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「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも、身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。」(2テモテ4:3-5)


このところ、忍者ブログのサーバーが全体的にダウンしており、接続することさえできない日が続いている。当ブログに対しては、これまで絶え間のない迫害が起きて来て、多くの人が、このブログを閉鎖するよう執拗に要求し続けて来たのだが(こんな個人のブログに対してそんな反発が起きること自体が普通ではない)、こうした現象もその一環なのであろうか?

いずれにしても、終わりの時代が迫っていること、心を引き締め、より一層、清さにあずかるために、訣別せねばならないものと訣別し、まどろんでいてはならないことを感じさせられる毎日である。

ちなみに、当ブログがこれまで絶えず迫害を受けて来た最大の理由の一つは、牧師制度の誤りを指摘しているためで、牧師制度とは、神と人との唯一の仲保者であるキリストを退けて、牧師という人間に過ぎない者が、神と人を仲介しようとする偶像崇拝の制度である、と主張して来たためである。

牧師をを介さなければ、信者が自分では御言葉を理解することもできないとし、毎週日曜日に牧師の説教を聞くために、信徒が牧師に献金を払い、牧師一家を養うことを当然視しているプロテスタントの教職者制度は、根本的に誤っている偶像崇拝の制度であり、このような制度に属している限り、信者は真実な福音にたどり着くことはなく、真実な信仰を求めるならば、信者はこれを離れてまことの福音を追い求めねばならない、と強調して来たためである。

また、同時に、当ブログでは、牧師制度の腐敗により堕落した教会に対して批判の声をあげている反カルト運動も、同時に牧師たちに導かれる運動であるから、両者は根本的に同一であって、どちらにも救いはないと主張しているためである。

牧師制度を早急に離れることこそ、必要なのであり、それをしないまま、カルト化した教会だけを非難していたのでは、全く話にならない。プロテスタントの教会で起きる不祥事は、かつてカトリックが宗教的腐敗に陥って、そこから改革を唱えてプロテスタントが出現したように、プロテスタントもまた腐敗に陥って、終焉に至りつつあり、万民祭司の時代が始まるべき時がすでに来ていることをよく表しているだけなのである。

その中で、私たちがせねばならないことは、聖書に忠実な信仰に立ち戻ることだけであって、何が本当に神の喜ばれることであって、何がそうでないかを見極め、目に見える人間にではなく、ただ神だけを信頼して、ただ神だけに栄光を帰するために、御言葉に従順に歩むことだけである。だから、このブログに反対している人がいるとすれば、その人たちは、自身が教職者であるか、教職者同然に振る舞っている人たち、また、その制度を擁護している人たちだけと見て良い。

2009年には当ブログで述べているのとほぼ同じ考えを持っている人々は相当数、存在していた。キリスト教界からエクソダスせねば、真実な福音にたどり着けないという危機感は、多くの信者らによって共有されていたため、このテーマを語ることは何ら困難ではなかったし、もっと言えば、珍しい意見でもなかった。そのテーマを語ったからと言って、カルト信者扱いされることもなければ、インターネットでバッシングを受けるというわけでもなかった。

しかし、その後、非常に激しい迫害が起きるようになり、エクソダスを主張している多くの人々が、神の御前で一人で信仰を守り抜くことに挫折し、人の歓心、人の理解や慰めを求めて、自分たちのめいめい好き勝手な指導者を選んで立てては、組織に戻って行った。それは彼らが、当ブログに対してしかけられた戦いのあまりの激しさを見て、自分たちはそういう目に遭わされないで生きたいと願ったためでもあろう。一言で言えば、彼らには、御名のために受ける苦難よりも、自己の安寧の方が大切だったのである。

そのようなわけで、今や真にエクソダスを主張している人は、探しても、ほとんど見受けられない状態となった。見当たるのは、エクソダスと言いながら、キリスト教界と妥協し、牧師を批判しながら、自分自身が牧師となって、信者の心を支配し、メッセージを語り、自分たちは組織を作らないと言いながら、自前の組織を作るような偽り者ばかりである。(というよりも、そういう人たちは注目されるところで語るのが好きなので、人目につくところに彼らの発言が掲げられているというだけであるが。)

だが、筆者は、どれだけ大勢の人々が、自ら表明したエクソダスを撤回し、偽りと分かっている組織に舞い戻って行こうとも、人間を崇め、奉る生き方からは離れ、神の御言葉を守り抜いて生きることこそ、誰よりも自由で、豊かで、高貴な人生を送る秘訣であると確信しており、それだけが、勝利の秘訣であることが、身に染みて理解できる。

だから、この先、筆者のこれからの人生を通して、御言葉の正しさが証明されなければならないと考えている。そうなったときに初めて、神の恵みは、権勢によらず、能力によらず、ただ主の御霊によって、御言葉に忠実に生きる人々に恵みとして与えられるものであることが、万人に知れるようになるだろう。

多くの人たちは、自分たちが目で見て確認したものしか信じない。そこで、そのような人々の目には、彼ら自身があり得ないと思うことが成就する他、筆者の信じる神が、まことの神であって、今日も生きて働いておられ、信じる者を全ての苦難と悪から完全に救い出す力があり、聖書の御言葉が真実であることを、思い知ることもないであろうと思う。

そのために、筆者は残りの生涯、主の栄光のために、正しいことを行なわねばならないと決意しており、そうして行くときに初めて、筆者自身に尊厳が与えられ、人々のための利益も、満たされると考えている。

そのようなわけで、詳細はまだ語ることはできないが、筆者の心の中には、今まで考えもしなかったような、遠くまでの道筋、計画が思い描かれている。

だが、先の記事にも書いたように、そういう話を全く受けつけられない人たち、そんなことは絶対にあってはならないと猛反発を示す人もいなかったわけではない。「あなたを助けたいんです、ヴィオロンさん。」などと言いながら、接近して来る人たちは、大概、筆者が真に御言葉に従って生きるなら、悪者に対しては勝利をおさめられるという話を始めると、激しい反発を示して去っていくのであった。

助けたい、と言いながら、自分たちが助けようとしている相手が、真に自由になることを、誰よりも必死で阻止する。こんな人々は助け手の名には値しない。彼らの本質は、私たちが自分を縛っている偽りの体系からエクソダスを試みようとしない限り、現れることはない。だが、私たちが本気で主にあって、自由を目指そうとする時、こうした人々が、足もとに絡みついて来ては、脱出を阻止しようと、あれやこれやの言い分をぶつけ、その時、彼らの偽り者であることが私たちに分かるのである。

たとえば、悪魔に立ち向かいなさい、などという御言葉を好んで引用して語る人たちが、どういうわけか、筆者の周りで実際に起きている様々な霊的戦いについては、筆者に勝利が与えられることを喜ばない。実際に勝利をおさめることが、筆者にはどうしても必要であり、そのための方法を見いだした、と筆者が喜んで証を始めても、「そんなことが神の御心のはずがない!」と猛反発して去っていく。

さらに、筆者が自分の人生において、神の命の豊かさを体現して生きるために、制約だらけの状態から抜け出て、もっと自由にならなければならないし、そのための模索を行っているところだ、という話をすると、それにも耳を塞いで去っていく。

それはちょうど、筆者がとても窮屈で貧しくて不自由な世界から、自由を求めてエクソダスを決意すると、寄ってたかって、「おまえには幸福になる資格などない! おまえが自由になることが、神の御心のはずがない!」と叫んで、不自由な世界から筆者を決して逃がすまいと、必死で束縛して来るような具合である。

そのようなことを、普段から敬虔そうに御言葉を語り、自分は真実な信仰を知っていると豪語する人たちが、まさに行うのである。ただし、そのような人たちは、あなたが主によって真に恵まれたという話をしても、普段から決して喜んでその話を聞かないので、その態度かを通しても、大体、彼らが信奉している教えが何であるかは想像がつくのだが、あなたが真に不自由な状況からエクソダスを遂げて、主にあって、自由と勝利を掴もうとする時には、さらに強烈な反対を示して、それが成就しないように妨害して来るので、よく分かる。その時、彼らの信じている教えが、人を自由に導くように見せかけながら、実際には、貧しさと不幸と滅びの中に連れ込むことしかできない、偽りの宗教体系であることが、私たちによく分かるのである。

だから、そういう人たちに向かっては、筆者は「どうぞあなたの信じるところを行って下さいな。私は一人にされることを一切、恐れませんから」と通告するのみである。こういう人たちと手を携えて前に進んで行くことは絶対にできない相談である。

たとえば、こういう状況を考えてみて欲しい。

あなたが若者であって、軍隊に入隊したとしよう。あなたの祖国は、今や戦争を始めようとしており、士気が高まっているところだ。

ところが、あなたは、その戦争の動機が根本的に間違っており、あなたの国には正しい理念がなく、敵国はあなたの祖国よりも圧倒的に強く、打ち負かせる望みがなく、しかも、あなたの軍隊の上官たちは大変な愚か者で、間違った戦略を立てているため、それに従って戦地に送り出されれば、あなたは戦場で死ぬだけで、どんなに戦っても、生きて帰れる見込みは1%もない、という情報を、仲間よりもいち早く先に掴んだとしよう。

戦場に行けば、十分な兵糧もなく、武器も与えられないのに、飢えと、寒さと、疲労の極致の中でゲリラ戦を続けるという極限状態が待ち受けているだけであり、そこには、仲間同士の間でも、助け合いの精神はなく、あるのは、自分が生き延びるためには互いに殺し合い、互いに食い合うことで、命をつなぐ運命だけである。つまり、仲間を殺して食うという鬼畜の所業にでも手を染めない限り、生きて帰れる見込みもないというのだ。

また、その他にも、特攻作戦が実行され、敵に打撃を与えることもできないのに多くの命が無駄に費やされるという情報もあなたは掴んだ。

このような情報を得て、あなたは何をしようとするだろうか。まずは同僚たちに、この戦争は無謀である、戦っても勝ち目がない、無駄な犠牲が生まれるだけだ、ということを説いて聞かせ、反対者を募ろうとするかも知れないが、同僚たちは誰も耳を傾けてくれず、その話を聞きつけてやって来た上官が、かえってあなたを叱りつけ、これ以上、軍隊の士気を低めるような根拠のない話をすれば、祖国に対する中傷、軍隊への裏切り行為として、軍法会議にかけるぞ、などと言う。

あなたは仕方がなく、この話を誰かに理解してもらうことを断念せざるを得なくなる。だが、何も知らなかったふりをして軍隊の中にとどまっていれば、いずれ戦いにもならない戦いの中で、犬死する他ない。せめて自分の命だけは、この愚かしい戦争によって失うことのないように対策を講じる以外に、なすべきことはないと思うだろう。そこで、あなたは何とかしてこの軍隊から早く脱出するか、死ななくて良い任務に就くかして、呪われた運命を避ける方法を模索しなければならないと決意する。あるいは、そのような状況から脱するためには、亡命ということも考えてみなくてはならないだろう…。

人に先んじて情報を掴むというのは、そういうことなのである。知恵はそのためにあり、いち早く正しい情報を得た人だけが、我が身を救うための方法を、人よりも先んじて講ずることができる。もしかしたら、自分の家族をも救える方法が見つかるかも知れない。だが、残念ながら、多くの人たちは、正しい話を聞かされても、信じない。特に、自分たちが誇りとする軍隊が、愚か者の指導者に導かれているとか、自分の祖国が負けるかも知れないなどという話は、人の心を喜ばせないので、誰も耳を傾けようとしない。

