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悔い改めを拒否し、教会を分裂に導き、神の教会を冒涜して、滅びへ向かう唐沢治と村上密と杉本徳久
 
さて、一つ前の記事で、筆者は最後の機会として、村上密に向かって唐沢治と手を切り、悔い改めるよう呼びかけた。そして、杉本徳久の賠償金の支払いのために、手を貸してやるよう勧めた。

だが、こうした一切の働きかけは無駄のようである。むろん、最初から彼らが忠告に従わないことを、予想しつつ、あえて筆者は最後の呼びかけを行ったのである。筆者は彼らの善意に期待することは全く考えていない。

ちょうど民事訴訟を刑事告訴と並行して進めたように、今、筆者は同時に三つの策を用意しているところだ。一つ目は、任意の悔い改めの呼びかけ。二つ目は強制力を伴う実力行使。これは判決言い渡しや、警察を通じた取り調べや、処罰を求める手続きである。

そして、三つ目は、極めて重要な新しいステップである。

杉本は昨日に至るまで、判決で命じられた記事を3つも削除していないことが発覚した。当ブログのひとこと欄で、そのことを指摘してから、慌てて削除したようだ。

未練がましさの感じられる態度である。杉本が残していたのは、一つは筆者の著作者人格権を侵害した記事、もう一つは、2009年に筆者が削除を依頼したコメント、さらに、筆者の著作者人格権を侵害しつつ、鳴尾教会の女性牧師と筆者を並べて断罪した記事である。

こうした記事の残し方に、村上密からの深い影響を感じざるを得ない。まず彼らの強い学歴コンプレックスが感じられる。それから、男尊女卑、そして、自画自賛を手放せない思いである。

それらの記事はそそくさと消したようだが、杉本は判決で削除が命じられた「トランスフォーメーション・グロース」のコメントNo.17を未だに削除していない。しかも、コメントから名前を消し、投稿内容を消してでもいいから、☆5つの評価にすがり続ける男のみっともなさ、未練がましさである。



だが、こうして、杉本が判決に逆らっていることは、筆者には有利にしか働かない。なぜなら、こうしたことも、費用の回収に役立つからだ。

さらに、杉本が世話人として所属していた全国ヤギネットワークにも、杉本のことについて問い合わせた。杉本が執筆して来たキリスト教界をバッシングするブログの趣旨を伝え、そこで面識もないのに、当方がプライバシー権を侵害されて、名誉毀損され、さらに判決言い渡し後にも、2ヶ月が経とうとしているのに、賠償金の支払いもなく、本人は電話に出ず、メールに返信せず、連絡がつかない状態にあるため、困っていることを伝えた。

さらに、杉本が商工会議所の会員でないのに、会員資格を詐称したり、東京銀杏会の正会員などを詐称している事実も伝え、筆者は提供している情報がデマではないことを示すため、事件番号も伝えた上で、事実確認を依頼した。

すると、研究者兼事務局の代表者は、杉本は世話人としてここ2年ほどは会合に姿を現していないので、活動の実態も不明で、どんな人物かは知らないが、会の信用もあるため、そのように社会的・法的責任をきちんと負えない人をこのまま世話人にしておくのははばかられるため、事実確認の上、今後の対応を事務局内部でも検討するとの返答であった。

不愉快な問答は何一つなく、直接的な関係は何もないのに、うちの会員が迷惑をかけてすみませんでしたと、丁寧にお詫びをされていた。追って判決等の資料をスキャンして送付しておこうと思う。
 
このように、筆者はまさか彼らの善意のみに期待して解決を委ねる気は決してない。むしろ、任意では、これが最後の呼びかけであると、筆者は書いた。そして、彼らがその機会を無視したことの報いも、大きいだろうと考えている。

第三の策は、種明かしをすれば、包囲網である。キリスト教界からの包囲網、そして、世間からの包囲網によって、彼らを囲い込んで行き、活動できない状態を作り上げることである。杉本は、筆者が杉本に対して訴えを起こしたことをさんざん嘲笑し、司法や警察が筆者の味方になるはずがないとうそぶいていたが、実際には、司法も警察も生きており、筆者を根拠もなく精神異常者呼ばわりした杉本のデマなど信じこむことはなかった。

こうして、司法と警察を取り戻しただけには終わらない。この世全体を取り戻し、それによって、こうした中傷者を囲い込んで行くのである。私たちは、信仰によって、この世から召し出された民であり、キリストの御名によって、この世を統べ治める権限が与えられている。

だから、教会全体がこの世を足の下に置いて活動することが可能なのである。その霊的優位性、そして体としての一体性を取り戻すことが今、必要とされている。

* * *

筆者はこの戦いを中途で終えるつもりは全くない。神は教会を通じて、ご自分の多種多様な知恵を世のもろもろの支配と権威に示される。神はこの世の知者だと己惚れている人々を辱め、取るに足りない知恵なき者を用いて、ご自分の豊かな知恵を示される。

だから、教会の知恵を侮る者は、したたかに恥を受けるであろう。

杉本が判決に従わず、賠償金の支払いを遅らせれば遅らせるほど、利子がつき、債務は膨らんで行くだけのことである。筆者の提案を侮れば侮るほど、そして、法的責任を回避しようとすればするほど、杉本自身が失うものが増えるだけだ。

掲示板もしかりで、投稿者を2、3人でも特定できれば、十分に費用の回収はできる。海外にある掲示板の運営会社の法外に高い資格証明書取得料(5万円相当)も、慰謝料(5~10万円)と合わせて請求することになろう。その上に、訴訟費用(数万円)が上乗せされる。何しろ、ここ数ヶ月間、毎日のように権利侵害のコメントがなされて来たので、連続して多数のコメントを投稿している場合、杉本に下された賠償を超える判決が下される可能性も否定できない。

特に、こうして筆者に執拗につきまとって来ては、杉本や村上を擁護し、賠償金を踏み倒すことを勧め、筆者をストーカー呼ばわりするこの女投稿者を特定することが先決である。



この女は誰よりもおびただしい数の中傷のコメントを投稿して来た人間である。人物が特定されれば、氏名住所電話番号等を公開の上、刑事告訴することとなり、村上密や唐沢治や杉本徳久とのつながりや、投稿者同士の横のつながりについても、取調室でゆっくりしゃべってもらうことになるだろう。
 
その日は、ある日、突然、予告なく来るかもしれない。筆者から見れば、たった3行程度のコメントを日々書き連ねたために、そのように人生を棒に振るなど愚かさの極みだが、どうしても破滅に落ち込みたいという人間を止めるつもりはない。

人は他人に対して行ったことが、いつか自分に跳ね返って来る。これから先、杉本が筆者に対して行った仕打ちは、ほぼすべて掲示板の愚かな投稿者らに報いとして降りかかることとなろう。筆者は信仰にあって、どのような迫害を受けても、立ちおおせたが、信仰のない彼らには、破滅以外に待っているものはない。

この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。

わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。」(2ペテロ2:17-21)
  
* * *
 
村上密率いるカルト被害者救済活動は、唐沢治がニッポンキリスト教界を日々、罵り、非難して続けているのと、全く同じ精神に導かれる運動である。キリスト教会をブログで次々バッシングして来た杉本徳久も同じであって、これらの人々の行っている活動は、もとから本質的に同根だったのであり、彼らの行っていることは、教会に対する迫害であり、聖書の神への敵対行為であり、聖徒らに対する冒瀆である。

それだからこそ、この度、村上密が唐沢治を擁護するために、唐沢の陳述書をブログで公開したのであり、この二人が提携したのは、まさに必然の結果だったと言える。
 
さらに、驚くべきことに、唐沢が口汚く罵っていた「ニッポンキリスト教界」は、ついに筆者を指す用語なった模様だ。村上も、唐沢も、これまで諸教会を非難・断罪して来た以上に、筆者を仮想敵としている。そして、それがおそらく最初から彼らの活動の真の狙いであったことを筆者は疑わない。

要するに、「教会のカルト化を防ぐ」などというのは、ほんの見せかけだけのきれいごとであって、この人々の活動の真の目的は、キリスト教徒の迫害にこそあり、信者同士を敵対させて、教会を分裂させて、教会を弱体化させることにある。
 
京都教会の信者は、長澤牧師を失った痛手に加え、村上が唐沢と手を結んだことが分かれば、この教会から大慌てで逃げ出すに違いない。筆者はこれまで、村上が集めて来たカルト被害者らが、どんなに唐沢治を嫌っていたかを知っている。なぜなら、唐沢は被害者を名乗る人々に格別に厳しい残酷で容赦のない批判の言葉を並べ、心打ちひしがれた人々に一切の同情を払わなかったからである。

貧しい人々、心ひしがれた人々、不遇の環境にある信者たちに対する唐沢の容赦のない侮蔑と嘲笑の言葉は、カルト被害者にとっては、とりわけ耳を塞ぎたいような恐ろしいメッセージと聞こえていただろう。筆者はカルト被害者の中で、一人たりとも唐沢を擁護した人間を見たことがない。次の記事でも述べる通り、学歴をひけらかし、自分たちだけが真理に立っているかのように吹聴し、キリスト教界の牧師たちの貧しさや、苦労を嘲る唐沢のメッセージは、牧師たちの心にも、居ても立ってもいられないほどの憤りを呼び起こして来た。
 
従って、そのような状況で、村上が唐沢の陳述書の公開に及び、唐沢を擁護したことは、明らかに、京都教会にとってはかりしれない打撃となり、信徒数の減少、教会の終焉を招く行動となろう。長澤牧師が今この時期に京都教会を離れたのも、まさにバビロン倒壊から助け出されたに近いものがあると筆者は考えている。

* * *

さて、村上は、自分が吐いた言葉が、いずれ自分に跳ね返って来ることを、考えたことがあるのだろうか。彼は5月10日付で「著作権侵害」という記事を投稿している。

この記事の中で、村上は教会と教会を対立させて、兄弟同士を争わせたくてたまらないという様子で、自分が当事者でもないのに、ある教会で、著作権侵害の書物が配布されている事実を発見したと得意げに記し、「被害」を受けた教会は、これを訴えるべきだと呼びかける。

「ここでは教会名と出版社名を伏せることにした。双方の話し合いで解決するか。民事・刑事訴訟で取り組むか、それは教会の対応次第である。双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。それでは主導したと思われる牧師に対する罰はあるか。償いをすればそれで済むわけではない。牧師としての職務を辞すことで責任を取る必要があると私は考える。かつて、ソフトの違法コピーをした牧師に対して、コピーの破棄とソフトの購入で解決したことがある。今回の著作権侵害は、教会が組織をあげて、検証をし、責任を果たさなければならない。」

しかしながら、筆者は、紛争の火種を見つけてきては、教会の恥になる記事を発表し、諸教会を互いに争わせては分裂に導きたくてたまらない村上の呼びかけには、次の通り応答するのみだ。

本日に至るまで、掲示板では、毎日のように、村上密の支持者たちが、当ブログの文章を盗んでは、著作権侵害の投稿を続けて来た。全体としてものすごい文章に達している。こうした投稿者らが、村上の支持者から成り、村上のブログをキリスト教界(およびカルト問題の第一人者)としてスターの地位に押し上げ、村上を批判する当ブログの更新を阻止・妨害するために、こうした行為に及んでいる事実は、ずっと前から明らかだ。

そこで、もしもこの先、投稿者らの実名が特定されて、村上がこうした権利侵害のコメントの投稿を主導した事実が発覚した場合には、村上は以上の言葉の責任を取って、投稿者に償い金を払うよう言い聞かせた上、牧師としての責任を取って、辞職せねばならない。
  
だから、読者は、村上の発言をしっかり覚えておかれたい。以上の通りの事実が発覚した後に、村上が地位に恋々としがみついたりすることがないように。筆者は掲示板の投稿者の特定に動いているからだ。

さて、「双方で解決するにしても、償い金は必要である。それは損害を与えているからである。」と言うならば、村上は、なぜ杉本徳久に対して、賠償金を支払うよう説得しないのだろうか。

それどころか、村上は、筆者の提起した訴訟の一審で、杉本の投稿が、筆者に対する名誉毀損に当たる事実も認めず、杉本をかばうために、二人、一緒になって、賠償なしでの和解を唱え、それに筆者が応じないならば、反訴するとまで予告し、脅しのような圧迫を加えた。
 
一審判決で賠償命令が出た後も、杉本は賠償金を踏み倒すつもりで逃げ回っており、本日に至るまで、判決で命じられた記事をすべて削除したわけでもなかった。未だに、削除を命じられたコメントも内容を勝手に書き換えたまま、残している。

村上はこうした杉本の卑劣な行為をなぜ一言たりとも非難しないのか。損害を与えたのに、なぜ償い金を支払うよう言い聞かせないのか。従って、村上の論はダブルスタンダードであることは明らかだ。

