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・自分に不都合な信者の言動はすべて「被害妄想」として片付ける牧師たち

➀ 村上密の一家によるアッセンブリー京都教会の私物化と教会のカルト化

  
アッセンブリー京都教会(京都七條基督教会)は、事実上、村上ファミリーによって私物化され、カルト化してまっている様子が見受けられる。

一つ前の記事で筆者は、当ブログを巡る事件の一審を担当してくれた裁判官が、4月1日付で福岡へ異動になったのと同時期に、村上密のいる京都七條基督教会で短期間で主任牧師から退けられた長澤聖志牧師が、博多へ異動になったことを追記した。

この人事については、長澤牧師自身が長年執筆していた「元気です! ながさわです!!」の中で発表している。博多へ転任後は、ブログも移転した様子である。



さて、村上密が主任牧師を引退したのは2015年3月末頃のことである。村上は当時のブログ記事「残りの人生」の中で、「40代の牧師が主管者になれば、教会は20年以上は安定した教会運営ができると判断した。」と明言し、40代の長澤氏に主任牧師の地位を譲り、20年以上の長期的な視野に立った安定した教会運営を目指すとしていた。



このように、京都教会では、20年も先を見据えて主任牧師の交替が行われたはずが、なぜ、それからわずかたった数年で、長澤牧師が主任の地位から外され、村上の妻である恵子が主任牧師に就任する運びとなったのか、さらに、それで終わらず、なぜこの4月に、長年、村上の下で働いて来た長澤牧師が博多へ異動になったのか、村上のブログでは一切、その説明がないことは極めて奇妙に感じられる。

だが、村上の息子である渡伝道師が同教会で奉職していることを考えれば、これは要するに、ファミリー経営の企業のごとく、村上が同教会でゆくゆくは息子を主任牧師に据えて、教会を世襲制にしたいという私物化の願望が強く働いていると見られておかしくない。いずれにしても、それ以外に何らの理由も示されていないのだから、不信感を誘う人事であることは言うまでもない。
 
京都教会で起きた、村上の後継者を巡る不審な人事の動きについて、当ブログでは、繰り返し言及して来たが、それに対しては、村上本人から、筆者に対して、実に些細な問題を取り上げては揚げ足取りをするような非難の記事が発表されただけでなく、掲示板にも、村上の支持者と見られる人物が、次のような投稿をして、筆者をいわれなく非難している。

こうした投稿を見ても、事実上、この教会はカルト化の道をひた走っていると見るのが自然ではないだろうか。



ちなみに、「法人に対する殺人行為」などといった言葉は、聞いたこともない用語であるが、このような根拠も不明な用語を用いて、村上の教会を擁護するために、筆者に対する非難が行われていることに、筆者は、この教会の深いカルト化の現実を思わないわけにいかない。
 
これは「国体の変革」を試みる行為を、死罪に相当するとみなした戦前・戦中の国体思想とほとんど変わらないものと見える。要するに、牧師夫妻(一家)を神格化し、法人(教会)というものを、牧師夫妻という「現人神」を祀るための「神聖な入れ物」とみなし、京都教会をメシアを受け入れる神聖不可侵な入れ物とみなせばこそ、生まれて来る発想なのだと言えよう。

こうした記述を通して、京都教会は、牧師一家を現人神のごとく信奉し、教会全体が牧師のファミリーによって私物化されることを当然視するという重度のカルト化状態に陥っている様子が見受けられる。
 
だが、長澤牧師の転任に伴い、早速、こうした問題は、掲示板でも指摘されるようになり、当ブログで過去に指摘した、鳴尾教会において、村上の義理の父である津村昭二郎牧師と、村上密が協力して起こした、津村氏の後継牧師夫妻の事実上の追放という忌まわしい事件との類似性も指摘されている。


 
鳴尾教会で村上密と義理の父である津村昭二郎牧師がどのような形で、密室の話し合いだけで、鳴尾の後継牧師と目されていた夫妻に異動を迫ったかという事実の経緯については、「正義の仮面を被り、教会とクリスチャンを迫害する村上密牧師の危険な活動➀」にまとめているため参照されたい。





