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「人の子よ、ティルスの君主に向かって言いなさい。

主なる神はこう言われる。お前の心は高慢になり、そして言った。『わたしは神だ。わたしは海の真ん中にある神々の住みかに住まう』と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ、自分の心が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ。

お前はダニエルよりも賢く、いかなる奥義もお前には隠されていない。お前は知恵と悟りによって富を積み、金銀を宝庫に蓄えた。お前は取り引きに知恵を大いに働かせて富を増し加え、お前の心は富のゆえに高慢になった。

それゆえ、主なる神はこう言われる。お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。

それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。

お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。

お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。まことにわたしがこのことを語った」と主なる神は言われる。

主の言葉がわたしに臨んだ。 「人の子よ、ティルスの王に対して嘆きの歌をうたい、彼に言いなさい。主なる神はこう言われる。

お前はあるべき姿を印章としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。

お前は神の園であるエデンにいた。
あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉、紫水晶
かんらん石、縞めのう、碧玉
サファイア、ざくろ石、エメラルド。
それらは金で作られた留め金で
お前に着けられていた。
それらはお前が創造された日に整えられた。

わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
お前は神の聖なる山にいて
火の石の間を歩いていた。

お前が創造された日から
お前の歩みは無垢であったが
ついに不正がお前の中に
見いだされるようになった。

お前の取り引きが盛んになると
お前の中に不法が満ち
罪を犯すようになった。
そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
翼で覆うケルブであるお前を
火の石の間から滅ぼした。

お前の心は美しさのゆえに高慢となり
栄華のゆえに知恵を堕落させた。
わたしはお前を地の上に投げ落とし
王たちの前で見せ物とした。

お前は悪行を重ね、不正な取り引きを行って
自分の聖所を汚した。
それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ
お前を焼き尽くさせた。
わたしは見ている者すべての前で
お前を地上の灰にした。

諸国の民のなかで、お前を知っていた者は皆
お前のゆえにぼう然とする。お前は人々に恐怖を引き起こし
とこしえに消えうせる。」 (エゼキエル28:1-19)
 
ティルスの王に対するこの宣告は、サタン(ルシファー)に対するものであると言われている。

聖書は、神が人間に向けて与えられた約束の書であるから、神が人類を創造される前に、神と被造物である御使いたちとの間で何が起きたのかはほとんど記されていない。

しかし、以上のくだりは、人類の創造前もしくは創造後に、神と悪魔との間で起きた出来事――サタンの堕落という出来事の一端を明らかにするものであるから興味深い。

ちなみに、人類が創造される前の時期(プレ・アダミック・エイジ)については、ほとんど明らかになっていない。

たとえば、サタンは、聖書で最初に姿を現すときには、すでに神に背いて堕落した存在となっていたが、なぜ人類をそそのかすに当たり、悪魔は蛇の姿を取って現れたのか。これは大きな疑問だろう。この時点で、悪魔は体を持たなかったことが分かる。

だが、創造された当初から、サタンに体はなかったのだろうか?

「お前はあるべき姿を印章としたものであり

知恵に満ち、美しさの極みである。」と言われていることを見れば、サタンには創造当初、美しい容姿があったのではないかと思われる。

そして、この表現は、神が人をご自分に似せて造られたというくだりに似ている。サタンは創造当初、神への従順を表す完璧な被造物であった。

しかし、サタンは高慢になり、神に背いて堕落したため、

「それゆえ、わたしはお前の中から火を出させ

 お前を焼き尽くさせた。
わたしは見ている者すべての前で
 お前を地上の灰にした。」とされる。

神に背いて堕落したがゆえに、サタンは自分の体を焼き尽くされ、美しかった容貌を失った、という風に理解できる。

こうして、サタンの体は灰燼と化した。それだからこそ、自分の体を持たないサタンは、人類を唆すに当たって、地上の生き物を利用せざるを得なかったのではないか? 

「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」(創世記3:1)と書かれているのを見れば、悪魔が蛇の姿を取って現れたのは、堕落した知恵(狡猾さ)と大きな関係があったことが分かる。

蛇が狡猾な生き物と言われてもなかなかピンと来ないが、世界の実に多くの古代宗教が、蛇信仰と結びついており、ここで言う「狡猾さ」には、シンボル的な意味があると考えると分かりやすい。

たとえば、グノーシス主義では、蛇が脱皮することから、蛇は終わりがないという概念を指すものとして、聖書の言う「永遠」とは全く異なる意味で、「誕生」と「死」とを一つに結びつける循環のサイクルを表すシンボルとして利用された。そういう意味で、蛇そのものが「堕落した知恵(詭弁)」の象徴だとみなせないこともない。
 
ティルスの王への宣告を読む限り、サタンが創造当初、備えていた2つの特徴とは「美」と「知恵」であったことが分かる。

「お前はあるべき姿を印章としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。」

「お前の心は美しさのゆえに高慢となり
栄華のゆえに知恵を堕落させた。」

美しさ、知恵に、富と成功が加わったとき、高慢さが生まれ、サタンの知恵は堕落した知恵となった。堕落した知恵とは、一言で言えば、不正を行っても、これを不正と認めず、神の目に自分をごまかそうとする欺きのことである。

従って、サタンの知恵(狡猾さ)とは、欺きのテクニックそのものであると言えよう。

それは自己の不正を覆い隠し、正当化するために作り出される終わりなき詭弁なのである。

その詭弁とは、「嘘」と「まこと」の融合、つまり、対極にあるものの融合であり、蛇とはその象徴である。本来は融合できるはずのないものを、いかに融合できるかに見せかけるかが、サタンの堕落した知恵の基本である。
 
そのようニ詭弁を駆使して悪事に悪事を重ねたサタンは、誰もが見ている前で、神の裁きを受けて、体を焼き尽くされて消失した。見ているすべての者たちが、それに恐怖を感じたという。その終わりはバビロンの終わりに重なる。

* * *

さて、村上密が書いている、

悪い想定は呪いの一種」だと。

「悪い想定を何度も他人に語るのは呪いか。呪いの一種である。心配性の人には悪影響が出ることもある。なぜなら、普段でも心配事に向き合っているからだ。自分からではなく、他人から悪い想定を何度も聞かされたら、たまったものではない。毎日心配して生きているのに、他人がつらい重荷を意図的に負わせるからである。あなたは不幸な目に遭う。あなたは早く死ぬ。あなたは必ずひどい病気になる。あなたは交通事故に遭う。何度も悪い想定を個人に向かって言い続けると、言っている人から人が去る。聞きたくないからである。いつかその呪いが自分に向けられるかもしれないと人は恐れる。そのような言葉を語る人と誰が一緒に居ようと思うだろうか。このような呪いを語り続ける人は、自分の上の災いを招くことになる。聖書の神は人を呪ってはならないと教えておられるからである。自称預言者の悪い想定にも気を付けよう。恐れてはならない。恐れると保たれていた平安が崩れる。恐れを持って精神的に人を上においてはならない。支配されることになるからである。」

絶え間なく自分のブログに他者を罵る「悪い想定」を書き連ねて来た人物が、よくも呆れるような自己矛盾に満ちた台詞を吐いているものだと思う。

村上密はこれまで他人をおびただしい回数、呪って来た。攻撃的な言葉をブログに書き続けて来た。たとえば、鳴尾教会の牧師たちに対する非難を取り上げてみよう。

記録(2017年3月3日)では、村上が鳴尾キリスト福音教会の牧師について、その牧師が統一教会に入信した経歴もなく、小島武に傾倒した事実もないのに、勝手な推測でそれを断定的に書き記し、牧師夫妻が教会を乗っ取ったと言いふらし、牧師から、それが名誉毀損に当たるので、記事を削除して欲しいと、依頼があったが、その依頼を断ったことが記されている。

村上はこの記事の中で、自分が牧師について書いた内容が「攻撃的である」ことを十分に認めらながらも、証明されてもいない第三者の「被害」を理由に、自分はその第三者の被害の回復のために、「攻撃的」な記事を削除しないことが認められるかのように自己正当化をはかっている。

攻撃的であることは、誹謗中傷には当たらない。むしろ、攻撃された側の方が精神的ダメージを受けて長年苦しまれた。この方への心からの謝罪があれば、この方に関する文は削除に応じてよいと思っている。」

ちなみに、村上がこの記事であえて牧師の名前を出していないのは、自分が訴えられることを回避するための狡猾な予防策だろう。だが、名が記されておらずとも、この件は、鳴尾教会側がブログ記事で反論している次の事件を指すことは明白だ。
 

アッセンブリー京都教会 村上密氏の「デマによるマインド・コントロール」に注意!(2)
2017年03月15日

「また村上密氏がデマ文章を書いた。(3月3日付け「遍歴」である)

 誹謗中傷も甚だしい。
 そして、書かれた本人が「削除」を要求すると、その日のうちに「記録」と題し「今回の記事が相当嫌なようだ」と “的外れ” な推論を書いている。

 私(山田博)の妻(晃美)は「統一教会」で洗礼を受けていない(献身していない)し、信者でもない。また、「小島武」氏にも、傾倒していたことは全くない。どこから聞きつけ「推測による断定と断罪」をして、デマ文章にしたのか知らないが、誹謗中傷であり非常に迷惑である。まして「統一教会」のことについて言えば、村上密氏が妻に向って「(統一教会には)入ったことにはならないですね。」と語ったことを忘れているとは、誠実さを欠いていると言わざるを得ない。(この発言に当然、証拠は無い。1995年の阪神大震災で、当時、神学生であった妻が、その救援にと関西に派遣されたときに、村上密氏に身の上を話した時の会話だからである。)
 そして、今回も「根拠無し」のデマ文章である。 また、妻からの電話を受けて「誹謗中傷とのことであるが、事実無根とは言っていない。」という。「誹謗中傷」から、何で「事実無根とは言っていない」という結論に至るのか? この言葉(文章)の中に、村上密氏の悪い癖である「推測による断定と断罪」が出ていると言ってよい。 そして、こういうところに「村上密氏の “デマによるマインド・コントロール” 」が隠されているのだと、「村上密ブログ」 並びに 「現代の風景 - 随想 吉祥寺の森から」の読者に注意を促したい。(後略)



このように、記事に書かれた当人が、はっきりと村上密による指摘は、事実無根であると主張しているにも関わらず、村上密は、その主張を認めず、連絡を受けたことを機に、かえって得意げに、牧師に対するさらなる非難記事を投稿した上、削除の依頼がなされたのが電話の会話であったのを良いことに、抗議を受けた内容まですり替え、事実無根とは言われた覚えがないなどとうそぶき、自分に都合よく会話を捏造しながら、自己正当化を続けたのである。

こうしたやり方は、杉本徳久とそっくりである。杉本も筆者からコメントの削除の依頼を受けたのを機に、筆者が書き送ったメールの内容を自分に都合よく捏造し、さらに、筆者が、誰とも分からないカルト被害者を「冒涜している」などという口実をもうけて、筆者に対するバッシング記事の掲載に及んだ。

こうして、名前も分からない「被害者」の存在を口実に、自分が政敵とみなした人物を長年に渡り、執拗にバッシングするやり口は、村上と杉本では非常に酷似しており、さらに、彼らが敵とみなした人物に対する攻撃的で挑発的な言動を繰り返し、それに抗議を受けて、接触を受ける度ごとに、事態をさらに悪化させる報復措置に及び、泥沼の紛争へと人を導き入れて来た様子も酷似している。

話を戻せば、村上が記事の削除を逃れようと作り出す詭弁は、まさにトートロジーとしか言えないもので、いわば、蛇の理屈である。村上は、誰か人物も分からない人間が、村上のもとに、鳴尾教会の牧師のことで「被害相談」に訪れ、加害行為が行われたかのように報告したことをきっかけに、村上が、その名前も分からない人物に代わって、「加害者」とされた人物に「謝罪」を求めたり、「攻撃的」な文面を書いて非難断罪しても赦され、事実でないことを書き記しても、それは何ら「名誉毀損」に該当しないかのようにうそぶく。
 
そんな理屈が成り立つはずもなく、問題は、村上の書いた記事が、事実に基づく内容であるかどうかであって、第三者の問題は関係ない。

しかし、村上は、この点についても、次のような屁理屈を並べる。

「もしも、名誉棄損であると訴えてきたら、何が名誉を棄損しているのかを私は知ることができる。さんざん、人を傷つけてきていながら、自分が「傷つけられている」と思うのは自分勝手である。私には裁判の勝ち負けはなんでもない。私は事実を書きたいだけである。事実を知った人が関係をどうするかを判断してほしいからである。時に、人は自らが作った虚像と付き合うことがある。」

本当に呆れるほどの屁理屈だ。そこからはまず、「名誉毀損だと言うなら、訴えてくればいいのだ」という思いが読み取れる。さらに、「自分が人を傷つけた人間には、訴える資格などない」という思いも透けて見える。

さらに、「たとえ私が負けたとしても、裁判の勝ち負けなど何でもない。判決で私の書いた内容が否定されても、私は事実を書いたものと確信している。なぜなら、たとえ嘘であっても、大勢の間に、まことしやかに事実として広まれば、結果的に、嘘も事実になるからだ。私の目的は、何が真実であるかを追求することにはなく、多くの人に、私の書いた内容が事実であると信じ込ませ、影響を与えることにこそある。時に、虚像であっても、多くの人が信じれば、本人以上のリアリティを持つことがある」という思いさえも読み取れる。

このような詭弁を弄する相手に向き合うことは、骨の折れることである。こういう人間は、「あなたの記事は名誉棄損に該当します。」と言われると、「いや、あなたこそ、先にAさんに名誉棄損に及ばれたのではないですか。」と主張をすり替え、「そちらの事件を反省してからものを言ったらどうです?」といった具合に、子供のような幼稚な水掛け論に終始することで、時間を稼ぎ、自分の攻撃的な言動を正当化して済ませようとする。

そうして、ごちゃまぜにできない別の問題を一緒くたに論じ、「被害者」の存在を錦の御旗に、自己の無責任な行動の責任を全てうやむやにして終わりにしようとするのである。

だが、かく言う村上自身が、「悪質」と題する2014年の記事で、「嘘の物語を作り、知らない人に、先入観を与えることは、信用棄損である。」と書いて、yahoo!知恵袋に投稿されていた内容が、自分への「信用棄損である」と主張していた。

村上はこの投稿を何とか削除させた模様だが、投稿内容は、「十字架の死と復活の原則―神の教会とクリスチャンを冒涜し、呪う偽預言者らを待ち受ける地獄の永遠の厳しい裁き―」に転載してある。非常に興味深い投稿内容であって、筆者には、これは信用棄損どころか、村上という人物の本質を突いた指摘だと未だに感じられてならない。

いずれにせよ、このように、村上自身が、嘘の物語を作って他人の信用を傷つけることは許されないとしているのだから、それでは、村上が他の牧師に関する「嘘の物語」を作って記事を書くことが、「信用棄損」に該当しないはずがないではないか? なぜその理屈が、他人には当てはまって、村上自身には適用されないのか。まさに村上のご都合主義的な使い分け、詭弁、二枚舌と言う他ない。

さらに、村上は「田中信夫 その光と闇」の中で、自分がブログで牧師を批判する理由を説明して、「私は解任できる立場ではない。解任できるのは教会である。だから、私にできること、ブログを書くことをしている。これまで多くの情報提供があった。教会もおそらく知っている。しかし、現状は何もできていない。さて、どんな問題でも、ブログでは事実だけを掲載する方法がある。あえて私は、事実だけではなく、直接書けない人々の悲しみを読者に知っていただくために、批判を加えている。などとしている。
 
この文章を通して分かるのは、村上自身が、自分のブログ記事は、決して「事実だけ」を書いたものではない、と認めていることだ。そこには、事実プラスアルファとして、「被害者の感情」に基づく村上流の「批判」が付加されている。
 
こうして村上自身が、彼の記事は、事実に基づくものではなく、事実に巧妙に被害者感情というパン種を混ぜ込んで、事実を膨らませた自己流の「批判」であり、さらには「攻撃的」な内容であることも認めているのだ。

つまり、村上は、自分の書いた記事は、村上が当事者でもない第三者に過ぎない人間の被害者意識に流されて、誇張・歪曲・拡大・飛躍した論理によって成り立つものであり、決して事実だけに依拠するものではないことを、自分で認めていることになる。

村上は、杉本と同じように、「被害者の思い」という大義名分がありさえすれば、どれほど事実から逸れて飛躍した「嘘の物語」をブログに書き記しても、その行為が正当化されるかのように思い込んでいるのである。

こうした村上のブログは、古代宗教のシャーマンのようなレベルで執筆されていると考えれば分かりやすい。つまり、宗教トラブル相談センターの一部として運営されている村上のブログは、「呪いの祈祷」を捧げるためのシャーマンの祈祷室のようなものである。

誰かがシャーマンである村上のもとに、「被害」を訴えて、次のように駆け込んで来る。

「先生、私はあの人にひどいことをされました。許せません。報復してもらいたいです。」
「よし、分かった。それはひどい事件だ。加害者はぜひとも社会的制裁を受けねばならない。」
「どうやって制裁を加えればいいでしょう?」
「まずは裁判を起こすことだ。警察に訴えてもいい。悪人らは弁護士や警察を恐れる。もしも裁判の起こし方が分からないなら、私が代理人となって、色々教えてあげてもいい。むろん、私の働きは、ボランティアなので、報酬をもらう必要はないが、ただ裁判となれば色々と・・・」
「ええ、その辺のことは十分に分かっておりますから、おっしゃらなくて結構です。私共としても、立派な先生にただ働きなどさせてはと思っておりますので、謝礼金で駄目ならば、教会への献金という形でお役に立てればと思っています。で、裁判の他に報復の方法がありますか?」
「私の書いているブログがある。これは当センターが行った調査結果に基づき、不正があったと判断されれば、加害者に精神的な罰を与えるために用いているものだ。あなたが自分で書いてもいいのだが、私が書いた方が社会的影響力が大きい。公の誰にでも見られる場所に、加害者の行った悪事について、その人を非難断罪する言葉を書き連ねておくのだ。どんなにひどいことをされたか。どんなに悲しく、つらい思いをしたか。人の心を揺さぶる話を書いておけば、悪評が立つ。そうすれば、加害者に社会的制裁を受けさせることになる。」
「でも、先生、裁判は合法的に決着が着くし、向こうにも反論の機会があるからいいとしても、ブログは個人的見解を一方的に書くだけだから、名誉毀損に問われたりしませんか。しかも、聖書には自分で報復してはいけませんと書いてありませんでしたっけ?」
「本当に名誉毀損と思うなら、向こうから訴えてくればいいだけだ。第一、そんな裁判を起こす人は少数だし、第二に、裁判が決着するころまでには、大きなダメージを与えることができる。悪評が広まれば、味方の数も減る。精神的にもダメージになるから、裁判など起こせなくなるかも知れない。」
「分かりました。じゃあ、この事件について、ぜひ加害者を先生のブログで断罪してもらいたいです。」

むろん、こうしたやり取りは架空の想定とはいえ、当たらずとも遠からずだろう。村上ブログが、シャーマンの祈祷室よりも悪いのは、シャーマンならば、密室で呪いの祈祷を捧げるから、どれほどひどい呪詛の言葉を用いても、その祈祷内容が外へ知れることはないであろうが、村上の書いているブログは、不特定多数の読者の閲覧可能な媒体のため、そこに村上が事実無根の「嘘の物語」を書けば、当然ながら、書かれた人物は、著しい信用毀損を受けることだ。

村上はそれをあえて分かった上で、あえて「社会的制裁」を加える意図で、推測に過ぎない事柄を「怒りをこめて」断定調で書いたり、法的な制裁が不可能な事件について、情報提供として記事を書いていることがあると、2013年の記事「村上密ブログ 」で認めている。

「私は、ブログを通して、宗教問題の情報提供をしている。情報は、キリスト教の異端、カルト、カルト化教会、牧師や教会の問題である。時時、記事には私自身と読者のために、聖書の教えを加えている。情報は、資料或いは証言に基づいて書いている。推測の場合は、だろう、思われる、考えられる、と書き添えるようにしている。この記事は断定調ではないか、と思われる記事は、怒りが込められている。できるだけ、冷静に、理性的に書くようにしている。被害者が多くて、問題が深刻でも、問題によっては詳しく書けない場合がある。また、法的な制裁ができにくい場合は、情報提供として、社会的制裁を加えることがある。このようなブログを読んで、他者への紹介もあるので、自然、いろいろな情報が集まることになる。私は私の責任において記事を提供している。必要ではあるが、このような情報をキリスト教系のメディアが提供するとは考えられない。方針が違うからである。私は出来事を伝えるだけでは無く、出来事の問題性を書いている。例えば、ムーブメントを紹介しているのではなく、ムーブメントに含まれる問題性を書いている。このような視点は、スポンサーを必要としない個人のブログだからこそできる。反発、批判は当然あるだろう。しかし、これこそ、神学や解釈学を学んだ者ができる情報提供である。
 
