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オリーブ園に連載されている記事は、あまりにもタイムリーかつ霊的に深い示唆に富んだ内容なので、そのまま以下に転載しておきたい。

ここには、エクレシアがバビロン化することの危険性が如実に表されているが、それは筆者がこれまで見聞きして来た教会に関わるすべての腐敗現象に当てはまる。

今日も、エクレシアは、教理面での腐敗、そして、生活面における腐敗という両面から、敵の攻撃にさらされている。どれほど多くの交わりがそうして敵の罠によって堕落させられたことであろうか。

私たちが聖書の御言葉に照らし合わせて、何かの事項について、神と人の前で曖昧な態度を取る時、敵につけこませる隙を与えてしまい、そうして入り込んだ腐敗が、やがてその人自身だけでなく、他の兄弟姉妹にまで及び、集会全体を堕落・変質させてしまう。

異端の教えと分かっているものを拒否することもなく集会に持ち込めば、その集会が神の御心にかなうエクレシアであり続けることができるはずがない。汚れたものと分離もせずに、聖さを保つことはできない相談である。
 
だが、差し迫った堕落の危険がないときでも、信者がただぼんやりと曖昧な思考の中で漫然と日々を過ごすことにより、神の御前での心の透明性、真実性が曇らされ、失われることがある。
 
信者が何一つそのような落ち度を犯していない時でさえ、敵は「あなたは間違っている」という思念を信者に植えつけようとする。

クリスチャンは、自分が誤っているせいで起きた霊的な停滞であれ、何も誤っていないのに、敵の思念を取り込んで自信喪失状態に陥ったせいで起きた霊的な停滞であれ、何らかの霊的停滞が起きる時には、ただちに力を失ってしまう。

その結果、教会の証しが曇らされ、力を失い、最後には取り去られ、その防衛力の低下に乗じて、霊的な敵が教会に攻め込み、教会が占拠されてしまうことさえ起きるのである。
 
エクレシアを腐敗させないための最大の秘訣は、一人一人の信者が、神に対する心の純粋さ、貞潔さを完全に保つことである。

筆者はブログを書いていなかった時期も長いが、記事を書くことにより、常に自分自身の信仰の姿勢を正すよう迫られている。

自分の立場がはっきりしていないのに、人前で何かを表明することはできない。だが、多くの場合、書いているうちに、次第に自分の心の奥底まで照らされて、初めはぼんやりとしか理解していなかった事柄が明瞭になり、神と人との前で、信仰の姿勢を正させられる。

記事に向かうときに、自分の関心を地上のものから意識的に引き離し、「上にあるもの」に向けることが可能となるのである。

その作業をしないと、いつの間にか自分の思考が曖昧になり、気づくと神に関する事柄にすっかり鈍感となり、地的な関心だけで心が占領されたりする。にも関わらず、その状態が危険であることさえ分からなくなってしまうのである。

今、筆者は、キリストの花嫁たるエクレシアが、その高貴さを失わないためには、一人一人のクリスチャンが、神の御前で純粋であること、嘘偽りなく、神との間で争いがないこと、真に神に心を注ぎだし、心の一途さ、透明さ、必死なまでの真剣さを取り戻すことがどれほど不可欠であるかを思う。

時に、どんなことがきっかけであれ、エクレシアが神に対する切迫した真実性を取り戻し、教会の証しが回復されることを願って、神は教会に対する敵の激しい攻撃をあえて許されることがあるのかも知れないと思う。

精金を曇らせること

 すでに見たように、これは第一に教理によってなされてきました。誤った教理に関する何らかの示唆を持ち込むことができるとき、誤謬を僅かでも潜り込ませられるとき、敵はそれを邪悪なパン種のように働かせます。そして遂には、その類のものが発達して、聖霊を退ける契機となり、それが存在する所では主は進み続けられなくなります。そして、妥協、麻痺、弱さの状況が確立されます。純金、精金が曇らされてしまいます。

 教理の路線に沿ってこれがなされてきただけでなく、生活の路線に沿ってもなされてきました。同じ方法、同じ目的が敵の活動を支配しています。教理に関して絶対的に正統的なものの上にとても強く立っていたとしても、あなた自身の生活、あなた自身の霊的生活、あなた自身の道徳的生活においてはとても疑わしい状況にあるおそれがあります。神の御言葉の文字にはとても忠実でも、それでもあなた自身の生活と証しにおいては妥協しているおそれがあります。仕事の取引や、他の諸々の関係や、神の御前におけるあなた自身の生活において、そうであるかもしれません。

透明でないもの、純粋でないもの、清くないもの、まっすぐでないもの、疑わしいもの、おそらくは秘密の習慣があるかもしれません。ああ、もしかすると多くの事柄の中の一つによって、生活の中からあの堅固さ、あの明確さ、あの積極性、あの透明性が取り去られ、時には無意識のうちに当事者の中に、何かに直面しているという恐れ、見つかったものを白状しなければならないという恐れが生じます。

停滞させるものが生活の背後にあります。そのせいで証しから真の活力が、生活の中から真の衝撃力が、交わりの中から真の実り豊かさと価値が奪われています。往々にして形はありませんが、何かがそこにあります。その上に手を乗せることはできませんが、正しくないもの、透明ではないものが、その生活の中にあることがわかります。

そして次に隠し事、ごまかし、分離が生じます。あるいは、他の多くの種類の悪の兆候が生じるかもしれません。それはすべて、神の御前で絶対的に透明ではない何かがあるせいです。敵が一つの要素を植え付けました。その要素が純粋な光を損なって、その生活に影、もやを生じさせたのです。敵の狙いは神にある命の完全な水晶のような透明性を損なって、それにより命全体を麻痺させることです。外形は依然として同じであり、信仰告白はそれまでと全く同じかもしれませんが、停滞してしまうのです。


 これを述べたのは非難するためではありません。御自身の民、エルサレムに対する神の御旨を損なうために敵がそれに沿って好んで働く諸々の路線の一つを指摘するためです。神の御旨とはすなわち、エルサレムが最終的に天から出て、神の栄光を持ち、その明かりが高価な宝石のように、碧玉のようになることです。そして、それに関するすべてのものが、ガラスのように透明で、水晶のように透明な純金となることです。ああ、このような言葉や句には、何という霊的価値と重みがあることか!

 これはみな議論の余地のない明確なことです。私たちは次のことを理解しなければなりません。すなわち、敵は絶えず、私たちを知らないうちに「自分は雲の下にある」と感じる地点にもたらそうとしているのです。時として敵は誤った立場を設けて、「自分は誤っている」と私たちに感じさせます。私たちは誤っていないかもしれませんが、敵は「自分は誤っている」と私たちに感じさせて、私たちが自信、確信、堅固さ、立場、地位を失うあの領域にもたらそうとします。その領域で私たちは潜り込んだ何らかの要素によって弱められてしまいます。敵は公然と神の民を雲の下に、疑いの下にもたらして、彼ら自身の心を疑いや疑問の下にもたらします。それは、透明性、確実性、力を損なうためであり、そして、彼らが万人に対して、彼ら自身に対してさえ、大きな問題となるようにするためです。

さて、これから先の記事では、しばらく、ペンコステ・カリスマ運動の起源がグノーシス主義にあることについて、この運動が根本的に誤っていることについて、今まで以上に詳しく記して行きたいと考えている。
 
その過程で、霊的な敵は、これまで通り、筆者の信仰の証しを地上から取り去ろうとして働くであろう。筆者が以上の論稿をこれから執筆すると予告してから、まだ何一つ記事をアップしていないのに、もうさわやか読者が当ブログに押し寄せてきている有様である。

読者にはっきりと断っておきたい。これまで当ブログが受けて来た攻撃は、すべては霊的な敵に由来するものであり、筆者の信仰の証しを損なうことを目的としてなされたものであると。

だが、彼らは、自らの悪事の厳しい責任を取らされて終わるだけである。

この度、当ブログに多年に渡り、嫌がらせを続けて来た杉本徳久なる人物が執筆しているブログ「神々の風景 -religious scene」は削除されたが、「随想 吉祥寺の森から」も遠からず、削除されることになる。

削除されるまでの間に、杉本ブログのコメント投稿者が、杉本をさらなる破滅に追い込もうと、杉本を争いに焚きつけるだろう。要するに、罪に定められ、滅びることはもう分かっているにも関わらず、最後の期間を使って、杉本ブログを当ブログにぶつけ、どちらが生き残るか競争させ、筆者に可能な限りの害を与えようという見世物を提供しているのである。

だが、はっきりと言っておく。必ず、嘘は真実の前に敗れると。

杉本ブログは、もう何年も前から、完全に信頼性を失った嘘の温床と化しており、自作自演の場となり果てている。

筆者自身は、ブログを書く中で、コメント投稿を重んじることの危険に気づき、無責任なコメントが管理者の意志に反して、どれほどブログの趣旨を歪め、真摯な考察を妨げるか分かったので、ある時点から、コメントを受けつけなくなった。無責任なコメントを掲載し続けていると、そのとばっちりはすべて管理者に降りかかることになるだけである。

杉本ブログは、コメント投稿者の手前、終わるに終われなくなっているのであり、さらに、コメント投稿者のせいで、このブログは杉本自身の意図をさえ離れて、より一層ひどく罪を増し加えながら、破滅へと転げ落ちているのである。
 
杉本ブログに筆者が書きこんだコメントは、2009年に投稿したただ一件だけであり、その他のいかなるコメントにも、筆者は全く関与していない。杉本ブログのみならず、2ちゃんねるなどの掲示板にも、筆者は人生で一度たりとも投稿したことはなく、するつもりもない。(そのようなものを見つければ、それはなりすましと断定してもらって構わない。)

杉本は、筆者が2009年に杉本のブログに書き込んだ、その一件のコメントを、筆者が削除して欲しいと要請したことをきっかけに、当ブログに対する執拗な嫌がらせ行為に及んで来たのであるが、おそらく、そういうことが起きたのは、杉本がその当時から、筆者のために、ゆくゆくは自分のブログ全体を削除させられる羽目になることを、内心で知っていたためではないかと思われる。

筆者はその当時、そんな結末に至るとは予想だにしていなかったが、杉本に常に虚偽ばかりを教え導いて来た悪霊は、最初からそうなると知っていて、その事態を恐れるがゆえに、杉本を利用して筆者を徹底して攻撃させたのであろう。

杉本ブログで行われていることは、今や何から何まで「自作自演劇」の「やらせ」であるが、杉本が初めに当ブログをバッシングする目的で、2009年に投稿した記事も、やはり「やらせ」であったものと筆者は確信する。そのバッシング記事には、1千件のコメントがついて、杉本ブログが炎上に至ったが、それも99%工作員による作戦だったのであろう。

杉本ブログの悲惨な状態は昔も今も全く変わらない。杉本ブログに投稿している人間はほぼ雇われた工作員であり、その他にほんの少しの「悪のり」の投稿があるだけである。

筆者が当ブログに、杉本が刑事告訴されたことを記す記事を投稿してから、さわやか読者が当ブログを絶えず監視しているが、その顔触れを見ると、嫌になるほど以前と変わらず、結局、こうした異常な読者らも、みな雇われ工作員である様子がよく分かる。

杉本は自分の犯している罪を直視する勇気がなく、それを常に他のクリスチャンになすりつけようとしているだけである。

だが、こうして、杉本徳久の内心が次々と明らかにされることは、非常に神の御心にかなった、喜ばしい事態であると、筆者は考えている。筆者は、まずは杉本の心の底の底までが明らかにされねばならず、彼の運命の救いようがないことが、公然と世に明らかにされなければならないと考えている。

