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さて、今月の終わり頃までに、事件が一つの山場を迎えることになる。今また大量の書類に埋もれ、準備作業の最中であるが、この正念場を超えれば、事件はしかるべき経過を辿り、終結へ向かう。悪人はふさわしい裁きを待つことになる。

今年も約半分ほどが過ぎてから、様々な手続きが以前の何倍もスムーズに進むようになった。そのおかげで、今、筆者の中では、日本の男たちに対する信頼が、随分と回復している。

この事件を通して、筆者はこれまでの人生で関わったことのない様々な職業の人たちに関わり、その中で、信念を貫き通すことの価値を学んだ。かつ、信念を持って仕事をしている誠意ある人たちに出会い、大いに助けられた。

たとえば、昼食も取らずに、事件のために電話を受け続けてくれた検察官、休日出勤までして捜査している警察官、答えに窮する質問が向けられたときに、とっさに答えてくれた裁判官、何度も裁判所に足を運ぶ中で、配慮を示してくれた書記官、それから、融通をきかせてくれた民間企業の人々・・・。一つ一つは実に些細な事柄でしかないが、それらが絶妙に相合わさって、事件の進展を大いに助けている。
 
民主党政権が自壊して、安倍自民党政権に戻って以来、日本は理念においても、経済においても、落ちぶれるばかりで、世界の四流国へと沈没しつつあるように見受けられるが、それでも、その中にあって、弱い立場にある者をかばい、正義を曲げず、真実を曲げない人間が、確かに存在していることが分かった。

そのような人々の仕事ぶりは、男であれ、女であれ、すがすがしいものであると感じずにいられない。そして、彼らの仕事を見るにつけても、やはり、筆者は筆者として、自分の信念を貫かねばならないと思う。

筆者はこれまで、何事であれ、命の息吹の感じられる方向性をひたすら探し求めて進んで来た。砂漠の中で貴重なオアシスを探し出すように、真実と誠実さの感じられる、清い命の流れが見いだせる方向だけに向かって進み、人々と接する時にも、嘘や不正がなく、真実性の感じられる主張を行う人々を探し当てて来た。そして、そういう人々に、この世の重要な用事を託し、彼らと一緒に進んできた。そうして真実、公正、正義を探し求めて生きることこそ、無駄な害を受けずに平安に生きるために死活的重要性を持つものであることを今も疑わない。

だが、そうして行く中で、かつて筆者が交わりを持ちたいと望んでいたキリスト教の信仰を持つ人々は、徹底的に筆者の周りから退けられた。これは実に逆説的な現象である。

筆者は今でも、聖書に基づくキリスト教の信仰を何より第一として生きているが、その筆者を助け、支えてくれたほとんどすべての人々は、信仰とは関係のない、この世の人々だったのである。

しかし、彼らは良識ある人々で、筆者の信仰をとてもよく理解してくれた。あるいは、理解しようと努めてくれた。たとえば、筆者は、裁判が始まるまで、裁判所とは、庶民には縁遠い場所で、裁判官というものは、ただ原告と被告の主張を見比べて、どちらに分があるかを、冷徹な科学者のようにはかり、無味乾燥で機械的な判決文を書くものと思っていたが、事実は全くそうではなかった。

むろん、すべての裁判官が良心的な人間であるわけではない。しかし、裁判官の職務の基本は、法的概念に基づいて弱者を救済することにあり、人々の訴えに真摯に耳を傾け、訴えられた被害を、自分自身の内面を通過させてその重さを理解した上で、それに対してどのような補償が望ましいかを考えることにある。

従って、裁判官は、宗教や信仰を背景にした訴えであっても、その思想的背景を無視して進むわけにはいかないのだ。自分とは異なる信仰を持つ人々の世界観をも理解し、人としての理解力、洞察力、共感能力、バランスの取れたものの見方をフル活用して、事件の真相をとらえねばならない。

それは検察、警察であれ同じである。信仰がないからと言って、信仰者の訴えを無碍に扱うことはできない。むしろ、世人は、立場は違えど、信仰を持つ人々に対して、一種の尊敬のような気持ちを持っていると言えよう。そのことが、膨大な分量の書面をもって方々に働きかけているうちに、はっきりと分かって来たのである。
 
さて、この10月に筆者は170頁に上る準備書面を用意したが、これが事件の流れを大きく変える一つのきっかけであったとみなしている。そもそもこの反駁を書き上げること自体、まさに天の采配がなければできないことだったからである。

このことの大きさを理解してもらうために、ある質問を読者に向けてみよう。

仮にあなたのもとに、弁護士が大きな文字で書いた12頁の訴状や準備書面が届いたとしよう。あなたが被告として、これに応じるとすれば、この書面に反駁するのに、どのくらいの時間を要すると思うか? 本人訴訟で応じる場合を想定しての質問である。

筆者の答えは、12頁の文書に反駁するために、最低でも1週間以上の作業が必要になるというものだ。しかも、これはただ反駁の書面を準備するためだけにかかる時間を指すのであって、事実の確認や、調査の時間は含まれない。

1週間、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、ぶっ通しで反論を書き、ようやく12頁の書面に対する相応の反駁ができ上がるのである。その分量は、軽く30頁を超え、場合によっては、50頁以上に及ぶ。なぜなら、その文書の約半分は、相手方が記した内容の単なる引用であって、あなた自身の反論ではないからである。

つまり、誰かの主張に反駁するためには、その主張の倍以上の分量の書面が必要になるということだ。しかも、送られて来るのは、紙媒体であって、電子データではない。引用部分はすべて手打ちでデータ化する必要がある。その中には、日本語の文章だけでなく、URLや、複雑な記号、図形、あるいは外国語でえさえ、含まれているかも知れない。興味のない、読みたくない文章も、飛ばすわけにいかない。どんなに下らない愚かしい主張にも、きめ細やかに目を通し、きちんと反駁せねばならない。

多くの場合、訴訟においては、次回期日までに与えられる時間は1ヶ月以内である。先送りできるとしても、せいぜい1回か2回程度だ。だが、一般市民であるあなたには、弁護士のように、朝から晩までパソコンに向かう余裕があるはずもない。従って、弁護士に依頼するだけの資金がなければ、仕事を終えて帰宅してから、眠い目をこすりつつ、自分でその作業をするしかない。

こうした環境において、仮にあなたのもとに170頁にのぼる訴状や準備書面が届いたら、それに反駁するためにかかる時間は、一体、どれほどであろうか?

筆者の答えは、何カ月かかっても、一人で反論するのは無理だというものである。これは勇気とか決意とか覚悟の問題ではない。

170頁の文書に反駁するためには、300頁以上の分量が必要となる。しかし、文系の学術論文を例に取るならば、300頁の学術論文を書き上げるためには、昼夜を問わず、半年以上、ぶっ通しで作業する必要がある。大抵は、調査のために1~2年以上の月日が投入される。博士論文の場合は、6年程度の月日をかけて完成することも稀でない。半年で書き上げられれば、天才の領域と言えるかも知れない。

訴訟は論文ではないが、命と生活がかかっており、そもそも心理的に向き合いたくない問題がテーマとなっている点で、論文とはまた違った困難さと切迫性がある。その上、公開されている裁判ならば、傍聴も許されるため、あなた自身が、被告として一般市民の前に見世物とされる可能性がある。その上、あなたの書いた書面も、いついつまでも記録として保存され、あなたの死後になっても、まだ市民に閲覧請求され、内容が知れ渡る可能性もある。

あなたがこの裁判に臨むに当たり、どんなに仕事に追われ、書面を書く暇がなく、心理的に追い詰められていたと弁明したくても、その時には、誰もそんな弁明は聞いてくれない。あなた自身の代わりに、ただ書面だけが残り、要するに、こんな愚かしい主張しか出せない人間だったのか、それなのになぜ身の程知らずな挑発行為に及んだのかと、死後になって指摘されることが、果たして望ましいことであろうか。

そのような危険をも考慮した上で、あなたは膨大な分量の資料をデータ化し、内容を把握しながら、信憑性のある反駁を練り上げて行かねばならない。さらに、自分の主張を肉付けするために、有利な証拠を新たに探して来るのも、あなたの仕事である。

多分、そういう作業には、大半の人々が耐えられないことと思う。つまり、170頁もの文書で訴えられたとき、これにきちんとした根拠を示して自分一人の力だけで反論できるような人は、一般市民の中には、ほとんどいないのだ。

