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「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊(魂と霊)、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」(ヘブライ4:12-13)


「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

今日のオリーブ園の記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (10)」(オースチンスパークス)も非常に意義深い。

 「エホデはこれを対処しなければなりませんでした。彼は太った人であるエグロンを対処しなければなりませんでした。さて、聖書に記されていることにはみな意義があります。エグロンは円もしくは丸いことを意味します。聖書は「さて、エグロンはとても太った人だった」と述べています。

とても太った人は、あまり多くのエネルギーを使ったことのない人です(私は攻撃的になりたくありません!)。単なる口先だけの者は、とても自己充足しており、自分のことでいっぱいで真の霊のエネルギーや力がない、という雰囲気を帯びています。それは一種の満ち足りて自己満足・自己充足しているものであり、決してあまり多くのことを行いません。

エグロンは彼の夏の部屋で素晴らしい快適な時を過ごしていました。この肉、この満ち足りた、快適で、宗教界の中で自己満足している天然の人が入って来て、神の民を支配します。「円」を意味する彼の名は、口先だけの者は円を描いて進み、決してどこにも辿り着かないことを示唆するように思われます。口先だけの者――これがエグロンです。

そしてエホデはこれを、それ自身の根拠に基づいて、神の御言葉という両刃の剣を用いて対処しました。そして、口先だけのものと本物とを真っ二つに切り分けるほどに刺し通しました。エホデの名が「告白」を意味するのは興味深いです。彼は口先だけのものに反対しました。この二つの証しの間には大きな違いがあります。その詳細は霊的背景の上にとても多くの光を投じます。


 主が私たちに告げたいのは次のことのように思われます。すなわち、霊の力は主イエスの全き主権の中に立つ問題であり、それをあなたの生活の中で個人的・団体的に知る問題なのです。それに必要不可欠なのは、あなたが主を生き生きとした個人的・実際的方法で知ることであり、あなたの生活が単なるキリスト教的生活ではなくなることです――あなたがその中にあるのは、その中にいることが良いことだからでも、自分に宗教的傾向があるからそれに興味を持っているからでもなく、その中にいざるをえないからです。あなたはその中に上から生まれたのです。」

円には完全という意味もあるが、当ブログにおいては、円とはどこにも行きつかない永遠の堂々巡り、人類が自力で神の懐に回帰して、神と分離される前の一体性を取り戻そうとするむなしい努力、すなわち、被造物を造物主と取り替えようとするグノーシス主義思想における「鏡」、相矛盾する概念の統合であるウロボロスの輪、東洋思想における永遠の混沌との一体化である「道」、禅においてすべてがさかさまになった「大円鏡智」などを意味し、すべて人類が歴史を逆行して自力で神に回帰しようとする不可能な努力のことを指していると示して来た。

そういう意味で、士師記に登場する、神が起こされた勇士エホデが滅ぼした、イスラエルを虐げていたモアブ人の王エグロンの名が「円」を意味することは興味深い。

(筆者はここで筆者がかつていたこともあるキリスト教の集会でクーデターを起こして集会を乗っ取った人物(夫妻)が、共に太った人物であったことを思い出さずにいられない。夫妻ともどもに非常に似た者同士だったのである。

筆者は外見で人を判断したいとは思わないし、外見がすなわち人の性格を表すものだとも言わないが、彼らの場合は例外で、彼らの外見は彼らの内面をよく表していた――自己を制御できない状態、貪欲さ、動物的で野卑な性格、忍耐のなさ、性急さ、緩慢さ、感覚の鈍麻といった内面の状態をはっきりと表していたのである。だから、筆者はこの集会のリーダーに向かって、この人々の危険性を告げたとき、彼らはなぜあれほどまでに太っているのか、という質問を投げかけたことがあった。他方、集会のリーダーは外見に非常にこだわりのある人物で、外見を鍛え上げ、自己鍛錬に励んでいたが、そのような人物が、自分のポリシーと相容れないエグロンのような人々と和合したことも、非常に象徴的であった。人の生まれながらの自己から発生するものは、何であれ、円を描いて対極のものと結びつき、腐敗して行くのである。)

 
  
異端思想(神秘主義)のシンボル
エグロン=円=輪=和=日輪=道=ウロボロスの輪=大円鏡智=グノーシス主義の鏡


こうして、神と人との区別を否定するすべての異端思想(神秘主義思想)が、相矛盾する概念の統合、循環する時間軸として、円というシンボルで表されるのに対し、聖書に基づく正統なキリスト教の時間軸は、直線であって、円ではなく、そこでは矛盾する概念が一つに溶け合うなどのことは絶対に起こらない。正統なキリスト教にはアルファ(はじめ)とオメガ(終わり)があって、それは決して円を描いて一つに結びつくことはない。

聖書は、神の御言葉には、切り分ける(切断する)機能があるとしており、それは何よりも人の生まれながらの腐敗した命の働きと、神の新しい聖なる命の働きとを鋭く切り分ける。その切り分けの機能は、ちょうど旧約聖書において、いけにえとして神に捧げられた動物が幕屋で解体される場面になぞらえられる。

エホデの名は「告白」を意味し、その言葉は、ちょうど黙示録に登場する「証しの言葉」に一致する。クリスチャンは小羊の血により罪を清められ、キリストの復活の証人として、神の御言葉の正しさを証言する人々である。聖書の御言葉が神に属する聖なる永遠に続くものと、神に属さない滅びゆくものを切り分ける機能を持つならば、御言葉を告白する人々の証しも、同様に、すべての物事を切り分ける機能を持つ。

兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

エホデがエグロンを対処したことは、今日、私たちが口先だけで十字架を唱えながらも決して自己を主と共なる十字架において死に渡そうとしない相矛盾した態度を捨てて、厳粛に御言葉に服し、生まれながらの自分自身に対する死の宣告を受け入れることを意味する。

エグロンのように天然の命に基づいて、緩慢な滅びである円を描いて生活する人々は、信者の中にも、あまりにも数多く存在するが、私たちは彼らにならうことなく、自分自身が、祭壇の上に捧げられた供え物として、まことの大祭司なる主イエスの御言葉の切り分けの機能の下に服し、切断されることに同意しなければならない。

裁きは神の家から始まる――私たちは世が滅びるよりも前に、世から召し出された者として、真っ先に神の裁きに服する者たちである。今日、主の民全体が、両刃の剣よりも鋭い神の言葉によって刺し通され、対処される必要があるが、私たちはその代表として、神が立てられたエホデである御言葉の剣を取り、自分自身の内側にあるエグロンが刺し通されることに同意する。

私たちはいついかなる瞬間にも、自分がゴルゴタで主と一体となって、この世に対してはりつけにされて死んでいることを認め、告白する。ただこのキリストの十字架によってのみ、地獄の全軍勢が、私たちに手出しをする力を失い、かえってその勢力がキリストによって征服されて、彼の凱旋の行進に捕虜としてさらしものとされるのである。

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御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。


天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべての者よりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた者です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。

あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:13-23)

今朝のオリーブ園に掲載されているオースチンスパークスの記事「「霊の力の回復」第四章 霊の事柄のための霊的能力 (9)」は、キリストと共に十字架で人の自己が死に渡されることがどれほどエクレシアにとって重要な事柄であるかを語るものであるため、以下に掲載しておく。

なお、一つ前の記事にキリストのからだとしてのエクレシアの働きについても、必要な聖書箇所を補っておいた。

これまで筆者は繰り返し、エクレシア(教会)に参加するためには、それぞれの信者の自己が戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないことを書いた。以下の論説も、ちょうど同じテーマを扱っており、キリストと共に自己を十字架に死に渡すことなく、キリスト者の交わりに参加しようとする者が、どれほど神の福音の証しを損ない、交わりを害してしまうかについて言及している。

主と共に真に十字架に赴くことがない人々は、いわば、ただクリスチャンに偽装しただけのような存在であり、交わりをかく乱するだけでなく、真に主と共に十字架に自分を同形化しているクリスチャンにも多大な悪影響を及ぼす。

それは筆者が繰り返し書いて来た、神の最善を退けて、人間の思いを優先する次善であり、しかも、自分たちが次善であることが暴かれないよう「最善」を攻撃する「次善」であり、神の教会から真に衝撃力の伴う御言葉の証を取り去ろうとする。

ところが、嘆かわしいことに、今日、教会と呼ばれている団体の8~9割はこうした人々で占められているのではないかと思われる。それほどに、今日の教会は真に霊的衝撃力の伴う神の証しを失って、弱体化しかけている。

その状態が回復されるためには、やはり真に主と共に十字架を通る人々が新たに起こされる必要があり、キリストと共なる十字架とは何であるのかが、人々の目に公然と証される必要があろう。

今更、説明の必要もないとは思うが、信仰によって前進する過程で、私たちは、自己の安寧、自己の都合、自己の名誉・・・といった生まれながらの自己の必要性を、自分の手から離して、神に明け渡すことが、どうしても必要になる。その戦いは、個人個人によって性質が異なるものであり、何をどこまで主のために手放すのかは、人に要求されてすることではなく、各自が神との間で相談して自主的に決めることである。

今日、暗闇の勢力が行っている欺きはこういうことである、「主と共に十字架で死ぬですって?十字架で自己を手放すですって?何を言っているんですか。そんなのカルトですよ。あなたは日常生活も放棄して、自分の願いを自分で滅ぼして、自分で自分を否定して、自分の楽しみや喜びを放棄して、一体、何をしようとしているんですか。クリスチャンがそんなみすぼらしく、みっともない貧しく孤独な生活を送る必要はありません。日曜日に教会に通い、牧師の説教を聞いて、献金をしていれば十分ではありませんか!後の時間は、自分の幸福のために使えばいいんですよ。」