神学や解釈学を学んだと言いつつも、村上のブログにはほとんど聖書の御言葉が出て来ず、専門家と言えるだけの論理もないのは言うまでもないが、そのことよりも、村上が「法的な制裁」によっては裁きを求められない非常に判断の困難なケースについて、「社会的制裁」いや、より正確に言えば、「私的制裁」を加えるための「情報提供」をブログで行っているとしていることは非常に注目される。ここではっきりと、ブログで公表するのは、制裁を加えることが目的であると、本人が認めているのである。

実際に、過去に沖縄リバイバル教会を巡って起きた問題についても、村上は「裁判だけが戦いの場ではありません。インターネットでも沖縄リバイバル教会の事が書き立てられ、大きな痛手を受ける事になりました。」(2009年「沖縄リバイバル教会裁判のその後 」)とインターネット上の情報戦を展開したことを認めている。これは結果的に被害者側が敗訴に終わり、法的制裁を加えられなかったので、その代わりに、インターネットで制裁を加えることで、穴埋めをした、と強調したものと見られる。

このように、村上が自らのブログを、法的制裁の及ばない問題について、私的制裁を加える手段として利用していることは、村上密の宗教トラブル相談センターが、村上がかつて設立しようとしていた「カルト監視機構」の構想を受け継いだものであることをはっきりと表している。

筆者が「「カルト監視機構」という名の秘密警察の設立について」でも記した通り、当初、村上は「カルト監視機構」を次のような組織にしようと構想していた。

「村上密(アッセンブリー京都教会牧師)とウィリアム・ウッドは、『カルト監視機構』の設立に向けて、具体的に動き始めました。この機構の目的は、カルトと疑問視されている団体を調査し、適正な判定を下し、発表することです。」
 
カルト監視機構の機能の中には、調査、判定、発表の三つが含まれていたのである。筆者はこの記事を発表した当時から、一体、誰がどうやって団体のカルト度について適正な調査・判定・発表など行えるのかという疑問を投げかけ、カルト監視機構は設立されれば牧師たちの権力闘争に悪用され、恐るべき異端審問機関となって魔女狩り裁判を生み、カルト以上に暴走するだけだと警鐘を鳴らした。

村上はこのカルト監視機構の構想をそのまま宗教トラブル相談センターに置き換え、相談者から、「カルトと疑問視されている」団体の情報を聞き出し、自前の「調査・判定」を行った挙句、自らのブログで、その結果を「発表」することで、疑惑を受けた団体や信者に報復を加えているものと見られる。

そして、2009年から危惧していた通り、筆者もそれから今日までこのセンターの「魔女狩り」の対象とされているのである。

だが、もともと法の裁きが及ばないような複雑な問題に対して、キリスト教の牧師という以外には、何の公的資格も持たない個人に過ぎない村上密が、ただ被害者の言い分だけを一方的に鵜呑みにして、加害者とされる人間に制裁を加えるために、ブログに事件の情報を発表するなど、越権行為の極みとしか言いようがないが、それを置いても、まさしくそれは私的制裁でしかないわけで、そのようなことを続けていれば、伝聞や臆測だけに基づく証拠もない行き過ぎた感情的な報復措置(私刑)が行われるようになるのは仕方がない。
 
だが、村上は、そのような問題が起きた場合、行き過ぎた行動によって誰かに与えてしまった損害は、謝罪や記事の削除だけで済まされず、弁済が必要としている。2016年の記事「特集 赦しなさい 4」にはこうある。

精神的な被害であれ、物質的な被害であれ、被害を与えている場合、弁償を十分考慮すべきである。損害は、損害分で済まない。だから、損害額+αである。謝罪があり、弁償がある。そうしたら赦すか赦さないかは被害者の問題となる。このような経過を踏まれたら、今度は加害者の問題ではなく、被害者の問題となる。問題の公平な判断は、手続きが正しく踏まれているかであって、高飛車な「赦しなさい」で片付くものではない。」

つまり、与えた被害については、損害額プラスアルファのものを償わなくてはいけないのだと言う。それだけ償ってもまだ赦すも赦さないも被害者側の自由だという。

このような理屈に則れば、村上密は、鳴尾キリスト福音教会の牧師に対して、どれほどの償いをせねばならないことであろうか。また、筆者に対しても・・・。

もちろん、村上が直接的に行ったことでなくとも、村上は、杉本徳久が筆者に対して行ったことについて、杉本がきちんと判決に基づいて弁済を行うよう勧めるのが、当然の筋ではないか。

ところが、冒頭の記事に戻れば、村上は、自分たちは常に他人に向かって被害を強調し、弁済させる側に立っても、自分たちが加害者となり、弁済する側に立つ可能性を全く想定していないのだ。自分たちは常に正しく、裁きを行う側であり、しかも、法的根拠すら欠いていても、私的制裁を加えることができ、そこに暴走も行き過ぎも誤謬も生じず、自分たちの判断にはいかなる誤算も間違いが生じることもないという前提に立っている。

いや、仮に間違いがあっても、当ブログを巡る裁判でも村上らが主張したように、せいぜい記事の削除に応じてやれば良いだけであって、弁済などする必要は全くないかのように考えているのだ。恐ろしいほどのダブルスタンダードとしか言いようがない。

だからこそ、筆者は、神が贖われた信者から成る教会に君臨し、自ら裁き主になって、聖徒らを公に断罪するなど、まさに悪魔的な高慢に基づく活動に他ならず、そのような反聖書的な活動に手を染める者は、正常な精神ではいられず、また、その活動は暗闇の勢力の牙城として利用され、人権侵害の温床となるだけだから容認してはならないと、繰り返し、強調しているのであり、事実、その通りになっているのだと言えよう。

* * *

さて、筆者は、杉本や村上や唐沢から受けた「呪い」をすべて解除して打ち破るために、今回の訴訟に臨んだ。まだすべての訴えが提起されたわけでなく、判決も完全に実現されていないとはいえ、筆者は、まず最初に杉本の書いた記事を削除に追い込むことで、その精神的・霊的呪縛を打ち破ったと言える。

そして、今、杉本が、取立が「怖い」とか「病気になる」などと、幼稚な不満をメールに書き記していたところを見ると、筆者が跳ね返した「呪い」は、杉本自身に跳ね返りつつあるように見受けられてならない。

杉本は筆者に向かって「精神異常」とか「まともな職につけない」だとか「社会的受容を受けられない」だとか、司法や警察から見捨てられているかのような様々な言葉を並べていたが、それらの一つ一つが、今や杉本自身の身の上に成就しているのである。

霊的刈り取りである。

筆者は2010年からそうなることを告げて来た。筆者は杉本をラスコーリニコフになぞらえ、悔い改めるよう勧めたが、杉本は悔い改めを拒否し、すでに以上の予告が成就しつつある。それでも、今回、杉本が判決に従い、ブログ記事を速やかに削除し、賠償金を速やかに支払えば、筆者もそれ以上、杉本に対して何らの措置に出る必要もなく、杉本の職場にこの事件が知れるといった事態が持ち上がる恐れもなく、事件は終わっていたことであろう。

自分で自分の仕事が危うくなるよう仕向け、とことん制裁を受ける道を自ら選んでいるのは杉本自身なのだ。筆者は債務弁済契約書も送ったので、杉本は支払いを行う意思を示そうと思えばすぐに出来たのに、それもせず、彼は昨日もサッカーに興じる道を選んでいる。

このように、まともな選択肢がどんなに用意されても、常にそれを踏みにじって退けては、自分で破滅へ至る道を選んで来たのは、杉本自身なのであるが、筆者はこのような状況となっているのは、やはり、杉本は自分の述べた言葉の厳しい刈り取りをせざるを得ないためだと思わずにいられない。

筆者は、この事件が不起訴になって終わるとは考えていない。警察は、自分たちが関わるのは捜査だけなので、その後のことは分からないとしているが、村上が五次元スクールから訴えられて不起訴になった事件と、この事件では重さが違いすぎる。

杉本が悔い改めない限り、彼に処罰が下されることは避けられず、それによって、唐沢に祝福を受けた社会福祉士の資格もいずれ剥奪されて終わるだけであろうと、筆者は1年以上前から、警告して来た。社会福祉士の仕事とは、精神を病んだ者、追い詰められた状況にある者、病気のゆえに就労できない者たちなどに対して、社会的支援の手を差し伸べることにあり、杉本がしたように、彼らを人前で愚弄し、その生活状況を徹底的に嘲笑するような行為が、この国家資格にふさわしくないのは言うまでもない。

同様に、村上も、唐沢も、自分のしたことの報いを受けるだろうと筆者は予測している。

前回の記事で、筆者は、村上の記事「そっとしておこう 」を読み、村上はこの記事に限らず、常に自分だけは決して孤独になることはないという根思い込みに立って、にぎやかで日の当たる場所から、孤独な人、不遇の状況にある人たちを高みから見下ろし、彼らが気づかれたくないであろう弱点を心の中で握って、その弱みを幾度も思い返しては、自分の優位を確かめて悦に入るような内容を書いていると指摘した。

そして、そういうことを繰り返していれば、いずれ村上自身が、自分が他者に対してしたのと同じように、孤独と不遇に追いやられ、他者にその弱みを憐れまれる立場になると書いた。

村上が前掲記事の青年に対して取った態度は、村上が筆者に対して「交流の少ない所で生活」しているなどと決めつけて非難した態度と同じであり、また、村上が拉致・監禁という手法を用いて、カルト宗教から強制脱会させて、密室のアパートに閉じ込めて説得を行った無数の信者たちに対する態度と同じである。

つまり、村上は、自分は常に「世間」を代表する無数の人たちに囲まれて、圧倒的な数の力を味方につけて誇りながら、密室に隔離されるがごとくに、孤独な環境に追い込まれた不遇の人々に対峙し、彼らに上からのしかかるように優位を誇り、また、その傷口をいついつまでもほじくり返すような態度を取りながら、ブログ記事を書いているのである。

村上の活動は、うわべは、被害者のためにと言って、あたかも可哀想な境遇にある人たちを助け、憐れむように見えるものの、実際には、村上は、自分がブログで仮想敵とした人々であれ、被害者としている人々に対してであれ、誰に対しても同じように上から目線で高慢に接しているということなのである。

村上は、人の弱点に関する情報を集めては、ブログで繰り返し、繰り返し、人の弱いところを攻撃し、自己の優位を誇示しようとしている。法的根拠などあろうがなかろうが、自分たちが被害者意識を発揮できるチャンスを得たと思うと、怒りの感情に任せて、好きなだけ報復措置を加えることが許されるかのように思い込んでいる。決して人を赦す必要はないと説き、人々の報復感情を煽り立てている。

こうして、自分よりも弱い他人に向かって、弱みを突いて、上からのしかかるように非難の言葉を書き連ね、その上、被害者意識を刺激された支持者たちがそれに煽られて、集団で獲物に襲いかかるように、村上がターゲットとした人物に中傷をまき散らし、正義漢ぶって袋叩きにする。そのような仕打ちを受ければ、普通の人は耐えられず死へ追いやられるだろう。

だから、そのような仕打ちを他者に対して行った人間には、いつか必ず、その報いが跳ね返ることになると、筆者は書いたのである。

だが、筆者があえてこのように書かずとも、すでに村上の人生には「刈り取り」が起きている。村上の子供たちには次々と不幸な事件が起きているが、なぜそのようなことが起きたのか、立ち止まって、考えてみれば良いのだ。村上の義理の息子が自死したのはなぜなのか。

筆者は、村上の宗教トラブル相談センターを訪れていた際、両夫婦からの冷淡な言葉に、何か月間も打ちのめされていたことを思い出す。特に夫人は、心傷ついた人に対して、生傷にナイフを突き立てるように話し、当時、無防備であった筆者は、自分の心を守る術も知らず、大きな痛手を受けた。

だが、それでも、筆者は少しの間しかこの教会に滞在しなかったので、受けた損失は軽かったかも知れないが、こうした対応に日常的に接している人間は、自殺に至らない方がおかしいくらいだと筆者は感じている。

別の息子も、自立して教会を離れたはずなのに、大けがに見舞われ、後遺症を負って村上のもとに戻らざるを得なくなったというのはなぜなのか。

唯一、教会で奉職している伝道師の息子がいるが、京都教会はすでに信徒数の減少に見舞われて、存続の危機に立たされていると見られる。村上が、長年、自分を助け、教会を支え、後継者とみなされた長澤氏を追放することで、教会が自滅に至る道を自分で選んだためだ。

これも村上が鳴尾教会に裁判をしかけ、信徒数の減少を見て嘲笑ったことの報いである。裁判で敗訴しても、なお、村上はこの教会の消滅を願うがごとく、非難断罪の記事を発表し続け、牧師夫妻を中傷し続けた。そうした残酷な仕打ちがなければ、村上ももう少し合理的な判断が出来、自分の所属している教会の存続が危うくなるような事態は避けられたかも知れない。

つまり、冒頭に挙げた村上の記事は、何から何まで村上自身に当てはまるのだ。村上のそばにいる信者たちは、いつか村上のブログで「社会的制裁」として自分も名指しの非難を受け、言葉尻をとらえられて、刑事告訴されるかも知れないと怯え、村上を提訴しても、賠償金を踏み倒されるかも知れない、村上の支持者たちからネットで集団リンチを受け、家族にまで被害が及ぶかも知れない、と考えて、このように残酷な呪いと制裁を信者に向かって発し続ける牧師とは決して一緒にいられないと、逃げ出す準備を整えている最中ではないだろうかと思われる。

村上とその家族の身の上には、すでに各種の災いが成就している点でも、呪いが我が身に跳ね返っているのは、まさに村上自身である。自称預言者というのも、一牧師に過ぎないのに、職権を濫用して、諸教会と全宗教を取り締まることができる裁き主であるかのように振る舞い、牧師の職務にはもともと含まれていない仕事をしている村上自身のことである。村上のしていることは何らの法的根拠も持たない「私的制裁」に過ぎない。

こうした悪事には必ず厳しい報いが伴う。村上は筆者の指摘を「呪い」であると感じているのかも知れないが、筆者から見れば、これは当然のごとく導き出される未来予測でしかなく、ただ霊的「刈り取り」が起きていることを示すだけの事実である。
 
村上が仮にこの指摘を呪いであると解釈したとしても、それを解く鍵は一つしかない。十字架である。

キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された”霊”を信仰によって受けるためでした。」(ガラテヤ3:13-14)

呪いは、恐れないことによって解くことができるわけではない。また、恐れないことができるのは、神への全き愛の中にとどまるからこそである。神への全き愛がなければ、人には罪赦される根拠もないので、刑罰を免れる根拠がない。

私たちのために身代わりに呪いとなられて木にかかられた方、ただこの方しか、呪いを解除する方法はない。筆者が杉本の書いた数多くの記事でかけられた呪縛を打ち破ったのも、掲示板における嵐のような中傷の前に立ちおおせたのも、村上や唐沢による中傷に影響を受けずにいるのも、ただキリストの十字架だけが根拠である。

唐沢はおそらく、ニュッサ氏が贖いに立っていないため、唐沢の呪いに抵抗する術を持たないことを知っていたものと見られる。それを分かった上で、ニュッサ氏を悪者として断罪し、刑事告訴し、ニュッサ氏の精神を徹底的に追い詰める策を講じることによって、彼を「自己崩壊」へ導いたのであり、それを鬼の首でも取ったように成果として誇っている。もちろん、こうした残酷な仕打ちにも、厳しい刈り取りがあるだろう。

筆者は、これら3名に対し、彼らが筆者に対して発したすべての呪いの言葉を、そっくりそのまま彼らにお返しすると、ここで宣言しておく。

筆者から見れば、杉本も村上も唐沢も、キリストの十字架の贖いを退けているので、十字架によって呪いを解除することはできず、恐怖に対抗する術を持たない。だから、自分が他者に向かって吐いた呪詛の言葉が、刈り取りとなって自分に跳ね返って来るとき、防御の方法を持たないであろう。いつかそれらがすべて自分の身の上に成就して人生を終えるだけである。

いつまでも自分だけは、安全なところに立って、孤独とは無縁の生活を送り、弱い人たちの恥を暴き、彼らの精神をとことん追い詰め、死へ追いやるような残酷な仕打ちを加えることが許されるとは思わない方が良いであろう。いつまでも自分が神のような裁き主となって、神が贖われたクリスチャンに罪を着せて断罪することが可能だなどと思わない方が良い。

弱い者、心ひしがれている者、追い詰められている者、疲れ切っている者を、愚弄の対象として踏みにじり、自分が神でもないのに、神のごとく思い上がって、正しい者を罪に定め、悪者を弁護し、自ら裁きを曲げながら、裁き主のように振る舞う高慢な人間たちの末路は、聖書にちゃんと記されている通りである。

お前は自分の心が神の心のようだと思い込んでいる。

それゆえ、わたしはお前に対して諸国の中でも最も暴虐な外国人を立ち向かわせる。彼らはお前の知恵の誇りに向かって剣を抜き、お前の栄華を汚し、 お前を陰府に突き落とす。お前は海の真ん中で切り倒されて死ぬ。

お前は自分を殺す者の前でもなお、『わたしは神だ』と言い張るのか。お前は人であって、神ではなく、切り倒す者の手にある。

お前は割礼のない者として、外国人の手にかかって死ぬ。

彼女は心の中でこう言っているからである。

『わたしは、女王の座に着いており、
 やもめなどではない。
 決して悲しい目に遭いはしない。』

 それゆえ、一日のうちに、さまざまな災いが、
 死と悲しみと飢えとが彼女を襲う。
 また、彼女は火で焼かれる。
 彼女を裁く神は、
 力ある主だからである。」(黙示18:7-8)


「わたしは永遠に女王だ、とお前は言い
 何事も心に留めず、終わりの事を思わなかった。
 今、これを聞くがよい
 快楽に浸り、安んじて座る女よ。
 わたしだけ わたしのほかにはだれもいない、と言い
 わたしはやもめになることなく
 子を失うこともない、と心に言う者よ。

 その二つのことが
 一日のうちに、瞬く間にお前に起こり
 子を失いやもめとなる苦しみが
 すべてお前に臨む。どれほど呪文を唱え
 どれほど強いまじないをしても無駄だ。

  お前は平然と悪事をし
 「見ている者はない」と言っていた。
 お前の知恵と知識がお前を誤らせ
 お前は心に言っていた
 わたしだけ
 わたしのほかにはだれもいない、と。

 だが、災いがお前を襲うと
 それに対するまじないを知らず
 災難がふりかかっても、払いのけられない。
 思いもかけない時、突然、破滅がお前を襲う。

 まじないと呪文の数々をもって立ち向かえ。
 若い時から労して身につけたものが
 あるいは役に立ち
 それを追い払うことができるかもしれない。

 助言が多すぎて、お前は弱ってしまった。
 天にしるしを見る者、星によって占う者
 新月によってお前の運命を告げる者などを
 立ち向かわせ、お前を救わせてみよ。

 見よ、彼らはわらにすぎず、火が彼らを焼き尽くし
 炎の力から自分の命を救い出しえない。
 この火は体を温める炭火でも
 傍らに座るための火でもない。

 呪文を若い時から労して身につけ
 売り物としてきた者すら、この様だ。
 彼らはおのおの勝手に迷って行き
 お前を救う者はひとりもいない。 」(イザヤ47:7-15)

これは聖書に記されている動かせない霊的法則性である。高ぶって、自分を神のように思い、神に代わって裁き主となり、教会や聖徒らの恥を暴き、キリストが十字架において命を捨てて贖われた聖徒らを再び罪に定めようとする者には、悪魔と同じ裁きが下るのは当然である。

自分は決して孤独をも貧しさをも知ることはないと豪語していたバビロンが、夫と子供を一日で失って寡婦となり、恥辱のどん底に突き落とされ、焼き払われる。聖書の真理に逆らっては、誰も立ちおおせない。ただそのことが記されているに過ぎない

十字架の贖いを退けるならば、呪いは誰も解除できないのだ。

神は全ての物事を見ておられる、バビロンへの裁きの時は近づいている。弱い人を容赦なく踏みにじって死へ追いやろうとした人間たちは、自分たちが弱くなった時に、踏みにじられて終わる。

人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

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最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。

だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。

なお、その上に信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。

どのような時にも、”霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(エフェソ6:10-20)

* * *
   
最近、筆者の周りに少しずつ増えつつある信者以外の知り合いは、時折、筆者自身がはっとするほど鋭い助言をしてくれる。筆者はクリスチャンだが、筆者自身は、信仰を持つ人々よりも、信仰を持たない人たちの方に、バランスの取れたものの見方、的確な判断を見ることが多い。

むろん、神を信じて何一つ後悔することはないし、聖書の神が生きておられ、信じる者を教も守って下さることを疑わないが、それでも、筆者の出会った信者の中に、こうした助力や助言を適宜、行える人たちがほとんど見つからなかったという現状は、どういうことなのだろうかと思う。

筆者から見ると、ほとんどのクリスチャンたちは、現実で起きる様々な問題に対処する知恵と力があまりにも乏しい。そういった背景があればこそ、カルト被害者救済活動が登場して来て、諸教会に裁判などをしかけ始めると、多くの人たちがこの活動の前にひるんで沈黙してしまったのではないかと思う。

だが、クリスチャンがそのように世人に比べ、圧倒的に世の事柄に疎い状態ではいけないと筆者は思う。次のように言われている通りである。

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(マタイ10:16-20)
 