戦って敵国を打ち負かし、自分たちの力と知恵で勝利を打ち立てるという話は人の歓心を買うが、戦争そのものが無謀であって、祖国には正しい理念と知恵がないから勝ち目がないという情報には、人々は耳を傾けたがらない。その話は彼らの無力さと限界を思い知らせるので、彼らにとってはあまりに悲観的過ぎるだけでなく、恥と屈辱をもたらすように思われるからだ。

だが、彼らと同じ価値観の中を生きていれば、あなたは前線で死ぬしかないことが分かっているのに、どうして彼らと一緒の道を行けようか。このように、多くの人々が考える勝利をもたらす方法と、実際に勝利を掴んで生き延びる方法は、いわば、正反対なのである。

同じように、人間が自己の力で罪を贖うために作り上げられた一大宗教体系というものがあり、そこで人々は知恵と力の限りを尽くして、天にまで至り着く高い塔を建設しようとしている。荘厳を極めた儀式、感動的な説教、多くの涙ぐましい奉仕、人々の熱狂がそこにある。

人々は筆者に対しても、その塔の建設に加わるように言う。そして、筆者のような者が、かえって彼らの建設しようとしている塔は、偽りであって、天に到達することなく、神の聖に至り着くこともなく、何らの勝利ももたらさないまま、ひどい倒壊をもたらすだけだと主張すると、彼らは自分たちのしようとしていることに、いたく水を差されたと感じ、侮辱を覚え、敵意を表すだけである。

ノアが洪水を避けて箱舟を建設していた時も、ロトとその家族がソドムを脱出しようとした時も、全く同様であっただろう。ごくわずかな義人たちだけが、堕落したこの世に定められた滅びのことを知っており、何とかしてそこから逃れ出なければならないことを知っていたが、その時、人々は、飲み、食い、売り、買い、建て、めいめいしたいと思うことをして、その日常がこれからも決して妨げられることはなく、自分たちは望みのままに生き、それによって神の聖にまで到達することができると信じて、義人たちの警告には全く耳を貸さなかった。

それだけでなく、彼らに対して耳の痛い忠告をして来た神の僕たちを排斥し、踏みつけにし、あるいは殺した。そうした警告は、人々にとっては、彼らが喜んで謳歌している人生、彼らの生きる目的そのものを、恥や、誤った考えのように思わせるものだったので、彼らはそれを聞きたくなかったし、自分たちに侮辱を感じさせる者を憎んだのである。

もちろん、筆者はこの世界が明日滅びるとか、私たちの町が滅ぼされるなどと言っているのではない。主に従うためには、自分を捨て、自分の十字架を負って、日々主に従うしかないにも関わらず、自分たちに好ましい言葉を述べてもらい、平和だ、無事だ、安全だと耳障りの良い福音を聞き、自分たちの欲望を肯定してもらいたいがために、人間に過ぎない宗教指導者をあちこちから招聘し、彼らを神のごとく崇め、奉り、つき従っている、御言葉に従わない者の末路は滅びでしかない、ということを述べているに過ぎない。

そして、ある人々が、どんなに筆者の口を塞ぎ、当ブログを踏みつけにすることによって、筆者の主張をないものにしようと考えたとしても、そのことによって、間違っているものが間違っているという事実にまで変化が起きるわけではないため、人々が自己の力で罪を贖おうとして必死の思いで積み上げている努力が、その人たち自身に呪いしかもたらさず、寸分たりとも報われないという事実に、変わりはないのである。神の僕を踏みつけにすることはできるかも知れないが、そのことによって、踏みつけた人の罪に罪が増し加わるだけであって、神の御言葉の正しさがいささかも消えるわけではなく、その決定が寸分も変更されることはないのである。

御言葉は言う。


「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたには書き記す必要がありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなたがた自身よく知っているからです。人々が「無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に産みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。


しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。あなたがたはすべて光の子、昼の子だからです。わたしたちは、夜にも暗闇にも属していません。従って、ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(1テサロニケ5:1-6)


今年に入ってから、筆者には、心の偶像がどのようにキリスト者を弱体化させるかが分かり、また、それを投げ捨てることによって、霊的視力が回復されることも分かった。筆者が、これまで見たことのないほど遠くまで、これから起きることを予想できるようになったと述べているのも、そのためでもある。

敵に対する勝利がどのようにしてもたらされるのか、霊的軍事作戦が見えて来たのである。偽りの宗教体系であるバビロンは、自分は勝利した、無敵である、自分に敵対した者は、一人ぼっちの孤独の中で、恥と敗北を噛みしめているだけだ、二度と立ち向かって来ることはない、と豪語している。しかし、バビロンには、その罪のための裁きが下る時が必ず来て、しかも、その倒壊は非常に激しく、人々の驚きと恐怖の的になる。

これは一種の比喩であって、最終的なバビロンの崩壊は、この世の終わりを待たなければならないが、その前に起きる地上的な様々な出来事の中にも、バビロンの倒壊現象は、確固として現れるのである。だから、筆者は、その時がどうやって来るのか、少しずつ、予想しているのだが、サムソンがそうであったように、真実なキリスト者までが、バビロンの倒壊に巻き込まれるようなことがあってはいけない。

そこで、あなたがバビロンを去ろうとしているその時に、その都に駆け戻って行く人たちとすれ違うかも知れないし、その都にいる人たちを助け出さなければならないと言う人があるかも知れないが、その都に一切の未練を持ってはいけない。決して後ろを振り返らず、前へ進まなければならない。あなたが見つめなければならないものは、不完全さではなく、完全さなのである。

「より完全なものを目指す」――という言葉で検索してみると、大体、企業がより良い商品を開発しようとするときの文章が見つかる。

私たちは自分の商品を開発しているわけではないが、キリスト者として、日々、自分自身が、より完全な、完成された状態になることを目指して歩んでいることを忘れてはならない。私たちは神の作品であって、キリストの手紙のようなものである。神が完全な者であられるように、私たちもそうなることを目指すべきである。

黙示録にはこう書かれている、「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行なわせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ。見よ。わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。


命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は門の外にいる。」(黙示録22:10-15)


このように、終わりの時代、不正な者はますます不正になるが、正しい者はますます正しくなり、聖なる者は、なお聖なる者となると記されている。時を無駄にしてはいけない。神に従う者は、他の人々がどのような人生を歩もうと、それに関係なく、ますます正しく、ますます聖なる者となり、ますます完全とされることを目指すべきである。

だから、たとえ多くの人たちが、脱出の道を貫徹できず、荒野で誘惑に負け、倒れ、あるいはもとの故郷に駆け戻って行ったとしても、他の人たちがどうなったのかに心を留めてはいけない。後ろを振り向いてもいけないし、滅びに定められている一切のものに未練を感じてもならない。見つめなければならないのは、私たちの前に置かれた褒賞であり、信仰の創始者であり完成者であるイエスご自身であり、高き御座に座しておられる方である。

私たちの衣を洗い清めるのは、ただ小羊の血潮だけであり、ただ主イエスだけが、私たちの救いであり、栄光を受け、誉め讃えられるべき方なのである。

このことが分からず、人間同士が互いに賞賛し合い、慰め合うことに活路を見いだし、人の温もりに心惹かれた大勢の人たちは、エクソダスと言いながらも、出て来た元の故郷へ戻って行って、そこで神ではない別なものに栄光を帰するはめになった。彼らに待ち受けているのは、やがてその都が倒壊したとき、その下敷きになる運命だけである。それにならってはいけない。

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「待ち続けるだけでは心が病む。

かなえられた望みは命の木。」(箴言13:12)


少し前の記事で、筆者は二着の「アカンの外套」を心から捨て去ったと書いた。このアカンの外套とは、人の心の偶像となりうるものの比喩である。神は、信じる者が、ただご自分だけに頼ることをお求めになる。人間への愛情と、神への愛情はほとんどの場合、両立しない。このことを私たちはよく覚えておく必要がある。主を経由しない魂の愛情はことごとく腐敗したものとして取り除かれる。


「主はこう言われる。

 呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし

 その心が主を離れ去っている人は。

 彼は荒れ地の裸の木。

 恵みの雨を見ることなく

 人の住めない不毛の地

 炎暑の荒野を住まいとする。

 祝福されよ、主に信頼する人は。

 主がその人のよりどころとなられる。

 彼は水のほとりに植えられた木。

 水路のほとりに根を張り、

 厚さが襲うのを見ることなく

 その葉は青々としている。

 干ばつの年にも憂いがなく

 実を結ぶことをやめない。」(エレミヤ17:5-8) 


この原則は厳しいものがある。真に実を結ぶ生き方をしたいなら、目に見える一切のものに心を留めず、ただ真直ぐに主を見なければならない。上にあるものを求めなさい、と聖書は言う。地上のものに心を惹かれると、それが私たちに絡みつき、足手まといとなる。人間に頼る者は滅びる。

だから、主の御前に静まって、いつもただ主にのみ己の心を注ぎだすことを忘れてはならない。異教徒の娘デリラを愛しすぎたサムソンは、聖なるものと、汚れたものとの区別を見失ってしまった。デリラの愛は不実であって、デリラに心を秘密を打ち明けたことがあだとなり、眠っている間に、サムソンは髪の毛を切られ、力を失ってしまう。

目覚めたとき、サムソンの怪力は失せており、彼は奴隷として捕えられ、引いて行かれることとなった。何度も書いたことであるが、その後の彼の運命は悲惨であった。両眼をえぐり出され、奴隷として重い引き臼を引きずり、ついに生涯の終わりにはペリシテ人の宴会の余興として引き出される。そのとき、サムソンは、最後の力を振り絞ってペリシテ人の神殿を崩壊させるが、自分もその下敷きになって死んだ。

もちろん、サムソンの運命は、人の堕落した肉の性質がどれほど深いかを表しているのであって、それは主イエス・キリストが十字架で担われた刑罰の予表でもある。サムソンは、信仰を失うことはなく、生涯の終わりには、自分自身のすべてをかけてまことの神を証した。しかし、できるならば、キリスト者はそんな運命を辿ってはならない。

サムソンの勇者としての力は、ただまことの神のみを信頼するところにあった。そこで、私たちが鷲のように翼をかって、天高く舞い上がるためには、同じように、主のみを信頼して、足手まといとなる地上のものへの信頼をすべてを心から振り捨て、ただ上にあるものを真直ぐに求めねばらならない。

そのために、人の目に慕わしいもの、心に好ましいもの、地上的なものへ心惹かれ、それを信頼しようとする傾向を警戒しなくてはいけない。真に重要な事柄を、神ではなく人間に打ち明け、人を信頼して歩いて行くことをやめなければならない。

神の御言葉を流暢に語っているからと言って、誰もがキリストの僕であるわけではない。霊を試さなければならない、と聖書は言う。さらに、仮に忠実なキリストの僕であっても、主ご自身以上に、目に見える人間に頼ることも非常な危険である。

そういうわけで、この道の原則は厳しい。どんな人であれ、肉なる人間には誰も信頼してはならず、すべてのことを主にのみ相談せねばならないからだ。それができなくなると、多くの誘惑に直面することになり、天の高度から引きずりおろされ、その高さを歩めなくなってしまう。

だが、偶像を心の中から捨て去り、天にのみ目を注ぐなら、主はその人を喜んで迎えて下さり、恵みを与えて下さる。これは霊的に動かせない法則性であるものと筆者は感じている。鷲も足に錘をつけながら、軽々と飛び立つことはできない。人間も、どんなに心の望みによって羽ばたこうとしても、その心に、地上のものに対する未練が含まれていれば、飛び立つことさえ叶わないのだ。

神を愛すると言いながら、この世を愛し、この世における人々の寵愛、賞賛、慰めを愛すれば、結局、その人はいずれ神を捨てることになる。


「命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」(黙示21:14)


