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「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使さえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通をする者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を植えkÞぐことができません。

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」(一コリント6:1-11)
 
最近、掲示板での誹謗中傷もすっかり影をひそめた。そして、村上のブログからも、筆者をあからさまに断罪し、勝訴を誇る以前のような記述が消えた。

さすがに、杉本に対する取り調べが行われると分かり、掲示板でも、個人を特定して責任追及がなされることが予告され、掲示板の投稿者らも、危ないと理解したのであろう。そして、村上には二審で不利な証拠が積み上がっている。一審の時と同じようにはならない。

週明けから、杉本に対する新たな差押の準備を進めていたところ、またしても日曜日に杉本が筆者にメールを送り付け、そこで筆者の取立が迷惑行為であるとか、脅迫、恐喝であるなどと騒ぎ立て、支払いに応じる姿勢も全く見せず、何と控訴しているとまで書いていた。

相変わらず、自分に都合の良い言い訳だけを一方的に並べ、自分を振り返ってもらうためだけに他人に接触する行動パターンは何一つ変わらない。しかしながら、筆者が犯してもいない罪を犯しているかのように触れ回れば、それは新たな名誉毀損行為に該当する。

判決で削除を命じられたブログ記事の多くを5月になるまで削除せず(現在、非開示にしているだけなのかも不明)、コメントも改ざんしただけで、完全に削除もせず、賠償命令に逆らい、もはや、争うべき事実もほとんどないのに、判決を不服として控訴しても、受理される見込みは低いだろうと筆者は予想する。

杉本が一審で出して来た怪文書のような文書は事件ファイルにおさめられている。そのような内容の文書にこれ以上、目を通すことには、誰にも合理性が見いだせない。一審で反訴を言い立て、ついには裁判官に職権で拒否すると言われた悪印象もある。判決を不服とする控訴はそれ自体が非常に印象が悪く、控訴審では一審以上に反訴が難しいので、そのための保険にするつもりか、あるいは報復のためだけの控訴なら、ますます印象を悪くするだけで、容易には受け入れられないであろう。

筆者も、控訴する時には、この点に留意し、新たな証拠の発見等による判決の変更を求めるとして、一審判決と争う姿勢を見せることを避けている。裁判官の見立てと異なる考えがあっても、判決が言及しているのとは、別な角度から主張を補い、判決と合わせた共同作品を作るような構えで理由書を書いている。

一審で打ち立てられた成果を土台にして、二審をさらに完全なものとする。筆者の目的はそこにあるのであって、積み上げた成果を崩すことにはない。
 
今、こうして杉本が、またもや筆者が犯してもいない罪を言い立て、判決に従わない姿勢を見せていることをも、理由書にてよく示しておき、この先、杉本の控訴を受理することには、いかなる合理性もないことを主張して、控訴審に備えることとなる。
 
正直な話、控訴が正式に受理されてもいないうちに、その旨を杉本が筆者に告げて来たことは、かえって筆者に対策を講じる十分なチャンスを与えるだけの結果となった。
 
さて、勤務先に対する強制執行などは、人生そのものをひっくり返す可能性のあるものである。面識もない個人に対する名誉毀損行為に及び、判決で賠償を命じられても従わず、社会的責任から逃れ続けていることが分かれば、社会福祉士としての信用も、この先、得ることはできまい。

それだけではない。ヤギの会から、メールが来ていた。裁判関係の資料と杉本のブログを送付しておいたところ、ただ一方的な情報提供だけに終わるかと思いきや、受領の連絡があり、紛争には介入できないとしても、随分、丁寧に対応をされているという印象を受けた。

たった1件のコメント削除の依頼を受けただけで、このような紛争を自ら引き起こし、判決にさえ従わない人間が、大勢の人たちと協力して物事を進めなければならない世話人の仕事をきちんと果たすことができるとは、筆者には思えない。火種を抱えることになるだけで、会の信用にも関わるだろう。この先、よく検討されることをお勧めするのみである。

しかし、このような結果に至ることも、すべて杉本が自分で選んだ選択なのである。速やかに負うべき責任を負って、滞りなく支払いの連絡を済ませていれば、このような事態に至ることもなかった。筆者は幾度も、猶予をもうけ、チャンスも与え、諫め、警告したが、杉本が合理的な選択肢をことごとく拒否したために、現在に至っている。

こうして、判決から今日まで、何も変わったことがあるわけではないのに、一審判決の言い渡し直後と、現在とでは、当ブログを取り巻く雰囲気はまるで異なることに驚かされる。

これが裁判のもたらす社会的影響力なのだと筆者は思う。判決に従わないことが、どれほど人の信用を落とすかかがよく分かる。杉本がこうして裁判所の決定にも逆らっている以上、筆者が最後の手段を講じねばならないとしても、もはや筆者を責める人間は誰もいないであろう。

 * * *

「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。」(1コリント3:14-15)

さて、先の記事で、サタンの体が焼き尽くされた可能性があると筆者は述べたが、高慢な者に対する裁きはいつも同じで、彼らが「体を失う」ことではないかと筆者は見ている。

だが、ここで言う体とは、文字通りの体ではなく、人間の外側の部分のことである。つまり、人の居場所や、社会的受容、富、名誉、地位、職・・・、神の喜ばれない生き方をしている人が、よすがとして来たすべての虚栄を剥ぎ取られ、焼き尽くされ、高慢さの源となるものがすべて失われることである。神の妬みの炎が、永遠に至らない何もかもを焼き尽くしてしまう。

「見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。」

「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」(黙示19:3)
 
神の妬みの炎が、おのおの人生の価値を試すのだ。
  
筆者が現在、村上、杉本、唐沢の3名に対して(まだ提起していないものも含め)訴訟を展開しているのは、信仰の争いをこの世に持ち出すためではないし、彼らの属している教会を訴えるためでもない。

むしろ、長年の観察の結果、これらの3名は、もはやキリスト教徒ではなく、兄弟と呼ぶべき人々ではないことがはっきりと分かったため、教会をこの世の支配下に置こうとするこの人々の魔の手から、教会を解放するために、筆者は、この人々を世の前に訴え出ることにしたのである。

これらの人々がクリスチャンでない以上、筆者の行為は何ら以上の御言葉に抵触するものとはならず、変節にも当たらない。

昨年一年間はかなり大変な戦いであったが、ようやく人々の理解を得、関わる人たちの信頼を勝ち得ることができ、また、その秘訣を学んだので、すでに書いた通り、今はこの裁判に反対する人は、もう周りにはほとんど誰も見かけなくなった。
 
少しずつだが、一審の影響が各地に波及している。二審の結果はもっと大きなものになることを予想している。これまで作られた淀んだ空気の流れを完全に払拭し、変えられるとすれば、あと2~5年くらいだろうか。

5年も経つ頃には、おそらく、杉本・村上・唐沢の名は、もはや聞かれなくなるものと筆者は思う。カルト被害者という言葉も、ほぼ絶えて聞かれなくなるであろう。筆者の裁判に最後まで反対していた人たちも、口を閉ざして、何も語らなくなるものと思う。
  
* * *

さて、上記3名に共通する点は、自己の内に深刻なコンプレックスを抱え、キリストの聖なる花嫁であるエクレシアに対し、尽きせぬ憎悪を抱いているということである。当初は、この3名は互いに対立し合っており、何の共通点もないように見えたが、最終的には、エクレシアを敵とするという点で、利害が一致したものと筆者は見ている。

杉本は、すでに記事で書いた通り、プロテスタント、福音主義に対して根強い不信感を持っており、アッセンブリー教会でペンテコステ運動につまずき、大きな心のトラウマを抱えた。
 
村上密も、青年期に統一教会に入信、暴力を伴う強制脱会を経験したことにより、キリスト教に対する根強いコンプレックスもしくは恨みを持っていると見られる。村上の救済活動が、彼の幼少期のトラウマに基づくものであって、真の救済活動ではないということを、筆者は幾度も記事で述べて来た。
 
唐沢治は、かつて異端のローカルチャーチに入信していた経歴があり、若い頃に、自分の失敗にで花嫁に去られた経験を持つ。そのことは唐沢自身が幾度もメッセージで語り、また、当時は、記事などにも書いていたことである。

彼はある女性と結婚を約束し、その女性から約束の実行を求められていたのに、(記憶によると)進学などを理由に、結婚を先延ばしし、不信感を持たれて花嫁に去られた。それによって、深い心の傷を負い、苦しみ、自分の身勝手さを悔い改めて神を求め、聖霊のバプテスマを得たと、当時はブログやメッセージでさかんに語っていた。

今でも、ホームページのプロフィールに書かれている唐沢の「聖霊による油塗り」の体験は、傷ついた心に対する癒しとして与えられた当時の体験を綴ったものではないかと見られる。

だが、それは本当にキリストの霊であったのかどうか、そこから筆者は疑問に感じている。村上密の眉唾物の回心の体験と同じくらい、それには根拠が乏しいのだ。
 
今現在、唐沢は幸福で安定した家庭生活を送っているかのように豪語している。その点では、村上も同じである。だが、それはうわべだけのことであって、村上の家族に起きた不幸な事件についてはすでに記した通りであり、また、唐沢も、大学講師時代には常に女学生への人気を誇り、とても妻帯者とは思えない不誠実な言動の数々を見せていた。

さらに、杉本や村上が、筆者や、鳴尾教会の女性牧師に対して、長年、中傷をまき散らして来た行為を思うと、彼ら3人の心の中には、女性に対する深い心の傷があるように見受けられてならない。

杉本や村上には、唐沢のような体験はないにせよ、3者の心の中には、何かしら共通する男性としての深い心の傷、自分自身へのコンプレックスが存在するように見受けられてならないのだ。

その心のトラウマが、悪霊の働く牙城となって、キリスト教に対する彼らの憎悪と結びつき、エクレシアに対する憎悪に転じている。

唐沢が、ニュッサ氏や筆者を含め、去って行った信徒を断罪し、自分を追い出すも同然に否定したニッポンキリスト教界を日々、嘲り、罵っているのも、結局のところは、自分のもとを去った花嫁に重ねて、キリストの花嫁たるエクレシアを侮辱・冒涜しているだけだと見ることができる。

自分を否定して、自分のもとを去った花嫁が、自分ではない誰かのもとで幸福になるなど絶対に許さない、という執念が、唐沢の記事における、去って行った信徒への共通する憎しみと非難の中に見て取れる。

不思議なことに、村上や杉本にも、唐沢と全く同じ精神が見られるのだ。彼らは、自分たちの率いるカルト被害者救済活動から離反して行こうとする筆者のような信者を、徹底的に呪い、断罪し、二度と立ち上がれないような打撃を加えようと試みた。

結局、これらの3者は、うわべの主張には様々な違いがあるように見えても、根底では、同じ精神を共有している。それはキリストの花嫁たる神の教会を、自分の思いに従わせ、自分の支配の下に置こうとする欲望である。

ウォッチマン・ニーは『キリスト者の標準』の中で、人類には二人の花婿がいると語っていた。最初の花婿は、生まれながらのアダム(律法)で、これは横暴で、利己的で、心が狭く、嘘つきで、約束を守らず、絶えず花嫁を上から目線で断罪し、非難しては蹂躙する、どうしようもない主人である。

人類がこの横暴な主人から逃れるただ一つの方法は、死だけである。そして、神は人をこの破滅的な霊的結婚から救うために、十字架の死と復活を用意された。

こうして、十字架の死によって、人は横暴な主人との結婚から解放され、その後、キリストとの新しい婚姻関係が与えられた。この新しい花婿は、横暴でなく、利己的でもなく、誠実で、花嫁を心から愛し、命を与え、守り抜くことのできる本物の主人である。

唐沢は、自分たちの団体こそが、キリストの聖なる花嫁なるエクレシアであって、既存の教団教派(ニッポンキリスト教界)は堕落したバビロンであると述べて来た。

だが、事実はその逆である、と筆者は主張している。杉本や村上のしていることも同様で、彼らは自分たちがあたかも正しいキリスト教徒であって、他のキリスト教徒の横暴や逸脱を取り締まることのできる存在であるかのように述べるが、それは事実に反しており、実は杉本や村上こそ、誰よりも暴走している偽クリスチャン、偽預言者なのである。

彼らは、本物のエクレシアを弾圧し、これを自分たちの抑圧の下に置いて、自分たち偽物を、本物に取り替えるためにこそ活動しているのだと言えよう。
 
そうして彼らは、エクレシアを簒奪、否定、蹂躙しながら、自分たちこそまことの信者であって、花嫁は俺たちのものだと叫んでいる。

だが、これは花嫁の強奪であり、私物化であり、蹂躙であり、冒涜であるから、そんな方法では、決して花嫁は手に入らない。

自分の思い通りにならないくらいならばまだ良いが、花嫁を冒涜することを繰り返していれば、いつかその所業のすべてが自分に跳ね返って来ることになる。

筆者は昨年の春頃から、この問題について、三島由紀夫に関する映画を引き合いに出しながら、一連の長い分析記事を書いた。
 
記事「神に疎外された者たちによる神への復讐としての「エクレシア殺し」」などの中で、人は神の神殿として造られたのであって、神殿を破壊する者は、自分自身を破壊するのであり、自滅して終わるという霊的法則性を示した。

「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(1コリント3:16-17)

筆者は紛れもなく神に贖われたキリスト教徒であって、エクレシアの一員である。だとすれば、杉本・村上・唐沢が筆者に対して行っている仕打ちは、彼ら自身が、自分を滅ぼしているのと同じ効果をもたらすことになる。

彼らはきっとそうは考えていないことであろう。ヴィオロンをどれほど痛めつけ、嘲ろうと、それは自分とは関係のない事柄だと。悪いのはすべてヴィオロンであって、自分たちではないと、今も自己正当化を図っているのだろう。

だが、霊的法則性においては、人がエクレシアを蹂躙することは、人が自分で自分を滅ぼすことと同義なのである。

その結果として起きるのが、『金閣寺』のプロットに見られるのと同じような、神の宮である自分自身の破壊(体の破壊)である。体の破壊とは、すでに書いた通り、肉体の破壊だけを意味するのではなく、人の外側にあるもの―虚栄をもたらすすべてのもの―が焼き尽くされることを意味する。
 