もちろん、筆者はこのような行為を見逃すつもりはなく、杉本が支払いを遅らせれば、遅らせるほど、彼の負債は雪だるま式に拡大して行くだけのことである。
 
杉本は、村上が尊大に構えているので、その威を借りてさえいれば、賠償金など踏み倒せると考えているらしいが、そのようなことが社会的に通じるはずもない。これはもはやキリスト教界内の問題ではなくなっている。世間を敵に回し、社会を侮れば、その分のツケは、残る人生全体に落ちかかって来ることになる。
 
* * *
 
さて、村上と杉本はこれまで、教会に対する裁判を唱え、自分たちが教会に損失を与える時だけ、意気揚々と賠償請求に及んで来た。

村上が、元鳴尾教会の信徒を焚き付けて、鳴尾教会の教団離脱に反対するために、鳴尾教会に対する裁判に及ばせた時、村上の支援する信徒たちは敗訴したが、それでも、鳴尾教会は訴訟の対応のために、大きな経済的打撃を受けた。

杉本がかつて筆者に「相談している弁護士名を明かせ」とか、「あなたから私を訴えなさい」などという脅しのメールを送りつけて来た時も、同じように、杉本は、筆者に弁護士を雇わせることで、経済的損失を与えようとしていたのである。

彼らは、諸教会や信徒を混乱に陥れ、教会や信者たちに濡れ衣を着せて、彼らが弁護士を雇わなければ、対応できないようなトラブルを発生させて、大きな経済的負担を背負わせ、教会や信者たちの名誉を傷つけ、信徒数を現象させて、キリスト教の評判を貶めることを目的に、活動して来たのである。
 
唐沢治もこれと同一線上に立って、「ニッポンキリスト教界」を非難し続け、嘲笑することで、諸教会にダメージを与えている。その目的は、キリスト教そのものの評判を貶め、聖書の御言葉の真実性を人々に疑わせ、教会と信者と、引いては神御自身に損失を与えることにある。

要するに、彼らの活動は、諸教会に打撃を与え、信者たちに心理的・経済的損失をもたらし、聖書の神の栄光を傷つけるためにこそ行われているのである。「カルトを防止する」などという美名は、ほんの表向きの看板でしかない。

そこで、いざ、彼ら自身が、訴訟に引きずり出され、社会人として、市民として、一人前の法的責任を負わなければならない段階になると、彼らは今まであれほど教会をこっぴどく罵り、非難し、償いを要求して来たことなど、すっかり忘れたかのように、詭弁を弄して、自らの責任から逃げようとするのだ。

これらの人々は大嘘つきであり、本質的に、教会の敵、クリスチャンの敵、聖書の福音の敵、反キリストの精神に導かれる者たちである。だからこそ、彼らは信者を訴えては、公開裁判に引きずり出し、中世の魔女狩りの再現を願い続けているのである。

村上がいかに唐沢治の陳述書を公開した記事の内容を、都合よく書き換えて来たかについては、5月13日の筆者および村上密のブログおよび杉本徳久および工作員読者らの動きにもまとめておいたが、このPDFファイルとは別に、以下にも、記事本文にざっくり記しておきたい。

村上密の卑劣な記事の書き換えは、これまで再三、再四、行われて来た。村上は、まず判決言い渡し後、4月に筆者の著作者人格権を侵害する記事を投稿した上、筆者からの批判を受けると、権利侵害がなかったかのように、記事内容を書き換え、さらに、その次には、筆者を刑事告訴したなどという記事を投稿した上、筆者から虚偽告訴罪に該当するとの抗議を受けると、すぐにその記事を削除し、さらに、「唐沢治氏の陳述書 3 」と題する記事を投稿した後、筆者がこの記事の内容が名誉毀損に該当する恐れがあると反論すると、またもや、こそこそと記事を書き換えた。

今回の村上による卑劣な書き換えの内容は次の通りである。
  
➀投稿当初の村上密の記事



②書き換え後の村上密の記事



お分かりだろうか、何の断り書きもなく、記事からは、こっそり次の2文が削除されている。

「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」
「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的根拠にはなる。」

だが、無駄なことである。この記事は、投稿された文面のまま、控訴審で不法行為の証拠として用いられる。

こうして、杉本徳久と同じように、村上密が、次から次へとトラブルを引き起こしながら、絶え間なく信者に損害を与える行動を取り、批判を受けると、うわべだけこそこそ修正し、何事もなかったかのように見せかけながら、自らの責任を全くかえりみることなく、後始末を人に押しつけて、自己憐憫と自画自賛に明け暮れて来た様子が分かるだろう。

人騒がせにもほどがある。村上が、子供のように自らの行為に責任を取れない幼稚な人間であることがよく分かる事実だ。

* * *

そして、村上が以上のような記事を投稿すると、掲示板では早速、これに触発されて、以下のように、筆者を滅茶苦茶な理屈により断罪するコメントが投稿されるのが常であった。



何と恐るべき倒錯だろうかと呆れるのみである。筆者が、裁判所を経由して強制執行に及び、差押命令が出て、正式に取立が許可され、さらに杉本が筆者のメールに返信せず、電話にも出ず、賠償金を踏み倒して逃げ回っているがゆえに、筆者がやむなく商工会議所、東京銀杏会、杉本の関係者に問い合わせを行うと予告したことを、「恐喝罪」だなどと非難するコメントが投稿されたのである。

さて、それでは恐喝罪の定義を見てみよう。

「他人を脅して財物を交付させたり、財産上不法の利益を得、または他人にこれを得させる罪(刑法249条)。恐喝とは、相手に恐怖心を抱かせ、その瑕疵(かし)ある意思(詐欺、強迫によって強いられた意思)により財産的処分行為をさせることである。」日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

まず、恐喝罪では、脅しによって得ようとしている利益が 、不法の利益であることが必要なので、判決に基づき、強制執行して債務を取り立てることが、不法の利益を得ることに当てはまらないのは明白だ。
 
さらに、 Wikipediaでは「脅して」という部分の意味は、次の通り解説されている。

「恐喝罪とは、暴力や相手の公表できない弱みを握るなどして脅迫すること等で相手を畏怖させ、金銭その他の財物を脅し取ることを内容とする犯罪。刑法249条に規定されている。 」
 
筆者が電話とメールで取立を行うことでは何の権利侵害も発生しない。 何よりも、杉本自身が最初の1本を除き、電話に全く出ておらず、メールの返信も一通たりとも寄越していない以上、こうした本人への取り立てが、迷惑電話や営業妨害等が成立する余地は全くない。

また、債務者が応答しないので、知人らに接触して問い尋ねたとしても、押しかけて住居侵入罪を犯すわけでもなければ、日に無言電話を100本かけるなどして、営業妨害に及んでいるわけでもないので、いかなる罪にも当たらない。
 
もちろん、杉本は実名を公表してブログを執筆して来たため、杉本の記事が名誉毀損に問われ、判決で賠償命令が下された事実を、筆者が第三者に告げたところで、それも「公表できない弱み」を握って脅したことに当たらない。

このように、何から何まで正当な筆者の取立の権利をすべて否定してまでも、筆者が杉本に対して賠償金の取立を行うことを「恐喝未遂罪」などと非難したい匿名のコメント者がいるのである。

しかし、こうしたコメントの方が、まさに筆者に対する恐るべき権利侵害だと言える。
 
このようなことをしてまで、この人々が杉本に賠償金を支払わないよう勧めるのは、なぜなのか? 

それはやはり、彼らが初めから教会を罪に定め、信者を罪に定め、教会に打撃を与え、聖書の神を否定する目的で活動しているからである。

彼らが信者に賠償金を払うことは、教会を富ませる結果になるから、やりたくないのである。

しかし、法的拘束力を持った判決にさえ公然と逆らうことを正当化する彼らの理屈は、まさにすべてが「さかさま」であることがよく分かる。

そこでは、正しい人が罪に定められ、罪人が聖人とされる。

根本的に狂ったこのさかさまの世界観は、彼らが聖書の神を否定していることから生まれる。神を否定した唯物論だからこそ、すべてがこのように白黒反転して見えているのであり、その世界観に基づき、彼らはすべてを裏返しに見て、ありもしないことを主張し、その結果として、厳しく責任を問われて人生を失って行くのである。

彼らのこうした異常なものの見方が、反聖書的世界観が土台となって生まれていることは、村上の記事を一つ一つ丹念に追っていくとよく分かる。

* * *

村上密はほぼすべてのブログ記事において、自分は常に他者よりも上に立って、上から人にものを教えてやれる立場にあるかのように吹聴している。自分を誰よりも賢く、誰よりも事実がよく見えていると考えており、他者から学ぶ姿勢がない。

そのことは、村上の最新記事「故郷の春」を読んでも分かる。

一見、ほのぼのとした記事のように見えるが、結局、言いたいことは自慢話なのだと分かる。

「アカハラは2006年には環境省レッドリストに準絶滅危惧種(NT)として掲載されている。数年前沖縄ではシリケンイモリ(準絶滅危惧種NT)を見つけた。どちらの場所も人に教えるつもりはないが、生物学者で、研究している人には話の内容次第で教えるかもしれない。

村上は科学者ではない。それなのに、自分こそが動物の生態について、学者も知らない物事を知っているかのようにうそぶき、生物学者や、研究者にも、ものを教えてやれる立場にあるかのように表明している。

こうした記述を読んで、「へええ、村上先生ってすごいんですね」などと思う人は、本当に物事をきちんと自分の頭で考察できない愚かな人たちである。学者が動物の生態を観察するためにどれほどの時間を費やすか、それに比べて、全国を飛び回っている忙しい牧師である村上に、彼ら以上の情報を握ることが、どれほど困難であるか、そんなことは考えずとも分かることである。

さらに、その一つ前の記事「幻覚」を読んでみよう。

何とこの記事の中で、村上は、20年前、30年前に「幻覚」が見えていると相談しに来た信者らを引き合いに出しながら、心理学者でもなければ、脳科学者でもないのに、彼らの状態は「シャルル・ボネ症候群」に該当するのではないかなどと、根拠もない病名診断に及び、さらに次のような結論に至り着くのである。

「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。カルト問題で宗教が避けられ、茂木健一郎氏がマスコミに盛んに登場するようになって、脳科学に人々の興味が移って行った。宗教人口は今でも減少し続けている。「日本は世界で4番目の無宗教国家だ」(1)発表が出ている。」

まず最初に、自分に批判を向けて来た信者や相談者に、次々と精神異常のレッテルを貼り、信者への「病名診断」に及ぶことは、唐沢治の専売特許であったことを思い出す必要があろう。未だに「脳内空転」などというありもしない造語を使って、唐沢は自分に刃向った信者らを精神異常と決めつけて嘲笑している。

次に、唐沢の問題をさて措いても、村上の「シャルル・ボネ症候群」の理解自体がおかしい、ということが分かる。この症状については、次の記事にも説明されている通りである。

真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群 視覚障害のある高齢者に多い 」(時事メディカル 2018年9月4日)
真に迫る幻視、シャルル・ボネ症候群」(医療法人 裕心会 いわい中央クリニック 2018年9月10日)

まず、どちらの記事でも、村上の相談者とは異なり、シャルル・ボネ症候群に陥り、幻覚を見ている人は「本人は,自分が幻を見ていると認識しています。」、「本人は戸惑い「自分はおかしくなったのか?」と一人悩むケースも少なくない。」と記されているように、はっきりと、自分は幻覚を見ているのであって、見ているものが現実ではないことを認識している。

だから、村上が記事で挙げているケース「「度々、夜になると部屋の中で若い男性たちがが来て、座り込むの困る。」(20年前の相談者A)「度々、引き出しの中から知らない動物が飛び出て、部屋の中を走り回るので困る。」(30年前の相談者B)ふたりとも見たように話されるが見ているものは存在しない。と、シャルル・ボネ症候群は、全く異なる症状であることがすぐに分かる。
  
つまり、村上は「オリヴァー・サックスの『幻覚の脳科学 見てしまう人々』(大田直子訳 早川書房)を読んで、それは「シャルル・ボネ症候群」ではないかと思った。この本は2018年に発行された。20年、30年前では、この名称はまだ一般的ではなかった。」などと書くが、村上が引き合いに出している例は、シャルル・ボネ症候群ではあり得ない、ということが分かるだけである。

こうして、村上は手前勝手な理屈を駆使して、研究者でも科学者でもないのに、自分の相談者たちに偽りの「病名診断」に及んだ挙句、さらに「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などと、驚愕の結論に至り着く。何と、宗教が幻覚の原因であるかのように、唐突に話が結びつけられるのである。

果たして、村上が引用しているオリヴァー・サックスの著書が、そんな結論に本当に読者を導いているのかを実際に確かめるために、 本の要約サイトを覗いてみた。すると、脳神経科医である著者は、村上の提示した結論とは、真逆の結論を述べていたことが発覚した。

「つまり幻覚とは、心の病やスピリチュアルな存在からのお告げなどではない。脳がなんらかのきっかけで、いつもと異なるはたらきをした結果というのが、著者オリヴァー・サックスの一貫した見解なのである。

