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短い短い休息のひと時であった・・・。

不思議なことだ。人間的な判断と、霊的な判断はしばしば大きく食い違う。判決言い渡しと共に解放感を覚えていたのは、筆者のあくまで人間としての感情、知性、判断であった。

心の深いところで、筆者の霊的な判断は、戦いがこんな中途半端なところで終わるはずがないし、終わってはならないことを的確に知って、大いなる拒否反応を起こしていたのではないかと見られる。

そこで、判決言い渡しの前日から引きずっていた風邪は、新たな一歩を踏み出すまでの間、日に日に悪くなる一方であった。
   
しかしながら、今週初めが来るまで、判決言い渡しと共に、事件は終了したものと考えていた筆者は、早くも事件の後処理をすべく、民事部にいくつかの書類作成を依頼し、事件ファイルの閲覧を申し出た。そこには、訴訟費用の計算という目的も含まれていた。

訴訟費用の計算は面倒で時間がかかる上、そこには弁護士費用などの大がかりな費用も含まれておらず、さほどの利益が見込まれないためか、裁判に勝っても、訴訟費用の確定をする人は非常に少ないという。だが、一応、ひと通りの手続きを学ぶ必要があるし、できることは時間のある間にきちんとやっておきたいと思った。

だが、筆者が晴れ晴れとした顔で記録閲覧を頼んだのとは対照的に、書記官はいささか顔を曇らせていたように見えた。

「訴訟費用の計算をしたいんですが」
「まだ送達が完了してませんし、判決の確定まで待った方が?」
「今の時点で見ておいた方がいいんで。後になると面倒なんでしょう」
「今はまだ記録の整理中で。しかも、控訴があるかも知れませんよ?」
「ないですよ」
「分かりませんよ、まだ」
「そんなのないですってば・・・」
 
筆者は、これまで書記官が常に裁判官の判断に忠実に従って動いて来たのを知っていたので、まさか書記官が控訴によって、裁判官の下した判決が覆されることを望んでいるわけでないことは理解していた。だとすれば、何が書記官の心にひっかかっているのだろうと、腑に落ちないものを感じた。
  
しかも、筆者は控訴を無意味なものとして一審判決を確定させるべく、早々に書記官に様々な書類作成を依頼していた。(これは被告が控訴しても全くと言って良いほどに利益がないようにするための措置である。)
  
ところが、4月1日に被告村上の出したブログ記事ですべての状況が変わり、思いもかけないことに、原告側から控訴を考える事態となった。その事情を電話で詳しく告げてから、再度、記録閲覧を申し出ると、書記官の表情が曇り後晴れになっていた。

もう一度記録閲覧に出向くと、再び緊張モードに入った筆者とは裏腹に、今度は書記官が晴れ晴れとした表情をしていた。そして、気前よく大量のファイルを出して来てくれた。

ちなみに、訴訟費用などは、実際に、全く微々たるものでしかないが、このようにほんのごくわずかな費用であっても、負債は負債に違いないと言える。従って、筆者は、このような負債が、たとえどんなにごくわずかであろうと、神の子供たちに負担として生じることは、絶対にあり得ないことだと理解している。

(なぜなら、キリストは私たちにとって不利な債務証書を、すべて十字架で破り捨てられたのであるから、私たちには債務というものが存在しないためである。)

そういう意味で、筆者は裁判官の判断に異議を唱えるつもりはないが、一審の判決は、霊的観点から見れば、必ず覆されることが前提とされているような内容だったと言える。

さらに、どういうわけか知らないが、筆者は訴えを出すときに、訴訟費用の負担を、仮執行の範囲から外した。なぜそうしたのか、今になっては理由がよく分からないが、そうしたことにより、実際に、現時点で、不法行為に問われなかった村上の訴訟費用の負担が、判決確定前に筆者にかかって来ることは決してないという結果が出ているのである。

従って、現時点で、筆者にはいかなる「債務」もない。こうしたことは、まさに神の知恵であるとしか言いようのないことである。従って、それにも関わらず、筆者が訴訟費用の計算をしているのは、いずれこれを被告ら(後の被控訴人ら)に請求するための備えである。
  
さて、控訴状を事件係に持って行ったとき、早速、訂正があると告げられ、見栄えにこだわりたかった筆者が、まだ日にちはあるので書き直すと言ったところ、係がいつになく断固たる表情で首を横に振った。

「いいえ、一か所くらいの訂正なら、今ここで訂正した方がいいです。とにかく早く出した方がいいですから・・・。これで十分にきれいですよ」
   
何だか抗いようのない口調であったので、筆者はそれに従うことにした。筆者は別にその日でなくても良いと考えていたのだが、付与された番号を見ると、まさにこの日のために特別に用意されていたような数字の並びで、天には今日でなくてはならない何かの事情があったのだろうという気がした。
 
その後、分厚いファィルに埋もれて、記録の閲覧謄写をした。筆者は書類の山に埋もれると、自分のことなど何もかも忘れてしまうたちで、朝からずっと様々な書類を作り続けて、その時まで、ほとんど何も食べていなかったことに気づいた。それに加えて風邪が追い討ちをかけた。
 
本当は判決言い渡し後、せめて一週間くらいは、ゆっくり休まなければならない。記録の閲覧など後回しである。だが、こういう事件の場合、そうも言っていられず、事件の記録を一つ一つめくっていると、様々な思いが込み上げて来て、思っていた時間をあっという間に過ぎ、5時前に急かされるようにして庁舎の外に出た。

車に乗り込んだ時、突然、ふとこの事件を担当してくれた裁判官の気配を、まざまざとそば近くに感じたような気がした。それはちょうどまるで筆者の目の間に、事件ファイルを持った裁判官が現れたかのようで、人間の常識を超えて、何か切迫したメッセージを伝えられたような気がした。

実におかしな出来事であった。裁判官は異動して横浜地裁にはいないはずであり、もちろん、筆者が記録閲覧したことも知るはずがなく、今ここで起きていることに関心を寄せる理由があるとも思えないが、一体、何かが起きたのだろうか・・・と筆者はいぶかしく思った。

理由は帰宅してから分かったような気がした。村上密のブログに、まさに筆者が裁判所を出る直前の時間に、早くも筆者が控訴したというニュースが投稿されていたのだ。
 
村上密が筆者の行動を、筆者自身よりも早く報道しているとは、驚き呆れることであった。しかも、彼が「完全勝訴」と書いた同日の夕方、3時から5時にかけて、裁判所の業務時間が終了するまでに残されたわずかな時間の筆者の動きを、これほど正確に知って素早く報道しているとは、実に奇妙かつ不気味なことである。
   
まさにジョージ・オーウェルの世界を彷彿とさせる出来事である。双方向のテレスクリーンには、「祖国を捨てた人民の敵ビオロン、本日夕刻、ビッグ・ブラザーを控訴!!」などという文字が踊り、テレスクリーンには、その他にも連日のように、筆者を人民の敵として告発するニュースが新たに流されている。まるでエマニュエル・ゴールドスタインさながらの扱いを受けている気分だ。

筆者が約10年前に、ビッグ・ブラザーの支配するあの国を、秘密警察の暗躍する全体主義国と呼び、そこから国外亡命を遂げてからというもの、筆者はあの国では、まさに祖国を捨てたゴールドスタインさながらの狂人・罪人として扱われているのだ・・・。

なぜ杉本ブログに賠償が命じられて後、また、掲示板が大々的に刑事告訴の対象とされて後、村上が自らのブログで、当ブログ執筆者の実名を公表したり、当ブログを名指しで非難する記事を次々と書き始めたのか、そこに、筆者の言う「全体主義国」の有様を、読者は伺い知ることができよう。

一審では、村上―杉本の共謀関係は立証されていないが、筆者はこのような結果となることを前々から予測していた。つまり、杉本による権利侵害は、杉本が独自の判断により、単独でなしたことでは決してない――というのが筆者の以前からの推測なのである。もしそうでなければ、村上は、杉本が自らのブログで筆者を批判できなくなったことを皮切りに、今度は自分のブログで筆者を批判し始めることは決してなかったであろう。

二人はメール文通も書証として提出して来ているが、その内容は、二人が完全に気脈を通じていると言えるものであり、さらに、杉本に賠償が命じられても、村上は決してそのことを報道しない。このことか分かるのは、つまり、村上には、杉本がしたことが許しがたい人権侵害であるという認識が今もって欠けているということである。

そして、杉本が果たせなくなった役割を担うために、村上はずっと何年も前から当ブログに掲載されていた記事について、今になって自らのブログで批判を展開し始めたのである。(だが、村上が書いている控訴以外に関する記事については、おそらく刑事事件等の捜査が進み次第、筆者の主張の裏づけとして、証拠を提示しながら書いて行くことになろう。)
 
さて、話を戻せば、おそらく裁判所の関係者ならば、事件番号が付与された時点で、リアルタイムで控訴の情報を把握することは可能であろう。

だから、裁判官も(村上の記事はさておき)、控訴のことを知っていておかしくないと思われるが、書記官の態度を見る限り、裁判官にも、きっとこの控訴が、判決内容を不服としての控訴でないことくらいは、十分に理解してもらえるだろうと思う。むろん、二審の裁判官にもそれが分かるように、理由書をきちんと作成する予定である。

裁判官には、法的根拠に基づいた判決しか出せない。そこにはいささかの情も込めるわけにはいかないし、事実と異なる事柄や、推測に過ぎない事柄も書けない。しかしながら、彼らにも人間的な感情はあって、それは必ずしも、法的な解釈に沿うものとは限らないのだ。

しかも、一審でこの事件を担当してくれた裁判官と書記官の二人は、筆者が口頭弁論の際に、被告杉本・村上の双方から、提訴・反訴・控訴の脅しを受け、被告杉本からは徹底的な誹謗中傷を受け、どれほど二人から見下され、蔑まれ、踏みにじられていたかを、実際に、その目で見て知っている生き証人のような人々である。

さらにもっと言えば、被告杉本は、一信徒に過ぎない筆者を、宗教指導者と呼び、まるで筆者が魔女か何かででもあるかのように形容した書面を提出して来た。杉本が提出した準備書面は、杉本が公表したブログに輪をかけて、筆者に対する恐ろしいほどの誹謗中傷に満ちており、こうした常軌を逸した内容の書面は、裁判所の関係者の目に触れたのである。
 
