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「イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。

わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本姓から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは、神に属していないからである。」(ヨハネ8:42-47)

* * *

筆者にはある時に分かった。この世に完全犯罪というものはないのだと。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」だ。

この世には2種類の父しかいない。真実しか語ることなく、私たちを決して欺かず、子として養って下さり、すべて必要なことを教えて下さる天のまことの父なる神と、私たちを騙し、盗み、滅ぼすために近づいて来る偽りの父(=悪魔)と。

悪魔は巧妙に嘘をつき、時には光の天使にも偽装するものの、その理論には必ずほころびがあることも分かった。

つまり、真理には矛盾はないが、嘘には必ず自己矛盾が含まれている。悪魔のロジックには、必ず、論理破綻があり、その論理破綻を明るみに出すことで、敵の嘘は崩壊するのだと。

一つ前の記事に引用したこの御言葉。ここには激しい霊的戦いの様子が記されている。

だが、その「戦い」とは、私たちの言葉を巡る戦いなのである。

「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:3-5)
 
まず、次のフレーズについて考えてみよう。

「わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。」

ここで言われている「武器」とは何か? もちろん、神の御言葉、聖書の真理のことである。

細かい武器の種類は、エペソ書でも触れられているが、最も主要な武器は、御言葉の剣である。

「というのは、神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 」(ヘブル人への手紙4:13)


神の御言葉、それが敵の要塞を破壊するに足る強力な武器となるのだ。

神の御言葉が、物事の真偽を切り分け、レントゲン写真が小骨まで写し出すように、すべてのものを裸にするように、事の本質を明るみに出して行くのである。

私たちは御言葉を使って、物事の是非を検証する。それによって、嘘は嘘として正体を暴かれ、効力を失い、信用が失墜し、崩壊して行くのである。
 
次に、敵の「要塞」とは何のことだろうか? それは悪魔から来た、嘘で塗り固められた理論(偽りの思想)のことである。

「わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し、」

と書いてある通り、敵の要塞は、屁理屈によって固められ、神に逆らう高慢という偽りの知恵によって防衛されているのである。

そして、敵の偽りを信じた人々が、敵の要塞を兵士のように守っている。

敵の要塞はいかにして破壊されるか。

御言葉の剣によって、真理と嘘が切り分けられ、嘘の嘘たるゆえんが暴かれることによってだ。それが屁理屈に他ならず、神に逆らう高慢であることが明るみに出されることによってだ。

そうして、嘘の嘘たるゆえんを明るみに出すことが、「わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し」と言われていることの意味なのである。

だから、これは間違いなく、言葉による激しい論戦であり、思想対思想の戦いである。

「あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、」

とは、私たちのさまよう思考、自己から出たのか、神から出たのかはっきりとしない計画などを、すべて判別し、私たちの思いのすべてをキリストに従わせることを意味する。

先の記事にも書いたように、「キリストの思い」を持つこと、「わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:16)と、はっきり言える状態になることだ。

パウロは言った、「だから、あなたがたは食べるにしろ飲みにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(1コリント10:31)と。

つまり、私たちの生活の隅々に至るまで、すべての思い、すべての挙動が、神のため、キリストの栄光を現すためになるほどまでに、私たちの心が神に捧げられることが必要というのだ。

「あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」

これはどういう意味か。私たちの心が完全に神に従うものとなり、キリストの思いを持つようになるとき、私たちの従順が完全なものとなり、ゆえに、不従順な者が罰せられる時が来る、という意味だ。

私たちが不従順な者を罰するのか、それとも、神ご自身が彼らを裁かれるのか、どちらなのかは分からない。これはサタンの終わりのことを意味していると言えるし、また、私たちが遭遇する個々の霊的戦いにおいて、敵が敗北するその瞬間のことを指しているとも言える。

いずれにしても、この霊的な戦いには、ある法則性があることが分かる。

それは、第一に、神の御言葉に従って、敵の思弁を見分け、これを喝破して撃退することが必要であること。

第二に、私たちの神への従順が、敵(サタン)の敗北と密接な相関関係があるということである。

従って、霊的な戦いに勝利するためには、ただ敵を糾弾しているだけでは不十分であり、私たちの神への従順が完成されたものになる必要がある。

そのことは、旧約聖書において、イスラエルの民が神に背く度毎に、捕虜となったり、敵の襲来を受けたり、国が荒廃を続けた様子を見ても分かる。その苦しみの中で、民は神に立ち返り、救いを求めて叫んだのである。

従って、この霊的な戦いは、私たちを取り巻く外的な世界(この世)と私たちとの戦いでもあれば、私たち自身の内側で繰り広げられる神への従順を巡る戦いでもある。

過去のトラウマだとか、人間関係や、職歴、入信歴、性格や考え方がポジティブか、ネガティブか、などが問題なのではない。

生まれも、出自も、両親がどんな人間か、兄弟がいるか、今どんな家に暮らし、どれだけの財産があり、配偶者はいるか、家族は何人いるか・・・そういうことも一切関係がない。

ただ私たちが神に対してどのくらい従順なのか、それだけが、すべてを決める決定打なのである。
 
だから、その戦いを始めるに当たり、私たちはまず、一体、我々は誰の側に立つのか、それをよく考えて決めなければならない。

私たちは誰を擁護するために立つのか。

それは生涯の問題である。

悪魔に属し、滅びが決定している堕落した自己を擁護するために生涯をかけるのか。

それとも、悪魔の王国の奴隷となっていたあなた自身を、そこから完全に贖い出し、自由にして下さった方の正しさを擁護するために立つのか。
 
何か重要な作戦を決行しようとするときには、いつも最悪の事態を想定しておかなければならない。軍隊を敵国に送って戦いをするに当たっては、戦争が思いもかけず長引いた場合に、どれくらいの費用がかかるかもよく考えておかなければならない。十分にその出費をまかなえるだけの軍資金をまずは用意しなければならない。

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」(ルカ14:25-33)

キリストの十字架の意味を知ったとき、筆者は、それ以後の人生を、神に従って送ることを決めた。二度と過去には戻らないこと、二度と偽りには戻らないこと、二度と堕落した自己には戻らず、神に従って生きることを決意した。

しかし、その時、その生涯が、戦いの連続となることを、筆者はまだ知らなかった。ただ贖い出されたという喜びのゆえに、危険は去り、すべての戦いは終わったかのように思っていたのである。

だが、実際にはそうではなく、ほんの少しの静けさの後、筆者を何としても古い世界に引きずり戻そうとする恐ろしい力が後を追って来た。

それに対し、筆者は自分のすべてをかけて、贖いを掴み取り、守り抜き、神の正しさを擁護して立ち仰せなければ、真理のうちにとどまることができず、敵の捕虜とされて引いて行かれ、敗北に至るしかないのだと分かったのである。

クリスチャン生活がそのような戦いの連続になると、知っている人は非常に少ない。

神を信じれば、ハッピーな人生が待っており、その後は、平和と喜びだけに溢れて生きられるなどと思い込んでいる人々は多い。

だが、キリストへの信仰は、ご利益信仰ではないのだ。

もちろん、神は信じる者たちのために多くの恵みを用意して下さるが、それが私たちの終局的な目的ではない。

そういうわけで、筆者が理解しておらずとも、すでに霊的な戦いは火蓋を切っており、筆者はその戦いに勝利するための法則を、誰からも教えられることなく、神ご自身から教わりながら、今日まで身をもって実地で学ばねばならなかったのである。

ある人々は、この世で自分の人生が上手くいくかどうかは、自分の努力と準備次第だと考えている。裁判で勝ちたい人々は、多くの証拠と書面を準備し、弁護士のもとへ相談に行き、首尾よく就職したい人々は、有力なコネを探し、面接の受け答えを練習し、履歴書の書き方を工夫する。幸福な結婚をしたい人は、容姿を磨き、目当てとする人がいそうなパーティーに顔を出し、知人にも紹介を頼み、婚活にいそしむ。

だが、物事の勝敗は、そんな努力や準備が握っているのではない。

私たちがどれだけ神の方を向き直るか、どれだけ光の方を向くか、ただそれだけが、私たちの人生のすべてを決める分かれ目なのである。

もっとはっきり言えば、神が私たちの味方をしたいと願って下さるように生きなければ、私たちの願いは何一つかなわないで終わる。

私たちがどんなに自分の内側を探っても、私たちの自己の中には何一つ確かなものがなく、我々の存在は、光に照らされなければ、無から無へと消えて行く暗闇のようなものでしかない。

だから、ただ神が、私たちの思いや願いに承認を与え、私たちの心の思いに一つ一つ、注意深く、耳を傾けて下さり、私たちがまだ何も語らない先から、私たちの願いに喜んで応えて下さりたいと願われ、私たちの生き様を、愛によって包み、尊厳によって覆って下さらなければ、私たちはたちまち、闇の中へ突き落とされ、敵の襲来の中で消えうせて行くしかない。

神が私たちの敵を打ち滅ぼし、私たちをすべての悪から救い出し、清い真っ白な衣を着せて、高貴な人として立たせて下さりたいと、心から願って下さらなければ、私たち自身が何をどんなに努力し、主張したところで、私たちの人生には、何一つ成就するものがないのである。

「神を味方につける戦い」

そのような言葉を使えば、多くの信者たちは、眉をひそめるかも知れない。

「ヴィオロンさん、あなたは神を打出の小槌みたいに、自分の願いをかなえる道具にしようとしているのですか」と。

そうではない。筆者はあくまで真剣に語っているのだ。

筆者は知っている、以上のような戦いをするために何が必要か。

その答えが、上記の御言葉なのである。

自分のすべてを神に捧げ、世人を喜ばせるためでなく、自分自身を喜ばせるためでもなく、ただ神を喜ばせることを第一にして、生涯を送ることである。文字通り、全生涯を神に捧げ、自分のすべてを、持ち物の一切を捨てて、主なる神に従って生きることである。

そういう決意を、かつて筆者はしたつもりであったが、まだ足りなかった。筆者は霊的戦いの激しさも、それにかかる費用のことも、よく知らなかったのである。だからこそ、建てようとしても、建て上げることができず、その度毎に、敵の嘲りの的となったのである。

それは、まだまだ費用の計算が十分でなく、すべてを捧げ切るということが何を意味するのか、筆者自身が知らなかったためである。

だが、筆者が知らなかったことについて、神は筆者に責任を追及されない。だから、後悔は全く必要ない。過去にこうすれば良かった、ああすれば良かった、と考えるのは、時間の無駄でしかない。パウロもこう言っている。

「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。 なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ3:12-14)
 
神は忍耐強く私たちを教え、戦いに必要なすべての知恵を与えて下さる。

そこで、ある時に筆者は口先だけでなく、はっきりと理解したのである。

この戦いに勝利し、救いの確信を守り切るためには、残る生涯、何もかも、本当に何もかもを、神のために捧げ切る以外に方法はないのだと。

それをしなければ、与えられた贖いの完全性を保つことさえ、できないで終わるのだと。

神は筆者に尋ねておられる。

「あなたはどこまで真剣なのですか。どこまで私のために捧げる覚悟がありますか。あなたが真に願っているのは、何ですか。自分にとっての楽しみ、この世での成功、人に侮られないことですか。それとも、孤独にならないことですか。人に愛されることですか。

あなたは本当に私に従って来るつもりがありますか。人の愛ではなく、私の愛を求めますか。私のために、あなたは何を差し出すのですか。すべてを捨てても、従順である覚悟がありますか」

筆者は気づくと紅海の前に立たされていた。後ろには、筆者を奴隷に引き戻そうとするエジプト軍の追手が迫っている。前には海しかない。この海を渡るには、奇跡が要る。その奇跡を起こすためには、筆者が人類の一員をやめるしかないのだ。

古き人類の一員のままで、この海を渡ることはできない。なぜなら、古き人は、みな罪に堕落しており、奴隷であって、古き人から構成される軍隊は、筆者に対し、奴隷としての債務証書を突きつけ、奴隷の世界へ戻るよう命令しているからだ。

彼らは言う、筆者の人類への借りは多すぎて、返せないと。それは筆者が生涯、苦役に服しても、返せないほどの天文学的な負債に達していると言う。

だから、彼らは筆者には逃げる権利がなく、それにも関わらず、ここまで逃げて来た筆者は、逃亡者であって、反逆者であって、狂人であり、引き戻されて、収監される以外に道はないと言う。筆者の発言は、妄想であって、思い込みであり、世迷い事でしかなく、筆者には、彼らの手に落ちて奴隷として引いて行かれ、生涯を苦役に費やす以外に、道はないと言う。

筆者は全人類に対してあまりにも大きな罪を犯し、人類を侮辱した罪により、死刑に処されるしかないというのだ。

そんな言い分をどうして聞けようか。そんな世界に戻ることに、何の希望があるだろう。筆者は彼らの怒号の前に、この人々からどれほど憎まれ、排斥されようとも、全く構わず、彼らが何を言おうと、この呪われた世で受けるすべての富と栄光を断ち切り、彼らとの絆を完全に断ち切って、ただ神の側につくことを宣言する。

筆者は主と共に十字架につけられて死んだのだ。主が身代わりにすべての刑罰を負われ、筆者を自由にしたのだ。それにも関わらず、彼らは何を叫んでいるのか。彼らの債務証書はもはや無効であり、筆者を縛る自由はないというのに。
 
だが、主は筆者に覚悟を問われる。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。

父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」

これはもういい。もはや肉なる絆に未練を持とうとは思わない。

「更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」

分かりました、と筆者は言う。

王妃エステルは言った、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」(エステル4:16)

筆者はとうにその覚悟を固めたと思っていたが、まだ不十分だったのである。

筆者は言う。
 
主よ、この戦いは、筆者の命などとは比べものにもなりません。ここには、あなたの救いの正しさが、全人類への贖いの価値がかかっているのです。筆者が何度死んでも、あなたの御業の正しさは永遠に立ちおおせます。ですから、私は私の命を憎みます。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

一体、この世の持ち物が、御言葉の正しさを守るための戦いの前で、どんな価値を持つだろうか。

あの蛇のような人々の言い分が嘘であることが証明されるなら、筆者には、何も要らない。一生、十字架の死の中に留まり続け、一生、世の楽しみのすべてを失って構わない。

そんなものとは、到底、比べものにもならず、引き換えにもならない価値が、ここにかかっているのだ。

そういうわけで、どんな犠牲を払ってでも、筆者はその戦いにとどまり続けることに決めた。そのために、筆者の持てるすべてのものを捧げ切り、戦い抜くことを。

たとえ約束のものを見ないまま死んでも、筆者は生涯かけて、それを達成することを決めたのだ。

主よ、だから、覚えて下さい。あなたが私たちのための道であり、真理であり、命なのです。私たちの栄光のためではなく、ただ主よ、あなたの栄光のために、すべてを成就して下さい。あなたご自身の正しさと栄光のために、すべてを証明し、私たちに勝利を授けて下さい。

そうして、筆者は、神が約束して下さった贖われた完全な人を着るまで、決して諦めることなく、進んで行くことを決めた。もはや、筆者の人生などない。いや、それは筆者の人生ではない。

「もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、私は自分が違反者であることを証明することになります。

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の御子に対する信仰によるものです。

わたしは神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味となってしまいます。」(ガラテヤ2:18-21)