それでは、大金を積んで弁護士に依頼すれば、作業が簡略化できるかと言えば、それもあまりない。そもそも弁護士は当事者でないので、事件の詳しい事情を知らず、弁護士の作る書面には、必ずどこかに穴があると言って良い。
 
弁護士は、体裁だけは反論するであろうが、事の真相を知らないため、ほとんどの場合、正義などどうでも良く、詭弁を弄してでも良いから、形式だけを整えることが主要な仕事である。そこで、弁護士が書いた内容は、格好だけはついているかも知れないが、それで本当に勝てるかどうかは全く分からない。

勝つためには、あなた自身が、相手の主張の弱点をよく理解し、それに対する有効な反論の仕方を弁護士に伝えなければならないが、それができるくらいなら、初めから弁護士になど依頼する必要がないであろう。

そういうわけで、知的・経済的に、さしたる力を持たない一般市民が、インターネットで、軽はずみな短いコメントで他者を誹謗中傷したりしていれば、膨大な証拠資料と共に訴訟で訴えられ、それだけで一貫の終わりとなる危険がある。余命ブログの事件が良い例であるが、他者のヘイトスピーチに煽られて、分不相応な思い上がりに陥り、何の落度もない知識人らに、いわれなき憎悪と攻撃を向ければ、厳しい報いが待ち受けているだけである。

世間は、スラップ訴訟とは高額訴訟のことだと思っているようだが、請求金額だけが訴訟のインパクトなのではない。文書の内容、量もまた、非常に大きな衝撃力となりうる武器なのである。

もちろん、スラップ訴訟に限らず、あらゆる訴訟において、限られた時間内に、相手方よりも圧倒的に優位に立つ力がなければ、勝ち目はない。だが、原告であれ、被告であれ、一体、どうして一般市民がそんな巨大な負担に耐えられようか?

しかし、神が味方して下さるならば、それが可能となるのである。あなたは圧倒的な優位に置かれ、ダイナマイトのような武器を手にすることになる。神は、ご自分の権益にとって真に重要な戦いが起きれば、必ず、戦いに耐えうるすべての条件を用意して下さる。

その時、あなたは自分一人ではとてもこなせないような、とてつもない作業量を遂行することができる。ただ勝利するだけでなく、「勝ち得て余りがある」と言えるだけの作業をこなせるのである。

このように、筆者の遭遇した事件では、信仰の戦いを、信念を持って戦い通していると、ある時点で、狭い通路を抜け出し、広い場所に立たされる時がやって来た。天高く引き上げられて、余計な重荷から解放されて、広々と物事全体を俯瞰できる場所に置かれたと言って良いかもしれない。

このように、激しい戦いの中をも、勇気と信念を持って進んで行くとき、追い詰められるどころか、逆に心に余裕が生まれる。そして、自分の心の決意にふさわしい協力者たちにも、巡り合うことができる。それは、自分が信じて歩んできた道にふさわしい同志たちを見つけたという満足感の伴う貴重な出会いである。

このように、良い人たちに巡り合うためには、自分自身が生長せねばならない。日々、必要な代価を払って、自分の十字架を負い、掲げている旗を降ろすことなく、勇気を持って進んで行かねばならない。

そのとき、初めて、その歩みを喜んでサポートしてくれる人たちが現れる。女性だから、自分の主張をしてはいけないとか、男性の面子を立てるために、男性だけを優位に置いて、その下で仕えねばならないなどのことは決してない。むしろ、女性であろうと、男性であろうと、信念のために自分の命のすべてをかけて勇敢に進むならば、その時、周りの人々は自然と、その主張を理解し、助けてくれるようになる。もしもあなたが女性ならば、屈強で頼もしい男性たちが周りを取り囲み、ちゃんと目的地に着けるようにガードしてくれるだろう。

このように、自分の信念にどれだけ忠実に生きるかが、人の人生の価値だけでなく、人間関係をも決めると筆者はみなしている。人が自分のしかるべき立ち位置に立つ時、初めて、価値ある協力者が得られ、人間関係がことごとく正常化されて行く。

そういうわけで、真に魅力的な人々に巡り合い、そういう人々に取り囲まれて生きたいならば、そのためにも、私たちは、高い望みを持たなければならない。何よりも、神の国とその義を第一として生きるべきである。そうすれば、物質的な必要にも、人間的な支援にも、仕事にも、人との出会いにも、物事の巡り合わせや、経済にも、何一つ欠けることなく、すべてが天から供給されて満たされるだろう。
 
その時、初めて、どんなに困難な戦いが起ころうとも、神が味方して下さることによって、勝利をおさめる秘訣が分かる。そうして多くの勝利を勝ち取った後で、世を去る時にも、胸を張って、これで良かったと言える悔いのない人生を歩めることだろう。,主の御名は誉むべきかな。

(ちなみに、フィナーレとして用意されている書面は、民事訴訟に関するものではない。もちろん、裁判資料も追加するが、それとは別に、新たに大きなお土産が用意されている。クリスマスに向けて、苺やホイップクリームをふんだんにちりばめた巨大なケーキを作り上げているところだと言って良いかも知れない。)
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 夕べに田園風景の中を散歩すると、コスモスが見事に風に揺れていた。日暮れが早くなったので、我が家の動物たちとの散歩時間も早めねばならない。もうしばらくの間である、こうして静かに散歩できるのも。あと少しすれば、寒い冬がやって来る。

上記の写真は、鎌倉に住むとある(信仰にある)兄弟が生前、筆者を植物園に案内してくれた時のものだ。この兄弟は、夫人に先立たれ、筆者が仕事や人生で色々な困難にぶつかり、信仰の交わりのために連絡を取ることを控えていた間に、いつの間にか天に召されていた。

それまでの間にも、その兄弟はいくつもの大病を患い、何度も生死の境をさまよいながら、夫人に看病され、支えられ、何とか命を取り留めていたが、その夫人の死後、一人で地上に残されても、まだ元気そうな顔を見せてくれていたのは、筆者のための神の憐れみであったのだろうかと思い巡らす。

もしも筆者が、あの頃、この兄弟をもっと必要として、しばしば連絡を取って、もっと多くの回数、交わりに呼び出していたならば、神はもう少しの間、この人を筆者の必要のために、地上に残しておいてくれたのだろうか?

何しろ、そう考えても不思議でないほど、この夫婦はどちらもが地上に未練というものがなかった。ただ人のために役立つこと以外には、自分自身のためには、この地上で何一つ要求するものも、し残したこともないというすがすがしい人生を送る人たちだったのである。ある意味で、非常に恵まれた環境を生き、多くの人々が地上で執着するような事物には、全く関心がなかった。

だから、彼らは、身近に彼らを必要とする人がいなくなると同時に、ただちに天に召されて行ったのだという気がしてならない。多分、筆者が彼らにとって、地上に残るための最後の必要だったのではないかと思わずにいられない。

さて、我が家の小鳥のヒナたちは、朝から晩まで騒がしい。まるで赤ん坊の世話のように手が抜けないが、何羽もの小鳥が、けたたましく鳴きながら、大きな口を開けて飛びついて来るのを見るのは、何とも言えない喜びであり、愛らしさである。
 
鳥には春と秋に産卵期があるが、鳥のヒナを育てるならば、春でなく秋がお勧めだ。なぜなら、日本の夏は、素人には気温の調節が難しいからだ。特に、猛暑の終わりから秋にかけての気温の変化は、人体にとっても大きな負担だが、小鳥のヒナにとっては致命的な負担となりうる。

小鳥が体調を崩すにはほんの半日あれば十分で、特に成鳥になるまでの一年間は油断がならない。個体差もあるので、他の鳥にとって何でもない変化が、ある鳥にとってだけ大打撃となったりもするのだ。

とはいえ、小鳥がまだ活発に反応を返している間は、多少、具合が悪そうに見えても、処置はまだ十分に間に合うと期待して良い。成鳥でも、ヒナ同様の保温と、強制給餌とで、回復させることができる。我が家には強制給餌用のカテーテルはないが、鳥にまだ食べる力が残っているうちは、挿し餌と同じ要領で対応できる。固形物ではなく、流動食を与えること。とにかく絶食の状態が続かないようすることである。

