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 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。


あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

* * *

全く不思議なことで、このところ、キリスト教徒を名乗っていない人との間に、信仰の交わりのようなものができ、神を知らないはずの人から、筆者は神の愛を知らされている。
 
筆者は、とても敬愛しているある権威者の言葉を通して、適宜、神から必要な助言を送られているような具合である。

これは実に不思議な交わりであって、信徒の交わりというものを、久しく失って、孤独を感じていた筆者にとっては、まるで神が、筆者の心の願いに応えて、慰めを与えて下さったように思える。

その人は、筆者に言った、無用な対立を一切避けなさいと。そして、こう言ったのである、筆者は、その権威者の代理人も同然であって、筆者の存在は、もはや筆者だけのものではなく、その人自身でもあるのだから、筆者がその権威者自身であるかのように振る舞いなさいと。

現実の筆者には、何の権限もなければ、職責があるわけでもない。むしろ、単なる使用人の立場である。ところが、その人は、あたかも筆者にその人自身の持っている高い職責や、大いなる権威や、権限が付与されているかのごとく、筆者は筆者だけのものではないから、その人自身のように行動しなさい、と助言したのである。

その人は、もちろん、筆者の信仰のことも、訴訟のことも知らず、筆者の身内でもなければ、キリスト教徒でもない。なぜにそのような発言がなされたのか、その交わりが何であるのか、筆者は知らない。
 
だが、その忠告は、実に深い意味を持っており、私たちキリスト者一人一人が、神の代理権威であって、神は私たちを本当に神御自身に似た者とされ、私たちを彼の栄光の高みにまで引き上げようと願っておられることを、筆者に想起させた。

以下の御言葉の通りである。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

似た者・・・という言葉には、まだ多少の距離感が残っているように感じられる。しかし、キリストと教会の関係は、「二人は一体」なのである。そこには、決して切り離すことのできない完全な一致、一体性が存在している。

そのようにして、神は信じる人を、ご自分と瓜二つになるほど近づけ、そこに完全な同質性が生まれるまで、一致させようとしておられるのであり、ご自分が持っておられるすべての富、栄光、威光、尊厳、栄誉、尊いご性質のすべてを私たち信じる者と分かち合おうと願っておられる。

そういうことは、今までの筆者には、御言葉の知識としては存在していたが、まだ現実としては理解されていなかった。しかし、目に見える人の助言が、筆者にこれを至上命題のごとく、目の前に突きつけたのである。

主に似た者とされるという栄化は、空を見上げて待っていれば、降って来るようなものではない。それは、約束としては与えられているが、その実現は、私たちの側からの積極的な応答にかかっており、筆者自身が、それを現実として受け入れるかどうかにかかっている。

そして、さらに分かったことがあった。それは、神が人をご自分に似た者とされる、とは、神が人の心を、ご自分から二度と引き離したくないというほど、強く愛しておられ、他のものを一切見ないでもらいたいと願っておられる、そういう排他的な愛と、密接な関係があるということである。

聖書における神と人との愛は、排他的な愛の関係である。雅歌の次の御言葉もそれを示している。

「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7) 
 
「熱情」と書かれているところは、「妬み」とも訳されている。
 
筆者に分かったことは、神の愛から人を引き離すすべてのものに対して、神は妬みの炎を燃やされる、ということである。

筆者は、貴重な助言を受けたように感じたが、すぐにはそれに従えなかった。なぜなら、筆者から見て、神はあまりにも高いところにおられ、私たちからはそこからあまりにも遠く、卑しい私たちが、神に似た者として振る舞うなど、あまりにも大それたことであって、要求されても、すぐには実現不可能と感じられたからである。

そこで、筆者は、依然、生まれながらの人間のように振る舞い、神の偉大さ、完全さに注目するのではなく、自分自身の限界、不完全さに注目して、色々と嘆き、不満を述べ、無理だとつぶやいていた。だが、そうした嘆きや不満が、実は、神との一体性を何よりも損ない、筆者を神から遠ざける要因となっており、神はそのようなすべての隔てとなる要因を何よりも非常な怒りを持って憎まれ、筆者の心を神から遠ざけるすべてのものに対して、妬みの炎を燃やされる、ということが分かったのである。
 
聖書における神の妬みとは、要するに、神ご自身と、信じる者とを隔てるすべてもののに対する、神の尽きせぬ憎しみを表しているのである。

悪魔と暗闇の勢力は、信じる者の心を、常に神の愛から外に引き出そうと試みるが、筆者はただ真直ぐに、神だけを信頼して見つめなければならないのであって、横道に逸れてはならないのである。そうして初めて、神の完全性、栄光、威光、尊厳が筆者自身にも分け与えられる。

もしもそこから目を離し、別のものに注意を向け始めると、神ご自身との一体性は損なわれ、私たちの尊厳は曇らされ、損なわれる。神は信じる者の注意を、もう一度、ご自分に引き戻そうとされるが、神は不従順を非常に憎んでおられるため、不従順は罰を伴い、神は信じる者の注意をご自分から奪うものすべてを憎まれ、妬みの炎を燃やされる。

もしも信者が、神との一体性を損なうものを、心の中で手放さず、それを依然、心の中で抱きしめて進んで行こうとするならば、信者は、たとえそれがサタンであっても、自分が心の中で注目しているものと一体となり、やがて神は、信者をご自分から引き離した敵だけではなく、敵と言一体となったその信者自身にも、妬みを向けて、手のひらを返して、信者を憎むべき者と共に滅ぼされるだろう、ということが分かって来たのである。

正直な話、筆者には今まで、聖書における神の妬みというものが、どのような性質のものなのかが、今一つ理解が及ばなかった。妬むほどまでに愛するということの意味が、はっきりとは分からなかったのである。だが、現実に起きた出来事を通して、不従順が、あっという間に、神と信者とを隔て、その一体性を損なうものであること、また、それが、愛による一致を妨げ、死と断絶と呪いを招き、やがては信者自身が神の敵と化する原因とまでなるものであることが分かった。

神は高きにいまし、威光と尊厳を身にまとい、すべてのものを超越して、御座から支配される方であるが、私たちから決して遠くにおられるのではなく、常に私たちと共にいて、共に支配して下さり、私たちをその支配下に置いて、守って下さる。だから、私たちはその懐に安心して飛び込み、そこで安らぎ、安息すべきなのであって、愛する御子の支配から一歩たりとも、外に出るべきではないのである。

そこで、筆者は、自分自身も、神ご自身の完全性、その安息、栄光と尊厳から、筆者を遠ざけようとするすべてのものを憎み、退けねばならないことに気づいた。そうして、ただ神の愛の中だけにとどまり、それに浸され、何があっても、心をそこに留め置くよう、そこから心を逸らされることがないよう、自分を律しなければならないと分かったのである。
 
* * *

さて、控訴審では、重要な和解協議が開かれている最中であり、さらに当ブログに対して様々な権利侵害を繰り返して来た掲示板に対する法的措置も進行している。

この非常に重要な時期に、ある牧師が、またしても、色々な非難を筆者に対してしかけていることが分かった。筆者は一つ前の記事に、訴訟に関する記事はこれが最後になるかも知れないと書いたにも関わらず、筆者が訴訟に関連する記事を次々に書き始めることを恐れ、先手を打ったものと見られる。

むろん、彼の主張は嘘であるから、いくらでも具体的な反論は可能なのであるが、筆者は、以上に挙げた、筆者にとって非常に敬愛する人からの助言を受けて、反論の記事を、あえて掲載しないことに決めた。

さらに、筆者は、現在、和解協議中であるから、そこでの筆者の提案が、真実であることを示すために、ある人物に関する記事をホームページから外すことに決めた。

筆者は、その人物は、これまで教会でさまざまな仕打ちを受けたがゆえに、多くの傷を負っており、それゆえ、ブログで現在の教会のあり方に対する反対意見を表明せざるを得ない事情があったことを知っている。

とはいえ、筆者は、そうした活動が、その人の生涯に渡る主要な活動になって欲しくないのである。訴訟においては、精力的に書面を書き記すことができ、また、ブログでも旺盛に記事を書いて、ある時は日に5千人に達するほど、多くの人々の注目を集めることができ、学問の道でも、それなりに成果をおさめ、人的ネットワークを作り上げることが得意であったその人には、これ以上、無益な法廷闘争は似合わないし、そのようなものは、性格的にも合わないため、無益な心労にしかならないものと思う。

そこで、筆者は、今後、その人には筆者との無益な闘いに人生を奪われることなく、自分の持っている力を、人の役に立つ活動に割いてもらいたいと願っており、その願いが、真実であることを示すことにした。

その人物は、非常な幸運に見舞われており、かつてある牧師から提訴の予告を受けたのに、提訴されることもなく、その牧師に告訴された信徒は、相当にひどい扱いを受けたのに、彼自身は、その信徒とは、全く異なる扱いを受けている。そのことは、ただ幸運というだけではなく、やはり、その人に対する神の愛と憐れみの大きさを示しているように筆者には見受けられる。

筆者は、神が惜しみ、憐れみをかけ、愛を示しておられるものを、筆者のこの手で壊そうとは思わない。そこで、今後の歩みの妨げとなるものを残したくはないと考えており、その言葉が真実であることを示すために、約束に先駆けて、記事を修正して行くことに決めた。

これを筆者の「敗北宣言」と受け取りたい人が出て来たとしても構わない。一体、何のための訴訟だったのか。誰に勝利し、何の収穫があったのか。そう受け取りたい人たちには、そう思わせておけば良い。
 
いずれにしても、筆者が判決を通して受けた宝とは、勝訴などという言葉ではおよそ呼べないものであった。筆者は、この訴訟の判決を受けて、自分自身が見えない命を受け取って、死からよみがえらされて生かされたのであり、さらに、判決も筆者と共に、死をくぐって生かされたと考えている。

筆者はこの訴訟とその判決のおかげで、心に敬愛する人ができ、新しい人生のフィールドを見つけ、筆者が判決を手に進んだ新しい分野においても、尽きせぬ敬意と愛情を持って関われる人を見つけた。

筆者はできるなら、この訴訟を担当してくれた裁判官が、横浜の街にいるうちに、何かしら関わることができたらと思ったが、時すでに遅しであった。だが、神は、筆者の心の寂しさを知っておられ、その裁判官に代わって、新しい助言者を筆者のもとに送って下さり、その人のもとで、筆者の訴訟と判決は、命の交換を伴う「交わり」に転換したのである。

筆者は、裁判官に代わって、新たな友となった権威者から、これ以上、訴訟を提起してはならないと言外に忠告されているように感じている。神の法廷で、サタンと共に主張を争ったことは、筆者にとって極めて重要な体験であり、貴重な成果であったが、神は筆者の勇気をたたえると同時に、これからはただ神にのみ目を向けなさいと筆者に言われ、神の愛の中にとどまるよう求めておられる。

まだせねばならない訴訟の残務処理は色々と残っており、進めねばならない手続きはあるとはいえ、筆者はこの先、決して魔女狩り裁判に関わることはないし、そんな時間もないと、はっきり言っておきたい。
 
今、新たな世界が筆者の前に開けており、神と筆者との間を隔てていた隔ては、より一層、取り除かれ、愛による一致の関係が始まった。遮蔽の措置の中にいる筆者を、高みから見つめていた裁判官の眼差しは、新しい権威者・友の眼差しに置き換えられ、さらに、そこには、天から神ご自身が筆者に注がれる愛に満ちた眼差しが重なっている。