昔、キリストには代えられません、という讃美歌をよく歌っていたのを思い出す。

だが、その讃美歌には何か足りないものがあった。筆者は、主が私たちのために死なれた、というだけで、すべてを捨てて主に従うのではない。

キリストが私たちのために死んで、よみがえり、私たちのために、永遠の命を用意して下さり、私たちのために、真に完成された新しい人として、ご自分の人格を与えて下さり、天に完全で揺るぎない都を用意され、そこに私たちの住まいをもうけて下さっているからこそ、私たちも、すべてを捨てて、主に従って行くのだ。

アダムは失敗したが、神はキリストを通して、神の願いにかなう新しい完全な人を準備して下さった。この新しい人を着、天の都を目指して進むためにこそ、私たちはこの世から贖い出されたのであり、すべてを捨てて、主に従うのである。

それは、そこに約束されたものが、この世のすべてと引き換えにしても、はるかにそれ以上に勝ったものだからである。

そういうわけで、たとえ目の前に道がないように見えても、筆者は二度と、もと来た道には戻らない。たとえ死んでも、古き世界に引き戻されるつもりはない。嘘ばかり吐いている人たちは、退却するが良いのだ。彼らには紅海を渡り切ることはできまい。なぜなら、道であり、真理である方を、彼らは知らないからだ。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたのです。」(ヘブライ11:13-16)

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「わたしたちは肉において歩んでいますが、肉に従って戦うのではありません。わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります。わたしたちは理屈を打ち破り、神の知識に逆らうあらゆる高慢を打倒し、あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ、また、あなたがたの従順が完全なものになるとき、すべての不従順を罰する用意ができています。」(2コリント10:3-5)

* * *

安倍政権の終わりが近づいている。

政府のコロナウィルス対策の失敗、検察庁人事介入法案の廃案や、元自民党の河井議員夫妻の逮捕などが相まって、安倍政権の支持率が落ち続けている。こんな記事もある。

安倍政権に激震、河井夫妻逮捕を上回る「給付金スキャンダル」の破壊力

9月に解散総選挙などの噂も流れるが、それで乗り切れるとは思えない。これまで数々の奇策により、どんなに恐るべき腐敗が明るみに出されても、持ちこたえて来た内閣も、いよいよ終わりの時に差しかかっている。

その中で、またもや政府が悪だくみをしている。
 
マイナンバーとスマホ 連携検討 免許証と連携に加え

6/23(火) 12:00配信
 
政府がマイナンバーカードとスマートフォンの一体化を検討していることがわかった。

政府関係者によると、利用が低迷しているマイナンバー制度の普及促進に向け、政府が、将来的にマイナンバーカードとスマートフォンを一体化させることを検討していることがわかった。

一方、政府は23日に開いた会合で、マイナンバーカードと運転免許証や国家資格証、在留カードなどとの一体化に向けた議論に入った。

菅官房長官は「年内に工程表を作成し、できるものから実施していきたい」と強調した。

政府はすでに健康保険証との一体化については、2021年3月から始めることにしている。

運転免許証やスマートフォンとの一体化が実現すれば、さらに利便性が高まることになる。
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一体、誰から見ての「利便性」だろうか。

国民の家畜化に向けて、またもや怪しい巨額の税金を投入した受託業務が生まれることになるのだろう。

総務省が、木村花氏の死を最大限に政治利用して、ネット上で誹謗中傷を受けた者が、プロバイダに請求すれば、訴訟もせずに、電話番号の開示を受けられるようにしようとしている。

これも恐ろしいことだと思う。プリペイド携帯の販売が終了し、携帯電話のナンバーポータビリティが始まってから、携帯電話番号は極めて本人に結びつきやすい個人情報になっている。

筆者はネットを使うに当たり、電話番号などどこにも登録しておらず、そのような登録が不可避なSNSはもとより使わない。

これまでSNSを提供しているプロバイダは送信防止措置の要請を受けたからと言って、個人情報を開示することはなかった。たとえ捨て垢と呼ばれているほとんど個人情報につながる情報が残されていないアカウントからの発信であっても、プロバイダにタイムスタンプ、IPアドレスの開示をさせるためには、裁判所における仮処分の申立か、警察からの照会が必要であった。

それほどプロバイダはユーザーの個人情報の開示に慎重だったのである。なぜなら「誹謗中傷」の定義はあいまいで、結局、裁判で争い続けて判決が確定でもしない限り、名誉毀損があったかどうかは、誰も判断しようとしないのが、日本社会だからである。

従って、プロバイダは誹謗中傷の有無を自ら判断することはなく、それを口実に、発信者の情報開示には慎重な態度を取って来た。後になって、訴訟に及ばれないためである。

ところが、政府は、裁判という過程をすっ飛ばして、個人が「誹謗中傷を受けた!」と叫んだだけで、名誉毀損が成立しているのかどうか、ろくに検証もせずに、プロバイダがやすやすと電話番号の開示に応じるような仕組みを作ろうとしている。

「裁判という面倒な手続きを経ずに・・・」などと言っているが、騙されてはいけない。裁判を受ける権利は誰にでもある。その過程を安易に省略して、権利侵害があったかどうか定かでないのに、プロバイダに個人情報を開示させようとするとどうなるか。

結局、無実の人々が個人情報を暴かれて、その上、スラップ訴訟をしかけられて、有益な発信を行えなくなるだけなのだ。

そもそも考えればすぐに分かることだが、ネット上で悪質な誹謗中傷行為を繰り広げているような者が、個人の追跡が可能となる自分の電話番号をアカウントに登録している例などほとんどない。

IP電話をつかえば、電話番号も簡単に取得できるし、電話番号の登録が必須というツール自体が、SNS全体のほんのわずかである。

総務省の策で狙い撃ちにできるのは、正直に電話番号を登録している実直なユーザーだけだ。そのようなユーザーは、誹謗中傷を行うような悪質なアカウントの中では、極めてごくわずかに違いない。誹謗中傷の温床となっているネット掲示板のような場所では、そもそも電話番号の登録など必要もないのだから、取り締まりの対象とならない。

政府が真に中傷を食い止めたいというならば、IPアドレスの保管期限を決めてその保管をプロバイダと通信会社に義務づけるべきだ。ところが、それをせずに、電話番号だけを開示させようとする策は、不用意に電話番号をアカウントに登録した正直者を罰するためとしか思えない。

そういう正直者は、政権批判的な内容のブログやツイッターを開いている知識人に多いだろう。
だから、「余命」ブログが、労働者の味方となりブラック企業などと戦っていた弁護士に大量の懲戒請求を送りつけるための募集をしたように、総務省が作ろうとしている新たな制度は、「知識人狩り」に悪用されて、政府批判のアカウントを攻撃するために利用されることになるだけだ。

政府は、国民の個人情報を商売のネタとしか思っていない。

過去にはこんな記事もあった。愚かしい国威発揚のオリンピックのために、国民をただ働きをさせた上、喜んでただ働きをしてくれた愚か者を家畜として番号管理しようというのだ。
 
2018.8.30 22:35

 富士通は30日、ボランティアの管理にマイナンバーカードを活用する調査研究事業を総務省から受託したと発表した。2020年東京五輪・パラリンピックでの導入を視野に入れており、11月に宮崎県で開かれるトライアスロン大会で実証実験を行い、課題などを洗い出す。
 東京五輪で都が募るボランティアは会場案内や運営支援など9分野で計8万人に上り、登録時の身元確認の効率化は必要不可欠。そこで、ICチップ内蔵のマイナンバーカードを使い、氏名や住所などを機械で読み取る案を検討中だ。

 政府は東京五輪でマイナンバーカードを活用する方針を昨年5月に閣議決定しており、一般向けチケットの不正転売防止に用いることも検討。一方、登録されたボランティアなどの入場管理をめぐってはNECの顔認証システムの導入が決まっている。


しょせん、マイナンバーなどこのような目的にしか使われない。

その上、マイナンバーと携帯電話の紐づけ、免許証との一体化、健康保険証との一体化などが起きれば、駐車違反やスピード違反などの罰則の情報や、病歴の情報がマイナンバーに紐づけられることになるだけだ。

つまり、政府にとって都合の良い、健康で働き者の家畜か、それとも、ひ弱で病気がちで「お荷物」になる家畜かといった情報が、すべてマイナンバーに紐づけられて登録され、政府に閲覧されることとなるのだ。

そうして、いつの日か、大々的な情報漏洩が起き、国民の情報がダダ漏れ状態になるのだ・・・。

前にも書いたが、マイナンバーは超重要機密個人情報に当たるため、マイナンバーの記載された書類は、民間企業などでも特に厳重な管理が義務づけられている。従って、企業の側でも、マイナンバーの管理には神経をとがらせねばならず、マイナンバーを日常生活のあらゆる場所で気軽に使えるような仕組みはわが国には存在しないのだ。

それにも関わらず、以上のような策を次から次へと打ち出しても、それが社会に浸透するとは思えない。住基ネットのように、無用の長物となって終わるだけだ。

国民はそんな「利便性」を必要としていない。国民の情報を利用して、政府が新手の利権を作るのはやめてもらいたい。

* * *


長い間、筆者は霊的なまどろみの中に暮らしていた。それはやはり、世に足をつけ、そこで生活していたために、この世的価値観が、いつの間にか自分の中に入り込み、浸透しかけていたのだ。

ところが、ある朝、目覚めた瞬間に、物事の真相がはっきりと見えた。悪い人々がどのように人々の弱点を利用して、食い物にしていくか。どのように年長者が、善良さや親切さを装いながら、年少者の心の弱さを利用して、つけこむのか。

悪い人々が、他人の権利を侵害しておきながら、侵害された人が、声をあげることができないように、どのように先手を打って、口を封じているのか。

「人にやさしい生き方」ばかりを吹聴して、あらゆることに対し、批判や反対の声をあげさせまいとする空気が蔓延し、強きをくじき、弱きを助ける人々が、ネット上でリンチに遭っても、皆、知らぬ顔、この社会のあり方の歪みに対して、鋭く声をあげ、もの申す人間が、次々と変人、狂人、罪人に仕立て上げられて、叩き潰されて行く。

そういうあり様を見ながらも、自分の暮らしを守ることだけに汲々としていると、それに声をあげ、抵抗する気力さえ残らないのだ。

そのことが分かったとき、「人にやさしい生き方」というまやかしの人生を、きっぱりやめねばならないと分かった。

人に対してどう振る舞うか、社会に対してどう振る舞うか、人間にとって心地よく感じられるかどうかで、物事を図ろうとする「空気」と訣別せねばならないと分かった。

特に、権力に媚びて、もの申すことのできないこの社会の窒息状態に、風穴を開けねばならず、そのためには、この世とベタベタに癒着した「人間の観点」から物事を見るのをやめねばならないと分かった。

人は物事だけでなく、人間の価値までも、自分にとっての快・不快によって決めようとする。

人間は、どこまで行っても身勝手で、自己に利益をもたらすかどうかで、すべてをはかろうとする。だからこそ、人間にやさしくないもの、人に役立ちそうに見えないものを、悪とみなして排斥し、断罪するのだ。

だが、結局、そこにあるのは、人の身勝手な欲望に基づく評価でしかない。自己は罪に堕落しており、サタンへと通じ、どこまで行っても、物事を正常に裁けない・・・。

しかし、神は決して、そういう基準で物事をご覧にならない。

神の評価は、ただ神に対して、私たちがどう振る舞うかに尽きる。神から見て、好ましいと見えるかどうかであって、人に対してではない。

この目線の違いを、はっきり区別できるようにならないことには、私たちはどこまで行っても、堕落した世人の価値観に従ってしか生きられず、何をどう評価しようと、それは天の御国の観点から見れば、無用・無価値な判断に過ぎず、私たちはそのような誤った評価の結果として、自分自身を世の奴隷として差し出しかなくなる。

だからこそ、世の基準を離れねばならないのだ。

だが、それはすぐに起きることではない。

人に接近し、世に深入りすればするほど、目が曇らされ、神からどう見られているかを中心に物事を考える清さを失う。

そこで、筆者は何ヵ月間もかけて、ただ主の中に入り込み、神の命の中に隠されて生きるために、思いのすべてを神に傾注することにした。

この世と自分自身を切断し、主なる神の御前に自分を全焼の生け贄として捧げ切ることの必要性を思う。

全ての思いを虜にしてキリストに従わせること。それがなされればなされるほど、人は物事の正しい判断を獲得して、強くなる。

* * *

自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。

「だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。」

しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」(1コリント2:14-16)

キリストにある新しい人とは、キリストの思いを抱いている人、完全な人、恐れを持たない人、悪魔に脅されたり、ゆすられたりするべき欠点、弱点を持たない人間のことだ。

私たちは地上にある限り、完全に贖われることはできないが、限りなく、キリストに近づいて行こうとすることはできる。

一体、悪魔につけ入られ、ゆすられる弱点とは、何によって生まれるか? 罪によってだ。

ここ何十年間も、クリスチャンの間に危険なカウンセリングが流行している。それは人の心の癒しのためと銘打って、人が自分の過去を振り返り、トラウマとなる出来事の思い出を見つけ出し、それをカウンセラーに打ち明けることで、自分の魂が傷ついたことを自分で認めて告白し、「魂の病歴」を自ら作って、それをカウンセラーに差し出し、カルテとしてもらい、自分で自分をディスカウントするというものだ。

そうして他人の急所を掴むためにこそ、証や、カウンセリングがある。だから、弱みとして握られるような過去は、決して人に打ち明けてはいけない。

どんなに優しい顔をした「カウンセラー」や「教師」たちが近づいて来ても、彼らに自分の「魂の病歴」を作って差し出してはいけないのだ。

人は、自分で自分を何者と考え、告白するかによって、自己存在を規定する。

キリストによって贖われた新しい人が、いつまでも自分の贖われる前の過去を握りしめ、それが自分だと告白する必要はないのだ。
 
だが、あなたが誰か目に見える人間を頼りにし、その者に弱点を打ち開ける限り、その人間があなたの教師となって君臨し、あなたにどうあるべきかを指図し、いついつまでも、あなたの弱点を盾に取って、あなたをゆすり、あなたをディスカウントし、完全な人間性を掠めとることとなる。
 
そんな「カウンセリング」をいつまで続けても、あなたの魂が癒されることはない。なぜなら、あなた自身が、自分の魂の病歴をカルテにして、それを大事に握りしめている限り、あなたは自分で自分をディスカウントしたまま、自ら癒しを拒んでいるも同然だからだ。

あなたは自分を見て、自分の不完全さや欠点に打ちのめされそうになるかも知れない。だが、見るべきは、あなた自身ではなく、キリストなのだ。

神はキリストにあって、あなたをキリストと同じように、神の子供として受け入れて下さる。キリストが完全であるように、あなたを完全な者として御覧になる。

そのことを信じ、その霊的事実を握りしめ、人間の身勝手な評価や、指図や、ディスカウントの言葉から、自分を切り離さなければならない。

そこに働くのは、巧妙なこの世の法則性だけだ。

「あなたは幼少期にこういう出来事があったから・・・」
「青年期にこういう出来事があったから・・・」
「あなたは職場で・・・」
「家庭で・・・」

そうしてあなたには終わりなき「魂の病歴」が作り上げられる。あなたのカルテには、ぎっしりと罪の履歴が書きこまれることになる。

そういうものを承認してはいけない。

たとえば、カルト宗教から信者を脱会させると言っている教師たちが、脱会した信者をいついつまでも「心の傷ついた被害者」として扱い、「あなたたちには長期に渡るカウンセリングや、リハビリが必要だ」と言って、彼らを自由にさせない。

この人々は、信者を助けてやるふりをしながら、脱会した人たちが「立ち直る」ためには、いついつまでも彼ら教師の支えが必要だと言っては、人を自立させないで、自分たちのもとにとどめておこうとする。

そこには巧妙なディスカウントの力が働いている。

もしそのことに気づいて、教師たちから離れようとすれば、彼らはあなたを精神異常者と呼ぶだろう。その時になって初めて、彼らの優しさは、束縛のためであること、彼らが教師然として、人を助けてやると言っているのは、他人の弱みを握り、それを盾にとって、人をいついつまでも脅し続け、自立させないためであることが分かる。

自立しようとすれば、狂人扱いされるのだ。

しかし、聖書は何と言っているか。

「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。」(コロサイ2:13-15)

だから、「人助け」という名目をつけては、人をディスカウントし、いつまでも魂の牢獄に閉じ込めておこうとする悪しき力には、立ち向かわなければならない。

彼らのディスカウントの言葉から、あなたは自分を救い出さなければならない。
 
ある日、あなたが交通違反で罰則をとられ、その情報が、何十年経っても、マイナンバーに紐づけられて記録され、あなたが病院にかかると、その病歴が記録され、さらにもっと悪い情報が、次々と記録されていき、政府の人間があなたのマイナンバーを検索しただけで、あなたにとって不利な記録が山のように出てきたらどうだろう?

