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「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
 キリストと共に生きるようになる。

 耐え忍ぶなら、
 キリストと共に支配するようになる。

 キリストを否むなら、

 キリストもわたしたちを否まれる。

 わたしたちが誠実でなくても、

 キリストは常に真実であられる。

 キリストは御自身を

 否むことができないからである。」(二テモテ2:11-13)

1.掲示板で起きた集団リンチと、カルト被害者救済活動の終焉
 ~神の承認を受けずに、人間が己の被害だけを訴え続けることの恐ろしい危険~


さて、味方のように装って登場しながら、陰でその人間を裏切り、勝手に人の名を使って騒ぎを無限に拡大して行く人間は、敵よりも始末が悪い・・・。

この結論は、これまで幾度となく実際に裏づけられて来たものである。

唐沢治も、当初は筆者の味方であるかのように装っていたが、実際には、筆者を自分のために都合よく利用し、筆者の事件をますますこじらせただけで、今や公然と筆者を敵のように断罪している。

この度、唐沢と同様に、これまでさんざん当ブログの名や主張を利用して、杉本徳久を挑発し、陰から対立を煽って来た坂井能大牧師に直接、メールを送ってみたところ、坂井は、当ブログをダシにして杉本を挑発した行為があったことを自ら認め、当該記述をすべて非公開にするか削除することに同意した。

筆者は、坂井が唐沢を通じて入手した筆者の転送メールを対杉本との裁判で利用した行為や、巧妙に筆者のブログの記述を利用して、杉本徳久を挑発するような内容の投稿を重ねたことが、どれほど筆者にとって迷惑であったかを告げて、二度とこのようなことを行わないよう、もしも杉本徳久に恨みがあるなら、筆者を利用せず、自分自身の言葉で、直接、杉本に呼びかけるよう求めた。

このことについて、坂井からは何一つ、反省も謝罪の言葉もなかった。ただし、投稿を非開示もしくは削除することを速やかに行ったことだけは、唯一評価できるポイントであった。(この他、事実かどうかまでは知らないが、坂井は唐沢と手を切ったことを明言していた。)

筆者から見れば、この人物が杉本との裁判に負けて以後も、杉本を嘲笑する投稿を続けて来たのは、自分の負けを認めたくないがゆえの、うわべだけのポーズに過ぎない。
 
結果はすでに裁判で確定している。なのに、坂井が当ブログの内容を利用して、杉本に宣戦布告していたのは、自分ではもはや杉本を訴えられないので、筆者の主張を利用するしか方法がなかったのであろう。

だが、坂井の場合は、杉本に敗れる以前から、そうした行動をしきりに繰り返して来たことから、坂井の行ったことは、結果的には、杉本を挑発することによって、筆者を重大な危険に陥れるものであったと言える。
  
実際に、そのとばっちりは、これまですべて筆者に向けられて来たのである。このことは、唐沢治が杉本徳久に民事提訴を予告しながら、これを実行しなかった際に、杉本の怒りの矛先が、筆者はエシュコルのようなKFCの信徒等に向けられたのと同様である。

筆者は、このような現象を、牧師たちの信用ならない内心を如実に示すものだとみなしている。牧師たちが、意識的にか、無意識的にかは知らないが、非常に巧妙な形で、信徒を陥れては、対立や紛争に巻き込んで、人生を失わせて来た様子がよく分かるように思う。
 
まるで牧師たちが気に入らない信徒を陥れるために陰からしかけているゲームのようにさえ見える。

唐沢治、村上密の両名が、現在、筆者に対してどういう態度を取っているかに加え、坂井能大牧師の行動を見ても、筆者が当ブログにおいて、決して牧師という連中を信用しないようにと呼びかけて来たことが、事実無根の主張ではないことが、読者に分かるのではないかと思う。

しかも、プロテスタントの牧師の幼稚さ、低俗な人間性が、これらの人物を通じてよく分かろうというものだ。(これらの人々がキリスト教徒としての全うな理念を持っているかという問題は別として、いかに牧師という連中が、人格的に未熟で幼稚であるかだけは、よく分かるはずだ。)

そこで、筆者は改めて、聖書の御言葉を信じる信者として生きることと、このような牧師たちの支配下に身を置いて生きることは全く訳が違うので、信仰を持つ者たちには、牧師たちとは一切関わらないで生きることをお勧めするのみである。
   
とはいえ、今回、坂井が書き込みを削除したことで、筆者の中では、今後、こういう出来事が起きた場合には、投稿者の本心を確かめるために、直接、その人物にコンタクトを取るのが一番良いという結論が判明した。

確かに、直接、コンタクトを取ることによって、罵詈雑言に満ちた返答が返って来て、騒ぎが大きくなり、事件が炎上する危険がないわけではない。とはいえ、たとえそうなったとしても、今回の裁判でも、筆者が2009年に杉本にコメント削除の依頼のメールを送ったことが、正当な要求であったと認められたように、相手が要求に応じないリスクを踏まえたとしても、もしそれが正当な根拠の伴う要求であるならば、きちんとした意思表示を、早い段階で直接、明白に行っておくことは重要なのである。

同じことが、掲示板の投稿者にも当てはまるであろう。

掲示板の匿名の投稿は、これまで、村上や杉本や唐沢を不必要に焚き付けて筆者と対立させるために、つまり、争いの火に油を注ぐために大いに役立って来た。

筆者は個人的に当ブログを使用して彼らに対する主張を投げかけているが、掲示板では、当ブログの主張に、尾ひれ背びれをつけ、これを無限大に歪曲・拡大するなどして、筆者が述べてもいない事柄を、村上や杉本や唐沢に対して述べたかのように記し、筆者を中傷しつつ、争いを激化する投稿が無数に続けられて来た。

さらに解せないことは、こうした内容の投稿が、筆者がパソコンから離れている時間帯、もしくはブログ記事を更新しようとしている時間帯に集中的に行われていることである。
  
本日も、掲示板において、筆者を中傷する投稿が重ねられたのは、筆者がパソコンからも、携帯からも、遠ざかっていた20時から21時までの間であった。21時を過ぎて、筆者が坂井に以上のメールを送ってやり取りを続けてから、中傷の投稿は一旦、やんだ。

それから、23時を過ぎて、掲示板を確認し、当記事を書き始めると、再び中傷(および著作権侵害)の投稿がなされた。
 
さらに、掲示板では、24時を回ると、翌朝4時~6時くらいまで、規則的に中傷の投稿がやむという特徴もある。(これは他の匿名掲示板では見られない現象ではないかと思う。)

このようなことが、これまでも終わりなく、繰り返されて来たのである。
   
掲示板における当ブログへの中傷の投稿は、明らかに筆者がオンラインにしていない時間帯を狙って集中的になされているとしか思えず、その目的も、内容も、全く一致した方向を向いており、しかも一定の時間が来ると、まるで業務終了のベルが鳴ったがとごくに中断する。

このような現象は、自然発生的に起きるものではない。 早い話が、掲示板の話題が、常にカルト被害者救済活動の支持者に不利にならないように、当ブログに対する攻撃に転じるように仕向ける、人為的な世論操作が行われているとしか思えないのである。
 
仮にこれが、筆者の過剰な推測であるしても、そう考えるなら、放っておけば良いだけである。

ところが、掲示板の投稿者たちは、躍起になって、筆者が監視されていると感じていることを、嘘だ、妄想だ、幻想だ、創作だと否定し、筆者が現存していると主張したわけでもない「サイバーカルト監視機構」の存在を、必死に否定していることは、筆者から見て、たとえようもなく不自然なことだ。

なぜ彼らはそれほどまでに「サイバーカルト監視機構」の話題にこだわり続け、それゆえ、筆者の感じていることを躍起になって否定せざるを得ないのか? 何度、議論をよそへ向けても、結局は、彼らの主張はそこへ戻って行く。そして、 「俺たちがヴィオロンを監視している事実などない!!そんなのは妄想だ!!」と合唱を続けるのである。

ついに唐沢でさえ、そうした主張に加担し始めたことは、筆者には驚くべきことである。
 
しかも、筆者はKFCを2012年に去ってから、KFCとは一切関わりのない数人の兄弟姉妹と交わりを行っただけで、その交わりすらも、兄弟たちの逝去などによって途絶え、それ以後、筆者は宗教界とは一切関わりのない生活を送っている。

そこで、信者の中には、筆者の容姿がどのように変化したかなどを詳細に知っている人間はいないはずであるが、それにも関わらず、これらの匿名の投稿者らは、非常に細かく筆者の外見的な特徴をあげつらい、それを材料に、筆者を中傷・罵倒していることは、不審極まりない事実である。

もちろん、そうした内容の中には、嘘もたくさん混じっているとはいえ、いずれにしても、掲示板においては、以上の通り、筆者自身や、筆者の行動を事細かに監視していなければ、とてもではないが、想像だけで、そこまで細部に至るまで、様々な特徴をあげつらいつつ、筆者を中傷したり、なおかつ、当ブログの更新を細かく見張りつつ、新しい文章が発表されるや否や、ただちに剽窃して悪質な投稿を繰り返すことはできない、と言えるだけの内容の投稿が、おびただしい回数、重ねられて来たのである。

そのような仕打ちを受ければ、筆者でなくとも、行動を監視されていると考えるのは、ごく自然な成り行きでしかない。
  
さらに、この掲示板で、筆者に対して中傷を重ねている人物は、全員が、唐沢治、村上密、杉本徳久のいずれか(もしくは全員の)擁護者であり、なおかつ、カルト被害者救済活動を熱烈に擁護する人物ばかりであることも見逃せない。

次の記事では、杉本徳久が未だ判決に従わず、賠償金から逃げ回っている事実と、カルト被害者を擁護する人たちが、被害者という美しいベールで自己を美化しながら、いかに暴虐に満ちた行為に手を染めて来たかについて語る予定であるが、筆者はそもそも2009年から、カルト被害者救済活動などという聖書の神に逆らう冒涜的運動とは、手を切らなければならない、と主張して来た。

被害者意識を隠れ蓑に、人間が自己を無限に美化し、己の罪なる本質から目を背けたまま、神によらない救済を目指し、自分自身が神に代わって裁き主になろうとするこの運動は、終わらなければならない。

筆者はそうした見解に立ちつつ、ずっと以前から、カルト被害者救済活動は、正義を失って、今や嘘の温床となり、無法地帯と化していると告げて来たが、今や掲示板を見れば、誰もがその事実を客観的に確認できるまでの事態となりつつある。