 なお、掲示板でも指摘されている通り、村上は2017年4月1日付のブログ記事「京阪中央教会 異常な役員構成」 では、「民主的な教会運営を心がけしている教会は、は(ママ)三親等以内が3分の1を超えないようにしている。」と指摘している。

しかし、村上の教会では、津村昭二郎、村上密、村上恵子、村上渡と(津村かほる氏を除いたとしても)村上ファミリーだけですでに4名もの教職者がいることになり、その他、同教会に常時、奉職している牧師たちが全員で何名いるのか、ホームページには公表もされていないため、不明である。

そんな中で起きた長澤牧師夫妻の転任である。これでは、京都七條基督教会は到底、「民主的な教会運営」をしているとは言えないのは当然である。

  
 
* * *

② 一体、あなたは誰を「被害妄想」としたいんですか、村上密さん?

ちなみに、掲示板でこうした指摘がなされるようになると、当ブログには、村上支持者が不都合な記事のランキングを押し下げることを目的としての行為と見られるが、不明なアクセスが集中しただけでなく、村上自身のブログに、早速、5月6日に「被害妄想」という記事が投稿された。

ちなみに、この記事には、日時、人物、状況の特定はない。従って、この記事が何を目的として投稿されたのかは、読者に明らかではない。
 
だが、この記事に「最近、被害妄想について聞かれることが多くなった。」などと書かれていることは、あまりにも唐突でしらじらしく不自然な出だしである上、「被害妄想」や「妄想性障害」などの言葉は、村上のブログの過去記事を検索しても、過去に一度も使われたことがない事実を見ても、これが「村上用語」ではないことがすぐに分かる。

そこで、筆者は、心理学を専門に学んだわけでもない村上が、いきなりこんな心理学者めいた用語を振り回し始めたのには、必ず、他者からの影響があるはずだと推察した。そこで、この問題を解明するために、村上は唐沢治とは異なり、精神医学や心理学を学んだ学者でもないのに、なぜ一牧師としてこんな記事を投稿するのだろうという疑問を、故意に当ブログのひとこと欄に残しておいた。

そうしたところ、以下にも記す通り、その後まもなく、村上のブログには唐沢の陳述書に関する一連の記事が投稿され、村上が唐沢と水面下でやり取りしていた事実が判明したのである(唐沢からの許可がないのに、村上が唐沢の陳述書の公表に及ぶことはあり得ないと考えられるため、両者の間にやり取りがあったと理解される)。

そこで、筆者は、以上の「被害妄想」の記事は、村上が唐沢の影響を受けた上で、筆者への当てつけの意味を込めて投稿したものなのだろうと推察する。

なぜなら、筆者は一つ前の記事で、次のように書いたからである、「以前に筆者が控訴したことを、筆者に先んじて発表したのは村上自身である。にも関わらず、筆者の側から控訴がなされたことを書かずに、事件が終わったかのような印象を振りまいている様子を見れば、 村上の意識は大丈夫だろうか、という疑問が生まれて来るのは当然だ。

筆者はそこで、己の罪から目を背けたい人々は、往々にして自分の目から真実をごまかすために、事実認識そのものを歪め、現実ではないことを、現実であるかのように、あからさまに信じ込むことがあり、村上も、自己の罪から目を背けてごまかしに満ちた弁明を重ねているうちに、いずれそうなる可能性がある、ということを書いた。

なぜなら、杉本徳久にも、同様のことが起きたからである。筆者は2009年から、杉本の行為をクリスチャンにあるまじきものと主張し、2010年頃からは権利侵害であると主張して来たが、己が不法行為を認めたくなかった杉本は、常に筆者を「精神異常」と決めつけることで、筆者による罪の指摘から逃れようとして来た。
 
杉本がこれをあくまで言い逃れのための嘘と分かった上で主張していたのであれば、まだしも事態は軽く済んだかも知れないが、一審で杉本が提出した準備書面のすべてを読む限り、杉本は本気でそのように思い込んでいたと確信できる。
 
筆者はこれまで幾度も、「主を畏れることは知恵の始め。」(箴言1:7)という御言葉を引用しつつ、聖書のまことの神への信仰を保つことこそ、人の精神の健康の秘訣であると述べて来た。