だが、神は私たちの全存在を求めておられ、私たちが全身全霊で神を愛し抜き、従い抜くことを願っておられる。それが代償なしに達成されるはずもない事柄であることは明白である。神が先にその愛する独り子を地上に送り、私たちのために犠牲とし、命を捨てて下さったのに、私たちの方は、自己の安寧を微塵も手放さず、ただひたすら自分のことだけを考えて、一つの痛み苦しみも味わうことなく、神に従えるというのだろうか。そんなことを考える方がどうかしているだろう。

しかし、もちろん、神は初めから私たちの理解も及ばないような著しい代価を求められることは決してない。神は私たちの弱さを知っておられ、あくまで私たちの同意に基づいて、ご自分のみわざをなさる。クリスチャンの従順は徐々に完成に向かうものであり、神の子としての訓練を受けることで、キリストの御丈まで成長するのである。

「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:5-9)

主と共なる十字架を知らない人々は、神に従う上で、自分自身にも払わなければならない代価があるということを知らず、肉を十字架において死に渡すことを知らないし、これに抵抗する。オースチンスパークスは書いている、

「新生の問題は、私たちが理解している以上に遥かに大きな問題です。この問題は神の教会の証し全体に影響を及ぼします。悪魔がしてきたのは、真に上から生まれていない人々を入り込ませることによって、イエス・キリストの主権についての証しを損なうことです。主の民は力を奪われています。これが主イエス・キリストの絶対的卓越性についての証しを滅ぼす敵の方法でした。それは三重の天然的関係であり、これを滅ぼせと主は言われました。

 これを言うのは難しいように思われるのですが、たんなる口先だけの者はすべて屠られなければならないという感覚があります。これはもちろん文字通りの意味ではありません。彼らは十字架に行って屠られ、キリストと共に新しい命の中によみがえらされなければならない、という意味です。

あなたは十字架によってとても強く打たれなければなりません。さもないと、証しは損なわれることになります。
ローマ人への手紙は救われていない者ではなく信者たちに対して書かれました。ローマ人への手紙の意義はこれに尽きます。もし八章と共に登場する御霊の中にある主権の生活を知ろうとするなら、それを知ることができるのは六章の死の生活を知る時だけです。キリストと共に死ぬこと、これが中に入る道です。


 十字架のメッセージは、口先だけの者たちを中身のある者たちから、見せかけを実際からふるい分けるのに必要です。そして、これは今日、多くの人にとってとても厳粛で深刻な問題です。肉は十字架に付けられることに憤り、死ぬことに憤ります。善良ではあるけれども口先だけのクリスチャンの群衆と共にあなたは長い道のりを行くことができますが、それはキリストとの一体化が実際的な問題になるまでのことです。その時、戦いが生じます。悪の軍勢はまったくの不信者たちの中に宿っているのと同じように、口先だけの者たちの中にも宿っています。これは敵の巧妙な活動の一つです。敵は露骨な無信仰によってはそれをすることができませんでしたが、「私はあなたたちと同じです」と公言する人々を入り込ませます。しかし、彼らは死んだことが決してなく、キリストと共に十字架に付けられることがどういうことか知りませんし、あるいは、自分たちの生活の中で彼の十字架の経験を実際的な方法で経験したことがありません。」
 
十字架の死と復活の働きは、神が御言葉を人に啓示されて初めて理解されるものであって、人が人に対して教えられるものではない。主と共に屠られるためには、人はしばしば大きな苦難を通らなくてはならない。苦難の中で自分を低めること、自分の主義主張を脇に置き、自分の願望を投げ捨てて、ただ神を信頼して御言葉に従う道を選ぶこと、それだけが、主と共なる死に自分を同形化する道である。

そして、クリスチャンが主と共なる十字架に自分を同形化することに失敗するとき、ある団体がまるごと暗闇の勢力に渡されるという悲劇的な結末がしばしば起きる。

上記の論説に書いてある通り、一つの団体の中に、似て非なる二つの異なる勢力が混在している。そこには、ハガルとイシマエル(肉によって生まれた者)と、ハンナとイサク(御霊によって生まれた者)という、全く異なる勢力に属する人々がいる。

御霊によって生まれた者は、常に「人にはできなくとも、神にはできる」と信じ、大胆に御言葉の証しを掲げ、神のみわざを待ち望んでいる。しかし、肉によって生まれた者は、口先で御言葉を唱えることはしても、そこに信仰がないので、神のみわざを信じて待ち続けることをしない。そして、試練に見舞われれば、すぐに退却し、「人には限界ばかりで、できることは何もない。人をこのように惨めな存在に造られた神は理不尽である」と不満を表明する。

肉とは、言い換えれば、死へ向かう滅びゆく人間が、自己の力で何とかしてその死の決定に逆らおうとする悲痛な努力の総体であり、堕落した人間の命の限界そのもののことである。

人は自分の生まれながらの生命を維持するために、絶え間なく外界からエネルギー源を摂取しなければならず、そこに各種の欲望が生まれる。しかし、これらの欲は、満たしても、満たしても、決して飽かされることがなく、その満足はすぐに消えて行き、またしても渇望が起こるだけであって、人間は生きる限りその欲望の奴隷状態から抜け出せず、自己を満たそうとするすべての努力が、死によってしか報いられないという恐るべき悪意ある逆説の中に置かれている。

肉とは、このように絶え間ない欠乏状態に置かれ、絶えず自己の生存を死によって脅かされ、死を避けるために、自分を救う力のない己の欲に踊らされ、自分の欠乏の惨めで屈辱的な奴隷状態から抜け出せない生まれながらの人間の腐敗・堕落した有限なる命の働きである。

しかし、御霊によって生まれた者は、この滅びゆく肉に対して、主と共なる十字架で死んでいるので、以上のような罪の奴隷状態から自分が解放されており、神の朽ちることのない永遠の命によって自分が新たに生かされ、神の命によってすべての必要が上から供給されることを知っている。

キリスト者が地上で生きるためのすべての必要性は、衣食住を含め、すべて自分で自分の生存を保とうとする自己の努力によってではなく、信仰によって、キリストの復活の命を経由して上から与えられる。従って、キリスト者は地上を生きる上で、自分を救う力のない己の欲によって自分を満たさなければならないという恐るべきパラドックスから解放されているのである。

しかし、肉によって生まれた者は、御霊によって生まれた者と自分が同じ存在であるかのように見せかけながら、御霊によって生まれた者に巧みに話しかけ、神に対する不満を吹き込もうとする。そして、決定的な瞬間に、「人であるあなたにはできない。神は理不尽だ。あなたは無駄なことを信じているのであって、あなたの希望はかなわない。」とささやき、信仰をくじこうとする。

肉の思いは、つまるところ、自己の力で自己を満たそうとしても、それができない人間が、神に対して不服を表明し、憤る思いである。その思いを、肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者に吹き込み、御霊によって生きる者の思いを穢すことで、神に対する信頼を失わせ、大胆な証を損なおうとする。

このようにして、一つの団体の中に、同じクリスチャンのように見える二つの勢力が併存し、やがてこの二つの勢力が、激しく敵対し、争うようになる。霊御によって生まれた者を、肉によって生まれた者が、堕落させ、迫害し、追い出そうとするが、御霊によって生まれた者は、その激しい迫害を乗り越えて、御言葉の証を保たねばならない。そのためには、十字架の装甲の中から決して外に出ない姿勢が必要となる。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)
 
だが、信者たちはしばしば失敗して、十字架の装甲から外に出て、証を失ってしまう。被害者意識や、神に対する不満の思いを心に注ぎ込まれ、思いを穢されてしまう。そして、一心に信頼して神だけを見つめることをやめて、神はすべての苦難から私たちを救い出して下さるという確信を失い、自己の限界を見つめるようになり、自分を不憫がるようになり、ただ自分の弱さに同情してくれる人々だけを周りに集め、その弱さの中に閉じこもって、前進することをやめて立ち止まり、そこに人の生まれながらの自己を守るための一大共同体を作り上げてしまう。
 
すると、御言葉の証は失われ、信仰による神の働きはやみ、御霊によって生まれた者は、ちょうど髪をそられたサムソンのように、勇士としての力を失って、捕虜とされ、外に追いやられ、苦役に従事させられることになる。

私たちは、悪魔の虚偽の訴えに対しては毅然と立ち向かい、御言葉の証を守らなければならない。公正、真実、正義に立って、御言葉の真理を高く掲げることをやめてはならない。しかし、同時に、その戦いは、決して私たちの生まれながらの自己を守るためではなく、それを超えたところにある神の御国の権益のためでなくてはならず、そうして私たちの掲げる目的が、真に自己のためでなくなるためには、私たち自身が、絶えず十字架の死をくぐる必要がある。自己憐憫や被害者意識を心に抱え、神の権益のために自己の利益を手放すことを惜しみ、自分の限界を取り払うことができないものと考えて、これを哀れんでいると、主と共に十字架の死を通過することができなくなってしまい、信仰の前進がやむのである。
 
そうして聖徒らが十字架を回避して、生まれながらの自己を保つようになると、彼らの証は力を失い、彼らは聖徒としての特長を失うことになる。そして、肉によって生まれた者が、霊によって生まれた者を追い出して、団体の頂点に立ち、一つの団体がまるごと敵の手に渡されてしまう。もしくは、彼らは出て行っても、暗闇の勢力の支配下で、また新たな腐敗した別な団体を作るだけである。

筆者はこうした現象を幾度も目撃するうちに、ようやくこれがクリスチャンと暗闇の勢力との間で繰り広げられている霊的な支配権の争奪戦であることを理解し、一体、これに対してどのように打つ手があるのかを考えるようになった。

もちろん、主と共なる十字架の装甲から一歩も出ないで、自己を十字架に死に渡すことこそ、勝利の秘訣であるが、勝利というからには、死で終わるのではなく、そこに復活が現され、瞠目すべき神のみわざが現され、明白な勝利を勝ち取らなければならない。それだけでなく、ただ真理を知らないだけで、故意に御言葉に逆らっているわけではない人々を、敵の欺きから取り返すことが必要である。

