忍者ブログ

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃え盛る火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」(Ⅰペテロ4:12-14)

* * *

キリスト者は荒野の中で泉を探して地中を深く掘り続けているうちに、ついに願っているものに達した。神が信じる者のために用意して下さった尽きることのない命の水脈を発見したのである。

そこで、次なる課題は、灌漑設備を作り、命の水を荒れ果てた大地に広く流れさせ、土地を潤し、再生させるための装置を建設することにある。

生ける水の川々が流れだす秘訣は、十字架の死と復活にこそある。

キリスト者が自己を否んで十字架を負う時、そこに復活の法則が働く。信者は束の間、低められても、それがまるで嘘だったかのように、高く引き上げられ、重い栄光に満ちた瞬間を見る。

日々、主にあって、ほんの少しの軽い患難を負い、自分が低められることや、誤解されたり、栄光を奪われることに同意し、常に何者かでありたいと願って、人前に栄誉を受けようとする自己の願望を退け、十字架の死を負うならば、信者が自分自身で「何者かになろう」と努力する代わりに、主が信じる者を高く引き上げて、願っておられるところに到達させて下さる。人間の願いではなく、神が願っておられることが何であるかを見せて、実現して下さる。その時、多くの場合、信者一人だけでなく、信者を通して、多くの人々が潤されることになる。

この復活の命の現われこそ、御座から流れる生ける水の川々である。

* * *

ウォッチマン・ニーは、クリスチャンが生ける水を流し出す秘訣を「血の高速道路」と呼んだ。

血の高速道路とは、何ともすさまじい表現ではないだろうか。十字架が、文字通り、剣のように、クリスチャンの自己を貫き通し、刺し通すという意味である。つまり、主にあって真に祝福を得たいと願い、主と共に栄光を見たいと思うなら、その信者は、主と共に十字架を負い、自分が低められることに同意しなければならない。キリスト者の自己が裂かれた分だけ、生ける命の水の川々が、そのキリスト者自身から流れ出すのである。

その血がにじむほどの、いや、血が噴き出るほどの苦しみが、高速道路と表現されているのである。おそらく、それは他者がそのキリスト者の栄光を奪い、彼を踏みつけて、その上を走って行くことにも同意せよ、という意味であろう。

これはある意味、キリスト者が主にあって負うべき苦しみの極致を示していると言える。最終的には殉教を指している。

しかしながら、クリスチャンは殉教といった巨大なスケールに達するよりも前に、これをもっとごく小さなスケールで繰り返して生きており、日々、信者が神の国の義のために、神への愛のために、他者への愛のために、人知れず自分を裂き、注ぎだした分だけ、そこに命の法則が働くというのは確かな法則なのである。

ところで、殉教といった言葉を聞くと、必ず、反発する人たちが現れる。そういう考えはカルト思考だというのである。しかしながら、聖書の神は、願ってもいない人たちに、殉教を強制されるようなことは絶対にない。だから、クリスチャンが神のために死を強いられているなどといった考えは全く正しいものではない。たとえば、かつての日本がそうであったように、皇国史観に基づいて天皇のために国民に強制された死と、クリスチャンの殉教を並べて論じるのは正しいことではない。
 
キリスト者が日々、主と共に負っている十字架は、あくまで霊的な文脈であり、信仰によって、信者が自主的に同意して成るものである。そして、キリストを信じる者にとって、十字架の死は、決して死で終わることなく、復活という、実に栄光に満ちた事実と分かちがたく一つである。人間に過ぎない君主のために命を捧げても、何の見返りもないであろうし、それは人情の観点からは讃えられても、何も生み出すことのない無駄な犠牲でしかない。

だが、キリストはまだ我々が罪人であり、背く者であった時に、我々のために十字架でご自分の命を与えて下さったのであり、我々はそのまことの、永遠の命にあずかり、その命をこの地上に流し出し、主と共に天で永遠の栄光を受けるためにこそ、カルバリの十字架に自分を重ね、日々、主と共に自分が死んだことを認め、彼の死に自分を同形化するのである。
 
クリスチャンは、こうして日々、主と共に死を負うことにより、苦しみが苦しみで終わらず、患難が患難で終わらず、死が死で終わらず、御名のゆえに負った苦難には、どんな小さなものであれ、必ず、絶大な命の法則が働くことを実際の体験を通して知っている。

筆者もまた十字架の死と復活の法則が確かなものであることを、日々、自分の意志によって試しており、そこに相応の成果を見ているので、このやり方に間違いはないと確信している。

信仰の初歩においては、信者は殉教などといったテーマを考えることなく、日々の小さな十字架から始めるのが良いだろう。そうしているうちに、最終的にもっと大きなスケールの試練にも耐えうる力が養われる。

だが、信仰者にとって、一体、何が主の御名のゆえに負う「十字架」であるのか、一体、何が後々、天の栄光に満ちた益をもたらす土台となりうる苦難なのかは、人間的な観点からは、はっきりとは分からず、見分けがたいとしか言いようがない。

たとえば、人の目から見て、空振りや、無駄でしかないと見える様々な事柄、もっとうまくやりさえすれば、時間を短縮して、浪費を少なく出来たはずなのにと後悔するような出来事であっても、あるいは、みっともない恥だ、失敗だ、と思われるような出来事さえも、信仰の観点からは、損失でないばかりか、後々、えもいわれぬ大きな収穫を生み出す土台となることもあり得るのだ。おそらく、神の観点から見て、信者が御名によって耐えた全ての試練に、無駄というものはないのではないかと思われてならない。

たとえば、筆者は、ある年末年始の休日に、歯痛に襲われ(実際には一時的なストレスから来るもので病気ではなかったのだが)診療所を探して行ってみた。すると、祝日にも関わらず、待合室は大混雑して、長蛇の列ができており、待ち時間が一時間以上に渡り、パイプ椅子が並べられていたにも関わらず、数が足りず、子連れの親も数多く来て騒がしかった上に、診療それ自体も、決して良い雰囲気ではなく、結局、大した治療もできず、しかも病気でもないことが判明し、筆者は疲労だけを手に完全な無駄足だったと思いながら帰途に着いたという出来事があった。

ところが、その後まもなく、実に不思議ないきさつで、その診療所のすぐ近くに拠点を構えるある企業に仕事上でお世話になる機会を得たのであった。筆者が無駄足だったと思いながら、疲れて帰途に着いている時には、そのような縁が生まれることを予測せず、地上で誰一人、そのようなことが起きると知る者もなく、筆者自身も、その会社組織の存在さえ知らなかったが、今となっては、歯科医を探してその場所へ赴いたこと自体が、まるで未来へ向けての下見のようであった。神はそのような全くの無駄に見える出来事の中にさえ、しっかり働いておられ、不思議な形で、この出来事を新たな有効な出会いへと結びつけて下さり、筆者と共に生きて働いて下さっていたのである。この話には後日談もあるのだが、それはまたの機会にしよう。

さて、筆者は、キリストの復活の命に生きるために、何年も前にこの土地へやって来たのだが、長い間、悪魔の巧妙な策略のために、生ける水の川々を流れさせる法則をうまく掴めないでいた。

それは、かつて筆者の周りにいたクリスチャンたちの間では、主のために信者がすすんで負うべき苦しみについて、ほとんど語られなかったせいでもある。あるいは、語られることはあっても、実践されなかったのである。

その当時、筆者を取り巻いていた交わりでは、信仰者が主のために苦しむこと、いわれなき苦難を負うこと、主のために損失や、恥や、無駄を負うことについては、何か時代遅れの気まずい話題のように避けられ、信者が神を信じたことによって得られる祝福や恵みばかりが強調されていた。

信者たちは、仲間内で、自分が神に愛されている者として、他の人々には与えられない優れた祝福にあずかり、どれほど幸福に生きているかというイメージを演出することを、一種のお約束事のようにしていた。そうすることで、彼らは自分たちが他の信者たちの及ばない霊的高みに達している証拠のように誇示していたのである。

だが、筆者はこれにいたく疑問を感じていた。筆者はもともと世故に長けて器用に立ち回ることによって、己が力で人生の成功者となりうるような才覚の持ち主ではなく(もしそんな才覚が生まれつきあれば、自己過信して、神を求めることもなく、キリストに出会うこともなく、信仰を持つこともなかったであろうから、そのような手練手管を持たなかったのは、極めて幸いなことであり、また、それが神の筆者への特別なはからいであり、愛に満ちた恵みであることを疑わないが)、さらに、確固たる信仰を持つよりも前から、筆者はそのような地上的な成功を目指して生きることに、何の意味をも感じていなかったので、人生の成功だけを全ての価値のようにみなすこの世の不信者の社会においてならばともかく、信仰者の社会においてまで、自分が「上手に器用に立ち回って失敗を避け、そつなく生きている成功者」であり、「霊的勝ち組」であるかのようなイメージを演出して自己の成功を誇る空気には、全く同意できなかった。

そのため、仲間内で器用に立ち回って賞賛を浴び、他人の名誉が傷つけられても一向に平気であるにも関わらず、自分の名誉が傷つけられることだけには敏感で、それが起きないように先手を打ち、あるいは自分に歯向かう者には策謀を巡らして徹底的に報復し、自分だけは人と違って高みにいて幸福だと豪語して、他者の苦しみを高慢に見下す周りのクリスチャンたち(?)(おそらく彼らはクリスチャンとは呼べまいが)のあからさまな自慢話を聞かされる度に、筆者は首をかしげ、悩まされ、苦しめられていた。

幾度か、彼らのあまりの自画自賛のひどさに耐えきれず、それとなく間違いを指摘してみたこともあったが、しかしながら、いかなる説得によっても、彼らの強烈な思い込みを変えることは無理であった。

ついに最後には、筆者と彼らとの生き様や信仰的な立場の違いは、否定しようにも否定し得ないほどの大きな溝となり、彼らから見れば、筆者の存在自体が、彼らのままごと遊びのようなお楽しみの括弧つきの「信仰生活」に水を差すもの、彼らの虚飾の栄誉をいたく傷つけるものでしかないと感じられたのだろう。彼らは、すでに上流階級の特権的社交界クラブと化していた彼らの偽りのソサエティから、筆者を似つかわしくないメンバーとして除外したのであった。(ただ除外しただけでなく、相当な報復をも加えたのである。)

筆者は、彼らの進んでいる方向が、根本的に聖書に相違する間違ったものであることを随分前からよく分かっていたので、そのような結末に至ることを予想済みであったが、何とかその結末を食い止めて、彼らを真実な道に立ち戻らせることができないかと当時は思っていたので、その願いにも関わらず、目の前にいる生きた人間から排斥され、残念と思われる結果に至ったことに、何の痛みも感じなかったわけではない。

だが、その体験は、主にあって、筆者の人生でまことに幸いな実を結び、大きな恵みを受けることへとつながった。それからほどなくして、筆者は自分が神に出会って後、心から正しいと確信していた通りの、聖書に基づく、純粋で素朴な信仰生活に何の妨げもなく平穏に立ち戻ることができただけでなく、まがいものの交わりの代わりに、もっと親しく愛情に満ちた豊かな交わりに加えられ、人生の別な方面においても、収穫を得たのである。

その後も、色々なところで、類似した出来事が繰り返された。誤解や、非難や、対立や、排斥といった出来事は、往々にして起きて来るものであり、クリスチャンと呼ばれる人々の中では、特に、激しい戦いが常に起こるものであるが(なぜなら、真に聖書の御言葉を実践して、神に忠実に従う信者は、クリスチャンを名乗る者の中にも、極めて稀だからである)、今、思うことは、信者がそういった何かしらの尋常でない苦しみや痛みを伴う事件に遭遇し、人の誤解や、非難や、嘲笑、排斥に遭遇し、慣れ親しんだコミュニティを離れることがあったとしても、そのような出来事のせいで、傷ついたり、落胆する必要は全くないということである。

むしろ、信者が地上において、主に忠実に従うがゆえに、人からの拒絶を受ける時には、常にほどなくして、それに相応する天の栄光が待ち構えていると言って良いから、それを待ち望むくらいでちょうど良いのである。信者が主に従う過程で負った苦しみには、どんなものであれ、必ず、天での報いが伴う。

だから、信者は、人間に過ぎない者たちの言い分や、人の思惑に振り回される必要がなく、また、自分の地上生活における苦しみだけに注目して、落胆したりする必要もなく、それとセットになって天に備えられている絶大な栄光に思いを馳せ、神が地上の軽い患難と引き換えにどのような大きな喜びをもたらされるのか、それだけを心に留めて進んで行くべきなのである。

繰り返すが、信者が地上でいわれなき苦難を黙って身に背負うとき、神はその信者の態度をよく見て下さり、信者のどんな些細な苦しみに対しても、予想だにしない大きな祝福を備えて待っていて下さる。

