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「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」 (エフェソ5:15-17)

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(Ⅱテモテ4:2)

「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマ12:18)

我が国には「帯に短し襷に長し」などという言い回しがあるが、キリスト者の人生は、これとは正反対であって、すべてに「ちょうど良し」というものであるか、もっと言えば、「必要を満たして余りがある」というものである。

時間についても、同様のことが言える。キリスト者は、神の御心をとらえようと、目を覚まして歩んでさえいるならば、不注意でタイミングを逸したと思うような時でさえ、まるで時間軸を逆走するようにして、失った時間を追うことができる。

このようなことを言えば、「あなたは気でも違ったのですか、何をおっしゃられているのか全く分かりません」という答えが返って来そうだが、これは本当のことなのである。

これをたとえるならば、あなたが予め時刻表を調べて、ある電車に乗車するはずだったところ、駅に到着が遅れて電車に乗り遅れたとしよう。その電車を乗り過ごすと、時間通りに目的地に着けなくなり、あなたの予定は台無しになる。そう思ってあなたが悔やんでいると、どういうわけか、乗り過ごした電車よりも、もっと早く目的地に着く電車が、少しばかり予定時刻に遅れて駅に到着した。あなたは運よくそれに乗車でき、結果的に、遅れを完全に取り戻したどころか、予定時刻よりもはるか前に目的地に着いてしまった、といった具合である。

主にあって、贖われている者は、何事についても、足りないとか、間に合わないということがなく、決して手遅れだと悔やむ必要がない。むしろ、決して手遅れだと自分で認めてはいけないのであって、遅れているように見える時でも、御心を掴むために走り続けていると、多くの場合、遅れたと思ったその時間さえ、取り返すことができる。

そもそもアダムとエバがエデンの園で神に従うことに失敗してから、人類史においては、気の遠くなるような途方もない回り道と遅れだけが続いている。初代教会においては目覚ましい信仰が見られたかも知れないが、今はどうだろう。現代教会史もまた遅れそのものに見える。

この無意味な回り道、終わりのない堂々巡り、延々と続く遅刻状態から、どうやって輝かしい目的の達成などが生まれて来ようか、と人は思うだろう。ところが、神は人類の堕落や、信仰の先人たちや、教会史に溢れるおびただしい失敗といった回り道のことなど、全く意に介しておられない。

今日という極めて悪い時代にも、堂々巡りと回り道と失敗の連続にしか見えない歴史の只中から、神はいつでも熱心に御心を求める者たちのために、完全な御業をなして下さることがおできになるのであって、それは今日の私たちにもまさに当てはまることを、私たちは心に留め、かつ信じる必要がある。

私たちは、どんなに機会を逸したと感じるような時でも、決して後悔することなく、御心を熱心に追い求めることをやめるべきではない。どんな時にも、何が正しいことであって、神が喜ばれることであり、何が機会を有効活用することに当たるのか、考え続け、実行し続ける必要がある。そうする時に、まるで時を遡るようにして、見失ったと思ったものにも、追いつくことができるのだ。

あるいは、これは自分の力量が、果たさねばならない仕事に追いつかないと思われるときにも、同じように当てはまる。

たとえば、比較的最近、筆者は何週間にも渡り、山のような文書作成という仕事と取っ組み合った挙句、あまりにも疲れ切って、ついに自分が何を書いているのかさえ分からないほどの状態になった。自分の書いた文書を読み返すことはおろか、文字さえも見たくないという状態に陥ったのである。

筆者にとって、文章を書くことは、呼吸をするのと同じほど自然な作業で、何ら苦痛ではない。ところが、そんな筆者も、さすがに連日連夜、ぶっ通しで大量の文書作成を行った後では、消化不良状態に陥ったのであった。

それが一つだけのテーマに関わる論文などであったなら、まだ興味も力も尽きなかったかも知れないが、いくつもの仕事を同時に抱え、次々と取り組んでいるうちに、ついに文章を見るのも考えるのも嫌になったのである。もはや自分が何を書いているのか、自信もないが、推敲など考えたくもない、どんなにひどい誤字脱字が発見されようとも、知ったことではない、意味内容に錯綜が見られ、議論が紛糾したとしても、どうでもいい、というほどの心境に至ったのである。
 
しかし、何とかして最低限度のハードルだけはクリアするよう仕上げて手離したと思った直後、またもや頭痛をきたらせるような複雑な案件を、メールだけで解決しなければならなくなった。

その案件もまた、意味が伝わりさえすれば良いと気楽に構えていられるような内容ではなく、交渉事を有利に進めなければならない真剣勝負であった。格闘技にたとえれば、にらみ合っている対戦相手に、最初のわざをしかける瞬間だろうか。威勢のいい啖呵を切って、率先してイニシアティブを取り、相手を威嚇し、後退させねばならないような場面なのに、にらみを利かせるどころか、意味さえ通じるかどうか不明な文章を書き送るのが精一杯だったのである。

筆者としてはそのメールの内容は無念の出来栄えであり、まるで千鳥足で歩くような隙だらけと言ってよい主張だったにも関わらず、その案件は、こじれることもなく、誤解を生むこともなく、まさに筆者が願った通りの効果を生んで、決着が着いたのであった。これはとても不思議なことであった。

おそらく、消化不良状態で作成した文書にも、これと同じことが当てはまるはずだと考えられる。売り物の文学作品でない以上、もともと完璧が要求されているわけではないのだが、そのことをさて置いても、文書の価値は、文字だけにあるのではなく、内面に込められた力にあり、その力のもたらす効果は、文字を超えるのだと言えよう。

だから、その文書には、内面的な力の裏づけがある以上、たとえ未完成であったとしても、この先、十分な効果をもたらすはずだと筆者は確信している。(むろん、ここで言う内面的な力とは、人間の生まれながらの文才や、文章が呼び起こす情感や、あるいは法的根拠のことではなく、地上のすべての法体系を超えた、信仰による御言葉の正しい霊的秩序の裏づけのことである。)
  
私たちが、聖書の御言葉をすべての物事に対して徹底して貫き通す時、対立や紛争が広がる前に打ち砕かれて、早期に平和が到来するということもしばしば起きる。なぜなら、私たちは、信仰によって、暗闇の勢力がしかける罠を、彼らが実際に行動に移すよりも前に見抜くことができ、事前にこれを無効化できるからである。この問題についてはいつか別に書き記すことにしたい。
    
さらに、別な事例もある。以前の記事にも書いた通り、本年が始まってすぐ、筆者は危うく寝たきりになるかという危険にも遭遇したが、筆者が寝込みそうになっていた時、かねてより取引のあった人から、ある買い物をした。すると、今までにはなかなか望んでも手に入らなかった商品が、破格の値段で、山積みとなって提案されただけでなく、通常であれば、東京方面まで出向いて受け渡しをせねばならないところ、売主がとても熱心に購買を勧め、筆者の住んでいる近くまで受け渡しに来てくれたのである。時間も体力もない時であったから筆者は大助かりであったが、そんなことはこれまで一度も起きたことがなかった。

