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覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものではない。だから、あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで聞かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上で言い広められる。」(ルカによる福音書12:2-3)

* * *

いよいよ安倍政権の終わりが明白に見えて来た。やはり、懲戒免職されて当然であった黒川氏に、懲戒すらも加えずに、訓告だけで辞職して済ませようと考えたのは、官邸(安倍氏)の思惑だったようだ。

(記事中の画像に下線を引いたのは筆者)
 

黒川氏処分、首相官邸が実質決定 法務省は懲戒と判断、軽い訓告に
共同通信 2020/5/25 06:33 (JST)5/25 08:51 (JST)updated 

 

  黒川弘務前東京高検検事長の処分に関する説明

 賭けマージャンで辞職した黒川弘務前東京高検検事長(63)の処分を巡り、事実関係を調査し、首相官邸に報告した法務省は、国家公務員法に基づく懲戒が相当と判断していたが、官邸が懲戒にはしないと結論付け、法務省の内規に基づく「訓告」となったことが24日、分かった。複数の法務・検察関係者が共同通信の取材に証言した。

 安倍首相は国会で「検事総長が事案の内容など、諸般の事情を考慮し、適切に処分を行ったと承知している」と繰り返すのみだった。確かに訓告処分の主体は検事総長だが、実質的には事前に官邸で決めていたといい、その経緯に言及しない首相の姿勢に批判が高まるのは必至だ。


しかも、驚くべきは、賭けマージャンが賭博罪に当たることは、2006年に第一次安倍政権が閣議決定していたことだ。


「賭け麻雀は賭博罪」安倍政権が閣議決定していた

BUZZAP! 2020年5月23日12:25  by 深海
 
黒川検事長の賭け麻雀を賭博罪と認めなければ、自らの内閣が行った閣議決定をひっくり返すことになります。詳細は以下から。

◆黒川検事長が不問なら自らの閣議決定と矛盾
第一次安倍政権は2006年12月19日、鈴木宗男衆議院議員(当時)の質問主意書への答弁で賭け麻雀が賭博罪(刑法185条、最高で50万円の罰金)に当たると閣議決定しました。

これは2006年12月8日に提出された外務省職員による賭博に関する質問主意書に答えたもの。質問主意書では
 

三 賭博の定義如何。
四 賭け麻雀は賭博に該当するか。
五 賭けルーレットは賭博に該当するか。


 という質問が行われており、衆議院議員鈴木宗男君提出外務省職員による賭博に関する質問に対する答弁書ではこれに
 

三について
 刑法(明治四十年法律第四十五号)において、「賭博」とは、偶然の事実によって財物の得喪を争うことをいう。

四及び五について
 一時の娯楽に供する物を賭けた場合を除き、財物を賭けて麻雀又はいわゆるルーレット・ゲームを行い、その得喪を争うときは、刑法の賭博罪が成立し得るものと考えられる。

 
と答弁しています。質問三への答弁として、賭博は「偶然の事実によって財物の得喪を争うこと」としていますが、この財物には当然現金が含まれます。


また質問四及び五への答弁では賭け麻雀を刑法の賭博罪が成立し得るもの」と明言。ここにある「一時の娯楽に供する物」は飲食物などを指すため、現金は当てはまらず「財物」とされます。

週刊文春のスクープにより、検察庁法改正に絡んで一躍時の人となった黒川検事長が常習的に賭け麻雀を繰り返していたことが判明。現金の授受が生じていたことは黒川検事長本人も認めています。

安倍政権は明確に賭け麻雀を賭博罪と認める閣議決定を行っており、黒川検事長が法的根拠なしで賭博罪に関し不問となれば、ここで極めて大きな矛盾が生じることとなります。

◆黒川検事長が不問なら「テンピンまでの賭け麻雀はセーフ」にも
また本件に関しては、法務省の川原隆司刑事局長は黒川検事長の賭け麻雀のレートがテンピン(1000点100円)だったことから「社会の実情を見ると、必ずしも高額とは言えない」としています。

一方1998年に漫画家の蛭子能収さんが賭博罪で現行犯逮捕された際のレートはリャンピン(1000点200円)でした。

これらを加味すると、法務省のお墨付きで「テンピンまでレートなら賭け麻雀は今後逮捕されない」という前例ができることにもなり、日本の賭け麻雀を取り巻く環境は根底からひっくり返ることにもなります。



さらに、日刊ゲンダイの記事によると、2013年に「東京高等検察庁非違行為等防止対策地域委員会」が、東京高検及び管内の職員に対し、国民の信頼を損ねる非違行為を行わないよう呼びかける文書を配布し、そこで、職員がマスコミなどの利害関係者と現金を賭けたマージャンを行ったり、ハイヤーの送迎を受けてはならないと禁止していたという。
 

黒川氏の麻雀は非違行為に該当 東京高検作成資料で明らか
日刊ゲンダイ2020/05/23 06:00

 22日の衆院法務委。法務省の川原隆司刑事局長は、黒川氏が参加したマージャンの賭けレートが「点ピン」(1000点100円)だったと明らかにした上で、こう答弁していた。要するに「高額とは言えない」から軽い処分の「訓告」にとどめ、退職金の満額支給も問題ない、と言いたいわけだ。委員から「おかしい」とヤジが飛ぶと、川原刑事局長は「処分の量定に当たっての評価だ」などとはぐらかしていたが、そうはいかない。すでに法曹界からは「黒川氏の賭けマージャンは、東京高検が作成した非違行為に触れている」との声が出ているからだ。<略>


<品位と誇りを胸に 今一度見つめなおそう 自分の行動と職場の風土>

「東京高等検察庁非違行為等防止対策地域委員会」は2013年9月、東京高検及び管内の職員に対し、こう題した資料を作成し配布した。

  資料の冒頭には<国民の期待と信頼に応えるよう一層気を引き締めて非違行為等の防止に万全を期してください>とあり、法務官僚や検察官が行ってはならない事例や具体例が示されている。

  例えば<第2 服務規律>では、<信用失墜行為については、刑事罰の対象となる事案が多く、そのほとんどは刑事罰に加え免職などの懲戒処分を受けることになります>とあり、信用失墜行為の代表例としてこうある。

 <勤務時間外の交通違反・事故、麻雀等の常習賭博、わいせつ行為等の犯罪行為>

要するに黒川氏の賭けマージャンは<わいせつ行為>と並ぶ重大な信用失墜行為であり、本来は免職や懲戒処分が相当なのだ。そして、<第3 国家公務員倫理法、同倫理規定>では、<利害関係者とみなす者>として<マスコミ関係者>が挙げられ、<利害関係者から、無償で役務の提供を受けてはならない ※「無償で役務の提供を受ける」とは、ハイヤーによる送迎の受けることがこれに該当します>とある。

  さらに、<利害関係者と一緒に遊技又はゴルフをしてはならない>とし、「遊技」の例で<麻雀>とわざわざことわっているほか、本省課長補佐級以上(検察庁においては、検事16号以上、副検事11号以上など)の職員は<事業者等から一件5000円を超える贈与等を受けたときは、四半期ごとに、翌四半期の初日から14日以内に、各省庁の長等に贈与報告書を提出しなければなりません>とあるのだ。

 法務省によると、黒川氏は、産経新聞と朝日新聞の記者ら計3人とマンションで賭けマージャンし、記者側が用意したハイヤーで帰宅していた。つまり、「利害関係者」から「無償の役務提供」を受け、禁止された「遊技」=マージャンに興じていたわけだ。

週刊文春の報道によると、黒川氏と賭けマージャンした記者は「一晩で10万円負けた」とボヤいていたらしいが、それが事実であれば、黒川氏が果たして贈与報告書を提出していたのかも気になるところだ。いずれにしても、黒川氏の今回の賭けマージャンは東京高検が注意を呼び掛けた非違行為に該当するのは間違いない。やはり訓告という大甘処分ではなく、更迭、懲戒免職、賭博罪での立件が妥当だ。

 

これらの記事を参照する限り、利害関係者と常習的に賭博を行っていた黒川氏が懲戒免職になるのはまさに当然だということになる。

* * *

 ちなみに、政府与党がまだ検察庁人事介入法案の強行採決を諦めていなかったとき、筆者はブログのひとこと欄にこう書いた。
 

この国は果てしなく崩れ始めている。戦後民主主義が根底から覆されようとしているとみなが気づいている。強行採決したら、安倍と黒川氏はもはや完全な悪者となり、国民の一切の理解がなくなり、かえって首相退陣後の追及が確定するものと思う。フランス革命みたいなことさえ起きる可能性が。


 
筆者が政権の崩壊を感じ始めたのは、減収世帯への30万円の給付が、予算がついてから、いきなり国民への一律10万円に取り替えられたのを見たときだ。

政府の最大の存在意義は、社会的弱者を助けることにある。市場経済においては、弱肉強食の原理が働いて、弱い者は淘汰されていくだけだが、そうならないための各種のセーフティネットを用意するのが、政府の最も重要な役割である。

政府が社会的弱者のための最後の防波堤だからこそ、人々は政府を尊重する。
 
ところが、減収世帯の取り分だったはずのものを、まさに予算がつこうとする直前に、首相と公明党代表との会談があっけなく覆した。圧倒的多数の国民が、それを歓迎し、10万円を我に寄越せと叫び、政府の手からこれをもぎ取って行った。

政府は、マジョリティの怒号に屈したが、その時点で、「社会的弱者」とは、もはやこれまでのように、国民のうちわずかなマイノリティではなくなったのだ。

コロナウィルスの影響で苦境に追いやられる圧倒的多数の国民に対し、政府のこれまでのセーフティネットでは、対応できないことが明らかとなった。

そして、コロナ対策が後手になればなるほど、社会的弱者を助けるために存在するという政府の大義名分が失われ、信頼が失墜して行ったのだ。

残るは、圧倒的大多数の国民の怒号の声だけである。その怒号の前にたじたじとなって後退して行く現政権の有様は、さしずめ革命を目の前にしたフランス王政のようだ。
 
ちなみに、砲撃のような文春の記事「黒川弘務東京高検検事長 ステイホーム週間中に記者宅で“3密”「接待賭けマージャン」 」によって、検察庁人事介入法案が見送りに追い込まれ、多くの人々が、黒川氏の辞任劇に目が釘付けになっているときに、

 「「民主政治を踏みにじる犯罪だ」 有志の弁護士ら662人、安倍首相を刑事告発 「桜を見る会」めぐり」(弁護士ドットコムニュース 2020年05月21日 16時55分)

の記事にもある通り、5月21日、有志の弁護士662人が、予定通り、現職の首相を刑事告発に踏み切った。

検察庁OBの意見書と言い、この刑事告発と言い、憲法を踏みにじろうとした現職首相に対する法曹界の本気の憤りが感じられる前代未聞の出来事である。

黒川氏への甘い処分にも、非難が集中し、支持率が急落した。

内閣支持率27%に急落 黒川氏「懲戒免職にすべきだ」52% 毎日新聞世論調査
(毎日新聞2020年5月23日 16時53分(最終更新 5月23日 18時25分))

コロナ禍の中、企業は倒産し、内定取り消し、解雇、雇止めの憂き目を見る労働者が続出、失業者は1万人を超え、妊婦も出勤を強いられ、時差出勤するために遅刻しただけでも、職場から懲戒を言い渡されそうになったり、人命を後回しにしてまで出勤を命じる職場に着いて行けず、退職に追い込まれたりする人も後を絶たない。ステイホーム中に離婚が増加し、子供たちはDVの犠牲になる。

それなのに、ステイホーム中に賭けマージャンした検事総長が、真相究明も待たず、7千万円近い退職金をもらって自主退職で済まされるはずがあろうか。

なお、検察庁ОBは、意見書の中で、安倍氏を「朕は国家なり」と唱えたルイ14世になぞらえて批判したにも関わらず、安倍氏は5月22日の衆院厚労委員会の審議において、自分を「ルイ16世」になぞらえ、言い間違えたらしいが、これもまた運命的である。

浮世の苦労などほとんど味わったこともない安倍首相と奔放な夫人は、これまで幾度もルイ16世とマリーアントワネットになぞらえられて批判を浴びて来たが、今度ばかりは、首相自らがギロチンで終わる最期を予告したように感じられてならなかった。

以下の記事では、黒川氏を勤務延長させるために、違法な閣議決定を行い、これを後付けで正当化するため、検察庁人事に介入する法案を強行採決しようとし、さらに賭博罪に問われておかしくない黒川氏をなおかばいだてして、罪に問わずに済まそうとした安倍氏の、嘘に嘘で塗り固めたような不正な手続きに対する国民の非難がよく感じ取れる。
 

首相「私はルイ16世と同じではない」」

朝日新聞DIGITAL 2020年5月22日 19時58分


 野党統一会派の小川淳也氏(無所属) 「重大かつ複雑困難な事件の捜査公判に対応するために不可欠だ」という理屈を立てて、違法、違憲の疑いのある閣議決定を強行し、勤務(定年)延長した。その黒川氏が国民が苦しい思いをしている時に外出自粛要請を無視して密室で賭け事をするという信じられない不祥事で辞任する。前代未聞だ。今回の経緯に至った任命責任をどう取るか。

 安倍晋三首相 検事総長が適切に、適正に処分を行い、私は了承した。黒川氏については、法務大臣からの閣議請議により閣議決定するという適正なプロセスを経て、引き続き勤務させることとしたものであり、勤務(定年)延長自体に問題はなかった。人事案を最終的に内閣として認めた責任は私にある。批判は真摯(しんし)に受け止めたい。

 小川氏 進退伺を出した森雅子法相をなぜ慰留したのか。

 首相 森法相には、法務省、検察庁で国民の信頼回復に全力で努めて欲しい。

 小川氏 緊急事態宣言の一部解除があったのに、なぜ昨日、会見をしなかったのか。

 首相 おそらく黒川氏の事案と絡めて質問されているんだろうと思うが、ずいぶん前から、昨日は関西の2府1県に限られていることもあり、ぶら下がりを行うという方針をすでに決めていた。

 小川氏 黒川氏に対する訓告処分は国家公務員法の懲戒処分ですらない。退職金6千万~7千万とも。国民感情に照らして適切だとは思えない。

 首相 検事総長が事案の内容など諸般の事情を考慮し処分を行った。

 小川氏 国家公務員一般職の定年延長については与野党間に大きな議論の隔たりはない。これもろとも廃案にするつもりか。

 首相 検察庁法の改正についても厳しいご批判をいただいている。同時に、コロナウイルス感染症の拡大によって社会状況が厳しい状況で、公務員の定年延長について議論を進めることの批判もある。それを含めて検討をする必要がある。

 小川氏 検察関連法案と一般職の国家公務員の定年福利厚生法案は切り分けることを要求する。

 首相 検察官も公務員であることから、公務員法全体の定年延長の改正案についてまとめている。

 立憲・西村智奈美氏 黒川氏に国会で事実関係を話してもらう必要がある。

 首相 この委員会で予定する法案の質問は6問もあり、相当時間をかけて答弁を用意した。それに関する質問が全くないのは残念だ。その点(=黒川氏の国会招致)は国会で決めることだ。