むしろ、そのようにして、自分が地上で低められ、恥を負うことによって、十字架の死を負う態度がなければ、信者はキリストの死に同形化されることができず、キリストの死に同形化されていない者が、キリストの復活に同形化されることは決してない。

つまり、信者が主と共に十字架を負うことに同意しない限り、その者に神の復活の命の現われが見出されることもないのである。主の死を共に負わない信者が、キリストと一つであると豪語するのは、嘘であり、悪魔の罠でしかない。主の死に同形化されずに、主の復活にあずかろうとする者は、神に従うどころか、逆に悪魔と同じ高慢さに落ちて行くことになる。これは大変恐ろしい罠である。

聖書ははっきりと告げている、「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:14)。これは世人のみならず、まさにクリスチャンを名乗る人々にも同様に当てはまる事柄である。

いのちに至るための小さな門、狭い道とは、主と共なる十字架の死のことである。主と共に、人前に蔑みや、排斥や、そしりを負い、自分で自分を高く掲げないことである。もし神の御前で高くされたいなら、その人は、まず低くされることに同意しなければならない。神と人との前に真に賞賛に値する者とされたいならば、まず、人前に低められ、誤解されたり、そしられたり、嘲られたり、のけ者にされたり、拒まれ、栄光を奪われ、無とされることに同意しなければならない。その経緯を辿って初めて、天の栄光にあずかることができるのである。

筆者がしばらくの間、生ける命の水の川々を流し出す秘訣を十分に知らずにいたのは、この絶えざる十字架の死こそ、復活の命の現われであると、まだはっきりと気づいていなかったためである。信者の信仰生活につきものである苦難を驚き怪しむどころかこれを積極的にキリストの苦しみにあずかる機会として用い、御名のゆえに、自己を余すところなく十字架の死に渡すことが、どれほど絶大な喜びへとつながるか、まだ具体的に十分には知ってはいなかったためである。
  
クリスチャンになってまで、主のための苦しみを避け、自分が人生の成功者であり、失敗や痛み苦しみとは一切無縁であるというイメージを醸し出しては、それを神の恵みと称して、人前に誇っているような人々は、ただ自分の生まれ持った肉の力を誇っているだけである。だが、人が生まれ持った人間的な手練手管によっては、誰も、神が信じる者のために備えて下さっている天の栄光にあずかることはできない。

旧約聖書に登場するヤコブは、自分の手練手管により、兄であるエサウを出し抜いて、長子の権を奪うことには成功したが、その後、彼より上手だったラバンからしたたかに利用され、つらい様々な紆余曲折を経なければならなかった。ヨセフは、父のお気に入りの息子として、他の兄弟たちにまさって親の愛を受け、自分が将来、兄たちの上に立つ支配者になることを幼い頃から予感していたが、その栄光に満ちた召しへたどり着くためには、兄弟たちに裏切られて、奴隷として売られ、家からも親の愛からも遠く引き離されねばならず、さらには使用人として仕えていた家でも、主人の妻の偽りの証言がもとになって、いわれなく投獄されたり、相当につらい体験を味わわなければならなかった。モーセも、エジプトの王子として育てられ、言葉にもわざにも力があったが、イスラエルの民をくびきから解放するという光栄な召しを果たすために、神によって指導者として立たされるまで、長い間の失意の逃亡生活を耐えなければならなかった。

待望の息子が生まれるまでに肉の力が尽きるまで待たされたアブラハムとサラは言うに及ばず、このようにして、天の栄光が信者に現れるためには、必ず、信者が地上で低められるという過程がなければならない。それによって、信者が生まれ持った肉の力が尽き、どんなに生まれつき才覚のある人間でも、もはや自分自身の力で自分を高く上げることができなくなったときに、信仰によって、神の力がその人に臨み、人間の努力や才覚によらず、ただ神の霊により、神の御言葉により、その信者を通して、神のご計画が成就し、信じる者がキリストと共に高く上げられるということが起きるのである。

筆者は、20世紀に地上の人間として生まれ、人間としての常識を持っているために、さまざまな問題が持ち上がる時、人間的な観点から、常識に従って、その解決方法を考えないわけではない。時には、専門家と呼ばれる人々に助けを求めたことがなかったわけではない。ヨセフがポテパルの妻の讒言が災いして投獄されていた時、一刻も早く釈放されたい願いから、他の囚人に助けを求めたように、人間の助言や力に頼ろうとしたこともないわけではない。だが、そういう方法では、決まって問題が解決せず、かえってこじれることの方が多いということを、筆者は思い知らされて来た。

つまり、神が信者のために供えられた苦難に対しては、神が定められた方法でしか、解決が与えられないのである。そして、その解決とは、人間の力によらず、ただ神の御言葉から来る。

人間は、自分の体に不調があれば、医者にかかれば治ると思うかも知れない。それがこの世の常識である。だが、結局、医者ができることなど限られており、人間の体を健康に戻す最大の力とは、その人の生命それ自体に備わった自然の治癒力にこそある。そして、しばしば医者の助言は、患者にとって極めて有害なものともなりうる。たとえ大手術をしても、手術が患者を救うのではなく、その手術から回復する力がなければ、むしろ、手術自体が命取りになりかねない。そして、本当に必要な手術でない手術も、病院では「治療」と称して極めて多く行われている。
 
人間が生まれ持ったアダムの命の治癒力には限界があるが、この治癒力を他のどんなものよりも効果的かつ完全に発揮できるのは、キリストの復活の命である。そこで、キリストの復活の命を持っているということは、その信者が、あらゆる問題を、主と共に、自らの力で解決することができる立場に立っていることを意味する。

同様のことは、病気だけでなく、人間が遭遇するあらゆる問題に共通する。何かしらのこじれた問題が起きれば、人は弁護士のもとを尋ねたり、裁判所に赴いたり、警察に赴いたりすれば、解決が早まると信じるかも知れない。だが、その問題を解決する力は、そのような識者や専門家にはなく、その人自身の霊的な状態と思考力、その人自身の判断力、交渉力、決断力にこそある。

だから、筆者は、今となっては、様々な問題が発生する時に、その解決を、この世のどんな「専門家」に委ねようとも思わない。そのような人々に接近して、自分の問題解決を委ねた信者たちがいることは知っているが、彼らの末路は決して明るいものではなかったとはっきり言える。

幾度も述べて来たように、医者に頼る者は、不安を煽られて、切除しなくても良い臓器まで切り取られて健康を失い、裁判に頼る者、警察に頼る者は、信仰の道から逸れて、人間のプライドを立てるためだけの終わりなき闘争に引きずり込まれて行った。

神は筆者に対して、そのような方法を決してお許しにならなかった。そこには何か目に見えない線引きがあって、他の人たちにはできることが、筆者には許されず、神ご自身がはっきりとそれ以上、その道を進んで行ってはならないと、ストップをかけられるのである。つまり、人間的な力を用いて、自分の名誉や権利を力づくで取り返そうとすることを、神は決して筆者にはお許しにならない。これは極めて厳粛な線引きである。そして、このような神の知恵と守りがなければ、信仰の道から脱落した他の信者たちと同様、筆者も誤った道に容易に足を取られていたであろう。

神は筆者に対してこのように語られる、「ある人々は、自分の名誉が傷つけられれば、徹底的に相手に報復することで、自分が潔白であると主張しようとするでしょう。そのためならば、他人に濡れ衣を着せて告発したり、有罪に追い込み、悪口を触れ回ることをも辞さないでしょう。しかし、あなたはそのような人たちが、自己を守るために引き起こしている絶え間ない争いを見て、それを美しいと思うでしょうか。そこに栄光を見るでしょうか。むしろ、その反対ではないでしょうか。

クリスチャンとは、人を罪に定めるために召された存在ではなく、神の和解と赦しを勧めるために召されたのです。人を告発し、罪に定める仕事よりも、人に罪の赦しを宣べ伝え、解放を告げる召しの方が、どれほど栄光に満ちた、名誉ある、感謝される仕事であると思いますか。どちらがあなたに栄光をもたらす仕事だと思いますか。あの不正な管理人のたとえ(ルカ16:1~13)を思い出しなさい。

だからこそ、信者には、この召しの実行のために、人前に甘んじて不義を受けるという態度が必要なのです。私があなたの義である限り、あなたの潔白はゆるぎません。誰もあなたを再び罪に定めることのできる存在はありません。しかし、私はあえて私の愛と栄光を、信じる者たちを通して地上に現したいのですよ。そのために、あなた方に、反抗する罪人たちに、終日手を差し伸べる者となって、私の耐えた苦しみを、あなた方にも共に背負ってもらいたいのです。私が神であるにも関わらず、その栄光を捨てて地上に弱い人間として生き、その中でも最大の恥辱を負って十字架にかけられることを辞さなかったように、その愛にあなた方もならって、地上で自分を低くすることで得られる天の栄誉の大きさをを共に知ってもらいたいのです。それによってしか、私の栄光をあなた方が共に得ることはできないのです。」

だから、信者は、どんな瞬間にも、自分は主と共にすでに死んでいることを思い、日々、人生に起きて来る、ごく些細な苦しみに同意して、神の御前に自分を低めることによって、ただ神だけがなしうる不思議な方法で、その些細な苦しみと引き換えに、それとは比べものにならないほどの、絶大な天の栄光が与えられるのを確認するのである。

信者にとって真のリアリティは、苦しみではなく、それと引き換えにもたらされる天の栄光である。地上的な試練は、ほんの束の間に過ぎ去るものでしかない。たとえば、車の運転をするときに、障害物だけを見つめて運転していたのでは危険であろう。また、障害物が現れたからと言って、それを迂回せず、無理やりどけてから進むという者はいないだろう。そんなやり方では1mも前進はできない。

同じように、信者の信仰生活には、様々な「試練」や「苦難」や「障害物」が現れて来るが、信者はそれを見つめず、あくまで進むべき進路だけを見つめ、道の先に待っているもの、目指している目的地だけをまっすぐに見つめるのである。それが天の都、信者が主と共にあずかるはかりしれない永遠の重い栄光である。

多くの信者たちは、障害物がリアリティだと思い込んでしまうので、そこでつまずいて前に進めなくなってしまう。自分が傷つけられ、栄誉を奪われれば、取り返さねばならないと思い、目の前に何か大きな障害が立ちはだかって、前進が妨げられているように見えるときには、その問題を解決しない限り、前に進めないと思い、主と共に解決を落ち着いて考えようともせずに、苦しみから早く逃れようと、不安を煽られて、専門家のもとを闇雲に走り回り、無用な忠告を受けて道に迷わされ、さらに問題をこじらせてしまう。人間的な力で物事を正そうとするがゆえに、御言葉を退け、十字架につまずいて、前に進めなくなってしまう。そして、もっと悪いことには、それをきっかけに、信仰から逸れて行ってしまう者も多い。

覚えておかなければならないのは、信者の人生に、主と共に信者が自分で乗り越えられないような障害物は、地上に何一つ存在しないということである。障害物を絶やすことは、信者の力ではできず、それらをすべて力づくで除去することもできない。必要なのは、障害物は進路ではなく、注意を払うべき対象でもなく、さらには現実でもないことを認識して、真にリアリティである方から目をそらさずに、まっすぐに前だけを見て進む方法を見つけることである。間違っても、障害物を除去するまでは前進できないなどと誤解してはならない。

信者が障害物を乗り越える方法は、その時々によって様々である。人間的な手練手管によって、上手に迂回することはほとんどの場合は無理である。むしろ、人間的な力や策謀によらない、実に不思議な方法によって、神はそれを乗り越える方法を信者に示して下さる。それが、御言葉が信者の人生において実際になるということである。障害物は、最初は巨大な壁のように見えても、信仰によって進んで行くうちに、いつの間にか、それは全くリアリティではないこと、すでにキリストによって打ち破られて、効力を失っており、注目に値しないことが分かる。信者に障害物だけを見させて、前進を忘れさせるのが、悪魔の目的なのである。
 
地上にどんなに障害物が多く現れても、キリスト者にとって、道がなくなることはない。道とはキリストである。この方だけが真のリアリティである。だから、信者はこの方だけを見つめ、他のものから目をそらすのである。すべてのすべてであられる方が自分と共におられ、すべての解決であられる方が、自分の内に住んで下さっていることを確信し、地上で何が起ころうと、それに心を留めず、自分の目の前に置かれた喜びだけをまっすぐに見つめて、天の栄光だけを信じてまっすぐに進むのである。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(マルコ5:34)と、主イエスが言われたように、信者が信仰によって目を注ぎ、心に思い、それがリアリティだと思って見つめるものが、現実になるのである。あなたにとっての現実とは何だろうか。病が現実なのであろうか。障害が現実なのであろうか。苦難が現実なのであろうか。はたまた、不幸な過去や、嘆かわしい生い立ちや、過去の失敗や、恥や、不完全な自分自身や、人の身勝手な思惑や、いわれなき讒言や、迫害や、傷つけられた自己の名誉やプライドが現実なのであろうか。