そのために、筆者は彼を試しているのであり、悔い改めるならば、今のうちだと呼びかけているのである。そして、彼がその一つ一つの呼びかけを、ことごとく踏みにじり、嘲り、退けるだけに終わることを、分かった上で、一つ一つ、あえて証明させているのである。それによって、彼の頭上には、燃え盛る炭火がまた新たに一つ一つと加わって行くことになる。

かなり面倒な過程ではあるが、このような行程を一つ一つ経ない限り、戦いは決して最後のステージまで進むことはない。

なぜなら、筆者自身は、この事件の結末がどうなるか予め知っているが、多くの人々はそれを前もって予知できず、説明されたとしても、理解できないからだ。従って、人々の心の準備が、筆者と同じくらいに整えられるためには、まずは踏まれるべき行程がすべて踏まれ、結論の動かしようのないことが、万人の前で明らかにされる必要があるのだ。
 
良識ある人々の中には、最初から誰かに対して手荒な措置に出たいと願うような人間は、一人もいない。他に道がないのかと、誰もがまずは情けをかけようとするだろう。筆者自身とてそういう人間である。だが、事件がエスカレートすればするほど、結局、憐れみをかける余地がないことに、最後には誰もが同意せざるを得なくなる。物事はそのようなレベルまで進んでから、初めて厳しい対処がなされるのである。

そのために必要な行程に、筆者は協力を惜しまないつもりであり、自分の名誉や安寧を惜しむがゆえに、霊的な戦いを中途で終わらせるつもりは全くない。

そこで、この事件がこの先、どう進んで行くか、杉本がどのように反応するのか(村上もだが)、読者はよくよく観察されたい。果たして、見栄だけがすべてとなり、大本営発表のような嘘ばかりを垂れ流し、「嘲りの霊」に支配されているこの人々に、クリスチャンとの和解に応じたり、悔い改めて神に立ち返る可能性がわずかでも残されているのかどうか、徹底的に観察されたい。

筆者自身は、神は彼らの罪を決してお赦しにならないだろうと考えている。彼らはあまりにも罪を犯しすぎたので、後戻りの余地がなく、行きつくところまで行き着いて破滅して終わることしかできないだろうと考える。
 
だが、それが筆者の考えに過ぎないのか、それとも、神の御心がそこにあり、それが動かせない現実なのかは、これからはっきり証明されねばならない。

そのために、この事件については、必ず、神の御心がどこにあるのか、人間的な感情を超えたレベルではっきりと証明されるだろうと筆者は確信している。
 
おそらく、神の裁きは確かに存在するのだということが、公然と動かせない形で世に示されて終わることになるだろうと予測する。

ペンテコステ運動の支持者の中には、「神は愛だから、人を裁いたり、罰したりはなさらない。」とか、「罪を犯しても罰はない」といった寝言のような嘘の教説を未だに信じている人々がいるようだが、それは人を破滅へ導く異端であるから、そのように、自分を救ってくれる贖い主を否定する虚偽を信じてしまった信者の人生は、必ず悲惨な破滅で終わる。

そのための見せしめ事例となるであろうと筆者は予想するのである。

前々からずっと筆者はそう警告し続けているのだが、ペンテコステ運動の信者らはそれを信じようとしない。そして、筆者の警告はおろか、神の福音さえもあざけりながら、それでも、自分たちは正しい道に立っており、キリストの花嫁なのだと豪語している。

そこで、筆者は、花嫁と言っても、すべての花嫁が神の御心にかなうわけではないとあえて言うのである。

美しいウェディングドレスを着て、鏡の前でうっとりと自分の姿に見惚れ、自分はあれやこれやの他人に比べ、格段に美しく優れて賢いと自画自賛するのが、花嫁にふさわしい態度ではないだろう。なぜこの人々は、花婿がまだ到着してもいないうちから、そんなにまで慢心して、自分自身を主役に据えることができるのであろうかと首をかしげるのみである。
 
この先、誰がキリストの花嫁にふさわしいかは、神ご自身が証明される。福音に従わず、十字架を退け、血潮を嘲り、御言葉をないがしろにしながら、自分たちをキリストの花嫁に見せかける「嘲る者たち」に対しては、容赦のない厳しい結末が待ち構えているだけである。

キリストの十字架に敵対する者の最期は滅びであり、主と共なる十字架の死を経ない者は、己を罪から救うこともできず、旧創造として、ただ神の御怒りと、裁きと、滅びに定められているだけなのである。どんなに被害者意識を盾にとって、感情論を振りかざし、自分を弁護しようとしても、小羊の贖いの血潮を退けた者は、決して罪の判決から逃れることはできず、裁きに定められて終わる。

そのことが、クリスチャンのみならず、この世の人々でさえ、否定できない形で、はっきりと証明されるであろうと筆者は考えており、それだからこそ、この出来事の進展を、よくよくご覧になりたいと言うのだ。このようにまで、確信犯的に悪魔に魂を売ってしまった人々に、もはや後戻りの道はなく、彼らは最後まで、神と聖徒らの憐れみや情けを嘲り、侮りながら、残酷なまでに厳しい教訓的な結末へと自ら転げ落ちて行くだけであることを、よくよく目を開いて見ていただきたいと思わずにいられない。

そして、私たちはそのような事例に倣うことなく、あくまで賢い花嫁として、キリストが来られる時に神に喜ばれるべく、この地上にいる間に、より徹底して神の御前で自分の心を調べてもらい、不純物をろ過されることに同意するのである。
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 今日、キリスト教徒の集まりが、概して、日曜礼拝を一つの頂点として、主義となり、形式となり、規則となり、組織論となり、人間を束縛する枷となって、まことの命の現われを阻んでいる。キリストのまことのいのちを形式によって把握することはできず、それにも関わらず、そのような方法が主流となっているところに、大きな逸脱がある。
 
 だが、そのように抜け殻に過ぎない形式が主流となった背景には、神を信じる人々が、キリストご自身のみを純粋に追及することをやめて、自分自身を高く掲げるようになり、真に代価を払ってキリストに従っていないのに、自分たちの集まりが、あたかもキリストの花嫁であるかのように見せかけるようになったことが挙げられる。

  ある人々は、そのようにキリスト教界がバビロン化したことを糾弾し、「何がエクレシアではないか」を暴くことに熱中している。だが、キリストのまことの命とは、決して、”アンチ・テーゼ”にはとどまり得ない”何か”であるため、どれほど偽物を定義し、暴露しても、それによって本物を生み出すことはできない。

   では、一体、エクレシアとは何なのか、と問うても、それを誰もが分かるように説明することは不可能だ。その本質をまずは自分自身が個人的に体得しなければ、それが何であるか、決して誰にも分からず、形容もできないのが、エクレシアなのである。
 
 多くのクリスチャンが、教会とは、毎日曜日に、同じ地域、同じ時代を生きている者同士が、互いに顔を合わせられる場所に集まって神を礼拝するもの、もしくは、霊的に同じ理解に達している者同士が集まり合うもの、と思っているが、それは途方もない勘違いである。

  また、ある人々は「自分たちこそエクレシアとは何かを知っている」と豪語するかも知れないが、本当にその人がエクレシアの一員であるかどうかを知っておられるのは神ご自身のみである。

  キリストによって新しく生まれ、この新しい命によって生かされる個人個人、またその個人個人の交わりが、集合体としてのエクレシアを形成している。だが、エクレシアは時代を超え、物理空間を超える霊的構成体であるため、必ずしも、この世の同じ時空間を共に生きて、同じ理解を共有している者同士が、互いに顔を合わせ、接触できる形で集まり合うという性質のものではない。
   
 幽閉されていたガイオン夫人や、投獄されていたパウロや、迫害や監禁の中にあった聖徒らは、他の兄弟姉妹と物理的に接触が不可能となっても、依然として、エクレシアの構成員のままであった。しかも、黙示録などを参照するならば、エクレシアは、キリストのまことの命によって新しく生まれ、御言葉に忠実であった聖徒らの時代を超えた総体を指していることが分かる。

 このように、エクレシアはとらえがたく、キリストの命を実際に生きることなくしては決して理解することもできない性質のものであるが、それでも、求めなさい、そうすれば与えられます、と聖書にある通り、私たちが心の底から真剣に求めるならば、必ず、神は誠実にそれに答えて下さり、エクレシアとは何かということをも、啓示して下さるだろう。

  だが、忘れてはならないのは、キリストと共に生きることなくして、キリストの命を味わい知ることは誰にもできない相談だということである。
 
 そこで、キリストを二の次にして、エクレシアを第一に追い求めることには、重大な罠がある。私自身、バビロン化したキリスト教界を脱して、真実なエクレシアを追い求める過程で、常に警戒しなければならなかったことがある。それは、あまりにも多くのクリスチャンが、キリストの御名による兄弟姉妹の集まりを追い求めると言いながら、そのうちに、いつの間にか、追求の対象が、自分たち人間の集まりへとすり替わり、キリストではなく、自分たちの集まりを賛美することが最終目的となって行ったことである。

 主ご自身を切に追い求めると言っていたクリスチャンが、いつの間にか、キリストを退け、「自分たちの集まり」を美化し、肯定し、賞賛し始める。そして最後にはついに、それだけが絶対的に正しいかのように言い始め、そこへ信徒らを拘束し、その団体を離れた信徒を悪魔化したり、断罪するのである。このような堕落は、組織化された礼拝だけでなく、組織化されないクリスチャンの集まりにも同様に起きうる。
 
 私たちが第一に求めるべきものは、あくまで神の国とその義、であって、人間の集まりではない。人間の温もりの中で得られる安心感や、自分たちの集まりを賛美、権威化し、自画自賛の根拠を得るために、エクレシアを利用することは誰もできない相談である。

 そこで、たとえある日、一人のクリスチャンが主に出会って、自分がエクレシアの一員であることを知ったとしても、そのクリスチャンが、ただ主ご自身だけを切に求め、主お一人だけに心を向けることをやめて、自分自身の姿を見つめてそれを賛美し始めた瞬間に、彼がエクレシアだと思っていたものは、ただちに腐敗し、バビロン化し始める。

 私はそのことを深く警戒しており、そのような混合物を求めているのではない、ということを何度でも断っておきたい。

 だが、私が2009年に横浜に来て後、(むろん、それ以前に属していたキリスト教界においては言うまでもないことであるが)、遭遇したすべての出来事は、「エクレシアのバビロン化」と呼んで差し支えない現象ばかりであった。これは今日のキリスト者が遭遇している、想像を超えるほどに大きな危険であり、誘惑であると言える。
  
 一旦、集まりがそのような腐敗や混合を受け入れてしまったならば、その交わりが回復される見込みはほぼゼロであり、やがてそれは偽物のエクレシアとして神の敵と化すだけである。

 そこで、我々は、ある集まりがバビロン化している事実を見わけた瞬間に、抜け殻となった組織や団体を離れ(エクソダスして)、キリストのみを追い求め、主のみに従うために、霊的にまだ見ぬ地へ向かって歩いて行くことが必要となる。

 バビロン化しつつある組織にとどまって、それを是正することはむなしい相談である。そうした試みには全く見込みがない。

 こうして、当初は純粋に神を見上げていたと思えた交わりであっても、時と共に、腐敗堕落して行くなら、そこをエクソダスせねばならず、その過程で、かつては純粋に主に従うことを追求し、人間的な面ではすっかり意気投合していたような兄弟姉妹とも、決定的に道が分かれてしまうことは何度でも起きる。

 多くの人は、そういった離反、エクソダスが行われた過程を見て、「あの人は他の人とうまくやれなかったので、あれやこれやの団体を出たのだろう」と憶測したり、「リーダーにつまづいたのだろう」などとささやいては、その団体は悪くないが出た人に非があるのだと言っては、人間の集まりや群れの中に、あたかも真実があるかのように考え、自分を慰めようとする。
  