映画にもなった『レナードの朝』をはじめ、脳神経科医らしい鋭い観察眼とヒューマニズムあふれる筆致で多くのベストセラーを著し、2015年に没したサックス氏。同氏の生前最後の著作が本書だ。医師として、また作家として「人間のありようの根幹」を追い求めた同氏の集大成といえるのではないだろうか。」幻覚の脳科学 見てしまう人びと

つまり、オリヴァー・サックスは、幻覚は、断じて精神病や宗教のお告げなどではなく、脳の異常に由来すると指摘しているのである。それなのに、村上はこの著書の結論を勝手に真逆に読み換えて、「読み進めて行くうちに、幻覚が深く宗教と関係していることも知った。」などというトンデモない結論を提示する。

こうして、村上は、巧みに宗教全般を「人間を狂わせるもの」と思わせる方向へ話を誘導し、自分自身がキリスト教の牧師を名乗っているにも関わらず、日本は世界で4番目の無宗教国だなどという統計を提示、まるで「ああ、だから、宗教なんて信じる方が馬鹿なんだ」と言いたげな結論で記事を終えている。

これはどういうことなのだろうか。なぜキリスト教の牧師を名乗る人間が、こんな記事を書くのか。

筆者はこの記事を読んで、かつてカルト被害者の一人が、話してくれたことを思い出した。村上の娘は、かねてより父親の牧会する京都教会を毛嫌いし、村上のもとに相談に訪れる信者たちを「理由(わけ)ありの人」と呼んで軽蔑していたというのである。「牧師の娘にも関わらず、信者を侮蔑するなんて、家庭でどういう教育を施したら、ああいう風になるのか」と、被害者は憤っていた。

そして、村上の娘婿は、前にも述べた通り、教会からリフォームの仕事を回してもらったにも関わらず、事業がうまくいかなかったのか、不明な理由で自殺を遂げている。

村上の発言から見えて来るのは、カルト被害者の指摘の通り、村上が、自分は牧師であるにも関わらず、「宗教なんか信じるから、幻覚が見えるようになったりして、精神を病んで行くのだ」などと、幻覚を見たという相談者の例を無限大にまで拡大しながら、宗教そのものを蔑視し、あるいは断罪し、信者たちを蔑視し、異常者扱いするような結論を記事で示唆していることである。

だが、実際には、何十年も前に見聞きした、シャルル・ボネ症候群に相当しない相談者を、あたかもこの病名に当てはまる患者であるがごとく、根拠もなく断定したり、オリヴァー・サックスの著書が全く述べてもいない結論を、まことしやかに著書の結論であるかのように提示したり、無いものをあるように「見てしまっている」のは、村上自身ではないのか?

ここに筆者は、キリスト教を敵に回すことの恐ろしさがある、と思う。前々からずっと述べている通り、 主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)であり、「無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」のであって、宗教が精神的な病の根源なのではなく、むしろ、逆に、神を畏れないことこそ、精神崩壊の始まりなのである。

それなのに、村上は聖書とは真逆の結論を述べて、神など信じるから、人は精神異常に陥るのだと言いたげな結論へ読者をいざなう。

だが、聖書の御言葉を知ってさえいれば、村上がこの記事で最も述べたい結論は、要するに、聖書とは真逆の唯物論なのだということが分かる。

なぜなら、聖書は言うからだ、「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(へブライ11:3)

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)

聖書は、この世界は、見えるものからではなく、見えないもの(神の言葉)から出来ていると言う。そして、見えるものではなく、見えないものこそ、すべての根源であって、永遠に続くものであると教える。そのような聖書的世界観は、村上から見れば、まさにないものを「見てしまう」という、「精神を病んだ人々」として、蔑視の対象にしかならないのであろう。

ところが、現実は真逆であり、神を畏れ、尊ぶ人たちは、まっとうな生き方をするのに、宗教を侮蔑し、神を畏れない人間、そして、諸教会を断罪しては、信者同士を争わせ、神の教会を侮蔑してはばからない村上たちの活動の支持者らは、どういうわけか、自分は正しいと言い張りながら、判決に逆らって、賠償金を踏み倒したり、あるいは不明な理由で自殺に至ったり、刑事事件で訴えられたり、人権侵害の記事を書き連ねながら、全く反省がなかったりするのである。

神の教会を冒涜し、あらゆる宗教を敵視し、見えるものの根源は見えないものにあるという霊的法則性を否定して、見えるものこそすべての根源であるかのように主張するこの人たちが、彼らの論とは裏腹に、自分たちこそ、精神異常に落ちかかっている様子が見えて来る。
 
そこで、私たちは、村上がすべての宗教に「害悪や、病をもたらすもの」、「胡散臭いもの」、「カルト的なもの」、「悪」というイメージを植えつけようとして、根も葉もない虚偽のプロパガンダを言い広め、キリスト教のイメージを貶めようとしていることを十分に理解した上で、これを鵜呑みにしないように、警戒しなければならない。そして、牧師であるにも関わらず、このような記事を書く人間は、決して、真実なキリスト教徒ではあり得ず、まともな牧師でもあり得ないという結論も、おのずと見えて来よう。

つまり、村上は、聖書66巻が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定した杉本徳久と同様に、偽牧師であり、偽教師であり、偽クリスチャンであり、要するに、反キリストの精神に導かれる人間だということが分かるのである。

ちなみに、筆者は、物事のうわべのありようではなく、その本質を見ている。そして、クリスチャンには、聖書に「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあながたに告げるからである。」(ヨハネ16:13)と記されている通り、御霊によって、将来的に起こることをも、ある程度、予知する力が備わっている。

たとえば、以前にも書いた通り、筆者が2010年に杉本徳久をラスコーリニコフになぞらえ、カルト被害者救済活動が不法行為の温床になっていると記事で警告したときには、まだ明白な不法行為と言えるものは明らかになっておらず、杉本が犯罪行為に問われていたわけでもなかった。

しかし、その後、物事は筆者の予想した通りの展開を辿り、杉本は今やラスコーリニコフからそう遠くない地点に立っている。さらに、筆者が昨年、仮処分の申立てを杉本・村上・唐沢の3名に対して提起したとき(これは一部訴訟に転じる予定で取り下げている)、筆者はこの訴えの中で、3人が共謀しているなどとは全く主張していなかったが(3者の行動にそれぞれ接点があったため、3者を債務者として同時に申立を出した)、1年後にはほとんどそれに近い状況が出来上がっている。

 唐沢などは、自分たちに共謀関係などあるはずがないと、筆者の論を嘲笑っていたが、今、村上が唐沢治の陳述書を公開している有様を見ても、その当時いはなかったネットワークが、今、出来上がっている様子が分かるのである。

こうしたことも、筆者が約1年前にほぼ確実な未来予測をしていたことを示している。

とはいえ、これは筆者自身の予知能力などではなく、何ら不思議な現象でもなく、彼らの活動が本質的に聖書に反するものであることを理解すれば、遅かれ早かれ、この人たちが聖徒らを迫害する目的で、手を結ぶに至るであろうことも、十分に予測しうるのである。

誰であろうと、物事の本質をきちんと見極めれば、将来的にどのように事態が展開するか、実際にその出来事が起きるよりも前に、一定程度、予測できる。

つまり、これは無いものが「見えてしまう」という幻覚の類とは全く異なる事柄なのである。信仰を持たない人々が、いかに否定したとしても、世界は、厳然たる霊的な法則性によって造られており、また、それに従って動いており、その法則は、物理法則と同じくらいに変わらないものである(正確には物理法則を超える)ので、ある人の思想を緻密に分析すれば、その人がどういう人生の最期を迎えるかまで、大体分かってしまうのである。

だから、筆者には、村上も、杉本も、唐沢も、決して平和な人生の終わりを迎えないであろうことが予想できる。KFCは特に、地上のエルサレムの崩壊や、マサダの集団自決などを彷彿とさせるような、ひどい最期を遂げるだろうと予想している。

* * *

掲示板でも引用されていたが、唐沢は記事「最期で分かる男の価値-いかに地上を去るべきか- 」の中で、このようなことを述べていた、「われわれは思索によって生きるのではない、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる。その言葉こそが究極の存在であり、いのちの実体なのだ。で、唐突だが、男の死に方。」

この冒頭を読んだだけで、クリスチャンには、何かがおかしい、ということが分かるだろう。「いのちの実体」を語っているはずが、唐突に「死」へ話が結びつけられる。しかも、その間に、復活がない。そもそも、復活という概念が、一度も出て来ないまま、生と死とが結び付けられるだけで話が終わっているのである。

このような世界観を、グノーシス主義的な対極の概念の融合という。「あらゆる対極性を一つのものにしてしまう巨大な輪」なるウロボロスの輪というシンボルに象徴される、初めも終わりもない永遠の循環の概念である。

この循環の概念については、過去に三島由紀夫の映画の分析記事(「神に疎外された者たちによる神への復讐の哲学としてのグノーシス主義ー映画"MISHIMA"から⑤」)などで詳しく記した。

実際、唐沢が述べているものが、グノーシス主義的世界観であることは、「生と死の間は浮世狂言、脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。まともに思索したところで空理空論の無限ループ。」という記事冒頭の言葉からも分かる。
 
つまり、唐沢から見れば、世界のすべては存在しないも同然の無であり、生も死も結局は存在しない無限ループでしかなく、本質的に同一だというのである。

そして、唐沢はローマ帝国時代の殉教者たちを、神への愛のゆえに命を投げ出しても信仰の証を守り通した勇敢な信仰の先人たちとは見ずに、むしろ、殉教に死の美学としての肉体の完成を見いだそうとする。

「ローマ時代のようにライオンと戦って殉教するような華々しい場面はないとは思うが、【その時】、ブヨブヨの肉体を晒さないために、これまで鍛えてきた。葉隠にいわく、武士道とは死ぬことと見つけたり・・・。主も言われる-わたしのために魂を捨てる者はそれを得る。得ようとすれば失い、失えば得るのだから。-Jesus」

しかし、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠の言葉が、決してキリスト教とは両立しない、むしろ、正反対の大変、危険なものの考え方であることは、記事「肉のものと霊とのものを区別する必要性~キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑤~」などで再三再四、指摘して来た。

戦前・戦中の国家神道においても、天皇の御ために身命を捧げることは<略>、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。などと説かれ、天皇のために死を遂げることが、「真生命の発揚」などという言葉でごまかされ、生と死とが、まるで根本的に同一であるかのように、一つの概念へと結びつけられていたのである。

こうして、対極の概念を融合する考え方は、東洋思想の基本である。そして、東洋思想は、本来的にグノーシス主義と同じであることも述べて来たのであって、これは絶対にキリスト教と混じり合うことのない異質な思想である。

というよりも、東洋思想は、それ自体が、キリスト教の「対極にあるもの」であって、キリスト教と己を合体させることで、キリスト教を堕落させることを真の目的としている教えだと言って差し支えない。
 
唐沢はまんまとその罠にはまり、キリスト教と武士道の精神をごちゃまぜにしている上、最近は、禅までも融合したらしい。一体、いくつの非聖書的な思想を無分別に取り込めば気が済むのか、唐沢の信仰は、もはやキリスト教からは遠く遠くかけ慣れた、異端のデパートのようになっている。
 
東洋思想には、復活という概念がない。死を打ち破ることのできる力は、その世界にはどこを探しても、存在しない。そこでは、物質的なものが、本質的なものとされ、一切が究極的には無である、とされる。つまり、唐沢の言葉で言えば、何もかもが「脳内の電気と化学物質の生み出すマトリックス。」という結論に至り着くのである。むろん、人間もである。

従って、本来的に無であるものが、どういう扱いを受けようと、損失も、痛みも、発生するはずはなく、また、見えている有様は、本来的なものでなく、無こそが本来的な姿であるとされるので、この世界観にとらわれた人は、己の無なる本質を証明するために、生きているうちから、死を目指すことになる。
 
唐沢は、かつては十字架における死と復活を頻繁に語っていた。しかし、それも借り物の教義に過ぎなかったのか、今やあからさまに肉の思いは死であり、」(ローマ8:6)との御言葉が示す通り、生を語っているようでありながら、あからさまに死を語るようになっている。

苦痛を避けて、美しい人生の終わりを迎えたいなどと書いているが、彼の信奉する三島由紀夫の終わりも、ウォッチマン・ニーの終わりも、決してそんなものではなかった。

筆者は、唐沢のこうした思想を見るにつけても、彼とKFCは決して平穏な終わりを迎えないことを心から確信せざるを得ない。
 
唯物論とは、見えるものと、見えないものの秩序を逆転させて、見えるもの(物質)を見えないもの(神の御言葉)よりも重視し、神の神殿たる人間を、神ご自身以上に高く掲げる聖書に対する反逆の思想である。

それは男と女との秩序をも覆し、人自身における霊魂と肉体の秩序をも転覆し、肉体を魂や霊以上に重視し、最終的に、人間を自己破壊へと至らせる。肉体を重んじる、と言いながらも、最後は己の肉体の破壊で幕を閉じる思想である。これは決して変えられない法則性であり、数多くの人たちがこの思想の虜となって、非業の死を遂げて来た。だからこそ、それは死の美学を形成するのである。