これまで筆者には、子供の頃から、鳥に関してはさまざまな思い出があり、悲しい別れやつらい失敗談も数多くあった。特に、子供の頃に最初に見た光景は、人間の無知のゆえに、せっかくかえったヒナも育たなかったという悲しい結果であった。

そういうこともあって、多くの愛鳥家たちは、繁殖をこそ重視して、珍しい鳥のヒナをかえすための研究に日夜、心血を注いでいるが、筆者はそのような研究に没頭する気になれず、まだ卵からヒナを返し、無事に全羽を育て切る自信がないため、巣箱を入れる気にはなっていない。

来年には文鳥よりももっと高価な鳥たちの間で、新たに愛らしく美しいペアが生まれるだろう。新たな学習のチャンスで、美しい色の羽を持つ貴重なヒナたちを育てようと思えば育てられる。そろそろ、巣箱を入れることも、考えてみようか。文鳥あたりから始めるのが良いだろうか。そう思いめぐらしながらも、まだ決断がつかないでいる。

* * *

最近、霊的な戦いにおいて、一つの大きな山場を超えたことがよく分かる。多くの人たちが、まるで正気を取り返したように、最初から至極まっとうなものであった筆者の意見に、大きく頷いてくれるようになった。

一体、この国はもう滅びるしかないのだろうかと幾度も考えたが、崖っぷちのようなところで、何とか正気を取り返し、踏みとどまっている現状だと思う。これから、ここまで退却させられたすべてを押し戻さなければならない。
 
筆者は人からの理解や賛同を求めているわけではないが、主が送ってくれる援軍はとても心強い。その一言一言に勇気づけられ、心の尊厳を回復し、心を奮い立たせることができる。

だが、気は抜けない。最後の決戦までの大詰めの準備作業が残っているからだ。神は筆者にこの準備のために必要な期間をわざわざもうけて下さった。誰も知らないが、予定が先送りされて猶予が与えられているのは、理由のないことではない。

主のために、教会を守るために、公然と訴えを出せる立場にいながら、生計を維持するために、その作業を先送りしている人たちがいる。だが、筆者は彼らに言いたい、生計を維持することが、私たちの第一優先課題ではないのだと、真に天の御国の権益に寄与する仕事をすれば、すべてのものは添えて与えられると。生計を維持するためにも、まずは御国の権益のために働くことだと。

実際に、御国の権益拡大のために種を蒔くことが、私たちの地上における生存を豊かに保つための最大の秘訣なのである。この原則は、私たちが地上に生きている限り、決して変わらない。だから、勇気を奮って、この原則を試してみることをお勧めする。真に神に喜ばれる仕事を第一とするならば、生きるための必要はすべて添えて与えられる。

さて、筆者が鳥を好きなのは、地に足をつけない(根差さない)生き物だからである。

天高く、空高く、わしの翼のように、翼をかって、復活の命の統治の中を生きていきたいと願う。そう考えながら、ふとイザヤ書の第40章の節を思い出して、御言葉を調べると、何とタイムリーな内容ではないか。

この一章は今、まるで詩のように筆者の心に響いて来る。そうだ、主の回復の時を告げる幸いなニュースが、今、筆者の耳元にも聞こえて来ている。まだ何事も起こらないうちから、麗しい音楽のように、その調べが耳元に届くのである。

まるで訴えを出した人が、正義の判決文が読み上げられる瞬間を待ち望むように、筆者は、主の深淵な取り計らいに、その解放を告げ、自由をもたらす宣言に耳を澄ます。まことに草のようにはかない筆者の存在を、神は御心に留めて下さり、筆者の受けた他愛もない苦難のために、大いなる慰めを与えて下さったのだ。

そこで、筆者は羊のように神の懐に抱かれ、その腕の中で安らぐ。神は乳飲み子のような羊さえ、傷つけることなく優しく導かれる。万物の創造主であるからこそ、私たちすべての被造物の弱さと、そのしかるべき取扱いを心得ておられ、一つの命も絶やすことなく、私たちの呼び声に耳を傾け、適宜、助けの手を差し伸べて下さることができるのである。

自由を告げる福音が、今、私たちの耳に届いている。今日が恵みの日、救いの日である。解放の宣言に耳を澄まし、これを受け入れる人は幸いである。私たちを囚われ人の立場から自由にして下さった、大いなる主の御名の前に畏れかしこみなさい。主の御名を誉めたたえなさい、エルサレムよ、あなたの苦難はすでに終わったのである。
 
あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。

呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。


こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。

人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。

見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

だれが、たなごころをもって海をはかり、指を伸ばして天をはかり、地のちりを枡に盛り、てんびんをもって、もろもろの山をはかり、はかりをもって、もろもろの丘をはかったか。だれが、主の霊を導き、その相談役となって主を教えたか。

主はだれと相談して悟りを得たか。だれが主に公義の道を教え、知識を教え、悟りの道を示したか。 見よ、もろもろの国民は、おけの一しずくのように、はかりの上のちりのように思われる。見よ、主は島々を、ほこりのようにあげられる。レバノンは、たきぎに足りない、またその獣は、燔祭に足りない。主のみ前には、もろもろの国民は無きにひとしい。彼らは主によって、無きもののように、むなしいもののように思われる。

それで、あなたがたは神をだれとくらべ、どんな像と比較しようとするのか。偶像は細工人が鋳て造り、鍛冶が、金をもって、それをおおい、また、これがために銀の鎖を造る。貧しい者は、ささげ物として朽ちることのない木を選び、巧みな細工人を求めて、動くことのない像を立たせる。

あなたがたは知らなかったか。あなたがたは聞かなかったか。初めから、あなたがたに伝えられなかったか。地の基をおいた時から、あなたがたは悟らなかったか。
主は地球のはるか上に座して、地に住む者をいなごのように見られる。主は天を幕のようにひろげ、これを住むべき天幕のように張り、また、もろもろの君を無きものとせられ、地のつかさたちを、むなしくされる。

彼らは、かろうじて植えられ、かろうじてまかれ、その幹がかろうじて地に根をおろしたとき、神がその上を吹かれると、彼らは枯れて、わらのように、つむじ風にまき去られる。

聖者は言われる、「それで、あなたがたは、わたしをだれにくらべ、わたしは、だれにひとしいというのか」。

目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない。

ヤコブよ、何ゆえあなたは、「わが道は主に隠れている」と言うか。イスラエルよ、何ゆえあなたは、「わが訴えはわが神に顧みられない」と言うか。

あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。

弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

このイザヤ書の御言葉に、主よ、本当にその通りです、と、筆者は心から言うことができる。

我が主よ、あなたは私が弱った時に力を与え、私に勢いのない時に、強さを増し加えられました。私が若くても弱り、疲れ、倒れ果てそうになった時、あなたが私を支えて下さり、新たなる力を与え、わしのように天高く舞い上がる力を与えて下さったのです。

だからこそ、誰が私を見捨て、裏切ろうとも、どれほど援軍が少なくなろうとも、どれほど数多くの誤解が生まれようと、そんなことには一切、関係なく、私は頭を上げて、あなたのお与え下さった義と聖と贖いに立って、あなたと共に大胆に前進し続けることができたのです。そして、あなたは地上のどこからでも新たなる援軍を、私のために呼び起こして下さることができました。そのことを私はこの目ではっきりと見たのです。

そこで、私はあなたの民でない人々に助けを乞うことは金輪際しますまい。主の民が、異邦の民に助けを求めるのでなく、異邦の民が、主の民に仕えるのです。私の助けは、ただあなたお一人からやって来るのです。
 
我が主よ、あなたがおられるからこそ、今、私は自由であることができるのです。あなたの知恵に満ちた深淵なお取り計らいに、私は心から感謝せずにはおれません。あなたのはかり知れない知恵とご計画は、私の理解を超えているとはいえ、私は自分の訴えがあなたに顧みられていないとはもう申さないことでしょう。私の道があなたに隠れているとも申し上げません。

どれほど私の道が不確かに見える時であっても、主よ、あなたが私の同伴者である限り、あなたは必ず、目的地まで正しく私を導いて下さることがおできになると、私は確信しています。私のこの言葉は、信仰による宣言としてこの先も私の人生に残り続けるでしょう。あなたが私の決意を心に留めて下さり、私を最後まで御言葉の内に保って下さいますように。