 そうした集まりが、交わってはならないものと混合したがゆえに、主のみに従うために、人々が出て行ったのだと理解する者は非常に少ないだろう。

 だが、事実は、多くの場合、そのような単純なものではない。そして、いかなる憶測が生まれようとも、信徒がキリストのみを主人として崇め、従うためには、それが不可能になるほど、被造物に過ぎない人間を高く掲げるようになったバビロンとの混合物としての集会からは、出る以外に手段は残されていないのである。
 
 このように、エクレシアを追求することは、キリストのみを追求し、キリストのみに従うことなくしてはできないため、それは決して人間との交わりを第一として生きることとは相容れず、その点で、人間の交わりを美化することとも異なり、その点で厳しく、険しい道である。

 だが、それも当然であろう。聖書の中で、主イエスは、賢い花嫁と愚かな花嫁のたとえを語られているが、そのたとえにより、花嫁と呼ばれるものが、すべて主の目にかなう存在ではないことがはっきりと示されている。

 花嫁たるものが、花婿だけを一心に見つめることをやめて、花婿が来ないうちに、自分の生活の安寧を打ち立てて満足し、自分の美や賢さを見て酔いしれ、自分の地位は安泰だと思い込み、そこに安住して自分の利益を追求し、自分の栄光を求め始めるならば、その花嫁の心には、もはや花婿は慕うべき存在と映らず、かえって己が権威と栄光を打ち立てるための名目だけの存在となろう。そのような花嫁は、花婿が来たときに、もはや花嫁とは認められない、と言われて退けられるだけである。

 そうなる危険は、形骸化したキリスト教界のみならず、エクレシアを追求するすべての兄弟姉妹に存在する。他者の堕落や腐敗を非難することはいとも容易であり、キリストの名を冠しながらも、キリストの香りを一切失った組織を数限りなく列挙することは容易であるが、神はあくまで一人一人の心に問いかけられ、一人一人の行いに応じて報いられる。

 そこで我々は改めて、キリスト者が追い求めるべきは、花嫁たる自分の栄光ではなく、花婿たるキリストの栄光であるということを、心に焼きつけておかねばならない。人に悪しざまに言われたくないという恐怖感から、あるいは、人とのつながりを失いたくないという恐怖感から、バビロン化した集会にとどまっていても、良いことは何もない。いずれはその崩壊に巻き込まれるだけである。そのような交わりを改善することは、諦めるべきである。

 むしろ、聖書では、愚かな花嫁たちに油を分けてやったがために、彼女たちの怠慢に巻き込まれ、永遠に至る栄誉を失ってはいけないことが警告されている。自分が受けるべき栄冠を失わないように注意を払わなければならないのである。
 
 神の御前での自分の心の透明性、苦難や恥をも厭わず、キリストに従う御言葉への忠実さ、自分の栄光でなく、キリストの栄光だけを求める貞潔さ、といったものが、今日のクリスチャンにはどれほど欠けているであろうか。
   
以下は、オースチンスパークスの「土台のある都」 第八章 都の明かり―命と証しの透明性 (1)から。

聖書朗読:黙二一・一〇~一一、一八、二一、二二・一、ガラ四・二五~二六。

 「透明な」というこの言葉は、これらの節の中に一度ならず現れます。また、例えば「純粋な金」「透明なガラスのような」のように、その同義語も出てきます。これらの言葉は光の観念を示唆します。これらの言葉は、天から出て神から下って来る天のエルサレムに関して述べられている光と関係しています。その明かりは高価な宝石のようであり、碧玉のようです。

 主の天的な民の光について述べるにあたって、私たちは再びとても厳粛で、深刻な、大切な特徴に触れることにします。その特徴には、それに関する途方もない歴史があります。主の民の歴史、そして霊の命の歴史はすべて、光と暗闇、真理と虚偽、純粋さと姦淫・混合、透明性と曖昧さ、開放性と秘匿性の歴史です。この長い歴史を表現するのに他の多くの言葉を用いることができます。この歴史がこれほど長く、これほど多彩なのは、すべて敵の執拗な絶え間ない試みのせいです。敵は、神からのものを疑わしいもの、不確かなものにしようとしてきましたし、絶対的真理、絶対的純粋さ、絶対的透明性というその途方もない力をそれから奪い去ろうとしてきました。

 キリスト来臨の遥か昔に、サタンはこれらのバビロン的要素をこの地上に広めていました。これらのバビロン的要素は、教会が霊的衰退・弱さの状態に陥る時をひたすら待っていました。それはこの霊的団体に襲いかかり、その命を吸い取って損なう寄生虫となる機会をつかむためです。ですから、新約聖書の外に移る前にすでに、霊的に衰退した状況の所では、バビロン的特徴、祭司制度、聖職者階級制度、形式主義、儀式主義、他の多くの事柄――それらはバビロンに由来するものであり、オカルト、秘教、美学の中に見られます――といった状態であることがわかります。これらの観念は今や、ローマの体系全体の総計であり本質です。これらのものはみなバビロンから来たものであり、教会が衰退するのをこの世で待っていました。そして、この衰退が起きるやいなや、教会を掌握して侵害したのです。それらはみな、黙示録の最初の諸章の中に見出されます。また、他の箇所にも、奥義的バビロンのこの宗教性の数々の要素が見い出されます。それらの目的は、直接的・即座にキリスト教を撲滅することや、教会の存在を消し去ることではなく、教会の立場を神の御前で曖昧なものにするよう様々なものを混合させることでした。それは、神が教会をもはや御自分の純粋な花嫁と認められなくなるためでした。


(2009年の記事「エクレシア この不思議なもの」を加筆修正)
  



シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。
 割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。

 
捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。


 
主はこう言われる、「あなたがたは、ただで売られた。金を出さずにあがなわれる」。

 主なる神はこう言われる、「わが民はさきにエジプトへ下って行って、かしこに寄留した。
 またアッスリヤびとはゆえなく彼らをしえたげた。
 それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言われる。

 主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。
 それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。

 よ
きおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、救を告げ、

 シオンにむかって「あなたの神は王となられた」と言う者の足は
 山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

 
聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。

 彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。
 主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

 
主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。

 地のすべての果は、われわれの神の救を見る。

 
去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。

 その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。

 あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。
 主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたのしんがりとなられるからだ。

 見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。
 多くの人が彼に驚いたように――彼の顔だちは、そこなわれて人と異なり、
 その姿は人の子と異なっていたからである――

 彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。
 それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。
 (イザヤ52章)

 この箇所は、これまでにも当ブログでは霊的なエクソダスの瞬間に幾度となく引用して来たが、今再びこに引用しておきたい。

 以上は「聖なる都エルサレム」への呼びかけであるから、象徴的にはエクレシアへの呼びかけを含んでいると受け取って差し支えないものと思う。

 激しい霊的な戦いがあったが、決着はすでについており、それはまもなく天から地に引き下ろされる。

 無割礼の者、贖われない者、キリストの救いにあずからない者たちが、エクレシアを蹂躙した月日は終わり、彼らは出て行き、キリストが教会のかしらとして栄光のうちに支配される。キリストこそ教会の真の主人であり、その真の主人が、あるべき地位を取り戻されるのである。
 
 「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(ヤコブ4:7)

 悪魔の不当な言いがかりには徹底的に立ちむかわねばならないが、聖徒らが真に穢れた者と分離するなら、悪魔は聖徒らの反撃にたじたじとなって、自ら逃げ去って行くことになる。

 そうして、教会が回復される。不法者に蹂躙されて荒れ果てていた都も、聖なる都として美しい衣をまとい、新たな力を身にまとって、高貴な姿で立ち上がる。荒れ果てた場所はきれいに修復され、不法と搾取は終わり、嘆き悲しみは去る。
 
 決着とは以下の通りである。

 「見よ、わがしもべは栄える。彼は高められ、あげられ、ひじょうに高くなる。 」
   
 もちろん、「わがしもべ」とは、直接的にはキリストを指す。十字架において、人々に蔑まれ、罵られ、拒絶され、顔立ちや姿が損なわれるほどに痛めつけられ、死に渡されたキリストが、しみも傷もない完全な復活の姿で現れ、天にまで挙げられ、神の右の座に就き、栄光をお受けになることを指す。

  だが、そのことは、主イエスを指しているのみならず、主に従う我々全てのキリスト者をも含んでいる。

  我々は、主が苦しまれたと同じように、地上での苦難を通して、天の偉大な栄光にあずかる。キリストの死と同形化することによって、キリストの復活にあずかり、キリストをかしらとする教会として、キリストと共に天に座する。

 天の権威と栄光が、この地上にも反映し、我々はこの地上を歩んでいる間にも、天に備えられている御国の前味わいにあずかり、栄光の前触れを見て、喜び楽しむ。

  他方、神の義に悪質に逆らい、人間の肉なる自己と、人間の義を掲げるカルト被害者救済活動は、間もなく終焉を迎える。

  これはもともとキリスト教とは本来的に何の関係もない運動である。

  教会で受けた「被害」なるものを主張して、教会に争いをしかけることや、受けた「被害」から脱しようと、懸命にカウンセリングや自己改善に取り組むことは、本質的にはキリスト教とは全く無関係である。

 無関係であるばかりか、それはキリスト教に悪質に対抗する思想から生み出されて来た運動である。

 教会で受けた「被害」なるものをどんなに主張し、どんなに自己改善プログラムを続けようと、キリストと共なる十字架の死を経ないなら、彼らは一ミリたりとも自己を改善できないままに終わる。

 死を経ない限り、誰も復活にあずかることはできない。新しく生まれることなくして、神の国に入ることは誰にもできない。そのようにして、神の義にあずからない人間たちが、自己の正義をどんなに振りかざして自己改善に取り組み、他人を裁いても、そこから生まれて来るものは何もない。

 まして、贖われない者たちが、自分たちの肉なる正義を振りかざして、神に贖われた者を罪に定めるなど、秩序の転倒もいいところだ。彼らはアナニヤとサッピラのごとく、エクレシアに手をかける前に、打ち倒されて終わるであろう。 なぜなら、神の教会は、神の御言葉の聖なる支配が及んでいる復活の領域であるから、穢れた者が手を触れることはできない。

  こうして、自己の義を掲げる肉なる運動は敗退して行く。だが、信仰によってキリストの十字架にとどまる義人たちは、神の完全にあずかるだろう。そして、神の義にあずかる人々が、この世の法においても義とされ、自己の義を掲げる人々が、この世の法によって罪に定められるというパラドックスに満ちた結果が出る。

 「聖なる法(御言葉による支配)」は、「この世の法」に抵触しない。キリストの義は、律法の要求をすべて満足させるものであるから、そのキリストの義を受けた者が、この世の法によって罪に定められるようなことは起き得ないのである。

 カルト被害者救済活動は、聖なるものを冒涜する運動であるばかりか、この世の法や常識を含め、あらゆる規則をあざける運動であることが間もなく明らかになろう。これは「嘲りの霊」によって支配される運動であり、神の聖を侮り、嘲っているだけでなく、すべての尊いもの、良識あるもの、この世の常識、この世の法、あらゆる規則を踏みにじって、肉なる人間に過ぎない者が、自分自身をすべてにまさって高く掲げ、己を神とする、聖書の神に敵対するあざけりの霊に支配される運動なのである。
 
 彼らは今まで「この世の法」を「聖なる法(教会規則)」以上のものであるかのようにふりかざして、教会の「聖域」を取り払うとして、クリスチャンを裁き、罪に定めようとして来たが、いざ、彼らは自分たちが「この世の法」によって裁かれ、罪に定められそうになると、「この世の法」をもあざけりながら逃げ出すことしかできない。

 結局、このような人々は、「聖なる法」にも「この世の法」にも服さず、「自分は被害者である」と主張して、あらゆる人々に言いがかりをつけることによって、自分だけはどんな法にも服さないで済む人間である(=自分は神だ)と宣言しているだけなのである。