人が己の罪を認めたくないがゆえに、嘘に嘘を重ねて自己弁明していると、そのうちいずれ、事実認識そのものが根本から歪んで、正常な判断を保てなくなって行くのである。

村上のブログ記事には、村上が自分にとって不都合な現実を見ないで済ますための多くのトリックや、ごまかしが見られるこを、筆者は、再三再四、過去の記事で指摘して来た。そのようなごまかしを重ねていれば、やがて精神にも異常をきたす可能性があるというのは当然である。

従って、村上が発表した以上の記事は、このような指摘がなされたという文脈の中で、投稿されたものであることを考えると、村上がここでまたもや白黒反転論法に陥り、「精神に異常をきたしているのは、おまえだ、ヴィオロン」との皮肉を込めてこの記事を投稿したと考えたとしても、さほど不自然ではないと言えよう。

しかし、心理学用語を使って信者に病名を診断するような行為は、村上の過去の行動には見られないものであることから、筆者は、村上以外の人間が、村上にそのような話を示唆することがない限り、以上のような記事の投稿はあり得ないと推測した。

とは言うものの、村上は病名診断のような行為を過去に行ったことはないかも知れないが、同様の考え方は、以前から保持して来たものと見られる。

なぜなら、上記した通り、村上一家による鳴尾教会の人事の私物化問題を指摘した記事でも紹介した通り、かつて津村氏の下で働いていた伝道師夫妻は、猛暑の中、クーラーが壊れた狭い部屋で過ごし、体調を崩したため、妻が流産するという出来事が起きたことを手紙で訴えている。ところが、津村氏が過酷な環境で二人を働かせていたという伝道師夫妻の悲痛な訴えに対し、村上の義理の父である津村氏は、

㉚ なぜ、クーラーが故障していることを牧師に言わなかったのか。これは被害者意識の強い文章ではないか。

と指摘していた。これに対し、筆者は、

「被害者意識の強い文章だ」という津村氏の弁明には呆れて笑ってしまう。しかも、これはプロテスタントのキリスト教界の牧師たちの不祥事を告発し、教会のカルト化を憂い、被害者となった信徒らを「救済する」という名目で、「カルト被害者救済活動」を繰り広げている村上密氏の義理の父の言葉なのである。

 これが、カルト被害者を救済すると言っている人たちにふさわしい言葉なのであろうか。他の牧師たちの悪事だけは厳しく告発しておきながら、いざ自分たちの冷淡さが咎められる段階になると、たちまちそれを他人の被害妄想だと言い訳して、無責任に逃げを決め込むつもりだろうか。そんな彼らがどうやって被害者を理解し、助け、「カルト被害者救済活動」など行えるのだろう。他人の被害者意識を否定するならば、信徒の被害者意識を利用して自らの儲けの手段とするなどナンセンスである。そんな活動はさっさとやめればいいことである。


と書いた。つまり、この頃から、村上ファミリーが、自分たちにとって不都合な事実は、「被害者意識が強い(被害妄想と言っているのとほぼ同じ)」などのレッテル貼りをしては耳を塞いで退けて来たことを指摘したのである。

掲示板では折しも、この記事が再び注目を集めていたところであるし、一つ前の記事で、筆者は、村上はよほど自分の活動の支持者たちが、掲示板で筆者一人に対して行った集団的なリンチ(権利侵害)に罪悪感を持っているのではないか、それだからこそ、サイバーカルト監視機構は実在しない、などと繰り返し否定せざるを得ないのではないかと書いた。
 
掲示板で起きた事件は、通常であれば、人を自殺に至らせていてもおかしくない出来事であるが、筆者は一審の間に、筆者のことを気遣い、紛争を解決に導いてくれる人たちに出会い、彼らを決して悲しませたくないし、負い目を負わせたくもなかったので、そうした圧迫には断固、立ち向かって、心の平安を保つ秘訣を学んだと書いた。

しかし、村上は掲示板で起きていることなど、筆者の「被害妄想」に過ぎない、と言わんとした可能性は考えられるし、そもそも筆者が村上を訴えた行為自体が「被害妄想」に過ぎないと言いたいのだろうとも推察されるし、また、筆者がキリストにあって、心の平安と喜びを保つ秘訣を知った、と書いていることが何より許せず、杉本同様に、「おまえは人格障害だ、心の平安などあるはずがない」というレッテルを貼ろうとしている可能性も、なきにしもあらずだ、と考えられる。