自分たちはエロヒムだ!と豪語する唐沢は、自分たちを神々だと称して、諸教会に君臨し、教会を「ニッポンキリスト教界」と呼んで、盛んに侮蔑・罵倒することで、エクレシアを蹂躙・冒涜している。そして、自分に刃向って来た信者や、自分のもとを去った信者を呪い、断罪し、罵倒している。

だが、そうすることで、結局のところ、唐沢は、神の神殿として造られた宮である自分自身を否定・蹂躙・冒涜しているのである。

キリスト教徒の殉教は、決して肉体美の誇示のためではない。にも関わらず、唐沢は、これを信仰の完成としてではなく、肉体の完成であるかのように受けとる。そして、殉教者たちが、神を愛するがゆえに、命がけで信仰を証したのではなく、自分の肉体美を保存するために死へ赴いたかのようにとらえる。そして、自分の肉体を老いさらばえる前に保存するために、その死にならいたいと憧れている。ものの考え方としては、三島と同じである。

唐沢の考え方には、ただ見える世界だけがあって、見えない世界は存在しない。
 
だからこそ、筆者は余計に、唐沢がいかに「脳内空転的に三島のように腹を切るのもグロ。今回の西部氏の老人性鬱病と間違われるような最期もね。要するにキレイに逝きたいと思うのだ。」などと言っていても、彼の生涯の終わりは、非常に象徴的な自己破壊となり、苦痛を免れられないであろうと思うのだ。村上の愛読書がフィリップ・ヤンシーの『苦痛』であって、そこには次から次へと激痛に呻く人々が登場して来ることも、よく似ている気がする。

唐沢は、死は肉体の完成であるとして、「死の美学」を語りながら、己の肉体を破壊する方法を絶えず思いめぐらしているようにしか、筆者には見えない。死のカタログのページをめくって、どのような死に様が自分にとって良いかを絶えず思いめぐらし、絶えず死に憧れて、生を語りながら、死へと至り着かずにいられない唐沢の中に、すでに彼の最期が明白に表れていると思うのだ。

しかし、私たちは断じて、このような唯物論的「死の美学」を信奉する者ではない。

「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。」(ローマ8:6)
「義人は信仰によって生きる。」(ヘブル10:38)
もし、わたしたちがキリストと一体となってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。<略>わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(ローマ6:5-8)
 
私たちは、キリストと共に十字架で死んで、彼と共によみがえった者として、すでに死の脅威からは解き放たれている。とはいえ、日々、自分の十字架を負って、主の霊的死を身に帯びるからこそ、そこによみがえりの命が働き、私たちは生きる。

そういう意味では、私たちに霊的死は必要であるが、それはあくまで霊的死であって、肉体的死を目指すものではない。だから、筆者は、自分がどのように死ねば、満足を得られるのか、と、死に様を思いめぐらすようなことはない。むしろ、生きている間に、何を成し遂げれば、御心の満足になるのか、と思いめぐらし、時間を惜しんで、御国の前進のために働いている。

筆者は、キリストと共なる古き人に死んで、もはや自己満足のために生きているのではなく、筆者のために死んでよみがえって下さった方のために生きているのであるから、束の間に過ぎない地上における自分の美を保存するために、まるで自分を冷凍保存するように、死というガラスケースの中に閉じ込めようなどとは間違っても思わない。

いずれにしても、キリスト教を罪に定め、神を信じる敬虔な信者たちを「精神異常者」呼ばわりし、信仰を侮蔑し、教会を冒涜するこれらの牧師たちは、自画自賛し、信者たちを病人呼ばわりした舌の根も乾かないうちに、自分たちは、率先して、病どころか、激痛や、死を慕い求めながら、罪に罪を重ね、破滅へ向かっているのである。
 
 
<続く>

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さて、本来ならば、筆者は「休養」していると言いたいところだが、 山のような仕事に追われ、突貫作業中だ。どれもこれも投げ出すわけにいかない重要な仕事だ。主がどのようにこれを達成させて下さるのか、信仰によって期待するのみ・・・。
 
さて、村上密に告げる。唐沢治とは早急に手を切り、杉本徳久が賠償金を支払えるよう、無利子・無期限でお金を貸してあげなさい。
 
京都教会は重大な危機を迎えている。長澤牧師もいなくなり、次には必ず、村上密も失うことになる。この教会は、やがて壊滅的な打撃を受ける。唐沢になど関わっていれば、存続さえできなくなるだろう。悪いことは言わない、今のうちに筆者の忠告を聞き入れなさい。

杉本徳久という人物は、今やフィクションのように消えかかっている。彼はすでに商工会議所も脱退しており、東京銀杏会の正会員でもないことが分かった。未だブログには偽情報が掲載されたままだが、どこからどこまでがフィクションで、何が実体なのかも分からない。 


 
このまま行くと、杉本という存在そのものが、当ブログに飲み込まれて伝説として消えるだろう。警察も、杉本には支払い能力がないとみている。筆者の目から見れば、杉本は村上のためにすべてをやった。
 
だから、村上が彼に賠償金を貸与してやり、杉本が府中支局でこれを供託しなさい。

村上が手を貸してやれば、筆者に対しても、少しくらいは良い仕事を果たしたことになろう。手続き方法を確認しておいた。ただし、本人でも確認されたい。

筆者の考えをメルヘン小説のごとく善意に期待していると嘲笑うのは勝手だが、今、ほんのわずかでも良いことをすれば、神はあなた方が苦難を受ける日に、もしかすると、それを覚えておいて下さることがあるかも知れない。

取り調べに当たっても、社会的責任は負うつもりがあるという恰好くらいはつけることができるだろう。
    
* * *

さて、筆者は、少し前に村上密の推薦図書を通して、村上の神観がどのようなものであるかを分析しようと、フィリップ・ヤンシーの二冊の著書を取り寄せた。
 
 

だが、グノーシス主義の文献を分析する時とは違い、これらの書物は、あまりにも不健全なほどに痛み苦しみにこだわっているため、読んでいるだけでめまいがし、読了できそうにもなかった。
 
ただ一つ極めて印象に残った話がある。それは、この書物の中で、ハンセン病患者のことが取り上げられていたことだ。ハンセン病者の体に変形が起きるのは、断じて潰瘍などのせいではなく、痛みの感覚がなくなることが原因だと記されていた。

つまり、ハンセン病患者は、痛みの感覚がなくなるがゆえに、自分の体を自分で防御することができなくなり、体に対する過酷な扱いをした結果、体の正常なかたちをどんどん失って行くというのである。
 
この書物は、そうした話から始まり、痛みの感覚が、人の自己防御のためにはどんなに有益なものであって、必要不可欠かという結論に読者を導きたいようであった。そして、次から次へと不幸な事故で重度の障害を負った人々や、激痛に苦しんでいる人の例を引き合いに出して来るのである。

だが、筆者は、人間の苦痛をあまりにもクローズアップしすぎているこの書物の内容に、同意することはできそうにもない。危険を告げ知らせるための信号として、痛みの感覚は必要かつ有益である。だが、絶え間のない苦痛と不自由に苦しめられる状態は、痛みのないハンセン病患者の生活の危険とは種類は違えど、それもやはり、「人のかたち」を脅かし、歪め、失わせる脅威であることは間違いない・・・。

そういう意味で、苦痛という人間の感覚を通して、神を探り究めようとするこの書物には、筆者は著しい違和感を覚える。痛み苦しみに勇敢に立ち向かっている人がいるという例話にはなっても、この書物を通して、神を知ることは難しいものと思う。しかも、同書にはほんのわずかしか、聖書の御言葉が登場もしない。

だが、筆者は、なぜ村上が、そこまで苦痛にこだわるのか、その理由を知りたいと考えて、この本を手に取った。なぜ彼らが被害者に心惹かれ、なぜ可哀想な人々を次から次へと引っ張って来ては、相談に乗り、絶え間なく彼らのためにという口実で、紛争を起こして来たのか、その理由を知りたいと思った。

なぜそんなにも苦痛が彼を引きつけるのか? その苦痛の根源にあるものは何か・・・。

とはいえ、そうした分析を行おうとしていた矢先、村上が唐沢治の陳述書を投稿した。これはまさに村上密という人物の終焉となるにふさわしい記事である。だから、村上の思想分析の仕事はおあずけだ。控訴審で名誉毀損等々の権利侵害を訴えるための理由書の作成をせねばならない。
 
ちなみに、レビ人の剣を取って、これを兄弟と呼ばれた人々に向けなければならないのは、筆者自身にとっても、つらい仕事である。

しかし、最後までその仕事は貫徹せねばならない。だから、筆者の休養はまだまだ先のことである。だが、一つだけ言えることがある。この責任の重い仕事を果たすまで、筆者はその責任から決して逃げはしないと。

筆者の休養のことなどに配慮してくれるなら、お返しに告げよう。あなたたちこそ、人間の死んだわざをやめて休みなさい。地上の働きを失っても、魂を失わないでいられるなら、その方が良い。神は何人の死も喜ばれない。だから、すべてのとがを離れ、心を翻して生きなさい。

もしかしたら、まだ悔い改めの余地が残っているかも知れない。筆者はそのために最後の呼びかけを行う。悪しき死んだわざを離れて、新しい心と新しい霊を受け、翻って生きなさいと。
 
「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

* * *

さて、人はあまりにも長く苦しみ過ぎると、痛みに慣らされ、もはや苦痛を感じても、苦痛と思わないほど、痛みのセンサーが鈍磨してしまうということは、健康な人にも起きうる現象だ。

ハンセン病者は、痛みが分からなくなると、自分の体を過酷に扱い、どんどんすり減らして行ってしまう。

だが、キリストの体なるエクレシアの場合、どうなるだろうか?

体のある部分が病むと、他の部分が共に呻き、苦しむことで、互いに助け合い、命を分け合って、かばい合い、一つの体を支え、守るのである。どの部分もすり減らされて、体から切り離されたりすることがないよう、体のかたちを守るのである。

筆者は昨年の年明けごろから、当ブログを巡って起きた紛争と真正面から向き合い、解決を得るために、あらゆる犠牲を払って戦い抜くことを決意した。

しかし、訴訟を起こすに先立ち、多分、その意味を理解してくれる人は誰もいないだろうと、筆者は思った。多くの反対を受け、憎まれ、孤立することをも覚悟せねばならないだろうと。

だが、たとえ全世界がこの戦いの意味を全く理解しなかったとしても、筆者は信じている結果が出るまで、一人で戦い抜こうと覚悟を決めた。生きているうちに、理解を得られずとも構わない。ただお一人、真実なる神の目に義と認められればそれで良いではないか。

「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる」
と書いてあるとおりです。」(ローマ3:4)

そこで、筆者は、ただ神の正しい裁きを得るためにに、自分を投げ捨てよう、と覚悟を決めた。何もしなくとも、圧迫から逃れられるわけではないのだ。それならば、とことん向き合い、決着が着くまで、真実が何かを争おう。そうして、自分を振り返らずに進んで来た。

だが、訴えを提起すると、不思議な現象が起きた。筆者の心の内面にあったものが、徐々に外に持ち出され、他の人々に分かち合われるようになり、筆者にとてもよく似た、まるで筆者の分身のような人たちが、筆者に代わって、筆者の内面を表現するようになったのである。

筆者は彼らを見ているうちに、自分がどれほど巨大な苦しみを内に抱え、押し殺して生きて来たのかが分かった。だが、不思議なことに、それを筆者に代わって他者が表現してくれた時、もはやそれは苦しみではなくなり、慰めとなり、筆者は深い感謝と尊敬の念をその人たちに感じずにいられなかったのである。

そうして、筆者の心の最も深いところにあるものを分かち合ってくれた人々は、筆者にとって、まるで自分自身も同然となった。どうしてそのような人々を、憎んだり、非難したり、敵に回すことができようか。「我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)という御言葉が思い出される。

そうだ、彼らはもはや筆者自身なのだ。

いつの間にやら、そういう筆者自身のような人たちが、二人、三人と増えて行き、数えきれないほどまでに拡大した。
 
一体、どういうわけで、そういうことが起きたのか知らないが、全世界の人々の理解を置き去りにしてでも良いから、ただ一人、真実なる神の裁きを求めようと思った筆者には、いつの間にか、全世界の人々が、まるで自分自身のような存在として、取り戻されつつある・・・。

そして、この人々を自分自身のように思えばこそ、彼らをいつまでも苦しみの只中に留め置きたくはないのである。ただ筆者の内面を分かち合ってもらったというだけで、満足して終わりたくはない。皆で協力して敵の圧迫に立ち向かい、すべての分裂・敵対・争いを毅然と退け、互いを守り合い、いたわり合う関係を取り戻し、自由に至り着かねばならない。

聖書には、キリストのからだなる教会について、次のくだりがある。

「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」(一コリント12:12-27)
 