そこで筆者はようやく、祈りの防衛の盾をはりめぐらし、激しい戦いの中でも、そこに踏みとどまって、決して支配権を自ら放棄することなく、霊的領土を明け渡すことなく、なおかつ、そこに残っている人々を、自分たちの陣営にかくまい、保護するまで、あきらめずに戦いを続行することを学び始めた。

その団体に残っている人々のほとんどは、しばしば、何が起きているのかを全く理解しておらず、戦いがあることさえも分からないでいる人々である。彼らはちょうど戦争が勃発しているのに、そのことを知らされないまま、自分たちの土地に残された非武装の住民のようなものである。敵が襲撃して来れば、彼らに命はないことを私たちは予め知っている。そして、私たちは武装しているが、彼らは自分を守る術を知らない。

そこで、もしもこのような状況で、私たちが自分の命を惜しんで、真っ先に彼らを捨てて安全なところに退却するならば、彼らはみな敵陣に捕虜として引いて行かれることになり、そこでさまざまなひどい目に遭わされて、神は理不尽だという思いに生涯、とらわれ、憎しみと憤りと不満の中に生きることになりかねない。何よりも、彼らは自分たちを危険の中に捨てて行ったクリスチャンを憎み、許さないことであろう。

そのようなことが起きないために、私たちは最後まで戦って、真理を知らない人々を敵の襲来から保護し、むしろ、敵の勢力の方こそを、キリストの勝利の凱旋の行進の中に捕虜として引いて行かねばならない。

そのように激しい戦いを、神の武具で武装してすべてをキリストの支配下に置くまで決してあきらめないで戦うことを決意した人々が、勝利を得るまで忍耐強く信仰によって続行したときに、初めて、一つの団体が、罪の束縛の中から解放され、肉の支配下にある者ではなく、霊の支配下にある者の指揮権の下に置かれるということが起きるのである。

ここで重要なのは、冒頭の御言葉が、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られた」と述べていることである。戦いには初めから決着が着いており、御子はすでにカルバリで勝利を取られた。問題は、地上にいる主の民がそれを最後まで信じられるかどうかである。



わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、 わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(Ⅱコリント12:9)

「体は一つでも、多くの部分から成り、 体のすべての部分は数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。

身体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」(Ⅰコリント12:1-26)

休暇中の時間は筆者にとって黄金の時だ。この時間をぜひとも活用して、忙しいときにはできない正しい仕事を果たさなければならない。

今年の新年は警察との連絡で幕を開けた。新年早々の仕事が、告訴状の文面の練り直しとは。しかし、思い起こせば、ここ何年間も、年末年始をゆっくり過ごした記憶がない。大勢で観光地を訪れたり、家でくつろいで料理を作ったり、TVでスポーツ観戦することもなく、常に何か波乱の出来事に見舞われて、日常生活が中断していたような気がする。

そんな年が続いた挙句、今年はもはや普通の正月を過ごすことに未練がなくなった。人生はそんなにも長くはない。大切な仕事を果たすには、時間が限られている。どうせ同じ時間を使うならば、束の間で消えて行く個人としての地上の幸福を享受することよりも、むしろ、御国に到達してから神に褒められ、永遠の収穫として残る仕事を果たしたい。

これは2017~2018年に激しい戦いを乗り越えた後で、筆者が心に確信することだ。とはいえ、年末年始をくつろいで過ごせない職業の人々は、筆者の他に多数、存在しており、警察官もその一人である。

年末年始に警察は当直体制となり、少ない人数で管轄の全域を担当する。筆者の事件を担当してくれている警察官も、奇跡的に当直していたが、呼び出しても、呼び出しても、全くつかまらない。ようやく連絡が入って来たのは、当直明けのこと。つまり、勤務中ではなく、勤務外で、要するに、筆者の順番は、区内で一番最後なのだ。
  
とはいえ、勤務が終わったから、ようやく電話できるのだと言われるのは、勤務中だから時間がないと言われることに比べてかなり嬉しい。一番最後の順番とはいえ、最もほっとできる瞬間に電話がつながったのだと思える黄金の時。まさにボアズがルツのためにわざわざ畑に残しておけと命じた落穂を拾うルツの心境である。

当ブログに対する様々な権利侵害を事件化することを決めてから、こういうコミュニケーションを関係者との間で取れるようになるまで、何カ月もの歳月を要した。警察官は、下手をすると、一日、二日どころか、一週間以上もつかまらない。黙って電話を待ち続けることには未だに慣れられず、当初はそのことでどれほど巨大な不安に陥れられたか分からない。

しかし、担当者は、ない時間をひねり出すようにして、時には休日出勤して対応してくれたり(つまり、通常の勤務時間にはこの事件に向き合う暇がない)、近くの交番まで書類を届けてくれたりし、それを見ているうちに、筆者は考えが変わり、長い時間、待たされても、それが怠慢や悪意によるものではないことを理解し、やがて彼らの誠意を尊重しないわけにいかなくなった。

それは裁判所の人々との関わりも同じであった。不愉快な事件をきっかけに人々と関わるのは、誰にとっても気が進むことではなく、それだけで関係者一同に大きなストレスとなりかねない。しかし、この事件に関わってくれるすべての人々も生きた感情を持つ人間であることを理解し、筆者はついに自分の感情を乗り越えて、事件の影響を乗り越えて、互いをよく知って、理解・尊重し、信頼関係を築くことが最後には可能となった。

そうなるまでには、多くの時間がかかった。何度、取っ組み合ったことであろう。その間に、彼らにも、筆者の心の弱点などは、きっとお見通しになったはずである。だが、筆者は、どんな時にも、心から正直であり、目指している高い目標から決して目を逸らさなかった。だから、人々は筆者の心の弱さや限界を見ても、それが悪意によるものでも、怠慢によるものでもないことを理解してくれ、筆者の弱さを彼らの強さで補い、覆い隠してくれるようになったのである。

こうして、最後には互いが互いの限界を理解した上で、相手を尊重する術を学んだ。筆者はこのような体験を通して、絶望的な状況下で、どれほど様々な波風が起きても、目的を見失いさえしなければ、最後にはその波乱をすべて乗り越えることができると言える。

たとえ一時的にものすごい痛み苦しみを味わうことになったとしても、その犠牲があって初めて、新しい関係が生まれて来る。何が生まれて来るのかは、苦しんでいる当初には分からない。だが、信仰のあるなしに関わらず、人が命をかけて訴えていることを、無碍に扱うことができる人はそう多くはない。あきらめないで前進していれば、少しずつかも知れないが、理解者は増えて行く。そして、それがついにはやがて固いチームワークのような結束になって行くのである。

かつてあるクリスチャンが、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったことを思い出す。ここで言う「関節」とは、私たち一人一人、エクレシアの構成員のことである。キリストのからだなる教会の成長は、節々がしっかりと組み合わされ、補い合うことによると聖書にある。

「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」(エフェソ4:16)

その信者は、筆者には必要な関節と関節を出合わせ、互いに結束させる働きがあると述べたのであった。今、筆者は、いわゆる教会と呼ばれる建物の外で、その頃と同じような働きをしているのかも知れないと思う。

なぜそうなったのか。それは教会と呼ばれる団体があまりにも神の働きから逸れてしまったことによるものと筆者は思う。そこで、初めはユダヤ人に福音を宣べ伝えたパウロが、異邦人に向かねばならなかったように、筆者はいわゆる教会と呼ばれる信仰を持った人々の外に、関節や節を見つけるはめになったのである。

そうして、筆者が一人で始めた信仰を守るための戦いという目に見えない事業に、今や数多くの人たちが関係するようになった。そして、その人々は、嫌々ながらではなく、自らの意志で、自発的に積極的に事態に関与しており、筆者は彼らに大いに助けられている。

信仰者と呼ばれていないこの人々から、どれほど多くのことを筆者は学んだであろうか。彼らとの関わりは、本当に切実なメッセージを筆者の心に伝えてくれる。

この事件を進めるうちに、筆者は、人々から助けられることを学んだ。これまでの筆者はほとんどの作業をただ自分一人だけで成し遂げ、他者の力を借りることがなく、他者の知恵によって自分の知恵の不足を補われることもなく、そのような可能性があるという期待すらも持っていなかった。あまりにもすべてを自力で背負い、自力で処理することに慣れており、人を信頼する必要性にさえ見舞われなかったのである(それは裏切りや離反が横行していたためでもある)。

だが、今、筆者は、そうした離反を克服する方法を学び始め、自分の弱さを他人の強さによって補われる術を学び始めた。しかも、筆者が途中まで書きかけた歌の、見事な続きを書く人々が現れた。筆者が一人だけで行って来た途方もない気の長い作業が、他の人々の手に委ねられ、他の人々がこの作業に参加し始めたのである。

筆者はこのことに非常に驚いている。筆者は自分の肩から重荷が取り去られるのを感じ、初めて自分の知恵を超える知恵が存在すること(これは神の知恵のことではなく、神が地上のもろもろの人々を通して筆者に表して下さる知恵のことである)、その知恵に信頼して自分を委ねることを知った。人々を信頼して自分の仕事を託すことの意味を知った。こうして自分の知恵が限られていることを思い知らされ、他者によってそれを補われるのは、非常に嬉しく楽しいことである。

こうして、新たな関係性が生まれ、筆者が一人で編んでいた歌に、多くの人が参加するようになり、共同作業が生まれた。やがてはそれが大きな流れになり、合唱のようにまで至るのではないかとさえ思う。

これは実に不思議な関係性である。この世のほとんどの人たちの人間関係は、どんなに広いように見えても、地上的な絆の中に束縛され、そこから出ることがない。その人間関係は、自分の家庭、自分の職場、勤務上で生じた関係、所属団体の枠組みなどにとらわれている。

しかし、筆者が他者に関わるのは、そういう地上的な枠組みによるものではなく、信念に基づくものであり、信仰に基づく関係性である。そして、その関係性が、今や信仰を持たない人々にまで波及しているのである。