しかし、名指しであからさまにそのように書くと、名誉毀損に問われる可能性があるため、暗示にとどめたのではないかと。

その推測は、この記事の投稿後、村上が以下にも示す通り、ただちに「唐沢治の陳述書1~4」というブログ記事を投稿し、そこで筆者を断罪したことから、当たらずとも遠からずと言えるのではないかと見られる。つまり、「被害妄想」という記事は、筆者を断罪するための皮切りとして投稿されたと考えるのが妥当なのである。

だが、すでに述べた通り、心理学は唐沢の専門分野であることから、筆者は、村上が以上の記事を発表した背景には、最初から、唐沢の影響があるものと疑っていた。そこで、唐沢の陳述書が村上のブログから公開された事実は、まさにそれを裏づけるものであったと言えよう。
 
* * *

③ 自分に刃向う信者をみな「精神異常」と決めつける唐沢治
 
ちなみに、唐沢はこの春、杉本徳久が筆者に敗訴したことにより、過去に唐沢を偽預言者呼ばわりした記事を削除せねばならなくなったことをきっかけに、「杉本徳久氏の『現代の風景-随想 吉祥寺の森から』における事件の報告」と題していたブログ記事を、「ニュッサ&ヴィオロンに関わる事件について(2版)」と題名を書き換え、その記事の内容からも、杉本に向けた非難の言葉を削除し、改めて、唐沢治のミニストリーを批判して、唐沢の集会から離れ去った筆者とニュッサ氏、れん氏の三名をまとめて断罪するという内容に書き換えを行った。



唐沢を非難した杉本の記事が削除されたのは、筆者が杉本に勝訴したがゆえであり、筆者の手柄と言っても良いにも関わらず、唐沢が筆者には一言の感謝もなく、かえって筆者を、唐沢が告訴したKFCの元信徒と同列に並べて断罪し、杉本を無罪放免したことは、唐沢のものの見方の根本的な異常をよく示す事実であると言えよう。

ちなみに、筆者はこの記事が公表されるまで、ニュッサ氏の存在(面識はない)を伝聞によって知っていただけで、れん(ミルトス)なる女性の存在も、その女性の投稿記事のことも知らなかった。

唐沢が「ニュッサ事件」と呼んでいるKFCの元信徒の事件については、以前に書いた通りである。2010年当初、筆者は、唐沢が「密室で呪いの予言を行った」などとKFC元信徒が杉本ブログへ投稿した内容を、真実であると認める気にはなれず、唐沢を擁護していたが、その後、筆者自身が、2012年に唐沢からKFCを追放されるに当たり、鵜川夫妻と三人で「呪いの予言」と呼んで差し支えのない罵倒の言葉を浴びせられたことから、ニュッサ発言は真実だったのではないか(つまり、唐沢は虚偽告訴をした可能性がある)という強い疑いを持つようになった。

ちょうどそのような記事を筆者が投稿した頃、唐沢が前掲記事を更新し、そこで「なお、HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。 」などと記したのである。

つまり、唐沢がそう書かなければ、筆者も気づかなかったものを、唐沢は、筆者の他にも、ニュッサ発言は事実であり、「呪いの予言」はあったと認める人物が現れたことを、自らのブログで宣伝してしまったのである。
 
唐沢はここで、「ミルトスも<略>精神障害を隠れ蓑に偽りを語るべきではないであろう。 」などとして、あたかも「れん」と名乗る女性が、精神障害者であるかのように決めつけている。

筆者はこの女性のことを唐沢の記事で知り、さらに、掲示板でも彼女のブログが紹介されたので、その所在を知ったが、筆者は掲示板における誹謗中傷に他人を巻き込みたくないので、今に至るまで、彼女の詳細は知らない。