そしてある日、政府の人間があなたに近づいて来て、「あなたは東京オリンピックのためにボランティアに参加していませんね。社会奉仕活動が足りないのではないですか」などと突然、説教しかけて来たら、あなたはどう感じるだろう?

そんな押しつけがましい「マイナンバー」など、誰にとっても、悪意による無用の長物に他ならないだろう。

神は、キリストにあって、あなたに紐づけられたすべての罪の債務証書を破り捨てられ、一切を無効にし、あなたを新しく生まれた人同然に真っ白の状態にして下さったのである。

その事実を、またしても誰か優しそうなカウンセラーの前で否定して、「私の過去は・・・」と語り始める必要はない。

だから、指導者から離れなさい。彼らに助けてやったと言わせる隙を作ってはいけない。

彼らに霊的中間搾取を行う隙を与えてはいけないのだ。

彼らは親切そうに他人を助けるふりをしながら、人の弱味を握り、人を思い通りにしようとするだけで、そういう彼ら自身も、別な誰かに弱みを握られて、思い通りに動かされている。

そうして他人に仕えることによって、彼らは他人からの評価を得て、高い地位を保っている。そういうヒエラルキーが、連綿と上まで続いている。

いわば、ネズミ講みたいなものである。そういう支配関係の中に組み込まれてはいけない。

だから、誰かに慰めてもらえるなどと思って、カウンセリングを受けるのをやめなさい。わざわざ他人から脅されたり、ゆすられるような急所を、自分から人に告白する必要はないのだ。

キリストだけにすべてを打ち開けなさい。神はあなたに何が必要であるかを知っておられ、必ず、必要な助けを与えて下さる。
 
キリスト者は自分の上に指導者を立てる必要はないし、カウンセラーを置く必要もない。聖書が「霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。」と言う通り、あなたは誰からも定義されたり、わきまえられる必要はない。
 
当ブログは始まった当初から、ただ一つの主張をしている。それは、目に見えるキリスト教界は、神と人との唯一の仲保者なるキリストを否定して、神と人との間に「牧師」という中間搾取者を立てることによって、聖書の神に背く堕落・腐敗した集団になってしまったということだ。

プロテスタントでは「牧師」と呼ばれるが、カトリックでは「司祭」である。もちろん、法王も同じだ。何と呼ばれているにせよ、既存のキリスト教界は、神と信者とがキリストを通して直接、交わるのではなく、そこにキリストの代わりとなる、人間に過ぎない者を仲保者、代理人として立てることによって、これを地上の人間の支配下にある堕落した宗教に代えてしまった。

そいうものの支配下に組み込まれてはならないのだ。

だから、牧師であれ、カウンセラーであれ、あなたの弱味を握ることで、あなたを支配しようと、あなたの魂のカルテを作って、そこに病歴を書きこもうとしている偽の医者たちに、自分で自分をディスカウントするような言葉を告白してはいけない。

そうして作り上げられた堕落した魂の要塞の中に、あなた自身が捕虜として虜にされてはいけない。

そういうわけで、すべての指導者・教師・カウンセラーをきっぱり離れ、ただ神にのみ直結し、天の父なる神から、御霊を通してすべてを直接、教わり、育てられる子供として生きなさい。

それだけが、自由になる道、あなた自身をキリストと同じ高貴な完全な人として保つ道なのである。

 
<続く>

さて、前回の記事から随分間が空いてしまったが、それはこの間に筆者にたくさんの天のお仕事が舞い込んで来たためだ。

権力を目指す人々は、東京へ向かったようだ。筆者の上司も、以前の方がはるかに人間味の感じられる新たなトンデモ写真と共に、新しいオフィス、さらなる権力、名声を目指して・・・。

筆者は、まさか彼らが本気で権力や名声を目指したりはすまいと思っていたが、それは間違いであった。すっかり、その人は変質し、人間性を失ってしまっていたのだ。

東京への集中、それは「昭和的価値観」の集大成だ。巨大なバブルの夢の残滓。眠らない夜の町。筆者は、彼らが誇る立派な建物、権力、名声、地上のすべてのものが、砂上の楼閣でしかないことを知っている。犠牲を払って困難に立ち向かう術を持たない人々に、業務拡大の夢はない。また、その安らぎを奪われた眠れない世界が、あなた方の心底からの願いではないことも、十分に分かっている・・・。

東京は町そのものが不夜城である。それは心の安らぎを奪われた悪者どもにふさわしい町だ。東京はこれから感染者も減らず、大きな困難に見舞われるだろう。もちろん、オリンピックは開かれないし、地価は下がる。

最悪の場合は、巨大地震が来る。政府の信用は失墜し、公共事業は厳しい監視の目に晒され、徹底的に分割される。これからの日本に、特に東京に繁栄や復興はない。

これまで筆者が見て来た立派なオフィスを構えた会社の中で、労働者への搾取によらずに富を築いたところはなかった。筆者に、誤った生き方をしていると指摘された際、筆者に拒絶され、馬鹿にされたのだと思い込み、筆者を見返すために、権力を目指して歩いて行った人が、成功した試しもない。

前にも書いたが、筆者が日露ビジネスを夢見ていた頃、安倍政権が筆者の夢を奪い去って行った。キリル文字も読めない首相が、これでもかとプーチン氏との友好をアピールした。

ところが、首相が領土返還の夢を煽り立てた直後、すぐに対露制裁が発動し、その後、政権が打ち立てた成果は何もなかった。

だから、どんなにうがったものの見方だと言われたとしても、筆者は筆者を置いて行った人々にこう言う。筆者こそ、あなたたちの夢だったのであり、筆者抜きで進められることなど何一つないのだと。

いや、筆者があなたたちの夢であり、あなたたちが筆者の夢だったときが、あなた方の最盛期であり、私たちが分離したときに、あなたたちも終わったのだと。

そうはっきり言えるのは、過去を振り返っても、筆者と関わったときが、すべての人々の最盛期だったからだ。筆者が宝を探し求めるようにして、はるばる尋ね歩いて彼らを見つけ、息を飲むようにして、彼らの前に立ちすくみ、仲間になれたことを心から喜んだとき――そのときが、彼らの人生の最盛期であり、その時、我々が出会った場所が、彼らの最高到達点だったのだ。

それはボロビルの一角だったり、まだ移転したばかりのオフィスだったり、プレハブのような小屋だったこともある。だが、そこがどんな場所であれ、我々が出会った場所が、最高の場所だったのであり、その後、彼らが筆者を置いて、どんなに立派な建物を建設したとしても、それは長くは続かない、崩壊を運命づけられたエルサレム神殿でしかない・・・。

出会った時に、我々が抱いていた共通の夢が、我々の間にあった最高の可能性なのであり、もしも筆者を欺き、その信念を踏みにじるなら、それ以後、彼らに未来はない。

だが、自分の心の弱さを正直に告白できない人々は、内側の弱さを暴露されること怖さに、外側を強化する。ボディビルと、整形と、立派な建物はみな同じもので、それらは心の弱さを隠すための城壁なのだ。

結局、それは虚構の世界であり、人類の強がりであり、人が自己の罪を覆い隠そうとするイチジクの葉、バベルの塔でしかない・・・。

筆者は、その人が財布を忘れて外に出たときを思い出す。それが、一番、ほほえましく、安心できる瞬間であった。気取った人間は、絶対に女の前で財布を忘れたりはしない。だが、筆者は、そういう気取り屋は大嫌いで、真の前で札束など見せつける人間はご免こうむる。

むしろ、財布などなしに、手ぶらで、自由に、無償で、この地球上の富を満喫しているときが、一番対等で、安心できる瞬間なのだ。

だから、誰であれ、心の装甲など持たないのが一番良い。何も持たず、気負わず、飾らず、何一つ相手に要求もせず、ありのままの自分で関われる人々が一番良い。

そういうわけで、筆者は、もしかしたら、トップがかつて持っていた無欲さ、砕かれた心の優しさ、意表を突くような自由を、奪い取って行ったのかも知れない。

筆者は立派なオフィスに背を向けて、大都会にも背を向けて、むしろ、プレハブ小屋のような名もない集会場へ向かう。そこには古めかしい上着を着て、ぽつんと一人で常駐している無名の人間がいるきりで、SNSはなく、立派な机もなく、もちろん、豪華な食卓もない。

ソーシャルディスタンスを取るために、離れた席に座って、愛想もなく話し込むが、人のにぎわいがないために、十分に話す時間がある。

また、筆者の電話を受けて助言をしてくれたある人が、大規模組織を目指さないように言った。2人だと堅苦しいかも知れないから、2,3人くらいが良いと。

戦いはせねばならない。だが、筆者は決して彼らのように、バベルの塔の頂上を目指さない。むしろ、今は拡散、ディアスポラのときだ。ますます手ぶらで、奪われるものを持たない生き方へ、ますます権力も、富も、名声も持たず、すべてを天に預ける生き方へ。

筆者が求めているのは、枝にとまるために羽ばたいて富んでくる雀のように、筆者を脅かさずにそっとそばに来て、筆者と同じように枝に止まってくれる小鳥なのだ。

あなた方は、筆者が変質したのだと考えているのだろうが、実際には、変質したのは、あなた方であって、筆者ではない。何者をも脅かさず、優しく、思いやり深い小鳥だったはずのあなた方が、いつの間にか、小鳥を食らうハゲタカに変わっていた。

いや、多分、筆者が気づかなかっただけで、最初からそうだったのだろう、あなた方の本質が現れただけなのだ。

しかし、筆者は小鳥なので、自己を偽るものには合わせられない。

前にも書いた通り、男性の本質は、人を抑圧することにはなく、自由にすることにあると、筆者は考えている。自己の圧倒的な強さを誇示して、他者を抑圧することは、男の本質ではないと。

むしろ、圧倒的な強さを持ちながら、圧倒的に弱い者を、少しも脅かさず、守り、共にいることができる才覚こそ、男の力である。

だが、そのような謙虚な強さは、十字架の死を通られたキリストにしかないだろう。人が生来持っている力は荒々しいもので、常に他人を凌駕しようと待ち構えている。自己の力によって、他人を脅かさない生き方は、死と復活を経なければできないのだ。

今後、彼らはますます砕かれた心の弱さを捨てて、自分の弱さを否定するために、外側の強さ、心の城壁、男の威信である「昭和的価値観」を追い求め、立派な塔建設という幻想へ向かうだろう。だが、それは崩壊して行く幻でしかない、いや、もうすでに崩壊している。

それはとうに廃れた価値でしかないから、二度と呼び起こせない夢であり、そんなものを目指している人間は、いずれ親しい人たちから離縁を言い渡されるだけだろう。

なぜ地域社会の素朴な生活、古くからある絆を捨て、洗練された都会人のふりなどしようとするのか。ハゲタカになり切れるほど、悪人になれるわけでもないのに。

自分一人しかいないのに、絶えず移動していては、すべての関係が希薄になるだけ。だから、心にもない無謀な試みは、やめておいた方が良い、悪者の道には平安がないから・・・。

ところで、筆者は不夜城は大嫌いだ。眠らない夜の街は好きでない。青髭の住居に近寄れば、傷つけられるだけ。睡眠時間は大切だ。これを削られるのは耐え難い。

* * *

その団体には、極端な傲慢さと、極端な謙虚さ、そして、極端な憎しみと、極端な愛らしさが混在していた。そして、ついに極端な傲慢さが、全てに勝って、何もかもを飲み込んだ。

悪が善を駆逐し、凶暴な虫が、さなぎとなった宿主を食い破って、外に姿を現した。弱い者を助けてやるふりをしながら、欺き、搾取し、己が権勢を勝ち誇って天まで届こうとする狡知が姿を現したのだ。

筆者は、弁護士の悲願は、憲法を変えることにあると思っている。だから、筆者は法曹界の人々を安易に信用はしない。弁護士は二枚舌の職業で、地獄の沙汰も金次第、どっちにでもつく。法律の解釈を自分に都合よく捻じ曲げ、悪人をかばい、弱い人を殺す。

誠実で信念のある弁護士は稀有な存在だ。だが、そういう人たちがいないわけではない。自らが法を順守するのか、それとも法を自分に都合よく変えるのか、そこが問題なのだ・・・。

これは価値観の決定的な違いなのだ。筆者は「父の背中」を追わないし、これを求めないし、模倣もしない。なぜなら、この世のすべては栄枯盛衰であることが分かっており、筆者は朽ちることのない天に豊かな資産を築きたいからだ。

その人は親を尊敬していると言った。カルトから暴力によって無理やり脱会させられた人も、同じように、親を尊敬していると言った。

だが、筆者は知っている、その尊敬は本物ではないと。キリスト教においては、親離れをすることは決定的に重要である。「無言の父の背中」、それほど恐ろしいものはない。

それはネグレクトする親、子供を遺棄する親、「天皇は親であり、臣民は赤子」というあの残酷な思想へとつながっている。天皇のために、人々は死を強要された。親が子供を戦地へ送り出し、特攻隊へ送った。そんな親が、どうして親と呼べようか。親が子供の面倒を見なくて、どうして子供が幸せになれようか。

ところが、今でもそのような価値観に生きている人々は多く、自らが死地へ赴かされても、なお、親を尊敬していると言い張るのだ。

筆者はその人の心の本心を知っている唯一に近い人間であり、その人は、遺棄された子供としての孤独を、筆者と分かち合った。しかし、その人の致命的な弱点は、自分が遺棄された子供だということを認めなかったことにある。

だからこそ、彼らの行く先は、お上のために心中する道なのだ。その道は、自己の弱さを覆い隠そうとしながら、すべてを失う道だ。たとえば、電通が、政府にすがって、生き延びられると思うか。いや、むしろ、すべてを失うだろう。やがて信用もなくなり、富も消えうせ、権力も、名声も、未来も、何もかもなくなる・・・。あと数年も持たず、ベルリンの壁のごとく崩壊するだろうと筆者は思う。