これまでもそうであったが、信仰のために必要なことならば、筆者は地上的な絆の束縛を超えて、どこまででも出かけて行く。そして、これまで知らなかった新しい人たちを見つけ出し、これらの人々を、一つの信念によって結びつける。

そうして彼らを目に見えないチームのように結束させるまで、根気強く説得する。だが、筆者は目に見えるチームを作っているわけでなく、そのリーダーでもないし、筆者が計画的にそのようなことを行って人々を感化しているわけでもないので、以上のような現象が起きているとは、はた目には分からない。

だが、筆者が命がけで人々に関わり、命がけで信念を訴えているうちに、いつの間にか、それまで敵対していたような人々にさえ影響が及び、協力してくれる人々や、筆者が目指しているのと同じ目的に向かう人々が増えて行くのだ。

このように、筆者の場合、人間関係を築く土台となる要素が、通常の場合とは全く異なる。それは個人としての筆者の利害に立脚するものでなく、それにとらわれるものでもない。それよりももっと広く、もっと高く、もっと大きな目的のために、筆者は人々に関わっている。そして、そうであるがゆえに、人々はその中で筆者の限界を見ても、それを寛容に扱ってくれ、筆者が目指している目的は、互いに立場の全く異なる人々を、個人的な限界を超えて、一つに結びつける原動力となりうるのだ。

このような人間関係が生まれるためには、やはり筆者自身はどこまでも十字架の死に身を委ねるしかない。一粒の麦として絶えず死に続け、自己を放棄する以外に手立てがない。

このことを指して、以上の信者は、「ヴィオロンさんには、関節と関節をつなぐ能力がある」と言ったのである。

そういうわけで、またも書面の練り直しである。世の人々は告訴状と聞いて眉をしかめるかも知れないが、これも公益のためであって、筆者個人の利益のためだけではない。この他にも大量の書面作りの作業が残っている。そして、筆者に関する事件の後処理が終われば、次に筆者と同じような被害を受けた人々の権利の回復を手伝う作業が待っている。それに着手できるのは、今年の春以降であろうか。気の長い仕事である。

味気ない新年であるが、自己の信念に基づく作業であるから、これで良しとせねばならない。こうして、筆者の心は地上を離れ、御国へと階段を上って行く。

だが、最後に一つ述べておきたい。聖書は、神のためにどんなに巨大な犠牲を払っても、愛がなければ一切は無意味だと述べている。ただ関節と関節をつないで、建物を作るだけでは不十分であり、そこに最後の総仕上げとして、上から神の愛が注がれなければならない。それはちょうど美味しそうな焼きたてのパンケーキに特上の甘いメープルシロップを注ぎかけるような具合で、エクレシアには上から下まで滴り落ちるほどに神の愛が溢れていなければならないのだ。
 
その愛は、私たち人間から生じるものではなく、まさに上から、神が注いで下さる愛である。ちょうど預言者エリヤが、死んだ子供を生き返らせた時のように、全焼のいけにえとなっている筆者の上に、新たに上から御霊によって吹きかけられる復活の息による。

人々は、死んでいたも同然の筆者が、生き生きとよみ返らせられるさまを見て、初めて神が今日も生きておられること、信じる者をあらゆる窮地から大胆に助け起こす力を持つ方であることを知る。

その御業は神のものであって、筆者の力によるものではない。だが、地上では極めて弱く限界ある存在に過ぎない筆者の神への信仰による愛と従順、そして、筆者に注がれる神の愛の深さを見ることにより、筆者の周りにいる人々も、神が生きておられること、そして、筆者のみならず、神を呼び求めるすべての人々に力強く応えて下さること、神が愛であり、すべての人間に対して、どれほど深い配慮を持っておられるかを知らされるのである。

筆者が行っていることはすべてそのためである。

そういうわけで、もう一度、以下の御言葉を引用しておく。

「「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:36-39) 



「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

ただ一点、キリスト。

以前にあるキリスト者からよく聞かされた言葉だ。その当時は、標語のようにしかみなしていなかったこの言葉が、筆者にとって、今はもっと深い意味を持つ。

当ブログとブログ主に対するさまざまな人権侵害を理由として筆者が起こしていた裁判が、12月27日に結審した。判決言い渡しは3月末に予定されている。

すでに記して来た通り、この裁判はネット上で起きた紛争処理の一部であり、これに付随して続行しなければならない訴えが複数残されている。そこで、この審理終結をもって事件が完全に終結したわけではない。

だが、今、筆者が書きたいのは、この紛争のために筆者が支払った犠牲のことではなく、むしろ、この事件を通して、神がどれほど筆者を含めた関係者一同に大きな恵みと学びを与えて下さったかということである。
 
今、判決を準備している最中の裁判官の心の静寂を邪魔したくないため、多くのことは書かないが、予め断っておけば、筆者は、 今回の裁判は、教会史の中に刻まれておかしくないほど、深い意義を持つものであり、今回の裁判を担当してくれた裁判官や書記官の名は、私たちクリスチャンの名と並んで、初代教会の時代から現在まで続く目には見えない使徒行伝の記録の中に、永遠に刻みつけられ、神の目に留められるだろうと信じている。

それほど神はこの裁判を通して、我々にお与え下さった救いの確かさを、余すところなく証明して下さったものと筆者は信じている。結審の様子を思い起こすと、今でも心に深い感動が込み上げて来る。

通常、裁判などというものは、原告であれ被告であれ、誰も関わりたくないと願うものであるが、今回の紛争において、筆者は弁論の回を重ねるごとに、裁判官や書記官を近しい存在に感じるようになった。これは、自分の住所の所轄裁判所で訴えを起こすことができる原告の役得のようなものである。

この訴訟においては、弁論のほとんどが電話会議という形で行われた。電話会議は、被告らにとっては遠方の裁判所まで足を運ばなくて良い利点があり、原告にとっては、法廷のような段差や距離感を取り払い、裁判官や書記官と顔と顔を合わせて互いの表情がよく見える近い場所で、リアルに感情を分かち合いながら審理を進められるという利点がある。

そうして回を重ねるうちに、最初は裁判所をただ近寄りがたい場所とみなし、紛争解決の糸口を探していただけであった筆者が、最後には、この事件に関わってくれた全ての人々に対する厚い信頼を持つようになり、最後にはまるでチームワークのような固く緊密な結束・連携により、弁論を終結に至らせることができたのである。判決をまだ聞いていないうちから、筆者は、このような紛争のために労してくれた人々に心からの感謝や敬意を払わないわけにいかない。

今回は、当事者の誰も弁護士をつけなかったことにより、それぞれが本音で心を開いて語り合うことができた。そのおかげで、非常にリアルでドラマチックな展開が生まれたのだと言える。関わった一人一人の正直な心の本音が、裁判所の関係者に至るまで、明らかにされたことにより、事件にふさわしい結論が導き出されるために必要なすべての前提が整えられたのである。

以前にも書いたように、筆者は弁護士という職業を好かない。筆者の弁護者は、今もこれからも見えないキリストただお一人だけで十分であり、もしも今回もこの審理の輪の中に一人でも弁護士が入っていれば、率直な話し合いはたちまち不可能となっていたであろうと思う。

筆者は最後の弁論期日において、電話会議が終了した後、法廷へ移動する前に少しだけ与えられた時間の中で、ちょうど投獄されたパウロが獄吏に向かって福音を宣べ伝えたように、裁判所の人々に対し、筆者を贖って下さった神の福音のはかりしれない意義を伝えることができた。そして、そのことこそ、他のどんな結果にまさって、有益かつ貴い収穫だったのではないかとみなしている。

神はこの事件を通して、御子キリストを通して筆者に与えて下さった贖いがどんなに揺るぎないものであるかを見事に証明して下さった。だから、筆者はこの紛争を提起したことに、何一つ後悔はなく、神に栄光を帰することができたと心から喜んでいる。

しかし、今回の結審を勝ち取るためには、筆者自身にも、己を低くして通らなければならない狭き門があった。

この裁判が始まった時から、裁判官は年度末に異動を予定していることを明かしており、もしも彼に判決を書いてもらいたいならば、我々は年内にすべての弁論を終えて審理を終結させる必要があった。しかし、被告らは反訴を主張して、それを不可能にしようとしていたし、この裁判を結審させて判決を勝ち取るためには、筆者も自分の主張を脇に置いて、個人の利益をはるかに超えたところにある、神の利益のために、身を投げ出すことが必要だったのである。

およそほとんどの裁判は、人権を守る目的のために起こされるものであるが、筆者はクリスチャンとして、この裁判を通して自己の権利だけを主張しようとしているのではなく、私たちのために贖いを成し遂げて下さった聖書の神の正しさを生きて世に証明し、神の利益を擁護するために立たされた。

クリスチャンには、自分の命と引き換えにしてでも、信仰の証しを守り通さなければならない瞬間が存在する。そこで、この裁判を通して、筆者は求められた代価を払うことで、わずかながらも、福音のために命をかけた初代教会のクリスチャンらのような殉教の精神を学ぶことができたものと思う。

キリストこそ私たちの人生の真の主人であり、私たちの全ての全てであり、我々の人権も、幸福も、すべてこの方に由来している。このお方を否定して、私たちにはいかなる命もなければ、権利も幸福もない。当ブログの標題にも引用している以下の御言葉の通り、私たちは代価を払って買い取られたのであり、もはや自分自身のために生きているのではないのである。

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」
(ガラテヤ2:19-21)


私たちはクリスチャンとして、何が聖書の御言葉にかなう真理であって、何がそうでないのかという事実については、決して主張を曲げることも、譲ることもできない。そうは言っても、私たちは自分の主義主張を掲げているのではなく、真理に立つ民として、福音の使徒とされているのであるから、ヨブのように、常に自分をむなしくして全焼のいけにえとして祭壇で焼き尽くされ、自分の主張を神の御前に投げ捨てる覚悟がなければならない。