ただ一つ、直接確かめたことがあるとすれば、それは唐沢が彼女とニュッサ氏の結婚の司式をしておらず、英国キャンプに同行した他の信者のカップルの司式を行ったという事実だけである。それはかつて、KFCの元信徒が筆者に向かって、唐沢がニュッサ夫婦の司式を行ったかのような証言をしていたので、筆者はそれが事実でないことを確かめたものであった。おそらく、その信徒が筆者にこのエピソードを話してくれた際、昔のことなので、別のカップルの結婚の話を混同していたものと見られる。

さて、筆者がれん氏のブログを見る限り、彼女が心の病を患っていたのは、もうずっと昔のことであり、現在は健康そのものとなり、さらに、彼女は「破戒」したと書いている通り、宗教界を去ったようであるから、現在はキリスト教信仰を持っているかどうかも分からず、その点で、筆者とはかなり異なる歩みをしている様子が分かる。

にも関わらず、唐沢は、「HN"ミルトス"はヴィオロンに合わせるように現在に至り(2019年)、私が「呪いの預言」をしたとか、4-5時間も正座させたなどとも主張している。」などと記し、まるで彼女が筆者と歩調を合わせた人生を歩んでいるかのように書いている。
 
まるで第二のヴィオロンが出現したとでも言いたげなニュアンスを感じる記述だが、これを読むと、唐沢は、この記事の発表当時、筆者が存在も知らなかったれん氏を、まるで筆者のドッペルゲンガーか何かのようにとらえているのでは?という気さえしてならない。

というよりも、唐沢はここで、かつて精神障害を患っていたというれん氏の経歴を、筆者と意図的に混同し、さらに、そこに精神不安定になり(唐沢の用語だと「自己崩壊」した)ニュッサ氏もごちゃまぜにして、要するに、唐沢治に刃向う信徒など、みな精神障害者に決まっている、妄想性障害だ、被害妄想だ、と言いたげな決めつけを、一緒くたに行うために、あえてこのように三人を並べて印象操作に及んでいるのではないかと思われてならない。

だが、れん氏が現在、精神障害に陥っておらず、健康である以上、唐沢のそうしたトリックは成立しないし、むしろ、彼女が「呪いの予言」があったと証言している限り、唐沢の側のアリバイが崩れたと言うのが事実であろう。

ちなみに、筆者は生まれてこの方、精神科にかかったことは一度もなく、現在も、いかなる精神疾患にも陥っておらず、心理学者のカウンセリングも受けたことはない。そこで、杉本がそうしたように、医者でもなく、カルテもないのに、他者をいわれなく精神異常者と断定するような話を押し広げていれば、いずれ、そのようなことをした人間が真っ先に責任を問われるだけのことである。

証拠もないのに、そうして人を罵倒したいと願う人々がいるなら、あえてその愚行を止めるつもりは筆者にはないが、そのような都市伝説や怪談のような類の話が、訴訟で大真面目に取り上げられることはないであろうということは断言できる。むろん、ネットの読者も今日、そこまで侮られる存在ではなかろう。

* * *
 
④ 唐沢治の防衛の盾として都合よく利用され、使い捨てられる道を歩もうとする村上密

さて、こうした中で、村上が発表した一連の「唐沢治氏の陳述書1~4」の記事は、村上が一方的に唐沢の肩を持って筆者を断罪する内容となっている。

しかし、おそらく、村上がこの記事を発表した本当の動機は、ただ筆者を断罪するのみならず、長澤牧師の異動や、村上ファミリー(特に村上の息子に注目が集まる)による京都教会の私物化といった問題から、掲示板の話題を含め、読者の目を逸らすことが主たる目的であるものと見られる。

しかし、初めに断っておくと、村上はこの記事の公開によって、非常に危険な賭けに出たことになる。

まず、唐沢治という人物を、実際に知っている経験に立って、筆者が言えることは、唐沢は自分が窮地に陥ったときに、常に自分を支持する信徒などの他者を巧妙に盾のように用いて、自分だけが都合よく危機を乗り越えて来た男だということである。

唐沢はKFCの元信徒を刑事告訴した際にも、筆者に警察での証言を頼んだり、和解の呼びかけを推敲するよう依頼するなどして、筆者の手を借りて元信徒を追い込むことで、この事件を自分に有利に解決しようとした。つまり、自分が矢面に立たなくて済むように、巧妙に他人を盾にしながら立ち回って来たのである。