我が主よ、私は頭を垂れて言います、あなたこそ、私たちの期待に応えて下さることのできる方、あなたこそが、私たちにとっての真の解決であり、助け手であり、希望なのです。あなたは私たちの期待を決して裏切られることのない方です。私たちを失望に終わらせない方です。どうか、あなたにふさわしい大いなるヴィジョンを、この枯れた骨のような、死んだような民にお与え下さい。

そして、私たちが、もう一度、生きた者として立ち上がり、あなたの大いなる御名に、栄光を帰する存在となりますように。あなたの御名にのみ、栄光が帰されますように。地上のもろもろの事物、すべての生きとし生けるものたちが、こぞってあなたの御名を讃え、あなたに服し、あなたに感謝を捧げますように。



 

いつの間にか、横浜は紅葉して秋の美しい風情となっていた。
ついこの間まで、冷房が必要だったのに、今は動物たちのために暖房が必要である。

朝晩の寒暖の差が激しくなり、あやうく小鳥が体調を崩しそうになったので、遠赤外線ヒーターを小鳥のヒナたちのためにつけてやった。
 
言い尽くせない激戦の一年間であった今年も、もう終わりに近づいている。
 
懸命に走り抜けている間に、気づかぬうちにすっかり季節が変わっていた。
上は分厚い書類の束を抱えて幾度も訪れた裁判所の光景であるが、去り際に、思わず見事な銀杏に見とれた。

心の重荷は過ぎ去り、喜びと、平安とが訪れる。
 
我が人生の中で、類例のない大きな試練の年であったが、なすべきことを立派に成し遂げ、立ち向かうべきものに毅然と立ち向かい、守るべきものを守り通したという、形容しがたい平安と満足感が心に溢れている。

もちろん、まだ何も終了したわけではないが、それでも、本当に第一とすべきことを第一として生き、それによって、神の恵みの大きさを知り、神が愛する子供たちをどれほどはかりしれない配慮をもって守り、導いて下さるか、その一端を知ったというすがすがしい満足感があるのだ。やはり、神の国の前進のために生涯を捧げること以上に、有意義な生き方はなく、神と同労して生きる以上の満足は地上には決してないと自信を持って言える。

だが、そのために大きな犠牲が存在したことは言うまでもない。何しろ、手探りで前進し、一切、人間的な助けを受けずに、神だけを頼りとして、二人三脚で進んだのである。一人の不慣れな人間としては、言葉に言い尽くせない試練があったことは間違いない。

まさに「死の陰の谷」のような暗いトンネルを通過したと言っても良いだろう。

しかし、その間に生じた著しい犠牲さえも、神はただちに安息のうちに補償して下さった。「主が与え、主がとりたもう、主の御名は誉むべきかな」という姿勢を貫徹したときに、失われたものが、わずかなうちに前よりも豊かに回復されたのである。

これは筆者にとって、天からもう一度与えられたヨブの子供たちに等しい。

神にはこの世の経済や物流を支配することなど何でもなく、私たちが損失だと思っているようなものはいくらでも回復することがおできになる。

だから、試練があっても、筆者の人生に損失は生じなかった。そして、追い詰められて窮するということもなかった。その結果はこれから徐々に表れて来ることであろう。

しかし、目に見える結果がはっきりと現れるよりも前に、筆者自身の人間としての内なる尊厳が、完全な回復軌道に乗ったことが分かる。このことが何より最も肝心である。

たとえば、普通の人々は、脅されれば恐怖におじ惑い、いじめられれば泣いて逃げ、中傷されれば、悩み苦しむだけの、弱く、臆病な人間であろうが、そのようなどこにでもいるありふれた人間とは異なる、キリストと共に天の王国を統治するにふさわしい力と威光と尊厳を備えた真に「新しい人」が、筆者の内側に姿を現し始めているのである。

この新しい人格は、どのような試練が起きようとも、御名の栄光のためにすべてを捧げて前進することができる勇敢な新しい人格である。だが、それは勇敢な兵士のようであると同時に、言葉に言い尽くせない平安に根差した実にチャーミングな人格でもある。

それをクリスチャンの用語では「キリストが内に造り込まれる」と言う。しかし、キリストの人格が私たちの人格の内に彫り刻まれ、形作られるために、まず必要なのは、試練である、と言うと、多くの人たちがそんな苦しみは御免だと、ためらって去って行くかも知れない。

しかし、この試練をくぐりぬけずして得られるものは何もない。試練の只中で、忍耐して希望を持ち続けて信仰によって進むとき、初めて、この世のすべての有様を超越した、何によっても揺るがされることのない新しい人格が内側から生まれて来るのである。この世のどんな利益とも引き換えにならない神への愛と従順が生まれて来るのである。

だが、それは一足飛びには行かない、本当に少しずつ、少しずつの進歩である。

そして、この原則は全ての信じる者たちに共通する。当初は状況に翻弄され、きりきり舞いさせられ、四方八方に助けを求めているだけのように見えたか弱い人の中から、少しずつ、信仰によって、神の強さが発揮され始める。束縛されて苦しめられているだけのように見えた人の中から、自由と尊厳が回復される。混乱し、悩みに満ちていたように見えた人の中から、揺るぎない平安と喜びが生まれて来る。

今日が恵みの日、救いの日、日々、囚われ人が解放され、悲しむ者が慰めを得、キリストにある新しい人が、弱った人々の中に、徐々に姿を現し始める。

もちろん、キリスト者は信仰を持った時から、御霊が内に住んで下さるのだが、それだけではすべてが完了ではなく、その人自身の人格、考え方、気質、行動が、長い時間をかけて、人間的な水準から、御国の水準へと、変えられなければならないのである。

こうして生まれる新しい人格には、力と権威と尊厳が伴っている。それは幼い日のヨセフではなく、キリストの御丈まで成長し、霊的に成人に達したヨセフである。神の御心が何であり、何をすれば、神に喜ばれるのかを知っている熟練した神の僕である。

その新しい人格がはっきり姿を表せば表すほど、信仰者の内側から、キリストのまことの命の支配権が発揮され、行使されるようになる。筆者はそう確信している。
 
筆者はまだまだ御霊による支配を十分に知ったとは全く言えないが、少しずつ、御国の前進が、目に見える形で地上に及んでいることを感じつつある。そこで、この先の歩みは、これまでとはかなり違ったものになるだろうと予感する。

さて、そろそろスローテンポにしていたブログ更新をリアルタイムに戻したい。
 
これまで幾度となく述べて来たことの繰り返しになるが、神の国とその義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば、すべては添えて与えられる、という御言葉は本物である。

「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。
あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:30-34)

この御言葉が真実であることは、筆者が生きて来た行程のすべてを振り返っただけでも、十分に分かることである。もしも神の国とその義を第一として生きるということをしなかったならば、筆者は今、ここに存在することさえきっとなかったのに違いない。

そこで、読者にも言いたい、もしもあなたがこの困難なご時世を、最後まで無事にそして勇敢に高貴な人として生き延びたいと願うならば、神の権益に関わる仕事をしなさいと。

真に御国の権益に関わる戦いを始めなさい。そのために持てるすべてを投じなさい。そうすれば、それを実現するために必要なすべてが、天から与えられる。誰にも助けを求める必要はない。このことは間違いのない教訓である。

だが、一体、何をすれば、神の御名に栄光を帰することができるのか? その方法は人それぞれに異なる。重要なのは、人間の利益のために奉仕するのではなく、神の利益のために奉仕することを第一に目指すことである。

私たちクリスチャンは、神の栄光が損なわれ、御名が傷つけられている現場を見たとき、これを素通りするのでなく、御名の栄光の回復のために働くべきである、と筆者は強く主張する。真実が曲げられ、正義が曲げられ、嘘と虐げと搾取がはびこり、何よりも神の花嫁たる教会が告発され、穢され、傷つけられ、蹂躙されているのを見たとき、これを素通りするのではなく、神が贖われた者を告発する者には、小羊の血潮に立って毅然と立ち向かうべきである。

キリストの花嫁なる教会は、キリストにとってご自分と同じほどに価値ある存在である。キリストがその命を捨ててまで愛され、贖われた花嫁である。その教会が蹂躙され、混乱に陥り、主の民が離散し、行き場を失うことを、果たして神が望まれるであろうか?
 