 西村氏 なぜ黒川さんの定年延長を決めたのか。

 首相 適正なプロセスを経て引き続き勤務させた。検事総長にするために勤務(定年)延長させたものでももちろんない。

 西村氏 1月の定年延長の閣議決定を取り消す考えはないか。

 首相 閣議決定自体を撤回する必要はない。

 共産・宮本徹氏 元検事総長らが出した意見書。検察官にも国家公務員法の適用をすると従来の解釈を変更したことについて、「フランスの絶対王制を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる『朕は国家である』との中世の亡霊のような言葉を彷彿(ほうふつ)とさせる姿勢だ」と批判。真摯(しんし)に耳を傾けるべきではないか。

 首相 あの、ルイ16世(正しくは14世)と同じとまで言われると、多くの方々はそれは違うのではないかと思うのではないか。私がここに立っているのも、民主的な選挙を経て選ばれた国会議員によって選出された。根本的なところをよく見ていただかなければならない。共産党はどのように党首を決められるか承知をしていないが、我が党で選挙によって総裁を選んでいる。


安倍氏は、自分は民主的プロセスを経て選ばれたと自称することによって、自分が取ったすべての強引かつ違法なプロセスが正当化されるかのように考えているようだが、国民は首相を直接選ぶことはないし、自民党が与党となったのも、多くの国民が選挙権を放棄し、投票に行かなかったためである。
 
自民党は決して国民の圧倒的大半から支持を得ているわけでもないし、それゆえ、安倍氏も決して民主的プロセスを経て選ばれたのではない。また、民主的なプロセスを尊重すると言うならば、首相の退陣を求める民意は尊重せねばならない。

支持率も20%台に落ち、「#さよなら安倍政権」というハッシュタグもツイッターでは盛り上がりを見せている。

今度こそ、安倍氏は政権を投げ出すとか、退陣するだけには終わらないのではないかと筆者は見ている。あまりにも多くの疑惑が噴出しているからだ。

ソ連崩壊の時のように、倒れるときには、今までの悪事が一挙に明るみに出され、これまでにないほど信頼を失い、断罪されることになるのではないか。

* * *

さて、コロナ禍で様々な企業において、労働者に対する違法な仕打ちが相つぎ、最も弱い立場にある人間が、最も憂き目を見させられている現状を見ると、筆者は、こうした事態を変えるためには、不当な仕打ちに対しては毅然と抵抗し、抗議の声をあげることが必要であると考える。

不当に軽い処分の裏には、不当に重い処分がある。.

本来は賭博罪に問われるべき検事総長が、懲戒免職を免れ、円満退職していく陰には、「上級国民」に逆らっただけでも、懲戒を言い渡されたり、左遷されたり、退職に追い込まれたりしている「下級国民」らの悲劇がある。

こうした不当な賞罰を終わらせるためには、それを明るみに出さねばならない。弱者だけがすべてのしわ寄せをこうむり、沈黙のうちに身を引くというあり方を変えねばならない。

そこで、一人一人が声をあげねばならないのだ。

ちなみに、コロナ禍において、我が職場でも、以上と同様のことが起きた。処分されるべき社員が見逃され、処分されてはならない人が身代わりに処分を受けたのである。ある上司は、筆者の目の前で、コロナを理由とする時差出勤さえ許さないと、懲戒懲罰を持ち出して、社員を脅して言った、「不労所得なんてものはないんですよ!」と。

そんな上司たちが、社員を搾取した金で、さらに事業所を拡大し、東京の一等地にオフィスを新たに構えようとしている話を聞いて、筆者は心の底から怒りが込み上げて来た。

彼らは土日祝日も問わず休みも返上して働きづめに働いており、その生き方を全社員に強要しようとしている。
 
この人々は、未だに昭和的価値観を生きており、能力のある、搾取できそうな社員からは、とことん労働を巻き上げるためにマインドコントロールを行う。一人一人から無限に吸い取ることしか考えておらず、吸い取れないと分かれば、ポイ捨てする。それだからこそ、コロナが広まろうとも、社員に遅刻欠勤早退を一切許さず、少しでも労働を忌避しようとするそぶりを見せた社員は、不当な懲罰で脅さずにはいられないのだ。

ところが、その一方で、コネにより結託し、数の力を頼む者には、処分を下すべき場面で大甘の態度を取る。そして、その身代わりに正しい人を罰する。
 
彼らは、自分たちの頑張りが、自分たちに富をもたらし、安全をもたらしていると思い込み、馬車馬のような頑張りをやめれば、生きられなくなると本気で信じ、他の人々にも、同じ生き方をしない限り、安全は保たれないと教える。

だが、それは自己をより頼む生き方である。別な言い方をすれば、自分の努力によって自分を救おうとする道である。自由を目指しているように言いながら、絶えず欲望の奴隷、死の恐怖の奴隷となる生き方である。
 
しかし、そんな生き方に対し、聖書はどう言っているだろうか。神の国と神の義とをまず第一にすれば、すべては添えて与えられると、御言葉は言う。野の花も、空の鳥も、労働により己を養っているのではない。まして神は空のれ以上に人を気づかわれ、養って下さる。だが、そのためには、人はパンのみで生きるのではなく、神の御言葉によって生きなければならない。神の戒めを第一に生きる、その点さえ間違わなければ、人の生存には神が全責任を負って下さるのだ。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である。」(マタイによる福音書6:33-34)

「人はパンだけで生きるものではない。
 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイによる福音書4:4)
 
だから、筆者は、自己の努力によって自分を救おうとする生き方は、聖書の神の救いに敵対する生き方であるから、必ず、破滅に終わると予告して来た。

己の努力により頼む人々は、事業を拡大し、国の頂点まで至り着き、果ては天まで届こうとしているのであろうが、その高慢は必ず打ち倒される。

それが分かっていたので、筆者は、人間を歯車とするシステムが完成しないように、その最後の仕上げの段階で、その作業から身を引いた。

上司は筆者を含め、社員らを駆り立て、知恵を出させて、人さえ集まれば、永遠に利益を叩き出すためのシステムを完成させようとしていた。

あともう少しで、人さえいれば、半永久的に利益が生まれる循環の輪が完成しようとしていた。だが、筆者はそのように人間を駒として利益を叩き出すシステムを完成させることは、それ自体、悪であると悟った。
 
人間は、輪の中を走り続けるハムスターではない。走り続けることによって誰かに利益をもたらすために生きているのではない。それにも関わらず、人間を永遠に「輪」を回転させるための駒として利用する「輪」など、あってはならないのだ。
 
おそらく、利己主義者しかいないその団体では、要となる人物が抜ければ、意思疎通が成り立たなくなり、塔は完成しないものと思われる。だが、ただ放置しているだけでは、石垣が残るかも知れない。基礎から解体する作業が必要なのだ。

* * *

私たちは、今、改めて、問わねばならない。

自分の主人は誰なのか。

我々は誰の言葉によって生きているのか。
  
ムラ社会の掟やら、政府や権力者の思惑や、都合やらが、私たち一人一人を生かす命の源泉なのだろうか。いや、そんなものを優先している限り、我々はいずれ生存を断たれるであろう。
  
もしも企業の経営者から生きる糧をもらって、生かされていると考えるなら、実際、その人には信じる通りのことが起きるだろう。つまり、その人の生殺与奪の権は、企業の経営者に握られており、彼は経営者の一存で、簡単に生活の糧を失って、路頭に投げ出される駒にしかなれない。

だが、聖書は、まことの神を信じ、その御言葉の戒めを守って生きる者は、一人一人がこの世のすべての権威と支配を超えて、神の御言葉によって直接、生かされていると教える。

つまり、神の御心にかなう正しいことを主張し、正しい行いをしているならば、自然と、生活は天的な糧によって保たれるということだ。
 
神の御言葉とは、すべての権威と支配を超えて、高く掲げられた御名を持つキリストを指し、神の御言葉の戒めを守って生きるとは、キリストと共に共同統治者として、この世のすべてを超越して治めることを意味する。

これは目に見えない領域における絶大な権威と支配を意味し、それに比べて、我が国において、目に見える領域で、主権が誰にあるかという問題は、はるかに低い次元の問いであって、答えるのは易しい。

その問題には、信仰がなくとも、誰でも答えられる。
 
政府が主権者なのか。国民が主権者なのか。

それを問うだけで良い。

かつて筆者は上司にこう言ったことがある、「国の意向などというものが存在するわけではありません。国とは、私たち国民のことであり、私たちが国なのです。」

それは、多くの企業や団体が政府に媚びへつらうことで、優遇してもらい、生き永らえようとする中、我々は国の顔色など伺わず、毅然と頭を上げよう、国の意向とは民意のことであり、我々自身が国なのだから、という、筆者の提言であった。
 
今、私たちは国民主権という、実に当たり前のことがらを取り戻さなくてはならない。

ところで、世の中には、悪人を擁護し、労働者を不当に追い詰めるような心ない弁護士もいる一方で、662人の有志のように、気骨のある弁護士たちもいる。
 
そんな勇気ある一人と見られるあやめ法律事務所の神坪浩喜弁護士が、「国民主権とは何か」を、分かりやすくブログに解説してくれていたので、これを抜粋させてもらうことにする。
 

国民主権って何だろう?

そもそも「国民が主権者であること」=「国民主権」って何でしょう。
 
中学生、高校生向けに、国民主権についてわかりやすく書いてみました。


「国民主権って何だろう?」

 社会の教科書で出てくる日本国憲法の三大原理をおぼえているかな。

「国民主権」、「基本的人権の尊重」、「平和主義」だね。

これらの言葉は出てきても、その意味を理解することは、なかなか難しい。

 

特に「国民主権」は、言葉のとおり、主権が国民にあるということだが、

わかったようでわからない気がする原理だ。

なぜ日本国憲法は、国民主権を採用しているのだろうか?

 

明治憲法(大日本帝国憲法)では、主権者は天皇とされ、「君主主権」がとられていた。

戦争後に定められた日本国憲法では、天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるとされ、主権が国民にあることが明記された。

 

なぜ、国民主権とされたのだろう。

それを理解するためには、そもそも「主権」という言葉の意味を理解しておく必要がある。

 

「主権」とは、国を統治する権力のことだ。

国を統治するしくみを定めたものが憲法であるから、主権があるということは、

憲法を定める権力(憲法制定権力)があるという意味でもある。

君主主権であれば、天皇や王様が国の統治権をもっていた。明治憲法を制定したのも天皇だ。

 

国民主権ということは、国民が統治権を持っていることになる。

国民が憲法制定権力者だ。

国を統治する権力というのは、社会秩序を維持するために法律を定め(立法権)、

法律を執行する権力のことだ(行政権、司法権)。

 

社会秩序を維持するために、秩序を乱した者に対しては、

裁判にかけ刑罰権を行使するし、ときには強制的に税金を徴収する。

外国との関係では、主権を維持するために、外交を行ったり、ときには戦争を行ったりする。

 

国民に主権があるということは、国会議員が法律を定め、

裁判官等の公務員が権力行使をできる源泉に、国民があるということだ。

権力を行使するものは、国民から権力行使をするように託されている。

そこで、権力を行使する際には、「国民のために」行使しなければならない。

 

なぜ、日本国憲法は、国民主権を採用したのだろうか。

君主主権ではだめなのだろうか。

 

国民に主権があるとすることによって、権力を行使する者は、

国民のことを意識し、国民のために権力行使をする必要になった。

権力者が好き勝手に国民の権利自由を侵害することができにくくなった。

 

国民に主権があるとすることによって、政治=権力行使に国民が参加したり、

監視したりする理屈が立つようになる。

主権者である国民が、権力行使の「主体」にもなるのだ。

 

逆に、特定の誰か(王様)に主権、国をおさめる統治権があるとすると、

国民は、おさめられる「客体」として、国政に参加する理屈がつけにくい。

また王様の好き勝手に、権力行使がなされ、国民の自由も奪われやすくなる。

 

国民主権によって、権力の濫用が防止され、国民の自由が保障されやすくなるのだ。

すなわち、国民主権の目的は、国民の基本的人権の保障、個人の尊重のためにある。

 

国政は、国民の代表者によって行われる。

代表者は、選挙で選ばれる。

代表者である国会議員がとんでもない法律をつくった場合や、

誤った権力行使をした場合には、国民が次の選挙で、落選させることもできる。

 

そこで、選挙というのが、主権者として重要な局面となるのだ。

選挙を通じて、国会議員、地方自治体の首長(知事や市長)、地方議員を選ぶ。

現職の国会議員が、国民の代表者としてふさわしくないということであれば、

選挙で議員をやめさせることも可能になる。

 

国会議員が国民の代表者として、適切に権力行使をしているのかをチェックし、選挙で審判をくだす。

自分の1票だけは、確かに、微々たるものだろう。

しかし、みんなの1票が集まれば、政治に変化を起こすこともできるんだ。

それに、表現をすることを通じて、同じ考え方の人を集め、さらに多くの人に、訴えることも可能になる。

この意味で、憲法が保障している「表現の自由、集会結社、言論の自由」はとても重要だ。

 