仮にそういうものがどれほど数多くあったとしても、神はあなたにとってそういうものを解決できないほどまでに弱々しい存在なのであろうか。あなたは一体、何を現実として選び取るのか。人の弱さや不完全さの中にこそ、神の強さと完全が生きて働くという幸いな事実を見ることができるだろうか。信者が地上において御名のゆえに負うすべての苦しみは、信者を通して、神の栄光が現されるためのほんの些細なきっかけでしかないという幸いな事実を見ることができるであろうか。
 
「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。


「あなたのために、私たちは一日中、

死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた。」
と書いてあるとおりです。」

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威あるものも、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:35-39)
   
    

PR


あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
 
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

今ほど、この御言葉がしっくり感じられる瞬間はないような気がする。
 
少し前の記事で、筆者は「キリスト者の新しい時代の幕開け」と書いたが、この度、大きなエクソダスがまた一つ達成された。今や聖徒らが、差別と搾取に基づく牧師制度を肯定するプロテスタントと訣別し、キリスト以外にどんなリーダーもいない、信徒一人一人が直接、キリストにつながり、御霊を通して神ご自身から御言葉を教わり、信徒がみな対等な兄弟姉妹としてエクレシアに連なる万民祭司の理念がまさに実現しようとしているのである。

2009年、既存の教会組織に疑問を持ち、真実な信仰を求めて、神だけに従うために出発する多くのキリスト者が出現していた頃、彼らが一様に見ていたのは、まさにこのような展望であった。

つまり、しみもしわもないキリストの花嫁にふさわしいまことの教会の姿を、みな一心に追い求めていたのである。

2000年以上前に、主イエスが地上に来られ、十字架の死と復活を経験され、信じる者に御霊を与えて下さった時に、万民祭司の時代はすでに始まっていた。だが、それにも関わらず、地上に広がったキリスト教界の宗教組織は、常に人間的な思惑に基づき、この世との妥協を重ね、後退を繰り返して来た。

その結果、聖書の御言葉を通して、信じる者に与えられたとてつもない特権、キリストのものとされ、神の子供とされた信者たちが持つ絶大な特権が、常に骨抜きにされ、値引きされ、曖昧にされ、過小評価され、ごまかされ、水で薄められ、掠め取られ、否定され、悪魔に奪い取られて来たのである。地上のキリスト教組織は、いつの時代も、始まるや否や、もう聖書の御言葉から逸れ、御霊の息吹のない、聖書におけるエクレシアとは似ても似つかない、死んだ組織と変わり果てていた。だが、地上の宗教組織が、世と妥協を重ねる一方、そこから出て、聖書に立ち戻ろうとする新たな信仰復興運動も、常に生まれて来たのである。

プロテスタントも、当初は信仰復興運動として始まった。この運動はその名の通り、何よりもカトリックの堕落や腐敗に対する抗議運動として登場し、既存の宗教組織に対する強い疑念のもとに、聖書に立ち返ることを目指して始まった。プロテスタントは、聖書の各国語への翻訳などの事実にも見られるように、それまでカトリックでは聖職者だけが独占していた聖書の真理についての知識を、一般大衆に解放すべく努力し、世界の隅々まで伝道を繰り広げることにより、無学で貧しい人々を含めた世界中のあらゆる人々に福音を宣べ伝えることをその使命とした。プロテスタントは、その興隆の時期が資本主義の発展に重なることにも見るように、大衆向けの大規模伝道を繰り広げ、それによって来たるべきマスメディアの発展の基礎をも築いた。

プロテスタントの中には、義憤に基づく革命的な体制転換の試みと、すでに述べたように、労働に基づく人間の自己変革の試みや、さらに、大規模に大衆に訴えかけるマーケティングの手法などといった、資本主義のみならず、その後の社会主義思想の土台ともなる発想や、現代社会における様々な大衆向けの運動の土台となる発想が山のように込められていたと言えるかも知れない。

しかしながら、そのプロテスタントも時と共に腐敗し、もともとこの運動が持っていた地上的な要素の問題が明らかになった。既存の宗教組織に対する強い抗議の精神は、カトリックなどの別宗派に向けられるだけでなく、プロテスタント内の信者たちにも向けられて、教義や解釈の違いからくる様々な相克や分裂を引き起こした。その結果、プロテスタントの中には、それぞれ異なる教義を提唱する数えきれないほどの教団教派が生まれ、さらにそれらの組織が互いに反目し合って、時には同士討ち的な争いを繰り広げ、教会同士のいがみあい、対立が常態化した。また、マスメディアを用いた一般大衆向けの大規模伝道も腐敗して行き、ペンテコステ運動の指導者のようないかがわしいにわか伝道者たちが、一獲千金のために大衆を欺いて繰り広げる偽りのミニストリーにも、存分に活躍の機会を提供することになった。

プロテスタントは、カトリックが隆盛を極めた時代に、聖職者たちだけによって独占されていた聖書の真理を一般大衆向けに解放するという点では、確かに巨大な役割を果たしたが、その解放は、不完全なものであった。プロテスタントは、カトリックのように統一された強固な聖職者のヒエラルキーを持たなかったものの、牧師制度を肯定していたことにより、神と信者との間に、キリスト以外の目に見える人間を仲介者として置き、信者が直接、神から御言葉を教わるのではなく、牧師という目に見える人間の理解や解釈のフィルターを通して、聖書の真理に接触するようにし向けたのである。

プロテスタントの信者は、特定の牧師の牧会する教会に身を置いている限り、どんなに自分自身で聖書に触れて理解しようとしても、結局、牧師の限られた理解の範疇から出ることを許されず、常に牧師という親鳥が咀嚼してかみ砕いた乳のような餌を、口づてに与えられる幼鳥の立場を抜け出せなかった。信者は教会の中で、もしも聖書について、牧師の理解と異なる主張をすれば、即、異端者として教会を追放されるしかなかった。このような牧師制度が生み出した制約は、信者一人一人の信仰の自主的な成長を妨げ、信者がキリストの身丈にまで達することを著しく妨げる要因となった。

結局、プロテスタントにおいては、聖書の真理が、カトリックの聖職者の独占状態からは解放されたものの、今度は、牧師によって独占され、信徒一人一人が、直接、キリストに結びつき、御霊によって直接、御言葉を教わりながら、キリストにある成人にまで成長するという、聖書によればごく当たり前の真理が、制度的に妨げられたのである。こうして、万民祭司の理念は、謳い文句にとどまり、実現しなかった。

プロテスタントの持つこのような制度的な欠陥のゆえに、やがてプロテスタントという宗派そのものが、聖書の真理を持ち運ぶ宮というより、聖職者階級を支えるための母体と化してしまった。それと共に、プロテスタントの大規模伝道の形態も堕落して行き、それは聖書の真理を忠実に大衆に伝えるものよりも、信者を欺いてこの母体の中に閉じ込める手段と化した。

大衆への大規模伝道を繰り広げることにより、プロテスタントが、全世界の隅々にまで福音を宣べ伝えるという使命を果たした時、この宗派は、それと同時に役目を終えたのだと言えるかも知れない。今やインターネットも普及し、ごく限られた僻地や少数民族を除いて、世界のどの場所でも、非キリスト教国であっても、聖書の福音に触れることは難しくない。

こうして、全世界に福音が届けられた時、クリスチャンの信仰生活には、それまでとは異なる時代がやって来たのである。それは、今までのように、対象を選ばずに無差別的に誰にでも福音が語られる時代から、福音を聞いた者が、聞いた御言葉に従うかどうかによって、一人一人の内面が試されるという時代である。

既存のキリスト教界の組織から脱出する者たちが現れていた当時、一時、「御言葉の飢饉」という言葉がよく聞かれた。それは、フェイクと化した大衆向けの伝道ばかりが巷に溢れる中で、真実、神に従いたいと願う純粋な信者たちが、心から御言葉を宣べ伝える声がほとんど聞かれなくなったという嘆きでもある。

万人に無差別的に福音を宣べ伝える大衆向けの伝道は、全世界に福音が宣べ伝えられた時点で、使命を終えたのだと言えるのではないかと思う。大衆伝道は、福音を知らない地域にいる福音を知らない者たちを対象にしてこそ意味があるのであって、福音を何度、聞いても、真理に聞き従う気のない者たちを対象にするのでは意味がない。また、信者たちが「堅い食物」を自分で採るようになって、聖職者階級を必要としなくなることがないよう、いつまでも信者を霊的幼児にとどめおくために、この世的な舞台演出のちりばめられた各種のいかがわしい大衆向けのミニストリーに引きつけておくのでは意味がない。

こうして、すでに使命を終えたにも関わらず、依然として、続行される無差別的な大衆伝道という手法は、ただ時代遅れであるだけでなく、有害な結果を招くようになった。教会は本来、聖書の神の救いを個人的に信じて受け入れ、贖われた者のためにあるはずにも関わらず、大衆伝道の旗を掲げているうちに、いつの間にか、不信者にも門戸を開き、教会の奉仕の対象が、神から大衆へとすり替わって行ったのである。

大衆伝道の旗を降ろさないために、教会は、御言葉に従順でなく、教会にも福音にも理解を示さない、この世の不信者ら(しばしばカルト宗教の信者)にさえ、自ら歩み寄って、贖われない大衆の利益に積極的に仕えることで、彼らの心を引こうとした。そうした妥協の結果、教会には不信者も数多く入り込み、贖われた者とそうでない者との区別は消え、教会はこの世の人々に対するマーケティングのために、ますますこの世的な手段を公然と駆使するようになり、聖書から遠ざかり、ただ大衆を喜ばせるための単なる奉仕活動の場へと転落して行った。
 
こうして、プロテスタントの多くの教会からは、世に厳しく罪を指摘して悔い改めを迫るメッセージや、心飢え渇いた信者たちに真にキリストの御言葉の衝撃力を伝えるメッセージが消え、教会は、すべてのものの上に立つかしらであり、一切の権威をこえる権威であるキリストの権威と支配を自ら捨てて、堕落したこの世の支配に屈し、その結果、世の支配下で踏みしだかれて、塩気を失ってしまったのである。
 
このように聖書から離れて世の方を向き、キリストの香りを失ったプロテスタントの多くの教会に代わって、今や、聖書の真理を担う、新たな信仰復興運動が必要とされているわけだが、その形態は、どのようなものになるのか、少し考えてみたい。

当ブログでは幾度となく繰り返し引用して来たオースチン-スパークスの「私たちのいのちなるキリスト」の一部をもう一度引用したい。

時代が終末――キリストの現れ――に向かって進むにつれて、二つの特徴がますます明らかになるでしょう。

一方において、事物、人、運動、制度、組織などが優勢になり、大衆を引きつけ、群衆をとらえるでしょう。
他方、そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだすでしょう。


こうしたことには三つの要素があるでしょう。

第一は、反キリストの原則の明確なる発展であり、それはキリストに取って代わるか、取って代わろうとするでしょう。

第二は、人造のキリスト教内のキリストご自身の代替物であり、自らの勢いで生成発展する偽りのいのちです

第三は、真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求です。

第一の場合、人間の力が崇拝され、ヒューマニズムが大いに氾濫し、人の驚異と栄光がたたえられるでしょう。第三の場合は、いのちであるキリストがすべてでしょう。

教え、伝統、制度、運動、人などの何物かにクリスチャンが帰属するなら、必ずいのちが制限される結果になるでしょう。そして、やがて混乱と幻滅が生じ、おそらくもっと悪いことになるでしょう。新約聖書がまごうことなく明らかにし、強調しているように、万物の運命は「キリストがすべてのすべて」となること
です。

この短い引用文の中に、奇跡や、お涙頂戴の信仰の証や、名だたる宗教指導者や、ヒューマニズムに支えられる各種の救済事業などを売り物にして、大衆の心を引きつけ、牧師制度を通して、人間に栄光を帰するプロテスタントの大衆伝道のあり方が、今日の終末の時代においては、むしろ、反キリストの支配の手段とされつつある現状を見ることができる。