こうした霊的法則性が存在すればこそ、すでに杉本には敗訴と共に破滅が降りかかり、さらに、村上も二審で不利な立場に立たされることになり、唐沢にも同じ追及の手が及ぼうとしているのである。

冒頭の御言葉をなぜ引用したのか、解説を忘れるところであった。これはキリスト者がどれほど絶大な裁きを行う権限を持っているかを示したものである。

私たちのまことの裁き主は神である。しかし、キリスト者も、それなりにこの地上において事件を裁く権限を担っている。その権限は、この世を超えるものであって、私たちは御使いたちをも裁く権威を持っている、とパウロは告げたのである。

私たちは裁判官としての職務には就いていないが、キリスト者として、この世の裁きに対しても、非常に大きな影響を及ぼす者である。

村上や杉本や唐沢は恐るべき思い違いをしている。彼らはエクレシアの一員を断罪する権威が自分に与えられているかのように考えているが、実は、彼らこそ、エクレシアの裁きの権威に服さなければならない存在なのである。

神はおよそ地上のすべてのものを管理する仕事をキリスト者に与えられ、この世を裁く仕事をも教会に任せられた。だからこそ、私たちの裁き、私たちの宣告は、この世に属する者たち、とりわけ神の教会を迫害する者たちに対しては、まことに厳粛な効果をもたらすものとなる。

それだからこそ、筆者は、裁判が終結する前から、その結果がどうなるのかを知っている。以上の3者が、まことの信仰を持ったキリスト者の告発の前に、決して立ちおおせない事実を予め知っている。裁判は、その霊的事実を実際とするための方法論に過ぎない。
  
<続く>

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前回の記事を多少、補っておきたい。

以下の事典の抜粋にもあるように、今日でも、キリスト教の宗派の中で、とりわけ説教を重要視しているのは、プロテスタントである。

世界大百科事典 第2版の解説 せっきょう【説教 preaching】

 一般に宗教集会において,その教えを信徒および未信徒に説く言葉。仏教では,説法,唱導,説経など諸種の呼び名がある。今日,説教をその布教の最も重要な手段として重視するのは,プロテスタント教会である。古来キリスト教会では,集会(礼拝)において,聖書朗読と,その聖書の言葉の意味を会衆に説き明かして聞かせる説教とが重視されてきた。カトリック教会や東方正教会では,説教の重要性が薄れ,これを再び強調したのが宗教改革である。

プロテスタントの礼拝では、牧師の説教は、礼拝時間全体の6~8割くらいを占め、説教題が、その日の礼拝の主要テーマとなる。聖歌や讃美歌、祈りの内容、証等も、基本的には、すべて説教に合致するものが選択される。

今日、カトリックのミサでも、説教は行われるが、カトリックの礼拝における説教の重要性は、プロテスタントとは比べられないと、かつてカトリックに去った信者が言っていたことを思い出す。

『[シリーズ・世界の説教]近代カトリックの説教』(高柳俊一編、教文館)という著書に関する石井祥裕氏による書評「近代におけるカトリック教会の多面性」にも解説されている通り、現在、カトリックのミサで今日行われている説教は、20世紀のバチカン公会議によって義務づけられたものである。

「カトリック教会における説教のあり方に関しては、ちょうど半世紀前に開幕した第二バチカン公会議(一九六二~六五年)が新たな時代を切り拓いた(編者序文参照)。同公会議は説教を神の民全体の救済史的使命によって基礎づけ、ミサにおける神のことばの食卓での奉仕としての姿がその根本的な姿であることを明らかにした」

このことは裏を返せば、20世紀半ばの第二バチカン公会議の時点まで、カトリックでは主日礼拝における説教が義務づけられていなかったことを指す。そして、今でも平日ミサでは説教は義務とされていない。

こうした事実だけを見ても、プロテスタントが、カトリックよりもずっと先に、カトリックでは失われていた説教の重要性を、宗教改革として取り戻した様子が分かるだろう。
 
このように説教を重視するプロテスタントの伝統と、プロテスタントが教会内の装飾を取り払ったことには密接な関係がある。

カトリックと東方正教会は、今日でも基本的に礼拝の儀式的な側面に重きを置いており、信者は礼拝堂の荘厳な装飾や、美しい讃美歌の音色や、聖画などを通して、宗教的荘厳さ・敬虔さを視聴覚的に感覚受容する傾向が強い。こうした感覚的要素を、カトリックも正教会も、偶像崇拝であるとか、悪魔的な堕落を含む悪しき誘惑であるとみなして排除してはいない。

そこで、今日でも、カトリックの聖堂には、ステンドグラスなどから始まり、美しい多彩な装飾が施され、東方正教会では、さらに壁や柱に一面に聖画が描かれ、大量に金をあしらった装飾が施され、まさに寺院という言葉がふさわしい印象を、訪れる者に与える。

しかし、プロテスタントでは、聖画やステンドグラスやその他の教会の装飾を、偶像崇拝につながるものとして徹底的に取り払い、教会の礼拝堂を、無駄な装飾を一切、排除して、無味乾燥と言っても良いほどまでに、極めてシンプルなものとした。

こうして、「見えるもの」から来る視聴覚的な要素を、信者を偶像崇拝に導く堕落した感覚的要素として排除し、感覚的要素に依存することをやめた結果、プロテスタントの礼拝は、知的な内省(個人の心の内省ではなく、聖書の御言葉の知的理解)を重んじるようになったのである。

つまり、プロテスタントの礼拝が、牧師の説教にとりわけ重きを置くようになったのは、教会の中から目に見える装飾を排除して、神への礼拝というものを、目に見える感覚的刺激によってとらえるのではなく、目に見えない御言葉に対する知性による理解、また、霊的理解によってとらえようとしたことの結果なのである。
 
このことは、プロテスタントが礼拝のあり方を、カトリックに比べ、より初代教会のあり方に近づけ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(Ⅱコリント4:18)
「それで、わたしたちは<略>目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。」(Ⅱコリント5:6-7)
という聖書の御言葉を、より忠実に実践しようとしたことを意味する。

従って、プロテスタントの礼拝は、キリスト教の礼拝を、信徒が目に見えるものに心奪われるのではなく、見えないキリストに思いを馳せ、キリストから直接、啓示を受けて聖書を理解し、神を崇めるために行うものにすることで、本来あるべき礼拝に、確かに近づける役目を果たしたと言えるのである。

このような文脈で、プロテスタントの牧師の説教も、先に述べたように、人間が目に見えるものから来る感覚的刺激に頼らず、目に見えない聖書の御言葉を、自分自身の内面を通過させて、知的によりダイレクトに理解することを始めたという点で、画期的な意味を持っていた。

しかしながら、すでに述べた通り、当初は画期的な宗教改革として始まった牧師による説教も、今日は、牧師にあまりにも大きな権限と、信徒との不平等を言える経済格差を生んだ結果として、かえってキリスト教の信仰の前進の大きな妨げとなる要素に転じたと言える。

プロテスタントは、信徒の目を、教会内の装飾という目に見える事物からは引き離したであろうが、見えないキリストご自身に向けさせるには至らず、その代わりに、目に見える牧師へと逸らしたのである。

しかも、カトリックのような統一的なヒエラルキーがない中、ただ牧師だけが、他の信徒らに優って、神の御言葉を正しく理解し、他の信徒を教え、導くことができる指導者であるとみなすプロテスタントの牧師制度は、必然的に、教会内で、独裁的とも言える権威を牧師に与える。

プロテスタントの牧師の権威は、神の御言葉を取り継ぎ、これを信徒に伝える「説教」という召しからこそ来ている。この神聖かつ崇高な召しがあればこそ、牧師は、フルタイムの献身者として、その召しに専念できるよう、他の信徒とは違い、教会の献金から謝儀を受け取ることが許されているのである。

もちろん、歴史的には、プロテスタントからは多数の優れた説教者が登場して来ており、その説教が今日の信徒にも非常に有益な内容として伝えられていることは事実であるが、その一方で、毎週日曜の礼拝において、礼拝のほとんどの時間を、ほとんどこの世での苦難に遭遇したこともない牧師が、独演会のようなスピーチによって信徒を教化するというスタイルが取られると、必然的に、牧師が独裁者化して信徒へのマインドコントロールが起きやすい土壌が生まれる。牧師も人間であるから、他者からの監督や指導なくして、自分一人で教会の主となってこれをコントロールして行くことは難しい。

さらに、そこに金銭的な不平等が付け加わわれば、独裁者を生む完全な土壌が整うのであって、今やプロテスタントの牧師制度は、牧師が実質的に信徒に君臨し、信徒を搾取して成り立つ差別的特権階級に他ならないものとなってしまっていると言える。

こうした牧師制度の弊害が、20世紀後半になって、多数のカルト化教会の出現という形で浮き彫りになったのであり、現代という時代は、ただ牧師一人だけが、他の信徒に抜きんでて、聖書の御言葉を正しく理解して、信徒に向かって教えることができるとするプロテスタントの牧師制度そのものが、教会全体にとって重荷となり、信徒の信仰の前進の大いなる妨げとして、役目を終えて廃れつつあると言える。

私たちは、初代教会における礼拝が、たった一人の牧師が、毎週日曜日に講壇から大勢の信徒らに向かって、長広舌のスピーチを宣べて終わるというスタイルではなかったであろうことを容易に想像できる。

そこで、今日、より本来的な教会のあり方を取り戻すためにも、また、礼拝が真にキリストに捧げられるものとなるためにも、信徒は、ますます牧師に頼らず、自分自身で聖書の御言葉を理解し、これを実戦すべく、自分自身が神の神殿としての機能を正常に取り戻し、神との一対一の直接的な交わりを回復すべき時に来ていると筆者は確信している。

さらに言えば、礼拝とは、もともと真理と霊を持って捧げられるものであって、場所を問わないものであるから、牧師だけでなく、固定化された教会の建物からも、今や解放される必要性があると言える。

「イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。

しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:21-24)

このように、プロテスタントは、教会内の無駄な装飾を施し、信徒の心を、目に見えるものではなく、見えない聖書の御言葉へと向かわせ、神との直接的な交わりを回復するための第一歩としては、大きな役割を果たした。

しかし、プロテスタントは礼拝堂から無駄な装飾を排除した代わりに、今度は、牧師という目に見える「装飾」をそこに置いて、神ではない一人の人間を偶像化して、その言葉に信徒の心を向かわせた。
 
その他にも、特に20世紀になってからは、牧師が偶像化したことに加えて、情緒的な讃美歌や、感動的な信仰の証の披露など、まるでアーティストのショーのような感動的な演出効果を伴う大衆伝道のスタイルが編み出され、それらも結局のところ、教会の装飾に取って代わる目に見える新たな感覚刺激として、新たな偶像と化してしまった向きが非常に強いと言えよう。

そこで、今、キリスト教の礼拝は、こうしたすべての「目に見える偶像」すなわち、五感を楽しませてくる魅力的な視聴覚的要素、さらには、特定の礼拝堂という時空間による制約から解放されて、より自由に、より純粋に、神にダイレクトに捧げられるものとなる必要に迫られていると言えよう。

そのことは、2008年に当ブログ始まって以来、再三、語り続けて来たことである。

当時、このようにプロテスタントにおける礼拝のスタイルを偶像崇拝として批判し、初代教会において見られたような、真の礼拝を回復しようとして、既存の教団教派を離れることは、別段、信者にとって珍しいことではなく、あわや一大運動が起きてもおかしくないほどの状況があった。

その後、集まるための特定の場所を持たないことが弱点となり、この人々は散らされて行き、ある人々は、礼拝堂を持たない代わりに、家庭集会こそが、本来的な礼拝のあり方だと主張し、ある人々は、再び、教団教派に戻って行くなどしたが、筆者は、そうした議論や、信者の離散によって、すでに明らかとなった結論が、覆されるとは思っておらず、今必要なのは、あくまで一人一人の信者が、目に見える指導者に頼らずに、キリストに直結する信者として、神の神殿として、生きた礼拝堂としての機能を取り戻すことにあるという結論は、決してこの先も変わらないものとみなしている。

聖書のどこを見ても、教会というものが、特定の時代の、特定の場所や、建物を指すものであることを示した記述はない。ましてそれが特定の指導者によって率いられる特定の群れであると示した箇所はない。

教会とは、キリストを頭として、キリストの権威と支配の及んでいるキリストの体を指すのであって、その体とは、神の神殿である一人一人の贖われた信者を指し、また、信者らの総体を指すものと理解できる。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(エフェソ1:22-23)

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。」(Ⅰコリント12:27-28)

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」(エフェソ4:11-13)

「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(エフェソ2:19-22)

別の言葉で言えば、教会とは、死と復活を経たキリストの命の支配が及んでいる領域のことである。

「わたしたちは神に属する者ですが、この世全体は悪い者の支配下にあるのです。」(Ⅰヨハネ5:19)とある通り、この世はサタンの支配が及んでいる。

しかし、サタンおよび堕落したこの世のすべての目に見えるものはやがて滅ぼされ、すべてがキリストの御名に服従する新しい天と地が打ち立てられる。

そうなる前に、この世から召し出された者たちが、エクレシアなのであって、この世が罪に堕落しており、滅びに定められていることを知った一人の人間が、自らも罪を悔い改めて、キリストの十字架の贖いを信仰によって受け入れ、神に立ち帰り、この世から召し出されて、神の命によって新しく生まれ、御霊によって導かれて生かされるようになる時、その信者を通して、信者の周囲のこの世の事物にも、キリストの支配の霊的影響が及ぶようになるのである。

その信者が、真に御霊に導かれ、その働きを実現して生きているならば、その影響が及んでいる範囲は、キリストの命の支配領域である。すなわち、教会の支配下にあると言えよう。

従って、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」というエフェソ書の言葉は、教会とは、キリストの御名と権威による霊的支配の及んでいる領域、神の国の霊的秩序の満ちている領域であることを示している。

とはいえ、神の国が真に成就するのは、この世が滅び、新しい天と地が到来した時のことであるから、今日の時代の教会に現れているキリストの命の支配は、やがて到来する新しい秩序の前触れ(先取り)であり、それが信者の内側に霊的に到来し、行使されているものであると言える。