選挙で投票することは、主権者の役割を果たすことで、とても大切なことだよ。


~~~~~~~~~

国民主権のしくみ 

 国家権力の源泉が国民にあるとするとして、権力の濫用を防止し、国民の権利自由をまもる

 

 国民

 ↓ 憲法を定める

 憲法

 ↓ 縛る、コントロールする

国家権力

 ↓ 統治する

 国民



* * *

最後に、くどいようだが、もう一度、繰り返しておきたい。

国民は、政府によって治められる「客体」ではない。

国民こそが、政府を治める「主体」なのであって、主客転倒してはならないのだ。
 
そこで、時の政権によって形作られる政府が、国民の統治(総意)を離れて、国民の利益のためにならないことのために暴走して行くならば、国民はその政府を無用なものとして廃棄し、取り替えることもできる。

国民を無視して、好き放題の振る舞いをする首相に、これ以上、「自分は選ばれた」という口実を与えないためにも、国民は自らの意思を働かせて、主権を行使し、承認できないものには不承認を言い渡さなくてはならない。

政治家の権威の源泉は、国民の負託にある。

彼らの権威の源は、「国民から選ばれた」という自負にあり、その口実を取り去ろうと思えば、私たち国民が、源泉として流し出す水を止めること、すなわち、彼らを承認せず、負託しないことが必要である。
 
統治者であるためには、自らの意思をはっきり表明し、権限を行使しなければならない。

容認できないことには、きちんと抗議の声をあげ、ノーを突きつけることが極めて重要である。
 
その意思が政治という鏡に確かに反映されるまで、これを表明し続け、貫き通すことが極めて重要である。

何度も言うが、国民一人一人は、政府や偉い政治家によって治められる「客体」ではない。

私たち一人一人は、誰か偉い権力者の意のままに、生殺与奪の権を握られて、日々死の恐怖に駆り立てられながら、まるで強制収容所のような職場の前で、「右」「左」と選別されて、馬車馬のように働かされ、あるいは、取るものがなくなれば、あっけなく路頭に迷わされるような弱い存在ではない。

国民こそが、政府を治める主体であり、国民の声が、政治を形作り、政府の向かう方向を決めるのである。その本来の正しい秩序が、目に見える領域に、はっきりと現されなければならず、そのためにも、私たち一人一人が、長い物には巻かれろ式に、時の政治権力になびいて客体として生きることをやめ、個としての強さを取り戻し、主体性を取り戻し、主権を行使しなければならない。
 
別な言葉で言えば、今、どちらがリアリティなのかが問われている。

私たち生きた一人一人の人間がリアリティなのか、それとも、私たちを入れる「入れ物」に過ぎない組織、団体、企業、政府などがリアリティなのか。

我々国民一人一人は、組織という入れ物に過ぎない「輪(和)」に利益をもたらすために、いつまでも輪を転がして走り続けねばばらないハムスターなのか。

輪(組織)のためにハムスター(人間)があるのか、ハムスター(人間)のために輪(組織)があるのか。
 
自分を率先して道具として差し出し、自ら客体となって「輪」を転がすために身を売るならば、走り続けることができなくなった時点で、用済みの存在となるだろう。

それに同意できないならば、早い段階で、システムの奴隷としての生き方をやめて、人間としての主体性、プライド、気概を取り戻すしかない。

自分は一体誰なのか、その自覚が、一人一人の生き様を決めるのだ。

安倍政権は、実に多くの国民が、自ら主体性を捨てた結果、現れて来たものである。

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「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。
 
 主に信頼して、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。」(詩編37編1-6)

* * *

いよいよゴールデンウィークも終わろうとしており、今年の筆者は、休息と未来に向けての準備だけに時間を費やした。コロナを機に、筆者自身も立ち止まり、今後、どのように生きるべきか考えさせられた。この国にもそうであるが、筆者自身にも、大きな転機が来ているのを感じている。

日本経済は、これまで奈落のどん底へ向かってひた走って来たのだが、コロナを機に、ついにその「奈落」が本当に見えて来た。おそらく、これから未曽有の大打撃を受けることになり、その影響ははかり知れないものと思う。

それに伴い、これまで就職氷河期世代の抱えていた問題を、はるかに超えるような巨大な問題が生じた。多くの人々が生活難に見舞われようとしているのである。

それにしても、今年からの2年間は、就職氷河期世代への政府の特別なプログラム支援の年になるはずであった。しかし、それも、コロナの影響でほとんどかき消されようとしている。

その現状を見ると、やはり、この世代は、政府の支援など当てにせず、自分の足で力強く立って、逆境を切り抜けて生きる秘訣を早く習得するのが最善だという気がする。

筆者自身は、以下にも書く通り、その秘訣をすでに見つけ、歩みを進めているところであるため、コロナがどうあれ、政府がどうあれ、社会がどうあれ、生き方に何の影響も受けてはいない。

だが、コロナがもたらした影響の大きさを思うのは、コロナは、これまでのように、就職氷河期世代と、それよりも若い世代だけでなく、バブル時代に入社した正社員たちにまでも、悪影響を及ぼしつつあることだ。

大企業が生産停止に追い込まれ、巨額の赤字を抱えるようになり、これまでは「社内失業状態」が許されて来た50代の大量の人々が、今後、真っ先にリストラの憂き目を見るかも知れないとの記事もある。

筆者は、コロナが本当に終わらせようとしているのは、「昭和の名残り」ではないかと思う。

筆者は、昭和生まれでバブルを経験した人々と話すとき、彼らには、バブル崩壊以降に、社会に出た人々とは、全く異なる考え方があるように感じられることがあった。

一概にひとくくりにはできないのだが、バブル世代は、自分たちの人生が絶頂期にあった時の「成功」のイメージに、今も非常に強くとらわれているように感じられる。

世の中が不況になって以後、そのような「成功」はもはやほとんど有り得ないものとなったのだが、彼らはずっとその時代の成功と繁栄のイメージにしがみつき、これを今もお手本のように生きている。そして、その夢が今も達成可能であるだけでなく、あたかも彼らが今、それを手にしているかのように演じることをやめられない傾向が強いように思う。

一言で言えば、彼らはものすごく強がりで、見栄っ張りなのである。自分が今も成功していることを、何とかして周囲にアピールしようと、自慢話を続けずにいられない。基本的に、社交好きで、派手好きで、パーティーや宴会が大好きな人たちも多い印象だ。

だが、世の中は、とうにそんな時代ではなくなっているので、彼らが演出し続けている「繁栄」や「成功」は、実体の伴わない外側の演技、虚勢のようなものと見える。もちろん、バブル時代に築いた人脈は、今も有効なのであろうし、彼らが家を買ったり、何人もの子供を成人させて世に送り出したり、蓄財したり、出世したのは事実かも知れないが、しかし、彼らはあまりにも強がりである一方、逆境に弱いので、そのままの価値観では、今後の嵐のような時代を生き抜けないかも知れないと、筆者は感じることがある。

特に、彼らがこれまで「当たり前」だと思って来た、昭和的価値観に基づく生活形態が脅かされ、崩れ去るようになれば、彼らはあっけなく自信喪失して、その先の時代に適応できないまま、人生の表舞台から退場して行くのではないかという危機感すらも感じることがある。

それに比べ、就職氷河期世代は、バブルが弾けたおかげで、逆境の時代に慣らされて来た。この世代は、上の世代の言うような「成功」を一度も経験したことがないので、それゆえ、良い意味で、過去の成功にとらわれることがないし、今がどん底であっても、未来に望みをつないで、一度も到達したことのない目標へ向かって、アグレッシブに、挑戦的な試みを続けられる。

この世代は、現状に対しては極めて悲観的であるが、同時に、未来志向であり、この20年近く、あまりにも浮き沈みが激しい生活を送って来たため、逆境に耐える術を知っている。その間に、絶望に追い込まれた仲間も多いが、考えられないような適応力を見いだした者もいる。

その適応力は、生まれつきの器用さとか、強さといったところから出て来たものではなく、どんな状況においても、望みを捨てずに、自分を見失わずに生きる秘訣を学んだところから来る。

人にもよるとは思うが、就職氷河期を生き残った人々は、バブル世代に比べ、揺れ幅の大きい生活の変化に耐える力がある。「今」を楽しむことよりも、未来へ向かって行くために英気を養うので、ストイックであるが、その分、不屈とも言える信念を持って目的へ向かって行く強い意志の力を持っている。

筆者は、約20年近くの不況時代を耐え抜くことで、学んだことは大きかったと思う。その最大の成果は、どんな状況にあっても、信念を変えずに、望みを捨てずに、自分らしく生きる秘訣を学んだことである。

「コロナ失業が広がっているときに、ヴィオロンさん、あなたは何を言っているんですか。またしても、夢物語ですか」と言われるかも知れない。

だが、どういうわけか知らないが、筆者は、長い長いトンネルをようやく抜けて、広い所へ出たという実感を持っている。やっと、就職氷河期という長い長い「隔離」期間が終わったのである。筆者は自分の歩むべき道を見つけた。だから、心配することはない。昭和の名残りには、さようならだ。

筆者が苦しめられて来たのは、就職氷河期ではなく、実は、バブルの名残だったのかも知れないと思う。

これまで、上の世代から、さんざん聞かされては、羨望を感じて来たバブル時代の名残り。かつてこの国にあった繁栄、豊かさ。そういうものへ回帰できるという望みや、そこへ滑り込むことのかなわなかった自分を責める思いが、見事に筆者の中から消えて行ったのである。

何を言っているのかと思われるかも知れないが、筆者が大学を卒業しようとしていた頃には、教授たちは、研究室でよくこんなことを言っていたのだ、「あと2年ほどでこの不況も終わり、すべてが元に戻り、きみたちのポストも復活するだろう」と。それから3年以上が経っても、まだ言っていた、「昔は就職に苦労することなんてなかったんだよ。企業が大学まで来て学生をスカウトしていたんだから・・・」

その頃、誰もバブルが本格的に終わったとは信じていなかった。あと2年したら、3年したら、来年になったら・・・まじないのようにそう唱えながら、昔の思い出話を繰り返していたのだ。

だが、昭和は過ぎた、もう戻らない。そうである以上、これ以上、昭和の価値観にとらわれ、バブル時代を振り返る必要はない。過去を脱ぎ捨て、新しい時代の新しい価値観を身に着けて生きなさい。「失われた」20年間に身に着けた価値観は、これからの時代、非常に大きな教訓となって生きて来るはずだ。

つまり、嵐のように激しい逆境の時代を、負けずに生き抜いてきたからこそ、身一つ、信念一つでも、これからも、何者にも頼らずに、すべてに勇敢に立ち向かい、生き抜くだけの自信が身に着いたのである。

だが、その勝利は、筆者一人だけのためではない。筆者はこの時代を生きたからこそ、自分のためだけでなく、多くの人々のために生きることの価値を知ったのだ。

筆者は信仰者であるから、信仰によって、天の秩序をこの地に引き下ろし、命の水を流し出す見えないパイプラインを、この地に建設したいと願う。その建設作業はあらかた完成し、初めて、この地から、広域に向けて、その命の水を流し出す段階に入った。そのための新たな事業を始めるべき時が来たのである。そして、その事業については、おいおい書いていくことにしたい。

* * *

さて、今回は、少し信仰の話ではないことも書いておこう。

日本の経済が弱体化した原因は、労働者の間に無限とも言えるヒエラルキーが作られたことの悪影響が大きいと筆者は考えている。

終身雇用の時代には、社員の競争相手は、せいぜいライバル企業と、同僚くらいであった。

だが、終身雇用制が崩れ、非正規雇用が蔓延してからは、事情が大きく変わった。一つの企業内に、正社員と、正社員以下の存在である契約社員や、派遣社員や、バイトといった、期間限定の使い捨て人材が無数に生まれたのである。

もちろん、以上はあくまで大雑把な表現である。実際には、契約社員が正社員以上の給与をもらっていたり、古株のアルバイトが、社内で正社員以上の影響力を持っていたりもするのだが、そういうことは今は脇に置いておこう。

こうして、同じ会社の中にヒエラルキーが出来たことにより、社員同士が、仲間を下に見て、踏みつけにしたり、モノのように使い捨てたりするようになった。

そうして、労働者間に、這い上がれないヒエラルキーが出来てしまったことが、日本経済の崩壊の始まりであったと筆者は見ている。

20代の正社員の下で、40代の派遣社員が働く。若い正社員は出世していく一方で、派遣社員は、契約期間が終われば去っていくだけだ。若い正社員は、新しく「派遣さん」がやって来たときには、「長期の雇用で良かったですねー」などと言う。「派遣さん」が去るときには、もちろん、送別会を開き、そのときには、お手製のケーキなどを持って行ったりもする。だが、「派遣さん」は「派遣さん」であって、名前はない。黙ってやって来て、黙って去っていく顔のない存在である。

こうしたヒエラルキーが社内で固定化し、年功序列は崩壊した。ヒエラルキーの下層に置かれた者は、どんなに努力しても、上に行くことはできない。何年働いても、びた一文、給与は上がらず、たった数ヶ月の雇用契約を更新するために、涙ぐましい努力をし、あらゆる雑務をこなし、上司たちに頭を下げ続けねばならない。その努力と引き換えに、得られるものときたら、年限が来れば、あっけなく去るように求められるというだけの話なのだ。

このように、永遠に出世の見込みのない使い捨ての雇用形態が蔓延したことが、日本の労働者の働く意欲を著しく低下させ、日本の企業の成長を押しとどめ、経済を弱体化させて行った最大の原因の一つなのである。

ちなみに、そういう差別的なヒエラルキーは、民間から生まれて来た発想ではない、と筆者は考えている。それは官主導で導入されたものであり、官が民を弱体化させるために、悪意に基づいて導入したのではないかと疑われる。

そのヒエラルキーは、国家公務員のキャリア制度を真似て導入されたものと筆者は見ている。

ところで、国家公務員のキャリア制度の起源は、以前にも書いた通り、戦前にさかのぼる。官吏が天皇の直属の使用人だった戦前に作られた制度が、多少形を変えて生き残ったものが、現在の国家公務員試験制度である。

天皇が「神」とみなされていた時代に、「神」にお仕えする人々は、とりわけ優秀な人材でなくてはならなかった。そこで、官吏の登用のためには、難易度の高い試験が作り出され、特定の大学を卒業していなければ、受験資格さえ与えられないといった縛りがもうけられたのである。

現在の国家公務員試験制度は、戦前の官吏登用試験の残滓と言えるものであり、20代の時に受験して合格した試験の種類で、その後の一生分の人生のキャリアが決まってしまうなどという不合理な制度は、時代にもそぐわず、憲法にもかなわない。国民の公僕たる公務員を、そのような不可解な試験によって選抜することが、誰のためになるというのだろうか。

そうした時代錯誤な制度に基づき、国家公務員には、I種、II種、III種といった等級や、その他に専門職やら、任期付職員や、期間業務職員といった存在がある。これらは厳格なヒエラルキーである。

労働者派遣制度は、厚労省が認可したことによって、民間企業に導入された。だが、派遣とは、国家公務員の世界にもともと存在していたヒエラルキーを、民間に移植したものではないかと筆者は見ている。

国家公務員の世界には、3年で満期を迎える期間業務職員というものが存在していた。それは正規の国家公務員のような試験を経ることなく採用される、準公務員的存在である。それは公務員の手助けを行うためのアシスタントであって、もっと露骨に言ってしまえば、正規の公務員のために、花瓶に生けられる花のようなものである。

花を花瓶に生けておくのは、それが新鮮で、美しい間だけでよい。枯れたり、しぼんでくれば、別な花に取り替えるだけだ。いつでも新鮮なものに取り替えられるように、初めから期限をもうけておけば万全だ。

正規の公務員は、異動を繰り返しており、新年度には、突如、違う部署に配属されたりもする。ところが、正規でもない職員が、ずっと何年間も、同じ職場にとどまっていると、正規の公務員以上に業務に精通するようになったり、力を持ったりもする。助手がどうして主人以上の存在になってよかろうか。期間業務職員ならば、同じ職場に3年しかいられないから安心だ。