掲示板を見れば、カルト被害者を擁護する人々が、どれほど自分たちの被害を訴えることだけに熱心で、その被害を否定する人々に対して、残忍で、容赦のない制裁を加えずにいられない利己的で粗暴な人々と化しているか、いかに彼らが被害者意識に溺れるあまり、常識を失い、法令順守の精神をも失い、自分にとって不都合な事実は見ようともせず、自己を美化し、気に入らない人間に対してのべつまくなしに汚い言葉で罵詈雑言を浴びせ、執拗かつ徹底的な権利侵害を繰り返さないではいられないか、しかも、いかに彼らがその残忍な行動の責任を微塵も感じることなく、一人前の社会的責任を負うことから逃げつつ、ただ「藪の中から石を投げ」ては他人を傷つけるだけの卑劣で無責任な人間に成り果てているか、誰にでも分かるはずである。
 
筆者が幾度も予告して来たように、このように被害者意識に溺れて自己を失った人々は、反社会的になり、法を犯しても、良心の呵責もなくなり、それゆえやがて厳しく裁かれて、人生を失って行くことは避けられない。

彼らは未だに、あたかも筆者が妄想や幻覚に陥り、あたかも当ブログが犯罪的な内容となっているかのようにさえ示唆する記述を続けているが、かく言う彼らこそ、正常な意識を失い、現実と妄想の区別がつかなくなり、やがて反社会的な行動に手を染めて、それが犯罪行為として厳しく裁かれるに至るのである。
 
筆者は、この掲示板が、カルト被害者救済活動の悪質な本質を、また、カルト被害者を擁護する人々の隠されていた悪意に満ちた内心を、こうまで赤裸々に表してくれたのは、非常に幸いで、良いことだったと考えている。

おそらく、この投稿を見て、今後、カルト被害者を支援したいと願う人は、出て来ないだろう。筆者が2010年から2011年頃にかけて、いかにカルト被害者救済活動が反聖書的で、神に逆らう冒涜的運動と成り果て、法にも社会常識にも逆らう無法地帯と化しているかを述べていた頃は、まだこれほどまでには、この運動の悪質さを証拠立てる客観的な事実が揃っていなかった。

だが今や、当時、予告した通りの現象が起きつつあり、この運動の悪しき本質が、またとないほどはっきりと露呈したのである。
  
今、この掲示板で、筆者に向かって、味方を装い、僭越なアドバイスを行っている人たちや、悪質な中傷を行っている人たちに必要なことは、おそらく、現実社会に引っ張り出されて、自分の発言の責任を厳しく取らされることであろうと思う。

次の記事でも触れるが、かつてはあれほど筆者がペンネームでブログを執筆している行為を「匿名に隠れている」と非難していた杉本徳久が、今やブログからそそくさと自分の名を消して、「匿名に隠れている」事実も見逃せない。

これが彼らの本質なのである。他者に向かってはさんざん根拠のない要求を繰り返し、途方もなく厳しい非難や断罪を行うにも関わらず、自分に対しては、微塵も同じ基準を適用せず、自分だけは何をしても許されるかのように、一切の法的・社会的責任を負おうとしないのである。

今日、掲示板の投稿者の中で、一人でも、インターネットにとどまらない接触を、筆者と直接行って、公然と日の下に出て来て、自分が誰であるかを示し、さらに訴訟のリスクを背負いつつ、実名で責任を負って立つ勇気と覚悟のある人はいるのだろうか?

おそらく、そういう勇気を持った人間は、彼らの中には、一人もいまい。だが、筆者は彼らの思惑とは無関係に、そろそろ彼らと現実社会における接触が必要な頃合いが来たと感じている。

彼らの実名を特定し、法的・社会的責任を取ってもらうことは避けられないであろうと筆者は考えている。杉本も、かつてこれと全く似たような言葉を口にしていたが、杉本はそれをただ脅し文句のように振りかざすばかりで、決して掲示板の匿名の投稿者に対して、合法的かつ正当な方法で向き合おうとすることはなかった。

だが、筆者は、市民として許された合法かつ正当な方法で、このように悪質な権利侵害を繰り返す人々を、匿名の世界から、リアルな社会へと引っ張り出して来て、自己の行為の責任と向き合わせることは、この先、ぜひとも必要だと考えている。そのために必要な根気強い労を厭おうとは思っていない。

なぜなら、そうした時に初めて、彼らが一体、カルト被害者とどのようなつながりがあって、村上密や唐沢治といかなる関係にあるから、これほど熱心に彼らを指導者として擁護しつつ、筆者を中傷しているのか、分かるからである。
 
そして、この事実が明らかにならない限り、一体なぜ、この人々がいつまでも「サイバーカルト監視機構などない!!」と叫び続けているのかも、明らかとはならないであろうと思うからである。
 
* * *

2.第一審で提出された原告および被告の書面の分量比較

さて、村上密がまたも筆者を断罪する記事を書いている。またもや筆者が村上の像を「創作」しているのだという。だが、不思議なことに、この記事の中で、村上は、筆者が一体、村上の像をどのように「創作」しているのか、一切、触れていない。

これはおかしなことである。村上は筆者の記事をまるごと「創作」と決めつけているだけで、何をどう否定したいのかが分からないのだ。具体的な反論にすらなっていない。

以前には、村上は、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、自慢げに吹聴していたことを忘れたかのように、筆者が村上の像を不当に「悪魔化」しているとして、筆者を非難していた。

だが、今回は、筆者の主張が「感情論」であるかのように決めつけているだけで、何を具体的に否定したいのかもよく分からない。

ひょっとすると、村上は、以下の記事で、筆者が、カルト被害者の裁判を支援する人々が、勝訴した被害者から、成功報酬のごとく、賠償金の何割かをキックバックされた可能性があると発言したことが、そんなにも気に入らず、「創作」だと言いたいのであろうか。

あるいは、村上がカルト被害者の救済のために全国各地を飛び回るための旅費が、どこから出ているのか分からず、ほとんどが被害者の自主的な負担となっているのではないかと、筆者が指摘したことが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、村上が筆者の著作者人格権を侵害し、筆者を刑事告訴したとブログで発表した上、その記事を一瞬で削除し、今や、控訴審で筆者から名誉毀損を主張されるはめになっていることが、「創作」に当たると言いたいのであろうか。

あるいは、筆者が何を訴えたところで、村上の率いるセンターはびくともしないと、村上が記事でアピールしているように筆者が感じられたという印象を述べたことが、「創作」に当たると言いたいのか。
 
筆者は以上の事柄について、何一つ事実として断言していない。すべて単なる推測の域を出ない話としか書いていない。むろん、状況も、人物も、特定されておらず、それで名誉毀損など、成立するはずもないことである。それらが「創作」に当たると言いたいのであれば、なぜ漠然と十把一からげに作り話であると決めつけるのでなく、具体的に事実を摘示して、個別に反論しようとしないのか、不思議に感じられる。
   
さらに、村上は「一審で大量の準備書面を出したが、何の効果もなかった。」とぼやいている。

主語のないこの短い文章を読んだとき、筆者は、村上が「私はヴィオロンに反論するために大量の準備書面を出したが、ヴィオロンには何の効き目も無かった」と書いているのだと受け止めた。

そして、村上は、毎回の口頭弁論に、たった1枚~3枚程度の書面しか出していないのに、何を言っているのだろうかと笑った。

後になって、この文章について考えを巡らすと、村上はおそらく「ヴィオロンは一審で大量の準備書面を出したが、それによって私を追い詰めることはできなかった」と言いたかったのだろうと、ようやく合点が行った。
  
主語がないのだから、受け取りようによっては、正反対の解釈が成り立つ、誤解を招きかねない紛らわしい一文である。このような曖昧な表現では、意図したのとは正反対に解釈されたとしても、文句は言えないことであろう。

だが、その問題はさて置くとしても、ついでながら、ここに先日、判決言い渡し直後に、筆者が事件ファイルを閲覧して、原告側・被告側から提出された全ての書面のページ数を集計した結果を記しておきたい。
 
これを見れば、毎回の口頭弁論に、村上がどれほど少ない書面しか出さなかったかが読者によく分かるはずだ。

原告・訴状 149頁 30.5.25(日付)
原告・訴状訂正 4頁  30.6.4
訴状訂正(2) 10頁 30.6.12
訴状訂正(3)6頁  30.6.29
被告村上・答弁書 2頁 30.7.23
被告杉本・答弁書6頁 30.7.25
原告・訴状訂正(4) 3頁 30.7.25
原告・準備書面 52頁 30.7.30
原告・訴状訂正(5)2頁 30.7.30
原告・申立の趣旨変更申立書 2頁 30.7.30
被告村上・準備書面 2頁 30.8.31
被告杉本・準備書面 9頁 30.9.3
被告杉本・準備書面 11頁 30.9.10
原告・訴状訂正(6) 12頁 表2頁 30.8.26
原告・準備書面(2) 11頁 30.9.3
原告・準備書面(3) 171頁+5頁 30.10.14
被告村上・準備書面(3) 3頁 30.11.2
原告・準備書面(4) 80頁 30.11.21
被告杉本・準備書面(その4) 37頁 30.11.22
原告・準備書面(3・4)の訂正申立書 12頁 30.1.26
被告杉本・準備書面(その5)4頁 30.11.27
被告村上・準備書面 1頁 30.12.3
原告・準備書面(5) 151頁 30.12.10
被告杉本・準備書面(その6)3頁 30.12.20

書証(枝番号を除く)
原告・甲1号証~甲109号証
原告・証拠申出書 30.10.3
裁判所・調査嘱託 30.11.9
被告杉本・乙1号証~乙32号証
 
書証からは枝番を除いているので、枝番も含めれば、筆者が出した書証の数は、130はあるだろうと見られる。
 
この書面の分量の推移を見れば、村上と杉本が当初、唐沢治からの「不知」で通せとの助言に忠実に従ったのか、極端に枚数の少ない答弁書を出していたことが分かる。

その後、杉本の書面の分量は次第に増加したが、村上の反論は、依然として、1~3頁程度にとどまり、3頁を超えたことがない。また、村上の提出した書証はゼロであった。

筆者が100頁を超える準備書面や、100を超える書証を出していたにも関わらず、このようなことが、村上に可能であったのは、村上が杉本を盾のようにして筆者と全面対決させて、自分は傍観者的な立場に立っていたためである。

第一審では、誰が杉本に筆者の個人情報を渡したのか、筆者の側で、これを明白に特定する証拠がなく、それが村上の不法行為であることを明白に証拠立てる内容が提示されていなかったので、村上は必至に自己防御する必要がなく、1枚の反論で事足りたのである。