これらはみなすべて、キリスト者には「万策尽きた」という状態が来ない、ということを証明する事例である。キリスト者には、常に必要のすべてが信仰によって、恵みによって与えられ、「足りない」とか「及ばない」ということが決してない。だから、自分の今持っているものを見て、それがとても少ないからと言って、願いをあきらめてはならない。もしその願いが、御心に反しない、正しいものであるならば、それを達成する手段を、神は必ず与えて下さる。筆者の力が尽きても、それで事が終わりとならず、筆者が身動きの取れない時には、筆者の代わりに、他の人が動いてまで事が達成されるのである。

だが、このことは、決して、私たちが他人の目から見て、偉大な人間になることを意味しない。私たちの持っている「かめの粉」も「びんの油」も、決して溢れるほどにはならず、人の目から見て、我々の持っている知性や富や力は、ごくごく限られた貧弱なものに過ぎないかも知れない。

それにも関わらず、この貧弱な土の器を元手として、それを信仰によって何倍にも増強して、勝利をおさめることが実際に可能なのであり、私たちはそのように収穫を来たらせるような達成を続けて歩むべきなのである。

冒頭に挙げた、時をよく用いなさい、という御言葉は、以上に説明した通り、私たちが自分たちの生まれながらの微小な力を、御心を実現するために、信仰によって行使するとき、それが何倍にも増し加えられ、思いもかけない収穫を生むこと、そこで私たちは、たゆみなくそのような収穫を目指して進み続けなければいけないという意味を持つ。

多くの信者は、ただ何もしないで祈り、ぼんやりと空を見上げて待っていれば、千倍、百倍の祝福が空から降って来るなどと考えているようであるが、そのようなことは決して起きないと言えよう。

もしも心から祝福を得たいと願うならば、祝福を願うだけでなく、それを勝ち取らなければならない。それは目的地にたどり着きたいなら、たどり着きたいと願うだけでなく、実際に目的地に向かわなければならないのと同じである。

私たちは、永遠に至る収穫を得たいと願うならば、まず自分が持っているなけなしのものを、神のために捧げ、次に、御心を実現するために、具体的な行動に出なければならない。収穫はそれに続いてやって来る。肝心なことは、主にあって、真に正しい目的のために、御心を満足させると確信する目的のために、自分のなけなしのものを捧げることである。

そうすれば、自分の力がいかに限られたものであろうと、その限界に制約されることなく、いかなる行き詰まりにも達することなく、「勝ち得て余りがある」と言える人生を送ることができる。

だから、人の目に「足りない」とか「及ばない」ように見える有様に、決して心を留めてはいけない。決して、自分自身の限界に目を留めて、正しい願いを実行に移す前に諦めるべきではない。私たちが自分から諦めて退却することさえなければ、神は私たちが持っている取るに足りない力を使って、十分にご自分の栄光を表す大胆な御業をなして下さる。その結果、私たちは神を信じることが、決して失望に終わらないという御言葉の正しさを知り、主と共に喜びに溢れるだろう。そうして、この地上においても、永遠の領域においても、巨大な収穫を得るチャンスを逸さないで生きることは実際に可能なのである。

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「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」

「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(Ⅱコリント12:5,9)

新年から取り組んでいた課題は無事に果たされ、提出が終わった。今また新たな書面作りの作業に取り組んでいる。ブログを書いている時間がないのはそのせいであるが、この上なく充実した時間である。この書面作りこそ、筆者の真の仕事だという気がしてならない。

しかし、これまでを振り返ってみると、毎年2月は筆者にとって一年の中でも最も困難で憂鬱な時期であった。越冬のための力が、1月後半頃からじわじわと尽きて来て、2月に入る頃には、もうすすっかり活動エネルギーがなくなってしまっている。

そこで、2月から3月の頭に差しかかる頃が、一年の中で最も困難な時期となる。この頃になると、身も心も冬眠状態に入り、毎年、3月にたどり着く頃には、まるで発芽を待っている種のごとく、春を待つのがやっとという状態になる。

だが、今年は冬に重要な仕事が山積しており、ここからが正念場である。寒さになどやられているわけには行かない。

そういうわけで、今年は2月を元気に無事に乗り越えることを、昨年末からの課題にしていた。が、あいにく、精神論だけでは乗り越えられない。1月末になる頃には、早くも大きな壁にぶつかった。寒さの中で、分厚い書類を作り続けていたために、体にしわよせが来て、ここ何年間も発症してなかった持病が現れて来たのである。

とはいえ、持病と言っても、筆者には特に病気があるわけでもなく、ただ寒さが身に堪えると、体に負担がかかるだけだ。だが、これが本格的に発症すると、二週間ほどは寝たきりになりかねず、そんなわけには絶対に行かない。

ここはもう物理法則を打ち破る復活の命の力による上からのエネルギーによって強められるしかないと、筆者は祈った。筆者自身の人間的な限界では、とてもではないが、これほど大きな課題を、このような困難な時期に果たすことはできない。

そこで筆者は、もう何年間も、経験していないような上からの力を、主に乞うたのである。はっきりと声に出して主に助けを求めた。

キリストの復活の命の中を生きるとき、人は自分の生来の命の力ではとても成し遂げられないような大作業を軽々とこなすことが出来るようになる。山のように恐ろしい課題が目の前に山積しているときでも、未だかつて取り組んだことのない困難な事業に取りかかろうとしているときにも、しかも、誰一人その負担を理解する者もなく、共に負う者もないような時でも、圧倒的な平安が心を包み、勝利の歌が心の中で聞こえるのである。

それはまるで恵みの御座のそば近くで、命の川からじかに水を汲んで飲んでいるような具合である。

親猫が子猫の背中をくわえ、ひょいと上に持ち上げるように、あるいは、大きな鷲が、自分のヒナを足でがっしりと掴んで、高く天まで舞い上がるように、まるで自分のものではない大きな力で、何もかもを下へ下へと引き下げようとするこの世の重力に逆らって、上へ上へと高く持ち上げられるような具合なのだ。

この世の全ての重荷、自分自身の重さが、感じられなくなり、自力ですべてを成し遂げようとしていた時の苦しみに比べ、すべてのことが、軽やかに、鮮やかに、そして、喜びと平安の中で成し遂げられるようになる。

とはいえ、それは人の霊の内、心の内で起きることがらであって、外見的には何の変化も見られない。気温が変わるわけでもなければ、自分の周囲の環境が見違えるように変化するわけでもない。目の前に広がっている光景は相も変わらず、凡庸に見え、そして自分自身の生来の弱さも変わらず、物理的な世界は何も変わらない。

変わっているのは、その人の内側だけなのである。ところが、その内側から、この世の目に見える世界を覆すような圧倒的な力が外にあふれ出して来る。凡庸で何一つ心を揺さぶることなく、むしろ、厳しい限界を突きつけるだけの現実の只中に、すべてが完全であり、美しく、調和の取れて、制限されることのない、もう一つの「現実」が、上からかぶせられるがごとくに、二重に重なるのである。

その結果、この滅びゆく世界を眺めていてさえ、そこにまぶしく、輝くような真新しい喜びに満ちた「現実」が、満ち溢れていることが見えて来るのである。

これは本当に不思議なことである。滅びゆくこの世の秩序体系の上に、永遠に滅びることのないもう一つの天的な法則性が「上から着せられる」のである。
 
たとえは悪いかも知れないが、それは事故を起こして放射能漏れを起こす原子力発電所に、これ以上、世界に害をまき散らさないようにと、石棺をかぶせる作業にも似ているかも知れない。石棺は必ず劣化して、いつしか修復が必要になるが、天的な秩序は、この世のすべてを覆い、劣化することなく、決してこの世の物理法則によって触れられることがない。