あなたの心を私に与えよ、と主は言われる。わたしの愛から引き離そうとするすべてのものから、あなたの目を離し、あなたの心をただわたしにのみ与えよと、神は言われる。

その呼びかけに応答した時、聖化に続き、栄化という、信仰の第二のステージが始まるのであり、私たちは、原告席から、法壇の高みへの招かれ、いや、地上から、御座の高みへと招かれ、主に似た者へと変えられて、主と共に統治するという「変容」が起きる。

エクソダスは完了し、箱舟から新天地へと私たちは足を下ろす。過去の残滓は、もうないか、あったとしても、ことごとく取り除かれる。そして、神が人とともに住まわれ、人と共に生きられる人生が始まる。敵はまだ存在しているものの、私たちから遠ざけられ、触れることができない。そこは、復活の領域であって、そこに神と私たちを引き離すものはもうない。

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「わたしを刻みつけてください。
 あなたの心に、印章として
 あなたの腕に、印章として。

 愛は死のように強く
 熱情は陰府のように酷い。
 火花を散らして燃える炎。
 大水も愛を消すことはできない
 洪水もそれを押し流すことはできない。
 愛を支配しようと
 財宝などを差し出す人があれば
 その人は必ずさげすまれる。」(雅歌8:6-7)

キリストの復活の命は、無から有を生み出すことのできる命であり、この世の経済も、人間関係も、仕事も、すべてを支配し、キリスト者にいつでも必要な助けを供給することができる。

とはいえ、それらはあくまで私たちの精神的生長にふさわしいレベルにおいて、一歩一歩、実現する。私たちが主の死と復活の命を知ったからとて、いきなり一足飛びに億万長者になるとか、桁違いの賢人に引き上げられるというわけではない。

私たちの無力に見える人間的な要素の只中に、キリストが働いて下さり、すべての必要を満たすに十分な不思議な秩序が生まれるのである。

良い人間関係を得るには、キリスト者の人格的生長が必要である。たとえば、本人が無知である間は、周りにも、無知な人々が取り巻くであろうし、心の生長と共に、価値ある尊い人々との出会いが生まれて来る。

今、十年来、筆者の周りで続いて来た混乱に満ちた紛争が、終わりを告げようとしている。筆者の周りには、どんなことが起きても、筆者を決して見捨てず、裏切らず、そして、筆者の言い分の正しさを信じて、筆者の心の求めに応答してくれる人々が現れ始めたためだ。それは敵が長い間、蒔き続けて来た、分裂や、疑心暗鬼といった作戦が、ついに功を奏しなくなって、打ち破られたことを意味する。

しかし、そのように信頼できる人々が現れたのも、筆者自身が、彼らを命がけで愛し、従い抜こうと決意したことの結果であって、筆者が全く心を開かないのに、人々の側だけで、心を開いてくれたり、筆者を信じてくれることはない。

ある意味で、自分が人に与えたものだけが、自分に戻って来ているのだと言うこともできよう。
 
ところで、人に対して心を開くことは、裏切られたり、誤解されたり、離反されたり、不意の別れに至るリスクをも負うことを意味するから、容易なことではない。何より正直であらねばならないため、常に自分の心を試される。もちろん、信頼できる相手を見抜くための十分な知識と経験も必要となることは確かだが、人間関係に初めから100%の保障などというものがあるはずもない。

私たちは、常に様々な試練によって翻弄され、試されながら、自分で望んでいる関わりを、自分で作り上げて行くのである。状況や、相手の態度が、結果を決めるわけではない。物事の最終決定権を持っているのは、私たちキリスト者自身であり、私たちが心に信じ続けたことだけが確固として実現するのである。
 
2009年にキリストの十字架の死と復活の意味を知って以来、筆者は神に従う道を選びつつ、人間の指導者につき従うことを避けて来た。ところが、ここに来て、信仰者でないにも関わらず、目に見える人間としての地上の権威者に対し、神に従うのと同じように、従い抜くことの意味を教えられている。

そこには非常に不思議な、信仰者の交わりにも似た、えも言われぬ満足をもたらす関わりが存在することが分かった。
 
それは宗教団体とは関係のない、ごくごく普通の生活の中で起きていることである。

聖書はこう述べている、「奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22-24)

これは奴隷制のあった古代ローマ帝国の時代に、奴隷たちに向かって述べられた言葉であり、現代では、奴隷制度の肯定のためかと批判を受けることもあるかも知れない。確かに、奴隷制度は様々な理不尽をはらんでいたとはいえ、聖書はそうした制度の理不尽さを強調して、制度の廃止のために運動を起こすことなどを決して信者に奨励してはいなかった。

むしろ、各時代に、どんなに不合理な社会制度があっても、キリスト者は、あくまで地上において定められた主従関係や、社会の秩序を守りながら、その秩序を転覆させることなく、信仰のない主人に対しても、キリストに従うように従いなさい、その従順によって神に仕えることができる、と教えていたのである。

筆者はここしばらく、以上の御言葉の確かさを教えられている。信仰のない人々のもとで、地上の主人に従いながら、神に仕えることが、実際に可能なのだということを知らされている。

しかも、力づくで脅されて従うのではなく、生活のためにやむなく嫌々従うのでもなく、あくまで自由な意思により、真心から、主人に仕えなさいと言われているのであって、そのような関わりを打ち立てることは、実際に可能なのであり、それによって、天における報いを得ることができると知らされている。
 
それにしても、筆者の人生において実現している物事は、すべてが信仰によって呼び出されて来たものばかりである。

筆者はキリスト者の交わりに属していた頃も、新たな交わりに足を踏み入れる前には、必ずと言って良いほど、兄弟姉妹の心を得られるように、主に祈った。「主よ、あの人の心を私に与えて下さい」と、あまりに大胆かつ率直な祈りをしていたことを、しばしば兄弟姉妹にも、語ったくらいである。

それは、筆者が、見知らぬ交わりの中に出て行こうとする時、自分の生来の力を頼みとして、人々との関わりを築くことができないのを分かって、恐れを感じつつ、ただ主の御名のゆえに、自分がそこで受け入れられ、願っている交わりが実現するよう、神に求めたものであった。

そして、神は筆者がやむにやまれぬ思いから、新たな交わりに足を踏み入れる必要を覚えていることを知って下さり、必ずと言って良いほど、願いに応えて下さり、ほとんど特別と言っても良いほどに親しい交わりを与えて下さったのである。

筆者は、通過したほとんどの交わりにおいて、最も重要な部分を目撃し、必要不可欠と思われる体験を得ることができたと考えている。筆者が自らそれを手放すまでの間、その交わりは有意義であり続けた。だが、当時の筆者は、信仰の有無に関わらず、あらゆる人間関係は、暗闇の勢力によって激しく試され、その試練を乗り越えたものだけが、永遠に価値あるものとして残るのだという事実を知らなかった。

筆者が属した交わりにおいては、絶えず分裂、敵対、信頼関係を破壊するための様々な陰謀や工作がはりめぐらされた。それらすべての策略を乗り越え、信頼関係を守り抜かなければ、交わりを有効に保つことができないという事実を、筆者が知らされるまでには、相当に長い月日と、痛みに満ちた経験がなくてはならなかった。

そうした試みのすべてを耐え抜くためには、ただ現実的な策を講じるだけでは不十分であり、何より自分の心で、大切にしている人々や価値を、最後まで手放さずに、守り抜くための激しい防衛戦が必要となった。

目に見える状況に変化が起きるよりも前に、まず自分自身が、その交わりが、どれほどの疑いの中でも、神聖さを保たれ、守り抜かれることを信じ切らねばならないのである。心の戦いを突破したものだけが、現実生活において、揺るぎない価値として守り抜かれるのであって、防衛を諦めてしまった時点で、結果は確定する。

それが、とりなしの祈りの効果でもあるのだが、それには、とりなしの祈りなどという一般的な言葉では表現しきれないほどの意味がある。愛する人々を、絶対に一歩も退かないという強い覚悟と決意のもとで、敵の陣営から行われる激しい攻撃と圧迫の中から断固、守り抜く姿勢が必要となる。そうした激しい心の戦いに勝利をおさめ、自分の心のすべての恐れを自ら打ち破って、尊い価値ある交わりを保たなければならないと分かったのは、様々な試練によって、実に多くの交わりが、壊滅的なダメージを受け、破壊され、離散して、だいぶ後になってからのことであった。

私たちは、敵のあらゆる攻撃から、自分たちの交わりを信仰によって守る必要がある。そうして敵の放つ死の力によって触れられることなく、それによって滅ぼされなかったものだけが、復活の領域に移行し、揺るぎない価値として残るのである。

そのようなわけで、筆者が受けた判決文も、バプテスマを通過することを求められた。判決を放棄せよと求められたこと自体が、筆者にとって、一種の「死」を意味した。これは王妃エステルが王の前に進み出るに当たり、死を覚悟した瞬間にも似て、筆者が、価値ある宣言を守り抜くために、与えられた試練であった。

だが、こうして判決文が筆者と共に、信仰よって試されることになったのは、非常に良い契機であり、また必要不可欠な試練だったと言える。なぜなら、それによって、私たちは新たに死をかいくぐって、復活の世界に移行することができるからである。

筆者はすべての恐れに打ち勝って、これを守り抜くことができると確信している。そして、洪水のあとには、静けさと平和が訪れ、以前のような戦いはもうなくなることも。その領域に移行した時こそ、以下の御言葉を大胆に宣言できるだろう。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます。
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。

 主は必ず良いものをお与えになり

 わたしたちの地は実りをもたらします。
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

このような天的秩序が実現するためには、私たちが深く主の死の中にとどまることが必要であり、それだからこそ、筆者が大切にしている価値は、常にあらゆる方法で試され、信仰によって試され、死を経由して復活の領域に移行し、そこで目に見えない永遠の証印を押されなければならないのである。

判決文は、筆者にとって、初めから、死んだ文字ではなく、実に不思議な効力を及ぼして、筆者に生きた命に溢れる出会いを与えてくれるものだったのだが、それが復活の領域に移行した後では、今まで以上に、不思議な効力を持つものへと変わるだろうと思う。

それはもはや紛争当事者に対する法的宣言などという意味合いをはるかに超えて、永遠に至るまでも変わらない、神から筆者へ向けられた愛の宣言のような効果を持つものとなり、常に筆者の生きているそば近くに、この地にいつまでも約束としてとどまり、筆者のみならず、筆者の死後に至るまで、広域に渡り、影響を及ぼすだろうという気がしてならない。
 
主を畏れる人に救いは近く
栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 
それは未来に起こることでありながら、同時に現在起きていることなのであり、筆者は、信頼する人たちと共に、その宣言がもたらす洪水のような愛の只中にすでに立たされていることを感じている。その生きた宣言あればこそ、現在の人間関係も与えられたのであり、その交わりはこれから生長し、深まって行くものなのである。

判決文に限らず、すべての言葉は、筆者から見ると、実体を呼び起こすための命令である。命令としての効力を失って、抜け殻となった言葉は、もはや言葉とは呼べず、単なる死んだ文字の羅列でしかなく、筆者は、そういうものを憎んでいる。

だから、法的効力を失った判決文などというものを、筆者は考えることさえできないのであって、元来、言葉というものは、およそすべてが命を保った、実体の伴う、生きた効力を持つものでなければならず、権威ある命令でなくてはならない。