そこで、裁判官の異動のためにもうけられた制約も、筆者の心を試す良い試金石となった。最後に行われた電話会議では、裁判官と書記官は、筆者をできるだけ早くこの紛争から解放するために、真心をこめて、この日に結審できるためのすべての手筈を予め整えてくれていた。

だが、弁論を終結するためには、あくまで筆者が自分自身を十字架に置くことが最後の決め手としてぜひとも必要だったのである。もしもこの日、筆者が自分の主張に固執し続けていたならば、年内終結というリミットは守れず、筆者は望んでいた判決を得ることもできず、裁判官の交替はやむを得ないものとなっていたであろうと思う。

この日、裁判官は、弁論が始まる前に、被告と口論にならないために、被告の主張を最後まで黙って聞くよう筆者に注意を促した。

さらに、裁判官は被告から締め切りを超えて出された書面があることを説明し、これを受けとるかどうかを筆者に尋ねた。筆者は、締め切りを守らず期日直前に出された書面を受けとりたくないという意向を前々から表明していたが、この日ばかりは、書面を受けとることに同意せざるを得なかった。

その後、書記官が被告らとの電話をつなぎ、裁判官がいつものように陳述扱いにする書面を読み上げ始めた。

筆者は当初、それをうつむいて聞いていた。裁判官が原告の提出した書面について尋ね始めた時も、まだうつむいて返事をしていた。ようやく目を上げようとすると、筆者の視界には、目の前で裁判官が読み上げた書面を手元の書類と照合してチェックをつけている書記官の様子が入りかけた。

筆者が何気なくその様子を見やろうとしたその瞬間、突如、どこからともなく、「いけない!目を上げて裁判官だけを真っすぐに見なさい!」という、まるで叱責のように鋭く厳しい制止の言葉が、筆者の心に飛び込んできたのである。

筆者ははっとして裁判官を見やったが、裁判官は事件のファイルと、陳述扱いにする書類を記載した書面をせわしなく見比べながら読み上げている最中で、以上の制止の言葉が、誰から(どこから)筆者に向けて発せられたのかは分からなかった。

しかし、筆者はこの警告を非常に重要なものと受け止め、それ以後は、しっかりと目を上げて、裁判官の言葉や態度から目を逸らすことなく注目し、ただ裁判官と連携して弁論を終結させることだけにすべての意識を集中した。

裁判官は、これが最後の弁論になることを断った上で、各自に最後の機会として自分の主張を言うよう、一人一人に発言を求めた。「まずは原告から」と、最初に発言を求められた筆者は、即座に、言うべきことは何もないと返答した。すると、被告らも、それに続いて、まるで調子を合わせるように、次々に言うことは何もないと発言し、原告に反訴もしないと答えたのである。
 
筆者の目の前で、書記官が心底、驚いている様子が伝わって来た。何しろ、その一つ前の弁論時には、議論は紛糾して非常に険悪な雰囲気となり、被告らは原告に必ず反訴すると宣言し、裁判官は我々の議論を遮って制止し、電話会議が終わった時、一同は絶望的な雰囲気に包まれ、裁判官は大きなため息をついて、これですべての希望が砕け散った、すべては原告のせいだ、と言わんばかりの表情をしていたのである。

だが、その時、筆者は信仰者として、被告らの反訴の脅しが決して実現しないことをただ一人確実に知っていたので、何とかして筆者のために労してくれている人々の心を取り戻し、絶望感を払拭して、勇気づけねばならないと思い、残された時間で、ほとんど捨て身と言っても良い態度で、すべてのことは想定内であり、どんな結果になろうとも、筆者はそれを身に負う覚悟ができており、反訴であろうと、控訴であろうと、その他の脅しであろうと、何一つ恐れているものはなく、誰の責任にするつもりもないと説明しなければならなかった。

しかも、筆者は、その時、まだすべての主張が言い尽くされたわけではなく、最後の総仕上げが残っているという印象を受けていたので、被告らの憤りを恐れず、最後まで主張を言わせてほしいと裁判官に頼んだのであった。
 
その後、筆者は自分の主張を書面で提出することができたので、最後の弁論では、いかなる主張もしないことを心に決めていた。そして、裁判官も、誰にも追加の主張がないことを確かめると、あっという間に口頭弁論の終結を言い渡した。その際、結審のために必要な最後の手筈までが予めすべて裁判所の側で整えられていたことが鮮やかに証明された。

こうして最後の電話会議は(双方の弁論の)開始からわずか1,2分程度で終了した。見事な連携プレーが成し遂げられて、議論の紛糾もなく、鮮やかに審理が終わった。

議論してはならないという裁判官の忠告がやはり正しかった。筆者は思わず満足の笑みを隠せず、裁判官もほっとして笑顔を見せ、一同、緊張が解けて解放感に包まれた。

しかし、このように息の合った連携は、もしも筆者が少しでも裁判官の判断に不服を感じていたならば、きっと成し遂げられなかったであろうことを疑わない。
 
人間が発したのではないかも知れないあの厳しい制止の言葉は、ほんの一瞬でも、その審理の場で最高の指揮官であり権威者である裁判官から筆者が目を離し、各自の思いがバラバラになったまま審理を進めることの危険性を筆者に告げたものだったように思う。

書記官も多くの配慮をなしてくれ、書類のやり取りはすべて書記官を通して行い、この審理の極めて重要な立会人となっていた書記官は、ついに筆者には親しみ深い、身近な存在になっていた。

とはいえ、この紛争の行く末を決める決定権を持っている存在は、裁判官を置いて他になかったのである。

そこで、権威に服するという点においては、決して覆せない序列がそこにあり、書記官は裁判官の権威に服し、それに従っていた。そこで、筆者も、この序列を壊さず、自分を解放する宣言を下すことのできる唯一の人間だけを真っすぐに見つめ、その発言に耳を澄まさなくてはならなかったのである。
 
筆者には、この事件を担当した担当してくれた裁判官が、この事件をとても深く理解してくれ、これを終結させるためにあらゆる努力を払ってくれていることが、前々からとてもよく分かっていた。だが、それでも、筆者がもしも最後まで自分の主張、自分のポリシーだけにこだわっていたとすれば、裁判官の深い配慮に気づけないまま、むしろ、裁判官に不服を覚えながら、各自の心がバラバラの状態で最後の弁論が行われた可能性がある。

たとえば、裁判官が弁論が始まる前に、筆者の発言に注意を促したことや、筆者が書面の当日受け取りをせざるを得なかったことなどの些細な事柄に、筆者が少しでも気を取られ、それに不満を覚えていれば、以上のような展開もなく、我々には着地点が見つからなくなって、弁論の終結もできなくなっていた可能性がないとは言えない。

つまり、この裁判官に判決を書いてもらいたいという筆者の願いが実現するかどうかは、筆者が彼を信頼してその采配に自分を委ね、その判断に全面的に従うことができるかどうかにかかっていたのである。(だからこそ、最後の弁論では、筆者はすべてを脇に置いて、裁判官を注視しなければならなかった。)

筆者から見て、地上に立てられた裁判官は、見えない裁き主としての神の権威を象徴する存在である。もちろん、すべての裁判官がみな同じような存在であるわけではない。しかし、私たちが地上の裁判官の判断にどのような態度を取るかは、私たちが神の裁きに対してどのような態度を取るかという問題ともどこかで密接につながっているように思う。
 
もしも私たちが、顔を上げて、まっすぐに自分の上に立てられた権威者を信頼して見つめないならば、その行為の中には、何かしら非常に恐ろしい危険が生じ得ることが分かったのである。

創世記において、カインは弟アベルを殺す前に、まず神に不満を抱き、神から目を逸らして、顔を伏せたとある。神の采配に対する不満が、カインの目を神から逸らさせ、顔を伏せさせるという行為につながり、そうして光であるお方から目をそらしたことで、カインの心に暗闇が生まれ、そこに罪が入り込む余地が発生し、彼は罪に誘われるまま、弟を殺したのである。

「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。

そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。

カインは弟アベルに言った、「さあ、野原へ行こう」。彼らが野にいたとき、カインは弟アベルに立ちかかって、これを殺した。 主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」。主は言われた、「あなたは何をしたのです。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいます。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければなりません。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからです。 あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結びません。あなたは地上の放浪者となるでしょう」。 」(創世記4:3-12)

もしも私たちがただの一瞬でも、私たちの最も愛する方、私たちに命を与え、自由を与えることのできる方、私たちを祝福し、あらゆる悪から力強く救い出す権威を持ったお方から目を離し、神に向かって顔を上げることをせず、自分の顔を伏せて、自分自身の思いや、ほかのことに気を取られ始めるならば、その一瞬の気の緩みが原因となり、私たちは神との親しい交わり、神との同労を失い、あっという間に、御心から遠くへ引き離されて、神の御前から退けられてしまいかねない危険を思わないわけにいかない。

筆者はこれまで主に心の姿勢について語って来たのであり、私たちが肉眼で何を見つめるのかという目線の重要性を語ったことはなかった。しかし、私たちの目が何を見つめるのかという問題は、私たちの心の姿勢を如実に表すものであり、非常に重要な問題である。

この審理においては、ただ裁判官だけが、筆者を法的に保護する判決文を書くことができるのであって、他の誰にもその真似をすることはできない。その人物に向かって不服を表明することは、自分を解放する決定を自分で否定し、退けることと同じである。
 
裁判官の割り当ては、原告や被告の希望によって行なわれるものではない。しかし、審理の初めから、筆者にはこの人にはこの事件を理解して解決に導くことが可能であり、この人に判決を書いてもらいたいという願いがあった。そこで、一人の裁判官に判決を書いてもらうために、訴えを分割して他部署に委ねることをも断った。

そこで筆者は、弁論終結のためには、地上の裁判官の考えや判断を尊重してこれに同意し、彼が何を意図し、弁論をどのように導こうとしているのか、まっすぐに裁判官を見つめて、その言葉や表情に注意を払い、これに同意しなければ、次に起きることを予想できず、同じ目的に向かって同労して、自分を解放に至らせるための判決を得ることができなかったのである。