しかも、石棺は、何らその下に覆われているものを修復することができず、生かす力もなく、ただ滅びゆく物質の醜さ、恐ろしさ、有害性を束の間、覆い隠すだけであるが、キリストの復活の命に基づく天的秩序は、その中に覆われ、くるまれた滅びゆくものに、朽ちない新たなエネルギーを供給し、全く新たに完全に生かすことができる。滅びゆくものの醜さや害悪を覆い隠し、これを殺し、汚れのない新しい命により生かし、完成されて調和の取れた美へと変えて行くのである。

筆者は、キリストの復活の命を通して、そのような新たな力が、自分自身だけでなく、筆者を通して、周りの環境にまで及んでいることが分かった。二つの現実が筆者の前に見える。一つは、今まで通りの不完全な朽ちゆく世界の秩序であり、その上に、それと非常によく似ているが、贖われて完成された、喜びに満ちたもう一つの秩序が重なっている。まことに、被造物が贖われるときを待ち望んで呻いているというのは、こういうことかも知れない。
 
私たちは贖われた世界をまだ肉眼で見ていないにも関わらず、その秩序が「すでに到来している」ことを霊の内で知っている。

このように、キリストによって新たに生かされた人は、その内側に、はかりしれない神の永遠の命を持っており、そこから、この世のすべての物理法則の限界、人間自身の有限なる命の限界を打ち破って、この世の被造物の限界を軽やかに乗り越えながら、すべてを新たに生かし、生み出す力が、外へ流れ出て来る。

これは無から有を生み出すことのできるエネルギーである。だが、この新しい命のエネルギーは、決してその命を持っている人を超人にすることはないし、そのエネルギーによって周囲を圧倒することもない。

これはとても自然でさりげない隠された命で、主を喜ぶことと一つにつながっている。この命は、十字架上ですべてを成し遂げて下さったキリストへの賛美と一つにつながっている。パウロとシラスが投獄されていた時に、獄屋を震わせたあの力は、主がカルバリで取られた勝利の命に基づいている。

しかし、その力は、決して見る者を圧倒し、なぎ倒すような非人間的なエネルギーではない。その力は、私たちの弱く脆い天然の命や、限界ある自己存在を圧倒したり、脅かすことがなく、これと優しく同居し、これを包むことができる。

この新たな命は、御霊の油となって、私たちのひび割れて劣化して隙間だらけとなった自己存在の只中から、芳しい香油のように、外へ外へと溢れ流れ出て来るのである。

筆者はこの命のエネルギーを何にたとえるべきか分からないが、その力が行使されるには、私たちの心からの神への賛美が必要であることを知っている。この力が内側からあふれ出て来るためには、私たちの心が、神と争いがなく、透明で、真っすぐである必要がある。そのような心の状態をキープする時、まさに主は敵前で私たちのために宴をもうけ、私たちの頭に油を注いで下さるという、あの詩編の御言葉が成就するのである。

また、その油は、私たちの心からの神への愛と賛美に基づいている。それはすべての逆らうものを包み込んで行くような愛である。洪水のような愛と言っても良いだろうか。洪水は常に恐ろしいものであるが、愛が洪水のように流れるならば、それは人間にとって決して恐ろしいものとはならないはずである。

私たちがキリストの復活の命の中を生き生きと歩むとき、目に見えない洪水が起きる。世の中は相も変わらず、私たちの限界も相も変わらないが、その限界の只中から、新しい生き生きとした命のエネルギーが、目に見えない洪水のように外に流れ、溢れ出し、すべてのものを新たに生かし、私たちの魂は喜びに満ちる。

私たちの心は、まるで雲間が晴れて、遮るものがなくなった青空のように、神との間に妨げがなく、「すべては終わった」という勝利に立つことができる。

その時、すべてのこの世の喧騒は、はるか足の下にある。問題はなくなっていない。未だ目の前に山積している。それにも関わらず、すべては終わった、勝利は取られた、という確信が心の中に揺るぎなくあり、私たちは大胆に勝利の歌を歌うことができるようになる。

これまで筆者は、様々な個人的問題に直面した際に、一つ一つ、信仰によって勝利をおさめる術を学んだ。だんだんその戦いのスケールが大きくなっているのを感じる。現在、筆者が直面する課題は、もはや筆者個人の利益を回復するためだけにあるものではなくなり、個人を超えたもっと大きなスケールで、この世に対する衝撃力をもたらすための戦いへと変わりつつあるのだ。

これまでに筆者は、自分個人のために、たくさん戦って来た。だが、その戦いが一定量に達したとき、これまで積み上げて来た経験を、もはや自分個人のためにではなく、筆者の知らない大勢の人々のために、社会のために、あるいは教会のために、あるいは神を知らない人々のために、筆者とは縁もゆかりもないように見える人々のために、用いなければならないと考えるようになった。

とはいえ、このことは決して筆者が何かしらの社会事業に乗り出すことを意味しない。新たに慈善団体を立ち上げたり、社会改革の旗を掲げて、組織を作ったり、人を集めることも意味しない。そのようなことではなく、筆者の生き様そのもの、存在そのものが、もはや個人のレベルを離れて、筆者が見たこともなく、知ってもいない大勢の人たちに、そして筆者の知らない未来にまで影響を及ぼすために、捧げられたと分かるのである。

もちろん、筆者は神に仕えて生きることを第一としているため、社会のために身を捧げるなどと言うつもりはないが、それにしても、神への愛の中に、すべての被造物への愛が内包されている。神を第一として生きることは、神が造られた被造物を愛することと決して矛盾しない。そこで、この道を行くならば、どこかの時点で、人は必ず、自分自身のために生きることを離れ、自分の存在を、神に捧げるのみならず、人々のためにも喜んで捧げられるようになるだろう。
 
繰り返すが、そのことは、決してその信者が、この世に迎合し、人間の欲望の奴隷として生きることを意味しない。人々に仕えると言っても、それはあくまで十字架の死を通してである。あくまでこの世に対してはりつけにされて死んでいる者の立場からである。

だから、筆者は多分、自分のしていることが、この世の誰にどのように利益をもたらすのか、きっと最後までわからずじまいであろうと思う。筆者が成し遂げたことが、筆者が生きているうちに、筆者自身の栄光となって帰って来ることは、まずないであろうと思う。それで全く構わないし、それで良いのだ。
 
この世の評価などとは全く関係なく、筆者には、神との間で争いがなく、愛を持って、互いに頷き合うことのできる関係があることの方が、はるかに重要である。神に受け入れられているという喜びに満ちた確信、そして、筆者自身も、自分を贖って下さった神に従いたいという願いを持って、互いに承認し合う関係があることが、何より重要である。

神との間に何一つ隔てとなるものがなく、筆者のために必要なことをすべて神がキリストの十字架の上ですでに成し遂げて下さっという、この喜びに満ちた勝利の確信を、常に心に保ち続けることこそ、信仰生活を最後まで勇敢に力強く歩み通すための最たる秘訣である。

私たちは、この限界ある世に、信仰によって、神の完全を引き下ろすために生きている。神の国は、私たちの存在を通して、すでにこの世に来ている。神はご自分が完全であられるように、ご自分の子供たちにも、完全であって欲しいと願っておられる。そのことを、私たちは改めて思い出す必要がある。

