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ゴールデンウイーク中に休業していたお店が、休み明けに営業を再開していた。政府がPCR検査数を抑制しているため、日々、発表される感染者数が減っていることを見て、コロナが終息していると考えたのか、人々は、もはや政府の休業自粛要請など考慮に値しないとばかりに、日常生活を再開しようとしている気配が感じられた。

ネット上のお店も、ネット上でないお店も、クーポン券を出したり、割引をしたりして、一斉に経済を盛り上げようとしている。草の根的なレベルでは、まるで何事もなかったかのように、人々が日常に戻りつつあり、筆者自身も、「密室」からの脱出がほぼ終わったところだ。

しかし、公的なレベルで、人々がコロナの影響を脱することができるのは、まだまだ先になると見られる。緊急事態宣言が解除されても、すぐさま「社会的距離」を取る必要がなくなるわけではない。密集地帯が出来たせいで、クラスターが再発生して、減っていた感染者が再び増加に転じた国の例もある。確実で即効性のある治療薬が開発されない限り、これから2年ほどは、社会はコロナの影響を脱することはできないのではないかと筆者は考えている。

ところで、コロナウィルスが人々を恐怖によって萎縮させ、自宅や職場に閉じ込め、そこから出られないようにする「収容所化政策」に利用され、さらに、政府が補償なき休業を呼びかけることで、コロナ解雇、コロナ離婚、学生の中途退学などが蔓延し、弱い者から真っ先に滅びよとばかりの政策が取られることにより、コロナが社会的弱者の隔離・淘汰の手段として利用されているという説があることを、以前の記事で紹介した。

その説を私たちはあながち笑えない状況にあることもすでに書いた。

以下、そのことについて、少し触れておきたい。

* * *

筆者は、人間社会において、弱肉強食の原則が振りかざされることは、あってはならないと考えている。そういう考えの根底にあるものは、優生思想であり、この思想を筆者は心から憎んでいる。

優生思想に基づいて実行された隔離政策の中には、アウシュヴィッツ絶滅収容所などに代表されるユダヤ人の殲滅の思想、ハンセン病者を根絶することを目標に掲げたハンセン病絶対隔離政策などが挙げられる。後者は、日本で平成になるまで、政府主導で進められた。

ところで、ハンセン病の絶対隔離政策に天皇が利用されたことは、当ブログでも書いた。

筆者は一時期、長島愛生院を訪問し、隔離政策の恐ろしい真髄に触れた一冊の著書を書くことを本気で考えていたが、以下の記事は、その頃、筆者が書こうとしていた内容にとてもよく似ている。

PRESIDENT Online  の記事「「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ  島に全ての患者を集めようとした男」(原 武史 政治学者)2019/12/23 11:00

この記事で注目されるのは、ハンセン病絶対隔離政策は、天皇を「ハレ」(=浄めの象徴)とみなし、他方、ハンセン病者は「ケガレ」であるとする思想に基づいていたとして、ただ単に優生思想に言及するだけでなく、日本の民俗的な用語を使って、その究明を試みている点だ。

もちろん、こうした視点は何ら新しいものではない。以前にも紹介した通り、厚労省のホームページに掲載されている「ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書」では、天皇制とハンセン病の絶対隔離政策についても、相当に詳しい分析がなされている。以上の記事は、そこでも言及されている問題のほんの一端を紹介しているに過ぎない。

ハンセン病の絶対隔離政策は、もともと、天皇は公的な存在であって、「ハレ」の象徴であり、他方、民は私的な存在であるから、「ケガレ」であるという考えを基礎として、そこからさらに進んで、「ケガレ」である民の中でも、ハンセン病者は、最も忌み嫌われ、見劣りのする「ケガレ」であるという考えに立って生まれたものである。

このような何の根拠もない「ハレ」と「ケ(ケガレ)」の思想を基礎に、前近代において、ハンセン病者は隔離と殲滅の対象とされ、そのために、各地に収容所が作られ、岡山県の長島は、島ごと隔離政策の拠点とされることになったのである。

前述の記事「「ハンセン病隔離施設」を後押ししたのは皇室だ  島に全ての患者を集めようとした男」(原 武史)から引用する(下線、着色は筆者による)。
 

前近代から天皇は、ケガレ(「穢」)の対極にあるキヨメ(「浄」)のシンボルであり続けた。だがここで意識されているのは、むしろ近代の衛生学的な「清潔」の観念と結びついた天皇である。

いや正確にいえば、両者は一体となっている。「島」に検疫所を設け、帰還した兵士を集めて徹底した消毒を行い、一人でも伝染病の患者が見つかれば隔離することで、天皇の支配する「清浄なる国土」を守らなければならないという思想が見え隠れしているのである。


この記事で解説されている通り、天皇を「神」とみなした戦前の日本では、日本という国自体が、「神」を入れる入れ物、つまり、天皇の支配する「浄土」とみなされた。

そこから、調和に満ちた「浄土」であるはずの日本に、見栄えの悪いハンセン病患者などいてはならない、ハンセン病者は「浄土」の調和と釣り合わず、これを穢す者であるから、忌み嫌われるべき者として、隔離せねばならないし、そうするのは当然だ、という恐ろしい思想が生まれたのである。

つまり、ハンセン病患者は「浄土(神国)」たる日本の「恥」と「不名誉」をさらすものであるから、「タブー」であって、隠さねばならず、さらに根絶せねばならないとみなされたのである。


こうして、ハンセン病者は、人間にも関わらず「神」として君臨しようとした天皇の威信を保つために、また、「神国」の体裁を守るために、生きたタブーとして隔離・根絶の対象とされたのである。

しかしながら、天皇は、まさか自分が、彼らを収容所に閉じ込めたなどとは決して認めない。

むしろ、天皇は、自分のせいで収容所に閉じ込められたハンセン病者に、優しく「おことば」をかけ、彼らを助け、慰めてやる存在として、彼らの前に登場する。もちろん、登場すると言っても、「ケガレ」であるハンセン病者の前に、「ハレ」である天皇が姿を見せるわけではない。そんなことはできるはずもないことである。だから、天皇は遠くから短歌を詠んで「おことば」をかけるだけである。だが、その「おことば」の効果は絶大であった。
 

この隔離政策にお墨付きを与えたのが、大正天皇の后、節子(貞明皇后)であった。

節子は、ハンセン病患者の垢を清め、全身の膿を自ら吸ったという伝説がある聖武天皇の后、光明皇后に対する強い思い入れをもっていた。昭和になり、皇太后となった節子は、「救癩」のため多大なる「御手許金」を下賜したほか、「癩患者を慰めて」と題する和歌を詠んでいる。

つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて

行くことが難しい自分自身に代わって、患者の友となって慰めてほしい――皇太后からこう呼びかけられた光田は、感激を新たにした。天皇と並ぶ「浄」のシンボルとしての皇太后が、「穢」としての患者に慈愛を注ぐことはあっても、直接「島」を訪れることはない。だからこそ光田らがその代わりにならなければならないというのだ。

35年1月18日、光田は東京の大宮御所で皇太后に面会し、「一万人収容を目標としなければ、ライ予防の目的は達せられないと思います」と述べたのに対して、皇太后は「からだをたいせつにしてこの道につくすよう」と激励している(前掲『愛生園日記』)。

  
それにしても、何という無責任かつ高慢さの伺える短歌であろうか。

「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかはりて」という節子の歌を意訳すれば、こうである。

「私のように神々しい存在である天皇が、ケガレであるハンセン病患者のもとになど、どうして訪れられようか。私は彼らとは別格であり、穢れた病になど触れることも厭わしいため、絶対に彼らのもとを訪れるわけにはいかない。

だが、その代わり、私は私の慈悲の証として、彼らに「友」を送ってやろう。それは患者を人体実験に使う残酷な医師や、逃亡を阻止する見張り人などである。彼らは、私が遣わした者たちを「友」とみなし、彼らの振るう鞭を、「なぐさめ」であると考え、絶えず彼らを敬い、おとなしく言うことを聞いて、隔離されていなさい。それによって社会の秩序が保たれるのだ。」

こんな内容の短歌を、当時のハンセン病患者の強制隔離収容所の当局は、天皇の慈悲と慈愛を示すものとみなし、涙を流してありがたく受け取っていたのである。

一体、この歌のどこに慈愛と慈悲が見られるというのだろう。この歌の結論は明白であって、天皇は神であって、卑しいハンセン病者などとは別格の存在であるとして、安全地帯の高みから病者を傲慢に見下ろしながら、「慈悲」と称して、非人間的な絶対隔離を命じる、それだけである。まさに名目と実質が正反対である。

プロミンが開発されて、ハンセン病が不治の病でないことが証明された後も、この絶対隔離政策は、平成まで続いたが、それも、天皇制が戦後も続いたことと無関係ではなかろう。天皇を「浄」のシンボルとみなし、国民を「ケガレ」とみなして、国民が自己卑下しながら、天皇の存在や、その「おことば」をありがたがる心境が、天皇制と共に、戦後も長らく続いたからこそ、その陰に、こうした非人間的政策が、その忌まわしさを明らかにされることもなく、長期に渡り、存続したのである。
 

一方、長島愛生園は、戦後も戦前と同様の役割を果たし続ける。戦時中に米国で特効薬プロミンが開発され、ハンセン病が不治の病でなくなったにもかかわらず、国の隔離政策が改まることはなかったからである。

その背景には、皇室からお墨付きを得た光田の「衛生」思想があった。一見、近代的な装いをまとったその思想は、皇室を「浄」のシンボルと見なす前近代以来の思想と結びつくことで、揺るぎないものとなった。


戦前・戦中には、日本という国を、天皇を「神」にいただく「浄土」とみなす思想に基づき、この国は、「浄土」を全世界に広めようと、アジアの諸国に侵略戦争をしかけたのである。その頃に生まれたアジアの国々に対する蔑視と偏見は、戦後になっても、まだこの国に残っている。

GHQは、日本を占領した際に、天皇制こそが日本国民を死に追いやった元凶であることに、当然ながら、気づいていたはずであるし、天皇制を廃止することもできたものと思うが、日本を反共の砦として残しておくために、また、新たに米国が支配者となって日本を支配することをカモフラージュするため、天皇制を残しておいた方が、都合が良いと判断した。

そのため、未だに日本では、最も戦争責任を取るべき者がその責任を取らされることもなく、戦没者の遺族を「慰めて」いるのであって、国民は真の意味での戦後を迎えていないのである。

天皇及び政府が「ハレ」であって、国民は「ケガレ」だという思想が、未だ多くの人々の心に、見えない形で残り続けているのである。

政府は絶対隔離政策が終わってから、ようやくハンセン病患者に対する補償に乗り出したが、それも以前に触れた通り、甚だ不十分かつ不完全な制度であった。2001年に施行された「ハンセン病療養所入所者等に対する補償金の支給等に関する法律」は、施行から5年間で申請期限が切れるという短いもので、自己申告制であったため、絶対隔離政策の犠牲となった人々のうち、この補償を受けられたのはごくわずかなパーセンテージに違いないと見られる。

また、安倍政権のもとで、ハンセン病者の家族による国賠訴訟が提起されたことを受け、昨年末に、ようやく「ハンセン病元患者家族に対する補償金制度」が始まった。しかし、この制度も、依然として申請期間を5年間と限定し、自己申告制を取っており、申請に必要な書類も膨大に上る。

隔離政策が世紀を通して続き、ハンセン病者は、長年、政府が主導した差別を恐れて、病に罹患したことだけでなく、自分の存在そのものをタブーとして生きて来なければならなかったことを考えれば、上記の制度は、あまりにもその償いとしては不十分である。名乗り出たくても名乗り出られず、思い出すことさえつらいから手を挙げることができない苦悩を負っている人々は多く存在するはずである。

国は、自分たちがタブー化して追い込んだハンセン病者とその家族が自主的に名乗りを上げるのを待つべきではなく、自ら絶対隔離政策を敷いた償いとして、彼らが生きているうちに、最後の一人まで見つけ出して補償を行う努力をなすべきである。

* * *

ところで、話は変わるが、筆者はハンセン病者の絶対隔離政策の中に、当ブログで幾度も触れて来た反カルト運動家の思想と共通点を見いださずにいられない。
 
プロテスタントのキリスト教界において、反カルト運動に携わる牧師や信者たちが、カルトとみなした宗教の信者を強制脱会させるために、路上で信者を拉致し、彼らを車に押し込んで連れ去り、窓に鉄格子がはめられ、ドアに南京錠がかけられた密室のアパートに監禁し、脱会のための説得を繰り返していた歴史があることは、すでに幾度も言及して来たことである。

プロテスタントのキリスト教界の一部の牧師や信徒らによって推し進められた強制脱会活動は、統一教会の信者を対象とするものだけに限っても、1960年代から2016年になるまで続いた。その犠牲となった信者は4千人を超えるとされている。

近年、こうした強制脱会活動に関わった牧師の中には、刑事告訴されたり、裁判で多額の賠償判決を受けた者もある。犠牲になった信者の中には、10年以上監禁された者もあった。

反カルト運動の場合は、長島愛生院へのハンセン病者の集団隔離とは異なり、あくまで個別の隔離であったものの、全体として見ると、そこには一つの共通するプログラムがあったことが分かる。

それは、自分たちは正しい福音を知って、救われた人間であるとみなすキリスト教の牧師が、息子娘がカルト宗教に入信した親から、助けてくれと依頼されたことを機に、そうした宗教に走った信者の存在そのものを「社会的タブー」とみなして、思想改造を目的に、密室に閉じ込めて懲罰を加えることを正当化するというプログラムである。

牧師たちは、自分たちの教会を、神の国の到来した浄土のようにみなす一方で、彼らがカルトとみなした宗教に入信した信者は「ケガレ」であるとして、彼らが誤った信仰を放棄するまでは、存在そのものを社会から隔離しなければならないとして、何の法的根拠にも基づかず、勝手に強制隔離を行ったのである。

それは脱会運動というよりも、「カルト」とみなされた宗教に入信した信者の存在そのものを「タブー」化し、「恥」とみなして、物理的に排除することを目的とした運動だったと言えよう。

表向き、その運動には「カルトからの救出」という名目がつけられていたが、そこで実質的に行われていたのは、救出という名の閉じ込め、身勝手な懲罰の容認であった。

そこでは、信者が「誤った信仰」を放棄するまで、密室から出さないという方針が取られていたが、そのような非人間的な拘束を正当化する名目として、そうした宗教に走った信者は、親を悲しませ、社会に迷惑をかけたのだから、密室に監禁されて、悔い改めるまで、懲罰されても仕方がないという身勝手な理屈が用いられた。

こうして、カルト思想を警戒するとか、信者を救出するとか言いながら、その運動は、カルト思想もろともに信者を危険物扱いし、信者がその信念を放棄しなければ、一生、密室から出られないようにするという、恐ろしい内容だったのである。

筆者が、実際にこの活動の犠牲となった信者の手記を読んでいて感じたのは、存在そのものを「ケガレ」とみなされて、密室のアパートに隔離され、身体の自由を奪われ、家族に24時間、監視されていた信者のもとを、キリスト教の牧師が訪れる瞬間の残酷さである。

ハンセン病者の隔離施設では、天皇は、感染を恐れて、訪れることはなく、患者におとなしく隔離に応じるよう命じる高慢な短歌を詠んだだけであったが、キリスト教の牧師たちは、「忌むべきカルト信者」に「誤った信念」を放棄させるために、自ら密室に監禁されている信者のもとを訪れ、説得を重ねた。

自由を奪われた信者たちは、彼らの誤りを上から傲然と指摘して、説教を繰り広げる牧師たちの姿を見て、どんなに屈辱を覚えたであろう。中には、牧師(反対牧師)からその際、ひどい犯罪に及ばれたという事件の報告もある。

信者は、隔離と監視を解かれたければ、牧師の言い分に従い、信念を放棄するしかなかった。

筆者は、キリスト教徒であるが、そもそも信仰というものは、他人から強制されるべきものではないと考えている。聖書の神は、人間を自由意思を持つ者として創造されたのであり、救いを人に強制されない。だから、以上に挙げたような、他宗教の信者に対する強制脱会運動が、聖書に基づく、正しい活動であるはずがないと筆者は考えている。

だとしたら、聖書の教えに反する活動を繰り広げる牧師たちが、正しいキリスト教の信仰を持っているはずがあるまい。むしろ、反カルト運動こそが、キリスト教と呼ぶべきではない、異端の考えに基づくものであって、実は、カルトを取り締まると言っている人々こそが、最もカルト思想に近い考えを持っている人間だと言えるのである。

このようなことを発言したところ、筆者はキリスト教徒であるにも関わらず、反カルト運動を率いる(自称)キリスト教徒らから、カルト信者と呼ばれるようになり、狙い撃ちにされた。彼らは、筆者に対しては強制脱会活動が行えないので、無理やり筆者を「カルト信者」に仕立て上げ、インターネットにバーチャルな「密室」を作り上げ、そこで筆者を袋叩きにして、「再教育」を施そうとした。

こうしたやり方を見ても、到底、こんな手段を用いる人々が、真のキリスト教徒であるとは、筆者には思えない。だが、全く恐ろしいことに、そうした人々の悪事を訴えた裁判において、法廷さえも、密室と化したのである。

だから、筆者は密室から脱出するための答えを探していた。神は正しい方であるから、この世の司法が曲げられて、正しい者の訴えが退けられるようなことをお望みにはならないであろう。だが、その答えが実現するためには、筆者自身が、この試練を乗り越える術を見つけなければならない。そして、その答えのヒントは、目の前に、筆者の職場の中にあった・・・。

* * *

なぜ今回、このような話を持ち出したかというと、今、天皇のみならず、政府もまた「ハレ」であって、「ケガレ」たる国民は、政府のために、すすんで犠牲になるべきだという、とてつもなく誤った思想が、再び、この国に台頭して来ていると感じずにいられないからだ。

今の世の中で、天皇のために国民が犠牲になれとは、誰もおおっぴらに言えないであろう。だが、政府が、国民を虐げる強大な権力となることは有り得ることだ。改憲が成し遂げられて緊急事態条項が創設されれば、たちまち戒厳令国家が成立する。検察人事に政府が介入できるような法案が国会に提出されていることも、その布石である。

そこで、私たちは、政府が「ハレ」として国民を「ケガレ」とみなして虐げ、戒厳令下で密室に隔離する事態となることを本気で警戒せねばならない時代に来ている。
 
さて、ここから先は、具体的なことは書けないので、物語風に「イソップの言葉」で書くことをお許し願いたい。

我が職場には、度々、現場を訪れる上司がいた。外見的には美しく、物腰は柔らかで、優しく、親切で、その言葉は、とても善良な響きを帯びているように思われた。少なくとも、その人が、他人を叱りつけたり、声を荒げて非難したところを、筆者は一度も見たことがない。

だが、その下にいる部下は、非常に残酷で、憐れみがなく、上司には似つかわしくないように見えた。そして、その上司が連れて来る社員も、利己的で、横暴で、思いやりがなく、なぜこんな人々ばかりが集められて来るのかと、筆者は常に疑問を感じていた。

しかしながら、上司は筆者には優しかったので、筆者は長い間、利己主義者と悪人だらけの職場で、その上司だけは、筆者の理解者であると考えていた。

ところが、ある時、上部に逆らった社員が、社内軟禁状態に置かれるという事件が起き、それを機に、筆者は社内の体制の正しさを根本的に疑い始めた。

特に、コロナが蔓延してから、上司は現場を訪れることさえなくなった一方で、社員には出社しないことは許されなかった。

そういう一部始終を見ているうちに、筆者は、この職場では、上司だけが、存在を守られるべき「ハレ」であって、社員たちは「ケガレ」なのだということに気づいた。

もっと言えば、社員たちは、実はコロナが蔓延するよりもずっと前から、職場へと隔離されていたのである。すなわち、やんごとなき人々の重荷を肩代わりし、誰かのやるべきだった仕事を、代わりに押しつけられ、未来へとつながらない、昇進の見込みもない、味気ない労働を担うために、職場へと隔離されていたのである・・・。