私たちキリスト者は特に、自分は神の力ある御言葉によって生かされているのであって、目に見えるすべてのものは、神の言葉によって保たれていることを信じている。その言葉とは、うわべだけの文字の羅列でなく、神が最初に天地を創造され、「光あれ」と命じられた時と同じ、真のリアリティとしての言葉である。

だから、判決文が、その効力を保つかどうかという問題は、筆者にとっては、筆者自身の生死に直結しており、それはつまり、筆者が、この先、命なるキリストご自身を知って、その御言葉によって生かされることの絶大な価値を知った後の、生きた言葉の世界にとどまるのか、それとも、キリストご自身に出会う前の、一切の希望のない、死んだ文字の世界に自ら逆戻るのか、という問題に直結している。
 
それは筆者がエクソダス前の世界に戻るのか、エクソダス後の世界にとどまるのか、という分岐点でもある。

エジプト軍は、何とかしてエクソダスを押しとどめようと、武器を手に主の民を追って来るが、私たちはすでに紅海を渡ったのであり、時計の針を逆にして、エジプトに戻って罪と死の奴隷になることはできない。

筆者は、ただ時間軸を逆にできないから、キリストを知る以前には戻れないというだけでなく、新たな出会いによって生まれた愛の関係が、あまりにも強く、死によっても断ち切れないほど強いものであるから、それに出会う前の自分に戻ることは決してできないと言う他ない。

そのことは、人がキリストに出会って、花嫁なる教会として完成するためには、「その父と母を離れ」、すなわち、自分の生まれながらの出自に死んで、新たな出会いに向かうことが必要であるという次の御言葉にも重なる。

「「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:31-32)

ウォッチマン・ニーが、このことを『キリスト者の標準』の中で巧みに表現している。人類は、キリストの十字架を知って、救われる以前には、アダム、もしくは、モーセの律法(罪と死の法則)という残酷な「夫」に結ばれて、己が罪のゆえに絶えず責め立てられ、罰せられ、奴隷として売られ、過酷な生活を送っていたが、主と共なる十字架の死によって、その悪しき天然の関係が断ち切られ、キリストを新たな主人とする「再婚」が成立し、私たちは新たな自由な生活に入ったのだと。

エクソダス前の世界は、律法の支配する世界であり、そこには、罪と死の法則だけが働き、人は絶え間なく死の恐怖に脅されて、暗闇の勢力に屈従するしかない。それは不自由と、苦痛の満ち溢れた世界である。それは生まれながらの父母、すなわち、アダム来の出自が支配する世界である。

だが、神は私たちを暗闇の支配から連れ出し、愛する御子の支配下である、エクソダス後の世界へと導かれた。私たちはそこで生まれながらの「父と母を離れ」、新たな主人であるキリストに結ばれて、命の御霊の法則の中を、自由と安息の中を生きる。

「主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:17-18)

これは花嫁のベールアウトの瞬間であると以前に述べたことがある。ただ罪と死の法則から解放されるだけでなく、神と人とが、顔と顔を合わせて相見え、「似た者同士」へ変えられる。人類にとっては、弱く、劣って、みすぼらしい生まれながらの出自に死んで、神の栄光を反映し、キリストの性質を内側から付与されて、主に似た、新しい者へと変えられて行く過程である。

これが、キリストとエクレシアとの「結婚生活」であり、その生活は、私たちにあまりにも大きな平安、安息をもたらすものであって、そこには愛に基づく自由な関係が成立しており、栄光に満ちた変容がある。

そこで、このような絶大な解放、栄化の恵みが、信じる者に約束されていることを知ってしまった後で、再び以前の世界に、すなわち、「父と母」(アダム来の出自)に戻ることは、もはや不可能である。

そのような復活の領域へ向かう過程で、判決文のみならず、筆者自身や、筆者の人間関係や、筆者の交わりも、すべて絶え間なく、十字架を通るよう、試されており、死をくぐることによって、新たな価値としてよみがえらされている。

筆者の側で必要なことは、どんなに試みられても、心の中で、固く信頼を保ち、価値ある宝を手放さずに保ち続けることである。

保ち続けるとは、絶えずエクソダスを経て、復活の領域にそれらが保たれるよう、筆者にとってかけがえのない価値であるもの、人々を、絶えず守り抜き、かくまうことである。
 
それは言葉を変えれば、愛し、信頼し続け、呼び寄せ続けることを意味する。必ずしも、愛には愛で応答があるから、誰かを愛する、というものではない。地上でどんな関わりがあろうと、応答があろうとなかろうと、その関わりを決して手放したくない、敵に渡したくないと願うならば、自分の側からの愛と信頼を、どんなことがあっても、投げ捨ててはならないのである。

私たちが信仰の領域で、手放さなかった関係だけが、永遠に至るまで残り続ける。この法則性はすべてにおいて同じである。私たちの生活も、健康も、経済も、何もかもすべてが、私たちの信仰にかかっているのであって、信仰の領域において、私たちがあらゆる試みにも関わらず、確固として守り抜いて手放さなかったもの以外は、すべて滅びゆくものとして消え去って行くことになる。
 
そのことが筆者に分かるまで、相当に長い歳月が必要であった。だが、それを学習するために、最も必要だったのは、筆者が命を投げ打ってでも、自分自身がどうなっても構わないから、自分のすべてと引き換えにしてでも、守り抜きたいと思う交わりや、人々、価値に出会うことだったかも知れない。

キリストと信じる者とが、非常に強い信仰による愛の絆によって一つに結ばれているように、その他の人々との間でも、同じような強固な愛と信頼による連帯が、生まれることが必要だったのである。

神の御言葉は、相当以前から、筆者の心に蒔かれ、筆者の内側で発芽し、霊的には一つとなっていたが、筆者は、自分一人だけでは、主の御身体なる教会を完全に構成することができず、主の御思いを表すためには、団体に編成される必要があった。

敵はそれを全力で妨害し、筆者が決して人々と連帯しないよう、分裂や、悪評や、疑心暗鬼の種を蒔き、筆者を人々から引き離そうとしたが、判決は、そうして蒔かれた不信を打ち破り、筆者を信頼へと導き、筆者と人々との間に、確固とした協力関係、連帯が成立しうることの最初の強力な証しとなった。

主の御言葉が、筆者の霊に刻みつけられ、神との関係を再生させたように、人の書いた言葉である判決も、不思議な形で、筆者の心の中に刻みつけられ、筆者の人間関係を新たに再生させたのである。

そこで筆者は、以前には、信仰のためならば、命を賭しても構わないと、絶えず告白し続けて来たが、現在は、そうした生き方が、主に対して仕えるように、人々に仕え、人々を愛し、信頼するために、自己放棄するという生き方の中に実現するようになった。

以前には、筆者は、自分には確固とした信念があると思っていたが、今はかえって、人々の方に、筆者よりも、まさった信念、あるいは、高い目的があり、権威ある言葉や、宣言を発することができる人々がいることも分かったので、そうした人々を見ると、筆者は喜んで自分の考えを投げ捨て、彼らと共に協力して進んで行くようになった。

信仰者であるかないかはもはや関係がなく、信仰がなくとも、そこに信徒の交わりに非常に近い、それと同じくらい、愛情や、配慮に満ちた、強い信頼で結ばれた関係が成立している。筆者は、彼らに信仰がなくとも、自らの信仰によって、彼らを覆い尽くし、彼らを十字架のバリケードの中に入れてしまう。

そのように自由で新しい協力関係が、気づくと始まっており、筆者はもはや一人で生きているのではなく、キリストの目に見えない御身体なる団体の一員として召されている事実を発見した。また、そこで間接と関節をつなぎ、命を流し出すための管として置かれている役目が分かってしまったので、その役目を発見しなかった以前に逆戻ることはできない。

おそらく、生ける水を流し出すための干潟の掘削作業の中で、その水の流れを押しとどめていた最後の障害を、判決はぶち抜いて取り払ったのである。

だから、今や前から書いている通り、この不思議な名のついた土地から、全国に向かって、命の水が、生ける水の川々が、奔流のように流れ出す時が来ている。それはやがて洪水のようにすべてを覆い尽くし、やがて命が死を飲み尽くしてしまうだろう。

その頃には、筆者が辿って来た苦難の痕跡など、人が思い出すこともなくなるに違いない。筆者自身は、それを覚えているが、それも慰めや励ましによって、良き思い出に変えられていることであろう。

今、巨大なパイプラインからの放水作業が、すでに始まっているのであって、この作業はもはや何人もとどめることができないほどの勢いになろうとしている。

神は人々を死に至らしめるのではなく、立ち帰って生きることを望んでおられるのであって、尊い御子の犠牲の上に、神が自由を宣告された人々を、再び死の恐怖の奴隷とすることは、誰にもできない。

神が結び合わせたものを、人が引き離すことはできない。そこで、キリストとエクレシアとが強い愛と信頼の絆で結ばれているように、エクレシアの只中にも、愛や慰めや配慮に満ちた命が駆け巡っているのであって、一人一人はそこで助け合い、支え合う関係に置かれているのであり、これらをばらばらに分解して、再び出会わなかった以前に引き戻すことはできない。
 
主の民を追って紅海を渡ろうとしたエジプト軍は溺れ死んでしまった。主の民を絶滅させようと企んだハマンは木にかけられて吊るされた。筆者に命を与えた宣言を無効化しようなどと考える人々がいれば、かえってその人々自身が、命を奪われることになる。
 
筆者には、目には見えずとも、筆者のいる干潟から、命の泉がすでに激しい流れとなって湧き出ていること、祝福に満ちた流れとなって、筆者の周囲を潤していること、やがては洪水のような流れにさえなって行くだろうことが確信できる。敵にとらわれていた人でさえ、その様子を見れば、立ち帰って、その恩恵にあずかりたいと願うことであろう。

多くの人々が、敵の策略によって分裂、離散したが、同時に、信仰によって、多くの人たちを獲得し、さらにまさった交わりを得ることができた。その交わりは、未だかつてないような深いレベルに達しており、筆者の弱ったところや、欠けたところをも、覆い尽くしてし、互いの弱さをかばい、支え合うことのできる命の交換が確かに行われていることが分かる。

だから、いつの日か、紛争などというものがかつてあったことさえ、忘れ去られる時が来よう。それよりも、こうして、団体としての体が、少しずつ組み合わさり、生ける霊の家として生長しつつあり、御座から始まる、激しく、同時に、優しく、清らかで、澄んだ、生ける命の水の流れを、ようやくこの地から、本格的に流し出す作業が始まったことが、大きな喜びである。

この見えない事業の価値を確かに知っている人は、ほとんどいないが、筆者には、非常に長期に渡る壮大な事業が確かに開始したことが分かり、それがやがて多くの人々を潤すときを待ち望むだけである。
 
「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の満ちにとどまらず
 傲慢な者と共に座らず
 
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。

 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。

 神に逆らう者はそうではない。
 彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
 神に逆らう者は裁きに堪えず
 罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。

 神に従う人の道を主は知っていてくださる。
 神に逆らう者の道は滅びに至る。」(詩編第1編)

「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「私たちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、船に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。

イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが船に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。

イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」(ヨハネ21:1-14)