悪魔は立ち向かえば、逃げ去る、そう聖書に書いてある通り、そうして回復される権益は、この世のすべての利益にまさる、御国の権益である。このようにして、御国の権益を地上で拡大して行くことが、神の喜ばれる奉仕なのである。

とはいえ、各自が主の御名の栄光のために奉仕する方法は、様々に異なるので、御国の権益を守り、拡大するための戦いの方法には、決まった型があるわけではない。だが、いずれにしても、その戦いに共通している点は、一人一人が、自分が生き永らえることだけを第一目的として生きるのではなく、真に神の栄光を回復するために、御国の拡大のために、自分の人生を残らず捧げることである。

そうするときに、どんな困難が起きようとも、神があなたの人生に最後まで責任を持って下さり、平安のうちに必要のすべてが備えられる。あなたの望みを実現に至らせて下さるのは神である。明日の苦労といったものは、本当に些末な問題でしかないことが分かるだろう。もちろん、兵士である限り、戦いは激しく、厳しいかも知れないが、それを切り抜けるために必要な知恵も、助けも、慰めも、物資も、すべて天から供給される。

だから、あなたは自分が一人ですべてに立ち向かっているのでは決してないことが徐々に分かって来るだろう。それどころか、私たちを中心として、すべてのものが、やがて私たちの内におられるキリストの権威と支配に服従するようになるのである。

キリストが万物を足の下に統べ治める方であるというのは、絵空事ではなく、私たちキリスト者一人一人の生き様を通して実現する事柄なのである。だから、私たちは、キリストの支配が本当に自分の身の周りで実現するまで、彼がすべてを足の下にするのを見るまで、ずっと十字架を貫き通さなければならない。試練があったからと言って、決してあきらめて退却してはいけない。

天から竜を投げ落とすための秘訣は、小羊の血(贖いによる義認)に固く立って、試練があっても、死に至るまで証の言葉を降ろさないことである。

また、ゼカリヤ書で大祭司ヨシュアを訴えるサタンが罪に定められたように、今日も、神は、クリスチャンを訴える悪魔に対してこそ、有罪を宣告される。

そして、神は私たちの汚れた衣を脱がせ、新しい祭服を着せられ、清い帽子をかぶらせて下さる。ちょうど帰って来た放蕩息子が新しい服を着せられたように。これは私たちの人格の内なる造り変えを象徴する描写である。

そして、この造り変え、聖別は、日々行われる。このように神に守られ、愛され、義とされ、とりなされ、聖別されるために必要なことは、日々、神の戒めを守り、御言葉に従って歩み、祭司としてのつとめを果たすことである。

愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(一ヨハネ4:18-19)

このようにある通り、全き愛は、恐れを取り除く。だが、そのような完全な愛は、神への愛、何よりも、神が私たちを愛して下さる愛の中にしか存在しない。御霊によって、その交わりの中に入れられるとき、私たちの心の中から、恐れは取り払われる。そのように神の愛を知る時、私たちは初めて、どんな試練にも臆せず、自分の残るすべての生涯を、御国の前進のために捧げることができるようになる。それは決して自分自身の決意や力にはよらない。

だが、同時にその愛は、私たち自身の人格を造り変え、私たちを神にあって、他者との関係にも、御心をもたらすことができる人へと変えて行く。ヨセフはエジプトに売られた後、自分の生まれ育った故郷とも、父とも兄弟たちとも関わりがなくなり、長い間、彼らとは二度と会うことさえないと考えていたであろうが、それにも関わらず、神はその当時から、ヨセフを通して、彼の一家に恵みをもたらそうと決意されていたのである。

私たちが本当に神に対して自分を捧げるならば、似たようなことが起きる。私たちの存在は、そのものが「キリストによって神に献げられる良い香り」(Ⅱコリント2:15)となり、私たちの自覚とは関わりのないところで、他者を生かすために用いられるだろう。私たちは自分で何かをしてやったなどとは全く思わないかも知れないが、私たちの存在そのものが、神のご計画の成就のために欠かせない一部となるのである。(しかし、滅びる者にとっては、「死から死に至らせる香り」であり、救われる者にとって「命から命に至らせる香り」である。)

* * *

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
神のメシアの権威が現れた。
我々の兄弟たちを告発する者、
昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
投げ落とされたからである。

兄弟たちは、小羊の血と
自分たちの証しの言葉とで、
彼に打ち勝った。
彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

* * *


「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。  主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。
主の使は、ヨシュアを戒めて言った、「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。」(ゼカリヤ書3:1-6)



彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」

「自分自身を否む」! この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。

これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」

この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。

オースチンスパークス 「御霊による生活」 第四章 御霊に満たされる (5)から


多くの信者たちが、自己を否むことについても、キリストの中に住むことについても、あまりに多くの誤解を抱いている。彼らは、自己を否むとは、自分の生来の利己的でわがままで罪深い性質を拒んで、もっと道徳的で社会に役立つ人間になうと努力することであるなどと勘違いしたり、キリストの中に住むことも、同じように、もっと宗教指導者の教えに従って、敬虔そうで信心深く見える宗教的な生活を送ることだ、などと誤解している。

しかし、自己を否み、キリストの中に住むとは、うわべだけ敬虔そうな生活を送ることや、道徳的な生き方をするといった事柄とは関係がない。これは信者がいかなる命に従って生きるのか、という選択の問題である。

つまり、信者が、再生された後も、生まれながらの堕落したアダムの命に従って生きるのか、それとも、神の贖いによって与えられた内なる永遠の命に従って生きるのか、どちらの命の法則に従って生きるのか、という選択を指すのである。

キリストの復活の命は、神の非受造の命であり、堕落した魂の命とは全く別物であり、この二つの命の性質も、それに働く法則も、全く異なるものである。しかし、人は信仰によって、キリストの復活の命を知るまでの間は、アダムの命しか知らずに生まれ育って生きているため、主を知った後でも、依然として、慣性の法則に従い、それまでのアダムの命に働く法則に従って生きようとする。それは、信者の中で、それが常識となっており、またそうすることが天然の衝動だからである。

しかし、キリストの中に住むことの必要性を知らされた信者は、命の御霊の法則を学び、これに従って生きることを学ばなければならず、その過程で、それまで自分が常識だと考えていたアダムの命の法則に従うことをやめなければならない。

アダムの命に働く法則は、一言で言えば、「限界」である。その限界は、死へとつながる有限性であり、罪の重荷に縛られているがゆえの死の束縛である。

ところで、以前にも説明した通り、多くの人々は、同情という感情をあたかも良いものであるかのようにみなしているが、実は、同情は、人間の腐敗した魂の命の限界と密接な関わりがある。

同情は、人間の限界を抵抗せずに受け入れることと深く関係しており、その感情を受け入れる人間をどんどん弱くさせてしまう効果がある。

筆者はそのことを以前、ハンセン病者に対する絶対隔離政策の忌まわしさになぞらえて論じたことがある。

我が国でハンセン病者に対する絶対隔離政策という非人道的な政策が続いていた間、皇族などの人々がしきりにハンセン病者を哀れみ、慈愛の歌を詠んだり、あるいは、キリスト教の伝道者などが療養所を慰問し、病者を励ましたりもして来た。

しかし、これらの人々の慰問は、本当に元患者らの自由や解放に役に立ったと言えるのかと問えば、本質的にはNOであった。むしろ、彼らを自由にするのとは正反対の側面を強く持っていたと言えよう。

なぜなら、すでに病気も治療されて、患者でもなくなっていた元ハンセン病者らには、療養所に束縛される理由など何一つなく、彼らに必要だったのは、一刻も早く、隔離政策が廃止されて、自由の身とされ、療養所の外に出て行き、働いたり、結婚したり、事業を営んだりしながら、ごく普通の社会生活に復帰することだったからである。

絶対隔離政策さえ廃止されていれば、彼らには、初めから人の慰めや同情を受ける必要もなく、慰問なども全く必要なく、自分らしい生活を送ることができたのである。

ところが、絶対隔離政策は、かつて一度、ハンセン病に罹患したことがあるというだけの理由で、もはや療養所に隔離されなければならない理由が何一つなくなった人たちを、療養所にずっと束縛し続けていた。

そのような差別を前提に、差別された集団に対する同情や慈悲といったものが説かれ、それを利用する人々が現れたのである。

そうした人々の同情や慈悲は、本来は療養所に閉じ込められなければならない必要など全くないはずの人々に向かって、あたかも彼らが一生、閉じ込められて暮らすことが「運命」であるかのように説き、彼らが自由になることを早くあきらめて、隔離政策に抵抗せず、すすんで甘んじながら、療養所の中で幸せを見つけて暮らすよう、抵抗をあきらめさせる効果を持っていた。