つまり、キリスト者は、この世から召し出され、来るべき時代の秩序を先取りして行使する者なのである。

さらに、教会は特定の時空を超えるものであって、同時代を共に生きている信者だけに当てはまるものではないから、初代教会から今日までの(もしくはそれ以降の歴史時代も含む)贖われた信者らの総体が、教会であると言うこともできよう。

このように、聖書を見るならば、教会というものを、特定の時空間の制約の中にある一つの建物にとどめたり、特定の礼拝堂、特定の指導者の下にとどめようとすることは、正しい解釈ではないことが分かる。

従って、プロテスタントの礼拝スタイルは、初代教会のような教会の本来的な姿が回復されるまでの、ほんの過渡的なものであって、今日、その過渡的なものが役目を終えつつある以上、より本来的な教会の姿が回復されねばならないのは当然である。

役目を終えたものが存続し続けると、やがて有害なものへ変わる。信者が、見えないキリストだけに心を向けねばならない必要が生じている時に、目に見える牧師や指導者が、信者たちの目をあくまで自分に向けさせ、自分の教えに帰依させようとすることは、有害である。

そのことを指して、オースチンスパークスは「私たちのいのちなるキリスト」の中で、目に見える事物、人、組織、教え、伝統などは、時代が終末に近づくに連れて、ますますキリストのまことの命の現れから遠ざかり、むしろ、反キリストの現れ(統治手段)として利用されて行くと予告したのである。

ドストエフスキーも、終末の反キリストは、敬虔なキリスト教徒の指導者を装った異端審問官の姿で登場することを暗示している。

今日、カルトや異端を駆逐するという名目で現れたカルト被害者救済活動の中に、私たちはこうした警告がまさに的中していることを見て取れる。この運動は、まさに反キリスト的運動の先駆けである。

先の記事で書いた通り、当初は、聖書に立脚しないで教会へのバッシングに明け暮れるこの運動に、プロテスタントの諸教会も、抵抗を見せていた。

しかし、プロテスタントの教団教派は、やがてその恫喝に屈し、沈黙に入り、今や完全にこの運動の下に制圧されてしまった。そうなったのは、プロテスタントの諸教会が、すでに役目を終えた牧師制度を何とか温存しようとして、それを真に代価を払ってキリストの福音を宣べ伝える使命と取り替えたためである。

プロテスタントの諸教会は、すでに随分前から、命をかけて福音宣教することよりも、牧師一家を養い、支えることを主たる目的として存在するようになっていたため、牧師たちは、自分たちが命を脅かされ、この世での穏やかな生活を奪われるような事態に遭遇してまで、命がけで福音を守り抜くつもりはなく、そのため、早々に悪魔と取引をして身の安全を保ったのである。

たとえるならば、戦時中でもないのに、戦時中のような時代がやって来て、諸教会には、新しい国体思想のような、あからさまに聖書に基づかない異端思想への忠誠が命じられ、それに従わない教会を弾圧する異端審問官が現れ、目に見えない宗教団体法が敷かれ、それにプロテスタントの諸教会全体が屈したようなものである。
 
こうして、プロテスタントにおいても、目に見えるものの偽りが、牧師制度という形で、極限的にまで明らかになっているのが今の時代であり、それに対して、神に忠実な子供たちが出すべき結論は、かつてプロテスタントが、カトリックの教会で当然のように用いられていた教会内の装飾を拒否して、これを偶像崇拝として取り払ったように、牧師という目に見える偶像を取り払い、見えないキリストに目を注ぐという、「新たな宗教改革」なのである。

とはいえ、筆者は何ら既存の教会の打ちこわしや、牧師の罷免などを要求しているわけではない。そのような組織改革を筆者は一切提唱しておらず、結論はむしろ逆である。以上のような事実に気づいた信者たちが、自主的にプロテスタントをエクソダスして、それぞれが自らの持ち場にあって、神の神殿としての礼拝を回復すべきなのである。
 
当ブログが、このような結論を公然と提示していると、今でも、ネトウヨのような諸氏が、さして有名でもなければ、訪問人数が多いわけでもない、個人のつつましいこの信仰の証しにまで、早速、噛みついて来る。
 
必死になって、彼らは日夜、掲示板等で、当ブログに攻撃をしかけているようであるが(とはいえ、交代制の勤務の様子であるから、多分、雇われているのであろう)、そのような有様を見ても、プロテスタント全体が暗闇の勢力に制圧された今、残る最後のともし火を吹き消すことが、いかに彼らの重要なミッションとなっているかが分かる。
 
暗闇の勢力にとって何の脅威ともならない、毒にも薬にもならぬ内容ならば、このようなつつましいブログに、このような攻撃を行う理由がないはずである。

従って、キリスト教の教会が本来あるべき姿を回復するために、牧師制度から教会を解放することが、いかに重要性絵を帯びた緊急の課題であるかが改めて認識されよう。

* * *

さて、使徒パウロは、わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(Ⅱコリント5:13-14)と記しているから、私たちも、キリストへの愛のために、ネトウヨ諸氏から正気ではないというという罵りを受けることにも、喜んで甘んじたいと思う。もしも私たちが、気が狂っているとするならば、それは神のためなのである。

さて、これまで当ブログは、暗闇の勢力からの尋常ならぬ徹底攻撃に晒されてきたが、その中で、敵の卑劣な攻撃手法がいくつも分かっため、この度、掲載しておきたい。これから暗闇の勢力に向き合う覚悟を固めた信者にはきっと役に立つはずである。

はっきり言っておきたい、もしもキリスト者として、私たちが信仰を守り通したいのであれば、こうした敵の飽くことのない卑劣な作戦と手法をよく理解した上で、このようなものに脅かされず、嘘を見抜いてさらりと交わし、どんな攻撃にでも、根気強く立ち向かって打ち勝つだけの、勇気と決意と覚悟が必要となる。

おそらくは、戦時下のクリスチャンにはそれがあっただろうと思われる。彼らは同僚の信者からも、特高警察に売り渡されることを覚悟の上で、決して信念を曲げず、福音を宣べ伝え続ける勇気と覚悟を持っていたのである。

現在は、国家が宗教と対立しておらず、信者に偽装する一部の人々が狂ったように信仰の迫害に及んでいるだけであるとはいえ、当ブログに対しても、長年に渡り、組織的犯罪行為が行われているため、そこから、このような迫害に立ち向かうために、何が必要であるかを学ぶことができる。

筆者がこれまでに学んで来た戦いの手法は、みな暗闇の勢力の側から先にしかけられた攻撃を研究した結果である。そのような攻撃がしかけられることは、誰にとっても愉快とは言えないが、それがなければ、暗闇の勢力との戦いというものが存在することも、その脅しに打ち勝たなければ、信仰の前進はあり得ないことも、また、脅しを打ち破るための有効な御言葉がきちんと存在しており、圧倒的な勝利をおさめることが可能であることも、分からなかったであろう。

聖書には、「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:4-5)と記されている通り、私たちには、すでに世に打ち勝った方がおられ、勝利が約束されている以上、恐れることはないのである。

さらに、「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(Ⅰヨハネ4:16-18)

とある通り、敵の脅しに立ち向かうために、まず必要なのは、自分自身の内なる恐れを払拭することであり、その恐れとは、神の掟を全うしていないかも知れないという、自分自身の心の恐れ、もしくは罪悪感である。これらのものを完全に十字架に死に渡し、キリストの義と聖と贖いに固く立って、全く揺るがされないことが肝要である。

さて、これまでの組織的犯罪行為を通して明らかになった敵の手法は、以下の通りである。
 

 ネトウヨ鬼戒律(暗闇の勢力による犯罪的バッシング手段)

その➀  必ず強い方ではなく弱い方を叩け。
(男性と女性ならば、女性を、指導者と信徒なら信徒を、親と子なら子をバッシングせよ。
 なぜなら、強い者でも、自分の愛する弱い者が攻撃されれば、うろたえるからである。)

その② 本格的な攻撃前に、嘘八百の風評被害をばらまいて、標的を弱体せよ。
(裏取りなど必要ない。責任は訴えられてから考えれば良い。とにかくデマを急速に拡大し、噂の出所を水増しして大合唱に見せかけることが重要。弱い相手ならこの時点で狼狽して降参する。デマの中でも悪魔の最高の好物が性的スキャンダル。不倫など絶好の材料。なければ、でっちあげるだけ。)

その③ 個人に対して常軌を逸した集団的なバッシングをせよ。
(十年間粘着するなどは序の口。人数を水増ししつつ、殺意を感じさせるまでの執念により集団的にッシングを繰り返し、恐怖して退却させろ。)

その④ 標的から受けた非難は、すべて裏返しにして標的に返せ。
(白黒反転論法。ターゲットの言葉を使ってターゲットを攻撃せよ。)

その⑤ ターゲットを徹底的に揶揄して「裸の王様」に仕立てあげろ。
(集団的に笑いものにして、支持者を減らし、信用を引きずり落とすことが肝心。)

 
その⑦ ターゲットのトラウマとなる出来事を調べて繰り返し攻撃せよ。
(ネチネチと執念深く繰り返し急所を攻撃することが重要)

その⑧ 女性がターゲットの場合、執拗に年齢と容姿と異性関係を攻撃材料とせよ。
(若ければ若いことを、年寄りは年寄りであることをバッシングの理由に。女性は年齢を突かれることと美醜を指摘されることに弱い。若い美人には特に念入りに性的スキャンダルを捏造せよ。)

その⑨ 絶対的確信に満ちて支離滅裂な嘘を吐け。
(嘘を吐くときこそ悪魔の真骨頂。あまりにもあからさまな嘘を、あまりにも大胆に宣言されると、人は意気阻喪して、反論の意欲が萎える。蜘蛛の巣のように錯綜した嘘も、反論に手間がかかるので絶好の武器。)

その⑩ 人間関係を引き裂いて孤立させよ。
(悪魔は裏切りと密告が大好物。親しい知人に近づいて裏切らせるのは蜜の味。孤立していなくても孤立しているという噂をまき散らし、それらしい雰囲気を演出。)

その⑪ 特に家族関係を徹底的に傷つけろ。
(家族だけでなく、友人、知人、職場の関係者、可能な限り大人数を調べ上げてスキャンダルに巻き込め。人は社会的地位を惜しむので、騒ぎを拡大されることに弱い。)

その⑫ 孤立させたら即座にマインドコントロールを。
(相手がうろたえている時にこそ精神を集中攻撃して陥落せよ。)

その⑬ 優しい同情者を装って近づき情報を盗み出して裏切れ。
(スパイの古典的手法。うろたえさせることに成功すれば、ターゲットは必ず誰かのところに相談に行く。その人間に近づいて裏切らせよ。)

その⑭ 水に落ちた犬は徹底的に叩け。
(とにかく弱い者を叩きまくれ。二度と浮かび上がって来ないまでやれ)

その⑮ 正当な理由がないのに訴訟や告訴の脅しをやたら振り回せ(そして実行しない)

その⑯ ターゲットになりすませ!
(大量のドッペルゲンガー作成による惑わし。別名、分身の術。ブログ、ホームページの大量コピペや偽造だけでなく、本人になりすましてコメント投稿、ひたすら発言を盗みまくり、質の悪い模造品を大量に偽造し続けることが重要。)

その⑰ 不気味かつ不快な印象を与える接触を繰り返せ。
(人は意味の通らない支離滅裂な行為を繰り返されると、うんざりして立ち向かう気力をなくす。)

その⑱ 太刀打ちできない非難を受けたら、恋愛感情にすり替えろ!
(自分はターゲットから愛されているから非難されるのだという論法を使えば、反論する必要もない。)



これらはすべて古典的手法であって、しかも、ほんの序の口である。従って、信者はこの程度の脅しに屈しているようでは、先はない。(しかし、これらをクリアするために、約十年程度の時間が経過しているのは事実である)。

「なりすまし」については、大量の偽物を作成して本物を凌駕しようとすることは、古来から暗闇の勢力の常套手段であるが、これはグノーシス主義の「存在の流出」と密接な関係があり、掲示板もこれに深く関係しているため、このことについては、改めて記事にまとめることにしたい。
 
* * *
 
 
さて、戦時中、日本基督教団が軍国主義に加担し、兄弟たちを迫害する側に回ったことについては先の記事で触れたが、これに関連して、日本基督教団幹部がホーリネスの牧師を迫害する側に回ったことを示す解説もあるため、紹介しておきたい。

5.ホーリネス教会への弾圧と富田満 (日本基督教団 西方町教会ホームページ)

ちなみに、日本基督教団が戦争に加担したことなどは、すべて過去の出来事であって、現在とは関係ないから、このような歴史的事実を取り上げて、教団の優劣を論じたりすること自体が間違っていると言う人がいるかも知れない。

しかし、筆者はそのようには思わないし、また、筆者は教団の優劣を論じているわけでもない。筆者は、戦争体験を軽んじるわけではないにせよ、これを歴史的な出来事として客観的に知ることと、当事者(しかも深い罪悪を負った者)として受け止めるのでは、雲泥の差が生じると考えている。
 
私たちは後世に生きる者として、歴史を教訓にすることは大いにすべきであるが、主にあって、罪赦された者として、決して不必要な罪悪感に苛まれたり、無用な霊的な傷を負うべきではないと確信する。

筆者から見て、ペンテコステ系の教会は、底抜けに明るく、歴史が浅すぎるがゆえに、未熟で、軽薄と思われても仕方のない部分がある。また、あまりにも無定見に様々な霊的ムーブメントを取り込んだがために、悪霊の働きにも大きく扉を開いてしまったことは確かである。

しかしながら、こうした欠点とは別に、筆者は個人的に、聖霊の働きをなくして、キリスト教信仰は全く成立し得ないものであり、戦後成立したペンテコステ系の教団教派が、戦前・戦中に弾圧されたり、思想的転向を経験させられたりした信者ら特有の、拭い去ることのできない罪悪感や絶望感と無縁で生まれて来たことは、非常に良いことだと思っている。

キリスト者であれ、共産主義者であれ、戦時中に思想弾圧を受け、強制的に転向させられたり、力づくで自分の信念を曲げて屈服させられたりした体験のある人々は、筆者から見て、ある共通する独特かつ非常な「霊的暗さ」を持つ。