上司は、隔離された人々を慰問するために、現場を訪れていた。それを、励まされ、慰められ、助けられ、ねぎらわれていると思っていたのは、大きな間違いだったのである。

「ありがたきお言葉」が、上からかけられることにより、社員らは、自分たちがどんなに理不尽な境遇に置かれているか、気づかないようにされ、これから先も、隔離に応じ続けるようマインドコントロールされた。

それが優しさでもなければ、思いやりでもないことは、筆者自身が、「密室」を体験したことによって、初めて分かった。
 
上司に逆らった社員だけが、特別に密室に隔離されていたわけではなく、実は、この職場全体が「密室」だったのだと分かった。すなわち、その職場自体が、「ハレ」である人たちが、見たくないと目を背けた負の仕事を担うために、特別に作られた収容所であり、それ自体が「ケガレ」だったのである。

かくて、そこで働く社員たちは、やんごとなき人々から見れば、目を背けたくなるような仕事を担うために特別に集められた「ケガレ」の集団であり、それだからこそ、特別に目を背けたくなるような事情を持つ人々ばかりが集められて来たのであり、なるほど上司が滅多に現場に来ないわけであった。

筆者は、大勢の人々と共に、自分の能力も知識も生かすことができない、囚人のごとく味気ない労働を横並びに行なわされることには耐えられないし、社員らが囚人のように争い、互いに足を引っ張り合いながら、互いを監視して、密室に閉じ込め合うような関係性は、うんざりであった。

さらに、いつまで働いても、貧しさからも、不自由からも出られない囚人労働のような仕事などは、愚の骨頂としか言いようがない。

そういうわけで、筆者は、密室に「ケガレ」として閉じ込められる人生そのものに、我慢がならなくなって、自由を求めて、大胆に獄屋の戸を開けて出て行くことに決めた。

だが、皮肉にも、それを可能にしてくれたのは、冷淡で残酷に見えた幹部の容赦のない閉じ込め政策による圧迫と、滅多に職場に来なかった上司その人の言葉でもあった。その上司は、筆者を密室に閉じ込めておくためにこそ、筆者を慰問し、ねぎらいのことばをかけたのであろうが、その時、その人は、うっかりと本当のことを言ってしまったのである。

その上司は、自分と筆者とは、同じであると述べた。筆者に言葉をかける人は、上司に言葉をかけているのと同じであり、筆者は、上司と敵同士ではなく、たとえ職場が崩壊しても、筆者がその責任を担う必要はないと。

それはちょうど、天皇が収容所にいるハンセン病者に向かって、自分たちは同じ存在だと述べたに等しかった。

筆者はその言葉を、額面通りに受け取ることにして、獄屋を開ける鍵として利用した。こうして、「ケガレ」であるはずのものが、「ハレ」になったのである。

だが、それは至極当たり前のことであって、筆者は、上司から言葉をかけられなくとも、もともと「ハレ」なのである。

それは、真に「ハレ」なる存在は、全世界にただ一人、まことの神ご自身しかいないからである。

聖書によれば、もともとすべての人間は罪に堕落しており、よって、「ケガレ」なのであり、罪なきお方は、キリストただお一人しかいない。

そのキリストに連なればこそ、筆者は、彼と共に死んで、生きることによって、「ケガレ」ではなくなり、「ハレ」とされたのであり、だからこそ、他の誰からも、筆者の罪なきことを証明していただく必要はなく、誰にも罪人扱いされずに、堂々と密室を出て行く権利を有するのだ。

そこで、自分たちが「ハレ」だと考えたい人たちが、他人をどんなに「ケガレ」扱いし、抑圧し、ずっと閉じ込めておきたいと考えたとしても、そんな狂気の沙汰に、筆者はおつきあいするつもりはない。

聖書の事実を否定して、自分たちが罪赦されてもいないのに、「ハレ」だと名乗りたい人々は、勝手に嘘をつき、自分を「神(=ハレ)」とするだけでなく、「神」である自分の力を使えば、世の中をすべて「ハレ」に塗り替えられると嘘をつく。

その偽りに基づき、彼らは自己の周りに「浄土」を作ろうとする。そして、「浄土」が来ていると偽りを言う。日本を取り戻すとか、訳の分からないスローガンを述べている政治家も、要するに、同じことを言っているのだ。

だが、それは浄土などではなく、ただの密室である。

太古からずっと、悪魔的思想に憑りつかれた人々は、人類から自由を奪い、人類を密室に閉じ込めて懲罰を加えることにより、その人間性を改造し、浄土を作れるという、グロテスクな計画に熱中して来た。

彼らは、「浄土」を作ると言いながら、自分たちの考える「浄土」にそぐわないすべての事実を否定し、彼らの主張が嘘であることを見抜いた人々をすべて罪人扱いして、密室に閉じ込めて、社会から排除し、根絶しようとはかって来たのである。

つまり、「ハレ」であるはずの者の恥や不正を暴露し、「浄土」であるはずの場所に、不調和を発見するような人間は、不届き千万な「罪人」だというわけで。そういう者は「浄土」にふさわしくないから、考えを改めるまで、密室の牢獄に閉じ込めておけというのだ。

だが、そういうことは、彼らの言う「浄土」が、初めから嘘っぱちだからこそ、起きるのである。

天皇を「神」として崇めれば、「神」であるはずの天皇が支配する「浄土」であるはずの場所では、誰も生かされない世界が出来上がる。そんな偽物の「神」に着き従えば、全員がその者と心中を強要されるという結末が待っているだけだ。

ハンセン病者は隔離されて根絶の対象とされ、ハンセン病にかからなかった健康な者は、危険思想に感染したということで、非国民扱いされて、特高警察により拷問を受けて殺される。若者は徴兵されて、特攻隊に入れられて死に、国土に残った者たちは、空襲で焼け死に、死ななかった者も、捕虜になってはいけないからと、集団自決を迫られ、大陸に進出した者は、戦火の中に置き去りにされて死に、一億玉砕するまで、戦争を続行すると言われ、外圧によって終止符が打たれなければ、その戦争には終わりがなかったのだ。

それは、天皇を「神」とすれば、誰も生き残れない世の中が成立するだけであることをよく証明している。

生きた人間を「神」としようとすれば、いつの時代であれ、同じことが起きるのであって、彼らの言う「浄土」は、それ自体が、誰も生き残れない密室と化して終わる。

だが、それは天皇を「神」とする場合だけでなく、首相を「神」としたり、政府を「神」とする場合も、同じなのである。

聖書によれば、神の国は、キリストと共に、私たち信じる者の心の内にすでに来ている。従って、私たちには、誰か偉い人たちに、浄土を作っていただく必要ははないし、偉そうな政治家に、日本を取り戻していただく必要もない。

キリストの血潮によって罪赦された筆者を、再び罪人扱いして、密室に閉じ込めようなどと考える人々がいるならば、その人々は、筆者に敵対しているのではなく、筆者の信じている神に敵対しているのであるから、その人々に、正常な人生の結末が訪れるはずがない。

そういうわけで、密室と化した職場には、まともな明日は来ないと、筆者は考えている。そのことが分からない人たちだけが、そこに残ろうとする。つまり、そこが収容所であると気づいていない人だけが、その場所にしがみつき、自らの地位を保とうとする。だが、しがみつけば、しがみつくほど、密室はますます彼らを締めつけ、自由を剥奪し、逃げ道を塞いでいく。与えられるものは、ますます少なくなり、自由は狭まり、脱出にもタイムリミットがある。その機を逃せば、出られなくなり、いずれは倒壊に巻き込まれるだけだ。

その密室には、「バビロン」という名がつけられており、そのレンガの壁には「俺たちにはできる!」と記されている。神は天の高みから、彼らの高慢を見て、嘲笑われる。そして、「あなたたちにはできない」と宣告される。

神は、人間が天に届くために、ただ一つの道しか用意されなかった。それが、御子キリストの十字架である。「人にはできないが、神にはできる」ことを証明された、ただ一人の方の死と復活の道を通らないで、天に到達しようとする者は、みな罰せられる。

彼らは分裂し、言葉が通じなくなり、意思疎通ができなくなって、混乱に陥り、かくて彼らが作ろうとしている天まで届く救済システムは、永遠に完成することなく、崩れ去って終わる。

そんな生き方は、筆者はご免被る。そこで、バビロンの倒壊が起きるよりも前に、荷物をまとめて、密室を脱出した。密室は、快く筆者を釈放してくれた。「ハレ」なる上司は、とうに安全な場所に避難して、姿も見せなくなって久しいが、筆者が脱獄したのを見て、大切な取り巻きたちを、刑務所から引き上げさせた。

かくて「ハレ」なる人々は、みなその場所を去って行ったのである。もちろん、筆者と上司とは、異質であって、同じ意味で、「ハレ」という言葉を使ってはいない。彼らはこの世において地位を築いた人々であり、筆者は、天において、見えない神に承認された者である。

だから、我々は全く別の意味で「ハレ」なのであり、まことの神を知らない人々は、実のところ、自分をどんなに「ハレ」だと主張しても、「ケガレ」に過ぎないのである。だが、そのことをさて措いても、最も愚かで、最も無知な人々だけが、「自分たちはハレだ!」と主張しながら、密室に残されたのであり、そんな人たちがどんなに集まっても、何も生み出されるものは何もない。

筆者を「ケガレ」扱いしていた間は、密室は四の五のうるさく言っていたが、いざ筆者が、王になるからと、さよならを告げると、気前よくドアを開けてくれ、もはや筆者を非難することはなくなった。

もうこれ以上、貧しさと、不自由に脅かされ、自己の能力も、知識も、経験も、何一つ生かせず、大勢の囚人から監視され、身動き取れない生活はたくさんである。理解し合うこともできないほどに、道徳的なレベルの低い人々に、絶えず絡まれて、引きずりおろされながら、彼らと同じ牢獄に閉じ込められて生きることはできない。

筆者は、その牢獄から人々を解放するためにこそ、ここに置かれているのだ。

上司は、筆者と同じ者だと言いながら、筆者に何の権限も付与してくれなかったが、神は筆者にはかりしれない絶大な権限を、お与えて下さっている。

筆者には、見えない主ご自身が、慰めを与え、信仰によって、私たちは一つだと言って下さる。そこで、筆者には、どんなにやんごとなき人々であっても、人間に過ぎない者に結ばれる理由がない。

だから、筆者は天の父なる神が御子を通して与えて下さった高い地位と権威を利用して、「ケガレ」の世界を抜け出し、「ハレ」の世界で生きて行くことに決めた。だが、それは筆者だけが、高みから君臨するためではなく、より多くの人たちを自由にあずからせるためである。

「御父は、私たちを暗闇の力から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロサイ1:13)

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの 命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 」(コロサイ3:3)

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。
 耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。
 キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。
 わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。
 キリストは御自身を否むことができないからである。」(2テモテ2:11-13)


* * *

そういうわけで、筆者はまた一つ、新たな密室を打ち破った。

聖書の神は、正しい生き方をする人を、悪人と共に滅ぼすことはなさらない。神はロトの一家が脱出を終えるまで、ソドムを滅ぼすことはなさらなかったし、ソドムとゴモラに滅びが迫っていることを、アブラハムとその親戚には前もって告げて下さった。

そこで、筆者が出て行くまでの間は、神は地上の組織を守られるだろう。そして、この脱出劇は、地上における審理のリハーサルであったと筆者は考えている。密室は、筆者を吐き出したとき、置き土産を残して行った。それが筆者の出エジプトの戦利品である。

筆者が密室を打破したことは、この国で、人々が戒厳令下の生活を送ることなどあり得ないことをよく示しているように思う。コロナウィルスを理由に、国民を閉じ込めようとする政策があるなら、それは功を奏しないだろう。草の根的な活動を封じ込めることはできず、私たちの自由な発想の余地を潰すことはできない。

むしろ、今、政府が「ハレ」として、その威信をかけて進めて来たプロジェクトが次々と頓挫している。アベノマスクは届かないし、届いても、汚れだらけで使えず、使っても予防に効果がなく、東京オリンピックは、来年になっても、開ける見込みはない。

日本という国は、少子化と労働力の不足のために、放っておいても、これから未曾有の没落を迎えることとなる。そのツケは早晩、政府自身にも回って来るのであり、今は焼け太りしたり、かつての栄光よもう一度、とばかりに、ありもしないファンタジーを持ち出し、自己高揚に浸っているような場合ではない。

ところが、「神国日本よもう一度」と叫びたい人たちがごまんといるのだ。彼らに口を利くチャンスを与えてはいけないし、祭典など開かせてはならず、スローガンを叫ばせることさえいけない。

生まれながらの罪深い人間の威信を誇るだけのバビロンには背を向けて、真に堅実だと言える生き方を打ち立てる頃合いである。ヨセフが来るべき飢饉を予測して、エジプトの国中に穀物の備蓄を命じたように、今、破滅を逃れるためには、たくわえがなくてはならない。金銭的な貯えのことではない。正しい生き方の蓄えである。

そこで、ノアの洪水前に、ノアが箱舟を建設していた作業のように、人には理解されないかも知れないが、神の目に評価される、時を超えて残る仕事をしたいと筆者は願う。

密室を脱し、どこへ行って、何をするのか、筆者の心の中には計画がある。
 
筆者は、天の秩序を地に引き下ろすため、命の水を流し出すパイプラインを建設し、それをこの地から広域に渡って流し出す計画を進行中である。神の国は、信じる者の只中にこそあり、それゆえ、信じる者は、天の秩序を持ち運んでいる。筆者には、命の水を流し出すことも、止めることもできることが分かった。今、考えていることは、どこへ向かって、この水を放出すべきかということである。

困ってもいない人々を助ける必要はないし、誰かの怠慢を助長するために、額に汗して労するわけにはいかない。水は低い方へ流れる。真に困っている人、必要としている人のもとに、必要なものが、必要なタイミングで届けられなければならない。そのような流れが実現できれば、筆者が豊かになろうと思わなくとも、結果はついて来るはずだ。

そこで、筆者は、地上で「やんごとなき人々」と呼ばれる人々には背を向けて、彼らの承認や賛同を求めることをやめて、見えない神の御前で、真に高貴な人と認められるために、まだ見ぬ都へ向かって歩いて行きたい。それは目に見えない階段を一歩一歩上って、天の御座に近づいて行くような歩みである。一つの所で、功績を打ち立てても、決してそこに安住することなく、先へ進んで行く。この世では寄留者なので、どこにも定住せずに、常に「更にまさった故郷」を求めて旅して行くだけである。

地上におけるすべての試練を耐え忍び、それに勝利する秘訣を学ぶなら、やがて来るべき日に、彼と共に栄光を受け、支配者となるだろう。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブライ11:13-16)

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「シオンは言う。
 主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。

 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。
 
 見よ、わたしはあなたを
 わたしの手のひらに刻みつける。
 あなたの城壁は常に私の前にある。

 あなたを破壊した者は速やかに来たが
 あなたを建てる者は更に速やかに来る。
 あなたを廃墟とした者はあなたを去る。
 
 目を上げて、見渡すがよい。
 彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。

 わたしは生きている、と主は言われる。
 あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい
 花嫁の帯のように結ぶであろう。
 
 破壊され、廃墟となり、荒れ果てたあなたの地は
 彼らを住まわせるには狭くなる。
 あなたを征服した者は、遠くへ去った。

 あなたが失ったと思った子はら
 再びあなたの耳に言うであろう
 場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と。

 あなたは心に言うであろう
 誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか
 わたしは子を失い、もはや子を産めない身で
 捕えられ、追放された者なのに
 誰がこれらの子を育ててくれたのか
 見よ、わたしはただひとり残されていたのに
 この子らはどこにいたのか、と。

 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしが国々に向かって手を上げ
 諸国の民に向かって旗を揚げると
 彼らはあなたの息子たちをふところに抱き
 あなたの娘たちを肩に背負って、連れて来る。
 
 王たちがあなたのために彼らの養父となり
 王妃たちは彼らの乳母となる。
 彼らは顔を知につけてあなたにひれ伏し
 あなたの足の塵をなめるであろう

 そのとき、あなたは知るようになる
 わたしは主であり
 わたしに望みをおく者は恥を受けることがない、と。

 勇士からとりこを取り返せるであろうか。
 暴君から捕われ人を救い出せるであろうか。
 主はこう言われる。
 捕われ人が勇士から取り返され
 とりこが暴君から救い出される。

 わたしが、あなたと争う者と争い
 わたしが、あなたの子らを救う。

 あなたを虐げる者に自らの肉を食わせ
 新しい酒に酔うように自らの血に酔わせる。
 すべて肉なる者は知るようになる
 わたしは主、あなたを救いあなたを贖う
 ヤコブの力ある者であることを。」(イザヤ49:14-26)

* * *
 
オリンピックは、当ブログで再三、予想して来た通り、開催できずに終わる道筋がかなり現実的なものとなって来た。

また、この機に乗じて緊急事態宣言を狙っている人々がいるようだが、それは多分、叶わないのではないかと筆者は考えている。この点について、筆者自身は、よくは分からないし、在宅勤務で給与をもらえるならば、それが最善だと思っているのだが、筆者のいる職場は、テレワークにも、在宅勤務にも対応しておらず、そんな近代的な対応を期待できるところでもない。

だから、緊急事態宣言に伴い、外出禁止令が出され、出勤が停止されて在宅勤務になる…という「夢のような」話はあまり思い描けない。そして、筆者は日常生活が制限されたり、外出が禁止されることなど全く望んでいない。

「ウィルスのせいで内定取り消しになった人もいるのに、在宅勤務を望むなんて、ヴィオロンさんの話は不謹慎だ!」とおしかりを受けそうだ。

確かに、そういう批判が出てもおかしくないほど、街は殺気立っている。日曜日に外へ出ると、平和に見える家族連れさえ、殺伐とした雰囲気を漂わせており、ディスカウントストアに行くと、カップルのうち、まだ若い女性が、レジの店員をヤクザのようなまなざしでにらみつけている。「ウィルスをうつすなよ」と目で合図しているのかも知れないが、何と殺伐とした光景だろう、日曜日の家族の平和な買い物だというのに・・・。

筆者はというと、持ち物の修理のために、初めて行く店をネット上で探して家を出たが、日曜に予約もなく、もう夕方に近い時間帯になってから動いたというのに、思いがけなく、とんとん拍子に話が進んで、すべての必要がかなえられた。事前の説明では、できないと言われていたことさえ、可能となり、自前での修理であったとはいえ、とても嬉しくなってしまった。

ここのところ、筆者の日常生活においては、極限的なストレスが津波のように押しよせ、筆者は心の平安を保つことが困難となり、とても一人ではこの問題には立ち向かえないと考えて、「主にある2、3人」がどうしても必要だと感じた。言い知れない深さの悪に立ち向かうために、仲間が必要であると思ったので、探したのである。

その時、神は祈りの有志を与えて下さった。知り合いのつてさえないところを、ゼロから探したが、腐っても鯛、というたとえは不適切かも知れない。ほとんど絶望的と思われていた思いがけない場所に、仲間が見つかり、さすが、キリストへの信仰のあるところには、奇跡が伴うと、間違っても、他宗教の信者になど声をかけなくて良かったと思った。というより、出会わせてくれたのは主である。
 
「求めよ、そうすれば与えられる」、「捜しなさい、そうすれば見つかります」と、聖書に書いてある通りだ。

こうして、祈りの有志が与えられたことで、筆者の生活に対する天の防衛が強化されたのではないかと思う。不思議なほど、心に平安が戻り、日常生活で大切なことが何であるのかが、よく分かるようになって来たのである。