しかも、そのタイミングと来たらどうだろう。ちょうど筆者が当ブログで政府の委託事業を批判し始めた頃、電通の給付金スキャンダルが持ち上がった。

その「父の背中」を追ってはダメなのだ。それはあなたを置き去りにして、出征して行く人の背中だから。それは子供のあなたを置いて、戦地へ赴く父かも知れないし、企業へ出社する父かも知れないし、もっと違う背中かも知れないが、いずれにしても、その背中は、あなたをひたすら孤独の中に置き去りにするだけで、あなたを振り返り、慰め、養ってくれることはない・・・。

だから、人はこの「背中」を負う限り、決して、満たされることがない。努力しても、努力しても、決して心の空虚は埋まらず、ずっと無限のヒエラルキーの下層に踏みしだかれ、心は孤児のまま、抑圧されるだけなのだ。

どんなに寂しくても、歯を食いしばって、泣くことは許されない。愚痴も、不満も、一言も言えない。自分の父が、戦場で死んで行くときに、置き去りにされる苦悩を押し殺して、笑顔でその栄誉を讃えねばならない。生きた人間の代わりに、たった一枚の紙きれしか寄越さないお国のために、父は名誉の戦死を遂げたと、讃えなければならないのだ・・・。

その「背中」こそ、あなたを孤独に追いやり、抑圧している、打倒しなければならない幻想なのだ。あなたを遺棄した親という幻想。

筆者は、トップは悪ふざけでひどい写真に差し替えたのだと思っていた。それくらいひどい写真だからだ。それと同じように、新しいオフィスはきっとひどい場所になるだろうと思った。笑顔のない、人を信じられない、蹴落とし合い、搾取し合うだけの場所に。重荷を下ろす場所がどこにもないところに・・・。

筆者が望むのは、「父の背中」に置き去りにされることのない、孤児とされない世界なのだ。

主イエスは私たちに言われる、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ15:18)と。

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:20-21)

筆者の信じている神は、筆者を孤独の中に置き去りにされることなど決してない。

だから、筆者は、もの言わぬ「父の背中」と訣別する。誰もが、本当のことを言わなくてはいけない。その背中は、あなたを愛してくれなどしないのだ。

言わなければならない本当の言葉は、「お父さん、なぜ、あなたはぼくに背中しか見せてくれなかったのか」ということ。「お父さん、お母さん、あなたたちはぼくを愛していると言ってくれたけれど、どうして二人とも全然、家にいてくれなかったの。お父さん、お母さん、あなたたちはたくさんの人たちを助けたけど、どうしてぼくを助けてくれなかったの。どうしてうちはこんなに貧しかったの」。

ほら、前へ回って見てごらん。その人はもう死んでいる。背中しか見せてくれないのではなく、死んでいるから、こちらを振り返れないのだ。冷たい、もの言わぬ、そびえたつ壁のような「背中」を、どうしてあなたは未だ尊敬などするのか。気づきなさい、それは死んでいるのだと。

筆者は、その道がどれほど苦悩に満ちているか知っているし、死へ続いていることも知っている。だからこそ、それとは違う「父」を信じなさいと言うのだ。

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

筆者は、どうしても、その人に処方箋を与えることができなかった。何とかしてその薬を受け取らせようとしたのだが、成功裏に終わらなかった。なぜなら、「父の背中」しか追いかけていない人は、筆者のようなすべての人たちに、「背中」しか見せないからだ。

立ち止まってくれと言っても始まらない、これはあなたの命のかかった話なのだと、呼び止めても止まらない。自分は大丈夫だ、任務があると、制帽を被り、出征して行く。自分の心を殺して、置き去りにして、他の人々のために「出征」して行き、そして帰らぬ人となってしまう。

これはとても残酷な法則性だ。自分の心の本当の弱さを認められない人は、真実に目を背け、破滅へ向かって行くことしかできない。

ロトの時代も、いつも同じだった。人々は、飲み、食い、娶り、嫁ぎ、売り、買い、植え、建て、いつも自分は大丈夫だから、助けは要らないと、神の救いを振り払った。

まことの神に背を向けるなら、見当はずれな商いに精を出し、自分たちの栄耀栄華に溺れた。

その結果、彼らを待ち受けるのは滅びでしかない。

その人は何もかも持っているように見え、そして筆者は手ぶらだったが、筆者の手には、すべてがあった。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

私たちの道ははっきり異なるのだ。筆者は今も手ぶらで、周りから見れば、悲惨なのは筆者にしか見えないだろう。だが、筆者の手の中には真実がある。真理がある。命がある。

真理を持たない人は、心の空虚さが人格を食い尽くし、やがて人生を食い尽くしてしまう。自分の命を保とうとする者はそれを失うのだ・・・。

何と罪深いことだろう、今日という日に、悔い改めを拒んで、立ち止まることのない「背中」よ。弱い者、貧しい者を傲然と踏みしだいてその上に君臨する「背中」よ。

それはエルサレム神殿の石垣、マサダの城壁、やがてことごとく分解されて地に落ちるだろう。筆者よりも圧倒的に富んでいる人が、家庭も、富も、仕事も、名声も、何もかもを焼き尽くされて消滅することになる。他人のものを奪わず、搾取せず、本業で勝負していれば、そのような結果にはならなかったのだ。その最後の時が迫っている。サムソンにも神殿を壊す力があったからだ。

* * *

主イエスは、平和をもたらすためではなく、分裂をきたらせるために地上に来られたと宣言された。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
詠めをしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10:34-39)
 
言葉には切り分ける機能がある。

キリスト者は地上において、自分の十字架を取ってイエスに従わなければならない。
 
犠牲を払わずに発言できる人などいようか。

だとしたら、主イエスの復活の命には、最悪の事態を常に乗り切る力があることを信じて進むのだ。

主張することをやめてはならない。前進することをやめてはならない。私たちの言葉の一つ一つが物事を切り分け、光と闇とを分けて行く…。
 
そういうわけで、天の仕事を進めねばならない。

<続く>

「奮い立て、奮い立て
 力をまとえ シオンよ。
 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。
 
 無割礼の汚れた者が
 あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。
 立ち上がって塵を払え、捕われのエルサレム。
 首の縄目を解け、捕われの娘シオンよ。

 主はこう言われる。
「ただ同然で売られたあなたたちは
 銀によらずに買い戻される」と。

 主なる神はこう言われる。
 初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。
 また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。
 そして今、ここで起こっていることは何か、
 と主は言われる。

 わたしの民はただ同然で奪い去られ、
 支配者たちはわめき、
 わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、
 と主は言われる。
 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。
 それゆえその日には、わたしが神であることを、
 「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

 いかに美しいことか
 山々を行き巡り、
 良い知らせを伝え
 救いを告げ
 あなたの神は王となられた、と
 シオンに向かって呼ばわる。
 その声に、あなたの見張りは声をあげ
 皆共に、喜び歌う。
 彼らは目の当たりに見る
 主がシオンに変えられるのを。
 
 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ。
 主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。
 主は聖なる味腕の力を
 国々の民の目にあらわれにされた。
 地の果てまで、すべての人が
 わたしたちの神の救いを仰ぐ。

 立ち去れ、立ち去れ、そこを出よ
 汚れたものに触れるな。
 その中から出て、身を清めよ
 主の祭具を担う者よ。
 しかし、急いで出る必要はない
 逃げ去ることもない。
 あなたたちの先を進むのは主であり
 しんがりを守るのもイスラエルの神だから。
(イザヤ書第52章)

* * *

ハーバービジネスオンラインの離婚のエキスパート弁護士によるモラハラ夫特集が面白い。

 弁護士・大貫憲介の「モラ夫バスターな日々」

これを読みつつ、筆者は、就職と結婚は似ているように感じた。何が似ているって、悪い職場は、モラハラ夫が妻を威嚇し、恐怖によって支配しようとする夫婦関係にそっくりな点だ。

前にも書いた通り、悪い職場は、悪い家庭とよく似ており、たとえるならば、おとぎ話の「青髭」の支配する家のようだ。青髭は、それまで数えきれない数の「妻」(=労働者)を娶っては、ひそかに首を切り、あろうことか、自らの城の地下室に、殺害した妻たちの骨をためこんでいる。さらに、貧しさにつけ入って、数えきれない娘たちを「愛人」として囲っては、さんざん泣かせて来た。

だが、初めてお見合いする無知な娘にそんなことが分かるはずもない。不誠実な男ほど饒舌で甘言を弄するのがうまく、まんまと騙されて娶られた娘は、しばらくの間は、青髭と「蜜月」を過ごすが、ラブシャワーの後で、青髭は残酷な本性を現す。

モラ夫の支配する「家」と、社員を搾取するブラック企業は根底で一つにつながっている。そこにあるのは、強い者が弱い者を虐げ、搾取し、支配する関係だ。 

職場で一方的な命令を下し、弱い者を威嚇し、自分に逆らうことを許さず、逆らった者を闇雲に罰したり、女性に一切の口答えを許さないような男尊女卑の上司は、きっと家庭内でも同じことをしているに違いない、と筆者は思う。

彼らはあまりに心が傷つき、さらに自分では何も生産できない無能者のため、常に自分よりも下に見る人間、自分の代わりに厄介な仕事を片付けてくれる搾取する対象がいなければ自分を保つことができない。

モラハラは一生治らないと言われている。だから、職場でも、悪しき人間関係の中にとどまっていても、生産的な人生は送れない。面白い診断があった。もしもあなたの上司に、10項目全てに○がつくようであれば、その職場は早くあきらめて脱出した方が良い。 

【ダメな管理職】コイツの下では働けないと感じさせてくれる無能な管理職の10個の特徴!
1、責任者ではなく権力者だと勘違いする
2、個人的な好き嫌いで判断をする
3、情報共有と指示を的確に伝えられない
4、意見の強要や決定事項の突き付けをする
5、無駄な会議を開きたがる
6、問題やトラブルを大ごとにする・責任転嫁する
7、思い込みが激しく客観性や根拠がない
8、部下を納得させられていない
9、行うことの目的や動機を与えられていない
10、仲良くしたいという間違った欲求を持つ

だが、偽物があれば、本物があるように、嫌な関係があるなら、正常な関係もある。

幸福になる秘訣は、限りなく、正常な関わりを追い求めることにある。だが、正常なものに巡り合うためには、自分自身を高めなければならないことも、忘れてはいけない。

淀んで腐敗した水にボーフラがわくのと同じで、ダメな人間ばかりが集まる場所には、それなりの特徴がある。善良かつ誠実で、高い品性を持つ人々に巡り合いたいと切に願うなら、望んでいる環境にたどり着くための努力が、自分自身にも必要だ。

仕事であれば、質や内容を厳正に選ばなければならない。誰でも就けて、大した努力の必要のない職場に、特別に良い人間が集まるはずがないことは明白だ。

自分で自分の生きるフィールドのハードルを低く設定していながら、そこで最良のものに巡り合えると考えるのは、お門違いである。
 
だから、真に価値ある仕事をしようと願うなら、無責任な人々よりも、ハードルを高く設定し、自ら責任を負って立つ覚悟を固めねばならない。

「モラ夫」に「おまえはおれの情けによって生かされているんだ」などと恩着せがましい言葉を言われないためには、彼の専業主婦であることをやめねばならないのと同様、気に入らない、ダメな職場により、「メシ」を食わせてもらっている立場で、不満だけを言い続けても無駄だから、そこを脱しなければならないのだ。
 
モラ夫に仕える代わりに、身の安全を保障してもらえるという、お仕着せのパッケージを捨てて、自分自身で、上司と同じか、それを上回る責任を担い、人に頼らない人生を始める覚悟を決めねばならない。なおかつ、それができると信じなくてはならない。

逃げるとき、モラのディスカウントの言葉が、耳に聞こえて来るかも知れないが、絶対にそれを信じてはいけない。 そんな人間関係が、世の中の全てではない。自分で自分を何者と考えるかがあなたの人生を規定するのだ。

繰り返すが、あなたが自分を何者と考えるかが、あなたを規定するのである。

* * *

自民党が打ち出した減収世帯への現金30万円の給付が、公明党により、強引に国民一律への10万円の給付に変えられようとしていた頃、我が職場でも、クーデターが完遂し、ナンバー2であった上司が、トップに拮抗するほどの権限を持つようになった。
 
トップとナンバー2に逆らった社員が、社内軟禁状態にされたのを見て、筆者はここから逃げねばならないと悟った。

それは反カルト運動を繰り広げる牧師たちが、カルトからの脱会者を密室に隔離して、再教育を施そうとしていた光景を思い起こさせた。反カルト運動の指導者らは、カルト宗教からの脱会者を誤った教えから救うと言いつつも、その「救済」手段として、信者を鉄格子と南京錠つきの密室のアパートに軟禁して、ディプログラミング(再洗脳)を施したのである。信者の家族が、信者が脱走しないように24時間、つききりで監視し、その言動を牧師たちにつぶさに密告した。

職場で起きていた現象は、その光景にとてもよく似ていた。隔離された者には、苦しい仕事が与えられ、周囲との交流が断たれた。そして、全社員がその者を集団で監視し、密告を繰り返したのである。

筆者はブラックな職場をそれなりに見て知っているつもりであったが、これほど宗教めいた、気色の悪い、極端に悪口の多く、敵意に満ちた団体は、他に知らなかった。調べてみると、幹部はフリーメイソンへつながる団体の会員であった。やっぱり、そうだったかと、筆者は心の中で唸った。
 
協調性とは、グノーシス主義から生まれる概念である。それは、和の精神、自他の区別の廃止、対極にあるものの融合を意味する、聖書に真っ向から敵対する間違った理念であるから、協調性を重要な理念の一つに掲げている団体は、まともではないと見て良い。

以前にも書いたことだが、協調性とは、自他の区別を曖昧にすることによって、人が相応の努力をせずに、他者の持っている優れた資質を、自分のために盗み取ることを正当化する概念である。協調性が説かれる場所では、善人だけがひたすら努力を続ける一方、悪人は誰にも歩み寄らず、我が道を行くので、正直者が馬鹿を見るだけである。
  
当ブログを書いて来た筆者には、そうしたことは十分に分かっていたはずなのだが、筆者はずっとそれに気づかないふりをして、今までやり過ごして来た。しかし、ついにその団体が、滅茶苦茶な基礎の上に成り立っていること、破滅へ向かっていることを、目を開いて見ずにいられなくなり、悪しきものとは訣別せねばならない時がやって来たのである。
 
グノーシス主義とは、キリストの十字架なしに、人類が己が力で自分の罪をあがない、神に到達できるというサタンの教えである。そこで、グノーシス主義の教えには、共通の型があり、グノーシス主義者の考えることは、時代を越えて変わらない。

密室への隔離や、懲罰労働による人格改造、恐怖政治による支配などのグロテスクな方法によって、理想郷へ到達できるという、有り得ない誤った発想も、時代を超えて同じである。

19世紀、ロシアのデカブリストの一人は、理想郷を生み出すためには、200年間かけて警察国家を作り、国民の自由を奪い、民衆に再教育を施して、人類を作り直さねばならないと考え、クーデター計画を練った。 彼は帝政ロシアの軍隊によって反乱が鎮圧される前日に逮捕され、人類改造計画を記した大量の書類も押収されて、死刑に処された。
 
今日、コロナウィルスの蔓延は、グノーシス主義者による各国社会の収容所化のためのアジェンダだという説がある。

それは悪意ある人々が、恐怖によって人々の自由を奪い、日常生活を奪って、自宅や、職場に閉じ込め、再教育を施すことを目的に、人工的に計画したのだという。ステイホームも、自宅収容所化の手段なのだと言われる。