たとえば、遠藤周作の作品などを読むとき、戦時中に受けた体験のものすごい負の影響が、彼の信仰観全体に反映していることを、筆者は言外に感じざるを得ない。

たとえば、映画『沈黙』などは、予告編を見るだけでも、あまりにも絶望的で、ほとんど救いのない世界だという印象を受ける。そして、こうした世界観には、おそらくは遠藤自身の戦争体験から来る心の深い罪悪感と関係しているであろうことが容易に想像がつく。

おそらく、当時、戦争に加担させられたクリスチャンには、これと同じように、生涯、拭い去れない深い霊的な傷が生じたに違いないと思われる。

かつて当ブログにおいては、マザー・テレサや奥田智志牧師などの名を挙げつつ、若かりし頃に、あまりにも悲惨な形で他者の死や破滅の光景を目にした者は、その光景が、心に強烈なトラウマとなって焼きつけられ、生涯、その負の体験から離れられなくなり、罪悪感から弱者救済事業に身を捧げねばならなくなった例があることを紹介した。

マザー・テレサは一般には、キリストの愛を宣べ伝えるために、インドの貧しい人々を助けたのだと考えられているが、実際には、彼女自身が何十年間にも渡り「神の愛が分からない」という絶望感に苛まれていたことが、死後になって、明らかにされている。

上記の『沈黙』などは、筆者の目から見ると、それとよく似た世界観に基づいて作られており、そこには、マザー・テレサや奥田牧師と同じように、「神はどこにいるのか。なぜ私たちの苦しみに答えて下さらないのか。どうしてこのような理不尽の中に人類(私たち)を見捨てておかれるのか。」という、神の愛の中にいる信者ではなく、むしろ、神の愛から疎外された人々の悲痛な叫びが込められているように思われてならない。

しかし、筆者が知っている限り、ペンテコステ派の教会で説かれる神は、このように人間を理不尽の中に見捨てて沈黙される神ではないのである。

もちろん、ペンテコステ派の集会には、あまりにも多くの偽物の、眉唾物の奇跡体験が溢れていることは確かであり、そうした偽の奇跡の中には、悪魔的起源を持つものも、多く含まれているのではないかと考えられる。次々に新しく出て来る海外宣教師の著書も、一体どこまで信憑性を信じて良いやら分からないような話ばかりである。

しかし、その問題をさて置いても、キリストは、実際に、カルバリで悪魔のわざを打ち壊し、死を打ち破って復活されたのであって、御霊は、死と復活を経たキリストのまことの命であるから、常識的に考えて絶体絶命の状況においても、信者を勝利させる力を持っていることは確かなのである。

従って、筆者は、ペンテコステ運動に様々な問題があることは否定するつもりがなく、また、筆者自身が、真にキリストに出会ったのも、この教団を離れて後のことであったとはいえ、それでも、戦争中の暗い歴史から来る罪悪感とは無縁で、ダイナミックで奇跡的な聖霊の働きを重視する、底抜けに明るいペンテコステ系の教団で、筆者が幼少期を過ごしたことは、筆者自身の信仰観の形成にとって、極めて重要な意味を持つ出来事であったと考えている。

聖霊派の教会における底抜けの明るさと、愚直なほどに単純な喜びは、やがてその後、筆者が知ることとなる復活の命の勝利の喜びに通じるものがあったと思うのである。

今日でも、筆者の信仰は極めて単純であり、神が筆者のすべての必要を満たして下さり、筆者のためにすべてを成し遂げて下さるというものである。

しかし、特に戦時中に戦争に加担させられたキリスト教の信者には、神は、ペンテコステ系の信者が認識しているような、力ある方としては、とらえられていない。こうした人々の心の中では、神は信じる者に力強く自由と解放を与える方ではなく、むしろ、最も悲惨な状況で、人類を絶望の中に置き去りにして沈黙するような存在として認識されているのである。

だが、筆者から見れば、それは、人の罪悪感のなせるわざであって、本当は神の側の問題ではない。
 
いずれにしても、戦争を当事者として体験したかどうか、(その罪を連帯責任として共に背負わされたかどうか)という点は、それほどまでに、同じキリスト教信者の信仰観を分けたようなのである。

従って、戦後成立した聖霊派の教団教派に、そのような負のトラウマが、出発の時点から刻みつけられなかったこと、そして、筆者自身も、そうしたトラウマと無縁であることができたがゆえに、自らの信仰観に著しい制約を受けなかったのは、まことに運命的かつ幸運なことであったと思わずにいられない。

さらに、ペンテコステ派が登場して来る前の日本のキリスト教全体には、死はあっても、復活がはっきりと視野に入っていないという印象を受けざるを得ない。

このことは、戦時中に最も激しい弾圧を受けたホーリネスが、いわば、聖霊派の走りであったという点にも見て取れる。ホーリネスは、新生、聖化、神癒、再臨という四重の福音を唱えており、当時のホーリネス信者は、神癒なども、文字通りに信じていたのである。

その点で、当時のホーリネスの信者の信仰は、今日のペンテコステの信者に極めて近いものであり、御霊による神のダイナミックな解放のみわざを信じていたという点で、ホーリネス信者は、当時のクリスチャンの中で、最も先駆的で革新的な信仰を持っていた人々であったと言えよう。

だからこそ、軍国主義下の日本において、ホーリネスの信者は、政府にとって、不倶戴天の敵であるかのように、最も激しい弾圧の対象とされたのである。それは彼らが、聖書の記述が文字通りの真理であることを信じ、特に、聖霊の大胆な解放の働きを、現実のものとして受け入れ、実際にそれを行使することによって、悪魔のわざを打ち壊し、とらわれ人を解放し、キリストの再臨を引き寄せることができると信じて、それを真剣に実践していたためである。

つまり、ホーリネス信者らの働きの中には、信仰によって、聖霊による、人間の力を超えた神の大胆なみわざが実際に現れていたからこそ、国体思想の持ち主の側から見て、彼らはとりわけ看過できない重大な脅威をもたらす存在と映り、最も激しい迫害と弾圧の対象となったのである。

それ以外の、御霊の働きを重視しない形骸化したキリスト教は、おそらく軍国主義政権にとって、さしたる脅威とはみなされなかったことであろう。

そこで、聖霊のダイナミックな働きというものを視野に入れるか入れないかによって、キリスト者の信仰観は180度変わると言えるのである。

悪魔と暗闇の勢力が、現在、最も憎むべきものとして敵視しているのも、御霊の働きであって、これを一切、無視したキリスト教信仰などは、彼らにとって痛くも痒くもないものだと言える。

約2000年前、悪魔と暗闇の勢力は、キリストが地上に来られた際、彼を憎んで十字架にかけて殺害した。しかし、今やキリストは復活されて、聖霊を通して、信者の内に住み、イエスが約2000年前に地上でなされたような大胆で奇跡的な解放のわざを、一人一人の信者を通して成し遂げることができる。

彼は私たちのために義と聖と贖いとなられ、私たちをすべての苦難と脅威から実際に救い出す権威と力を持っておられるのであって、そのために、今日の信者も「この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。」と言うことができるのである。

しかも、聖霊は、来るべき神の国の秩序そのものであって、アナニヤとサッピラをただちに死に至らせたような聖なる支配領域であって、死の向こう側にある復活であるから、悪魔と暗闇の勢力には、どんなことをしても全く手を触れられないものである。

従って、そのような領域が、サタンの支配下である地上に出現することを、悪魔と暗闇の勢力は断じて許しがたい事態として徹底的に憎んでいるのである。

そういう意味で、今日、ある信者が、聖霊派に属し、聖霊の力ある働きが現実に存在しうる事実を知ったならば、そのことには、はかり知れない重要な意義が込められている。

たとえその信者が、ペンテコステ運動に多くの混乱が入り込んでいることに気づき、心傷ついてその教団教派を去り、あるいは、バラバラに離散することがあったとしても、彼らに求められていることは、二度と混乱を味わいたくないという思いから、聖霊のことになど言及もしない、より古く形骸化した教団教派に戻ることではないのである。

冒頭で述べた通り、キリスト教は、今日、新たなる信仰回復運動の出現に直面しているのであって、そこでは、信者らが、信仰によって歩むために、見えるものに依存せず、さらに見えないキリストだけを追い求め、より新鮮で偽りのない聖霊のみわざを通して、御言葉を地に引き下ろし、実現して行くことが求められている。

従って、私たちに与えられているミッションも、歴史的により古い団体に逆戻り、そこで、すでに後にして来たはずの霊的な負の遺産を罪悪感として背負うことではない。

御霊は人の心を刷新し、すべての傷を癒し、復活の領域において、心を全く新しくすることができる。まるで生まれてから一度たりとも罪を犯したことのない、生まれたての魂のように、人の心を刷新することができる。

私たちには、そのような刷新、すなわち、心だけでなく、霊、魂、肉体のすべてにおいて、死の後に働く復活の命の現れを、絶え間なく求めつつ、キリストの命が、私たちを生かすすべての動力源となることを信じて、さらに大胆な解放のみわざを求めて前進して行くことが求められている。

どれほど迫害が激しいにせよ、死を打ち破ったキリストの御霊は、すべてにおいて勝利をもたらすことができる。それを信じて、そのまことの命の現われを、神の聖なる自由と解放のみわざを、飽くことなく信じて追い求めて行うこと、それが私たちが、キリストの復活の証人であることの意味であり、私たちはその復活の命を、自分自身の内側に確かに持ち運んでいるのである。



さて、証言を集め、協力者も集まって来ている。ここからが大詰めで、ドラマのような展開が進んで行く。

前にも書いたことだが、弁護士は当事者ではないため、当事者以上の証言を決して行うことができない。そこで、何が真実であるか、その是非を争いたい時には、当事者の証言こそ有効である。

キリストの御身体に命の供給が必要だいう言葉の重さを痛感するのは、こういう時だ。一人だけでもすべてに立ち向かうことは十分にできるが、やはり、仲間としての兄弟姉妹の協力を仰ぐことによって得られる利益も確かに存在する。それは地上の個人的な利益だけを指すのではなく、キリストの御身体に新鮮な命の供給がもたらされるという利益だ。
 
一人だけでも、もしキリストが内におられるなら、それは一人の証言ではない、と筆者は思うが、その上、兄弟姉妹の証言が得られば、その証言の強度は倍加する。

凶暴な狼によって、バラバラに引き裂かれた信徒たちが、再び一つにつなぎ合わされる。それが一つのからだとなり、真実を持って、虚偽に対抗して立ち上がる巨大な兵士の軍団のようになる。草の根的な、名もない小さな人々の集まりが、大きな力になって行くのだ。

今はまだ小さな流れだが、いずれ大河のように流れる時が来よう。

さて、以前には関東圏は終わりを迎えているため、よその土地に引っ越した方が良いという筆者の思いを記したが、それはあるいは、エリヤがイゼベルから逃げ出した時のような弱音だったのかも知れないし、あるいは、未来へつながっていく確実な望みなのかも知れない。今のところ、まだそうした問題には答えが出ていない。

どこになら住まいを構えてもよいだろうかと考えながら、土地を巡る中で、かつて筆者が地上で楽しく交わりを行ったあるクリスチャンの夫人のことを思い出した。その人の人生最後の時期に、筆者は彼女と親しく交わりを持つようになった。

それ以前から、互いに存在を知ってはいたが、彼女も、筆者も、ともに地上の団体を離れ、人間のリーダーを離れるまで、個人としての出会いは起きなかった。年齢は親子ほど離れていたが、良い交わりが持てた。多分、それまで様々な団体の指導者に気を取られていた頃には、せっかく出会っても、互いの価値が分からないまま、通り過ぎていたのだろう。

その人は祈りに祈って家を手に入れたとよく言っていた。家を建てる前から、図面を作り、案を練っていた。彼女は、念願かなって手に入れたというその家へ筆者を招いてくれて、雄大な景色を見せ、センスの良い家具や、配置を見せて、言った、「この家へあなたをお招きしたのは、誰でも、祈りさえすれば、こういう家が手に入ることをあなたに教えたかったからなのよ」と。

色々なところで会い、信仰の交わりをし、あかしをし、共に喜び、感謝した。それからごくわずかな間に彼女は天に召され、しばらくして彼女の夫も天に召され、その素晴らしい家は、誰も住む人がいなくなった。筆者が知らないうちに、いつの間にか、彼女の夫までも地上を去っていた。

筆者からみれば、その夫婦は、まるであたかも両親の代理のように、非常に親切にしてくれた。夫人が亡くなってから、二、三回、ご主人に会って、思い出話を聞いた。筆者の心には良い思い出しか残っていなかった。

しかし、筆者が見ていたのは、ほんのうわべだけの有様に過ぎない。夫人は生前、夫には信仰がないと嘆いており、家の屋上にのぼって泣きながら祈ることがよくあると語っていた。他人には決して打ち明けることのできない様々な悩み苦しみが、胸の内には色々あったのだろうと思われる。

しかし、一体、何を涙して祈らねばならなかったのか、いつも幸福そうな外見からは全く分からなかった。こちらから事情は何も尋ねなかったし、彼女の夫も、教養ある人たちの家庭では常にそうであるように、他者に対しては親切で気前良く、何一つ愚痴も悩みもこぼすことなく、夫人が嘆いていたような問題があることは全く分からないままであった。

筆者は、彼女が召されてからも、彼女と過ごした夢のようなひと時を幾度も心の中で思い出した。

それからずっと経って、筆者は、偶然に、この夫人の家のことを思い出した。最後に残っていた彼女の親族から、ついに夫人の家も、すっかり空っぽになって、売りに出されたという話を聞いて、心から寂しい気持ちになったことを思い出した。

筆者にとっては、いつまでも記憶の中で、色あせることのない、夢のような家である。もしも地上で最も天に近い、聖なる場所があるとすれば、それはきっとあの家に違いない、と思った。

そこで、ずっと前に削除したアドレス帳に記した住所を何とか記憶を辿って思い出し、探してみると、その家は何と買い手がないまま売りに出されているではないか。

この聖なる場所が人手に渡らなかったのはきっと奇跡に違いない、などと筆者は思って、そこを訪ねてみることにした。

だが、現実は容赦なかった。その家は、誰も住まなくなって久しいため、大規模な修繕が必要で、とてもではないが、誰から見ても、経済的な買い物と言える状態ではない。修繕で済めば良いが、すべてを造り変えるしかない可能性が極めて高い。