 だが、ペンテコステ運動や、サンダー・シングのような異端の教えが、どんなに「神は愛だから誰をも裁いたり、罰したりなさらない」などと言って、聖書の二元論を骨抜きにし、人間の罪もなければ、裁きもなく、地獄もないかのように主張しても、それは聖書に逆らう悪質な虚偽であるから、結局、そのような教えを信じる人々(カルト被害者救済活動の支持者らを含む)は、みな自分自身の罪によって裁かれ、罰せられることを避けられない。

「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。 」(エレミヤ17:9-10)

 とある通り、神は一人一人の行いに対して報いをなされる方である。己が罪を認めず、悔い改めもせず、キリストの贖いも受け入れない者が、自分だけは何をしても許され、決して罰せられることはないと考えることは、思い上がりに過ぎず、そのようなことは決してあり得ない。

 この世における裁きは、来るべき裁きのひな型であるから、今回のことでも、筆者は、神の裁きは確かに存在していることが、神と人との前で公然と証されるであろうと予告する。(人間的な感情がどうあれ、動かせない霊的法則があることを筆者は知っているからだ。)

 カルト被害者救済活動は、教会の霊的堕落や堕落が生みだした猛毒の副産物のようなものであるが、エクレシアがキリストを正しい位置に迎えさえすれば、このような悪しき運動は終結する。

 キリストが栄光をお受けになること、キリストがかしらとして支配されることこそ、教会が本来的な機能を回復する正しい道筋なのである。

 地上の組織である教会が、牧師制度と訣別できるのかどうかを筆者は知らない。だが、少なくとも、筆者自身は、これまでのすべての信仰の歩みを通して、エクレシアには決してキリスト以外の目に見えるリーダーを据えてはならないという厳しい教訓を常に学ばされた。

 筆者は、兄弟姉妹はみな対等であり、キリスト以外に兄弟姉妹の上に立って教える教師は必要なく、ましてそのような制度を固定的なものとして作ってはいけないと確信しており、その確認に、生涯、立ち続けるつもりだ。

 万民祭司のこの時代、信徒には、目に見える人間のリーダーを介することなく、直接、キリストの御名を通して、神に祈る特権が与えられている。神の子供として、直接、神にすべての必要を懇願し、御霊によって直接教えを受けることができると聖書に書いてある。

 その確信を離れないことである。二度と人間の指導者に逆戻りしないことだ。兄弟姉妹の交わりを持つことと、人間の指導者を頂点とする組織を作ることは全く別の話である。
 
 もしも我々信者らが、地上の罪深く滅びゆく人間の指導者に栄光を帰することをやめて、組織や団体に栄光を帰することをやめて、牧師や指導者やその他の権威者を担ぎ上げては彼らを誉めたたえたり、自分自身を高く掲げて誉めたたえたりすることをやめて、ただ見えないキリストだけが栄光をお受けになるよう行動しさえすれば、すべてが急展開して、たちまち秒読みのような速さで、あらゆる問題が取り除かれ、解決されるに違いないと筆者は考える。

 何度も述べて来たように、キリスト教界が腐敗する時、最も被害を受けておられるのは、神であって、人間ではないのだ。神が正しい地位を取り戻され、受けるべき栄光を取り戻され、キリストがすべての御名にまさって崇められるべく、正しい地位に就かれることこそ、教会のあるべき姿の回復なのであり、それは人間のどんな利益にもまさって優先的に回復されなければならない神の利益である。それをさしおいて、人間が人間自身の利益をどれほど声高に主張したところで、それがかえりみられることも、回復されることも決してないであろうと筆者は言っておく。

 つまり、我々がエクレシアの一員としてどのように神の恵みを享受して生きるのかということは、我々がキリストを自分の心の中で、また生活において、どのように扱うかということに直結している。キリストが我々の心の中であるべき地位を占めておられないのに、我々だけが先に栄光を受けて成功し繁栄を享受するということはまずないと見て良い(そのような繁栄があるとすれば偽りであるから長くは続かない)。
 
 さて、筆者も、キリストと共に十字架の苦難と死を経て、復活の命へと結びつき、この世に対して死んで、この世のすべての罪ゆえのもろもろの呪いに満ちた束縛や、奴隷的拘束から解き放たれて、自由の中で、高く天に上げられ、御座から主と共に統治したいと心から願い、またそれが事実であることを信じる。

 そのようにして、今や聖徒ら一人一人がキリストと共に御座から統治する時代がすでに来ている。だが、そのためには、我々には主と共なる十字架の死にとどまり続けるという土台が必要である。死を経なければ、復活も御座の統治もない。それゆえ、日々、御名のゆえの苦難にも甘んじる姿勢は常に必要である。

 だが、死の圧迫を受けても、御名にすがり、救いの確信を守り、神の義を決して離れずに、人間に栄光を帰さず、キリストだけに栄光を帰して、御言葉に従う信徒らには、神がどれほど豊かに報いて下さり、守って下さるか、神ご自身が証明される。だから、これから起きることに注目されたい。

 神はご自分に頼る民を決して捨てることなく、常に我々の砦となって我々の名誉や地位や生活を守って下さり、しかも、最も良きもので満たして下さる。私たちは羊のように緑の牧場に伏し、憩いの水際で安らう。

 だが、末尾に引用する通り、神を退けて人間や自己により頼む者、その心が神を離れている者は呪われる。

 カルト被害者救済活動の支持者らは、何もかもすべてをさかさまに見ている。彼らにはクリスチャンを罰する権限など最初からなく、クリスチャンこそ、彼らの悪行を神に訴え、彼らを罰する権限を持つ。彼らは「孤立は狂気への道」などと言って、自分たちは一人ではないとさかんに吹聴して、人間のつながりばかりを重視しているが、神につながらない彼らの誇る連帯は、バベルの塔と同じように、途中で粉砕されて、散らされて終わる。焼けつくような塩路に住み、「交流の少ない所」で暮らさねばならないのが誰であるかは、以下に挙げるエレミヤ書にも明らかにされている通りだ。

 この先、カルト被害者救済活動の支持者らには、孤立しか待つものはないだろう。

 彼らはこれまでクリスチャンを追い散らし、不名誉を着せて、何とかして聖徒らの連帯を粉砕しようと腐心して来た。だが、それはこれから先は逆転し、彼ら自身の運命となるであろう。

 これまで御名のゆえに、孤独や苦難をよく耐えて来たクリスチャンにとっては、孤立も迫害も恐れるに足りない。しかし、一度もそのような苦しみを通らされたことなく、常に徒党を組んでは、その勢いで、クリスチャンを踏みつけにして威張り散らして来たようなわがままな人間にとっては、たった一度の短い孤立でさえ、さぞかし耐えがたい試練のように受け止められるであろう。

 彼らは人間の絆を失えば、頼るものはなくなり、心打ち砕かれて、すっかり枯れ枝のようになって意気阻喪し、これまで築き上げて来たすべての虚飾の栄光、偽りの連帯、勢い、財産を失うことになる。落胆して枯れ枝のようになれば、せっかく貯め込んで誇りとしていた財産も維持できなくなるであろう。
 
 しかし、生ける水の源である主につながっているクリスチャンは、常に主を頼みとして生き、繁栄する。暑さの中にあっても枯れず、水が絶えた時でも、常に地下深く根を下ろし、尽きることのない水脈から汲み上げることができるため、常に青々とした葉を茂らせ、永遠に至る実を結ぶ。

 人間の心を傷つけず、人間に恥をかかせず、人間の中で孤立しないようにうまく立ち回って生きることは、この世の処世術としては高く評価されるかも知れないが、信仰生活とは何の関係もなく、本質的に重要な事柄では全くない。そればかりか、そうした手練手管は、神の目から見れば、呪われるべき肉なる手腕でしかない。

 聖書の原則は、たとえすべての人間の歓心を失い、すべての人間を偽り者とすることになっても、ただお一人の神だけに従い、神を正しい真実な方であると告白し、神の御言葉を守り、従い抜いて生きるべきことを教える。

 それだけが、まことの命への道であり、結果的に、そのようにして御言葉を守って生きる時こそ、人間の理解や歓心も、最終的にはついて来ることになる。だが、神の歓心を第一とせず、人間の歓心や、人間の評価や寵愛だけを第一に求めて生きることは、風に引き去られるもみ殻同然のはかない価値しか持たないものを追って生きることであるから、結局、そのような人生には何も残らない。

 教会よ、今こそ悪しき者どもの汚い手を振り払って、聖なる高貴な贖われた者として勇敢に毅然と立ち上がりなさい。花婿キリストの尊い御名にふさわしい尊厳と力を今こそ取り戻しなさい。

 私たちの聖所は天にあり、キリストの栄光の御座と共にある。クリスチャンこそ、教会に狼藉を働く悪しき者どもの罪を神に訴え、権威を持って彼らを打ち据え、追い払う権限を持つ者である。

 恐れることはない。私たちが発する言葉の一つ一つ、神への懇願の一つ一つは、すべて聞かれている。神の戦士たちよ、激しい霊的戦いが起きる時も、気を確かに持って、最後まで御言葉に堅く立って、立派に勇敢に戦い抜きなさい。この世にあって神の子供たちに艱難はあれど、キリストはすでに世に対して勝利を取られたのだから。
  
    
    「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
   またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
   あなたを離れる者は土に名をしるされます。
   それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)



ベック集会を出てから、少しずつ、筆者の生活のありようが変わった。まず、クリスチャンの交わりを求めて、あちらこちらの集会を巡るということを、筆者は全くやめてしまった。

もちろん、アッセンブリーズ教団などには決して戻らないが、ベック集会にも、KFCにも戻らない。日曜礼拝に行かないだけではない、素敵なリビングルームで開かれる大規模家庭集会…、そういうものに全く関心がなくなった。

神は、そういう風に、人の大勢集まる場所におられるのではない。人数がどうあれ、たとえ一人であったとしても、まさに主を信じる者の只中にいて下さるのである。その確信のもと、エクレシアを求めてあちらこちらを移動する代わりに、筆者自身が、可動式の主の幕屋であることを確信するようになった。

そして、信仰に基づいて、筆者自身が、この幕屋の内側から、信仰によって、兄弟姉妹を呼び出す側に回ったのである。

人との交わりを求めて移動することをやめると、一見、以前よりも生活が孤独に陥るように思われるだろう。ところが、交わりを求めて色々なところをさまようことをしない代わりに、ただ本当のクリスチャンだと言える兄弟姉妹とだけ厳選してつき合う方が、結果的に交わりに実りが多いのである。さらに、仕事の仕方も変えた。組織や団体のために自分をとことん差し出し、消費するという生き方をやめてしまったのであった。

ベック集会にいた頃、筆者が専門の仕事に戻れるようにと、兄弟姉妹が祈ってくれた。そして、めでたくある企業で専門知識を活かして仕事を始めたのだが、初めて一週間ほどで、ここは何かがおかしいという実感に至った。毎日、送られて来るメールが百通以上に達し、休日出勤、現場出張が課され、イレギュラーな対応が続く。

政府の下請け企業の一つであったが、社内を最小限の人数で回しているので、一人一人の担当する仕事の量が尋常ではない。しかも、正社員はごくわずかで、残りはすべて派遣社員である。入社してたった一週間で、筆者は気力・体力の限界に達した。現場出張に行っても、疲労困憊状態で、歩くのさえもやっとの状態なのである。さすがにこれは何かがおかしいと思わずにいられなかった。

その仕事を始めてから、筆者が最初に担当させられた中に、海外出張に派遣された通訳の報告書に基づいて、残業代を計算することがあった。ところが、後になって分かるのだが、筆者が計算した残業代は、政府に確かに請求されるものの、通訳の懐には入らず、会社が全てピンハネするのである。しかも、そのことを政府関係者も十分に知っていたほどであった。それほどまでに業界では悪名高く、恐れられていた会社だったのである。