ここで言及されている「苦しみ」とは、決して体の一部としての自分が、ただ自分だけを守るための自己防御のセンサーではない。

それはむしろ、互いに労り合い、共感し合い、助け合うためにこそ生まれる感覚である。

キリストの御身体には、ハンセン病者が痛みの感覚を失って、自分自身の体を過酷に扱い、体をすり減らして失って行くようなことは、起きない。なぜなら、体に危機が迫っているときに、一つの部位が痛みを感じなくなっても、他の部位がそれを感じ、体全体が、最も弱い部分が感じている痛みを、全体で共有するからである。

だが、痛みを共有するとは、決して、体全体が絶えず激痛にさいなまれ、活動もできなくなるということを意味しない。その苦しみは、全体で共有されることにより、慰めに変わる。

弱い部分が苦しめば、強い部分が、それをいたわり、弱い部分に集中してエネルギーを注ぎ込む。すると、弱さは強さで覆われ、痛みの原因が取り除かれて、苦痛が解消して行くのである。

筆者の訴えが世間に持ち出されたとき、筆者は自分より少しばかり強い人たちに、重荷を分かち合ってもらった。それによって、筆者の荷が軽くなったので、心に余裕が生まれ、その代わりに、筆者も他の人々をかばうことができるようになった。

強い者が弱い者をかばうように、時には、弱い者が強い者をかばうこともできる。

信仰を持たない人々の間でさえ、こうして重荷を担い合うことができるのであるから、キリストの御身体は、確実にそのような連帯を行うに足るのであって、それこそが、エクレシアの機能なのである。

こうしたことが分かった時、筆者はなぜキリストが十字架につけられた時、父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのか、なぜステパノが群衆からの石打ちに遭って殉教する直前にも、ひざまずいて、主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と叫んだのか、幾分か、理解できた気がした。

筆者は、自分自身のような誰かを、もはや一人として、敵に渡したくないのだ。人々が心傷ついて、失意に落ち込み、自分はプライドを傷つけられたという屈辱の思いから抜け出せなくなり、生涯、争いと、憎しみと、敵意の中に身を投じるところをもう見たくない。

聖書の神は、誰一人、滅びに至らせることなく、すべての人を救いに導き、そして、すべての人に、ご自分の友として御心を分かち合って欲しいと願っておられる。だから、我々はそのためにこそ、罪人らの反抗を耐え忍ばなければならない。

クリスチャンが擦り切れるほど暗唱しているあの聖句がそのことをよく物語っている。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。

<略>悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:16-21)

自分自身のような誰か。自分の半身のような誰か。その誰かを、憎しみと敵意と怒りに引き渡し、生涯、争いの中に生きる地獄の業火に渡し、ついにはレビ人の剣で自らその者を敵として刺し通さねばならないような事態にはなりたくない。

だが、多分、筆者がそう思っている以上に、神はその人を惜しんでおられるはずである。

創世記にはこうある、「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」 」(創世記2:18)。そうして、神は人(男)のために、助け手として女を創造された。

だが、これはいわば、神の独り言であって、本当は、ここで言及されているのは、人間の男女のペアのことよりも、霊的な文脈における、神(キリスト)と人類(エクレシア)との関係なのだ。

つまり、神はご自分の助け手となるべく、人を創造されたのである。神は強い方であって、人間の助けなど必要としておられず、ただお一人で、栄光に満ちた存在として、何の不足もなかったはずであるにも関わらず、「独りでいるのは良くない」として、人を創造されたのである。

そうして神は、人をご自分よりも少し弱い存在として、助け手として創造された。詩編にはこうある、

「人の子は何ものなのでしょう。
 あなたが顧みてくださるとは。
 神に僅かに劣るものとして人を造り
 なお、栄光と威光を冠としていただかせ
 御手によって造られたものをすべて治めるように
 その足もとに置かれました。
 羊も牛も、野の獣も
 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。」(詩編8:5-9)

ダビデは驚きに満ちて言う、神よ、あなたはどうして人を創造されたのですか、と。強い者は、弱い者の助けなど必要としないはずで、強さこそ、栄光と威光の源であるはずで、弱さの中には、栄光も威光もなく、見劣りのする要素しかないはずではないか。

それなのに、なぜ神は人に栄光と威光を冠として抱かせ、御手によって造られた万物を統べ治めるという栄光ある仕事を任せられたのか。なぜ弱い人をかえりみ、懇ろに世話をし、ご自分の助け手として立たせられたのか・・・。

この詩編の箇所は、以上に挙げたキリストの体なる教会を指した聖書箇所とも響き合う。
神に僅かに劣るものとして人を造り なお、栄光と威光を冠としていただかせ・・・
神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて・・・
体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです
それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。


お気づきだろうか、キリストの体としての教会の一体性について言及されている聖書箇所の中には、神と人との関係も表現されているのである。強い者が弱い者をいたわり、見栄えのする部分が見劣りのする部分を引き立たせ、他よりも弱く、不必要に見える部分がかえって必要となり、各部分が互いに配慮し合って、喜びと悲しみを共有し、一体性としての体のかたちを保っている・・・。

これはまさにキリストとエクレシアの配偶の関係を表現したものなのである。

我が身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。 」(エペソ5:29)との御言葉にも、キリストと教会の愛の関係が表されている。

つまり、神は誰からも支えられたり、助けられたりする必要のない強い方であるはずなのに、見劣りのする、見栄えのしない、必要とも思われないような弱い人間を召し出され、人の弱さをご自分の強さで覆い、人の見劣りのする部分をご自分の栄光と威光で覆われ、人がご自分と同じ思いを分かち合って、すべてのものを治めることができるよう、使命を与えられたのである。

神の強さとは、そのようにへりくだった強さであるからこそ、そして、キリストが十字架の死に至るまでも砕かれ、へりくだって、身をもって弱さを知って下さったからこそ、神の強さは、人の弱さを覆い、その命は、多くの弱い者たちを生かし、力づけ、立ち上がらせることができるのである。

それは自己充足のための強さではなく、他者をいたわり、かばうための強さである。

「そこで、あなたがたにいくらかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ重いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)

キリストが神でありながら、御自分の栄光あるかたちを捨てて、むなしい人間と同じ姿になられたこともまた、「見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。」という個所と響き合っている。

神は栄光ある方なのに、その栄光を、ご自分のために保存するのではなく、かえって、ご自分よりも弱く、卑しい者に、その栄光を分かち与えるために、命を投げ出されたのである。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。

「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」とは、人間のことである。そのようなものが、賞賛に値するだろうか? 誰が恰好が悪く、見苦しく、見劣りのするものに注意を払うのか?

ところが、神は人を弱さと惨めさと孤独の中に打ち捨てては置かれず、弱い人間を「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」するために、ご自分の聖なる性質を、信じる者一人一人に十字架で分かち与えられたのである。

そのようにされた目的は何か。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

神と人との敵対関係が終わり、神と人とが互いに助け合い、いたわり合う関係が回復されて、健やかな時も、病める時も、共に喜び、共に苦しみ、互いを尊ぶという、配偶の関係が回復されるためである。

神は人の創造の初めから、人をご自分の友として、すべての御思いを人に分かち合ってもらいたいと願われ、そのために人を造られたのである。

そんなことが本当にあるのかと問われるだろう。神と人とでは、あまりにも何もかも違いすぎるではないか。どうしてそこに理解が成り立ちうるのか。まして、友だとか、パートナーシップなどが成立しうるのかと。

もう一度、創世記に戻ろう。神は人を創造されるとき、ご自分のかたちに似せて創造されたとある。

「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 」(創世記1:26-27)

ご自分のかたちに似せて、とはどういうことだろうか。

まさか人(アダム)を塵から造られ、息を吹きかけられたということだけを意味するわけではあるまい。(塵は死を象徴するものであり、アダムが最初に神から吹き込まれた霊は、永遠の命ではなかったのである。)

創世記第2章27節には「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 」とある。

実は、ここには書かれていない、隠れた飛躍した文脈がある。それは、神がご自分にかたどって人を創造されたプロセスは、神が男と女とを創造されたプロセスに類似しているという点である。

前にも引用したが、もう一度、男から女が造られたプロセスを振り返ろう。

「主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、 人は言った。
「ついに、これこそ
 わたしの骨の骨
 わたしの肉の肉。
 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
 まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。 」(創世記2:21-24)

これはキリストと教会の関係を暗示している。このことは霊的文脈において解釈する必要がる。

キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、3日目によみがえられた。十字架につけられたとき、彼はわき腹を刺され、そこから血と水が流れ出した。

そうして、キリストの死と復活にあずかり、彼のわき腹から、そのよみがえりの命と、血潮と、水(バプテスマ)を経由して生まれて来たのが、聖なるエバ、すなわち、キリストの花嫁なる教会なのである。

つまり、最初のアダムは、予表であり、次に来るアダムが正真正銘の人であり、最初のアダムとエバの創造は予表であり、キリストとエクレシアの誕生こそ、真の意味での男女の誕生なのである。

だからこそ、キリストは聖書において、第二のアダム(最後のアダム)と呼ばれている。

「「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。」(1コリント15:45-49)

つまり、創世記において、神がご自分のかたちに似せて人を造られた、と言われるプロセスの中には、キリストの十字架を通してエクレシアが生まれたプロセスが、ある種の飛躍的な暗示によって、重ね合わされている。

そして、アダムとエバの創造よりも、後に来るもの(キリストとエクレシアの誕生)という隠れたプロットの方が、実は本物なのである。

神がアダム(男)に「命の息」を吹き入れられたことにより、アダムが「生きる者」となったように、アダム(男)から造られたエバ(女)も、神が人に命を与えられた関係と類似して、アダムに吹き込まれた命を受け継ぐ者となった。

「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。 」(創世記3:20

しかし、エバが命名されたこのくだりは、アダムとエバの二人が神に背いて堕落した出来事の直後に記されている。従って、このことを見ても、この命は非常に不完全なものだったことが分かる。
 
まず、アダムが神からもらった命は、神の非受造の命ではなく、永遠性のない、天然の動物的命に過ぎない、不完全な命(魂の命)であった。
 
次に、エバは、アダムが堕落して、人類が死を免れられなくなった後で、堕落したアダムの命を受け継いで、「すべての命あるものの母」となったわけであるから、エバの持っていた命は、アダムが堕落以前に神から与えられた命よりも、もっと不完全で、劣った命であったと言うことができよう。

(おそらく、アダムとエバが創造された当初、彼らには罪がなく、死も予定されていなかったので、二人には、自分たちが死ぬ代わりに、子孫を残すことによって、命を次世代につなげるという使命もなかったものと見られる。そうした役割が付与されたのは、明らかに二人が堕落して死を免れられなくなってからのことではないかと考えられる。)

だが、第二のアダムであるキリストの命は、十字架で死を打ち破り、よみがえられた神の霊なる命であるので、これはもはやいかなる堕落に脅かされることもない、永遠性を持つものである。その聖なるよみがえりの命を、キリストは十字架においてエクレシア(教会)に付与されたのである。

そして、私たち信じる者は、地上の生まれとしては、堕落した人間の一人として、朽ちゆく「アダムの似姿」として生まれたが、信仰によって、やがて栄光あるキリストの似姿になることが約束されている。

「わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

こうして、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、神の聖なる性質にあずかり、キリストと共に万物をその足の下に治め、「栄光と威光を冠としていただかせ 御手によって造られたものをすべて治めるように その足もとに置かれました。」という御言葉が実現する時が来る。

もはや私たちの「母」は、朽ちゆくアダムの命を継承するエバではない。

「このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。」(ガラテヤ4:25-26)

前にも説明した通り、ハガルとは、アダムの堕落した命を受け継ぐエバと同じであって、堕落した人全体の総称である。シナイ山とは、律法を指す。

エバの命は、律法によって死に定められ、罪と死の奴隷として生きることしかできない、朽ちゆく堕落した卑しい命であったが、キリストのわき腹から生まれたエクレシア(天のエルサレム)は、キリストの死と復活にあずかり、罪と死の法則から自由にされた、聖なる永遠の命によって生かされている。

私たちはキリストを経由して、この新しい母(教会―エクレシア)に属する、キリストに属する新しい人類とされたのである。

「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやその類のものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。」(エフェソ5:25-27)

こうして、キリストの体なる教会は、すべての堕落から清められ、もはやその痕跡さえも残らない、完全に聖なるものとして贖われる日が来るのである。

パウロはエペソ書でそのまま続ける。

「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ人は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、我が身を養い、いたわるのです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。」(エフェソ5:28-32)

だが、おかしなことである。ここで語られているのは、夫婦がどのように互いを愛し、いたわり、尊重すべきかという話なのか、それとも、キリストがどのように教会を愛されたかという話なのか、それとも、キリストの体なる教会に属する一人一人の信者(兄弟姉妹)たちがどのように互いをいたわり、愛を示すべかということなのか、この文脈からは分からない。