これを民間に置き換えたのが、いわゆる派遣制度である。派遣社員が同じ職場に3年以上いられないという縛りも、公務員の世界から出て来た発想ではないかと推測される。

だが、もともと倒産することのない官公庁にあった職員のヒエラルキーを、民間企業に導入することに、意味があるだろうか。そもそも何年、働いても、昇給、昇格することなく、それどころか、一定期間が過ぎれば、会社を去って行かねばならないような仕事に、誰が魅力とやりがいを感じ、真面目に働くだろうか。そういうものは、市場競争にはなじまない。

このように、国家公務員のヒエラルキーは、もともと時代の遺物であって、民間企業には全くなじまないものなのだが、さらに、国家公務員は、もっととんでもないことを考え出した。

それが、政府のサービスの業務委託である。それによって、国民が、国家公務員のヒエラルキーの最下層よりも、もっと下層に置かれ、政府の下僕とされたのである。

ちょうどつい先日、厚労省からアベノマスクの調達を受注した4社目の企業の名前が発表されたが、その企業が、社員がほとんどゼロに近い、あまりにも怪しく、実績もない、しかも何社もの企業が同じ場所に名を連ねている、まるでプレハブのような建物に入った、ほとんど幽霊会社のような会社であることが世間で取り沙汰されて、騒がれた。

なぜ、何の実績もない、社員もろくにいないような会社が、突如、政府の事業を受けたのか。しかも、入札もなく、随意契約である。

それを見ても分かる通り、政府の委託事業には、この手の怪しい企業はたくさん群がっているのである。

そもそも一からビジネスを起こし、独自の発想でこれを成長させていきたいという本物の企業家は、政府の事業などに手を出さない。そこで、必然的に、政府の事業を受注する企業は、手っ取り早く安定を求める、本物の企業精神を持たない会社となる。

そこで、さしたる実績もなく、ホームページすら作成されていないような企業も、縁故で事業を受注したりする。

それだけならまだしも、政府の競争入札に参加して、最低価格で事業を受注するような企業の中には、労働者に残業代も払わずにこき使うブラック企業も含まれている。こういうハイエナのような企業が、政府に揉み手ですり寄り、下僕として事業を受注して行くのだ。すると、何年か後になって、その事業は失敗に終わり、大規模な不正が発覚して、スキャンダルになったりする。
 
一体、こういう行政サービスの業務委託の流れを歓迎できるだろうか。そもそも政府の行政サービスを、営利を目的とする民間企業に委託するという発想自体、異常ではないかと疑ってみるべきだ。

それでなくとも、政府は営利を目的とする企業とは異なるのだから、市場経済に参入してビジネスに乗り出すべきではない。政府が巨大事業主のごとく市場経済に参入して、大規模公共事業を売りに出したりすれば、民間企業のパイが奪われる。

その上、公務員が自ら行うべき行政サービスまで、外部委託事業として売りに出そうというのだ。これを受注した民間企業は、当然ながら、委託契約において政府から支払われた金額を超えるサービスを提供しようと心がけるため、それでは政府がまるで土地ころがしのように、行政サービスを転がして、民間企業を利用して金儲けをしていることになる。

このように、政府が巨大プレーヤーとして市場経済に参入すること自体、異常であることに加え、その上、国民の公僕たる国家公務員が行うべきサービスまでも民間に丸投げという姿勢では、もはや国家公務員のなすべき仕事は残らない。

各省庁に不祥事が起きれば、早速、コールセンターが民間企業に外部委託され、そこで役人の代わりに、派遣社員が国民に謝罪したりしているが、こうして面倒な仕事はみな民間任せにし、自らの不祥事の後始末までも、「くれてやった」と、恩着せがましい態度で民間に投げるのが、国民の公僕たる公務員のつとめなのか。

このように、政府が各種の行政サービスを切り売りするがごとくに外部委託して市場に売りに出すことによって、正常な市場競争が阻害され、公務員の国民の僕としての役割が失われているのが実状である。

そのようなことをやればやるほど、国民は政府の下僕と化していき、大規模公共事業は安定しているように見えても、それに群がった企業の独自の発想を殺して窒息させてしまう。

かくて、政府が行政サービスを次々に民間に委託するのは、断じてやめるべきである。国家公務員に、国民の下僕としての役目をきちんと果たさせるのが国民のつとめであって、それにも関わらず、国民が率先して政府の仕事を肩代わりし、政府の下僕になるようなことは、断じてやめなくてはならない。

そんなことをして、憲法の理念と真逆のことを、国民が自ら率先してやろうとするから、政府が異常に肥え太り、国民が虐げられるという結果に至るのである。

行政サービスは何年経っても改善されず、政府から委託を受けた民間企業が、超ブラックな環境で、労働者を搾取して働かせている間、国家公務員は、仕事もなくぼんやり遊んでいるという結果になる。

もちろん、不夜城では長時間残業が常態化して来たのだが、人手不足ならば、公務員を増やせば良いだけであって、人手不足を解消するために、汚れ仕事は民間へ委託というのはナンセンスである。

このように、政府の事業が怪しいハイエナ企業にたかられて思う存分に食い物とされ、役人が国民の上に君臨して、仕事をくれてやったと横柄な口を利き、次々と国民の意に反するサービスが導入され、その質が劣化して行ったりするのも、もともと政府が営利になじまない行政サービスを民間に投げ、民間企業がこれをありがたく受け取ろうとしたことが元凶なのである。

最悪なのは、それによって、民が官よりも下に置かれ、国民が公務員の下僕と化したことである。

郵政民営化によって、郵便局のサービスも、不便になって久しいが、業務委託も、民営化も、似たり寄ったりで、結局、国民が国民の首を絞めているのと同じである。

官の仕事は、官が最後まで責任を持って果たすべきであって、民が官の仕事を肩代わりしてはいけないのだ。その関係性を逆転させるから、国民に君臨して国民を抑圧する強大な政府という化け物が出来上がり、民は徹底的に自由と権利を奪われて踏みしだかれるのだ。

警察国家・戒厳令国家も、一日にして出来上がるわけではない。独裁体制も、ある日、突如として生まれるのではない。国民が自分の頭で物事を考えるのをやめて、プライドを捨て、長い物には巻かれろ式に、「お上」である政府にすがりつき、それによりかかっておけば安心だなどと考え、自ら政府の下僕と化すからこそ、その先に、独裁国家が現れて来る。

かくて、真に強くなりたいならば、国民は自分の僕であるはずの人々の情けにすがって生きようという考えを捨てて、むしろ、政府からは自立した立場から、政府を監視せねばならないのである。

以前から書いている通り、政府というのは、嘘をつくものであって、必ず、道を間違えるものなのだ。霞が関にある厚労省の庁舎の4階には、霊安室があり、そこには、今も、大戦時に大陸で行方不明になった身元不明の日本人の白骨がためこまれている。

近年、この省ではまたしても不祥事が発覚し、政府が収集した遺骨には、日本人だけでなく、身元の分からない外国人の骨がたくさん混じっていたことが、遅ればせながら、発表された。その事実は長年、隠されていたのだが、発覚したことにより、身元不明の遺骨が近親者に返還される見込みは、さらに遠のいた。

それさえ外部委託事業であるから、誰も責任を取ることはない。こうして、成果もあがらない委託事業が漫然と続けられ、そこに公金が湯水のごとく投じられる。しかし、事業を受注した企業が、それによって豊かになることもない。

どれだけ異常な事業運営が行われても、役人は誰一人責任を問われず、この省の有様は、もはや、自分の城の地下室に妻の白骨死体をためこんだ青髭の世界をリアルに実現していると言う他ない。

こんなものが、我々が助けを求めてすがりつくべき相手だろうか? すがりつけば、生かされる見込みがあるだろうか? いや、青髭にすがれば、行き着く先は、青髭の城の地下室である。

だから、私たちは、大戦時に国民が政府に何をされたのか、はっきり思い出すべきであり、それも棄民だったならば、就職氷河期も、棄民なのであり、今また、政府はその延長上に立って、補償なき休業を命じることで、新たな棄民政策を取っているだけである。

このような政府に対し、国民が自ら下僕になってはいけない。そういうことは、我々が憲法を否定し、時代を逆行させて、再び政府の悪事の片棒を担ごうとする以外の何者でもないことを、いい加減に、理解すべき時である。

各種の外部委託事業の甚だしい劣化は、そのことを示しているだけであって、国民が政府に仕えるのではなく、政府が国民に仕えるという正しい関係性を取り戻すためにも、国民が政府の仕事をいたずらに肩代わりして、その重荷を担ってやることは、やめなければならない。

「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。

わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。

つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。

キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」(コンリントの信徒への手紙 二 5:11-21)

* * *

キリストの愛が私たちを取り囲んでいる、押し迫っている、圧倒している・・・。

以上のくだりは様々に訳すことが可能であるが、いずれにしても、海のように広く深い愛が私たちの周りを取り囲んでいる。

筆者はこれまで、真実、正しいことが何であるかが明らかにされるためならば、どんな代償を支払うことをもいとわないと考えて進んで来た。しかし、最近、愛のゆえに、自分の義を捨てることも、可能なのだと分かった。

可能というよりも、まず神が、そのような愛で、私たちを愛して下さり、罪人である私たちを義とするために、ご自分の義を捨てて、罪とは何の関わりもない、正しい方である御子を罪とされたのである。

何の誤りも犯していない正しい方が、罪人のために、ご自分の義を捨てて、罪となられた。それゆえ、私たちは義とされた。十字架に込められた神の深い深い愛情が、最近、ある出来事を通して、筆者に深く伝わって来た。

最近、筆者が主張しさえすれば、その主張が正しいとして、人々の違反が認定されるはずのある出来事があった。時間の経過と共に、深刻な対立が起きようとしており、そこで、筆者が主張しさえすれば、筆者を圧迫する人たちに対して、自分の正しさをアピールし、優位を勝ち得られたはずであった。ところが、筆者はそこで自らの訴えを自分で破棄し、破り捨てたのである。

それは、筆者の主張により違反に定められるかも知れない人々が、筆者を追いかけて来て、筆者をなだめ、心を変えさせたからである。筆者は、その人々が、あまりにも弱く、羊の群れのように無防備で、苦しみと蔑みでいっぱいになり、到底、打撃を加えるに忍びない人々であるのを見て、彼らに対して自分の正しさを主張しても、無意味であると考え、かえって同情心が込み上げて来て、自らの主張を破り捨てただけでなく、彼らの弱さを共に担うことに決めた。

それ以来、筆者は自分の正しさを捨てて、彼らの味方となった。それゆえ、彼らの弱さをも共に背負わされているが、それでも構わないと決めたのである。もしも彼らが罪人であるならば、筆者も一緒に罪人となり、もしも彼らが弱いなら、筆者も一緒に弱くなり、もし彼らが罰せられるなら、筆者も一緒に罰せられ、何もかもを共にして、進んで行こうと決めたのである。

しかし、それは筆者が罪に定められ、弱くなり、罰せられるためではない。むしろ、筆者の義が、彼らの中に働いて、彼らの義となり、筆者の強さが、彼らの強さとなり、筆者の潔白が、彼らの潔白となって、彼らがいかなる違反にも認定されずに、正しい生き方をするためである。

そうなるために、筆者は彼らが弱々しい赤子の状態を抜け出し、大人として立ちあがるまで、そばにいて様子を見ようと決めた。たとえ筆者にとってもどかしいほど彼らが弱く、中途半端に見えても、最後まで共にいようと決めたのである。

筆者はこれまで、人々のために、自分は無実にも関わらず、罪に定められても良いと思ったことは一度もない。むしろ、キリストにあって得られた義は、筆者をあらゆる罪定めから救ってくれるため、筆者が無実にも関わらず、罪に定められるようなことは絶対になく、不当な讒言に対しては毅然と立ち向かわねばならないと考えて来た。

むろん、カルバリで流された血潮がある限り、この先も、筆者が罪に定められることはない。筆者はそれを知っているが、それにも関わらず、この人々のためならば、かえって筆者が罪に定められ、彼らが義とされても構わないと思う人々に出会ったのである。

なぜそのような深い愛情が突然にして生まれたのかは知らない。いや、それは突然にして生まれたわけでは決してなく、最初からあったものなのだが、それが新たに強固な強い絆のようになり、人々の解放を願う心となって湧き起こって来たのである。

この人々のためならば、筆者がどんな風に思われても構わない、ただ彼らがまことの命に至り着き、本当の義とは何かを知って欲しい、そのために、彼らの弱さと恥と罪を自分のものとして共に担おうと思ったのである。

筆者は、自分の思惑次第で、人々の罪を赦すことも、赦さないでおくことも可能であると知っている。だが、赦す赦さない以前に、筆者が手に持っている訴えに記された名前を見て、彼らが罪に定められて滅びて欲しくないという願いが、抑えがたいほど強く心に湧き起こるような人々には、これまで出会ったこともなかった。

そういうわけで、筆者は自分が正しいにも関わらず、人生で初めて、正しい主張を自ら放棄し、罪人の仲間になっても構わないと思った。それは決して悪人と馴れ合い、悪事を見逃し、自分も悪事に手を染めるためではなく、むしろ、彼らが本当の義にたどり着くため、人として真にあるべき尊厳を回復するためであり、そのためにならば、筆者は自分の主張を脇に置いて、後ろに退き、彼らの生長を見守るべきと考えたのである。

そのとき、神が私たちを愛された愛が、筆者の心に押し迫って来た。

このようにして、神は弱い私たちのために、弱さを担われ、ご自分の義をとことん投げ捨てられたのである。

だが、同時に、そこまで筆者の心を変えさせた人々も、なかなかのつわものである。何かしらの相思相愛の関係のようなものが、やはり、初めに出会った時から成立していたのであろう。

この人々は、渇いた地が水を吸い込むように、筆者の中にある愛情と慰めを彼ら自身のために引き出して行った。信仰者でないのに、彼らは筆者の中に、彼らのための解放が用意されていることを知っていた。

彼らは筆者のうわべだけの様相に欺かれず、筆者の心の中にある本当の願いを掴んでおり、それを巧みに引き出して、自分たちのために必要なものを獲得したのである。

* * *

筆者は、筆者を生かすと書いた判決を受け取り、それによって吹き込まれた命を携え、新たな場所に赴いた。そこで干潟を開拓しているのだが、干潟から命の水を存分に汲み出すためには、筆者自身の心を、何よりコントロールせねばならない。

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)

この御言葉は、私たち信じる者自身が、生ける水を流し出す泉となることを表している。そして、その生ける水の根源となるものは、御霊であり、キリストの復活の命である。

だが、これを流し出すためには、私たちが不信感で心を曇らせてはならず、どんな困難に見舞われるときも、平安の中にとどまり、人々に命を与えることができるという強い確信を、決して手放さないようにしなければならない。

「わた子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。
 わたしの言うことに耳を向けよ。
 見失うことなく、心に納めて守れ。
 それらに到達する者にとって、それは命となり
 全身を健康にする。
 
 何を守るよりも、自分の心を守れ。
 そこに命の源がある。
 曲がった言葉をあなたの口から退け
 ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。

 目をまっすぐ前に注げ。
 あなたに対しているものに
 まなざしを正しく向けよ。
 
 どう足を進めるかをよく計るなら
 あなたの道は常に確かなものとなろう。
 右にも左にも偏ってはならない。