神に仕えることを第一とせず、聖職者階級と、この世の一般大衆(人間)に奉仕することを何より重んじ、この世の社会を発展させることを目的に、各種の支援活動を繰り広げるプロテスタントは、もはやそれ自体が「人造のキリスト教」と化して、キリストの命を失っているのであり、それ自体がフェイクと言って差し支えない体系になっているのである。そこで一般大衆に提供される「支援」は、神の救いからはほど遠い、地上的・物質的な利益に過ぎず、そこで信者たちが行う熱心な奉仕や学びも、「自らの勢いで生成発展する偽りのいのち」であって、「キリストのまことの命の代替物」でしかない。どんなに信者が奉仕と学びを重ね、鍛錬を積んでも、キリストの真の命とは全く無関係のまま、堕落した「セルフ」は十字架の死を経ることはなく、ますます神に逆らう堕落した人間の自己と欲望が高められ、人類に栄光が帰されて終わるだけであって、そこに神の栄光につながるものは何も存在しない。

このように神への反逆の殿堂と化した「人造のキリスト教」の中から、大衆を苦難から救う救世主を騙る反キリストが登場して来るまで、もうあとほんのわずかな期間を残すばかりである。
 
これ以上、「人造のキリスト教」についての描写を続けることは無用であろう。それよりも、今回の記事では、「そうしたものへの失望と幻滅が増大し、少数の人々が主ご自身に立ち返り、彼だけが自分のいのちであることを見いだ」し、「真実、真理、主ご自身を知る内なる知識を求める、深い純粋な探求」が生まれるという、後半部分に主眼を置いており、ここにこそ、限りない希望を見いだしている。腐敗した偽りの体系からはエクソダスして、真実、神ご自身を求める信仰者の群れが出現するのである。

信者の人生には、決定的に重要な霊的「エクソダス」の瞬間が幾度かある。それは信者が偽りと知らずに接触して来たこの世の体系からの分離の瞬間である。その「エクソダス」の中には、偽りの宗教体系からの脱出も含まれる。

信者は、キリストと共なる十字架の死を通して、この世に対して死ぬことを知った後も、世と深くつながっている堕落した偽りの体系に知らずに接触することがあり、そのような場合には、真にキリストだけに従いたいなら、偽りと気づいた瞬間に、そこから自らを分離せねばならない。この分離は、信者が神に逆らう全ての思想から自分自身を分離することを意味し、必ずしも物理的・地理的な脱出を伴うものではない。

筆者のこれまでの経験からも言えるのは、信者の「エクソダス」の瞬間には、嵐のような多くの激変や圧迫が観察されることである。偽りの体系は自らの奴隷を一人でも逃がすまいと追っ手を遣わし、信者の人生には、しばしば、未だかつて起きなかったような圧迫がもたらされる。だが、モーセが民を率いてエジプトを脱出する際に、どれほどの苦労を払わねばならなかったかを考えれば、それは全く不思議な現象ではなく、さらに、それは信者が心を騒がせるに値する事件でもない。信者を引き戻そうとする全ての圧迫にも関わらず、御言葉の真実のゆえに、信者を「マトリックス」につないでいたへその緒は全て断ち切られ、ファラオの軍隊は水に沈み、エクソダスは完了するのである。

さて、2009年当時は、日本各地に、代償を伴う厳しいエクソダスの過程を経て、キリストに贖われた信者たちが、まるで若々しい新芽のように、あちらこちらに出現していた。その後、激しい暴風雨と、生い茂るいばらとあざみと、荒らし回る獰猛な野獣の中で、この新芽が消え去ったのか、それとも、やがて来るべき豊かな実りに備えて、地中深く根を下ろしながら、時を待っているのか、今はまだはっきりとは分からない。だが、いずれにしても、筆者は思うのである、もし信者が一度、神のために自分の生涯を残らず捧げる決意をしたならば、その召しは決して変わることはなく、たとえ自分の召しが分からなくなったように思える時でも、その約束は、神が覚えて下さり、その使命を果たすために必要な条件を神ご自身が整えて下さるだろうと。

「私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください」」(イザヤ6:8)

すでに書いたように、キリストのものとして贖われ、救いの確信があるからと言って、その信者には、常に神が分かるわけではない。神は遠くにおられるように感じられることもあれば、沈黙しておられることもある。黙示録を書いたヨハネも、パトモス島にあって、絶えず啓示を受け続けていたわけではない。偉大な霊的啓示が絶えずひっきりなしに信者の人生に注がれると思うなら、それは間違いであり、多くの沈黙の時、待ち望みの時、忍耐の時がある。啓示によって明白に示された真理さえ、自分の内に失われたかのように感じられる時がある。そして、信者が神を知ることができるのは、ただ霊の内だけであり、それはしばしばかすかな御声であり、信者の肉的な思いがこれをかき消してしまう。信者の人間的な感覚は神から絶えず離れており、神を知るのには役立たない。

だが、それにも関わらず、主に贖われた者が、神から引き離されることはなく、主を知る知識を切に求め続ける信者の純粋な探求と、神がどこにおられるのか分からないと言って、自己の外に神を探し求める人々の探求には決定的な違いがあると言えるのである。

それは、我々、聖徒らの心の内深くに、神に対する尽きることのない愛が、絶えず存在していることからも言える。見たこともない方をどうして信じ、愛し、崇めることができるのか、それは人には説明できない事柄である。我々は、肉眼で見るようにキリストの姿を見たり、耳でその声を聞いたり、この手で触れたりするわけではない。だが、それにも関わらず、キリストに思いを向ける時、この方が確かに生きておられ、我々の救い主であり、力強い助け主であり、世の終わりまで共にいて下さり、決して我々を見放されることはないということが、自然な水の流れのように、信仰告白として口をついて出て来るのである。

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。」(Ⅰペテロ1:8-9)

我々は、主を見ていないが、心から愛しており、再び地上に来られる姿を見ていないが、戻って来られることを信じており、主を待ち望むという召しに、心から光栄と喜びを感じている。

私たちは、自分の外に神を求めて探し回る必要はない。キリストは、信仰を通して、信じる者の内側に住んで下さり、御霊を通して、ご自身を現して下さるからである。そして、この方が信じる者に提供して下さっている完全な義、完全な贖い、完全な聖は、信仰を通じて確かに私たちのものであり、そして、やがて来るべき世で、神が私たちのために備えて下さっているはかり知れない相続財産のことをも、私たちは知っている。それらのはかり知れない恵みと、絶大な特権のゆえに、ただおそれかしこみつつ、喜びを持って、私たちは主を褒めたたえることをせずにいられないのである。

この尽きせぬ喜びと、賛美と、神に栄光を帰することが、私たちが確かに贖われた者であることを教えてくれる。神は我々にとって真にリアリティなるお方であり、まるで雛鳥が親鳥を見分けて鳴き、狐が自分の巣に帰るように、私たちは、喜びに満ちた確信を持って、この方こそ我々の創造主であると告白し、自分がこの方に確かに結ばれており、キリストのものとされていることを大胆に告白することができる。私たちは、すでにすべてのことを知ったなどとは言わない。キリストを十分に知ったとも言わない。ただキリストを知る知識をますます深く追い求めてはいるが、それでも、「神はどこにおられるのか」と言って、自分の外に神を探し求めたりはしないのである。

パウロは言った、「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。

私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それをちりあくたと思っています。

それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ3:7-9)

信者にとっては、キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、キリストを知る以前に持っていた全てのものは無価値となってしまう。キリスト以外の一切のものが「損」になるだけでなく、「無」にすらなる。これは、信者がキリスト以外のいっさいのものを「無だと感じている」とか、「無とみなそうとしている」ことを意味するのではなく、実際に「無になる(=無効化される、影響力を全く持たなくなる)」ことを意味する。

パウロは贖われる前に、人間的な観点から見れば、他の誰にもまして、誇るべきものを持っていた。生まれも、育ちも申し分なく、優れた業績や、落ち度のない立派な行いを誇ることができた。しかし、そのような「キリストを知る以前の自分自身」は、キリストと共に十字架につけられた時、一切合切、無いものとして墓の向こうへ追いやられたのである。

エクソダスの瞬間を超えたことがある信者ならば、きっと分かるであろうが、このようなことは、人が自分自身の力で達成できることではない。キリストと共なる十字架の死が適用されるまで、信者はあくまでこの世の人間であり、自分の生まれや、育ちや、知識や、経験や、能力や、業績や、世間からの評価や、地上的なつながりといった、ありとあらゆるこの世的な要素を引きずって、それらにより頼み、それらを心に留めて、そうした地上的な要素こそ、自分自身を形成するのだと思って生きている。それは、あまりにも深く慣れ親しんだ世界なので、それ以外の世界があり得るとは想像もできず、また、そこから自分自身の意志で脱出・分離するなど、到底、無理な相談である。

だが、信者に御言葉への信仰に基づいてキリスト共なる十字架における死が適用されると、それが実際となって成就した瞬間から、信者は、そのような地上的な要素が、自分に対して死んでいることを理解するのである。自分自身で何かを捨てようと努力するのではなく、かつて自分を構成していたこの世の要素が全て水に沈み、すでに完全に手の届かないところに去って、自分の思いや感情に触れなくなるのが分かるのである。

だから、信者がこの世においてかつてはあれほど大事にしていた地位、名誉、評判、業績、信者がこの世の人として持っていた過去の記憶や、この世の人々からの意見や評価や賛同などが、どんなものであれ、完全に「墓の向こう」へ行ってしまい、気にすべき事柄でなくなり、それがたとえ自分に関することであっても、信者の関心の対象でなくなり、聞かされても、思いに触れず、まるで他人事のように感じられるのである。

ちょうど死んで墓に入ってしまった故人が、自分についてこの世の人々の間でどんな会話が交わされていようと、一切、それを感じることも、注意を払うこともできないように、キリストと共に死んで神の内に隠されているキリスト者には、かつて自分自身であったものも含めて、この世の事象が触れることができなくなるのである。

そして、かつての地上的な出自に代わって、今度は、キリストにある者としての天的な出自が、信者にリアリティとして迫って来る。「もはや、私ではなくキリスト」となるのである。むろん、信者がキリストに変身するのではなく、信者の内に住んで下さっているキリストを、信者自身が見るわけでもない。それでも、信者の心の中に、もはや「私」はなく、キリストが住んで下さり、生きておられることを信じることができるのである。

信者は、たとえ復活の命の何たるかがまだよく分かっていなかったとしても、キリストの死を通して、自分に対する神の贖いが永遠に達成されており、自分がキリストのものとされていることが分かる。信者にはもはや「足りない」ということがなく、「取り返しがつかない」こともない。キリストにあって、信者はすべてに満たされている。だから、感謝を持って心に言うことができる。

主よ、あなたのためならば、私には何も惜しくはありません。
あなたのために、私が留保しているものはもう何もありません。
主よ、私の若い頃からの約束を覚えて、心に留めて下さい。
私は生涯、あなたのためだけに、捧げられた供え物であり、
もはや自分自身のために生きておりません。
あなたの栄光のために、私をお使い下さい。
私自身と、私の生涯は、残らずあなたのためにあり、
私は、あなたのものなのです。

信者は、命を投げ出して自分を贖って下さったキリストへの心からの応答として、愛を持って自分を捧げることができる。主と共なる十字架において自分に死んでしまえば、もはや留保しているものはなくなり、自分の生涯そのものを神への捧げものとして惜しむことなく差し出すことができる。

だが、それは決して人間的な思いに基づく情緒的な魂の愛の結びつきではないのである。その決意は、代償を伴うものであり、生涯に渡る御言葉への従順を通してしか達成できない。

イザヤ書では、「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と応答した預言者に衝撃的な言葉が告げられる。神の言葉を携えて世に出て行く預言者が、高貴な存在として、大衆に歓呼して受け入れられることはない。大衆が預言者の言葉を聞いて悔い改め、素直に神に立ち返ることで、大きな喜びと収穫がもたらされるとは、神は言われなかった。むしろ、逆の事柄が告げられたのである。

「行って、この民に言え。
聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」(イザヤ6:9-10)

これは旧約の時代も、新約の時代も変わらず同じである。神の言葉を託されて世のもとへ遣わされた預言者を、世は受け入れない。神の独り子として世の罪を贖うために遣わされた尊い小羊を、世は拒み、十字架につけて殺したように、イエスの弟子たちをも拒み、迫害した。世は何度、福音を聞かされても、己が罪から目を背けるために、これを拒み、イエスの復活の証人たちを憎み、排斥したのである。そうしたことが、今日になったからと言って、変わることは決してない。

だから、世人に福音を告げるというのは、すべてのキリスト者にとって命がけの召しであり、何らその個人にとって感覚的に喜ばしい、栄誉をもたらす光栄な使命ではない。この事実を見るにつけても、キリスト者の道は、大規模大衆伝道を通して、大衆と一体化して、この世の人々と手を携えて歩むことには決してないと分かる。