この「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」という命令が、反キリスト・偽預言者たちの策略に負けないように、という文脈で記されていることは興味深い。暗闇の勢力には蛇のような狡猾さがあるが、それに劣らぬ知恵が霊的戦いには必要となると言われているのである。

筆者が人生最初に経験した訴訟が、これほど難易度の高いものとなっていることも、見逃せない事実である。訴訟と債権回収は一つであって、債権回収が成立しないならば、訴訟を起こす意味がない。どんなに勝訴判決を得ても、それが机上の空論でしかないならば、すべては時間と労力の空費でしかない。

だから、「言葉」と「実行」を一つに結びつけることが必要なのであるが、その方法を、筆者は、とことん学ぶ機会を与えられていることも、神の恵みであろうと思う。すでに強制執行や間接強制の手続き方法はひと通り理解した。後は取立を成功させる秘訣を学ぶことである。

さて、昨日、筆者は杉本の件で警察に相談してみた。すると、杉本に会うことは、安全のために決して勧められないので、行かないでもらいたいと制止を受けた。むろん、それは予想の通りの助言であった。杉本の取り調べも近日中に予定されているのだから、警察に任せなさいということである。
 
随分、警察が心配してくれるようになったが、そのような円滑な関係が打ち立てられたのも、筆者の内心の変化と、一審判決が下されたことが大きいであろう。今回、非常に鋭い指摘を受けた。それは、筆者が杉本のメールに憤り、これに触発されて、杉本に直接交渉したりすれば、彼と同じレベルに堕ちる危険があるからやめた方が良い、というのである。相手の幼稚さ、俗悪さ、卑劣さに引きずられることなく、自分の人生をしっかりと大切にしなさい、というのであった。
 
考えてみれば、刑事事件に明白な進展が訪れたのは、杉本の書いた一連の記事が削除されてからのことである。やはり、事実無根の名誉毀損の記事であっても、霊的な領域においては、呪いの効果を持っている可能はあるだろう。それが削除されたことにより、警察との関わりも前とは違ったものになり、刑事事件もよりスムーズに進むようになったのである。

むろん、杉本が今回、筆者に送って来たメールのあまりにも利己的かつ幼稚で無責任な内容、サッカーチームの試合予定、さらに、以下の杉本による事件の閲覧記録と、村上密のブログにおける唐沢の記事の投稿などについても、すべて事情を伝えておいた。
 
二審が始まってみなければ、まだ確定的なことは言えないとはいえ、一審判決から現在に至るまで、相当に村上を不利に陥れる証拠が増えたことは確かである。

村上密のブログからは、以前はあれほど頻繁に見られた「完全勝訴」の響きが消えて、かえって、「変節」の記事に見られるように、筆者が村上に対して裁判を起こしたこと自体に、ぼやきに近い不満を示すかのような調子が見られるようになった。

「クリスチャンが裁判することに強く反対していた人が、裁判の原告になったのを聞くと、ご都合主義に思える。何人もこのような人を見たり聞いたりしてきた。」
 
本当にそうだろうか。何人も見て来たのか? しかも、これはどういう紛争の話なのか、全く説明がない。クリスチャンといえども、この世で起きた紛争に関して、原告となることが禁じられているわけではあるまい? 土地の境界線に関する隣人とのトラブル等から始まり、労働紛争、交通事故、その他、いかなる紛争も、クリスチャンは訴えを起こすことが禁じられているなどといった話ではないだろう? だが、あまりにも文章が短すぎるため、前後の文脈もなく、説明不足すぎて、読者に誤解を招きかねない表現だ。

さらに、言葉の使い方も間違っている。

「他人がしているときは、高邁な自説を主張し、わが身になると手の平を返す、これを国語辞書では変節という。変節の自己弁護を聞くことほど嫌なものはない。だれでも裁判権を持っているのだから、初めから裁判を否定しなければよい。しかし、裁判権を知っていながら、激しく裁判を否定していた人が、法的手段に血眼になっているを聞くと、いったいあれは何だったのかと問いたい。私はクリスチャンでも裁判を行使してよいと勧めてきた。コリントの第1の手紙(6:1~7)から裁判を否定するのは間違った解釈である。教会で扱うプロセスを飛び越えて、早々と世の裁判に訴えることをパウロは咎めているのである。裁判そのものを否定しているわけではない。   」

正しくは「これを国語辞典では「ご都合主義」と言う。」だろう。変節というのは、転向とも似ており、信念そのものが変わったことを指す。だが、他人の裁判だけを非難して、自分の裁判は正当化するという態度は、ただご都合主義的に意見をころころ変えているだけで、信念そのものの変節には当たらない可能性が高い。
 
そして、もしこの非難が筆者を指すものであるならば、筆者は裁判権を否定したことなど全くない。筆者は聖書に沿って、クリスチャンがクリスチャンに対して訴えを起こし、教会内の問題をこの世に持ち出すべきではないと述べているのだ。その点で、筆者は教会に対して争いを起こしたことは今に至るまで全くないので、信念が変わった点は何一つない。

だが、長年に渡る緻密な観察と分析により、村上密、杉本徳久、唐沢治の三人は、キリスト教徒ではないという判断が筆者の中では下っている。相手がクリスチャンではない場合、この世に訴えを持ち出しても、何ら問題とはならないのである。

このように、筆者の信念は何ら変化していないので、村上から非難される筋合いなど全くない。むしろ、村上こそ、カルト被害者が裁判を起こした際には、被告とされた牧師たちを強く非難し、信者に損害を与えた牧師は、賠償に応じるべきだなどと叫んでいたのだから、今回の一審判決で、杉本に下された賠償命令を、杉本がきちんと受け入れ、判決に従って支払いをするよう、牧師として促すべきではないか?
 
自分たちが人を訴える際にだけ、声高に賠償を要求しながら、自分たちが敗北して賠償せねばならない立場になれば、詭弁を弄して支払いから逃げようとする。このような行為こそ、御都合主義として非難されるにふさわしい。司法の悪用と言っても差し支えない。

さて、裁判所に確かめたところ、唐沢の陳述書を閲覧・謄写したのは、杉本徳久であることが分かった。むろん、それで入手の経路を100%断定はできないにせよ、村上が、この陳述書を杉本経由で入手した可能性が高まったことになる。

 

杉本が閲覧謄写している日が4月26日にであることを見ても、村上の投稿以前なので、辻褄は合う。陳述書本文は筆者が公表している。公表されていない書証の部分だけ、杉本が複写して、これを村上に提供し、村上がそれを読んで一連の記事の発表に至った可能性が濃厚である。

筆者は、村上が唐沢とメールで直接、やり取りをして、直接、唐沢から陳述書の掲載の許可を取った上で、掲載しているはずだと考えていた。当然ながら、牧師同士の配慮として、了承も得ていない当事者の文書を、無断で入手して公開するなどの可能性は全く考えもしなかった。
 
おそらく唐沢から村上に対して、これを公開して欲しいといった黙示・明示のリクエストがあって、初めて村上が公開に及んだのだということを疑わなかったのである。
 
だが、村上が唐沢本人から提供を受けていたのであれば、杉本が閲覧・複写する必要はないことであろう(なぜなら、以前から村上と杉本との間ではメール交換等も行なわれているためだ)。そして、唐沢は「没交渉」と言って、そのような事実を示唆しておらず、さらに村上は許可を得て掲載している旨も説明していない。
 
むろん、入手経路の釈明は二審で求めることとなろうが、村上が、筆者が当事者としてすでに公表している唐沢の陳述書について、入手の経路さえ明らかにせず、まるで自分が未発表の事実をつきとめ、これを発表することで、手柄を立てたとでも言うかのように、「唐沢治氏の陳述書」などとして記事を公表し、唐沢を弁護する目的で、筆者が強要罪を犯しているかのように示唆しながら、筆者を断罪したことを、読者は覚えておかれたい。

筆者は、村上のブログに働いているのは、常に自分が他者よりも優れていることを誇示して勝ち誇ろうとする自己顕示の霊、自己栄化の霊である(別の言い方をすれば「マウンティングの霊」)であると指摘して来た。

記事「そっとしておこう 」も同様である。村上が通りすがりに、失業して喫茶店で何度も時間を潰すしかない状況にある青年を頻繁に見かけたが、あえて声をかけないでやったという内容である。一見、思いやりに満ちた内容のように見えるかも知れないが、決してそうではない。

これは自分と比べて不遇の境遇にある人を、上から目線で哀れむ牧師の自慢話に過ぎない。本当に「そっとしておこう」と思うならば、どんなに人物が特定できない形でも、記事になど書くべきではないだろう。しかも、青年はすでに就職しているようであるから、今になって、本人さえも忘れているかも知れないその当時のことを思い出し、「俺はおまえの失業を知っているぞ」と今更のように強調する必要はない。

人の見られたくないところ、知られたくない姿を見た時には、それは見なかったことにして一切、心の中から消し去り、忘れることだ。たとえ忘れなくとも、決して人前でその秘密を明かしたりはしないことだ。それが他者への思いやりというものだ。

そうでなければ、村上が年老いて妻に先立たれ、会話する相手もいなくなり、日々、喫茶店で時間を潰すしかない老人になった時に、誰かがそのことを記事に書くかも知れない。

「友達と一緒に移動してるときに、よく通る道にある喫茶店で、ぽつんと座っている老人がいるのを何度か見かけたの。ねえ、あれ、村上先生じゃない?、寂しそうだから声をかけようかな?と思ったんだけれど、何だか声をかけづらくて、きっと先生ももうすぐ天国に行かれるでしょうから、地上で最後の休息を取ってるだけだろうし、邪魔しないでそっとしておいてあげようと思ったの。そしたらね、ほんとにそれから間もなく、召されたみたいだった。」

そんな風に言われたいのだろうか? だが、村上が、普通の人間の心さえ分からなくなっているのは、彼がまさに「マウンティング」を目的に記事を書いているからだ。自分が他者よりもいかに秀でており、優位にあって、他者の弱みを数多く握っているか、それを自分に言い聞かせることで、自己を慰めるために記事を書いているためである。
 
話を戻せば、この自己顕示の霊は、パクリの霊でもある。他人の手柄を自分のもののように横取りし、ライバルを駆逐して、自分だけが勝ち誇りたいという霊である。

村上は、筆者の手柄を横取りし、なおかつ、筆者を断罪して濡れ衣を着せ、ネットから葬り去る目的で、唐沢治の陳述書の公開に及んだ。

村上の最新の記事「牧師が解釈を独占 」でも、村上が鏡に映った自分に見惚れるように、検索を繰り返し、自分の記事がいかに上位にヒットしているかを確かめ、悦に入っている様子が分かる。

「今日「解釈を牧師が独占」と「牧師が解釈を独占」を検索したら、上位3件が同じく村上密ブログの記事だった。一部を抜粋してみた。このような表現はほかに検索の結果が出なかった。どうやら2014年6月9日の記事が、今まであまり表現されてこなかった言葉で、教会のカルト化に警鐘を鳴らし始めたことになる。」

まるで「鏡よ、鏡、世界で一番偉いカルト専門家はだあれ?」と尋ね、「それは俺様だろ!」と自問自答する姿を有様を見るように、村上のナルシシズムを強く感じさせる内容である。

こういう牧師は、もしも検索サイトという「鏡」が望ましくない答えを返し、村上以外の誰かが上位にランクしていることを告げて来たら、きっと、「そんなはずはない!俺の満足する答えを返せ!正しい答えが出るまでやり直すぞ!」と、鏡を打ち壊して、新しい鏡を必死で作るのだろう。

そうなるためになら、自分の支持者たちが、掲示板でライバルを集団リンチし、誹謗中傷をまき散らすことで、検索サイトに悪評を反映させ、順位を下落させ、駆逐して行くことをも黙認・容認するのであろう。

その上、それだけでは飽き足らず、とどめを刺すために、ライバルを刑事告訴したり、自分でも盛んに中傷を書きなぐるなどの入念さを見せるのであろう。実際、村上がしてきたのはその通りの行為である。

当ブログには、村上や杉本にとって不都合な記事を検索結果から駆逐しようと、毎日のように、大量の読者が押しかけて検索結果の操作が繰り返されている。従って、筆者は、検索結果など意図的な操作によりいかようにでも変わり得るものであること、それが事実を示しているわけでないことを疑わない。

村上は「牧師が解釈を独占」という独自の用語で検索した結果、そうした発想がまるで自分の考案したものであるかのように自慢げに主張しているが、筆者は、2009年来、同様の主張を当ブログで展開して来た。

当ブログでは、開設当初からどれほどの回数、牧師が信者の霊的生長の妨げとなっているかというテーマについて、触れて来たか分からない。ただし、牧師制度の悪について触れるに当たり、筆者は幾度も分析の方法や、用いる言葉や、注目する観点を変えて来た。当初は、牧師制度は個人崇拝の制度であるというところから始まり、グノーシス主義との関連性、ペンテコステ運動との関連性、牧師が「御言葉を取り継ぐ者」とみなされていることの反聖書性などに言及した。
 
しかし、言葉の違いはどうあれ、当ブログ始まって以来、決して途絶えたことのないメインテーマの一つが、牧師制度の悪を訴えることにあった。牧師制度こそ、すべてのカルト化現象の元凶なのであり、この制度ある限り、プロテスタントの腐敗はなくならないというのが、当ブログの変わらない主張である。
 
現在、筆者は次のように主張している。「信仰回復運動は、常に聖書そのものの一般への解放と密接な関係があった。プロテスタントの牧師制度は、牧師だけを御言葉を取り継ぐ者として、信者自身に聖書を解釈させないことにより、聖書を牧師の独占物として来た。新たな信仰回復運動は、牧師制度から聖書を解放し、聖書を万人に開放し、万民祭司の原則を打ち立てること以外にはない。」
 
* * *

さて、当ブログがどれほど早くから牧師制度と独占という言葉を結び付けて論じて来たか、いくつか過去記事を抜粋してみよう。最も古い時期のものは、手束正昭氏の著書『教会生活の勘所』が異端的教説に基づいていることを分析した以下の記事であろう。

教会成長論が生む牧師への個人崇拝」(2009年5月12日)

4)教会成長論が生み出す牧師への個人崇拝


 さて、『教会成長の勘所』に話を戻そう。第一部では、教会役員はいかにあるべきかが述べられているが、この部の最も核心的な話題は、実は、教会役員にあるのではなく、牧師への個人崇拝にあると見て良いと私は思う。だから、そこから話を始めよう。

人格的象徴としての牧師

 『祈りの精神』という日本でもよく読まれている書物を書いた英国の神学者フォーサイスは、その書物の中で『牧師とは礼典的存在である』と主張している。礼典的存在とは、私の言葉で言えば人格的象徴ということである。『象徴性を担った人間』ということになる。
つまり、その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在ということである。
神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。<略>
宗教的象徴ということについての理解の不足は、信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねないということは明らかである。」(p.21-22)

 この短い文章を読んだだけですぐに、ある人々は、この書物がキリスト者をいかに破滅的な異端に誘い込む危険な内容であるかを察するだろう。
 よく読んでみよう。牧師は「礼典的・象徴的存在」であると手束氏は言う。

 確かに、あらゆる団体のリーダーとなる人物には、群れの模範、代表、シンボルマークの役割を担う力が必要になる。リーダーには確かにグループのシンボルとしての役割がある。そのことには異論はない。しかし、手束氏の言う「礼典的・象徴的存在」の意味は決してその程度の軽いものでは終わっていない。

 氏は言う、礼典的・象徴的存在とは、「その人間を通して神の恵みと祝福、命と力が注がれてくる媒体としての存在」であると。つまり、牧師を通して、信徒は神の恵みと祝福、命と力を受け取るというのである。
 確かに、敬虔なクリスチャンは誰でも神の愛と恵みを隣人に届けるための通り良き管となれるだろう。そのことに私は反対しない。私たちがキリスト者として、愛に基づいて隣人を助ける時、私たちは神の祝福の通り良き管となっているのである。従って、もしも優れた牧師がいるならば、彼は神の恵みを多くの人々に届ける管になるだろう。

 しかしながら、氏はこれでも終わらない。そこからさらに進んでこう言う、「神の世界は四次元、人間の世界は三次元なので両者は直接的には交わり得ない。人格的象徴とは、この四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在と言ってもよい。」
 ここまで来れば、どんなに鈍感な人でも、この文章の危険性に気づくのではないだろうか。私たちはこれをきちんと字義通り解釈しなければならない。この文章は、三次元の世界に住んでいる信徒は、神のおられる四次元の世界には「直接的には交わり得ない」、従って、「四次元と三次元をつなぐ通路、管としての存在」、つまり、「人格的象徴」である牧師を通さねば、事実上、信徒は神と交わることができず、神の恵みを受け取ることもできないと言っているのである。
 牧師を通さねば、信徒は神との直接対話は不可能だと言うのがこの文章の意味である。そして、そのことの重要性を見落とし、「宗教的象徴」についての理解が不足すると「信仰そのものの貧困さをもたらすことになりかねない」と氏は言うのである。

 眩暈がするような文章ではないだろうか。善良なクリスチャンにこれ以上の説明は不要だろう。しかし、これだけではまだこの論理の異常性が分からないという人がいるかも知れないので、念のために、最後まで、分析を進めよう。[四次元問題については、末尾の注を参照。]

 上記のような「人格的象徴としての牧師説」は、事実上のイエス・キリストの否定である。

 聖書を見よう、イエスは言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)

 クリスチャンが真理に至るため、あがないを得るため、永遠の命を得るため、父なる神の御許に至るために、唯一与えられている通路は、イエス・キリストただ一人である。象徴的存在としての牧師ではない。いかなる人間も、神と人とをつなぐために、イエスの代理人となることはできない。

「このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」(使徒4:11-12)

 イエスは「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14:14)と言われた。そこで、クリスチャンは今日、「イエスの御名によって」祈るのである。
 旧約聖書時代には、預言者を通さなければ、民は神の御言葉に接することができなかった。だが、十字架によるあがないのおかげで、クリスチャンがイエスの名を通せば、直接、神を礼拝し、神に願い求めることが可能となった。これは聖書理解の基本中の基本である。だが、『教会成長の勘所』はそこからしてすでに真理から逸れている。牧師が事実上、イエスの役割を代行する者として名乗り出ているのである。そのことは、続く文章を読めば、さらによく分かるだろう。

「ところで、象徴というものにはそれに対する信頼と尊敬があってこそ、その機能を発揮できるという性質がある。たとえば、聖書は只の古典ではなく、象徴としての書物即ち神の言葉である。それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。
ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。あのナザレのイエスにおいてさえ、故郷の人々が尊敬と信頼を持たなかった時、奇跡を行うことができなかったのである」(p.22)

 この文章をよく読めば、著者手束氏が「象徴」という言葉をどのような意味で用いているかがよく分かるだろう。
 聖書は「象徴としての書物」であると氏は言う。つまり、神の御言葉が、見える形となって現われたものが聖書だという意味である。神の霊的な御言葉が、現実の地上世界の言語に表され、翻訳の不手際なども指摘されつつも、それでも可能な限り正確に文章化されて、見える形でクリスチャンの手元に届けられた。その見える形の聖書は、ただの物質ではないから、私たちはそれを小説や雑誌のようにではなく、神の言葉としての尊敬を払いつつ読まねばならないということが言われているのである。そのこと自体に異論はない。だが、それと同様に、牧師も「象徴」であるから尊敬を払われなければならないと氏は言うのである。

 不明なのは、牧師が一体、「何の象徴として」信徒から尊敬されなければならないのかという点である。教会の象徴としての牧師? 正しい教えの象徴としての牧師? この文章からはよく分からない。
 もう一度文章を読んでみよう。

「それゆえにこの書物に対して鄭重なる尊敬と神の言葉としての信頼をもって読むことによってのみ、私たちはそこから汲めども尽きぬ恵みと神の命に与かりえるのである。ましてや人格的象徴には、尊敬と信頼とが更に必要となる。」
 
 奇怪な文章である。信徒が聖書に尊敬を払うならば、「ましてや」人格的象徴である牧師には「更に」尊敬と信頼が必要だと言うのである。つまり、人格的象徴である牧師には、聖書に対する以上に、信徒からの尊敬と信頼がなければならない、と言うのである。牧師が事実上、聖書より高い位置に置かれていることが分かる。
 これはどういうことであろうか。ただの群れのリーダー、聖書を教える教師、教会の統率者が、聖書以上に尊敬と信頼を受けなければならない理由はない。従って、はっきりした説明はないものの、手束氏が「象徴的存在」である牧師が聖書以上に尊敬されてしかるべきだと述べているその根拠とは、「牧師とは御言葉の象徴であり、神ご自身の象徴である」と氏が考えているからだと受け取るのが、何よりも自然であろう。

 だが、さすがに「牧師は神と御言葉の生ける象徴である」とまで言い切ることはためらわれたのであろう。そこで、何の象徴であるのかを明確にしないまま、ただ「牧師は礼典的・象徴的存在である」という曖昧な説明でお茶を濁しているのだろうと想像される。
 結局、牧師は御言葉と神ご自身の人格的象徴であるから、聖書そのものにまして、信徒から尊敬と信頼を受けなければならないということが暗に言われているのである。