さて、このくだりについては様々な解説がすでに存在しているので、注釈を述べるつもりはない。今回、述べたいのは、筆者は「船の右側に網を降ろした」ということである。

日常で頻繁に使用していたある品が壊れ、買い替えのために、店に行ったが、専門店に行っても、長蛇の列。二軒回ったが、どちらも混雑していて、店員から2時間以上の待ちを宣告された。しかも、2時間から3時間待っても、手続きが終わる保証はなく、品ぞろえも悪いため、望みのものが見つかるかも分からない、などと初めから追い返そうとするような予告を受けた。
 
それら二軒の店は、どちらもが、いつ行っても、人件費を節約するためか、慢性的な人手不足の状態にあり、客は2~3時間待たされるのが通常で、混雑状況が改善される見通しもなかった。

そこで、外は炎天下であったが、筆者はためらいなくその店を後にして次の店に向かった。

一体、なぜ市井の人々は、あのように未来の展望のない死の雰囲気の漂う場所で、怒ることも、愛想を尽かすこともなく、まるでそれが当然であると言わんばかりの調子で、何時間も、辛抱強く行列に並んで待ち続けることができるのか、筆者にはまるで理解ができない。

筆者は一分一秒もそこにとどまりたくなかったし、そこで待っていれば何かが進展するとも思わなかったので、車を発車させて、三軒目へ向かった。そこは家電量販店である。そこならば、専門店と違い、その日は人々の興味が向かず、行列がなく、高圧的で不親切な店員もおらず、目的を遂げられるのではないかという、ちょっとした読みがあった。

幸いなことに、読みは的中した。その日、その店に、客は筆者の他に誰一人いなかったのである。そういうわけで、2時間も待ちぼうけをさせられていれば、何一つ完了できなかったはずの手続きを、2つも3つも終えて、店を出ることできた。

神は不思議なお方だと思った。どこへ行っても、待つのが当然と宣告されたが、筆者はそれを信じなかった。たかが2~3時間も待てないのか、何と短気なことか、などと言う人もあるかも知れないが、その2~3時間を使って、どれほどのことができるか、筆者は知らないわけではない。
 
「求めなさい、そうすれば与えられます。」「捜しなさい、そうすれば見つかります。」とある通り、あきらめずに探せば、心にかなうものは必ず見つかる。同じ手続きをするにしても、くたびれるまで待たされた挙句、ぞんざいな対応に情けなく惨めな思いをさせられながらではなく、心行くまできちんと説明を受けて、納得した上で、充実した時間を過ごすことが可能なのだ。やはり、自分の心にかなうものを探し出すまで、決して妥協したり、あきらめてはいけないと思った。

閉ざされている扉ではなく、開いている扉へ向かって進まねばならない。

だが、開いている扉を見つけるためには、世間の人々と、少し違った角度からものを考えなくてはならない。大勢の人たちが向かう「広き門」へ向かって、皆と同じ行列に並んでいたのでは駄目なのである。

知名度や、看板などに欺かれるのでなく、人の知らない道、踏み固められていない道、しかし、真実であって、偽りのない、誠実さの伴う道を探さなくてはいけない。

多分、その法則はおそらくあらゆることに当てはまるだろうという気がした。筆者は、控訴理由書を書きながら、本当に、プロテスタントという宗教とは(カトリックもそうだが)もはや、永久にさよならだと思わずにいられない。

筆者はキリスト教徒であるのに、キリスト教徒から見れば、異端に当たる宗教の信者が、プロテスタントの牧師から、カルト被害者救済活動(強制脱会活動)の対象とされて、著しい人権蹂躙を受けたなどということを、訴訟で主張せざるを得なくなっていることを極めて皮肉に思う。

筆者は他宗教の信者を改宗させることを目的に、プロテスタントの牧師らが信者らを拉致監禁してまで説得を行った行為を決して擁護することができない。このようなことは、プロテスタントは、キリスト教全体の名折れでしかない、大変、恥ずべき事柄である。

さらに、そうした牧師たちが、他宗教の信者ではなく、同じキリスト教徒を名乗っていた筆者までも、支持者と一緒になって集団的に攻撃したことは、もはや致命的としか言いようのないミスであり(というよりそれも牧師制度の悪がもたらした必然的な結果なのだが)、彼らの活動が末期状態にあることの証左である。

おそらく、カルト被害者救済活動が筆者に対してなした事柄は、世間に対して、プロテスタントの終焉をはっきりと告げるものとなるだろうと思う。世間はおそらく、これまで他宗教の信者に争いをしかけるだけでなく、ついには同士討ちのような状態に陥り、信者が信者を攻撃し、牧師が信者を徹底攻撃するという結末に至ったこの宗教(プロテスタント)に対して、この先、信用を持たなくなるだろうという気がする。

牧師制度の悪が、カルト被害者救済活動という形になって結実したのである。牧師制度そのものを撤廃せず、自分は信徒に対する搾取をやめないのに、ある牧師が、自分だけは正義の味方のような仮面をつけて、同じ牧師の職にある者を悪としてやっつけて、自分の搾取は正当化しながら、他のカルト化した教会の搾取だけを一方的に非難するというこの運動の自己矛盾が、ついに結局、牧師が信者を、そして信者が信者を滅多打ちに攻撃して排斥するという同士討ちに結びついたのである。

これは宗教を隠れ蓑にした単なる弱い者イジメの構図に他ならない。見る人が見れば、すぐに分かることで、カルトも反カルトも、自分たちの権力を守りたい人々が、自分たちよりも弱く貧しい者たちからの批判を徹底的に踏みにじって潰しているだけのことで、カルト被害者救済活動には、正義など全く存在しない。

カルト被害者救済活動は、異端を取り締まるだとか、カルト化した教会の問題を是正すると言いながら、結局は、牧師制度そのものを温存するための隠れ蓑に過ぎず、カルト以上に恐るべき腐敗を内に秘めた、プロテスタントのすべての害悪を結晶化したような運動である。このような運動が登場してきたこと自体が、プロテスタントの終焉を告げるものである。
   
筆者はこのように混迷を極める有様となったプロテスタントを後にして、組織や指導者に帰属する外側だけのキリスト教を完全に捨て去り、新たな信仰回復運動の只中を生きるために、キリストご自身だけを見上げて、前へ向かって歩いている。
 
いつまでも遅々として進まない行列しか目の前に見えず、数多くの苦労だけがあって、目的地がどこにあるか分からないと感じられる時には、いつも「船の右に網を降ろしなさい」という声が聞こえて来るようだ。
 
「視点を変えなさい。発想を変えなさい。多くの人たちがまだ気づいていないやり方、考えていない新しいアイディアを思い巡らしなさい。踏み固められた道に別れを告げて、新しい方法を採択しなさい。私があなたにそのヒントを与えます・・・」

冒頭の聖書箇所を挙げた出来事が起きたその日、弟子たちは、イエスが十字架で死なれた後、復活されたことは知っていたが、以前のように常に弟子たちと共にいて下さらないので、自分たちにはもはや師がいなくなって、何をすれば良いかも分からなくなったという思いで、もとの職業に戻ろうとしていたのかも知れない。

彼らがどんな気持ちで、漁に出たのかは、書かれてはいないため分からないが、彼らは十字架の死と復活の中に込められたことの意味が分からず、イエスが十字架にかかられる前の生活がなくなってしまったことに困惑し、復活された主イエスが、前のように絶えずそばにおられないことに、言いようのない寂しさを感じていたのかもしれない。

彼らはまだ御霊を受ける前だったので、まだ人間的な観点からしか、十字架の死と復活という出来事をとらえることができなかった。それは彼らの理解を完全に超えており、彼らはこれをどう受け入れるべきかが分からなかった。イエスが彼らを最初に召し出された時に言われた、人間をとる漁師になるとは、どういうことなのか、自分に与えられた召しが何なのかも、未だ理解することができなかったのである。

彼らが漁に出ても、何も取れなかった。弟子たちはもうずっと前に、漁師であることを捨てて、イエスに従っていたのであり、本当は、二度と漁師に戻れるはずがなかったのだが、イエスはどこへ行かれたのか分からず、することもなく、さらに、食べるものもなかった。ペテロたちが、何も見つからないので疲れ果てていた頃、イエスが岸に現れて、舟の右に網を降ろしなさいと言われた。

だが、それは復活のイエスであったので、彼の姿を見ても、弟子たちには、それが誰であるのかがすぐには分からなかった。弟子たちが引き上げられないほどの魚を取って戻って来ると、イエスはすでに火を焚いて魚を焼いておられた。弟子たちのために食事を作っておられたのである。

これは何かしら、私たちの人間的なあがきや、心の紆余曲折が終わるときを、神が辛抱強く、憐れみを持って見守って下さっているような、そんな感じのするエピソードである。

ペテロやトマスらがどういう気持ちで、何を考えながら漁をしていたのかは分からないし、彼らはもしかすると、未だ主イエスの十字架の死という壮絶な出来事のショックから抜け出られず、また、イエスの復活という出来事そのものを、理性ではどうとらえれば良いのかも分からず、困惑していたのかも知れない。

主イエスと弟子たちとの関係は、十字架の死と復活を経て、全くそれまでとは異なるものに変わろうとしていた。だが、新しい関係において、自分たちは何を求められているのか、弟子たちには分からなかったのである。

弟子たちが何を思っていたにせよ、イエスは、彼らの人間的な思いが吹っ切れて、彼らが自分たちの方法を捨て去り、神のご計画に再び目を向けるようになるまで、そばにいて待っておられた。

弟子たちは、主が何を自分たちに願っておられるのか分からず、戻ろうと思えば、漁師に戻れると考えていたのかも知れない。しかし、結果として、漁師に戻ることは不可能になっていたことが分かった。それどころか、弟子たちは、人間的な経験、知識、思いを捨てて、新しい世界観、価値観を受け入れるよう求められていた。復活の命と、それに属する新たな領域、復活の命に伴う新しい秩序である。

彼らがどんなに過去の熟練した経験に従って、自分たちの計画、自分たちの思いに基づき、何かをしようとしても、イエスのまことの命が介在されなければ、すべてが空振りに終わることは避けられない状況となっていたのである。かつては慣れ親しんだ自分たちの職業においても、主がおられなければ、一匹の魚もとれない状況となっていた。

だが、主はどこへ行かれたのか、何を命じておられるのか? 弟子たちは、依然として、イエスが十字架にかかられる前と同じように、自分たちのそばに姿を現して、何かを言って下さらなければ、その御思いを理解することもできず、途方に暮れていた。

しかし、主は姿を現さないだけで、常に彼らのそばにおられたのである。弟子たちのむなしい漁には、主が現れられると、たちまち収穫が豊かに与えられた。それは、弟子たちが昔のように漁師に戻るために与えられた収穫ではなく、信仰によって、新たな収穫を勝ち取ることができるという証であったものと筆者は思う。つまり、イエスが命じられた通り、彼らが人間を採る漁師として、抱えきれないほどの天の収穫を得ることの予表だったのである。

復活後のイエスは、十字架にかかられる前のように、弟子たちと一緒におられ、食事も共にされたが、それでも、イエスと弟子たちの間には、以前にはなかった何かの違い―距離のようなもの―が出来ていた。イエスが持っておられたのは、よみがえりの体で、弟子たちの贖われない体とは異なっていた。弟子たちが、イエスをすぐにそれと見分けられなかったことを見ても、様変わりされていたことが分かる。肉体を持って弟子たちの前に現れられたにも関わらず、何かがはっきりと以前とは違い、復活のイエスは、弟子たちとは異なる法則の中で生きておられたのである。