キリスト者は、復活の証人として、イエスの復活を、また、自分自身も信仰を通してイエスと共に死と復活にあずかっていることを、大胆に世に向かって語り続ける。しかし、世はそれを信じず、受け入れもしない。

だから、キリスト者は、世へ理解を求めず、絶えず神に向かって行く。世が神の言葉を受け入れない分、なおさらのこと、ただ一心に神に向かって行くのである。神は、贖われたキリスト者を、二度と世の友、世の奴隷として遣わされることなく、むしろ、ご自分の器として民の間から聖別して取り分けられる。キリスト者と世との間には、十字架が、永遠に交わることのない隔たりとして立てられている。

このようなことを聞くと、世人は言うであろう、「一体、それは、何のための救い、何のための贖いなのでしょうか。キリストを信じたがために、世から拒まれ、理解されなくなり、迫害されるのでは、信じた後では、信じる前より、生きることがより一層、苦しくなるだけで、どこに信じることのメリットがあるんですか。その上、過去に積み上げ来た業績も無になるのでは、神のためにすべてを捨てたキリスト者には、一体、何が残るのでしょうか。そんな人生に、どんな満足があるのでしょうか。」

世人にどんなに分からなくとも、キリスト者には何も残らないのではなく、「私」ではなく「キリスト」が残るのである。そして、それこそが、キリスト者にとってのはかり知れない満足である。なぜなら、この方にこそすべてが満ちているからである。キリスト者は、もはや自分自身の満足のために生きておらず、神の満足のために、神の栄光のために召し出された者であり、主と共に十字架の死によって、すでに水の中に沈み、分離したものを取り返したいとは願わないのである。

神の御心は、やがて万物がすべてキリストに服すること、「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられる」(ピリピ2:10-11)ことにこそある。

クリスチャンはすべてのものがキリストに服する来るべき世に向けて、「神および小羊にささげられる初穂として、人々の中から贖われた」(黙示14:4)者たちである。ここに「人々の中から」贖われたと書いてあり、「人々と共に」ではないことに注意したい。キリスト者は、世に対して死んだ者として、世人とは一線を画し、ただ神と小羊のためだけに、世から取り分けられて、召し出された人々である。だから、クリスチャンは福音を世に向かって語ることはしても、決して世と同化して、世人の利益に仕える僕とはならない。贖われた者はどこまでもただキリストの僕であって、もはや自分自身のものでさえないのである。

「あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。

キリストはすべての支配と権威のかしらです。

<…>あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです」(コロサイ2:8-12)

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。

あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
なたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです


私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。」(コロサイ3:1-4)

 



謙遜と信仰は、聖書においては、多くの人々が知っている以上に、密接な関係を持つものとされています。このことを、キリストのご生涯においてながめてみましょう。主がりっぱな信仰について語られた場合が二つあります。

主は「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言って百人隊長の信仰に驚嘆されました。それに対して彼は「先生を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません」と言ってはいないでしょうか。また、主から「ああ、あなたの信仰はりっぱです」と言われた母親は、小犬と呼ばれることに甘んじ、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも……パンくずはいただきます」と言わなかったでしょうか。

たましいをして神の御前になきに等しい者とするのは謙遜です。それはまた、信仰のすべての障害を取り除き、神に全面的によりたのまないことにより神に不名誉をもたらすことだけを恐れさせるのです。

主にある友よ。私たちが聖潔の探求において失敗する原因は、ここにあるのではないでしょうか。私たちの献身、私たちの信仰をこの上なく皮相的なものとし、この上なく短命なものとしていた理由はこれではないでしょうか。たとい私たちが知らなかったとしても。

高ぶりと自我が今なおひそかに私たちのうちに働いていること、神のみが私たちのうちにおはいりになり、その強い御力をお用いになることによってそれを追放することがおできになること――私たちは、これらのことを全く知りませんでした。私たちは、古い自我と全面的に取って代わる新しい神の性質のみが、私たちをほんとうに謙遜にすることを理解していませんでした。

絶対的な、不断の、普遍的な謙遜が、他の人に対するすべての取り扱いの基礎でなければならないとともに、またすべての祈り、すべての神への接近の基礎でもなければならないということ、そして全面的な謙遜、心のへりくだりなしに神を信じ、神に近づき、神の愛のうちに生きようとするのは、あたかも目なしに見、呼吸なしに生きようとするようなものであること――私たちは、これらのことを知らなかったのです。

主にある友よ。私たちは次のような失敗をしてはいなかったでしょうか。すなわち、信じようとして非常な努力をしながら、他方においては、高ぶった古い自我があって、それが神の祝福と富を所有しようとしているといった失敗をしていなかったでしょうか。私たちが信ずることができなかったのも無理もないことです。私たちの方針を変えましょう。

まず何よりも先に、神の力強い御手の下に、私たち自身が謙遜になりましょう。神は私たちを高くしてくださるでしょう。イエスがご自身を低くされた十字架、死、そして墓は、神の栄光への道であったのです。私たちの唯一の願い、私たちの熱烈な祈りの題目を、彼とともに、そして彼のようにへりくだることとしましょう。神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。

アンドリュー・マーレー著、『謙遜』、pp.65-67.


これまで、真の謙遜とは何かというテーマで連続して記事を書いてきた。各記事の冒頭に挙げているアンドリュー・マーレーの言葉は、記事本文とだいぶ調子が異なるため、ともすればどんな脈絡があるのかと問われそうにも感じられるが、それでも、謙遜というテーマについてのこの引用文はあえて残しておきたい。

上記のマーレーの文章の中から、今回は「神の祝福と富を所有する」という、クリスチャンが犯しうる大罪について注目したい。そして、多くのクリスチャンが謙遜への道だと誤解しながら、知らずに陥りがちな誤謬について、この場で考察しておきたいと思うのだ。

これまでの一連の記事において、筆者は、真の謙遜とは、キリストにあって自分は何者であるか、ということを信者が余すことなく認識し、神がキリストにあって自分にお与え下さった自由や権利を十全に行使できる状態にあることを指すと書いた。それは信じる者が、自分の不完全さにより頼まずに、神の完全さにより頼んで生きることである。

しかしながら、この世における謙遜は、これとは全く逆に、人が自分の不完全さを強く認識し、自己の欠点を己が努力によって克服しようと努めることによって、自己を抑圧するか、もしくは自分の正当な権利までも自主的に放棄して、自分を弱く、低く、無力に見せかけることを指す場合が多い、ということについて触れた。

ともすれば、以上に挙げたアンドリュー・マーレーの言葉も、そうした文脈で誤解されたり、悪用されたりする危険性があると言えるであろう。マーレーは書いている、「神の御前に、人々の前に私たちをへりくだらせるものは、どのようなものでも喜んで受け入れましょう。――これのみが、神の栄光への道なのです。」

このような言葉を使って、「神と人の前にへりくだりましょう」ということを口実として、教会の権威者や信者が、他の信者を組織の序列の中に組み込み、権威者の言い分に従うことを「へりくだり」であると思わせ、人の思惑の中に信者を拘束し、あるいは無権利状態に甘んじるよう誘導することはたやすい、と筆者は思う。しかし、マーレーはもちろん、そのようなことを意図して上記の文章を書いたわけではなく、人の目に謙遜だと評価されたいがために世の思惑や、人の思惑を気にして、それにがんじがらめに支配され、て生きることと、神の御前での謙遜は全く異なる事柄である。

神の目には、そもそも人間が自分の力で自分の欠点を克服しようとすること自体が、謙遜ではなく、むしろ、高慢である。神の御前の謙遜とは、人が自分の弱点や問題を自分の力でどうにかしようという希望を一切捨てて、自分そのものを全く処置不可能な堕落した存在として神に委ね、御言葉に基づいて、神がこれに霊的死を適用して下さった上で、十字架を通して新たな命によって生かして下さることに完全に期待することを意味する。

しかし、世間では、幾度も指摘してきた通り、それが全く逆にとらえられている。そして、その誤った考え方は、クリスチャンの間にも、根強く広まっている。今回は、そのようなことが起きる背後に、誤った世界観が横たわっていることを理解し、クリスチャンが以上のような誤謬に陥って人や世の思惑にがんじがらめにされることなく、キリストにある完全さ、自由を手にして、人としてあるべき姿に生きるヒントを見つけることができればと考えている。

信仰をもたない世間、特に我が国の一般社会では、もし人が世間から「謙虚な人間」とみなされたいならば、決してその人は自己の諸権利などについて主張せず、むしろ、自分に与えられている当然の権利を行使するにあたっても、自分はどれほどそうした権利に値しない未熟者であるかということをしきりにアピールする必要があるかのように思われている。自分の権利ばかりを当然のものとして主張する人間は、「わがままだ」とみなされてバッシングされる風潮が強いからである。

そこで、人は自分が権利ばかりを当然のように求めているわけではない、と見せかけるために、自己卑下を繰り返し、自分がいかに諸権利に値しない人間であるかを人前で強調するだけでなく、自分の未熟さや欠点にも積極的に言及し、己が欠点をどれほど切実に自覚しており、自分を未熟者と考えているか、自己の欠点を克服しようとどれほど真面目に努めているか、それにも関わらず、その痛ましいまでの努力が、今に至るまで、どれほど実を結んでいないか、ということをも、ワンセットで強調することが一種のお約束事となっている。

もし誰かが「これだけ努力したので、私はもう自己の欠点をすでに克服し、ひとかどの人間になりました。そこで、私は自分に与えられている諸権利に十全に値する人間となったと思いますので、この権利を当然のものとして要求します」などと言おうものならば、その人は世から「若造に過ぎないくせに、何と高慢なことを言うのか。厚かましく自分の権利を要求する前に、自分の果たすべき義務について考えろ。もっと果たすべき努力が残っているのではないか」などと言われ、バッシングされかねない風潮がある。そこで、人々はそういったことが起きないための自己防衛策として、「私は自分の欠点をよく自覚しており、自分が様々な権利に値しない未熟者であることをよく分かっています。そして、目下、欠点を克服する努力はしているのですが、残念ながら、未だ道半ばで、思ったほどの成果が出ていません。きっとそれも、私の努力が足りないせいか、あるいは私が愚かで知恵が足りないせいなのでしょう・・・」などと、どこまでも自己卑下を繰り返しながら、いかに自分が一人前の人間からほど遠いかを強調することが普通に行われている。そのような自己卑下を繰り返す人間が、世間では「謙虚だ。自分の分をわきまえている」とみなされるのである。

言い換えれば、この世においては、何事についても、「達成した」と言うこと自体をタブー視するような暗黙の風潮が存在するのである。何かを「達成した」と主張することは、「自分はひとかどの(一人前の)人間になった」と主張することに等しいが、生きた人間が「一人前の人間」になること自体、社会では、一種のタブーとみなされていると言っても良い。そこで、誰かが何かを「達成した!」と述べと、それ自体が、「とんでもない高慢だ」とみなされる危険性があるのだ。

むろん、キリスト者ならば、なすべきことを「達成」された方は、キリストお一人であることをよく知っている。私たち信仰者は、キリストの十字架における死と復活に同形化されることによって、彼の達成された御業を自分のものとして受け取る。彼の御業にこそ、キリストにあって、信者が受けとることのできる完全さ、安息、自由、達成が存在する。ただキリストにあってのみ、彼の死と復活と一体となることによってのみ、信者は自己の努力による一切のもがきをやめて、自分自身を神に受け入れられる清く、貴く、完全な人間とみなして、安息することができる。それはただ御子の達成された御業によるのであって、信者の自己の努力の結果ではない。

キリストの中にこそ、「完全な(成熟した一人前の)人間」が存在する。信者は地上においては霊的に幼子のようで未熟であったとしても、キリストを信じて受け入れた時から、神の目には、彼の完全さをデポジットのように受けとっているのである。

だからこそ、信者はキリストにあって安息し、自分の未熟さを自分で克服するための努力をやめて、御子との達成の中で安らぐことができる。キリストにあって、自分を不完全で罪深く未熟な存在とみなして、責め続けたり、卑下することをやめて、キリストを通して、彼の持っておられる権威、自由、祝福を受け取り、これを行使することができる。ところが、そのようにキリストにあって信者が新しい自己の完全を受け取って生きることをも、世の風潮は「高慢だ」とみなして、激しくバッシングする。そして、あろうことか、この世的な偽りの「謙遜」の概念に欺かれた信者が、自分ばかりか、他の信者からも、神がキリストを通してその信者にお与え下さった権利を奪い取り、自由を妨げようとすることも、しばしば起きている。だが、そのようなことは神の御心ではない。神は人を自由にするために、御子を送って御業を成し遂げられたのであって、「謙遜」の名の下に、人間の思惑に信者をがんじがらめにするために十字架が存在するのではないからである。