 悪から足を避けよ。」(箴言4:20-27)

目の前には、常に心に思い描くものと相反する光景が広がっている。私たちを失意に突き落とす材料は尽きず、目的の達成が不可能だと思わせる材料は山とあり、忍耐を圧迫する出来事は果てしなく起きる。

約束の地は目の前にあるのに、そこは敵に占領されており、我々のための場所はなく、敵はあまりにも強そうで、我々を傲然と見下ろし、勝利の確信は遠のく。

だが、目の前の混乱に気を取られず、信じ続けなければならない、必ず、この地に目指している秩序を打ち立て、命と平安に至り着くことができると。そこは敵のための場所ではなく、我々のための領土なのである。

* * *

先週から今週にかけて、書面を次々に書き終えて発送した。筆者は時折、紛争に「とどめを刺す」ために、アクロバティックな行為に及ぶことがある。本来ならば、1ヶ月以上の時間をかけて準備すべきところを、一挙に書類を放出する。これは、相手方の主張が筆者に到達する前に、これを空中で相殺するための太刀打ちである。

告発を放置していれば、それは徐々に効力を及ぼし、死の力を発揮する。だから、飛んでくるミサイルは即座に迎撃しなければならない。紛争が持つ強力な罪定めの力を、瞬時に無効化するための時間が用意されたので、必要な作業を完遂した。

こういう作業をしていると、敵は人間ではないということが身に染みて分かる。人間を含め、目に見える様々な事物の背後にいて、これを動かしている悪の勢力が存在する。戦いは人間相手のものではなく、人々の背後にいる見えない悪意を打ち砕くことが目的である。その悪意とは、告発や非難の中に込められた罪定めの力、もっと言えば、罪そのものが持つ死の効力である。

人々には、サタンから発せられた罪定めの火の矢に込められた死の棘が、いくつもいくつも突き刺さり、これがじわじわと効力を発して、人格を傷つけ、肉体をむしばみ、最終的には死へと追いやっている。

筆者は、この死の棘を自分自身からも抜き取り、そして他の人々からも抜き取り、人々を死ではなく命へと向かわせるための作業をしている。飛んでくるミサイルに対しては、迎撃ミサイルを撃ち込まねばならないが、筆者の目的は、人間を攻撃して滅ぼすことにはなく、ミサイルすなわちサタンの放つ火の矢を粉砕・撃墜することで、人々をその火中から救い出すことにある。

そのために、この巨大な死の棘が、これ以上、人々を傷つけることのないよう、命によってこれを飲み込んで解毒・無害化せねばならない。それができるのは、キリストの復活の命を用いる場合のみである。

死を打ち破ったこの命に立つときのみ、私たちは、敵からのどんな攻撃からも身を守ることができる。そこで、この命を引き延ばして、防衛の盾を張り巡らして、愛する人々をその要塞にかくまう。かつては敵対していても、投降して来る人々はことごとく安全地帯に避難させる。

筆者は、敵陣に捕虜として連れて行かれた人々を奪還し、これ以上、誰も敵に渡さないために、心の中で奮闘している。なぜなら、戦いは、まずは筆者自身の心の中から始まり、そこにおいて、筆者自身が、アブラハムが人々のためにとりなしたように、自分自身と周りにいるすべての人々のためにとりなし、勝利の確信を打ち立てなければならないからだ。

心の中から不信感を追い出し、失意や無力感や敵意を追い払い、自分を含め、愛する全ての人々を、確固とした神の守りの中にかくまい、彼らを縛っている罪と死の力が打ち破られるよう主に願い出、敵に奪還された人々を取り返すための作戦を練り、心の中で、勝利の確信が訪れるまで、戦い抜かねばならない。

これまで、筆者はソドムとゴモラに飽き飽きしてそこからの脱出をひたすら願っていたが、今はどれほど嫌悪を催す光景が目の前に広がっていても、神が未だ忍耐されていることを心に覚え、今ひとたび、何とかしてこの世の腐敗から救い出されて、罪赦されて命に至り着く人々が少しでも増えるようにと願っている。

その奮闘の中で、最近、どういうわけか、敵陣から命からがら筆者の陣営に投降して来る人々の数が増えるようになった。見かけは取るに足りない、何らの価値も持たないように見える筆者のもとに駆け寄って来るのである。神の御前でとりなす作業は一人だが、孤軍奮闘する時代が明らかに終わったことを感じる。



「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。

 聖書にこう書いてあるからです。

 「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。
 これを信じる者は、決して失望することはない。」

 従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、

「家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった」

 のであり、また、
 「つまずきの石、
 妨げの岩」
 なのです。

 彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。
 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 あなたがたは、
「かつては神の民ではなかったが、
 今は神の民であり、
 憐れみを受けなかったが、
 今は憐れみを受けている」
のです。」(ペトロの手紙一2:1-10)

* * *

まだ8月も終わっていないというのに、蝉の声がめっきり減って、すっかり秋の気配が感じられるようになった。駆け足で冬がやって来ようとしている。あまりに早すぎる時の流れに、困惑を覚えずにいられないほどである。

さて、前回に引き続き、「重荷を跳ね返す」ことの重要性について書くことから始めたい。これは正しくは、サタンから来た重荷をサタンに跳ね返す、という意味だ。

このテーマを書くに当たり、類似した内容を書いている人が他にいないか探してみたが、見つからなかった。
 
この問題は、注目されていないようだが、キリスト者にとって極めて重要であると筆者は思わずにいられない。

私たちは、日々の十字架として、主から来た重荷を担うべき時がある。その中には、信仰ゆえの試練もあれば、恐怖に打ち勝って前進することが必要な場合もある。

しかし、時に、私たちが負うべきでない重荷が、敵から押しつけられる場合がある。そのとき、私たちは不当な圧迫をもたらす策略を事前に見抜き、その重荷が私たちの手に押しつけられる前に、罠を粉砕して、そこから抜け出すようにしなければならない。

それができないと、人生において長期に渡り、不当な重荷に苦しめられ続けることになる可能性がある。

サタンは責任転嫁の達人である。人をターゲットとして、自己の罪を他人に押しつけ、重荷を押しつけられた人が、あたかもそれを自分のものであるかのように考えて、自らそれを背負い込むよう仕向ける。一旦、背負い込んだら、ますますその荷を重くし、その重荷から二度と抜け出せないように仕向ける。

また、サタンは他人の成果を横取りする達人でもある。私たちが勝ち取った苦労の結果を、まるで我が物であるかのように、栄光をかすめ取ろうとする。

しかしながら、前回、述べた通り、神から来た重荷は、そのような性質のものではない。

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

だから、私たちは、一口に重荷と言っても、その中には、神が私たちを成長させるために許されて起きた試練と、人を不当に苦しめ、栄光をかすめ取り、人生を停滞させようとして悪魔がもたらした重荷の2種類が存在することに気づき、後者の重荷については、これを受け取り拒否して、サタンにお返しする方法を学ぶ必要がある。

自分の人生にやって来る様々な困難を、どんなものであっても、すべて神から与えられたものとして受け取っていてはいけない。その出所をきちんと見分け、敵から来たものは、敵に担っていただくのが一番なのである。

* * *

 筆者はこれまで長い間、書類作成の仕事をして来たため、書面を作り上げることはまるで苦にならないと思い、訴訟や、各種の法的手続きのために時間を費やすことを、損と思うこともなく進めて来た。

しかし、そうは言っても、今年は、昨年と違い、審理や各種の手続きのために要する時間を、できるだけ省略する方法を考えなくてはならないと思うようになった。

それは特に、相手方が常に締め切りに遅れ、証拠もない支離滅裂な内容の書面を提出して来るのを見て、このような無意味な主張に、いつまでも膨大な手間暇を割いて反論していてはいけないと思わされたためでもある。

それに、筆者の人生が、訴訟から解放されなければならない必要性があることにもようやく気づいた。

訴訟を提起してからというもの、筆者の人生は、ずっと訴訟を中心として成り立って来た。筆者は、裁判所の仕事に心から敬意を払っているものの、今や審理と同じほど重要な仕事ができた以上、今までのように、準備書面を作成するために、仕事を脇に置くことはできない。仕事だけでなく、自分の人生の時間をきちんと守るため、訴訟に割ける時間を配分しなければならない。

とはいえ、それによって、訴訟において成し遂げなければならない事柄を省略するわけにも行かないため、この先の歩みには、神の助けと知恵が必要である。

それにしても、筆者が新たに選んだ仕事は、本当に、主がこれを与えて下さったのだと思わずにいられない貴重なものである。

そのことは、職場で日々起きてくる様々な難題に、筆者が正しい答えを見つけようと努力しさえすれば、常に問題が解消されて行くことを見ても分かる。
 
時に、働いていると、私たちの仕事の成果を、その本来の意味から全くかけ離れたものへと変えてしまおうとする悪しき圧力がかかることがある。真面目に働く気のない人間が、真面目に働く人たちの努力の成果を、自己の怠慢を覆い隠し、他者の栄光をかすめ取る目的のために、横領するように吸い上げ、利用しようとすることがある。

筆者はこれまでの職場においては、そうした理不尽に、立ち向かう術はないとあきらめていた。

なぜなら、日本の多くの営利企業では、労働の成果が個人に還元されず、集団の成果とされるため、そこでは、働けば働くほど、その者が、働かない者の怠慢をカバーすることになるような理不尽な仕組みがもとから存在するためである。

共産主義社会のようなものである。そこでは、無責任で何もしない人間が、最も軽い荷を負い、高い能力を持ち、責任感も強く、会社の行く末を案じ、周囲に気配りができる、最も誠実な人間が、人一倍、重い荷を負わされることになる。

もっと言えば、1人の優秀な社員の目覚ましい働きに、怠け者の5人の社員がたかり、怠け者が、働き者の仕事の成果をかすめとって自己の怠慢を隠すための集団が、始めから作り上げられていると言っても良い状況がある。そして、働き者は、働かない者の怠慢をカバーするために雇用されると言っても良いほどの仕組みがある。

筆者はそのような労働は、真に社会に役立つことはなく、呪われた罪の連帯責任のように、負債を分かち合うことにしかつながらないと考え、これと訣別すべく、「バビロン体系」を脱したのであった。

その後、筆者が携わっている仕事は、もはや以上のようなものではない。だから、筆者は、他人の労働の成果を我が物としてかすめ取ろうとする人々の不当な干渉が起きたとき、これをきちんと排除し、重荷はこれを考えついた本人に跳ね返すことが可能であることに、ようやく気づいた。

そのようなことが可能となったのも、筆者の行う仕事が、基本的に、筆者自身の裁量に委ねられており、他者からの干渉を受けずに、独立した判断を下すことができるためである。

筆者には、裁判官の仕事にどこかしら似た性質を持つ仕事が与えられたと書いた。裁判官の仕事は、独立しており、合議審を除き、単独審では、一人の裁判官の判断によって判決が下されるし、合議審の場合であっても、裁判官一人一人の判断は、独立しているはずである。

その独立性を保つためにも、裁判官は3年くらいのスパンで全国各地を異動している。地域とのしがらみや癒着が生じて、公平な判断が下せなくなることを阻止するためだという。

筆者がかつて属していた宗教団体の教団でも、同じような制度が存在したと聞かされている。牧師が一つの教会にとどまりつづけると、様々なしがらみが生じるため、それは良くないということで、数年間で、教会を転任するという制度が存在したのである。

ところが、今やその仕組みは崩れ、牧師たちは一つの教会に長年、堂々ととどまるようになり、さらにその息子や娘までが、その教会の跡を継ぐようにまでなった。しかし、裁判官が異動している世の中で、牧師たちが転任を拒む理由は、ないという気がしてならない。
 
わずか3年で全国各地を異動して行くのでは、どこにも定着できない寄留者のような感覚も生じるだろう。家族がいても、単身赴任になることもあろうし、子供たちも、学校を転校するなど、荷を負わなくてはならない。全く新たな見知らぬ土地に行って、その日から、何事もなかったように、日常生活を開始することもできまい。

それでも、あえてそのような制度をもうけることで、市民の訴えに対し、公平性が保たれるよう配慮がなされているのである。
 
筆者は、神から与えられた召しに基づき、信仰によって、この地にやって来たため、果たすべき役割がまだ終わっていないうちに、よその土地に移されることはないであろうと考えている。実際に、筆者自身がよその土地に移ろうと試みたことも何度もあったのだが、その試みはすべて頓挫して終わった。

筆者は、こうして異動こそしていないが、これまで仕事に就くときには、一切、コネを利用せず、常にアウトサイダーとして新たな組織の中に入って来た。
 
その原則は、ずっと前から同じである。どんな時にも、すべてを天に任せ、正攻法で、表玄関を通過して来た。さらに、最近は、複数の応募を同時に行うこともやめて、不実な企業に騙されるリスクがあっても、本命一本だけで勝負するようになった。そこで、勝負の全うさは、以前よりも増し加わっていると言えよう。

筆者の人生の原則は、ただ一つの真実だけを追求するというものであり、それは、神との関係、人との関係だけでなく、あらゆる場所において、貫かねばならない原則であると考える。

そこで、職場を選ぶにも、唯一無二の相思相愛の関係が成立しないような場所に赴く必要はないと考えて、不実な応募はしないことに決めた。相手が不実だから、自分も不実であることが許されると思うのは間違いであって、騙す側に回るくらいならば、騙される側に立つ方がましなのである。

その原則が、間違っていたと証明されたことは一度もない。

そこで、第一審が終わり、筆者が裁判所の近くにとどまり、紛争処理を生きるフィールドに定めようと決意したときにも、当然のごとく、筆者はたった一つの仕事にしか応募しなかった。

しかも、その時、筆者は審理の準備のために、数ヶ月も仕事を辞めていたので、無職となっていた。それまでの筆者ならば、そういう状況で、また新たに就職活動を行わねばならないことを非常に苦痛に思い、不利なスタートとして恐れを感じたであろう。

しかし、筆者にはその時、全く恐れがなかった。それだけでなく、生き方を根本的に変え、目指す方向性を変えようという考えがあったので、それはちょうど良い新たな門出にしか感じられなかった。

さらに、筆者の人生には、財布の中身を決して勘定しないという、もう一つの原則がある。ダビデが王になって人口を数えたことが、罪であると聖書に書いてあるように、筆者は自分の財産を数えないことに決めている。

そこで、いつ何をして働くべきかも、すべて天の采配による。明日のことをあれやこれやと思いめぐらし、懸命に自分の残りの財産を勘定して、損がないように立ち回るなどの計算は全くしない。

だが、歴代の宣教師たちの多くが、そうして自分の生計をすべて主に委ねながら、未開の地に赴き、伝道して来たことを思えば、これは何ら例外的な原則でも、不思議な方法でもない。

神の国とその義を第一にして生きるなら、すべての必要は添えて与えられるのであって、何をして生きるべきか、どうやって日々の糧を得るべきかという問題が、私たちにとって心を悩ませるべき第一義的課題ではないのである。

とはいえ、筆者がバビロン体系の中で生きているうちは、常に嘘や、搾取などといった問題から解放されることはなく、それゆえ、絶えざる困難に悩まされたため、筆者は熟慮の末に、バビロン体系そのものを離れることにした。

そうして、判決を手に新たな任務を探し、新たな場所へ赴き、そこで筆者の裁判を担当してくれた裁判官に、どこかしら似た経歴を持つ上司が、筆者を面接し、その場でただちに内定を受けたのであった。