アダムとエバがエデンの園を追放されたのは、神の御言葉に背いたためであり、背いた者が、命の木の実を取って食べることによって、永遠に生き、聖なる者とされた者たちと同じ命にあずかることがないためであった。

命の木とは、キリストご自身のことでもある。彼が人となられ、十字架にかかられ、復活された後は、死を経て復活された彼のまことの命のことである。その命は、すべてを超越して支配する命であり、私たちの望みをかなえる力も持っている。だが、その木の実を取って食べることは、神の御言葉を守って生き、これに背かないという、御言葉への従順と一つである。

御言葉を守らない者が、命にあずかることはない。黙示録の上記のくだりの直後にはどうあるか、「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者は都の外にいる。」(黙示21:15)


犬のような者とは、偽善者たちのことを指すと見て良いだろう。当ブログでは、ずっと牧師という存在は、神と人との唯一の仲保者であるキリストの代用であり、聖書に反した制度であると言い続けて来た。だから、牧師たちも「犬」の中に当てはまる。キリストに頼らず、牧師に頼って生きるなら、その人は偶像崇拝者である。さらに、牧師を名乗らずとも、牧師と同じことをしている者たちも同じように偽善者に含まれる。

キリストの御名を使いながら、命を失った偽りの一大宗教体系というものがあり、それはこの世そのものである。この世を愛しながら、神に従うことはできない。偽りを好む者も、命の木から取って食べることはできない。こういう人たちはみな門を通っていないので、命の木へ近づくどころか、都の中に入ることもできない。

黙示録をどんなに読みふけったところで、御言葉を守らなければ、その人たちは滅びの中に投げ入れられることとなるだけなのだ。

* * *

「あの犬どもを警戒しなさい」

聖書にはそういうフレーズが幾度も出て来る。主イエスは、偽預言者たちを警戒せねばならないことを、繰り返し、繰り返し、弟子たちに教えられた。

当ブログ始まって以来、ずっと述べ続けていることは、「人間に優しい生き方」と「まことの神に従う生き方」は決して両立しないということである。一方は、世を愛し、世人と協調して歩む道であり、もう一方は、世に対して死んで、まことの神だけを主として生きる生き方だからである。聖書にこう書かれてある通りである。


「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光とやみとに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰とに何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。

 そして、彼らの神となり、

 彼らは私の民となる。

 だから、あの者どもの中から出て行き、

 遠ざかるように』と主は仰せになる。

 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。

 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、

 父となり、

 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』

 全能の主はこう仰せられる。」(2コリント6:14-18)


信仰のない人たちと手を携えて生きようとすれば、彼らが抱えている、負い切れない軛を私たちも負わされることになる。

だが、ここで言う「信仰のない人たち」が、キリスト教を全く知らない世の人たちだけを指すと考えてはいけない。それは何よりもこの世と迎合した偽りの宗教体系としてのキリスト教も含んでいるからだ。

つまり、訣別せねばならない「あの者ども」の中には、非常に敬虔そうに見えるが、人工的に作り上げられた、命を失ったキリスト教という一大宗教体系が含まれているのである。

だからこそ、「キリスト教界からエクソダスせよ」というスローガンは、偽りではないと、筆者は言う。この偽りの一大宗教体系に属しながら、同時に、まことの神に従って生きる、ということはできない相談なのだ。死んだ組織としての「宗教体系」に触れるとき、私たちはデリラの誘惑に、死の力に触れることになる。

だが、非常に根深い誘惑は、エクソダスせよ――と言いながらも、その圧倒的大半の人々は、この世を愛しすぎたために、自ら組織に戻って行くか、組織と混合するかし、結局、自分たちが訣別せよと叫んでいるものと、むしろ逆に一体化してしまったことである。

筆者は2009年から現在に至るまで、同じことを主張し続けているが、その中で、かつてはエクソダスに共感していたほとんどの人々が、上記のような過程を辿り、組織へ舞い戻り、おのおの好き勝手な指導者の教えに帰依し、清さを失った様子を見て来た。

だが、そうして交わってはならないものと交わると、私たちからは神の清さ、聖別が失われ、かえって敵の重荷が押しつけられることとなる。

私たちに与えられているのは、主イエスの軛であり、その軛は軽く、負いやすいと言われた、日々の十字架である。しかし、信仰のない(もしくはキリストの十字架に逆らう)人々には、その負いやすいと言われた十字架がない代わりに、彼らは自分たちでは決して返済することのできない、自己の罪という無限大の負債を背負っている。

偽りの宗教体系とは、一言で言えば、人類が己が返しきれない罪を、自力で返済しようと、終わりのない精進を続けるための体系なのである。従って、そこには様々な儀式は存在するものの、そのどれ一つとして人の罪を贖う効果はない。

もしも私たちがそのように信仰のない人々を信頼し、彼らを友のように考え、彼らと交わり、その宗教儀式に参加し、彼らと手を携えて生き始めれば、彼らが負っている無限大の負債が、私たちのものとして押しつけられることになる。

それが、サムソンがデリラに心を打ち明けたことによって、デリラから押しつけられた「負債」だったのである。本来、その苦しみは、デリラが担うべきであったが、サムソンがデリラに心を打ち明け、彼女と交わった結果、その負債がデリラからサムソンに転嫁された。

有史以来、サタンが人間に対して試みて来たのは、そういうこと(=罪の責任転嫁)であり、偽りを好む人たちが、聖徒らに自分たちの重荷を転嫁しようとしていることを、私たちは忘れてはならない。サタンは自らに対して地獄で定められている永遠の刑罰を、何とかして人(信仰者)に転嫁しようと考え、さらに転嫁できなくても、できる限り多くの人間を同じ滅びの運命に引きずり込みたく、それゆえ、自前の偽りの福音の「布教」を試みているのだと言えよう。

だから、私たちはそのような思想を受けた人々との交わりを続けてはならない。エクソダスを遂げた――と言いながら、依然、組織の中を歩き回り、宗教儀式に参加し、また、人前でメッセージを語っている人は、エクソダスを完了しておらず、それどころか、彼はまさに牧師でしかないのである。

神と人との仲保者は、キリスト・イエスだけであるにも関わらず、その間に無資格の「代理人」として立ちはだかって、神の御言葉を独占して、信者に自分自身で聖書を理解させようとしない牧師という教職者は、信仰の妨げになるから、必要のないものである。必要ないだけでなく、キリストになり代わって、信徒の心を支配するものであるから、悪しき職であり、神の栄光を盗むものであると言って良い。だが、そのことを理解して、あえて信仰の道を行くために牧師は必要ない、と言いながら、自分で牧師と同じことをしている人は、単なる牧師よりもさらに罪が深いと言えよう。

筆者が過去に遭遇した事例の中には、「私は何も分からず組織にとどまっている人々に、本当の福音を教えてあげて、彼らを助けたいんですよ」などと言いながら、訣別したはずの組織の中を歩き回っている人がいた。だが、そのような二重性を帯びた生き方を続ける人も、当然ながら、偽り者である。

私たちはソドムを脱出したならば、後ろを振り返らず、前に向かって歩かねばならないのであって、ソドムに残っている他の人々を助けてあげようなどという理由で、ソドムの町の中を歩き回っていれば、自分も彼らと一緒に火と硫黄によって滅ぼされてしまうだけだ。それはミイラ取りがミイラになるだけの道である。しかも、ソドムに残っている人々に「布教」するということは、ソドムの土着の宗教と交わり、その影響を受けた新たな混合キリスト教を形成することしか意味しない。そのようなことをすれば、神に最も忌み嫌われる偽りの福音が出来上がるだけである。

生まれながらの人間の魂には、神の救いを知らない人々に対して、神が定められた滅びの刑罰を、受け入れられない残酷なものとみなして、これに反発する性質がある。ソドムが滅びに定められたことに反発し、ソドムの人々が「可哀想」だから、助けてあげなければ・・・、などとみなして、ソドムに残って布教し続ける人たちは、実のところ、神が下された滅びの宣告そのものに逆らい、それと同時に、神がもうけられた救いにも逆らっているのだと言えよう。

神は、救われる人と、そうでない人たちの間に峻厳な区別をもうけられた。それがキリストの十字架であって、この贖いを受け入れない人々は助からない、そのことが、聖書がはっきり示している結論である。だが、信仰のない人々は、それを指して、キリスト教の神は残酷であると非難し、キリスト教徒を名乗っている人でさえ、その線引きは残酷すぎるとして、それを巧妙にずらそうとする。キリストを信じている、と言いながら、主にのみ従うのでは、やっていけないとして、そこに人間の指導者をつけ加え、人間を神として拝むがごとく、人間に栄光を帰そうとする。そういう人々も、偶像崇拝者なので、命の木の対象外である。

カトリックの法王への崇拝はもちろんのこと、プロテスタントにおける牧師崇拝という偶像崇拝の罪からも、信者は離れなければならない。人間に栄光を帰するすべての宗教組織を離れなければならない、ということを当ブログではずっと主張して来た。世の一部と化した偽りの宗教体系に未練を持ちながら、同時にまことの神だけを愛することはできないのである。

偽りの宗教体系とは、この世そのものであるから、そこには大勢の人々がおり、富があり、平穏があり、敬虔そうに見える様々な儀式と、人間の栄光を誉め讃えるチャンスがある。だが、それが偽りである以上、真理とは相容れず、それに接触するならば、私たちは清さを失って、返しきれない負債を押しつけられてしまうだけなのだ。そこにいる人たちが「可哀想」だから、救い出してあげなくてはならない、などと言って、その宗教体系が偽りなることを知りながら、そこに舞い戻って行く人たちも、滅びからは免れられない。

だから、世とは、聖書を知らず、神を知らない人たちだけのことを指し、そこに信者を名乗る人々は含まれていない、などと決して思っていていはいけない。主イエスが言われた最も警戒せねばならない相手とは、そういう人々ではなく、信者を名乗りながら、この世を愛し、この世に生きる偽預言者、偽教師たちのことなのである。

そういう人々の言い分に欺かれないためにも、有効かつ必要な自己防衛策は、私たちが心を向けねばならない相手は、あくまで「人」ではなく「神」であるという点を見誤らないことである。自分の心のすべてを尽くして、ただ神を愛せよ。隣人に対しては善良であり、親切である必要はあろうが、それは決して、彼らが抱えている罪の負債を、押しつけられて共に連帯責任として背負わされるためではないのである。

* * *

そういうわけで、筆者のそばに、知らないうちに、「犬」と呼ばれて差し支えない人々が接近して来たこともあった。彼らは筆者の心を逸らして、何とかして人との交流に第一に心を向けさせようと、大変、熱心であったが、ある瞬間が来たときに、はっきりと自己の偽りの福音を語ったため、筆者には彼らが偽り者であることが分かった。

それはいわば、「交わり教」とでも呼んだ方が良いもので、彼らはあまりにも人との交わりを熱心に追い求め、人を愛するあまり、(というよりも、彼らが交わりを愛するのは、自分たちが指導者となって、集めた人々の心を支配し、栄光を受けるためなのだが)、彼らは自分たちが忌み嫌っているこの世と妥協した既存のキリスト教体系の中にも、積極的に出入りしては、人々をスカウトし、そこで自己流のネットワークを作り上げ、これを繁栄させ、自分たちがその恩恵を受けることを、第一に念頭に置いていた。

前にも言った通り、それはマルチ商法にもどこか似ており、彼らは自前の組織を持たないまま、様々な出来合いの組織の中に入り込んでは、心の定まらない人たちをスカウトし、自分たちの組織を作り上げて行くのである。「宗教組織からエクソダスせよ」などというスローガンを片手に、宗教組織の中に入り込んで行くこともある。