最初は偶然のように始まった人選であり、出会いであったが、弁論の終結が近づくに連れて、裁判官の交替という出来事は、筆者には何としても阻止せねばならない選択肢となって行った。それは筆者が自己の義に固執して正義の判決を失うこととほとんど同じほどの意味を持ち、そこで、裁判官は弁護士でないにも関わらず、筆者は待ち望んでいる判決を得るために、裁判官の判断に完全に同意してこれを受け入れ、彼と同労することが必要不可欠だったのである。

これと同様に、私たちはクリスチャンとして、地上において、絶えず神と同労する必要に迫られている。もしも私たちがその役目を放棄して、最高権威者である神ご自身に不満を抱き、一瞬でも神から目を逸らすならば、私たちは自分をあらゆる悪から救い出すことがおできになる方の力強い決定を見失い、生きる方向性を失って行くことになる。

最後の弁論では、そのような危険はすべて排除されて、鮮やかに審理が終結し、その後、信仰の証しをする時間までも与えられた。筆者は、裁判官や書記官の前で、改めてキリストの十字架の意義を伝え、この裁判が、筆者を贖い出して下さった神の御業を表すものであることを伝えることができたのではないかと思う。

その後、筆者は書記官に伴われて、予め準備が整えられていた法廷に導かれ、すでに法壇に着座して我々を待っていた裁判官に迎え入れられた。その時、ここは筆者が自分を捨てて十字架に服さなければ、決して到達することのできない場所であったことをしみじみと感じた。

この裁判を最後まで遂行するためには、筆者はクリスチャンの一人として、神の御言葉の正しさを公然と証するために、すべての虚偽の脅しに立ち向かって、自分の命を最後まで注ぎだす必要があった。また、自分の心の中で、己を低くして、狭い道を通り、狭き門としての十字架を通らなければならなかった。それができなかったならば、決して到達できなかった場所、得ることのできない決定に、筆者はたどり着いたと感じたのである。

主イエスは言われた。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコによる福音書 8:34-38)

法廷はしばしば人間のエゴとエゴとがぶつかり合うたけの闘争の場所のように見えるかも知れない。しかし、実際には、そこで人の痛み苦しみの記録にじかに触れ、また、人の魂が切にあえぎ求めている解決に達するためには、それぞれが己を低くして通過せねばならない見えない門が存在する。原告や被告だけが苦しみながら戦っているのではなく、そこに一堂に会するすべての関係者が心に持たなければならない謙遜さが存在する。

法廷では、裁判官は最も高い席に着席し、それよりも一段低い席に書記官が着き、原告や被告などの紛争当事者には、傍聴席と同じ目線の一番低い席が用意されている。裁判官が最も高い席に着くのは、その権威の高さに照らし合わせて当然のことと思われるかも知れないが、その裁判官といえども、決して傲然と上から人々の苦しみを見下ろしているわけではない。

裁判官は退廷するとき、決して傍聴席に背を向けず、法廷を目の前にしたまま退出する。しかも、退出する時に通る扉はかなり低く、背の高い裁判官は、ちょうど法廷に向かってお辞儀をするような恰好で身をかがめて退出せねばならない。

筆者はそれを見るにつけても、裁判官にさえ、法廷に出るためには、己を低くして通過せねばならない狭き門があるのだと感じた。そして、筆者には筆者なりに、この最後のステージに到達するために、身をかがめて通過せねばならない見えない狭い門があった。各自がそれをクリアしなければ、この三者のメンバーで、審理を終結させることはできなかったであろうことを思わされた。

法廷は神聖な儀式の場ではなく、そこにあるのはキリスト者の交わりでもない。しかし、筆者は今、キリスト者の交わりが成立するためには、それに参加する信者らの自己が、ことごとくエクレシアの戸口で焼き尽くされて死んでいなければならないという、ある信仰者の言葉を思い出さずにいられない。

モーセは燃える芝の前で靴を脱ぐように言われたが、神聖な場所に入るためには、人は自己を焼き尽くされて死を通過していなければならない。今回、法廷においては、死に定められた者が、命を与えられ、贖い出されてゲヘナから連れ戻され、名誉を回復されるという、奇跡のようなことが起き、私たちが信じている神の救いの確かさが、それによって公然と世に証されたわけであるが、それが実現するためには、まず人の自己が低められ、十字架で死に渡されていることが必要だったのである。

こうして、今回の裁判では、その全過程において、神が随所で憐れみに満ちた采配を施して下さり、すべてがドラマチックな展開を辿った。おそらく、このような裁判は他に類例がないもので、一生、忘れることのない意義深い思い出として、関係者の脳裏に刻まれるのではないかと思う。

判決言い渡しの時に、もう一度、彼らと再会することが筆者には許されている。その時、筆者がどうなっているのか、どんな変化が身に起きているのか、それもまた楽しみである。

最後に、筆者はこの裁判を通して、クリスチャンがキリストにあって与えられている絶大な特権のことを思わずにいられない。筆者は教会やクリスチャンを罪に定めるカルト被害者救済活動がなぜ誤っているのかを説明するために、準備書面を作成する過程で、ビュン・ジェーチャン牧師が民事では賠償を命じられたものの、刑事事件では無罪判決を受けたことに触れたが、こうした事例を見るにつけても、ひょっとすると、クリスチャンに有罪を宣告することは、この世の人々には不可能なことなのかも知れないという気がしてならない。
 
信仰の道の途上で足を踏み外すクリスチャンは大勢いるであろうし、そうした信者や、過ちを犯した宗教指導者らが、神の御前で受ける裁きが格別厳しいものとなることも確かであろうが、それでも、私たちは、神が贖われたクリスチャンに罪を宣告できる者は、神ご自身と、福音の使徒以外には誰もいないという厳粛な事実を思わずにいられない。

誰かが福音の使徒とされたことには、それほど人間の理解を超えた神秘があり、神が義とされたクリスチャンに有罪を宣告し、手をかけることは、まさに悪魔(とその代弁者)にしか許されていない所業なのだと言えよう。

そういうわけで、神がキリストの貴い命と引き換えに贖って下さった筆者を告発できる人間は地上には誰もいない、という事実が、またしても公然と証明された。もちろん、筆者を刑事告訴したり、反訴したりできる人間も誰もいないことが。それは筆者が暗闇の勢力から脅される度に、幾度も述べて来た以下の御言葉の通りである。

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。


「わたしたちは、あなたのために
一日中死にさらされ、
屠られる羊のようにみなされている」
と書いてある通りです。

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:33-39)

 
教会とは、キリストの命によって新たに生まれたクリスチャンの総体であり、神が罪赦されて、キリストを通して義と聖と贖いを授けられた人々の集団である。神は地上の脆く弱い存在に過ぎない私たちをお選びになり、私たちをこの世から召し出されて、ご自分の栄光を表すための器とされた。神はこのように弱く脆い存在を通して、ご自分のはかりしれない知恵を、天上のもろもろの支配や権威に対して知らしめようとなさっておられるのである。

「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソの信徒への手紙3:10-13)

教会とは、キリストをかしらとするキリストのからだであって、キリストが満ちておられるところである。からだは、かしらであるキリストの思いを体現するためにこの世と接点を持ち、この世と接触する。私たちは、この闇の世において、キリストの栄光を証するための器官として、土の器の中に神のはかりしれない命をいただいて、星のように輝いている。
 
この先、どんなに教会が迫害されようとも、神はなお教会を通して、この世のすべての欺きを超越するご自分の多種多様な知恵を表されるだろう。だから、私たちは苦難を受けても落胆せず、あらゆる試練の中で、さらに一層、信仰を強くして、大胆に御座に進み出て、恵みを受けることができると疑わない。

敵がどんなに激しく活動して、クリスチャンの望みを絶やそうとしても、私たちは、どんな状況でも、神がご自分の栄光を力強く鮮やかに示して下さることを信じており、失望落胆する理由がない。

私たちが見るべきは、ただ一点、キリスト。詩編の中に記されている通り、奴隷が主人の手を一心に見つめるように、私たちはただキリストだけを一心に見つめ、すべての名にまさる彼の御名を高く掲げ、最高の権威者である神から目を離さない。

私たちはまっすぐに目を上げて、天の御座におられる方に目を注ぎ、神が私たちに何を望んでおられるのかに注目し、その御声に一心に耳を澄ます。

そして、神が私たちがまだ罪人であった時に、私たちを愛して、その独り子を地上に送り、命を捨てて下さったその愛をより深く知り、私たちもそれに同じ愛で応え、身を捧げて生きるために、ルツのように、心の中で愛と真実をもって神への従順を言い表すのである。

もし私たちが己を低くして主と共なる十字架で自分を死に渡すならば、神は私たちが信仰を守り通す上で受けたすべての苦難や損失を、それとは比べものにならないほどに豊かな命によって回復して下さる。

神は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注ぎ、私たちの杯を満たして下さるだろう。

私たちの信じている神のどれほど不思議で偉大なことか。この方に賛美と感謝を捧げ、栄光を帰したい。
  
目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます
天にいます方よ。

御覧ください、僕が主人の手に目を注ぎ、
はしためが女主人の手に目を注ぐように
わたしたちは、神に、わたしたちの主に目を注ぎ
憐れみを待ちます。

わたしたちを憐れんでください。
主よ、わたしたちを憐れんでください。
わたしたちはあまりにも恥に飽かされています。
平然と生きる者らの嘲笑に
傲然と生きる者らの侮りに
わたしたちの魂はあまりにも飽かされています。」

* * *

「イスラエルよ、言え。
「主がわたしたちの味方でなかったなら
 主がわたしたちの味方でなかったなら

 わたしたちに逆らう者が立ったとき
 そのとき、わたしたちは生きながら
 敵意の炎に呑み込まれていたであろう。

 そのとき、大水がわたしたちを押し流し
 激流がわたしたちを超えて行ったであろう。
 そのとき、わたしたちを超えて行ったであろう
 驕り高ぶる大水が。
 
 主をたたえよ。
 主はわたしたちを敵の餌食になさらなかった。
 仕掛けられた網から逃れる鳥のように
 わたしたちの魂は逃れ出た。
 網は破られ、わたしたちは逃れ出た。

