって己を低くすることのできない者が、天の栄光にあずかることは絶対にない、と私たちは言える。

こう考えると、自分の義を人前で捨てることができない人間ほど、哀れな存在はない、と言えるだろう。神の御前で己の義を誇って罪に定められたパリサイ人に連なるよりは、そのパリサイ人に罪人と蔑まれ、神の御前で悔い改めて義とされた取税人に連なる方が、人にとっては幸いではないだろうか。自分の中にはいかなる義もないことを認めて、自力で自己を改造して神に達しようとの努力を一切放棄して、自分自身がどうあろうと、ただ恵みとして与えられた神の義にすがることである。キリストの義こそ自分にとっての義であることを信じて、自分自身の努力によらず、これを信仰によって受けとることである、

贖われてキリストのものとされた信者は、もはや決して人の目に自分がどう映るかという基準で、自分を見たり、規定したりしてはいけない。信者がクリスチャンの世間を気にして、人前に敬虔な信者として自分の見てくれを整えようとすることは、極めて大きな誘惑であり、罠である。贖われた人々であっても、その罠に陥ることはありうる。ひとたび、信者が、神が自分をどうご覧になるかという基準でなく、人の目に、世間の目に、自分がどう映るのかという基準で、自分自身を推し量り始めると、その瞬間に、信者は蜘蛛の巣のように錯綜するこの世の人々の思惑に捕えられて自由を失い、信者に与えられた神の完全な義は曇らされ、信者は恐れの念に駆られて、聖書が教える通りに、神の福音を正確に宣べ伝えることが不可能になってしまう。

だから、信者は、バプテスマを通してすでに水に沈んだものを振り返るべきでなく、死んだものの名誉を気遣うべきではないのである。振り返ってはならないものの中に、信者の過去、信者の自己も含まれている。死体のあるところにハゲタカが集まっていたとしても、そんなものは注意に値する現象ではない。死んだ者には名誉も利益も存在しないのである。キリスト者が真に目を注ぐべきは、バプテスマを通して、水から上がった時に、天から注がれた喜び、神から受けた義認、死を経ることによって内側に生まれた、キリストに連なる新しい人、ちょうどノアが洪水を経て初めて足を踏み出した新しい大地に感動し、紅海を渡ったイスラエルの民が感嘆を込めて約束の地を仰ぎ見たように、信仰の人たちが焦がれ、待ち望んだ天の都を、つまり、キリストご自身を、どこまでも追い求めるべきなのである。信者はこの地上における生涯において、肉体の幕屋の中にあって、絶えず呻きつつ、キリストの十字架の死と復活に同形化されて、軽い患難と引き換えに、天の永遠の重い栄光を得る。それを通して、世人には決して分からない不思議な方法で、御心が成就し、天の御国に収穫がもたらされ、信者自身も主と共に栄光と喜びにあずかる。それが、信者がこの地上で信仰によって患難を通過することの意味なのである。
 
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。」(ピリピ1:21-22)

「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るため、目標を目指して一心に走っているのです」(ピリピ3:12-14)

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです

 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています

 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのですそれゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥とはなさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:5-16)



「イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」(マルコ10:29-31)

さて、我が家の成員が急遽増えたので、しばらくそちらにかかりきりになっていた。
鳥の雛が我が家にやって来たのだ!

毎朝、毎夕、我が家のベランダには可愛い雀たちが群れて挨拶にやって来て、つい先日は、手の届くほどの距離で物干しさおにちょこんと止まっていたが、鳥好きの私としては、雀を眺めているだけでは物足りない。

むろん、我が家のメンバーはすでに存在しているのだが、もう少し成員を増やしたいと願った。

以前の記事にかつて起きた小鳥の落鳥のことを書いた後、言葉が足りなかったなと思うことがあった。「主が与え、主が取りたもう」・・・、このストーリーには確かに続きがあるが、まだそれを書いていないからだ。

は与え、は取られる。主の御名はほむべきかな。」(ヨブ1:21) これはヨブの言葉であるが、主は取られることもあれば、必ず、その後、以前よりも豊かにお与え下さる方なのである。

それが証拠に、ヨブはサタンの試みにあって家族を失い、一時は一家全滅の寸前まで追いやられたのに、物語の最後では、前よりも豊かになっている。

このように、むろんヨブほどの試練ではないにせよ、何かが我々の生活から取り去られる時、いつも主にあってそれを小さな十字架として受け止めるならば、しばらくの悲しみの後に、前よりももっと豊かな祝福が与えられる。

それがどんなきっかけで生じた損失であれ、法則は同じなのである。自分の過失であれ、誰かの裏切りであれ、偶発的な事件であれ、何が原因で生じたものであれ、すべての痛みと損失を主に持って行き、主にあって、これを日々の十字架として受け取り、「主が与え、主が取りたもう、主の御名は誉むべきかな」と宣言するのである。