つまり、人々が本来、全く受け入れる必要のない「限界」や「制限」に甘んじて、自由を自ら捨てるように促す効果を持っていたのである。
 
このようなものが、真の意味での同情や慈悲の名に値する活動ではないことは明白であろう。

むしろ、同情や、慈悲といった、一見、美しく優しく見える感情は、そこで人々に本当の自由、本当の人権を忘れさせて、彼らをディスカウントされた立場に甘んじさせ、なおかつ、隔離政策を支持する人々が、心ひそかに、彼らをいわれなく見下して犠牲者としながら、うわべだけ慰めや励ましを装って、彼らの存在を利用して、自分が社会的に有益で正当な活動をしているかのようにアピールするために利用されたのである。
 
しかしながら、以上のような例は、何もハンセン病者への絶対隔離政策だけに当てはまるものではない。

罪の束縛に応じるすべての人々は、今日も続いている目に見えない「絶対隔離政策」にすすんで同意し、自らそこに閉じ込められて生活しているのである。

クリスチャンはキリストの贖いによって罪を赦され、自由とされた民であるから、本来は、誰からも同情される理由がないにも関わらず、その事実を知らないまま、自分を哀れに思い、人の支援や同情にすがり続けながら暮らしている人々は多い。

今日、自分をクリスチャンだと考えている多くの人々が、罪のゆえに、日曜ごとに教会という名の囲いの中に参拝し、牧師たちからお祓いを受け、慈悲の歌を詠まれ、慰問を受けている。

牧師たちは、こうした信者たちが、日常的に様々な問題に苦しんでいることを知っており、彼らが助けを求めていることも十分に知りつつも、人間に過ぎない自分には、彼らが求めている100%の助けを決して与えられないので、常にそれ未満の、決して彼らが自由になれない程度のほんのごくわずかな慰めや励ましだけを与えておいて、彼らがいつまでも助けを求めて教会にやって来ざるを得ない状況を作り出している。

牧師だけではなく、信者同士も、教会を保険組合か、互助組織のように考えて、集まるごとに、自分たちの家庭生活の問題、健康の問題、将来の不安、経済問題などのありとあらゆる不安を持ち寄っては、それをテーブルに出して祈り合う。

だが、その祈りは、神が大胆に御業をなして下さることへの確信や感謝の祈りではなく、いつまでもなくならない彼ら自身の不安を言い表したものでしかない。

こうして今日の教会は、あらゆる弱さを抱えた人々が集まる病院のようになり、人々は自分の弱さを教会に持ち寄っては、それを互いにカミングアウトして、自分と同じように弱さから抜け出せない人々と共に肩を寄せ合い、同情し、慰め合う場所となってしまっている。

しかし、そのような慰めに満足を覚えれば覚えるほど、人はますます自己の弱さから自由になる気力を削がれて行くだけなのである。

人間の持つ同情や慈悲といった感情は、それを受ける側の人間を悪質にディスカウントし、彼らから、自由、完全性、独立心や、気概といったものを奪い取り、その人々があたかも不治の病に罹患し、差別され、隔離されている可哀想な民であるかのような立場にまで転落させてしまう。

本当は、キリストにおいてすでに罪赦されて、あらゆる問題に対する解決を与えられているはずの人々を、同情は、弱さや恥の意識でいっぱいにして、彼らが常に助けを求めて方々を走り回らなければならないかのように思わせるのである。

カルト被害者救済活動などは、そうした互助組合のようになってしまった今日の地上組織としての教会の悪しき側面が、最大限に発揮されて生まれて来た運動であると言える。

この運動は、かりそめの互助組合のようになった教会からも見離され、こぼれ落ちた人々を親切にすくいあげるように見せかけながら、彼らに向かって「あなた方は教会から不当に見放された可哀想な被害者なのだ」という思いを吹き込む。

そうして、被害者意識をふき込まれた人々が、自分たちを見捨てた教会への憤りに燃えて、この互助組合に再び自分を受け入れさせようと、いつまでもその組合にすがり続けるよう仕向けるのである。

だが、本当のことを言えば、彼らに必要なのは、自由であって、罪のゆえの互助組合ではない。牧師制度のもとに自由はなく、既存の教団教派の中にエクレシアはないため、教会から打ち捨てられた人々は、むしろ、それを幸運と考えて、いち早く、真理を探究して、聖書に立脚した真実な信仰の道を行けば良いだけであって、互助組合にいる人々から哀れまれたり、同情されたり、誰かからそこから排除されたことで、可哀想に思われたりする必要もなく、その互助組織に属さないことを不遇だと嘆く理由自体が全くないのである。

絶対隔離政策が推進されていた時代、ハンセン病の元患者らの中のある人々は、勇敢に療養所で自由を勝ち取るための戦いを続け、脱走を試みたり、不当な裁判に抵抗したり、様々な活動を行った。

しかし、今日、キリスト教界という療養所では、悪魔が制定した罪による絶対隔離政策がすでに廃止され、人々は罪という不治の病からすでに解放されて、自由になったという事実さえ、いつまでも認めようとせず、自らすすんで隔離政策に同意するばかりか、果ては療養所から追い出されたことが気に入らないと、療養所に再び自分を受け入れさせようとすがり続け、自分に自由を宣告した療養所を非難し続ける人々がいる。

そうした人々は、あちらの療養所はもう少し待遇が良かったとか、こちらの療養所は質が悪いとか、ここでは慰問団のパフォーマンスが良かったとか、こちらでは不十分だとか、それぞれの療養所を比べ合っては、終わりなき批評を行い、中には自分たちを見捨てた療養所へのバッシングで溜飲を下げる者たちもいる。

こうした有様は、まるで釈放された元囚人が、自分には未だ刑務所に収容される権利があるとみなし、刑務所が自分を見捨てたのは不当だと叫び、再び受刑者に戻るために、どの刑務所が一番待遇が良いかなどと、まるでカタログでも見るように刑務所の待遇を比べて論じ合っているようなもので、そんなにまでも自由であることの意味を見失ってしまうと、たとえ釈放されても、一生、心は囚人のまま暮らすことになるのだろうとしか言えない。

この人々の盲点は、自由は、組織としての教会の中にあるのではなく、自分自身の信仰の只中にあるという事実を見失っている点である。隔離病棟や、療養所の中に自由を求め、そこで受け身に暮らしながら、満足できる待遇を要求すること自体がナンセンスだということに全く気づいていないのである。

真に満足できる暮らしを手に入れるためには、まずは療養所を出て行かなければならない。そこにいる人々と弱さを分かち合って連帯して同情し合い、慰め合うことで、いつまでも自分の弱さを握りしめることをやめ、やんごとなき人々のほんのわずかな注目や、慰問団のパフォーマンスに慰めを見いだそうとすることをもやめて、自分はもはや病人ではないから、誰の世話は要らないということを自覚し、キリストの命が、自分のすべての弱さに対する十分な強さとなってくれることを信じて、たとえ慣れていなくとも、一歩一歩、新しい生活へ向かって、自分の足で歩き、自分自身ですべての物事を判断しながら、ごく普通の自立した生活を打ち立てて行くしかない。

ところが、今日、クリスチャンと言われている人々には、驚くほど、この判断力、自立の力が弱い。多くの信者たちが、集会から集会へと渡り歩き、自分の弱さに溺れるばかりの、あるいはそれに対する何の解決にもならない無意味な祈りに没頭し、各教会を批評家然と品定めして、指導者の力量を品定めすることはできても、自分自身で物事を判断し、道を定め、自由へ向かって歩いて行く力がほとんどないのである。

この人々はまるで車いすに座ったまま、自由に歩ける人々のパフォーマンスが不十分だと非難している観客のようなもので、地上組織としての教会の足りないところを数えて後ろ指を指し、もっと自分に祝福を与えよと人に向かって要求することは巧みでも、自由になるためには、そもそも自分自身が自力で立ち上がって、組織によらず、他人の助けにすがらず、自分自身の信仰によって歩みを進めねばならないことが分からないのである。