これまで筆者の人生には、助け手を名乗る様々な不誠実な人間が現れては消えて行った。彼らは、口先だけで調子の良いことをさんざん言って、筆者を持ちあげ、筆者を助けるふりをしながら、その実、自分が筆者から助けを受けるために、あるいは、栄光を盗み取るために接近し、しかも、筆者から取れるものをすべて取り尽くすと、空っぽになった筆者を踏みつけにし、嘲笑しながら、置き去りにして去って行った。

そういう種類の人々には、おびただしい数、遭遇して来た。そこで、彼らのパターンも大体分かるようになった。だから、基本的に、筆者はそういう人たちに利用されたくはないため、誰からの助けをも求めないし、誰かに自分を理解してもらおうとも願わない。

だが、そうは言っても、信仰の戦いにおいては、「祈りの有志(勇士)」が必要になることがある。それくらい、最近、筆者をとりまく環境はますます厳しさを増し、霊的戦いも、激しさを増している。

ある時、派遣社員は「愛人」だと、筆者に言った人がいた。それは永遠に「正妻」になれない「愛人」、蔑まれた地位だという意味である。しかし、筆者は、今、契約社員であろうと、正社員であろうと、一人の偶像(代表)のもとに雇われているすべての被雇用者は、いわば、男女に関わらず、みな社長の愛人みたいなものなのではなかろうかという気がしている。

職場の中で、ヒエラルキーを上にのぼりつめようと、ものすごい競争が行われる。男であれ、女であれ、嫉妬と憎しみに燃え、競争者を押しのけ、陥れてでもいいから、上に行こうとする。負担は他人に押しつけ、自分は楽をし、有利な立場に立つために、水面下で苛烈な競争が行われる。

だが、他者を押しのけて、ヒエラルキーの階段をのぼりつめさえすれば、「正妻」の座を勝ち得られ、誠実で信頼のおける関係に入れるというのは、幻想でしかないと筆者は思う。

一人の目に見える人間を象徴として頂点にいただく組織は、すべて「ハーレム」みたいなものである。ハーレムというのは、一夫一婦制の原則に基づいていないから、その中のどこを探しても、真実や誠実さなどないのだ。

そこで「夫」とか「主人」の役目を果たすトップとは、命の通わない、死んだ彫像みたいなもので、みんなの欲望を投影して作られた「もの言わぬ偶像」である。「虚無の深淵」と呼んでも良いかも知れない。生きた一人の人間とさえ呼べない、作られたむなしいイメージである。

だから、そのようなものとの「結合」を私たちは求めるべきではなく、そのようなものに「供え物」を捧げても、報いがあるわけではない。つまり、世の中で、人間関係の争いに勝とうと、必死に競い合って高い地位を求め、何とかして上部の覚えめでたい人間になろうと努力しても、そんなことは、無意味であるし、不実な偶像に近づく人は、傷つけられる。

とはいえ、私たちは自分に与えられた僕としての役目をきちんと果たすことは必要である。ただそれ以上に、与えられた契約以上に、心をすり減らし、疲れ果てる競争に巻き込まれたり、人からの賞賛や栄誉を受けようと願って、自分をすり減らさないことである。
 
この絶え間なく神経を消耗する競争社会にあって、筆者は、信頼できる、誠実かつ真実な人間を探している。我こそは信頼に値すると名乗り出た人間は、ことごとく偽りであった。

信頼できるかどうかは、一人一人の人間性にかかっており、職業上の立場や、知名度とは全く関係がない。

そして、確かな人間性とは、キリストにあってしか確保できないものである。
  
筆者は、筆者一人だけに忠実であって、誰とも筆者を競争させない関係を求めている。真に心を打ち明け合い、助け合うことのできる人間関係を。

筆者の人間関係の結び方は、非常に深く、求めるものが大きい。そして、その求めの中には、人間に対する期待のみならず、神に対する筆者の求めと期待の大きさが、反映しているような気がしてならない。

だからこそ、筆者の渇望を神に持って行くと、そこに平安が訪れるのである。そして、主は筆者の心の求めを、とても光栄なものとして受け止めて下さっている気がするし、その渇望の深さを知っていればこそ、ご自身の豊かさによってそれを満たすために、筆者を信仰に導いて下さったのではないかという気がしている。

神と人との関わりは、キリストだけを仲保者として、そこに誰をも挟まないものである。

同じように、人と人との間で信頼関係を築くためにも、そこに競争者がいてはならず、唯一無二の関係、「一夫一婦制」の原則が適用されていなければならない、と筆者は考えている。それは、夫婦だけでなく、その他のすべての人間関係に当てはまる原則のように思う。

つまり、筆者は、信頼関係が成り立つためには、まずは一対一の関係がなくてはならず、そこに誰かが競争者として挟まって来るようでは、初めから信頼は成り立たないと考えている。

筆者が求めているのは、筆者の他にスペアを作らず、筆者以外の誰をも賞賛せず、筆者を己の欲を満たす道具として扱わず、真に筆者の利益のために奔走してくれ、筆者が困ったときに筆者を拒まず、筆者の窮状を嘲らず、筆者の他に競争者を絶対に作らない関係だ。
 
喧嘩しても、仲直りでき、弱みを知られたからと言って、悪用される恐れがなく、一度、傷つけられたくらいのことでは、ただちに関係性が壊れることもなく、さよならを告げられると逆上し、恨みに燃えて、復讐に及ばれるような恐れのない関係。
 
非難されても、プライドを傷つけられたと怒り出さず、裏切られても、耐えることができ、誤解されても、誤解が解けるまで待つことができ、たとえ筆者が間違っていても、筆者がその間違いに気づいて立ち戻るまで、じっと待つことのできる関係・・・。

そんな関係が成立するためには、神のような忍耐が必要になると言えるが、それだからこそ、神は筆者の心の求めに対し、「分かった」と言って下さるような気がする。

「あなたの求めは、私でなくては満たせません。
 だから、あなたは私を待ちなさい。
 あなたが本当の本当の満足を得たいなら、
 私が現れてあなたを満たすまで、あなたは待ちなさい。
 また、私以外のものを決して求めてはなりません。」
 
神は、筆者が人間に求めている期待の高さを知っておられ、それゆえ、筆者の失望と嘆きの深さも知っておられ、今なお、筆者の求めを真に満たせるのは、神御自身しかいないことを知っておられ、そのことを幾度も筆者に告げて、主の内にとどまるよう説得なさり、その上で、筆者をそばにおいて、兄弟姉妹を配置し、見守っておられるという気がする。

だが、最近、人間の中にも、神の愛と忍耐に匹敵することはないにせよ、それに類する愛と忍耐を持つ人はいるのだろうと、筆者は思うようになった。それは筆者自身の内面の生長があったためかも知れないが、筆者の出会う人間の質が変わって来たのである。

以前のように、誠実さのかけらもない、裏切り者ばかりが現れるようなことはなくなり、少しずつ、少しずつ、人生を分かち合える仲間のような近しさを持つ人々が現れるようになって来た。
  
もちろん、それは信仰者であればこそだ。この世の人々であっては、やっぱりいけないのだ。

筆者は、喜びも、悲しみも、共に背負っていける唯一無二の関係、筆者の信頼に応えうる生きた人間を求めている。
 
どんなに見かけがよく、知的で、態度が洗練されて、注目や信頼を集めているようであっても、根本的に、内心が空虚で、生き方が病んでいるエフゲニー・オネーギンのような人間はもうたくさんである。

知性や、洗練された物腰が、すなわち誠実さや真実ではない。
 
オネーギンたちは、有名になりたがり、権力と地位を目指すことも多く、今の世では、余計者どころか、成功者である。大勢の取り巻きに囲まれて、常に幸せで、満ち足りていそうで、人気者で、自慢話にも事欠かない。

だが、筆者は個人的にオネーギン族はたくさんなのである。なぜなら、彼らは「ただ一人の人」に対して忠実であることがどうしてもできないからだ。よって、オネーギンの周りには、必然的に「ハーレム」ができる。オネーギンは内心が病んでいるので、どうしても保険をかけずに他人とつき合うことができない。だから、人と人を競争させる。自信がないので、誰かと向き合うときにも、常に心の逃げ場となりそうな「愛人」を別に用意しておかずにいられない。

それに、自己中心で自惚れ屋なので、本当の意味で他者のために心を注ぎだすことができず、他者を助けるのさえ、自己満足のためでしかない。

従って、オネーギンは誰かに向かって愛を語るときでも、それを語り出す前から、すでにその相手を裏切っている。究極的には、オネーギンは自分自身しか愛することのできない人間である。すべての他者を己の栄光の道具とすることしかできず、そして、その愛は病んでおり、本物ではない。

もちろん、これはすべてオネーギンという人物像を用いた人間関係の比喩に過ぎないが、そもそもこんな不誠実な種類の人間に、何も期待できることはないから、こういう種類の人々については、その生き方に巻き込まれないことこそ肝心である。

彼らの幸福は、きちんとした基盤の上に作られていないため、脆く、崩れやすいものでしかなく、彼らの価値観に巻き込まれると、ひどく傷つけられる。

だから、そのような生き様からは、離れ去るべきだと筆者は考えている。人と競争させられて、ヒエラルキーの階段をよじ登る人生から、離れ去るべきであって、その競争に勝つことが、幸福を得る手段であるかのような幻想にとらわれるべきではない。

筆者は地上に築かれたどんな関係においても、誰とも競争したくないし、競争させられるつもりもない。不実な関わりには飽き飽きしている。
 
筆者はキリストがその血の代価を支払って、贖って下さった人間であり、死を経て生かされたのだから、筆者の価値は、キリストの血の値段である。神がお一人であるように、筆者の代わりはどこにもいない。もともと代わりがないものに、どうやってスペアを作って競争させることができるのか。誰がどうやって、主に贖われた筆者が与えることのできる以上の満足を、信仰もないのに、人に与えられるのか。

そういうわけで、筆者が求めているのは、名実共に「あなたしかいない」という台詞だけであって、いつでもいくらでも予備のある、裏切りを前提とした関わりではないのである。

その唯一無二の関係は、私たちが信じる神が、ただお一人であって、スペアなどなく、私たちが、全身全霊で、ただそのお一人の神だけを愛すべきなのと同じである。

ただ一人の神だけに忠実であるからこそ、神は私たちの呼び求めに、応じることを光栄として下さる。
 
そこで、主にあって、贖われたキリスト者は、主の血の代価を持って贖われた自分の持つ絶大な価値をしっかりと認識しなければならない。
  
そして、キリスト者同士が出会うとき、その交わりには、1+1をはるかに超えた効果が生まれる。

それは、都合の良いときだけの連帯ではなく、都合が悪くなっても、切れることのない関わりである。主が結びつけて、出会わせて下さった関係であり、共に主を誉め讃えることを目的に、永遠にまで続いている。だが、その関わりは、義務ではない。あくまで自由意思に基づく関係性なのだ・・・。

そういうわけで、筆者の人生では、キリスト者との祈りの共同戦線が張られると同時に、たちまち見えない領域で、何かが打ち破られた気がしている。
 
それは、キリストご自身の豊満であるエクレシアから助けを得たからかも知れないし、あるいは、絶え間なく人々を競い合わせるオネーギンの不実な「ハレーム」社会の嘘の影響が、打ち破られたためかも知れない。
 
この世の立場がどうあれ、私たちは、断じてたくさんの競争者と競い合わされ、ヒエラルキーの階段をよじ登って行くことでしか、自分の価値を証明できない哀れな一群ではない。

私たちは、ただ一人の男子キリストによって贖われた尊い純潔の花嫁であり、この方が、私たちの価値を確かに認めて下さり、私たちを選んで下さったゆえに、私たちはこの方と同様に、愛と尊厳に満ちた存在なのである。

その事実が、雲間から太陽が姿を見せるように、はっきりと示され、取り戻された。

ああ、この深い心の平安に変えられるものが、何かあるだろうか。この世のどんな競争に勝ったところで、この平安を得られるだろうか、と感じた。

そういうわけで、筆者は、心の中からすべての不誠実な人々の影響を追い払い、この世の喧騒、また、うわべだけの立場に気を取られることをもやめて、キリストの内に住むこと、ただ彼の内だけに住むことへと戻って行った。

そのことについて、キリスト者と共に祈り合い、「アーメン(その通りです)」と同意したのである。

その時、この世を超越して、天の御座の高みからすべてを足の下にし、見下ろすことのできる心の自由が戻った。時を止めるように、何もかも、すべてに手を止めて、今一度、主に自分をすべてお捧げし、「彼の中に住む」道に入り、平安を取り戻したのである。

それと同時に、この社会で、疲れ切って、責任を押しつけ合い、非難し合う人々の哀れな状態が、はっきりと見えるようになった。つい少し前まで、筆者もその囚人のように疲れ切った人々の一人だったのだが、彼らの歩いている姿を見ただけでも、心の惨状がどんなものかがはっきり見えるようになった。

どれほど人々が主ではない別な事柄に気を取られ、そのせいで平安を失っているかが、彼らの姿を見たときに、改めてはっきりと理解できたのである。
 
だから、筆者自身、もう一度、何もかもを主に委ね、もつれた糸を解きほぐすよう、筆者の手に余るすべての問題を、主に解決してもらうために委ね、主が解決を握っておられることを固く信じて、真っすぐに前を向いて進んで行こうと思わされた。

もはや、すべての問題は、筆者の手を離れ、神の領域へと移されて行った。平安は、こうして筆者の手から重荷が取り去られるに比例して戻って来たものであった。
 
* * *

読者は読む必要を感じていないかも知れないが、筆者自身のために、オリーブ園、A.B.シンプソン、「キリスト生活」の「第6章 どのようにして主の内に住むのか」 から、部分的に抜粋しておきたい。これは何年も前に、筆者が十字架のキリストと出会ったときに、非常に新鮮な心持ちで読んだものであり、今再び、オリーブ園の新着ブログにも掲載されているようである。

この記事は、キリスト者が心の平安を保ち、キリストと二人三脚で進む上で、避けては通れない秘訣を記したものである。読むのは簡単であるが、実践している人がどれくらいいるか。この記事は、心の通い合った夫婦の生活のように、私たちが絶えず主の中で、主に立ち戻り、主と相談の上で、すべてを決めて、歩んで行かねばならないこと、それなしに、日常生活において、キリストの内にとどまることができないことを示している。

もちろん、その生活の中には、私たちの心に、主以外の何者かが挟まることはない。自分自身の衝動でさえ、その静かな平安な生活の妨げとならないように、警戒せねばならないのである。

* * *
 
ヨハネは、小さな子供たちだけが主の内に住むことができる、と言っているかのようです。すなわち、私たちが小さくなる時だけ、主ご自身を十分に知ることができ、自分の力を用いるのをやめて彼に依り頼む時だけ、私たちを保持する主の力を知ることができる、とヨハネは言っているかのようです。

ヨハネは私たちに呼びかける時、「あなたがた」と言わずに、「わたしたち」と言っています。これからわかるように、ヨハネは自分自身を小さな子供の一人と見なしています。ヨハネは、古い自分であるボアネルゲ(雷の子)が死んだ時から、霊の中でまったく小さな子供になりました。ヨハネはイエスの御胸によりかかりましたが、それはイエスの支える御腕から離れないためでした。

私たちはキリストご自身の栄光を見てきました。また、キリストにあることと、キリストを私たちの内に持つことがどういうことかも見てきました。そして今、私たちはこれらのものに強く印象づけられたいと願います。ヨハネは、「小さな子供たちよ、彼の内に住んでいなさい。それは彼が現れる時、私たちが確信を持つためです」と言います。

私たち信者は、主の内に住むこの生活をどのように維持すればいいのでしょうか?あなたは自分を主にささげ、自分の意志と力を放棄し、自分の生活を主に支えてもらうことに同意しました。またあなたは、真の花嫁のように、自分自身、自分の名前、自分の独立性を放棄しました。その結果、彼は今、あなたの主となっておられます。あなたのいのちは彼の内に飲み込まれました。そして、彼があなたのかしらとなり、すべてとなっておられます。

さて、愛する方々よ、この生活はどうすれば維持できるのでしょうか?主は、私たちは彼の内に住むべきであり、私たちが彼の内に住む程度に応じて私たちに内に住む、と言っておられます。「私の内に住んでいなさい。そうすれば、私もあなたがたの内に住みます」。
 

ヨハネによる福音書十五章四節。(訳注)


今を生きる


まず第一に、主の内に住む生活は、今を生きる生活でなければなりません。それは惰性で流れ続ける急流ではなく、小さな行いや習慣の連鎖です。あなたは、今この時、主を完全に所有し、今この時、完全に救われ、今この時、勝利をおさめます。今この瞬間を満たしたものは、次の瞬間をも満たすのに十分です。ですから、もしあなたが毎瞬この交わりを更新していくなら、あなたは常に主の内に住むでしょう。あなたはこれを学ばれたでしょうか?あなたの生涯における失敗の大半は、一瞬を失うこと、一針の縫い目の切断、小さな裂け目、岩の割れ目――そこから水の雫がしたたり落ち、一本の急流になります――から来ます。しかし、もしあなたが一歩も歩みを失わず、一つも勝利を逃さないなら、あなたは主の内に住んで常に勝利するでしょう。

ですからまず第一に、この秘訣を学びなさい。すなわち、もはや恵みも勝利も必要としないほどの聖潔に達することはない、ということです。しかし、もしあなたがこの瞬間に恵みを受け、次の瞬間にも恵みを受け続けるなら、生涯の終わりに、あなたは主の恵みの大洋をことごとく所有するでしょう。最初、それはほんの小さな流れかもしれません。しかし、毎瞬流れ続けさせなさい。そうすれば、その水路が終わらないうちに、それは無限の大海原になります。


意志による決断


次に、主の内に住むことは、意志による決断を続けることによって、また、常にキリストに信頼し続けることによって、確立されなければなりません。主の内に住むことは、あなたの意志の有無にかかわりなく、不可抗力的な衝動として自然に実現されるのではありません。あなたは、主に信頼することから開始して、それが習慣になるまで繰り返さなければなりません。これを悟ることは非常に重要です。

祝福を得た時、それ以上何の努力もしなくても、その祝福は流れ続ける、と考える人が大勢います。しかし、そうではありません。意志の行為、選択の行為は、霊的生活の真の舵輪です。人が罪から救われるのは、イエスを救い主として実際に選択することによります。人が聖別されるのは、自分自身を明確に明け渡して、キリストを自分のすべてとして受け入れることによります。

ですから、愛する方々よ、あなたは主の内に住むことが呼吸するのと同じくらい自然なことになるまで、しっかり舵輪を握って前進し続け、毎瞬毎瞬、キリストに信頼すること、キリストによって生きることを選び続けなければなりません。
それはちょうど、溺死から救われた人のようです。人々が彼を水から引き上げたとき、呼吸は停止しています。呼吸は自然に戻ることはありません。苦労して人口呼吸を続けることによって、呼吸が戻ります。人々が半時間ほど空気を吸わせたり吐かせたりした後、無意識的な呼吸活動が認められるようになります。そして、呼吸本能がよみがえってきて、自発的な呼吸が始まります。間もなく、その人は何の努力もせずに呼吸するようになります。

しかし、それは最初に一定の努力をすることによって起きます。そして、徐々にそれが自然になって行きます。キリストに関しても同じです。もし、キリストの内に住むことを自然なものにしたいと願うのなら、それを霊的習慣にしなければなりません。預言者は「神にとどまる心」について語り、ダビデは「私の心は主に信頼して揺るぎません」と言いました。私たちは決断をもって始め、いかなる代価を払っても主に従う必要があります。そうするなら、少しずつ習慣が確立されて行きます。

<中略>


自我の抑制


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、自分に信頼しないことを常に学ばなければなりません。自我の抑制が、常に神聖な満たしと能力を得るための第一の要件でなければなりません。何らかの非常事態が生じた時、人は飛び出してしまいがちです。ペテロは、自分が敵に立ち向かえるかどうかわからないのに、剣を抜いて飛び出してしまいました。突然の衝動に駆られて行った行為は、数週間にわたる後悔という結果に終わることがあります。衝動的に事をなすのではなく、主を受け入れなさい。私たちが主から方法を教わる時だけ、主は私たちを用いることができます。