その代わり、一審で杉本が筆者をあらん限りの言葉で誹謗中傷した、途方もなく支離滅裂な内容の書面を提出して、筆者と全面対決に及んだ。
 
そして、村上がこのように極端なまでに少ない枚数の反論しかしなかったことは、筆者にとって不幸中の幸いであった。もしもこの時点で、村上が杉本と同じほどに錯綜した内容の文書を、同じほどの分量で出して来ていたならば、筆者は、2名の被告に全力で反論するために、次回期日までの期間を倍にしてもらわなければならなかったからだ。

この一審を通して、筆者は、訴訟に立ち向かうためには、何よりも時間的余裕が必要であることを思い知った。どんなに優れた文章力があろうとも、優れた思考能力があろうとも、時間が用意されない限り、人はいかなる反論も行うことができない。

すでに書いた通り、この時間的余裕を得ることこそ、論敵に対して優位に立つために必要不可欠な前提条件なのである。
  
だが、限られた条件下で、時間的優位性を生み出すことは、まさに神の采配なくしてはできないわざであり、主だけがそのような采配がおできになることが、この訴訟において、筆者に関しては、見事に証明されたものと考える。

また、一審では、すでに述べた通り、ほとんど書面を出して来なかった村上も、終結前には、杉本と一緒に筆者に反訴の脅しをかけて来たため、筆者は準備書面を通して全力でこの圧迫を撃退・粉砕せねばならなかった。

反訴はそれ自体が権利なので、これを否定することはできず、従って、被告が反訴すると言っているときに、原告がこれを押しとどめることは、およそ常識で考えて容易に出来ることではない。そこで、この戦いには、まさに強力な御言葉の裏づけの伴う信仰が必要であった。
 
筆者の提出した最終準備書面を読めば、その内容はもはや訴訟というよりも、信仰による激しい戦いにふさわしいものとなっていた様子がよく分かるだろう。

実際、筆者はただ御言葉に基づく信仰だけによって、彼らの反訴の予告を空中で粉砕したのであった。そして、このように、第一審では、非常に広く深い信仰的な議論が展開されたからこそ、筆者にとって、これは限りなく深い満足を覚える、主の栄光となる訴訟だったのである。
 
だが、第二審は、もはや第一審ほどのリスクは伴わないであろう。

二審では、反訴のリスクはほぼ回避できるばかりか、それはもはや筆者と杉本ではなく、筆者と村上との争いになると予想される。しかも、明白な証拠の伴う村上自身の不法行為が争点となるので、村上には、一審のように薄っぺらい反論で、筆者の論に立ち向かうことは、不可能となることだろう。

村上がこれからその作業をどんな風に成し遂げるのか、お手並みを拝見したい。

筆者は弁護士という職業がどのようなものであるかを知っているので、弁護士相手の戦いを、一切、恐れていないが、相手方に弁護士がつくとすれば、それには筆者にとってもメリットがある。

それは、弁護士は裁判所の決定を軽んじたりは決してしないことだ。訴訟の相手方に弁護士がついている場合には、杉本が今しているように、自分に不利な判決からはどこまでも逃げ回るような悪質な態度を取ることはまず考えられない。

筆者が勝訴すれば、弁護士は速やかに判決に応じようとするはずである。
 
<続く>
 
補足:この記事は4月22日の深夜2時~2時半頃に投稿したものであるが、本来ならば、多くの人々が寝静まっており、当ブログの更新など全く気にかけていないはずのこの時間帯に、ただちに更新を察知して記事を閲覧しに来るIPアドレスが以下の通り、確認されている。
常時更新を見張っているIPアドレスの一つと見られるが、
訪問回数を見ても、管理人と見まごうほどに、おびただしい回数、当ブログを訪問している様子が分かるため、およそ善良な訪問でないことは推知できる。
ちなみに、杉本のIPアドレスも、4月21日の深夜に掲示板に中傷の投稿がなされる前後に確認されている。

 

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3.株式会社メディアテラス 代表者杉本徳久に対する強制執行(債権差押命令)
  
さて、まずは次の事実から先に読者に報告したい。

判決に仮執行がついていれば、控訴中もしくは判決の確定前であっても、判決はただちに効力を有する。そこで、原告の賠償請求が判決で認められれば、その分は、被告の「債務」としてただちに取り立てが可能となる。

ここから先は、金融業界の人々が専売特許としている世界だ。おそらく悪魔と暗闇の勢力はこの分野を知り尽くしているはずで、ドラマに出て来る取り立て屋、地上げ屋などを思い出すだけで良い。

もちろん、良心的に判決に従ってくれる人々に対して、こんな強制命令は必要ない。代理人などがついている争いの場合であれば、判決言い渡しの後は、代理人同士で穏やかに解決が図られるのが常であろう。

しかし、本件が特異であるのは、杉本徳久という人物が、これまで、当ブログ執筆者の側から接触を図る度毎に、事を荒立て、筆者に対するさらなる権利侵害に繰り返し及んで来たという事実である。

過去を振り返っても、当ブログ執筆者が今回、被告として訴えた杉本徳久は、2009年に筆者がたった1件のコメントの削除を求めただけでも、これに応じず(杉本の行為は筆者に対する著作権侵害であると、判決でも認められている)、筆者が書き送ったメールの文面が、あたかも無礼極まりないものであったかのように主張し(これについても、後程筆者のメールを全文公開する)、かつ当ブログの内容を不服として、ただちに当ブログに対して1千件のコメントを伴うバッシング記事によって応酬した経緯がある。

その後も、杉本は当ブログから気に入らない記事を削除させようと、当ブログ執筆者の個人情報を無断でネット上に公表すると予告する嫌がらせのメールを大量に筆者に送りつけた(このことは過去の記事で指摘した通りである)。

さらに、杉本は唐沢治など、当ブログ執筆者にかつて関係のあった人物に接触し、当ブログ執筆者に関する情報を収集(これは次回以後の記事で詳しく指摘)、さらに、2017年に筆者の側から和解を申し入れるためにメールを送った際にも、これを無断で公開した上で筆者を名誉毀損し、その後、筆者の側から和解を目的とする調停を申し入れると、筆者を名誉毀損する記事を20本以上に渡って大量にブログに大量投稿(判決で20本以上の記事の削除が命じられた)、当然ながら調停は決裂して訴訟に転じ、その結果、今回の賠償が杉本に命じられたのである。

第一審でも、被告杉本が、被告村上密と一緒になって、原告に反訴すると脅しをかけていたことは幾度となく記した通りであり、当ブログ執筆者は、このように常に騒ぎを無制限に拡大しては、紛争をこじらせた挙句、事態の収拾に何の貢献もして来なかった被告杉本に対し、第一審の判決言い渡し後は、いかなる直接交渉も行なわないことに決めた。

読者にも、このような人物と接触することが何を自分にもたらすのか、よく考えることをお勧めしたい。
 
むろん、第一審の判決言い渡し後、杉本が筆者に賠償金の支払い方法をメール等で尋ねて来ることも一切なかった。個人情報を暴露すると言って一方的に人を脅したり、信仰生活について不当に干渉し、僭越な助言を行うメールを送りつけるときにはためらいがないのに、自分に不利な判決には、どこまでも知らぬふりである。
 
そこで、第一審の判決を実行に移すために、当ブログ執筆者は、強制執行により財産の差し押さえという方法を取ることにした。その申立てが許可され、裁判所の差押命令が届いたので、ここに掲載しておく。


株式会社メディアテラス 代表取締役を第三債務者とした裁判所による債権差押命令

むろん、これは第一回目の法的措置であるが、これは企業に対するものであるから、債務者である杉本がこれに従わず、あくまで「債務」から逃げようとするならば、こちら側では、個人としての杉本をも対象として、第二、第三の措置を講じなければならない。
 
だが、債務から逃げることが得策ではないと言えるのは、この種の措置は、繰り返せば繰り返すほど、より一層、企業の信用を低下させ、個人にとっても、ダメージとなるからだ。

判決が出ても、すぐに従わず、通常の企業から見て、さして高額でもない賠償金すら、ただちに支払う能力のないほどまでに、資金繰りが悪化しているとすれば、そんな企業とこの先、取引を行うことは、非常な危険であるから誰にも勧められない。

以前に杉本は、筆者がこの会社が幽霊会社になっているのではないかという懸念を記しただけで、激怒して筆者を罵倒・侮辱・名誉毀損しつつ、尊大な態度で、法務局に行って登記簿謄本を取れば、自分の会社が幽霊会社でないことくらいはすぐに分かるはずだと叫んでいた。

その頃、杉本は、自分の会社の資格証明書の取得代金が、後に債権差押の執行費用として、自分に請求されることになると、少しでも予想していたであろうか。

このように、気に入らない他人を誹謗中傷することだけは大いにしても、その後、自分に降りかかる事態を全く予想できないのは、まことに愚かであると言う他ない。

筆者が今、この記事を書き記しているのは、これと同様の現象が、掲示板で当ブログ執筆者に対する誹謗中傷を日夜重ねている連中の誰に対してでも、起きうるためである。

ある日、IPアドレスから個人が特定されて、掲示板の投稿者であるあなたに訴状が届く。それを見たあなたの家族は、あなたが日夜、掲示板に他者を誹謗するコメントを投稿していたために、そのような事態が起きたことをどう思うであろうか。

債務は、逃げれば逃げるほど、さらに膨らむ可能性もそれなりに秘めている。杉本が、幽霊会社かも知れないと言われたことを実現させたくないならば、早期に対処しておくことが必要となろう。
 
今回は、企業の代表としての杉本徳久を第三債務者としているが、勤務先にこうした命令が届いた場合には、それ以上、穏便に勤務を続けられるかどうかは定かではない。

いずれにしても、騒ぎを煽るだけ煽って、自分に不利な判決が言い渡されるや否や、その事実から目を背けたり、事態を収拾する一切の努力を、すべて相手任せにするような人物や企業と、この先、取引をする価値があるかどうかは、各自がよくよく考えられたい。
 
メディアテラスの代表である杉本が、企業の代表として、この問題にどう手を打つのかが注目される。

* * *

4.杉本のみならず、村上密に忖度する信者を待ち受ける厳しい末路

さて、前から書いた通り、杉本徳久による2009年に始まった当ブログ執筆者に対する執拗なバッシングと、正当な理由のない個人情報の開示要求等の脅しの引き金となったのは、それより少し前に、村上密が当ブログ執筆者だけを標的として掲載した以下の記事であったものと見られる。
 
村上密は、2009年7月に17日に、当ブログ執筆者が、村上密が唱えた「カルト監視機構」の構想を悪魔的な発想であると批判したことに激怒し、同じ教団で育って来た信徒である筆者を個人的に非難するバッシング記事「ヴィオロンさんへ」を自らのブログに掲載した。

だが、何よりも注目されるのは、そこで村上が、当ブログ執筆者に対して、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方から早く卒業することです。」と記し、当ブログ執筆者がペンネームでブログを執筆している行為を、まるで許されないものであるかのように、正当な理由なく非難していたことである。

 

村上密が、自教団で子供の頃から育ち、村上の教会に身を寄せたこともある当ブログ執筆者から批判を受けたことを許せず、筆者を個人的にバッシングするために掲載した記事
 


 また、この記事が発表された時点から、村上密が、当ブログ執筆者が、村上の像を「創作」している(=悪魔化している)と主張していたことも、注目に値する。

だが、事実はどうであろうか?