裁判官も、書記官も、裁判所の権威を守る側に立っているので、誰かが判決に異議を唱えることを自分から望んだりはしない。むろん、争いが長引くことを望んだりもしない。それでも、筆者は、この人たちに限らず、筆者を取り巻く、雲のような無数の証人たちから、「ヴィオロンさん、あなたはもう戦いが終わったと喜んでいるようですけど、本当にそれで満足なんですか。本当にこれがあなたの心から納得できる答えなんですか。これがあなたが命をかけてまで、立証しようとした内容なんですか。あなたは自分が目的達成できたなんて、本当に思っているのじゃないでしょうね。あなたは安全になったわけでなく、依然として、立ち向かうべき危機の最中にあるのに、まさか本当にこのような結果で、満足して立ち止まってしまうつもりじゃありませんよね・・・」と迫られていたような気がしてならない。

被告杉本からの控訴はあり得ないと、筆者は今も判断しているが(なぜなら、村上が完全勝訴したと宣言しているものを、杉本が控訴すれば、かえって敵に判決を覆すチャンスを与えることになるからである)、そのこととは別に、筆者自身が戦うことをやめて立ち止まってしまうことに対し、無言の警告が投げかけられていたように思う。

ここで立ち止まることは、妥協であって、偽りの平和への安住であって、それを選べば、たとえ被告から控訴がなされなくとも、あなたは遅かれ早かれいずれ死へ向かうだけだと。

だが、そのことは、誰よりも筆者自身が霊の内でよく分かっていたと言えよう。筆者は人間的な判断としては、この成果で十分だと考え、それ以上、争いを続行する理由もなかったので、ひとまず戦いは終わったと喜んでいたが、その心情とは逆に、日に日に具合が悪くなって行ったことが、人間的な観点から見る事実と、霊的事実がいかに異なるかをよく示している。

筆者がようやく食べ物をまともに口にできるようになったのは、控訴状を出し、さらに刑事告訴の具体的な相談を警察と始めてからのことであった。

今では被控訴人となった村上密の内心が、まずはブログを通じて、余すところなくぶちまけられるのを待つのみである。まずは隠れていた事柄が明るみに出されなければならないためである。
 
筆者は、この道は、筆者が考えているよりもはるかに長く、ずっとずっと先まで続いていることを思い知らされている。人間的な休息は、霊的停滞をしか意味しないのかも知れない。
 
こうして、筆者はお世話になった民事部を後にして、人生で初めて得たまずまずの判決をも後にして、さらに遠くへ歩いて行こうとしている。たった一人で、どこまで歩いて行かねばならないのかも分からないが、待ち受けている何もかもが、見知らぬ世界なわけではない。

いずれにしても、すべては天の采配である。ここで立ち止まってはいけないのだと、筆者は警告されている。塩が塩気を失えば、誰がそんなものに注意を払うだろう。心から望む通りの目標に達するまで、代価を払うことをやめてはいけない。もっともっと深く井戸を掘りなさい。もっともっと高く、遠くまで歩いて行きなさい。リスクを取って自分の十字架を負い、日々、主と共に戦い抜いて、勝利と解放を勝ち取る姿あってこそ、人々からも、真の意味での理解や尊敬を勝ち得ることができるのだ・・・。
 
どうして女性が一人で戦わなければならないのか。筆者はこの深い井戸から何を汲み上げようとしているのか。筆者が争いのために争いを起こしているわけでないことは、今後の一連の記事の中でも、説明して行かねばならないし、きっとそれは可能だろう。

というよりも、筆者は己が利益のためにここに立っているわけではないのだから、この仕事を貫徹するのは、筆者だけでなく、神のなさる仕事であると考えている。これは主との共同作業である。そうである以上、この先は、もっと多くの気負いを手放して行かなくてはならない。そうでなくては、各種の重荷を負いつつ、軽快な足取りで先に進んで行くことはできないだろう。

ここではっきりと断っておきたい。二審で出る結果は、筆者からいかなる負債をも将来に渡ってまで完全に取り除くものとなるであろうと。たとえ数千円に満たない被告1名の訴訟費用であろうと、残らずそれらは取り除かれる。

今、筆者がせねばならない仕事は、この事件に限らず、目には見えないが、うず高く筆者の机の上に積み上げられた悲痛な嘆願書を、次から次へと処理することだ。これが筆者の「お仕事」なのだと、今は非常によく分かる。週末も、作成せねばならない書類が山積みだ。

かつてできるだけ見栄えの良い履歴書を作成しては、何とかして人々に良い印象を与え、誰かから出来合いの仕事を与えてもらおうと奔走していた頃は、こんな仕事が存在することに、心を留めたこともなかった。

誰からも振り返られず、打ち捨てられていた、目に見えない訴えを取り上げ、それを悪魔と暗闇の勢力を打ち破るために、大いなる武器として行使する。誰も述べなかった新しい言葉を述べて、社会をよりよく変える起爆剤とするために、戦いの武器として行使する。これは心から意義があると言える敬服すべき有益な仕事だ。

そういう仕事が、一つ着手すると、次から次へと入って来る。そして、どういうわけか、戦い続行するために必要な材料も、自然と向こうから集まって来る。

今、筆者が「干潟」にとどまって掘り起こしているこの「仕事」には、はかりしれないほど深い意義がある。そうである以上、その仕事を果たすための前提は、神が整えて下さるであろう。そもそもそれがなければ、筆者は第一審の判決にたどり着くことさえ不可能だったのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイ6:33-34)

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ4:13-14)

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「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14)
 
A教団を離れるに当たり、大きな苦労を払って、独立を勝ち取った教会が、間もなくNK教団に所属するという噂がある。
  
それが実現するかどうかは知らないが、実現すれば、プロテスタントのおよそすべての教会が、自分の身の安全と引き換えに、御言葉を曲げて教会を迫害するカルト被害者救済活動の吠えたける獅子のような咆哮に、膝を屈して、信仰の証しを捨てて、沈黙に入ったことになる。

つまり、日本のプロテスタントはこれで霊的に完全に終焉するということだ。前々から当ブログでは、プロテスタントからはエクソダスせよと述べて来た通りである。
   
筆者は以前から、偽信者、偽預言者らから投げつけられた悪罵の言葉は、単なる誹謗中傷ではなく、霊的効力を持つ呪いであるから、きちんと抵抗して、その呪いを跳ね除けて発言者自身にお返ししなければ、それは時と共に効力を発揮して現実となる、ということを再三、警告して来た。
 
これらの冒涜者は、キリスト者を中傷することで、神の神聖を穢し、キリスト者の贖いを奪い取ろうとしているのであるから、私たちが、これに毅然と立ち向かうかどうかは、ただこの世における名誉に関わる問題であるだけではなく、来るべき世における永遠の命にも関わる問題なのであると。
 
自分の教会や、神の家族である教会員らが侮辱されても、立ち上がりもせず、御言葉が曲げられている時に、沈黙している指導者が、どうして来るべき世において、神から託された羊たちをきめ細やかに世話したと評価を受けられるのか。

我々キリスト者は、外面的な強さではなく、内なる霊的な強さを帯びなければならない。それは御言葉に固く立って、何があっても揺るがされず、信仰の証を保ち続ける強さである。
 
どれほど体を鍛え、屈強な外見になっても、もしもその人が自分の家庭や信者を守れないようでは、この世においても、その力は認められることはない。まして、私たちが天から預かっているのは、神の家であり、指導者は、そこに身を寄せている信者らを守り切らなくてはならない。
 
だが、日本全国の教会の指導者の中には、教会が冒涜を受けても、もはや毅然と抵抗するところもなくなった。

なぜそのようにまでプロテスタントの教会は堕落したのか。それは、プロテスタントは、かつてカトリックがそうであったように、今や信徒に君臨する特権階級としての牧師階級を養うことだけを、第一の目的としているためである。

牧師たちの家庭を守ることが第一義的課題となっていればこそ、世と軋轢が生まれるのを避けたいと、プロテスタントの指導者は、教会が冒涜されても、争いを避けるようになったのである。
 
この点で、気に入らない信者たちをのべつまくなしにバッシングして沈黙に追い込むカルト被害者救済活動と、信徒を虐げていつまでも支配階級として君臨したいプロテスタントの牧師階級は、利害が一致している。

むしろ、すでに幾度も述べて来た通り、カルト被害者救済活動それ自体が、信徒を搾取し、食い物にするプロテスタントの牧師階級の悪の猛毒の副産物として生まれて来たものである。

それはちょうどブラック企業と、ブラック企業からの救済ビジネスが本質的に一つであって、共に貧しく、虐げられた人々をさらに食い物にするために存在しているのと原理は同じである。カルトとアンチカルトは同一であり、まさに車の両輪なのである。

さて、A教団を去って、NK教団へ移るとは、どこかで聞いたような話だ。その先に、さらにカトリックにまで霊的に後退して行った”先達”がいる。
 
NK教団のホームページを開くと、真っ先に目に飛び込んで来るのは、第二次世界大戦時、教団が正式に侵略戦争を是認したことへの懺悔のことばである。

戦時下でキリスト教の宗教団体がどのような状況に置かれていたかは、『戦時下のキリスト教 -宗教団体法をめぐって- 』(キリスト教史学会編、教文館)という書物に詳しいようだが、その書評「よみがえった反動的パワーに対峙するための基礎固めを」(石浜みかる)だけを読んでも、当時の状況がよく分かるので、抜粋してみたい。
 
戦時下で、国は宗教団体を国体思想の中に取り込んで戦争に協力させ、信者らの抵抗を抑えるために、宗教団体法を成立させた。そして、従う団体は優遇するが、従わない団体は弾圧するというアメとムチ作戦に出た。
 
 

 「宗教団体法」は、戦時下の一九三九年四月に成立し、日本の全宗教団体を横並びに串刺しにした戦時統制法です。宗教関係者にとって、法律は論じることの少ない分野ですが、憲法九条が揺らぐ今この時に、〈あの〉宗教団体法に焦点を絞った書籍が出たことは、まことに時宜を得ていると思います。本書のなかで研究者の方たちは、キリスト教界の代表的な五つの団体それぞれに、当時何が起きていたのかを(長らく語られなかった内部の状況もふくめて)、渾身の力を込めて語っておられます。

 三九年に成立した宗教団体法の草案が、文部省宗教局の高級官僚によって練られたのは、その四年前の一九三五年です。超国粋主義議員たちの突き上げにより、国会が「天皇陛下は憲法のもとで統治されるのではない。日本は現人神天皇陛下が、憲法を超越して治められる神国なり。皇国なり」と、古代のような「憲法の解釈変更」を決議したからです(三月二四日衆議院、天皇機関説排撃による国体明徴決議案可決)。