そのような歪んだ捉え方が生まれる背後には、(グノーシス主義的)世界観がある。(ここで言うグノーシス主義的価値観とは、聖書のまことの神の御言葉に基づかない異教的価値観の総称として、筆者が広義で用いているものである。)

長い説明はさて置き、ここでは結論のみ述べたいのだが、たとえば、仏教では、仏陀は死後も現在に至るまで修業中ということになっているが、こうしたところに、グノーシス主義的世界観が顕著に表れていると言えるのではないかと思う。グノーシス主義とは、一言で言えば、人類が自らの努力によって神の叡智に達するための、果てしない探索の過程だと言えるかも知れない。しかしながら、クリスチャンであれば、誰しも分かっている通り、人類が自己の努力によって「叡智」に達し、それによって安息を得る日は決して来ない。だから、そこで言われている「悟り」というものは、事実上、あってないようなものだと考えて良い。死後、何百年間と終わらない修行によって得られる「悟り」などというものは、一種の言葉遊びのようなもので、無に等しいと言って差し支えない。さらに、すでに悟りを得た人間が、死後に至るまでも、さらなる悟りに達するために修行を積まねばならないのだとすれば、そのような人間の弟子となった人間の誰も師匠を超える悟りに達し得ないのは当然である。つまり、こうした世界観においては、人は死後に至るまでも、終わりなき永遠の努力を続けるしか道がないのである。

グノーシス主義的な世界観には、必ず、終わりなき無限のヒエラルキーがつきものであり、こうした世界観が反映する社会でも、無限のヒエラルキーが肯定される。そこでは、この世だけでなく、死後の世界においても、霊界のヒエラルキーなどというものがあることにされて、人の霊魂は、生前のみならず、死後においても、さらなる高みに上昇するために、絶えざる努力(修行)を積まねばならない決まりになっている。

つまり、グノーシス主義的世界観とは、人間の霊魂が(神のような高みに)上昇することを至上の価値とする考え方だと言うこともできるものと思う。ところが、その世界観においては、上昇するための梯子は無限であるため、どれだけ人が修行を積んでも、達成したという時が来ないのである。仏陀が未だ修行中なのも、霊界におけるヒエラルキーをさらに上に昇って行くための修行が続いているためであり、それは言い換えれば、人の魂が修行という「自己の努力」によって、「神」の高みに達しようという試行錯誤は、永遠に終わらないことを象徴的に指している。

言い換えるならば、その霊魂上昇のための終わりなき努力は、ルターが自力で登ろうとしてあきらめたピラトの階段にもたとえられよう。よく知られているように、ルターは贖罪のためにピラトの階段をひざで這い上っているうちに、人間が自力で神に到達することは不可能であるという聖書の真理に気づいて、「義人は信仰によって生きる(=人はキリストによらず、自己の努力によって神に贖われて義とされることはできない)」という結論に達し、果てしない階段を自力で上り続けることによって、自分で自分を贖い、神の聖に達しようとの努力を放棄した。

だが、信仰によって生きない不信者は、今でもこの階段を膝で登り続けている。場合によっては、死後に至るまでも、その努力はやまないのである。

多少、話は脱線するようだが、筆者はこれまで、日本の官僚制度や牧師制度などを強く批判して来たが、それはこうした制度の背後に、グノーシス主義的な無限のヒエラルキーの階段が潜んでいると考えているためである。つまり、こうした制度は単なる制度ではなく、ある種の世界観の反映として出来上がっているものなのである。

現存する社会の制度や仕組みの背後には、必ず、それに相応する目に見えない価値観・世界観が存在する。一つの制度が生まれて来る背景には、それを肯定し、生み出す原動力となった何らかの宗教・哲学的イデオロギーが必ず存在しているのである。この点に注目しなければ、ただ人の目に時代錯誤で歪んだものと見える社会制度だけをどれほど糾弾したところで、その制度の本質にまで迫って、制度自体が根本的に悪であるということを訴えることはできない。そして、歪んだ制度を支える世界観とは何かという問題を追求して行くと、ほとんどの場合、結局、グノーシス主義の終わりなきヒエラルキーに行き着くのである。

たとえば、官僚制の背後には、人に抜きんでて優秀な人間とみなされるための努力を積んで、学校で良い成績をおさめ、受験競争を勝ち抜いて、より良い就職口を得て、組織内で出世し、高給と安定的な暮らしを経て、国を動かすような組織の頂点に立つことを至高の価値とするような価値観がある。それは、人の人生とは、他者に抜きんでてエリートの階段を上って行くための絶え間ない努力の過程である、という価値観を象徴している。

牧師制度もそれによく似て、献身して神学校に入り、特別な教えを受ければ、その信者は、他の信徒とは別格の霊的な祝福を得て、信徒の模範的存在になれるかのような考えに基づいている。こうした考えには、学習を積み、知恵を手に入れた人間は、他の人間よりも優れた価値ある別格の存在として、他の人間の及ばない有利な待遇を手に入れるに値する人間となる、という前提がある。教会においては、学習を積んで、エリート的な指導者になったからこそ、牧師はその奉仕に報酬をもらうことが教会内で認められるが、信徒の奉仕は無償なのである。

このようなものは、人間の平等、信徒の平等の原則に反するエリート制度であり、聖書に合致する概念でもない。そこにあるのは、偽りの霊界のヒエラルキーの階段を上り続けた人間だけが、優れた価値ある人間になる、グノーシス主義的世界観である。

なぜキリスト教界からのエクソダスなどを筆者が唱え続けているのか、その理由もここにある。それは、既存の教会組織においては当然のものとみなされている牧師制度や(もしくはカトリックのような聖職者のヒエラルキーは)、根本的に聖書の御言葉に反しており、信徒の平等を否定するものだからである。

そのような階級制度、ヒエラルキーは、官僚制度が憲法に違反しているのと同じくらい、聖書の御言葉に反している。これは聖書的な制度ではなく、むしろ、グノーシス主義的・異教的価値観を取り込んで成立したものであり、教会の堕落やこの世との妥協を示す一例である。この問題については以下でもう少し詳しく触れる。

我が国を含め、非聖書的なグノーシス主義的世界観の支配する社会では、序列というものがほとんど絶対化され、人間存在は、無限のヒエラルキーの階段を上昇し続けるためだけに生きているかのようにとらえる。

たとえば、現在の我が国の至るところに蔓延する長時間残業の習慣化といった現象などにも見られるのは、合理性よりも、情緒的かつ無意味な、うわべだけの「頑張り」や「自己犠牲」を評価し、奨励する風潮である。効率的に仕事を終えて、定時にすべての課題を「達成して」帰宅する社員よりも、非効率的に仕事をして遅くまで会社に残って残業し、いつまでも課題が達成できないと嘆きながら奮闘している社員の方が、上司から高く評価されるといったナンセンスな評価が起きて来るのも、その背後に、以上のような考え方が存在するためである。

グノーシス主義的世界観においては、人間存在はどこまで行っても「道半ば」であって、終わりなき霊魂上昇の梯子を上り続けるための道具でしかない。この世界観において、絶対的な価値を誇っているのは、霊魂上昇のための永遠の梯子だけであって、人間はその梯子によって値踏みされる存在でしかない。だからこそ、人の人生は終わりなき苦行の連続であって、そこに完全さや、達成は存在せず、人が安息することは、死後になっても、永遠に許されないのである。

そこでは、どんなに努力しても、人は「ひとかどの人間」には到達しない。どんなに懸命に階段を上っても、その階段には終わりがなく、一つ課題を終えても、次から次へとさらなる課題がやって来るだけで、いつまでも「努力中」という看板を下ろすことが許されない。たとえ何か一つの事を達成してみたところで、それは果てしないヒエラルキーの梯子全体から見れば、無にも等しい。だから、このような価値観においては、人間の努力は全く報われず、人は何事も「達成した」と言ってはいけないという暗黙の前提が存在するのである。

ある意味では、早くそのカラクリを見抜いて、「努力中」という看板を表向きにだけ掲げておいて、その実、サボタージュに及んだ人間の方が、必死で努力し続けて報われない人生を送る人間よりもまだ賢いということになる。

だからこそ、そのような世界観の中で、己が霊魂を上昇させるための絶えざる努力をずっと続けている人々には、どういうわけか、お決まりのように、悲劇的かつ逆説的な現象が起きて来て、いつの間にか、彼らが口で唱えているご大層な理想と、彼ら自身の現実のありようが正反対のものとなり、その乖離状態・偽善性が誰しも否定できないまでになって、その矛盾を他者から指摘されてさえ、「どうせ私は努力中の身で道半ばですから」ということを口実に、自らの未熟さ・不完全さに居直るまでに至る人々が出現するのである。こうした人々にあっては、自己の努力などといったものは、単なるアリバイ工作でしかない。

このようなものは、人の努力や願いそのものをあざ笑うかのような、実に絶望的かつ悪意ある世界観である、と思わざるを得ない。このような世界観に基づいて成立していればこそ、この社会においては、人は自分がいかに未熟者であるかを強調することによって、自己卑下を繰り返さざるを得ず、自分がいかに何かを「達成した」と言える「ひとかどの人間」からかけ離れているかを、絶えず口にしないわけにいかないのである。

出る杭は打たれる」などという風潮も、その意味において単なる風潮ではなく、その背後にあるのは、グノーシス主義的世界観である。そこでは必死の努力を積んで何かを「達成した」と述べた人間が「高慢だ」とバッシングされ、「未半ばで努力中です」という看板だけを掲げて自己の欠点に居直っている人間の方が、「謙虚だ」とみなされるのである。

この世界観は人間にとって大変不幸なものである。このような世界観においては、いつまで経っても、人の努力が認められ、何かを達成したと、堂々と胸を張って安息できる日は来ない。仏陀ですら今も修行中なのだから、人間が修行から解放される時は死後も永遠に来ない。このような世界観は、非常に歪んだ、悪意ある、人を不幸にするだけのものである。それは常に言う、「人間存在とは、自己の努力によって、(いつかは神に達するために)、ピラトの階段を上り続ける宿命を負った存在だ。その苦役から永久に解放されることはできない。それをまだ始めたばかりの人間が、自分は何かを達成し、特別にこの苦役から解放されので、もう努力する必要はなくなった、などと思うのはとんでもない思い上がりだ」と。

ただし、この世界観においては、永久に達成も安息もやって来ないかも知れないが、人は自分の必死の努力のおかげで、梯子をいくらか上に昇り、下界にうごめいている無知蒙昧な衆生に比べれば、いくらかましな存在になったと自己満足する程度のことは許されるかも知れない。そのような優越感・特権意識だけが、この終わりなき梯子を自力で昇って行くというむなしい報われない努力に生きる人々を支える原動力となっているのである。

だから、こうした考えが根底に横たわっている社会においては、個人の絶対的な価値というものは否定されるのは仕方がないであろう。なぜなら、そこでは個人の価値とは、ヒエラルキーをどれだけ昇ったかによって変わって来るものだとみなされているからである。結局、そこでは、個人というものは、端的に言えば、人類が自己の努力によって神に到達するための道具でしかないのである。「神に到達する」と言えばまだ聞こえは良いかも知れないが、現実は、特攻と同じくらい、達成不可能かつ無謀な目的のために、永遠に奉仕させられる道具なのである。ただ各種の偽りの美徳でおだてられて、自分の進歩に鼻高々になっているために、この偽りの梯子の操り人形となっている個人は、自分が何をさせられているのか分からないだけである。

さて、話を戻すと、クリスチャンでさえ、以上のようなこの世的な偽りの世界観に立って、信仰生活における自らの進歩のなさを克服するために、熱心な勉強会を開いたり、祈祷会を開いたり、あるいは懸命に霊的なハウツー本のようなものを探し出して来て、クリスチャン同士教え合ったり、優れたクリスチャンの功績に習おうと頑張っているという現状がある。

この世的な観点から見れば、そのように自己の不完全さを自覚して、足りないものを補うために、熱心に勉強している信者の姿は、謙虚に見えるかも知れない。だが、一つまかり間違えば、このような勉強熱心さは、神の御前では、謙遜とは無関係であるばかりか、「神の祝福、富を、(人間が自己の力で)所有しようとする」大いなる高慢、大罪に相当する恐れが十分にある。

前回の記事において、エクレシアという語に「教会」という訳語を割り当てること自体が、不適切である、と筆者は書いた。

今日、当然のごとく使われているキリスト「教」、「教会」という呼び名は、他に相当する語がないため、一般に使用を控えることが難しい状況があるが、本当のことを言えば、これは聖書の御言葉の本質を適切に表すにふさわしい訳語とは呼べない。