通常のプロテスタントの牧師は、信徒を名指しで非難する記事をブログに掲載したりしないし、信者の著作者人格権を否定して、実名を公表せよと要求したりもしない。

もちろんのこと、全宗教界を取り締まる「カルト監視機構」などという恐ろしい機構の設立を提唱したりもしない。

さらに、被害者を募って、自分の所属しない教会に裁判をしかけたり、同業の牧師を誹謗中傷する記事をブログに投稿し続けるなど、他の牧師には類例のない行為である。

何よりも、村上密自身が、常日頃から、裁判をしかけられた側の教会の牧師や信徒たちから、自分が「教会の破壊者」と呼ばれていると、得意げに周囲に吹聴していたのである。

むろん、教会の破壊者とは、悪魔のことである。

このように、村上自身が、自分は裁判をしかけられた教会から、悪魔のようにみなされていると、自慢話のように喜んで吹聴していたのだから、それを信じる人が出て来ることを、村上が非難できる筋合いにはあるまい?

それにも関わらず、一体、なぜ村上は筆者のブログ記事だけを、村上を悪魔化した「創作」であると、躍起になって否定せざるを得ない理由があるのだろうか。実におかしなことである。
  
いすれにしても、この頃から、村上密が、当ブログがペンネームで執筆されている行為を、何の正当な法的根拠もなく、許しがたいもののようにみなして、暗に非難していたこと、そして、前回述べた通り、杉本も、村上によるバッシング記事のURLを、当ブログを非難した記事で引用していたことを見ても、杉本が当時から、村上の言い分が正しいかのように、鵜呑みにしていた様子が分かる。

杉本は、当ブログ執筆者に対する権利侵害に及ぶことで、あたかも自分が村上の思想の代弁者のごとく振る舞い、村上に代わって筆者に制裁を加え、報復しようとしたものとみなせる。
 
そのことは、何よりも、杉本が賠償を命じられた直後の4月1日に、今度は村上密自身が、当ブログ執筆者に対する著作者人格権の侵害に及んだ事実を通しても分かる。

杉本が口を封じられたので、いよいよ村上本人がお出ましになるしかなくなったのである。もしも杉本と村上との間に、いかなる思想的つながりも、連帯もなかったのであれば、杉本が口を封じられたからと言って、それを機に、村上が以上のような権利侵害に及ぶ理由はなかったはずである。

だが、実際には、村上が以上の行為に及んだことは、村上が2009年以来、何としても当ブログ執筆者の実名を暴いてやりたいという(杉本徳久同様の)執念を持ち続けていたことをよく物語っている。筆者から見れば、杉本はただ村上の執念を、忠実に体現して実行しただけなのである。
   
そこで、筆者は村上による権利侵害を不法行為として控訴、および刑事告訴を完了しようとしている。掲示板における村上忖度信者は、この事実をファンタジーか何かだと考え、筆者に勝利はないとしきりに吹聴しているが、村上自らが第一審では出さなかった不法行為の証拠を自ら揃えたのであるから、村上の今後は、これまでとは全く違ったものとなろう。
 
さて、杉本がどれほど村上の思惑を忖度して行動していたのか、村上から杉本に具体的な指示があったのかなかったのかは不明だが、いずれにしても、村上の記事が、杉本による権利侵害のトリガーになっていることは十分に確認できるのであり、同様のことが掲示板にも当てはまる。

掲示板でも、当ブログに対して、日夜、著作者人格権の侵害、著作権の侵害、名誉毀損等の権利侵害が行われているが、これらの書き込みはほぼ100%、村上密の支持者によるものである。

これらの信者は、村上が新たな記事を発表する度に、その主張を真に受け、村上を擁護する目的で、村上の政敵としての当ブログ執筆者を「悪魔化」して弱体化し、それによって、村上に代わって筆者に報復を加えるためにこそ、日夜、筆者を誹謗中傷し続けているのである。

しかし、実際に、悪魔と呼ばれるにふさわしいのは誰であろうか。筆者はいかなる法も犯しておらず、膨大な手間暇をかけて、自らの主張を合法的に立証すべく、正当な訴訟手続き、刑事告訴の手続きに及んでいる。

ところが、村上密を支持する掲示板の投稿者は、匿名で筆者を誹謗中傷し、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」を続けているだけだ。

信仰を持たない通常人であれば、これほど激しい誹謗中傷を受ければ、2日と持たないだろう。しかし、掲示板に溢れる村上忖度信者は、他者を死に追いやっても、まるで反省のないほどに、残酷かつ無慈悲な言動を続けている。ここまで人間性を失った異様さを見れば、彼らが、まるで教祖麻原のために大勢の人々を死に至らしめる犯罪行為を犯したオウム信者と同じようになって、すでにカルト信者と呼ばれるにふさわしいあらゆる特徴を備えていることが、読者には十分に見て取れよう。

筆者が警告しているのは、このようにまで正常な精神を失った信者の群れを「実」として生み出す宗教指導者は極めて危険である、という一言に尽きる。

常識を失い、法令を遵守する精神もなくなり、人としての思いやりもなく、まるでヤクザのように殺気立って、日夜獲物を探し求める獣のように、口汚い言葉で誹謗中傷するための標的を探し求める、異常な取り巻きが主たる支持者となっている牧師――そのような誹謗中傷を扇動するがごとくに自ら信者に対するバッシング記事を掲載してはばからない牧師――さらに、自身が、学校時代に級友に暴力をふるって退学に追い込んだり、「教会の破壊者」と呼ばれていることを、自慢話として吹聴する牧師など、プロテスタントのどこを見ても、村上密の他にはまず見当たらない。

村上密は、鳴尾教会との裁判に敗れてから、若い後継牧師(長澤牧師)に道を譲ると言って60代で引退したが(アッセンブリー教団の平均的な退職年齢は80代であると村上自身が書いていることを見ても、これがいかに不本意な早期の引退であったかは分かるだろう)、それにも関わらず、信徒総会の決議によらずに、後継牧師を勝手な理由で退けて、自分の妻(恵子)を主任牧師に据え、今も自分の息子を牧師として奉職させている。

ゆくゆくはこの教会を息子に継がせようという意図が透けて見えるが、このような現象をこそ、教会の乗っ取りと言うのではないだろうか? これはかつて鳴尾教会で、村上が義理の父である津村牧師と協力して、津村牧師の後継牧師夫妻を追い出した手法にそっくり重なる。その当時から、信徒総会の決議を経ずに、自らの一存だけで密室で事を進める村上の手法は全く変わっていない様子が見て取れる。その上、村上の家族においても、子供の不幸が相次いでいる様子を見れば、村上密という牧師がどれほど悪しき「実」を結んだのかを人々は如実に理解できよう。

このように、村上の主張はすべてがさかさまである。乗っ取られてもいない教会に「乗っ取り」の容疑を着せ、自分のしていることこそ、教会の乗っ取りであるとは認めない。自分が属していない他教会にまでも、裁判をしかけて、教会を弱体化させ、自分が悪魔化され、「創作」されている、などと言いながら、罪もない信者を悪魔化し、自ら権利侵害を犯し、誹謗中傷を容認・黙認しながら、信者を嘲笑することにためらいがない。

村上密が牧師であるにも関わらず、まるで訴訟を悪ふざけの場であるかのように、杉本徳久と共に(実行もできないのに)筆者に反訴の脅しをかけた様子を見るだけでも、信徒は、当ブログにおける村上に対する批判が、断じて筆者の「創作」などでないこと、このような悪しき牧師の本質が何であるかを、十分に知ることができるだろう。
 
このような事実が明らかになっても、まだこの牧師の言い分を信用するのは、まさしく愚行と言う他ない。村上の追随者には厳しい運命が待ち受けている。その最初の第一号が、杉本徳久なのであって、掲示板の投稿者たちも、杉本の今日は自分の明日であることをよく考えるべきであろう。

偽預言者の目的は、自分と共に破滅に追い込む人間を、一人でも増やすことにある。従った者には、厳しい報いが待ち受けているのであって、彼らは自分が「教祖」と拝んだ人物と共に恥をこうむり、悪事の報いを受けることになる。

彼らの行く末は火の池であるが、この世においても、切り倒されて火に投げ込まれるため、よくよく用心されたい。

偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶことできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7:15-20)

2.サイバーカルト監視機構はない!と主張する人々の犯罪行為 等へ続く。



1.兄弟に「馬鹿」という者は最高法院に引き渡される。信徒を馬鹿にする村上密のメール


さて、 第一審の目的は、サイバーカルト監視機構がこの世に存在するかどうかを事実認定することにはなく、そのような機関が存在していないという事実認定が下されたわけでもない。

にも関わらず、一体、なぜ村上密がこの問題について躍起になって否定しているのか、筆者は理解に苦しむ。
 
とはいえ、読者には、次の事実をよくお考えいただきたい。

まず第一に、杉本徳久による当ブログに対するバッシングは、2009年に村上密が当ブログに対する批判記事を発表した直後に始まった。その頃、以下に示す通り、杉本は自らのバッシング記事の中で、村上の記事のURLを引用していた。

 

村上は2009年以降、自らのブログで、それ以上、当ブログを批判することはなかったが、それと入れ替わるように、杉本からの当ブログへの執拗なバッシングが始まった。

さらに、今回の判決で、杉本に賠償とブログ記事削除が命じられると、今度は村上が杉本と入れ違いに、自らのブログで、当ブログ執筆者を標的として非難し、権利侵害を行う記事を投稿し始めたのである。

このようなことを、読者はどう思われるであろうか?