そうした唐沢の利己的な行動は、その後、唐沢が杉本に筆者の個人情報を渡した時にも同じように見られた。唐沢は自ら矢面に立って筆者と対立せずとも、杉本が自分に代わってその役目を都合よく果たしてくれることを見込んだ上で、あえて杉本に情報提供したのである。その結果として、杉本がその責任を負わされて敗訴に追い込まれている。

また、それ以前に坂井の裁判の時にも、唐沢はこれと同様の行動をしている。唐沢は坂井を陰ながら支援するという立場を装って、坂井の裁判を通じて、筆者の個人情報を杉本に提供させた。しかし、その裁判に坂井自身は敗れている。唐沢の「支援」は何の効き目も無かったのである。
 
このように見ると、唐沢の言い分を真に受けて、唐沢を擁護したり、協力する目的で動いて来た人間は、誰もが敗北に追い込まれるか、もしくは、欺かれて、罠に陥れられるような結果になっている様子が分かる。

そうした唐沢の行動が、今になって変化することは考えられない。筆者は最近、唐沢に対する訴訟を間もなく提起することで、唐沢の前掲記事を削除させるつもりだという意図を明らかにしたことから、そろそろ訴訟の時期が近くなって来たと考えた唐沢は、この度、この事件に一人で立ち向かうことを避けるために、今度は村上密を利用しようと考えた可能性があることを断っておく。
 
筆者から見れば、唐沢は村上よりも知的に上手であるため、そういうことは十分に起こりうる事態である。

しかし、そのような提案にまんまと乗せられたのであれば、村上は、したたかな報いを受けるだけである。ちなみに、唐沢は周知の通り、ニッポンキリスト教界に尽きせぬ憎悪を抱き、とりわけあらゆる牧師に対する憎しみを燃やし、罵倒を続けていることで有名である。

唐沢のニッポンキリスト教界の牧師に対する口汚い非難と嘲笑は、筆者と出会う前から始まっていたので、もうかれこれ15~20年くらいは続いているのではないかと見られる。その上、、今度は、村上密をもターゲットにすることにしたのかと呆れるのみである。

だが、村上も杉本を盾のように利用した趣が強いことから、そうなったとしても、自業自得と言う他ない。次の御言葉を引用するのみである。

悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(二テモテ3:13-17)

唐沢はすでに東洋思想、ニューエイジ、オカルト思想とキリスト教を合体するなどして、正統な聖書の教えから完全に逸れてしまっている。その上、ニッポンキリスト教界に対する尽きせぬ憎悪を燃やし、牧師たちに対する罵りの言葉を日々、語り続けている。このような人物と提携して、誰がどうして無傷で済まされようか。

筆者はニュッサ氏の事件の際にも十分に学んだが、キリスト教徒には、まことの弁護者であられる神が着いておられるわけだから、他人の弁護という仕事は、決してやってはいけない仕事である。他人を弁護しようとすると、どうしても、人は加減が分からず、一線を超えてしまい、行き過ぎた発言を行って、過ちを犯す傾向がある。しかも、自分が庇いだてしている人間が、本当に正しい、弁護に値する人物かどうかは、神でなければ分からない。そこで、もしも弁護しようとしている人間が、悪人であった場合、その人間を弁護する者は、同じ罪に自分もあずかることになるだけなのである。

筆者がかつて唐沢のために証言した際には、筆者は故意に偽証したわけでなく、また、ニュッサ氏が書き込んだ先が、杉本ブログだったために、筆者自身も被害を受けた身であり、そういうこともあって、神は筆者を助けて下さり、さらに信徒も不起訴となった。

だが、唐沢があの時、有利な立場を保てたのは、明らかに筆者の助力があったことによる。それが今はなく、また、他の証言者も現れたわけだから、唐沢は、前よりもっと苦しい立場に立たされながら、筆者に敵対しているわけであり、唐沢には勝ち目がない。むろん、その弁護を引き受けた者も、都合よく防衛の盾とされるだけで、率先して負けて行くことになるのは避けられない。