そして翌三六年の二・二六事件いらい、軍部が政治を掻き乱していき、日中戦争が泥沼化すると、国民のあいだに不安と厭戦気分がひろがり、国内秩序が崩れていきました。復古的日本精神を鼓舞する官製の「国民精神総動員運動」が始められますが、戦死者の遺骨はつぎつぎにはるか遠い中国大陸から戻りつづけます。お葬式を執り行う宗教界の絶対的服従が必須でした。超国粋主義者であった平沼騏一郎首相は、三九年二月、ついに宗教団体法案を貴族院特別委員会に提出し、「どんな宗教も、我が国体観念に融合しなければなりません。国家としては保護もします。横道に走るのを防止するために監督もいたします」と恫喝します。宗教団体法は可決されました。

  (第一条)本法において宗教団体とは神道教派、仏教宗派及び基督教其の他の宗教の教団(以下単に教派、宗派、教団と称す)並びに寺院及び教会を謂(い)う

 アメ(保護・懐柔)は「認可を受ければ所得税は取らない」という条項であり、ムチ(監督・強権)には、合法でない宗教行為には罰をあたえる、トップ解任もあるとの脅しの条項もありました。黙って「認可」を受ける指導者たちの無抵抗の従順さを見て取るやいなや、文部省宗教局官僚は一気に強制的大統合をすすめたのでした。こうして宗教界諸団体は、国体に融合し、「和」を保てという同調圧力に屈してしまったのでした。それは滅私報国・戦争協力への道でした。


 
 このように、キリスト教界においても、多くの団体が、「和」の精神という同調圧力に屈し、戦争への協力の道を選んだことは知られている。とはいえ、抵抗した者たちもいた。その当時、最も激しい弾圧を受けたのは、ホーリネスだったと言われる。
 

一番すさまじいムチを受けたのは、一部が日本基督教団にも統合された、ホーリネス関係者でした。法律が一つ成立すれば、関連法が「改正」されます(安保関連諸法の改正のように)。内務省の特別高等警察は、「改正」治安維持法を適用して一三〇名以上の牧師を粛々と検挙しました。七一名を起訴。実刑一四名、死者七名――。



 当時、国策としての戦争に協力を拒んだがために、検挙されたり、実刑を受けたり、処刑されたりしたクリスチャンは、まさに殉教者の名に値する人々であろう。

 翻って、NK教団は組織的な抵抗を何ら行うことなく、国体思想に従順に従い、今になって懺悔の言葉をホームページに掲載している。だが、それはただ戦争に加担したことへの懺悔を意味するだけではなく、この誤った国策に協力するために、罪のない牧師、信徒、神の家族を率先して売り渡し、陥れ、犠牲にしたことへの懺悔の言葉であることを忘れてはならない。

 抵抗できなかった、と言えば聞こえは良いが、要は、兄弟たちを売り渡し、見殺しにする側に回ったということなのである。

 A教団はこの恐るべき戦時下には、まだNK教団という母体の中におり、世に生まれ出ていなかった。従って、A教団は、今日、どれほど目にしたくないほどの多くの腐敗と混乱を抱えているにせよ、最も暗いこの歴史的時代に、後ろ暗い負の遺産を負わされずに済んだのである。

 それなのに、一体、なぜ、A教団の理念の誤りを見抜いた教会が、このような歴史的負の遺産を抱える団体へ後退して行かねばならないのか。

 表向きの理由は、教会を地域社会で存続させるためであっても、内実は、牧師階級を延命させるためのバーター取引であるとしか受け止められない。

 牧師たちが自力で教会を支えているのでは、万一、彼らが倒れた時に、教会がなくなってしまう恐れがあるという理屈は、ほんの表向きのものでしかない。NK教団に所属すれば、牧師たちには謝儀が保障されるかも知れないが、翌年から、教会は教団に負担金をおさめなくてはならなくなる。それは信徒らに落ちかかって来る事実上の年貢だ。
 
 筆者は、おそらくは当ブログの訴訟が決着するこの3月が、様々な意味で、筆者にとどまらない多くの兄弟姉妹にとっても、大きな分岐点となることを、前もって予想していた。これはエクソダスのために開かれた道である。そこで、この時点までに、プロテスタントの諸教会が、暗闇の勢力に毅然と立ち向かって、受けた侮辱を跳ね返し、聖書の御言葉の正当性を公然と守ることをしなければ、その後、おそらく二度と彼らにはチャンスがなくなるであろうこと、それどころか、必ず、著しい信仰的後退が起きるであろうことを筆者は予想していた。

 当ブログでは、牧師制度を無用なものと考えているため、いつまでも牧師制度を抱える教会や信者たちと、手を取り合って進むことが可能であるとは初めから考えていなかったが、それでも、筆者は筆者なりに、できる限りの努力を尽くし、そして、予想通りの結果が返って来た。差し伸べた手を握り返す力は次第に弱くなり、書面は次第に遅れがちになり、そこに断固たる要求の調子は見られず、さらに武道を習っているという話までも聞こえて来た。

 筆者は、「道」のつくものは、みな東洋思想を基盤としており、相反する概念の統合としての「和」を至高の価値とするものであるから、これは聖書の神に逆らう理念であって、大変、危険な影響であることを警告した。脳裏には、三島由紀夫を信奉していた指導者の姿がまざまざとよぎった・・・。

 さて、以上の話は、これまでにも何度も起きては立ち消えになったものであるから、実現するかどうか、筆者に問われても分からない。

 だが、もしも実現すれば、すでに書いた通り、プロテスタントの教会からは、最後のともし火が消え、地の塩としての役目がほぼ完全に消えることになる。なぜなら、長いものに巻かれず、独立性を保って、カルト被害者救済活動に毅然と立ち向かう教会が、地上から消え失せるからである。
 
 軍国主義の時代でもないにも関わらず、プロテスタントは、自らカルト被害者救済活動の前に膝をかがめ、神の福音を自分の生活の保障と取り替えたのである。
 
 そこで、もしも最後に残った教会までもが、かつて「和」の精神を唱えて同調圧力に負けて戦争に加担した教団を所属先に選ぶとすれば、それも極めて暗示的・予見的な出来事と言えるであろう。
  
 筆者は、プロテスタントの終焉という出来事が、いかに恐ろしい現象であるか分かっており、この宗教がこれから何の影響力の下に集約されて行こうとしているのかも想像がつくが、こうした有様に驚いてはいない。

 なぜなら、カルト被害者救済活動に恫喝されて諸教会が沈黙に入ったのは、すでに何年も前のことだからである。

 そして、神はプロテスタントの中から、筆者のように、すべての組織や団体を離れてエクソダスを成し遂げた信者をすでに各地に用意しておられることも信じている。

 そこで、筆者がせねばならないことも、後ろにあるものを振り向くことではなく、自分が失格者とならず、むしろ、賞を得られるように、前に向かって走ることだけである。  
 
   信仰の世界においては、本物でなければ、存続しない。だが、存続するための秘訣は、黙ってぼんやり受け身に待っていることではなく、神の御言葉を行い続けることにこそある。

 「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。」(マタイ7:24-25)

 神の御言葉を聞いて行うことをやめれば、その時点で、家の土台の強度は失われ、その家は砂地に建てた家と同じになってしまう。どんなに世と迎合して、様々な支えを得たつもりであっても、その支えが、基礎となる岩から来るものでなく、御言葉に基づくものでなければ、その家は、雨が降り、川が溢れ、風が吹いて襲いかかれれば、ひどく押し流されて、倒壊することになる。

 だから、どんなに時が良くても、悪くても、私たちは決して信仰の証しをやめてはいけない。私たちは一体、誰の目に、自分を認められることを願っているのか。何に支えを見いだすのか。頼るべきは、世なのか、それとも、ただ一人の見えないお方なのか。

 水の上を歩いたペテロが、一瞬の不安に駆られて、見るべきお方だけを真っすぐに見ず、足元を見た時のように、もしも私たちが、主イエス以外のものに自分の生活の安寧や保障を見いだそうとするなら、私たちの思いは、たちまち穢され、支えを失ってしまうことであろう。

 そこで、見るべきお方から、一瞬も目を離さず、自分を奮い立たせて、自分の関心のすべてをとりこにして、キリストに従わせ、目標に向かうために真っすぐに走るのである。
 
 神は愛する子供を懲らしめる親のように、信仰者を燃える炉の中に投げ込んで洗練するように鍛えられる。だが、忍耐して賞を勝ち取ることができれば、天に朽ちない栄冠が待っている。

 力弱くとも、最後まで忍耐して従えば、大きな栄誉が待っている。私たちは、自分の栄冠を誰にも奪われることのないよう、固く守らなければならない。
  
「わたしはあなたの行いを知っている。
 見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない。
 あなたは力が弱かったが、わたしの言葉を守り、わたしの名を知らないと言わなかった。
 
 見よ、サタンの集いに属して、自分はユダヤ人であると言う者たちには、こうしよう。
 実は、彼らはユダヤ人ではなく、偽っているのだ。
 見よ、彼らがあなたの足もとに来てひれ伏すようにし、わたしがあなたを愛していることを彼らに知らせよう。
 
 あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すために全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。
 わたしは、すぐに来る。あなたの栄冠をだれにも奪われないように、持っているものを固く守りなさい。

 勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
 耳のある者は、”霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」(黙示3:8-13)



「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。

わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に”霊”を与えてくださいました。」(Ⅱコリント1:18-22)

最近、上記の御言葉の深淵な意味を理解する貴重な機会に恵まれている。
 
筆者は最近、世の中で発せられる言葉がことごとく嘘にまみれ、それが嘘であることさえ否定されるほどに厚かましく虚偽が大手を振って跋扈していることに対し、心底からの憂慮と憤りを覚えていた。

労働市場には求人詐欺が溢れ、公文書は改ざんされ、政治家の公約は平然と破られ、それでいて誰も責任を取らされることもなく、世の中に溢れる言葉の一つ一つが耐えられないほど無意味となり、何を信じて良いのか、もはやその目安さえ見つからないほどすべてが混沌として、信頼に足る根拠のある言葉が見つからないことに、空恐ろしい感覚を覚えずにいられなかった。

まるで全世界が深い嘘の闇の中に沈んで行こうとしているのに、それをどうすることもできないむなしさ。一体、これほど深い海のような嘘の中で、我々はどうやって身を守り、生きて行けば良いのか? 