また、第一審の口頭弁論は、昨年12月に終結し、それから判決言い渡しまで、3ヶ月の期間があったが、この間、インターネットでは、日夜、当ブログ執筆者に対する想像を超えるほどの激しい大規模な嫌がらせ行為(権利侵害)が行われた。

今もって続いている掲示板における当ブログに対する権利侵害の書き込みのほぼ9割近くは、村上密を擁護する立場から行われていることも注目に値する。

かつて筆者が親しく交わりを持っていたある信者(すでに他界)が、次のようなことを述べたことがある、

「主監者を見なくても、信徒を見れば、主監者がどういう人間かは大体分かる。」

まさしくその通りであって、ある宗教指導者がどういう人物であるかは、それを取り巻く信者たちの顔ぶれを見れば、おおよそ察しがつくと言って良い。

特に、その宗教指導者を批判した時に、何が起きるのかをよく観察してみる必要がある。ある指導者を批判すると、途端に、本人からただちに非難記事の掲載という報復措置があり、さらに、ヤクザのような無数のコメント投稿者が、寄ってたかって、掲示板で匿名で誹謗中傷を始めるなどの出来事があれば、そのような現象が起きる宗教指導者には、絶対に近寄るべきでないと言えよう。

この点で、村上密(および杉本徳久、唐沢治)を批判した際に起きるインターネット上の集団リンチは、他の宗教指導者には見られない特異かつ悪意に満ちた現象である。
 
村上密を批判した時に起きる、当ブログへのすさまじいネット上のリンチは、2009年から現在まで続いており、このように長期に渡る集団的な嫌がらせ行為は、他の宗教指導者には、全くと言って良いほど見られないものである。

掲示板では、現在も、村上の言い分を鵜呑みにした信者たちが、当ブログに対する批判のみならず、すさまじいほどの権利侵害を繰り広げている。

これほどガラの悪い取り巻きばかりが支持者・擁護者となっている宗教指導者は、プロテスタントではまず他に見たことがない。

こうした大規模なネット上のリンチに、村上密本人がどこまで関わっているのか、関わっていないのかは不明だが、いずれにしても、非常に大きな疑問に感じられるのは当然である。

ちなみに、筆者は今でも、杉本徳久の行為は、杉本が単独でやったものではない可能性が高いと考えている。

まず、村上は第一審において、杉本と共に、筆者を完全に馬鹿にしたメール文通を書証として提出して来た。

何とそこには、村上が欠席した昨年10月22日の口頭弁論に、被告側からは一人で臨んだ杉本が、筆者がこの弁論で述べた主張を歪曲・捏造して、「ヴィオロンが口頭弁論時に、被告らによって自分のパソコンがハッキングされたと主張した」などと、筆者が述べてもいない荒唐無稽な嘘を書き記して、二人で原告を馬鹿にした内容が書いてあったのである。

もちろん、原告はこの訴訟において、被告らが原告のパソコンをハッキングしたなどという主張を一度も提示したことがない。

だが、そのことをさて置いても、これは村上の人間性がよく分かるメールだと思う。
(一つ目以外の画像はすべて村上のメール。)





さらに、次の書面も、杉本が提出して来たものであるが、村上密が内心で、信徒をどれほど馬鹿にしているかがよく表れているメールだと言えよう。

ここでは、いみじくも、杉本と村上がまさに筆者を「馬鹿」と罵ったメールを、二人で示し合わせて訴訟に提出することで合意した様子が記されている。


このようなメール文通を書証として訴訟に提出するなど、筆者から見れば、とてもではないが、訴訟を単なる悪ふざけの場だと勘違いしているとしか思えない愚行である。

むろん、キリスト教徒としても、それは絶対にあるまじき行為である。
マタイによる福音書にはこうある。

「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:22-26)


さて、ここで言われている「和解」とは、被告らが唱えたように、提訴や反訴の脅しをかけることによって、自分に不都合な発言をする信者の口を封じようとすることではない。

この聖書箇所が非常に象徴的なのは、「早く和解せよ」と、御言葉が急を告げているにも関わらず、その忠告を退けるなら、裁判官は兄弟を罵った者に不利な判決を下し、その判決に従って、その者は「牢に投げ込まれる」と書いてある点だ。

これは非常に象徴的であると筆者は思う。なぜなら、このメールを提出した時点では、被告らの双方が告訴対象となっていたわけでもなければ、その後、双方に不利な判決が下されたわけでもない。ところが、今や時間の経過と共に、双方に同じ運命が降りかかろうとしているのである。

さて、話を戻せば、このようなメール文通の内容から、私たちは、杉本徳久と村上密がいかに意気投合して、原告である筆者を共に見下し、嘲り、罵っていたかをよく理解できよう。

しかも、二人が原告を罵っていた理由は、ありもしない理由であり、筆者の主張を捏造したものであるから、極めて不当である。また、この文通の内容からは、村上が筆者の提起した訴訟そのものを徹底的に嘲っていたこと、また、杉本の行為をいささかも不法行為であると認識していなかった様子がよく分かる。

このように、杉本は当初から、村上と歩調を合わせ、メールでは意気投合さえしていたのであり、その後も、村上と一緒になって、筆者が彼らの唱える和解条件を飲まないならば、反訴するとの脅しをかけていたが、第一審の最後の口頭弁論において、村上が反訴しないと分かると、「村上さんが反訴しないなら、私もしません」と、村上と歩調を合わせて、反訴を取りやめる態度を見せたのである。
 
第一審では、杉本―村上の明白な共謀関係は立証されていないとはいえ、もしそれが事実であるならば、このように杉本が村上に歩調を合わせて反訴を中止する必要はなかったはずである。

むろん、控訴についても同様のことが言える。村上が不法行為に問われなかったからと言って、杉本の控訴する権利が失われるわけではない。それにも関わらず、筆者が杉本の控訴はあり得ないと予想しているのは、ただ控訴によって、判決を覆せる見込みが薄いというだけではない。

これまで杉本が、常に村上を擁護する立場から筆者に反論し、村上の都合を理由に反訴を見送ったことを考えても、その杉本が、自らの控訴によって、村上を再び不利な立場に立たせるチャンスをわざわざ筆者に与えるとは思えないのである。

さらに不可解なことは、すでに述べたように、杉本の行為が不法行為であると認定されたにも関わらず、杉本が自らのブログで筆者を非難できなくなったことを皮切りに、今度は村上密本人がお出ましになって、自らのブログで筆者の権利を侵害したり、筆者を非難し始めたことだ。

もしも杉本と村上との間にいかなる共謀関係もないなら、なぜ村上は、杉本が当ブログをバッシングしていた間、ずっと沈黙していたのであろうか。なぜ杉本に賠償が命じられるや、長年の沈黙を破って、過去の記事について批判を始めたのであろうか。

こうした事実は、筆者の疑惑をますます深めるだけである。筆者から見れば、杉本は村上の思惑を忖度して行動していたに過ぎず、黒幕は杉本ではない。だが、その杉本が口を封じられたので、村上は仕方なく自分で当ブログ執筆者を非難するしかなくなったのだと見られる。

これまで一度でも村上密のもとに身を寄せたことのあるカルト被害者や、村上の教会にいる信徒らは、こうした現象を、よく見ておくことである。自分も村上から内心ではこのような目で見られている可能性があることをよくよく覚えてもらいたい。

村上の宗教トラブル相談センターとは、このような場所である。学歴があろうと、教養があろうと、同じ教団で子供の頃から育って来た信徒であろうと、村上は自分に盾突く人間を、こういう目でしか見られず、こういう扱いしかできない人間であることを、読者はよくよく覚えて置かれたい。

仮に現時点で、村上が法的責任を問われておらずとも、杉本と一緒になって、信徒をこのように見下し、嘲り、罵り、信徒からの提訴を受ければ、反訴の脅しをかけて、口を封じようとしたことが分かりながら(自分の無実を主張するために信者に反訴の脅しをかける必要はない)、この牧師のもとに身を寄せたいと願う信徒はもはやいまい。

誰がこんな恐ろしい牧師のもとに信仰の相談に行きたいと願うだろうか。行く前に、当ブログに起きていることを参考に、よくよく考え直すことをお勧めする。

村上のメールは、まさに掲示板の誹謗中傷のレベルと同じだ言わざるを得ない。何よりも、杉本があれほど筆者を誹謗中傷している最中、牧師として、いささかも杉本をいさめず、怒りを解くよう説得することもなく、誹謗中傷をやめるよう戒めることもなく、かえって杉本と共に、原告であった筆者を嘲笑する側に立ったことは、村上の牧師としての資質を根本から疑わせる事実であり、今後、宗教界での村上の信用を完全に失墜させる行為であると言えよう。

これを読めば、村上は、日夜当ブログを誹謗中傷している掲示板とも無関係ではないのではないかという推測が生まれるのも致し方ないことであろうと筆者は思う。

このような現象が起きていることを踏まえた上で、読者は、なぜ今、村上がしきりに「サイバーカルト監視機構はない」などと躍起になって反論せねばならない必要性があるのか(しかも、村上が挙げているのは、筆者が何年も前に書いた記事であって、第一審の争点でもない)、今一度、よくよく考えてみられたい。
  
掲示板にも、村上の忖度信者が溢れているが、掲示板のコメント投稿者も告訴対象となっており、間もなく捜査が及ぶことになるので、ここにおいても、村上を擁護する者はいずれいなくなるであろうと見られる。

どんなに最初は取り巻きが多くとも、最後は一人の勝負である。神と人との前で、たった一人で立ちおおせる力が、果たしてこの牧師にあるのだろうかと疑問に思う。

 
2.「サイバーカルト監視機構はない!」と主張する人々による犯罪行為 へ続く 



高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。

わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、
 賢い者の賢さを意味のないものにする。

 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
 
ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(Ⅰコリント1:18-25)

  
判決というものは、言い渡されてすぐに確定するわけではない。
ちょうど熱して熔けた金属が鋳型に注ぎ込まれてから、徐々に冷え固まって行くように、時と共に確かな動かせないものとなって行く。

判決が動かせなくなるまでには期限がある。従って、これを変えたいと思うならば、固まってしまう前に行動を起こすことが必要である。

村上密は、判決正本が届いたのか、その内容を知るや否や、早速、ブログで自分は勝訴した、原告は敗訴したと、得意げな記事を綴っているようだが、判決の確定前にそのようなことを断定するとは、何と軽率かつ気の早いことだろうかと思わざるを得ない。

世では判決内容を不服とした控訴は無数に行われているが、裁判官が権威を持って宣言した内容を覆すためには、よほどの理由が必要であり、新たな証拠の提出等がない限り、ただ内容が不服というだけでは、控訴が受け入れられる見込みも薄く、事実認定を覆すことは困難で、心証が悪くなるだけだ。