夫人が筆者をもてなしてくれ、みなで聖書を輪読した素敵な居間も、今は朽ちかけ、床はひび割れ、壁も傷み、テラスへ続く扉は、開けようにもシャッターや扉が開かなくなっていた。

それでも、ごくわずかな思い出の片鱗でも残っていないかと期待しながら、筆者は歩き回ってみたが、その家には、もう当時の生活の名残は、ごくわずかに天上に吊るされた照明と、家の中に数か所残されたインテリアのかけらくらいしかなかった。

その代わり、筆者は、客として招かれた頃には、決して案内されることのなかった家の隅々までも見ることができた。

そうして驚くべきことが分かった。その家には、筆者が客として招かれたときには、決して存在を知ることのない隠された空間があったのである。夫人が生前に、センスの良い高価な家具をたくさん飾り、実に良い雰囲気を醸し出していた居間のある上層階とは別に、一種の廃墟と言っても良い状態の下層階が存在したのである。

その下層階は、まさに廃墟と呼ぶべき状態であり、しかも、多分、そこが廃墟になったのは、家が空き家になって後のことではなく、夫人がまだ生きていた当時から、開かずの間として放置されていたのではないかと思われた。つまり、同じ家の中に、美しく改装された二階と、放置されて朽ち果てて行く一階とがあり、この二つが、基礎構造を通じてつながっていたのである。

筆者は非常に驚き、複雑な思いになった。これはまるで人間の心の中のようだという気がした。生まれながらの人の心の中には、誰にでも、こうして人には見せられない隠された奥の間がある。そこに、様々な嫌な思い出や悪意が封印されていたりする。

筆者が客としてこの家を訪れた時、夫人は、信仰によって与えられた非の打ち所のない家のように、この家を紹介しれくれたが、その時、夫人が筆者に見せてくれたあの夢のような空間は、最も良いごく一部である上層階に過ぎず、この家には、下へ下へと降りるに連れて、それとは全く異なるもう一つの顔があったのである。

しかし、あれほどセンスの良い綺麗好きで自分の家をとても愛していた夫人が、そのような状態で、率先して下層階を放置していたとは、およそ考えられず、多分、そうならざるを得なかったのは、そこには夫人が立ち入れなかったか、管理の及ばない何かの特別な事情があったためだろう、と考えられた。

同じ一続きの家ではあったが、そこは夫人が設計したわけでなく、管理したわけでもない、別人の空間だったと思われる。

そういう事情を見ても、きっとこの家の中には、外の人には決してあけっぴろげに見せることのできない何かの秘密が隠されていたのだろう、という気がしてならなかった。

多分、その秘密こそが、夫人が生前、幾度も涙しては屋上で祈らなければならなかったり、静かに祈るための空間を求めて、郊外へ移動したりしていた理由につながっていたのではないだろうか、などと筆者は思いを巡らしてみた。
 
だが、筆者はそれ以上、その事情について、知りたいとは思わなかった。どの家族にも、それなりの秘密がある。たとえば、筆者の目から見て、夢のように素晴らしい家庭に見える家でも、その家に生まれた子供たちの目から見れば、かなりの問題があると感じられるかも知れない。

人目には愛のある素晴らしい夫婦のように見える二人がいても、もしかすると、毎日のように、どちらか一方が泣いているかも知れない。あるいは、親たちは幸福そうに見えても、子供たちは苦しみ、悩んでいるかも知れない。

遠目に見るからこそ、何もかもがきれいに見えるだけのことである。すべての地上の家は、そういうものだ。筆者が愛していた夫人の家だからと言って、すべてが例外などということは決してないのだ。

だから、その家が、最も天に近い、地上で一番、祝福された、聖なる場所のように筆者に見えていたのは、あくまでその当時の筆者の主観によるものであり、同時に、夫人の主観によるものであり、また、同時に、単なる人間の主観にはとどまらない、信仰によってつながった姉妹たちが、主の御名の中で、ともに分かち合った喜びや賛美によるのである。

確かに、その時、私たちの霊の内で、何とも言えない理想的な空間が広がっていた。だが、だからと言って、その思い出を、まるで完全で聖なるもののように、極度に美化するわけには行かない。

地上のものが、エクレシアの永遠の構成要素の一つであるかのようにみなすわけにはいかない。どんなに素敵な家も、ありふれた家の一つでしかなく、理想や、完成からは遠い、不完全なこの世の朽ち行く物質から作り出されたものに過ぎず、その家も、どこの家もそうであるように、老朽化やその他の様々な問題に悩まされ、いずれは消えて行く脆くはかないものの一つでしかない。

仮にその家が、何の秘密も持たない理想的な空間であったとしても、それでもやはり地上の朽ちて行くものが、天の朽ちないものを形成するわけではない。

結局、真理と霊によって神を礼拝する場所は、あの山や、エルサレムではない。エクレシアは、思い出の中に存在しているのでもなければ、他人の素敵な家の中にあるわけでもない。

筆者にとってのエクレシアとは、常に筆者の内に住んで下さるキリストによって、筆者と共に存在している。このことを決して忘れるわけにいかない。あの時、筆者と夫人と、また別のもう一人の夫人が、共に三人で集まり、祈ったことにより、我々の霊の交わりの中に、確かにエクレシアが存在していたのであり、他方、夫人の素敵な家は、その交わりによって照らされ、聖別されていた地上の空間に過ぎない。

不思議なことに、目の前で、思い出深い場所が、残酷に朽ちて行く光景を見せられたというのに、しかも、そこには、筆者の知らない秘密まであったと分かったにも関わらず、筆者の記憶の中では、依然として、その家も、夫人の面影も、輝いたままに残っている。

おそらく、それがエクレシアの永遠の交わりが、確かにその時に生きて存在していたことによるのだろう。そこがどんな家であったかなど、全く問題ではないのだ。

エクレシアは、主の御名の中で集まる二、三人の中にある。だから、過去を振り返ることなく、真実な心で今、生きている兄弟姉妹と手を取り合って、前に進んで行こう。
 
人間は生きている限り、絶えず変化し、前に進んでいく。人は常に新しいものを求める。人間の作った技術が年々、進歩しており、年々、物質が古くなり、朽ちて行くのと同様、かつては最善に見えたものも、時代の変化により、廃れて行く。だから、思い出を振り返り、名残惜しむことによって、何かが取り戻せるということは絶対にない。過去を振り返る時でさえ、今の基準に立って、すべてを厳しく評価しなければならない。そして、地上に存在しているものは、どんなものであろうと、満点をつけられるものはない、と言い切らねばならない。

なぜなら、私たちが求めているものは、この地上に属するものではないからだ。
 
ところで、筆者は、開かずの間のない家を理想と考えている。古いものと新しいものを一緒に残すことはできない。古い基礎構造の上に、新しい部分をかぶせて、一部だけを新しくして、すべてが新しくなったように見せようとは思わない。そういう混合は決してあってはならないものだ。

開かずの間とは人の心でもある。エレミヤ書にあるように、どんなに人の心が陰険で、罪と悪に満ち、直りようがないほど悪かったとしても、その部分は、神の光によって照らされなければならない。そうして、照らされて、新しく造り変えられる必要がある。

そのためには、その部分をまず神に対して解放して、明け渡さなければならない。廃墟であろうが、どんな状態であろうが、構わないから、そういうものが自分の心の中にあることをまず認め、扉を開けて、主をその中にお招きせねばならない。客人をお招きするにふさわしくない空間であることは百も承知だが、だからと言って、それをないもののように、鍵をかけて閉ざしてはいけない。にも関わらず、それをそのままにして、古い基礎を残したまま、その上に上層階を建れば、その弊害は必ずしばらく経って現れて来る。そのような仕方で建てた家は、長くは持たない。筆者には、そういう気がした。
 
大胆な外科手術によって、取り除くべきものがすべて取り除かれた上で、すべてが新しくされねばならないのである。基礎構造から、すべてが新しくなければならない。そういう意味において、夫人が見せてくれた家は、天の故郷である新エルサレムまで続く道の途上にある、非常に魅力的な通過点の一つであったとはいえ、それがゴールでは決してなく、そこから天の故郷までには、まだまだ遠く、はるかな距離が残っており、その通過点は、どんなにその時には満足できるもののように見えたとしても、そこで立ち止まるべきではない、甚だ不完全で中途半端な地点でしかなかったのである。

だから、私たちは生きてキリストの十字架の死と復活をさらに知るべく、主のよみがえりの命によって刷新されるべく、後ろのものを忘れ、前に向かって進んで行く。その途上で、また新たに喜びに満ちた出会いや、有益な参考材料となる学びが現れて来るだろう。



このところ、オリーブ園で連載されているオースチン-スパークスの論説は非常に興味深い内容なので、転載しておきたい。
 
まずは、T. オースチン・スパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (9)  から。
 

交わりのために成長する重要性

 そしてさらに、霊的交わりのために霊的成長がなければなりませんさらに優った積極的交わり抜きで、関係を持つおそれがあります。この関係は続きますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。

交わりは私たちの関係性の所産であるべきであり、交わりに導かない関係性にはその麗しさと豊かさが欠けており、その真の目的に達していません。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、私たちは互いにやって行くことはできません。

常に
あなたの自己が優勢なら、ただ主と共に進んで行きたいというあなたの望みのみに基づいてあなたと共に進んで行くことは私にはできません。また、あなたもその立場に基づいて私と共に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです

「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。確かに二人は関係を持つことができます。
同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません

一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。共に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。

私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織であったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

 ここに豊かな実りがあります。御霊の度量の中で共に進むこの立場を得る時、私たちは絶対的有用性の立場に達します。とても多くのことがこれにかかっています。往々にして人は知的に何かを理解・把握し、それを誰かから得て、その中で進み続けようとするのですが、その事柄は彼らの存在中に決して造り込まれておらず、彼らはそれを人づてに得たにすぎません。それは彼らの存在中に、聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって、決して造り込まれていません。そして、それが彼らの内側から現れることは決してありません。聖霊によってその事柄を内側に造り込まれるというような問題では、私たちは確かでありたいと願っています。



この記事は、なぜ私たちはクリスチャンのうちのある人々と、信仰の歩みを途中までしか一緒にできないのかという問題に対する良い解説となっている。

これはある意味では困難で痛ましい問題でもある。なぜなら、神は決してクリスチャンの成長の度合いを最初から限定されたりはしておられないからである。一人一人の人間の生まれつきの才能や性質には様々な違いがあるとはいえ、それは霊的な度量の違いとは異なる。

神が初めからあるクリスチャンだけを偉大な霊の器として定め、ある人々を小さな器として定められたという考えは正しいものではない。たとえば、旧約聖書に登場する霊的先人たちは、ある種の型を示しているのであって、これを今日のクリスチャンにそのまま当てはめたりしないようにしたい。

ある人々にはダビデのように霊的に偉大な召しが与えられているが、ある人々はサウルのように失敗者となって終わることが決まっているなどと考えたりすべきではない。

(むろん、これは信者が人生における選択を誤った場合に当然、負わなければならない報いを意味するのではないし、信者が故意に御霊に逆らい続けた場合にも、信仰の失敗者とならないという意味でもない。)

ただ私たちは、クリスチャン同士の間に、あたかも人間の生まれつきの能力や才能のように、霊的命の等級のようなものが初めから定められていて、成長の度合いが初めから限られているなどという考えを持たないようにしたい。

新生されたクリスチャンの歩みは、同じ種類の植物の種を地面に蒔くようなもので、その種に初めからあまりにも大きな違いがあって最初から違った成長の度合いが定められているということは決してないのである。
 

主の民に関する大いなるすべてを含む言明は、彼らは神のための祭司の王国となるために選ばれたということです。これはつまり、主の民の僅かな人々ではなく全員が神のための祭司の王国となるよう召されているということです。

神は最初からイスラエルを祭司の王国と見なしておられました。民全体が祭司の地位にあると見なしておられました。これは次にレビの部族が引き継ぎました。レビの部族は全イスラエルの初子を代表するものであり、主の御前にもたらされて、聖所での務めのために分離されました。主の御思いでは、これは全イスラエルをその地位にもたらすことを表していました。

しかし同時に、そこには相違があったことを理解しそこなうことはありえません。そこにはレビ人たちがおり、祭司たちがいました。レビ人たちがおり、アロンの息子たちがいました。彼らは同じではなく、異なっていました。しかしこの相違は、相違が生じることを主が意図されたからではありません。

 私たちはこれをすぐに単純化してしまいますが、まず第一に、次のことをはっきりさせなければなりません。すなわち、
神が持っておられる最高の最も完全なものは彼のすべての民のためであり、一部の人のためではないのです。あるものは自分には過ぎたものである、自分がそれに到達することは決して主の意図ではない、と感じる時は常に、これを思い出して下さい。彼の豊かさは一部の人のためだけであるという考えを、あなたの思いの中から完全に追い出さなければなりません。

「御霊による生活」 第五章 祭司団 (1)

 
しかし、現実には、クリスチャンの霊的な成長には大きな違いが発生する。ある人々は霊的に前進し続けるが、ある人々は途中で停滞してしまうか、もっと悪い場合には後退し、脱落する。

私たちは、そのようなことは、神が新生されたクリスチャンに初めから定めた違いを意味するのではなく、おのおののクリスチャンの望みに応じて生じる違いなのだと気づくべきである。

すべてのクリスチャンには、それぞれが同じ種類の種のように、大きな霊的成長を遂げる可能性が備わっているものの、成長が起きるかどうかは、あくまで各自のクリスチャンの望み、また歩みによる。

今日、多くのクリスチャンを名乗っている人々の成長を妨げているのは、人間の作り出した宗教組織や、宗教指導者の教えという、人間が作り出した思惑や制度の枠組みである。あまりにも多くの信者が、これらが人自身が作り出した規則や考えに過ぎず、神の霊的な命の統治とは何の関係もないのものであるということを認めず、その枠組みから出る可能性を考えてみることもない。そのため、彼らがとどまっている枠組みが、そのまま彼らの霊的成長の限界となってしまうのである。