そんなことを考えていた時、昔の友人、いや元同僚と会話する機会があった。かつて我々はある職場で出会ったのだが、そこはまるで魑魅魍魎の跋扈する伏魔殿のようなところで、仕事は尋常でなくハードで、労基法の存在など誰にも認識されていなかった。研修中に半分以上の新入社員が黙って姿を消していくような職場だった。
 
当時、その職場のあまりにも極端な有様に、我々も驚き呆れた。懸命に働いたが、長くは持ちこたえられず、間もなく皆が散り散りになって行った。しかし、苦労の只中で生まれた絆は、時が経っても、消え去ることなく保たれた。

最近、ふと思い出して連絡を取った時、思いもかけない返事が返って来たのである。

「ねえ、ヴィオロンさん、私が今どこにいると思う? あの会社よ!」

驚くべきことに、同僚が口にしたのは、筆者の中では、まるで恐るべきものの代名詞だったような社名であった。

「びっくりでしょう~? でも、本当にこの会社は変わったのよ。とても働きやすくなったの」

彼女が言うには、何とその会社が、根本的に変化して、福利厚生を整え、社員の願いをくみ上げ、未来を与えることのできる風通しの良い会社になっているというのだ。

残業代は1分単位で支払われ、社員への慰労会が催され、働けばちゃんと報いが得られる仕組みになっているという。何よりも苦労の多かった元同僚が、すでにかなり長くその職場にいるという事実自体が、他のどんなことよりも、彼女の語る言葉が事実であることを物語っていた。
 
しかし、何よりも、筆者が驚いたのは、次の言葉である。

「つい最近、5年勤めた私の同僚が、終身雇用になったばかりなのよ。色々と続けられるかどうか悩んでいた時期もあったようだけれど、ついに終身雇用になって、本当に安心したって言ってたわ」

筆者は耳を疑った。シュウシンコヨウ? 何しろ、それは安定とは程遠いイメージの、最も人の出入りの激しい業界のことである。さらに、世の中では、正規雇用への転換を阻むための雇止めが横行している中、勤めて5年経ったら終身雇用とは、まさか?

だが、その話は聞けば聞くほどどうやら本当らしいのであった。

筆者は驚いてしまった。

筆者の心の中で、その会社のイメージは、筆者がいた頃の混乱した有様で、記憶が止まっていた。あまりにも多くの人々を無碍に会社の外へ放り出し、悪事をたくさん犯し過ぎたので、立ち直りは不可能だろうとさえ思っていた。

筆者がその職場を去る前、上司にその胸の内を打ち明けると、上司は、頷きながらも、その時、自分はここに残ってこの現状を改革するのが夢だと語っていたことを思い出した。

よくは分からないが、長い歳月が過ぎ、当時、胸を刺し貫かれるような光景を幾度も目撃しながら、育てて来た後輩を次々と見送り続けて来た人たちが、やがて幹部となって、会社を改革したのかも知れなかった。

筆者は、元同僚の勧めで、会社説明会に行ってみることにした。すると、確かにすべてが以前とは異なるのであった。大体、企業の登録説明会などに行くと、生気の抜けた空々しいスピーチを聞かされ、あれやこれやの禁止事項を言い渡され、おどろおどろしい内容のビデオを見させられたり、細かい字が敷き詰められた誓約書にサインを求められたり、まだ何も始まっていないのに、早くもこんなにも要求過多なのでは、この先、どうなることやらと、げんなりしながら帰宅したりしていたものだが、そうした印象はほとんどなかった。

ビルにたどり着くまでの親切な道案内、受付の快活さ、お決まりのビデオでは、禁止事項は一つも挙げられず、かえってどれだけその職場が自由で伸び伸びとしており、社員にとって働きやすい制度が整備され、企業が社員の未来に心を配っているかということが強調されていた。

上から目線の義務と要求の押しつけが全くと言って良いほどなかったのである。

感動屋の筆者は、そのビデを見ているうちに、当時、別れ別れになった上司や同僚たちの姿が脳裏をよぎり、よくぞここまで変わったものだと、涙ぐんでしまった。

かつてはまるで次々と同僚が討ち死にして行くのを横目に、自分の順番が回って来るのを待つしかない戦々恐々とした戦場のようだった場所に、いつしか涼しい木陰をもたらす大きな樹木と憩いの広場のようなものができていた。

かつてはやって来る人をみな鬼のような形相で追い払う恐ろしい聖域のようだった場所に、日照りの中を歩くことに疲れた人々が、自然に休息を求めてやって来る大きな木陰ができていた。

筆者はこんな事例を他に一つも見たことはないが、とにかく組織というものは変わりうるのだという実例を目の前で見せられた気がした。

今まであまりにも多くの血を流し過ぎたから、立ち直り不可能ということはないのだ。どんなに悲惨な光景が広がっているように見えたとしても、そこにごくわずかでも良いから、良心と未来のビジョンを持った人々が、犠牲を払って踏みとどまりさえすれば、全体が変わる日が来るのかも知れない。

それは大きな教訓であった。筆者にはその当時、ここに踏みとどまろうという決意はなく、別の目的もあり、その混乱の只中から何かが生まれて来るとは、到底、信じることができなかったが、それでも、ごくわずかな間であっても、命がけのような毎日を送りながら関わって来た人々と、長い長い年月が経って、かつては予想もできなかった形で再会できたことは、実に感慨深いことであった。

この企業の取り組みは 時代を先取りしているように感じられた。これから5~10年も経つ頃には、大規模な人手不足時代がやって来るだろう。人のやりたがらない苦労の多い仕事には、就く人もいなくなるに違いない。それに先駆けて、アルバイトであろうと派遣であろうと非正規雇用であろうと、今、その仕事に就いて苦労してくれている社員らに未来の夢を提供することで、その会社が、自分たちに仕えてくれる人たちを自社に残そうとしていることは、正しい選択であるように思われた。
 
まるで階級制度のように超えられない壁のように見えた正規・非正規の壁を、その会社が取り払おうとしていることは、正しい選択であるように感じられた。

筆者は、ここ最近、重要なのは、筆者を取り巻く人々や、組織が、外見的にどう見えるかではなく、その人たちの中に真実があるかどうか、もっと言えば、その人々が嘘偽りのない生き方を心から目指しているかどうかに、すべてがかかっているのだということに、はっきりと気づいた。

身内や、親族や、長年の知己や、信仰の仲間や、著名な指導者だからと言って、その人が我々に真実に接してくれる保証はない。老舗の会社だから、誠実に仕事をしてくれるということもない。

ただお互いに、心の中で、嘘によって汚されることのない清い命の流れ、嘘偽りのない真実を探し求めている時にだけ、我々の間には、有益な関係が成立しうるのだ。

さて、ここから先は、クリスチャン向けの話題であるが、これまで筆者は、当ブログにおいて、嘘や自己矛盾や二重性というものは、聖書には決してない特徴であり、それは悪魔に由来する偽りであって、誤った教えには、首尾一貫性がなく、必ず、嘘による自己矛盾や、論理破綻が見られることを述べて来た。

グノーシス主義思想の分析においても、筆者が幾度も強調したのは、誤った教えは「全てがダブルスピークで成り立っている」ということであった。

グノーシス主義の究極目的は、正反対の概念の統合にあるとこれまで幾度も述べた。仏教もそうであるように、グノーシス主義の教えはみな「有る」と言いながら、同時に「無い」と主張するのである。
 
従って、このような教えの究極目的は、「然り」と「否」との統合にあるのだと言えよう。

だが、私たち聖書に立脚するクリスチャンは、「然り」と「否」とを統合するなどということは、誰にも絶対にできない相談であり、それは錬金術のような詐術でしかないことを知っている。

たとえば、公文書を改ざんしている人々も、国会で偽証している人々も、求人詐欺などしている会社も、みな「然り」と「否」を混同しているのである。

「困ったときは、私たちに相談して下さいね」と言いながら、いざ相談してみると、「甘えるな。自分のことくらい、自分で何とかしろ」などと言ってくる人も、「然り」と「否」を混同している。

「私はあなたと信仰による兄弟姉妹です。神が出合わせて下さったのだから、私たちの絆は絶対に壊れません」などと言いながら、いざ様々な不都合な問題が持ち上がると、早速、兄弟姉妹であることを否定して、関係を切り捨ててにかかる人々も、「然り」と「否」を混同している。

主にある兄弟姉妹はみな対等であって、宗教指導者は要らないと言いながら、自分が指導者になって信徒に君臨している人々も、「然り」と「否」を混同している。

要するに、自分で約束した言葉を守ろうとせず、言動が一致していない人々は、みな「然り」と「否」を混同する偽りに落ちてしまっているのである。

人柄が問題なのでもなければ、性格が問題なのでもなく、関係性が問題なのでもない。その人自身が、真実に立って、二重性を排除して生きるつもりがあるかどうかが、それが、我々がその人間と信頼性のある関係を築き上げられるかどうかを決める最も重要な要素なのである。

だから、私たちは限りなく、嘘偽りのない真実を追い求めなくてはならない。どんなに虚偽が海のように深く、すべてを覆っているように見えても、それでも、その中に真実を追い求め続けることをやめてはならない。

そのようにして固く偽りを拒否し、真実(真理)に立って、これを守り続けて生きる人々を探し求め、それを見つける時に、初めて、彼らとの間で連帯や協力が成り立つ。

長年の知己であろうと、親族であろうと、クリスチャンを名乗っている人々であろうと、名だたる企業の幹部であろうと、宗教指導者であろうと、誰であろうと、 「然り」と「否」を混同している人々に、何を求めても、返って来るものは何もないのだ。

クリスチャンを名乗りながらも、聖書は神の霊感によって書かれた書物ではない、と否定する者たちがいる。その者たちは、一方では真実を語りながら、もう一方では、それを自ら否定しているのだから、そのような人々と語り合っても、得るものがないのは当然である。

それは大円鏡知、すべてがさかさまの世界、すべての存在するものが究極的には「無い」という虚無の深淵へと通じて行くだけの語り合いである。

ちょうど今は盆の季節で、多くの人々が先祖供養のために帰省している。国民のほとんどには、自分たちが先祖崇拝という宗教儀式に参加している自覚はないであろう。しかし、終戦の日が8月15日に定められ、我が国最大の国家的行事としての戦没者追悼式がこの日に行われるのも偶然ではないように筆者には思われる。

我が国は、巨大な先祖供養のための国家的共同体であり、天皇は死者の霊の鎮魂と慰謝のための象徴である。その天皇の姿に、国民は自分を重ねながら、未だ先祖供養を自らの最優先課題として今も生きているのかも知れない。

だが、地獄の釜の蓋が開いて、束の間子孫のもとへ戻って来るという亡き先祖の霊が、子孫のために何かをしてくれたことが、これまでに一度でもあったのだろうか? 彼らは、子孫に慰めを要求し、供え物を要求する一方で、自らは何一つ子孫のために奉仕することもない。

それもそのはずである。地獄に落とされたという亡者たちが、生者のために何かしてあげることなど、できるはずもない。生前に自ら犯した罪のゆえに地獄で責め苦に遭い、永代供養を求めることしかできない地獄の死者たちが、本当に、厚かましく、独りよがりな亡霊ではなくて、尊敬すべき立派な先祖であり、まして仏であり、神として讃えられるべき存在だと、本当に考えられるであろうか?