そこで、筆者は裁判官の判断に異議申し立てをするつもりはなく、とりこぼした内容は新たな訴訟でカバーしようと考えており、今回、村上密が4月1日の記事を投稿しなければ、この判決は、少なくとも村上に関する部分は、確定していた可能性が高かったのである。

ところが、村上が早々と勝負は終わったと考えて、早速、当ブログ執筆者を標的に、個人情報を記して批判記事を投稿したことにより、すべての事情はガラリと変わった。

やはり、高慢は破滅に先立つという、聖書のあの御言葉は本当なのであろう・・・。

村上はあとから記事を書き変えたようだが、一旦、投稿した実名入りの記事は、あっという間にあらゆる検索サイトを通じて、全世界に拡散してしまった。むろん、掲示板等でも報告がなされ、おびただしいほどの数の証拠があるが、たとえば、書き変え後も、検索結果はこのようであった。



さらに、村上密は当ブログからの言及を知って慌てて内容を変えたのか、被告杉本徳久の名前も一時は公開していたようである。いずれにしても、覆水盆に返らず、である。



通常は、判決言い渡しがあったからと言って、早速、意気揚々と「勝ったぞ!」という趣旨の記事を投稿することは控え、しばらくは相手方の出方を静かに待つであろうが、このような軽率な記事を投稿したことが、あだとなって自身に跳ね返ることになったのである。

村上は今も自分はA43ページの準備書面しか提出せずとも、本人訴訟に臨んで勝ったのだから、それで良かったのだと、今回のことをまるで大いに自らの手柄のように吹聴する記事を投稿しているが、今回の訴訟で真に奮闘したのは、主イエス・キリストだけを弁護人として、複数の訴訟に直接・間接的に関わったことのある二人の被告を相手に、彼らからの反訴の脅しにも屈さず、掲示板での日夜の嵐のような誹謗中傷にも負けず、一人目の被告にまずは勝利を果たした原告であると言えよう。
 
だが、牧師や教師は、常日頃から、生徒や信徒の成功を自分の手柄のように誇っているから、こういう話が作られるのは不思議ではない。他人の紛争を日々の糧として生きる弁護士という職業も、似たようなものだと筆者は考えている。

ちなみに、弁護士は元が取れない事件には気乗り薄なので、取りはぐれがありそうな場合には、本人訴訟を勧めるのは当然である。それは「あなたなら一人で戦える」という太鼓判ではなく、採算が取れないので自分はやりたくないという意思表示でしかない。

被告らは、控訴があった場合には、弁護士をつけると豪語していたが、筆者には、このような事件につく弁護士がいるとは、到底、考えられない。それでも「暮らし向きの自慢」をしようと、見栄を張って弁護士に依頼すれば、負ければその費用はすべて自己負担だ。負けなくとも、そんな高額な費用が帰って来る見込みはどこにもない。そこで、まずは先立つ費用の計算が必要となろう。筆者から見れば、訴訟物の価格に照らし合わせても、それはあまりにも馬鹿らしいことである。

筆者の見えない弁護人はイエス・キリストであり、この方は、信仰と誉以外には、筆者に着手金も成功報酬も要求されない。しかも、カルバリで悪魔を打ち破り、最強の敵を打ち負かし、これまで一度も負けたことのない世界で最も信頼できる、最強かつ名うての弁護士である。

被告らの弁護人は誰だろうか。掲示板で日夜誹謗中傷する者たちの信奉している世界で最も毒舌かつ詭弁に満ちた悪名高い弁護士、「我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者」(黙示12:10)だろうか。

筆者は、被告とされた人間の恐るべき慢心と油断を見ても、やはり、神は生きておられるのだと考えないわけにいかない。

筆者は、判決を手にしたのは、今回が初めてであり、二審、三審を戦ったことはないが、かつてふとしたことから、東京高裁を訪れたことがあったのを思い出す。そこは、まさに省庁の庁舎というべき、どんよりとした陰気な建物で、地下に郵便局とさびれた食堂があり、そこにはげんなりするようなメニューが並び、死んだようなまなざしの職員が黙々と食事していた。(霞が関の庁舎はどこもそんな雰囲気だ。)

横浜地裁は、それとは比べものにもならない、活気に満ちた場所である。明るい光が窓から降り注ぎ、窓から海を見下ろせ、建物も新しく、きれいで、職員も活気がある。何もかもが新鮮で陽気だ。待合室も明るく、法廷の扉でさえおしゃれで、心を陰鬱にさせる要素は何もない。

もちろん、建物の外に出れば、観光地のように、しゃれた店が立ち並び、海風が吹き、秋には銀杏の葉がこぼれおちる。ここから筆者の訴えの記念すべき歩みが始まったことは、まさに象徴的な神の恵みだ。

だが、筆者の訴えはこの海辺の町から空高く飛び立っていく・・・。
 
* * *

さて、判決を受ければ、そこから新たな手続きを始められることは、すでに書いた通りだ。これこそ、通常人はほとんど足を踏み入れることのない、まるで悪魔が専売特許として来たような世界である。

判決を受け取ったからこそ、できること、これが訴訟の極意と言っても良いものと筆者は考えている。それは、いわば「命令」と「実行」が一つになる世界で、この二つを一つにする方法を知らなければ、判決には意味がない。

今、この手続きに精通しておくことは、今後、何かもっと大きなことのために、必ず、役立つ時が来るという確信が心にある。
 
そこで、筆者は今、司法という大きなビルの暗い地下室に降りて、基礎構造を一つ一つ確かめているところだ。一体、この建物全体の中に、どのような機能が備わっているのか、可能な限り、自分自身の目で確かめてみなければならない・・・。

ここからが、戦いのもう一つの側面、本番であり、腕の見せ所である。これまでさんざん筆者を嘲り、罵って来た人間の身には、苦難が降りかかることになる。その人が筆者に対して投げつけたすべての言葉が、その人自身に跳ね返るステージに入ったからである。

そこで、これから何が起きるのか、注目されたい。バビロンの崩壊が始まる。今は具体的に書かないが、手続きが進み次第、随時、過程を公開して行くつもりである。掲示板で日夜、誹謗中傷を重ねている人々は、明日には同じことが自分の身に降りかかるかも知れないため、ぜひ今後の参考にしていただきたい。

* * *

さて、エクレシアの一員としての筆者の人生に関わり、筆者を助けてくれる人たちは、まるで水面に浮かぶうたかたのように、常に新しいメンバーに入れ替わる。これは、固定的な人間関係ができないように、感情的な癒着が生じないように、主がなされていることである。

もちろん、今回の事件を担当してくれた裁判官も、筆者の事件のために、休日出勤までして奔走してくれた警察官も、役目を果たすや否や、すぐに慌ただしく去って行った。裁判官は、異動が決定したことを書記官を通じて伝達してくれた。それは嬉しい伝言ではあったが、筆者はどこへ行くのか、尋ねることもしなかった。もう会うことは決してあるまいと思ったからである。
 
ある部署のお世話になった警察官からは、これまで連絡が来るのはほとんど休日で(何しろ、筆者の事件は最後の順番で、休日出勤する以外には、事件を処理する時間がなかった)、いくつもの告訴状を受理してもらった経緯もあるが、ちょっとしばらく連絡が途絶えたなと思っていると、ある日突然、当直時間帯に、異動になるという旨の連絡が電話であった。
  
だが、そのような連絡が来ること自体が稀なのである。通常は、警察官は異動が決定したからとて、市民に事前に何も知らせてくれない。むろん、行く先も教えない。異動が発覚した後で、本部に問い尋ねても無駄である。(ほとんどの場合は、面倒な事件に異動先でまで関わるなんてとんでもないとばかりに跳ねつけられる。)

だが、お世話になったその人は、持ち前の真面目さからか、数日後に起きることをきちんと予告してくれた。本来ならば、会って別れを告げるべきところ・・・などと、まるで目上の人間に対するかのように、非常に丁寧な口調で、話を切り出した。

ところが、筆者はあまりにも突然の連絡に動揺し、そして、せっかく手続きが前に進もうとしている今、急に担当者がいなくなり、すべてが膠着状態に陥りはしまいかと、非常に不安に感じ、思っているままを口にした。

そして同時に、そのように自分が衝撃を受けて、言っても仕方のないことを口走っていることに驚き、そのように自分が他人を当てにし始めていることこそ、最大の危険であるから、神がこのように采配されたのは当然であると心に感じた。

その警察官とは、手続きがまだ押しても引いても動かなかった頃には、かなり緊迫したやり取りがあった。何年か前から署におり、数年前からの相談記録も残っているはずだが、当初は、何の信頼関係もなかったどころか、互いにまるでいけ好かない奴だとでも、心の中で思っているかのような、よそよそしい関係しかなかった。

(むろん、これはその警察官が筆者に不親切な態度を取ったという意味ではない。事件がなかなか前に進まないことに、筆者の側でも、当時、焦燥感を覚えていたということである。数年前まで、特定の職員だけでなく、この署全体が、筆者にとって、きわめてよそよそしく、近寄りがたい場所に感じられていた。それが変わるまでには、相当な時間の経過と、やり取りの積み重ねが必要であった。)

だが、今回の訴訟が提起されてから、そうした状況が変わり始めた。ある時、筆者はどうしても民事で警察に証言してもらわなくてはいけない必要性を感じた。
 
関係する別の機関へこの問題を相談したところ、「何ですって? まだ刑事事件としての捜査も終わっていないのに? 警察を民事訴訟で証人に呼び出す? そんなの前代未聞ですよ。裁判所が許可したとしても、どこまで証言できるかどうか・・・」といった、まさに予想通りの返事が返って来た。

実際に、その通りなのだ。そんな事例が過去にあったとも思えない。だが、その頃には、この問題について、それ以外の立証方法は思いつかなかった。
 
結果的に、警察を証人に呼ぶ必要はなくなり、他の手段が取られることになったのだが、その頃からであろうか、その警察官とも、以前ほど緊迫したやり取りはなくなり、むしろ、次第に互いのペースがつかめるようになった。

もしかすると、民事訴訟を起こしたことで、やっとこちら側の本気度が警察に伝わったのかも知れず、あるいは、証人になってもらうことをお願いした弱みのゆえに、筆者が以前ほど強く出られなくなったことが影響していたのかも知れない。

理由が何であれ、明らかに以前とは関わりが変わり、やり取りが円滑になり、互いに好感が持てるようになった。そして、その警察官こそ、他部署に連携を取って多くの事件を進める陣頭指揮を執ってくれた人であった。