そんなグロテスクな計画を本気で考え、その達成の手段として、人為的にウィルスを世界にばらまき、騒動を煽る人々がいるのかどうか、筆者には疑わしい。

だが、その説をあながちトンデモ論として笑えないのは、実際に、コロナを口実にして、緊急事態条項を作ろうと、改憲を目論んでいる人たちが確かに存在していたり、政府が、事業者に100%の休業補償をせずに休業を命じることで、まるで「貧しい人は路頭に迷え。潰れるべき企業はさっさと潰れろ」と言わんばかりの冷淡な態度を取っているからだ。

一体、コロナウィルスは、悪意ある人々による、弱く貧しい人々の人工的な淘汰の手段として作られたのだろうかという疑問が、人々の心に生まれて来るのも仕方ない。

筆者の職場でも、以上に書いた通り、まるで労働によって人間の本質を改造しようとしたマルクス主義さながらなことが行われている。

マルクス主義は、労働によって、人類の幸福社会を築こうとした。人類が自らエデンを取り戻すためには、罪という終わりなき連帯債務を、労働によってあがなうべきと唱えたのである。

もちろん、マルクス主義において「罪」という概念はないが、要はそういうことである。人類の負い切れない罪の返済手段が、労働だったのである。人類が理想郷へたどり着くために必要なすべてを、人類自身が連帯責任として背負い、労働によってまかなうべきと唱えたのである。
 
だが、労働によって、人が己が罪を自力で贖うなどのことは、達成不可能な偽りであるから、そうしたスローガンに騙されて働く人間も、愚か者だけということになる。だからこそ、共産主義国においては、労働しない人間が、最も出世したのであり、政府の上層部は、卑劣漢、悪党、盗人で占められた。誰も責任を取らないので、その体制は、ありとあらゆる悪事を犯し、崩壊するしかなかった。

悲しいかな、筆者の職場では、まさにそれに等しいことが起きつつあるのだが、筆者は何度も、他でもないグノーシス主義者の幹部から、まだその人がグノーシス主義者だとは筆者が気づいていなかった頃に、組織を出て、新たな出発を遂げるよう、幾度も促された。

「あなたが望んでいるような自由は、あなたが自ら経営者にならない限り、きっと得られないと思いますよ」と、その人は言ったのである・・・。
 
筆者はその頃、職場が間違った基礎の上に築かれているとは知らずに、色々なことを語り合った。その人がグノーシス主義者でさえなければ、どんなに良い旅の道連れになっただろうかと、今でも名残惜しい。

筆者は、その人が筆者と話しているときに、時折見せた、自分はもう助からないとでも言うような、絶望的な表情を覚えている。それは一瞬、垣間見えただけであるが、それがあまりにも哀れであったので、筆者は何とかして、命に至る道を見つけて欲しいと願い、無理やりにでも、バビロンから連れ出したいと願った。残酷なナンバー2にも、同じことを願った。

だが、彼らは呼べば呼ぶほど、ますます筆者の忠告を振り切り、焼け落ちる火宅に自ら駆け戻って行く人のように、反対方向へ走って行った。

筆者には分かっている、神は悪人と正しい人を一緒に滅ぼすようなことはなさらないので、筆者がいる限り、組織が崩壊することはないと。筆者には、バビロンの崩壊を遅らせることもできれば、エリコの再建のように、滅んだ組織を再興することもできる。
 
だが、滅ぶべきものを延命させるという間違いは、二度と犯してはならない。誤った理念の上に築かれた城に、人情のゆえに、同情の涙を注いでも意味はない。タイムリミットは近づいており、そろそろエクソダスせねばならない。
 
記事には具体的なことを書けないので、かなり曖昧な表現を使わざるを得ないが、以上に書いた通り、職場で極端なカルト化現象が起きなければ、筆者は今でも見込みのないものに望みをつなぎ、戸口の前で、足踏みをしていたかも知れない。

何より、その職場が根本的に誤った反聖書的な理念を土台として成り立っていることに、今も気づかず、バベルの塔建設のためのレンガ運びの作業にいそしんでいたかも知れない。

だが、レンガ運びの作業が、苦行と化し、それを拒んだ者には、厳しい懲罰が科されるようになったことにより、分かったのである。それは収容所における囚人労働と同じであって、自由な明日を作り出すことに貢献することはないと。

隔離された社員だけが、密室に閉じ込められているのではない。そこでは、幹部から末端の人間に至るまで、誰もがみな閉じ込められているのだ、労働という檻の中に――。

その収容所に閉じ込められている限り、みなが破滅へ向かうだけで、誰にも自由な明日はない。労働による人格改造などあり得ない。だから、恐怖政治の果てに、待っているものは、ただ滅びだけである。
 
もちろん、だからと言って、筆者は、幹部の勧めに従って、明日、独立するつもりはない。そんな風に、一足飛びに何かを達成できると思うのは間違いだからだ。だが、それでも、幹部の言葉のおかげで、狭い密室を出て、地境を広げねばならないことに気づいた。より多くの自由、権限を手にするために――。

こうして、筆者が呼びかけた人は、筆者の招きに応じず、救いにも興味がなく、滅びると分かっている建物に戻って行っただけであるが、筆者は、ここで立ち止まるわけには行かないので、まだ見ぬ都へ向かって、進んで行かなくてはならない。

たとえ今、筆者の手元に、自分の身一つ以外に何もなくとも、信仰によって、無から有を生み出し、いつか想像をはるかに超えた大きな目的を達成できると信じて、勇気を持って、颯爽と、歩き出さなければならない。

バビロンを出て、聖なる都、新エルサレムへ向かって――。

* * *

キリストは花嫁なる教会のためにご自分の命を捨てられた。それは部下のために上司が命を捨てるような、奇跡的な愛である。いや、違う。部下のために命を捨てる上司くらい、いるだろう。だが、神は私たちが罪人であったときに、救う価値のない罪人である私たちのために命を捨てられたのだ。

神がそうされたのは、正しいことであり、神は無限に強く、正しい方であればこそ、その正しさと力を行使して、ご自分の被造物である私たちを助けられたのである。

だから、この世においても、権威ある者は、自分の権威の下にある者たちを守らなければならない。強い者の権力は、弱い者を守るために与えられているのであって、弱い者を脅かし、痛めつけるためではない。

ところが、グノーシス主義は、いつも正しい秩序を逆にして、弱い者が、強い者のために命を捨てるようにと、無理な要求をする。

たとえば、「親孝行」という、世間ではまことしやかに美徳のごとく讃えられている概念について、考えてみよう。

考えればすぐに分かることだが、自然界の動物社会では、親が子の世話をすることはあっても、子が親の世話をしたり、親のために命を捨てるという原則はない。そもそも弱い子供にどうやって親の世話ができるというのか。弱肉強食は、同じ種の親子間でなく、異なる種類の生物の間で起きることである。

ところが、人間社会では、「親孝行」という、自然界の動物にはあり得ない教えがまかり通っている。
 
それは元を辿れば、死者の霊の崇拝、すなわち、先祖崇拝に由来する。

人間が生まれ持った命は、本当は、神聖でも何でもない、ただの動物的命である。虫でも繁殖くらいはしているのだから、人間に子孫が生まれることも、珍しくもなければ、偉業でもない。

ところが、偽りの教えにかかると、それが神業のようなものにまで変化する。つまり、人間の子孫は、「ご先祖様」から「神聖な命」を受け継いでいるから、自分に命を与えてくれた先祖に絶えず感謝し、先祖供養につとめると共に、その「神聖な命」を絶やさないために、「家名」を背負って、これを穢さず、「神聖な家」を維持していく責務を負う、ということになる。

それゆえ、その子は、生きている限り、「神聖な家系」の入れ物となる「家」を守るために、親に孝行するだけでなく、口を利くこともできない先祖の霊の供養を続けねばならない。

我が国では、戦前戦中、万世一系の天皇家を「神」にいただく「神国」などというフィクションが作り出され、その虚構の物語に基づき、臣民は天皇の赤子であるから、親である天皇のために命を捨てるのが当然、などという荒唐無稽な教えが説かれた。

もしも天皇が「親」であるというなら、天皇こそ、「赤子」なる臣民を守るために、身を投げ出し、命を捨てるべきであると筆者は思うが、それとは全く正反対の教えが説かれたのである。

それと同じ理屈で、戦後になっても、男は会社組織や共同体社会のために身を捧げよとか、妻は夫のために身を捧げて尽くすのは当然といった誤った考えが、社会の至るところにはびこっている。共に生きるために協力するのではなく、命を捨てても服従せよというのである。三島の『憂国』を彷彿とさせる世界観だ。

もちろん、親に感謝したり、親を尊敬することは何ら悪いことではない。だが、「親に感謝せよ」という考えを究極まで推し進め、子の人生を親(先祖=家)から一生離れられないように束縛してしまうのは、罪なことであり、異常である。

自然界の動物社会では、子は成長すると、自立して親を離れ、新しい家を形成する。近親交配を避けるためにも、生まれ落ちた家をいつまでも存続させることに意味はない。

子が自立して親を離れるのは、親が子より早く老いて死ぬためである。親は力の上では、子よりも強いかも知れないが、老いと死には勝てない。そのため、子をいつまでも守ってやることはできない。

だからこそ、子は親が老いる前に、親から自立し、自力で生きて行く方法を獲得せねばならないのだ。自立して初めて、親と一緒に死の中に引きずり込まれるのを避けられる。

ところが、人間社会においては、子は親が死ぬまで面倒を見、親が死んであの世に行っても、なお、面倒を見続けねばならない(供養せねばならない)という、自然界の掟にも逆らう、支離滅裂な、むなしい虚構の概念が普及している。

現代社会にも、そうして時代錯誤な家制度が生きている。自立した夫婦は、生家を出て、新たな家を築いているように見えるかも知れないが、依然として、多くの場合、男性が自分の生家の名を継承している。それは、彼が生家から離れられていないことの証である。

一体、子をいつまでも自立させず、死んでもなお手放さないという姿勢が、親心と言えるだろうか・・・。

こうした家制度の根本には、先祖崇拝という、しょせん、人間に過ぎない者を「神」として祀りあげる「神聖な家系」というフィクションの世界観がある。

そのようなフィクションに騙された子孫が、生きているうちから、親の望みをかなえることで、「家」に名誉をもたらそうと、親の附属物のようになって、苦しい人生を生きたりしながら、先祖という死者に縛られ、一生、「家」という密室の入れ物から離れられなくなるのだ。

それは何もかもを滅びと死へ引きずり込み、破滅させてしまうオカルトの教えなのであるが、多くの人々はそれに気づかないまま、これを信奉している。

この教えが究極的に目指しているのは、罪に定められた人間の欲望を、永遠にまで至らせることである。滅びゆくアダムの命を、神聖なもののように偽り、人間が堕落した欲望に生き、そのままの姿で、神のような永遠に達することができると教える。

その教えは、人類が罪に堕落したという事実を認めず、罪のゆえに死に定められたという事実も否定して、己が欲望の追求の果てに、神のような永遠性を手に入れられるとうそぶく。

人間が生まれながらの命のままで、永遠性を手に入れるなど、できるはずもないことなのだが、その教えは、代々、家系が続いていることにより、あたかも命の連続性が保たれ、永遠性が獲得できるかのように、屁理屈を並べているのである。

* * *

さて、筆者はいきなり経営者になることはできないと述べたが、それでも、人格改造のために懲罰労働が課されるような密室に居続けてはならないと悟った。

筆者の職場のみならず、現代社会における労働は、およそその多くが、収容所生活になぞらえた方が良いようなものである。

そうした人間性を奪い取る密室から解放されるためには、自分の仕事の内容と質を高めて行くしかない。一歩一歩、自らの責任の範囲を拡大し、他の人々と異なる、より自分の裁量が大きくものを言う、自由な仕事、そして、広範囲に影響の及ぶ、決定権のある仕事を模索していかねばならない。

それは筆者が見えない領域で、多くの「扶養家族」を持ち、多くの人々を養う仕事をするようになることを意味する。

筆者の目指している「事業」とは、ジョージ・ミュラーがしたように、信仰によって、たくさんの人々を養い、支え、命と自由を与えるためのものだからである。

その願いが、可能な限り、広範囲の人々に及ぶよう、筆者の仕事の責任をより重いものに、より大きな内容に変えて行かねばならないのだ。
 
だが、いきなり一足飛びの生長は、誰にもかなわない。そういうことを試みるのは危険である。
  
たとえば、10人しか社員を雇ったことのない事業所が、いきなり50人もの社員を採用して、億単位の新規事業を始めると、どういうことが起きるだろうか。

事業所の意識は一日では変わらず、それが手かせ、足枷となって、成長を妨げる。つい昨日まで、田舎の商店街にある個人商店のように、電話回線も少なく、アシスタントもごくわずかしかいなかったような小さな事務所が、いきなり大企業と並んで、巨大ビルのフロアに大きな部屋を借り、そこに大勢の社員を雇って、労務管理を行い、大規模事業を支えられるようになるかと言えば、そうはならない。そういう無理なことをしようとすると、あらゆる方面にひずみが生じる。

大規模な事業を創設し、これを育成し、完成にまで導いて行くためには、必ずメソッドが必要となる。それを打ち立てた経験が過去に一つもなく、ノウハウすらも持たない人たちを、人数だけ揃えても、いきなり事業が軌道に乗ることは絶対にない。

下手をすれば、組織が成長途中に、組織の体をなさなくなり、半熟卵のようにドロドロに溶けて、メルトダウンして行くだけだ。

同じことが、事業所のみならず、働く側の人間にも言える。昨日までパートタイムのアルバイトしかしたことのなかった人間が、いきなり、大きな店の店長や、大企業の社長になっても、物事はうまくいかない。学生時代の趣味が高じてベンチャー企業の社長になるような人々も、まずは小さな会社を立ち上げるところから始める。
 
このように、堅実な歩みを進めるためには、一歩、一歩、地道に責任の範囲を拡大して行くしかないのであって、そうした小さな意識改革を積み重ねて行った先に、ようやく、大きな事業を手がけるスキルが生まれる。

ステップを数段すっ飛ばかして、いきなり濡れ手に粟式に、巨大な成功を手に入れられると思うのは間違いである。たとえ大きなチャンスに巡り合っても、それを活かす知識と経験がなければ、失敗に終わるだけなのである。
 
そういうわけで、筆者は、自分を閉じ込めていた密室を出て行こうとしている。だが、自分一人、収容所から釈放されて、孤高の高みに君臨するためでない。大勢の人たちを生かし、自由にするために、筆者は、これから山へ登って行こうとしている。

小さな一歩かも知れないが、これまでの出発と違うのは、これから歩むべき行程がはっきり見えていることだ。神はその歩みを喜んで見守り、承認し、後押しして下さるだろうと思う。

* * *

人間とは、言葉(規則、掟、論理)が先に来るのか、それとも、行動が先に来るのか、という議論がある。

鈴木大拙は、人間の本質とは、考えるよりも先に行動するものだと言った。

しかし、筆者はそれは絶対に間違っていると確信する。なぜなら、聖書の秩序は、まず掟があって、次にそれに従った行動があるというものだからだ。

人間はエデンにおいて、神の掟よりも、自分の快楽を求める衝動に負けて、行動を先にしてしまったことにより、罪に堕落した。

だが、それは悪魔の唆しによるものだから、それが人間の本質だとは言えないだろう。

ところが、グノーシス主義者は、今日も、それこそが人間の本質だとうそぶく。人間とは、まず衝動的に行動してから、後でその行為について反省し、知性が芽生えるのだと。そうして、いつも、行動を、言葉よりも優位に置こうとする。