そもそもキリスト教は、人間の作った「教え」ではなく、イエス・キリストを開祖としてできた宗教哲学でもなく、エクレシアとは「教える会」ではなく、「クリスチャン」のという語のもともとの由来は「キリストに属する者」という意味であり、英語の"christianity"という単語にしても、「教え」という意味は含まれていない。にも関わらず、この訳語に「教」という語が入っていること自体、不適切かつ誤解を呼ぶものだと言える。

このように不適切な訳語が割り当てられているために、キリスト教には「教え」の要素が色濃く強調されているのだが、 筆者の考えでは、これは決して偶然に起きたことではなく、ここにも、牧師制度と同じほどにグノーシス主義的価値観の反映が見られるように感じられてならない。

つまり、この訳語のために、信者の間でさえ、教会というところは、あたかも「霊的偏差値を上げるための熱心な勉強会」のようにとらえられているのである。だが、それは御言葉の正しい解釈ではなく、人間の驕りに基づくとんでもない勘違いでしかない。

前回の記事において、信者は聖書が教えている通りに、キリストご自身から、御霊を通して、御言葉を直接、教わるべきであって、人間の指導者から教えを受ける必要はないことを書いた。たとえ信徒同士で励まし合ったり、戒め合ったりすることが有益であるにせよ、信徒がキリストご自身の役割を奪ってまで、他の信徒を教える立場に立ち、他の信者を自らの精神的指導下に「弟子化」して行くことは誤っているという考えを述べた。特に、ネズミ講のような目に見えないピラミッド体系を作り、上に立つ信者が配下にいる信者から様々な諸権利を奪い取り、不当な自己犠牲を強いることによって、奉仕を受けたり、栄光を受けたりして、霊的搾取に及ぶなど言語道断である。

それにも関わらず、霊的先人たちの教えを「教本」のように用いながら、他の信者に対して、教師然と君臨し、教える立場に立とうとする信徒は枚挙に暇がなく、またそのような教師や指導者になりたがる信者に、自ら教わろうとして弟子化されていく信徒も終わりがない。このようなものこそ、まさに人間による「教え」によって作り出された霊的搾取と支配のためのヒエラルキーの体系なのである。

しかも、すでに述べたことであるが、今日、たとえば、ウォッチマン・ニーであれ、オズワルド・チェンバースであれ、誰であっても構わないが、霊的先人たちの教えをしきりに引用しては、他者を教える立場に立ち、熱心な学びをアピールしている信徒のうち、どれほどの人々が、自ら教えていることに忠実に生きているかを見てみれば良い。残念ながら、その圧倒的大多数は、心からその教えに従いたいと願っているというよりも、むしろ、自らの本質を覆い隠すための二枚舌、アリバイ工作として、霊的先人の教えを表向きに掲げているに過ぎない、という現状が見えて来る。先人たちの教えを数多くストックしつつ、他者を教え、自分も学んでいることをしきりにアピールしている実に数多くの信者が、口先で唱えている教えとは正反対の生活を恥ずかしげもなく送り、自らの信念を裏切っているのである。一体、そのような偽善的な人々の「説教好き」や「勉強熱心さ」は、どこから来たものなのかを、我々は今一度、吟味してみなければならない。

アダムとエバが、神に対して最初に罪を犯し、堕落したきっかけは、彼らが、神が許された限度を超えて、自分たちの力で霊的な高みに上り、「神のようになろう」としたことであった、という事実を思うとき、信徒が霊的な進歩を追い求めて、自ら熱心な学びを進めようとすることに潜む大いなる落とし穴の存在を思わずにいられない。

信者がカルバリの十字架において、この世的な栄光を一切奪われたところで、キリストご自身の死に同形化されて、ただ神からの栄誉のみを求めて、御霊によって教わるのではなく、信者がキリストの十字架の死という土台を離れたところで、この世や、周りにいる信者たちから、「熱心に努力している優秀な信徒」とみなされて好評を博し、拍手を受け、自己満足・自己肯定することを目的に、御霊が教えてくれるのを待たずに、自ら様々な教本に手を伸ばし、その学びを通して神に近づこうとすることは、大変危険な行為である。それは人類が自らの力で霊的に進歩し、神に到達しようという欲望そのものを表す行為であると言って差し支えないからだ。

たとえば、ローカルチャーチを批判しながらも、ウォッチマン・ニーの教本を長い間使用し、ついに自分たちを神だと宣言したKFCとDr.Lukeの例を考えてみる意義は大きいであろう。彼らが引用していた「教本」は、ウォッチマン・ニーに限らず、様々な聖霊派の教えや、心理学や、脳についての非科学的な発表など、多岐に渡る知識の寄せ集めであったが、それらすべての人工呼吸器や点滴のような知識の「栄養補給」が彼らにもたらした結論は、そうした学びによって、彼らが「神に到達した」という結論だけだったのである。

このような宣言は、決して御霊に導かれる信者から出て来ることはないものである。彼らの学びの意欲は、彼らを謙遜に導くことは決してなく、彼らをますます高慢にして行き、ついに神の高みに自力で達し得たと豪語するまでのところまで、彼らを導いたのである。キリスト教界とローカルチャーチの欺瞞を批判していた人々が、批判していた対象と全く同じ偽りに陥ったことに注意したい。

こうした事実から察するに、この人々が手に取った「知識」とは、御霊から来るものではなく、サタンから来る「人が神になるためのノウハウ」であった、と考えるのが妥当である。

筆者は、すべての霊的先人が間違った記述を残していると言うつもりはなく、中には御霊に導かれて書き残された記述もあることだろうと思う。これまで筆者自身が、そうした記述から有益な霊的な糧を受け取ったこともあれば、そうしたものを紹介してくれた信者から、必要な御言葉を聞いたこともある。だから、こうした「教本」のすべてが無益でむなしいものだと主張しているわけではなく、また、信者がそれらから学ぶことが皆無で、全く有害でしかないと言うわけでもない。

だが、よくよく覚えておかなくてはならないことは、どんなに霊的先人たちの残した記述が優れているとしても、信者がそのような記述を可能な限り身の回りにかき集めて来て、自分の知識の本棚にストックし、クジャクの羽をつけたカラスのように見せびらかしたからと言って、それによって、カラスがクジャクになることは決してない、という事実である。キリストとの直接の交わりがなければ、どんなに優れた先人の残したどんなに優れた知識をどれほど大量に蓄積したところで、それによって、その信者の堕落した自己の本質は決して寸分たりとも変わりはしないのである。その信者は、そのような学習によっては、一歩もキリストに近づくことはなく、むしろ、そのような方法でこうした「教本」を利用すると、どんなに優れた学習教材も、その信者が自己の本質を偽り、自分を飾るためのイチヂクの葉以上の効果を全く持たないものとなってしまう。

しかし、こうした問題について、KFCだけを断罪するのは当たらないであろうと思う。というのは、類似した問題が、キリスト教界全体に起きているからである。筆者が何を言いたいか、もうお分かりの読者もいるかも知れない。

キリスト教は人間の作り出した言い伝えや教えではなく、エクレシアは「教える会」(勉強会)ではないにも関わらず、それが意図的に「教会」と訳され、その訳語のために、エクレシアが霊的偏差値をさらに高めるための勉強会のようにみなされている背景には、エクレシアの本質を何かしら別物にすり替えようとする暗闇の勢力の意図が働いているのではないかと思わざるを得ない。

一体、何のための「勉強会」なのであろうか? そこで教えられているものとは何なのか? 

端的に言えば、そこで教えられているのは、「人が神になるためのノウハウ」なのである。その点で、今日、キリスト教界で広がっている光景は、主イエスが地上に来られた時の宗教家たちの姿とさほど変わらないものだと言えよう。当時の律法学者やパリサイ人たちは人一倍、神に近づくことに熱心な人々であった。彼らは律法を守り、落ち度なく行動し、聖書にも精通しており、人からも尊敬を受けていた。そして、彼らは自分たちの宗教熱心さのゆえに、自分自身を神にも等しい聖なる存在のようにみなしていた。それにも関わらず、実際は、彼らの熱心な努力は、彼らを神に近づけることは全くなかったのである。主イエスは彼らの偽善性を指摘してこれを罪として非難された。

今日の状況もそれとよく似ている。人前に何の栄光ももたらさない十字架の死という土台にとどまって、信者がただキリストご自身が、御霊によって、直接、信者の霊に啓示を与えて下さるのを待つかわりに、手っ取り早く人間が自ら作り出した学習教材に手を伸ばし、そこから疑似的な啓示を受け、そこで受けた刺激や感化を通して、自分を飾り、あたかも自分がそれによってキリストに近づき、人間性が改善・進歩したかのような錯覚に陥っている。それはどこまで行っても、神を抜きにした人類の独りよがりな自己改造の努力に過ぎないのだが、それが分からなくなった信者は、そのようなヴァーチャルな変化を積み重ねて行くことにより、神との合一に達しうるかのように考え、ついには神に達したと宣言するまでに至っている。このヴァーチャルかつ偽りの自己改造の努力を、会員全体で積み上げることによって、皆で霊的偏差値を上げてキリストに近づき、到達しましょうというのが、「教会」という訳語が本来的に意図する目的なのではあるまいかと筆者は考えずにいられない。

そのように考えると、今まで教会について疑問に思われたすべてが腑に落ち、納得できるのである。今日のキリスト教界がなぜ現状のような有様になっているのか、なぜとりわけ熱心そうに見える教師然とした信徒たちが、恐るべき偽善的な生活を恥ずかしげもなく送ることができるのか、なぜ信者間に競争があり、差別があり、排除があり、同胞を貶め、排除しながら、特定の集会に居残った人たちが、まるで神に選ばれたエリートであるかのように勝ち誇るといった現象が起きているのか、すべてがよく理解できるのである。

それは、彼らが信仰の名のもとに目指しているものが、キリストご自身によらずに、自分たち人間の力で神に到達し、神の聖なる性質を我が物とすることだからである。一言で言えば、彼らは霊的な淘汰の競争を勝ち抜いて、霊的なヒエラルキーの階段を高みに駆け上って、自ら神の選民となり、神と合一することを目指しているのだと言える。

だが、そのような願いは御霊から出て来た思いではない。だからこそ、そのようなこの世的な歪んだ競争原理、淘汰の原則の働くところ、もっと言えば、霊的な優生思想とで呼んでも差し支えない悪しき歪んだイデオロギーの支配する場所では、様々な不幸な現象が起きて来ることは避けられず、それはもはや一部の教会だけがカルト化しているなどといった次元の問題ではないのである。にも関わらず、キリスト教界組織そのものに根本原因があることを見ずして、キリスト教界がキリスト教界を取り締まるために、自らが繰り広げるカルト被害者救済活動など、全く根本的な対策とはならないのは当然である。

信徒間にヒエラルキーを作り出し、霊的支配と搾取を肯定し、ただ神からの栄誉を求めるのではなく、世と人前でに栄誉を受けることを求め、神の働きを静かに待ち望むのでなく、人間の側からの熱心な努力により頼んで、神に近づき、神の聖に至りつこうとしている今日のキリスト教界そのものが、「ピラトの階段」と化しているのである。

霊的な進歩を求めて熱心に学習を積むことは、人の目には善良なことのように映るであろう。しかし、神の目には、神ご自身から生まれたものでなければ、決して価値あるものと評価されることはない。そして、神からの栄誉と人からの栄誉を同時に受けることは決してできない。神の祝福や富が人間に注がれるためには、カルバリの十字架における霊的死がどうしても必要なのであり、人の古き自己が完全に焼き尽くされ、灰にされた地点でのみ、神からの祝福がその人に注がれるのである。

にも関わらず、人前での栄誉、世からの栄誉を追い求め、これを完全に失う十字架の死の地点を経由していないのに、信者が自己の努力で様々な学習を積んで、神の聖に近づこうとすることは、神を抜きにして、人が神に到達しようとする驕りである。そのような学習を通じて得られる知識は、信者を高ぶりに陥らせるだけで、決して神に近づけることはない。

繰り返すが、人が神に到達する道は、十字架以外には存在しない。その十字架は、人前に何の栄光もなく、その道は、人前に「熱心で模範的な優秀な信徒」や、「優れた霊的賜物を持つ教師」などとみなされて評価され、誉めそやされて脚光を浴び、感謝と拍手を受けて、栄光化されることとは全く相容れない道である。



オリーブ園の新着ブログに、オースチン-スパークスの「主の御腕」が掲載されている。

 誰もが知っているイザヤ53章、キリストに関するあの有名な詩編は、次のように始まる。

「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。
 の御腕は、だれに現れたのか。」(イザヤ53:1)