体格の良いその人は、相談室の椅子に座ると、別の警察官が、その後ろをお茶を運んで通るスペースも残らないほどであったが、そんな様子も微笑ましく感じられた。

そして、筆者がそう思うようになった頃から、よく気のつく人だったその警察官は、筆者が気づかないうちに、様々なことで、筆者の必要を先回りして察知し、整えてくれるようになった。

最後にその警察官に会ったのは、2月に調書作成のために来署した時のことである。その時の調書作成には、困難が伴い、土曜日と日曜日の両日が費やされた。

筆者が取調室には入りたくないと言うので、調書作成は講堂で行われ、我々は一つの長机を挟んで、向き合って座った。

その時、些細だが、重要な気づきがあった。1日目に、警察官と筆者とが、講堂に並んでいる机の一つを挟んで、両側に座るために、筆者が自分の椅子の向きを変えると、その警察官は、筆者がそうしたことを覚えていて、2日目には、筆者がまだ何もしないうちから、1日目に筆者がした通りに、筆者のために椅子の向きを変えてくれた。まるで自分がそうするのが当然だというように、何の他意もなく、無意識的にそうしてくれたのである。

後になって、この出来事を思い出すと、そういうことは、もう随分前から――数ヶ月ほど前から――始まっていたように思われた。やり取りがスムーズになったというより、いつの間にか、筆者はこの人の「守備範囲」の中に入れられ、無意識的に、多くの配慮を受け、気遣われる立場になっていたのである。

そして、そうなったのは、筆者の方でも、きっと、似たような注意を払っていたからであろう。つまり、初めのうちは、電話連絡さえ満足に取れないギクシャクした関係の中、ひっきりなしのすれ違いが続き、どのようにして関わりを打ち立てれば良いかさえ分からず、途方に暮れていたが、ようやく互いのペースが理解できて、互いの仕事を邪魔せず円滑に進められるよう、無意識的に、配慮し合っていたからこそ、いつの間にやら、そこに同僚同士か、もしくは、身内のような、ある種の親近感と、好感情が生まれていたのである。

だが、もしかすると、それは何よりも筆者が、民事で証人になってもらえるようお願いしようとしていたことに端を発していたのかも知れない。そのような件があったために、その警察官も、筆者の陥っている状況を、他人事でなく理解するようになったのかも知れなかった。

だが、もともと身内でもなく、同僚でもない人々の間に生まれたこのような協力関係が、長くは続くはずもなく、実際に、民事での協力は必要なくなったばかりか、ようやくスムーズに連絡が取れるようになったかと思うと、すぐに終わりが来たのであった。
 
この警察官と最後に調書作成の作業をしていたその日、交わした会話は、印象的なものであった。筆者はその時、KFCの元信徒に関する刑事事件について尋ねられたため、この事件の概要を説明してから、言った、自分はかつて9年ほど前に、この事件に関連して、ある宗教指導者のために、警察で証人になろうとしたことがあると。

その頃、筆者は、KFCの元信徒ではなく、指導者の言い分が正しいと考えていたため、困っている宗教指導者のために、有利な証言をすることが必要だと考えて、依頼に応えて、管轄の警察署に行った。ところが、そこには、多分、来ているだろうと思っていた指導者の姿はなく、筆者が語る前に、すでに調書の台本までも用意されており、その内容も、宗教指導者の身の潔白を証明するという事前の約束の通りではなく、ただ単に、起きた事件の何もかもをすべて筆者のせいにかこつけて終わりとするような身勝手な筋書きであった。

しかも、警察が印鑑を持って来るようにと、前もって告げるのを忘れたために、指紋を捺印せよと言われ、筆者が渋っていると、「この調書に同意を断るなら、あなたのお友達が速やかに助からないかも知れないが、それでもいいのかね?」などと言われ、とんでもなく不愉快な思いをさせられて帰って来たのだと。

その当時、筆者はこの出来事のために、ペテンにかけられたような思いとなって憤慨し、筆者に助力を頼んだ宗教指導者に苦言を呈したが、さらにもっと驚くべきは、もっと後になってから、事の真相は、その指導者の主張とはまるで逆であり、むしろ、指導者に訴えられた信徒の発言に信憑性があったとみなさざるを得ない状況が生まれたことだ。それは筆者自身が、その信徒と同じような目に遭わされて、初めて分かったことだったのである。

筆者は言った、この事件は、筆者にとって非常に手痛い教訓となったと。その当時は、あまりにもその信者の置かれている状況が尋常でなく悲惨に見え、行動も常軌を逸しており、主張内容が荒唐無稽と感じられ、それに引き換え、宗教指導者には学識があり、常識的な立ち居振る舞いがあると見え、言葉も巧みであったので、筆者はおろか、誰もその信者の言い分の真実性を信じようとは思わなかった。ところが、事実はそのような見かけには全くよらなかったのである。

教養ある立派な宗教指導者の言い分が完全な嘘であって、狂言で自殺未遂を繰り返しているような常軌を逸した信者の言い分の方に、まだごくわずかに正当性があったのである。
 
そこで、この事件は筆者にとって大いなる教訓となった。それ以来、筆者は、決して人の見かけや、教養や、社会的地位や、言葉の巧みさによって、人を判断しようとは思わなくなった。そして、物事は常に、最も力弱く、蔑まれ、世間で無価値のようにみなされている人々の立場から見なければ、正しい判断ができないことに気づいた。むろん、そのような人々の言い分も、常に正しいわけではないにせよ、世の人々から拍手喝采を浴びる権力者や有名人の言い分を鵜呑みにすることは、さらにもっと恐ろしい危険である。

このように、人の見かけなど、何のあてにもならない。私たちは、他者がどんな人間であるか、内心を知り得ない以上、誰についても何の保証もできはしないのだ。神以外の者には、人の内心を見極めることなど決してできない。そこで、筆者は、金輪際、誰のためにも、証言などしようと思わないし、その代わり、筆者自身のためにも、誰にも証言を求めるつもりはない・・・。

はからずも、筆者は以上の話を、自分のために、民事で証人になってもらえるように自分から依頼しようとしていた警察官に向かって、直接、語ったのであった。その時には、まだ自分の語っている内容が、いかに以前の依頼と食い違っているかに気づいていなかったが、実はその会話には、深い霊的な意味があった。その当時は誰もまだ知らなかったとはいえ、その会話自体が、筆者とその人との間にようやく生じた協力関係が、間もなく明白な終わりを迎えることを示唆するものだったのである。
  
おそらく筆者は、神以外の誰にも、筆者のために、証人になってもらおうとしてはいけないのであろう。それにも関わらず、証人になることを誰かにお願いしようとしたこと自体が、ある種の危険をはらんでいたのだが、神は、筆者が気づかないでしたことについて、責任を問われることはない。ただ静かに、誰にも何の問題も生じないうちに、裁判官の判断を用いて、この提案を却下されただけであった(とはいえ、裁判官は代わりにきちんと別の措置を講じてくれた)。
 
その後、この問題で助力してくれようとしていた警察官も、筆者に命を与える判決を書いてくれた裁判官も、共に筆者の人生の外へ連れ出され(おそらくは直接的な関わりとしては永遠に)離れ去って行くことになった。(むろん、彼らもその後、一度は関わったこの事件の行く末を、関心を持って見守ってくれているであろうことを疑わないが・・・。)

こうした別離は、人間的な心情としては、決して歓迎すべきものではないが、その背後には、主の深い采配が働いていることを、筆者は思わないわけにいかない。筆者は人々から職務としての必要な手助けを受けることは許されるが、その関係は常に一過性のものであり、決して職務上の範囲を超えない。それを一歩でも超えて、誰かから恒常的に助力や情けを受けるようなことは許されておらず、そのような個人的な関係が芽生えそうになると、ただちにその人は筆者から遠ざけられる。表向きの理由は色々あるが、結局のところは、主がそうされていると筆者は考えずにいられない。
 
なぜなら、主の御心は、決して地上に肉なる団体を築き上げることにはなく、筆者の心を常に主以外の何者にも依存させないように、自由にしておくことにあるからだ。

それは、筆者が地上のどんなものにもとらわれず、完全に独立して自由な判断を下すために、欠かせない前提条件なのである。

神の助けを受けるためには、神以外の何者にも栄光を帰さない生き方、神以外の何者にも頼らない生き方を継続することが必要である。どんなに心細いと感じられる瞬間にも、誰にも頼らず、ただ神だけを信頼して、自分のすべてをかけて、御言葉に沿う正しい判断を自分で選び取って行ける心の自由さと、独立性が必要である。

もちろん、職務上の範囲を超えないうちは、助けてくれる人々を、大いに信頼しても良い。だが、だからと言って、私たちは、決して、その人々の判断に自分を委ね、彼らに自分に代わって物事を決めてもらうまでに依存してしまうことは許されない。キリスト者の人生は、基本的に、すべての試練や困難を、常に神と自分との二人三脚で乗り越えて行かねばならないというものだ。神を置いて、誰もその間に入り込んだり、先回りして、筆者を助けることができる存在はいない。どんなに親切で善良な人間も、どんなに経験豊かな人々も、決してまことの助言者なる神の代わりを果たすことはできないのである。

だから、人々がどんなに大きな働きをしてくれたとしても、その働きは一過性のものであり、それが重要な働きであればあるほど、彼らは役目を終えると足早に去って行き、その代わりに、また新しい人たちがやって来る。こうして周りの人々は常に入れ替わるが、神はいつまでも永遠に変わらない筆者の最も信頼できる助け手である。
 
そこで、訴訟についても、筆者は誰からも教えてもらうことなく、自分自身ですべてを一歩一歩、確かめている。宗教指導者という存在が必要ないのと同様に、弁護士などという存在も、筆者には無用である。

本当に、民事訴訟からは学ぶことが無限にあり、一審は、言葉に言い尽くせないほどの貴重な学びに満ちたものであった。それはとてつもない人生経験であったと言える。スリルと、ドラマと、感動があった。だが、筆者は、ここですべての学びが終わったとは考えていない。この「干潟」に秘められた可能性、この巨大なビルの中に隠されている宝は、この程度では終わらないはずで、できる限り、そのすべてを発見し、掘り起こしたいと願わずにいられないのだ・・・。

「しかし、わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありません。わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。

この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。しかし、このことは、

目が見もせず、耳が聞きもせず、
 人の心に思い浮かびもしあかったことを、
 神は御自分を愛する者たちに準備された

と書いてあるとおりです。わたしたちには、神が”霊”によってそのことを明らかに示してくださいました。”霊”は一切のことを、神の深みさえ究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(Ⅰコリント2:6-12,15-16)



「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしていなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。

それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:26-31)