世の中に、政治家を始めとして、やたら人前でむなしい演説を繰り広げ、空虚なパフォーマンスに明け暮れる人間が横行するのもそのためで、彼らは口先だけでペラペラと意味のないことをしゃべり、息を吐くように嘘をつき、人の注目を集めた後で、法律や規則を曲げて、ないがしろにし、義人を罪に定め、多くの人々に害を与える。

彼らの目的は、派手なパフォーマンスによって、身勝手な行動を実行に移し、これを既成事実化し、後付けで正当化するために、規則を変えることにある。

たとえるなら、ある人が人殺しに及んでおきながら、「世の中に殺人が横行するようになったので、いっそ殺人罪を撤廃しましょう」などと言うようなものである。

聖域なき改革だの、岩盤規制を突破するだのといった威勢の良い謳い文句のほぼすべても、古くからある規則を「悪」と見せかけることによって、規則を撤廃して、自分たちの悪事を正当化するために唱えられる。

もちろん、「コロナで社会不安が広がったので、改憲して、緊急事態条項を創設し、人権を抑制しましょう」などというスローガンも、同じ理屈に基づいている。

なぜコロナウィルスが蔓延したくらいのことで、最高法規である憲法を変えなくてはならないのか。そこにどれほどの論理の飛躍があることか。

だが、彼らのやり方はいつも同じで、まず、不安を煽る様々な現象や、衝動的な行為をあげつらい、それを抑制できなかった規則など無意味だからと、最も重要な法規を、無意味だと言って、彼らに都合良く変えて行こうとするのだ。
 
私たちはそういう政治的パフォーマンスに踊らされるべきではない。弁舌巧みで、パフォーマンスが得意なのは、詐欺師だけである。
 
実際には、コロナの脅威によって、むしろ、そうした空虚なパフォーマンスこそが抑制され、駆逐され、そのむなしい本質が暴露され始めているのは、良いことではないかと筆者は思っている。

たとえば、筆者は、コロナウィルスのおかげで、「連休中はどこへ行きましたか?」という愚問から解放されて、ほっとしている。毎年、この季節になると、行楽地に大量に押しかけ、人数にものを言わせて、孤独な人々を隅に追いやり、自分たちこそ世界の中心だと言わんばかりに、厚かましく自慢話に明け暮れる家族連れを、今年はもう見なくて済むことに、安堵している。

連休は出かけるためにこそあるという、この人々の愚かな思い込みを解くのに、どれほど無益な苦労をさせられ、非難を浴びせられたことだろう。マウンティングだけが目的の、むなしい自慢話を聞かされずに済むようになって、筆者は安堵している。

休暇は休息のためにこそある。休息の方法など十人十色だ。休息期間には、大切な考察が行われ、未来への挑戦が始まる。何もしていないように見える1日、1日が、エネルギーチャージに必要な時間なのだ。

だから、筆者は今年は、心の休息を得て、信仰によって、未来をどのように創造していくか、それを思い描くことに、主要な時間を費やすことにしている。それもコロナウィルスがなければ、与えられなかった静けさだったかも知れない。

さらに、コロナは社内で行われるつまらない会議にとどめを刺し、社員同士の無駄話にも大いに水を差した。裁判所にさえ、コロナの影響は及び、法廷における弁論が、停止に追い込まれたのだ。

それによって、限りなく重要な教訓が、証明されつつあるように思うのは、筆者だけだろうか。物事の重要な本質は、耳目を集める口先だけの言葉や、見せかけのパフォーマンスにはない。行動に先んじて、行動を支配する見えない掟、法、規則、理念、思考があって初めて、人の行為には価値が生まれるのだ。

だから、断じて、行動が先んじて、思考が後に来るのではない。その反対こそが正解なのだ。どんなに束の間、繁栄しているように見えても、人間の本質を逆にしようとした者は、自らの行動の価値を証明できない。どんなに衝動的な行動をたくさん行っても、それが掟破りなものであれば、少し時が経てば、間もなくその価値は全くないことが判明し、その成果も、跡形もなく消えて行くだろう。
 
コロナウィルスの襲来によって、むなしいパフォーマンスの数々が駆逐されたなら、それは筆者にとって、非常に喜ばしいことである・・・。

* * *

グノーシス主義者の考えるユートピアは、広き門である。それは神の戒めに従わず、キリストの福音から落ちこぼれた、ダメ人間ばかりを救おうとする、偽りの大衆救済宗教である。
 
己が罪を悔いることもなく、他人ばかりを責め続け、本物の福音には到達できず、その意欲もない、無責任で、無反省な人ばかりを救おうとする偽物の福音だからこそ、その偽の福音には、最も怠惰で、最も無能な者、最悪の利己主義者、この世の失格者、落伍者、筋金入りの悪党、卑劣漢など、悪い人々ばかりが群がる。結局、その悪者のユートピアは、何一つまともなものを生み出せないまま、自壊して行くことになるのだ。

怠惰な人間を富ませるためには、真面目な人の労働の成果を盗むしかない。ダメ人間を救済するためには、ダメ人間でない人々の評価を下げるしかない。悪人を救うためには、正しい人を罪に定めるしかない。

こうして、グノーシス主義の唱えるユートピアは、ダメ人間を聖人に祀り上げるために、何もかもをさかさまにした世界観に基づいている。

そうして出来上がる「広き門」が、人に優しく見えるのは、最初のうちだけで、悪と偽りと不法と搾取は、やがて彼らが復権しようとしたダメ人間も含め、その教えに帰依した人々全員に及ぶことになる。

キリストの十字架がないので、悪人には罪が赦されることは永遠になく、その代わり、労働による人格改造という懲罰が待っているだけだ。そこで、労働による彼らの救済は、何万光年経とうが、永遠に達成されることはない。

人類の罪を人類が自力で贖うための果てしなく重い軛は、人類に連帯責任として落ちかかり、最後には、真面目で誠実な人間だけでなく、悪人も含め、すべての人々が、極度の抑圧の中に投げ込まれ、自由を奪われ、恐怖政治が出来上がる。

こうして、グノーシス主義の偽りの福音は、多くの人を救う「広き門」に見えても、その先に待ち構えているのは、滅びと、死だけであって、それは結局、彼らが退けたキリストの福音よりも、はるかに厳しく、誰も耐えられないような裁きと懲罰を繰り広げるだけに終わる。

かくて広き門によって救われる人間はゼロなのだ。ダメ人間のユートピアなどあり得ず、そういうものを作ろうとすれば、生まれるのは、ファシズムだけであり、その結果としてもたらされるのは、滅びであり、死である。

それを考えれば、「労働廃絶論」(ボブ・ブラック)などという説が出て来るのも、頷ける話だ。
 
* * *
 
ちなみに、筆者は、あらゆる労働――いや、人間の社会への奉仕が一切合財、無価値だと言っているのではない。あくまで人が罪から逃れるために、死の恐怖から逃れるために、自己救済のために行う労働が、無意味だと言っているだけである。

人々は筆者に問うかも知れない。「ヴィオロンさん、あなたはプロテスタントにおける礼拝と、資本主義における労働が車の両輪で、今の時代には、その両方が終わりに瀕しているなんて、荒唐無稽な説を唱えています。

あなたによれば、日曜礼拝と、月曜から金曜まで会社にお参りすることは、本質的に同じなのだそうです。そして、それは自由をもたらす解放どころか、自己懲罰のために、人々が自ら「隔離」されていることなのだと、あなたは言います。あなたによれば、その労働は、強制収容所における人格改造と同じほどむなしい、無意味なものなのだと…。
 
それでは、あなたは労働そのものに反対なんですか? それなら、あなたはこの先、一体、どうやって生きるつもりなんです? 社会に必要なサービスは、誰が行うんですか?」

もう一度言うが、筆者が反対しているのは、罪のゆえに、死の恐怖の奴隷となっている人々が、その恐怖を紛らし、偽りの救済を得るために、強いリーダーのもとに馳せ参じ、そのリーダーに生存を保障してもらおうと、その教えに帰依し、自力で救済を得るための手段として労働を用い、みなで結集して、バベルの塔を構築する、そういう生き方である。

プロテスタントの日曜礼拝は、「自分が本当に救われているかどうか分からない」という、救いの内なる確信の持てない信者が、自らの心の不安をなだめるために作り出した鎮静剤のようなものである。

同じように、資本主義におけるサラリーマンの労働も、もともとは「救われているかどうか分からない」という不安を抱えるプロテスタントの信者が、日々、勤労に励むことで、神の御前に善行を積み、不安心理をなだめようと発生したものである。

現代社会においては、労働における宗教色はほとんど見いだせないほどに薄れているが、それでも多くのサラリーマンは、「自分がどういう生き方をすれば良いか分からない。どんな事業が自分の天職なのかが分からない。それを自分で始める力もない」という無力感を、手っ取り早く、誰かに埋め合わせてもらうために、他人に仕えて働いている。

産業革命以後、仕事の機械化、細分化が進んだことにより、人々は昔に比べてより一層、自己というものを喪失し、労働においても、より家畜のように一元化して管理しやすくなった一方で、逆に機械に使役される人間が大量に作り出された。

そのおかげで、神の救いが分からず、自分自身が分からないだけでなく、自分の仕事にも、価値を見いだせないという、迷える羊のような人々が大量に生まれた。

その迷える羊に対して、様々な職場は、一見すると、救済のように見える、各種のパッケージをケアキットのように提供している。その中には、コンビニエンスストアの店長や、政府の公共事業などのように、自らにアイディアや元手がなくとも、手軽に始められる事業もある。

それをいくつもいくつも取り替えながら、自分をごまかして生きている人々は多いだろう。一つの仕事に飽きれば、次の仕事を見つければ良い。
 
だが、それは「パッケージ」であるがゆえに、そこには自由がなく、最初は入りやすく見えて、その先には、厳しく搾取される日々が待っているだけだ。一つの密室を出ても、気づくとまた別の密室に囚われている。隔離でない労働とはどこにあるのか。
 
私たちは、自分たちが喪失してしまった二つのもの――神へのまことの礼拝と、天職――この二つを再発見しなければならない時代に来ている。

この二つのものを発見するためには、やはり、広き門ではなく、狭き門をくぐるしかない、と筆者は考えている。自分の人生の決定権を安易に人に委ね、手っ取り早く、出来合いのパッケージに頼ろうとする限り、そこにあるのは、広き門――すなわち、密室へ続く道なのである。

そこで、そのように他人に頼る態度を捨てて、自分のことには、自分で責任を負い、自分で決める自由裁量の余地を取り戻し、これを増やしていくしかない。

だが、それは、今まで松葉杖をついて歩いていた人が、杖を捨てて、真直ぐ歩けるようになるためのリハビリの過程にも似て、一足飛びに達成できるものではない。内なる自分自身を、何者にも頼らずに、強めて行く過程が必要である。

その一歩一歩の先に、密室とは無縁の、真に自由で、心から健康で、自立していると言える生活が待っている。松葉杖に頼ろうとしている限り、自由な空間には出て行けない。

私たちの自由と豊かさは、いかに目に見えるものに依存せず、目に見える誰かに依存せず、見えない神だけに頼り、自分の裁量と自分の責任で、自分の人生を決めたか、その度合いに応じて決まる。

誰かに頼って、自分の人生を何とかしてもらおうと願っている限り、金銭的搾取だけでなく、霊的中間搾取からも、逃れられない。
 
信じる者の内側には、死を打ち破ったキリストの復活の命が宿っている。それゆえ、コロナであろうと、他のどんな脅威であろうと、信者は、信仰だけによって、すべての脅威に立ち向かい、勝利をおさめる秘訣を得ている。

その本当の命の力に頼って生きねばならないのである。だが、信者の内なる人は、まだ弱く、未熟であるがゆえに、その信じる力を、十分に養い、行使するための秘訣を十分には知らない。そこで、彼は自分に与えられた命の力を引き出すことを、まずは学ばなければならないのである。



「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタイ19:11)

わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)
 
* * *

さて、掲示板での騒ぎのために心痛めている人があるかも知れないので、一言書いておきたい。我々信じる者を巡って起きる対立は、人間的な対立ではない。その背後には、神の霊とそれに逆らう汚れた霊の対立がある。聖書には、次のように書かれている通りである。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。ですから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:10-13)

私たちが敵としているのは、目に見える肉なる人間ではなく、彼らを導いている悪の諸霊であり、暗闇の世界の支配者、それが率いるもろもろの支配と権威である。
  
はっきり言えば、私たちが敵としているのは、目に見える人間ではなく、彼らの吹き込む嘘偽りの教えである。

人間はたかだか100年ほどしか生きないが、おそらく霊には寿命というものがないのではないと思われる。創世記で蛇の姿をしていたサタンが、黙示録では、年老いた竜になっているところを見ると、サタンと暗闇の勢力にも、年を取るということはあるのかも知れないが、彼らには体がないので、寿命が来て死ぬことはなく、従って、世の終わりが来て、神の永遠の刑罰が彼らに下され、彼らが己が悪行の報いとして、火の池に投げ込まれるときまで、この諸霊どもは生き続けるものと見られる。

つまり、暗闇の勢力に属する悪の諸霊は、神の天地創造からこの方、ずっと変わり映えのしないメンバーで、人類を欺き、惑わし続けているのであって、彼らは自分の体を持たないために、常に宿主となる人間を探し出しては、その人間を通じて、堕落した惑わしの力を行使しようと、この人間を要塞として利用して来たのであって、悪の諸霊の吹き込む嘘を受け入れた人々が、その宿主となって来たのである。

従って、もう一度言うが、私たちが無力化して粉砕すべき対象は、目に見える人間ではなく、また、悪の諸霊それ自体でもなく、その霊どもが、人間を要塞化してそこから宣べ続けている「偽りの教え」である。

悪の諸霊は、人間の手によって根絶されることはない。これを最終的に裁かれるのは神である。従って、私たちの戦いの目的は、悪霊そのものを対処するというよりも、悪の諸霊の述べる嘘に満ちた偽りの教えを粉砕して、彼らの脅しを無効化することにあるということを、いつも覚えておかなければならない。
 
私たちが目にしている人間的な対立の背後には、必ず、霊的な対立が存在する。そこで、もしも我々信者の証しを否定するために、立ち向かって来る人間があるとすれば、その人は自分の考えを述べているのではなく、彼らを導く悪霊の考えを述べているのであって、その究極の目的は、聖書の御言葉を否定することにあると理解しなければならない。
  
私たちは、どのような相手であれ、人に向き合うに当たり、彼らの述べている思想がどのようなものであるかを把握することによって、彼らがどのような霊に導かれて生きているのかを見分けることができる。

聖書が次のように教える通りである。

愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊は、すべて、神から出ていません。これは反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)
  
 さて、当ブログでこれまでずっとグノーシス主義の構造を明らかにして来たのは、それが悪霊の教えの基本形だからである。基本形と言っても、これは聖書をさかさまにしたものであるから、悪霊にオリジナルの教えがあるわけではない。とはいえ、この基本形を知ってさえいれば、悪の諸霊が時代を超えて作り出すすべての思想は、すべてそのバリエーションに過ぎないことが理解できる。