これは矛盾に満ちた始まりである。オースチン-スパークスは記事全体を通して問いかける。「主の御腕は誰に向かって伸ばされたのか?」と。つまり、「神は誰を擁護されたのか?」、「神が満足される人の姿とは、どのようなもので、どのような条件を備えた人を、神はご自分の僕として力強く弁護されるのか?」
 
この問いかけが極めて重要なのは、それが次のようなくだりとも呼応しているからだ。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が、みな天の御国にはいるのではなく、ただ、天におられるわたしの父みこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)。

「主よ、主よ」と日々熱心に祈る人々は、いかにも外見は敬虔そうで、天の御国にふさわしい信者に見えるかも知れない。多くの証を語り、ひざまずいて涙して祈り、たくさんの奇跡を経験し、人々をキリストのもとへ導いているように見える信者たちがあるかも知れない。

だが、神は、あくまで人の外見や行動ではなく、心をご覧になられる。その人が何をしゃべり、行なっているかではなく、その人が「父のみこころを行なっているかどうか」を基準にすべてを判断されるのである。

そして、一体、「父のみこころ」とは何であるのか。イザヤ書の上記のくだりを読んで行くと、神が満足される条件を備えていたただひとりの人であるキリストは、何ら人の目から見て賞賛されるべき特徴を持たなかったこと、世間で敬虔な信者として認められるために今日多くの人々が熱心に求めているすべての条件において、むしろ完全に規格から外れていたことが分かる。

「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
 輝きもなく、
 私たちが慕うような見ばえもない。
 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
 悲しみの人で病を知っていた。
 人が顔をそむけるほどさげすまれ、
 私たちも彼を尊ばなかった。」(イザヤ53:2-3)

このような人は、今日の教会からも「のけ者にされ」相手にはされるまいと思う。

だが、今日、信者は、イエスに従い、日々自分の十字架を負って彼に従おうと決意するとき、果たして、自分も主が通られたこの道を通り、父なる神の御心を真に満足させる人となりたいと願うだろうか?

たとえ自分の願望が否定され、自分のプライド、名誉欲が傷つけられ、人に賞賛されることなく、疎んじられ、裏切られ、蔑まれることになっても、本当に、古き自己のものが十字架につけられ、自分が主の御前に恥を受け、低められることに甘んじることができるだろうか? そのようなことを人は決して自ら願わないが、もし主の御心ならば、自分がキリスト共に十字架につけられることに信者は同意することができるだろうか?

聖書にはこんなくだりもある、

「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。

それはあなたがたのあかしをする機会となります。それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論できず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。

しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」(ルカ21:10-19)

そろそろ、この終わりの記述が少しずつ近づいて来たようである。殉教者以外は「髪の毛一筋も失われることはない」と言われている。それが復活の体のことなのか、それとも、地上における体を指しているのか、筆者には分からない。

主がご自分に忠実に従う者を守って下さることがよく分かる記述である。おそらく、もし殉教しなければならない者がいるとすれば、そのことも主は事前に知らせて下さるだろうと筆者は確信している。

だが、それにしても、とにかく、すさまじい記述である。「両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られる」。誰がそのようなことを願うであろうか。

しかし、筆者はこれをあらかた実際に経験して来たのでよく意味が分かる。特に今日、クリスチャンを名乗る者がクリスチャンを裏切り、売り渡すということがどれほど現実味を帯びているか、よく理解できる。十字架に敵対する者、十字架を通らずに神に至ろうとする者があまりにも多いからである。

そこで、もし自分の十字架を真に負って主イエスに従おうとする者が現れるなら、この世全体が(特に、クリスチャンを名乗っている者たちが)立ち上がって反対する、「そのようなことは正気の沙汰ではないのでどうかやめてくれ、あなた一人に本当に十字架に赴かれたら、我々全員の嘘がバレるので迷惑だ、どうか我々の商売を妨害しないでくれ」と言って引き留めようとする。その説得もかなわないと、ついに「狂信者」というレッテルを貼って排斥するのである。人を喜ばせる偽りの砂糖菓子のような「十字架」を拒み、この世と調子を合わせたご都合主義的な福音と訣別し、真に聖書の御言葉に立脚して生きるような信者は「悪魔の使い」とされて排斥される、今日の情けない似非信仰者たちの実態である。

そういう者たちからの裏切りが起きたときには、人は混乱したり、原因を色々考えたりしない方が良い。原因を探す必要などない。それは聖書が予告していることだからである。

だが、それにしても、筆者の経験も、まだ聖書の記述の深さにまでは達していない。似たようなところは常に通ってはきたが、いつもどこかに祈ってくれる者や、励ましてくれる者たちも主が備えて下さり、「わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」言葉という言葉の深さにまでは達していない。次第に、しかし、時が縮まっていることは感じられる。

主イエスは最も身近な弟子たちにも裏切られ、見捨てられ、一人で十字架に向かわれた。確かに、そのためにこそ、私たちは死から救われ、贖われ、命を与えられた。まず、神が愛する独り子の命を、不従順な我々の贖いの代価として差し出して下さったのである。

だが、だからと言って、神は、この苦しみを御子だけに押しつけておいて、あたかも自分だけは一切、何の苦しみも悲しみも味わわずに、十字架の死など絶対に通らず、ハッピーな人生を送りたい、愛する人々と常に手を携えて、孤独を知らずに共に歩み、仲間に裏切られたり、憎まれるなどまっぴらだ、そのように自分は決して傷つくことも蔑まれることもない安楽な人生のために神を利用し、御言葉を利用して、自分を立派な信仰者として飾り立てたい、と願う似非信者によって、侮られ、利用されるようなお方ではない。

だから、信じる者は、そのようにならないために、常に自分の命を拒んで十字架を取り、主イエスに自ら従う決意が求められているのである。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたし仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。」(ヨハネ12:24-26)

私たちは人生においてしばしば激しい戦いを通過する。その時、信者は自分は神に守られていると思っているかも知れない。だが、神の側には、私たちを擁護するにあたり、外せない条件があるのだ。それが、信者がカルバリに留まり続けるという条件である。

だから、もし信者の側がその条件を満たしていなければ、誰であろうと、最も重要な決戦の時に、自分から力が失せていたことを知らないまま、敵にやすやすと捕らえられたサムソンのようになる可能性がないとは言えない。デリラを愛しすぎたことが、サムソンの弱点だったと言って、これを他人事のように笑う人々は多い、しかし、デリラとは、人のセルフなのである。それが分かれば、サムソンを笑える人は誰もいないであろう。

主の御腕は誰に向かって現されたのか、神はどのような人をご自分の民としてお認めになり、どのような人を力強く弁護し、守って下さるのか。

主の御腕は誰に現れたのか。

十字架は、決して人にとって心地よく、優しいものではなく、人の五感にとって甘く、麗しいものでもない。カルバリには人が慕い求めるどんな見ばえの良い姿も、輝きもない。カルバリには何の栄光もなく、人からの賞賛や理解もない。そこにはただ十字架につけられたキリストがおられるだけである。それでも、その栄光の消え失せた十字架に主と共にとどまり、これを自分自身の死として受け取り、全焼の生贄として静かに祭壇に身を横たえ、御言葉が実際になることに同意するだろうか。

十字架を回避して、己を神と宣言する人々が身近に増えて行くに連れて、筆者は厳粛にそのことを思わされる。一体、どれだけ大勢の人々がこの先、惑わされるのであろうか。そして、誰が十字架にとどまり続けるのであろうか。

人にはできない、しかし、神にはできる。駱駝に針の穴を通過させるのは、神の仕事である。お言葉通りになりますようにと応答するのが信者の側の仕事である。

その時に、主は御腕を力強く伸ばされ、山々を割いて降りて来られ、山上の垂訓のあの完全な統治を信者は生きて知るであろう。しかし、今、ダイナミックな復活の命の統治だけに注目するよりも前に、人に注目されることのないこの霊的死の意義にあえて心を向けたいのだ。たとえ主が御腕を力強く伸ばされ、ご自分の民を人知を超えた力によって擁護して下さるその光景を見ても見なくとも、主の御腕の守りの中にとどまり、人に承認されるのでなく、神に承認される者として生きたいのである。


神のこの奇妙な道はなぜか?


 さて、このような反応をすべてまとめると、神が御腕を現す方向に向かって動かれる時の、神の深遠な道を目の当たりにすることになります。神の道は何と深遠なのでしょう!何と神秘的なのでしょう!何と見出しがたいのでしょう!そして、ああ、神の道が分かり始める時、それは何と驚くべきものなのでしょう!私たちはこの御方が神の御子であり、人の贖い主であることを知っていますが、この御方に対して人の思いが下すこの解釈や判断について考える時、このような道は神の深遠な道であることを認めないわけにはいきません。神は動いておられます――常に動いておられ、堅い決意をもって、毅然として動いておられます――御腕を現す地点に向かって動いておられるのです。これが神の道であるとは、凄いことではないでしょうか?

 さて、ここで二つの疑問が生じます。一つは、「なぜ世の人はこのエホバの僕に対して、このような普遍的反応を示すのだろう?」という疑問です。クリスチャンとしての私たちの観点からすると、人が普遍的にこのような判断や反応をすることができるとは驚くべきことです。しかし、事実、人々はそのような判断や反応をしたのです。さらに、これは依然としてそうであることを、私たちは知っています。この世の人々の思いからすると、この十字架に付けられた御方には慕うべき点は何も見あたりません。

 第二に――おそらく、この疑問はこの問題全体の核心・根幹にさらに迫るものですらあります――「なぜ神は、人からのこのような反応を避けられない、このような道をわざわざ取られたのでしょう?」。この道は本当に奇妙です。まるで人からこのような反応を引き出すために、神はこの道を行かれたように思われます。なぜ神は誰からも認められる「まったく愛らしい」御方、一目見ただけで誰からも受け入れられる立場にある御方を遣わされなかったのでしょう?なぜ神は御子を遣わすとき、威厳、光輝、栄光の中で遣わされなかったのでしょう?なぜ彼は最初に天からのあらゆるしるしを示して、すべての人が見るようにされなかったのでしょう?なぜ神は、このような反応を生じさせる道をわざわざ取られたのでしょう?神はわざとそうされたように思われます。そのような反応は必然的でした。イザヤが描いたように、この絵を描いて下さい、「彼の顔立ちは損なわれて人と異なり」――その姿は「人の子と異なっていた」。他にも詳しく記されています――次に、この絵を持ち上げて、「これがあなたの贖い主です!」と言ってみて下さい。神は人を驚かせて憤慨させる道を、わざわざ取られたように思われるでしょう。

 そして、神はそうされたのです!しかしなぜでしょう?

人の間違った価値観のため


 今や、この現実的問題にかなり迫っています。人の価値観はまったく間違っており、神はそれをご存じなのです。人の価値観はまったく完全に間違っています――なぜなら、それは人の自尊心の所産だからです。次のような言葉は自尊心が傷つけられたからではないでしょうか。「こんな水準まで降りなければならないだって!自分の救いのために、そんなことを受け入れなければならないだって!こんな水準まで身を低くしなければならないだって!絶対嫌です!そんなことは人の性質に反します!」。そうです、これは人の性質には人の高ぶりによって生み出された全く間違った価値観が備わっているためなのです。ですから、この受難の僕という思想は人の自尊心にとって侮辱であり、つまづきであり、人の価値観に対する挑戦なのです。まさにこの理由により、ユダヤ人も異邦人もこの知らせを受け入れようとしませんでした――自尊心がそれを許さなかったのです。私たちは次のように歌います。

 「素晴らしい十字架を見渡す時
 私は自分の自尊心をまったく蔑みます。」

 これが十字架の及ぼす影響であるべきです。しかし、そうではありませんでした。人はこのような者なので、人の自尊心はそれを受け入れようとしません。ですから、「彼はさげすまれ、拒絶された」のです。「彼には私たちが慕うべき美しさは何もありません」。

 私たちの主イエス・キリストの十字架は、誤った栄光をすべて断ち切るものです。十字架は人の自尊心や尊大さのまさに根本を打ちます。十字架は人自身の威信や価値観に基づく生活の根本を打ちます。たとえ、この世の観点やこの世の価値観からすると、人はひとかどの者になって、それなりのものを得ることができたとしても、また、先天的あるいは後天的に、自分の頭脳や賢さによって、熱心に働いたり学んだりすることにより、人は何らかの地位、栄光、成功、威信を得ることができたとしても、もしあなたや私が神の御前でそのようなものに基づいて生活するなら、私たちもまた神の価値観に完全に反している人々と同類と見なされるでしょう。




「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


(08/14)
(08/06)
(07/17)
(05/14)
(05/09)
(05/07)
(05/07)
(05/02)
(03/20)
(03/05)