いや、彼らが本当に神ならば、自分のためだけに生贄を終わりなく子孫に要求し続けるようなことをせず、生きとし生ける者の命を維持するために、自ら奉仕し、配慮するであろう。
 
自分が生んだ子らに慰めを与え、命を与え、日々の糧を与え、見離すことなく、生涯の終わりまで、共にいて助けるであろう。

それでこそ、神の名に値する。

それなのに、子孫に向かって永遠に要求を重ね、子孫の財産を奪い去ることしかできず、子孫の配慮によって、自らに供えられたものを、食べることも、味わうこともできず、感謝の言葉を発することもできない死者の霊が、果たして、神だなどということが、あるはずがないではないか。
 
クリスチャンであれば知っている。死者の霊が神になるわけではないと。そんなことは決して起きないと。神の独り子なる救い主であるキリストへの信仰を持たない者が、死んだからと言って、神になることなど決してありはしないのだ。

神の子に連なるためには、人は水と霊によって、すなわち、新しい命によって生まれねばならず、それは、その人が人類の生まれながらのアダムの命や、それに連なる関係に対して、霊的死を帯びることを意味する。

詩編には次のような言葉がある、

「父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」(詩編27:10)

この言葉は、私たちが救われたのは、生まれながらの肉の絆によるのではないことを、はっきり示している。十字架で私たちの罪のためのいけにえとなられた神の御子キリストを信じることによって、私たちには新しい命が与えられ、このキリストの命によって、私たちは神の共同体に加えられ、神の家族とされたのである。

だからこそ、神は私たちを子として守って下さる。必要な慰めを与え、励ましを与え、困った時に支え、助け、命を与えて下さる。それはこの世の命だけでなく、来るべき世においても続く永遠の朽ちない命である。
 
この関係は、死者の霊に子孫として連なる地上の肉なる絆「生み生まれる親子の立体関係」とは全く異なる。

私たちは、死と復活を経られたキリストの霊によって新しく生まれ、天的な新しい家族関係の中に入ったのである。

私たちが連なるのは、死者の霊ではなく、命を与える霊となり、よみがえられた最後のアダムなるキリストである。

そこで、古きは過ぎ去らなければならない。死んでは地獄に陥れられ、子孫に束の間の慰めを求めてすがるばかりで、子孫を慰めることも、救うこともできないような「生み生まれる親子の立体関係」は、死に渡されるべきなのである。

「イエスは言われた、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。」(マルコ10:29-30)

これは、私たちキリスト者が、地上の「生み生まれる」肉なる関係に対して死ぬ変わりに、神の家族という、新しい関係、新しい天の財産が豊かに与えられることを示している。

地上の関係を信仰のゆえに喪失するときは、それは一時的に、悲しいことのように感じられるかも知れず、また、そのような生き方は、この世の常識とは異なるため、世間の理解を受けられないかも知れない。

だが、私たちが失ったものをはるかに補って余りある天の豊かな相続財産を、神が私たちに約束して下さっていることは確かである。

最後のアダム、命を与える方、この方の言われる言葉はすべて真実であって、偽りがない。だからこそ、我々は然り、アーメン、と言うのである。

「神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。

神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。」
 
最後に、今一度、これまでに何度も引用したイザヤ書49章の後半を挙げておきたい。神はご自分が全能の主であることを知らせるために、ご自分のもとへ身を寄せるすべての者を守って下さる。神が信じる者を守って下さり、慰め、憐れみ、決して恥をこうむらせず、失望させることはないという約束は真実である。
 
「 天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

しかしシオンは言った、「主はわたしを捨て、主はわたしを忘れられた」と。


女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。
見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。
あなたを建てる者は、あなたをこわす者を追い越し、あなたを荒した者は、あなたから出て行く。

あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。主は言われる、わたしは生きている、あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。
あなたの荒れ、かつすたれた所、こわされた地は、住む人の多いために狭くなり、あなたを、のみつくした者は、はるかに離れ去る。

あなたが子を失った後に生れた子らは、なおあなたの耳に言う、『この所はわたしには狭すぎる、わたしのために住むべき所を得させよ』と。

その時あなたは心のうちに言う、『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。だれがこれらの者を育てたのか。見よ、わたしはひとり残された。これらの者はどこから来たのか』と」。


主なる神はこう言われる、「見よ、わたしは手をもろもろの国にむかってあげ、旗をもろもろの民にむかって立てる。彼らはそのふところにあなたの子らを携え、その肩にあなたの娘たちを載せて来る。 もろもろの王は、あなたの養父となり、その王妃たちは、あなたの乳母となり、彼らはその顔を地につけて、あなたにひれ伏し、あなたの足のちりをなめる。こうして、あなたはわたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥をこうむることがない」。

勇士が奪った獲物をどうして取り返すことができようか。暴君がかすめた捕虜をどうして救い出すことができようか。
しかし主はこう言われる、「勇士がかすめた捕虜も取り返され、暴君が奪った獲物も救い出される。わたしはあなたと争う者と争い、あなたの子らを救うからである。 わたしはあなたをしえたげる者にその肉を食わせ、その血を新しい酒のように飲ませて酔わせる。こうして、すべての人はわたしが主であって、あなたの救主、またあなたのあがない主、ヤコブの全能者であることを知るようになる」。



「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。

ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。

人の子が現れる日にも、同じことが起こる。

その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。

ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。
そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。 」(創世記19:10-11)


このところ、筆者はひたひたと良くないものがこの街に迫って来ていることを感じ、エクソダスの時が近いと感じる。ここに残ったり、定着する選択肢はない。エクソダスできるか、できないか、それが人の生死を分けると感じている。

このような時だから、以前のような牧歌的な記事を書くことは決してできない。人の耳に心地よい言葉を一切並べることはできないし、もっともらしい説教のような告白や、人の歓心を買うための記事など断じて書くことはできない。

さて、クリスチャンは考えてみたことがあるだろうか?

もしも自分の住んでいる街が、ソドムとゴモラであったなら?

ソドムとゴモラの住人との間に、平和な隣人関係や、愛や友情を育めるだろうか? そこで住人に受け入れられ、身内のようにみなされることは可能だろうか?

ノアが箱舟を建てていた時、ノアと同じ街に住んでいた住人や知り合いの誰一人として、彼が何をしているのか理解できなかったであろうし、ノアは彼らの嘲りに直面し、孤独だったろう。

同じように、ソドムにあるロトの家に神の御使いがやって来たとき、ソドムの住人たちがロトの家に押しかけて何を要求したかを思い出せば良い。

その街で、ロトは以前からずっと孤独ではなかったろうか。ソドムの住人たちは、ロトの家にやって来た御使いたちを凌辱する目的で、ロトに向かって彼らの引き渡しを求め、彼らの要求に従わないロトに押し迫ってこう言ったのだ、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」(創世記19:9)

ソドムの住人たちは、常日頃からまるで不良集団のように、いきりたって「獲物」を求め、街を徘徊していたと思われる。ロトがどんなに彼らをいさめても、「よそ者が何を思い上がって俺たちに尊大な態度で説教するか!」と、自分に忠告して来たロトにかえって危害を加えようとするだけであったほど、彼らは常日頃からまともではなかった。

そして、こういう住人は、ソドムでは例外ではなく、むしろ標準だったのではないかと思われる。何しろ、聖書をよく読むと、ロトの家に押し寄せたソドムの住人たちの中には、老いも若きもいて、かなりの大規模な集団をなしていたと思われるのである。決して一部の不良少年のような集団ではなかったことが分かる。また、そこにいない他の住人たちも、みなこの集団を恐れてものが言えなくなり、彼らが何をしてもとがめることなく、ただ目立たぬよう陰に引っ込んでいるだけだったのではないだろうか。もしかすると、この集団は、不良集団どころか、ソドムの自警団を名乗っていた可能性さえも考えられる。

ロトの娘たちの中で、ソドムの住人のもとに嫁に行った者たちは、誰もが婿の言いなりになってソドムの気質に汚染され、脱出のチャンスが与えられても、これを活かすことができなかった。

ロトがソドムから連れ出すことができたのは、ただ未婚の娘たちだけである。未婚というのは、その地に定着していないことを意味する。

ロトの妻でさえ、脱出がかなわなかったことを考えると、まさに配偶者の存在そのものが、財産と同じように、重荷となった可能性がある。ロトの妻が、ソドム脱出の際、ソドムの富に惹かれ、後ろを振り向いて、塩の柱になったことを考えれば、妻という存在が、ロトにとって、それ以前から、ひそかな心の重荷となっていた可能性さえある。

おそらく、ソドム脱出の前から、ロトは妻と信念を分かち合うことができなくなり、孤独であったのではないだろうか?