そんなこととは知らずに、せっかく兄弟姉妹の祈りによって得た仕事だからと最初は思っていたのだが、知れば知るほど、その企業の異常さがはっきりするだけであった。さらに、ちょうどベック集会を出たのと同じタイミングで、筆者が二、三日、会社に休みを申し出たところ、会社が契約を打ち切ると言って来た。何しろ、最小限度の人件費で回している会社だったので、入って間もない新人が、たった一日でも、休みを取るなど、許されないのである。たとえ体調不良が原因であっても、会社を休むこと自体が、あるまじき「反逆」であり、言語道断な行為とみなされて、即、クビだと宣告された。全く野蛮そのものであった。

派遣会社が契約の短縮通知を送って来た。要するに、筆者が自分から辞職を願い出たような形にして、残る給与を支払わずに契約を終わりにしようという算段なのである。全くハイエナのような体質の企業であることが、よく理解できたが、そんな馬鹿げた話に筆者が了承するはずもなく、長々とした交渉の末に、ようやく、法的に会社に支払い義務があるものは全て払ってもらう運びになった。

むろん、ベック集会の人々は何の助けにもなるはずもなかった。どうにもこの会社はおかしいのではないかという予感がしたとき、それを兄弟姉妹に打ち明けても、ある姉妹などは、「派遣は社員よりもたくさん仕事を任せられるのは仕方がないし、即戦力になる人しか雇われないのが常識よ。うちの主人も、派遣を使ってるけど、使い物にならない人はすぐにクビにするのよ」などと企業を擁護しながら、自慢話を並べ、末端の従業員が次々とクビにされることを喜ぶ有様だったので、そんな「信者」たちは全く当てにしようとも思わず、筆者は誰にも相談せずに、すべてのことを自分自身で交渉しつつ望ましい結果へ運んだ。

さて、ベック集会を去った当時、筆者は毎年のように正月には故郷に帰省していたが、さすがにその年は、故郷に帰ることがためらわれた。仕事は以上のような有様で、集会の印象も最悪となり、こんなひどい正月は今までになく、誰にこんな有様への理解を求められようかと嘆きながら、年末にKFCを離れていたある姉妹に起きていた事件を告げた。

(この婦人は筆者の母親くらいの年齢で、「兄弟姉妹」という呼び名を嫌っていた。別の記事でも書いた通り、彼女はクリスチャン同士が自分たち信仰者だけを専門用語で「兄弟姉妹」と呼び合うのは、自画自賛のような驕りであり、不信者の排除だと言って嘆いていたのである。だから、もしかしたら、ここで彼女のことを「姉妹」と呼ぶのは、本当はやめておいた方が良いかも知れないが、とりあえず慣習としてそのように記しておく。
 また、この婦人はベック集会のことも予めインターネットで調べ上げて、非常に評判が良くない集会であることを筆者に何度か語っていた。)
 
彼女はいたく心を動かされ、筆者に言った、「あなたはただ聖書だけに立ち戻り、人間の指導者からは一切離れるべき頃合いだと思う。でも、もしその条件に応じて、神様だけに立ち戻る気があるなら、御言葉のバイブル・スタディを開かない? 私は喜んで協力するから、少し待っていて。」と申し出たのである。

全く、神は不思議な方だと思うことしきりであった。「捨てる神あれば拾う神あり」と、世間でも言われるように、ある人々からいわれなく非難されたり、誤解されたりして、突然に、さよならを告げられ、あたかも行き場がなくなったように思われる時でさえ、ちゃんと別の場所には、安全な避難場所を主は用意して下さるのである。

だから、キリスト者はあたかも地上では追い詰められて、迫害され、居場所がないかのように見えて、その実、居場所がなくなることはないのだと言える。我々の席は天に確保されているからである。その天の予約席を地上で発券することによって、常に次の目標を立てるのである。それが可能であることを筆者は今までの人生で、幾度も確認して来た。

この婦人は、こうして、本来ならば、家族で過ごすのが当然であるはずの正月に、自分の夫を置いて、筆者一人だけを伴って、富士山の見える温泉付きの別荘に泊まり込んだ。そして、我々は二人でひたすら聖書を読んで正月を過ごしたのであった。

ただ屋内に閉じこもって聖書だけを読んでいたわけではなく、美味しい食事を取り、散策し、自然を楽しんだ。神の恵みを存分に味わったのである。

だが、その頃の筆者は、今に比べれば、まだまだ繊細で傷つきやすく、感受性が強すぎるため、起きた出来事の印象からすぐに抜け出ることができなかった。そこで、せっかくの素晴らしい雄大な景色を見、温泉に浸かっていても、ベック集会のことを思い出したり、仕事のことを思い出したり、あれやこれやのひどい出来事が心に思い出され、一人涙を流していたりしたものであった。

だが、そんな中でも、この婦人の親切と奉仕心には本当に驚かされたものであった。彼女にはどんな状況にある人をも見下すということが全くなく、若年者だからと軽く扱うということもない。それどころか、まるで主イエスに仕えるように、彼女は筆者に仕えてくれたのである。

彼女の人に仕える姿勢は、前述の長老級の兄弟がしていたように、指導者然と振る舞い、上から目線でどうあるべきかを他者に説教し、心ひそかに他人のないところばかりを数え上げて、見下しながら、うわべだけは同情的に振る舞うという偽善的なものではなく、本当に自分を捨てて人に仕え、尊敬の限りを尽くし、愛を注ぎだしたのである。そして、見返りを求めなかった。自分の親切が人に受け入れられても、受け入れられなくとも、評価されようとも、されなくとも、淡々とと自分が信じることを実行していたのである。

驚いたのは、自分の別荘であるにも関わらず、その婦人が個室にある広々としたダブルベッドを筆者に譲り、自分はリビングの床に寝袋をしいて寝ていたことであった。さらに、筆者はゆっくりと時間を取って温泉を楽しんだが、その婦人は、自分は温泉に行っても、ほとんど時間をかけず、たちまち戻って来るのである。それが筆者との時間をより多く確保するためであることがよく分かった。その婦人は、キリスト者との交わり、神との交わりに対する意気込みと心がけが、筆者がそれまで見て来たどの信者とも明確に異なっていた。常日頃から、彼女はよく一人で別荘にこもって御言葉の学びに専念しており、普段から、神のために自分の利益を脇に置くことを当然としていたのだが、交わりの相手を伴う時には、さらに、自分のためには、何の特権も享受しようとせず、自分の持てるすべてを神の恵みを伝えるために使ったのである。

筆者は、この婦人と親しかったために特別扱いされたわけではなく、巧みに同情を引く話をして心を動かしたわけでもない。身内でもない人間に、そこまで奉仕するのは、筆者から見ても、筆者に対してしているというよりも、むしろ、神に対してしている奉仕であるに違いないと確信できた。「貧しい人に貸すのは主に貸すのだ」、「このいと小さき者にしたのはわたし(神)にしたのである」と聖書に書かれているように、彼女はいと小さき兄弟姉妹に心から仕えることで、その人にというよりも、天におられる神に仕えていたのである。

その正月は、この婦人の人生にとっては、最後の正月となった。むろん、当時はそんなことになるとは誰も知らなかった。筆者はその極めて重要な最期の時間を、彼女からもらったことになる。彼女と過ごしている間に、筆者には次の仕事も決まり、神の采配が常に完全であることを思い知り、そして、二人で共に主を賛美した。

だが、その次に入った会社もまた相当な曲者であった。長時間残業が当然視されていたり、専門家が顎でこき使われていたり、ついには残業代が払われなくなったりと、色々な問題があった。この婦人は、会社にあまり深入りしないように、残業をしないようにとしきりに筆者に忠告していたが、その頃、まだ筆者は、仕事に力を入れようと考えており、彼女の忠告の意味を十分に理解していなかった。そうこうしているうちに、彼女は天国へ旅立って行ったのである。

しかし、主は完全なお方である。彼女の突然の死の前日にも、筆者はまるで偶然のように会社から休憩時間にこの姉妹に電話で連絡していた。

「ゴールデンウイークはどうされますか?」
「あのね、最近、素敵な教会を見つけたから、主人と二人でそこへ行ってみようと思っているのよ。」

彼女はKFCを離れて後、もうどんな集会にも教会にも行かないことを決めて、筆者にもそのようにするよう勧めていたので、その返答にはちょっと驚いた。

「教会ですか?」
「また報告するわね。素敵な教会なの。そうね、あなたと会えるのは、もうちょっとだけ先になるわね・・・」

そんな会話だった。筆者はその時、この婦人も、結局、組織に戻って行くのだろうかと思って内心少しがっかりした。彼女はそうなるまでにいくつもの大規模な組織での信仰生活を経験し、それらをすべて断ち切って、地上の団体に属さない信仰生活を送ることを決めていた。またもや教会員に戻る、そんなことが彼女にできるのだろうか…?と筆者はいぶかしく思った。もし彼女が組織に戻るなら、この姉妹とも別れなくてはならないだろうと思った。

ところが、まさにその最後に訪れた教会が、彼女の葬儀を執り行うことになったのである。

その会話を交わした日の夜、会社でいつものように遅くまで残業しながら、筆者は何かしらどうしようもない体のだるさを感じて、仕方なく応接のソファに横になって休んだ。その翌日の朝になると、もう起き上がれないほどに体調が悪く、仕方がないので、会社に連絡を入れて、午前中は家で休んでいた。(その会社では、少なくとも、たった一日の休みでクビを言い渡されることはなかった。だが、筆者はそれでもその日の夕方には出勤して行った。)

すると、朝、家へ突然、電話がかかって来た。受話器を取ると、全く知らない声で、上記の婦人の夫だと名乗る。

「家内が亡くなったので…」

何を言われているのか全く理解できず、耳を疑うだけであった。姉妹の葬儀の日程の連絡だったのである。しかも、筆者はこの婦人の夫とはこの時まで全く面識がなく、この婦人とも、親しく交わるようになったのは、ごくごく最近のことであって、筆者は彼女を除いてこの一家とは、全く知り合いではなかった。

それなのに、彼女の夫が、彼女の死後、一体どのようにして、筆者の存在を思い出し、連絡先を確かめて、コンタクトを取って来たのか、極めて不思議であった。それでも、上記の姉妹が亡くなったことをこのような形で知らされたことも、主の采配であった。筆者がこの間、訳の分からぬ体調不良に見舞われていたことも、まるで知らないうちに彼女の苦しみを共に味わっていたかのようで、キリストの御身体の一致を思わされるのであった。

こうして、彼女が最後に訪れた教会が、不思議な縁で、彼女の葬儀を執り行うことになった。彼女が生前、最後の日々にその教会を訪れたのは偶然ではなく、それは教会員に戻るためではなく、ただ目に見えない霊的な準備だったのだと思われてならない。(その教会は、葬儀をきっかけに無理やり彼女を教会員にしたてあげたり、残された夫に熱心に働きかけて団体に取り込もうとしたりするようなところではなかった。葬儀で配られた式次第にも、教会の名前も連絡先も全く記されておらず、宣伝とみなされるような記載は何一つなかった。)

筆者は葬儀に参列したが、あまりのことに、我を失っていたためか、記帳の際に自分の住所を書き間違え、さらに親族だけが伴うのが当然であるはずの火葬場へのバスに、筆者も一緒に乗り込んでしまった。が、ゴールデンウィーク中で道路が渋滞しているため、いつまで経っても、バスは目的地に着く気配がない。そうこうしているうちに、この婦人が生前、筆者を案内してくれ、共に楽しんだ鎌倉の観光地の風景が思いがけなく窓の外に見えて来た。二人で一緒に土産物を買った店などが窓の向こうに並んでいる。運よく、バスの乗客の一人が渋滞にたまりかねて、子供のトイレ休憩のためにと、バスを降りた。続いて、筆者も降りた。本当は、土産物屋で買い物をした後、すぐにまたバスに戻って来るつもりだったのだが、それきりバスを見失い、もう追いかけることはできなかった。