判決が、まるですべての扉を自動で開けるための鍵のようになって、今までには筆者がどんなに努力をしても、得られることのなかった成果として、新たな進路をもたらしてくれた。

筆者は即日にして、これまでに最長の契約期間を得て、給与の額さえ、自己申告するよう求められた。その上司は、筆者の見栄えのしない履歴書に対し、ディスカウントの言葉を発することは全くなかった。

だが、それでも、筆者はこれを最高の満足とはとらえておらず、すべてはまだ始まったばかりで、この現状で満足してしまっているようでは、前進もないと考えている。さらなる自由、さらなる豊かさを勝ち取るために、進んで行かなくてはならない。

バビロン体系と訣別した以上、筆者の仕事の目的は、もはや自己実現、自己顕示にはない。そういう意味で、この干潟は、筆者にとって休息の場所であり、これまでのように忙しない、生きるためにやむを得ず、馬車馬のごとく働くための「労働」の場所ではない。

筆者は、この干潟のはしくれのような職場にたどり着いてから、一見、頼りなさそうに見える小舟に乗って、そこで船頭の一人のようになって、見張り人の役目を果たしている。舟が危ない岩にぶつかりそうになれば、その都度、警告を発するようにしている。

舟は、筆者の警告を聞き入れて、危険を回避している。こうして、筆者にも、何がしかの役目が与えられ、必要とされていることが分かっているうちは、そこを離れようとは夢にも思わない。

筆者の役目は、自分の労働の成果を誇示して、輝かしい栄達を遂げ、誰かを圧倒することにはない。ちょうど主イエスが、嵐が荒れ狂って、舟に乗った弟子たちが安全確保のために狂奔しているときに、船底で熟睡されていたように、誰からも存在すらも気取られないようなさりげない自然な方法で、舟の安全を守ることにある。

このような働き方は、これまでの筆者の人生にはなかったものである。

労働でありながら、それは安息であって、自分にも、他人にも、安息をもたらす働きである。

他者からの不当な干渉を排除し、自分自身の判断の独立性を保ちながら、自己の望む、真に正しいと信じる事柄を成し遂げるために働く。

徒党を組まず、不誠実な試みには加担せず、独立不羈を貫きながら、それでも、自分一人ではなく、仲間の存在がある。

そのような生き方が成り立つためには、他者と連帯せずに、独立して仕事を進められる自由がなくてはならない。しかも、そこに、仕事そのものが持つ深い意味づけ、筆者の判断が生かされる余地、真実を追求することに価値が見いだされなくてはならない。

さらに職場そのものが、そのような追求に価値を見いだし、これを評価できるところでなくてはならない。

そうした希少な条件が揃った「干潟」が、筆者の人生に出現した。それはまだ完成に至っておらず、本領も発揮しておらず、真の姿には至り着いておらず、船出したばかりであるが、完成体を表す萌芽のようなものが、はっきりと見出され、そこには、筆者と似たような理念、似たような価値観を持つ人々が集まっている。

だから、筆者は彼らと同じ船に乗って、この船の向かう方向性に期待をかけて、そこにとどまっている。おそらくは、一生のつきあいになる可能性もあるのではないかと見ている。

このようなことは、筆者の人生にはこれまで起きたことがなかった。一審で得た判決が、筆者を呪いの言葉から解放し、目に見えない宝を与え、新たな扉を開くための手形のようになってくれたのである。

こうして、筆者の目指す命の川の流れが少しずつ出現している。これはこの先、何年間もかかって完成に至る大型プロジェクトの始まりであって、筆者は地下から大量の生ける水を汲み出すための目に見えない大型パイプラインを建設している最中である。

その生ける水は、筆者が訴訟の最中、裁判所の地下に流れていることを偶然にも発見したものである。訴訟において、筆者は小さな井戸を掘っただけであったが、それだけでも、確かにそこに生ける水が流れていること、これを地上に汲み上げる方法があることが分かった。そこで、筆者は、裁判所の飛び地になっている干潟を探して、これを中継し、地下から地上にこの水を大規模に汲み出すためのパイプラインを作り始めたのである。

もちろん、これは比喩であるとはいえ、比喩とは言い切れない部分がある。判決には人を解放する力があり、人々の切なる訴えが集積している裁判所は、天に向かって人の訴えが届いている場所でもある。人間に過ぎない裁判官も、人々の悲痛な訴えに耳を貸し、自由と解放を与える判決を書くが、神もそれをお聞きになっていることを筆者は疑わない。
 
筆者の抱える訴訟においては、まだ第二審の最初の期日も開かれていないが、筆者の主要な関心は、もはや個人的な係争にはない。警察における手続きも、控訴審の行く末も、筆者の新たな仕事も、やがてはすべてがパズルのピースのように絶妙に組み合わさって、今までになかった新たな形が生まれて来るだろうという気がしている。

今はまだそれがどういう形で起きるのか分からないが、少なくとも筆者は、これまでのように、返済してもしても埋め合わせることのできない負債を返すというむなしい働きのために生きているのではない。ゼロからプラスを構築し、真に正しいと信じられる目的の実現のために働いている。

こうして、干潟に流れるうたかたのように、泥水の中に身を横たえて、上から光を当てられる瞬間をただ待っていただけの、影に過ぎない存在であった筆者が、今や干潟に光を当てて、神秘的作用を自ら引き起こす側に回ろうとしている。

どうしてそんな役目が筆者に回って来たのかは分からない、だが、これはとても光栄な働きであって、何かしら途方もないことが、これから起きようとしていると感じる。筆者はその瞬間に向かって、一人ではなく、他の人々と共に手を携えて進んでいる。

* * *

筆者は10年ほど前、夜行バスに乗って、横浜の街を幾度か訪れた時のことを思う。その頃、この街は、筆者にとって、まさに生ける水が泉となってわき出すために用意された特別な街のようであった。

早朝になって、窓から外の景色を覗くと、窓を開けたわけでもないのに、命の水の流れが、地下だけでなく、地上においても、大気の中に溶け込み、新鮮な空気となって、上から降り注いでいるように感じられた。

駅を歩くだけでも、筆者はこの泉の気配を感じずにいられないほどであった。その頃、筆者は、キリスト者の集会の中に、命の流れの源があるのだと思っていた。兄弟姉妹と共に、手を携えて、これからその泉を地上に流し出す仕事をするのだと考えていた。

その読みは、誤ってはいなかったのかも知れない。だが、その命の流れは、間もなくせき止められ、バリケードで塞がれ、これを受け継ぐ仕事は、筆者にバトンタッチされた。筆者は彼らの舟から失格者のように降ろされたにも関わらず、その仕事は、まさに筆者に受け継がれたのである。

それから何年も経ち、主イエスがスカルの井戸でサマリヤの女に出会われた時のように、筆者は誰も見向きもしないみすぼらしい干潟のほとりで、再び、この泉を発見した。その時、筆者には分かった。生ける命の水の泉を発見する秘訣は、へりくだりにあるのだと。

私たちが、人に捨てられ、誰からも見向きもされず、関心も持たれず、徹底的に侮られ、嘲られ、踏みつけにされ、孤独と、悲しみに暮れて、真のへりくだりに達しないことには、主イエスも、私たちの前に、姿を現すこともできないし、私たちを救うことも、手を差し伸べることもできない。

なぜなら、私たちはあまりにも強すぎて、自信満々で、独りよがりに陥り過ぎていて、常に自己過信し、自己充足し過ぎているためである。その自己過信が取り去られ、自己充足が打ち破られて、私たちが心から本当に主を求めないことには、神でさえ、人をどうすることもできない。

筆者が裁判所から離れたくないと思うのは、いつまでも訴訟にとらわれ、争いを続けたいがためではない。そこで学んだへりくだりから離れたくないためである。自分が最も低くされ、孤独であり、寄る辺なく、助けがなかった時に、神が筆者を見捨てられず、筆者の訴えを取り上げて下さり、筆者を迎える場所を用意し、必要な措置をすべて講じて下さったことの恵みを、片時も忘れたくないためである。

地上の裁判官は、人として束の間、この事件を担当してくれ、一瞬の出会いがあったに過ぎず、地上で筆者が得た判決文の文字も、完全なものであるわけでもない。それゆえ、係争は終わっておらず、判決の約束さえ、未だ完全な実現を見ていない。だが、そんなこととは一切関係なく、神ご自身が、この出来事を通して、筆者の前を通り過ぎて行かれたことを、筆者は忘れたくないし、その感謝に満ちた出来事を、終わらせたいとも、思っていない。

パイプラインの建設が完成に至るためには、おそらくは筆者自身が、第一審が開かれていた時と同じように、絶えず自己を無の立場に置いて、低めることが必要になろう。それは、筆者がただ神にのみ希望を見いだし、自分の何もかもを脇に置いて、この街にやって来た時と同じ心境である。

その頃の筆者は知らなかったが、そのようにして筆者がこの地に招かれたのは、その後、筆者が人の目に偉大な事業を成し遂げるためではなく、その後も、同じへりくだりの中にとどまり続けるためであった。

だから、現在、筆者は、自分が解放されたからと言って、これまで通過して来た大いなる試練を忘れたいとは思わない。最も重要なのは、筆者が解放されたことそれ自体ではなく、筆者を解放しようとして、あらゆる手を尽くしてくれた人々が存在すること、また、彼らの配慮を通して、神の豊かで憐れみに満ちた采配が、今も筆者に降り注いでいることなのである。

だから、筆者は、そのことを心に刻みつけておくために、あえてこの思い出深い場所を離れたくないと考えている。人が苦難の中に、いつまでもとどまり続ける必要は全くないが、人の心の泉は、苦難によって、人の魂に刻みつけられた裂け目から、流れ出す。神に出会うためには、私たち自身が、神と同じほど己を低くすることが必要で、それがなければ、私たちが飽くことなく求めている幸いも、自由も、解放も、決して私たちの人生に真にもたらされることはないのである。

渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れるようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。」(ヨハネ7:37-39)



人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それならば、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。

権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

あなたがたが貢を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(ローマ13:1-7)
 
奴隷たち、キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとして、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい

あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても、善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです。

主人たち、同じように奴隷を扱いなさい。彼らを脅すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」(エフェソ6:5-9)

奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。

あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。

主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。」(コロサイ3:22-25,4:1)


* * *

前回、「顔を上げて主をまっすぐに見る」必要性について書いた。

聖書には「目を上げて・・・を見よ」というフレーズが幾度も登場している。

該当する聖書箇所を探そうと検索すると、以下のコラムが見つかった。特定の教会の宣伝のためではなく、これまでの記事内容に重なる非常にタイムリーな内容として、あえて引用しておきたい。

目を上げて遠くを見よ」(キリストの栄光教会 2015 年 4 月 25 日)

「聖書には、「目を上げて、見る」という表現がたびたび出てきます。

ヨシュアがヨルダン川を渡り、未知の敵地カナンに踏み込んだとき、偉大なる主の軍の将に出会ったのは、「彼が目を上げて見る」ことによってでした(ヨシュア 5:13)。その方は「抜き身の剣を手に持って」ヨシュアの前方に立っておられました。下を向いたり、自分を見つめたりしても、強大な敵と戦う力は受けられません。不安になるだけです。

詩篇の作者は歌いました。「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ」(詩 123:1)。「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩 121:1)


なぜ高くそびえる山があり、広大な海があり、突き抜ける空があり、月星の世界があるのか。それは、私たちが目を上げ、遠くを見るためです。


アランというペンネームで知られるフランスの思想家エミール=オーギュスト・シャルティエがこう語っています。「抑うつ病にかかっている人に、わたしの言いたいことは、ただ一つしかない。『遠くを見よ』・・・人間の目というものは、書物との間の距離のような短い距離に合うようには作られてはいない。広々とした空間のなかで憩うものなのだ。星や水平線をながめていれば、目はすっかり安らいでいる。目が安らいでいれば、頭は自由になり、足どりもしっかりしてくる。身体全体がくつろいで、内臓までがしなやかになる。・・・自分のことを考えるな。遠くを見よ」(『幸福論』社会思想社)。


地上のことで悩むより、目を上げて、はるか遠くを見よ。今が苦しいのなら、天にある国籍を思え。やがて私たちのために完成され、住むことになる永遠の神の国に思いを馳せよ。日常のさまざまな出来事の只中にあって、目を上げ、主を見よ。そうすれば、何が大切かそうでないかが分かってきます。過ぎ行く事々に振り回されず、まず永遠を見つめましょう。」


 
* * *

前回、「書類から人へ」の移行が、筆者の人生に徐々に起きつつあることを書いた。

先日、仕事中、書類とパソコン画面に見入っていると、現場を巡回していた上司が、さりげなく筆者の様子を気にかけて、声をかけて行った。

筆者が目を上げて書類から人へ視線を移し、自分の上に立てられた権威者を見上げる瞬間である。

滅多に会えるわけではない上司であるが、この人とも、第一審において、裁判所がくれた判決が筆者を出会わせてくれたのである。

その人は、一審を担当した裁判官と、どこかしらよく似た雰囲気と経歴を持つ人物であり、決して人を脅かしたり、上から権威を振りかざして人を威圧することなく、誰をも辱めることなく、誰に対しても、穏やかに、明朗に接することのできる不思議な能力を持っていた。

人の心の痛みをよく知る、砕かれて謙虚な心を持つがゆえに、そのようなことができるのだろうと感じさせられる。

こうして、会うたびに、この人に着いて来て良かったと思える上司は、存在自体が稀有であり、そのような出会いは、人生における大きな財産であると言えよう。
  
上司は、短い言葉で、筆者に向かって、仕事の様子を尋ねたが、言外にこう述べているかのようであった。

「今はすべてが過渡的な段階にあるため、あなたには環境に様々な制約があるように感じられることもあるかも知れません。でも、私はあなたに、自分で自分に制約をもうけないで欲しいのです。あなたにはすべての状況を乗り越える力があると信じています。あなたには私たちの期待に応えるだけの力があります。だから、できないとは言わないで下さい。私たちにはあなたの協力が必要なのです。私たちを信じて着いて来てくれますね?」
 
筆者はそれに頷いて言外に答える。「もちろんです。私はあなたの目指す方向を信じて、それに従いたいと思って、ここに来ることを望み、呼ばれて来たのです。ですから、環境の制約に目を留めることはもうしません。環境は、時間が経てば整うでしょう。でも、もしも初めからすべてが整っていれば、そこには私のいるべき場所はなく、果たすべき役割もなかったかも知れません。私はあなたを失望させないために、ここに置かれたのですから、あなた方に着いて行き、自分の役目を果たします」