ロトの心を支配する価値観、何よりもロトの持っていた神への信仰は、おそらく、その地においては、誰からも理解されていなかったのではないだろうか。家族にさえも、理解者がいなかった可能性がある。そして、当のロトでさえ、ソドムに住んでいたくらいだから、聖書では「義人」と称され、かろうじて助かったとはいえ、かなりの程度、ソドムの価値観の汚染を受け、危うい状態にあった様子が、聖書の様々な記述から伺えるのである。

「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:29-31)

こうして、聖書は、配偶者であれ、家であれ、喜びであれ、悲しみであれ、家財道具であれ、飲んだり、食べたりすることであれ、どんなものも、キリスト者の主要な関心事になってはいけないと教える。地上にある限り、我々はそういう事柄に一切、関わらないわけにはいかないとはいえ、それらを行う時にも、ないがごとくに振る舞い、心を置いてはいけないと聖書は言うのだ。

筆者はロトの物語を教訓として振り返りながら、ますますそういう思いを強めている。

筆者は、首都圏に、また、この街に、これから何が起きようとしているのか知らず、筆者がここを出て行ったからと言って、まさかその日に天から火と硫黄が降って来るなどと言いたいわけではない。

ただもうここにいてはいけないということが分かるのみである。複数の筋から「出なさい」という忠告を受けた。

何より、筆者は、この街の住人の気質が、どんどん悪くなって行っていることを感じている。むろん、この街に限ったことではない。それは首都圏全域かもしれないし、もっと広範囲を含んでいるかも知れない。

いずれにせよ、「ソドムとゴモラ化」とでも言うべき現象が起き、洪水が少しずつ足元から押し寄せるように、じわじわと人を飲み込んで行くのを感じる。
 
「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。」
 
脱出の日には、全く後ろを振り返ることなく、地上のものへのすべての未練を一瞬で断ち切り、ただ前だけを向いて進んで行かなければならない。

だが、現代という時代には、たとえ神が脱出させて下さるにせよ、ロトと同じように、身一つで街を逃げ出すということはおそらくないであろうと筆者は思う。それでも、地に属するものには決して未練を持ってはいけないということはいつの時代も変わらない。

筆者は、この地に定着せず、この地の住人の歓心を得ようとすることなく、この地の人々の評価を受けたいと願わず、ここに住み着いて穏便にやって行くことを目的に生きて来なかったことを、誇りに思いこそすれ、いささかも恥とは思わない。それどころか、ソドムの社会に受容され、そこに定住して、一切の孤独とは無縁で、人々と「うまくやれる」人がいたとしたら、その人は明らかにおかしいのだと確信している。その人は我が身に滅びを招いているだけなのである。

だが、筆者がこのように言ったからとて、決して筆者がこの街を馬鹿にしているなどとは思わないで欲しい。この街に比べて、他の街ならマシだとか、どこならばよりよく暮らせるか、といった比較の次元で話しているのではない。これは霊的な文脈である。

だが、脱出する前に、まだひと仕事ある。ペリシテ人の神殿を崩壊させ、宮から商売人たちを追い出し、不信者とのつり合わないくびきを根こそぎ打ち砕いて、真に自分を自由の身とし、誰の奴隷にもならずに出て行くという最後の仕事が残っている。天の大掃除である。

話が変わるようだが、筆者はこれまで、主として、思想面から異端思想の構造を明らかにし、糾弾して来た。悪魔の思想というものが、この世にあることを指摘し、それらに共通する構造を明らかにして来た(グノーシス主義の構造)。

すなわち、悪魔の思想には、聖書の神だけが神であるという地位を奪って、生まれながらの人間を神として掲げ、キリストの十字架の贖いを否定し、キリストの花嫁たる教会に敵対するという特徴があるということを告げて来た。

多くの場合、こうした異常な思想を信じる人々が「神聖な要素」であるかのように主張するのは、人間の弱さ(生まれながらの自己)である。

カルト被害者救済活動もこうした思想の一つであるが、彼らは「被害者性」という人間の弱点を、あたかも神聖なものであるかのように掲げる。だからこそ、「被害者が冒涜された」などと主張しているのである。

彼らがこうして「被害者性」という「弱さ」を聖なる要素であるかのように掲げるのは、マザー・テレサが「貧しい人たちの中にキリストがおられる」と表現したのと同じ理由からである。彼らは要するに神でないものを神としているのであり、本当は、貧しさも、弱さも、被害者意識も、神聖とは何の関係もない、ただの堕落した人間の一部に過ぎない。

ところが、マルクス主義もそうなのだが、虐げられた人々が集まって、自らの弱さをあたかも神聖な要素であるかのように掲げ、それを軸にして連帯すると、強者と弱者の関係を覆し、自らの弱者性をバネに神にまで至ろうとする思想が生まれる。

これが社会主義思想くらいの程度にとどまっていればまだ良いのだが、本当に神の教会に敵対することを目的とする思想になってしまうことがある。それが、カルト被害者救済活動である。この思想の極めて悪質なところは、神聖な方は、聖書の神ご自身であり、また、キリストの十字架の贖いを受け入れ、御子を信じて救われた信者によって構成される神の教会こそ、その聖にあずかっている存在のはずなのに、彼らは「教会で被害を受けたという人の弱さ(被害者性、弱者性、自己)」を神聖な要素とはき違え、教会を悪者として訴えながら、自分自身が教会の裁き主となろうとし、教会を押しのけて、あたかも自分こそ神聖な存在(宮)であるかのように主張している点なのである。

むろん、今日、組織としてのキリスト教会には様々な堕落が起きて、神の御心から離れていることは事実である。だが、そのことを内側から憂慮し、御言葉に立ち戻ることで是正していくことと、堕落しつつある一部の教会のために、教会全体を敵に回して告発することはわけが違う。

後者の思想・運動は悪魔的な構造を持つものなので、これに関わって行くうちに、人々は悪霊に深く憑りつかれて正気を失い、無実のクリスチャンに対する迫害・弾圧に及ぶことになる。筆者はこれまでに幾度もそう警告して来た。そして実際にその通りのことが起きているのである。

にも関わらず、大勢のクリスチャンを名乗る人々が、この思想に貫かれてクリスチャンを弾圧する者どもらの勢いに気圧されて、沈黙してしまった。あるいは、脅しつけられて、黙ってしまった。ちょうどソドムとゴモラの中で、ロトが住人たちに押し迫られていた時、他の住人たちはどこにいたのかも分からず、ロトの家族でさえ、一切抵抗できずに口をつぐんでいたのと同じである。

しかし、突如、話が変わるように思われるかもしれないが、筆者は次の言葉が好きである。

ソドムの住人たちが、ロトの家に御使いの引き渡しを求めて押し迫った時、御使いたちがソドムの住人たちの目をくらませたので、彼らは大勢であったにも関わらず、ロトの家に押し入ることができなかった。

もう一度言うが、筆者はこの言葉がとても好きである。

「彼らは入口を捜すのに疲れた。」

聖書を読むと、悪霊たちは、人間を宿として、人の中に住もうと絶えず願っていることが分かる。

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになるだろう。」(マタイ12:43-45)

悪霊に入られないための秘訣は、家を「空き家」にしないことだ。もしキリストが住んでさえおられるならば、悪霊はそこに入ることができない。ソドムの住人たちがロトの家に押し寄せて来たとき、ロトの家の中には御使いたちがいた。そこで、御使いたちは、住人たちがどんなに大量であっても、彼らの目をことごとく打ってくらませ、入り口が見つからないようにさせたのである。

住人たちはそんなに大きくもないと思われるロトの家の周りをぐるぐるぐる行き巡ったが、入り口が見つからず、疲れ果てて帰ったというのだから、筆者はこの場面を想像すると、思わず笑ってしまう。

だが、現代のキリスト者もこれと同じで、キリストが内に住んでさえおられるならば、悪魔に入り口を自ら指し示したりすることはないのだ。

しかし、もしキリストが住んでおられなければ、悪魔にとっては入り口を見つけるのは容易であろう。

今は、カルト被害者救済活動の思想的な構造について言及することはしない。ただ、この悪魔的な思想に憑りつかれてしまった人たちが、筆者を攻略するために、すさまじい呪いと中傷を筆者に投げかけていることだけを述べて糾弾しておきたい。

筆者の周りにいるクリスチャンたちは、これに抵抗できず、自らが罵倒されているにも関わらず、立ち向かうどころか、彼らの軍門に下ってしまった。今や彼らを公然と糾弾しているのは、ただ一人筆者しかいない(もちろん、彼らを非難している人たちはいるのだが、立ち向かうという点では、筆者一人のように思われる)。

だからこそ、彼らは何とかして筆者の証をも地上から取り去りたいと業を煮やしていればこそ、筆者にすさまじい呪いと迫害と中傷を加えているのである。

彼らの言い分の中核は、「おまえはこのソドムの街でうまくやれず、ソドムに定着もできず、ソドムに受け入れられず、ソドムで生計を立てることに失敗した情けない落伍者だ。このソドムの住人は、誰もおまえの存在を喜んでいないし、おまえの証にうんざりしている。あとから来たよそ者のくせに、おまえは自分が俺たちに受け入れられなかったからと言って、まるで俺たちのさばきつかさのように尊大に振る舞い、俺たちに上から目線で説教しようとした。そんな高慢な態度は許せない。だから、カルト化教会の道を踏み外したどんな牧師よりも、おまえをもっとひどい目に遭わせてやる」ということに尽きる。

まさにロトに対してソドムの住人たちが述べた言葉と同じである。

それに対する筆者の反論はすでに記した通り。ソドムに受容され、ソドムで孤独を感じず、ソドムに定着する人間の方が全くどうかしているのだ。筆者は一度たりともそんな人間になりたいと考えたことはなく、彼らに「落伍者」であるかのように罵られても、それをむしろ当然であると思う。

むろん、筆者は彼らの呪いや中傷を放置する気はないし、彼らの思い通りになることもない。彼らの手から筆者自身を救い出す。二度と彼らが筆者を呪ったり、汚し言を言うことができないように。

だが、ひとこと断っておけば、この戦いは長期に渡り続いており、激しい迫害になっているとはいえ、そんなに次元の高い戦いではない。こうした人々によるネット上のクリスチャンに対する迫害は、現実生活においてまで、信者に危害を加えるレベルに達しておらず、また、影響の範囲も限られている。何より、きちんと手を打てば終結するし、このような低い次元の情報を鵜呑みにして信じる人々の数もごくわずかに限られている。

学者にとっては自分の主張の論拠をどこから引っ張って来るのかが大切であり、誰も自らの論文で三流・四流のゴシップ新聞の記事を引用したりしないのと同じように、あまりに低い次元の誹謗中傷などを大真面目に信じて吹聴していれば、その人の人間性が疑われるだけである。

だから、一定の洞察力を持っている人は、誰もこういう低次元の情報に振り回されることはない。

しかし、この度、筆者は、そうしたものを超える、もっと高度な迫害が現実にありうることを述べておきたい。それは歴代のクリスチャンがずっと耐え抜いて来た、本当の迫害のことである。

再び、話が変わるように思われるかも知れないが、悪霊は人間を宿としてその中に入り込み、その人間を思うがまま操るが、人間の中に悪魔自身が入ることがありうることを、聖書ははっきり教えている。