晴れやかな日で、いつものように、湘南の海がとてもきれいに輝いていた。筆者は結局、婦人と歩いた思い出の道を一つ一つ辿って、そのまま帰宅したのであった。火葬場へなど行かなくて良い、それよりも、神が作られたこの世界の美しさを楽しみ、神を誉めたたえる方が、多分、この婦人の意にかなっているに違いない。

長い間、筆者はこの婦人の死に大きな喪失感を覚えていたが、今は以前のようには嘆いていない。神の采配はすべてにおいて完全である。

その後、婦人の夫と何度か話すうちに、生前、この姉妹は懸命に夫の救いのために祈っていたが、夫はすでに信者であって、幼い頃に、ミッション系の学校に通い、洗礼名も与えられていたことが分かった。病気がちな主人を一人残していくことだけが、彼女の気がかりだったのだと思うが、その悩みも、多分、必要ないものだったのではないかと思う。神は完全である。

今でも、「次に会えるのは、ちょっと先になるわね」、と言った彼女の最後の言葉を思い出す。

そうなのだ。彼女の言う通り、それはほんのちょっとだけ先、あと少しだけ先のことだ。筆者が天に召されてから、彼女とまみえるのである。だが、それはそんなにも遠い未来のことではない。

今は、天での休息のひと時に憧れるよりも、まだこの地上において、果たすべきミッションがある。それは主と共に、この地を、自分の人生を、自分自身を統治することである。信仰だけによって、どれほどのことが可能であるのか、筆者は少しばかり知っただけで、まだ十分に知り尽くしたとは言えない。このような状態では、天でキリストの御前に立たされても、まだ誉められることがないので、まだ天に行くわけにはいかないのだ。

義人は信仰によって生きる、そのことを生きて証明しなければならない。たとえこの地上にブラック企業が溢れ、経済はますます悪化し、人々の心は残酷、険悪になり、兄弟姉妹と呼ばれる人々でさえ、互いに蔑み合い、裏切り合い、騙し合うようになったとしても、神の御心の正しさは、寸分たりとも、変わることはない。聖書の御言葉はいつまでも変わらない。

人間を助けることのできる方は、神だけなのである。どんなに素晴らしく見える兄弟姉妹との交わりも、永遠ではない。だから、筆者は、神のみに信頼を置いて、聖書の御言葉に立脚して、筆者は神の愛と憐れみの深さを、実体として地上に引き下ろす。その実験はこれからもずっと続く。それがキリスト者の本業である。御国の働き人としての仕事が終わりに近づき、天に召される日が近づいて来れば、主は必ず、筆者にそのことを知らせてくれるはずである。

 


「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神であるの声を聞いた。
それで人とその妻は、神であるの御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」
 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れたました。」
 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
 そこで、神であるは女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

<…>

 また、(神は)アダムに仰せられた。

 「あなたが、妻の声に聞き従い、
 食べてはならないと、
 わたしが命じておいた木から食べたので、
 土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
 あなたは一生、苦しんで食を得なければならない。
 土地は、あなたのために、
 いばらとあざみとを生えさせ、
 あなたは、野の草を食べなければならない。
 あなたは、額に汗を流して糧を得、
 ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3:8-19)


「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落語する者がひとりもいないようにしようではありませんか。」(ヘブル4:10-11)

筆者がゴットホルト・ベック氏の集会を訪ねていた時分、一体、この集会の何がおかしいのか、最初に気づくきっかけを得たのが、ある遠方の障害者をこの集会に誘ったことであった。

筆者より1つか2つ年上なだけの重度の障害者の姉妹は、日々、車いす生活、もしそのまま何も有効な手を打たなければ、やがて体が麻痺して行って自由を失い、何もできなくなるという症状に見舞われていた。

だが、そうは言っても、心は体とは全く関係なく、元気で、活発に活動を求める。生まれながらの障害者ではないので、倒れる前の元気だったときの生活スタイルや、ものの考え方は今も生きている。だから、彼女は筆者に向かって、しきりに寂しい、と繰り返していた。人との出会いが欲しい、人並みの幸福な生活を送りたい、だが、どうやって出会いのきっかけを得るべきか分からない、などと相談して来るのであった。

筆者の方でも、その当時はまだ月曜日から金曜日まで働きアリのように働く労働者に過ぎず、自分自身のためにも、なかなか時間が取れない有様だったので、筆者に提案できることと言えば、「クリスチャンの交わりに出てみたらどう?」ということだけであった。

むろん、今ではそういう働き方も、交友関係もすべて改め、クリスチャンの友人に関しても、全く違った観点から交わりを持つようになったのだが、当時はまだそのようなライフスタイルの改変の前であった。だから、「ずっと家に閉じこもっていても、何も起きない。すでに通っている教団には満足できない。何もしなければ、体が弱って行くだけ。それならば、なおさらのこと、活動した方が良いと思う」と筆者は提案した。

その障害者が住んでいる土地は、筆者の住まいからは随分、離れているため、筆者自身が彼女を案内することはできなかった。だが、ベック氏の集会であれば、全国各地の色んなところで、集いが開かれているし、親切なクリスチャンに頼めば、車いすの障害者も、健常者と同じように、何の問題もなく受け入れてくれるはずである。実際、この集会には障害者も多数、集っていたのであるから。

そのようなわけで、筆者は当時の知り合いの信者を介して、自分が行ったこともない遠方の集会に、彼女を連れて行ってくれるように頼んだのであった。できるだけ、その集会に彼女と同じ年代のまだまだ若い人たちが大勢、集っており、話が弾むことを願いつつ・・・。

筆者は、彼女が新しい出会いを求めて自分から立ち上がる決意に至ってくれたことを喜び、興奮しながら、主が何をして下さるのだろうかと期待して、結果を待っていた。

ところが、その集会から帰って来るや否や、彼女は大爆発して筆者を責めるのである。まず、気温があまりにも暑く、外出するのにはあまりにも負担が大きかったため、死ぬかと思った、ということから始まり、集会には老人しか集っておらず、期待したような若者は一人としていなかった、挙句の果てには、その老人たちから上から目線で、「毎週、日曜礼拝にはちゃんと出席しなさい」などと、説教めいた叱責を受け、自分が落ちこぼれの信者であるかのように侮蔑的な扱いを受け、婦人たちはみなベールをかぶって説教を聞いているところを見ても、集会全体の進行がこの上なく不気味であった、よくもこんなとんでもないひどい無意味で高圧的な集会に自分を誘ってくれたものだ、この失望と幻滅をどうしてくれるのだ、と言うわけである。

彼女が筆者に向かって「爆発」したのは、これが最初で最後ではなく、体調不良に見舞われると、それに連動して、心の状態も不安定になる病者にありがちなこととして、彼女との関係は最初から最後までトラブルの連続だった。

だが、体の疲労と、「集会には老人しかいなかった!!若者との出会いがなかった!!」という理由がメインで、筆者を責める彼女には、半分は八つ当たりだと呆れながらも、それでも、もう半分では、彼女の思いの中に切実な悲鳴のようなものを感じたので、その訴えを真摯に受け取り、また心に留めた。期待した効果が全く得られなかったのは残念なことではあり、責められるのも割に合わないことではあるが、そんな結果になったのも、何かの警告かも知れないと筆者も心に留めたのである。

最も注目に値したのは、古参信者たちから彼女への上から目線の警告であった。なぜなら、その集会は出入り自由と謳っており、日曜礼拝に人を束縛するようなことは決してしない、と表向きに公言していたからである。にも関わらず、結局は、日曜礼拝に出ることが義務づけられているのだとしたら、それは二重性というものだ。さらに、もしその集会が本当に正しいのであれば、世の中の片隅でかろうじて生きているような弱い存在の一人にも、ただ失望と屈辱的な思いを味わわせるだけには終わらなかったであろうと思われた。

アッセンブリーズ教団の信者であったその障害者に対して、筆者は当時、彼女の置かれていた困難な境遇ゆえに、少しでも助けにならなければいけないように感じ、また彼女も信仰者の一人だと考えていたのだが、それが適切な友情ではなく、また、アッセンブリーズ教団の信者と関わっても何一つ良いことは起きないということが、まだ当時は十分に分かっていなかった。

その障害者は、筆者よりも世故に長けていたので、自分の憤りを、決して筆者以外の人間にはまき散らさなかった。集会の人々には何か適当なことを言って、二度とそこへ行かなくて済むように丁重に断っておき、筆者にだけ本心をむき出しにしたようである。つまり、筆者に色々なことで助けを求めながら、他者の奔走を適切に評価することができなかったのである。そこには、やはり自分は障害者だから、哀れまれ、助けの手を差し伸べられるのは当然という思いがあったのではないかと思う。そして、案の定、結局、その障害者はベック集会への拭い去れない恨みを抱えながら、元のアッセンブリーズ教団へ戻って行っただけであった。

だが、アッセンブリーズ教団の教会でも、彼女は期待したような交わりを得られていたわけではなかった。そのことは折に触れて彼女が筆者に不満をぶつけていた。だからこそ、当時は、筆者自身が、まだ兄弟姉妹の交わりを探し求めていたこともあって、別の信者の交わりを求めてはどうかと提案したのであるが、それも効を奏することはなかった。

だいぶ後になってから、もうベック集会とは関わりがなくなって後、筆者はようやくこの障害者の人生相談に乗ることを一切やめて、彼女に向かってはっきりと言った、「あなたの不満は理解できる。ベック集会には私も同意できない。そういう点で、意見が同じ部分はたくさんある。でも、私はもうこれ以上、あなたの相談には乗れない。」と。
 
そして、問題なのは、ベック集会だけではなく、アッセンブリーズ教団や、既存の教会組織を訪ねても、そこで決して心からの満足は得られないと筆者は考えているため、すべての教会組織を離れて、ただ神だけに直接、心の願いを申し上げ、相談するように勧める、と述べた。
 
少なくとも、自分の通っている教会には片方で良い顔を向けながら、遠方にいる無関係の筆者をまるで教会への苦情窓口のように考えることは正しくない。そのような相談に乗ることはできないし、その関係から生まれて来るものは何もないと考えている。
 
だが、もしも本物の交わりを心から願っているならば、その夢がどうすれば達成できるのか、人の助けによらず、神様に正直に打ち明けて、答えが得られるまで本気で模索すべきであり、神はその願いを理解して下さると筆者自身も確信している・・・。

おそらく、筆者の印象では、この信者はその後も、アッセンブリーズ教団を離れることはなかったのではないかと思う。アッセンブリーズ教団というのはそういう弱みを抱えた人たちを取り込んで成り立っている組織だからだ。多くの弱みを抱えた人たちに寄り添って、巧みに彼らを助けてやる風を装いながら、教会員として利用し、団体に拘束し、彼らの悲劇の物語を団体の手柄に変えて、宣伝材料にして行くということが行われている。このような教団から見れば、障害者は、その障害が重ければ重いほど、利用できる宣伝材料である。

最近では、こういう心理的トリックは感動ポルノとして障害者自身からも批判を浴びるようになって来たが、当時はまだそういう風潮も生まれてはいなかった。こうした事情から、結果的に、格別な弱みを抱えた人たちばかりがこの教団に集まっている。何年間、この団体に所属しても、彼らはいつまで経っても、その弱みから抜け出すことができない。だから、今も上記の信者がずっと同じ不満を抱えながらこの教団に通い続けているのだとしたら、それは極めてむなしいことである、と筆者は思う。