すると、そこに死と復活の法則が働く。そして、不思議と受けた損失を補って余りある祝福が天から与えられるのである。

私はこのことをよく経験して来た。

だから、きっと小鳥もそうに違いないと確信していた。案の定、探すと不思議な幸運で、大した苦労もなしに、ちょうど雛のシーズンが終わる前に、実によく人馴れした愛らしい鳥たちに出会うことが出来た。

それは願った以上のものが向こうからやって来るほどで、頼んでもいないのに珍しい鳥が集まって来るのである。

しかし、これは鳥に限った話ではない。以前に、あるキリスト者に向かって、ロシア語の練習の機会が欲しいのだと話した時に、こう言われた、「ヴィオロン、それはね、ロシア人よ、私のもとに集まれ!と命じるんだよ」と。その時にも、実際に不思議とそうなって行ったのだが、今度は鳥である。(鳥と同列に論じられるとロシア人は怒るかも知れないが。)

キリスト者は自らの言葉によってさまざまな出来事を主と共に創造している。だから、どのようなことであれ、主の栄光になるように語ることが大切である。「主は与え、主は取りたもう。しかし、主の御名はほむべきかな、主は我々のすべての必要と心の動きをご存知で、私たちの地上の人生は、痛み苦しみだけでは終わらないのだ…」

むろん、誰しも、大きな別離を経験したすぐ後に、立ち上がって再び出会いを探そうというのは無理な話である。そんな不自然なことをする必要はない。悲しみたい時には悲しみ、涙を流すべき時には思い切り泣き、目いっぱい、人として自然な生活を送り、そして、立ち上がり、望む気力が出て来たときに、新たな出会いを模索するのである。それはペットであれ、仕事であれ、人との出会いであれ、みな同じである。主は絶対に人の心の自然な動きに反するようなことを求められない。

だが、信仰者が信仰によって望みを抱いて立ち上がるなら、そこから、常に新しい展望が開けて来る。それは信者の歩みが主との二人三脚だからである。

十字架の死と復活の法則は、すべてのことを信仰によって主の御手から受け取る時に確かに生きて働く。良いことも、悪いことも、喜ばしいことも、悲しいことも、何もかもすべてを主の御手から受けとるのである。

そして、主こそ、それらすべての現象をご自身の栄光に変えることのできる方であることを信じるのである。

それは日々起きるすべての出来事の中での信仰による一瞬の手続きである。何も考えずにただ現象に振り回され、左右されるのでなく、すべての出来事の只中にあって、主を見上げ、すべてのことを主の御手から受けとることを、あえて信仰によって宣言するのである。

そうすると、悲しみや苦しみでさえ、まもなく新たな喜びへと変えられて行く。何かが失われたように見えても、しばらくの後に、溢れるほどの祝福が返って来る。その不思議ないきさつを見ていると、おそらくは、そこに日々の十字架の働きが――死と復活の命の働きが確かにあるのだろうと想像するしかない。

私は十字架の恵みに満ちた喜ばしい側面だけを強調しようとは思わない。主に従う上で、苦しみは確かに避けて通ることができないと知っているからだ。セルフがキリストと共に十字架の死に同形化されることに、痛みが全く伴わないはずがない。

しかし、それでも、キリスト者の人生とは、苦しみの連続には終わらない。ダビデが謳ったように、慈しみと恵みとが生きている限り、キリスト者を追って来るのである。

そして、当ブログに書いて来た通り、これまで筆者が出会ったクリスチャンを名乗る人々の間では(むろん、彼らはとても信者を名乗るに値する人々ではなかったのだが)、裏切りや離反や密告や誹謗や讒言や、誰も目にしたくもないさまざまな偽りの光景が目の前で起きて来たが、同時に、これらの損失(?)を補って余りある祝福もまた上から与えられるのだと信じている。

人の人生を食い荒らすことしかできないバッタやイナゴのような無価値な一群とは別に、人に喜びを与え、そのさえずりによって安らぎをもたらす美しい鳥たちの群れも飛んで来ることであろうと確信している。

私は何もこの手に握らない。これだけは私のものだ、これだけは取らないでくれ、としがみつくものはない。
それでも、聖書には書いてある、信仰者は主の御名のために失ったものの百倍を受けるのだと。今の世でも、来るべき世でも、豊かな報いを受けるのである。(来るべき世には家というものがないので、永遠の命を報いとして受ける)。回復されるものの中には、兄弟姉妹も含まれている。これには信仰による兄弟姉妹も含まれると私は確信している。

だから、ヨブが失った家や娘息子たちを再び主の御手を通して得たように、失われたクリスチャンの兄弟姉妹たちも再び得られる時が来るだろうと確信している。ちょうど、海の向こうから贈り物を携えてやって来る外国人たちを信仰によって呼び出したように、すべての生活の必要と、兄弟姉妹を、呼び出すのである、御言葉に基づき、信仰によって――。




「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(03/20)
(03/05)
(02/28)
(02/22)
(02/17)
(02/15)
(02/14)
(02/11)
(02/04)
(01/31)