いや、分からないのではなく、この文脈にはそのすべてが込められている。

つまり、キリストの体なる教会は、キリストが教会を愛して命を捧げられたように、体の一部である互いの信者を愛し、尊重しなければならないということが示されているのである。その愛は、当然ながら、地上の夫婦にも適用されなければならないが、ここで言われているのは、それ以上の事柄であり、夫が妻を自分自身のように愛するように、キリストの体なる教会は、それぞれ体の一部である一人一人の信者が、互いにねぎらい、いたわり、尊重する関係になければならない、ということが言われているのである。

それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この御言葉に込められているのも、私たちが、堕落したアダムとエバを父母とする地上の朽ちゆく出自を離れ、キリストのわき腹から生まれた聖なる教会として、天に属する者として、「見劣りのする部分」、「ほかよりも恰好が悪いと思われる部分」、「見苦しい部分」が、「いっそう引き立たせ」られ、「恰好よくし」、「見栄えよく」されて、「天に属するその人の似姿にもなる」、すなわち、いつか贖いが完成して、キリストの栄光ある似姿にまで変えられるプロセスのことを指しているのである。

堕落のために、人に当初、予定されていた栄光ある神のかたちは失われた。痛みの感覚がなくなり、自分で自分の体をとことん傷つけても気づかないハンセン病者と同様に、罪のゆえに、自己を防御することさえできなくなって、互いに憎み合い、争い、互いを傷つけ始めた人類からは、正常な「かたち」がどんどん失われて行った。生まれながらの人類の姿には何ら、人が神の栄光あるかたちに創造されたという痕跡はない。

しかし、そのように滅びに向かっている人類を救うべく、神が人の卑しい「かたち」を取られて、地上に来られた。神が神の栄光ある「かたち」を捨てて、むなしく、卑しい人の姿を取って地上に来られたのである。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

そうして、キリストが全人類の代表として、人のすべての痛み苦しみを担って、十字架の死に赴かれ、よみがえられたからこそ、彼を信じる人は、みな彼と同じ死を経て、よみがえりの命にあずかり、創造された当初の目的を取り戻し、いや、当初の予定を超えて、「栄光ある神のかたち」、すなわち、キリストの似姿とされるのである。
 
キリストは十字架において、人々に憎まれ、弟子たちに裏切られ、父なる神に見捨てられ、ただ一人でその死を負われたが、それでも、不思議なことに、最後までただ一人で十字架を負われたわけではなく、ほんのわずかではあるが、そこに人の関与もあるのだ。
 
「人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。」(ルカ23:26)

ここに神の「助け手」としての人類が、ほんの一瞬だけだが、イエスを見捨て、裏切る側の登場人物としてでなく、姿を見せている。十字架の贖いは、もちろん、神の側からの一方的な恵みであって、人類の自己努力による達成ではない。それは神の側から一方的に提供された贖いであって、そこに、一切、人類の手柄の入り込む余地はない。

それでも、その十字架の御業の達成の中にさえ、神はこうして不思議な形で、取るに足りない人類を参与させていたのである。

ここにも、神がご自分の喜びと悲しみ、嘆きや苦しみのすべてを、人類に友として分かち合ってもらいたいという願いが、反映しているのではないだろうか?

むろん、今日も、神は信じる者に、少しばかり、ご自分の苦しみを分かち合ってもらいたいと願っておられる。

「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。」(フィリピ1:29-30)

そう、イエスが十字架にかかられてから、少しばかり時間は経過したが、私たちは後に続く者として、彼が経験されたのと同じ戦いを戦っているのである。

もちろん、勝利はすでにカルバリで取られた。とはいえ、私たちは今日も、サタンのわざを打ち壊して後退させ、より多くの人々の魂を獲得して救いへ導くために、イエスにならって、日々、十字架の死に服し、キリストのために苦しむことが、恵みとして与えられている。

神はそうしてご自分のために、信じる人々が、喜びだけでなく、悲しみも、痛みも、苦しみも、すべての御思いを友として分かち合うことを望んでおられ、人々が御名のために耐えた労苦のことを決して忘れられることはない。

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正し者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:40-42)

このように、神の強さとは、その強さを自己のためだけに使い、自分の強さに固執して、これを手放すことを嫌がり、その強さによって弱い者を圧倒し、弱い者を高みから見下ろして、勝ち誇るような強さではない。

むしろ、キリストはご自分が強いからこそ、徹底してへりくだり、弱い者を生かすために、死に至るまでの従順によって、父なる神への愛を人々に示されたのである。それだからこそ、夫は妻に対し、信者は信者に対し、自分が強いからと言って、その強さによって、弱い者を脅かすことなく、かえってキリストがそうされたのと同じ愛で、いたわり合い、慰め合い、補い合い、いたんだ部分をかばい、弱さを強さで覆い、互いを尊重し、仕え合い、互いを自分自身のように愛するようにと教えられたのである。

ステパノが殉教に際しても、喜びに満ちていたのは、そのようにして、自分を無にしてへりくだることこそ、他の人々を救うための鍵であることを知っていたからである。

彼は知っていたのである、自己を捨てること、それだけがキリストと同労する道であること。もしもキリストへの愛のゆえに、人々に誤解され、離反されて苦しむならば、そこには必ず深い慰めが伴うこと、必ず、それには報いがあって、損失は損失に終わらないこと、彼自身は、葬られても、他の人々がそれによって必ず命を得ることを――。

誰よりも主イエスこそ、その秘訣を知っておられた。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしのいる者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」(ヨハネ12:24-26)

イエスは、神の栄光を捨てて人の姿となられ、ただ一人十字架に向かわれる時にも、ご自分の耐えておられることが、単なる損失に終わらず、その霊的死の中に、復活の命が働いて、多くの人たちに命が分け与えられる結果となることを予め知っておられた。それはイザヤ書に次のように預言されている通りである。

「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。
主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように
この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく
輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。

苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる小羊のように
毛を刈る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。

捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
命ある者の地から断たれたことを。

彼は不法を働かず
その口に偽りもなかったのに
その墓は神に逆らう者と共にされ
富める者と共に葬られた。

病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ
彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。

彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。

それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。」 (イザヤ53:11-12)
 
 * * *

<続く>



「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」(ヤコブ4:7)

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放して下さいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(Ⅱテモテ1:7)

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

「隠れているもので、あらわにならぬものはなく、秘密にされているもので、知られず、また現れないものはありません。」(ルカ8:17)

 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)


 「このように、あなたがたも、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、 三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」(出エジプト20:5-6)

* * *

虚偽告訴罪(刑事告訴・告発支援センター)

「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役に処する(刑法第172条)。 」

最新の記事で「霊的優位性」について書いたのは偶然ではなかったものと思う。

村上密が本日、ブログ記事で筆者を告訴したと発表している。この一報を最初に報じたのは掲示板であった。仮処分の申し立てを作成していなければ、気づかなかったかも知れないが、タイムリーに投稿があったので、リアルタイムに知ることが出来た。

 
*ちなみに、村上密はこの記事を投稿してすぐ削除した模様。
 悪ふざけなのか、本気で魔女狩り裁判を開始して、これから
 クリスチャンに有罪宣告を下したいという悲願を語ったものか、
 筆者には真意が完全に不明。

 控訴審できちんと釈明していただきましょうね・・・。
 もはやオーウェルのディストピアと化している宗教トラブル相談センター。
 人格権侵害と合わせれば、あまりにも重大な名誉毀損に該当するこの記事、
 信徒相手に、
普通に考えて、牧師としてヤバすぎでしょう・・・!?
 事実ならば、むろん、こちらも虚偽告訴罪で対抗するのみですが。


こうしてテレスクリーンに「ビオロンは人民の敵」との見出しが躍り、かの全体主義国では、筆者はゴールドスタインさながらの扱いを受けている。そこはすべてが鏡のようにさかさまに映っている。罪人が聖人に、聖人が罪人に置き換えられる・・・。

本日、筆者は、先にチェックをお願いしていた告訴状を、明日受理してもらうことで警察と合意していた。先週から人格権侵害の記事については、警察へ資料を提出、最終チェックと校正をお願いしていたが、明日には受理されると聞かされた。

従って、この情報が事実ならば、村上は筆者に先手を打とうとしたことになろう。

村上の告訴事実が何から成っているのかは知らないが、村上の記事内容から判断すると、村上は、筆者が訴訟において、村上と杉本から「反訴の脅しを受けた」と記していることが、名誉棄損に相当するという主張も含めているらしい。

しかし、村上が杉本と一緒に第一審において、筆者が彼らの提示する和解条件を飲まなければ、反訴すると筆者に主張したことは、まぎれもない事実である。そのことは、村上自身が、前掲記事で、「彼女は、裁判の中で私が反訴を口にすると、「反訴の脅しをかけた」と4月13日の記事に書いている」と書いている通りである。

そこで、村上の主張は、筆者にとっては、まさに「唐沢治から密室で呪いの予言を受けた」と主張したKFCの元信徒を彷彿とさせるものである。

筆者は当初、KFCの元信徒は、杉本のブログでありもしない虚偽の事実を主張したのだと考えていたが、後になって考えを翻したと書いた。従って、もしも筆者のその予測が的中しているならば、この信徒は、虚偽告訴罪を主張できたはずだということも、繰り返し書いて来た。

それは、虚偽の告訴に対しては、毅然と立ち向かい、その罪を相手にお返しすべきだという筆者の信念を述べたものである。
 
このような事情であるから、筆者は驚いてはいない。村上は筆者がこのニュースを聞けば恐れると考えたのかも知れないが、筆者自身が、告訴状が受理されて後、どういう顛末を辿るかを、実際に確かめて知っている。その上、筆者は、村上の行った権利侵害について、警察に相談を重ねて来たのである。
 
今、筆者は、4月1日にも、今回と同様のことが起きたのを思い出す。筆者は3月末日、コラム欄に、掲示板に実名を挙げながら村上密の家族に言及しているコメントがあるのを見て、こうした掲示板の投稿を整理して、村上密について書くつもりだと予告した。すると、それからわずか1時間も経たないうちに、村上は筆者の人格権を侵害する記事をブログに投稿したのである。
 
幾度も述べた通り、村上によるこの権利侵害がなければ、今回の訴訟は第一審で終わっていたはずである。筆者は、杉本徳久の記事が名誉棄損に相当することが認められただけでも、十分な成果だと考え、判決に不服を述べないために、一審で終了するつもりでいた。

ところが、神はこの紛争をここで終わらせず、第一審では出て来なかった不法行為の証拠として、村上に以上の権利侵害を犯させたのである。

村上はこの時、おそらく筆者に実名入りの記事を書かれる前に、先手を打ったつもりであったと見られるが、その焦りが、権利侵害を犯している事実を彼に見えなくさせた。筆者は、このことは、天の采配であり、この紛争を妥協せずに最後まで徹底的に戦い抜き、望む成果を勇敢に勝ち取りなさいという天の命令であると解釈した。

今回も、村上の主張を見る限り、これと同じ現象が起きているものと見られる。告訴状を提出するには、十分かつ入念なチェックが必要で、それがあったとしても、疑義や問責が生じる可能性は十分にある。

従って、自分の焦りできちんとした構成要件を満たさない告訴状を提出した場合、その不備が後になって重大な問題となって自身に跳ね返って来る可能性は大いにあると言えよう。

特に注意が必要なのは、匿名掲示板のように、誰が投稿したかも分からない投稿を告訴する場合ではなく、相手が分かっている場合である。

もしも誰かが、筆者の記述が真実であることを知りながら、これをあたかも虚偽であるかのように主張して、自分に対する名誉毀損であると主張して告訴した場合には、当然ながら、虚偽告訴罪に該当する可能性が出て来る。
 
上記した通り、虚偽告訴罪は重い罪である。従って、告訴人の言う告訴の事実に裏づけがなく、その理由に整合性が取れず、その訴えの真実性が証明できず、故意性が認められれば、いたずらに被告訴人とされた者は、告訴人に対してこの罪を主張しうる。

実を言うと、筆者は昨日まで、控訴審での戦いのポイントを思いめぐらし、かつ、明日受理される告訴状について考えながら、これではインパクトが足りないと考えていた。確かに、この告訴状には、受理される要件は整っている。そのことはお墨付きをもらっており、第二審においても、これが確かな材料となって行くであろうことは明白に予想できた。

だが、人格権侵害だけでは、いささか被害のインパクトが軽すぎる気がする。これでは起訴―有罪に持ち込む根拠とはならないだろうという予感がある。しかも、筆者の控訴状は、「未熟児のサイズ」と記した通り、昨日までの時点では、第一審で取りこぼしたわずかな記事と、人格権侵害の記事の削除および微々たる賠償を追加するだけのものでしかなかった。

むろん、手堅く事件を進めるためには、それで十分な主張なのだが、「小さく産んで、大きく育てる予定」と当初から書いていた通り、このような些末な理由で、二審を戦う結果には、きっとならないだろうという予感があった。こんな微々たる理由では、たとえ勝ってみたところで、御名を冠する戦いにふさわしい勝利と呼ぶには、いささかインパクトが小さすぎる。