だが、はっきり言えば、それは他に指導者がいる組織から人員を盗んで、彼らの心を自分に向けさせることであるから、信者の心を盗むことである。もちろん、彼らが人々をスカウトして来る先の組織も偽りなのだが、この人たちは、他の牧師たちから信徒を奪って、自分が牧師になろうとしているだけなので、単なる牧師よりも、さらに質が悪い。

反カルト運動も、原則はそれと同じである。それはすべて既存の組織の中にいる人、もしくはそこにいた人たちを引き抜いて、自分たちが新たな指導者となり、さらに彼らを出て来た既存の組織と敵対させて、かつての指導者に戦いをしかけ、人間同士を争わせるために行われているに過ぎない。それをやっている限り、彼らは出て来た組織と訣別することができない。

いずれにせよ、この人たちが一番大切にしているものは、敵対運動を組織する時でさえ、人との交流、人の集まりと、そこに生まれる熱狂、そして人間の栄光なのであって、彼らは目に見えるもの――人間の数や栄光しか見ておらず、彼らが愛しているのは、真理でもなければ、神との交わりでもない。彼らがそうまでして熱心に作り上げている人との交流は、ソドムの滅びゆく人々が、一刻でも滅びのときを先送りしながら、互いに慰め合うための協同組合のようなものでしかなく、彼らが積み上げているすべての所業は、彼らの罪を贖う効果を持たないものであり、時が来れば、火と硫黄で滅ぼされてしまうものでしかない。

さて、こうした人々には、どういうわけか知らないが、共通して、このブログを憎み、忌み嫌うという特徴があるようだ。そこで、ある時までは、筆者に対しても、仲間のように振る舞いながらも、突如として、筆者がブログを書くことには反対だ、ブログをやめない限り、交わりを断つ、などと言ってくるケースもある。

彼らは、人との交流を失いたくないがゆえに、筆者がそう言われれば、彼らにすがりつき、どうか私を一人にしないで下さい、と追いすがって懇願すると考えているのかも知れないが、筆者はその逆に、「どうぞお考えの通りになさって下さい」と言うだけだ。

非常に可笑しいのは、「あなたのブログには、私の出る幕は微塵もない」という理由で、筆者にブログを書きやめるよう要求する者もあったことだ。だが、「私の出る幕がない」とは、どういうことであろうか?

当ブログは、神の栄光を証するために作られたものであって、もともと人間に「出る幕」を与えることを目的としていない。人を批判することが目的もでなく、人はみな不真実な存在であって、真実な方は、ただ神お一人しかいないことを証し、まことの神に栄光を帰することを目的としている。だから、人間に「出る幕」がないのは、大いに結構なことである。人間がここで栄光を受けたり、注目と賞賛を浴びるようなことがあってはならない。それは筆者自身も同じである。筆者自身も、生まれながらには不真実な人間の一人であって、キリストと共に死の刑罰を受け、復活の命にあずかることによって、初めて神に対して生かされたのであり、今もこれからも、証するのはキリストの栄光だけだ。

それだからこそ、このブログで、筆者は自己を証しないと決めている。筆者が個人情報を公開しないことを責め立て、これを暴き立てようとした愚かしい者たちもあったが、そもそもなぜ彼らはそうまでして神ではなく人間のことにばかりこだわるのだろうか。神の御前で死の刑罰を受け、死んだ人間の名や功績など記すことによって、何が得られると思うのであろうか。

自分の名を知らしめ、自己を偶像化して人々の心を引くチャンスが欲しくて執筆を続けている人々であれば、自分の情報を大いに利用するであろうが、そんなことが当ブログの目的では初めからないので、筆者はそうしないだけである。

筆者は、このブログを通して組織を作ることなど考えたこともなく、そのような組織が作られた過去もなく、神の御前の単独者として歩むことを決めているので、人の歓心を失うことを恐れない。

そういうわけで、アカンの外套がそばに置かれていた間に、この重い外套が足手まといとなって、様々な遅延が生じてしまったが、これから先は、その遅れを取り戻して、さらに前進を続けて行かねばならない。今、詳しくことのことについて説明できないが、いずれ、はっきりと遅れを取り戻すとは何か、進んで行った先に何があるのか、結論を示すことができる日が来よう。

今日、デリラは大きな都にまで発展している。それはバビロンという名の巨大な都であり、神ではなく人間の栄誉を称え、人間を拝ませるために作られた偽りの宗教体系である。そして、偽りの宗教をエクソダスしなければならならないと叫びながらも、デリラの魅力が忘れられない大勢の人たちが、この堕落した都に吸収されて行った。その際、彼らは、自分たちは世故に長けており、如才なく器用に立ち回れるタイプなので、今までにも決して一人になったことはないし、孤独を味わったこともなく、これからもそのようなことは決してない、などと豪語しながら、貧しい者たちを踏みつけにし、嘲笑うことも忘れなかった。

そして、彼らは、自分の好みに従って、好き勝手な教師たちを集め、彼らに自己の心を慰めるための作り事の福音を語らせ、真理から逸れて行ってしまったのである。

哀れなことである。筆者は彼らから見れば、あまりにも不器用過ぎたために、様々な苦難に遭ったこととされているようであるが、この人たちには、あまりにも誇るべき様々な長所がありすぎ、あまりにも多くの世の富を持ちすぎていたので、それが妨げとなり、主の御前で、それを捨てるに忍びなかったのだ。

こうしてデリラはバビロンと化し、女王のように栄耀栄華を極めている一方で、今日のサムソンは、怪力を奪われ、奴隷のごとく両手を縛られ、視力を失い、惨めな状態で、ペリシテ人に対する復讐を神に叫び求めつつ、苦役に従事させられている。これが、今日のまことのキリスト者の全体的に置かれている有様である。偽りの宗教体系は、巨大な都となって繁栄している一方、正しい人が、悪者たちに踏みつけにされ、神の御言葉が冒涜されても、立ち上がる者もない。

だが、なぜそんな状態に陥ったのか、考えてみるが良いのだ。キリスト者にも反省すべき部分が大いにあり、その弱体化は、神の聖を知っているはずの民が、この世との接触を断たなかったからではないのか?

戦いに勝つためには、二心のない清さが必要である。私たちが目指している見えない天の都と、地上に築かれたこの偽りの都(この世と合体した偽りの一大宗教体系)とは、正反対の方向にある、完全に相容れないものである。一つは上にあり、もう一つは地上に、私たちの足の下にある。もしも私たちが足の下にしているはずのもの――デリラに少しでも未練を持ち、これを聖なるもののように見上げて――この世の都を振り返るなら、私たちの霊的優越性は失われる。その先には、サムソンの最期が待ち構えているだけなのである。

そこで、何度も繰り返すが、主に信頼して、この方にのみ頼って生きることが、私たちの驚くべき力の源であり、秘訣なのである。望みがかなうことは、命の木である。その命の木にあずかり、天の高度を羽ばたいて生きるためにも、地上のものに決して心を惹かれてはならないし、肉なる人間を信頼してもならない。

この秘密を敵に明け渡し、後ろを振り向きながら、同時に前に進んでいくことは誰にもできない相談であり、キリスト者が、敵に定められた運命を、自分の運命と交換するようなことは、絶対にあってはいけない。

だが、神は真実な方であるから、私たちがどんなに不真実であっても、意図的に神に反逆することなく、御言葉に従って生きようと心から決意し、神の忌み嫌われるものと分離し、この世を愛さず、デリラへの信頼を心から完全に断つならば、ご自分の栄光のために、御言葉の約束を成し遂げて下さり、そうしてペリシテ人の神殿が崩壊する時が実際に来るのを、私たちは見るであろう。

筆者はそのことをよく知っている。そして、筆者が必ずそのように成るから、この先に起きることをよく見ていて欲しいと語っただけで、以上に書いたようなことが起き、偽預言者は、そんな証は決して聞きたくないと、筆者の証にも、このブログの内容にも耐えられないと、耳を塞いで自分から去って行ったのであった。それは、万民祭司の原則が忠実に履行され、一人一人の信徒が自立して自ら御言葉を咀嚼するようになり、自分たちの証を語り出し、神の命の豊かさにあずかり、牧師も教師も必要なくなり、彼らが偶像として拝まれ、栄光が帰されることがなくなって、バビロンが崩壊して焼失すれば、偽預言者たちはみな失業し、一切の「出る幕」がなくなると悟ったからであろう。

そういうわけで、罪人は正しい者の集いに耐え得ないという御言葉が成就して、何の論争もなく、信仰の証は、敵の思想を受けた人々をふるい分け、分離すべきものと分離するための良い試金石となってくれたのであった。



「ヤコブよ、なぜ言うのか
 イスラエルよ、なぜ断言するのか
 わたしの道は主に隠されている、と
 わたしの裁きは神に忘れられた、と。

 あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。
 主は、とこしえにいます神
 地の果てに及ぶすべてのものの造り主。
 倦むことなく、疲れることなく
 その英知は究めがたい。

 疲れた者に力を与え
 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。
 若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが
 主に望みをおく人は新たな力を得
 鷲のように翼を張って上る。
 走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:27-31)

なぜ鷲は天高く翼をかって飛んでも疲れないのか、その理由として、上昇気流に乗って飛ぶからだということが解説されていた。

上昇気流に乗って飛ぶ・・・、このことは我々キリスト者にとっても非常に重要であると筆者は考える。

キリスト者が翼をかって天高く舞い上がる秘訣となる上昇気流とは何か?と問うならば、その答えは、「望み」であると筆者は考える。

私たちを高く舞い上がらせる原動力となるものは、私たち自身が心に抱く望みであり、その望みの高さが、私たちを舞い上がらせる高度を決める。
 
フィリピの信徒への手紙にはこうある、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)

また、エフェソの信徒への手紙にはこうある、「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」(エフェソ3:20-21)
 
私たちは自分が思いのままに何かを願い、志を立てているように思うかもしれないが、神が私たちの心に願いを起こさせて下さることがここに記されている。

しかし、しばしば私たちは、もはや二度と翼をかって天高く舞い上がることもできないほど、どん底に突き落とされたように感じることがある。望む気力さえもはや残っていないほど、疲れ果ててしまうこともある。

だが、それでも、時と共に、主は私たちの内なる人を強めて下さり、その苦難の只中からさえ、新たな望みを引き出して下さる。

そして、その新たな望みが、私たちを再び、天の高度へ引き上げ、主に似た者へと変えて行く原動力になる。

「しかし、主の方へ向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(2コリント3:17-18)

ここで言う主の似姿に変えられること、栄光から栄光への変遷、それはまさに一つの望みから新たな望みへと、上昇気流を掴みながら天の高度を飛んで行くようなものである。

とはいえ、もちろんのこと、その望みとは、人がてんでんばらばらに自分で思い描く望みではなく、主が与えて下さり、主の御心を満足させる望みでなければならない。
 
人にはあたかもすべての望みが潰えてしまったように思える時があるだろう。しかし、主は、地中に深く埋もれた種のごとく、私たちの望みを保って下さる。その望みが、時が来て発芽する。そして、私たちの目の前に天からの贈り物のごとく現れる。

キリストの復活の命は、支配する命であると書いた。その支配は、私たちが心に抱く望みと連動して働く。それはこの世の物流も、経済も、何もかも超越して支配する命である。

「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。」(一ヨハネ5:14-15)

もしも御心にかなう望みを抱くならば、それは神に聞き入れられていること、すでに望みはかなえられていることを信じなさい、とある。

筆者は望みが潰えてしまったように感じられるときに、多くの望みの芽が発芽するところを見させられて来た。たとえば、神は正義を実行されることを決してためらわれる方ではない。