復活されてから、イエスはそう長い間を弟子たちと共には過ごされず、短い間、よみがえりの姿を現されてから、天に昇られ、父の身元に戻られた。その代わりに、弟子たちに聖霊が与えられた。

弟子たちは復活のイエスを見、それが自分たちが贖われた後の栄光の体であることを見せられたのだが、依然、多くのことが理解できないままであった。それを理解するためには、御霊が必要だった。

おそらく、私たちの思い、感情、計画、生き様のすべてに、御霊による新しい証印が押されねばならない。筆者はその点で、未だ、目の前に、新しいものをはっきりと見てはいない。これは筆者の個人的な人生のことを言うのではない。

キリスト教そのものが、新しい御霊の息吹を与えられなければ、進んで行けないところへ来ているのである。そのことを多くの信者たちは全く考えることなく、古いものにしがみ着いているが、私たちの計画、思い、感情、知識、経験などは、すべて行き詰まりを迎えており、主がそこに新しいアイディアを与えて下さらなくてはいけない時が来ている。そうなって初めて、私たちの死んだ働きに、電源のスイッチが入る。

「船の右に網を降ろしなさい。」と、主イエスが言われた通り、私たちの生活には、全く新しいヒントが与えられなくてはいけないのである。
 
右とは、ただ文字通りに船の右というだけではなく、神の右に座しておられるイエスを見上げなさいという意味にも取れないことはない。

いずれにしても、主を見上げるとき、私たちに新鮮な命の息吹が注ぎ込まれる。そのことは確かである。 そこで、筆者はふと顔を上げる。作らなければならない書面は、あらかた主張を出し尽くしたので、まだ完成してはいないとはいえ、筆者自身にとって、一番、書いていて面白い時期は過ぎた。この作業はある意味、もう終わりを迎えた。

そうなると、次なる新しい話題(話題作りのための話題ではなく、主が導いて下さる新しいテーマ)を見つけねばならない。だが、その新しい話題とは、もはや訴訟という枠組みとは関係のない、別な何かである、という気がしてならない。どう言えばいいのか分からないが、第一審も、第二審も、筆者にとっては極めて重要な戦いではあったのだが、そこを抜け出て、もっと大胆で、もっと革新的で、もっと自由で、飛躍的なアイディアへ至り着かねばならない気がしている。1軒目、2軒目の店を過ぎ去ったならば、3軒目のことを考えてみるべきである。

3軒目は、1軒目、2軒目とは全く異なる新しい発想に立つ場所である。つまり、カルト被害者救済活動やらプロテスタントやら牧師やらとは全く関係のない新しい信仰生活が始まろうとしているのである。そのことが、紛争が決着するよりも前から、筆者の目の前に見えるような気がする。
 
そうして、遠く、遠くへ目をやる。実は、一審が終わった後から、筆者は何かしら今までとは違った出来事が始まるだろうという予感がしてならなかった。今はまだ相変わらずの繰り返しのように見える状況もあれば、閉塞しているように見える事柄もある。紛争は終わったわけではないので、自由はいつになれば訪れるのかと感じられるかも知れない。

だが、それにも関わらず、筆者は、イエスを待ちながら漁をしていた弟子たちと同じように、既知の世界にいるようでありながら、自分が主にあって、未知の展開を待っていることを知っている。
 
もう少しすれば、まるで長蛇の列に並びなさいと言われているような、この不自由な手続き三昧の状況から抜け出せるだろう。そして、法的措置による戦いも終わりを告げて、次なるステージの出来事が始まるだろう。

それは筆者が「プロテスタントに別れを告げた」ことと密接な関係がある。もはやそれは、筆者にとって古き世界となったのであり、そこへは二度と戻れまいし、何かが断ち切れたのである。プロテスタントのみならず、組織、教団、教派、教説、指導者、教えなどに信者が帰属するすべての形式的なキリスト教が、筆者に対して死んだものとなり、終わりを告げるときに来ているのが今なのである。

弟子たちはその日、漁に出ていたが、主イエスと共に信仰によって十字架の死と復活を経由していた。彼らは依然、それまでと同様の考えに基づき、行動しているように見えたものの、深い所では、古き職業に対して死に、古き生き方に対して死に、古き自己に対して死んでいた。そして、彼らはまだ新しい生き方を掴んでいなかったが、それは彼らの心の内側にすでに到来しかかっていたのである。
 
こうして、古きものが過ぎ去り、新しいものが到来しようとしていること分かるに伴い、掲示板も、まるで過ぎ去った過去のように、筆者に手を触れられなくなった。それは、法的措置を取られると分かった人たちが、怯えているというだけが理由ではなく、何か目に見えない隔てが、彼らと筆者を隔てたのだ。追っ手が到達できないところまで振り切ったのである。

次に、筆者をあからさまに攻撃していた牧師やら信者やらが、筆者に到達できない時が来る。そして、彼らと筆者を隔てている隔てとは、結局、エクソダスの壁なのである。プロテスタントと筆者との間に打ち立てられた隔てなのである。

不思議なことに、この壁が、今まだ紛争当事者となって向き合っている人々と筆者との間をさえ、確固として隔てた事実が感じられるのである。そのために、まだ続いている戦いさえ、霊的な次元において決着が着き、筆者はそこから解放されている事実があることをはっきりと知るのである。それはつまり、この紛争が本当に終わりかけていること、筆者の手から離されようとしていることを意味する。

新しい世界は、まだはっきりとは姿を現していないが、復活の命に基づく新しい秩序が到来しつつある。筆者はそこへ向けてドライブをしている。本当は2009年にすでにここへ向かっていたのであるが、随分、長い間、荒野にとどめられた。その頃、戦い方が分かっていなかったので、どのように進路を切り開くべきかを知らず、遅延や停滞のように感じられるものが生じた。だが、目指している約束の土地がある以上、筆者はそこへ向かい続けなくてはならない。

他に誰も客のいない三軒目の店で手続きをしている時、貴重なチャンスが与えられたのだから、ここにある品でぜひとも最後まで手続きを終えねばと思った。あらゆる説明を聞きたいだけ聞いて、順調に手続きが進み、最後に、会員登録をせねば、決済が終わらないと言われた。その時、以前にも会員登録をしたような気がした。様々なことがあったような気がした。だが、情報を検索してもらったが、何も出て来なかった。過去が帳消しにされるがごとく、古い情報がまるごと消え去り、跡形もなくなっていたのである。

その時「すべてが新しい」とい言葉が脳裏をよぎった。神は不思議な方だという気がした。

そういう日が、この先、来るだろう。つまり、我々が本当に復活の領域に達する日が。古いものがすべて過ぎ去り、すべてが新しくなる日が。
 
今、筆者は過去10年間くらいの出来事の記録をカバーした書面を書いているが、おそらくこれを書き上げて、手から離すと同時に、この厭わしい煩わしいすべての事件の記録(記憶)が、まるごと筆者の履歴から消え失せる日が、遠からず来るだろうという予感がする。

第一審の終わりが、そのことを筆者に告げていた。一審判決は、まだ実現を見ていないとはいえ、それは明らかに、筆者とこの紛争との関わりを、一定程度、断ち切ることを告げる宣告であり、霊的な領域においては、筆者に自由を与えるものであった。この先、言い渡される判決は、もっと完全に筆者の存在をこの紛争から断ち切ることであろうと思う。

そうなると、過去が抹消されたに近いことが起きる。そうなる少し前から、筆者の心はおそらく紛争に興味がなくなり、全く別の出来事に熱中し始めることであろう。今はまだ過去の記憶の最後の残りを生きているところであるが、次の瞬間、その最後の残る記憶さえも断ち切られ、「見よ、すべてが新しくなった」と言われる時が来るだろう。

エクソダスが完全に完了し、断ち切れるべきものが最後まで経ち切れる時が近づいている。
 
その時、復活のイエスが弟子たちに収穫を指示し、パンと魚を弟子たちに自ら分け与えられたように、主ご自身が、自ら給仕して、空腹で疲れ切っている弟子たち(筆者を含め)の労苦をねぎらい、新しい命で満たして下さるであろう。そして、私たちが元気を回復した後で、さらなるミッションを与えて下さるものと思う。
 
三軒目の店にたどり着きさえすれば、あとはすべて神の側からなして下さるだろうと思わずにいられない。その「三軒目の店」が最高裁であって、そこまで行かねばならないというならば、筆者はそれに反対するつもりはないのだが(それだけの準備はすでに成し遂げられている)、そうなるまでのどこかの時点で、この紛争は、筆者の手から取り上げられて、筆者の心からも切り離されて、カルバリで信者を不利に陥れるすべての告発が廃棄され、自由と解放が訪れるだろうと思う。

筆者は紛争が長引くだろうという予測を述べているわけではなく、むしろ、その逆に、それだけの期間が過ぎ去る前から、すでにこの問題に決着が着いていること、筆者はただ約束の地へ向かうだけで良いことが感じられると述べているのである。
 
筆者に不当に負わされて来た重荷は、別人に返され、債務は、負うべき人間に返され、主ご自身が、弟子たちをねぎらい、心行くまで給仕して下さることであろう。筆者は、主イエスがパンと魚を取って分かち与えて下さる時を楽しみにしている。そして、それは未来でありながら、同時に今日であることも知っている。

その日、主はただ私たちの労苦をねぎらって下さり、すべての過去を帳消しにして下さるだけでなく、私たちを満ち満ちた命の豊かさに招き入れて下さり、さらに、私たちの姿をも、栄光の主と同じに変えて下さる。

筆者はこの贖いの完成を心に思い、そこにある自由、栄光をもっとよく知りたいと願っている。向かっているのは、贖いの完成、私たちが主の栄光と安息の中に招き入れられ、よみがえりの命の領域を、主と共に生きる約束の地なのである。荒野にいる時に、はるか先に目を凝らして、約束の地を見る。私たちが目指しているものは、今現在、目に見ているものではなく、まだ見ないもの、これから来るべき秩序である。ところが、まだ目に見ていない来るべき秩序が、私たちの只中に、すでに到来していることを知っている。そこに信仰があり、私たちの望みがある。


わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2:19-21)

さて、判決を思うと言い知れない喜びが込みあげてくる。あまりにも嬉しくて、同じ言葉しか書けない。おそらく、判決を受け取った後も、生涯に渡り、この喜びは続き、忘れ得ぬ出来事として心に刻まれるであろう。予め関係者に幾度も深く感謝を述べておきたい。

このようにすがすがしい気持ちで、決着を迎えられることは、本当に神の恵みである。

筆者はこの戦いを立派に戦い抜いて、すべての責務を果たした。必要な努力はすべて払った。協力してくれたある人は、「そんな素敵な裁判があるんだね」と、顛末を聞いて感心していた。

だが、今回の戦いにおいて真に問われたのは、当ブログが標題に掲げている通り、筆者が「私」に立つのか、それとも「キリスト」に立つのか、という事実であった。

当ブログは2008年に始まり、2009年に暗闇の勢力から激しい争いをしかけられ、それ以来、ずっと戦いの最中にある。その間、暗闇の勢力は、筆者の名誉を傷つけ、筆者の様々な個人的権利を侵害し、かつ、侵害すると脅すことで、筆者が自分自身を惜しみ、「私」の利益を守るために、この信仰の戦いを途中で投げ出して退却するよう、再三に渡り促して来た。