さて、ベック集会に話を戻せば、筆者は若者との出会いを求めてこの集会に通ったわけでは全くなく、エクレシアを模索する上での通過点でしかなかったのだが、その後、この障害者が味わったのと似たような体験を、筆者も覚えることになった。筆者は新たにこの集会とはもともと何の関係もなかった、ある相当に年配の「兄弟」を集会に紹介した。それは、集会の人々の熱心さには、筆者の心にも何かしら解せないものがあって、一体、長年の信仰者である第三者の目から、この集会はどう見えているのかを判断するためのリトマス試験紙とするためでもあった。

当時、その兄弟は筆者に近しいところにおり、すべての事柄について同意できる意見を持っていたわけではなかったが、それでも筆者の芽には、経験豊かな信仰者だと見えていたので、もしその人の目から見て、この集会に危険があるようであれば、必ず、筆者にそのことを教えてくれるはずだと思ったのである。

ところが、またしても予想外のことが起き、事態は違う方向へ進んだ。長老のような風格のその年配者の「兄弟」を集会に紹介するや否や、それ以前に、筆者と親しくしてくれていた兄弟姉妹の関心が、一斉に彼に移ったのである。何しろ、当時、その兄弟は70代、筆者は30代の半ばである。年齢だけを見るならば、40歳近い年の差があり、筆者など、全く比較にならないほんの小娘に過ぎない。特に、ウォッチマン・ニーを重んじ、年功序列を重んじていたその集会では、ウォッチマン・ニーに精通する長老級の人物の登場を目の前に、筆者の存在はまるでないがごとくに忘れ去られた。

いや、忘れ去られたくらいならばまだ良かったのだが、何かしら、それまでには一度も見たことのないような、訳の分からない侮蔑的な眼差しが、他の兄弟姉妹から感じられるようになったのである。つまり、筆者が自分で紹介したその長老級の兄弟と、もともと集会にいた兄弟姉妹たちが、いつの間にか、筆者の知らないところで結託し、筆者についてよからぬ噂話を色々言い広め、その結果、彼らが筆者をまるで青二才のような侮蔑的な目つきで見下し始めたことがうすうす感じられたのである。

案の定、しばらくすると、その侮蔑的な眼差しはやがて非難の態度へと変わって行き、以前には親しく交わっていたはずの信者たちから、筆者の態度が不遜だ、とか、自分の子供だったらそんな態度は許せない、とか、集会に対する貢献が十分でない、等々の非難が起きた。

その時、筆者は、かつてこの集会に出席した障害者が味わった苦痛が、一体、どこから来るものであったかをよくよく理解した。「高齢者が高圧的な態度で威圧して、上から目線で偉そうに説教して来た。自分などそこでは全く相手にされていなかったし、歓迎されてもいなかった。しかも、自分のことは何でも知っているかのように初対面の信者からほのめかされ、不気味この上なかった。自分は何か薄汚い罪人の一人のように、粗末にしか扱われなかった。断じて許せない」という彼女のクレーム内容を明確に理解したのである。

すでに当時、筆者はKFCの事件をも通過した後で、KFCでいわれなく「悪魔扱いされた」という出来事ですっかり免疫が出来てしまっていたため、信者から侮蔑的な態度を取られたり、いわれない非難をこうむったり、良からぬ噂を立てられるなどのことは、日常茶飯事として、ほとんど動じないまでになっていた。そのように仲間の信者を絶えず陰で中傷し、様々な憶測に基づいた噂を言い広めて酷評しているような団体は、およそまともな団体ではないので、そこにいる人たちから覚えめでたい人間になろうと努力する必要など全くないのである。むしろ、そこで高く評価されているような人間は、決まってまともな人物ではないと判断して差し支えない。

さらに、他の事件を通して、筆者はこの長老級の「兄弟」の性格をもよく理解していた。この集会に限らず、別の交わりでも起きたことであるが、この兄弟を別な信者に紹介すると、誰もが、彼を師と仰ぐようになって、この兄弟に心酔してしまうのである。そして、筆者が紹介した人間が、この兄弟に「弟子化」され、そこに教師と生徒のような序列が出来上がり、すっかり交わりが壊されてしまうのである。筆者から見ると、このような効果は決して良いことではなく、ただ集会の側だけに原因があって起きていることだとも思えなかった。もともとその兄弟の心の中にあったものが、外に出て来て、集会の人々の心の中にあるものと響き合って、序列や差別を生んでいるだけである。

はっきり言えば、『権威と服従』の内容を額面通りに受け取り、自分は年長者だから、親だからと、すっかり心の中で偉くなってしまった人たちが、自分をひとかどの信仰者だと己惚れ、これを他者にも認めさせようと、互いに連帯して、自分たちよりも若く未熟で、説教相手になりそうな信者を捕まえて来ては、彼らを従わせるために包囲網のような城壁を築き上げているだけである。筆者はいつの間にかそれによって追い詰められていたのである。

そのことに気づいた瞬間、筆者は全力でそこから逃げ去った。老人たちに取り囲まれて罪人として非難され、彼らの注文に従わないと、いずれ「悪魔扱いされて追放される」という、あまりにも見え透いたお決まりのパターンに至るよりも前に、そのような愚かしい出来事によって精神的に打撃を受けることを拒否してその場を去ったのである。
(後日注:この「逃げた」という表現だけを拡大解釈して、これをまるで筆者の臆病さの表われのように吹聴したい連中がいるようだが、これはそういう意味で書いているのではない。聖書にはこのような人々を「避けなさい」との忠告がれっきとして存在するため、筆者は彼らを避けたのである。

このことは、信者がカルト団体等で精神的打撃をとことん受けるまで、そこにとどまる必要がないという意味でも書いている。さらに、つけ加えておけば、筆者は別にこの団体を「逃げ出した」わけでもなく、以下に記すように、彼らと直接話し合って、自分の意見を伝えた上で、この団体を去ったのである。さらに、この時、筆者に向かって説教した兄弟からは、後に謝罪の手紙が送られてきた。別に今日に至るまで対立関係が続いているなどということはない。

ただし、筆者はそれでも、この団体の礼拝が神の安息に安らぐものだとは考えていないので、戻っていないだけのことである。)


その際、ただ単に逃げ出すだけでは、彼らの非難を十分にかわすことはできまいし、問題解決にもならないと思ったので、きっちり話し合いを行い、自分の反対意見をも彼らに伝え、それなりに決着をつけた。
筆者は最後の交わりの際、それまでに筆者が観察して気づいた集会のすべての自己矛盾を洗いざらい彼らに提示しておいた。

雑居ビルの半地下のようなところにある食堂での会話であった。二対一で責められ、まるで筆者が何か悪いことでもしたかのように、懺悔を迫られそうになる状況の中で、筆者はひるまずにこう反論した。

「私を含め、あなたがたが『集会に従順でない』と思う人たちを一方的に責めるよりも前に、この集会そのものの異常さを考えてみるべきではないでしょうか。なぜあなたたちの集会では、牧師制度を持たないと言っているのに、ベック氏という、牧師にも何倍にもまさる絶対的な権威を置いているのですか? これはまさに偶像礼拝以外の何物でもありませんよね? ベック氏を神様にしてしまっているのではありませんか? それに、どうして集会では兄弟だけがメッセージをし、家庭集会では、姉妹だけが料理をするのですか? この男女の古典的・差別的な役割分担は何でしょうか? なぜあなたがたの集会では、出入り自由と言いながら、実際には、集会に毎回、出席しないといけないプレッシャーがかけられるのですか? 全く出入り自由じゃないですよね。しかも、どうしてある人たちは、まるで謹慎のような処分を受けて、集会に出入り禁止にされたりしているのですか? どうしてあなたたちは献金の使途を明らかにしないのですか? どうしてあなたたちは証と称して、自分たちの過去の罪を赤裸々に語り、互いのプライバシーをあけすけに共有しては、噂話に明け暮れているのですか? どうして集会で発行される証集の中に信徒の学歴を記し、立派な社会的地位をもった人々を積極的に集めようとするのですか?

なぜあなたがたは、一方ではあることを題目に掲げながら、他方では、それに公然と矛盾した行動を平気で取るのですか? それは嘘であって、偽善ですよね。そんな偽善に比べれば、最初から約束などしなかった方がよほど誠実です。牧師制度を持たないと言っていながら、牧師制度以上に強力な指導者崇拝を作り出しているあなたかたは、あなたがたが非難している牧師制度を持つ教会よりももっと罪が重いのではありませんか…。」

筆者の疑問は無限にあったのだが、それを聞いた人たちは、特に、ベック氏の権威に関して筆者が投げかけた疑問を、たじろぎながら懸命に否定していた。それは偶像崇拝ではないかと言う筆者に向かって、彼らは言うのだった、「いや、人間の指導者なしに、我々は信仰を保つことはできない・・・」

まさに「本音が出たな」と感じられる瞬間であった。ドストエフスキーの大審問官の姿が心に思い浮かんだ。結局、KFCと同じように、神だけに信者が従うのではなく、人間の指導者に信者を従わせ、人間の作った組織の序列の中に信者を拘束して行くことが本当の狙いなのである。牧師を持たない、指導者を置かない、我々の集会は対等な兄弟姉妹の交わりだから、序列などない、などと言いながら、その舌の根も乾かないうちに、どんな牧師制度よりももっと強力で絶対的な指導者を作り出し、その独裁者の前に信者たちが跪くのである。そして、その指導者を頂点として、信徒たちの序列を作り出し、自分よりも弱く未熟な者たちを自分の配下に従えて行くのである。そんな生活が、主イエス・キリストだけに従う信仰と何の関係があろうか。

到底、分かり合うことのできないその会話の最後を、筆者は次のように締めくくった。「私にはそのような自己矛盾と偽善に満ちた不誠実な理念に基づく集会が、本当に聖書に合致したエクレシアの姿だとは到底、思えません。ですから、たとえそんな集会に集っている偽善的な人々から非難され、罪に問われたところで、私が悪いのだとも思っていません。むしろ、間違っているのはあなたがただと確信しています。」

多分、そうでも言わないことには、それまで集会で受けて来た数々の恩恵を返せと責め立てられかねない雰囲気であった。彼らは非常に憤慨し、筆者を生意気だ、不遜だ、恩知らずだ、と考えて、鼻息荒く責め立てようとしていたが、もうそれ以上のことは、聞いても無駄である。親戚でもなければ、親でもなく、ほんの数ヶ月程度の知り合いでしかない人間から、そこまで言われる筋合いも全くない。筆者も何も言わせず、退席した。

筆者はこうして、その集会でかつては親しくしてくれていた、恩人のようでありながらも、今となっては筆者に尽きせぬ憤りを燃やすようになった信者たちを振り切って逃げた。彼らの知的レベルも、KFCとは異なっていたので、悪魔だとか、イゼベルだとか、ユダだとか、そういう愚かしい非難の言葉が飛び交う、あまりにも馬鹿げて幼稚な修羅場は避けられたが、それでも、ほんの小娘に過ぎない人間が、20も30も年上の複数の信者たちに囲まれて、その非難を交わすのは大変な労力が要る。まるで、カルトである。もちろん、筆者の心には恐れはなく、誤った教えと序列に導かれる団体に対するどうしようもないやるせなさと拒否感があるだけであったが、それでも、町を歩いているうちに、悪徳キャッチセールスにつかまって、怪しげなオフィスに連れて行かれ、理不尽な説得によってさんざん不当な契約を迫られながら、命がけで何とかそれを拒否して逃げて来た市民のような気分であった。

それと並行して、筆者の紹介で、集会に後からやって来たのに、筆者を差し置いて、すっかり集会の「権威」となってしまった長老級の兄弟にも連絡を取ってみた。その際、やはり、筆者の知らないところで、この兄弟が他の兄弟姉妹と筆者の情報を内密にやり取りしていたことを、兄弟自らが白状した。