だから、筆者が正義や真実をこの地に引き下ろすための戦いをあきらめようとしても、それで戦いが終わることはない。神は何がご自分の真実であるかをはっきりと全世界に示される。そのために、道端の石からでも、ご自分のための証人を起こすことがおできになる。

そこで、私たちがもう疲れた、戦いは終わった、全世界は悪しき者に牛耳られ、キリスト者には一縷の望みもない・・・、などと思っているところから、神はご自分の力を発揮される。それが死を打ち破る復活の力なのである。

キリスト者には失敗というものはなく、人の目にどんな失敗と見える事柄であっても、神はそれを修正してもとの軌道に戻すことがおできになる。だから、何事も悔やむ必要もなければ、思い悩む必要もないのである。
 
また、私たち自身が、自分でも心に願っていることを気づいていないような、かすかな願いであっても、神はキリストの復活の命を通して、これをただちに実現に至らせる力を持っておられる。私たちは何かを願ってから、それがかなうまでには、大変な時間がかかると考えているかも知れないが、必ずしもそうではない。

キリスト者の願いは、この世のすべてのものが、その支配に服する高き御名をつけられた方の命と連動して働いている。だから、願ったとき、もうすでにそれは私たちの手に、まるで目に見えるもののように約束として与えられていることを信ずるべきなのである。

神は何より正義と真実を愛される。公義を行なわれる方である。だから、正しい者が悪者にとらえられて裁かれ、罪に定められることを決してお許しにならない。主に逆らう者が滅ぼされるときを、正しい者はその目に見ることができる。それが聖書のあらゆる箇所で約束されている事柄であり、また、筆者が心から望んでいる結末でもある。

それが御言葉の約束である以上、それは必ず成就するから、現状がどのように見えても、人々には落胆しないでもらいたい。筆者があきらめたとか、退却したとは思ってもらいたくない。神は今日も生きて働いておられ、御言葉の約束も確かなものとして生きて効力を及ぼしている以上、主に信頼を置く者が見捨てられたり、恥をこうむることは決してないのである。

そういうわけで、私たちは御言葉の約束を手に心の限りを尽くして主に呼ばわり、その約束の実現を権利のごとく求め、固く信仰に立って歩みを進め、未来に何が起きるのか、神がどれほどはかりしれない恵みを私たちの信仰の報いとして与えて下さるのか、大きな期待感を持って主を見上げるべきである。
   
「主に従う人は、口に知恵の言葉があり
 その舌は正義を語る。
 神の教えを心に抱き
 よろめくことなく歩む。
 主に逆らう者は待ち構えて
 主に従う人を殺そうとする。

 主は御自分に従う人がその手中に陥って裁かれ
 罪に定められることをお許しにならない。
 主に望みをおき、主の道を守れ。
 主はあなたを高く上げて
 地を継がせてくださる。
 あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。」(詩編37:30-34)

先の記事でウェーバーを取り上げたとき、彼はその著書で、社会は、宗教すなわちキリスト教の最先端の信仰の運動が原動力となって動かされていることを指摘したのだと書いた。

ウェーバーは、マルクスのように下部構造(見えるもの)が上部構造(見えないもの)を規定すると考えることなく、むしろ、その逆に、見えないものこそ、見えるものを規定するのであって、その決定的要素となるものが、キリスト教であるとみなしたのである。

その考えはおおむね聖書の原則に合致している。現代人のほとんどは、宗教と社会の動きや、国際情勢は別物であって、キリスト教の最先端の信仰回復運動が社会を動かしているなどとは考えていないであろう。
 
しかし、聖書の原則は、すべてのものは、神の御言葉によって創造され、また御子によって支えられているのであり、目に見えるものは、見えないものから出来たのであって、見えるものが見えるものを生んだのではないというものだ。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)

すべての聖書に基づかない宗教や、あらゆる詐欺師・錬金術師も、毎日、何とかして少しでも労苦せず、無から有を生み出し、濡れ手に粟式に富が手に入らないかと考えを巡らせていることであろうが、私たちを真に命の豊かさに至らせる秘訣は、まことの命である聖書の正しい御言葉にしかない。

そこで、もしも私たちが、真に今、世界で起きていることは何なのか知りたいと願い、また真に無から有を生み出すような豊かで生産的な人生を送りたいと願うならば、まず第一に、聖書の神の御言葉をよく研究してこれを理解し、神の御心(関心事)がどこにあるのかをとらえることが必要となる。

そうして、私たちの関心が、神御自身の関心と重なるならば、次の御言葉が私たちの人生の上に成就して、どれほど多くの錬金術師・魔法使いが束になっても、彼らには絶対に生み出すことのできない本当の命の豊かさに、私たちはあずかって生きることができるだろう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:31-34)
 
神の命の豊かさに支えられて、平安のうちに生きる秘訣は、神の国の秩序を飽くことなく追い求めて生きることにのみある。

先の記事で、終末へ向けての神の関心事は、小羊の婚礼にこそあると書いた。それはエクレシアが完成に向かい、人がキリストのための花嫁なる教会として整えられることである。

だが、イエスのたとえでは、婚礼に招かれたほとんどの人々は、自分の生活の心配、自分の命の心配であまりにも心がいっぱいだったので、神の関心事にはまるで注意を払わず、神に招かれていたのに、祝宴に出かけず、その喜びと栄光に共にあずかる機会を逸し、悪い場合には、神の使いに反逆して滅ぼされ、あるいは、準備が出来ていないのに婚礼に出席しようとして、外の暗闇に追い出されてしまった。

このように、神の関心事に全く心が及ばない人々が、御心の外を、計画の外を歩いていて、祝福にあずかるわけもない。だから、真に祝福を受けようと思うなら、信者は神の関心事の中に入り込まなければならない。

先の記事で、イエスが幼子だったとき、イエスの両親が彼を長子として主に献げる儀式を行うため、エルサレムの神殿に入ったとき、シメオンとアンナが出迎えたことを書いた。シメオンはもちろんのこと、アンナも、シメオンがイエスを腕に抱いて神を誉め讃えているのを見て、幼子がメシアであることをすぐに悟って、人々にその到来を告げに行った。

彼女について書かれたくだりは、次の通りである。

「また、アシェル続のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。」(ルカ2:36-38)

筆者は「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」というフレーズがとても好きである。この箇所は、ダビデの詩編の次の箇所を思い出させる。

ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。
 命のある限り、主の家に宿り
 主を仰ぎ望んで喜びを得
 その宮で朝を迎えることを。

  災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ
 幕屋の奥深くに隠してくださる。
 岩の上に立たせ
 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。
 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ
 主に向かって賛美の歌をうたう。」(詩編27:4-6)

ダビデが願ったように、私たちも命のある限り、主の家に住むこと、すなわち、夜も昼も、神に仕え、神を賛美し、その御心を尋ね求めて生きことができる。

そのようにして、主の御心の中に入り込み、主の関心事が何であるのかを第一に追い求めて生きるならば、シメオンとアンナが幼子イエスを見た瞬間に、それがメシアであることが分かったように、私たちも、神のなさることの一つ一つの意味を、誰から説明を受けずとも、分かるようになるに違いない。
 
あらゆる宗教には、大抵、その宗教の聖典の研究だけに従事して生きる人々がいる。その人々は、一切、世俗の仕事をしないで、神の宮に仕えることだけを己が職業としている。
  
もしも私たちが真に願うならば、私たちも、自分を完全に主に捧げて、神の御心のためだけに自分を注ぎだして生きる人となることができるであろう。神はそのようにして御自分を待ち望む民を、これまでにも用意して来られたのであるが、これからも、そうした心意気の信者を歓迎して下さることを筆者は信じて疑わない。

これが、筆者がプロテスタントと資本主義を離れると言っていることの意味内容である。つまり、御言葉の奉仕者として、神に直接、養われて生きることは、いつの時代にも可能なのであって、その願いを持つ者は、ぜひそうすべきである。プロテスタントを離れる必要性については後述する。

* *  *

さて、聖書は、万物は、御子によって、御子のために造られたとしている。

御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。

御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一となられたのです。

神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」(コロサイ1:15-20)

神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座におつきになりました。」(ヘブライ1:3)

このように、御子は万物が創造される前からおられ、さらに、万物は御子によって、御子のために創造されたのであり、今でも、御子によって支えられているのだと分かる。

筆者は訴訟を進めるに当たり、法体系を調べた。その際に行った作業は、たとえるならば、まるでこの世という巨大な高層ビルの裏側に入り込み、人々が行き交う美しいエントランスや清潔なエレベーターではなく、誰も目にしない、立ち入ることもできないような、暗く、埃っぽい地下に降りて、むきだしのコンクリートの壁や、頑丈な鉄骨にじかに手を触れ、ビル全体の基礎構造を確かめているような具合であった。

人々は美しく整えられたビルの表面しか知らないので、その裏側や、ビルを支えている構造がどうなっているのかを知らない。法体系は、この世を支えている見えない秩序であって、いわば、ビルの基礎構造のようなものである。

むろん、この世では必ずしも定められた秩序の通りにすべてが動いているわけではないが、それでも、法は生きていて、この世に起きる諸事情を規定し、修正し、違反を罰することもできる。

だから、筆者は自らの訴えを書くに当たり、まずはその構造を調べに行き、その中に入り込んで、この基礎構造を支えとして自分の主張を作り上げた。そうすると、それはもはや単なる一個人の意見や主張のレベルではなくなり、しっかりとした基礎の裏づけに支えられる頑丈なものとなるのである。
  
この世の法体系は、世界を構成している見えない霊的秩序の絵図のようなものである。聖書は、イエスは神の御言葉そのものであって、万物はこの方によって生まれ、この方によって支えられていると言う。御言葉は、この世を規定している見えない秩序であるだけでなく、やがて来るべき秩序でもある。

そこで、私たちがこの世を生きるに当たり、自分の主張や生き様を、真に確かなものとしたいと願うならば、永遠にまで変わることのない、御言葉の堅固な基礎構造によりかかり、その裏づけを得て、これと一体化して、自分の歩みを進めるのが一番安全なのである。
 
私たち自身は、弱い被造物に過ぎないかも知れないが、御言葉と一つになることによって、それが私たちの強さとなり、力となり、私たちの主張が、神の御前に正しいと認められるために必要なすべての根拠を提供してくれる。神の御言葉こそ、全世界を成り立たせている基礎構造であり、私たちの個々の人生の中でも、基礎構造をなすべきものである。
 
しかし、万物は御子によって創造されたにも関わらず、アダムの堕落と共に、サタンに引き渡されて堕落していまった。それゆえ、現在の目に見える被造物全体は「虚無に服して」(ローマ8:20)いる。だが、神は被造物をこの虚無から救い出し、復活の輝かしい栄光の中に入れようとなさっておられるのである。

このことについて、オースチンスパークスの今日の論説は非常に興味深いので引用しておきたい。

 「キリストとの合一」第二章 彼の地位――御父の愛によって(6)

 さて、これはとても実際的なことです。イエス・キリストを経ないまま神に至ろう、とあなたは思っていますか?御父の定めでは、すべてが御子と共にあります。さて、これは包括的であって、被造物全体を網羅します。彼の中で、彼を通して、彼に至るよう、万物は創造されました。それゆえ、被造物全体についての神の定めは御子と共にありました。すなわち、神は御子という立場に基づいて、創造された万物に対応されるのです。

さて、被造物がその最初の君主であるアダムを通して神の御子の諸々の王権を破り、それらを敵対者であるサタンに手渡した時、神は何をされたでしょう?パウロの素晴らしい言葉によると、神はただちに、全被造物のまさに中心に、「失望」を書き込まれたのです。御子の嗣業に対する彼の妬むほどの情熱は、彼は御子の外の敵対者や反逆をご覧にならないことを意味します。パウロは「被造物は虚無に服した」(ロマ八・二〇)と述べています。