それはちょうど何メートルも生長する可能性を秘めた巨木の種を小さな温室に閉じ込めて育てようとするようなものである。

人間の作った宗教組織や、宗教指導者の教え以外にも、信者の霊的成長を縛り、邪魔し、制限しているものは多くある。たとえば、それはこの世の常識であったり、不信仰から来る信者の誤った思い込みであったり、信者自身が自分の心の中でもうけた制約などである。

一つ前の記事に、一羽の雀を天にはばたかせるのか、それとも地に落とすのかは、信者自身の心の選択にかかっているのだということを書いた。このことは、信者が自分で管理するよう地上で任されたものを、生かすのか殺すのか、増やすのか減らすのか、繁栄させるのかそれとも衰退させるのか、といった選択は、信者自身の信仰にかかっていることを意味する。

同じように、信者自身が霊的にどれだけ成長を遂げるのかも、信者自身の望みにかかっているのである。

言い換えれば、真に霊的に成長を遂げたければ、信者は自分自身のちっぽけな思いの限界をとりはらい、神の御思いにふさわしいだけの高さ、広さ、深さ、長さをもった思いを抱く必要がある。神が人に望んでおられるのと同じほど、気高く、高潔で、壮大な願いを抱き、それが自分に実現可能であることを固く信じ続け、どんな困難に遭遇する時も、あきらめることなく前進し続けなければならない。

信者が抱く望みの高さ、大きさに応じて、信者を取り巻く環境が押し広げられる(もしくは狭められる)。環境が信者の信仰を規定するのではなく、信者の信仰が、信者を取り巻く環境を規定するのであり、もしもその逆が起きているならば、その信者はもはや信仰に従って生きているとは言えない。

ところが、多くの信者が、自分で自分の信仰の成長を縛り、停止させていることに気づいていない。そのようにして信者が自分でもうけている限界や制限の中には、「私とはこのような人間である」とか「私はこのような人間でなければならない」といった信者の思い込みもある。

多くの信者が、「私は大した人間ではありませんから、大それたことはできません」などと告白することを、あたかも謙虚さであるかのように勘違いしている。しかし、そのように告白してしまえば、それが現実となるのは避けられない。

つまり、「私は大した人間ではありませんから…」と自ら述べている信者が、キリストの身丈にまで成長することはまず絶対にあり得ない。

そのようなわけで、信者は、神が願っておられる御心を真に掴み、本当にそれにふさわしいまでに成長し、遠くまで歩いて行こうと願うならば、まずは自分で自分を縛っている思いの狭さや限界自体を取り払い、変えなければならないのである。そして、「自分とはかくかくしかじかの人間である」という、自分でもうけた制約そのものを取り払って、神が自分に願っておられることは一体、何なのかという視点で自分を見るようにしなければならない。

ほとんどの人は、その必要性に気づかず、生まれ育った環境で身に着けた常識に従ってしか自分を見ようとしないため、信者となっても、キリストに似た者とされることの意味が全く分からず、自分が何を目指しているのかも分からないまま、完全にこの世の常識的な考えと枠組みの中だけで生涯を終えることになってしまう。

冒頭に挙げた記事に話を戻すと、クリスチャンは、自分の霊的な成長に応じてしか兄弟姉妹と交われない。そこで、交わりの中にいた信者の誰かの霊的成長が止まってしまうと、それまで一緒に歩いて行くことができた兄弟姉妹が、もはや共に進んで行けなくなるということがしばしば起きる。

宗教界にいる多くの信者たちは、信徒の交わりという問題について完全に誤解しており、彼らは、自分が所属している宗教組織にいる人々が兄弟姉妹だと考えているため、その組織に所属している限り、信徒の交わりから除外されることはないと考えている。

しかし、そのような考えは誤りである。そもそも地上の宗教団体に所属して得られる人間関係は、地上的な人間関係と何ら変わらず、御霊による霊的交わりではない。

当初は無知のゆえに、そうした地上組織がキリストの体を表すものであるかのように誤解している信者がいたとしても、その信者が真に霊的交わりを探求するならば、やがてその組織が誤りであることを見いだし、真理に従うために、そこを出て行かねばならない時がやって来る。

こうして、ある真理に気づいた信者が、それに気づかない人々の集合体を後にせねばならないということが起きるのである。

そのような現象は、信者が地上的な宗教組織を離れ、クリスチャンの兄弟姉妹と自由に交わっていても、やはり起きて来る。

そこでも、その交わりにいる誰かの霊的成長が止まり、あるいは、その人が霊的に後退し始めたり、もしくは、人間的な思惑に惑わされて、真理から逸らされたり、あるいは、自ら指導者となって他の信者たちを管理・統制し始めたりすれば、その交わりはもはや自由な交わりではなくなり、御霊の働きが損なわれる。

すると、そのことに気づいた信者は、その交わりを中止して、自分一人であっても、そこを出て先へ進まなければならなくなる。

このように、御霊による交わりは、キリストを土台としてか成り立たず、御霊の自由が損なわれれば、交わりが成立しなくなってしまう。人間的な思惑や力によって牽引される交わりは、信徒の交わりではなく、もはや別な何かである。

悪魔は心から信徒の交わりを憎んでいるので、これを壊すために、全力を尽くす。そこで、かつては自由であった信徒の交わりに連なる成員の心が、キリストの御霊とは異なる影響力から来る別の教えに誘惑され、逸らされて行く危険は十分にあり得る。

あるいは、キリスト教界をエクソダスしたと言っていた人々が、再び、キリスト教界に戻って、宗教組織や指導者の束縛の下に入ることもあれば、自ら指導者になろうとすることもある。

そのようなわけで、一旦、御霊の自由の上に打ち立てられた交わりの中にいたはずの信者たちが、再び、人間的な思惑の支配下に入り、そのために、御霊による交わりが損なわれると、信者は、最終的に、御霊自身がその交わりを去って、その交わりが完全に堕落・変質して破壊されるよりも前に、そこを去らねばならなくなる。

サタンの誘惑に屈して、聖書とは別な教えに逸れていった人々が、自ら交わりを壊したという自覚を持つことはほとんどない。霊的に後退した人々がその自覚を持つこともまずなく、まして自ら指導者となって、キリストに代わって交わりを支配しようとするような人間が、その行為が悪であることを自覚することはまずない。彼らを説得しようとしても、それはほとんど不可能な相談である。

そこで、信者はそのようにして御霊とは完全に異なる別の影響力が入り込んできて交わりが汚染されたことを悟れば、そして、それが助言や忠告によって修正できる範囲を明らかに超えていることが分かったならば、そこにいる人々を、共に前進できる兄弟姉妹であると考えることをやめて、静かにその交わりを出て行かねばならない。交わりが異なる福音によって汚染された事実を知りながら、人間的な情愛にとらわれて、そこに長い間、残っていれば、いずれ深刻な害を受けることになろう。

このように、一旦、光を受けて前進していた信者が、後退するか、脱落するかした場合、その人との交わりは、まるで異教徒との交わりと同じような具合になってしまい、同じクリスチャンを名乗っていながらも、交わりが全く成立しなくなるという状況が起きうるのである。

そこで、たとえクリスチャン同士であっても、共に手を携えて霊的に前進して行けるかどうかは、その人自身の霊的成長にかかっていると言える。

途中までは共に前進出来ても、途中から脱落してしまう人々は非常に多い。そして、たとえ物理的には互いに顔を合わせることのない兄弟姉妹同士であっても、キリストの身体全体は一つであるため、他の信徒らに先駆けて、霊的に目覚ましい成長を遂げ、キリストの体の中で、先駆的な役割を果たしていた信者が、別な教えに逸らされて脱落すると、それは後方にいる人々にも大きな悪影響を与えることになる。

エクレシアは全体としては軍隊のような力を持つものであり、物理的な制約にとらわれず、互いに連動して機能しているため、一人一人のクリスチャンが霊的に成長を遂げるとき、それはエクレシア全体の増強となり、サタンと暗闇の軍勢に対する大いなる衝撃力となる。一人一人の信者の霊的成長が、エクレシア全体にとっての力となり、暗闇の勢力にとって重大な脅威となる。だからこそ、サタンは何とかしてエクレシアの交わりを破壊し、一人一人の信者の霊的成長を阻止し、できるなら彼らを誤った道へ逸らし、交わりを分断・破壊しようとするのである。

とはいえ、他の信者の状態がどうあれ、あなたは決して前進をあきらめず、キリストだけを土台として、進み続けなければならない。たとえ一人きりで出発せねばならないと感じられる時でも、あなたが前進し続けるかどうかが、エクレシア全体の前進にも大きく関わって来るのであるから、進み続けることをあきらめてはいけない。

 しばらく離れなければならなかった兄弟姉妹とも、また交わりの中で再開できる時が来ないとは限らない。しかし、キリスト者の歩みの目的は、かつてあったような交わりを維持・再現することにはなく、ただキリストに従うことだけが目的でなければならない。

さて、以上は、信者が、自分の思いを、神が信者に願っておられるスケールにふさわしいまでに押し広げ、高い目標を持ち、自分で自分の成長に限界をもうけず、自分に与えられた高貴で責任の重い使命にふさわしい自覚を持つべきことについて書いて来た。

そのように高い目的意識と、それに見合った広い心を持ち、神の約束の御言葉に従って、自分自身がそこに到達できることを固く心に信じないことには、信者の霊的成長など起こり得ないのである。

次に、信者が自分の「さまよう思い」をコントロールすることについて書きたい。

現在、筆者の作業場は小鳥たちの楽園のようになっている。筆者のパソコンの画面にはたくさんの小鳥が止まっており、キーボードも、小鳥たちが走り回る遊び場となっている。南国の美しいブルー、ピンクなどの、小鳥たちの珍しい色が、目を楽しませてくれる。

これらの小鳥を見ながら、筆者は、標題の御言葉の意味を思いめぐらしている。

キリストの復活の命は、環境を創造する命であり、この世のすべてを超えた支配力を持つことを、これまでの記事で幾度か述べて来た。御霊によるキリストの新しい命は、信者の地上におけるすべての必要性を整えることができる。

そこで、信者の生活に、損失のように思える出来事が起きた時でも、信者がもしそれを損失であると認めず、素早くそこから立ち上がって前進を続けるならば、驚くほど素早くダメージが回復されるばかりか、以前よりももっと豊かな恵みが与えられる。

筆者が出会った小鳥たちも、御霊の統治の中で与えられたものであると言える。偶然ではない様々な波乱に満ちた出来事が多々起きる中、筆者は様々な条件を指定して鳥を探して来た。これまで何度も小鳥を探して来たが、珍しい種類の良い雛を見つけるのは簡単なことではない。筆者の周りにいる鳥たちとの出会いも、一つ一つが偶然ではなかった。

だが、小鳥の話は単なる比喩に過ぎず、ここで筆者が言いたいのは、信者には自分を取り巻く環境条件を自ら創造し、自分の支配下に集まって来るものを、どんな風に治めるかを、自分自身で決める権限があることだ。

信者は信仰によって、すべての願うものを無から呼び出して獲得し、得たものを主人として管理・統治する権限を持つ。その影響力は、小さな生き物だけでなく、信者の支配圏内にあるすべての人、物事、条件に及んでいる。

そこで、信者は、信仰によって何かを得ようと願うだけでなく、得たものを適切に管理・統治する方法を学ばなければならない。その過程で、信者の統治には、信者自身の思いがかなりの影響を与えることが分かってくるだろう。

生き物を育てると必ず分かることは、動物たちには、間違いなく、言葉を超えた伝達能力が備わっており、主人の思いを言葉によらずに、瞬時に的確に察知する能力があるということだ。

飼育されている生き物たちは、主人である人間が今、平安を感じているのか、それとも恐怖を感じているのか、何の伝達手段にもよらず、瞬時に察知できる。彼らは、主人が安らいでいることによってのみ、平安を得る。

また、これらの生き物は、主人が同じ部屋を立ち去って、少し離れた見えない場所にいても、主人の心がどういう状態にあるのかを的確に察知することができる。

筆者はこのような能力を、当初は動物に備わる本能的な直感や、人間である主人の生活に合わせる適応力なのだと思っていたが、実は、そこには単なる言外のコミュニケーションを超えたもっと重大な影響力の行使があることに気づいた。

その影響力は、やはり、すべての生き物を治める主人と、その支配下にある生き物の主従関係から発生して来るものなのである。それは王国における王と臣下の関係にも似ていて、飼い主の考えは、これらの生き物たちに瞬時に伝わるだけでなく、生き物の運命を決めてしまうほどに重大な決定権・影響力を持つ。

たとえば、飼い主が怒りっぽく、絶えず不安にさいなまれている人間であるのに、ペットだけが平安で幸福であるということはまずない。そればかりか、飼い主がペットを愛さなければ、ペットの方が、自分は必要とされていないと思い、世をはかなんで去って行くということさえ起きかねない。

どんな飼い主であっても、飼い主の意志と思いは、圧倒的な影響力となって生き物に行使される。それが主人であることの意味である。人自身が思っているよりも、はるかに強く、また、些細な思いに至るまで、人間の思いや感情は、生き物に伝達され、決定事項のように作用する。

そこで、飼い主は、自分自身の思いが、自分の配下にいるすべての生き物にとって、善き決定となり、良好な影響を与えるように、自分自身をコントロールしなければならない。

もちろん、飼い主は、自分たちの生活に脅威を与えるすべての悪しき力に立ち向かって、これを撃退し、いと小さき命を養う主人としての役目と責任を果たすべきことに加え、彼らを幸福に生かすために必要な条件を整えねばらならない。

その過程で、人間は、自分の思いがどれほどすべての環境条件に重大な影響を与えているかに気づかざるを得なくなるだろう。

筆者がなぜ今、生き物を例に話をしているのかと言えば、人間を相手にする場合は、受ける影響力が強すぎるため、どこまでが自分の責任範囲であるのかが、分かりにくいからである。

仮に軽自動車とダンプカーとの接触を考えてみた場合、あなたが運転していたのが軽自動車であって、相手が運転していたのがダンプカーであれば、あなた自身の影響力がどこまでのものであるかは極めて分かりにくいだろう。ダンプカーの力が強すぎるからである。このように、人間を相手に関わる場合は、相手から受ける影響が大きいがゆえに、自分自身の思いや行動がどれほど相手に影響を及ぼしているかは見分けにくい。