そこで、今回起きたことも、やはり主の采配であると思わずにいられない。

筆者は二審について、大々的な注目を集めるつもりは全くなかった。だが、村上がこのような記事を出した以上、この戦いは、否応なしに注目を集めるものとなろうし、まさに筆者が2009年から主張して来た通り、反カルト運動の陣営による「魔女狩り裁判」の様相を帯びて来たのである。

筆者は2009年から、村上密の活動は、このような結果に至ることを幾度も予告して来た。今回のことは、その霊的法則性が成就しただけと言えよう。信者を解放するように見えて、人間の正義によって抑圧する反カルト運動の悪しき本質が、いよいよ正体を現したのである。

ところで、筆者は今回の裁判で、告訴が確かになされたという事実を客観的に証明すること自体が、かなりの苦労を伴うことを知った。

杉本は、筆者が告訴状を提出したことを否定していなかったが、あくまで事件化はされていないなどと主張していた。

村上と杉本が、一緒になって、筆者が警察を証人として呼ぼうとした行為をメールで嘲笑っていたことは、記事で記した通りだが、告訴状が受理されていることを客観的に証明するためには、確かにある種の苦労が伴うのである。

裁判官は筆者の申し出を調査嘱託に変えたが、それでも十分ではなかった。さらに、筆者はそれを補う証拠を提出したが、それでも、十分であったとは見られない。民事では、終結していない刑事事件の確かな進行状況を認定することは、およそ不可能であり、そのようなことを争点とするのも難しいのである。

そこで、結論から言えば、検察に事件が送付されて、きちんとした結末が出てもいないうちに、誰かに対する告訴の事実を名指しで公表することは、決して得策とも賢明とも言えない。そのようなことは、100%確実に勝算の見込みがある場合以外には、絶対にしてはならないと言えるほど、リスクの大きい行為だと言えよう。

筆者の事件では、今回は第一審において、はっきりと杉本による名誉毀損や侮辱の事実が認められたゆえに、刑事事件でも、ほぼ同等の結論が出ることを予想でき、それが大幅に覆ることはまずないとみなせる。それゆえ、以上のリスクは回避することができたし、筆者の論証も十分であった。
 
しかし、これがもし民事で名誉毀損が認められず、控訴審でその事実を争うとなった場合には、早まって人物を特定して刑事告訴を公表してしまった人間は、控訴審で窮地に立たされることになる。

たとえば、村上密自身が、五次元スクールから名誉毀損で告訴されたが、不起訴になったと得意げに記事に記している。そのような結果となったにも関わらず、それ以前に、早々と相手を告訴した事実を実名で発表してしまった場合、後になって、それは事実無根の主張として、重大な名誉棄損の罪に問われる可能性も出て来る。
 
しかも、ペンネームだけであれば、人権侵害には相当しないが、村上はすでにその条件を自分で破ってしまっているのである。

そこで、今回の村上の記事の発表は、筆者から見れば、勇み足と言うべき、村上自身にとって極めて重大なリスクをはらむ危険な行為であり、筆者にとっては、控訴審における主張を大いに補強する材料となる。

この記事は、筆者に対する人格権の侵害の記事と合わせれば、十分な名誉毀損行為に相当する要件を満たしているから、これこそ、控訴審を戦い抜く上で、御名を冠する戦いとするにふさわしい最も大きな被害のインパクトとなる。
 
さて、警察とのやり取りは、ものすごい消耗戦である。告訴状を出しさえすれば、後は警察が自動的に捜査をしてくれ、自分は何もしなくても、ただ待ってさえいれば、すぐに警察が犯人を逮捕してくれて、裁判が開かれ、犯人が有罪とされて事件が終わる・・・などという甘い世界はないことを、筆者はこれまで痛感して来た。

それは、民事でも刑事でも基本的に同じであるが、民事ならば、定期的に口頭弁論が開かれ、嫌でもいつかは審理終結が来るが、刑事事件の進展はまことに見えない部分がある。

そして、この壁を打破するために、筆者はものすごい苦労を払い、ようやくのことで、風穴を開けたのである(だからこそ、筆者の事件に、これ以上の遅延はないと断言できる)。
 
だが、刑事事件の進展が遅い場合、民事において、告訴されたこと自体を名誉毀損だと相手が主張して来た場合、告訴要件をきちんと満たしていることを立証することには、膨大な時間と手間を要する。

その作業を2名の被告を相手にしながら、筆者は一審で成し遂げたが、これから、その作業が、村上に課せられることになる。杉本と一緒になって、筆者が警察を証人に呼ぼうとしたことを嘲笑った村上である。どのような手法でそれを行うのかは、注目される。弁護士を雇ったとしても、唐沢治が出して来た陳述書のような理屈では、勝算の見込みは薄いであろう。
 
だが、それよりも、今回、注目されるのは、信徒を告訴したと自ら発表したことにより、村上密という人物の内面が、極みまで明らかになったことである。

かつて相談にやって来た信徒を告訴する牧師のもとに、これから身を寄せたいと願う信徒がいるとは思えない。そこで、村上の行為は、村上の率いる宗教トラブル相談センターに、致命的と言っても良いくらいの打撃を与えることであろう。

さて、筆者は、このようなことがあってもなくても、自分の果たさなければならない仕事を淡々とこなすだけである。

幾度も言うが、キリスト者の身には、神が許された事柄しか決して成就することはない。そして、神は信者の同意がないのに、突然、試練をもたらされるようなことはなさらない。

読者は知っている通り、2009年から、筆者は、村上が構想したカルト監視機構の危険性を世に訴えて来たのであるが、その時から抱いていた危惧が、このような形で成就するまでには、10年間という月日が必要であった。

本来ならば、10年もの月日があれば、記憶も薄れ、関わりも断たれ、かつてそんな主張がなされていたこと自体を、当人同士が忘れていておかしくない。だが、霊的な領域においては、記憶が忘却されるとか、主張が消滅するということは決してないのである。

だから、今回の出来事は、かねてより懸念されていた事柄が、実際となっただけであるが、そうなるまでの10年という月日は、筆者自身の霊的・内的訓練の期間であり、主は、筆者が当時から予想していた出来事に対して、十分な準備が出来るまで、待って下さったのである。

幾度も繰り返すが、筆者は個人の人権を守るためにここに立っているのではない。ここから先は、過越し――御名の主権がものを言う世界である。

今、カルバリで流された主の血潮の絶大かつ永遠なる効果のほどが、万人の前で問われているのであって、もしも筆者が罪に問われるようなことがあれば、それは主の名折れでしかない。

神はそのような方でないことを、筆者はこれまでの人生のあらゆる場面で実際に確かめて来て知っている。第一審でも、これと全く同じ、十字架の死を潜り抜けた。この事件に向き合うことを決めたときから、筆者の覚悟は固まっている。そこで、筆者にとって、このような出来事に対峙することは、日々の十字架でしかない。

神の救いは、一度限り、永遠のものであって、血潮の中に隠れる者を、罪に問える者は誰もいない。それにも関わらず、そのようなことを試みるなら、その訴えのすべてがその者自身に跳ね返ることになる。まさしく――虚偽告訴という罪として。

それが、過越しである。筆者は自分の家の鴨居に幾重にも小羊の血を塗っておく。そうしておけば、外に死の風が吹き荒れても、それは家の中の者に触れることはない。かえってエジプト人の長子が滅ぼされるのである。

神の御前で起きることに、何一つ偶然はない。そこで、なぜ村上が杉本と一緒になって反訴を言い立て、さらにこれを見送りながら、今、告訴を選んだのか、その理由は以下にあると筆者は見ている。

反訴には、どんなに虚偽の訴えを出そうとも、いかなる罪も伴わないが、告訴が虚偽だった場合には、罪に問われる。

それが、神が村上に告訴に及ばせたことの真の理由である。
 
* * *

さて、掲示板はこれまで、筆者が自分自身をエステル妃になぞらえているのを見て、さかんに嘲笑していたが、エステルは、モルデカイがハマンの策略によってユダヤ人が皆殺しにされようとしている計画が存在することを知ったとき、自分は死を覚悟して、王の前に進み出ると述べた。

すでに幾度も述べて来た通り、筆者は、杉本・村上からの反訴の予告をきっぱりと退けて、第一審を終えるだけでも、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。その時に、筆者の覚悟は決まったのである。

エステル記を読んでみれば良い。ハマンは自分の家の庭に、モルデカイを吊るすための絞首台を作った。その頃、モルデカイは、ハマンに手をかけることなど、考えてもいなかったであろう。

ハマンはモルデカイのみならず、ユダヤ人全体を殺害しようと考えていた。モルデカイ一人に対する憎しみをきっかけに、ユダヤ人全体に対する尽きせぬ殺意を抱いていたのである。

そして、ハマンは王の信任を得ていた。絶大な権限を持っていた。それにも関わらず、ハマンが作った絞首台は、ハマン自身の絞首台となった。

そうなるために、エステルが死を覚悟した勇気を振り絞ったからである。
 
筆者はこの物語に2018年の初め頃から、幾度となく言及して来た。それは、この戦いを貫徹するためには、筆者は、まさにエステルやモルデカイと全く同じ覚悟を固めねばならないことを初めから知っていたからである。

主はいつも筆者に問われる。「あなたはどのくらい本気ですか? 私のためにどんな代価を払うつもりがありますか?」

筆者は答える。「私は準備が出来ました。私はあなた以外に価値とするものは、何もありません。私はあなたがどういう方であるかを知っています。あなたが決してご自分のもとに身を寄せる者を見捨てられたり、失望に終わらせない方であることを、私は知っています。

私は自分のすべての利益に変えても、あなたご自身を現していただくことを利益と考えています。私が欲しているのは、私の正義以上に、あなたの正義、私の真実以上にあなたの真実であり、あなたの自由と解放、命に満ちた統治を得るために、自分の十字架を負うつもりです。たとえ、私が不真実であっても、あなたは真実な方です。あなたのおられるところに、私の命もあるのです。ですから、何が起きようとも、最後までご一緒いたしましょう・・・。」

これは宿命の戦いである。村上の思惑を忖度した信者らは、筆者が第一審で村上に勝訴できなかったことをさかんに嘲笑しているが、もしも村上密が、控訴審で必ず勝てると考えていたなら、このような措置を講ずる必要はなかったであろう。

筆者が控訴したことを、筆者よりも前に報じたり、筆者の告訴が完了する前に、筆者を告訴したと報じたりするところに、村上の恐怖心の表れを感じざるを得ない。

* * *

もう一度、エステル記(4:9-17、7:1-10)の以下のくだりを引用しておく。

「ハタクが帰ってきてモルデカイの言葉をエステルに告げたので、エステルはハタクに命じ、モルデカイに言葉を伝えさせて言った、「王の侍臣および王の諸州の民は皆、男でも女でも、すべて召されないのに内庭にはいって王のもとへ行く者は、必ず殺されなければならないという一つの法律のあることを知っています。ただし王がその者に金の笏を伸べれば生きることができるのです。しかしわたしはこの三十日の間、王のもとへ行くべき召をこうむらないのです」。

エステルの言葉をモルデカイに告げたので、 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。


そこでエステルは命じてモルデカイに答えさせた、「あなたは行ってスサにいるすべてのユダヤ人を集め、わたしのために断食してください。三日のあいだ夜も昼も食い飲みしてはなりません。わたしとわたしの侍女たちも同様に断食しましょう。そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます」。モルデカイは行って、エステルがすべて自分に命じたとおりに行った。」

「王とハマンは王妃エステルの酒宴に臨んだ。 このふつか目の酒宴に王はまたエステルに言った、「王妃エステルよ、あなたの求めることは何か。必ず聞かれる。あなたの願いは何か。国の半ばでも聞きとどけられる」。

王妃エステルは答えて言った、「王よ、もしわたしが王の目の前に恵みを得、また王がもしよしとされるならば、わたしの求めにしたがってわたしの命をわたしに与え、またわたしの願いにしたがってわたしの民をわたしに与えてください。 わたしとわたしの民は売られて滅ぼされ、殺され、絶やされようとしています。もしわたしたちが男女の奴隷として売られただけなら、わたしは黙っていたでしょう。わたしたちの難儀は王の損失とは比較にならないからです」。

アハシュエロス王は王妃エステルに言った、「そんな事をしようと心にたくらんでいる者はだれか。またどこにいるのか」。 エステルは言った、「そのあだ、その敵はこの悪いハマンです」。そこでハマンは王と王妃の前に恐れおののいた。 王は怒って酒宴の席を立ち、宮殿の園へ行ったが、ハマンは残って王妃エステルに命ごいをした。彼は王が自分に害を加えようと定めたのを見たからである。

王が宮殿の園から酒宴の場所に帰ってみると、エステルのいた長いすの上にハマンが伏していたので、王は言った、「彼はまたわたしの家で、しかもわたしの前で王妃をはずかしめようとするのか」。この言葉が王の口から出たとき、人々は、ハマンの顔をおおった。 その時、王に付き添っていたひとりの侍従ハルボナが「王のためによい事を告げたあのモルデカイのためにハマンが用意した高さ五十キュビトの木がハマンの家に立っています」と言ったので、王は「彼をそれに掛けよ」と言った。 そこで人々はハマンをモルデカイのために備えてあったその木に掛けた。こうして王の怒りは和らいだ。