こうした人々は、たとえるならば、「金銀はないが、私にあるものをあげよう。イエスの御名によって立って歩きなさい」と命じられ、健康な二本の足で立って歩く自由が与えられているのに、いつまでも車椅子にしがみつく人々のようであり、あるいは、一つのおしゃぶりを与えられても、それが気に入らないからと言って泣きわめき、うるさく泣いていれば、いつか母親が近寄って来て、別のおしゃぶりを与えてくれると期待している赤ん坊のようなものである。
 
自由になるためには、まずその哺乳器を離れなければならないのである。車いすを捨てて立ち上がり、療養所から出て行かなければならないのである。

そういうわけで、アダムの命の有限性と訣別して、キリストのよみがえりの命によって生きるための秘訣の第一歩は、「自分にはあらゆるものが足りない」という意識と訣別することである。

確かに、周囲を見渡せば、不満のきっかけとなりそうな材料は、無限に見つかることであろう。社会で毎日のように起きる陰惨な事件、無責任な為政者、腐敗した宗教指導者、冷たい友人、味気ない家庭生活、自分自身の限界・・・失意を呼び起こす原因となるものは無限に列挙できよう。

しかし、そうした地上のものは、もともとあなたを満たす本質的な力を持たないアイテムでしかなかったことに、まずは気づかなければならない。

そこにはもともとあなたを生かすまことの命はなかったのであり、あなたの真実な故郷も存在しないのだから、そういうものに期待を託し、すがり続けている限り、失望しか得るものがないのは当然なのである。

自由になるためには、あなたを生かす力のないこれらの人工的な栄養補給のチューブを引き抜いて、自らの内に神が与えて下さった新たな命だけを動力源として生きる決意を固めねばならないのである。

その時、あなたがその命に従って生きることにどんなに不慣れであっても、その命は、あなたにすべてのことを教え、導き、すべての不足を補って余りある超越的で圧倒的な支配力を持っていることを信じねばならないのである。

それでも、その新たな歩みは、あなたにとって不慣れであるがゆえに、欠乏の感覚は度々襲って来るであろう。肉体の限界、心を圧迫する様々な出来事、行く先をよく知らない不安、波乱に満ちた絶望的な事件などが、あなたを絶えず圧迫し、常にあなたの人間的な限界を突きつけ、こんな無謀な冒険はやめて、元来た道を戻った方が安全だとささやくであろうが、あなたはそこで、自分にはその行程に耐えるだけの力がないとささやく同情の声に負けて、信仰による歩みをやめて、元来た道を戻ってはならない。あなたは毅然とアダムの命の有限性を受け入れることを拒み、十字架の死を打ち破ってよみがえられたキリストが、あなたの人間的なあらゆる弱さに対して、常に十分に解決となって下さるがゆえに、目的地までたどり着く力があることを信じて歩み続けねばならないのである。

復活の命が、周囲の限界にも、あなた自身の限界にも、それを補って余りある力となり、解決となることを、まずは信じて、一歩、一歩、歩みを進めねばならない。

その信仰がなければ、人には慣れ親しんだ療養所の環境を出て行く決意などつかないであろう。なぜなら、人々はあまりにもそこの暮らしに慣れ過ぎているためだ。人々はその生活に満足しておらず、そこに自由も完全性もないことも知っているが、それにも関わらず、あなたは自由になったので、そこを出て行って良いと告げられても、隔離された生活以外のものを全く知らず、未知の世界に自己の責任と判断で新たな一歩を踏み出すこと怖さに、その不自由の囲いの外に出て行こうと願わないのである。

ごく少数の人々だけが、何が何でも束縛された不自由な生活には耐えられないと思い、経験のあるなしに関わらず、人としての自由や完全を求めて、どんな小さなチャンスでも逃さず、療養所を出て行こうと決意している。彼らは人としての完全な自由と尊厳を取り戻すまで、どんな困難にでも耐え抜くことで、誰かが押しつけて来た不当でいわれのない被差別民のレッテルなどは完全に返上しようと固く決意している。
 
あなたがどれほど自由を求めているか、どれほど人としての完全を求めて、それを約束してくれている神の御言葉を信じて、自分の限界を信じずに、これまで見て来たすべてのものの限界を信じずに、見えるものによらず、神の栄光を完全に表す一人の新しいキリストに属する人として、新たな道を信仰によって勇敢に大胆に進んで行くことができるか、その決断と選択にすべてがかかっているのである。

ダビデが、神が敵前で自分の頭に油を注ぎ、食卓を整えて下さると信じることができたのは、彼が目に見える事実をよりどころにしておらず、目に見えるすべてのものの限界をはるかに超えて、それを打ち破る神の御言葉によるはかりしれない恵みの約束を固く心に信じていたからである。

信仰の先人たちが、行く先を知らないで出て行くことができたのも、彼らが自らの知識や経験によらず、彼らの内に働くまことの命の法則に従って、天の完全な故郷に向かって歩んだからである。彼らは目に見えるものの有様を見て、それが自分にふさわしい世界だと考えず、その限界を信じず、自分にはそれよりもはるかにまさった天の自由な故郷が約束されていることを信じ続けて、これを目指して前進したがゆえに、神は彼らの信仰を喜ばれたのである。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブル11:1-3)

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。

もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが、実際には、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13-16)

もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために取り成してくださるのです。

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができるましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

「わたしたちは、あなたのために、
 一日中死にさらされ、
 屠られる羊のように見られている」

と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にあるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:31-19)

とても気持ちの良い穏やかな日が続いている。書類の作成の真っただ中であるが、冒頭では少し違った話題を提供しておきたい。

筆者がヴァイオリンを再開してから約1年が経とうとしているが、今取り組んでいる曲の中には、バッハの『シャコンヌ』もある。

ブゾーニがこの曲をピアノ用に編曲していることを知ったのは比較的最近だ。両方をやってみると、改めてバッハのこの曲の奥深さ、ブゾーニの編曲の見事さが分かる。ピアノとヴァイオリンの両方の楽器の特性を活かして、それぞれの長所を曲に取り入れることもできる。

むろん、シャコンヌはもとは舞曲の様式であるから、葬儀とは何の関係もない。だが、筆者が昨年、ブゾーニの編曲版を練習し始めたのは、親族が亡くなる直前にあることを知らされたことがきっかけだった。
 
親族を見送るために演奏しようと考えていたのである。しかし、その親族の家にはピアノがなく、筆者は葬儀には立ち会うこともなかったので、幸いなことに、この美しくダイナミックな曲を葬儀で演奏することはせずに済んだ。

それでも、不思議なことに、その人が亡くなったのは、ちょうど筆者がこの曲に取り組み、曲がそれなりに出来上がった時のことであった。「そろそろ、完成したな」とつぶやいたその次の日に、その人は亡くなったという知らせが来たのであった。

バッハは敬虔なキリスト教信者であったが、筆者はこの曲の中に、それほど信仰的な要素を感じない。これはバッハの信仰を否定しているわけではなく、バッハの曲が、非常に人間的に感じられるということを言いたいのである。

信仰の歩みは、ある意味で、とても軽快な部分がある。人間の魂のあの切ないまでのもつれ、悲しみ、叫びといったものは、信仰生活にはそれほど関わって来ない。キリストの復活の命を知ると、特にそうだが、以前には抜け出られなかったそうした魂の重荷ともつれから、かなり解放される部分がある。

キリストにあっての信仰の歩みは、重い足取りではなく、相当に軽快な足取りなのである(筆者の記述からはあまりそれが感じられないと言われそうだが…)。
 
しかし、バッハの曲には、永遠にたどり着こうと願いながらも、自力ではそれができない、生まれながらの人間の限界、魂のもがき、紆余曲折、脆さ、儚さなど、人間のあるがままの弱さと、魂の遍歴、呻きが非常によく表れているように感じられる。

この曲を聴くと、生まれながらの人間の有限性を痛切に感じさせられ、人間とは一体、何なのだろうかという厳粛な思いにさせられる。聖書の中で呈される「人とは何者なのでしょう」という疑問は、神の人間に対する深い愛に基づくものであるため、感謝と喜びに満ちているのだが、バッハの曲から感じられる疑問は、まだ永遠にたどり着く前の人間の切ない叫びのように感じられてならない。

さて、ピアノがない代わりに、親族の家にはヴァイオリンを持って行ったが、その時、筆者の手元にあったのは、安物の楽器商から買った音の良くないヴァイオリンだけで、顎当てもなく、覚えている曲も、子供時代に弾いた一曲くらいであった。