「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(ルカ22:4-6)

これはイエスを売り渡す行為が、決して下級の悪霊にはできない仕事だったことをよく表している。だからこそ、サタン自身がそれを遂行するために、ユダの中に入ったのである。そして、注目したいのが、ユダに悪魔が入ったのはいつなのか、ということである。

「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペテロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。ある者は、ユダが金入れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」(ヨハネ13:21-30)

前にも書いたことがあるが、神はクリスチャンに代価を要求される時、決して本人の承諾なしに何かを強制的に剥ぎ取ったりはなさらない。たとえば、殉教を願っていないクリスチャンに殉教を強制されるようなことは決してない。

クリスチャンが神に従う過程で、何を手放すかは、神とその信者との間で合意があった上で、決められる。そして、神は決定的に重要な事項は、信者が目を覚ましてさえいるならば、前もって知らせて下さる。大きな迫害が迫っている時や、危機が訪れようとしている時、もし信者が御霊に聞く姿勢さえ失っていなければ、必ず知らせて下さる。

だから、もし何の前触れもなしに、不意にとてつもなく悪しき出来事が起きてそれに翻弄されるようなことがあれば、その時は、クリスチャンが目を覚ましていなかった可能性が高い。
 
主イエスは、ご自分が父なる神に従うために、命を投げ出さなければならないことを、以上に挙げた場面で、すでに知っておられた。それが避けがたい召しであることも知っておられた。そして、神との間で、命を投げ出すことにすでに同意されていたのである。

主イエスが、その召しに承諾してから、初めて、サタンは動くことができた。いわば、サタンは、イエスの許可なく、ユダを使ってイエスを裏切ることができなかったのだと言える。そこで、イエスが「今こそ、その時だ」と、指示した時、初めてサタンがユダに入った。イエスは裏切られることを前もって知っており、ご自分が死に渡されなければならないことをすでに承諾しておられたからである。

我々クリスチャンの人生にも、似たようなことが起きる。

悪魔がどんなに猛威を振るうように見える時でも、最終的に見れば、それは神の支配下で許された範囲内でしかないのである。たとえば、クリスチャンには、兄弟姉妹を名乗る人たちによる手ひどい裏切りが起こることも稀ではないが、そのようなことは、ある日、突然、起きるものではない。あるいは、肉親にまで裏切られることもあろうが、そういうことは、必ず、神ご自身が信者に教えて下さる。我々はすべての兆候から、そうなることを前もって予測できるのである。むろん、心の準備も可能である、目を覚ましてさえいるならば。

クリスチャンを罵るくらいのことは、下級の悪霊のレベルでも可能であろうが、クリスチャンに手をかけて命を取るような危害を加えるというようなところまで行くと、これはサタン自身の仕事である。サタンの霊を受けた人間しか、そのようなことを大規模に実行できる人間はいない。だが、心配しなくて良い。そのような迫害は、それを受けるクリスチャン自身が、神との間で、前もって同意しない限り、その人の身に起こりはしない。

聖書は言う、

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)

筆者は今まで幾度も殉教について述べて来た。最終的には、すべてのクリスチャンは殉教を目指すべきであると思う。だが、筆者について言えば、今はまだその時ではない。これは殉教を恐れるがゆえに言うのではなく、すべての物事に時があることをただ述べているだけだ。だが、上記の御言葉の実に多くの部分はすでに筆者の人生で成就している。戦いはかなり深いレベルにまで達した。

これから先、クリスチャンに対する迫害は、時をかけて、より一層、巧妙に、深化して行くであろうし、ついに最後には殺意のレベルへまでも進行して行くであろうと予想する。そうなるためには、まだしばらく時があり、時代の状況そのものが変わることであろうが、すでにその戦いが始められようとしていることを筆者は知っている。

この地へやって来たときとは正反対である。やって来たときには、筆者はキリスト者の純粋な交わりを求めて、それに憧れ、心躍らせていたが、牧歌的な時代は終わったのである。

そして、筆者は心の中で神に向かって言う、「いいでしょう。同意します。私にはあなた以外で価値あるものは何もありません。」と。「たとえ兄弟姉妹であろうと、ソドムの住人であろうと、誰であろうと、あるいは物であろうと、家であろうと、何であろうと、あなた以外のもので、私が自分の心の中心として据えるものは何もありません。私はあなたが私に望んでおられる道を生きることに同意します。ただその道において、あなたが束の間の苦難と引き換えに、はかりしれない重い栄光をすでに天に用意しておられることも私は知っており、その褒賞を見上げ、それに至り着きたいと願っているのです。どうか私があなたの栄光に入り損なうことがありませんように。」



「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。

この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを明かししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(ローマ12:1-2)


もしもこのブログを読んでいる人々の中に、力の強い人間の顔色を伺い、権力者の思惑を忖度して行動している人がいるなら、そんな生き方はやめて、一刻も早く、神の顔色を伺った方が良い。

筆者はよくサムソンの最期を思い出す。このブログでサムソンに触れたのは、今回が初めてではない。

信者は、地上の人間である限り、神の義と神の国を第一にして生きると言いながらも、それでも、心は常に地上のものによろめき、容易に逸脱を繰り返す危なっかしさを持っている。筆者も、そうした弱さを持つ人間の一人として、自分の心が真に重要なものから逸れかけていると気づく時、はっとサムソンのことを教訓として思い出すのだ。

もちろん、神の霊が内に住んでおられる信者が、デリラの誘惑に屈したりすることはない。むろん、信者がサムソンのような最期を遂げる必要もない。この地上にいる信者たちが誰しもサムソンのような最期を遂げていたのでは、御国の前進もないだろう。

とはいえ、サムソンの生涯は、そのものが私たちにとって大きな教訓である。

信者は目を覚まして、地上のものに心惹かれることに警戒し、何が真に重要なことであるか、常に見極めようとしなければ、霊的視力は容易に曇らされてしまい、天の宝を失ってしまうという教訓なのである。

そうして目を覚まさせられる瞬間、筆者はサムソンのことを思う。そして、考えるのだ。どうすれば、神の目に本当に喜ばれる奉仕を成し遂げることができるのか。そして、そうだ、まだやり残したことがあった、と思う。ペリシテ人の神殿を崩壊させる仕事が残っているではないか、と心に思うのだ。

このように、筆者が渾身の力を振り絞って「ペリシテ人の神殿」を崩壊させて来たことが、これまでに何度かある。その戦いは、周りから見れば、ありふれた出来事でしかなかったかも知れないが、そこには大きな心理的なドラマがあり、予行演習があった。

デリラの誘惑に引きずられたために、罠に陥れられ、神から与えられた賜物としての力と輝きを失ったサムソン。両手を鎖につながれ、両眼をえぐり出され、奴隷的苦役に従事させられ、ついにはペリシテ人の余興として辱められるために、見世物として宴席に引き出されたサムソンが、最期の力をふりしぼって、ペリシテ人の神殿の柱に手をかけた。

サムソン最期の神への奉仕だ。

彼は何もかも剥ぎ取られた人生最期の瞬間に、自分のすべてをかけて、地上のものへの未練を振り切り、神の権益に寄与した。その瞬間、ペリシテ人の奴隷になっていたサムソンに怪力が戻った。異教の神殿は音を立てて崩壊し、宴席に連なって酔いしれていたペリシテ人たちは、奴隷のサムソンにまさかそんな力があるとは思わず、完全に油断し切って慢心し、欲望にふけり、酔いしれていたので、逃げ出す暇もなく、壊れた神殿の下敷きになって死んだ。

サムソンの場合は、気づくのが、ちょっと遅すぎたのではないか、と筆者は思う。本当は、これほどまでにすべてを剥ぎ取られる前に、信者が神に立ち返ることは十分に可能だ。だが、同時に、パウロが「あなたがたは罪と戦って、血を流すまでに抵抗したことがない」と信者を叱咤したように、人間の心に潜む堕落の深さを、まだ十分に知らないがゆえに、甘く見てはいけない部分もある。

ある信者たちは、ダビデとバテシェバの物語を聞いて、ダビデの心の弱さを嘲笑する。何と愚かな人間だろう、自分であれば、そんな過ちは絶対に犯しはしないのに、と笑うのだ。だが、人間と人間の魂の間には、各自の感情や思惑をはるかに超えた、何かしらの絶大な本能的な力が働くことがある。魔がさすとでも言うのか、とてもではないが自力では太刀打ちうちできないような強力な誘惑が人生に起きて来ることも時にはあるのだ。

それが、人間の堕落した魂と肉体に働く悪魔的な力である。

そして、信者らは、この堕落した魂と肉体に働く力を、常にキリストと共なる十字架の死へともたらし、神の霊の働きによって体の働きを殺す。これは人の力で成し遂げられることではない。キリストが十字架で勝利されたからこそ、適用することのできる力なのである。
 
キリスト者は神の神殿であり、サムソンも旧約聖書に登場するすべての信仰の先人同様に、神の神殿の型である。ナジル人の風習として、サムソンが髪の毛に剃刀を当てないことは、サムソンが神の神殿としてこの世から聖別された地位を保つという意味を持っていた。頭の毛を切ることは、神殿とこの世を隔てている覆いを取り払い、神の神聖を自ら捨ててこの世と同化することと同義だったのである。

このような文脈で見ると、ナジル人のサムソンは神に対して霊的に女性である人類を代表していたと言えるかも知れない。パウロは言う、女性の長い髪は頭の覆いのためであり、その意味で髪は女性の栄光であると。人類という被造物は、創造主である神に対して霊的に女性の立場にある、この意味では、髪に覆いをかけることで聖別を保ったサムソンと人類とは重なるのかも知れない。
 
キリスト者の支配は、心の中から始まる。神と悪魔との戦いは、いわば、信者の心の中心の争奪戦でもある。信者が何を第一として生きるのか、神を第一として生きているのか、それとも、それ以外のものを第一として生きているのか、その激しい主導権争いが信者の心の中から始まるのだ。

信者が霊的な戦いに勝つためには、信者が自らの心の中で、ただ神だけを中心に据え、他の何者にも決して頼らない状態を作り出さなければならない。心の中からすべての「デリラ」を追い出し、「アカンの外套」を捨て去り、神以外のどんなものも心の中に中心として据えるものがない状態にしておかねばならない。
 