 ここで、イエスがユダヤ人に言われたことを私たちは思い出さなければならない、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。<略>わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の何よって来るならば、その人を受けいれるのであろう」(ヨハネ5:39-43)

 もしもこの地上の人間の中に、御言葉や、聖書の人格的象徴と言える存在があるとすれば、それはイエス・キリストお一人だけである。父なる神の名によって地上に遣わされたのはイエスだけであり、それ以外の人々は全て「彼自身の名によって来た」のである。だからこそ、聖書を敬いながら、イエスを信じようともしないユダヤ人に、キリストは上記のように言われたのである。聖書自体が、イエスについてあかしする書物であり、イエスの存在は御言葉そのものである。にも関わらず、どうして肉なる人に過ぎない牧師が、イエスに成り代わって自分が御言葉の象徴となり、聖書に対する尊敬以上の尊敬をクリスチャンに要求することができるのだろうか。

 手束氏の言う、「人格的象徴」なるものが、事実上、牧師がイエスに成り代わり、聖書以上の権威を身に帯びて、自分を通さねば神からの恵みを誰も受けることができないと主張し、自分に対する個人崇拝を信徒に要求するものであることは、明らかである。

* * *

また、同じ頃、書いた記事を土台に、後に内容を多少書き加えたものが以下の記事である。

牧師制度という個人崇拝の悪―偶像崇拝が大衆にもたらす偶像との一体化願望と失望」(2009年3月19日)

これまで、キリスト教界に問題が起きるのは、牧師制度が原因である、ということについて述べて来た。なぜ牧師制度はあるべきでないのか。聖書では、主イエスは次のように語られた。

「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。
あなたがたは、地上のだれかを、われらの父と呼んではいけません。あなたがたの父はただひとり、すなわち天にいます父だけだからです。
また、師と呼ばれてはいけません。あなたがたの師はただひとり、キリストだからです。」(マタイ23:8-10)

このように、聖書はキリストを信じる信者の間に序列があるべきでないこと、信者にとっての教師とは、見えないキリストただお一人だけであることをはっきりと示している。

それにも関わらず、主イエスの御言葉に反して、信者が信者の上に立ち、神と人との唯一の仲保者であるキリストを否定し、押しのけてまで、他の信者の教師、模範、指導者となり、他者を教えることを、制度化することによって固定化しているものが、牧師制度である。

このようにキリストの御言葉の根幹を否定して成り立っている牧師制度がある限り、キリスト教界には問題が起き続け、是正は不可能であろう。むろん、カトリックであれば、プロテスタント以上の厳格なヒエラルキーがあり、神の代理人としての法王が立てられているわけだから、プロテスタント以上に深刻な問題が存在することは言うまでもない。

<略>

ペンテコステ運動にも同じことが言える。
  
神と人との関係は、原則的に、一夫一婦制である。神は唯一であり、神と人との仲保者はイエス・キリスト以外にはいない。にも関わらず、その一夫一婦制の原則を破って、人間の指導者がキリストとエクレシアとの間に割って入って、エクレシアの心を盗もうとするならば、必ず、その指導者と、神への貞潔を捨てた信者たちに、ひどい末路が降りかからないわけにはいかないのだ。
 
つまり、カルト化現象は、何かしらの難解な教義的な逸脱の結果として起きることではなく、一部の教会や指導者が悪に傾いたために起きるものでもなく、信者が唯一のまことの神だけに従う信仰を捨てて、目に見える人間の指導者を含め、神でないものを神としたことによって起きる当然の結果でしかないのである。

だから、キリスト教にはカルト化という問題は存在しない。あるのはまことの神を神としないで、神でないものを神とする人間の罪と背教だけである。

* * *

また、2015年頃からは、筆者はグノーシス主義とからめて牧師制度の悪を論じることが多くなった。グノーシス主義は霊的階層制を取っており、必ず、真理の仲介者として目に見える指導者を必要とすることを明らかにし、プロテスタントの牧師制度は、聖書に合致するものではなく、むしろ、グノーシス主義的な背景を持つものであることを指摘した。

神の代理人を詐称する牧師制度と公務員を詐称する官僚制度の闇」(2015年6月21日)

さらに、グノーシス主義は人間を救済するために、こうして人間の仲介者(グルのような存在)を肯定するばかりでなく、聖書に反して、真理を教えるためには指導者に聞く必要があるとして、教える者と教えられる側の区別を作り、信徒の間にヒエラルキーを作り出します。

聖書はもともと「しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただひとりしかなく、あなたがたはみな兄弟だからです。」(マタイ23:8)

と、神のみ前に兄弟姉妹が平等であることを説き、教師や指導者を名乗る信徒が、他の兄弟姉妹の信徒を指導し、支配するという階層制を認めていません。

しかしながら、グノーシス主義は徹底したピラミッド構造を持っており、少数のエリートの指導者層による大多数の信徒への「教育」や「指導」(=「支配」)を肯定します。一握りの「悟りを開いた」エリート集団が、その他大多数の「愚かな」平信徒を指導するというピラミッド型の差別構造が、異端の教えには必ず伴います。ですから、グノーシス主義を取り込んでしまった宗教団体は、ネズミ講のような上意下達式の組織を持つことになり、それが支配と収奪のシステムとして機能し、指導者は偉くなって君臨する一方、末端の信徒は虐げられるということになります。

こうして、異端の教えは、巧みに神の名や、人の救いを口実として利用しながらも、神への服従ではなく、「神の代理人」や「みことばを取り継ぐ人」を名乗る人間の指導者の権威への服従を説くことにより、平信徒が少数のエリートに依存し、服従するようなシステムを作り出します。これに反すれば、指導者に逆らうことは神に逆らうことと同一視され、「地獄へ落ちる」、「悪魔に心を奪われた」、「悪霊に取りつかれた」などと批判して、追放します。

しかし、このように人間が人間の上に立ち、人間を支配するシステムは聖書の真理に全く反しており、そのようなシステムは奴隷化をもたらすだけで、決して本物の救いをもたらさず、人を解放することも、幸福にすることもありません。最も虐げられるのは、子供や、社会的弱者です。しかし、ヒエラルキーの中で上位を占める人々は優遇されている旨みのゆえに、その偽りに気づくことはないでしょう。

また、グノーシス主義には常に出来合いの宗教組織をのっとるという特徴があります。グノーシス主義そのものが「のっとり」(横領、盗み)の思想だと言って差し支えありません。グノーシス主義はもともと宗教ではなく、神話を持たない哲学的な思想体系なので、様々な既存の宗教に仮装して、宗教思想を装って組織の内側に入り込み、自分の寄生した宿主としての宗教を内側から破壊して行くことにより、転覆させる(組織ごとのっとる)働きをします。ですから、グノーシス主義はあらゆる革命思想、クーデタの思想の始まりだと言っても過言ではありません。

* * *

2016年中は、ペンテコステ運動とグノーシス主義と牧師制度の悪という問題を関連付けて論じることが多くなった。必ずしも、牧師という存在だけが、現人神となるのではない。牧師に率いられる集団ごと、そのような理念に陥ることがある。

相模原で起きた障害者の大量殺傷事件は、安倍政権の歪んだエリート主義が生んだ実である(2) 」(2016年7月29日)

KFCに関わる人々のすることは何もかもすべて、彼ら自身の見栄と自己顕示のためである。たとえKFCを陰では悪しざまに非難していたとしても、これと公に訣別宣言をしないならば、彼らの仲間同然なのである。

彼らの活動は全て、自分たちがいかに他者よりも優れており、特権を享受している幸福な人間であるかを誇示するために行われるものでしかない。すでに書いた通り、信者の結婚式さえも、その目的のために存分に利用されたのである。そして、その結果、起きたことは、とても痛ましい出来事であった。

聖書は、もし宴席に誰かを招いてもてなすならば、立派な金持ちではなく、貧しい者たちのように、返礼できない相手を招きなさいと教えている。そうすれば、主がその隠れた親切に報いて下さるというのである。本当の親切とは、見返りを求めず、隠れたところで行われるものである。だが、KFCは常に、自分たちの恵みを、自分たちの仲間内の狭い集団の中だけで誇示することで、すべての栄誉を自分たちだけで独占してしまい、他の人々に分かち与えることをしなかった。その独占を、自己の優位性とみなしたのである。

そのような彼らの態度は、常に閉ざされていて、内向きで、何もかもが、自分たちのためであり、そのような態度が、主の御前に喜ばれることは決してあり得ないと筆者は今でも確信している。彼らは地上にいる間にすべての報いと栄誉を受けてしまったのである。

Dr.LukeとKFCは、カルト被害者救済活動の指導者である村上密氏とほぼ同様に、決して自己の本当の弱さや醜さや限界と向き合わなくても済むように、自分がいつでもヒーローとなって人前に脚光を浴びていられるような、偽りの「マトリックス」の世界を作り出し、それを信仰生活とはき違え、その幻想の中で、ついに自分たちは「神である」と宣言するところまで行き着いた。

* * *

イゼベルの霊がもたらす男女の秩序転覆――男性化した女性たちと、非男性化された男性たち」(2016年11月29日)

ペンテコステ運動に関わる男性たちが、このように大胆不敵な女性たちに屈従するのは、彼らの内面が空虚で、劣等感に苛まれ、自己が傷ついているためであって、彼らには真のリーダーシップを取れるだけの自信と力がないのである。こうした男性たちには、支持者に誉めそやされ、他者を押しのけて優越感に浸る以外には、自信の源となるものがない。そして、他者から何かを盗むことだけを生き甲斐としている。

筆者は、ペンテコステ運動(だけに限らないが)の信者たちが、勝手に人のメールを転送したり、他人のブログ記事を自分が思いついたもののようにメッセージで利用したり、聖書や先人たちの著書を無断印刷して大量に配布したり、これを自分の作品のように自分のブログで著作権表示もなしに縦横無尽に引用したり、改造する場面を幾度となく見て来た。その結果、こうした剽窃は、盗みなのだという結論に筆者は至っている。

彼らは、自分に近づいて来る信者から栄光を盗むだけでなく、手柄を盗み、思想を盗み、夢を盗む。特に、人の望みを奪って、他者を失望させ、隅に追いやっておきながら、自分だけが脚光を浴びて、すべての栄光を独占することで、気に入らない他者に対する圧倒的な優位性を誇示することが、彼らの最大の生き甲斐であり、よすがである。

この人々は内心が空虚なので、人から盗む以外には、自己の自信と力の源となるものが存在しない。彼らが力強く、大胆に、目を輝かせて、立派そうな態度を取り、雄弁なメッセージを語るのは、イエスマンの支持者に囲まれて誉めそやされ、持ち上げられている時か、教師然と人を上から教えている時か、他者を批判して引きずりおろしている時か、自分よりも弱そうな誰かに支援者のように寄り添い、人の弱みを巧みに聞き出しては内心で自分の優位性を確認して満足している時か、あるいは、自分の偉大な超自然的な力を誇っているような時だけである。

彼らは、人に正体を見破られ、おべっかを受けられなくなり、捧げてもらうものもなくなり、盗むものがなくなり、自己の優越性が失われると、完全に心弱くなって力を失ってしまう。彼らは自分が栄光を受けることのできる舞台には、好んで出かけて行くが、いざ自分が不利な立場に置かれ、人に非難されたりすると、途端に臆病になり、まともな反論一つもできずに、仲間を見捨ててさっさと逃亡し、自己弁護や反論の仕事を支持者たちに任せきりにしながら、自分は影に隠れて陰湿な復讐計画にいそしむことも珍しくない。

多くの場合、ペンテコステ運動のリーダーたちは、あまりにも自尊心が傷つきやすく、臆病で、ナイーブなので、普通の人々であれば、公然と反論できるような些細な疑問や批判にさえ、まともに立ち向かう力がない。それはただ自尊心が傷つきやすすぎるためではなく、内心では、自分が詐欺師だという自覚があるので、反論できないということもあるだろう。

こんなリーダーだから、男性であっても、自分や、配下にある人間を、各種の脅威から力強く守ることもできず、仲間が傷つけられても、我が身可愛さに、自分だけ難を逃れることを最優先して逃亡することしかできない。要するに、彼らは聖書のたとえにある通り、群れを守らない雇われ羊飼いなのであり、羊を食い物にして栄光を受けることだけが目的で、敵の襲来を受ければ、真っ先に羊を見捨てて逃亡するような、勇気と潔さのかけらもない、男らしさを失った、見栄と自己保身だけが全ての、卑怯で臆病な牧者なのである。

* * *

牧師や教職者を特権階級とする制度は教会を絶対的に腐敗させる~バアルにひざをかがめない七千人の登場を待つ~」(2018年4月1日)

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り次ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。

* * *

さらに最近になると、筆者ははっきりと村上密、唐沢治、杉本徳久の名を挙げながら、反カルト運動は、一見、牧師制度の暴走を許さないための歯止めとして登場して来たように見えるが、根本的には、カルトと同じかそれ以上に、牧師制度の悪を集積して生まれて来た最も危険な運動であると指摘するようになった。

村上密と「随想 吉祥寺の森から」の杉本徳久に見るグノーシス主義者の空虚な自己の本質
(2018年3月30日)

だが、そうした腐敗は、すべてもとを辿れば、グノーシス主義が生む現人神崇拝としての牧師制度へと行き着く。まずは牧師制度が、キリスト教を人間が栄光を受けるための手段に変え、被造物中心の教えに変えてしまうのである。神を信じることにより、堕落した人間に過ぎない牧師が、あたかも神の代理人のように高められ、しかも、他の信徒にまさって、「神の御言葉を取り継ぐ」資格を得たかのように振る舞い、神と人との唯一の仲保者であるキリストになり代わって信徒の心を支配し、金銭的にも肉体的にも、搾取し、自ら栄光を受けるのである。

このような牧師制度は、教会内に偽りのヒエラルキーを作り出し、教会を人間の欲望を叶える手段とし、奴隷としてしまうだけである。

<略>

主イエスは言われた、「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたがたの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われる。」(ルカ16:15)

なぜ人に尊ばれるものが、神に忌み嫌われるのか。それは、人が尊ぶものは、自分の欲望を都合よくかなえてくれそうなものばかりだからである。この世において、人が尊ぶものはすべて人々の欲望の化身なのであって、人はそれを尊ぶことによって、結局、自分自身の欲望を重んじているのである。

今日の教会においても、信徒らは、牧師という目に見える「象徴」の中に、自分の一切の願望を投影する。神の御心にかない、人々の救いのために自分の命を惜しまず注ぎだす、御言葉に忠実で従順かつ理想的な神の僕の姿を見ようとする。

しかし、神の御心にかなう従順で忠実な僕は、キリストお一人しかいないのであるから、目に見える人間の中に、神の忠実な僕を見たいとする信徒らの欲望は、裏切られて終わるだけである。

あれやこれやの牧師が特別な例外として誤りに陥るのではない。牧師制度そのものが、神と人との唯一の仲保者であるキリストの地位を奪い、キリストになり代わろうとするフィクションの制度であって、牧師という職は、それ自体が、人々の心の欲望から作り出された偶像、神話なのである。
 
そこで、信徒が、牧師という目に見える存在に、美化された人間の幻想を重ね合わせ、それを自らの欲望の化身として拝むことをやめなければ、信徒らがこの「フィクション」である牧師を手本に、福音を自分を飾る手段として利用して、幻想の自分を作り出しては、それに耽溺し、虚構の「聖化」や「栄化」の概念に溺れて行くことも終わらないであろう。


* * *

近年になると、筆者は、牧師制度の悪を、グノーシス主義的背景だけから論じるのではなく、信仰回復運動の観点から論じることが多くなった。すなわち、プロテスタントは、カトリックの統一的なヒエラルキーから信者を解放し、聖書を一般に解放したという点では、功績を果たしたが、牧師制度を取ったことにより、その改革が中途半端に終わり、今やプロテスタント自体が新たな信仰回復運動としての聖書の一般へのさらなる解放を妨げる障壁になっていると指摘したのである。

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ。」(2019年3月5日)

さらに、プロテスタントには、もう一つの決定的と言える弱点があった。それは、この宗派においても、カトリックほどに厳格な聖職者階級というものはなかったにせよ、まだ、聖書は完全に一般に解放されたとは言えず、依然として、牧師だけが「御言葉を取り次ぐ者」であって、信徒は、牧師の説教を受け身に聞いて、牧師に教えを乞い、教会に献金を納め、牧師一家を支える奉仕者として、牧師よりも実質的に下の階級(被抑圧階級)に置かれ、聖書の御言葉の積極的な理解から排除されていたことである。

 プロテスタントにおける牧師階級は、前述した通り、その発生当初は、人間が自ら聖書の御言葉を解釈して、大胆に証を述べるという意味で、画期的な役割を担い、また、大衆伝道を通して御言葉を全世界に宣べ伝える点で、大きな貢献を果たしたと言えるかも知れないが、その後、福音が全世界に普及し、宣教師たちが命がけで未開・未踏の地に福音を届けるというミッションがほぼ終了して消え去った後では、ただ信徒を搾取し、信徒を聖書の理解から排除し、いつまでも信徒を霊的赤子状態にとどめるという点で、信仰の前進の著しい妨げとなったのである。

 牧師だけが聖書を知的・霊的に理解・咀嚼して、信徒に説教を語り、信徒は牧師から「霊的な乳」を飲ませてもらわなければ、信仰に生きることができない「赤子」にとどめられるというプロテスタントの礼拝スタイルは、今やそのものが、キリスト教の前進の著しい妨げとなって、排除を迫られているというのが現状である。

 いわば、プロテスタントからの新たな宗教改革が必要とされているのが、現代という時代なのである。その改革の核心として、牧師階級から聖書をさらに一般に向けて解放することが、早急な課題として求められていると言えよう。

* * *

<続く>



「こうして、いろいろの働きをする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威に知らされるようになったのですが、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです。

わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。」(エフェソ3:10-13)
 
掲示板も時には正しい忠告を行うことがある。自己愛しか語れない連中の虚しい議論の合間に、村上密がどのようにして唐沢治の陳述書を手に入れたのかを調べるためには、裁判所に問い合わせるのが一番だという旨の助言があった。

いみじくも、筆者は杉本への措置のために、保全係と連絡を取っていたので、久方ぶりにこの件について問い合わせた。すると、当事者には、記録を閲覧した人間を特定できる事が分かった。

つまり、閲覧記録を照会しさえすれば、村上密が、唐沢治の陳述書を裁判所経由で手に入れたのか、それとも、唐沢本人から入手したのかは、はっきりするということである。

筆者の見解としては、村上と唐沢との間にメール文通があれば、それは二審で、村上がこの陳述書の中身を本物だと信じた理由として提出されるだろうと思う。

神は不思議な方で、隠れたところで行われている事柄を、明るみに出される。ある意味、事件の解決に時間がかかるのは、そのためなのである。私たちが思っているよりも、さらに悪は深く、さらに思いもかけないほど、人間の堕落は深い。

私たちの予想を超えて、これらの牧師たちが深いレベルで霊的堕落に陥っていることを示すものとして、おそらく、二審では、これまでとは違った種類の証拠が出て来るのではないかと見られてならない。

一審では、杉本も村上もしばらくの間、「否認する」と「不知」しか書かれていない答弁書を出して、沈黙を守っていた。村上は、一審の間中、沈黙を守ったと言えよう。そして、判決が下されてから、初めて口を封じられた杉本徳久と交替するように、己が内心を吐露し、筆者に対する公然たる権利侵害の記事を書き始めたのである。

だが、二審では、杉本と村上の役割が逆転し、杉本が沈黙し、村上が発言することになる。その時、村上の内側から何が出て来るのか、筆者は非常に興味深く思っている。

ちなみに、筆者には村上のブログそのものが非常に気持ちが悪い。最近は、筆者がひとこと欄で述べたことや、「牧師が御言葉の解釈を独占したがゆえにカルト化が起きた」などとする論を、村上がまるで自説のごとく振りかざし、筆者の論を次々借用している様子が理解できる。

唐沢もそうであった。唐沢は、信徒らが執筆しているブログから勝手にテーマを盗んで行っては、メッセージで我が物のように勝手に利用することを繰り返していた。クジャクの羽をつけたカラスであって、すべてが借り物なのである。

村上密の記事「選択」にはこうある。

「裁きが、遠い外国に対してであるときは、人々は喝さいしたはずである。しかし、段々自分たちに近づいていることに気付かない。とうとうその裁きが自分たちに向けられた時、誰が喝さいをあげるだろうか。それは嘆きと悲しみの時の到来である。私は喜んで宗教問題に通り組んでいるわけではない。嘆き、悲しみ、被害者の回復のために取り組んでいる。しかし、被害者が回復していくときは喜ぶ。だから、嘆きと悲しみを共有し、やがて来る喜びも共有しようと全国を飛び回っている。」

聖書は、裁きは神の家から始まる、と言う。村上は、裁きが自分の足もとまで迫っているのに、未だそれを他人事のように書く。自分だけは裁く側であって、裁かれる側には回らないという思い上がりが透けて見える。

だが、二審では、村上自身に裁きが下されることになる。  

そして、今、裁きから逃げ回っている杉本にも、逃げられない時がすぐに来る。

二人は、裁きを受け止める勇気も覚悟もない人間である。自分たちは神のように人を裁くことができるという思い上がりに陥っているだけである。その点は唐沢も同じだ。

この三人は、自分たちはニッポンキリスト教界の監督者であって、自分には諸教会を裁く資格があるという途轍もない思い上がりに陥り、己が罪を神の御前に悔い改めるチャンスを失っている。