裁判所との最終調整が終わったので報告しておきたい。

巨大なエクソダスが完了した。判決はまずまずの内容であり、不本意な和解を退けただけの甲斐は、確かにあると言えるものであった。

今回の判決では、まず被告1名(信徒)に対し、被告のブログにおける、当ブログ執筆者に対する名誉毀損、侮辱、著作者人格権(氏名公表権)の侵害、プライバシー権の侵害が行われた事実と、それに対する当ブログの側からの損害賠償請求、当該記事の掲載差し止め請求がおおむね認められた。

早い話が、ペンネームで執筆されている当ブログの執筆者の氏名を勝手に公表したり、当ブログ主の個人情報を調べて無断でネット上に公表したり、ネット上で人格障害者呼ばわりするような行為が権利侵害に該当するという、当ブログの主張が認められたということである。

その他、非常に重要な成果として特筆すべきは、当ブログと当該被告のブログとの間で2009年以来、起きた論争の発端は、そもそも被告が、当ブログ主から受けたコメント削除の依頼に、正当な理由なく応じなかったことにあることが、事実として認められた。

他者の管理するブログに投稿したコメントであっても、その著作権は投稿者自身にあるため、コメントの削除依頼を受けたのに、これを正当な理由なく拒むことは、公衆送信権の侵害に当たるという見解が示されたのである。

しかしながら、今回の裁判では、十分に立証が行えなかった点もいくつか今後の課題として残る。

その第一は、これまで幾度か断ってきた通り、今回の裁判は、急ぎ足で終了したということもあって、刑事事件の進展と、犯罪ネットワークの全容の解明が追いついておらず、被告らの共謀関係については十分とみなされうる立証が行えなかった点だ。

そのため、今回の紛争は、2名の被告のうち、宗教指導者である被告は、法的責任を問われない形で終了した。

だが、筆者の心には、事実はどうなのかという深い疑問が残る。もちろん、今回の訴訟でも、宗教指導者の関与が全くなかったという事実が立証されたわけではなく、推定無罪の原則が働いているのみである。

被告らは、この裁判の過程でも、当ブログ執筆者を馬鹿にしたメールを書証として提出したりもしており、宗教指導者である被告は、信徒として相談を行った当ブログ執筆者を個人的にターゲットとして非難する記事を約10年間もブログに掲載している。

そして、当ブログ執筆者に関する個人情報を、信徒である被告に伝えたのが、誰なのかを特定する作業は、いまだ完了していない。その上、掲示板で行われた当ブログに対する大々的な権利侵害を、誰が主導したのか、どのようなネットワークがその背後に存在するのかなどといった事項も、すべて今後、刑事事件の進展を待たねばならない。

従って、宗教指導者の被告は、罪に問われなかったことをもって、すべての疑いが晴れたとは決して言えない。特に、当ブログがこうむってきたほとんどすべての中傷は、筆者から見て、まさにこの指導者を擁護する立場から行われたものであることは極めて興味深い事実である。

このように、今回の裁判では、当ブログの請求のすべてが認められたわけではなく、十分な論証・立証作業が間に合わなかった主張も多々あるとはいえ、点数に換算するならば、60点から(甘くつければ)70点くらいの点数は取れ、まずまず及第点には達したと言えるだろう。
 
筆者から見て、この判決は、決して偏った、もしくは、筆者にとって極端に甘い内容でもないため、従って、感情に流されたものではない。むしろ、極めて冷徹かつ客観的な分析と、合理的な法的解釈に基づくものであるため、当事者の誰かが控訴したとしても、この判決を覆すことは、極めて困難なように思われる。

そのようなことは、単なる時間と費用の無駄にしかならず、報復以外に目的が見当たらないということで、(仮に被告が控訴しても)心証をより悪くすることにしかつながらないであろう。

そこで、筆者は、今回の判決でカバーされていない問題、そして、今回の訴訟の最中に新たに判明した事実については、今後、新たな係争の提起という形で責任追及を行うことを考えており、訴訟後の手続きも控えているため、戦略的に、今は言及を避けることにしたい。

だが、一つ、今回の裁判でつくづく分かったことがある。それは、やはり民事訴訟は、受けた損害を完全に償わせる手段としては、適切ではなく、ただ賠償請求だけが目的ならば、民事裁判は起こさない方が良いということだ。

特に、当ブログが過去10年間にも渡り、様々な嫌がらせ行為を受けて来たことを考えれば、筆者は今回の判決で言い渡された賠償金額(それは決して少なくはない)が3倍だったとしても、それも妥当であると考える。
 
だが、むろん、筆者は賠償金が少なすぎるなどと不満を述べているのではない。民事訴訟を起こすことの主要な目的は、決して金銭的な利益にはなく、そのような成果が目的であれば、裁判には期待薄である、ということを言いたいのである。

すなわち、個人の利害の対立という次元を超えて、正しい事実認定を行うことで、何が真実であるのかを世に公然と知らしめ、今後起きうる同様の犯罪の抑止力とすること、目に見えない正義と真実を追求することで、社会をより良く変えるきっかけを作りたいという強い使命感がなければ、このような戦いを個人で最後まで戦い抜くことは非常に困難であり、仮に弁護士を立てなかったとしても、到底、元が取れるようなものではないということだ。

だが、筆者は、この訴訟を提起したことに何の後悔もなく、その全プロセスに心から満足している。筆者自身にとって、今回の訴訟は、はかりしれないほど大きな学習の機会であった。これは他のどんな紛争にも比べられないほどの深い霊的意義を持ち、まさに全力投球して取り組む価値のある記念すべき紛争だったことは確かである。

筆者は今回の訴訟で、決して法的解釈にとどまらず、聖書に基づく自らの見解を、思うだけ主張・披露できたことに、非常に深く感謝している。事件を担当してくれた裁判官が、もしも宗教論争を一切、この紛争に持ち込まないようにと釘をさすようなことがあれば、それは決して実現できなかった願いである。

そういう意味で、今回の紛争は、他のもろもろのこの世の紛争とは全く違った意味合いを持つものであり、それだけに、こうした結果が得られたことは、聖書の御言葉の正しさを公然と世に証明するに当たっても、実に大きな成果だったと言える。
  
今回、裁判官が、その50倍はあろうかという書面を基に書き上げてくれた、分厚い本のような判決文は、それ自体が、筆者にとっては、示唆に富んだ、宝のような文面である。この貴重な判決文は、筆者が大きな代価を払って得たものであるから、万人に公開することは控えたい。

だが、重要なのは判決文だけではない。当ブログの側から提出した様々な主張書面、資料は、それ自体、記録として保管する価値のあるものであり、今後、教会を巡る裁判の問題を研究する際に、カルト被害者救済活動を批判的な観点から分析する資料として、大いに参考材料となりうるものと確信している。
 
今回は、裁判所という「干潟」を通して、当ブログの見栄えのしない「泥水」に光が当てられ、そこに神秘的な光合成が働いた結果、このような判決が生まれた。

だが、まだまだ今後の課題も多く残されている。そこで、少なくとも、一年か二年間くらいは、筆者と当ブログは、この「干潟」としての裁判所にお世話にならねばならないものと考えている。
 
数多くの戦いが控えているため気は抜けないが、とりあえずは、関係者に心から感謝を述べておきたい。

そして最後に、自己の信念は、きちんと主張しなければ、実現もできず、他者の努力に便乗して、自分の願いを実現することは、誰にもできない相談なのだということを断っておきたい。

日本社会には、長いものには巻かれろ式に、権力者におもねり、絶えず周囲の顔色を伺って、自分の主張を控え、周囲と波風立てないことが、あたかも正しいことであって、それさえやっておけば、自己の権利を保ち、幸福に生きられるかのような考えがある。

要するに、「和の精神」である。しかし、当ブログでは、これは偽りの平和であって、聖書の御言葉に立脚するものではなく、この精神に絡め取られてしまうと、自分自身を失い、まことの命をも失うということを述べ続けて来た。

今回、筆者は自らの信念に基づき、自分の主張を公の場に持ち出したことで、激しい批判と嘲りと中傷を浴びはしたが、それとは引き換えにならないほどの貴重な教訓を得たと思っている。それはやはり、この社会の中には、正義、真実、公正を愛し、良心に生きる人々が確かに存在しており、自らの信念を曲げずに、希望を捨てずに生きていれば、そうした人々に出会うことも、かつ、協力して、善良な願いを実現に至らせることもできると分かったことである。

すなわち、今回の紛争の最も大きな成果は、ただ有利な判決を得たということではなく、それ上に、これほどまでに激しい妨害や、徹底した誹謗中傷、敵意を向けられる中でも、筆者が、全くと言って良いほど、絶望に至らず、死へ追いやられることもなく、それどころか、以前よりも一層、御言葉の真実性を知って、喜びに溢れていること、また、筆者一人の力だけでは成し遂げられなかったであろう成果を、様々な人々との協力関係の中で打ち立てることができたことである。

このような成果は、人間の力にはよらないのであって、ただ神を賛美するのみである。筆者自身はネットワークを築こうとしたことはなく、人々の心に善良な願いを起こさせて下さったのも、すべては主の采配である。

もちろん、今回生まれた協力関係はほんの一時的なもので、長くは続かない。だが、筆者は、誰がどこへ去ろうとも、これからもこの地にとどまり続けるだろうと思う。そして、ここでバプテスマのヨハネがしたように、(もちろん、筆者なりの方法で!)、主の到来に地道に道を備えたいと願っている。

すなわち、この地が真に永遠に至る実りを結ぶ場所となり、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます」と言えるようになるまで、どこにも去らず、ここで根気強く奮闘し続けたいと願っている。

キリストは、まことに筆者のためにも、神の知恵となって下さり、義と聖と贖いとになられた。この方の御名にのみ栄光を帰したい。
 
「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
 遅れられることはない。
 わたしの正しい者は信仰によって生きる。
 もしひるむようなことがあれば、
 その者はわたしの心に適わない。

 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、
 信仰によって命を確保する者です。」(ヘブライ10:37-39)

* * *

わたしは神が宣言なさるのを聞きます。
 主は平和を宣言されます
 御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に
 彼らが愚かなふるまいに戻らないように。
 
 主を畏れる人に救いは近く
 栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。
 慈しみとまことは出会い
 正義と平和は口づけし
 まことは地から萌えいで
 正義は天から注がれます。
 
 主は必ず良いものをお与えになり
 わたしたちの地は実りをもたらします。
 
 正義は御前を行き
 主の進まれる道を備えます。」(詩編85:9-14)





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒かつ悪質な記事やコメントを見つけられた方もふるって通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110
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