もしもこのブログがただ筆者の趣味の披露が目的で開設されたものであれば、筆者が「私」を擁護して立ったところで、それは罪にはならなかったであろうし、このような迫害に立ち向かってまで続行する意味もなかったはずだ。

だが、当ブログは聖書の御言葉の正しさを公然と世に証しし、神の国の権益を擁護するために存在しているわけであるから、人の生まれながらの肉なる要素に頼るわけにはいかない。

自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:25-26)

もしも筆者が自分の命を愛するのであれば、様々な脅しや権利侵害に立ち向かって、信仰の証しを続けることなど、到底、不可能であり、困難や、迫害が起きれば、早々に退却するしかない。だが、そうして途中で退却して、神を捨てるくらいならば、初めから何もしない方が良いと筆者は確信している。

今、筆者がどんなことよりも望むことは、父なる神のおられる聖所で、主と共に過ごし、神を礼拝する幸いな人生を送ることである。この世の人々からの頼りなくはかない賞賛や栄誉と引き換えにそれを捨てることなど、断じてできない。

そこで、筆者は肉を頼みとすることを徹底的に拒み、バアルの預言者の前に立ったエリヤと同じく、今でも祭壇に何度も水をかけ、「あえて事を難しく」している。

筆者は人前に、聖人のような人間としてではなく、罪人の代表格として立ち、かつ、神の御前にも、敗れ口に立って執り成す者として進み出たいのだ。

そして、イエスが門の外で辱めを受けられたように、今日の背信の教会が向けられるべき非難と蔑みの言葉を身に背負い、営所の外で苦しみを受けつつ、見えない都へ向かって進んでいく。

これは義人ヨブが神の御前で、「私は塵灰の中で悔い改めます」と述べたのと同じ姿勢である。ヨブに悔い改めねばならない罪があったわけではない。だが、神はヨブに人類の代表として、信仰者の代表として、神の御前にへりくだり、全被造物が塵に過ぎないことをあえて告白し、ただ神にのみ栄光が帰されるよう、己の義を完全に投げ捨てるよう求められた。

アブラハムとサラが百歳になってからようやく与えられた約束の子イサクも、一度、燔祭の犠牲として、霊的に屠られ、死をくぐらなければならなかった。

信仰の先人たちはみなこの十字架の死と復活という同じ過程を辿ったのである。

だから、筆者も、祭壇に自分を横たえ、通常人が誇りとし、頼みとするすべてのものが無価値とされ、死に渡されることに同意し、「私」にまつわるすべての利益を、完全に主と共なる十字架で投げ捨てる。

その結果として、そこに死と復活の原則が働き、失われた「私」の代わりに、「キリスト」が生きて下さる。この方は義なる方であって、決して罪に定められることがない。

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられた良い香りです。

滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。」(Ⅱコリント2:14-17)

神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に加えて下さり、私たちを通じて、至るところに、キリストを知る知識の香りを漂わせて下さる――この霊的事実は、今回の争いの決着にも現れるだろう。

表向きには、司法の争いは、すべて個人の人権を擁護するために起こされるものであるが、筆者は己の命を擁護するために、この争いを起こしたわけではなく、神の御前に己を完全に投げ捨てることによって、逆説的に、再び命を得て、勝利を勝ち取ろうとしている。

今回、こうした信仰的な議論を深く理解できる裁判官が、この事件を担当してくれたことにも、神の大きな采配が働いている。以前にも書いたように、市民は訴えを出すに当たり、裁判官を選ぶことはできない。だが、神は、人の知恵や思惑を超えたところで、この事件に最もふさわしい人を采配して下さったと信じている。

これまで当ブログには、裁判官の書いたものとして、被告からの移送申立が却下された書面を掲載しているが、それを読んでも、この裁判官が、この世の人でありながら、いかにこの事件の核心部分を的確にとらえているかが読者にもよく分かるはずだ。

筆者はこの文章を読み、そして、口頭弁論の進め方などを見て、この裁判官ならば、間違いなくこの紛争を正しい結論に導くことができるという確信を、かなり早い段階で心に得ていた。その確信があればこそ、あらゆる困難に立ち向かい、また、反訴や控訴の脅しに屈さず、不本意な和解を退けて、判決にたどり着くまで、根気強く戦い通すことができたのである。

ただし、掲示板に対する捜査や、その他の刑事事件は今回の裁判結果には反映していないため、こうした事件の解決はまだまだこれからである。
 
読者も知っている通り、元来、当ブログでは、信仰に関する議論を、信仰のない人々の前に持ち出すことには反対であったので、それにも関わらず、このような争いを起こさねばならなくなったことは、それ自体が極めて不本意であると言う他ない。

だが、今回の裁判では、筆者は予想だにしていなかった大きな喜びに満ちた収穫を得ることができた。この紛争は、繰り返し述べて来たように、最初から最後まで、すべてが信仰の証しに満ちており、関わる人々の心に、神が直接、働きかけて、ご自分の偉大さを現して下さったからである。

そこでは、筆者の生まれながらの人としての誇りではなく、ただ神の栄光だけが証しされた。このことに筆者は本当に満足している。

なぜなら、私たちは、自分自身を証ししているのではないからだ。この方だけが――この見えないお方だけが、我々の希望であって、栄光を受けられるべき唯一の方であり、私たちはこの方の栄光、この方の利益のために、世から召し出され、贖い出された民なのである。

だから、筆者はキリストと共に喜んで十字架で自分を死に渡し、もはや生きているのは私ではない、と宣言する――。

こうして、世の人々の前で、聖書の御言葉の正しさを証明し、そして、神が筆者を愛して下さった、その愛の大きさを、証明することができたことは、他のどんなことにも代えられない恵みである。

今、筆者はこの訴えを出したがために、以前にもまして様々な権利侵害と中傷をこうむっているが、そのことに一切、筆者は落胆しておらず、読者もまた落胆などする必要がないことを述べておきたい。

神はすべての事柄を見ておられ、ご自分の子供たちを擁護するために必要な措置をなして下さる。神は間もなく、ヨブのために失われたすべてを回復して下さったと同様に、筆者の失われた利益をも余すところなく回復し、花嫁の帯の飾りのように、以前にもまして多くの宝で飾って下さるであろう。

従って、筆者を蔑んだ人々は、裁判結果もさることながら、そうした事態の成り行きを見て、唖然とすることであろうと予想する。それによって、また改めて私たちの主イエス・キリストの偉大さと、愛の深さが証明されることになる。

この紛争を通して、もう一つ明らかにされたことは、今日の目に見える教会というところが、いかに信仰を持たない人々の危険な運動によって占拠され、聖書の正しい信仰に立脚しなくなり、この世の人々から見ても、近寄ることが危険な場所になりつつあるかということである。

筆者はキリスト教徒であり、聖書の教えが正しいことを、揺るぎない確信と共に、公然と証しており、これからもその証を続けるつもりであるが、読者には、当ブログに降りかかった数々の出来事をよく見て、目に見える教会や、目に見える宗教指導者には、これからも決して近づかないように改めて警告したい。

そして、改めて、目に見えるものでなく、見えないお方に目を注いで歩むよう読者に勧める。また、私たちがこうむっている艱難を見て、落胆などしないでもらいたい。それは非常に一時的で軽いものでしかなく、私たちには、これを耐え忍んだことの報いとして、比べものにならない重い永遠の栄光がすでに用意されているからである。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほどの重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:16-18)



「さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。

そこでイエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。

イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。

だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。」(ルカ36:-50)

* *  *

  
「あなたの信仰があなたを救った。さあ、安心して行きなさい。」

イエスのこの言葉を筆者はどれほど待ち望んでいることだろう。もちろん、筆者はイエスがすでに筆者を贖って下さり、自分が救われていることも知っている。

だが、改めて、どうしても今一度おっしゃっていただきたいと願わずにいられないのだ。

「生きよ」と。

全被造物は、罪のゆえに堕落し、神から切り離されて、まるで本体を失った影も同然となって、虚無の中をさまようしかなくなった。

それゆえに、全被造物は、自分自身の内には虚無以外には何も見いだすことができず、ただひたすら、その影の持ち主である本体に見出され、神の御言葉の光に照らされることで、もう一度、新たに生かされる瞬間を待ち望んでいる。

自分だけでは生きられない、ものを言うことも、存在を証明することもできない「影」。

ここに、被造物としての私たちの嘆き、呻き、苦しみがあり、悲しいまでの「女性性」がある・・・。
 
* * * 

ラザロは、もの言わぬ死者となって、墓に横たわりながらも、きっとそこでイエスが来られるときを待ち望んでいただろう。自分の愛する方がそばに来られ、「ラザロよ、出てきなさい」と力強く命じられる瞬間を。

その時こそ、死者はよみがえらされて立ち上がり、喜びと感謝に溢れて愛する者たちのところに駆けつける。地上の多くの人々は、生きていると思っているが、自分がラザロ同然に、実は死んで墓に横たわっていることを知らないのだ。

パリサイ人たちからは、屑のように蔑まれ、社会から排除されていた罪の女も、ただイエスに出会いさえすれば、必ず自分のすべての罪が赦され、あらゆる汚れから清められて、彼に似た、貴い、聖なる姿に変えられるはずだとひたすら信じて、イエスを見た時、わき目もふらずに御許にかけつけ、その足元に身を投げ出して、泣き伏さずにいられなかった。

彼女は信じていた、自分自身がそれまでどのように生きて来たかなど関係ない、ただ御姿を見て、イエスを見つめられさえすれば、そうすれば、彼女は救われて、変えられると・・・。

38年間、ベテスダの池のほとりで病の癒しを待ち続けた男も、同じように、心の中で、イエスを待ち続けていた。イエスの衣に触りさえすれば、病は癒されると信じた長血の女も、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」(マタイ8:8)と述べた百卒長も、みなイエスに出会って、その声を聞き、その言葉を聞きさえすれば、失われた存在であった自分たちは見いだされ、命にあずかり、完全に回復されると信じ続けたのである・・・。

「主よ、お言葉を下さい。そうすれば、僕(しもべ)は生きます」

これは、筆者の懇願であると同時に、虚無に服しながら、完全な贖いを求める全被造物の切なる叫びだ。

主よ、ただあなたの一言を下さい、あなたの一瞥だけで良いのです。この塵に過ぎない者に、一言、お命じ下さい。「立ち帰って生きよ」と・・・。そうすれば、僕は生きましょう・・・。

「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。 」(エゼキエル33:11-12)


とこしえに生きておられる方。「わたしはある」と言われる方。すべてにまさるリアリティである方が、虚無に過ぎない私たちに向かって、その眼差しを注ぎ、声をかけて言われる。

「立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んで良かろうか。」

私たちはすでに罪赦されて贖われた民であるが、なお、罪と死の痕跡の一切を取り除かれて、自分たちを縛っている死の縄目から完全に自由とされる日を待ち望んでいる。

まるで草花が夜の闇の中で静まりつつ、朝日が昇って、光の中で存分に身を伸ばす瞬間を待ち焦がれるように、全被造物が、虚無に服しながら、主イエスの言葉がかけられるのを待っている。