そこで、私たちは大胆に御名によって権威を行使して、神が我々のために用意して下さった完全を地に引き下ろすべきである。その時、すべての痛んだ箇所、ひび割れた箇所、すべての隙間、弱さに、御霊の油が染み透り、ひび割れを覆い尽くして流れるであろう。

神の完全が地に現されるために必要なすべてを、主は予め天に備えて下さっている。主の御名は誉むべきかな。 
 
「信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの者は加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。

自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(ルカ12:28‐34)



このところのオリーブ園の連載は、クリスチャンにとって相当に厳しい教訓を示したものである。オースチンスパークスはすべてを比喩で語っているが、筆者にはこのことが非常によく分かる。

たとえば、最新の記事を見てみよう、なぜ、主の民には、「主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗した」ということが度々起きるのか。

クリスチャンはキリストの復活の命の満ち満ちた豊かさに入れられるよう定められている。それがクリスチャンの使命である。にも関わらず、なぜ主の民の多くには、神の御心ではない弱々しさ、時ならぬ死、主のためではない困難や、貧しさ、苦しみが満ち溢れているのか。

それは結局、主の民が神以下のもので妥協する(神が望んでおられる水準以下のもので妥協する)ことを繰り返したためである。肉的なもの、地的なものと妥協した結果、神の命ではない、朽ちゆく堕落した命の束縛が主の民にもたらされたのである。

別の言葉で言えば、それはどこかの時点で主の民が、十字架の死と復活の地点にとどまることに失敗し、自分の肉を優先し、自己の利益を得ようと、十字架の装甲の中から外に出てしまったことによる。

筆者自身の経験と確信に立って言えば、それはほとんどの場合、人情を優先すること、そして自分の地上の生活を守ろうとする態度から来る。

キリスト者の人間関係はすべて十字架の死に渡されていなければならないが、そこへ信者が肉的な思い、地的な思いを混ぜ込み、肉親の情愛、年功序列、親しい友人間での優遇や配慮などを公然と持ち込み、それをあたかも信仰によるクリスチャンの交わりであるかのように置き換えて行くと、交わりそのものが腐敗するということが起きる。

また、教会が脅かされ、クリスチャンが義のために立ち上がって戦わなければならない時に、自分の生活の心配を優先させて、立ち上がることを怠る。すると、悪が公認されたも同然に解禁され、教会は自由を取り上げられて、迫害され、証の言葉は取り去られ、主の民はますます貧困になり、苦しめられるようになって行く。

私たちがもし神でない何者かに承認を与えるならば、その者が私たちに対して神のように振る舞い始めるであろう。宗教指導者に権威を与えるならば、その者があなたに対して神のように振る舞うであろうし、この世の仕事を最優先にするならば、その仕事や上司や会社の規則があなたの心を支配するであろう。暴君のように凶暴な人間の脅しの言葉に屈するならば、あなたはその者の意向に従ってしか生きられなくなる。肉的な情愛を交わりの中に持ち込むならば、その肉的関係が許した範囲でしか前に進めなくなる。

クリスチャンが最優先の目的として目を注いだその対象が、その信者にとっての「神」となるのであり、もし私たちがキリストから一瞬でも目を離すならば、あなたの目を逸らさせた何かがあなたの心を支配するようになり、やがて神でないものを神としたことの厳しい報いがあなたの人生に訪れることになる。

多くの信者らが、そのように地的な思いで心を占領された結果、神の教会の中には、いばらや雑草が公然とはびこるようになり、それに対して私たちは非常に厳しい態度を取って、ちょうどレビ人が同胞を剣にかけて殺した時のように、聖絶のものを断ち切り、自分の魂の愛の対象となるものを十字架の死に渡さねばならない瞬間が訪れる。

だが、そのようにして是正が間に合うこともあまり多くはない。多くの団体は、主が望んでおられるのとは違った方向へ一旦、歩き始めると、その後、当初、目指していたものからはますます遠ざかるばかりで、その歩みを止めることも、是正することもできない。

そうなると、その腐敗に気づいた個人が、自らの意志で、神の命の息吹をほぼ完全に失った団体を出て、御言葉に従って、信じる方向へ向かうこと(エクソダス)しか選択肢はなくなる。その方向づけとなるのは、やはり、信者が聖書の御言葉への信仰に深く立ち戻り、どこまでも目に見えないただお一人の神を優先し、地的なすべての利益を後回しにしても、ただ神の御心を満足させることだけを第一に追い求めて生きる強く熱心な心の願い求めしかない。

回復されなければならないのは、信者が自分の生まれながらの命のすべてと引き換えにしてでも、神を知りたいと願う純粋で熱心な信仰の希求であり、代価を払って神の国とその義を第一優先して生きる姿勢である。

そのための道は、多くの場合、一人で歩かねばならない。あなたはちょうど人目を避けてスカルの井戸に水を汲みに来たサマリヤの女のように、人の目からは隠されている細く狭い道を一人で辿ることになろう。それでも、道から迷い出てしまったと気づいたならば、一人で細い道を歩き続けてでも、目的へ戻るべきである。

大勢の人々と連れ立って広い門を通って行ってはいけない。今日、あまりにも多くの信者らは、代価を払うことを厭い、地的な思いで心を占領され、公然と別の道へ逸れてしまい、神の御心に反するものに対して、かつては公然と異議を唱えていた人々でさえ、沈黙へ入りつつあるが、その真似をしてはいけない。なぜなら、その結果として、彼らには思いがけない貧しさと孤独と災いや悲しみが降りかかることになるからである。

クリスチャン生活における豊かさは、私たちがどれだけのものを主のために投資したかによって保証される。そのためにこそ、我々には神の武具が与えられており、これを行使して、敵を駆逐し、新たな領土を獲得することが要求されている。

その法則を知っているのに沈黙し続けている今日の信者らの状態を、筆者は非常に御心に反するものと思って憂慮しており、その沈黙の後に、彼らに訪れる時代がどんなに不自由で暗黒のものとなるのかに思いを馳せずにいられない。

私たちは、小羊の血潮と証の言葉によって、敵の虚偽の圧迫を打ち破る力が与えられているわけだから、神の武具を公然と使用して敵を打ち破り、圧迫を跳ね返し、新たな領土を獲得することをやめてはいけないのである。

だが、代価を払ってその戦いを貫徹する人々があまりにも少ないこと、そして、その道が、人の目には安全に見えても、その実、無用な貧しさと苦しみと死に至る道であることを人々が自覚していないことを憂慮する。一旦、証の言葉を宣べるのをやめて、沈黙に入ると、再び沈黙を破ることがいかに難しくなるかが分かるであろう。

そこで、よくよく心に留めていただきたい、もしあなたが霊的な敵を追い出さないならば、あなたは敵を追い出せなくなるのだと。敵を追い出さないことは、敵と協力しているのと同じなのだと。あなたに課せられた使命は、あなたの信仰が十分に強くなって、あなたが敵としている者たちを力強く追い出す権限を持っていることを十分に自覚し、その権限を実際に行使することである。ところが、それを行使せず、神の御心に反するものと妥協するならば、あなたは御国の後継者としての資格を失いかねない。