むろん、以上のような受け答えが、文字通り、あったわけではなく、実際には、ただ二、三の短い言葉を通して、筆者の心が改めて問われたのであった。困難に遭遇したとき、どのような態度を取るか。権威に対して、どう接するか。自分のために、権威者にすべてを提供してもらうことだけを望むのか、それとも、彼らが望むことに従い、共に協力してすべてを作り上げて行くのか。穏やかで優しい問いかけではあっても、そこには深い意味が込められていたように思う。

筆者は、一審の最中、自分の上に立てられた権威である裁判官を信頼し、正しい裁きが得られることを信じて、その采配に身を委ねられるかどうかを試された。様々な波乱が起き、望ましくない出来事が次々と起きる中、信頼関係を断ち切られることなく、協力して物事を前に進めることの大いなる意味を学ばされたのである。

今はそうして得た判決を携えてやって来た新たな場所で、地上の権威としての上司を敬い、困難の中でも、彼らに従い、協力してすべてを成し遂げられるかを試されている。

聖書が教える通り、地上における権威者は、天におられる権威者を象徴している。だから、地上の主人に対して、僕である私たちが、真心を込めて従うかどうかは、非常に重要な選択であって、地上の主人に対し、様々な不満を心に抱えつつ、神に対してだけは、従順に従うということは、無理な相談であろうと筆者は思う。

職場に限らず、私たちは、この世に生きる限り、あらゆる場所で、実に多くの制約を負う。実に多くの、自分の願いとは合致しない、理想からはほど遠い、混乱した状況、あるいは、理不尽と見える状況にも遭遇する。

だが、そうして望ましくない状況に遭遇する時にも、そこに神の采配が働いていることを信じられるか、目に見える状況がどうあれ、神のご計画には、いささかの理不尽も、狂いもないことを信じ、上に立てられた権威を通して、主の御手が自分に働いていることを理解し、その采配に従うことができるかどうかを、私たちは常に試されている。

筆者の心は、いかなる不合理な事件に遭っても、いつも穏やかで、一切揺るがされないなどとは言い切れるものでないが、それでも、常に神の采配が万全であり、完全であることを信じ、主に従って歩みたいと願わされている。間違っても、状況の理不尽さだけに目を留めて、自分を犠牲者のように考えたいとは思わない。
 
だが、もしも私たちが、目の前にある制約や、望ましくない不合理な条件だけに目を留めて、神や、上に立てられた権威者は、自分に理不尽かつ不可能なことばかりを求めていると感じ、自分を不憫に思って、彼らに不信感を抱いて、彼らに従うことをやめ、前進をやめれば、そこで、主が私たちをそこに配置して下さり、始めようとしておられたすべてのプロジェクトも、終わってしまう。

私たちの心がそのような状態になって、自分の限界でいっぱいになってしまうと、地上における協力関係は断ち切れ、私たちを配置した権威者にも、もはやどうすることもできない。

むろん、権威に従うとは、私たちが自分の判断を一切放棄して、権威者の言うことにただ盲従することを意味せず、理不尽な命令にまで黙って従って、自分をいたずらにすり減らすことをも意味しない。あくまで判断は、私たち一人一人が自分でせねばならないのであり、誰からの指示や命令を受けた時であれ、限度を超えて、何かを行うようなことをしてはならない。

しかし、決して誰かの言い分にロボットのように従うのではなく、あくまで自分自身の判断を保なちながらも、様々な制約に直面しても、決してあきらめることなく、上に立てられた権威を心から敬い、主に仕えるように、真心からその人たちに仕え、彼らの指示や命令に従いながら、彼らと手を携えて、共に協力して困難を打破して、前に進んで行くことは可能なのである。

そうした協力関係が打ち立てられる時、そこからは、ただ単に何か自分の願うことを達成したと言うだけにはとどまらない、不思議な関係と効果が生まれて来る。山上の垂訓がまさに地上に引き下ろされ、神の御心がこの地に実現したと言う他のない、命の水の流れが生まれ、周囲が潤される。

困難に直面したとき、自分の限界から目を背けるために、不都合な事実から目を背け、互いに重荷を押しつけ合い、責任をなすりつけあって、責め合って終わるのか。それとも、様々な限界を背負ったままで、互いを信頼し、協力しながら、進んで行くことができるのか、どちらを選ぶかによって、人生は大きく変わる。

本当は、そのような協力関係を打ち立てるためにこそ、筆者は仕事をしている。ただ労働を提供することが、働くことの真の目的なのではなく、その働きを通して、あるべき秩序が打ち立てられて、人々が解放されることこそ、真の目的なのである。だから、筆者が人々に与えられる最大の成果は、労務を超えたところにあると、筆者は確信している。筆者が人々に提供できる最高のものは、正しく、価値ある尊い目的意識を共有し、そこに共に手を携えて向かって行くというビジョンである。

もしも裁判官が正しい裁きを象徴し、上司が部下に最高のねぎらいを与えてくれる主人を象徴するならば、筆者は、彼らの裁きと命令に従順に従い、その権威に服し、彼らの心を満たすことで、栄光を帰する僕を象徴する者であると言えよう。

僕の最高の役目は、主人に栄光を帰することにあり、その役目を果たし、正しい秩序に服し、あるべき関係をもたらすことこそ、筆者の本当の意味での「労務」なのかも知れないと思う。

つまり、筆者は、何かしら人々を圧倒するような輝かしい労働の成果を個人的に求められたがゆえに、ここに配置されているわけではなく、ただ僕としての役目を心から全うすることで、主人に仕え、主人の心を満たし、人々との間にあるべき秩序と関係をもたらすために、呼ばれて来たのである。それを果たすことこそ、真の意味で、筆者に与えられた「労務」なのであろうと思わずにいられない。
   
* * *
 
さて、法廷に入廷した当事者たちは、裁判官が法廷に入って来て開廷を宣言する瞬間を、沈黙のうちに待ち望む。そして、裁判官の姿を見ると、立ち上がって礼をし、裁判官が法壇に就いて事件ファイルを開き、発言し始めるのを一心に待つ。

当事者は、自分たちに下される裁きを気にかけていればこそ、裁判官から目を離すことができない。

裁判官は、法廷においては、一人の人間であるというより、裁きそのものの生ける象徴である。正しい裁きを恐れなく待ち望む者にとっては、切に待ち焦がれた解放の宣言の体現者であり、他方、己が悪事を明るみに出され、不利な裁きが下されることを恐怖する者にとっては、恐るべき権威者である。

むろん、地上における法廷は、信仰とは関係がないとはいえ、筆者は、正しい裁きが下されることを切に待ち望む者の一人として、地上の法廷に、天的な裁きの絵図を見いだし、地上の裁判官の姿に、まことの正しい裁き主の姿を重ね、判決を支える法にも、神の揺るぎない掟である御言葉を見ないわけにいかない。それゆえ、地上の法廷に、尽きせぬ畏敬の念を抱かずにいられない。

以前からずっと書いているように、筆者の思いは、この地上に正しい裁きをもたらす神秘的な干潟としての法廷に魅了されてしまい、審理が開かれていない間も、そこから思いが離れられなくなった。筆者の心の中心には、常に見えない法廷が置かれ、筆者の思いも、正しい裁きとそれをもたらす法の周りを常に行き巡っているような有様である。

そのような筆者の思いは、ダビデが詩編に綴っている思いとどこかしら重なる部分があると感じる。
 
私たちが今、この地上に生きている一瞬一瞬のすべては、あたかも天におられるまことの裁き主に対して、私たちが申し開きのために書き記している目に見えない「準備書面」や「陳述書」のようなものである。
 
詩編には、随所で、神の正しい裁きを願う作者の思いが綴られているが、私たちも、自分が人生で置かれている見えない法廷において、神に対して常に正しい裁きを願い求め、また、自分なりの申し開きをしている。

正しい裁きをもたらすために必要なものは、言うまでもなく、正しい掟、すなわち、神の御言葉であり、神を愛する心と、神の掟である御言葉を守り、それに従って生きたいと願う心は、一つである。

私たちは、神を信じると言っても、ただ漠然と知りもしないものを信じているのではなく、神の御言葉を信じ、これに従って生きていればこそ、神も私たちを裁きの時に擁護して下さる。それは、裁判官が、法を守らない当事者を、全く擁護できないのと同じで、正しい掟を守っていればこそ、正しい裁きを求め、それを受けることができると信じられる。
   
詩編第1編は、次の有名な言葉で始まっている。

「いかに幸いなことか
 神に逆らう者の計らいに従って歩まず
 罪ある者の道にとどまらず
 主の教えを愛し
 その教えを昼も夜も口ずさむ人。
 その人は流れのほとりに植えられた木。
 ときが巡り来れば実を結び
 葉もしおれることがない。
 その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」
 
ダビデは、神を愛し、神の正しい裁きを待ち焦がれるがゆえに、昼も夜も、神の掟である御言葉に思いを馳せて、その教えから片時も注意を逸らしたくないと考えていた。

主の教え(神の掟、御言葉)とは、律法を指すが、今日の言葉に置き換えれば、法にたとえても良いかも知れない。

むろん、この世の法には、いかなる宗教的な意味合いもなく、それは神から発せられた御言葉そのものでもないが、この世の法もまた、神の掟の絵図であり、神の御言葉を守って生きることは、この世の法に従って生きることと決して矛盾しない。
 
そして重要なのは、うわべだけ法律の条文に精通して、自分を専門家のように見せかけることではく、その掟を生み出した精神そのものを愛し、正しい定めに従って生きることである。

正しい掟に従って生きるとは、命の水の湧き出る泉のほとりに住むのと同じで、必ず、その人の人生を潤し、繁栄をもたらしてくれる。正しい掟を守って生きている人が、悪人と一緒に、いたずらに罰せられ、死に定められることは決してない。

ダビデは、生涯を神の掟に従って生き、死ではなく、命を見たいと願い、そのことだけを日々思い続け、神の掟から逸れることがないよう、「むなしいものを見ようとすることから わたしのまなざしを移してください。と主に願った。

詩編第119編の中盤にはこうある。

「主よ、あなたの掟に従う道を示してください。
 最後までそれを守らせてください。
 あなたの律法を理解させ、保たせてください。
 わたしは心を尽くしてそれを守ります。
 あなたの戒めに従う道にお導きください。
 わたしはその道を愛しています。

 不当な利益にではなく
 あなたの定めに心を傾けるようにしてください。
 むなしいものを見ようとすることから
 わたしのまなざしを移してください。

 あなたの道に従って

 命を得ることができますように。

 あなたの僕に対して、仰せを成就してください。

 わたしはあなたを畏れ敬います。
 わたしの恐れる辱めが
 わたしを避けて行くようにしてください。

 あなたは良い裁きをなさいます。

 御覧ください
 わたしはあなたの命令を望み続けています。
 恵みの御業によって
 命を得させてください。」(詩編119:33-40)

これはダビデの必死の懇願のように感じられる。彼は、主の教えを守り、そこから逸れることさえなければ、神がやがて来られて正しい裁きをなし、正しい命令を発して下さるときに、自分は必ず、すべての災いから救い出され、命と幸いを得ることができると信じ、それゆえ、昼も夜も、神の正しい掟と、その裁きに思いを馳せて、地上にありながら、神の御思いと一つになって、その只中を生きたいと願い続けた。

そのダビデの思いは、筆者にとっては、法廷において、当事者が何とかして裁判官の心の内を知り、その心をとらえたいと願い、その裁きによって生かされたいと願う思いを思い起こさせる。裁判官は、法の体現者であり、正しい裁きの象徴であるから、その裁判官の心を探ろうとすることは、当事者自身が法によって守られ、生かされようとすることと同じなのである。

筆者は判決を得ただけでは満足せず、もっと法そのもに近づき、より(まことの)裁き主の心を知りたいと考え、そのために、見えない裁き主の姿を追い、片時も正しい掟のそばを離れずにいられるように、法律の世界に足を踏み入れた。そうした筆者の願いは、神を愛し、昼も夜も主の教えを思い、これと一つになって生きようと願ったダビデの心と、共通する部分があると感じられる。

ダビデは、主の教えを追い求めつつ、一つの願いを心に抱く。それは、神の住まう家を建てるため、神殿を築きたいという願いである。

その神殿建設の夢は、神の願いに合致しており、神の御心を、非常に大きなスケールでとらえたビジョンであった。すなわち、地上の建物を建てることが、彼の終局的な目的なのではなく、ダビデは神が真に望んでおられることは、人がやがて完全に贖われて、神の住まう聖なる幕屋となり、神が人と共に住まい、神と人とが完全な一致に至ることであると、知っていたのである。その神の願いを地上において表現したものが、神殿建設であった。

その神殿は、ダビデの代で完成することはなかったが、神はダビデが絶えず自分の主人の心を探り、主人の心と一つになって生きたいと願っていたことを知っておられ、僕としての彼の思いを評価され、その存在を重んじられた。

さて、聖書には、キリストと人との合一、すなわち、人が完全に贖われて神の御心を満足させる新しい人とされ、神が人の内に住まわれ、花婿なるキリストと花嫁なる教会が、完全に一致の中に入れられるという、永遠の合一が予告されている一方で、それとは異なる、もう一つの「合一」がある。

それは、神を介さない、人間同士の偽りの集団的合一である。先の合一は、永遠性を持つが、後者の合一は、束の間でしかなく、やがて分裂に至り、跡形もなく消え去る偽りである。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。」
(創世記. 11:1-9)

バベルの塔を建設した人々は、神の掟には思いを馳せず、自分たちの主人の栄光を求めるのではなく、僕に過ぎない自分たちの栄光を築き上げるために、一致団結して、天まで届く(永遠の不滅の)家を建てようと試み、一代でそれを築こうとした。

言い換えれば、彼らは自分自身を神として、自分のための神殿建設をしようとした試みたのである。彼らの連帯は強固であり、その作業は万全であった。

ところが、まことの主人の思いを抜きにした彼らの連帯は、分裂によって崩され、意思疎通が不可能になり、建設は途上に終わることとなる。
 
この二種類の建設の違いは何だろうか?

バベルの塔の建設に向かった人々は、うわべは連帯しているように見えたであろうが、実際には、最初から、めいめいがてんでんばらばらな願望を抱いて、その塔に自分勝手な欲望を重ねるために集まっていたに過ぎない、烏合の衆であったものと筆者は思う。

その塔の建設は、自己満足、自己義認、自己肯定、自己充足など、すべて神を抜きにして、人類が自分で自分の欲望を満たすための自己実現の試みでしかなく、人が大勢集まっているがゆえに、そこには孤独はなく、勢いがあるように見えたかも知れないが、実際には、そこにはただ人の思いがあるだけで、神からの承認はなく、人々の間でも、真実な連帯も、協力も、相互理解も、助け合いも、存在しなかったのである。

おそらく、信仰を持たない地球上の多くの人たちは、今でも、自分たちの思い、感覚、意志こそが、すべてに勝るリアリティだと考え、そこから一歩たりとも外へ出ることなく暮らしているものと思う。彼らは、自分たちが傷つけられた時の痛みには、非常に敏感で、神でさえ、彼らの言い分に耳を傾けるべきであると確信し、自分たちが力強く前進しているときには、その成果には、神も目を留めて下さり、よくやったとねぎらって下さらねばならないと確信している。

要するに、何をするにも、考えるにも、彼らの思いは自分を中心としており、神に対して何かを願うときにも、あくまで自分の願いが中心にあって、神は彼らの願いを承認するために、お飾りのように存在しているものに過ぎない。

もしも人の判断と、神の判断にズレがあることが分かったとしても、彼らは、自分たちには、神をさえ説得することが可能であると思い込み、神が自分たちの言い分に耳を傾けて下さらないと分かるや否や、そんな神は要らないと、神を踏みつけにして、自分たちの思いを遂げるために、めいめい好き勝手な方向へ前進して行くことであろう。

筆者が何を言いたいのかと言えば、人間は生まれながらに、自信満々で、常に自己充足しており、喜んでいる時も、悲しみ、打ちのめされ、失望落胆している時でさえ、常に自分の感情だけで、心をいっぱいにし、それを中心にして、自己充足しながら生きているのであって、神を必要としておらず、間違っても、自分たちが「誰かを待っている存在」であり、「誰かがやって来て、命を吹き込んでくれなければ、決して完全にはならない、他者の承認を待つだけの、命の通わない、空っぽで、死んだ存在」であるとは考えていないということである。