当然ながら、演奏と呼べるような曲は弾けず、親族からのコメントもなかったが、その人と筆者とは全く異なる価値観に生きており、その人はクラシック音楽にも一切、関心がなく、最後まで「音楽など聴く高級な耳は私にはない」などと皮肉を言っていたほどなので、うまく演奏ができていたとしても、やはりコメントはなかっただろうと思う。

筆者がその人をバッハの曲で送ってあげたいと考えたのは、どちらかと言えば、筆者の自己満足であり、その人はバッハの音楽を理解する耳を持っていなかったので、そんなことを全く必要としていなかったのである。

だが、そういういきさつもあって、筆者は、この人と生きているうちに喜びを共有するためだけに会い、この曲を葬儀で演奏しなかったことは、まことに幸いだったと考えている。そして、この曲を弾いているうちに、いかにこの曲が荘厳で、有限なる人間の切ない魂の叫びを感じさせると言っても、それでもやはり、生きることの喜びを感じずにいられないのである。

音楽を演奏するのは、人を死出の旅路に送り出すためではなく、生きていることの喜びを共有するためである。
 
さて、それにしても、初心者が『シャコンヌ』をヴァイオリンで弾くというのは、どう考えても、背伸びのしすぎという考えもあるだろうし、実際、その通りだと言えよう。もし十分に時間があるならば、この曲にたどり着くまでの間に、あまたの曲に取り組み、そのような無謀な挑戦は避けるべきだと思う。

それでも、筆者はもともとこの楽器を思うように弾けるようになるまで、何年越しかのチャレンジだと覚悟を決めていたので、時間がかかることは最初から承知で、焦りもなく、気楽なものであった。

筆者は、ヴァイオリンについては、まずは楽器に友達になってもらうことが大切と考え、決して強引で無理な接近はしないことに決めている。一日に長時間弾くこともせず、難解な箇所を延々と繰り返すようなうんざりする練習の仕方を決してしない。弾けても弾けなくとも、無理をせず、曲が難しく、嫌になりそうになれば、2、3日、「寝かせておく」。

すると、しばらく経って、再び取り上げてみると、思いのほか、前には弾けなかったところが、弾けるようになり、出せなかった音が出て、不思議と上達しているのだ。一体、眠っている間に、なぜ上達があるのか、本当に不思議としか言いようがない。

ヴァイオリンは音作りのためだけに相当な時間がかかる。曲を覚えるのに時間は要らず、運指やポジションを覚えるのも全く大変ではない。とはいえ、重音の連続を美しく聞こえるように弾けるようになるまでには、大変な月日がかかる。低い弦の高音域は、押さえても音にならない。一曲を弾き通すだけでも、最初はエベレスト登頂のようにはるかに遠く感じられた。

それでも、取り組むこと3~4ヶ月くらいの頃だろうか、ある時、動画を見ていると、演奏者がまるで自分に乗り移ったように、力加減、バランスのとり方などについて、ふっと疑問が氷解したのであった。ああ、これで峠を越えたな、あとは時間をかけてゆっくり細部を完成させて行くだけだ…と分かったのである。この曲をある程度、満足するよう弾けるようになるまで、3年も5年もの月日はかからないであろうと分かった。

さて、この記事と話題が異なるが、今準備している書類について、少しだけ書いておこう。損害賠償請求訴訟は、原告の住所地(の管轄裁判所)で提起できる。被告が移送を申し立てても、よほどの理由がない限り、認められないことは、IWJの岩上氏が橋下氏から受けたスラップ訴訟の件でも証明されている。

裁判の管轄を決めるのはあくまで裁判官であって、管轄を争った場合の結果をある程度、予想することは可能でも、事前に断定することは不可能である。特に、岩上氏はジャーナリストで全国各地を飛び回っていることから、移送の申立てが認められなかったと見られる。それでは、被害者のために全国各地を飛び回っている牧師はどうだろう? 少し予想すれば、軽はずみに断定的な発言を記すことは控えようと思うはずである。

また、ブログの記述が名誉毀損に該当しないことを証明するためには、その記述内容が真実であることを裏づけるために被告の論証が必要になるのは言うまでもないが、これは被告にとって大変に骨の折れる作業になるというか、ほとんど不可能であると言って良い。もともと真実でない記述を真実だと論証するなど、誰にとっても無理な相談だ。

また、他人のブログの題名や文章を大量に剽窃して記事やコメントに含めたり、他人のブログに不必要なリンクを大量に貼るような記事を数多く投稿したりすることは、むろん、逆SEOの手法に含まれる。

工作員や親衛隊という言葉も、学生運動の専売特許ではない。コメント投稿者と共同して不正に検索順位を操作した記録があまた残っているのだから、工作員との共同作業と言われるのは仕方がないだろう。

もちろん、裁判手続きを取ったり、警察を利用することは、市民としての正当な権利を行使することであって、「公務員に助けを求める」ことを意味しない。裁判所の書記官はただ事務手続きを行うだけであり、警察は捜査を行うだけで、物事に白黒つけて決着を下すのは彼らではない。これらの人々は市民の救済者ではない。公務員は国民の公僕であるから、行政の職員はサービスを提供し、司法の職員は司法手続きを前に進めるだけである。

筆者がブログで述べているのは、憲法の言う公務員とは、選挙で選ばれた政治家を指すのであって、国家公務員制度や公務員試験の由来は、戦前の明治憲法時代の官吏にあるということだ。つまり、現在の公務員と呼ばれている人々は、旧時代の遺物なのである。

だが、こうした主張も、筆者の専売特許ではないし、何ら筆者が公務員を「罵倒」していることにも当たらない。ましてそれは筆者が市民として裁判を利用したり、警察を利用したりすることを不当であるかのように非難し、押しとどめる根拠とはならない。

こうしたごくわずかな事項を取り上げただけでも、向こうの記述がいかにデタラメで、およそ司法手続きを理解しない人間の言い分であり、勝ち目が薄いかは誰にでもすぐに分かるだろう。反論する価値もないので、これ以上詳しく書く必要もないものと思う。しかも、大半の記事は内容の是非を問う以前に単なる著作権法違反として削除の対象となる。

このような事態だからこそ、ずっと以前から、筆者はラスコーリニコフに学ぶよう伝えているのだ。

筆者は大地にひざまずき、神に感謝を捧げる。だが、それはラスコーリニコフのように罪の赦しを乞うためでなく、罪赦されて、義とされ、復活の命が与えられ、勝利していることを神に感謝するためだ。

クリスチャンは、自分が神に選ばれた者であることを大胆に宣言できなくて一体、どうするのだろうか。万民祭司の今の時代、クリスチャンは一人一人がみな神の預言者であり、祭司なのではないと否定するつもりなのだろうか。一体、そうした揺るぎない聖書的事実を自ら否定してどうするつもりなのだろうか。それは自分がクリスチャンではなく、神に選ばれておらず、神の祭司でも預言者でもなく、「神に疎外されし者」であることを、まさに自分自身の口から告白しているのと同じではないのか? そのようなことは考えるだに恐ろしい告白である。
 
筆者は、冒頭に挙げた御言葉は、まさに筆者のためにあることを信じて疑わない。筆者だけでなく、むろん、すべてのクリスチャンに同じように当てはまる。悪魔はディアボロスすなわち中傷者であり、訴える者である。しかし、キリストにあって、私たちにはすべての訴え、すべての罪定めからの救いと勝利が与えられているのだから、絶大な血潮の価値を確信して、大胆に前進して行くべきなのである。

この土地に、キリストの主権が打ち立てられることを確信して、高い山に登頂した人がするように、筆者は目に見えない勝利の旗を立てる。そして心で言う、主よ、感謝します。あなたの御言葉は正しく、あなたの知恵は十分で、あなたの栄光は揺るぎません。

私たちは永遠に至るまで、キリストの復活の証人であり、自らの証しを公然と高所に掲げるのです。私たちは世の光であって、山の下にある町は、この光から隠れることはできません。

白毫が世界を照らすのではない。私たちの持っているこの小さな光こそ、神の御言葉の真実を証するものとして世を照らすのです、私たちはこの光を隠しません・・・。


<参考までに…>


アルトゥール・ルービンシュテイン


ヤッシャ・ハイフェッツ


ナタン・ミルスタイン


イツァーク・パールマン


アンドレス・セゴビア





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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