なぜなら、私たちが敵としている者は、正統な資格がないのに、神の御国の後継者を詐称して、正統な後継者を追い出そうとしている者たちだからである。彼らの目的は、あなたに御国を継がせないこと、その後継者たる資格を行使させないこと、あなたを神の命の豊かさに入らせないことである。

そのような者を、固く信仰に立って追い出す権限が、クリスチャンに与えられていることを私たちは自覚すべきであって、パウロの言葉を思い出さなければならない。

「ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、”霊”によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。しかし、聖書に何と書いてありますか。「女奴隷とその子を追い出せ。女奴隷から生まれた子は、断じて自由な身の女から生まれた子と一緒に相続人になってはならないからである」と書いてあります。要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです。」(ガラテヤ4:28-31)

御国の後継者を詐称している者たちについては、彼らの本質を見抜き、彼らが犯している悪事を公然と主張し、これを明るみに出さなければならない。そうすれば、おそらく、それ以上に何もせずとも、これらの者は恥をこうむり、クリスチャンから手を引いて逃げ去るであろう。私たちの戦いは血肉のものではないので、私たちの武器も、この世のものではないからである。

(毒麦を引き抜く仕事は私たちの仕事ではなく、それは神がなさる仕事である。しかし、毒麦は毒麦たる本質をきちんと露わにするため、これを見抜いて指摘することは十分に可能かつ非常に有益な仕事である。主の民が無用な攻撃を受けている時に、それを見て見ぬふりをすることは、敵の悪事に加担するのと同じである。)

重要なのは、どれほど敵が優勢で勝ち誇っているように見えたとしても、キリストの十字架の勝利に立って、その事実を信仰によって地に引き下ろすまで、決して諦めることなく敵の圧迫に立ち向かうことである。
  
そのようにして敵の虚偽の圧迫に立ち向かわねばならない時に、御言葉を高く掲げて立ち向かうことをせず、人情を優先して妥協するならば、神の教会がますます弱体化することとなり、場合によっては、あなた自身が彼らによって追い出され、御国の後継者たる資格を失うことになるであろう。あなたは神と富とに兼ね仕えることはできないという御言葉の厳しい教訓を思わなければならない。

しかし、主の方を向くならば、すべての覆いは取り除かれて、失われた視力、力も回復される。私たちはどちらへ顔を向けるのか、常に思い起こして、毎日、心を奮い立たせて、勝ち取るべき成果を求めて前進を続けねばならない。前進しないことそれ自体が、後退を意味するのである。
   
オースチンスパークス著、「霊の力の回復」第三章 主と共に進み続ける (2)
 
最初に述べたように、これは主と共に進み続けて主が意図された全き豊かさの中に入ることに失敗したことによります。どこかにためらい、留保、議論、疑問があったのです。どこかで差し控えていたのです。どこかの時点で結果に伴う代価を計算して、抵抗が少ない道を取ってしまったのです。どこかで何らかのささやかな個人的利益を考慮してしまったのです。どこかで完全に滅ぼすことを主が要求されているものを容赦してしまったのです。

主が指さして「これを放棄しなければなりません」と言われたのに、それを放棄しなかったのです。主は一歩踏み出すことを要求されたのに、踏み出さなかったのです。完全に十字架に渡されるべき肉を少しばかり容赦してしまったのです。

そしてこのようなことが起きる時は常に、このように保留し、容赦し、個人的な考慮をするときは常に、失敗が続きます……これが起きる時は常に、ただちに妥協することになります。敵が有利になります。そして神の民の力は弱まって、自分たちが悪の力を解放してしまったことに気づきます。この悪の力は徐々にゆっくりと働いて優勢になり、遂には彼らは自分たちに対する神の御旨よりも劣るものの中に自分たちがいることに気づきます。


 神が意図されたのは豊かさ、絶対的状態、最終的状態、至高性、主権でした。しかし、これらの様々な理由のどれか一つか二つ以上により、彼らは御霊が導かれるように神と共に進み続けることに失敗しました。そしてこの失敗により、彼らは行き詰まっただけでなく、何らかの明確な悪に対して扉を開けてしまいました。そしてその悪が中に入って来て、彼ら自身が主の御名の中で占領すべきだった土地を占領してしまいました。

ですから、彼らはこの標準に達することなく、束縛の中に陥って、最終的に敵を追い出さなかったので最終的に敵を追い出せなくなったことに気づきました。それはこのように作用します。すなわち、それをしないなら、それができなくなるのです。主と共に進み続けないなら常にこうなります。ああ、これらの霊的事実をこのように力強く示すことにより、どうか主がこれを私たちの心にはっきりと分からせて下さいますように……

主と共に進み続けることに関して疑問を持つこと、主が「進め」と言っているのに一瞬でも立ち止まること、私たちのなすべきことを主が私たちに教えて下さっているのに、それ以外の考えが侵入して私たちに影響を及ぼすのを許すことは、極めて危険なことであることを、主が私たちに徹底的に分からせて下さいますように。



今年も冬が近づいている。このところ、筆者は特注のクリスマスケーキ作りに忙しい。もちろん、これは比喩であって、本当にクリスマスケーキを作っているわけではないのだが。

筆者は今、書類の山に埋もれ、歳末総決算となる書類を書いているところだ。

こうして文書を作ることは、どうやら筆者の生涯で、避けて通れない仕事であるらしい。おそらく、これが筆者の真の仕事なのだろう。しかし、今年はこれまでに輪をかけて大変な作業であった。ブログ記事を書くための精力も吸い取られ、文章を書く力がほとんど残らないほどだ。

しかし、今年はこれまでにない大きな収穫があったと言える。それは、これまでには、ただ筆者一人だけが、孤独の中で懸命に奮闘して、正義や真実を守るための文書を作成して来たのだが、今年は、その文書の作成を、他の人々が手助し、補ってくれたことである。

それによって、筆者はどれほど肩の荷が下りて楽になったか分からない。

筆者は今年が来るまで、真に聡明な人たちに出会って、彼らの手で、筆者のために、胸のすくような文章を書いてもらったことがなかった。もしもそういうことがあったとすれば、推薦状くらいだったであろうか。しかし、推薦状には、胸のすくような内容は一行も書かれておらず、面白い内容もない。

ところが、困難な事件に遭遇した時に、目に見えない「推薦状」を書いてくれる人たちが現れたのだ。彼らは、きっと自分たちがそんな重大な役目を果たしたとは、夢にも思っていないかも知れない。しかし、彼らは、ちょうど痒い所に手が届くように、筆者が言いたくても言えなかった言葉を代弁してくれたのだ。頼んだわけでもないのに、まさに心の中を見通したかのように、今、筆者が最も必要としていることを言い当ててくれたのだ。

こういう文章を読み聞かされるとき、生きていて良かったとでも表現するしかない、何か深い感慨が心の内側に込み上げて来る。自分によく似た人間を見つけ、理解者を得た、という感慨のようなものか。

筆者はこれまで言葉の世界に生きて来たため、常に言葉を通して、相手の人格や、心の内を確かめることに慣れている。多くの人は、外見を見て人を判断するのであろうが、筆者は、まるで目を閉じて、暗闇の中で、声だけを頼りに人を判断するように、人の発する言葉の内容を通して、その人の人柄、生き様を確かめる。

もしかすると、究極的には、初めから最後まで全く互いの姿を見ずとも、言葉さえあれば、かなり深いレベルまで、その人を理解することができるのではないかと思う。学術研究などでは、そのように時代を超えて、姿を見ることもできない人物を深くまで理解する力は助けとなる。
 