 わたしたちの助けは天地を造られた主の御名にある。

* * *

「主に依り頼む人は、シオンの山。
 揺らぐことなく、とこしえに座る。
 山々はエルサレムを囲み
 主は御自分の民を囲んでいてくださる。
 今も、そしてとこしえに。

 主に従う人に割り当てられた地に
 主に逆らう者の笏が置かれることのないように。
 主に従う人が悪に手を伸ばすことがないように。

 主よ、良い人、心のまっすぐな人を
 幸せにしてください。
 よこしまな自分の道にそれて行く者を
 主よ、悪を行う者と共に追い払ってください。

 イスラエルの上に平和がありますように。」

* * *

「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて
 わたしたちは夢を見ている人のようになった。
 そのときには、わたしたちの口に笑いが
 舌に喜びの歌が満ちるであろう。
 そのときには、国々も言うであろう 
 「主はこの人々に、大きな業をなしとげられた」と。

 主よ、わたしたちのために
 大きな業を成し遂げてください。
 わたしたちは喜び祝うでしょう。
 主よ、ネゲブに川の流れを導くように
 わたしたちの捕われ人を連れ帰ってください。

 涙と共に種を蒔く人は
 喜びの歌と共に刈り入れる。
 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は
 束ねた穂を背負い
 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。
(詩編123-126編)



「ルツは言った。『あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように』」。」(ルツ記1:16-17)

このところ、オリーブ園のブログに掲載されているオースチンスパークスの連載はまことに身につまされるような厳しい内容が続いている。主の民の敗北や後退がテーマとなっているからだ。主の民が神に従う上で、どれほど妥協を繰り返したか、それによって、どれほど前進が妨げられたか、引用すると、あまりにも厳しい内容になりすぎるのではないかと心配に思われるほどであった。今日あたりの「「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (9)」で、ようやく希望ある結論が見え始めた。

神の召しに従うためには、私たちの側からその召しに積極的に応答するという過程がなくてはならない。神は多くの人を招いておられるが、その招きに従う人もいれば、従うことを断る人々もいる。真に神を満足させる働きをして、主と共に大いなる栄誉にあずかるためには、私たちは絶え間なく新たな霊的領土を獲得することを目指して前進し続けなければならないが、それは非常に骨の折れることであって、しかも、自分の限界を絶えず思い知らされながら、これを打ち破らなければならない戦いとなる。
 
私たちの前進とは、自分の考えに基づいて進むのではなく、常に人間の心の思いを超えた神の最善の御旨を探し続け、自分の満足ではなく、神の満足を追い求めて進み続ける姿勢を意味する。そこに到達するためには、日々の十字架を取って主に従う決意が必要であり、厳しい犠牲をも厭わず払い続ける姿勢が必要なのである。

多くの人々は、その途中で挫折してしまう。それは、彼らが自分には限界を打ち破る力がないと思い込んでしまうことによる。この人々は、いわば、神の最善が何であるか分かっているのに、次善で満足することを選んでしまった人々である。

次善には次善らしい長所や利点があるが、それでも、次善はただ最善ではないというだけの理由で、本質的に悪なのである。

しかし、主の民はしばしばこの点に欺かれる。それは人々が、人間の目に心地よく、人間の感覚にとって好ましく、人間に恥をかかせず、人間の望みを手っ取り早く満たし、人間を傷つけないように見えるというだけで、次善を最善と勘違いしてそれを選び取ってしまうことによる。

今日の多くの教会は、社会的弱者支援などの、人間に利益をもたらす、人の目に優しい活動には熱心に精を出すかも知れないが、神の栄光が傷つけられても、見向きもしない。人間の利益のためならば、人の心(自分の心)が傷つけられないためならば、いくらでも立ち上がって声を上げるのに、神の利権が脅かされ、御名の権威が否定されても、声を上げる者もない。

そのような状態が今日のクリスチャンを取り巻く状況ではないだろうか。神の教会が、どれほど脅かされても、そのために立ち上がる者もなく、声を上げる者もないのは、あまりにも多くの教会が、神の利益という最善ではなく、人間の利益という次善に仕える団体となってしまったことの結果である。

繰り返すが、クリスチャンにとっての最善とは、もちろん、神の御心を指すのであり、人間の思いを超えた、神が満足される目的の水準に到達するために、人は代価を払わなければならない。

ところが、クリスチャンが自分にとって何が最善であるのかが分かっているのに、それを差し置いて、しばしばあえて次善を選ぶとうことが起きるのは、その信者が、自分は最善には値しない劣った存在だという心の恐怖を乗り越えられないためである。

そのような恐怖心は、しばしばコンプレックスや、過去に起きた出来事から来るトラウマや、自信のなさなどに起因して起きて来るが、根本的にはすべて不信仰の表れである。

神はしばらくの間ならば、信者の心の弱さを理解して、信者が御心に従うのを躊躇している間も、忍耐強く待って下さる。従いたいと願っているのに、それができないでいる心の迷いや躊躇を理解して下さらないわけではない。

だが、もしも人が最終的に最善(神の御心)を退けて、次善(人自身の利益)を選ぶなら、場合によっては、そこで人は神を退けて、自分の救いを失ってしまうことにもなりかねない。

それが、神と富(この世、生まれながらの人間)に兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい意味なのである。

人が自分にとって何が最善であるかを知りながら、次善で満足することは、自分で自分をディスカウントすることと同じである。そのような妥協をすることによって、人は本来ならば達成できるはずの高い目的を失ってしまう。そのために、輝かしい達成が失われ、主の民の前進が妨げられる。しかも、それは当事者だけでなく、その人間に関係する多くの人々に悪影響を与える。

そのような妥協を繰り返したがために、神の教会が力を失って今日に至っていることを思わずにいられない。前回の記事で触れたハガルとイシマエルは、肉的な力の象徴であって、あれやこれやの人物を指すわけではない。それは霊的な比喩であり、敵は私たちの心の中に攻撃をしかける。
  
要するに、主の民が、自分の心の中に起きる恐れに打ち負かされ、自分には願っている最も高い目的に到達する力がないと早々に諦めて妥協を繰り返すことが、敗北の始まりとなるのであり、私たちはそのように主の民から証の力を失わせる虚偽のささやきを、自分の心から徹底的に追い出さなければならない。

だが、今、この問題について多くを書く必要はないと思う。なぜなら、私たちの心がただ一心に神に向いてさえいれば、すべての心の覆いは取り除かれるからだ。そして、すでに書いた通り、主の民が自分の心の弱さに負けて回り道をしたとしても、神はなぜそのようなことが起きているのかもご存じで、民の心が訓練されて、ただ神だけを神として崇めるようになるまで、長い月日を耐えて待つことがおできになる。

神の側には弱く脆い器である人類を用いて、ご自分の栄光を表すために、果てしない忍耐の道のりを耐える用意がある。神には私たちを訓練するための十分な計画があり、知恵と力がある。私たちは決してそのことを忘れてはならない。たとえ私たちの側で忍耐がつきかけ、自分たちは道を見失った、あまりにも弱く、愚かすぎて、失敗したのだと諦めてしまうようなときでも、神の側にはまだ忍耐があることを忘れてはならない。

私たちが意図的な反逆に及んで、自ら神の御心に従うことをやめることさえなければ、私たちの側の不用意から来るあらゆる失敗や、恐れによる紆余曲折、愚かさによる遠回り、回り道に見えることさえ、神は益として下さることができることを思い出す必要がある。

これは決して回り道を良いものとして認めるわけではない。しかし、神は主の民の側のあらゆる不従順や失敗にも関わらず、常にご自分の御心にかなう人々を探し出して、これをご自分の栄光を表す器として用いることがおできになる。そのために必要なすべてを自ら与えて下さる。それが神が教会に与えておられる使命なのである。
 
そこで、できるならば私たちのすべてが、失敗して終わる一群ではなく、キリストと共に栄誉にあずかる一群に入るべきだと思う。そのような高い志、動機をすべての信者が持つべきである。

もう一度、オースチンスパークスの「ルツ記注解」第二部からを引用しておきたい。

まさに、あなたや私に対して、主イエスは関心と愛に満ちておられます。主は私たちを得ることを心から願っておられます。しかし、他のすべてのものが道からどかない限り、私たちは決して主の真価を認めないであろうことを、主はとてもよくご存じです。ですから、主は中途半端な忠誠は受け入れません。半分しか持たないで次席を占めるくらいなら、すべてを手放す用意が主にはあるのです。主はあらゆる危険を冒されます。

「別の救い主を見つけることができるなら、いいでしょう、見つけなさい。これに関して私が何かを行うには、あなたはまず、私がすべてとなる地点に達しなければならないのです」。主は妬み深くそのような地位を欲しておられます。主にはできます。主は願っておられます。主は切望しておられます。しかし、それはおそらく隠されているのでしょう。主は縛られてはいません。主は自由です。主には他の関心や興味は何もありません。主はこのもう一人の人とは違い、何にも興味はありません。主はこのようなすべてのものから自由なのです。


ルツ記注釈については、以前にも当ブログで紹介したため、この物語の筋書きについて繰り返すことはしない。ルツ記はちょうど士師記の霊的荒廃の時代に起きた出来事の物語であり、ちょうど現在のオースチンスパークスの連載で語られているような、神の教会が荒廃状態に陥った時代を指す。そのことは、ちょうどこの物語が、現代という霊的飢饉の見舞う荒廃した時代のクリスチャン生活にとって非常に良い教訓となることをよく物語っている。