ですから愛する方々よ、自我を抑制することを訓練しましょう。そして何事についても、主を見上げて、「主よ、あなたの御旨は何でしょう?あなたのお考えはどうでしょう?」と尋ねるまで、決定を差し控えることを訓練しましょう。そうするなら、あなたと主の意向が食い違うことはないでしょう。そこにはさいわいな調和があるでしょう。このようにキリストの内に住む人々は、差し控える習慣、静かにしている習慣を身につけます。彼らは落ち着きのないおしゃべりではありません。彼らはよろずのことについて常に見解を持っているわけではありませんし、自分がなすべきことをいつも知っているわけではありません。彼らは性急な判断を差し控えて、神とともに静かに歩みます。むこうみずで衝動的な精神は、主に聞き従うことを妨げます。


依存


もしキリストの内に住むことを願うなら、キリストは人生の非常事態だけでなく、すべてを引き受けて下さることを憶えなければなりません。そして、常に主に頼る習慣を養わなければなりません。主に依り頼み、いたるところで主を見いだし、彼が私たちの生涯の事業を引き受けて下さったこと、そして困難は一つもないこと、もし私たちが主に委ねて主に信頼するなら、主が私たちを運び通して下さることを認識しなければなりません。


主の臨在を認識すること


さらに、もしキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の心の中心におられることを認識しなければなりません。主を見い出すために、彼方の天に上って、主が行かれたあたりをさまよう必要はありません。主はまさにここにおられます。主の御座はあなたの心の中にあります。主の富は身近にあります。あなたは神の臨在を感じないことがあるかもしれません。しかし、聖霊があなたの心の中におられる事実を受け入れて、その事実に従って行動しなさい。すべてのことを主に持って行きなさい。そうすれば間もなく、主の臨在を実際に喜ばしく感じるようになります。感情から始めてはいけません。主がここにおられることを信じて行動することから始めなさい。ですから、もしあなたがキリストの内に住むことを願うなら、主が自分の内におられ、自分が主の内にあるものとして、主に応対しなさい。そうするなら、主はあなたの信頼に応えて、あなたの確信に誉れを与えて下さいます。


すべてのものの中におられる神


キリストの内に住むことを願うなら、人生に訪れるすべての事柄の中にキリストがおられること、そして、摂理の過程で起きることはすべて、ある意味で神の御旨と関わりがあることを認識しなければなりません。試練は偶然ではありません。それはキリストと関係無いものではありませんし、「神はなぜ私をこのような試練にあわせるのだろう」といぶかしんで抗議するしかないようなものでもありません。

私たちは、神が試みの中に導かれたこと、そして、たとえ洪水の高波が押し寄せても、神は御座に座しておられ、大波のうねりや水の轟きよりも力強い方であることを信じる必要があります。また私たちは、神は
「人の怒りを賛美に変え、怒りの余りをとどめられる」ことを信じる必要があります。私たちは「神は我らの避け所、また力。苦しむ時、そこにある助け。それゆえ、我らは恐れない。たとえ地は移り、山が海の真中に移っても。たとえ、水が立ち騒ぎ、泡だって、山々が揺れ動いても」(詩篇四十六篇一~三節)と言わなければなりません。

私たちはすべての出来事を、人が選択しうる最善のもの、あるいは、神が与えうる最善のものと見なす必要はありません。その出来事が私たちに臨んだのは、神がご自身の力を私たちに現すためかもしれませんし、あるいは、聖潔、信頼、落ち着き、勇気といった学課を私たちに教えるためかもしれません。その出来事は何か神の御目的にかなうものなのです。ですから、別の境遇を求めるべきではありません。今いる境遇に打ち勝つべきです。現実から逃避して、「自分の好きなところに行けば、キリストの内に住むことができるだろう」と言ってはなりません。私たちは、安らかな港にいる時も、嵐の海にいる時も、キリストの内に住まなければなりません。すべては神の許しによります。神は万事を共に働かせて私たちの益とし、ご自分の目的を果たされます。このことを認識しなさい。


外側の感覚に注意する


キリストの内に住みたいのなら、感覚に警戒する必要があります。体の感覚ほど、私たちをさまよわせ、危険な野原や牧場の脇道にいざなうものはありません。私たちの目は、どれほど私たちを迷わせてきたことでしょう!道を歩いていると、気を散らせる数千のものに出くわします。中には、クモのような目を持っている人々もいます。彼らは前後左右、あらゆる方向を見ることができます。
「あなたの目はまっすぐ前を見、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ」この世が心の中に侵入するのを許すなら、私たちは主の臨在から引き離されてしまいます。

箴言四章二十五節。(訳注)


会話は、それがたとえクリスチャンどうしの会話であったとしても、もしその百分の一でも聞くなら、完全に汚されてしまいます。ですから、あなたは自分の耳を閉ざし、自分の目を閉ざして、小さな範囲に生きなければなりません。
何かする時に、一度に多くのことをしようとしてはいけません。それは気苦労を招くだけです。

水グモという小さな生き物がいます。それは、沼地などの湖底の泥の中に住んでいます。泥の表面から数インチ中にもぐり、始終そこで暮らしています。水グモには不思議な器官があり、それによって自分の体よりも数倍大きな気泡を自分の周りに集めることができます。水面に上がって空気を集めては泥中にもぐります。この小さな気泡は水グモにとっては大気です。水グモはその中に巣を造り、子供を育てます。「空気のあるところに水は侵入しない」という法則のおかげで、にごった水に囲まれた小さな家庭は、水上の澄んだ大気中で生活するのと同じくらい安全です。そのように、私たちは自分の生息圏の中に入って、主と共にとどまることができます。たとえ罪に取り囲まれ、下には地獄があり、人々はもがき、誘惑され、罪を犯していても、私たちはキリスト・イエスと一緒に天上にいる聖徒たちと同じように安全なのです。


内なる祈り


さらに、キリストの内に住むには、内なる祈りの習慣、心の中で神と交わる習慣を養わなければなりません。私たちは、「神は霊ですから、神を礼拝する人は霊と真実の中で礼拝しなければなりません」「すべてのことについて感謝しなさい。なぜなら、これこそ神があなたがたに求めておられることだからです」という御言葉の意味を知らなければなりません。言葉を口に出さずに心の中で祈るこの習慣は、主の内に住む秘訣の一つです。神秘家が用いた古い用語の一つに「静思」というのがあります。これは「静かな霊」ともいえるでしょう。

ヨハネによる福音書四章二十四節。(訳注)
テサロニケ人への第一の手紙五章十八節。(訳注)


目をさましていること


主の内に住むことと関連するもう一つの言葉は、「目をさましていること」です。この言葉は、漂うことの正反対です。それは固守する精神であり、絶えず警戒していることであり、主に守られることです。さて、これは、あなたが固守警戒の働きをすべて一人でしなければならない、ということではありません。あなたは手を舵の上に置かなければなりません。そうするなら、キリストが舵を操作して下さいます。それは列車のブレーキのようです。運転手がブレーキのレバーに触れて電流を流すだけで、列車は止まります。それはまた、列車の動力のようです。技師は自分の力で列車を動かす必要はありません。レバーを回すだけで、列車は進みます。クリスチャンは自分で戦う必要はありません。イエスの御名の中で合い言葉を唱えさえすれば、天の力がそれに続いて働きます。このようにして毎瞬、私たちは交わりと勝利の中にとどまることができ、ついにはキリストが私たちのいのちそのものとなられます。


神の導きに従う


もしキリストの内に住むことを願うなら、神に自分を助けさせようとすることをやめて、神の道の中に入り込み、神に導いていただかなければなりません。信者は「私がキリストに仕えることを選んだのであり、キリストは私を助けなければならない」という考えを自分の中から取り除かなければなりません。信者はキリストの道に入りました。そして、キリストが信者を担っておられます。なぜなら、キリストは他の道を行くことができないからです。
もしあなたが川の真中にいるなら、あなたは川を下って行かなければなりません。もしあなたが神の真中にいるなら、あなたは神と共に行かなければなりません。あなたが自分の人生を神に明け渡すなら、それは何でもできるほど強くなり、天のように素晴らしくなるでしょう。


不慮の出来事


おそらく、不慮の出来事についてお話ししておいた方がいいでしょう。主はしばしば、私たちを警戒させるために、突然誘惑が襲いかかることを許されます。そのようなことが起きたら、それを主からのものとして受け入れなさい。まつげが閉じて目に危険を知らせるように、それはあなたに警戒させるために送られたのです。誘惑は、しばしば私たち自身の不注意から生じます。私たちが道を外れる時、私たちは誘惑にあうことによって、自分が敵の国にいることを悟ります。もし私たちが主の内に住んでいるなら、主の許しがない限り、悪は私たちを打つことができません。おそらく、私たちが中心からはずれる時、キリストは敵を利用して私たちを脅かし、ご自分に立ち返らせるのでしょう。それはちょうど、羊の群れを柵の中に追い込むために、牧羊犬が放たれるようなものです。大きな災いにあうより、小さな失敗を犯す方がましです。


失敗


しかし、十分注意していたにもかかわらず失敗してしまった場合、決して落胆してはなりません。決して、「自分は祝福を失ってしまった」、「こんな生活は自分には実行できない」などと言ってはなりません。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、主は真実でただしい方ですから、私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」という御言葉を思い出しなさい。

ヨハネ第一の手紙一章九節。(訳注)


神を現実に経験する方法


多くの人は神を現実の方として感じていません。多くの男性にとって、自分が抱えている困難な仕事の方が神よりも現実的です。多くの女性にとって、自分の仕事や試練の方が神よりも現実的です。多くの病人にとって、自分の病の方が神よりも現実的です。私たちはどうしたら神を現実の方として経験することができるのでしょうか?私が知る最善の方法は、神を現実の事柄の中に迎えることです。頭痛は現実です。その中に神を迎えなさい。そうすれば、頭痛が現実であるように、神も現実となられるでしょう。そして、頭痛が去った後も、神の臨在がとどまるでしょう。これは素晴らしいことです。試みは現実です。それは人生において火のように燃えさかります。神はそれ以上です。洗濯やアイロンがけは現実です。神をあなたの家庭の中に迎えなさい。そうすれば、神は現実となって下さいます。私たちが自分の生活をキリストに結びつける時、彼は現実となって下さいます。

バンヤン樹もこのように成長します。まず、幹と枝々が天に向かって伸びます。次に、枝々が地面に向かって成長し、土地に根をおろします。そして徐々に、数百の枝々が互いに織り混ざり、絡み合って、嵐や風にも動じなくなります。インド洋の熱風ですら、引き裂くことができなくなります。そのように、神が一人の人を救われる時、神は一本の枝を植えられます。その後、神が困難の中にあるあなたを訪れて、あなたを満たし、聖別し、助けて下さる時、その神の満たし、聖別、助けが新たな枝々となります。こうしてあなたの人生は数百の枝々によって神に根ざし、神に結ばれます。地獄の全勢力といえども、その交わりを破ることはできませんし、あなたを主の愛から引き離すことはできません。

主イエスよ、あなたご自身を私にとって、
生ける輝ける現実として下さい。
いかなる外側の物事よりも、
信仰のまなざしにはっきりと見せて下さい。
甘美な地上の絆よりも、
さらに親しく、さらに親密にならせて下さい。

さらに私に近づいて下さい、
生ける愛する救い主よ。
あなたの御顔の幻をさらに明るく輝かせ、
あなたの恵みの御言葉をさらに栄光で満たして下さい。
人生が愛に変わるまで、
地上の天が天上の天に変わるまで。


町はすっかり閑散として、買い物にでかけると、客がすれ違う客に敵対的な眼差しを向け、店員から話しかけられることにさえネガティブな反応を示す場面も見られる。公共交通機関でも、人々は自分が感染者とみられることを極度に恐れつつ乗車しているかのように見受けられる場面もある。

阪神大震災・東日本大震災の直後には、巷に溢れる悲劇的なニュースは大いに同情と共感を呼び、みなで苦難を分かち合い、乗り越えようとの雰囲気があった。しかし、今回のウィルス騒動では、同じ苦難をともにしている者同士、団結して乗り越えようという雰囲気は見られず、むしろ、より人々の分断化が進み、責任の押し付け合いがあり、隣人同士が互いを警戒し合ったり、品物を奪い合う競争者になってしまうような殺伐としたニュースも飛び交っている。

何か大きな時代の変わり目が来て、これまでの国の方針そのものが揺らぎ始めているのを感じる。裁きの時が来たとまでは言わないが、国の施策はことごとく裏目に出て批判を浴びており、自粛モードの中で、ゴールデンウイーク中の楽しいバカンスや、オリンピックの話題なども、すっかりどこかへ消え去り、口にすることもはばかられる状況になり、いかにしてパンデミックの阻止だけでなく、不安心理の拡大が、暴動や騒乱や政変に結びつくことを防ぐかに心血を注ぐべき状態になったという印象だ。
 
とはいえ、筆者はごく普通の日常生活を続けているだけで、買い占めにも走らず、日常生活に支障をきたす事態にも遭遇していない。震災の時もそうであったが、被害と無縁の地域にはいなかったはずなのに、なぜか筆者の周りには、深刻な被害にあったという人もほとんど現れない。

緊急事態宣言へ向けての法整備が行われるとかいった物騒な話が流れる中でも、筆者は、ただこれまで以上にごく普通の日常生活を送らねばならないと要求されているだけのような気がする。閑散とした町で、日々の通勤を続けることや、相変わらず、こなさねばならない予定に着手することは、それ自体がチャレンジである。

我が国がこれを機にどういう方向へ向かうかは知らないが、筆者の個人の人生において、問われているのは、ただ自分自身の心だけである。

あなたは恐れて退却し、打ち負かされるのか、それとも、立ち向かって勝利を得るのか。
 
ジョージ・ミュラーはすべてのことについて、神に祈れと勧めた。届いた荷物をくくっている紐の結び目が解けない、といった些細な問題についても、神に祈れと。
 
もちろん、声に出して祈ったりしない。神頼みするわけではない。しかし、私たちの内におられるキリストは、すべての問題に対する解決である。
 
だから、この方が共におられるのに、行きづまりなどが、どうして訪れようか。
 
* * *

筆者は最近、物事の本当のありようが、見かけとは正反対であるということに、気づくようになった。

人前に立って演説をし、注目を集めたがる人間の中に、真の実力者はいたためしがない。口達者で饒舌でネットワークを築くことに熱心な人間の中に、真の知恵者がいたこともない。

大勢の人々に囲まれ、人気を博しているように見える人間が、その反面、孤独な悩みを持て余していなかったことはない。

うわべだけパフォーマンスが得意で、さも自分には優れた能力があり、知恵があるかのごとく見せかけることに巧みな人間は、ことごとく詐欺師の類と考えてよい。

その原則は、牧師が神の代理人ではない、というのと同じである。

神に選ばれているかどうかは、うわべだけのパフォーマンスによって決まるものではないのに、見せかけの立場によって、自分が「選ばれた人間」であることを証明しょうとする人々は、ことごとく、選びから漏れていると考えて差し支えない。

つまり、自分たちは神に選ばれた人間であるという名札を下げて集まっているキリスト教という一大集団では、真実性が極端に薄れ、失われているということである。
 
だが、信仰と関わりのない人間社会にも、同じ原則が当てはまる。弁舌巧みで、パフォーマンスに優れ、コネを結ぶのが大得意な人間に、実力や、真実性や、誠実さがあるかどうかは、試してみれば、すぐに明らかになる。

試さないでうわべだけのパフォーマンスを真に受けているから、いつまで経っても、詐欺師を詐欺師と見抜けないまま騙されて終わるのである。

過去には「ヴィオロンさん、私はあなたを助けてあげたいんですよ」などと言って近づいて来る人々もいたが、残念ながら、そんな風に、他人の弱みを見つけ出しては、かいがいしく助力者をきどろうとする人々が、真に助力者の名に値する人間だったことは、一度もない。
 
聖書的な事実に照らし合わせても、それは偽りではない。なぜなら、真の助力者とは、見えないキリストご自身だけであって、目に見える人間はことごとく頼りとはならないからだ。

だとしたら、目に見える人間が、弁舌の巧みさ、パフォーマンスの巧みさ、優れた仕事ぶり、人的ネットワーク、「実力の程」などを誇っていたら、どうだろうか?

ある人々が、自分には高い地位がある、職責がある、俸給がある、豊かさがある、だから、ヴィオロンのごとき貧しい人間とは違う、などと誇っていたら、どうだろうか?

まず、それは詐欺師の類と考えて差し支えない。

彼らは、人前で己が富と権勢を誇っているのではなく、主の民の前で、当てにならないものを誇っているだけなのだ。よって、彼らが凋落するのは避けられない。

この人たちのパフォーマンスは、すべて自分の愚かさ、無能さ、空虚さを覆い隠すための嘘、時間稼ぎでしかないからだ。

だが、彼らは「毒麦」として、刈られるその日が来るまでは、放置されるだろう。いつか裁きの時が来て、何が実体の伴う本物であり、何が空虚な偽物であるかが、試され、明らかにされる日が来る。うわべだけの内実のないパフォーマンスでは、生き残れないし、無能な役立たずとして放逐される日がやって来る。

時が縮まっており、その日が驚くほど駆け足で近づいて来ていることを筆者は感じている…。
 
* * *

以前から、当ブログでは、労働は、人が自己の罪を自分で贖うための救済手段であるため、本質的に神の救いに敵対している、と書いたことがあった。そして、そのような悪しき文脈を離れた仕事のあり方を模索せねばならないと。
 
しかし、この問題についての考察を推し進めて行く中で、筆者が改めて気づいたことがある。
 
この世においては、賃金が払われている限り、対価としての労働を提供するのは当然であるから、雇われている人間が、その立場を捨てずに、以上の仕組みから脱出することはできない。

とはいえ、その世界でも、高給で雇われている人間が、低賃金で雇われている人間以上の働きをしさえすれば、賃金格差が不公平を招くという問題は解消されるのだ。

問題は、世の中がその逆を行っているところにあり、若くスキルもなく低賃金で雇われている未熟者が、人一倍苦しい労働を押しつけられる一方で、経験豊富で年齢も高くスキルもあるはずの高給取りが、その上に君臨してふんぞりかえって遊びながら、舌先三寸で空虚で的外れな命令を下し、不労所得にも近い俸給を得ているところに、不公平の源があるのだと・・・。

賃金格差は、支払われている賃金に見合った労働が提供されれば、なくなる。そこで、経験豊富でスキルの高い高給取りが、誰よりも大変で責任の重い仕事を必死になってこなし、他方、低賃金で雇われている未熟者が、彼らの何倍も負担の軽い仕事をするようになれば、格差などといった概念そのものが消えうせるのだ。

かつて手束正昭というカリスマ運動を率いる牧師が、『教会生活の勘所』という著書の中で、「霊の父・母」である牧師夫妻は、信徒の模範としての威厳を保つために、決して自ら教会のトイレ掃除などしてはいけない、などと書いていたが、これはとんでもない偽りであり、聖書の事実は、それと真逆である。

主イエスは、偉くなりたい人こそ、他の人々に仕えなさい、と教えたのであるから、まず、御言葉の奉仕者である牧師夫妻こそ、信徒の模範として、率先してトイレ掃除に従事すべきなのである。

安定した献金を得ている大教会の牧師が、立派な服を着て壇上に立って信徒たちに向かって偉そうに説教を語る前に、誰にも告げずに膝をかがめてトイレ掃除をすれば良いのである。そこから始まり、すべての雑用を自らこなすべきである。

なぜなら、キリストは、実際に、ご自分がひざをかがめて、弟子たちの汚れた足を水できれいに洗われたからである。牧師たちが、まず汚れ仕事を率先して担うようになれば、それを見た他の信徒たちも、その姿にならう日も来よう。