しかし、筆者の孤独は、そのような方法で、共通理解に達することのできる人がなかなかいないことであった。耳を澄ましても、賢明かつ品位ある言葉はほとんど聞くことができない。聞こえて来るのは、虐げられている人、苦しんでいる人がいても、これを踏みにじり、罵り、嘲る言葉ばかりで、彼らを救うために、必要なタイミングで、権威ある言葉が発せられるのを聞いたことがなかった。

ところが、そのような状況がどういうわけか、大きく変わって来たのである。こうして聞こえて来る解放の言葉は、筆者にとってはまるで音楽である。

筆者が自由と解放を求めて言葉を発すると、その言葉が、水面に広がる波紋のように、目に見えない形で世界に影響して行き、虚空から、こだまのように言葉が返って来る。

その言葉が、筆者の言葉と同じように、自由と解放を求める言葉であったときの感動は、表現できない。

言葉を介して、同じ考えを共有する者たちの間で、音楽が成立する。言葉と言葉が、まるでフーガのような追いかけっこをしながら、一つの調べになって行き、複数の人間が同時にそれに参加して、一つの音楽を奏で、一つのストーリーを作り上げて行く。黙示録の十四万四千人の歌は、ちょうどそんな感じではないだろうか、と思う。

それはまさに人を解放する福音の調べである。

それは、互いが必死になって自分の言いたいことばかりをしゃべって、互いに押しのけ合うような、攻撃的な言葉ではない。あるいは、自分の方が相手よりすぐれて賢明であることを思い知らせようという意図で発せられる、人を圧倒する言葉ではない。揚げ足取りでもなければ、注意や叱責や非難の言葉でもない。

それは、一つの歌なのである。筆者には考えつくこともできない、非常にすぐれて賢明な言葉が、筆者ではない他人の口から発せられる。ところが、その言葉は、まるで筆者の言葉の続きであるかのように、何の違和感もなく、筆者の言葉となじみ、一つになって行くのである。

こうして、同じ心を持つ人々が集まって、壮大な歌が作り上げられる。

そういう光景に出くわしたとき、筆者は、それまで必死に言葉を紡ぎながら、弱者を守るため、自分を守るために、神の国の権益を、信仰を守るために、文章を書いて来た仕事を、途中で投げ出したくなった。これほど優れた人たちが現れたなら、筆者のすることはもう残ってはいないと、緑の草原に仰向けに寝ころび、そのまま心地よく寝入ってしまいたい気持ちになった。

どう表現すれば良いのかも分からないが、この地上は、隅から隅まで悪人ばかりではなかったのだと、途方もない安堵の念が込み上げて来たのである。

もちろん、だからと言って、筆者は自分のなすべき作業を投げ出したりはしない。そしてもちろん、束の間、少しばかり助けてもらったと言って、誰かを過度に賞賛したり、人間に栄光を帰するつもりもない。

私たちの助け手は神であり、ここで筆者が言及している人々は、あれやこれやの特定の人間ではなく、神がその時、その時に送ってくれる必要な助け手に過ぎない。
 
さて、コメント投稿欄も閉鎖してかなりの月日が経つ。ブログを書いても反響はなくなり、あるのは悪意による中傷ばかりで、真剣な応答が見られなくなって久しい。

かつてあれほど真剣に神を求めて共に歩もうとしていた民は、生活の心配の中で散り散りになり、もはや言葉を交わすこともできない遠い領域にまで去って行った。

各種の抗議文やら、訴えやらは、愚かしい虚偽の中傷を撃退して、自分の権利を守るために、避けては通れない戦いであるから、真剣に書き記す必要があるが、それはあくまで自分の正当な権利を守るために書き記すものであって、それ以外に、何を目的とし、誰のために、何のために、文章を書き続けているのか、誰がそれを読んで理解し、賛同を示すのか、反響もなく、目的がほとんど分からないまでになっていた。

ところが、その作業の最中に、思いもかけないことが起き、筆者が途中まで歌って、疲れて歌いやめようとしていた歌の、続きを歌う人たちが現れたのである。その時、これまでこういう大変な作業を続けて来たことは、決して無駄ではなかったのだと心から感じた。

心理的な負担の大きい文書は、初めからイメージ通りに作れるものではない。芸術作品としての詩や小説を書くことと、論文を書くことは、全く異なる。さらに、論文を書くことと、訴状を書くことは全く異なる。同じ訴えを出すにしても、他人に起きた事件について書くことと、自分の遭遇した事件について書くことは全く種類が異なる。

人は自分にとって重大な意味を持つ出来事であればあるほど、その事件について、冷静に客観的に分析することができなくなる。文才のある人でも、おかしなくらいに、紙の上でしどろもどろに、ろれつが回らなくなる。

そのような大きな心理的負担の伴う作業をこなせるようになるまでには、何年間もの歳月が要るのだ。

その間に、いくつもの試作品を作り上げては、何度も書き直す。最後の最後になって、ようやく人前に出せるような、意味の通る文書が出来上がる。

だが、すでに書いた通り、最も大変なのは、人に認められる立派な形式の伴う文書を書き上げることではなく、心の整理をすることである。自分の遭遇した出来事を客観的に見つめ、自分に起きた事件が、自分のみならず、この社会全体にとって、どういう意味を持つのか、普遍的価値を見つけて、これを引っ張り出して来なければならない。そうして、起きた出来事に意味づけを行うことができた時に初めて、その文章が一人の人間の訴えを超える重みを持ち、万人に対する説得力を持つものとなる。

しかし、そうなるまでに心の整理が必要であり、それには歳月を要する。

かつては司法の場に信仰に関する争いを持ち出すことに反対していた筆者が、司法の場に決着を委ねようとしているのは、皮肉な巡り合わせのようにも感じる。しかし、筆者は、宗教界の中では、決してこのような事件について正しく決着をつけ、これを裁ける人もいなかったであろうと思う。

それは非常に残念なことであり、また、恥ずべき有様なのだが、それにしても、ここには、御子はまず真っ先にユダヤ人の救いのために地上に来られたのに、選民たちの心には彼を受け入れる願いがなく、パウロがユダヤ人に伝道したのに、ユダヤ人に拒絶され、異邦人伝道に回ったと同じようなパラドックスがあるように思う。

筆者は、クリスチャンであるが、ある意味では、かなり長い年月、この世に足をつけて生きて来た人間であり、宗教界で純粋培養された信者ではない。その筆者が、若い頃から様々な文書を作り続けて来た人間であることも、決して偶然ではあるまいと考える。

司法の場での争いの形を取っているが、その本質は、異端反駁であると筆者は感じている。

さて、カルト被害者救済活動は、これまでキリスト教界の争いを、先手を打って、司法の場に持ち出すことで、クリスチャンを脅かして来た。多くの人々は、訴訟で訴えられること怖さに、この運動の支持者から恫喝されると、たちまち反対して声を上げることができなくなった。