「立ち帰って生きよ。あなたの信仰があなたを救った。女(被造物)よ、あなたは完全に買い戻された。安心して行きなさい…」
 
私たちがイエスを待ち望むのは、彼(御子)こそ、失われた「影」としての私たちの「本体」であり、私たち被造物のまことの命であり、私たちの全ての全てだからである。

どうして影が本体を離れて、影だけで存在できようか。影だけの存在に、一体、何の価値があろうか。私たちは自分自身の内に何も見いださない。

どんなに声を張り上げて自分の言い分を述べ、あるいは、どれほど優れて美しい姿をしていたとしても、影はただ影でしかなく、本体が来られ、私たちを照らして下さらない限り、何の意味も持たない闇でしかないのだ。

かくて影はどこまでも本体を慕い求める。まことのリアリティの到来を待ち望む。暗闇でしかない自分自身から目を離し、ただ光なるお方を見つめ、ひたすら、本体である真実なお方から見出され、贖われ、再び一つとされる時を待ち望んでいる・・・。

* * *

創世記に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」(創世記2:7)とあるように、神は最初の人間であるアダムを、塵の中から造られた。

アダムが塵から造られたことは、彼が被造物として、神を離れては無価値であり、虚無でしかないことをよく表している。

神が息を吹きかけられたとき、アダムは生きた人間となった。ここで言う「息」とは、神から与えられた霊であり、また、人を生かす神の御言葉のことでもある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記:26-27)

聖書は、人類は「神にかたどって」創造されたと言う。だが、「神にかたどって(神のかたちに)」造られたとは、人類の外見を指すものではないだろう。塵から造られたアダムの外見に、神の栄光に満ちた「かたち」が表れているわけではないからだ。

むしろ、これは人類の役割のことである。

アダムの役割は、神の御言葉を守り、神に与えられた霊によって生かされることで、神の栄光を表すことにあった。アダムに与えられていた霊は、聖霊ではない。だが、御言葉が光となって彼を照らすことで、塵に過ぎないアダムに、神の栄光が反映していた。

こうして、神の御思いを体現し、鏡に映し出すように、神の栄光を反映し、神を誉め讃えて生きることが、アダムの役目であり、こうして神に栄光を帰して生きることこそ、被造物に与えられた栄光に満ちたつとめであり、それが被造物の表す「神のかたち」だったのである。

次に、神はアダムの肋骨からエバを造られた。

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。

主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。

主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。 」(創世記2:18-25)


神はご自分の助け手として、ご自分の栄光を表す、ご自分に似た者として、アダムを創造されたが、次に、アダムのためにも、アダムに似た者として、助け手となる存在を用意された。

それがエバである。アダムが死のような深い眠りに落ち、再び、目覚めたとき、そこにアダムの性質をそっくり受け継ぎ、かつ、彼の栄光を表す者であるエバがいた。

アダムは彼女を見たとき、彼女が自分自身から出来ており、自分の栄光であることがすぐに分かったので、たちまち、自分を愛するように、彼女を愛した。

神は塵から造ったアダムに、息を吹き入れて、アダムをご自分の栄光を映し出す者とされたように、アダムの成分を使って造られたエバを、アダムのために、アダムの栄光を表す者とされた。

助手は、助手だけでは存在できない。必ず自分が仕えている主人が存在するはずである。もしもアダムが、神のかたちにかたどられた、影のような存在だとするならば、エバも、アダムのかたちにかたどられた、アダムの影のような存在であった。

そして、悲劇は、本体の栄光を表すために造られたはずの「影」が、本体から離反して、罪の堕落のゆえに、死を宣告されて、影だけで絶望の中をさまよわなくてはならなくなったことである。

人が神の御言葉を捨てて、罪を犯したとき、人の霊は死に、人の栄光は消え去った。彼を照らしていた御言葉の光は消え去り、人は真っ暗闇となって、自分自身の存在意義を見失ったまま、やがて消滅するのを待ちつつ、暗闇をさまようことしかできなくなった。

全被造物は、堕落によって神から切り離され、それ以後、自分の主人となるべき神を見いだせなくなり、己の堕落した虚無の世界を、ひたすら絶望のうちに堂々巡りせざるを得なくなったのである。

だが、被造物には、絶望の中でも、神を思う思いが与えられている。そこで、ひたすら、嘆き悲しみ、苦しみの中でも、自分を造られたただお一人のまことの神を思い、まことの神に見出され、贖われ、もう一度、息を吹きかけられて、神の栄光を表すものとして、御前に立たされる時を、切に待ち望んでいる。

主よ、もう一度、我ら全体におっしゃっていただきたいのです、立ち帰って生きよと、そうすれば、僕は生きましょう・・・。
 
主よ、あなたこそ私たちを造られた方、私たちの栄光なる望み、私たちは皆あなたによって、あなたの栄光のために、造られた者です。私たちはあなたの影、あなたは私たちの主、どうして私たちがあなたを離されて、存在し続けられましょうか。
 
主よ、お帰り下さい。お帰り下さい。そして、お言葉を下さい。このすべての世界は、あなたのために、あなたの栄光のために造られたのです・・・。

* * *

預言者ホセアは、神によって、姦淫の女を娶り、彼女の生んだ淫行の子らを引き取るようにと命じられた。

「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」 」(ホセア1:2)

神の預言は、ホセアの結婚が悲惨な過程を辿ることを始めから予告していた。

ホセアは、自分に忠実な汚れのない女性を妻に迎えたはずであったが、ホセアが娶った妻ゴメルは、神に逆らい続けるイスラエルの民を象徴する女であって、彼女は、ただ一人の主人だけを愛するには、最初からあまりにも心が多すぎた。

彼女はホセアと結婚して後、すぐに、彼を捨てて、子供たちと共に、愛人のもとへ去った。むろん、彼女が生んだ子らは、ホセアの子ではない。あまりにも気が多すぎる彼女は、やがて愛人にも捨てられて、ついには身を落として奴隷にまでなった。

それでも、ゴメルはなかなか自分の主人のもとに立ち帰ろうとはしなかった。

こんな「妻」から、誰がどんな良いものを見いだせようか。いや、こんな女を誰が「妻」と呼べようか。また、どうして彼女の子供を「我が子」と呼べようか。

この汚れた「母」を告発せよ――。

裏切られたホセアの嘆きは、神の嘆きにそのまま重なる。

このゴメルは、神の御言葉に従うことを捨て、奴隷に身を落とし、バビロンと化した今日の教会そのものである。欲に誘われるまま生き、時期尚早に多くの子を産みはするが、そこには、何一つ本当のものがない。彼女の勢いは束の間でしかなく、その幸福は不実で、何一つ永遠に残るものがない。

この汚れた「母」を告発せよ――。

その叫びに応えるようにして、剣を持った残忍な軍隊のような、獰猛な野獣のような勢力が彼女に押しかけ、教会という教会に対し、告発を重ね、多くの神の宮が、土足で踏み荒らされた。

それでも、彼女はいまだ着飾って、晴れやかな祝祭日を楽しみ、祝うことをやめない。そこで豪奢な食卓を用意しては、己が富や権勢を誇り、自分たちの慕う目に見える指導者らを拝んでは、我が幸福は永遠なりと豪語している。

彼女たちは、自分たちが拝んでいるものが、偶像であることにも気づかず、己が誇っている富が、これらの偶像によってではなく、ただお一人のまことの主なる神が与えられたものであることにも気づかない。

それゆえ、野獣の牙は、より一層、残忍に彼女に噛みつき、彼女を食い荒らし、蹴散らして、その富と栄光を奪い去り、彼女の恥を露わにして、彼女を壊滅にまで追い込む。

告発せよ、お前たちの母を告発せよ。
彼女はもはやわたしの妻ではなく
わたしは彼女の夫ではない。

彼女の顔から淫行を 乳房の間から姦淫を取り除かせよ。
さもなければ、わたしが衣をはぎ取って裸にし
生まれた日の姿にして、さらしものにする。

また、彼女を荒れ野のように
乾いた地のように干上がらせ
彼女を渇きで死なせる。

わたしはその子らを憐れまない。
淫行による子らだから。

その母は淫行にふけり
彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。
彼女は言う。「愛人たちについて行こう。
パンと水、羊毛と麻
オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」

それゆえ、わたしは彼女の行く道を茨でふさぎ
石垣で遮り 道を見いだせないようにする。

彼女は愛人の後を追っても追いつけず
尋ね求めても見いだせない。

そのとき、彼女は言う。
「初めの夫のもとに帰ろう
あのときは、今よりも幸せだった」と。

彼女は知らないのだ。
穀物、新しい酒、オリーブ油を与え
バアル像を造った金銀を、豊かに得させたのは
わたしだということを。

それゆえ、わたしは刈り入れのときに穀物を
取り入れのときに新しい酒を取り戻す。

また、彼女の裸を覆っている
わたしの羊毛と麻とを奪い取る。

こうして、彼女の恥を愛人たちの目の前にさらす。
この手から彼女を救い出す者はだれもない。

わたしは彼女の楽しみをすべて絶ち
祭り、新月祭、安息日などの祝いを
すべてやめさせる。

また、彼女のぶどうといちじくの園を荒らす。

「これは愛人たちの贈り物だ」と
彼女は言っているが
わたしはそれを茂みに変え
野の獣がそれを食い荒らす。
バアルを祝って過ごした日々について

わたしは彼女を罰する。

彼女はバアルに香をたき
鼻輪や首飾りで身を飾り
愛人の後について行き
わたしを忘れ去った、と主は言われる。

野獣に食い荒らされたゴメルの「ぶどう園」とは、あの強盗のような農夫たちに占拠されたぶどう園と同じだ。悪い農夫たちが、彼女のぶどう園を強奪し、その収穫を我が物としてかすめ取って来たが、そのぶどう園は、神の圧倒的な御怒りの前に、踏み荒らされて廃墟となり、破壊される。

ゴメルは罰せられ、彼女が生んだ、誰を父としているとも知れない子らも、罰せられ、神に討たれて、駆逐された。

神はゴメル(神に背いた教会)を依然、愛しておられるが、彼女を罪あるままで、受け入れることは決してできない。そのため、ゴメルは罰せられねばならない。偶像崇拝によって生まれた子らは、消し去られなければならない。

だが、ゴメルは貧しさと死の苦しみの中で、ホセアのことを思い出した。

一体、それはゴメルにとって、どれほど遠い記憶だったであろうか。何人の愛人が、彼女を通り過ぎて行ったことだろうか。しかも、今彼女を支配しているのは、彼女を奴隷として酷使する横暴な主であって、もはや愛人ですらない。

ゴメルには昔の美しさは見る影もなく、自由であった頃の面影もなく、今はただ貧しく蔑まれ、見捨てられて、やつれ果てた奴隷の女でしかない。

だが、彼女には、昔、確かにホセアという主人がいた。彼女は自由の身であった時があった。彼女はホセアを思い出したとき、ようやく自分を今まで支配してきたすべての者たちが、残忍で、嘘つきで、強盗で、人殺しである事実に気づき、これらの者どもを一切、自分から断ち切り、生き方を改めることを決意した。

彼女はホセアの名を呼んだ。だが、もう手遅れだ、遅すぎる、こんなにまで身を落として、どうして彼に助けを求められようか。どうして彼を夫と呼べようか。
 
ところが、ホセアは彼女の呼び声に応えた。ホセアは、奴隷に身を落としたゴメルを買い戻すために走った。海の向こうから、山々の向こうから、はるかな道のりを辿り、地の果てのようなところまでたどり着いて、見失われ、忘れられ、変わり果てた我が妻を探し出し、彼女を説得して家に連れ戻した。