そういうわけで、高給をもらっている年配者たちは、若者たちの前で、自ら模範となって、自分の手を汚して、苦しい労働を率先して引き受けるべきなのである。自分の仕事がいかに楽であるかを他の人々に思い知らせるために、可能な限り働かず、権威をふりかざして君臨し、偉そうに説教し、役職を書いた名札をぶらさげて、無意味な会議に延々と明け暮れるために、仕事をするのではいけない。

そんな仕事ぶりでは、誰からの尊敬も受けられず、 年齢は、自分だけがずるく立ち回って楽をするための狡知を生み出すための時間としかみなされず、高齢者への憎しみは増し加わって行くだけであろう。
 
もちろん、これは理想論であるとはいえ、実地にも適用可能であるということに、筆者は気づき始めた。

多くのスーパーなどでは、高齢者のための割引がある。高齢者はお金を持っているから、割引することで、さらに消費欲を刺激しようという店側の作戦なのであろう。他方、若者には金がないから、もともと豪奢に散財するはずもなく、どうせ半額セールを狙ってやって来るような客に、割引してやったところで、もとが取れないという考え方なのである。

だが、筆者の考えはそれとは逆であり、若者には、今、手元に何もないからこそ、社会が彼らに未来を与えてやるために、投資しなければならない、というものである。時間的余裕も必要であれば、経済的余裕も必要である。

その余裕を若者(そして若者とは呼べない不況世代も含め)に与えるために、全社会的なアファーマティブ・アクションを実施する必要があり、それを早急にしなければ、この国はもう持たず、未来がない、というのが筆者の考えである。

就職氷河期への支援などは大海の一滴に過ぎず、全社会的アファーマティブ・アクションが必要なのである。すでに人生の安全圏に滑り込んでいる高齢者や、子供のいる家庭、金持ち世帯への優遇策ばかりを頭をひねって考えるのではなく、今、何も持っていない乏しい若者の未来のために、社会が投資をしてやらねばならない。

それができなければ、少子化など解消されるはずもなく、労働力の不足も補うことはできないまま、いずれ町には高齢者が溢れ、介護を必要とする者が溢れ、それを助ける者もなくなり、国は滅亡へ向かうだけである。

他人が困っているときに、残酷にそれを見捨てて、踏みつけにし、嘲笑して来た人間が、どうして自分が困ったときに、他人の助けを受けられようか。老いては自分が見捨てられ、踏みつけにされ、嘲笑されるだけである。

そうならないためには、相互扶助が成り立たなければならないのであって、強い者がその強さを行使して弱い者を助ける社会が成立していなければならないのである。

* * *

そういうわけで、筆者は、筆者よりも強い者が、筆者のために何をすべきか、また、筆者が筆者よりも弱い者のために、何をすべきかを考えている。日々の生活は、そのための実験場であり、そのために労することが、筆者の労働であり、奉仕である。

この世がいかに絶望的に見えても、正しいことは、それなりに実行可能であり、主張し、行いさえすれば、ちゃんと実現することができる。

そこで筆者は、これ以上、むなしいものに注目しないために、うわべだけの見かけ倒しのパフォーマンスや、「自分たちは特別に選ばれているから、あなたとは違う!」などと豪語する人々の自慢話には、全く耳を傾けないことに決めた。

ノアが箱舟建設していた時も、きっとそんな有様だったろうと思う。地元住人たちのうち、誰がその作業の意味を理解したであろうか。嘲笑の的にしかならなかったに違いない。地元住人たちは、自分たちの幸福と安寧は永遠に続くと考え、自分たちこそ選ばれた者だと考えていたため、ノアがなぜその世界を脱出するために箱舟など作っていたのか、一切、思い当たる理由もなかった。ゆえに巨大な箱舟建設は単なる嘲笑の的だったに違いない。
  
地元住人たちは自分の幸福に酔いしれ、その世界はいつまでも安泰だと自慢話を続けていたが、その自慢話は次の一言に集約される、「わたしたちは女王の座に就いており、やもめではないから、孤独を知らない!」

もちろん、それは女王バビロンのつぶやきである。私たちは安全圏に滑り込んだ、豊かになって、乏しいことは何もなく、たくさんの愛人たちや取り巻きもいるため、孤独とは一切無縁であり、心配することなど何もないと・・・。

だが、本物の女王がそんなことを言うはずがない。自慢話をするのは、本当に高貴な身分を有さない僭称者だからである。偽り者だからこそ、自分が本物だと語らずにいられないのだ。

だから、頼りにならないものを頼り、幸福でないものを幸福と偽り、不正にまみれた富を誇り、偽物の王が本物を自称する・・・、そんなむなしい会話の共犯者とされないために、筆者はその会話からは遠ざかることにした。

筆者は心の中で言う、多くの人々は、勝敗はすでに着いた、などと言って、自分の栄耀栄華を誇っているが、まだ勝負の場は終わっておらず、筆者の待っている人は、ここには現れていないと。約束の時間は、まだ来ていないし、本物の王は現れておらず、その王は、自分がやって来たときに、各自の隠れた働きを見て、それを評価すると言われたのだから、筆者はその時を目指して走っていると。

彼らは、他人を可哀想がることで、自己の優位性を感じることを、よすがとしているのかも知れないし、己が富や権勢を誇ることで、他人を駆逐できると勘違いしているのかも知れないが、筆者には、可哀想がられる筋合いもないため、余計なお世話だと思っているし、富や権勢を見せびらかされたからと言って、それを羨むこともない。

筆者が何ら不憫がられる立場にないことは、筆者に日々与えられている課題が、達成不可能なノルマでないことによって、逆説的に証明されている。

こうして、筆者は、誰がどんなに気を逸らそうとしても、ただ自分の分を果たすだけで、人々が誇示する「可哀想でなくなる」ためのヒエラルキーの階段を膝でのぼらず、彼らが自己の優位性として見せびらかしている善悪知識を得るために手を伸ばすこともしないと決めた。

筆者は、かつて裁判官が果たしているような役割を自分も果たしたいと望んだが、今は、その知識と権力の階段をさらに上に上って行くことで、さらなる決定権を持ちたいとは望まない。

そうした判断や決定は一定の効果を持つし、何よりも正義を判断するという仕事には、非常に大きな魅力と、きらびやかさと、権力も伴うが、筆者はそうした仕事の中に真実や正義が見いだせるわけでないことをよく知っているし、何よりも、自分よりも貧しい者たちを罪に定め、虐げるための所業に加担したくない。

それゆえ、筆者は人の考える「善悪知識」から離れ、人の上に立つ権力を求めず、自分よりも貧しい者たちから自分で取立をしないため、かえって、人の注目する知識と判断の全く伴わない領域に去ることに決めた。いや、去ることに決めたというより、筆者はそれに関わってはならないという結論が自然と出て来たのである。
 
そうして訪れたのは、判断しているようで、していない領域、罪に定めているようで、定めていない領域、悪人がいるようだが、いない領域、徴収しているようだが、していない領域だ。

こうして、人の考える正義を貫くために作られたピラトの階段に背を向けることは、人が誉だと考えるものに背を向け、むしろ、敵意と嘲笑の中で箱舟建設をすることにも等しく、その意味を理解する者も少ないであろうが、その生き方は、孤独と見えても、孤独ではない。なぜなら、見えない領域で、ちゃんとその働きを見て評価する「王」がいるからだ。

人目を集め、何か派手なことを達成しているように見えながら、その実、真実性もなければ、公平性もない空虚なパフォーマンスにはこれ以上、加担したくない。

この世からの権勢も、知識も、権力も、栄誉も、賞賛も必要ない。他人の評価など全くどうでも良いことであるから、ただ自分の心の中で、偽りがないと信じられる生き方を貫き、人の目に正しいと認められるのではなく、神の目に正しいと認められる人生を目指すのみである。
 
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:42-45)

筆者が初めて横浜に来た際、横浜にいる兄弟と、福島にいる兄弟との連携により、福島の山小屋へ連れて行ってもらい、そこで親しい交わりを持った時のことを思い出す。

もう10年も前のことであり、その時の交わりも今はもうないが、今も不思議な縁で、筆者はこの二つの土地に縁のある暮らしをしている。筆者は福島へは行かないが、それでも、この土地と密接なつながりができ、御言葉の交わりの代わりに、法を中心とした交わりが出来、信徒の交わりではないが、これまでに出会うことのできなかった新しい貴重な人々に出会うことが出来た。

最近も、心癒される交流のひと時があったが、そこでこれまで筆者がキリスト者を名乗る人々と関わった時には全く得られなかった大きな収穫が得られた。

これまで筆者の人生においては、真に心から喜んで従うことのできる権威者というものは、現れなかった。言葉ではなく、その人の生き様そのものが、筆者の心の琴線に触れ、接しているだけで、あらゆる説明抜きに、筆者自身が変化を迫られるような関係というものは、あった試しがなかった。

いや、断片的には、そういう出会いもなかったわけではないのだが、それは束の間であり、筆者が何かを掴みかけたと思うと、すぐにその交わりも散ってなくなっていった。

だが、今回、新たな交流が生じたことにより、筆者がこれまで自分では気づけなかったもの、自分では取り払うことのできなかった限界が、何の説得も、命令もなしに、軽々と取り去られてしまった。

それと同時に、「助け手」であり、「影」である筆者の役目が、はっきりと形を取って現れ始めた。

筆者は、これまで著名な指導者の率いる宗教団体や、権威者のいる団体に足を踏み入れた際、筆者を秘書や参謀のように使えば、その指導者は栄えるだろうに・・・と考えたことが何度かあった。ほんの少し観察しているだけで、何をどうすれば、その組織がもっと良くなるか、指導者に何を補えば、その人が引き立つのか、筆者には尽きせぬアイディアが生まれて来たからである。

10年以上も前から、そのような考えは何度も湧き起こった。そして、その度に、筆者は家族などにもよくそうした印象を話していたものだ。「もったいない。あの人たちは、私の使い方を全く知らない。私を有効活用すれば、もっと大きな成果が得られるのに」と・・・。

そうした考えは、おそらくは決して筆者の自信過剰や、思い過ごしではなかったものと思う。

それらの指導者や権威者は、筆者の当時の考えなどには全く注意を払わなかったし、筆者の助言にも忠告にも何らの価値も見いださなかった。筆者の発言は、単なるこざかしい子供の自信過剰か大言壮語として忘れられて行っただけであろう。

だが、そうして筆者の助言を軽んじたことの結果として、彼ら指導者にも、人生そのものが根本的に狂わされるような何かが起き、栄光を傷つけられることになったのである。

なぜ自分の周りに適切な助言者を置かず、正しい忠告を退け、自分一人の考えだけで前に進んで行き、人生を滅ぼすのか・・・、筆者は非常に残念な思いであった。

その後、幾度か出会いを重ねているうちに、少しずつ、筆者に助言者の役割があることを知って、これを開発しようと期待をかける人々が現れるようになった。ところが、その場合でも、筆者が決定的な助言をせねばならない瞬間になると、必ず、信頼関係をかき乱し、破壊しようとする人々が現れて、筆者はそれにどう打ち勝てば良いかも分からないまま、策略に翻弄され、その結果、筆者が心から伝えようとしている言葉が、権威者に届かなくなる、という結果が繰り返された。

そして、かえって筆者が濡れ衣を着せられたりして、信頼関係が損なわれて、助言も役に立たないまま、関わりが離散してしまうのである。その後は、お決まりの通り、その権威者もまた、誤った道を歩き続けることになり、筆者を迫害する側に回るだけであった。

筆者はその後、沈思黙考し、一体、自分の助言者としての役割は、何をどう補えば存分に発揮されるのかを考えた。どうすればこの人々を敵に渡すことなく、信頼を損なわず、策略によって破壊されることもなく保ち続け、共に命に至り着くことができたのであろうかと。

だが、そうした出来事はあまりにも大きな幻滅を筆者に抱かせるものであったため、筆者は、その後、人間の指導者や、権威者には注意を払わず、静かに神に仕えて生きようと考えた。目に見える人間の思惑に振り回されるなど、もはや御免だと思っていたのである。

筆者は、自分のことを今も「取り分けられた器」であると感じている。ガイオン夫人やら、マーガレット・バーバーに自分をなぞらえるのはおこがましいかもしれないが、それでも筆者は、今、自分自身のために生きているのではなく、主のために特別に捧げられ、人々から取り分けられた存在であるとみなしている。

これは、自分が特別だと言っているのではなく、むしろ、自分の満足を捨てて、主の訪れを待ち望むために待機して生きることが、筆者の召しであると言っているだけである。

繰り返すが、筆者は、神のために特別に取り分けられた器になりたいし、そうして生きることに満足を覚えている。

それは10年前に福島の兄弟が教えてくれたことであった。せわしなく活動し、集会から集会へ飛びまわり、人々の前で教師然とメッセージを語り、多くの人々から感謝され、いかにも自分は神に仕えている御言葉の奉仕者であると、人々に盛んにアピールしながら生きるのではなく、かえって、静けさの中に立ち止まり、自分の人生の時間を人々に対してではなく、ことごとく主に捧げ、人には知られないところで、祈りの中で主を待ち望んで過ごす・・・、そういう奉仕のあり方が存在することを知った。

そして、神はそのようにご自分のために心を捧げる人々をかえりみて下さることも分かった。

その時から、筆者は自分の存在は、まことの主人を満足させるためにあるものだととらえている。それが人類が神に対して担うべき、本当の意味での「内助の功」であり、神の助け手としての私たちに任されたとりなしの役目なのであろうと思う。

だが、そのような考えも、振り返ってみると、近年になって初めて筆者の中に生まれたのではなく、10年以上前から、筆者はひたすら助言者となるための訓練を続けさせられて来たように感じている。

しかし、それはすでに述べた通り、失敗の繰り返しであり、筆者の「使い方」を知っている人は現れなかった。そうであるがゆえに、筆者は人に仕える道を断念し、神に仕えさえすればそれで良いと考えて、その後は権威者には関わらず、人生を送って来たのである。

ところが、この度、改めて筆者の助け手としての召しを引き出そうとする人が現れた。そして、その召しが発揮されるためには、筆者が、まず権威に服従するという過程が必要となることが分かった。

助け手としての役割が、服従なしには決して成し遂げられない仕事であることが分かったのは、当ブログを巡る訴訟の最中のことである。

訴訟を提起するまでは、筆者は自分があたかもすべての物事において、人生の主人であるかのように振る舞い、仲間を持たず、単独で先頭に立ち、自分が創造的な役目を率先して担うべき立場にあることを信じて疑わなかった。自分自身が誰にも服従せず、また、誰からの助けも受けることなしに、望みに向かって邁進すべきと考え、それができると信じ、そう行動して来た。

それゆえ、筆者は自分の主張について、誰がどのように反応しようと、それによって全く影響されることのない自信や確信を持っていたのである。

そこで、訴訟を提起した当初、裁判官でさえ、筆者にとっては、自分の主張を裏づけてくれるための存在としか見えておらず、筆者は裁判官に心を開いていたわけでもなければ、裁判官に訴訟を指揮する主導権を委ねていたわけでもなかった。

むしろ、自分が提起した訴訟なのであるから、最後まで自分で引っ張って行かねばならないと決意していた。

原審を担当した裁判官は、最初の口頭弁論期日から、筆者が、全世界から心を閉ざすがごとくに、遮蔽の措置の中で、自分の作り上げた訴状を目の前に、じっと黙って何も見えない前方を見つめている姿を注視していた。

遮蔽の措置は、すべての方向に対して閉ざされており、ただ裁判官に対してのみ開かれていたが、これはある意味で、予表的なことであった。

筆者は、裁判官の眼差しが、決して悪意のあるものではなく、むしろ、好意的に、筆者を自分の主張の外へ連れ出そうとしているものであることをうすうす感じていたが、それでも、その当時の筆者は、誰にも頼らずに、自分の願っていることを実現するために、人の同情や助けにすがってはならないと考え、裁判官の眼差しをも、気づかないふりをして半ば排除していたのである。

それは、もしも筆者がその当時、誰かからの同情や慰めの言葉を受け、それを受け入れてしまったならば、多分、心弱くなって、そこで倒れて立ち止まり、もはや自力で前に進んで行く力を失ってしまうかも知れないという予測から出た防衛的行動でもあった。

だからこそ、筆者は気丈に顔を上げて、裁判官からさえ同情を受けず、審理の行く末は自分で決めるのだと考え、そう振る舞っていたのである。そのため、訴訟に出す書面も、途中までは、裁判官に読んでもらうために出していたのではなく、天に向かって書いているものと考え、裁判官も読み切れないほどの分量の書面を出すことにも、全くためらいがなかった。

だが、そんな筆者も、原審の審理の途中で、裁判官に対して、ついに心を開かざるを得ない時が来た。その過程を詳しくここで振り返る必要はないであろうが、様々なきっかけがあり、筆者はある瞬間に、訴訟における主役は自分ではないこと、自分が積み上げて来たすべての議論も、ただ一人の裁判官に認定されることがなければ、無きに等しい暗闇にしかならず、裁判官との協力・協調関係がなければ、自分一人では、決して事件を正しく終結に導くことができないことを思い知った。

そのことが分かった瞬間、筆者は、これまで自分が、自分の人生の主役であるかのごとく考えてひた走って来たが、実は、筆者は自分の人生においてさえ、補佐役、助け手でしかなかったことを理解した。助手は、主人がいなければ何もできない。

筆者は、それまでの人生には、誰も筆者を従えることのできる権威者がいなかったのに、それにも関わらず、自分が、誰かに服さねばならない存在であり、そうしてこそ、初めて自分の真価が発揮されることが分かった。自分があたかも神から光をあてられて、よみがえらされる瞬間を待ちながら、墓の中にじっと横たわっている死人のような存在でしかなく、単独では完成に至れないことが分かったのである。

「光あれ」と誰かが命じてくれなければ、存在すらも、あるかどうか分からない真っ暗闇。それゆえ、まことの主人の到来を待ち焦がれて、墓の中にむなしく横たわり、命令を待つしかない存在。苔むしたかび臭い土の中で、見た目の美しさを失いながら、ただまことの主人から「生きよ」との声をかけられなければ、すべてのものから見捨てられ、蔑まれ、忘れられ、踏みつけにされ、生きていることさえ、認められず、痛みも苦しみも否定される存在。それが、自分自身の本質なのであり、被造物の影なる本質なのであり、全被造物が持つ、悲しいまでの「女性性」なのだということが分かって来たのである。

命を吹き込む役割は、男性にしかなく、被造物の象徴たる女性には、単独ですべてを支配する力はない。それゆえ、筆者の役目は、補佐や助け手になることであっても、自分が人生の主人として立つことではない、ということが、その時にはっきりと分かった。同時に、そのようにして、神に対して補佐役をつとめることが、人類の役目であるということも分かったのである。

そこで、補佐役なる私たちは、すべての苦労を、自分のまことの主人と分かち合わなくてはならない。神が私たちの地上での労苦をねぎらってくれて、慰めと、励ましを与えて下さらなければ、私たちが地上で何を苦労してみたところで、その成果はむなしい。

共に喜びと悲しみを分かち合い、心に起きるすべてのことがらを何もかも知ってもらい、これを受け止めてくれる存在がなければ、私たちの被造物としての苦労に、一体、何の意味があるというのだろうか。

筆者は、自分の主張した事実や証拠が認定されないことを恐れたのではない。人生において初めて、筆者は目の前にある存在に対して心を開き、心を分かち合い、筆者の協力を待っている人の命令を聞いて、その守りの盾の中に隠れねばならないことを知ったのである。

それができたときに初めて、筆者は守られ、かばわれ、安全地帯にかくまわれることが分かったのであった。

そのことが分かってからは、筆者はもはや訴訟を自分だけが思う方向へ引っ張って行くのではなく、裁判官と協力して成果を打ち立てなければならないことを理解した。さらに、そこから一歩進んで、裁判官を信頼して判断を委ねねばならないことが分かり、また、そうして判断を委ねるに際し、筆者の主張が邪魔になる場合には、これを投げ捨てねばならないことも分かった。