決してどんな地上の人間にも頼らず、神だけが栄光を受けられる状況を自ら作り出すのだ。

さらに、もしできるならば、エリヤがしたように、戦いをより一層、難しいものとするために、神の栄光が人の目によりはっきりと現れるために、祭壇に何度も水をかけ、火がつきにくいようにしておけば良い。
神がついておられなければ、勝利などあり得ない状況にしておくのだ。

それさえできれば、戦いの勝利は確定したも同然である。あとは柱に手をかけ、一歩を踏み出すだけだ。待ち望みの時は過ぎた。髪の毛は十分に伸びている。神がついておられるならば、誰が信者に敵することができようか。

さて、今回は長い記事は書かない。

はっきり告げておきたいのは、筆者の書いた多くの内容には、筆者でさえ書いた当時は理解していなかったような予言的な意味が込められていることが、後になってから分かることがよくあることだ。これは自慢話ではなく、キリスト者の歩みに、何一つ偶然はないことを示している。

筆者は、以前、剣を取る者は剣で滅びるように、裁判に訴える者は裁判で滅びると書いた。

神が怒られるのが遅く、その憤りは長く続かないと聖書にあるように、筆者もかなり気は長い方だ。むしろ、怒るべき時に怒らないのでチャンスを逃していると叱咤されてもおかしくない。
 
それでも、そんな筆者も、サムソンがその怪力によって何人もの敵を倒したように、自らの主張だけで、いくつもの「ペリシテ人の神殿」を倒した。予行演習としてはもう十分であろう。随分、時間がかかってしまったが、そろそろ本番が待っている。

筆者は一つ前の記事に、新居に来て後、しばらく家具を選ぶことに熱中していたと書いた。それは無価値なこの世的な興味関心であったかも知れないが、そのことからも、学んだ教訓はある。それは、完全なものを得るために、信者は決して妥協してはならないということである。

時に、ベターはベストの不倶戴天の敵となる。次善にも、それなりの長所があり、輝きがある。だが、次善が、最善であるかのように振る舞った時、次善はただちに悪となる。それは悪しき腐敗した虚偽として、取り除かれねばならないものになって行くのである。

ガラス玉もイミテーションとして楽しむうちは無害であろう。だが、ガラス玉が自分はダイヤモンドだと言い始めた時に、それは悪の権化、罪の化身となる。山登りをする人が、初めから自分は5合目までしか目指していなかったから、途中で山を下りたと言えば、嘘にはならない。だが、もともと山頂まで上るはずだった人が、4合目、5合目で疲れて立ち止まり、下山したにも関わらず、自分は登頂したと宣言すれば、それは大嘘である。

問題は、キリスト者は常に神が満足される完全を目指さなければならないのに、そこにこそ、神と私たちの心を完全に満足させる天の栄光に満ちた相続財産があるのに、多くの人たちが、次善で満足した上、それがあたかも最善であり、完全であるかのように見せかけようとすることにある。

筆者はこれまで「カルト被害者救済活動」の何が間違っているかについて述べて来たが、この活動も、神の最善に悪質に立ち向かう「次善」である。神ではない人間による救済事業は、うわべだけは善良そうに見えるが、真理に立ち向かう悪質な虚偽だからである。

聖書の真理は、神ご自身にしか、人間を救済することはできず、苦しむ人々を「救済」する仕事は、ただ神だけのものであって、人間自身には人間の救済はできないというものだ。神の助けを受けることこそ、我ら人間にとって完全な道であり、最善の道である。我らの救い主として栄光を受けるべき方は、神ただお一人しかいない。

にも関わらず、この地上では、牧師や、教師や、カウンセラーや、助言者たちが、あたかも自分たちが人間を苦しみから救う力を持っているかのように、親切で善良そうな言葉を振りまき、耳元でささやく。まして、神の教会で起きたトラブルを、自分たちには解決できる力があると言う不遜な人たちまでいる。そして、彼らは、神の教会や信者の欠点や弱点をさかんに噂し合いながら、教会を貶め、悪しき教会から人々を助け出すと言っては、心弱く自信のない大勢の人たちを惑わして行く。

だが、これはしょせんAチームBチームの戦いでしかないのだ。神になり代わって指導者として信者に君臨する中間搾取者が、自ら他の中間搾取者を訴え、取り締まっているだけで、「あの先生」と「この先生」の間の戦いを行き巡っている限り、決して信者が自由になれる日は来ない。

このような偽りの「指導者たち」の唱える「救い」が完全に偽物であることは、彼らが筆者に対して行って来たすべての仕業からすでにはっきりと明らかである。彼らは、信者たちの弱さにつけこみ、問題につけこみ、それを解決してやるように見せかけながら、実際には、「偽物の救い」という、デリラの甘い誘いでがんじがらめにし、信者に本当の神の力を決して味わわせないように、信者の聖別を奪い取って、捕虜として連れて行くだけなのである。

彼らが望んでいるのは、ただ自らが神の代理となって、信者の心を支配し、神がお与えになった信者の自由を奪い、信者を道具として自分の利益のために搾取し、それにも関わらず、自分はあたかも人前に人助けをしている善人であるかのように振る舞い、神から栄光を奪い取って、自分自身が栄光を受けることだけなのである。彼らにとって、弱さのゆえに自分を頼って来た信者は、いわば、獲物である。

このような活動は、神の救いに真っ向から対立する悪質な虚偽である。だが、そのことは幾度となく述べて来たのでここでは繰り返さない。

キリスト者は、すべてにおいて、完全を目指さなければならず、それ以下のもので決して満足して立ち止まってはならない。たとえどんなに優しく親切そうな人間が現われ、困っている時に、助力を申し出て来たとしても、それが人間であって、神ご自身ではないという事実が持つ重大な意味を、信者は決して忘れるべきでないのだ。そして、次善を最善以上に高く掲げるという過ちを決して犯すべきではなく、神以外のものに栄光を帰してはいけない。次善の誘惑に屈しないために、そのような偽りの助けは最初から拒むのがよかろう。

繰り返すが、我らの救い主は天にも地にもただお一人であり、救済者は神しかいない。だが、キリスト者はその真理に従うために戦いを迫られる。あらゆる面で、神の完全を追求するために、あらゆる次善を拒否する戦いを最後まで立派に戦い抜かねばならない。

そこで、信者には、肉なる腕(人間)から来るすべての助けを、悪しき堕落した誘惑として拒否しなければならない時が来るのだ。だが、自分が救済者をきどりたい人たちは、「次善」呼ばわりされ、自分たちの助けの手は必要ないと言われると、プライドを傷つけられたと感じて怒り出す。その瞬間に、彼らの化けの皮がはがれる。

彼らは、苦しむ人々を救済すると口ではあんなに親切そうにうそぶいていたのに、いざ、自分たちの本質を見抜かれると、それを見抜いて去って行った人々に猛烈に石を投げ、殺意に至るほどの敵意を持って追いかけ、真実を訴えさせまいと、口を封じようとする。

このような凶暴な人々の本質が、救済者ではないどころか、むしろ、人殺しであることは、今や誰の目にも明白である。

主イエスが言われた言葉を思い出そう。

「彼らが答えて、「私たちの父はアブラハムです。」と言うと、イエスは言われた。
アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、いま、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことをしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。

そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です。」と言うと、イエスは言われた、

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。<…>あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころにしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。」(ヨハネ8:39-44)
 
このところ、有名人の不倫騒動が世間を騒がしており、この世の法に照らし合わせても罪に相当するはずのない事柄が、あたかも重大な罪のように取りざたされ、そのために人々が互いに石を投げ、断罪し合っているが、それを見ても思う。世の裁きは何と神の裁きに比べて、憐れみも容赦もないことだろうかと。

いつもそうだが、人間による裁き(人間による救済と同じ)は、最初こそ、人の目に優しく、親切そうに、正義のように見える。ところが、人間による裁きは、最後には、どんな宗教でさえ考えつかなかったほどの、とてつもなく厳しい行き過ぎた制裁となり、ついには法にも常識にも基づかないデタラメな私刑へと落ち込んで行くのである。

こうして、悪魔(この世)が悪魔(この世)を厳しく裁き、取り締まるというのだから、思わず笑ってしまう。だが、人間による救済は、このように、必ず救済どころか、とてつもなく厳しい裁きにしかならないことが、途中で明らかになる。そのことが、「カルト被害者救済活動」の暴走の過程でも、完全に裏づけられていると言える。

私たちは神の憐れみに満ちた裁きにすがるのか、憐れみのない人間の裁きにすがるのか、常にどちらかの選択を迫られている。

「自分たちはアブラハムの子孫だ」と言いながら、主イエスに対する敵意に燃え、イエスを救い主として受け入れず、十字架にかけて殺した人々は、自らよりどころにしていた律法によって容赦なく裁かれることになった。
 
今日も同じである。神が義とされた教会やクリスチャンに、この世の法の裁きを適用し、クリスチャンを有罪に追い込むことで、正義を実現しようと考えるような人々は、結局、自分自身がよりどころとしているこの世の法によって最も容赦なく罪に定められるだけである。

彼らを裁くのは、御霊ではなく、主イエスでもなく、御言葉ではない。彼らには神の憐れみに満ちた裁きが適用されず、彼らを裁くのは、彼らが信じて頼みとしているこの世の法である。そして、悪魔の悪魔に対する裁きはいかなる容赦もないものであり、彼らが他者に対してふりかざした厳しい基準がそのまま彼らに当てはまることになる。律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消えうせる方が易しい」(ルカ16:17)のだ。

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(マタイ5:21-26)


悪魔はあたかも自分にこそクリスチャンを訴える権利と資格があるかのように振る舞うだろう。聖書によれば、悪魔は「日夜、兄弟たちを訴える者」であるから、常にクリスチャンを自分から先に告発しようと躍起になっている。

だが、聖書の御言葉を参照するなら、どうだろう。むろん、神に義とされた者を再び罪に定めることのできる存在はおらず、悪魔の訴えはむなしく退けられるばかりか、兄弟(クリスチャン)を罵倒し、傷つける者こそ、特別に厳しい裁きを受けることが聖書にははっきりと示されているのだ。

そういう者たちは、最後の1コドランスまで支払って、和解しない限り、牢から出て来ることはできない。これは、この世の裁きのことだけを指しているのではなく、むろん、地獄の永遠の裁きのことをも指している。恐ろしいことである。神の贖いによって義とされたクリスチャンを罵倒し、罪に定めようとすることが、どんなに恐ろしい罪であり、永遠の厳しい裁きに価するかがよく示されていると言えよう。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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