イスラエルは、神の栄光を映し出すために造られた器。どうして神がこれを忘れられようか。神は手のひらを返して、見捨てられたゴメルのために報復される。彼女を蹂躙し、傷つけた者どもにしたたかに報復されて、追い払われる。

「島々よ、わたしに聞け
 遠い国々よ、耳を傾けよ。
 主は母の胎にあるわたしを呼び
 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた。

 わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き
 わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して
 わたしに言われた

 あなたはわたしの僕、イスラエル
 あなたによってわたしの輝きは現れる、と。

 わたしは思った
 わたしはいたずらに骨折り
 うつろに、空しく、力を使い果たした、と。

 しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり
 働きに報いてくださるのもわたしの神である。

 主の御目にわたしは重んじられている。
 わたしの神こそ、わたしの力。

 今や、主は言われる。
 ヤコブを御もとに立ち帰らせ
 イスラエルを集めるために

 母の胎にあったわたしを
 御自分の僕として形づくられた主はこう言われる。

 わたしはあなたを僕として
 ヤコブの諸部族を立ち上がらせ
 イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

 だがそれにもまして
 わたしはあなたを国々の光とし
 わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

 イスラエルを贖う聖なる神、主は
 人に侮られ、国々に忌むべき者とされ
 支配者らの僕とされた者に向かって、言われる。

 
王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。
 真実にいますイスラエルの聖なる神、主が
 あなたを選ばれたのを見て。

 主はこう言われる。
 わたしは恵みの時にあなたに答え
 救いの日にあなたを助けた。
 わたしはあなたを形づくり、あなたを立てて
 民の契約とし、国を再興して
 荒廃した嗣業の地を継がせる。

 捕らわれ人には、出でよと
 闇に住む者には身を現せ、と命じる。
 彼らは家畜を飼いつつ道を行き
 荒れ地はすべて牧草地となる。

 彼らは飢えることなく、渇くこともない。
 太陽も熱風も彼らを打つことはない。
 憐れみ深い方が彼らを導き
 湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。

 わたしはすべての山に道をひらき
 広い道を高く通す。

 見よ、遠くから来る
 見よ、人々が北から、西から
 また、シニムの地から来る。

 天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。
 山々よ、歓声をあげよ。
 主は御自分の民を慰め
 その貧しい人々を憐れんでくださった。

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。

 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃虚とした者はあなたを去る。

 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。
 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。

 破壊され、廃虚となり、
 荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子らは
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕らえられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。

 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を地につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう。

 
そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。

 主はこう言われる。
 捕らわれ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。
 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救い、あなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。 」(イザヤ書第49章)


 * * *

神はこうして背信に背信を重ねて、完全に見失われた存在となったご自分の民を、彼らの内にごくわずかに残った、あるかなきかの信仰だけを頼りに、地の果てまで探しに行かれた。

そして、ご自分の呼び声に応答する者を一人でも見つけると、その者を家に連れ戻し、汚れた着物を脱がせ、一切の罪の汚れを水の洗いで清められ、真っ白な新しい服を与え、再び、ご自分の栄光を表すための、しみもしわもない、聖なる栄光の花嫁なる教会として、ご自分の前に立たせられた。

心の定まらなかったゴメルは、もういない。そこにいるのは、心の中から偶像を取り除かれて、ただ一人の主人だけを愛するようになった、忠実な妻である。彼女の罪は一切、消し去られ、痕跡すらも残らなくなり、ホセアとゴメルとの結婚は回復される。そして、彼らは祝福されて、その子らは海の砂のように、数えきれないほどになる。

その子らとは、天のエルサレムを母とする、サラの汚れのない子供たちである。この一家には神の慈しみと憐れみとが注がれ、彼らは神の栄光を表す器となる。もう誰も収穫を得られないのに労苦することはない。

「初めの愛」が回復されて、恋人に語らうように、主はご自分の花嫁なる教会に向かって優しく語りかけられる。

「それゆえ、わたしは彼女をいざなって
荒れ野に導き、その心に語りかけよう。

そのところで、わたしはぶどう園を与え
アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。

そこで、彼女はわたしにこたえる。
おとめであったとき
エジプトの地から上ってきた日のように。

その日が来れば
と 主は言われる。

あなたはわたしを、「わが夫」と呼び
もはや、「わが主人(バアル)」とは呼ばない。

わたしは、どのバアルの名をも
彼女の口から取り除く。
もはやその名が唱えられることはない。

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。

わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。

わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。

その日が来れば、わたしはこたえると
主は言われる。
わたしは天にこたえ
天は地にこたえる。

地は、穀物と新しい酒とオリーブ油にこたえ
それらはイズレエル(神が種を蒔く)にこたえる。

わたしは彼女を地に蒔き
ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)を憐れみ
ロ・アンミ(わが民でない者)に向かって
「あなたはアンミ(わが民)」と言う。
彼は、「わが神よ」とこたえる。 」(ホセア2:16-25)

「イスラエルの人々は、その数を増し 海の砂のようになり 量ることも、数えることもできなくなる。彼らは 「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と 言われるかわりに「生ける神の子ら」と言われるようになる。

ユダの人々とイスラエルの人々は ひとつに集められ 一人の頭を立てて、その地から上って来る。イズレエルの日は栄光に満たされる。あなたたちは兄弟に向かって 「アンミ(わが民)」と言え。あなたたちは姉妹に向かって 「ルハマ(憐れまれる者)」と言え。」(ホセア2:1-3)


 * * *

神の裁きは正しく、神はご自分のもとに立ち帰るすべての民を回復される。

「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)

* * *

創世記におけるアダムとエバの愛に満ちた関わりも、ホセアとゴメルの愛の回復も、すべてキリストと教会の愛の交わりの回復の予表である。

エクレシア(教会)は、十字架で死なれたキリストのわき腹から、水と血と霊によって生まれた聖なるエバである。それはキリストの肉の肉、骨の骨から生まれ出て、彼の息によって御霊を受けて生まれた、新しい生きた女(被造物)だ。

イエスは十字架にかかられた後、弟子たちのもとに現れて、ご自分の手とわき腹を見せて、ご自分が確かに死なれ、復活されたことを示された。そして、弟子たちに息をふきかけて、聖霊を受けよ、と言われた。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

そう言って、手とわき腹とをお店になった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

そう言ってから、彼らに息をふきかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

ここに、聖なるエクレシアの誕生がある。本体なる神から切り離され、虚無の中をさまようことしかできなくなった、失われた影である被造物が、神に立ち帰り、イエスの十字架の死と復活にあずかり、彼のわき腹から新しく生まれ、彼のよみがえりの命によって生かされる、新しい聖なる女(被造物―人類)とされた。

その時、イエスが十字架にかかられたことに、はかり知れないショックを受けて、ただ恐怖の中に閉じこもり、ユダヤ人たちを避けて逃げ隠れることしかできなかった弟子たちは、再び喜びに満たされ、勇気づけられ、そして、地の果てまで、イエスの復活の証人となった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)

かつて神が失われた民を、地の果てまで探しに行かれたように、今度は、見出された民が、地の果てまで、主の復活の証人となる。私たちの神が、私たちを愛し、私たちのために先に命を捨てられたように、今度は、私たちが、ただお一人の神を愛し、神のために、死に至るまでも命を惜しまず、自分を残らず注ぎだして従うことができるようになるのだ。

聖霊を受けた弟子たちは、主の死と復活にあずかることで、主と同じ霊にあずかり、それゆえ、彼らには主イエスが持っておられたのと同じ、御名の権威が与えられた。病人を癒し、蛇を踏みつけ、毒を飲んでも害を受けず、人の罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も与えられた。

弟子たちに吹きかけられた息―聖霊は、アダムと生かした霊とは異なる、死と復活を経たキリストの霊、永遠の命であり、「臆病の霊」ではなく、「力と愛と思慮分別の霊」である。

それは信じる者を、どんな苦難や試練に耐え抜いてでも、最後まで、固く御言葉に立たせ、あらゆる敵の嘘による惑わしを打ち破る知恵を与え、死に至るまでも、主の復活の証人とすることのできる霊である。

パウロは言う。

神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。
だから、わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のためにわたしと共に苦しみを耐え忍んでください。

神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。

この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。

キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。

というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(Ⅱテモテ1:7-14)


キリストのために受ける苦しみを、恥じてはならない。失われていたものが見いだされ、死んでいた者が生き返り、神が大いなる喜びを持って、ご自分に立ち帰る民を迎えられるためならば、自分は何を耐え忍んでも構わない、パウロはそう語る。

今、神の御思いの中心にあるのは、被造物の完全な回復である。神は、立ち帰った民の罪を赦されるだけでなく、これらの民を、堕落した一切の痕跡のない、しみもしわもない、キリストの栄光に輝く花嫁なる教会として完成されようとしておられる。

死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見いだされることへの神の喜び。放蕩息子の帰還を喜ぶ父の言葉は、ご自分の民を迎える父なる神の喜びである。

「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:22-24)

キリストがエクレシア(教会)を愛されるのは、エクレシアが、キリストの成分から成る、彼の栄光を表す器だからである。アダムがエバを見たときに、これこそ自分の肉の肉、骨の骨と叫んだように、主はご自分の前に立つ花嫁なる教会を見て、そこにご自分の死と復活を見、ご自分の聖なる性質を見、ご自分の栄光の反映を見て、心から満足される。

エクレシアは、キリストにとって自分自身のような愛の対象であり、エクレシアにとっても、キリストは自分自身のような愛の対象である。この二つは一つであって、互いに呼応し合って、離れることがない。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会をご自分の前に立たせるためでした。

そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちはキリストの体の一部なのです。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」(エフェソ15:22-33)

* * *

さて、今日、ホセアとゴメルの失われたはずの子ら、サラとアブラハムに約束された数えきれない子どもたちとは、一体、誰を指すのだろうか。

それは、黙示録に記されている、あの白い衣を着た数えきれない大群衆のことではないかと思う。つまり、キリストによって贖われ、新しく生まれた神の子供たち、主のものとされ、死から贖い出された者たち、それが、私たちが産みの苦しみを味わいつつ、労苦していることの実なのではないかと思う。

だが、それはただ数えきれない大群衆という、数の問題ではない。被造物が、この地上にある間に、どれくらいキリストのご性質にあずかり、彼に似た者とされるかという、贖いの成就の程度と、完成の問題である。

すべての被造物の贖いの完全な成就――これこそ、神の御思いの中心にあるテーマであり、それこそが、キリストの花嫁なる栄光に輝く教会の完成なのである。その完成のためにこそ、現在、私たち神の子供たちは、すべての被造物と共に、産みの苦しみに呻きつつ、御言葉の光によって照らし出されて、ますます主の栄光を反映させて、主の似姿とされるために、試練を耐えて労苦している。

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。

つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」(ローマ8:18-24)

私たちには、罪赦されて贖われただけでは終わらない希望がある。それは、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられ、神の栄光を完全に映し出す器とされることである。

「しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは、”霊”のことですが、主の霊のおられるところには自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを取り除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:16-18)

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められたました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えになったのです。」(ローマ8:28-30)

こうして、私たちが栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられるとき、私たちは、神の栄光を完全に表し、ご自分の造られた者への神の愛の深さを余すところなく証明する者とされる。私たちの存在そのものが、神の愛の深さ、その偉大さの証明となる。それが被造物に与えられた役割なのである。
 
「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

 と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35-39)

* * *






「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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