それは筆者が最も大切にして来たものを、投げ捨てることを意味した。筆者の主張は、筆者の正しさそのものであり、筆者の生き様の集大成でもあり、よすがであり、経験であり、苦労の蓄積でもある。

だが、筆者はそうして生まれた自らの主張も、判断も、すべて放棄することを決めた。裁判官は、筆者がそうした後で、筆者を守ること、筆者の求めに応じて、権威ある命令を下し、筆者を生かすことを約束してくれ、筆者はそれに応えて、その命令に従うと約束した・・・。

* * *

それにも関わらず、筆者が提起した控訴審は、非常に面白い展開を辿った。ひと言で言えば、すべてが、原審判決を鉄壁のように完全に守り抜く方向へと動いたのである。

筆者の理屈が正しくなかったというつもりはない。だが、控訴審においては、筆者が知らなかった制約があった。それは、控訴審における議論は、原審で築かれた議論の土台から一歩たりとも外に出ることができないという制約である。

そのため、原審判決言い渡し後に、原審において提示していなかった新たな証拠を提出しても、それが原審において審理されていた事件の根幹に関わるものでなければ、却下されてしまうという結果になる。

今回、筆者は判決言い渡し後に被告Bが書き加えた記事を、被告Bによる新たな不法行為の証拠として控訴審に提出し、また、被告Aもそれに関与していることを主張し、それにより、原審における主張を補おうとした。

ところが、このアクロバティックな議論と一連の新たな不法行為の証拠は、原審の議論の土台の外にある(原審とは異なる木を接ぎ木しようとするもの)という裁判体の判断により、控訴人が提出した一連の書証そのものが採用されないという結果になったのである。

そこで、裁判所は、筆者の提出した控訴理由書は採用するが、甲号証はすべて却下、また、その後、筆者が提出した答弁書や第一準備書面とその続紙についてもほぼ同様に、原審判決から外に出る議論はことごとく却下した上で、それ以外の部分だけを採用して陳述扱いするという措置を取ったのである。

証拠が採用されない限り、不法行為が認定されることなど絶対にあり得ないから、これでは、控訴自体にほとんど意味がなかったことになる、と思うだろう。それどころか、こんな状態で審理を進めれば、この先、どんなひどい判決が待っていることやら、と。

ところが、そこから先が、裁判所の知恵の見せ所であり、これまで筆者が一度も見たこともない手続きが取られたのである。

裁判所は、以上の措置を取った上で、一回の口頭弁論で審理を終結し、あえて判決言い渡し期日を未定とした。

これは、結局のところ、裁判所自体が、こんな判決は俺たちも出したくはないんだぜ、だから、控訴を考え直してくれやと、言外に言って、当事者に再考を促したことの表れである。

もう少しソフトな表現をすれば、原審判決を維持することが、あなたたち全員の身のためですよ、という言外の忠告を込めて、そうしてくれたのである。

むろん、そんな忠告を、筆者は誰から受けたわけでもないが、現実にはそういうことであると理解した。

こうして、三人の裁判官は、ほとんどやる気のない態度とも見える措置を取って、結論を当事者に投げ返し、弁論をただちに終結したのであった。だが、これは非常に優れた知恵と配慮の結果であり、裁判体は、このようにすることによって、原審判決には指一本、触れることなく、これを守り抜くために一計を案じたのである。

このようにして、裁判所は、審理を進めているふりをしながら、原審の結審時で永遠に議論の時計の針が止まるようにしてしまった。

しかも、その間に、裁判所は筆者と被告A、筆者と被告Bとの審理を、口頭弁論が始まる前に分離し、筆者と被告Aとを別室に隔離して、ただちに和解協議を開始することとした。

被告Aとの間では、口頭弁論さえ開かれず、控訴審でいきなり和解協議の運びとなったのであるが、それも、水面下で実に様々なやり取りがあった結果であり、いずれにしても、裁判所の深い配慮がそこに込められていた。

こうして、筆者と被告Aとが出会わなくて良い措置が取られた一方で、筆者と面識のある被告Bとの口頭弁論においては、遮蔽の措置も認められなかった。

被告Bとの口頭弁論が始まる前、書記官は、筆者がまだ甲号証が却下になることも知らないで、審理の行く末に望みを抱いているうちに、筆者を和解協議のために用意された部屋に導いて、そこで審理が分離され、被告Aとの間では和解勧告がなされたことを告げた。その上で、被告Bとの間では、遮蔽の措置は取られていないと説明し、「出廷しますか?」と筆者に尋ねた。

実は、期日当日になるまで、遮蔽の措置が取られるかどうかも決まらず、筆者はその前日にも、こんなにも決定が遅れているようでは、裁判所に行って良いかどうかも分からず、判断ができないと書記官に尋ねていた。その後、ようやく、期日前日の夕方になって、当事者が顔を合わせなくて済むよう配慮がなされるという漠然とした回答が得られたのであった。

筆者はそれを受けて、てっきり遮蔽の措置は認められるのであろうと考えたが、裁判所は、被告Bとの口頭弁論に遮蔽の措置は取らないと、当日になって言い渡した。だが、それもあくまで表向きのことであり、裁判所は、筆者がそれまでさんざん訴えていた危険について、相当に心ある配慮をなしてくれ、筆者を始めから別室に案内した上で、誰もいないところで、書記官が、遮蔽の措置なしに口頭弁論に出席するかどうかを改めて筆者に尋ねたのである。

「悔いのないように主張をされたいなら、出廷された方が良いと思いますが?三人の裁判官に会うことができるのは、今を措いて他にないですからね」

筆者はこの質問を受けて、悩みながら尋ねた。

「傍聴人がいるかどうか見てもらえますか」

「今の様子でいいですか?」

書記官はそう言って、法廷の様子を見るために部屋を出て行った。

その後、筆者は一人で声に出して祈った。

「主よ、私には何もかもが突然すぎて、こんな状況でどう行動すべきかも分かりません。でも、私の願いは、私の考えではなく、あなたの栄光が表されることですから、私が間違った選択をすることがないよう、何が正しい行動であるか、疑いのないように、はっきりと教えて下さい。」

書記官は法廷を覗いてから戻って来て、傍聴人は現時点で誰もいないが、被告Bとの口頭弁論を、被告Aが傍聴したいと言っている旨を告げて来た。それを聞いた瞬間に、筆者は、出廷してはならないことを確信した。

おそらく、被告らは、筆者が出廷すると考えて、そのために、被告Aも傍聴を希望したものと考えられる。そこでもしも筆者が遮蔽の措置なしに出廷すれば、筆者はまるで捕らえられた獲物のように、見世物として法廷に引き出されたことになってしまう。

どんなに出廷することが権利であるにせよ、霊的にはそのような文脈にしかならない。むろん、そんなことをすれば、原審において、せっかく裁判官が深い配慮のもとに取ってくれた遮蔽の措置も、まるで意味がないことになってしまう。そのような行動を絶対にとってはいけない、と分かった。

筆者はその時、「悔いのないように争いたい」などという願いが、もしも心にわずかでもあれば、それが命取りになるであろうことを、はっきりと理解した。逆に、こういう時は、絶対に争ってはならないのである。

ウォッチマン・ニーが幾度となく書いていた「十字架の装甲」の中にとどまるべきなのであって、その外に一歩でも出れば、命の保障はない。

筆者は法廷という場所に厳粛な思い入れを持ち、また、裁判官という職務を尊敬しているが、だからと言って、十字架の装甲から外に出てまで、彼らに会いに行ってはならないということは理解できた。遮蔽の措置は、それ自体が、装甲なのである。法廷の中には、その一区画がない以上、筆者が、和解協議のための部屋にとどまることこそ、装甲の中にとどまることを意味した。

それに加えて、控訴審が始まる数ヶ月前から、筆者は、今後はもはや裁判官の一存に判断を委ねてはならないと、心にはっきりと示されるものがあった。決めるのは裁判官ではなく、筆者自身であると。

何度か書いて来たように、原審判決をもらった時点で、筆者は、この審理を担当してくれた裁判官から、自ら判断を下すために必要な命を吹き込んでもらったのだと思っている。自分では事実認定をすることもできなかった無に過ぎない筆者は、裁判官から、判決を通して、裁判官によく似た仕事を果たすために必要な力をもらい、これを継承して、新たな職務へと赴いたのである。これは霊的な文脈で起きたことである。

そのことの重大性を自分でもよく分かっていなかった頃は、筆者は再び別な裁判官に自分の判断を全面的に委ねようとしたりもしたが、その度毎に、ひどい事態が持ち上がったため、筆者はそれを受けてようやく、これ以上、誰かの判断に自分を委ねてはならず、むしろ、自ら判断を下さねばならない立場に置かれたことを思い知った。

それゆえ、筆者は、三人の裁判官に会わないことに何の未練も残さず、擬制陳述で済ますことを選んだのである。

書記官が戻って来て、法廷で起きた一部始終を説明してくれた。色々と予想外の事態が起きて、あたかも筆者に対しては不利な措置が取られたようにも見えるにも関わらず、あらゆる点に、裁判所の深謀遠慮が行き届いていることが分かった。

その後、裁判長がやって来て、書記官と共に、別室にいる被告Aとの間を行き来して、和解協議が進行したが、その話し合いの中で、筆者と被告Aとは双方から控訴を取り下げ、被告Aは原審判決が命じた賠償額に相当する解決金を支払うことで、筆者と示談を行うという方向で提案がなされた。

何と被告Aもそれにおおむね同意している旨が告げられた。

実は、これこそ、筆者が控訴審を提起したことの真の成果、「隠れた収穫」だったと言えよう。今まで頑なに賠償を拒み、筆者を非難していた被告Aが、支払いを行った上で和解することに同意している旨が告げられたのである。

このような点でも、控訴審においては、徹底して、原審判決を完全に実現するための条件が整えられたのだと言える。

この先、被告Aとの間で和解が成立したとしても、それは裁判外の示談となるため、原審判決は、いささかの曇りもなく、揺るぎないものとして確定することが予想される。そして、そうなるためにこそ、裁判所はすべての手続きを思いもかけない形で整えたのである。

筆者から見て、数ヶ月間もかけて書き上げた理由書に付随する証拠が採用されていないことや、2名の被告に対して共に勝訴できなかったことは、残念と言えないこともなく、遮蔽の措置すらも取られないことは、当日になるまで、予想もしていなかった結果ではあるが、それでも、こうなったことには非常に深い意味があると、筆者はみなしている。

とにもかくにも、ここが筆者が今、進んで良い限界点であることがはっきりと示されたのである。

おそらく、神は原審における審理の全過程と、筆者がそこで裁判官と約束したことは、永遠に残るという判断をこの出来事によって示されたのであろう。

あの時、筆者は、自分のすべての判断と議論を投げ打つ代わりに、裁判官に紛争を終わらせてもらうための判決を委ねた。どんな判決が下されようと、受け入れる準備が出来ていると言った。だとすれば、その後、状況が変わっても、その時に結んだ約束は変わらず、この裁判官こそが、本訴訟における唯一の裁判官であり、最高の指揮者であり、権威者であることは変わらないのである。

その厳粛な事実を覆してはならず、決してその秩序を変えてもならず、筆者が法廷で議論することは、その秩序を壊すことにつながるということが、はっきりと分かった。筆者は、原審を担当した裁判官に対しては、深い尊敬と愛情のようなものを覚えていたので、たとえ筆者の新たな主張が認められなかろうと、そのために筆者がそしりをこうむろうとも、筆者の正しい主張が退けられようとも、神の目から見て、原審判決が維持されることが、正しい結論ならば、そうなることにいささかの不服もないと考えている。

前から述べている通り、筆者が目指すものは、自分の満足ではなく、真に正しい判断が打ち立てられることなのである。

だが、それと同時に、判決は、人の心に逆らって、強制的に命令を下すものであるため、人の心を変える効果はなく、反発を呼び起こすという側面も持っている。そのために、被告Aは、強制的な命令には従えないとして、これに服従しなかったのであるが、その点を補うために、筆者自身が、被告Aとの間で、和解協議を行い、被告A自身の意思を尊重する形で、紛争を終わらせる手続きを取る運びとなった。

このことは、筆者自身が、人は外側からの強制によっては決して変わり得ないと主張して来たこととも合致する。

こうして、原審判決を崩すことなく、示談を行う可能性が開かれたなど、何と深淵な知恵ではないかと思う。そして、このようなことが可能であることを知るためにも、今までの経験が相当に役に立ったことを思う。そういう意味で、浅はかで愚かな知恵に見えたかもしれないが、自分にできる最善を尽くして、正しい判断を求めたことは、決して無駄には終わらなかったのである。
 
筆者は、恨み深い性格ではないため、きちんと償いがなされれば、どんなに長い紛争があろうと、どんなに深い権利侵害を受けようと、一切を帳消しにする用意がある。

適切な償いがなされるなら、その時点で、被告Aとの間での紛争は永遠に終わることになろう。

なお、被告Bは牧師にも関わらず、筆者を告訴したと答弁書の中で述べており、筆者の主張が控訴審で取り上げられなかったのを良いことに、筆者に対する不法行為責任もいささかも認めておらず、かえってこれからも、自分は筆者に完全勝訴したとさらに誇るであろうことが予想される。

だが、被告Bがそのような態度を取っていることも、控訴審においては、筆者にとってさほど悪い方向へは働かなかった。おそらくは、それがあればこそ、以上に挙げた通り、筆者に対しても、深い配慮が示されたのだと思う。

そして、原審判決が確定に向かっていることは、筆者がこれまで幾度も述べて来た通り、神の僕を名乗って公に活動している人々に対する裁きは、神ご自身が下されることを、よく表しているように思う。

筆者の目から見て、被告Bは明らかに道を踏み誤っているのであるが、そのことが、被告Bをどのような結末に導くか、最終的な結論は、筆者が全く手を加えることなく、神ご自身が自らなされる裁きとなるだろうという気がする。

刑事事件においては、色々と主張しなければならないことが残っているが、それは民事訴訟のように、筆者自身が主張立証を行うことで、当事者同士が対決するという性質のものではない。おそらくは、告訴と告訴がどこかで出会って互いを相殺する結果になって終わるのではないかと予想する。

このように、被告Bとの間では、まだまだ多くの問題が残っているとはいえ、被告Aとの間で、10年間にも渡る紛争が、被告A自身の了承のもとに決着しようとしていることは、実に大きな収穫であり、成果であると言える。

本紛争の難しさは、筆者から見ても、被告Aと被告Bとの行為を分離することが非常に難しかった点にあった。特に、原審においては、両者が意気投合して同じ条件で和解を要求していたため、これに別個に応じるという選択肢を思いつくことさえできなかったのである。

しかし、被告Aは筆者を告訴すると幾度も言いつつ、結局、告訴することもなかったし、脅し文句のように様々な言葉を述べはしたが、インターネット上の権利侵害以上に、手荒な措置に出ることもなく、賠償をしないと言いつつも、結局、支払いに応じる姿勢を見せた。

こういった矛盾の中に、被告Aと被告Bとの性格の違いが非常によく表れているように思う。騒ぎを拡大し、ひどい権利侵害に及んで来たのは、被告Aのように見えるかも知れないが、それはある意味、表面的な様相でしかないと、筆者は考えている。

このようにして、非常にスリリングな展開の中で、控訴審が終結したが、内心では、さすがの筆者も、これ以上の緊張感はもう御免だと考えた。まだ協議は続いているが、その結果をここに詳しく発表するようなことはおそらくないであろう。結果は、ブログに起きる変化を見て判断してもらいたい。

これまで筆者は、控訴審では、原審では十分に議論できなかったより深い議論ができるのではないかと期待していたが、実際には、控訴審の意味合いは、それとは全く異なるものであることも分かった。裁判所は、大学の研究室とは違う。紛争というものは、どんなものであれ、長く続くことは望ましくなく、必要不可欠な限度にとどめねばならない。歴史資料を積み重ね、議論の限りを尽くし、物事の真相を究明するために、裁判所が役に立つと考えることは間違っている。

そういう意味で、筆者は、筆者にふさわしい限度内でのみ、裁判所を利用することができ、法廷闘争の最も残酷な性質を味わわされることなく、裁判所を通じて受けられる恩恵を十分に受け、裁判官や書記官の配慮を受けることができたことは、神の恵みであると考えている。

見世物裁判、魔女狩り裁判のようなものに、筆者は絶対に関わってはならないという天からの命令が下され、そういう戦いからは、はっきりと一線が引かれ、筆者は隔離されたのである。

そして、たとえ判決に事実と異なる部分があり、自らの主張がすべては考慮されていない部分があると感じるにせよ、これ以上、争ってはならず、裁判官と交わした約束は、永遠であるという事実が示されたのである。

ちなみに、原審において、筆者にとって、出頭することの意味は、控訴審とは全く違ったものであった。原審を担当してくれた裁判官は、当事者同士が顔を合わせずに済むよう、電話会議を設定してくれたが、原告は、電話会議であっても、裁判所に来るよう求められていたので、毎回、裁判官と書記官と顔を合わせて手続きを進めることが必要であった。とはいえ、何度も書いて来たように、それは筆者にとって、安全な場所で、裁判官や書記官と同じ目線で、顔と顔を合わせて審理を進められ、お互いが何を感じているかを身近で共有できるという、非常に大きな「役得」となったので、身を削るような緊張感の漂う審理とはならず、むしろ、ようやく助けを求める場所が出来たと安堵できる瞬間となったのである。

筆者は今でも思い出すのだが、海をそば近くにして、法廷ではない閉ざされた小部屋で、裁判官と書記官とに脇を固められるようにして、電話を使って被告らとやり取りしていたあの時空間は、それ自体が、十字架の装甲であったものと思う。少しの恐れも覚えることなく、筆者はそこに通うことができ、裁判官は、筆者の痛み苦しみを理解した上で、快く出迎えてくれた。

それが終わった後では、原審判決それ自体が、筆者を力強くかばい立てする十字架の装甲となった。それが肉眼で見てどのように見えようとも、筆者は、その装甲から一歩も外に出てはならないことが今回、示されたのだと思っている。

重要なのは、理屈の上での正しさではなく、目に見える勝敗でもない。事実が本当に踏まえられた判決が出されたかどうかですらもない。今、筆者がどこまで進むことが許されており、どこからが足を踏み入れることが禁じられた領域であるのか、きちんと見分け、紛争をこじらせるのではなく、解決へ向かわせるために知恵を使うことなのである。

すでに述べた通り、控訴審を提起したことは、被告Aとの間で紛争を終わらせるためには、大きく役立ったので、無駄にならなかったとはいえ、控訴審において、筆者が出廷し、被控訴人らと議論を戦わせる行為は、霊的文脈においては、絶対的に禁じられていたと言えよう。

なぜなら、その先には、当事者が我欲をむき出しにした泥沼の法廷闘争が待ち受けているだけであり、そんなところに足を踏み入れれば、筆者は原審において受けたすべての恩恵をも配慮をも失ってしまうことになるだけだからである。

筆者は、おそらく、これから先の人生においては、原審を担当してくれたただ一人の裁判官だけが、真の裁判官であり続けるだろうという気がしている。それ以外には、どんな裁判官にも、判断を委ねることはもうあるまいと。

まだまだ裁判所を通じて片づけねばならない問題は山積しているとはいえ、本訴訟において筆者に判決をくれた裁判官以外の全ての裁判官は、筆者が自ら判断を下せるように、必要な助言や手助けをしてくれただけであり、この他に、不本意な判断を下した裁判官がいるとしても、それも将来的に是正されるに終わるだろう。

そういうわけで、もはや原審のように、深い共感や理解を互いに分かち合いながら、協力して審理を進めるような手続きは、今後は起きることはないという気がする。その代わり、筆者は何が正しい判断であるかを、誰にも頼らず、自ら決定せねばならない立場に置かれたのである。