人生の終わりには、ゲヘナに投げ込まれて終わるだけの偽預言者である。
 
ちなみに、カルト被害者は10年以上前から、村上の薄情さ、冷淡さ、痛み苦しみへの共感のなさを訴えて来た。聖神中央の被害者は、あっという間に村上から逃げていなくなった。

村上が、以上の記事に書いているように心優しい人間であったなら、そもそも身内が自殺に至ることは絶対になかったはずである。もちろん、長年、自分の下で仕えて来た長澤牧師を、主任牧師として育ててやれないなどのことが起きるはずがない。

いつまでも自分が栄光を独占しようとするため、身内以外に誰も後継者が育っていない、これは独裁者の特徴である。
 
偽預言者には悪い実しかならない。うわべの自画自賛の言葉に騙されることなく、実態をよく見極められたい。
 
* * *

さて、杉本徳久が賠償金を払いたくない、筆者の取立は迷惑行為だ、自分は取立の「恐怖」によって体調を崩している、などとするメールを本日、送りつけて来た。

ゴールデンウイーク前から連絡しているにも関わらず、いよいよ勤務先に手が回ると分かって大慌てだ。
 
だが、筆者は、杉本がこうして支払いの時期を引き延ばしていることに、心の底から嫌悪を侮蔑を思えるが、それにも、神の計画があると見ている。なぜなら、その間に、商工会議所、同窓会(東京銀杏会)、ヤギの会などにも連絡を取ることになり、その過程で、杉本がありもしない経歴を詐称している事実が分かったからである。

もしも杉本が速やかに誠意をもって判決に応じていた場合、筆者には、彼の虚偽の深さが見えなかったであろうし、関係者に、事実が知れることもなかったであろうと思う。杉本がここまで卑劣な人間であることが、彼に近しい社会に伝わる結果にはならなかったであろう。
 
村上密についても同様なのである。もしも一審判決が下されてから、判決確定までの間、村上が沈黙を守っていたならば、筆者はおそらく、この一審判決で満足して立ち止まっていたに違いない。筆者もまた、村上に疑問を感じつつも、その内面の悪の深さを見抜けないまま、そこで争いが打ちきりになっていた可能性があるのだ。

だが、神はあえてこの事件を引き延ばされた。それはやはり、人の隠れた内面が極みまで明らかにされるためではないかと思う。
 
従って、物事がこじれているように見えるところにも、神の深い采配は働いている。そして、杉本が支払いを遅らせれば遅らせるほど、事実はより多くの人々に知れて、彼はますます窮地に陥り、社会で居場所を失って行くことになる。

また、以下にも書いたが、筆者の策はいつも一つではない。神はこの世で知恵あると己惚れている者を、高みから見て嘲られ、この世では無知と思われている者、無力と侮られている者を大胆に用いられて、御業を示される。神は教会を通じて、この世の諸々の支配と権威に、ご自分の多種多様な知恵を示されるのだ。

だから、神の教会の知恵は尽きることなく、この世のすべての人々の知恵を上回っている。私たちキリスト者は、敵の策略を足の下に踏みしだき、彼らのしかけた罠を高く飛び超えて行くだろう・・・。
 
* * *
  
さて、杉本は控訴していない。判決に不服を示していないのだ。にも関わらず、筆者の控訴を理由に、賠償金を支払わないとする彼の屁理屈には、呆れるのみである。

今回の判決には、仮執行がついている。仮執行は、賠償金の部分と、ブログ削除の部分にかかっている。

従って、杉本が未だコメントを削除していないことや、賠償金を支払わないことに対しては、筆者は強制執行、間接強制をかけて、取立を行う権利を有する。それが認められていればこそ、すでに債権差押命令が出ている。

一つの差押が空振りに終わりそうでも、取立業者に委託すれば、勤務先を調べてもらえる。その上で、勤務先に相談し、給与の差押などの措置に及ぶことは可能だ。

しかし、何よりも、こうした情報が勤務先に知れた時点で、平和裏に勤務を続けて行くことは難しくなるものと想像される。

そのことは、学術研究者から成るヤギの会の事務局員も、筆者がただ電話でこの訴訟の話を伝えただけで、決してこちらの言い分を一切疑うことなく、再三、杉本の行為を筆者に詫びていた様子からも分かる。

これが、普通の良識ある社会人のまっとうな反応なのである。それにも関わらず、杉本は、筆者がヤギの会に連絡を取った行為さえ、迷惑行為であるかのように非難している。

杉本はHCCの榊山牧師に勝訴した時、訴訟費用を早く払えと言って、HCCを非難していた。坂井能大を訴訟で破ったときには、即日で、裁判所で坂井に解決金を支払わせている。

それにも関わらず、自分だけは判決に従いたくないと駄々をこねる。どこまで我が身可愛さのゆえに、法に逆らい、世間の常識に逆らい、人に迷惑をかけ続けて、自分だけを愛し続け、わがままを通すつもりか。

杉本のキリスト教徒への非難には何の根拠もなかった。自分が裁判でキリスト教徒に打撃を与え、彼らからただ巻き上げることだけが、彼の目的だったのは明白である。本当に反吐が出るほどの嫌悪を催す、としか言いようがない。

もちろん、このような人間がキリスト教徒のはずがないし、悔い改めの余地があるとも全く思えない。このような男が、信者を名乗るだけ我々には大きな迷惑である。

筆者はメールに次のように書いた(多少文言を変えた部分がある)。
  
  

 ただちに託金にて賠償金を支払いなさい。

杉本徳久様

ゴールデンウイーク前からお支払いを要求しておりました。一体、いつお返事がいただけるのかと思っていましたが、あまりに無責任な対応を非常に残念に思っています。

さて、杉本さんが、賠償金の支払いおよびブログ削除の実行をこれ以上遅らせたいと願っておられることは、一切認められません。

一審判判決にはご存じの通り、主文の6に「この判決は、第2項及び第3項に限り、仮に執行することができる。」とございますので、控訴の有無に関わらず、私には判決の第2項、第3項をあなたに対してただちに実行に移す権利がございます。

第2項は賠償金の支払い、第3項は20本以上のブログ記事の削除を命じる判決です。仮執行の宣言がなされている以上、控訴審の判決を待たずとも、ただちに一審判決を実行可能なのです。

しかも、杉本さんは控訴なさっておられませんので、一審判決に同意という立場を公にされたことになります。ですから、今の杉本さんは、一審判決に不服も申立てていないわけですから、それにも関わらず、判決に従わない理由は、何一つございません。

しかしながら、杉本さんは賠償金の支払いは言うに及ばず、第3項さえ現時点できちんと履行なさっておられず、5月13日まで数多くの記事を削除されませんでしたし、未だにコメント番号17も内容を書き換えただけで、削除しておられません。

これは杉本さんが判決を実行しなければならない立場にあるにも関わらず、それを正当な理由なく無視し、一方的に履行を怠っていることを意味しますので、私はこれに対して、強制的に判決を実行に移すための措置を取る正当な法的権利を有しています。

実際に、私にその権利があるからこそ、立川支部が、債権差押命令をあなたに送ったのです。

しかも、私一人では限界があると判断すれば、第三者などの回収業者に委託することも可能です。

私はこれまで杉本さんが電話やメールにきちんと出られず、正当な理由なく、賠償金の支払いをいたずらに遅延させて来たため、やむなく杉本さんの知人やご家族や大学関係者や勤務先に、杉本さんが判決に従うよう、杉本さんに連絡を取ることが目的で、問い合わせを行わざるを得なくなっています。

そのために膨大な時間を費やさせられています。あなたご本人がきちんと連絡に応じないのですから、あなたの知人にそうした問い合わせを行うことには、やむを得ない正当な理由があります。

あなたは実名でブログを執筆されて来た方であり、今回、誰でも不特定多数の人々が閲覧できるインターネット上で私の名誉を公然と毀損されたわけですから、あなたに関して、一審判決の中では、何一つ秘密に当たる情報もなく、そこで、私が判決内容をあなたの知人やその他の人々に口外したところで、何ら、あなたに対する権利侵害にも、迷惑行為にも当たりません。

そのようなわけで、あなたが判決にきちんと従うまで、私が以上の措置を取ることには、「正当な理由」がございますし、続行せざるを得ませんので、ご了承下さい。

このような事情ですから、あなたには、私の法的に認められた正当な取立を「迷惑行為」などと呼ぶ権利はなく、そもそもあなたは私からの電話に、最初の1本を除き、全く出ておられませんし(その他の電話は一切通じていないので、通話記録もない)、このメール一本以外、一通のお返事もしておられませんので、それにも関わらず、迷惑行為が成立する理由もありません。

むしろ、私の名誉を毀損され、民事訴訟でも判決に従わず、迷惑行為を繰り返しておられるのは杉本さんだと思います。

さらに、あなたは私の記事や取り立てが原因で、体調不良に陥ったかのような、小学生のような文句を書き連ねていますが、あなたが運営しておられるFC弥生というサッカーチームの掲示板には、

https://fcyayoi.hatenablog.com/

2019   

   5/18   Sat 新横浜駅前 新横浜 球技場グランド 天然芝  2:00 - 4:00

     vs   浜のオヤジUnited

 杉本 水野

と記されており、休日には趣味のサッカーに興じて元気に走り回っておられるご様子ではありませんか。体調不良の影すらも見受けられない現状に驚かされます。

ヤギの会の事務局は、私の置かれている状況を理解して下さり、あなたの行為が、会の信用を損ねるものなので、あなたにしかるべき対応を求めると回答し、私にも詫びてくれました。

それにも関わらず、今回、ヤギの会からの連絡を受けたにも関わらず、あなたが今になってもまだ賠償金を支払いたくないと子供のように駄々をこね、「怖い」とか「体調不良になりそう」などと、自分が被害を受けているかのように訴えるメールを私に送って来られたことは、まさにあなたが市井の良識ある一人前の社会人として、自らが負うべき法的責任を一切、負えないわがままかつ幼稚な人間であることを示す驚くべき事実ですから、その旨も、合わせてヤギの会の事務局に、お伝えしておこうと思います。

多分、そのようなあなたの態度を見れば、これまで、あなたを信用して来た人たちも、あなたという人について考えを翻し、もはやあなたを信用し続けることはできなくなるのではないかと想像します。

特に、杉本さんはかつてHCCと裁判をし、HCCから訴訟費用を取り立てた過去がありますし、坂井能大氏をも裁判に訴え、彼に少なくない解決金を即日に裁判所で支払わせています。ご自分はこうして裁判を利用して、他の人々に、賠償金を支払わせていながら、ご自分だけ、子供じみた言い訳で、債務を逃れることができないのは当然と思います。

さらに、杉本さんは、過去10年間ほど、再三再四、私に「刑事告訴」や「裁判」を口実にして、様々な要求を行う脅しめいた内容のメールを送りつけられています。そして、私が要求に従わなければ、「実名を無断で公表する」とか「卒業した大学に問い合わせる」などとおっしゃっておられました。

それにも関わらず、私が杉本さんや関係者に対して、司法で下された判決に従い、賠償金の取立という「正当な理由」に基づいて連絡を行うことが、一切、迷惑行為に該当する理由があるはずもありません。

そこで、最後に通告します。

今、私は、株式会社メディアテラスの代表としての杉本徳久に対し、差押と取立を行っています。ですが、杉本さんがお支払いをなされませんと、今度は、杉本さんの勤務先などをお調べして、給与の差押等に及ぶこととなります。

しかし、勤務先が特定され、給与の差押等が行われますと、杉本さんの生活にも色々と直接的な影響が出て来ることでしょう。

それを望まれないのであれば、杉本さんには、今、すでに差押通知が来ている金額をただちに供託して府中支局におさめる以外に、以上の事態を防ぐ手段はありません。

私には控訴審の準備のための作業がありますから、待ちできる期間はもはやありません。

そこで、まずは、杉本さんが18日に新横浜競技場グランドに来られる際、サッカーチームの方々にこうした事情があることを伝え、理解を乞い、杉本さんとの話し合いの場をもうけていただこうと考えております。

横浜のチームも参加しているようですし、良識ある市井の方々は、ヤギの会と同じように、この問題に理解を示して下さるはずです。

また、万一、杉本さんが非常に乱暴な対応に終始されたりした場合に備えて、神奈川警察署にも、私が取立を目的に杉本さんに接触をはかる旨は、前もって伝えておきます。

それに先立ち、債務承認弁済契約書を送ります。

当日、ご署名捺印を求めます。ただし、サッカーチームの前でこうした書面の交付に及びたくないとお思いの場合には、メールで署名捺印の意思表示を前もって示して下さい。

そうでなければ、予定の時刻にグランドに参りまして、関係者一同にこうした事情があることを伝え、理解と助力を求めることとなります。その際、判決文、債権差押命令、杉本さんが書かれたブログ、また、杉本さんが書かれましたメールも持参することとなりましょう。

それでも杉本さんが、誠意ある対応をされない場合には、この先、勤務先の特定と給与の差押が不可避となりますので、ご了承下さい。

ヴィオロン

追伸

さらに、杉本さんが本日中に債務弁済契約書に署名捺印の意思表示を見せられず、このメールに何らの返答もされない場合は、杉本さんのメールの内容と、私のお送りしたこのメールも合わせて、ヤギの会にお伝えしておきます。

ヤギの会には、判決、債権差押命令、杉本さんのブログをお送りしておきますのでご了承下さい。

また、神奈川警察署には18日の件はこれから伝えますが、制止を受けた場合には、契約書の当日手交をとりやめ、メールで取り交わし、それができない場合には、やはり早急に業者委託等により、勤務先の特定と給与差押に直接的に及ぶ可能性がありますので、これはグランドでお会いすることを約束するものではありません。

また、杉本さんのご両親はクリスチャンという話でしたので、場合によっては、代理人等を通して、ご家族と接触を図り、この件をご相談させていただくことも検討しています。

このように、杉本さんが賠償金の支払いを遅らせますと、多くの方々が、杉本さんの無責任でわがままな行為に、心痛める結果となり、むろん、刑事事件の進展にも差し支える結果となり、生活にも影響が及ぶことをよくお考えになるようお勧めするのみです。

以前に伝えた通りの方法で、ただちに賠償金を支払いなさい。

ヴィオロン

 
おそらく、神奈川警察署は筆者が杉本に会うことを許可しないであろう。だから、筆者はグランドには赴かないと思うが、杉本はよくぞ自分が訴えられている最中、神奈川警察署のテリトリーに自分から入って来る気になったものだと思う。
 
さらに、このメールを送った直後、杉本はホームページを書き換え、自分は審判・用具係だと豪語している。

いずれにしても、病人には休日にグランドに赴くことさえ不可能だ。この猛暑の中、数時間、電車に揺られ、外出するだけでも、いたく体力を消耗するだろう。従って、杉本のメールは、自分にとって不都合なことは何もやりたくないという身勝手な意思表示でしかない。

だが、筆者には、いつも二重三重の方法がある。だから、表向きに実行すると言った方法以外にも、数多くの別の方法論をその陰で駆使することになろう。
 
さて、杉本の送りつけて来た駄々っ子のようなメールは、予告した通り、杉本の書いたブログ記事、判決、債権差押命令などと共に、ヤギの会に送付しておく。それ以外にも、杉本の関係者に相談する時には、杉本の幼稚なメールは、一セットとしてまとめて送付することなるだろう。

おそらく、杉本が筆者に送りつけて来たメールを送付すれば、会からの脱退は免れられなくなるものと思う。あのメールを読めば、通常の人々は、あまりの強烈な自己愛にめまいがして来て、杉本徳久という人間について、根本的に考えを改めざるを得なくなるのではないだろうか。
  
筆者は杉本のメールを読むとき、彼は本当に研究者だったことが一度でもあるのかと、非常に疑問に思わざるを得ない。

文体が、学術論文を一度でも真剣に書いたことのある人の文体ではないのだ。そもそもすべての記事やメールが、文章を愛する人の書く内容ではない。

杉本は大学院修士課程に在学していたことがあると、かつてブログに記していたが、よく考えてみると、修士論文を書き上げたとは一度も書いていなかった。従って、院を修了し、修士の学位を得たのかどうかも、当人の記述からは、はっきりしない。特に、東京大新領域に所属していたのかどうかもよく分からない。
  
とてもではないが、この男の文章では、一本の修士論文も書き上げられないだろうことを筆者は疑わない。

(以下は、杉本がかつてブログに掲載していたプロフィール「他人からの呼ばれ方」の記載。)

  


杉本の人生がどのようなものだったかは知らないが、杉本が主宰しているサッカーチームは、都立西高校のサッカーチームから派生したものだ。高校生活までは、比較的リアルな足跡が見える。ヤギの会でも世話人をつとめたり、ホームページ管理をしていたところを見ると、リーダー役をつとめて、多くの人々をまとめ、脚光を浴び、注目されるのが大好きな人間像が浮かび上がって来る。

だが、そういうことは、高校の同窓会くらいでやめておけばよかったのだ。下手に大学院に進学し、学問を志し、そこに自分には到達できない高みがあることを知って、挫折感を味わったのではないだろうか。大学院時代の記述には、ほとんど何も感慨深い事柄が記されておらず、研究テーマもよく分からず、院を修了したのかも分からないまま、サラリーマンになったと記されており、サラリーマン生活にも、味気無さ以外に見いだせるものは特になかったようである。

杉本のプロフィールから見えて来るものは、精神がずっと「大人になり切れない子供」のまま、子ども時代や、学校時代の、大勢でわいわいがややがと楽しんでいる自分を捨てられないまま、一人前の責任を負えずに、現在を迎えてしまった男だということである。彼には、自分が憧れているものと、現実に自分が努力して手にできるものとの巨大な落差が認識できなかったのであろう。

企業経営者になってからも、多方面に手を出し、音楽スタジオを創設したり、教会音楽に取り組んだりもしていた。だが、音楽に関しては、基礎的素養がなければ、ビジネスとしての成功も難しいだろう。そんな風に、憧れだけで、様々な事柄を手掛けるのだが、基礎というものがきちんとできていないため、すべてが中途半端なまま瓦解して行ってしまう。

その最たるものが、信仰生活である。

* * *

信仰生活とは、神の高みに至り着くことを目指す人生だと言えるので、ある意味では、この世のどんな人たちの人生に比べても、最も不遜な試みだと言えなくもない。

だが、学問においても、高みに至り着くためには、己をむなしくして努力することが必要であるように、神を知るためにも、人はへりくだって自分を捨てねばならない。それができないまま、美しい飾りを身にまとうように、憧れの対象をいくら身の回りにかき集めても、人はクジャクの羽をつけたカラスにしかなれない。
 
しかも、「神」を自分のアクセサリーとして身に着けようとする以上の高慢は、人には見られないものである。ちょうど掲示板でも、ギリシア語やヘブライ語の知識を誇示し、自分は聖書を誰よりも原語で読んでいるなどと豪語しながら、マリアの処女懐胎を否定している投稿者がいるが、呆れることである。

知識は人を高ぶらせる。だが、信仰は、人をへりくだりに導く。

キリスト教の信仰は、自画自賛、自己顕示、自己愛のために持つものではない。
 
杉本の人生からは、この点をはきちがえた男の悲哀が伝わって来る。つまり、最も高みを目指しながら、結局、何者にもなれなかった男の悲哀である。だが、何者にもなれなくとも良いから、せめて判決には従うごくごく普通のまっとうな社会人として生きていれば、それで良かったのではないのかと筆者は思う。

そうしてさえいれば、まさかここまで人生を失うことはなかったはずである。

なぜキリスト教会に敵対し、なぜ自分が他の教会や信者よりもさらに優れた信仰を持っているかのように豪語し、罪もない大勢のクリスチャンを中傷し、裁判に引きずり出し、打撃を与える必要があったのか。

何よりも、杉本が、聖書の神よりも自分自身を高く掲げたことが、破滅の始まりなのである。杉本が否定したいのは、次のことだ。

生まれながらの人間には、聖なる要素は何一つなく、人はみな生まれながらにして、神の御怒りの子であって、己が罪を悔い改めて十字架の贖いによって救われる以外に道はないこと。

イエス・キリストの十字架の贖いを受けなければ、誰一人、神に受け入れられることはないこと。生まれながらの人間には、どんな努力によって、自分を変えることはできず、人間の一切の自己救済はむなしく、人間の生まれながらの自己を改良する方法では、人は何者にもなれないどころか、ゲヘナの子になって終わるだけであること。

信仰生活の基礎は、キリストご自身であって、人の生まれながらの自己ではない。

しかし、杉本は自分を愛し、自分を手放すことを惜しみ、自分の美が失われることを拒んだ。彼は十字架の贖いを拒んだ。そして、神以上に己を義として、諸教会に戦いを挑んだ。そうであるがゆえに、彼は自分の罪が全く見えなくなって、これを悔い改めることも、反省することもできなくなり、神の救いから、自分を除外し、滅びの道をひた走っているのである。