しかし、人間よりもはるかに弱く小さな生き物が相手であれば、人は自分がその生き物にどれほど絶大な影響を及ぼしているかを、人間を相手にする場合よりももっとはるかによく知ることができる。

多くの人々は、飼い主として果たすべき責任と言うと、まずは餌や水を与えること、適切な温度管理をすること、清潔な環境を整えること、などの物理的な飼育条件を思い浮かべるであろう。もちろん、これらの世話は必要なことである。だが、それよりももっと根源的なところに、飼い主の思いというものが存在する。

人が自分自身の思いを守ることの重要性は、あまり強調されないが、これは非常に重要な問題マである。飼い主の思いが平安であり、安定していなければ、物理的世話が行き届いていたとしても、その支配下にある生き物は幸福になれない。そもそも、飼い主の思いが安定していなければ、ペットの幸福はあり得ず、それは、しばしば、物理的な世話が行き届かない最たる原因となる。ただ愛情があるだけではダメで、変わらない愛情、常に安定した愛情を注ぐにふさわしい準備ができていなければならない。

だが、このことはペットの飼育に限らず、すべてのことに共通しており、人自身が平安に生きられるかどうかの鍵は、その人自身が自らの思いを守れるかどうかにかかっている。

多くのクリスチャンは、常に安定した愛情を、ペットのみならず、自分自身にも、他者にも、注ぐ用意ができていない。彼らの心はあまりにも不安定で、変わりやすく、その上、彼ら自身が、自分は怒りっぽい性格に生まれたとか、苛立ちやすいとか、不安に影響されやすいとか、体が弱いなどと考えて、自分で自分の性格を規定し、自分の弱さが自分の生まれ持った傾向であり、変えられない習慣であるかのようにみなして、自分の心を圧迫するあらゆるものに毅然と抵抗して、自分の心を守ることをほとんど完全にやめてしまっている。

それゆえに、彼らは自分の心の平安をかき乱すあらゆるものに勇敢に立ち向かうこともなく、受け身に翻弄されるだけとなり、自分の心を防衛の砦のように守ることができず、まるで風にきりきり舞いさせられる木の葉のように、起きる出来事に翻弄されては心の平安を失い、自分ばかりか、自分の支配下にあるすべてのものを危険にさらしているのである。実のところ、それは全く正しい行動とは言えない。

そういうことは、その信者が自分の思いをコントロールする術を学んでいないために起きることであり、また、同時に、信者が自分で自分の性格を規定してしまっているために起きている誤解なのである。

そのことを知らない人々の中には、以上のような天然の弱さからもっと進んで、たとえば、自分は運が悪いとか、決して人から愛されないとか、肝心なところでいつも失敗するとかいった、極めて否定的な根拠のない思い込みを頑なに真実であるかのように信じ込んで生きている者もある。それは彼らが心の思いの深いところで、すでに自分の人生を規定してしまっていることを意味する。

そのような否定的な「信仰告白」を繰り返していながら、一体、どうしてその人がキリストの身丈まで霊的成長を遂げることなどあり得ようか。

たとえば、自分の人生があたかも不幸の連続であるかのように自ら思い込み、決して自分は人から十分な愛情を注がれることなく、十分にかえりみられることもなく、何かの痛ましい事件の犠牲者となって生き続けるしかない被害者であるなどと、心の深いところで根拠もなく思い込んでいる人間が、自分の周りにいるいと小さき命を真に幸福にできることは決してないと言えよう。

そういう意味で、前回も書いた通り、「一羽の雀」をはばたかせるか、地に落とすかという選択は、生き物の飼育という問題をはるかに超えて、その飼い主である人間自身が、果たして自分を治めることができているのか、自分を生かすつもりなのか、殺すつもりなのか、生と死のどちらを選ぶのかという選択と深く関わっているのである。

本来、多くのものを適切に管理し、多くの命を生かさなければならない立場にあるはずの人間が、自分は不幸だと思い込み、環境の主人となるどころか、環境条件に振り回され、それゆえ、常に自分を失って、周りの命に大きな悪影響を及ぼしながら生きているといった現象は、決して一部の弱い人々にのみ起きていることではなく、霊的成長を遂げたいと願っている多くの信者にもしばしば当てはまるものなのである。

今日、クリスチャンを名乗っているほとんどの信者は、自分で自分をどれほど制約し、規定してしまっているかを知らない。彼らは口では、「キリストに似た者とされたい」と告白するが、それが一体、どういうことを意味するのか、内容を分かっていない。聖化だとか、栄化だとかいった専門用語のような概念を論じることはあっても、その内実が何であるのかほとんど理解してはいない。

彼らは自分というものを、あたかも救われる前まで、もしくは昨日まで、積み重ね、作り上げて来た狭い自己イメージであるとみなしており、そこに変化が起きうる可能性を全く想定していない。過去の蓄積として自分自身で作り上げた自分のイメージが、明日も、明後日も、続くのだと思い込んでおり、それに無意識のうちに束縛されてしまっているため、そこに信仰の働く余地が全くと言って良いほど存在しないのである。

その思い込みは、完全に事実無根というわけではなく、その中には、幾分か、信者自身の生来の性格や傾向も含まれており、事実、そのような過去が繰り返されて来たのかもしれない。

しかし、信者の信仰による歩みは、過去によって規定されるものでなく、信者の天然の命によって規定されるものでもない。そこで、まことしやかな「過去の蓄積」を自分自身だと思い込んで生きている限り、その信者の中から、天然の命の限界を打ち破るような信仰の働きは決して起きて来ることはない。

サタンは、信者の天然の傾向を入念に研究済みであって、信者の天然の命から来る限界や欠点を、あたかも信者の変えられない「運命」であるかのように思い込ませる天才である。それは、悪魔は、信者がいつまでも過去に縛られ、自分の天然の命の弱さから抜け出せず、決してその制約から立ち上がって、キリストの復活の命の豊かさにあずかれないことを願っているためである。

楽器の練習をする際に、昨日と同じように弾こうと考える者はいないだろう。必ず、昨日よりは上手く、昨日よりももっと自由に、より美しく、より高い完成度で演奏しようと考えるはずである。どんなに目標が遠く感じられても、根気強く、そこに近づいていきたいと願い続けているからこそ練習するのである。

ところが、信仰による歩みについて、あまりにも多くの信者たちが、いかなる目的も持っていない。彼らは何の目的意識もないまま、漠然と昨日と同じような今日を生き、その延長として明日が来るだろうと考えているだけで、全く目的意識も持っていないのに、まるで偶然のように自分に進歩が起きるのを受け身に期待しているだけである。

彼らはキリストに似た者とされることが、自分自身の内面の作り変えを意味し、自分の中で人として損なわれた尊厳を完全に回復することを意味しているなどとは全く考えてもみない。むろん、自分自身の内側で、天然の堕落した命の衝動に従って生きている限り、人としての尊厳がどれほど深刻に損なわれているかに気づいてもおらず、そのままでは、人生において完全な主権を打ち立てることもできないと分からない。

サタンは、信者に天然の弱さが克服不可能であるかのように思い込ませようとするか、もしくは、それを克服することは、人間の力では到底、不可能であるから、あきらめるしかない、と思い込ませようとする。そのようなサタンの策略が功を奏すれば、信者は自分のあれやこれやの弱さにひしがれ、それを否むことは、神のまことの命によってのみ可能であると考えてみようともせず、自分で自分の弱点を克服しようともがいた挙句、一向に克服できない自分の欠点や弱点に対する罪や恥の意識に常に苛まれて生きるしかなくなる。

そうしてサタンの策略が功を奏すれば、サタンは信者をただ天然の命の弱さによって思うがままに翻弄するだけでなく、その次に、信者の天然の傾向とは何の関係もない余計な重荷までも次々と信者に押しつけて来た上、それらを背負って生きることが、信者の「運命」であるから、あきらめるしかないと思い込ませようとするであろう。

サタンが願っているのは、信者の思いをひっきりなしに重荷によって圧迫し、かき乱し、平安を失わせ、信者があらゆる物事を判断する際に、ただ受け身に出来事に翻弄されるだけとなって、決して正常な決断が下せないように仕向け、主体性を失わせることである。

サタンは信者が神の国の霊的統治を持ち運ぶ王のような威厳と権威を備えた存在だということを何としても気づかせまいとしており、信者の見えない王国を統治する主人としての威厳と権威を損ない、信者が与えられた召しにふさわしい生き方ができなくなるように仕向けようとする。王の威厳にふさわしい者と言うより、奴隷と呼んだ方が良い生き方を強いようとする。

そのためにこそ、サタンは、信者は弱く、欠点ばかりを抱えた、一人では何事もできず、失敗を繰り返すだけの無力な人間であるから、常に誰かの助けと支えがなければ生きられないかのように思い込ませ、信者がまかり間違っても、大それた高貴な目的意識など持つことなく、自分がキリストの持っておられるすべての性質にあずかるにふさわしい人間であるなどという自覚を持たないように仕向けようとするのである。

サタンが願っているのは、信者が一生、自分の天然の命の限界から一歩も出ることなく、罪と死の法則だけに支配されて翻弄される客体として生きることである。

だが、信者はそのような悪しき惑わしの策略を打ち破り、これを振り切って、前に進んで行かなければならない。このことは、信者が重荷を避けて通ることを意味せず、むしろ、どれほどサタンが信者に不当な重荷を押しつけようとして来たとしても、信者がこれに勇敢に立ち向かって、それを撃退する方法を学び、その重荷を自分自身のものとして背負うことを断固、拒否する姿勢を保持することを意味する。

聖書には、「主をたたえよ 日々、わたしたちを担い、救われる神を。」(詩編68:20)という句があり、これは新改訳では、「ほむべきかな。日々、 私たちのために、重荷をになわれる主。」となっている。神は私たち自身を背負われる方であるから、私たちはいわれのない重荷によって心を絶え間なく圧迫されて正常な判断力を奪われることを固く拒否すべきなのである。確かに、主に従う上で、日々、負わねばならない十字架があるとはいえ、主イエスはその荷は軽いと言われた。

サタンが押しつけて来る重荷は、人間には負いきれない重荷であって、信者はそれを引き受けてはならない。しかし、その重荷の中には、信者の天然の命から来る限界だけでなく、信者が常識であるかのように考えて自分でもうけた制約なども含まれている。

信者の霊的成長にとってしばしば最も有害な障害物となるものが、信者自身が過去の記憶の蓄積や、人の言葉や評価を通して得た自分自身のイメージ、または、聖書に反する自分の常識を通して作り上げた自分自身のあるべきイメージである。

ガラテヤ人への手紙の中で述べられている「御霊の実」は、今日、多くのクリスチャンにとってほとんど絵空事に等しい。この聖句は今日、多くの信者の間で、「クリスチャンになった以上、人々に対して親切で善良な人間になりましょう」といった道徳訓くらいの意味合いにしか理解されていないが、ここで述べられていることは、そういう意味をはるかに大きく超えた、信者の内なる人格の作り変えのことである。

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラテヤ5:19-26)

信者の内なる天然の人が、主と共なる十字架ではりつけにされて死に、その代わりに、キリストの高貴な人格の性質が、その信者自身の人格として付与され、信者がそれに一体化して行くということが起きねばならないのである。キリストの人格が、信者の人格と一致して働き、キリストの命に備わった性質が、信者自身のものとされ、信者の内側から発揮されなければならないのである。

だが、その作り変えは、決して信者の自覚や同意と関係なく自動的に起こることはない。その作り変えの過程で、信者の思いや、魂にも、十字架が適用されなければならず、信者は自分がそれまで自分だと思っていた天然の人を否み、これを手放し、それとは異なる人格(命の性質)に従って生きることを自分自身で選択せねばならない。

そのためには、何が天然の命に属するものであり、拒まなければならない性質であるかを、信者自身が理解せねばならない。

そんなにも多くの時間をかけて学ばなくとも、多くの人々は、自分の人生の調和を狂わせるようなあらゆる変調が、自分自身の心の中に存在することに、すでに気づいているだろう。

人の心の中には、さまよう思いがあり、それはきちんとコントロールしなければ、信者の心の中を荒れ果てた庭のようにしてしまう。それは、たとえるならば、演奏家が楽器を奏でる際に、様々な外的な要因によって注意を乱されたために呼び起こされた調子の外れた音のようなもので、信者の人生という美しい演奏を不意にかき乱し、場合によっては、壊してしまう。

しかし、信者は、信仰によって、主と共に自ら望むものを創造する者として、ちょうどどんなに劣悪な環境条件の下で演奏を強いられるときにも、最高かつ最善のパフォーマンスができるように自己鍛錬する演奏家のように、自分をコントロールする術を学ばなければならないのである。常に自分にとって完全な舞台が用意されてから、完全な演奏をしますと言っているのではだめなのである。

信者は、自分を取り巻く環境条件に関係なく、自分の内面をコントロールし、そこから信仰によって、自ら環境条件を治める術を学び、それによって、自分の人生の真の主人としての自立と尊厳を回復しなければならない。その回復作業に当たって、信者は、心の変調となりうるすべての要素を、自分の内から追い出さなければならない。

信者が自分自身の心を治める術を学ぶ過程は、非常に根気強いプロセスを必要とするもので、ただ主と共なる十字架における、主の死と信者との一体化、信者が天然の命の衝動を拒んで、神によって与えられた新しい命に従って生きることによってのみ可能である。

神の栄光にあずかるとは、信者自身の内面の作り変えと決して無関係に語れるテーマではないと筆者は考えている。それは決して、地上で信者が大々的な伝道を繰り広げてクリスチャンの数を増やすとか、大規模な事業を行って世間に注目されるといったことを意味しない。

地上で完全にただの人のように肉に従って生き、御霊の働きを知らず、御霊の導きに従って生きる方法も学ばないまま、信者が地上での生涯を終えても、復活の時が来さえすれば、栄光に満ちた姿に自動的に変えられると考えるのは、かなり甘いであろうと筆者は思う。