こうして、原審を担当してくれた良心的な裁判官は、筆者の人生から去り、おそらくは、望んだとしても、会うことも、言葉を交わすこともできない所へ行ってしまったが、神はとても慰めに満ちた方であり、その代わりに、判決が新たな場所へと筆者を導き、そこで互いに言葉を交わし、眼差しを交わしながら、共に話し合い、励まし合い、協力して進んで行くことのできる稀有な人物に筆者を出会わせてくれた。

筆者は、原審を担当してくれた裁判官にどこかしらよく似たその人から、原審で学ぼうとしていたことの続きを教えられている最中である。その人は、筆者の訴訟に対する考え方を根本的に変えたのみならず、弁護士などという種族に対して筆者が持っていた不信感をも払拭し、真に勝負に勝つとは、ただ表向き、勝訴することを意味するのではなく、むしろ、自分の正義を手放し、自分よりも弱い人の前でひざを折り、負けることによって得られる絶大な勝利がある、ということを、筆者に初めて言葉を通してではなく、実際の生き様として教えてくれたのである。

すでに前の記事に書いたことであるが、筆者は、この人の前に出たときに、自分が正当な主張をしているにも関わらず、まるでそれが間違ったものであるかのように、すべての訴えを自ら撤回し、勝負をする前に自ら敗北を宣言し、自分を打ち破った者に服従することで、筆者自身が守られることになると知った。そうして得られる絶大な利益があることを知り、それが深い愛情と思いやりに基づく犠牲であって、喜んでそうして構わないと思う人々を見つけたのである。

このように、勝負には、様々な「勝ち方」がある。負けながら勝つという方法もあるし、勝ちながら負けたふりをするという方法もあるし、この度、裁判所が見せてくれた方法の中にも、二重三重のメッセージが込められている。そして、紛争の解決のためには、判決における勝敗だけが重要なのではなく、誰もが同意できる形で、納得のいく妥協点を根気強く探り続け、あきらめずに当事者に語りかけを続け、平和を打ち立てるために努力を払うことにこそ、真の解決があることを教えられる。知恵はそのために存在するものである。

だから、勝ち負けや優劣にこだわっている限り、平和など訪れるはずもない。

結局、筆者はこの訴訟においても、それ以外の場所でも、人々を愛するがゆえに、自分の主張を投げ打ち、自己放棄して、他者に栄光を帰することこそ、真に戦いに勝利する秘訣であることを知らされていると言えよう。それを強制されたり、命令されたりしながら、嫌々させられるのではなく、喜んでそうしたいと思う人々に出会ったことは、筆者にとって、かけがえのない財産であり、控訴審の口頭弁論期日の直前に、そのことを学ばされていなかったならば、筆者はどうなっていたかも分からず、そうしたところにも、筆者の信じる神の深い憐れみと知恵に満ちた采配があったことを感じる。

こうして、筆者は自分が義人であることを捨てて、罪人の陣営に下ることを決めたのである。

律法はいささかも揺るぎなく、罪は罪として依然、罰せられるにも関わらず、その罰から人類を救い出すために、神は御子に十字架を負わせ、細く狭い例外の道をもうけられた。

こうして、義である方が、ご自分の義を捨てて、罪人のために罪となられることにより、多くの人々が義とされたのである。

そこで、筆者も自分の義を捨てて、罪人の仲間になることにより、筆者の義が、人々の中に働いて、彼らの義となり、彼らが死から立ち帰って生きる方が、筆者一人だけが義人で居続けるよりまさった結果であるものと思う。

そういうわけで、筆者は、自分が正しい主張をしているにも関わらず、その正しさが認められず、却下されたり、もしくは、自分自身でその主張を放棄するという結果になっても、それを恥であるとも、悔いが残るとも考えない。

これを負け惜しみと受け取りたい人々がいるならば、好きに考えさせておけば良かろう。少なくとも、法廷に出廷せずに、一つの主張も述べずに、悔いを残さないで審理を終えるなど、以前の筆者には考えられなかったことであるが、原審の結審時に、神聖な法廷は、筆者の心の中に移行したのであって、物理空間としての法廷が、筆者に救いを与えるわけではない。

このことは、教会とよく似ている。筆者は幼い頃は、教会に通い、そこに通うことで救いが見いだされるかのごとく教えられて来たが、その後、そうではないことが分かった。救いは、信仰を通じて、信じる者の只中に与えられており、それゆえ、キリストの復活の命を受けた私たち自身が、教会を構成しているのであり、それにも関わらず、私たちが罪から救われるために、あちらこちらの物理空間に通い続けて、助けを求めて麻酔薬を打ってもらう必要はない。

法廷が筆者の中に移行すると同時に、筆者を守っていた遮蔽の措置も、目に見えない領域に移行した。それによって、原告と被告Aとの間に打ち立てられていた霊的な障壁が破壊され、原告と被告Aとは出会っていないのに、接点が見いだされ、神から提示された和解勧告を受け入れる用意が出来たのである。

筆者は、この先、地上のどんな目に見える教会も、牧師も、決して与えることのできないであろう慰めに満ちた命を、自分が人々に分与できることを確信している。

それは、筆者がまことの神から直接、信仰によって受け取ったよみがえりの命である。この命は私たちが人間として地上で受けるどんなに深刻な被害をも打ち消すことのできるほどの圧倒的な力を持っている。

筆者はこの命に基づいて、人々に赦しと、承認と、賛同を与えることができ、それによって、倒れて死んで枯れた骨のようになった人々をも立ち上がらせることができると信じている。また、骨と骨をつなぎあわせ、一つの体にしていく作業にも貢献できると信じている。

それは、筆者が自分の力によってなすことがらではなく、神が筆者を遣わして人々に与えようと願っておられるまことの命によるものである。使徒パウロも、死人をよみがえらせたが、主イエスに従う人々は、主イエスと同じかそれ以上のわざを行うだろうと主は告げられた。

もしも今回、被告Aと筆者とが法廷で出会っていれば、そこには対立しか生まれず、筆者が持っているまことのよみがえりの命も、被告Aに分与されることはなかったであろうが、我々は、肉眼で見える人間同士のつながりを超えて、信仰による見えない絆によって、目に見えない領域で新たに出会ったのである。

その命が、どのようにしてこれから被告Aの中で発芽し、育って行くか筆者は知らないし、被告Aも全くそのようなことが自分の身に起きたとは考えてもいないことであろうが、とにもかくにも、筆者が願っていた一つの解放のわざが実現したのであり、筆者は、被告Aにとどまらず、筆者のもとにやって来るすべての人々に向かって、主イエスの御名によって、彼らがあらゆる告発から解かれ、罪赦されて、病から解かれ、すべての被害を帳消しにされて、力強く立ち上がって、歩き出すことを命じ、それが彼らの身の上に現実となって成就することを信じるのみである。

一瞬だけしかプライドを満たすこともない、つまらない一過性の承認や賛同の代わりに、筆者は、永遠に揺るぎない、神からの肯定的な判決があることを、その人たちに示すことができる。その見えない判決を受け取ることの方が、地上の束の間でしかない満足を得るより、はるかに価値ある成果ではあるまいか。
 
今回の裁判では、どんなに滅茶苦茶な方法であれ、門戸を叩き続けた者が、最終的には、望んでいる報いを得るという結論が示されたものと思う。その意味で、筆者も、被告Aも、全く違った方法ではあるが、熱血的に、自分の求めることをあきらめずに主張し続けたのであり、それゆえ、両者ともに望んでいるものを手にしようとしているのだと言えないこともない。

水が低い方へ向かって流れるように、恵みは、へりくだる者へ向かって流れる。この度、勝ったと豪語する者ではなく、負けたとして踏みつけられたはずの者たちが、恵みを得る結果になっているのは、実に不思議な結果ではないだろうか?

そして、筆者は勝ったわけでもなく負けたわけでもなく、判決言い渡しでありながら、同時に和解であるこの原審判決が、筆者にとって、実に最高最善の贈り物であるような気が今はしている。

干潟から生ける命の水を汲み出すためには、へりくだりが必要なのであって、それを身につけるためには、罪人たちからのあらゆる反抗を耐え忍び、人々のしんがりから着いて歩く覚悟が必要となる。

その作業は、日々、自分の十字架を取って主に従うことにより、成し遂げられるのであって、私たちの死の中に、人々に対する命の力が働く。そうこうしているうちに、ついにはいつしか死の力が最終的に命の中に飲み込まれて、死の棘がことごとく無効化される瞬間を、私たちは見ることができるだろう。

筆者が望むのは、人々が自分を縛っている罪と死の力から真に解放されて、人としての真の尊厳を取り戻すことである。その実現のために、ただひたすら、命を見る瞬間が来ることを願ってやまない。だから、この記事をあまり余計な場所に転載したり、噂話に利用しないでもらいたい。特に、被告Aのことは、この先、そっとしておいてもらいたい。まだ協議は続いているためである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。


死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(一コリント15:54-58)

このところ、人の罪の赦しという問題について考えさせられていた。

紛争が起きた際、なぜ途中で和解することのできる人々と、そうでない人々が分かれるのだろうか。その違いが生じるポイントを考えると、やはり、罪の悔い改め(反省や謝罪)と償いができるかどうかにかかっているだろうと思わされる。

聖書には、兄弟から訴えられた場合には、早く仲直りをしなさいという忠告がある。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クォドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)

これは早く謝罪と償いをして仲直りしておかないと、罪に問われて、返せないような負債の返済を命じられるかも知れない、という警告である。

この世の紛争においても、早期に和解することができなかった場合、紛争は長引き、時と共に、その告発の内容もより重くなって行く。

不思議なことに、起きた事件の性質は変わらないのに、時間の経過と共に、告発の書面がうず高く積みあがり、訴えられる罪の重さが増し加わって行くのである。

さらに、時間の経過と共に、関係性もより修復不可能となる。徹底的に事実を争えば争うほど、和解は遠のき、互いの印象が悪くなり、いつか最後には、罪を犯した者には、容赦のない裁きが下る時が来る。

この世の裁判は、私人間の争いであり、被害を受けた者が自ら被害を立証し、主張を争うので、判決が確定するまでは、事実の認定も確定せず、最後まで、どちらが勝つか分からない駆け引きのような部分がある。

担当裁判官の裁量も大きくものを言い、基本的に文系の人間である裁判官には、得意分野もあると思われ、不得手な分野については、どんなに証拠があっても、公平な判決が下せない場合もあると見られる。

しかし、行政機関に出される各種の訴えは、それとは種類が異なる。これは基本的に、被害の立証の責任を、訴えを出した本人が負うものではなく、最低限度の主張があれば、それに基づき、訴えが受理され、その後、行政機関が自ら捜査・調査を行う。

そういった種類の訴えは、受理された時点で、ある意味では、出した本人の手を離れる。その後は、手続きとしては、自動的に粛々と進んで行くことになるが、そこにある種の怖さがある。

なぜなら、そうした手続きは、事件の加害者と被害者が相対して事実関係を徹底的に争いながら、共に解決を目指すというものではないので、ゼロから主張を争う民事裁判とは異なり、基本的に、出された訴えに基づき、違反を裏づける方法で調査が進む。

民事裁判では、基本的に、訴えた人も、訴えられた人も、平等に扱われるし、当時者のどちら側からでも、裁判の行く末を見据えて、判決が下る前に、和解を提案することができるので、条件さえ合致すれば、いつでも争いに終止符を打てる。

いかに対立しているとはいえ、法廷で相対していれば、責任を持って向き合っているという意識が生まれないわけではなく、それにも関わらず、心から憎み合うのは難しいだろう。

何よりも、民事訴訟は、処罰を求める性質のものでないため、判決が下されて不法行為が認定されても、最終的には、金銭的な支払いで事は終わる。

ところが、刑事事件などの場合には、民事訴訟のように、当事者の主張が大きくものを言うわけではなく、当事者の意を汲んで捜査が行われたり、審理が進められるわけでもない。

加害者は、起訴されれば、被害者とではなく、国(検察)と対峙することになり、疑わしい訴えは、初めから受理されないため、高度な政治性を含む事件でない限り、罪の大小はともかく、何らかの違反が確定する方向へ向かって、事件が進められて行く。

事件の当事者が法廷で顔を合わせて議論を戦わせるわけではないので、そこには心理的な要素が働きにくい。だが、それゆえに、厳粛に処罰へ向けて事件が進められるという、ある意味では、容赦のない側面があるように筆者には感じられる。
  
以下のサイトでは、日本の法律では、「被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じている」と記されており、被害者が加害者に自ら報復しないためにこそ、刑事事件の手続きが存在すると解説されている。

 「誰かを刑事事件で訴えて処罰を願うなんて・・・」などと、犯人を訴えることを、何かしら、あるまじきことのように思っている人があるならば、人が自分で復讐することに比べ、こうした手続きが存在することの意味を、今一度考えてみた方が良いだろう。
    
刑事事件とは、傷害、窃盗、痴漢などの、いわゆる犯罪行為をしたと疑われる者(被疑者、被告人)について、警察や検察といった国の捜査機関が介入し、その者が犯罪を行ったのかどうか捜査を行い、裁判において刑罰を科すかどうか等について判断を行う手続のことを言います。

日本の法律は、被害者が加害者に対して制裁を加える復讐などの自力救済を禁じていますので、被害者に代わって国家機関が加害者の責任を追及し、最終的に刑罰という形で制裁を加えることになります。刑罰を科すためには、原則として、刑事裁判を起こすことが必要です。そして刑事裁判を起こすことができるのは、検察官のみとされています。

すなわち、刑事事件は、国を代表する検察官vs犯罪を疑われている被疑者・被告人という構図になります。

【弁護士監修】刑事事件とは?|刑事事件手続きの流れと民事事件との違いについて
   
 ここには書かれていないが、不慮の交通事故のように、特に加害の意志があって起きたわけでもない事件も、多数、刑事事件に含まれている。犯人が不明のまま進められる事件もある。そのような事件が毎日のように無数に裁かれ、世の中の秩序が保たれている。

刑事事件の他にも、行政が取り扱っている訴えがあり、裁判所で審理が行われないものもあるが、基本的に、出された訴えに従って、違反を裏づけるために調査が行われるという点では、同様である。

それは、和解の余地もなければ、当事者の了承もないまま調査が進められ、ある日、証拠が積みあがった時点で、違反が認定される方向で、結論が下されるという点で、軽微な内容の訴えであっても、筆者から見ると、非常に恐ろしい側面のある手続きである。

筆者が、違反を宣告されることを恐れているがゆえに言うのではなく、その手続きの事務的な進み方が、民事訴訟に比べて、非常に厳粛だと考えるため、ある種の畏怖を覚えるのである。

筆者は、当ブログを巡る訴訟もそうであったが、訴えを出すときには、二本立てで進めるのだと書いたことがある。

筆者自身の印象を言えば、民事訴訟は、非常に人間的な要素が強く、当事者感情が大きくものを言う争いであり、なおかつ、証拠の分量やら、主張の立て方で、同じ事実を巡っても、結論が180度違って来たりもする。
 
民事訴訟では、口頭弁論などの雰囲気次第で、相手方を罪に問いたくない、という感情が当事者一同に生まれたり、逆に、赦せないから何としても不法行為を認定したい、などの感情に傾くこともある。あるいは、訴訟に疲れたから、事実はどうあれ、もう争いをやめよう・・・などという結論になだれ込むこともあるだろう。

だが、民事訴訟において、様々な感情に見舞われつつも、これと並行して、当事者感情があまり大きく働かない別の訴えが並行して静かに進められることによって、感情に流されて冷静さを欠く判断が最終的に下されて、それが最終的に確定することを防ぐことができる。

これを保険のようなものだと言えば、不適切なたとえかも知れないが、なかなか自分の感情を客観的に見つめることのできない当事者にとっては、非常に重要な参考材料なのである。

そのことを最近も、筆者は、和解不可能かつ、心理的要素があまり大きく働かない別な訴えの進行状態を観察することを通して、学習させられた。

筆者があたかも不利な立場に立たされて、解決がより遠のいているかのように思われた問題について、筆者の知らないところで、粛々と進められていた手続きの進展が、伝えられたのであった。

前回、書いたように、筆者にも、できれば、誰をも罪に問うことなく、誰の処罰なども願うことなく生きていければ、それが最善だという願いがある。

人を罪から解放し、滅びから救いたいと、私たちクリスチャンの信じる父なる神は、願っておられるはずである。

私たち信じる者が、それにも関わらず、誰かを罪に定めることを心から願うはずもない。

だが、そうした願いとは別に、おそらく、人の犯す罪の中には、人の思惑次第で、赦して終わりにできる罪と、そうでない罪が存在するのではないかと筆者は思う。それが、和解できる人々と、そうでない人々が分かれる根拠なのである。
 
「和解しないって、ヴィオロンさん、それはあなたの心が頑なだからでしょう?」などと問う人があるかも知れないが、筆者は、和解は、願ったからと言って、かなうものではなく、和解できる条件と、そうでない条件が存在し、たとえ和解を拒むことによって、紛争の解決も遠のき、自らの負担も増えるとしても、事実がきちんと明らかにならず、誰も罪を認めることもなく、反省すらもしていないうちに、和解が成立することはないとみなしている。

それは民事訴訟と刑事訴訟の違いにもどこかしら似ているかも知れない。
 
この世の罪人は、ある意味では、自分が気づいてもいないうちに、神と人から二重に訴えられている存在だと言っても良いかも知れない。
 
人が人に対して犯した罪も、確かに罪であることは間違いないが、聖書における罪の概念とは、何よりも、人が神に対して犯した罪を指している。

人が人に対して犯した罪は、忘れられることもあれば、気づかれないこともあり、訴えが出されなければ、ないこととして扱われるかも知れない。当事者が赦そうという気持ちになれば、そこで終わる。

しかし、人が神に対して犯した罪は、人が自らの力で決して取り除くことができず、どんなに償いをしても、償いが完了することもなく、処罰が完了しない限り、決して忘れられることはないものである。

罪が赦されるためには、刑罰を受け切らなければならないが、その罰たるや、永遠という時を費やしても、まだ終わらない刑罰なのである。
  
人類は生まれ落ちたその瞬間から、すでに堕落しており、罪を犯しているのであって、やがて神から有罪宣告を受けることが確定している。従って、人類は訴えられている存在であり、その事件は、人類が気づこうと気づくまいと、粛々と終わりに向かって進められている。

検察が犯人を訴え、その罪を追及して処罰を求めるように、人が神に対して犯した罪は、決して訴えとして取り下げられることなく、決着がつけられるまで、事件は続行して行くのである。

そして、人が自分が罪により訴えられていることさえ知らず、滅びの宣告へ向かってひた走って行くのか、それとも、途中で気づいて、神と和解する道を探るのか、そのどちらかしか選択肢はない。

基本的に、この訴えに和解というものはなく、刑罰を受ける以外に道はないのだが、それでも、何事にも例外があるように、人類が滅びの刑罰へ突入することを逃れる方法がただ一つある。

それは、人が生きているうちに自らの罪を悔い改めて、キリストの十字架上の贖いを受け入れることである。

まず己が罪を悔い改め、次に、自分自身では償いきれないその罪に対して、神が自ら与えられた神の独り子なるキリストの十字架上の贖いを受け入れて、神と和解すること、それだけが、永遠の滅びの刑罰の例外として、人類に与えられた救いである。

* * *

だが、人がこの贖いを受け入れるに当たり、大きな障壁となるものがある。

それは、多くの人が、自分が生まれながらに罪人であることを認めることができないということである。

それは、人が人に訴えられた時点でも、和解できるかどうかを決定的に分けてしまう大きな違いとなる。

すでに述べた通り、人が人と和解するためには、罪を認め、反省し、謝罪し、償いをするというプロセスが必要となる。罪を認めない人間を赦すことは、誰にもできない相談である。