そしてその瞬間から、被造物の中心に失望があります。これは人にも言えます。人のいかなる達成、成功、偉業、発明にもかかわらず、最後の結末は失望です。私たちの周囲の被造物の中に魅力的で美しいものがあったとしても、それはそこそこ進んだ後、色あせて死んでしまいます。すべてが死と腐敗に服しています。これは失望です。定めは破られました。

栄光、豊かさ、究極的完成は、御子に対して定められました。御子の外側では、そのように定められておらず、すべてが失望です。そうではないでしょうか?どうして人々にはこれが分からないのでしょう?他の誰も知らなくても、私たちクリスチャンはそれを知っています。

しかし、神はほむべきかな、私たちは神の定めに戻って、この失望は一掃されました。神は私たちのもとに、御子における定めに、キリストとの合一に戻って来て下さいました。


 
 聖書は言う、すべての被造物は、贖われるときを待ち望んで、産みの苦しみを味わっていると。

「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、”霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。


見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」(ローマ8:18-25)

以上のくだりは、先の記事でも触れたパウロの言葉、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(Ⅰテモテ2:15)とも重なる。

ここで「婦人」とは人類を象徴していることを説明したが、パウロがこのくだりで、「子を産むことによって救われます」と指しているのは、人類がすべての被造物と共に、体の贖いにあずかり、完全に滅びの縄目から完全に解放されて、主と共に栄光に輝く復活の自由に達すること、また、そうなるまでの間、「産みの苦しみ」が存在することを表していると言えよう。
   
従って、ここでは、「産みの苦しみ」を耐え忍んでいるのも人類(全被造物)ならば、その苦しみの結果として、新しく生まれて来るのも人類(全被造物)なのだと言える。これは新創造が生み出されるまでに、全被造物が耐え忍ばねばならない産みの苦しみであって、そうして、すべてが新しくされる時には、人はさらにキリストに似た者とされて、彼と共に栄光にあずかる神の国の共同相続人とされている。

「このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。ここでいう主とは”霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」(Ⅱコリント3:15-18)
 
そこで、現在、全被造物が味わっている「産みの苦しみ」は、被造物が完全に贖われてキリストと同じ姿に、主の栄光を映し出すものへと変えられるための過程なのであり、そのときには、もはや人類(被造物)は虚無に服するものではなくなり、本体なるキリストと同じ姿を持ち、同じ栄光を持つ者とされる。

今日でも、私たちはキリストにあって霊による一致の中に入れられているが、その時には、さらにこの一致が完全なものとなる。

かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)
 
この約束を通して、どれほど神が人を愛し、人を重んじて下さっているかが分かるはずである。人はあくまで造られた被造物に過ぎないにも関わらず、神はキリストを通して、人に、ご自分を知ることのできる方法を備えて下さり、キリストはご自分を愛する人々に、御自身を現して下さり、ご自分に似た者となる道を開いていて下さるのである。

ここには、創世記で蛇が人類をそそのかしてささやいた、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:4-5)という、神の御言葉を排除して、人が神の性質を盗み取ることでしか、神に至りつけないという発想の入り込む余地が全くない。


  
図1 聖書における神と人との主従関係   
 
これに対し、依然として、蛇(サタン)が人類をそそのかすにあたり、述べたように、神は故意に、人をご自分よりも劣った卑しい存在として創造され、たのだから、人がこの劣った性質を克服するためには、神の意志に反してでも、神の神聖な性質を盗み取るしかないという考え(神に対するコンプレックス)に基づき、人が神の御言葉によらず、自分自身の意志と力で、神の性質を盗み、神と置き換わろうとしているのが、グノーシス主義だと言えよう。

グノーシス主義には一応、「原父(プロパテール)」という存在があり、聖書の父なる神に似たような存在が設定されている(真の至高者と同一)が、これはほとんど存在しないも同然の、形骸化した「お飾りの神」のようなものである。

すでに述べた通り、この至高者は、物言わぬ「鏡」であり、「虚無の深淵」であり、自らの意思によって力強く万物を生み出す存在ではなく、むしろ、被造物に受動的に自らの姿を映しとられて、自らの意思とは関係なく、信的存在を「流出」させることを、制御することもできない「神」である。

これは父としての権威と力を持たない「沈黙する神」と呼んでも良いだろう。この「沈黙する神」は、初めから他者から模倣され、自らのリアリティを侵害されて、神聖を簒奪されており、それに抵抗できない。
 
この思想では、「父なる神」が自らの意志に基づき、人を自分に似せた存在に創造したのではなく、神(至高神)の性質が「流出」(コピー)されることによって被造物が誕生している。すでに述べた通り、まだ「神々」なる被造物の誕生当初の段階では、この「流出」は「簒奪」と呼べるほどの故意性がなかったにせよ、それでも、誕生の段階から、すでに被造物の側からの至高神への浸食・侵害が起きていたことは確かなのである。

このことを見れば、グノーシス主義の思想の本当の主役は、神にあるのではなく、被造物の方にあるのだと分かる。つまり、これは「違法コピーを正当化し、偽物をオリジナルと置き換えるために造られたさかさまの思想」と言って良く、至高神の性質を盗み取るようにして生まれて来たあまたの被造物の存在を正当化するために造られた思想なのである。
  
グノーシス主義でも、原父(創造主―オリジナル)は父性原理を、被造物(被造物―コピー)は女性原理を代表するものとみなせるが、この思想は、母性原理(被造物―コピー)を「主」として、父性原理(創造主―オリジナル)を「従」とする、一言で言ってしまえば、神と人との主従関係を逆転して、目に見えるものを目に見えないものの根源に置き換える唯物論である。

これと同じ特徴が、万物を生み出す命の源は、女性原理にあるとみなして、女性原理を神とするすべての思想に流れており、むろん、「神秘なる混沌」「母なるもの」(女性原理)をすべての生命の源とみなす東洋思想にも、同じ発想が流れている。

従って、女性原理をすべての生命の源であると掲げているすべての思想は、要するに、見えるものを見えないものの根源としているのであり、根本的には唯物論だと言えるのである。

グノーシス主義では、至高者が「虚無の深淵」とされていること、すでに見て来たが、ここにも、神と被造物との関係を逆転させようとする聖書とは真逆の原則が表れている。聖書においては、被造物こそが堕落して虚無に服しているのであって、グノーシス主義はこれをさかさまにして、父なる神を虚無に服させたのである。

さらに、存在の流出に加えて、よりはっきりした形で、被造物が至高神の意志を無視・侵害して、神の神聖を模倣・簒奪したのが「ソフィアの過失」である。この事件は、ちょうどエバがエデンの園で、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われた」(創世記3:6)木の実を取って食べて、自ら神のようになろうとしたのと同様に、被造物が、己が情と欲に基づいて、自らの感覚を喜ばせることによって、神のようになろうとした企てとみなせる。

以上で確認した通り、聖書における「産みの苦しみ」とは、被造物の贖いが完成するまでのプロセスを指すため、これを考慮するならば、グノーシス主義のプロットにおいて、ソフィアが単独で子を産もうとした行為は、「被造物が、神(の意志)を抜きに、単独で己が贖いを完成しようとした」試みを指すことは明白となる。

ひとことで言ってしまえば、ソフィアの行為は、堕落した被造物が自分で自分を義とし、贖おうとしたこと、つまり、コピーに過ぎないものが、自らの力で本物のオリジナルに置き換わり、被造物であることをやめて、神の完全に達しようとした企てを意味する。

そして、グノーシス主義では、ソフィアの企てが、失敗に終わった後も、そのミッションは人類に受け継がれ、「母の過ち」を修正することが、人類の使命とされるのである。


   
図2.グノーシス主義における神と人との主従関係の転倒
  
こうして、グノーシス主義は、その骨組みだけを取り出せば、人が己の肉の情欲を満足させることによって、神へと至り着こうとする、聖書とは真逆の思想なのであって、そのために、この思想は、被造物の側から、創造主に対して、果てしない「模倣と簒奪」を繰り返すことを正当化するのである。
 
そこには、人類の罪も堕落もなければ、肉に対する十字架の死もない。だから、この思想に生きる人は、己が欲するままに生きた挙句、神の神聖に至りつけるかのように考えるが、それによって生み出されるのは、神とは似ても似つかない失敗作だけである。
 
このようなものが、女性原理を万物の生命の源とみなす思想の根本に存在するのであり、さらに極言すれば、そこには、人が己が情欲を「神」とする思想があるのだと言えよう。そのことを指して、パウロは次のように言った。

「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。」(フィリピ3:18-19)

「腹を神」としているとは、肉と欲を神としているという意味であり、「恥ずべきものを誇りとし」とは、罪に生きることをあたかも正しいことであるかのように唱道していること、「この世のことしか考えていません」とは、己の欲を満たしてくれそうな、目に見えるものだけにより頼んで生きていることを指す。

だが、パウロは、これに続けて、私たちキリスト者が目指しているのは、そのようなものでは断じてなく、私たちは、主と共なる十字架において、この世に対してははりつけにされて死に、自分自身の肉に対しても死に、罪と死の法則に従ってではなく、命の御霊の法則に従い、目に見える都ではなく、あくまで見えない都、見えない天を目指していると述べる。

私たちは、そこからキリストが再び来られ、最終的に、私たちが完全に贖われて、もはや二度と堕落した肉に支配されることのない、キリストと同じ栄光の体へ変えられることを待ち望んでいる。

「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(フィリピ3:20-21)

そこで、結論として、これまで繰り返して来たように、今日、キリスト教における神への礼拝は、目に見える指導者、目に見える場所から解放される必要がある。

プロテスタントの牧師制度は、カトリックの聖職者制度や、荘厳で立派な礼拝堂を建設するための献金集めとしての免罪符の支払いから信者を解放した代わりに、今度は、目に見えないキリストを、目に見える指導者(牧師)に置き換え、聖書の御言葉を、信者がキリストではなく牧師を介在して受けとらざるを得ない状態にとどめたことで、改革を中途半端に終わらせただけでなく、最終的には、目に見える被造物(母性原理)を、創造主なる父なる神(父性原理)以上に高く掲げるという唯物論的逆転に陥ってしまった。プロテスタントの礼拝が、特定の教会の礼拝堂に固定化されていることも、同様の原則に基づく。

これでは結局、イスラエルの建国を促し、地上のエルサレムに再びユダヤ教の神殿を建設することで、キリストの再臨が促されると言っている人々と、原則はまるで同じである。
 
「目に見えるもの」が、贖いの完成へとつながる神聖な要素であるかのようにみなし、その発展を促すことで、人類の贖いが成就するかのように思い込んでいるという点で、これらはグノーシス主義と同じ、さかさまの理論であり、プロテスタントは牧師制度や教会籍制度を固定化することで、そこへ落ち込んでしまったと言える。
 
こうした「さかさまの理論」を主張し始めた人々は、「目が開け」るどころか、その顔に覆いがかかり、見えないキリストの栄光を映し出すことができなくなり、かえって、神を「虚無」に服させて、自分自身が神であるかのように錯覚するようになる。

そして、高慢になって、神の御名を自分たちの栄光を打ち立てるために利用し、己が肉の情欲を満たすことこそ、己が存在を神聖化する秘訣であるかのようにはき違えるようになる。
 
だからこそ、牧師制度からは離れなければならないのである。それはこの制度が、被造物を神と置き換えようとする思想の体現だからである。むろん、固定的な礼拝堂からも離れなければならない。その点で、カトリックからのみならず、プロテスタントからも脱出する必要があり、両者ともに信仰回復運動としての意義は失っている。