その兄弟が無言のうちに言わんとしているのは、要するに、こういうことであった。「他の兄弟姉妹に助けを求めても無駄だよ。あなたの弱みは、全部、私だけでなく、彼らももう知っているのだからね。観念して、私たちの言うことに従いなさい。」

こういう事態も、その時が初めてではなかった。何年も前に、やはり筆者が紹介して始まった別の交わりでも、この兄弟はこのように、筆者を中傷することによって、筆者が紹介した信者を筆者から遠ざけ、自分に心酔させた上で、筆者を交わりから排斥しようと試みたことがあったのである。その事件をはっきりと思い出した。そして、やはりあの時起きたことは、筆者が確信した通りだったのだなと理解した。

またしても、筆者は、この人物によって出し抜かれ、交わりを奪われて、弾き出されてしまったのである。だが、そんなことは筆者にとってどうでもよかった。ようやくこの「兄弟」の心の本質が見えたことに、かえってほっとする思いであった。つまり、交わりにおいて自分が教師のように注目されて、その交わりの中心人物となり、交わりを作るために助力してくれた人間を追い出して、それを私物化したい、というのがその「兄弟」の本当の狙いだったのである。

普通の人であれば、いつの間にか、信頼していた人たちに裏切られていたと分かれば、それだけで相当なショックを受けるであろう。だが、筆者にとっては、こうしたことは、すでに気づいていた予定調和的な結末に過ぎなかったので、特に驚かなかった。

だが、その兄弟は筆者から頼りとしている信者を剥ぎ取ったことで、心理的打撃を与えることができたと思ったのであろう。それを機に、彼は強気になって、あろうことか、筆者の方がこの集会に先にやって来て、筆者の紹介で自分がその交わりに出るようになったというのに、完全に筆者を小娘扱いして、明らかに断罪口調で、次のように言った、「ヴィオロンさん、〇×兄弟姉妹に無礼を謝りなさい! あなたの生活には十字架がない! あなたにはちゃんとした教会に所属することがぜひとも必要です!! これからも日曜ごとに〇×集会に出席しなさい!!」

何か現実というよりも、絵に描いた物語のようだと、心の中で呆れる展開であった。ほんの数ヶ月前に、筆者の紹介で、後から来たはずの兄弟が、まるで集会の長年の古参信徒のように、集会へ出席しなさいと筆者に説教して来るのにも恐れ入ったが、それをしかも、常日頃から、「エクレシアは組織ではない」とか、「ベック氏を頂点とする集会のあり方には疑問を感じる」などと筆者に隠し立てなくあけすけに語っていた人が言うだけに、この自己矛盾というか二重性には、心底呆れるのであった。その「兄弟」はリーダーを置かない交わりのあり方を提唱していたので、ベック氏が集会の頂点に立っていることには、もとより感心していなかったのである。

以前の筆者は、今よりもはるかに未熟で、自分の判断に自信がなく、繊細で、感じやすく、周囲の人々の言動に影響されやすく、彼らの助言を相当に重んじていたために、もし突然、身近な兄弟姉妹の誰かから叱られたり、非難されたりすれば、自分に落ち度があったのではないかと思い、あれやこれやと思い悩んだことであろう。少なくとも、深刻なショックを受けたものと思う。だが、この頃には、すでにKFCでの前例があったため、こうした人々の主張にあるカラクリが、予め手に取るように見えてしまっていたのである。

要するに、結局、そこにあるのは年功序列、男尊女卑などの、この世的な数々の差別や弱肉強食の理念と、そうした世的な価値観に基づく地上的な組織・人間関係の中に、信者をからめ取り、支配し、従わせようという欲望だけなのであった。年長者が権威となって年少者に君臨し、目下の人間を犠牲にして、その人間から栄光を吸い上げ、収奪の対象としたいという欲望によって、組織全体が支えられているだけなのである。そこでは、目に見える人間の序列のピラミッドが絶対化され、その中に信者を組み込んで、霊的搾取の材料にするために、各種の説得や感化が試みられているだけで、神や聖書や信仰は、この支配と搾取の体系を正当化するための隠れ蓑に過ぎない。むろん、本当に信仰を持つ信者たちもいるにはいるのだが、この偽りの体系の中では、制約を受け、どうすることもできない。そんなものが、聖書に基づく適切な信仰生活や、信徒の交わりではあり得ない、筆者は今でもそう考えている。

しかも、そこでは、ただ霊的搾取が行われるだけではない。KFCを振り返ればよく分かるように、彼らのひそかな楽しみは、常に誰かに罪人・落伍者・失格者という烙印を押して、彼らを集会から排除する一方で、自分たちは合格者だ、神の選ばれし勝利者だ、選民だ、義人だと優越感に浸り、排除した人間を苦しみに追いやって、自分たちは楽しい行事に邁進して勝ち誇ることにある。

いわば、霊的カースト制を作って、常に誰かを見下し、排除し、懲罰を加え、賤民の階級に投げ落としては、必要のない苦悩を味わわせ、その人々に君臨して優越感を味わうことによって、それを自分たちの「霊的な進歩」の証拠とみなし、高慢な自己肯定の根拠としているのである。もしそのように誰かを見下す優越感がなければ、つまり、排除したり、罰したりする相手がいなければ、彼らの自負心は満たされず、その偽りの「信仰生活」は一歩たりとも前に進まなくなるであろう。もし彼らが心の中では蔑んでいる「賤民」たちが、彼らの正体を見抜き、彼らの魔の手を振り切って逃亡し、反撃し、自由になろうものならば、たちまち彼らの「偉さ」も幻想として失われ、消えてなくなるであろうと思う。

だから、筆者は、そのような考えを持つ人間から、日曜礼拝に出席しないことや、特定の集会に属さないことを「罪」として断罪されても、まるで他人事のように影響を受けることなく、冷静に言葉を返した。「〇〇兄弟、でも、あなたはエクレシアは人間の作った組織ではないとあれほど言っていましたよね。日曜礼拝を義務化している教会は、間違っているし、おかしいとあれほど言っていましたよね。毎週、同じ指導者を見物するために、同じ場所に、同じ時間に、一定のお客が集うなんて、そんなものは神への礼拝でもなければ、信仰生活でもないと、言っていましたよね…。なのに、どうしてあなたは、自分でも間違っていると最初から分かっているものを人に勧めるんですか? どうしてそんな提案に私があえて応じなければならない理由があるんです…?」

その兄弟はさすがに電話口の向こうで苦笑した。「それはそうですが…、ヴィオロンさん、でもね、それは私たちだからこそ分かっていることで、彼らにはその真理がまだ見えていないんですよ。彼らは教会からは出たかも知れないが、まだどういう交わりがあるべき姿なのか、分かっていないんです。だから、自分たちが作っている制度が中途半端で、不完全で、間違っているということも、彼らには分からないんです。彼らの礼拝はまだ不完全なんですよ、ヴィオロンさん。彼らには見えていないのだから、仕方がありません。

でも、問題は、彼らの作った制度は不完全でも、彼らに信仰はあることです。だから、私は一概に彼らを切り捨ててしまうことはできないんです。私はそんな彼らに仕えているんですよ。責めるんじゃなく、仕えているんです。彼らが気づいてくれるようになるまでです。もちろん、彼らが交わりの扉を閉ざすなら、それは仕方がありませんが、そうならない限り、私は彼らにも働きかけます。

あなたにはそういう気持ちはないんですか? あの人たちが、あなたが納得するレベルに達していないから、だから我慢がならないと、あなたは彼らを切り捨てるんですか? 彼らが分かるようになるまで、見守って、助けてあげようとは思わないんですか?」

筆者は憤りを感じつつ、それでも冷静に答えた。「要するに、それは自分には真理が分かっていて、彼らにはそれが見えていないから、真理が分からない可哀想な人たちの目が開かれるまで、自分が彼らの世話をしてあげようという話ですよね。そんなのは、私に言わせれば、親切心でもなければ、謙遜でもなく、兄弟姉妹に仕えることでもないと思います。ただ単に人を上から見下しているだけです。

そんな考えでは、ミイラ取りがミイラになるだけですよ。彼らのほとんどは絶対にベック氏から離れることはないと思いますし、ベック氏に理解を示さないあなたが、ベック氏から離れるようにという影響を彼らに与えることが、彼らにとって本当に益になると思いますか。そんな方法で彼らを目覚めさせ、変えることができるとは私は思いません。むしろ、それは集会に分裂をもたらそうとすること以外の何物でもないのではないでしょうか。たとえベック氏を信奉することが間違っていたとしても、彼らがその罪に自主的に気づくまで、誰にもどうしようもありません。あなたがそれに関わることに何の意味がありますか? 
あなたのしていることは人助けではない。自分の望むレベルに達していないと、心の中で密かに見下し、蔑んでいる人たちをわざわざ相手に選んで、その人たちにかいがいしく上から手を差し伸べ、助け起こし、尽くしてやって、彼らもいつかは自分のように目が開かれて進歩するだろうと思いながら、自分の優しさや親切心に、自分で酔いしれる、それは本当の親切ではないです。

そんなのは高慢であって、奉仕でもなければ、人助けでもない。ただ自分が人よりも優位に立ちたいから、指導的立場に立ちたいから、いつも自分よりも明らかに劣っていて、弱みを抱えて、真理が見えていない人間をそばに呼んで、関わろうとしているだけであって、それは恐れや劣等感から来たことであって、そこには彼らに対する真の敬意がないのです。しかも、あなたの親切は、彼らにとっては全く無用の長物で、有難迷惑でしかないでしょう。

彼らはベック氏から離れないと思いますよ。そんな風に、相手を見下げながら、その人たちの集会をかき回し、分裂に追い込むような関わり続けても無益でしかないと私は思います。間違っていると分かったものからは、ただ静かに離れるだけのことです。自分でも間違っていると分かっているものに、わざわざ関わり続けることは有害です。誤謬の中にある人を目覚めさせようとしても、自分が害を受けるだけです。しかも、誤謬の中にある人を捕まえて来て、その人たちと一緒になって、私を責めようというのではナンセンスです。あなたはまるで私が十字架を経ていないかのように言いますが、真に十字架を経ていないのは、一体、誰なんでしょう?」
(さらに、後日談として、断っておけば、ベック集会は以上の兄弟よりは、ずっと柔和で温和な人々からの集まりだったので、筆者が集会を去ったことを苦にして、筆者に説教をした兄弟もすぐに心を変えて、間もなく謝罪の手紙を筆者に送って来た。そこには、依然として、筆者を姉妹とみなし、気にかけていること、自分の言ったことをも悔やんで反省しているので、集会に戻って来て欲しいといった旨が書かれていた。

このように、集会の人々は、自分たちが絶対に正しいという態度を押し通すことは決してない謙虚な人々である。だが、それでも、筆者はある一人の指導者を神のように崇めることは、偶像崇拝であるとみなしているため、集会に戻っていないだけである。

以上の他にも、後日、この集会には、筆者を依然、姉妹と考えて、連絡を寄越して来る信者がいるなど、この集会と筆者との間では、現在に至るまで何の対立関係が続いていることは全くない。

筆者がこの団体を逃げ出したわけでもないため、この記事だけを読んで、勝手な誤解を広げることはしないでもらいたい。さらに、記事の最後に登場する兄弟とも、その後、関わりが続き、後日談がある。
この記事は、大きな出来事のほんの片鱗を取り出しただけのものであり、この記事だけを拡大解釈して、ネトウヨのような決めつけで、都合よくストーリーを作り出すのはやめてもらいたい。

ただし一つだけはっきり言えることは、アッセンブリー教団であれ、ベック集会であれ、KFCであれ、名もない集会であれ、一人の指導者がその集会全体をコントロールし始めると、それはもはや御霊に導かれる自由な集会ではなくなるため、そのようば場所にはとどまっても仕方がなく、エクソダスせねばらない、ということである。)




「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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