人が神と和解する時にも、その原則は同じである。

だが、世の中には、どうしても罪を認めることができず、悔い改めることも拒む人々が出て来る。

たとえば、異端化したキリスト教には、罪の概念もなければ、悔い改めもない。

カルト思想は、世界が滅びに瀕していると教え、そこから人類を救済することが自らの使命であると教え、独自の救済論を唱えるが、その救済のために、不法行為を正当化する。

世界を救うという大義名分さえあれば、どんな不法行為を行っても罪にならないと教える。たとえば、ハルマゲドンを近づけて世界を滅びから救済するためならば、地下鉄にサリンを蒔いても構わない、というのがその典型例と言えよう。

しかし、筆者が当ブログで述べて来た問題は、異端と闘い、カルトを是正すると言っている人たちの中にも、実に多くの人たちが、カルトを取り締まるためならば、不法行為を行っても、罪にはならないとして、いつの間にか、カルトや異端とほとんど変わらない思考に陥ってしまっているという事実である。

カルト宗教は、教祖の考えに従ってさえいれば、そして、カルトの集団生活に従ってさえいれば、救いから除外されないと教える。しかし、実際には、教祖も集団生活も、信者を救わないどころか、より一層、誤った道に導き入れるだけである。

ところが、キリスト教の中にも、同じような考えを信じている人々が見られる。牧師の教えに従い、日曜礼拝に通ってさえいれば、救いが保たれるというのである。

さらに、キリスト教徒であると告白し、カルトの脅威と闘うと豪語している人たちの中には、カルトと闘う自分たちこそ、世界を滅びから救おうとしている救済者であるかのようにみなし、カルトの脅威を阻止するという大義名分さえあれば、自分たちがどんな不法行為を行っても正当化されるかのように思い、法の裁きに身を委ねず、自ら報復行為に走りながら、自己正当化をはかる人々が、かなりの数、出現して来た。

強制脱会活動なども、そうした誤った考えに率いられた運動の一つである。カルトの脅威に立ち向かうなどと言っても、本来は、人が自分で報復しないためにこそ、法律が存在するのであるから、そこに任せれば良い。

たとえすぐに願っている通りの結果が得られないことがあっても、粘り強く戦い抜き、諦めずに主張を提示し続ければ良い。

それなのに、ある人々は、法的措置に出ることを野蛮な手段であるかのように言いながら、報復のための私刑を容認する。カルト宗教に対しては、報復しても構わないと、独自の理論を振りかざし、他者に対する人権侵害を容認する。

一体、なぜそのようなあべこべな考えが成立するのか、筆者には未だ分からない。目的は手段を決して正当化しない。カルトとの闘いやら、世界救済といった名目がついているからと言って、不法行為は正当化されないし、人権侵害は人権侵害に他ならない。

ところが、その人々は不法行為を犯しながら言う、自分たちは「カルトの脅威から人々を救う」ために闘っているだけだと。そして、恐ろしいことに、多くの人々が、それを聞いて頷く。

まるで昔、我が国で地震や火事がある度に、民族的マイノリティが攻撃されたことを思い起こさせるような風景である。「カルトの脅威から人々を救う」と言いながら、その攻撃の対象は、カルトへは向かず、かえって最も弱い、無実の人々に向いて行く。

「自分たちはカルトの脅威に脅かされている」と感じている人々が、集団となって、身を守る術もない弱い人々を攻撃し、大勢の人々は、黙ってこれを見物し、不法行為が犯されているのを見ても、不満のはけ口が見いだされたのは良いことだと言わんばかりに、それを見て見ぬふりをし、悪だと認識する力を失ってしまう。

筆者にとっては、これは極めて異様かつ不可解な光景である。

こうした現象に、抗う力もない今日の組織としてのキリスト教とは何なのかという疑問を、深く覚えざるを得ない。

筆者は今でも聖書への信仰に立つキリスト教徒なのであるが、前から書いている通り、だからと言って、たとえば、統一教会の信者を脱会させるために、人権侵害を容認して良いとは全く考えない。カルト宗教の信者が相手であれば、何をしても良いとは、考えることもない。

そのような人権侵害を伴う強制的な脱会活動を、「自分たちは正しい信仰を信じているから、救いを知らない人々に、これを教えてあげなければならない」という自負のもとに正当化して来たプロテスタントのあり方も、正しいものであるとは、筆者は考えない。

そして、プロテスタントが今日に至るまで、こうした強制脱会活動に対して、一度たりとも、これを反省する公式声明を出したことがないことも、恐るべき問題であるとみなしている。

反カルト運動だけが誤っているわけではない。聖書の信仰それ自体は正しくとも、以上のような誤った理念を生む母体となった組織や団体のあり方に、根本的な歪みがあるのではないかという気がしてならない。

そして、そういう活動を疑問にも思わない人々が、プロテスタントのあり方に絶望したと言ってカトリックに去ったところで、少しも問題は解決しないまま、未来に先送りされて行くだけであると筆者はみなしている。

当ブログを巡る訴訟の背後には、そうした問題が隠れている。

人間的な感情としては、筆者は誰をも罪に問いたいとは思わない。

だが、ここには、筆者の思惑次第では、どうにもならないほど大きな問題が横たわっていて、罪人への処罰は、筆者の感情次第で取り除けるものではない、ということを思わされる。

前から書いている通り、それが、当ブログを巡る訴訟が、一審判決で終わらなかった理由なのである。

一審判決が不完全であることは知りながらも、筆者はそこで紛争を終わりにするつもりであった。そして、当事者が完全に争いを放棄した状態は、非常に美しい平和的な解決のようにも見えた。

判決に100%満足がいかずとも、どうせこの世における争い事なのであるから、そこで、事実が完全に明らかになることなど期待しても仕方がない。まずまずの成果があれば、紛争を早期に終わらせて、そこから解放されることの方が、大切ではないか?

そういうわけで、筆者はある程度の成果があれば、そこで立ち止まるつもりであった。特に、何かしらの償いめいたことがらが成就して、約束が守られさえすれば、その後は、誰がどこでどう生きて行こうと、全く関与するつもりもなかったのである。

関係者の尽力は得られ、かなりの達成が得られたように見えた。

ところが、事件はそれで終わりにならず、筆者の感情をも裏切った。

そして、今も裏切り続けている。それはこの事件に限らず、他の場所においても同じであり、筆者がどんなに願っても、解決する争いと、そうでないものが分かれる。

和解を願っても、成立する場合と、そうでない場合がある。

兄弟に訴えられた人が、大急ぎで戻って来て、赦しを乞うこともある。そうなれば、筆者も心を和らげて、早期和解を模索し、すぐに争いは終わり、調和に満ちた美しい解決が訪れる。

赦すと決めたなら、筆者は二度とその人たちの罪を思い出すこともない。

だが、呼んでも、戻って来ない人たちがいる。筆者は、どんなに人を罪に問いたくないと考えても、貫徹せねばならない戦いがあって、結果が明らかになっていないのに、中途半端に諦めることも、退却することもできないことが分かる。

この世の判決に完全を願うことが、どんなに無理な注文であることが分かっていても、筆者には、それでもそれを踏み超えて、前に進まねばならないと分かるだけである。

人の思惑がどうあれ、ただ納得のいくところまで進み、成果を打ち立てねばならないことが分かるだけなのである。

何を明らかにしようとしているのか、自分自身で分かっていなくとも、それでも進んで行かなくてはならない。

これは同胞を刺し通したレビ人の剣であり、非常に喜ばしくない任務である。

ある時点までは、筆者から見て、行政機関の動きは遅く、とてもではないが、そこに何一つ正義など期待できないように見え、また、民事訴訟の判決には、初めから期待しても無駄であると見えていた長い時期があった。

それらはしょせんこの世の動きであって、聖なる事柄を裁くにはあまりにもレベルが低すぎる。それゆえ、もともと期待できることなどないし、期待する方が愚かである、と筆者は考えていたのである。

それにも関わらず、この地上においても、訴えを貫徹して行くときに、そこに成果が現れて来る。たまたま良い裁判官や、親切な警察官や、働き者の行政職員に出会ったから、成果が出たという話ではない。

時には、つきあいたくないと考える人を相手に、長時間、忍耐をすり減らす交渉を行い、これ以上の苦労はたくさんだと互いに思わされるまで、主張をぶつけあうような関係にあってさえ、徹底的に主張を貫徹すれば、成果が打ち立てられることが分かるのである。

従って、必要なのは、この世の規範とはかけ離れた、何かしら聖域のようなものを作って、そこに逃げ込むことで、自己の安寧を保とうとすることではなく、不完全かつ混沌として、しばしば不正義が支配するだけのように見えるこの世の中で、根気強く、正しい裁き、正しい解決、悔い改めと、真の和解を目指して、進み続けることなのである。

そうして、この世に正しい裁きを引き下ろすために、奮闘し続けるからこそ、その戦いに価値があるのであって、初めからこの世になど何も期待できないとあきらめて、自分の作った安全圏に逃げ込むことが、解決策ではない。

そこで必要なのは、現状がどうあれ、願っている目的を達するまでは、最後まであきらめずに主張を貫き通す姿勢である。徹底的に物事の真相を明らかにしたいと願い、また、そうするために努力を惜しまない姿勢があれば、この地上においても、目的の達成はそれなりに得られるのであり、それを合法的に、達成することができる。
 
こうして、物事を明らかにしたいという筆者の願いは、ただ個人的な願望を言い表しているのではなく、真実が明らかになり、正しい裁きが行われて欲しいという、筆者の切なる願いに基づいている。
 
最終的には、正しい裁きを行われるのは、神であるから、人が地上で事件を裁くときにも、ただ単に人間的な観点から見て、満足の行く結果が得られることを目指すのではなく、そこで真実が明らかになり、正しい裁きが反映されるようでなくてはいけないし、それを目指すのでなくては意味がない、と筆者は考えている。

つまり、天を地に引き下ろすことが必要なのであって、そのために奮闘があるのだと言えよう。
   
これまで筆者は、地上において様々な人たちに関わり、彼らに判断を委ね、彼らの協力を得て進んで来た。だが、少しずつ、そうした人々から筆者は離れつつあり、最終的には、他人に判断を委ねるのではなく、自らこれを決定する姿勢が必要となるだろうと思う。

もちろん、地上で物事を裁くのは私たち自身ではないのだが、罪を赦す権限も、赦さないでおく権限も、実はキリスト者が有している。私たちが出した訴えが、その後、どうなるのかは、地上の裁判官やら判事やらにかかっているのではなく、私たち自身が、その事件に対してどういう態度を取るかにかかっている。
 
この地上で、正しい裁きを求め、それが実現するように、あくまで法に従い、許された範囲で奮闘して行くとき、ある人々に対しては、どうしても、筆者の思惑や感情次第で、訴えを撤回することができず、罪の赦しも成立しない場合があることを思わされる。

考えたくもないことであるが、それはもしかすると、その人たちとは、和解の道が、永遠に閉ざされているからなのかも知れない。

筆者自身は、ためらいもすれば、悩みもする人間の一人に過ぎず、自ら対立を願うわけでもないし、他者の人生を変えようと願っているわけでもない。他者の心を変えるのは、筆者の力ではできず、いたずらに紛争を起こしたり、人が破滅に至るような影響を、誰が及ぼしたいと願うだろうか。

だから、筆者はただ最後まで、人々に立ち帰って、自らの罪を悔い改め、過ちについては、早々にこれを改め、生き様を変えるように呼びかけるだけなのであるが、そんな筆者の考えや思いとは別に、厳粛に手続きが進み、筆者自身が赦す・赦さないの問題を別として、いつかは罪を犯した人々には、何かしらの違反が認定されて、宣告される時が来ることを思う。

たとえ多くの人々が、筆者の試みは、成功に終わらないと高をくくっていても、筆者にはその時が来ることが分かる。

そうなる前に、謝罪と償いができるかどうかは、それぞれの人々に与えられた運命的な選択である。

聖書によれば、神は憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようとする者の心を頑なにされる。従って、誰がへりくだって罪を悔い改め、神と人と和解し、自らの罪を赦されて、告発から解放されることができるのか、それは神が決められる事柄であって、罪を認めて悔い改めること自体が、人自身の功績ではなく、恵みとして与えられるものなのである。

筆者はそのことを思う。

干潟の恩恵に浴するためには、へりくだりが必要である。そして、そのへりくだりとは、人間の本質について、これを粉飾することなく直視する姿勢を含むかも知れない。

自分に対しても、他者に対しても、うわべを飾り、本質を偽る都合の良いものの見方をせず、人間が堕落している事実をあるがままに認め、その上で、人が塵に過ぎないことを認識し、互いを生かし合う関係を双方の側から模索することができるかどうかにかかっているであろう。

そうしていたわり合い、赦し合い、理解と配慮を示し合うことができれば、人は互いに告発し合う不毛な関係からは脱することができる。それは、ただ罪人同士が目くばせし合って、互いの罪を大目に見るという意味での「配慮」ではなく、自分の犯した過ちの有害性を知っていればこそ、これを深く悔い、他者の痛みにも共感と配慮を示すことが出来、しかし、だからと言って、自分を否定するのでもなく、あるがままの地点を出発点として他者と向き合い、それゆえ、他者もその事実をあるがままに認め、その罪を赦して和解に至り着くことができるという新たな関係性である。

罪を認めても、それが終わりではなく、現実的な出発点となり、また、罪を認めたからと言って、人から拒まれるのでもなく、かえって赦されて新たな関係に入れる。
  
だが、自分自身を偽り、自分にはいかなる罪もないと、自分を粉飾したままでは、現在地も分からないのに目的地へ向かうようなもので、偽った土台の上には、自分の人生設計も立てられないばかりか、他者との正常な関係も築けない。

従って、己が罪を頑なに認めないで自己正当化をはかる人々は、一時的には勢いがあり、正しいように見えるかも知れないが、その土台はひび割れ、水漏れがし、やがては偽りであったことが暴露される。

どんなに他者に偽りを吹き込み、自己宣伝に明け暮れ、自分を誇大に見せかけて、一時的に優勢に立っても、それが真実でないならば、必ず、その勢いは覆されることになる。

人が自らの罪を認めるとは、あたかも人が自己の存在を全否定することのように思われるかも知れないが、そうではない。賢明な人は、それが全面否定どころか、死の宣告を回避するための最善の策であることをすぐに理解する。

愚かな人は、一時的な面子にこだわり、その後の人生を失うが、賢明な人は、一時的な面子を失ってでも、その後の人生を回復する。

罪を認め、悔い改めることによって、死の剣が振り下ろされるのは一瞬のことで、ただちに贖いと赦しが適用されて、和解が成立する。

神との間でも、人との間でも、和解が成立し、罪と死の宣告は取り除かれる。多く罪を赦された者は、多く愛することができ、自分が罪人であることを知っている人間は、赦された喜びも大きく、自分自身もまた、他者の罪を覆い、赦すことができる。

どちらの生き方を選ぶのかは、筆者が決めることではなく、その人自身が選ぶ選択である。それは、筆者には、手の届かない、変えることのできない領域である。

人自身の人生には、その人でなければ、決して決められない事柄があって、罪の悔い改めに関しては特に、人は人に促すことはできても、他者の決断に介入できない。なぜなら、それは救いに直結している問題だからであり、信仰の根幹でもあるためである。

この信仰の問題については、キリスト教徒を自称しているかどうかや、異端やカルトとみなされる宗教に入信した経歴があるとかないとかいった、うわべだけの問題はまるで関係ない。

ただ、人が自らの罪を率直に認めて、神に立ち返ることができるかどうかが肝心なのであり、それができるかどうかが、人の救いを分ける。そして、キリスト教徒を名乗り、自分は救われていると言いながら、自らの罪を認めることも、これを悔い改めることも、兄弟と和解することもできない人間が、非常に多くの数、存在することは確かなのである。
 
そもそも目に見える兄弟を愛さない者に、見えない神を愛することはできないと、聖書は言う。従って、兄弟と呼ばれる人々と和解できるかどうかという問題の背後には、神と和解できるかどうかという問題が隠されている。

目に見える兄弟姉妹に対して、過ちを犯しても、これを告白することもできず、これを認めることも、詫びることも、償うこともできないとすれば、その人が神に対してだけ、罪を認めて悔い改めることはあり得ない。
 
そこで、神の家族とされ、兄弟姉妹の一人とされた筆者が、この手に抱えている訴えは、筆者の訴えでありながら、同時に、そこには、筆者の思惑とは別個に、厳粛に進んで行く「もう一つの手続き」が背中合わせに存在する。
  
そこには、神ご自身から、人に対して発せられた告発がセットになっており、それに人がどう応答するかという問題が、おのずから含まれている。

これはある意味では、とても厳粛で恐ろしい種類の手続きである。

筆者が訴えを出し過ぎていると非難する人たち、もしくは、訴えを出さないことこそ、解決であるかのように主張する人々がいるが、それでも、人々が目に見える人間としての筆者を相手に、事実を争っているときは、それはまだまだ平和な紛争なのである。

なぜなら、筆者は一人の人間に過ぎないので、筆者の感情を動かすことも、思いを変えさせることも、それほど難しいことではなく、いつでも紛争は停止できるし、和解も可能であるし、未熟な人間である筆者には、不当な攻撃を加えて劣勢に追い込むことさえ、可能である。

しかし、そこにもう一つ、筆者の思いによっては左右されない訴えが表裏一体になっており、そこには、神の福音に対して人がどう行動するのかという問題が含まれている。
 
そして、不思議なことに、そのもう一つの手続きが、どのように進んでいくのかは、筆者に対して、相手方がどのような態度を取るかにもかかっている。
 
筆者がこの手に抱えている訴えの中には、神の家を司る者に向けられた告発も含まれている。

聖書は、裁きは常に神の家から始まることを告げており、神の家を司る者の責任が非常に重く、とりわけ厳しいものであることを告げている。しかも、自ら神の家を告発し、神の家を司る者たちを告発し、兄弟たちを訴え続けて来た者が、自ら告発を受けるときには、その者の責任はいかばかりになるだろうか。

この問題は、筆者の手に負えるものではなく、また、筆者の思い次第でどうにでもなるものではない。地上の未熟な人間としての筆者は、あまりにも弱く、誰もが本気で相手にする価値すらもあるようには見えないかも知れないし、それゆえ、筆者の述べている主張を、軽視する人々は多いのであるが、筆者の主張の向こうに控えているもう一つの厳粛な訴えは、たとえ誰かが筆者を力づくで排除したとしても、決して消滅することのないものである。

それがあるから、未だに当ブログを巡る訴訟も続いているのであり、次第に、その訴えが、だんだん筆者個人のものではなくなり、その内容も、筆者の手から離れつつあることを感じさせられている。

つまり、これまで筆者が非常に人間的な思いで握りしめていた訴えが、次第に、個人的な思いから解かれ、筆者の思いの届かない領域まで移行し、厳粛な結論へ向かって、自動的に進み始めているのである。
  
筆者の主張の中には、常に悔い改めと和解を求める勧めが含まれており、それゆえ、そこには救いの問題が含まれている。筆者の主張に対する応答は、軽い問題でしかないが、神の救いに対する応答は、極めて厳粛なものであり、永遠の領域に至るまで、人々の生死を分けてしまう。
 
キリスト者を自認し、福音を聞かされて知りながら、自らの罪を認めることも、罪赦されることもなく、神と和解することもなく、兄弟と呼ばれる人との間で争いを終わらせることもなく、ただ救いを拒んで終わってしまったら、その人は、何のためにキリスト者になったと言えるだろうか。その人は福音を知らされなかった方が、はるかにましだったと言うしかないことであろう。

 改めて、罪を悔い改めて神と人と和解することの意義を繰り返すだけである。
    
「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」 (マタイ25:40)
 
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(ヨハネ一4:19-21)

   
* * *

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるのです。わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(Ⅱコリント5:16-21)





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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