しかし、筆者は今、その恫喝の手段を、敵から奪ったのである。

やたら裁判という言葉を振りかざしては、クリスチャンを脅し、罪に定めようとして来た勢力の手から、司法という手段そのものを取り返したのだ。

すると呆れることに、かつてはあれほど裁判、裁判と叫んで、牧師たちやクリスチャンを非難していた人たちが、自分ではまともな文書一枚、書けなかったことが判明した。

何ということであろうか。一体、教界の中には、なぜこのようなこけおどしのレベルの恫喝に、毅然と立ち向かえる人が、一人もいなかったのであろうか。

筆者は今、自分が行っていることを、ハマンを訴えた王妃エステルの所業になぞらえるが、果たして、教界にはこの出来事の重さを理解している人々がいるのだろうかと思う。

人里に熊が下りてくれば、捕獲せねばならない。そうでなければ、里に住む人々の生活が脅かされる。熊が可哀想だなどと言っている場合ではない。小熊くらいなら、まだ命は助けられるかも知れないが、野生の親熊を野放しにしておくわけにはいかない。動物愛護法も、人間のために作られたものであって、人間を犠牲にしてまで、野生動物を助けることを目的とはしていない。人里において、野生の熊と人との生活は併存し得ない。

同様に、クリスチャンは、暗闇の勢力に対しては毅然と立ち向かわなければならない。そして、これを勇敢に撃退して、自分たちの生活の安全を守らなくてはならない。ところが、今やどうだろうか。人里には野生の熊が溢れ、人々はやられ放題、それどころか、人里にいる人間が、普段から戦争し、憎み合い、殺し合っている有様なので、彼らは熊を見ても、これを排除するどころか、どうやって熊をうまく利用して、嫌いな人間を始末できるかなどと考えている有様である。

彼らは、内心、自分の憎む同胞をかみ殺してくれた熊には、勲章を授けたいほどなのだが、大っぴらにそうとは言えないので、動物愛護法などを持ち出して、脅かされ、傷つけられ、殺された熊のために涙を注ぎ、塚を作っている。それでいながら、熊にかみ殺され、傷つけられた人間のためには一滴の涙も流さない。

このようなものは、「人里」の生活ではないだろう。このようなものは、人間の暮らしではない。人間が獣のレベルにまで堕ちてしまったのだ。ここまで堕落した倫理道徳を、どうやって引き上げ、回復できるのか。こんな「人里」を、そもそも「熊の脅威」から守る必要が本当にあるのか。

しかし、それでも、教会は、神がご自分の瞳のように愛される、神の聖なる花嫁なのである。ゴリアテが大暴れして、神を穢す言葉を吐いているときに、神はこの地上をあまねくご覧になって、そこに誰か一人でも、神の御名の永遠に揺るぎない権威であることを確信して、信仰によって、勇敢にゴリアテに立ち向かう人間がいないかを探し出される。そうして選び出されて来るダビデは、いつの時代にも、まだうら若い未熟者で、誰から見ても勇士と呼ばれるような偉大な存在ではない――。

今日、キリスト教界がどれほど弱体化したか、どれほど倫理を失ったか、どのような恐ろしい内紛に陥ったか、そんなことは、神がご自分の花嫁たる教会――エクレシアーーをご覧になられる際には、全く関係ない事柄なのである。

そういう腐敗堕落にばかり目を留めてはいけない。神はバアルに膝をかがめない勇者たちを、いつでもどこからでも選び出して来ることがおできになる。

私たちは、御名を掲げる主の民であるから、その中から、神の国の権益のために、主の民の権益を守るために、暗闇の勢力に対して、勇敢に立ち向かう新しい人となる必要がある。

敵が手にしている武器を奪還し、敵の名の記された旗を引き下ろさなければならないのだ。

筆者は本年になってから、その手法を少しずつ学んだ。そのおかげで、今や敵軍は、自分たちの名を冠した旗を恥ずべきもののように降ろし始め、遁走態勢に入っている。

私たちは、彼らが私たちの名を奪い、私たちの存在を奪って、歴史を彼らにとってのみ都合よく書き変え、私たちの存在を地上から消し去ろうとしたことに対し、全力で抵抗し、敵のやり方を逆にして、彼らに攻撃をしかけ、彼らの名を奪い取って消し去り、彼らの武器を奪い取って我がものとし、彼らの改ざんした歴史を、我々にとっての真の歴史(His-story)に戻すために、勇敢に戦ったのである。

私たちは常に、我々人間の目から見た歴史ではなく、神がこの地上をどうご覧になるかという歴史を、追求し続けている。

神が御子の命と引き換えにしてまで贖われたのは、野生の熊ではなかった。神は悪魔と暗闇の勢力を惜しまれたがゆえに、地上に御子を送られたのではない。神は人間を惜しまれ、人間を救うために、ご自分の独り子を十字架にかけられたのである。

今日、神がご自分の民と認識しておられ、瞳のように守っておられるのは、十字架に敵対し、贖いを否定し、神を穢す言葉を吐き続けている旧創造ではない。

私たちは、自分が、神が御子の命と引き換えにしてまで贖われた民であることを自覚し、キリストの血の代価が支払われた民であることを自覚し、その価値をもっと惜しまなければならない。そして、自分が何者であるかをきちんと自覚して、その尊厳を守らなければならない。

私たちは、くつわをかけて引き回さなければ言うことを聞かない愚かな家畜や、捕獲されるべき荒々しい野獣ではなく、上品で、つつましく、教養があって、礼儀正しく、何が正義であり、真実であるかをわきまえ、御心に忠実に従うことのできる花嫁であり、御霊に導かれる民なのである。

しかし、御霊に導かれる民としての品格が、今、主の民の中にどれほど残っているであろうか?

いずれにしても、荒くれ者たちは、人里から去って行かねばならない。そうして、荒れ果てた庭は、花々が咲き、人々が行き交い、小鳥たちが歌う楽しい園が回復されなければならない。

筆者自身も、危ういところまでは行ったが、少なくとも、自分の名を敵に奪われることなく、取り返すことはできた。たとえ賛同する者が誰もおらずとも、これは神の教会を、暗闇の勢力から奪還し、キリストの花嫁としての尊厳を回復するために、なくてはならない戦いなのであり、主の民が、命をかけて戦い通さなければならない信仰の歩みの一歩なのである。

筆者は2009年に「キリストの十字架以外に救いはない!」と題する記事を書き、カルト被害者救済活動のむなしいことを訴えたが、その後、もしもその筆者が、自分の掲げていた御名の記された旗をあっさり降ろしてしまえば、筆者の証しは、本物ではなかったことになろう。

それでは、筆者の救いも、本物ではなかったことになろう。

そうなれば、筆者の名は、インターネット上だけでなく、命の書からも抹消されることであろう。人前で神を拒む人間を、神も拒まれるのだから。

そこで、筆者は、神が今日も生きて力強く働かれ、ご自分の愛する民を力強く守って下さり、ご自分の愛する子供たちを、この世の終わりまで見捨てず、共にいて下さり、助け、支えて下さることを生きて証明せねばならない。

しかし、その戦いの中で、いわゆるクリスチャンを名乗る人々ではなくて、この世の信仰を持たない人々が果たした役割のことをもきっと忘れないだろう。

だが、信仰があるかないかに関係なく、私たちは、すべてのものがひざをかがめ、キリストに服従する時が来るまで、この地上に、御名の権威を記した旗を立てるために進軍している。すべての目に見えるものが、目に見えないキリストの御名に服するときまで、十字架を貫き通すことが、私たちの戦いなのである。