信者はこの地上において、すでにキリストと共なる死と復活にあずかっているのであり、復活による作り変えは、すでに今の時点からその人の内側で進行中なのである。やがてキリストが来られる時に、私たちがどの程度、主と共に栄光にあずかることができるのかは、私たちが今、この地上で、天然の命をどれほど否み、キリストの復活の命に従って生きたかという度合いによる。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマ5:1-5)



オリーブ園に連載されている記事は、あまりにもタイムリーかつ霊的に深い示唆に富んだ内容なので、そのまま以下に転載しておきたい。

ここには、エクレシアがバビロン化することの危険性が如実に表されているが、それは筆者がこれまで見聞きして来た教会に関わるすべての腐敗現象に当てはまる。

今日も、エクレシアは、教理面での腐敗、そして、生活面における腐敗という両面から、敵の攻撃にさらされている。どれほど多くの交わりがそうして敵の罠によって堕落させられたことであろうか。

私たちが聖書の御言葉に照らし合わせて、何かの事項について、神と人の前で曖昧な態度を取る時、敵につけこませる隙を与えてしまい、そうして入り込んだ腐敗が、やがてその人自身だけでなく、他の兄弟姉妹にまで及び、集会全体を堕落・変質させてしまう。

異端の教えと分かっているものを拒否することもなく集会に持ち込めば、その集会が神の御心にかなうエクレシアであり続けることができるはずがない。汚れたものと分離もせずに、聖さを保つことはできない相談である。
 
だが、差し迫った堕落の危険がないときでも、信者がただぼんやりと曖昧な思考の中で漫然と日々を過ごすことにより、神の御前での心の透明性、真実性が曇らされ、失われることがある。
 
信者が何一つそのような落ち度を犯していない時でさえ、敵は「あなたは間違っている」という思念を信者に植えつけようとする。

クリスチャンは、自分が誤っているせいで起きた霊的な停滞であれ、何も誤っていないのに、敵の思念を取り込んで自信喪失状態に陥ったせいで起きた霊的な停滞であれ、何らかの霊的停滞が起きる時には、ただちに力を失ってしまう。

その結果、教会の証しが曇らされ、力を失い、最後には取り去られ、その防衛力の低下に乗じて、霊的な敵が教会に攻め込み、教会が占拠されてしまうことさえ起きるのである。
 
エクレシアを腐敗させないための最大の秘訣は、一人一人の信者が、神に対する心の純粋さ、貞潔さを完全に保つことである。

筆者はブログを書いていなかった時期も長いが、記事を書くことにより、常に自分自身の信仰の姿勢を正すよう迫られている。

自分の立場がはっきりしていないのに、人前で何かを表明することはできない。だが、多くの場合、書いているうちに、次第に自分の心の奥底まで照らされて、初めはぼんやりとしか理解していなかった事柄が明瞭になり、神と人との前で、信仰の姿勢を正させられる。

記事に向かうときに、自分の関心を地上のものから意識的に引き離し、「上にあるもの」に向けることが可能となるのである。

その作業をしないと、いつの間にか自分の思考が曖昧になり、気づくと神に関する事柄にすっかり鈍感となり、地的な関心だけで心が占領されたりする。にも関わらず、その状態が危険であることさえ分からなくなってしまうのである。

今、筆者は、キリストの花嫁たるエクレシアが、その高貴さを失わないためには、一人一人のクリスチャンが、神の御前で純粋であること、嘘偽りなく、神との間で争いがないこと、真に神に心を注ぎだし、心の一途さ、透明さ、必死なまでの真剣さを取り戻すことがどれほど不可欠であるかを思う。

時に、どんなことがきっかけであれ、エクレシアが神に対する切迫した真実性を取り戻し、教会の証しが回復されることを願って、神は教会に対する敵の激しい攻撃をあえて許されることがあるのかも知れないと思う。

精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。

透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。

停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。

そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。


 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

さて、これから先の記事では、しばらく、ペンコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについて、この運動が根本的に誤っていることについて、今まで以上に詳しく記して行きたいと考えている。
 
その過程で、霊的な敵は、これまで通り、筆者の信仰の証しを地上から取り去ろうとして働くであろう。筆者が以上の論稿をこれから執筆すると予告してから、まだ何一つ記事をアップしていないのに、もうさわやか読者が当ブログに押し寄せてきている有様である。

読者にはっきりと断っておきたい。これまで当ブログが受けて来た攻撃は、すべては霊的な敵に由来するものであり、筆者の信仰の証しを損なうことを目的としてなされたものであると。

だが、彼らは、自らの悪事の厳しい責任を取らされて終わるだけである。

この度、当ブログに多年に渡り、嫌がらせを続けて来た杉本徳久なる人物が執筆しているブログ「神々の風景 -religious scene」は削除されたが、「随想 吉祥寺の森から」も遠からず、削除されることになる。

削除されるまでの間に、杉本ブログのコメント投稿者が、杉本をさらなる破滅に追い込もうと、杉本を争いに焚きつけるだろう。要するに、罪に定められ、滅びることはもう分かっているにも関わらず、最後の期間を使って、杉本ブログを当ブログにぶつけ、どちらが生き残るか競争させ、筆者に可能な限りの害を与えようという見世物を提供しているのである。

だが、はっきりと言っておく。必ず、嘘は真実の前に敗れると。

杉本ブログは、もう何年も前から、完全に信頼性を失った嘘の温床と化しており、自作自演の場となり果てている。

筆者自身は、ブログを書く中で、コメント投稿を重んじることの危険に気づき、無責任なコメントが管理者の意志に反して、どれほどブログの趣旨を歪め、真摯な考察を妨げるか分かったので、ある時点から、コメントを受けつけなくなった。無責任なコメントを掲載し続けていると、そのとばっちりはすべて管理者に降りかかることになるだけである。

杉本ブログは、コメント投稿者の手前、終わるに終われなくなっているのであり、さらに、コメント投稿者のせいで、このブログは杉本自身の意図をさえ離れて、より一層ひどく罪を増し加えながら、破滅へと転げ落ちているのである。
 
杉本ブログに筆者が書きこんだコメントは、2009年に投稿したただ一件だけであり、その他のいかなるコメントにも、筆者は全く関与していない。杉本ブログのみならず、2ちゃんねるなどの掲示板にも、筆者は人生で一度たりとも投稿したことはなく、するつもりもない。(そのようなものを見つければ、それはなりすましと断定してもらって構わない。)

杉本は、筆者が2009年に杉本のブログに書き込んだ、その一件のコメントを、筆者が削除して欲しいと要請したことをきっかけに、当ブログに対する執拗な嫌がらせ行為に及んで来たのであるが、おそらく、そういうことが起きたのは、杉本がその当時から、筆者のために、ゆくゆくは自分のブログ全体を削除させられる羽目になることを、内心で知っていたためではないかと思われる。

筆者はその当時、そんな結末に至るとは予想だにしていなかったが、杉本に常に虚偽ばかりを教え導いて来た悪霊は、最初からそうなると知っていて、その事態を恐れるがゆえに、杉本を利用して筆者を徹底して攻撃させたのであろう。

杉本ブログで行われていることは、今や何から何まで「自作自演劇」の「やらせ」であるが、杉本が初めに当ブログをバッシングする目的で、2009年に投稿した記事も、やはり「やらせ」であったものと筆者は確信する。そのバッシング記事には、1千件のコメントがついて、杉本ブログが炎上に至ったが、それも99%工作員による作戦だったのであろう。

杉本ブログの悲惨な状態は昔も今も全く変わらない。杉本ブログに投稿している人間はほぼ雇われた工作員であり、その他にほんの少しの「悪のり」の投稿があるだけである。

筆者が当ブログに、杉本が刑事告訴されたことを記す記事を投稿してから、さわやか読者が当ブログを絶えず監視しているが、その顔触れを見ると、嫌になるほど以前と変わらず、結局、こうした異常な読者らも、みな雇われ工作員である様子がよく分かる。

杉本は自分の犯している罪を直視する勇気がなく、それを常に他のクリスチャンになすりつけようとしているだけである。

だが、こうして、杉本徳久の内心が次々と明らかにされることは、非常に神の御心にかなった、喜ばしい事態であると、筆者は考えている。筆者は、まずは杉本の心の底の底までが明らかにされねばならず、彼の運命の救いようがないことが、公然と世に明らかにされなければならないと考えている。

そのために、筆者は彼を試しているのであり、悔い改めるならば、今のうちだと呼びかけているのである。そして、彼がその一つ一つの呼びかけを、ことごとく踏みにじり、嘲り、退けるだけに終わることを、分かった上で、一つ一つ、あえて証明させているのである。それによって、彼の頭上には、燃え盛る炭火がまた新たに一つ一つと加わって行くことになる。

かなり面倒な過程ではあるが、このような行程を一つ一つ経ない限り、戦いは決して最後のステージまで進むことはない。

なぜなら、筆者自身は、この事件の結末がどうなるか予め知っているが、多くの人々はそれを前もって予知できず、説明されたとしても、理解できないからだ。従って、人々の心の準備が、筆者と同じくらいに整えられるためには、まずは踏まれるべき行程がすべて踏まれ、結論の動かしようのないことが、万人の前で明らかにされる必要があるのだ。
 
良識ある人々の中には、最初から誰かに対して手荒な措置に出たいと願うような人間は、一人もいない。他に道がないのかと、誰もがまずは情けをかけようとするだろう。筆者自身とてそういう人間である。だが、事件がエスカレートすればするほど、結局、憐れみをかける余地がないことに、最後には誰もが同意せざるを得なくなる。物事はそのようなレベルまで進んでから、初めて厳しい対処がなされるのである。

そのために必要な行程に、筆者は協力を惜しまないつもりであり、自分の名誉や安寧を惜しむがゆえに、霊的な戦いを中途で終わらせるつもりは全くない。

そこで、この事件がこの先、どう進んで行くか、杉本がどのように反応するのか(村上もだが)、読者はよくよく観察されたい。果たして、見栄だけがすべてとなり、大本営発表のような嘘ばかりを垂れ流し、「嘲りの霊」に支配されているこの人々に、クリスチャンとの和解に応じたり、悔い改めて神に立ち返る可能性がわずかでも残されているのかどうか、徹底的に観察されたい。

筆者自身は、神は彼らの罪を決してお赦しにならないだろうと考えている。彼らはあまりにも罪を犯しすぎたので、後戻りの余地がなく、行きつくところまで行き着いて破滅して終わることしかできないだろうと考える。
 
だが、それが筆者の考えに過ぎないのか、それとも、神の御心がそこにあり、それが動かせない現実なのかは、これからはっきり証明されねばならない。

そのために、この事件については、必ず、神の御心がどこにあるのか、人間的な感情を超えたレベルではっきりと証明されるだろうと筆者は確信している。
 
おそらく、神の裁きは確かに存在するのだということが、公然と動かせない形で世に示されて終わることになるだろうと予測する。

ペンテコステ運動の支持者の中には、「神は愛だから、人を裁いたり、罰したりはなさらない。」とか、「罪を犯しても罰はない」といった寝言のような嘘の教説を未だに信じている人々がいるようだが、それは人を破滅へ導く異端であるから、そのように、自分を救ってくれる贖い主を否定する虚偽を信じてしまった信者の人生は、必ず悲惨な破滅で終わる。

そのための見せしめ事例となるであろうと筆者は予想するのである。

前々からずっと筆者はそう警告し続けているのだが、ペンテコステ運動の信者らはそれを信じようとしない。そして、筆者の警告はおろか、神の福音さえもあざけりながら、それでも、自分たちは正しい道に立っており、キリストの花嫁なのだと豪語している。

そこで、筆者は、花嫁と言っても、すべての花嫁が神の御心にかなうわけではないとあえて言うのである。

美しいウェディングドレスを着て、鏡の前でうっとりと自分の姿に見惚れ、自分はあれやこれやの他人に比べ、格段に美しく優れて賢いと自画自賛するのが、花嫁にふさわしい態度ではないだろう。なぜこの人々は、花婿がまだ到着してもいないうちから、そんなにまで慢心して、自分自身を主役に据えることができるのであろうかと首をかしげるのみである。
 
この先、誰がキリストの花嫁にふさわしいかは、神ご自身が証明される。福音に従わず、十字架を退け、血潮を嘲り、御言葉をないがしろにしながら、自分たちをキリストの花嫁に見せかける「嘲る者たち」に対しては、容赦のない厳しい結末が待ち構えているだけである。

キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びであり、主と共なる十字架の死を経ない者は、己を罪から救うこともできず、旧創造として、ただ神の御怒りと、裁きと、滅びに定められているだけなのである。どんなに被害者意識を盾にとって、感情論を振りかざし、自分を弁護しようとしても、小羊の贖いの血潮を退けた者は、決して罪の判決から逃れることはできず、裁きに定められて終わる。

そのことが、クリスチャンのみならず、この世の人々でさえ、否定できない形で、はっきりと証明されるであろうと筆者は考えており、それだからこそ、この出来事の進展を、よくよくご覧になりたいと言うのだ。このようにまで、確信犯的に悪魔に魂を売ってしまった人々に、もはや後戻りの道はなく、彼らは最後まで、神と聖徒らの憐れみや情けを嘲り、侮りながら、残酷なまでに厳しい教訓的な結末へと自ら転げ落ちて行くだけであることを、よくよく目を開いて見ていただきたいと思わずにいられない。

そして、私たちはそのような事例に倣うことなく、あくまで賢い花嫁として、キリストが来られる時に神に喜ばれるべく、この地上にいる間に、より徹底して神の御前で自分の心を調べてもらい、不純物をろ過されることに同意するのである。



「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


☆☆みなさまへ☆☆
当ブログに対して長期で行われている嫌がらせ事件は、只今、刑事事件として捜査が進んでいますが、某所で悪質な記事やコメントの投稿が続けられているため、犯人に関する重要情報をお持ちの方は、ぜひ神奈川警察署刑事2課へ通報ください。当ブログに関する物騒かつ悪質な記事やコメントを見つけられた方もふるって通報して下さい。

メールの提供、写真、個人情報の提供を大いに歓迎します。特に、直近になされているコメントについても、投稿者の個人情報(所属教会、氏名、勤務先情報、連絡先)をご存じの方は、ぜひ詳細にお伝えくださいますよう。情報源を明かすことはありませんのでご安心下さい。県警ではなく、神奈川署ですのでお間違いなく。045-441-0110
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