正直に言えば、現在の杉本には、杉本がかつて筆者に向かって発した呪いの言葉が、そのまま跳ね返っているだけのことである。杉本が他者を精神的に追い詰め、他者が心を病んで立ち直れなくなることを積極的に願いつつ、容赦のない呪いの言葉を浴びせて、他者を中傷し、他者の社会生活が不可能になることを積極的に願う言葉を、おびただしい回数、公の場所に書き記し、また、そのように自分が嘲り、罵った人間の苦しみを、高みから見下ろして、これを踏みにじって嘲笑するようなことがなければ、今、彼がこのような立場に置かれることはなかったであろう。

筆者は、杉本がまだ多分に嘘をついていることを知っている。彼はサッカーの審判が出来るくらいに元気だ。だが、たとえ仮病であったとしても、自らの債務を逃れるために、杉本が自分を「病気」だと宣言したことは、神と人との前にきっと覚えられるだろう。人は自分で口から発した言葉に、自分でとらわれ、自分で恐れた事柄が、実現して行くからである。

不思議なことである。杉本は、警察の取り調べが「怖い」と言うのではなく、筆者の取立や、ブログ記事が「怖い」と言うのである。そういう感覚がまだ残っているならば、2010年頃から、杉本が再三に渡り、筆者に送りつけて来たメールが、筆者にどれほど大きな不快感、精神的苦痛をもたらしたか、彼には分かるはずだ。

ところが、当時、杉本が「訴訟」や「刑事告訴」という文言をやたら振り回していたので、それらのメールは、たとえ名目だけであっても、「正当な理由」があれば、迷惑行為に該当しないとされた。ならば、筆者はその理屈を裏返しにして、現在の杉本にそっくりそのまま当てはめるのみだ。まさか筆者が判決に従うよう杉本に求める行為が、迷惑行為に当たるはずもない。
 
このように、人には他者に対して行った行為が、いつか自分に跳ね返ることになる。憐れみのない者には、憐れみのない仕打ちが跳ね返り、残忍な者には、残忍な仕打ちが跳ね返る。その逆に、憐れみ深い人間には、憐れみが返され、施す者には施しが、人を赦す者には、赦しが返って来る。

筆者はこれまで幾度も杉本に悔い改めるよう警告して来たので、十分にその時期は過ぎたものと思う。

このように、神は人の心を極みまで探り究められ、おのおのの行いに応じて報いられる方である。事態が紛糾しているように見えるのは、杉本には、まだまだこれからその身に降りかからねばならない出来事が多数、残されているためである。

筆者は贖いの絶大な効力を知っているので、これまで杉本にどんな言葉によって呪われても、それに打ち負かされることはなかった。だが、信仰の盾のない杉本には、自分が他人に向かって吐いた言葉が、自分自身に跳ね返って来る時、防御の方法はないであろう。

杉本が発して来た残酷で容赦のないクリスチャンへの呪詛の言葉は、これから信者たちを離れ、彼自身の生涯に付きまとうことになる。杉本が恐れているのは、筆者ではなく、彼の行った数々の残酷な行為を覚えておられる神ご自身の報復と、聖徒らからの徹底した侮蔑と嘲りである。
 
   <続く>
 



13.聖書の神に逆らい、御言葉に逆らうカルト被害者救済活動からのエクソダス(Ⅱ)

人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」(ヨハネ16:2-4)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。」(ヨハネ16:13-14)

さて、警察との会話で非常に印象的なことがあった。筆者がこの事件の全容について話し、筆者はもはや犯人が許されることを望んでおらず、厳しい処罰を望んでいる、と述べた時のことであった。

筆者は、それは筆者だけのためではないのであって、神の福音を退け、教会を冒涜し、聖徒らを迫害し、神の教会に手をかけたその罪に対しては、厳しい報いがなければならない、という考えを述べた。

その時、驚くべき相槌が返って来た。

「あなたは彼らは神の赦しを超えてしまった、と思われるわけですね・・・」

筆者は驚いて問い返した。

「まさしくそうです。でも、まだ私が何も言っていないのに、よくお分かりになりましたね?」

筆者は非常に驚いたので、あなたも信仰者なんですか、と問うたが、返事はそうではない、というものであった。だが、筆者は信仰を持たない人間が、この話を聞いて、以上のような発言をしたことに、心から驚き、その言葉を心に留めた。

彼らが神の赦しを超えた、という言葉は、2009年に杉本が初めて筆者と当ブログを1千件のコメントと共にバッシングした時から、幾人もの信者が表明して来たことである。そのバッシング記事には、不法行為と呼べる構成要件はまだ整っていなかったにも関わらず、霊的文脈においては、おそらくこれが他のどんな不法行為に比べても、最も著しい(神とエクレシアと聖徒に対する)冒涜行為であったろうことを筆者も疑わない。

その時から、杉本の命運は決まっていた。筆者はそう考えている。

すでに幾度も書いた通り、筆者は2010年に杉本徳久に向かって、ラスコーリニコフにならって、己が罪を認めるようにとの勧告を書いたが、その時から、この事件の結末を、すでに心の内側で予感していたと言えよう。

霊的な直観は、現実に先立つ。真理の御霊は、やがて来るべき事柄を知らせると聖書にある通り、私たちにはこの先、起きることについても、分かっていることが多くある。だから、筆者は自分の出した訴えがどうなるのか、どんなに事件の進展が遅いように思われる時でも、結果を予め知っているのである。

そして、そのことを、実に不思議なことに、筆者のみならず、筆者の話を聞いていた警察官も、理解して、これを筆者に先んじて口にしたのである。

もう一つ、警察官が予見的なことを語ったことがある。

それは昨年、筆者が杉本に対する第一の告訴状を出して間もなく、若い担当刑事が杉本に電話で連絡を取った時のことであった。

担当刑事は、杉本に対して電話で「ブログを削除して下さい」と要求したのである。

繰り返すが、「ブログ記事を削除」ではなく「ブログを削除」するよう求めたのである。

これは非常に奇妙なことであった。本来、表現の自由が尊重されて、権利侵害が行われている該当記事だけの削除が求められるのが通常である。ところが、警察はそのようには言わなかった。「神々の風景」についても、プロバイダの措置として全体が非開示にされた。いずれは全体が削除されるであろう。これと同じことを、もう一つのブログに対しても警察は求めたのである。

これらのことは、非常に印象的かつ予表的であった。

さて、筆者は今でも一審判決の言い渡しの時のことを度々思い出す。

その日は、待ち望んだ解放の判決のはずであった。何日も前から、ようやくこれで事件が終わるのだと考え、筆者は喜んでいた。

それにも関わらず、前日から、どういうわけか緊張が解けなかった。その日、法廷には、見知らぬ傍聴人が一人来ており、掲示板の関係者かも知れないと思われたことも要因の一つだったろう。

裁判官は法廷に姿を現し、法壇に着座すると、掲示板で起きている騒ぎのことを、知ってか知らずか、「困った事態が起きてしまいましたね」といった具合に、筆者に笑いかけた。そして、筆者のことをおもんばかってであろう、傍聴人に対し、携帯電話のスイッチを切り、録音や撮影を行わないよう注意した。

時刻が来るまで重い沈黙の時が流れた。筆者は何かしらただならぬ緊張感に包まれていた。判決に異議申立てはしないと予め決めており、これで争いは終結する、書類作成の仕事からも解放される、そう思って喜んでいたはずが、前日から引いた風邪のせいで、頭ははっきりせず、いよいよ裁判官が判決を読み上げ始めた途端、筆者は裁判官と目を合わせることもできなくなった。

主文の冒頭部分を聞いただけで、筆者には、これが事件の完成ではあり得ないことを理解したのである。

裁判官は、筆者が心ここにあらずの状態になったことを察知したのか、最後に少し苛立たし気な表情で、「あなた、本当に聞いているんですか?」とでも言うかのような調子で、筆者に判決への同意を求めた。

だが、同意を求められるなど予想もしていなかった筆者は、自分が質問を受けていると理解して返答するまでに少し時間がかかった。

このように、一審判決の言い渡しは、どこかしらちぐはぐな雰囲気で終わった。口頭弁論の終結時の時に生まれた一体感とは全く異なる緊張がそこにあり、裁判官はいささか憮然としたような、よそよそしい表情で退廷して行き、見知らぬ傍聴人も、杉本が負けると考えていなかったのか、すさまじいショックを受けたようにダッと走り去って行った。

筆者は判決言い渡し後、前よりもさらなる緊張状態に陥った。おそらく、裁判官も書記官も、それは筆者が判決に不服があって、異議申し立てをしようとしているためではないかと考えたのではないかと思う。
 
なぜそのようなことになったのか、筆者は今ならばよく分かる。筆者はこの判決を歓迎するつもりで、無条件に受け入れると決意していたが、心の深い所では、もしも筆者が、これを最終的な宣告として受け入れれば、次の瞬間、筆者に待っているものは死だけであると、確実に予見していたのである。

筆者は判決言い渡しの後、しばらくの間、そのことに全く気づかないふりをしていた。裁判官と書記官にお礼状を書き、早々と後処理に取りかかった。人間的に見れば、まずまずの結果である。争いから早期に解放されたことを喜ぶべきであろう・・・。

しかし、それはあくまで人間的な観点から見た場合の話でしかなかった。筆者の内なる直観は、事態はまるで逆であることを、はっきりと理解していた。この中途半端な終わりに身を委ねることに、筆者の内なる人は激しい拒否反応を示した。風邪は日に日に悪くなって行くばかりであった。
 
村上は初めから、筆者に勝訴すれば、筆者にとどめを刺すつもりであったのだと思われる。それが証拠に、一審判決が確定もしていないうちから、村上は筆者に対する勝利宣言をブログに発表し、さらに筆者に対する人格権侵害の記事を発表した。

これはおそらく村上の当初からの予定だったのではないかと推察される。村上はおそらく筆者が「完敗」を認め、今後、全く抵抗しない立場に身を置くのが当然と考え、公然かつ堂々と権利侵害を始めたのであろうと。

「往生際の悪い」筆者に、とどめを刺すために、民事で「完全勝訴」を宣言した上、さらに息の根を止めるべく、刑事告訴に及ぶことは、予定の行動だったのではないかと。
 
村上が掲示板における筆者に対する嵐のような24時間体制の誹謗中傷を、どこ吹く風とばかりに黙認していたのも、その書き込みが、筆者の心を揺さぶって、何らかの失言につながるのを狙っての措置であったと見ることもできよう。

そして、杉本が賠償金を未だ支払わないことも、同じ文脈から出た行動である。彼らは諦めていない――筆者を「カルト信者」として社会的に抹殺に追い込み、公然と証の言葉を述べる完全に口を封じることを――。
 
強制脱会活動が、幾人もの他宗教の信者を社会的に殺して来たのと同様、この人々は、彼らの「説得」に応じない筆者を「人格障害」に追い込み、社会的に抹殺しようとの考えを、依然、捨ててはいない、だからこそ、控訴という正当な方法によって、この判決を覆そうと努力するのではなく、判決の実行を先延ばしし、賠償金を支払わないことで、筆者がさらに追い込まれるよう、策を講じているのではないかと見られるのだ。

筆者はこのことについても、警察に伝えた。掲示板の投稿のほぼすべてが村上の支持者と見られる人物たちで固められていること、こうした権利侵害も、信者たちの単独犯であるとは思えず、杉本の行為も、単独であるとは到底、考えられないこと。
 
不思議なことに、こうした話を、警察は決して空想としては聞かなかった。そうなったのも、理由がある。何しろ、昨年の時点では、村上は告訴対象にも含まれていなかったが、事件は進展しており、村上による権利侵害の証拠が手に入った今では、筆者の言うことをあながち作り話として退けるわけにもいかない状況が整いつつあるからだ。少しずつ事件は核心に近づいて来ている。

話を戻せば、村上は完全勝訴の上にも、さらに念には念を入れて、筆者を「抹殺」するために、刑事告訴に及ぼうとしたのであり――それは初めから既定路線だったと見られる。

そこで、もしもあの時、筆者が一審での部分的勝訴に甘んじて、戦いをやめていれば――このような恐るべき霊的攻撃に対して、筆者には抗う術が残らなかったであろう。そうなれば、向こうの思う壺の状況が作り上げられたはずだ。

だが、筆者の内なる人はそのことをよく知っていればこそ、村上による権利侵害の証拠が手に入った瞬間、待ち望んだ判決を振り切って、ただちに控訴に及んだのである。

むろん、一審判決を超えるためには、さらなる証拠の積み上げが必要であり、最終的な判決を手にするまでの間に、事の真相にどこまで迫れるかが、今回の争いの本髄である。
 
いずれにせよ、こうして、紛争が一審で終わらなかったことは、まさに奇跡的な天の助けであると言えた。

一審を担当してくれた裁判官はすでに異動で去ったが、初めて法廷に姿を現した時、「私はこの事件から逃げるつもりはありません」と述べたことが思い出される。そして、筆者が先日、長い時間をかけて、犯人の処罰を願う、と述べたときにも、警察の上部は、これと似たような言葉を繰り返し言った、必ずこの事件をふさわしい方法で解決すると。

民事訴訟が始まったばかりの頃、筆者は裁判官が公平に客観的に事件を裁いてくれるだろうと考え、電話会議でも、裁判官と書記官の二人にがっちりと脇を固められて、守られているような安心感を覚えていた。

その頃、筆者には、自分自身が、力強く立ち上がって、自らこの事件を率いて行くのだという自覚はそれほどなかった。訴えを出した後も、最後まで、主導権を握るのは自分でなければならず、筆者こそ、周囲の全ての人々の心を動かす鍵を握っているのだということが、分かり始めたのは、少し後のことである。

筆者はしばしば、裁判官とさえ、胸襟を開いて――いや、まるで激しく衝突するがごとく、議論を戦わせたことがあった。ここには書かないが、実に様々なドラマがあり、その中で、筆者は、初めは冷静で頼りがいがあるように見えた裁判官さえ、筆者の心の動揺にどれほど大きな影響を受けているかを理解し、この事件を正しく進めるためには、あくまで筆者が自分をしっかりと持って、目的となる地点から目を離さず、全員をまとめてその目的へ向かって牽引していく姿勢が必要なのだと知った。

そうして、関係者のすべてをまとめて、皆が心を一つに合わせて同じ目的へ向かって行くことができるように整えることは、必要不可欠なだけでなく、実際に可能であることを知ったのである。
 
それが分かったおかげで、一審の終わりは、見事に息の合うものとなった。この頃から、筆者は、キリスト者はどんな事件に見舞われようとも、カルバリの十字架の勝利のゆえに、すでにすべてを足の下に従えているのであって、私たちはその事実を実際とするために、この地に置かれており、御名のゆえに、万物を足の下に従えることが、現実にできるのだという秘訣が分かり始めた。

裁判官は、事件から逃げないと約束してくれた分だけ、何としてもこの争いから筆者を救い出して去って行かねばならないと考えたのであろう、考えられる限りの手を尽くしてくれた。だから、一審判決が本当の終わりではなくなったとはいえ、筆者は一審で与えられた命に、より完全性を持たせるために、これに控訴状という服を着せて、世に送り出した。

それから、警察署に出した告訴状についても、筆者は事件を前に進めるために、まるで未熟児に対するように世話をしている。そして、可能な限りの労力を割いて、この事件を理解して進めてもらうための働きかけを続けている。
 
こうして当事者が事件を牽引する作業は、まさに途轍もない作業である。訴状に関しても、告訴状に関しても、同じことが言えるが、訴えを出すというのは、初めの第一歩に過ぎず、そこから何百キロもの道のりを徒歩で歩き通すような行程が必要となる。

怠惰で、人とぶつかることの嫌いな人間には、こうした気の遠くなるような作業を貫き通すことはできまい。

筆者自身、これまでコンクリート製の分厚い壁を5つくらいは粉砕したような気がするが、あらゆる障害を打破することが必要なだけでなく、人の心を動かし、皆を一つの目的へ向かって団結させて、立ち上がらせて行く力が必要となる。その働きかけのために、膨大な労力が必要となる。なぜなら、訴えは書面で出しはするものの、最後には人がこれを処理するからである。
 
それは見えないオーケストラの見えない指揮者になるのにも似ているかも知れない。関係者の全てが、息を合わせて一つの調べを奏で、一つの目的へ向かって行くことができるようになるまで、筆者は調整を繰り返す。

そうして、努力に努力を重ねているうちに、ある瞬間に、望んでいる答え、望んでいる回答がようやく実現する。

それはその時々で、束の間の現れに過ぎないものではあるが、神の御心にかなう御国の秩序が到来し、調和の取れた調べが流れだす時が来る。その瞬間には、まるで生ける水の川々が溢れ、流れ出すように、すべてのものがキリストの愛の中に飲み込まれる。筆者の周囲の人々も、それによって潤され、浸され、すべてが感動的なまでに美しい終わりを迎える。

その日が来ることを待ち望みつつ、筆者は自分の訴えをより洗練させて、より完成へと向かわせている。神の正しい義なる裁き、まことの裁き主であられる主の真実かつ公平な判決が得られるように、目的へ向かって進んでいる。それは救われる者にとっては自由と解放の響きであり、滅びるものには死の宣告である。

その戦いの中で、筆者は孤軍奮闘しているわけではなく、雲のような証人たちに囲まれている。敵陣に包囲されて逃げ場がなくなるように見えるときにも、援軍は常に用意されており、霊の目を開いて、周りを見渡せば、エリシャが見たあの火の馬と火の戦車は、今日も神を信じる者と共にある。主は筆者に言われるだろう、

「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」(列王記下6:16)

* * *
 
さて、村上密がまたもや見当外れなことを書いている。

「人はいつも危険と背中合わせで過ごしていると私は思う。その感覚を失うともっと危険に接近することになる。身近な人の忠告は危険を回避する忠告が含まれている。そのような親身になってくれる人がいない人はその人自身が危険になる。暴走とはそういうことを言うのではないか。」(4月27日の記事「暴走」)

村上の記事にはいつも同じ特徴が見られる。それは孤独を否定し、一人になることを否定し、常に集団の中に隠れようとする特徴だ。杉本の記事にも全く同じ特徴がみられた。

村上は最新記事でも同じことを述べている、「連休はカルト研修の時期 」では、カルトに入らないためには、家族の連絡こそ必要と訴えている。

「5月は研修の期間である。子供の行き先がはっきりわからない場合、カルトの研修を受けてる可能性がある。子供の行動が明確でないことを放っておくと対応が後手になる。親子間の連絡が疎遠にならないように気を付けよう。」

これは子供を一人にさせておくと危ない、何をしているか分からないまま、放っておいたらいけない、というだけにとどまらず、まるで親に子供を監視せよと言っているように聞こえる。常に子供を一人にさせず、集団の群れの中にいさせて、何をしているのかが、周囲に見えるようにしておかねば、カルトのような重大な危険に取り込まれてしまいかねないと、半ば脅しのような言葉で、親が子供を監視する必要性を訴えている。

村上はこうして記事の中で、常に目に見える人間関係の必要性を訴え、悩める人間には話を聞いてくれる誰かが必要だと訴え、互いに互いの行動を把握して、人間の相互扶助ネットワークを作り上げることが、あたかも救済であるかのように強調する。人間関係の只中にいさえすれば、集団の只中にいさえすれば、危険を免れられるかのように説くのだ。

それは逆に言えば、一人になれば死ぬという脅し文句と同じだ。牧師のいる教会では、指導者は神の代理権威であると教えられ、牧師の指導の圏内から信徒が逃げれば、信徒は救いを失うかのように解かれることが少なくない。「あなたは一人では聖書を学べない、助けてくれる人や、教えてくれる人が必要だ。だからこの教会にいなさい、私たちと一緒に学びなさい。一人になったらいけない」というわけである。だが、その本当の目的は、信者を目に見える教会に束縛し、牧師に献金を捧げさせ、いついつまでも牧師の説教がなければ、聖書を理解もできない霊的赤子の状態に押しとどめ、信徒から栄光を搾取することにある。

いわば、天皇の赤子だった時代の臣民と同じである。カルト宗教の「霊の父母」と同じで、村上は今も「生み生まれる親子の立体関係」の必要を説き、そこから離れての個人はあり得ないと説いているだけなのであって、なぜそのようなことをするかと言えば、その集団が、偽りのイデオロギーに従って作り上げられたものであり、集団に帰依し、その関係性の中に束縛されている限り、その誤った理念から、人は抜け出せないからだ。個人を集団に留め置くために、(疑似的なものも含め)親子関係が最大限美化され、利用されるのである。

カルト被害者救済活動は、悪しき反聖書的な理念に基づいて作り上げられた一大要塞であり、そこから人を逃がさないでいるためにこそ、相互監視が必要なのである。その監視社会を美化し、正当化するために用いられるのが、親子関係やら、師弟関係やらといった美名である。

だが、聖書の奥義とは、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:18)というものであって、まず「父母からの自立」が前提となり、キリストとエクレシアの結婚も成し遂げられる。

聖書における正しい関係は、「生み生まれる親子の立体関係」ではない。信者が神に出会うためには、自分の生まれ落ちた家の民を忘れ、「父の家を忘れる」ことがどうしても必要である。これは人が生まれながらの自己に死んで、この世に対して死に、キリストに対して生きるようになることを意味する。