主の民から占め出され、呪いの下にあり、嗣業を失いかけていた一人の女が、自分を買い戻す権利のある近親者に出会い、幸せな結婚を遂げるハッピーエンドのこのストーリーは、士師記の絶望感とは対照的である。霊的な筋書きにおいては、ルツとボアズの結婚は、キリストと花嫁たる教会の婚姻を指している。

ここでは、ボアズがルツを買い戻す前に、もう一人、ルツを買い戻す権利がある人が名乗り出たことが記されているくだりに注目したい。

こうして現れた彼が「次善」である。

ボアズはルツにとって「最善」であり、ボアズの役目は、神の最善――すなわち、ご自分の命を投げ出して人類を罪から完全に贖われた神の独り子なるキリスト、私たち信じる者にとってすべてのすべてである方を象徴している。しかし、最善の価値が証明されるためには、次善の価値がまず明るみに出されなければならない。いや、次善の悪が証明されなければならないと言っても過言ではない。いわば、次善は次善でしかなく、決して最善に届かない不完全で呪われたものでしかなく、そこには人を救い得るいかなる望みもないことが、まずはっきりと証明されなければならない。

しばしばこのテストは回り道のように見える。人々は早くルツが買い戻されて彼女の立場が安楽になれば良いと思う。なぜボアズは自分にとって不利なことをわざわざ口にして、自分以外の人間にチャンスを与えるようなことをするのか。

しかし、神はご自分の価値を知っておられるがゆえに、ご自分の願っている結論を得るために、急いだり、焦ったりすることはなさらない。人がすべてのものを試し、神以外には人を救いうる方が他にないことを人自身が理解して納得するまで、神は忍耐強く待って下さる。それは神が本当にご自分に自信を持っておられ、完全で欠けることのない方であり、人間の理解を超えた方だからである。

だからこそ、神と人との出会いは壮大なドラマなのだと言える。それは決して人間の思惑通りには進まない。波乱に満ち、ほとんど絶望的な状況が幾度も展開され、人類は幾度も神以外には自分を救い得る者がないと叫ばなければならない窮地を通らされる。その戦いが繰り返されるうちにスケールが拡大し、最後に最も大きな決戦へと至る。

「次善」は、未来の人類史の終わりには、堕落した巨大な都バビロンにまで発展し、「最善」である方の思惑の前に大きく立ちはだかる。バビロンは生まれながらの人間が、自らの知恵と力によって神の高みにまで到達しようとする呪われた努力の集大成であり、そこには多くの住人がおり、大勢の味方、軍隊がいる。

しかし、その一方で、「最善」である方のみにつき従おうと身を整える、天の都エルサレムに属するつつましい聖徒たちがいる。彼らには、神以外に頼るべき味方はおらず、「彼女」はまだ花嫁になっていないので、独身であり、やもめであり、愛人もなければ、多くの味方も援軍もない。今日も、真にキリストの花嫁として彼に就き従う教会は、いわば、ルツのような孤独な立場にある多くの人々から成る。

筆者は、現代のような曲がった荒廃の時代にも、バビロンに与することなく、最後までキリストに従い、勝利を得るために、ルツのような心の有志たちが各地で起こされていることを疑わない。

さて、私たちは聖書を読んで、これを人間の悪なることを証明しただけの残酷な物語だと考えるだろうか。聖書は神が人間を罪と滅びに定めただけの残酷な物語で、人間を辱める救いのない荒唐無稽な作り話に満ちているだけだと決めつけるだろうか。それとも、そこには、生まれながらの人間には何の希望もないという、絶望的な状況の中でも、神だけは揺るぎない確かな希望であるから、私たちには望みを捨てる理由がないという結論が力強く提示されていると信じるだろうか。

私たちは士師記の絶望感を究極的な結論だと受け止めるだろうか。それとも、その中でルツとボアズの物語が人知れず展開していることを信じるだろうか。どちらの立場に立つのかによって、私たちの得る結論は全く異なるものとなる。

私たちは聖書の中から、自分のためのボアズを見つけることができるだろうか。それとも、自分を救う力のない「次善」を選んで、絶望という結論を握りしめるだけに終わるのだろうか。

もう一度言うが、私たちは自分の心から、自分は最善には達し得ない劣った存在だという恐怖感を徹底的に追い出さなければならない。最善に到達するために代価や犠牲を払うことを厭うがゆえに、手っ取り早く次善で満足しようとする妥協を心の中から追い出さなければならない。次善はどんなに良く見えても、人を救う力がないことを悟らなければならない。

キリストと共なる十字架を日々通過することこそ、私たちの最善である。生まれながらの人間にとって心地よく、恥とはならず、苦しみの少ない安楽な道を行くことを拒否して、主と共に栄光にあずかるために、主と共にどんなに困難な道をも通過することを決意しなければならない。

ルツがナオミに向かって語った言葉は、キリストへの従順の告白であり、ほとんど彼女の心の叫びと言っても良い、心の底から語った彼女の願いである。

「あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。」

このような告白を、私たちは本当に心から神に向かって捧げることができるだろうか。告白できたとしても、実際に、それを実行するために代価を払うことができるだろうか。

私たちは信仰によらなければ、神に徹底的に従う力がない。私たちは神ではなく、被造物に過ぎない者であるから、信仰によらなければ、神の厳しい検査に耐えうるような徹底的な清さを持つこともできない。
 
私たちも、被造物であるから、被造物としての弱さを日々存分に噛みしめながら生きている。そこで、私たちは、主に従うと決意するに当たっても、口では、神のためにすべてを投げ打っても構わないと言いながら、自分を見て、「自分にはできるだろうか」と恐れのうちに問うことがあるかも知れない。

御心がどこにあるのかを知っていながら、躊躇し続けて、新たな一歩を踏み出さないことがあるかもしれない。自分にはあまりにも厳しい理不尽な代価が要求されていると苦にして、心の中でこっそりと自分を哀れんで涙を流すようなことがあるかもしれない。
 
ある人々は言う、「殉教ですって。ご冗談を。何を言っているんですか、そういうのはカルト的信仰ですよ。神はあなたに行き過ぎた残酷な要求をしているのです。あなたは今のままで十分です。自分の権利を握りしめ、これを守りなさい。あなたは最善には達し得ないから、次善で満足しなさい。一歩を踏み出す必要なんてありません」という次善のささやきを聞く時、それに頷きそうになる心を拒否して、先へ進んで行くことができるだろうか。

人にはできないことも、神にはできるのだと信じられるだろうか。
 
もしもあなたが、神があなたに求められている代価が、あなたには過剰かつ理不尽なものであって、あなたにはそれに耐える力がないと認めてしまえば、あなたの前進はそこで止むことになる。それだけではない、あなたは自分を哀れむことによって、神はあなたに理不尽な要求をされているのだと信じ込むことになり、その自己憐憫の思いを周囲の人々に振りまいて影響を与え、その思いが高ずれば、あなたは必ずやいつか神に対して反逆し、自ら神を裏切って捨てることになる。

しかし、神が私たちを選んで立てられたのは、私たちに被造物の愚かさ、弱さ、限界、罪深さという、自明の理を証明させる目的のためではない。むしろ、私たちが被造物としての限界を打ち破り、神の栄光を証する器として、出て行って実を結び、その実がいつまでも残るためなのである。決して私たちを辱め、罪に定め、滅ぼし、排除することが目的ではないのである。

キリストが十字架において、人類が負うべき恥のすべてを、私たちに代わって負って下さり、私たちの弱さ、愚かさ、不従順、罪に対する罰をすでに受けて下さった。だから、私たちは、自分に求められている代価が、人の目にどんなに厳しいものに見えたとしても、主に従うならば、それが「負いやすいくびき」に変わることを知っているし、そのことを常に信ずべきである。

筆者は、この記事を読んでいる一人一人が今、神の御前にどんな形で「日々の十字架」を負うことを求められているのかを知らない。ある人にとっては、それは自分の心の恐れを乗り越えて前進することを意味するかもしれないし、自分で負って来た心の重荷を主に明け渡すことを意味するかも知れない。

だが、 いずれにしても、信者には、日々、負わねばならない十字架が存在する。主と共なる十字架は、人の目には非常に厳しく、肉にとっては限りなく残酷に見えるだろう。それは人の生まれながらの自己にとっては、自分が死の刑罰によって殺される恥辱の場所であるから、生まれながらの自己は、自分の醜さ、恥がそこで暴かれることを望まない。これを憎むべきものとみなして、何とかして退けようとする。

しかし、十字架を回避して「次善」を選び取れば、生きやすくなると考えるのは錯覚でしかない。人間が与える偽りの十字架は、神が与える本物の十字架に比べ、百倍も千倍も厳しいものであり、次善が提案する道を選べば楽になれると考えるのは、錯覚でしかない。

だから、勇気を持って、自分の十字架を取って、キリストの御許へ赴くべきである。そして、まことの医者に、自分の中に切除されるべき腫瘍があることを正直に見せて、彼に従順に身を委ね、自分を吟味してもらいなさい。あなたがこれまで自分で背負って来た全ての呪いと罪定めと恥と刑罰を、主の御許に置きなさい。そうすれば、主がくびきを負って下さり、あなたの負うべき十字架が格段に軽くなったことが分かるだろう。

私たち信者は土の器に過ぎなくとも、その中に神のはかり知れない命の力が入れられている。そこで、私たちが前進するために通過せねばならないすべての試練には、予め勝利が与えられていることを、いついかなる瞬間にも、固く思い出さなければならない。ただ従いますと言うだけでは不十分で、従い抜くことができるという勝利の確信を握りしめて、実際に前進して行かねばならない。その新たな一歩を踏み出すことを決して恐れてはならず、これ以上、躊躇していてはいけない。

カルバリこそ、私たちの常なる住処であり、終着駅である。
 
あなたを離れ、あなたから別れて帰るよう、私にしむけないでください。あなたが行かれる所に私も行き、あなたが住まわれる所に私も住みます。あなたが死なれる所で私は死に、そこに葬られたいのです。死以外のものによって私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰して下さいますように。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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