これを離れなければならないのは、そこにあるのが、被造物を父なる神以上に高く掲げ、目に見えるものを、目に見えないものの根源に置き換えようとする、本質的には唯物論と何ら変わらない聖書への反逆の思想だからである。
 
このような汚れた思想と分離せず、それを受け入れてしまうと、人は信仰によらず、己が情欲に従ってしか歩めなくなる。そして、このような転倒した教え、神不在の理論の中に身を置いていながら、同時に、まことの神を知りたいと願っても不可能なのである。

このことは、今日、当ブログが、目に見える指導者に従い、目に見える礼拝堂に通わないことを、恫喝と悪罵の言葉と共に非難し続けている人々が、どれほど常軌を逸した不法を働く者どもになり果てているか、その様子を見ても、よく分かると言えるだろう。

必至になって目に見えるもの(指導者、礼拝堂、儀式その他)を擁護し、あたかもそれが神聖であるかのように主張する彼らの姿は、いわば、目に見えるものを神とするプロテスタントの行き着く終着点なのである。今やプロテスタント全体が、このような不法の子らの恫喝を前に、抵抗する力を失ってしまったが、それはすでに述べた通り、プロテスタントが、教会がより本来的な姿へと回復されていく変遷の一過程でしかなく、その中には、過ぎ去らなければならない古き要素が含まれていたにも関わらず、これと訣別しなかったことの必然的な結果である。

今やプロテスタントの中の「目に見えるもの」(神への礼拝を目に見える牧師や礼拝堂の中に見いだそうとする制度)が、まことの神への礼拝の妨げとなっているのに、この宗派は、「目に見えるもの」を擁護して、これを神聖であるかのように保存しようとしたために、神の御言葉を退け、その結果として、上記のような不法の者たちと手を結び、行きつく先が同じとなってしまったのである。

プロテスタントであろうと、カトリックであろうと、神の御心から遠く離れたものを、あたかも神聖なものであるかのようにいつまでも擁護し続けていれば、誰しも、結局、サタンの虜となり、暗闇の勢力に引き渡されて行くのは仕方がない。

 
図3 キリストは神と人との唯一の仲保者であるから、エクレシア(教会)における兄弟姉妹はみな対等な関係にあるはずである。

図4 ところが、プロテスタントでは、牧師が神と人との唯一の仲保者であるキリストに置き換わってしまったために、神の栄光が反映しなくなり、神が無きに等しい者として形骸化した(唯物論的転倒)。
 
おそらくカトリックもプロテスタントも、ずっと前から、生きた信仰を見失って、目に見えるものを、目に見えないものに置き換える神不在の理論と化していたからこそ、その只中から、マザー・テレサや奥田牧師(もしくは遠藤周作)が唱えたような、人間を不条理の中に見捨てて「沈黙する神」のイメージが、発生して来たのだと言えよう。
 
このように人類の苦しみを見捨て、助けることもできないで、苦難の中に置き去りにして行くだけの、弱々しく沈黙する神は、聖書の神ではなく、御言葉からは、あまりにもかけ離れている。むしろ、これは人間が虚無に服させて自ら骨抜きにしてしまった神の姿であると言えよう。

しかし、人が目に見えるものの中だけを巡り続けている限り、まことのリアリティである神は決して見いだせない。その代わりに、このように人類を助ける力を全く持たない、無きに等しい神しか、見えて来るものはない。それは神というよりも、無力な人類が、自分自身の姿を、鏡に投影するようにして作り出した自己の似像に過ぎない。つまり、人間が自ら神を規定しようとした結果、彼らの神は、そのようにまで弱体化し、虚無にまで服してしまったのである。

だからこそ、こうした汚れた教えからは「エクソダス」せねばならない。そして、私たちは目に見えるものに従ってではなく、自分たちを本当に生かす力のある、目に見えない御言葉に従って、見えない都を目指して歩むのである。
 
わたしの民よ、彼女から離れ去れ。
 その罪に加わったり、
 その災いに巻き込まれたりしないようにせよ。
 彼女の罪は積み重なって天にまで届き、
 神はその不義を覚えておられるからである。」(黙示18:4-5)

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。<略>神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
(Ⅱコリント6:14-18,7:1)



* * *

さて、今回は、前回の続きとして、グノーシス主義および東洋思想といった、非キリスト教的異教の思想の中には、決まって「ハガル―シナイ山―バビロン」の原則が流れている、ということに触れておきたい。

ハンス・ヨナス教授が述べた通り、グノーシス主義思想とは、特定の時代に限定された特定の思想を指すものではなく、時代の様相が混迷を極め、人々の思いの中に悲観が広がり、政治的にも危機的状況となり、明白な希望が失われているような時代には、いつでもどこでも、発生しうるものであり、さらに、この思想は、独自の神話を持たないため、あらゆる宗教や思想の中にもぐりこみ、それを換骨奪胎しては、自分に都合よく変えてしまう性質がある。

グノーシス主義は、いわば、常に何かの思想や宗教哲学などを宿主として、そこに潜り込み、寄生して成り立つ模倣と簒奪の思想なのである。

グノーシス主義には、独自の神話はないが、一応、神話的なプロットの原型はあり、果てしない模倣と簒奪を正当化するためだけに存在しているこの思想では、その神話的プロットも、当然ながらその原則に沿ったものとなる。それが「存在の流出」という考え方である。

まず、グノーシス主義思想では、真の至高者なる神が存在するとされるが、その神はあまりにも神々しい存在であるため、(一部の説では「独り子」以外には)、誰も見たことのない「知られざる神」であるという。

それにも関わらず、どういうわけか、その「知られざる神」が、この思想では「虚無の深淵」や「鏡」にたとえられ、その深淵である「鏡」に至高者の姿が映し出されることによって、無数の神的存在(アイオーン)が流出したとされる。

だが、これは非常に奇怪千万な話である。至高者にも関わらず、グノーシス主義の神は、自分の存在が「流出」することを自分でコントロールできなかったというのだろうか。

このことから、グノーシス主義の「神々」(アイオーン)は、至高神自身の意志とは関係なく、至高神の存在を模倣・簒奪して、まるで神の神聖が盗み取られ、漏洩されるようにして「流出」したものであると言える。つまり、グノーシス主義のプロットの中では、至高者は、神であるにも関わらず、自己存在が、自己の意志と関係なく「流出」することを、自分で制御することができない存在なのである。

このことを考えると、グノーシス主義における「神々」(アイオーン)の誕生は、聖書の神が、被造物を創造された時のように、主体的で能動的な創造行為ではなく、むしろ、被造物の側から、至高者の存在を盗み取り、これを模倣して自らを生んだも同然のものであるとしか言えない。

その点で、グノーシス主義の「神」は、至高神という名とは裏腹に、最初から自己存在を他の被造物によって見られ、知られ、盗み取られる受け身の神であって、主体ではなく、客体なのだと言えよう。
 
こうして、グノーシス主義の「神」は、最初から客体として、他の被造物に存在を盗み取られ、侵害されているのであって、神と呼ばれるにはふさわしくない存在である。その受動性、沈黙、弱さ、非独立性は、聖書における神が、「わたしはある」と言われ、自らの意思によって被造物を創造し、被造物が神に背いて堕落した際には、被造物を追放したり、滅びに定めることのできる、強い権限を持ち、人格と意志を持った能動的存在であることとはまさに逆である。
 
グノーシス主義の「至高神」は、たとえるならば、「御真影」のようもの言わぬ神であって、無数の「神々」であるアイオーンの存在に神的位置づけを与えるためのアリバイ、もしくは、お飾りのような存在に過ぎないと言えよう。

この点で、グノーシス主義は、最初から、神と被造物との関係を逆転し、至高神という神を規定しながらも、その神を「知られざる神」とすることによって、至高神に「リアリティ」があるのではなく、むしろ、至高神の神聖を映し取って生まれた模造品である被造物なるアイオーンの方に、「リアリティ」が存在するとして、神と被造物の関係性を逆転していると言えるのである。
 
結局のところ、グノーシス主義とは、本体である至高神から、その神聖を流出させて、模倣・簒奪して、無数の影のようなアイオーンたち(模倣者たち)を作り出すことを正当化するために生まれた思想であると言える。(ちなみに、アイオーンの間にもヒエラルキーがあって、至高者から遠ざかるに連れて、質の悪いコピーのようになって行く。)

そういう意味で、グノーシス主義とは、終わりなき質の悪いコピペを正当化する模倣と簒奪の思想なのであって、本来ならば、万物の創造主でなければならない神に主体性を持たせず、かえって神を客体として、被造物の方に主体性を与える「さかさまの思想」だと言えるのである。

さらに、グノーシス主義思想において、当初のアイオーンの流出は、アイオーンの側から至高者の神聖を盗み出すために意図的に起こされた反乱ではなかったが、この思想においては、その後、「ソフィアの過失」というさらに決定的な出来事が起きる。

グノーシス主義の神的世界では、すべてのアイオーンは男性名詞と女性名詞のペアとなっており、そのペアからしか子供は生まれないとされているにも関わらず、最下位の女性人格のアイオーンであるソフィアが、単独で子を産もうと欲して、何かしらの禁じ手を使って、おそらくは至高者なる神を「知り」、その「過失」の結果として、醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)という子を生んで、この子を下界に投げ捨て、この悪神が、下界(地上)の支配者となって、悲劇と混乱に満ちた暗闇の世界がそこに創造され、悪神の子孫として人類が生まれたというのである。

ここで、ソフィアが単独で子を生んだことは、至高者の側からの願いに基づくものではなく、ソフィアの側からの意識的な反逆として、彼女が至高者の神聖を盗み取って、故意に流出させたものであるとみなせる。

このように、グノーシス主義の神話的プロットにおいては、繰り返し、神の神聖が、被造物の側から盗み取られていることが分かる。そして、後になるほど、その盗みは、より意図的で、より悲劇的で、より悪意あるものとなって行く。

そして、そのように、至高神の意志を介在せずに、被造物の側からの違反によって、神の神聖が不当に盗み出された結果、グノーシス主義では、人類が誕生したとされているのであって、父を不明として、ソフィアの過失をきっかけとして生まれた人類は、初めから悲劇を運命づけられている。

それでも、この思想においては、どういうわけか、父不明のはずの人類には、至高者のものである「神聖な霊の欠片」が宿っているため、人類は、自分の直接的な父である悪神よりも知恵があり、悪神を否定的に超えて、真の至高者へ立ち戻ることができ、それによって、「母の過ち」を修正することができるとされている。

グノーシス主義では、悪神ヤルダバオートが、聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されるため、この思想では、聖書の神を徹底的に愚弄して、これを出し抜くことが、あたかも人類の正しい使命であって、人類を真の神に回帰させることにつながるかのようにみなされるのである。

だが、ここで人類の母とされているソフィアが、どうやって単独で子を生んだのかがはっきりしない以上、グノーシス主義においける人類が、真に至高神から神聖な霊の欠片を受け継いでいるとする客観的な根拠は何もない。何よりも、グノーシス主義思想それ自体において、至高神は、人類を己が子孫と認める発言を行ってないのである。

それにも関わらず、人類が、自分は至高神の子孫であると名乗り出て、自分を天界に認知せよと求めただけで、至高神に連なる者となれるとしていること自体が、これまたこの思想のどうしようもない模倣と盗みの原則をよく表していると言え、グノーシス主義の世界観の中では、誰かが「自称」しさえすれば、何ら客観的な根拠がなくとも、それが真実であるかのようにまかり通ることをよく示している。