娘よ、聞け。
耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。
あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
王はあなたの美しさを慕う。
王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。
ティルスの娘よ。民の豪族は贈り物を携え
あなたが顔を向けるのを待っている。」(詩編45:11-12)

筆者の目から見た限り、牧師たちは、大勢の信者や家族に囲まれているように見えても、内心は孤独である。特に、高慢ゆえに他人の助言を聞かない牧師の周りでは、真摯に忠告してくれる人もいなくなっていくため、いざという時、必要な助言を誰からも受けることができない。

大勢の人たちに囲まれていても、みなイエスマンばかりなので、牧師が暴走しても、止める者もない。もしも村上に、身近に親身になって危険を忠告してくれる人間が一人でもいたならば、筆者に対する人格権侵害の記事を投稿してこれをすぐに削除したり、筆者を刑事告訴したなどという記事を発表してこれを削除したり、杉本徳久と共に筆者を馬鹿にする文通を書証として裁判に提出したりと言った愚行には決して及ばなかったであろう。
 
筆者に対する弾劾記事をブログに次々投稿し、掲示板での誹謗中傷を黙認・容認したりすることもなく、何よりも、カルト被害者救済活動に手を染めなかっただろう。

こうした行為に村上が及んだのは、村上には、誰も親身になって忠告する人間がおらず、むしろ、悪い助言者ばかりが取り巻いていたことの証拠である。

こうして、村上の記事では、親子の絆、年長者と年少者の絆、社会の助け合い、相互扶助のネットワークの必要性ばかりが語られるが、そこでは、最も重大な争点が抜け落ちている。

それは、私たちにとって、最も身近かつ忠実な助言者は誰なのか、という問題だ。

もちろんのこと、私たちの最も信頼できる助言者は、見えないイエス・キリストである。船頭多くして船山に登る式に、多すぎる助言者は道を誤らせ、年長者の忠告をどんなに聞こうと、イエス・キリストの忠告を退ける人間の人生は呪われる。

そこで、村上の記事は、筆者には常にバビロンの次のつぶやきを想起させる。

「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない。」(黙示18:7)

「やもめなどではない」――というバビロンの言葉は、言い換えれば、「私は一人ではない」という意味である。村上は言う、自分には身近に「親身になってくれる人がいる」から暴走することはないと。「親子関係」も万全だから、危険はない、自分は「大人たちの忠告」を聞いているから大丈夫だ、道を誤ることなどないと。

しかし、 「主はこう言われる、

 「おおよそ人を頼みとし肉なる者を自分の腕とし、
  その心が主を離れている人は、のろわれる。
  彼は荒野に育つ小さい木のように、
  何も良いことの来るのを見ない。
  荒野の、干上がった所に住み、人の住まない塩地にいる。
 
  おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。
  彼は水のほとりに植えた木のようで、
  その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない。
  その葉は常に青く、ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」。
 
  心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。
  だれがこれを、よく知ることができようか。
  「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。
  おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。
 
  しゃこが自分が産んだのではない卵を抱くように、
  不正な財産を得る者がある。
  その人は一生の半ばにそれから離れて、その終りには愚かな者となる。

  初めから高くあげられた栄えあるみ座は、われわれの聖所のある所である。
 
  またイスラエルの望みである主よ、あなたを捨てる者はみな恥をかき、
  あなたを離れる者は土に名をしるされます。
  それは生ける水の源である主を捨てたからです。」(エレミヤ17:5-13)

筆者から見れば、「暴走」とは、目に見える助言者を失った結果として起きることではない。むしろ、「暴走」とは、ただ一人のまことの助言者を当てにせず、目に見える偶像にすがり、頼った結果として起きるものである。

周りのイエスマンたちにおだてられ、自分の欠点が見えなくなった宗教指導者が、分不相応な自画自賛に明け暮れながら、利己的な道を貪欲に突き進み、当然の破滅に落ち込んで滅び去って行くことなどは、まさにその典型である。

筆者は、村上を担ぎ上げた信者たちにも、重い責任があると考えている。村上を間近で知らない人間が、村上に対して疑問を抱かないのは仕方がないが、村上を間近で知っており、疑問を感じながらも、声をあげなかった信者たちの責任は重いと考えている。特に、カルト被害者たちの責任は重い。

統一教会側の「全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会」が記している「2 拉致監禁による強制棄教事件の歴史」によると、脱カルト強制脱会運動の歴史には、大きく分けて4つの段階があり、拉致・監禁による強制脱会を最初に始めた者は、村上ではなかったようであるが、村上がこの運動に入った頃に、この運動は最盛期を迎える。拉致・監禁による強制脱会の手法が確立したのはその頃で、別な情報によれば、村上自身も数百件以上の強制脱会を手伝ったと言われている。

その後、強制脱会運動に関わった牧師たちの一部が民事・刑事で訴えられ、敗北に追い込まれたりする中でも、村上には追及の手が及ばなかったのは、ただ村上が非常に巧妙に立ち回り、人権侵害に加担した証拠を残さないようにしていたというだけではなく、村上を取り巻いている無数のカルト被害者らが、村上に対する徹底的な援護射撃・サポートに回ったことが大きく影響していただろう。

京都七條基督教会の役員も、ある時期までは、大半が村上自身が脱会させた元統一教会の信者で固められていたと指摘されている。彼らは村上の意向には決して逆らうことのない忠実な信徒たちであった。そして、今、当ブログに起きていることを見てみれば分かるように、村上が脱会させた信者たちは、村上の忠実な僕のように村上を取り巻いて、村上への批判的な言動を抑制し、これを即座に潰す役割を担ったのである。

このように、自らが脱会させた信者たちを防御の盾のごとく周りにはりめぐらし、彼らからの支持や賞賛を受けて活動したことが、村上の栄光を確固たるものとし、彼の率いる運動の偽りの悪しき本質を覆い隠し、村上の反カルト運動の成功者としてのイメージを作り上げ、この運動を存続させる原動力となったことは見逃せない事実である。

村上の周囲には、今もかつてカルトに入信し、強制脱会させられた際に、自己の意思を打ち砕かれたために、それ以後、村上に対して全く頭が上がらなくなり、異議申し立てができなくなった信者たちが大勢いるものと見られる。(筆者が2008年にこの教会を訪れた時にも、かなりの数、そういう信者たちがいた。)

彼らは、自分たちが村上のおかげで恐ろしいカルトから「救出」されたと額面通りに信じ込んでいるので、一生、村上を救世主のように慕い続け、忠実にその命に従う、マインドコントロールされた信者たちである。

だが、村上の脱会活動は、初めから信者の「救出」のためではなかった、と筆者はみなしている。筆者は以前に書いた記事の中で、村上がどのような形で統一教会から脱会したかという経緯について触れた。

そこでも書いた通り、村上は青年時代に、自ら親族からの拉致・監禁を伴う激しい暴力行為によって、統一教会から無理やり引きずり出され、強制的な脱会を遂げた。家に連れ戻されて後は、手足をロープで縛られ、身動き取れないようにさせられて、座敷牢に閉じ込められていたと自ら書いている。

脱会以後、牧師となってから、村上が繰り広げた脱会活動は、まさに村上自身が、青年時代に自己の意志を打ち砕かれ、身体の自由を奪われ、屈辱のうちに棄教せせられた悲劇的な脱会体験を、他の信者たちの身の上に再現しようとするものであったと言えよう。
 
つまり、村上の率いる反カルト強制脱会運動は、まさに村上自身が青年時代に負った深い心の痛手を、無意識のうちに、他の信者たちとの間で、共有・再現しようとするものだったのである(=反復強迫)。

また、村上は、この他にも、子供時代から親による恒常的に暴力(虐待)を受けて成長してきた様子が分かる記事もいくつも綴っている。

このようなことから、当然のごとく導き出される結論は、村上は統一教会に入信して初めてカルトに出会ったわけではなく、それ以前から、カルト的な歪んだ世界観を心の中に持ち続けて生きて来たことである。

その歪んだ世界観の土台となったのは、彼の家庭である。

筆者は幾度も書いて来た、カルトに接近する人々には、大抵、幼少期から家庭で受けた何かしらの心の傷があると。それが最大の原因となって、彼らはその傷から逃避するために、カルトへ接近するのだと。従って、たとえカルトから信者を引き戻したとしても、この家庭における傷という問題が解決されない限り、彼らがカルトに入った本当の動機は見出されることも、解決されることもない。ゆえに、この問題を放置していれば、その信者は、一つのカルトを脱しても、またそれに類似する何かの団体を見つけ出し、それを逃避の手段とし、そうして同じ種類の現実逃避を、人生で幾度となく繰り返して行くことになるだけであると。

家庭こそ、カルトとの最初の出会いであり、出発点であった――その事実を、村上は依然として見ることができないからこそ、彼はカルトを批判しても、家庭を批判することができないのである。親子関係を密にし、連絡を取り合い、大人たちの言うことを聞いてさえいれば、危険を免れるかのように説き続けているのは、他の信者たちに対してだけでなく、村上が自分自身に言い聞かせているのであって、統一教会のカルト性には気づけても、自分の育った家庭のカルト性には未だに気づかないように、自分で自分をマインドコントロールしているのである。

それだけでなく、村上はこの誤った理念を、幾度となく繰り返される「救出劇」の中で、座敷牢に閉じ込められた他の信者たちにまで、植えつけて来た。身体の自由を奪われ、惨めさと屈辱の中でうなだれる信者に、親たちの行った暴力には目をつぶって、親の言うことに従えと教えるのは、筆者から見れば、文鮮明を「霊の父」とみなし、再臨のキリストとして無条件に従えと教えているのとさほど変わらない。

つまり、村上の反カルト運動は、うわべだけは聖書を利用しているが、断じて、聖書に基づくものではなく、それは断じて、「救出活動」などではなく、村上自身が、強制脱会の対象とされた時に(またはそれ以前から)心に生じた犠牲者としての像(被害者意識、トラウマ)を、他の信者たちにも植えつけるためのはけ口でしかなかったのである。

そうして「救出者」を演じることで、村上は現実を巧みにごまかし、犠牲とされた自分自身の心の痛みから目を背け、自分が心に抱える本当の問題を覆い隠しながら、鬱憤のはけ口を得て来たのである。

そういう文脈で見ると、村上が盛んに「一人」になることに強い抵抗感を示し、人には身近な助言者が必要だ、とか、話を親身になって聞いてくれる人が必要だ、と切々と訴えていることが、誰よりも、村上が未だ自分の生まれ育った家庭によるマインドコントロールの事実と向き合いたくないがために、それを今も「お経」のごとく自分自身に言い聞かせているだけであることが分かる。

親子の関係から出て、一人の個人になった時、あまりにも恐ろしい現実に直面し、世界観が崩壊してしまわないよう、自分は「救出」されたのだ、ありがたい「助言」を受けたのだ、まさか暴力を振るわれたのでも、拉致・監禁されたのでもなく、人権侵害などなかった、と念仏のごとく、繰り返し独り言を唱えているのである。

村上の周りにいる信者たち(カルト被害者)たちも同様で、彼らは「監視はなかった」、「マインドコントロールはなかった」、「人権侵害などなかった」と、同じ念仏を唱え続けているのである。

自らに対して行われた権利侵害を認めないからこそ、彼らは筆者や当ブログに対して行っていることが、恐ろしい権利侵害である事実も認められない。自分を生きた人間として扱うことができず、自分の感情を殺し、自分の心の痛みから目を背け続けている人間が、他者の痛みだけを真剣に取り上げ、これを理解し、他者を解放することなど、できるはずもないことは明白である。

従って、彼らに出来ることは、ただ一つ、自分を犠牲として来たように、他者をも犠牲にすることだけである。それを「救出」や「解放」と呼び変え、神の福音から人々の目を逸らさせて、彼らの手にかかった人々が、キリストが用意して下さった解放に永遠に至りつけないように、御国への門の前に立ち塞がり、自分だけでなく、周りの人々まで滅びに巻き込んでいることが、この運動の最大の罪である。

<続く>



10.村上密ら牧師による強制脱会活動の手口と、当ブログに対して行われた権利侵害の類似性

義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」(マタイ5:10-12)

さて、一つ前の記事では、村上密その他の牧師が率いたカルト宗教からの拉致・監禁という暴力を伴う脱会運動の犠牲者になった統一教会の信者の手記を紹介した。

これを読めば、この暴力を伴う脱会運動で使われた手口が、筆者に対して、村上密・杉本徳久および掲示板の投稿者らによって行われて来た集団的な権利侵害の手法に非常に酷似しているという印象を持たれた読者も多いのではないかと思う。

ただし、前の記事で引用した統一教会の信者の手記の内容を見ても分かるように、こうした一連の人権侵害を伴う強制脱会活動の中で、村上は、自分は提訴されることがないよう、人権侵害に直接関与した証拠を残さないよう巧妙に立ち回って来た。従って、村上自身はこうした強制脱会活動のために提訴されたことはないはずである。

しかし、信者を奪われた統一教会側からは、村上以外の牧師たちに対し、反撃のための提訴が行われた。しかも、当初は、拉致・監禁による信者の脱会活動の暴力性を訴えた裁判は、反カルト運動を率いる牧師や信者の親族らによって、「親子関係の問題」にすり替えられ、敗訴に終わるケースが多かったようであるが、近年、拉致・監禁による脱会活動に対する世間の目は、より厳しくなり、「親子関係」や、「カルト宗教によってマインドコントロールされた信者の救出のため」などという名目では、もはやごまかせず、そんな理由で人権侵害は容認されないという方向へ転じた様子が伺える。

実際に、村上以外の強制脱会活動に関わったキリスト教の牧師や、これを手伝った「職業的改宗活動家」に対しては、拉致・監禁によって信者にPTSDを発生させ、社会復帰を不可能にしたとして、2千万円を超える賠償命令が出された例もある。

統一教会の公式ホームページに以下の記事が掲載されている。筆者はキリスト教徒として、統一教会の理念に賛同することはできないが、それでも、筆者もまた信教の自由を擁護する者の一人として、キリスト教の牧師を名乗る者たちが、「カルト宗教からの信者の救出」という美名の下に、こうした人権侵害を容認して来たことは、あるまじき所業であり、全キリスト教徒は他宗教の信者に対して、牧師らが行ったこの忌まわしい暴力行為から目を背けるべきではないと考えている。
 

後藤徹氏の控訴審で勝訴判決! 被告らに2200万円の賠償命令
2014年11月14日

11月13日(木)午後2時半から、東京・霞が関の東京高等裁判所で、「全国拉致監禁・強制改宗被害者の会」の後藤徹代表が、自身に対する拉致監禁・棄教強要に関与した親族や新津福音キリスト教会の松永堡智(やすとも)牧師、職業的改宗活動家の宮村峻(たかし)氏などを相手取って起こした民事裁判の控訴審判決が言い渡されました。

裁判長は、拉致監禁の事実認定について後藤代表の主張をほぼ全面的に受け入れ、一審被告である兄夫婦と妹の3人に対して総額2200万円の支払いを命じるとともに、同じく一審被告である宮村氏に対しては、上記損害のうち1100万円を、また松永牧師に対しては同440万円を連帯して支払うよう命じました。

 東京高裁は判決で、後藤代表が1995年9月、都内の実家からワゴン車に乗せられて新潟市内のマンションに拉致されて以降、2008年2月に東京・荻窪のマンションから解放されるまでの約12年5か月にわたり、「監禁」ないし「行動の自由の違法な制約」がなされていたと認定。

 その上で、松永牧師については、後藤代表の家族の違法行為を「黙認」「鼓舞」したばかりか、「(後藤代表の)自由を制約して脱会の説得をすることを幇助していた」と判断しました。

 また、宮村氏についても「(後藤代表の)拘束について、これを理解した上で幇助していた」とし、さらに松永、宮村両氏は後藤代表に対して、統一教会の信仰を棄てることを強要していたとして、「共同不法行為責任を負うべきである」と言明しました。

 今回の控訴審判決は、賠償金額以外の点では極めて公正妥当な認定判断を行い、拉致監禁、脱会強要活動を断罪したもので、信教の自由の観点から高く評価できるでしょう。これまで、統一教会信者に対する拉致監禁、脱会強要活動に対して、「親子の話し合い」なる弁明を採用してその違法性を減殺しようとする判決もありましたが、今回の判決によって、今後は、こうした弁明は一切通用しなくなることでしょう。

 後藤徹代表のコメント

 「31歳から44歳までの12年5か月にわたり、同じ天井と壁を見るだけの毎日でした。最後の約10年間監禁されていたのは、表の通りをたくさんの人が行き来する東京・荻窪のマンションでした。現在の日本においてこのような事件が実際に起こるとは最初の頃は信じてもらえませんでしたが、一審判決を経て、今回、より一層踏み込んだ判決を得ることができました。松永、宮村両氏から徹底的に教育され、焚きつけられた結果、家族は長期間の監禁事件を引き起こしたと考えています。こうした犯罪が過去50年近くにわたって行われ、約4300人が被害を受けてきました。中には、自殺に追い込まれた女性や、マンション6階から逃げようとして地面に落下し瀕死の重傷を負った男性もいます。私の裁判を通して、そのような現実を一人でも多くの方々に知って欲しいと思います
<後略>


カルト宗教の信者であろうと、いかなる宗教の信者であろうと、他宗教の信者であることを口実にして、キリスト教の牧師らが人権侵害を正当化するなど、もっての他であることは言うまでもない。もちろん、そんな教えが聖書によって容認されるはずがないのは明らかなので、そうした所業に手を染める牧師が、正統なキリスト教の教えに立っていないことも言うまでもない。

だが、筆者こうした事例を引き合いに出すのは、筆者自身が、村上の支持者によって「カルト宗教の洗脳を受けた信者」「マインドコントロールされた信者」「異端者」などに仕立て上げられ、インターネット上で激しいリンチのような攻撃を受けて来た事実があるためである。

むろん、拉致・監禁による他宗教の信者の強制脱会活動と、当ブログを巡って起きた権利侵害を、すぐさま同一視することはできない。筆者自身は直接的な暴力を振るわれたことはなく、監禁されたわけでもなく、インターネット上で寄り集まって当ブログに対して日夜権利侵害に及んでいる人々の間に、どのような共謀関係が成立しているのか、という点も、未だ明らかにされてはいないからだ。

とはいえ、その点を措くとしても、当ブログを巡って、村上密自身と、村上を支持する人々の側から、インターネット上で、日夜、激しい権利侵害が集団的に行われて来たことは、紛れもない事実であり、その有様は全体として見ると、不思議なほど、反カルト運動の強制脱会の手口に酷似していることに驚かざるを得ない。
 
いわば、反カルト強制脱会運動をインターネット上で実施したものが、当ブログに対して行われた権利侵害だと考えると非常に理解しやすいのだ。
 
当ブログに対するインターネット上のバッシングの発端は、2009年夏に村上密が筆者を非難するために発表した記事にある。

筆者は村上と同じ教団で幼少期から信仰を持ったが、2008年に他教会で起きたトラブルの相談のために、村上の教会を訪れ、解決を得られなかったことをきっかけに、村上の活動それ自体に疑問を持つようになり、2008~9年にかけて、村上の唱えた「カルト監視機構」の構想を検証して批判し、かつ、甲師の物語を発表して、村上ら牧師が行って来た強制脱会運動の問題点を明るみに出した。
 
ると、2009年7月に早速、村上自身がブログ上で、筆者に対する2つのバッシング記事を発表し、これがその後、長年に渡って続くネット上の当ブログへのバッシングの引き金になったのである。

これらの記事で、村上は筆者の指摘した「カルト監視機構」の反聖書性という問題にはほとんど言及することなく、むしろ、カルト監視機構は設立されていないため、筆者の記事は「誤報」であると非難し、さらに、筆者は「交流の少ない所で生活」しており「情報はインターネットが頼り」であると決めつけ、筆者は「話題作り」のための「創作」として「甘っちょろい空想」を述べ、「あなたの世界を形成」しているだけであって、なおかつ、「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」をしているだけであると決めつけ、筆者が実名を公表せずにブログを執筆している行為を暗に非難していた。

こうした村上の記述は、当初から、あたかも筆者が精神不安定な状態で、引きこもり生活を送り、非現実的な独自の世界観に基づく根拠のない空想を述べているだけであるかのような、事実に反するイメージを読者に抱かせる狙いがあったと言えよう。

要するに、村上は筆者の論に真正面から反論する代わりに、筆者が精神的に不安定な状態にあるかのように示唆する、筆者に対する人身攻撃とも受け取れる印象操作を行うことによって、村上は自分の活動を批判した筆者の論の信憑性を読者に疑わせようとしたのである。

だが、こうした記述は、単なる印象操作にとどまらず、村上自身の願望を反映したものであったように感じざるを得ない。

つまり、おそらくはこの時点から、村上は自分の活動に反対する筆者を、あたかもカルト宗教に入信した信者と同じように、「危険思想の持主」であるとみなし、それゆえ、筆者に考えを改めさせる必要がある、と認識していたのではないかと思われる。
 
そこで、村上はできるならば、筆者が「誤った考え」をことごとく捨てるまで、実際に筆者を自由の制限された、「交流の少ない所で生活」させて、偏った一方的な情報しか受けられない状況に置き、再教育を施さねばならない、という危機感を持ち、これを願望として、以上の非難の中に込めたのではないかと疑われるのである。