「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)

 
  
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。



御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。


天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての者よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:13-23)

今朝のオリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (9)」は、キリストと共に十字架で人の自己が死に渡されることがどれほどエクレシアにとって重要な事柄であるかを語るものであるため、以下に掲載しておく。

なお、一つ前の記事にキリストのからだとしてのエクレシアの働きについても、必要な聖書箇所を補っておいた。

これまで筆者は繰り返し、エクレシア(教会)に参加するためには、それぞれの信者の自己が戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないことを書いた。以下の論説も、ちょうど同じテーマを扱っており、キリストと共に自己を十字架に死に渡すことなく、キリスト者の交わりに参加しようとする者が、どれほど神の福音の証しを損ない、交わりを害してしまうかについて言及している。

主と共に真に十字架に赴くことがない人々は、いわば、ただクリスチャンに偽装しただけのような存在であり、交わりをかく乱するだけでなく、真に主と共に十字架に自分を同形化しているクリスチャンにも多大な悪影響を及ぼす。

それは筆者が繰り返し書いて来た、神の最善を退けて、人間の思いを優先する次善であり、しかも、自分たちが次善であることが暴かれないよう「最善」を攻撃する「次善」であり、神の教会から真に衝撃力の伴う御言葉の証を取り去ろうとする。

ところが、嘆かわしいことに、今日、教会と呼ばれている団体の8~9割はこうした人々で占められているのではないかと思われる。それほどに、今日の教会は真に霊的衝撃力の伴う神の証しを失って、弱体化しかけている。

その状態が回復されるためには、やはり真に主と共に十字架を通る人々が新たに起こされる必要があり、キリストと共なる十字架とは何であるのかが、人々の目に公然と証される必要があろう。

今更、説明の必要もないとは思うが、信仰によって前進する過程で、私たちは、自己の安寧、自己の都合、自己の名誉・・・といった生まれながらの自己の必要性を、自分の手から離して、神に明け渡すことが、どうしても必要になる。その戦いは、個人個人によって性質が異なるものであり、何をどこまで主のために手放すのかは、人に要求されてすることではなく、各自が神との間で相談して自主的に決めることである。

今日、暗闇の勢力が行っている欺きはこういうことである、「主と共に十字架で死ぬですって?十字架で自己を手放すですって?何を言っているんですか。そんなのカルトですよ。あなたは日常生活も放棄して、自分の願いを自分で滅ぼして、自分で自分を否定して、自分の楽しみや喜びを放棄して、一体、何をしようとしているんですか。クリスチャンがそんなみすぼらしく、みっともない貧しく孤独な生活を送る必要はありません。日曜日に教会に通い、牧師の説教を聞いて、献金をしていれば十分ではありませんか!後の時間は、自分の幸福のために使えばいいんですよ。」

だが、神は私たちの全存在を求めておられ、私たちが全身全霊で神を愛し抜き、従い抜くことを願っておられる。それが代償なしに達成されるはずもない事柄であることは明白である。神が先にその愛する独り子を地上に送り、私たちのために犠牲とし、命を捨てて下さったのに、私たちの方は、自己の安寧を微塵も手放さず、ただひたすら自分のことだけを考えて、一つの痛み苦しみも味わうことなく、神に従えるというのだろうか。そんなことを考える方がどうかしているだろう。

しかし、もちろん、神は初めから私たちの理解も及ばないような著しい代価を求められることは決してない。神は私たちの弱さを知っておられ、あくまで私たちの同意に基づいて、ご自分のみわざをなさる。クリスチャンの従順は徐々に完成に向かうものであり、神の子としての訓練を受けることで、キリストの御丈まで成長するのである。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:5-9)

主と共なる十字架を知らない人々は、神に従う上で、自分自身にも払わなければならない代価があるということを知らず、肉を十字架において死に渡すことを知らないし、これに抵抗する。オースチンスパークスは書いている、

「新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

 これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字通りの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。

あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。
ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。


 十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛で深刻な問題です。肉は十字架に付けられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行くことができますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の軍勢はまったくの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそれをすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架に付けられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架の経験を実際的な方法で経験したことがありません。」
 
十字架の死と復活の働きは、神が御言葉を人に啓示されて初めて理解されるものであって、人が人に対して教えられるものではない。主と共に屠られるためには、人はしばしば大きな苦難を通らなくてはならない。苦難の中で自分を低めること、自分の主義主張を脇に置き、自分の願望を投げ捨てて、ただ神を信頼して御言葉に従う道を選ぶこと、それだけが、主と共なる死に自分を同形化する道である。

そして、クリスチャンが主と共なる十字架に自分を同形化することに失敗するとき、ある団体がまるごと暗闇の勢力に渡されるという悲劇的な結末がしばしば起きる。

上記の論説に書いてある通り、一つの団体の中に、似て非なる二つの異なる勢力が混在している。そこには、ハガルとイシマエル(肉によって生まれた者)と、ハンナとイサク(御霊によって生まれた者)という、全く異なる勢力に属する人々がいる。

御霊によって生まれた者は、常に「人にはできなくとも、神にはできる」と信じ、大胆に御言葉の証しを掲げ、神のみわざを待ち望んでいる。しかし、肉によって生まれた者は、口先で御言葉を唱えることはしても、そこに信仰がないので、神のみわざを信じて待ち続けることをしない。そして、試練に見舞われれば、すぐに退却し、「人には限界ばかりで、できることは何もない。人をこのように惨めな存在に造られた神は理不尽である」と不満を表明する。

肉とは、言い換えれば、死へ向かう滅びゆく人間が、自己の力で何とかしてその死の決定に逆らおうとする悲痛な努力の総体であり、堕落した人間の命の限界そのもののことである。

人は自分の生まれながらの生命を維持するために、絶え間なく外界からエネルギー源を摂取しなければならず、そこに各種の欲望が生まれる。しかし、これらの欲は、満たしても、満たしても、決して飽かされることがなく、その満足はすぐに消えて行き、またしても渇望が起こるだけであって、人間は生きる限りその欲望の奴隷状態から抜け出せず、自己を満たそうとするすべての努力が、死によってしか報いられないという恐るべき悪意ある逆説の中に置かれている。

肉とは、このように絶え間ない欠乏状態に置かれ、絶えず自己の生存を死によって脅かされ、死を避けるために、自分を救う力のない己の欲に踊らされ、自分の欠乏の惨めで屈辱的な奴隷状態から抜け出せない生まれながらの人間の腐敗・堕落した有限なる命の働きである。

しかし、御霊によって生まれた者は、この滅びゆく肉に対して、主と共なる十字架で死んでいるので、以上のような罪の奴隷状態から自分が解放されており、神の朽ちることのない永遠の命によって自分が新たに生かされ、神の命によってすべての必要が上から供給されることを知っている。

キリスト者が地上で生きるためのすべての必要性は、衣食住を含め、すべて自分で自分の生存を保とうとする自己の努力によってではなく、信仰によって、キリストの復活の命を経由して上から与えられる。従って、キリスト者は地上を生きる上で、自分を救う力のない己の欲によって自分を満たさなければならないという恐るべきパラドックスから解放されているのである。

しかし、肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者と自分が同じ存在であるかのように見せかけながら、御霊によって生まれた者に巧みに話しかけ、神に対する不満を吹き込もうとする。そして、決定的な瞬間に、「人であるあなたにはできない。神は理不尽だ。あなたは無駄なことを信じているのであって、あなたの希望はかなわない。」とささやき、信仰をくじこうとする。

肉の思いは、つまるところ、自己の力で自己を満たそうとしても、それができない人間が、神に対して不服を表明し、憤る思いである。その思いを、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者に吹き込み、御霊によって生きる者の思いを穢すことで、神に対する信頼を失わせ、大胆な証を損なおうとする。

このようにして、一つの団体の中に、同じクリスチャンのように見える二つの勢力が併存し、やがてこの二つの勢力が、激しく敵対し、争うようになる。霊御によって生まれた者を、肉によって生まれた者が、堕落させ、迫害し、追い出そうとするが、御霊によって生まれた者は、その激しい迫害を乗り越えて、御言葉の証を保たねばならない。そのためには、十字架の装甲の中から決して外に出ない姿勢が必要となる。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)
 
だが、信者たちはしばしば失敗して、十字架の装甲から外に出て、証を失ってしまう。被害者意識や、神に対する不満の思いを心に注ぎ込まれ、思いを穢されてしまう。そして、一心に信頼して神だけを見つめることをやめて、神はすべての苦難から私たちを救い出して下さるという確信を失い、自己の限界を見つめるようになり、自分を不憫がるようになり、ただ自分の弱さに同情してくれる人々だけを周りに集め、その弱さの中に閉じこもって、前進することをやめて立ち止まり、そこに人の生まれながらの自己を守るための一大共同体を作り上げてしまう。
 
すると、御言葉の証は失われ、信仰による神の働きはやみ、御霊によって生まれた者は、ちょうど髪をそられたサムソンのように、勇士としての力を失って、捕虜とされ、外に追いやられ、苦役に従事させられることになる。

私たちは、悪魔の虚偽の訴えに対しては毅然と立ち向かい、御言葉の証を守らなければならない。公正、真実、正義に立って、御言葉の真理を高く掲げることをやめてはならない。しかし、同時に、その戦いは、決して私たちの生まれながらの自己を守るためではなく、それを超えたところにある神の御国の権益のためでなくてはならず、そうして私たちの掲げる目的が、真に自己のためでなくなるためには、私たち自身が、絶えず十字架の死をくぐる必要がある。自己憐憫や被害者意識を心に抱え、神の権益のために自己の利益を手放すことを惜しみ、自分の限界を取り払うことができないものと考えて、これを哀れんでいると、主と共に十字架の死を通過することができなくなってしまい、信仰の前進がやむのである。
 
そうして聖徒らが十字架を回避して、生まれながらの自己を保つようになると、彼らの証は力を失い、彼らは聖徒としての特長を失うことになる。そして、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を追い出して、団体の頂点に立ち、一つの団体がまるごと敵の手に渡されてしまう。もしくは、彼らは出て行っても、暗闇の勢力の支配下で、また新たな腐敗した別な団体を作るだけである。

筆者はこうした現象を幾度も目撃するうちに、ようやくこれがクリスチャンと暗闇の勢力との間で繰り広げられている霊的な支配権の争奪戦であることを理解し、一体、これに対してどのように打つ手があるのかを考えるようになった。

もちろん、主と共なる十字架の装甲から一歩も出ないで、自己を十字架に死に渡すことこそ、勝利の秘訣であるが、勝利というからには、死で終わるのではなく、そこに復活が現され、瞠目すべき神のみわざが現され、明白な勝利を勝ち取らなければならない。それだけでなく、ただ真理を知らないだけで、故意に御言葉に逆らっているわけではない人々を、敵の欺きから取り返すことが必要である。

そこで筆者はようやく、祈りの防衛の盾をはりめぐらし、激しい戦いの中でも、そこに踏みとどまって、決して支配権を自ら放棄することなく、霊的領土を明け渡すことなく、なおかつ、そこに残っている人々を、自分たちの陣営にかくまい、保護するまで、あきらめずに戦いを続行することを学び始めた。

その団体に残っている人々のほとんどは、しばしば、何が起きているのかを全く理解しておらず、戦いがあることさえも分からないでいる人々である。彼らはちょうど戦争が勃発しているのに、そのことを知らされないまま、自分たちの土地に残された非武装の住民のようなものである。敵が襲撃して来れば、彼らに命はないことを私たちは予め知っている。そして、私たちは武装しているが、彼らは自分を守る術を知らない。

そこで、もしもこのような状況で、私たちが自分の命を惜しんで、真っ先に彼らを捨てて安全なところに退却するならば、彼らはみな敵陣に捕虜として引いて行かれることになり、そこでさまざまなひどい目に遭わされて、神は理不尽だという思いに生涯、とらわれ、憎しみと憤りと不満の中に生きることになりかねない。何よりも、彼らは自分たちを危険の中に捨てて行ったクリスチャンを憎み、許さないことであろう。

そのようなことが起きないために、私たちは最後まで戦って、真理を知らない人々を敵の襲来から保護し、むしろ、敵の勢力の方こそを、キリストの勝利の凱旋の行進の中に捕虜として引いて行かねばならない。

そのように激しい戦いを、神の武具で武装してすべてをキリストの支配下に置くまで決してあきらめないで戦うことを決意した人々が、勝利を得るまで忍耐強く信仰によって続行したときに、初めて、一つの団体が、罪の束縛の中から解放され、肉の支配下にある者ではなく、霊の支配下にある者の指揮権の下に置かれるということが起きるのである。

ここで重要なのは、冒頭の御言葉が、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と述べていることである。戦いには初めから決着が着いており、御子はすでにカルバリで勝利を取られた。問題は、地上にいる主の民がそれを最後まで信じられるかどうかである。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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