この人たちにとっては、自分の思い、行動、感情がすべてであり、自分こそが、リアリティであり、神は自分たちの言い分を権威付けしてくれるための添え物でしかない。そこで、彼らは、たとえ神の名を語っているように見える瞬間があっても、本当は、心の中で、神など全く必要としていない。

筆者はそういう生き方の無意味なることを知っていたが、第一審の最中、改めてそうした自己充足の殻の中から、外に連れ出され、自分自身から目を離し、自分を生かすことのできるまことの権威者だけを信頼して見つめるよう促されたのであった。
  
私たちの移ろいゆく思いの中には、リアリティはなく、私たちが確かな存在を見つめる時にだけ、私たちの存在も、確かなものになる。

だから、自分から目を離し、むなしいものを見つめるのをやめ、敵対者の言い分や、心を煩わせる様々な事象に惑わされることをやめて、揺るぎない信頼の中で、自分を生かすことのできるまことの主人だけを見つめるよう、絶え間なく促されたのである。

ほとんどの人たちは、おそらく、自分の人生の主役は、自分自身であると確信していることであろうが、実はそれさえも事実ではない。
  
人間の思い、感情、考えは、人から見れば、それこそがまさしく現実のように感じられるであろうが、それらは実際には、裁判官から認定されるのを待ってうず高く積み上げられている書面のようなもので、光が当てられて、まことの主人から認められなければ、その一切の思いはむなしく、リアリティを持たない、移ろいゆく影のようなものに過ぎない。

闇の中に咲く花は、朝日が昇らない限り、人々の鑑賞の対象となることはなく、存在していることさえ、誰にも気づかれないように、まことの主人がやって来られて、私たちの存在を認めて下さらなければ、私たちは存在そのものが、むなしく、闇でしかない。どんなに人が渾身の訴えを作り上げ、どれほど人としての思いを吐露しても、その感覚も、思いも、存在も、すべてがむなしく、生かされることなく、始めから無かったもののように、空中に消えて行くものでしかない。
 
神が私たちの訴えを取り上げて下さるからこそ、私たちの主張や存在が生きるのであって、それなしに自分で自分を是認することは、私たちにはできない相談なのである。

つまり、法廷の主が、当事者ではなく、裁判官であり、法廷に入って来た裁判官が、審理の場を完全に支配してしまうように、筆者が人生において呼び出されている目に見えない法廷の主役も、筆者ではなく、筆者を超える権威者が存在する。

その権威者の眼差しが、徐々に筆者をとらえ、筆者の存在を、自分中心から、まことの主人を中心とするものへと変えて行った。その時、筆者が頼みとし、よすがとしていた様々な力も、単独ではすべてむなしいことが判明したのである。
   
被造物の存在は、目に見えないまことの主人に認められ、評価されるためにこそある。そこで、まことの主人とのパートナーシップが成り立たないのに、被造物だけが単独で何を訴え、何を成し遂げたとしても、それは誰からも認められず、生きた現実とならないむなしいものでしかない。

私たちの人生は、まことの主人である見えない神に仕え、この方の権威に服し、その方を喜ばせるために与えられている。そのまことの権威者から是認されずして、私たちの存在が、リアリティを帯び、満たされ、生かされることはないのである。

そのことを、筆者は自分では知っていると思っていたが、審理を通して、改めて教えられた。すなわち、人は外側からの承認(神からの承認)を受けなければ、決して自力では完全になれない存在であり、それが被造物の変えることのできない性質であり、ある意味で、「女性性」と呼んでも良い性質であり、限界なのだと。
 
そうして、筆者は、自分の存在が影に過ぎないことを知らされたのであるが、それは決して、悲しんだり、落胆すべき出来事ではなく、むしろ、それは筆者に被造物たる人間の本質を、そして、私たちには、まことの主を待ち望むという使命が存在すること、主が来られたときにこそ、私たちの存在が完全になるという喜ばしい事実を、改めて教えてくれた。

それが分かったときに、筆者は自分の超えることのできない被造物としての限界が、とても喜ばしいものであって、筆者のまことの主人に栄光を帰するものであるという不思議が分かったのである。

僕は、僕であればこそ、主人に栄光を帰することができる。僕が主人のようになり、主人を超えようとすることには、何の意味もない。

時折、職場にやって来る上司は、裁判官と同じように、筆者は自分のために生きているのではなく、自分の上に立てられたまことの主人たる権威者の思いを体現し、その主人を喜ばせるために生きているという事実を思い起こさせてくれる。

これまで、自分のために働き、自分の望みに従って生きていた筆者は、自分の人生が、自分自身のためにあるのではないということが分かったときに、方向性を大きく転換した。

もちろん、筆者は信仰者として、死んでよみがえって下さった方のために生きていることを信じてはいたが、それでも筆者の人生には、まだ真の意味で、他者というものが訪れたことがなく、天におられるまことの主人を喜ばせるために、地上生活を送るとは、どういうことなのかを、具体的に知らされていなかったのである。

訴訟における審理が、早くとも月1回程度のペースでしか開かれず、裁判官に会うことも少なく、その時間も短いように、筆者に最初にミッションを与えてくれた上司が、職場に稀にしかやって来ないことにも、何か意味があるように思われてならない。
  
それは、主人の姿が見えないと、僕たちの心が一層、露わにされるからである。主人に観察されることを望まず、何事も自分の思い通りにしたいと望んでいる僕にとっては、主人の到着は、全く喜ばしい出来事ではなく、来ない方が良い瞬間である。

しかし、常日頃から、主人に仕えるために、心を砕いている僕にとって、主人の到来は、喜ばしい訪れであり、その眼差しは、決して厳しいものでも、不快なものでもない。

その主人は、私たちが用意もできていない時に、私たちを辱め、恐れさせるために、不意にやって来るのではないし、主人から目を留められ、働きを報告するよう求められることは、僕の労苦がようやく報われることを意味するから、忠実な僕にとっては、何ら戸惑うべきことではなく、むしろ、待ち望む瞬間である。

その方は、気づくと、もう私たちの心の戸口に立って、扉を叩いている。私たちがその求めに応じて、戸を開けるなら、彼は私たちの口から、嬉しい報告を聞くことを期待しつつ、静かに私たちのそばに立ち、笑顔で声をかけて、苦労をねぎらってくれる。
 
私たちが困難の只中にあることが分かれば、「私が着いているのだから、あなたにはきっとできるはずだ」と力づけ、励ましてくれる。

「あなたがたには世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20) 
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(コリントニ12:9)

 
こうして、目には見えずとも、私たちには、決して私たちを置き去りにしていくことのない真の主人が着いておられる。だから、僕としての限界、制約は、私たちにとって重荷とはならない。この方に仕え、その眼差しをとらえ、評価を受けようとして生きることが、どうして光栄でないはずがあろうか。

それに引き換え、ただ自分で自分を肯定するために、誰にも仕えず、誰にも承認されることのない、終わりなき一方的な自己主張を繰り広げながら、自己充足のために、自分で自分を栄光化する建物の建設を続ける作業は、大変、むなしく、報われない孤独な奮闘である。

自分のためにどんなに立派な神殿を建てても、そこに住まうのが、自分一人であれば、それは家と呼ぶべき場所ではなく、また、光栄であるはずもない。自分で自分をどんなに肯定してみたところで、そこから何が生まれて来るのだろうか。そびえたつ絶壁と、高い塔は、一見、人間にとっては、孤独とは無縁の、栄光に満ちた住まい、強固な守りの砦であるように見えるかも知れないが、それはどこまで行っても、人類の独りよがりでしかない、家とは呼べない、断崖のような孤独な住まいであり、そこで行われるすべての営みも、人類の自己満足に過ぎないものとして、誰からも認められることなく、やがて塔が崩れ去るときに、始めから無かったもののように、忘れ去られて終わるだけである。もともと自分しか認められない人間が、地上からいなくなったとて、誰がその人間を思い出してくれるのだろうか。
 
被造物は、神を抜きにして、決して完成に至ることはなく、人類だけでどんなに団結しようと、神からの承認がなければ、人の一切の営みは無意味である。

だから、筆者は目を上げて、自分自身の思いと、移ろいゆく地上の有様から目を離し、ただ一人の目に見えないまことの主人の到来を思いつつ、それを待ち望む。花嫁なる教会が、花婿なるキリストを待つように、天におられる方を仰ぎ望み、こう言わずにはいられない。「来たりませ」と。

その方が来られるとき、私たちには真の慰めと、栄光が与えられ、すべての労苦はねぎらわれ、豊かな満たしがある。

地上における日々は、見えない主人の到来を待ち望むために与えられた貴重な訓練期間である。
 
* * *
 
最後に、使徒パウロが、コリント人への手紙の中で、教会内で起きた紛争をこの世の法廷に持ち出し、この世の裁判官に裁きを委ねることに反対した背景には、キリスト教とは完全に異質な異教の神々への信仰を土台とするローマ法という特殊事情があることについて書いておきたい。

これを「特殊事情」と呼ぶのは、今日の我々の生きている時代の法と、パウロ存命当時のローマ法とは、その土台となる理念も概念も異なるためである。

当時、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の中でも一定の自治を保っていたようであり、その自治は、宗教的にも、ある程度認められていたものと見られる。それでも、ユダヤ人たちが、もしくは、異邦人も含め、教会内にいる信者たちが、自分たちの間で起きた紛争に対する裁きを、この世の法廷に訴え出れば、その紛争は当然、ローマ法に従って裁かれることになる。しかし、多神教への信仰を理念とするローマ法に従って、どうしてキリスト教会内で起きた紛争を裁けるのか。

しかも、以下で示す、パウロがコリントの信者たちに宛てて書いた忠告では、当時、教会内の信者たちが、およそ信仰とは関係のない日常的な事柄を巡って、争い事を起こし――たとえば、土地や、所有物や、金銭や、日用品や、食べ物などを巡って――多数のトラブルが発生し、そうしたこの世的な些末な争い事を、教会内では仲裁できる者もなく、誰もがこれを放置した挙句、結局、仕方がないから、その争いを世の法廷に持ち出し、そこでおさめてもらおうと、信者たちがこの世の裁判において、紛争を起こそうとししていた様子が分かる。

パウロはそうした争いのみっともなさ、矛盾を指して、そんな争い事を世に持ち出すことは、信徒の名折れであり、教会を辱めるものであり、それ自体が敗北以外の何物でもない、ということを述べたのである。

「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。あなたがたは知らないのですか。

聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。

それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。

兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。

なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。」(コリント人への手紙一6:1-9)


今日、私たちは異教の神々を信奉する理念のもとに作られた法体系の中を生きているわけではなく、また、筆者は日常的な争い事をおさめるために、兄弟と呼ばれる教会の信者との争い事を、この世の法廷に持ち出しているわけでもないから、以上のくだりと、筆者の提起した訴訟との間には、多くの相違点があることは言うまでもない。
 
さらに、筆者は、この世の裁判所の人々は、私たちと同じ信仰者ではなくとも、同時に、異教の神々を信奉し、その理念に基づいて人々を裁く者でもないから、私たちは彼らを上に立てられた権威として尊重し、服すべきであるとみなしている。もちろん、裁判所のみならず、この世のすべての権威は、同様に敬うべきであると考えている。

とはいえ、以前にも書いたように、パウロはここで、キリスト者一人一人が「世を裁く者」、「天使たちをさえ裁く者」であると告げていることは重要であり、これは、信仰によって、想像を超えた絶大な権威が、私たち一人一人信じる者に与えられていることを意味する。

主の御名は、すべての名に勝る絶大な権威であるから、この方の御名の権威を与えられている私たちキリスト者一人一人も、地上のすべての物事を超越する存在なのである。この世のどんな為政者も、権力者も、私たちの中にあるまことの命を否定することはできないし、これを消滅させることもできない。地上のすべての物事は、一見、権威ある人々の発する命令から始まるように見えても、実際には、私たちが信仰によって抱く望みによって始まり、信仰によって完成させられる。
 
だが、そのように絶大な御名の権威を託されているからと言って、私たちはこれを人々に対して居丈高に振りかざし、他の人々の上に立って、彼らを威圧し、支配するようなことを決してせず、むしろ、主がそうされたように、僕として、己をむなしくして、この世の権威に服する。

パウロが殉教に向かったのは、異教の神々を信奉するローマ帝国内で、正しくない裁きが行われた場合であっても、この世の権威に逆らわず、それに服することで、十字架の死に赴かれたキリストにならうためであったろう。
 
今日の政治情勢下で、私たちが不当な裁きによって殉教を命じられるようなことはまずあり得ないことは幾度も述べたが、それでも、私たちには、日々、耐え忍ぶべき小さな十字架がある。

以下の御言葉は、信者に与えられた忠告ではあると同時に、幾分か、この世の人々との関係においても当てはまるものである。なぜなら、そこには,教会だけでなく、この世においても、私たちの権威や、栄光が、自分で自分を高く掲げることから来るのではなく、互いに自分をむなしくして、僕として仕え合うことから来るという原則が表れているためである。

自分一人だけが、他の人々に先んじて、知識を蓄え、他者を凌駕して、優位に立ったり、他者を圧倒するような力を身に着け、誰かを押しのけ、隅に追いやることで、栄光が得られるわけではない。

何度も言うように、被造物は、それ自体のために造られたのではなく、造った方を喜ばせるために存在しているのであって、その本来的な努めをまっとうするところにこそ、私たちの幸福がある。それにも関わらず、被造物同士が、互いに比べ合い、押しのけ合い、君臨し合い、凌駕し合い、優劣をつけ合うことによって、どんな栄光にもたどり着けるわけではないし、それによって自分の訴えの正しさや、優位性が認められて、他者に勝るリアリティを獲得できるわけでもない。
 
ただ私たちを選び、立てて下さった方からの承認だけが、私たちを生かす力なのであり、そして、その方に評価され、栄光を受けるための道は、十字架を通ることにしかない。ヨルダン川の川底に立ち、人々が安全に川を渡り終えるまで、契約の箱を支えて立つ、その仕事にしかない。

だから、己を低くして、互いに仕え合いなさい、とイエスは弟子たちに幾度も言われたのである。パウロも、信者が何か奥義的な知識を身に着けたとして、それを他の信者に対して吹聴することを戒めている。

そうして仕え合う関係は、信者が教会の人々に対して取るべき態度だけでなく、すべての人々に対して取るべき態度を表している。栄光は、人々に君臨し、圧倒し、支配することから来るのではなく、仕えることから来る。その原則は、いかなる場所においても、変わらない。主の御前で、主にならって、自分を低くする者が、高くされるのである。
   
「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:1-11)





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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