その疑惑は、村上の批判がその後、杉本徳久にバトンタッチされて、どのように受け継がれ、発展させられて行くかを見れば、より深まって行く。
 
村上がこうした記事を発表した直後から、杉本徳久からの筆者に対するバッシングが始まった。(杉本は以前には村上を偽預言者と同列に置いて非難していたが、その後、立場を翻し、カルト被害者を助ける牧師が他にいないという理由で、村上の活動を支持するようになった。)
 
次の記事にも杉本のメールを示す通り、2009年11月、村上の活動に疑問を抱いたことをきっかけに、筆者はカルト被害者救済活動そのものと訣別したいと考え、その意思表示を行って、杉本のブログにかつて投稿した1件のコメントを削除してもらえるよう依頼すべく、杉本に宛ててメールを送った。

しかし、杉本は筆者の依頼に激怒して、これを拒否したにとどまらず、筆者が「匿名に隠れている」と非難して、筆者に個人情報を明かすよう執拗に要求し、筆者がそれに応じないことにさらに激怒し、また、筆者が「エクレシアの兄弟姉妹との交わり」の中にいるとメールに記していたことに、とりわけ強い不快感を示し、「あなたからは、一切、謙虚な心が感じられません。そのままであれば、私に限らず、これからも多くの人から拒絶されるであろうと思われます。」などと書き送って来たのである。

杉本のメールの文面は次の記事に掲載する通りであるが、このメールをやり取りした直後に、杉本が筆者をバッシングするために発表した一連の記事で使われた非難の言葉を見ると、杉本の筆者に対する非難は、村上の主張を土台とし、これをさらに発展させて、筆者を中傷するものであった様子が伺える。

一例を挙げれば、

村上「創作」、「誤報」、「甘っちょろい空想」
⇒杉本「妄想」、「思い込み」、「作り話」、「市井の良識から外れた文面」

村上「藪の中から石を投げて顔を出さない無責任な生き方」
⇒杉本「匿名に隠れている」

村上「交流の少ない所で生活」、「情報はインターネットが頼り」
⇒杉本「まともな職に就けず」、「社会的受容を受けられず」

村上「あなたの世界を形成」
⇒杉本「「現実と妄想の区別がつかない」、「精神疾患」、「人格障害」、「宗教洗脳」
 
杉本による当ブログへの非難は、約10年間ほど続けられ、その間、杉本は幾度となく、筆者が杉本にとって不都合な言動をやめなければ、筆者の個人情報を公開すると脅しつける内容のメールを送って来た上、2016年頃からは、筆者を刑事告訴すると予告、さらにその非難の内容は時を追うごとにますますエスカレートして行き、ついに2017年頃には、次のような記述により、筆者の信念をあからさまにキリスト教の異端であると決めつけては、筆者はカルト宗教による重症の宗教洗脳(マインドコントロール)を受けて、現実と妄想の区別がつかなくなり、社会生活を送れない重症の精神障害に陥っているかのように、事実に反して決めつけて誹謗中傷するようになった。

「まともな職にも就けず、強い孤独感、孤立感に苛まれ、社会的受容を受けられず、職業的自尊心も持てない現状に、ヴィオロンが苛立っていることに起因している。キリスト教的な異端新興宗教を次々に吸い込み、極限的に妄想を募らせた結果のことであった。」

むろん、こうした記述が、一審で名誉毀損と認められ、賠償命令が下される対象となったことは言うまでもないが、筆者はこうした杉本の記述のすべては、杉本一人の思いつきというよりも、それ以前から、強制脱会活動に携わって来た村上の願望を杉本が代理で言い表したものであるように感じられてならない。

2009年に村上は筆者に対する非難記事を掲載したが、その記事の反響を見て、牧師としての自分が直接、信徒を非難することは自分にとってマイナスイメージになると考えたのではないか。そして、本当は自分自身がバッシング記事を掲載したかったが、同じ頃、杉本が折よく筆者と対立し、次々と筆者を非難する記事を投稿するようになったので、村上はこれ幸いとばかりに沈黙を決め込んでいただけではないかと見られる。
 
筆者から見ると、杉本が表明した当ブログへの非難は、あらゆる点から見て、村上の願望を代理として言い表したものでしかなく、杉本は村上の願望を忖度してこれをかなえるためにこそ、当ブログや筆者に対して敵対的に行動し、一連の人権侵害に及んで来たとしか思えないのである。

もしも杉本と村上との間に何の協力関係もなく、杉本による権利侵害が、杉本が単独で行ったものであるならば、村上が未だに自らのブログで、一度も杉本に対する判決を明らかにせず、杉本の不法行為を非難していないことはおかしい。

もっと解せないのは、杉本が一審判決により口を封じられたことを機に、その後、2009年以来、当ブログに対して沈黙を守って来た村上が、いきなり10年来の沈黙を破って、直接、筆者に対する権利侵害に及び、筆者を糾弾し始めたことである。

この他にも、たとえば、杉本は筆者を刑事告訴すると言いながら、結局、告訴状の提出にも至らなかったが、その後、村上は、筆者を刑事告訴したなどと記事で発表している。この点においても、実は、筆者を誰よりも刑事告訴したかったのは、杉本ではなく、村上本人だったのではないかと考えられずにいられない。つまり、筆者から見れば、杉本は村上の願望を忖度して行動していただけなのである。

そう考えると、杉本が筆者に「異端宗教にマインドコントロールされて現実と妄想の区別がつかなくなった信者」であるかのような濡れ衣を着せ、筆者が社会生活が送れない状態にあるかのように触れ回り、筆者を精神的に追い詰め、まるで自殺させることが目的であるかのように、ひたすら名誉毀損行為を続けたのは、先の記事で見たように、村上ら強制脱会活動家の牧師たちが、カルトに入信した信者らを「救出(脱会)」させるという名目で、アパートの密室に拉致・監禁し、カルト宗教における集団生活から引き離しただけでなく、社会生活からも引き離し、自分たちに都合の良い一方的な情報だけを与え、自由を奪って棄教を迫りながら、延々と叱責や説得を続けた行為を彷彿とさせる。

ちなみに、筆者は過去に異端の宗教に入信したことは一度もなく、筆者がかつてカルト被害者という言葉を口にしていたのも、ただ単に牧師による行き過ぎたワンマン運営が行われるプロテスタントのカルト化教会でトラブルに遭遇した事実を指すために使っていたに過ぎない。

筆者は幼い頃から一度もキリスト教以外の宗教を信じたことはなく、カルトに入信していた過去もないため、誰かから「異端者」と決めつけられねばならない理由もなければ、説得工作の対象とされる理由もない。そして、筆者は生粋かつ本物のキリスト者であるから、どのような試練を受けとしても、聖書への信仰を捨てるつもりはない。

しかしながら、その生粋かつ正真正銘のキリスト教徒を自認する筆者でさえも、村上ら強制脱会活動家の牧師らによる人権侵害を伴う脱会工作には、絶対に賛同することはできず、かえって統一教会などの他宗教の信者の人権を擁護せざるを得ない。そして、ついに統一教会に入信していたわけでもない筆者までも、村上の支持者によって、統一教会の信者らと同じように「キリスト教の異端新興宗教」に次々と入信しては誤った道を歩いて来たカルト信者であるかのように仕立て上げられたのであるから、こうなってはもはや筆者が強制脱会活動家を擁護する理由は何もない。

マインドコントロールの第一段階は、信者が入手できる情報を、一方的で限られた内容に絞り、それ以外の情報から遮断して、信者自身が情報を取捨選択したり、様々な情報を比較しながら、何が真実であるかを検討することができないように仕向けることにある。

信者を長期に渡り、密室に監禁し、脱会活動に関わる牧師たちや、その影響を受けた親族の言い分以外に情報が入って来ない環境に置くことは、信者が自分自身で物事を客観的かつ公平に判断するための前提条件を奪い去って、マインドコントロールを成し遂げるための第一歩である。

強制脱会活動家の牧師たちは、カルト宗教のマインドコントロールを解くとい名目で、信者を不自由な環境に束縛しておいて、その環境を利用して、今度は、自分たちが彼らにマインドコントロールをしかける側に回った。

以上の記事では、脱会活動家の牧師たちが、信者に「誤った信念」を捨てさせるために、10年以上もの間、密室に監禁し、限られた情報しか与えず、仕事にも就かせず、社会から隔離し、ついには精神を病んで社会復帰も不可能になるほどまでに追い詰めていた事実が確認できる。

まさに形態は違えど、村上とその支持者から、当ブログに対して約10年間にも渡り、しかけられた誹謗中傷を彷彿とさせるような話ではないか? 

つまり、筆者から見れば、杉本は村上を支持し、村上の意向を忖度して動いていたとしか思えないのだが、その杉本が、筆者があたかも「カルト宗教の重症のマインドコントロール」に陥っている信者であるかのように見立てて、ネット上で激しくバッシングしていたのは、彼らの側が、筆者の信念を「誤った考え」とみなし、筆者がこれを捨てるか、もしくは筆者が「棄教」に応じない場合には、その懲罰として、筆者から社会生活を奪い去る目的で、激しい誹謗中傷という「説得工作」を行っていたと見られてならないのである。
 
幾度も述べた通り、筆者にはとてもではないが、以上のような虚偽に満ちたストーリーを杉本が単独で思いついたとは思えないのである。また、当時、杉本ブログには、筆者に向かって「聖書を捨てよ」と呼びかけるコメントも多数、投稿されていたことを見ても、彼らの投稿は、単なる中傷を目的としたものではなく、筆者に聖書に基づく自己の信念を捨てさせることが目的であった様子が伺えるのである。

こうしたネット上のバッシングは、筆者から見て、まさに強制脱会活動家らが、互いに権利侵害に加担している証拠が残らないよう巧みに立ち回りながら、その裏で情報交換を行い、計画的に話し合いながら、「異端者」とみなした信者を社会生活から引き離し、密室で「誤った信念」を放棄するよう、長期間、懺悔や「棄教」を迫るための人権侵害を伴う説得を繰り返していた様子を思い起こさせるものである。
 
彼らの当ブログと筆者に対する「脱会工作」(とあえて呼ぶ)は、今年に入ってからは、特に苛烈を極めた。杉本ブログが一審判決によってとどめを刺されてからは、今度は、誹謗中傷の舞台は村上ブログと掲示板に移り、掲示板では、見も知らない投稿者が、朝から晩まで絶え間なく寄ってたかって集団で、筆者に対する誹謗中傷のコメントを書き連ね、筆者に「誤った信念」を放棄し、村上・杉本陣営に降伏して「棄教」するよう求めた。

そうした投稿はすでに数千件に達しているが、その中には、筆者がジャンヌ・ダルクをきどっているとか、王妃エステルを自称しているだとか、ありとあらゆる方法で、筆者の信念を嘲笑・誹謗することで、杉本・村上の行為を悪事として訴えている筆者が、自らの考えを放棄して、訴えを投げ捨てるよう要求する容が記されていた。

こうした出来事は、筆者から見ると、まさに強制脱会活動家らが、信者を24時間密室に監禁して監視し、そこで絶え間なく信者の考えを誤りであると決めつけては論破しながら説得工作を行っていた様子に酷似するものである。

24時間、まるでラウドスピーカーでがなりたてるがごとくに、一人の信者に対して、「誤った信念」を捨てるよう、罵倒や叱責や嘲笑や非難の言葉をひたすら浴びせ続けるのである。とてもではないが、こうした出来事が偶然に起きうるものだと考えることはできないし、そう考える人もおそらくないのではないか。必ず、仕掛け人がおり、計画的に行われたことであるとみなさざるを得ない。
   
彼らが集団で信者を追い詰めたやり口は、以上に挙げた以外の観点から見ても、強制脱会活動の手法に非常に酷使している。

2017年以後、杉本は筆者のみならず、筆者の親族まで、ブログにおいて揶揄や中傷の対象とし始めたが、掲示板でも同様に、盛んに親族関係を利用した誹謗中傷が起きた。強制脱会活動においては、家族を巻き込んで大々的な人権侵害を行い、信者に心理的プレッシャーを与えて棄教を促すことが定石となっていたことはすでに確認した。

その他、先の記事にも書いたように、筆者の裁判を支援してくれているように見えたカルト被害者たちも、判決と同時に態度を翻したことを考えると、彼らも表向きには村上を批判しているように見えたが、実際には、そうでなかった可能性も考えられる。

先の記事で挙げた手記でも、強制脱会を行う牧師らは、元脱会者や元信者の家族を手先として利用しながら、新たにターゲットとする信者の情報を引き出し、信者を追い詰めていた事実が確認できるのである。
 
また、この他にも注目される点は、2010年頃から筆者は杉本の行為を嫌がらせとして警察に相談を行っていたが、杉本は筆者が警察に助けを求めたことにとりわけ強く反発し、筆者の被害相談を「狂言」だと決めつけて嘲笑していたことである。

2017年以降、杉本は次のような内容を次々と記事に書いた、「(ヴィオロンは)神奈川県警に「被害相談」をしたが、全く担当刑事に相手にされず事件として調べてもらうことさえ叶わずすぐに門前払いになっている。」「神奈川県警に「被害相談」をしたものの、頭がおかしい狂言と扱われ門前払いを受けた」「「迷惑行為」の張本人こそ彼女であって、彼女にはその自覚と認識が皆無である。」 

杉本のこのような記述は、強制脱会活動家の牧師たちや、その手先となった家族らが、拉致・監禁した信者が警察に助けを求めても、かえって信者自身が「精神異常者」ではないかと疑われ、「頭がおかしい狂言」とみなされて相手にされないよう、計画的に振る舞っていた様子を思い起こさせる。

実際に、杉本はこうした記事の発表により、筆者が精神異常に陥っているかのような虚偽のプロパガンダを流布するのみならず、筆者に先んじて、警察官らを自分たちの側に取り込むべく、筆者を中傷する準備書面などの裁判資料を、神奈川警察署に大量に送りつけていたことも判明している。

むろん、杉本は、筆者が司法の場を利用して、紛争解決を試みた際にも、筆者の訴えが虚偽であるかのように見せかけるために、筆者をしきりに精神異常者であるかのように吹聴する記事を大量投稿した。

それらの記事において、杉本は筆者が「司法制度を理解していない」と決めつけ、「ヴィオロンの調停申立書の内容は初めから最後まで意味不明の宗教論、神学論で溢れかえっており、法的な意味は全くない」とか「事実と妄想との区別がつかない彼女の文章」、「一読しただけではったりの虚偽がいくつも混じっていることはわかる」などと決めつけ、筆者の訴えが決して世間の人々に真面目に受け止められることがないよう、あらん限りの言葉で罵倒・嘲笑した。

さらに杉本は、「もちろん、警察官も裁判所書記官も公務員であるが、いざとなればこうして罵り続けてきた「公務員」に助けを求める。」などと、そもそも筆者が警察や裁判所に助けを求める行為自体が、あるまじきものであるかのように非難し、筆者が自分の人権を守ろうと手立てを講じる行為を徹底的に罵倒、否定したのである。

また、杉本は筆者の人権意識そのものが誤りであると決めつけ、「彼女にとっての人権感覚や規範意識は、21世紀の現代国家に相応しいそれではなく、ヴィオロンの脳内のみに通用する空想ユートピアの規範に準拠しており、市民社会の秩序に沿っていない。」とか、「そのような空転した脳内の事実を妄想ではなく現実だと本気で信じ込んでいる点がヴィオロンの洗脳状態を如実に物語っている。」などとして、筆者は「カルト宗教の洗脳」のために、物事の正常な判断がつかなくなって、無意味な騒ぎを起こしているだけであると徹底して中傷した。

こうした記述は、むろん、名誉毀損に相当するのだが、そのことをさて措いても、これはまさにカルト宗教から信者を拉致・監禁によって奪い去った強制脱会活動家が、自らの人権侵害を覆い隠すために、信者を「精神異常者」に仕立て上げた手口とそっくりではないか?

気の毒なことに、何カ月、何年間、もしくは10年以上もの長期に渡る監禁生活の中に置かれた信者たちの中には、その後遺症のために、当初は健康かつ正常であったのに、重症のPTSDを発症したりして、まさに強制脱会活動家の牧師らの望む通りに、社会生活が送れなくなった人々も存在する。もちろん、脱走に失敗して後遺症を負ったり、自殺した人々もいることは、以上の記事に記されている。

筆者も、もしも筆者以外の人間が、筆者と同じ状況に置かれ、これほど激しい人権侵害を伴う「説得工作」を毎日のように受ければ、おそらく2日程度で命を絶つだろうことを疑わない。だからこそ、筆者は実名で裁判に及んだ経験のあるカルト被害者に対しては、無責任に陰口を叩くだけで終わらず、自ら村上ら牧師を告発すればどうかと提案しはするものの、それ以外の無関係の人々に対しては、筆者と同じように告発に及ぶことは、決して勧めないのである。

このような試練は、よほど強力な信仰があって、覚悟のできた人間でなければ、立ち向かうことのできないものである。そして、筆者は信仰によって準備が出来たので、これに立ち向かうと決めたが、それに際して、誰もこの嵐のような中傷に巻き込まれたり、精神的に人質にされたりすることがないよう、あえて戦略として一人でこれに対峙することとしたのである。

(*むろん、この試練を通過すれば、神は筆者の人生に多くの仲間や兄弟姉妹など神の家族を返して下さるであろうが、今のところ、筆者は誰もこうした中傷に巻き込まれることがないよう、周囲の人々に対して相当な配慮を払っている。)

もう一度言うが、筆者は自分を敬虔かつ筋金入りのキリスト教徒とみなしているが、以上のような人権侵害に及ぶ強制脱会活動家の牧師たちが、本物のキリスト教徒であるとは断じて考えていない。

彼らがキリスト教徒を名乗っているのは、うわべだけの偽装に過ぎず、彼らの活動の真の目的は、あらゆる宗教に対する迫害、とりわけ、キリスト教に対する迫害を行って、教会と信者に打撃をもたらすことであり、彼らの活動の本質は、聖書の神に逆らう悪魔的運動であると、筆者はかねてより主張している。

彼らは自分たちの信念があたかも正しいキリスト教信仰であって、カルト宗教にまさるものであるかのように考えているようだが、実際には、カルト的信仰を振りかざし、信者にマインドコントロールを施しているのは、まさにこれらの強制脱会活動家の牧師たちの側なのである。

そして、彼らは巧妙に人権侵害の証拠や共謀関係の証拠が残らないように、手先となる信者を矢面に立たせ、自分たちは多くの場合、陰に引っ込んでいるが、筆者はネット上で行われた集団リンチのような中傷も、強制脱会活動家の強い影響の下で行われたものであることを疑わない。
 
いわば、神の教会と信者に打撃を与え続けて来た本物の「異端者」とは、これら強制脱会活動家たちの方なのである。「カルトを防止する」、「異端を駆逐する」などの理由で、キリスト教界に自前の異端審問所を設け、信者を刑事告訴したり、魔女狩り裁判を行おうと意欲を燃やしつつ、大審問官のように君臨しているこの連中こそ、まさに異端者と呼ばれるにふさわしい人々であって、彼らの率いて来た反カルト運動・強制脱会活動は、筆者のような真実なキリスト教徒にとっては、信仰に対する迫害であるばかりか、キリスト教の恥であり、汚点でしかない。 

この人々は、自らの正体を暴かれないよう、自分たちの活動の危険にいち早く気づいたキリスト教徒を率先して駆逐しようと、異端者の濡れ衣を着せて来ただけのことである。

つまり、反カルト運動すなわち強制脱会活動は、うわべだけキリスト教に偽装しているものの、その本質は、あらゆる宗教に対するのべつまくなしの迫害運動であり、何よりもキリスト教に対する迫害運動なのだと言える。

筆者は2008~9年にそのことを見抜いて指摘したからこそ、それ以後、現在に至るまで、異端者と呼ばれ、カルト宗教の信者と同列に並べられて、彼らの迫害の対象とされ、誹謗中傷による説得工作と、魔女狩り裁判(告訴)の対象にまでされているのである。

だが、筆者にとって異端者のレッテルなどどうでも良いことである。キリストは常に罪人の仲間とみなされてパリサイ人や律法学者から悪口雑言を言われたのであり、強制脱会活動家が他宗教の信者に対して行って来た拷問のような責め苦のことを思えば、筆者はこのような恐るべき人権侵害に加担するくらいならば、むしろ、異端者と決めつけられ、苦しめられる側に立たされることを幸いに思う。

そこで、今、反カルト運動という悪しき異端審問の犠牲とされて来たすべての人々のために、筆者は立ち上がってこれを悪行として世に訴え、教会をこれらの偽りのキリスト教徒の魔の手から奪還したいと考えている。筆者の起こした紛争は、そのための口実に過ぎず、本当の目的は、心の割礼を受けていない無法者どもの手から、教会を解放することにある。

筆者自身も、彼らの魔の手から完全に解放されねばならないが、その他にも大勢、解放されねばならない脅しつけられた人々が存在する。キリスト教徒であるかのように偽って、こうした悪行に手を染めた者たちは、したたかに裁かれ、神の教会から手を引いて、恥をこうむり、退却せねばならない。

* * *

<続く>





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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