たとえば、長年、当ブログに激しい攻撃を加え続けているカルト被害者救済活動の支持者の一人は、キリスト教徒を名乗っているにも関わらず、自らのブログで、聖書は神の霊感を受けて書かれた書物ではなく、人間が書いたものに過ぎないとか、悪魔もなければ、暗闇の勢力も存在せず、エデンの園で悪魔が蛇の姿を取って現れて人類を惑わせたなどのことは事実でなく、ノアの洪水もなく、聖書の記述を文字通りに信じるなど、精神異常の産物であって馬鹿げている、という見解を公然と述べている。
 
当ブログでは、そのような見解からは、必然的に、乙女マリヤが御霊によって身ごもってイエス・キリストを生んだという聖書の記述などは、すべて「馬鹿げた作り話」という結論しか導き出せず、従って、このような人々は、うわべだけはキリスト教徒を名乗りながらも、結局、イエス・キリストが神の独り子であって、人類の救い主であることを否定しているのだと示した。

このことから、彼らを導いているのは、反キリストの霊であると言える。そして、このように、彼らが、聖書が神の霊感を受けて書かれた書物であることを否定し、イエスが神の独り子なることを否定していることを理解した上で、改めて彼らが当ブログに投げつけている悪罵の言葉を見れば、その内容が、ほとんど彼らが聖書を非難している言葉とほぼそっくりであることも、すぐに分かるはずだと指摘した。

つまり、彼らは聖書が「嘘に満ちた作り話」であると確信していればこそ、当ブログの信仰の証しが「妄想の産物」であるかのようにみなして攻撃・中傷しているのであって、当ブログに向けられた非難は、それを通して、彼らが聖書の御言葉を否定し、聖書の神に敵対するための手段なのである。
 
さらに、彼らが「聖書の記述は嘘だ」と主張していることに加えて、彼らが何より広めたい第二番目の主張は、「神は唯一でない」ということである。
 
当ブログは、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。」(Ⅰテモテ2:5)の御言葉に基づき、聖書のただお一人の神以外の「神々」など存在せず、牧師などの指導者は、とどのつまり、キリストになり代わって信者の心を支配しようとしている偶像に過ぎないと主張して来た。

この主張こそ、彼らにとって最も許しがたいものなのである。なぜなら、この主張は、宗教指導者の権威を否定するのみならず、それに属する彼ら自身が、「神々」であることを否定するものだからである。
 
上記のような人々が、すでに心の内で、自分たちを「神々だ」と宣言していることは、これらの人々の一人が「神々の風景」という題名のブログを開設していたことや、当ブログにもかつて書き込みをしことのあるある集会の指導者が、今や「自分たちはエロヒム(神々)だ」と公言している様子を見てもわかる。これは決して偶然ではない。

彼らが言いたいのは、結局、「俺たちは神々だ! それを否定して、神は唯一だなどと宣言する輩は、俺たちの『神聖』を『冒涜』しているのであって、許せない」ということであり、自分たちこそ「神々である」と宣言するためにこそ、彼らは、彼らの考えに大いに水を差す当ブログを、何とかこの世から駆逐しようと、あれやこれやの言いがかりをつけては、当ブログの信仰の証しを否定しているだけなのである。

だが、恐れないでもらいたい。今、掲示板で馬鹿騒ぎを繰り広げている連中は、筆者に指一本触れることはできない(そのようなことは、彼らには許されていない)。彼らにできることは、彼らの偽りの教えを否定し、真実な信仰の証しを続けるクリスチャンに、あらん限りの罵詈雑言を投げつけることで、聖書に基づく信仰の証しを公然と続けることは、ためにならず、危険なことであるかのように多くの人たちに思わせ、信者を威嚇することだけなのである。
 
そこで、筆者は、このような卑劣な脅しには断じて屈しないようにと人々に呼びかけておく。

これまで幾度も書いて来たように、クリスチャンが信仰のために主に献げるものは、すべて前もって、神と信者との間で了承のもとに取り去られるものに限られている。従って、今起きていることは、将来起きることの予表ではあるにせよ、彼らは決して神が許した限度を超えて、クリスチャンに手をかけることは許されていないのである。
  
イエスが何を言われたか、思い出してもらいたい。

「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や楼に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。

それはなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。

 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」(ルカ21:10-19)


このように、クリスチャンが世から憎まれ、迫害を受けるのは、人々の前で立派に信仰を証する目的のためである、と主イエスははっきり言われた。

従って、私たちが迫害を受けたとき、せねばならないことは、人々の前で敵の嘘や詭弁に満ちた主張を、対抗弁論によって毅然かつ堂々と打ち破ることであって、彼らの脅しを恐れて退却することではない。

なぜなら、すでに述べた通り、私たちが向き合っているのは、あれやこれやの人間ではなく、悪の諸霊が吹き込む偽りの教えそのものであって、私たちがなすべきことは、すでに述べた通り、彼らの嘘を指摘し、聖書の御言葉が真実であることを公然と証明することで、大勢の人々に対して行使されている彼らの嘘による脅しと、惑わしの力を、無効化することだからである。

それが、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく」という言葉の意味なのである。

* * *

さて、今回は、「聖書の記述は嘘だ」という彼らの第一の言いがかりに加えて、「我々は神々である」という彼らの第二の嘘が意味するところについて、重点的に考えてみたい。

なぜなら、聖書のまことの神である唯一の神を否定して、自分たちが「神々である」と詐称することこそ、グノーシス主義思想の最大の目的だからだ。

福音書には、ぶどう園をあずかった悪い農夫たちのたとえ話が複数個所、登場する。

むろん、誰でも知っているように、この悪い農夫たちは、直接的には、ユダヤ人を指す。ユダヤ人たちは、神が自分たちのために遣わされた預言者たちを迫害して殺し、神が独り子なる救い主を遣わされたのに、これをかえって十字架につけて殺した。

そこで、救いはユダヤ人から取り上げられて、異邦人に与えられ、それだけでなく、主イエスを拒んだユダヤ人の都エルサレムは、やがてローマの進軍により滅ぼされ、神殿は石組一つも残らないほど徹底的に壊滅した。

実は、グノーシス主義の構造とは、まさにこの悪い農夫たちの策略そのものであると言える。そして、恐るべきことに、今日、目に見える教会には、まさに神と人とが主客転倒したグノーシス主義の教えが広まり、まさにこのぶどう園の有様が広がっているのである。

今回は、マタイによる福音書からそのたとえ話を引用しよう。

「ある家の主人がぶどう園を作り、垣を巡らし、その中に搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

さて、収穫の時が近づいたとき、収穫を受けとるために、僕たちを農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちはこの僕たちを捕まえ、一人を袋だたきにし、一人を殺し、一人を石で撃ち殺した。また、他の僕たちを前よりも多く送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。
 
そこで最後に、『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、主人は自分の息子を送った。農夫たちは、その息子を見て話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺して、彼の相続財産を我々のものにしよう。』そして、息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった。


さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すにちがいない。

 イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。


 『家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。』

  だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

 祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。」(マタイ21:33-46)

私たちは、このたとえを読んで、首をかしげるだろう。一体、なぜこの悪い農夫どもは、ぶどう園の主人の跡取り息子を殺したからと言って、農園が自分たちのものになると考えたのだろうかと。殺人によって所有権を奪うことなどできるはずもないのにと。

全くその通りで、そんな考えが荒唐無稽であることは言うまでもない。しかし、暗闇の勢力は、有史以来、殺人によって神の国(神への礼拝)を正しい人々の手から奪い取ろうとして来たのであって、カインはアベルを殺すことで、神への礼拝を奪い取れると考え、ユダヤ人たちも、キリストを殺せば、自分たちの教えだけが、正しいものとして残ると考え、自分たちが本当は神に受け入れられておらず、全くの罪人でしかないという事実を誰からも暴かれずに済むと思ったのである。

要するに、これらの人々は、本物を駆逐しさえすれば、誰にも本物と偽物との区別がつかなくなり、偽物である自分たちが、正体を暴かれることなく、公然と本物を名乗れるかのように考えたのである。

ここに、「唯一の神から、神であることを奪って、自分たちが神になりかわりたい」というグノーシス主義の究極的な願望が込められていると言える。

当ブログにおいては、グノーシス主義とは、被造物が主体となって、自らの創造主を客体に貶め、被造物が創造主の神聖を盗み出して自ら「神々」になろうとする「模倣と簒奪の思想」であると述べて来た。

要するに、グノーシス主義は、聖書の神と人とを主客転倒した「さかさまの思想」であって、神によって罪に定められ、神聖から排除された、堕落した生まれながらの人類が、自分たちを罪に定めた聖書の神に反逆し、神に復讐を遂げることを正当化するために造り出された思想なのである。そして、もちろん、その起源は、創世記において、人類を誘惑した蛇の教えにある。

グノーシス主義思想が、「擬制(フィクション)としての父の物語」だと言われるのもそのためで、この思想の持ち主は、神の国の後継者ではないのに、後継者であると詐称して、まことの神から、神であることを奪って、己を神としたいからこそ、彼らにとって「父なる神」はフィクションでなければならないのである。なぜなら、本当の父というものがあれば、彼らの嘘がすぐにバレてしまい、彼らは父の圧倒的な権威によって、家を追われることになるためである。
 
聖書において、父なる神は、「わたしは有る」(出エジプト3:14)と力強く宣言される方であって、断じてフィクションなどではない。

お前はわたしの子
 今日、わたしはお前を生んだ。
 求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
 地の果てまで、お前の領土とする。
 お前は鉄の杖で彼らを打ち
 陶工が器を砕くように砕く。」(詩編2:7-9)

この箇所は、キリストを指したものであるが、父なる神が聖霊によって独り子なるキリストを生んだように、私たちクリスチャンも、バプテスマを通して下からの出自に死んで、御霊を通してキリストによって上から生まれた者たちである。

私たちはこうしてキリストによって、父なる神から生まれていればこそ、この父に、子として何でも願い求めることができるのであり、もしも私たちが「父が分からない」子だとするならば、私たちは信仰によって、何一つ神に願い出る資格を持たない者となる。

「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:12-17)

と書かれてある通りである。

ここでは、神の子供であることを見分けるために、いくつかの条件が提示されている。まず、「神の霊」によって導かれていること。そして、その霊とは、人を恐怖によって奴隷とする霊ではなく、私たちが神の子であることを証する霊であること。

次に、私たちが神の子であるならば、キリストと共に「共同相続人」でもあること。これは私たちが、やがて来るべき新しい天と地で栄光に満ちた贖いに預かることを指している。

さらに、私たちがキリストと共に苦しみを受けることによって、栄光を受けることが出来ること。これはクリスチャンが地上で主の御名のゆえに負わねばならない苦難を指す。

また、非常に重要なこととして、神の霊によって導かれて生きるためには、「肉に従って生き」ず、かえって「霊によって体の仕業を絶つ」ことが必要になる。これは主と共なる十字架の死の効果が、信者の肉に対して絶えず及んでいることを意味するが、このことについては後述する。
   
ところが、被造物を主とするグノーシス主義は、「父なる神」をもの言わぬ「虚無の深淵」や「鏡」に貶め、「存在の流出」という考えにより、あたかも天地万物のすべての被造物は、父なる神の意志によらず、自動的に流出したかのように述べる。

幾度も述べた通り、ここには、父の意志というものが介在しないため、「お前はわたしの子 今日、わたしはお前を生んだ。」という父から子への明白な承認が全くない。それどころか、もの言わぬ「父」は、いるかどうかも分からない存在へと追いやられている。

このようにグノーシス主義は、「父なる神」から発言権を奪った上で、神の姿が水面に映って乱反射した映像から流出して出来たとされる被造物を「神々」として誉め讃えるのである。

このように、まことの神を骨抜きにして、その神から神聖なるリアリティを盗むがごとくに生まれた被造物を「神々」として賛美するという人類の自己満足、自己賛美のために造られた思想が、グノーシス主義である。

どこまでも人類の自己満足、自己賛美の思想であって、それを力強く承認してくれる者の存在がないからこそ、この思想には、この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。と言える「神の子とする霊」「証」の存在はなく、ただひたすら「俺たちの父祖は神だ!俺たちは神の子孫であって、神々だ!」という「自称」の世界が広がっているだけなのである。

しかし、彼らの自己満足にも、決定的に水を差す存在がある。それが、ソフィアの失敗作と生まれたヤルダバオートである。

グノーシス主義においては、地上を支配する醜い悪神ヤルダバオート(デーミウルゴス)は、アイオーンたちのヒエラルキーを飛び超えて、単独で神の神聖を盗もうとして失敗したソフィアの過失の結果、生まれた悲劇の産物であるとされる。そして、これが聖書の創造主(ヤハウェ)と同一視されて、徹底的に悪罵と嘲笑の対象とされるのである。

私たちは、グノーシス主義とは、聖書の唯一の神を徹底的に憎悪し、悪罵・嘲笑することを目的に生まれた思想であることを覚えておく必要がある。

グノーシス主義がヤルダバオートを憎むのは、まず彼の存在そのものが、母としてのソフィアの企ての失敗(被造物の失敗)を示すものであることに加え、彼の外見が、自分たちは美しいと思って自画自賛しているアイオーンたちから見て醜く見え、さらに、何よりも、ヤルダバオートが「わたしの他に神はない」と宣言しているためである。

もちろん、ヤルダバオートのこの宣言は、「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。」(イザヤ45:5)などの聖書の神の宣言を、グノーシス主義者が皮肉り、嘲笑するために悪用したものである。
 
つまり、「神々」なるアイオーンたちから見れば、自分一人だけが神であるかのように宣言し、他の「神々」の存在を頑なに認めないヤルダバオートは、「高慢」で「無知」で「愚か」な悪神であって、許せない存在と見えるのである。

それゆえ、グノーシス主義の思想は、至る所で、ヤルダバオートに聖書の唯一の神を重ねて、これを高慢で無知で愚かな神として、徹底的に嫌悪し、嘲笑の対象とするのである。

このように、グノーシス主義が最も憎んでいるのは、神は唯一であって、他に神はいないと述べている聖書の真理なのであって、この思想の持主の目的は、神が唯一であることを否定して、その代わりに、被造物を「神々」に据えることにこそある。

先に結論から述べるならば、掲示板において当ブログに盛んに悪罵の言葉を向けている人々が、当ブログの主張を「高慢」で「狭量」で「僭越」なものであるかのようにみなしているのも、同じ理由からである。

当ブログの信仰の証しを「妄想」や「精神異常の産物」として罵っている人々は、聖書の記述をも、人間に精神異常をもたらすだけの「作り話」だとみなして否定しているだけでなく、当ブログの信仰の証しを「高慢」だと罵ることにより、自分たちこそ「神々」であるとして、唯一の神を否定しているのである。

もちろん、彼らが神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いも認めていないことはすでに述べた。だとしたら、ただ一人の救い主を信じないのに、自分たちが救われていると自称している彼らは、自分たちが生まれながらにして「神々」だと詐称しているに過ぎない。
 
こうした悪罵の背景には、太古から続いて来た、聖書の神に反逆する思想があるということを、私たちは覚えておく必要がある。

グノーシス主義というのは、初代教会の時代に名付けられた呼び名に過ぎず、この思想それ自体は、もっと前から存在している。その起源は、創世記で人類をそそのかした蛇にさかのぼり、いわば、蛇の教えを体系化したものが、グノーシス主義なのであって、それが多くのバリエーションを作って、世界の宗教、哲学、政治思想などに受け継がれている。
 