このように、グノーシス主義思想とは、初めから、誰かが自分よりも優れた他者の性質を模倣し、盗み取り、本体を映したおぼろげな映像に過ぎないものを、本体と置き換える盗みと反逆を正当化する思想なのであって、そこには、神に逆らって堕落した人類が、不当に神の性質を盗み、これを模倣・簒奪することにより、聖書の神を否定して、自ら神であると宣言して、神と置き換わろうとする悪魔的思想が流れていると言えるのである。

ところで、この悪魔的思想の「模倣と簒奪の原則」は、インターネットの掲示板でも、顕著に見て取れよう。今日、掲示板は、そこに集まった悪意ある人々が、現実世界に存在する様々な事物の姿を歪めて映し出しては、存在を流出させてディスカウントするための「鏡」となっている。

そこで、悪意ある人々は、掲示板で、この世の事物をターゲットとして映し出し、そこで自分たちが盗み取って流出させた歪んだ映像の方が、本体を凌ぐリアリティであるかのように言いふらし、自分たちにこそ、本体を見定める資格があると主張して、本体のオリジナリティを侵害し続けている。

さらに、そうして存在を盗み取られた人々の一部も、ヴァーチャルリアリティである掲示板の方に、あたかも「リアリティ」があるかのような虚偽を信じ、掲示板に書かれた誹謗中傷を苦にして、自殺に追いやられたりまでしている。

こうして、本体とその歪んだ映像に過ぎないものの主従関係を逆転し、本体の質の悪いコピーに過ぎず、影に過ぎないものを、本体であるかのように偽り、出来そこないのコピーの大量作成によって、本体を凌駕し、駆逐することを狙っている点で、掲示板は、本質的に、グノーシス主義と同じ、見えない悪意による「模倣と簒奪の原則」に基づいて成り立っていると言えるのである。

さらに、グノーシス主義における、人類の悲劇の誕生は、先の記事で触れたハガルとイシマエルの運命にも重なる。

ハガルは、女主人であるサラの考えによって、アブラハムに子をもうけるために与えられた奴隷であるから、自ら反逆として、アブラハムをサラから奪ったのではなかった。

とはいえ、アブラハムはハガルの夫ではなかったわけであるから、やはり、ハガルの行為は一種の盗みのようなもので、なおかつ彼女が子を産んでから、奴隷であるにも関わらず、自らが女主人であるかのように思い上がって、サラを見下げるようになったことは、主人らに対する反逆であったと言えないこともない。

また、ハガルが子を生んだことは、肉の働きであっても、信仰によるものではなかったわけであるから、その点でも、ハガルの行為は、本来は至高者を知る権限がなかったにも関わらず、己が欲望に基づき、至高者の子を欲したソフィアの過失に極めて近いものであったと言える。

さらに、ソフィアがその「過失」ゆえに天界から転落しかかり、その子であるヤルダバオートが下界に投げ落とされたように、ハガルとイシマエルは、アブラハムの家から追放されて、父のいない母子家庭になったという点も似ている。

そして、彼らは自分たちが行ったことが深い罪であって、自分たちが神の御心にかなわない不完全な存在であるとは決して認めたくないがゆえに、その後も、自分たちは神の家の正統な後継者であるかのように偽って、約束の子らを迫害し続けるのである。

このように見て行くと、グノーシス主義では、「信仰によらず、己が肉の力によって、神を知り、その実としての子を生みたい。」という、人類の肉の欲望を肯定する思想が、一貫して流れているのだと言えよう。

従って、これは一貫して、人類が自らの下からの生まれを、あたかも神聖なルーツであるかのように偽り、自らを神とする、聖書における大淫婦バビロンを肯定する思想だと言えるのである。

グノーシス主義は、どんな思想や宗教の中にでも入り込むものであるから、その発生は洋の東西も問わず、東洋思想において「母が脅かされている」とする考え方の中にも、これと本質的に全く同じものが流れていると言える。

東洋思想においても、万物を生み出す源は「神秘なる混沌」という母性原理にあるとされており、万物の生命の源は、「父」ではなく「母」にあるとされる。そこに我々は、被造物(女性原理=人類)と、創造主(父性原理=父なる神)との主従関係の逆転が起きている様子を見て取れる。

ちなみに、グノーシス主義思想の研究者である大田俊寛氏は、このような思想の発生を、古代社会においては、DNA鑑定もなく、母が誰であるかは明白であるが、父が誰であるかを確かめる術がなかったことに見いだし、「擬制(フィクション)としての父」という考えを提示している。

それに基づき、大田氏は、古代社会から家父長制から現代に至るまで、人類が父によって支配されるという考え方は、「フィクション」に過ぎないのだとし、そこから、聖書の父なる神もフィクションに過ぎないという考えを導き出すのである。

このことは、むろん、「父なる神」をフィクションどころか、「わたしはある」という絶対的なリアリティであると定義する聖書の真理に悪質に反する虚偽であることは明白であるが、グノーシス主義の核心を表すたとえとしては、言い得て妙である。

グノーシス主義では、ソフィアの過失が、具体的にどんな事件であったのかが全く明らかにされていないことを見ても分かるように、要するに、この思想においては、何らかの形で「子」が生まれさえすれば良いのであって、本当の父が誰であるかは、さして重要ではないのである。
  
もちろん、グノーシス主義は、このような考えが、聖書の唯一の神である「父なる神」を否定し、キリストと教会の関係に基づく一夫一婦制を否定するものであることを知っていればこそ、己が思想が、本質的に、キリスト教における、揺るぎないリアリティであるまことの父なる神に対する裏切り、反逆であり、キリスト教に悪質に敵対するものであることを無意識的に知っており、そうであればこそ、この思想の中には、潜在的にキリスト教(の「父なる神」)に対する恐怖、すなわち、いつか自分たちがキリスト教の「父なる神」によって罰せられることになるという恐怖が内包されているのである。

そのため、この思想には、父のいない母子家庭に生まれ、父からの正当な承認がないのに、神聖な神の子孫を自称(詐称)する人類が、いつか「父なる神」から罰せられることになるため、その御怒りから自分たちを守らなければならないという、自己防衛と被害者意識による連帯願望が流れていると言えるのである。

なお、東洋思想においては、この自己防衛の思想が「禅」という形で結晶化し、また、手段としての自己防衛は、「武士道(武術)」という形で結実した。武士道の根底にあるものは、人類を楽園から追放し、滅びに定めた聖書の神に対する怒りと憎しみの感情であって、それは神の御怒りに満ちた裁きから身を避けようとする人類の自己防衛の手段であり、永遠から切り離されて滅びに定められた者たちの生んだ悲痛な「死の美学」であることも、すでに確認した通りである。

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 (上二つの画像は、映画『龍の正体』から)



筆者はこれと同じ自己保存・自己防衛の願望を、戦前・戦中の日本の国体思想に、またユダヤ教メシアニズムにも、見出さずにいられない。

第二次大戦中の日本の沖縄戦における集団自決、そして、マサダの集団自決などに流れる思想は、根本的に全く同じものであると筆者はみなしている。つまり、それは、まことの父なる神の承認によらず、父なる神を避けて、人類という「母子」が、自らの力で自分たちのルーツを浄化して、神からの恵みと承認によらず、自力で神の神聖に至り着くことができるかのように主張して、自己防御しようとした結果、必然的に行きついた悲惨な滅びなのである。

そこには、己の力で神に達しようとする者が、霊的に罰せられずには終わらないというバベルの塔と同じ原則が働いている。

おそらく今日、ホロコーストを生き延びたユダヤ人によって建設されたイスラエルでも、自己防衛のための団結の願望は、以前にもまして強いものとなっていることが予想される。それがパレスチナ住民たちに対する攻撃の激しさの中にも現れているのだろう。

なお、プロテスタントの宗教改革の指導者であったマルチン・ルターは、ユダヤ人をキリスト教に改宗させることができると望んでいた間は、ユダヤ人を擁護していたが、それが不可能であることが分かってからは、ユダヤ人を激しく批判したことも知られている。今日、ルターのそうした言説は、反ユダヤ主義を促すものとして非難の対象となることもあるが、いずれにしても、人は神の恵みによって、信仰によってしか救われないとするキリスト教の信仰が、人は律法を守ることによって救われるとしているユダヤ教の理念と相容れないことは確かであるから、ルターによるユダヤ人への批判の中には、不思議とは言えない部分がある。

こうしてキリストを拒んだがゆえに、都を破壊されて失い、さらにプロテスタントのキリスト教徒からも激しい非難と迫害を受け、全世界に散らされた歴史的過去は、今日のユダヤ人には、トラウマに近い感情を残しているのではないかと想像される。それだからこそ、その悲痛な歴史的記憶の只中から、より一層、強固な自己保存、自己防御の感情が生まれて来るのであり、それが彼らのメシア待望という、聖書の神に最終的に逆らう終末の反キリストを生み出す原動力となって行くのではないかと考えられるのである。

人は信仰によって何かを獲得するためには、神が定められた約束の時まで、忍耐強く御言葉の成就を待つことが必要とされる。それは、あくまで神の決定としての御言葉の成就であって、人間の側からの欲望に基づく思いつきではなく、その約束を成就して下さるのも神である。そして、神がご自分の約束の成就される時、それは決して人間の肉欲を満足させる形で成し遂げられることはない。

だが、人は肉の情欲によって、神の約束を待つことができず、性急に自分で自分を保存しようとする。そして、常に感覚的満足(快楽)を欲し、己が力で成果を勝ち取ることで、神を喜ばせることができると考える。
 
しかし、どんなにそこに悲痛なまでの幸福への希求の思いが込められていたとしても、神の御言葉に立脚しないものは、すべて真のリアリティを持たず、永続性がない。だからこそ、肉によって生まれる子は、霊によって(信仰によって)生まれる子よりも、先に勢力を増して勝ち誇るがものの、その勢いは、ほんの一時的でしかなく、肉によって生まれたものは、神の計画によらないため、初めから滅びを運命づけられ、すぐに消えて行くのである。
 
「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」(Ⅰペテロ1:24-25)

そこで、当ブログでも、己が肉の力を誇り、この世の栄耀栄華を誇るクリスチャンに偽装する指導者らの唱える幸福が、草のようにしおれ、消失して行くのは当然だと主張している。

当ブログでは、とある宗教指導者の家庭に降りかかった様々な不幸のことにも言及したが、これもまさに、以上で述べた通りのバビロンに働く聖書の原則が成就したものに過ぎず、筆者が述べている個人的な見解ではない。

これに対する唯一の処方箋は、悔い改めて神に立ち帰ることである。

「それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。 」(エゼキエル18:30-32)

かつてイスラエルの家が責められているように、今、プロテスタントの神の家と呼ばれる教会やその牧者たちも責められているのである。

だが、彼らが依然として、悔い改めを退け、己が富、権勢、支持者の人数、家庭、所属団体の規模、安楽な生活などを誇り、貧しい主の民を蔑み、嘲笑し続ける限り、彼らの繁栄は束の間の風のように過ぎ去るであろう。

主イエスが地上の都エルサレムに対して下された宣告と、その後のエルサレムの歴史、そして人類の肉に対する滅びの宣告を、私たちは思い出すべきである。

肉の思いは死であり、霊の思いは命と平安であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。」(ローマ8:6-8)
  
だが、何一つ絶望する必要がないのは、エクレシアは最終的に、「夫ある女よりも多くの子を生む」と言われており、バビロンの栄耀栄華をはるかに超えて、永遠に至る栄光を約束されているからである。

だからこそ、私たちは地上にある間、己が権勢や、能力を誇らず、より一層、神の御前に「夫を持たない女」「やもめ」「子を生まない女」として、キリストだけを待ち望んで生きるつつましい純潔の花嫁、聖なる天の都を目指したいと願うのである。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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