その中で、私たちは、ただ自分の生存を保ち、支えるというだけではなく、主の民の霊的状態を整え、貧しく、荒廃した今日の民の状態を、回復するという役割を与えられている。

それが今日の祭司としての役目である。熊の脅威が取り除かれれば、人里の復興という課題が待ち構えている。しかし、それとて、私たち一人一人が、キリストにある新しい人として、命の御霊の路線をどう生きるかにかかっている。

キリストの花嫁たる教会の回復は、私たちの内なる尊厳の回復と密接な関係がある。落胆することはない――試練が大きければ大きいほど、その中で与えられる慰め、栄光も大きいからだ。どのような試練があろうとも、最後まで御言葉に固く立って信仰を守り通した者には、命の栄冠が待ち受けている。御霊の内なる油塗りが、私たちの心の内側に、高貴な花嫁としての人格を形造ってくれるだろう。

試練が、一人一人の信者の内側に、キリストの人格を、痛みと共に彫り刻んで行く。しかし、まさにその彫刻がなされている最中には、私たちは痛みしか感じず、それが一体、何のためであるのか、どのような実を結ぶのか、理解もできないことであろう。しかし、すべてを忍び通した後には、思いもかけない栄光が待ち受けていることと思う。それは、私たちの内側に、主の花嫁にふさわしい高貴な人格が造られることである。

外面の回復ではなく、内面の回復という新たな局面に、私たちは差しかかっている。このことについてはまた追って書いていきたい。



オリーブ園のオースチンスパークスの記事「「私たちのすべてなるキリスト」 第九章 子たる身分の意味と価値(3)」が秀逸なので、この一連の論説を続けて読むことをお勧めする。

そこには、御子が地上にあって、どのように御父から命の供給を受け、権威と尊厳を持って生きられたか、その具体的な方法が記されている。それは、今日、私たちが地上にあって御子と同じように使用できる法則である。

私たちは御霊にあって、その命からすべてを引き出す方法を知る必要がある。これは魔法ではなく、子たる身分に基づいて、神から私たちに与えられた恵みである。

私たちは、キリストの復活の命の中から、日々の糧、人々と関わる際の知恵、この世を圧倒的に超える権威、目に見えない高い霊的な地位を供給されるのである。

キリスト者として歩むに連れて、私たちはいかなる人間関係の中においても、自分が支配的・優越的地位に立たなければならないことが分かって来るだろう。それがなければ、私たちに与えられた自由は発揮されることがないし、私たちの霊的権威が地上に及ぼされることもない。

とはいえ、私たちはこの地上において、王でもなく、支配者でも、権威者でもない。むしろ、何の肩書も持たない寄る辺のない民のように見えることであろう。

しかし、その弱く貧しい民が、キリストにあって、彼と共に、地上のすべてのものを足の下にする圧倒的な力と権威を授けられているのである。それはこの世の経済、物流、そして人間関係にももちろん適用される。

私たちが地上のものに心惹かれ、それに心を奪われてしまうと、それが人間であっても、物質であっても、その目に見えるものが私たちの心を支配することになる。しかし、正常な秩序は、それとは逆に、私たちがすべての地上のものを霊的に支配することにある。

私たちが心に抱いている永遠の望み――私たちの信じているただお一人の神、その御名が、すべての目に見えるものにまさる権威として掲げられれ、万物が、私たちの存在を通して、キリストに服従することが、神が望んでおられる正しい秩序なのである。

従って、それゆえに、内にキリストを持ち運んでいる私たちは、地上のどんなものに屈服してもならず、地上の支配よりも下に置かれてはならず、この世の経済や、人の思惑や、この地上に立てられた権威にまさる、これらを霊的に支配することのできる目に見えない霊的権威を与えられているのであって、その霊的権威を行使することによって、初めてこの地上に、御国の秩序を引き下ろすことができる。

私たちは、御子が地上におられた時にそうであられたと同様、この世のすべての物理法則、事物、人々を超越して、霊的に支配する立場に立つことができるのであり、また、そうしなければならない。

それは本当に、御子がそうであられたのと同じ、この世に渦巻く諸々の支配や思惑に巻き込まれて翻弄されることのない、この世の触れることのできない、貴い、崇高な天的な地位である。天の御座から、地上のすべてのものを統べ治める立場である。

その高い地位は、様々な試練の中で、信仰を貫き通す時に、初めてはっきりと姿を現して来る。いわば、エジプトに売られた日の幼いヨセフが、生長して、ファラオに次ぐエジプトの宰相となり、知恵と権威を持ってエジプトを治める者となって、現れて来るような具合である。

キリスト者が人生で遭遇するすべての出来事は、こうして本人の霊的成長に合わせて、スケールが拡大して行く。戦いのスケールも、霊的成長に合わせて拡大して行く。

その中で、私たちはこの世を超える圧倒的な権威を行使する術を学ぶようになるが、しかし、それは、霊的成長に伴う、霊的権威の増し加わりであって、必ずしも、私たちがこの世で、人々がその名を聞いてすぐにひざまずくような、何か圧倒的に偉大な権威を手にすることを意味しない。

私たちの権威は、地上の肩書、地位ではなく、御名に由来するものである。

こうして、御名の権威が私たちを通して地上に現れ出るために、この世の経済、物流、人の心、物事の有様、といったすべてのものを、私たちは、キリストにあって、私たちの意志の下に従属させ、屈服させていく方法を学ぶ必要がある。

それは激しい支配権の争奪戦の中で、十字架を貫き通すことで初めて可能となるが、このように、あらゆる試練の中で、信仰による確信を捨てずに進んで行くならば、不思議と、物事も、人々も、諸条件も、いずれ私たちの意志の下に服するようになるのである。

私たちの意志の下に、と言っても、私たちが御言葉に服従し、キリストにあって生きている以上、それは私たちの存在を通して、地上の事物が、御名の権威に服することを意味する。

こうして、キリスト者は、地上の諸原則をすべて足の下に従える方法を学ばなければならない。それができるようになって初めて、キリストにある新しい人――地上の堕落に巻き込まれ、触れられることのない、真に高貴な人としての霊的地位が現れ出て来ると言えよう。

異教のシャーマンや、修行僧も、物理法則を従える方法を熱心に研究している。しかし、私たちは、そういう修行を通して自己改造するのではなく、私たちの内側に与えられている新しい命の法則に従って自然に生きることにより、この世を超越する新しい法則の中を生きる方法を身につけるのである。

ただし、私たちは肉体的な修行の中を通りはしないが、日々の十字架は負う必要がある。この痛みに満ちた教訓なくして、決して私たちがヨセフのような崇高な地位に立つことはできない。

キリスト者は、神にあって自分に与えられたこの新しい命の力を開発し、知らなければならない。キリストの復活の命の中に、神がどれほど人を愛され、恵まれ、人に崇高で重い使命を託されたか、なぜ、どのような目的で、神は人を創造されたのか、その答えが凝縮されて込められている。

アダムが創造された時、神はアダムに地を治めるように求められたが、その使命は、今日、キリストを通して、キリストにあって生きる私たちに託されている。私たちはこの新たな法則――御国の到来を、人々に告げ知らせる者であり、その新しい法則を実際にこの地上にもたらし、霊的収穫をもたらさなければならない。そうして行くときに、その支配権が、不思議な形で、この世の事物だでなく、多くの人々の心にも及んでいる様子を見ることができるだろう。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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