結局のところ、世界の思想は、根本的に大別すると、キリスト教と非キリスト教(グノーシス主義)の二つしかないのであって、聖書の御言葉が真理であることを認めない思想は、すべてグノーシス主義のバリエーションとして分類することができるのである。

私たちは、このように、太古から、聖書の唯一神を徹底的に悪罵、憎悪し、神を誹謗中傷の対象として来た悪魔的思想というものが存在し、それが悪の諸霊によって、現代にも、惑わされた人々に連綿と受け継がれていることを理解しておく必要がある。

だから、掲示板における人々の当ブログに対する非難の根底には、グノーシス主義が存在しているのであって、当ブログがこの偽りの教えの嘘を体系的に明るみに出していればこそ、彼らの非難は苛烈を極めるのである。
 
とはいえ、私たちの神ご自身が罵られ、嘲られている時に、私たちがキリストの苦しみにあずかるのは当然であって、それによって、私たちは来るべき世において、主と共に栄光を受けることができるであろう。約束の相続人であるからこそ、キリストと共に苦しむという栄誉も与えられているのである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)

話を戻せば、グノーシス主義には、もの言わぬ「虚無の深淵」とされているとはいえ、一応、形ばかりは「父なる神」が存在している。これは「神々」の誕生にほんのわずかなりとも口実を与えるために造り出された、骨抜きにされた沈黙する神であって、すでにフィクションのような存在である。

だが、東洋思想においては、このようにフィクションによって抜け殻と化した「父なる神」すらもなく、万物の生命の源は、公然と「母なる神」(神秘なる混沌)にあるとして、女性原理が神聖なものであるかのように誉め讃えられる。

この「母なる神」(老子によれば玄牝)は、言い換えれば、人間の肉の情欲そのもののである。詳しくは省略するが、東洋思想では、天地万物は、「神秘なる母胎」なるものから、情欲の交わりによって誕生したのだとされ、東洋思想の根本には、堕落した肉の情欲をあたかも神聖なものであるかのように誉め讃える思想がある。

幾度も述べて来た通り、このような思想は、ペンテコステ運動の中にも、「母なる聖霊」論などという荒唐無稽な形を取って入り込み、キリスト教の「父なる神」を骨抜きにし、堕落させようとして侵入しているのは言うまでもない。

このようなものは、要するに、唯一の神を否定して、「父なる神」の戒めなど完全に無視して、己の肉の欲望のままに、あらゆるものと奔放に交わり、無責任に子を生み出し続ける、忌むべき「母」バビロンのことである。

女は紫と赤の衣を来て、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものや、自分のみだらな行いの汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、秘められた意味の名が記されていたが、それは、「大バビロン、みだらな女たちや、地上の忌まわしい者たちの母」という名である。わたしは、この女が聖なる者たちの血と、イエスの証人たちの血に酔いしれているのを見た。」(黙示17:4-6)

(ちなみに、今日、このバビロンが堕落した肉欲の象徴であり、偽りの教えの総体であることを否定する信者はほとんどいないであろう。そして、バビロンがどれほど豪奢に着飾っているかの描写が、次のパウロの言葉といかに対極にあるかもよく分かるはずだ。

「婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。むしろ、良い業で身を飾るのが、髪を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。」(Ⅰテモテ2:9-11)

ところが、今日、ある人々は当ブログを非難して、このくだりの「婦人」とは、象徴を指すものではなく、文字通りの意味だと主張している。そして、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。」(Ⅰテモテ2:12)という続くパウロの言葉を文字通りに解釈し、これを実行すべきだと述べて、彼らの教会の講壇に立っているわけでもない当ブログの記事が、ただ女性執筆者によるものだというだけの理由で、許せないなどと支離滅裂な非難を展開している。

だが、バビロンとの対比によっても、この「婦人」が象徴であることは明らかであり、そうでないと主張したい人は、まずは自分たちの教会の講壇から女性説教者をすべて追放すれば良かろう。そして、自分たちの娘にも、いかなる結婚式やその他の宴会でも、決して高価な着物を着させず、生まれてから一度も髪を編まず、金や真珠を一切、身に着けるのをやめさせると良いのである。そして、教会に足を踏み入れてから立ち去るまで、彼女たちには一言も口を利かないように教えるがよい。それが以上の御言葉を文字通りに受け取ることの意味なのだから、この人々は、まずは自分たちが信じるところを忠実に実践すべきなのである。)

このように、グノーシス主義における「神々(被造物)」とは、本質的にバビロンと同じく、堕落した被造物のうちに働く生まれながらの肉の欲望を「神聖なる女性原理」として誉め讃えたものであり、彼女の行いが悪いからこそ、グノーシス主義者は、「父なる神」には沈黙しておいてもらわなくてはならないのである。

彼らは「父」の戒めに従っていないからこそ、彼らにとって「父」はフィクションである方が都合が良く、むろん、バビロンの姦淫によって生まれた「子ら」にとっても、父が誰かなどといった問題は、タブーであって、放っておいてもらわなくてはならない問題なのである。

このような思想の特徴は、肉に対する霊的死がなく、心に割礼を受けていないという一言に尽きる。

だが、先の御言葉でも、正統な神の国の後継者には、「霊によって体の働きを殺す」という「一つの義務」が課せられている。

「わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。

これが、罪に対する赦しとは別の、キリストの十字架のもう一つの側面である。私たちの旧創造に属する堕落した肉を霊的に死に渡すことのできる絶大な十字架の効力である。

だが、グノーシス主義においては、罪もなければ、十字架もないため、この思想は、人間の肉欲を聖なるものであるかのように褒めたたえるだけで、それに対するいかなる処方箋も提示しない。

グノーシス主義では、天地万物の創造は、真の至高者が、水面に自分の姿を映し出すことによって、そこから「神々」の存在が、映像のごとく「流出」して生まれたとされる。

だが、この筋書きも、人間の自己愛の産物であって、ちょうどギリシア神話に登場するナルシス(ナルキッソス)が、水面に映った自分の映像に恋い焦がれて死んだのと原則は同じである。

ナルシスの悲劇は、「本体ではなく、映像こそが真のリアリティだ!」と宣言して、主客転倒して、本体からオリジナリティを強奪しようとするグノーシス主義者の願望をよく表していると言えよう(だからこそ、しばしばグノーシス主義の研究者らはこの物語に言及する)。

だが、ここで言う「映像」とは、堕落した被造物全体を指すだけでなく、人の肉の欲望そのもののことなのである。

ナルシスは、水面という鏡に自分を吸い取られることによって、本体は虚無であって、映像こそがまことのリアリティだという転倒したものの見方を提示し、その恐るべき思想の至り着く当然の結末として、自分を失って死んだのであるが、ここには、神は虚無であって、被造物こそがまことのリアリティだという転倒した思想が表れているだけでなく、被造物も、肉に対する霊的死など帯びる必要がなく、思う存分、肉欲に翻弄されて生きた結果、肉欲を「主」として、その持ち主たる人間(自分)を「従」として、肉欲に自分を吸い取られることにより、いずれ神にまで至れるとする完全に転倒したグノーシス主義の考え方がよく表れている(むろん、そんなことが起きるはずもなく、彼らを待ち構えている結論は、死だけである)。

ギリシア神話では、あくまで物語の主役は、まだナルシスにあったが、グノーシス主義は、そこからより進んで、主役(至高者)を完全に沈黙に追い込んだ上、ナルシスの自己愛を、水面に乱反射させるようにして「神々」という形で結実させる。そして、この「神々」の動向の方に巧妙に物語の中心を移していく。そして、東洋思想になると、形骸化して沈黙する「父」もいなくなり、被造物(「母」)だけが勝ち誇っている。

無限とも言えるほどにたくさんの鏡、数えきれない映像、それらがせめぎ合って、みな本体を押しのけては、自分たちこそ本体だと、真のリアリティだと叫ぶ――これは、東洋における八百万の神にも通じる考えであって、グノーシス主義のアイオーンたちの形成する世界と同じものであり、現在、掲示板で起きている現象そのものであると言える(彼らは無数の鏡を作り、そこに当ブログについても悪意ある歪んだ映像を作り出し、それがリアリティであるかのように叫んでいる)。

これらの「神々」は、すべて時期尚早に結ばれた肉の実、「ハガルーイシマエルーバビロン」の系統に属する、心の割礼を受けない堕落した人類の欲望を表している。

自己愛というのは、自己保存願望と同じである。そこで、「神々」などと言っても、結局、グノーシス主義における「神々」の正体は、煩悩とでも呼んだ方がふさわしい、数えきれない欲望を表しているだけなのである。それらの欲望の中で最たるものが、人類が自力で子孫を残し、自己保存することによって、神の永遠にまで至り着きたいという願望である。

その欲望が、老子の言う玄牝であり、東洋思想の神秘なる混沌であり、グノーシス主義における最初の被造物にして万物の母なるバルベーローであり、これらはすべて人類の肉の欲望の総体である「ハガル」を象徴し、最終的には「大淫婦バビロン」に至り着くものである。

旧約聖書におけるサラは、アブラハムの妻であったにも関わらず、自分に子が生まれないことに悩み、このままアブラハムの家の子孫が絶えては困るという考えで、肉なる力によって、アブラハムの血統を保存しようと、自分の代わりに奴隷のハガルをアブラハムに差し出した。

この時点では、サラは神の御言葉の成就を待てず、「霊によって体の働きを殺す」どころか、肉の思いによって、早々に実を結ばせようと、奴隷を主人に差し出して、苦しみを招いてしまう。

だが、ここで言う奴隷のハガルとは、罪と死の奴隷となって、絶えず死の恐怖に追い立てられている人類の肉欲そのものであって、何とかして死に至る前に、自力で死に打ち勝って、永遠に至り着きたいという、人類の焦り、恐怖を指している。

つまり、「ハガル」とは、罪と死の法則によって支配され、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」の象徴であると言えよう。

人類の肉の欲望は、何であれ、すべて究極的には、死の恐怖に追い立てられて生まれる自己保存願望である。

そこで、グノーシス主義とは、心に割礼を受けていない、人を奴隷として恐怖によって支配する霊、堕落した肉欲の実を結ばせようと願う「ハガル」という母胎を、あたかも神聖なものであるかのように誉め讃え、ハガルの生み出す肉の実によって、神に喜ばれる信仰によって生まれる聖なる約束の子を駆逐し、消失させようという思想であると言える。

そこで、ぶどう園の悪い農夫たちは、みな「ハガル」の子孫である、と言えよう。彼らは、アブラハムの正式な妻であるサラから生まれた約束の子を殺して、奴隷のハガルから時期尚早に生まれた子を跡継ぎに据えれば、神の国を強奪できるだろうと考えた。

彼らの言いたいのは、こういうことである、「本物を殺して、コピーだけを残せ。そうすれば、俺達がコピーであって模造品に過ぎないとは、誰にも分からなくなり、俺たちの犯罪行為はかき消される。」

「本物の信仰の証しを地上から消し去り、神の子供たちをインターネットから駆逐しろ。そうすれば、何が本物で、何が偽物かなどと、誰にも分からなくなる。本物の神の子供たちを教会から追い出せば、神の国の後継者を名乗れるのは、俺たちだけだ。俺たちは神々であって、神聖で侵すべからざる存在だ。俺たちを冒涜する者は、誰でも同じ苦しみに遭わせてやれ。」

それが、この悪い農夫たちの悪質な企みであり、いわば、悪魔の教えの根幹であると言えよう。そして、このような盗人・人殺しによって支配されるぶどう園の行く末がどうなるのかは、聖書に書かれている通りである。

今日、無数の「ハガルの子孫たち」が現れて、自分たちは神の国の後継者だと詐称しては、聖書のまことの神に反逆し、キリストに連なる神の子供たちを教会から追い出し、彼らに憎しみを燃やして迫害を繰り返している。そして、すでに地上の目に見える教会は、これらの詐称者によって占拠されてしまった。だからこそ、このような場所からはエクソダスせねばならないし、彼らの偽りの教えに加担してはならないと言うのである。

* * *

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。」(ガラテヤ5:16-17)

霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制である。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5:22)

キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」(ガラテヤ5:16-25)



「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せられる。
 
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。』
 全能の主はこう仰せられる。

 愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。」(Ⅱコリント6:14-18,7:1)

* * *

最後に、冒頭に挙げた御言葉は、私たちが神に従う上で、肉による下からの生まれに死ぬのみならず、肉による絆、魂の愛情にも死なねばならない時があることをよく示している。

あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。<略>また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。」とある通り、時には、親族や、兄弟や、友人からさえも、迫害されて、厳しい試練を通過せねばならない場合がありうることが予告されている。

だが、それゆえに、イエスは
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」(マタイ19:29)と言われ、迫害に耐え抜いたことに対して、大きな栄光があることを約束されたのである。

だが、ここには、妻と夫との関係だけは含まれていない。それは、妻と夫の関係は、血縁によるものではなく、キリストと教会を予表するものであるため、信仰による迫害によって捨てなければならないものの中に含まれていないのである。

しかしながら、冒頭に挙げた通り、「
天の国のために結婚しない者もいる。」と、主イエスははっきりと述べ、それを受け入れられる心のある人は、そうした心構えで生きるようにと勧められた。パウロも、これに準ずる考えを述べている。

ところで、夫と妻との関係を論じるに当たり、ある人々は、
「不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタイ19:9)というイエスの御言葉を取り上げて、聖書は絶対的に離婚を禁じていると主張しているが、「不法な結婚でもないのに」とある通り、イエスはそこに例外をもうけられたことに注意が必要であろう。

このことについて、終わりのない愚かしい議論を繰り返している人間どもがいるため、そういう彼らには、サドカイ派の人たちの質問を裏返しにして、お尋ねしたい。

たとえば、カルト被害者救済活動の指導者は、カルト宗教で、指導者が信者に「神の啓示」として命じた結婚は、解消しても構わないと触れ回っているが、それはイエスの言われた
「不法な結婚」に相当するのか、しないのか。

さらに、ある人が結婚して、二人か三人の子供をもうけた後に、自ら家族を捨てて、しばらく経ってから、誰か別の、誰とも結婚したことのない若い人をつかまえて、その人の無知と弱みにつけこんで、結婚したと仮定しよう。しばらく経ってから、その人は、その若い伴侶を捨てて、さらに別の若い人を見つけて結婚したとしよう。そうして、七度、その人は、家庭を築き、その度毎に、子をもうけるか、もしくはもうけないで、伴侶を捨てて、ついには独身になった。そのような場合に、その人が地上で築いた七つの家庭のうち、その人が離婚を禁じられた伴侶とは、誰(何人)を指すのか。

この質問にきちんと答えられる人が、他者に向かって石を投げつければ良いのである。だが、果たして、これに答えられる人間が、目に見える教会や指導者にしがみつき、それを己が神聖の根拠であるかのように主張している信者の中にいるのかと疑問に思う。

要するに、愚かでむなしい議論にははまらないことである。

エクレシアのまことの伴侶はキリストであるから、信者は地上の移ろい行くものに心を留めないで、真っすぐに神の国を見上げて生きるのが、最も賢明な策であることは、誰にも否定できない事実であろう。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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