少なくとも、自分が陥れられていることさえ分かっていない人間には、まず勝ち目はないと言えよう。筆者から見れば、唐沢の弁護は、到底、村上にできる仕事ではない。

* * *

⑤ 唐沢治の言い分を真に受けた村上密によるデマ拡散と権利侵害とそれに伴う厳しい報い
 
さて、筆者が2012年にどういう経緯でKFCを追放されたか、そこで鵜川夫妻が何を行ったのか、唐沢の陳述書にいかなる虚偽が書かれているかは、「村上密・杉本徳久の両名を被告とした民事訴訟(第一審)の総括(7)―唐沢治と杉本徳久のメール文通―彼らのために真理の道はそしられるのです。」に詳しく記したので、こちらを参照されたい。
 
村上は以上の記事を一切読むことなく、唐沢の主張した虚偽を鵜呑みにして、筆者を中傷する記事を発表した。そのようなことをすれば、一方的に唐沢の言い分を鵜呑みにして虚偽を言い広めた村上が、唐沢の分まで、その責任を控訴審で問われることになるだけである。何と愚かかつ軽率な行動であろうか。

さて、筆者は唐沢に対して将来的に記事の削除を求める訴訟を提起する意図であることを、当ブログで隠していないので、村上の書いた「唐沢治氏の陳述書 1 」には、新事実はないと言えよう。また、筆者が「神の啓示を受けた」として横浜へ転居した事実もなく、これは唐沢の作り話であることも、上記の記事に書いた。横浜案内その他についても、上記記事に通りである。

唐沢治氏の陳述書 2 」も、村上の人格権侵害の記事等と合わせれば、プライバシー権の侵害他の人権侵害が成立する可能性がある。ちなみに、「ルークさん」という言葉を、村上がわざわざ引用しているところに、筆者は村上の唐沢に対する深い嫉妬を感じざるを得ない(この頃、唐沢は杉本に対しても、村上に対しても、敵対的な立場にあったため、筆者と唐沢との親交は、村上から見て非常に忌むべき不快なものと映ったであろうことを疑わない)。

村上は愚かにも、ここで、唐沢の言い分を鵜呑みにして、筆者が坂井と「協力体制」にあったかのように思い込んでいる。しかし、筆者は当時から現在に至るまで、坂井といかなる協力もあった試しはなく、坂井とは面識も、連絡のやり取りもないまま、2012年にKFCから追放されたため、坂井との「協力」など構築される間もなく、唐沢との関わり自体が終わったのである。

従って、村上が事実でないことを根拠に、「これでヴィオロンを援護するために坂井氏が私にしつこく絡んできたことがわかった。」とか、「なぜ債権者が根拠もなく債務者Aと債務者Bの私と結びつけるのか、それはヴィオロンたちが組んだ「協力体勢(ママ)」の投影だったと思われる。」と断定していることは、筆者に対する人格権侵害と合わせれば、名誉毀損が成立する恐れが非常に高い。

ところで、 杉本徳久が2018年3月28日に送りつけて来た迷惑メールの中にも、以下の内容が書かれていたことが思い出される、「ヴィオロンさんが書かれるとそれは多くの方が読まれるわけですが、唐沢治や坂井能大らの目にも触れるわけです。ヴィオロンさんは坂井とは面識はないだろうと思いますが、あなたが別に調停を申し立てた村上密さんにも散々、嫌がらせ中傷をしてきた人物が坂井です。聞いてみたことはありませんが、村上さんもおそらく非常に迷惑を被っただろうと思われます。」

この時点で、杉本は筆者が坂井を焚き付けたなどとは主張していなかったが、その後、杉本は自分が坂井に対して起こした裁判さえも、あたかも筆者が陰で糸を引いて坂井を焚き付けたせいであるかのように主張を翻し、坂井と筆者との間に「協力関係」が存在していたかのように事実に反する決めつけを行った。
 
現在、村上は、かつての杉本と同様の見解に立って、以上の記事で、唐沢の言葉を利用しつつ、2012年から今日に至るまで、存在したこともない「協力体制」を理由に、あたかも筆者が坂井を焚き付けて、村上に対する挑発行為に及ばせたかのように断言しているのである。杉本との驚くほどの思考の類似性が見られるだけでなく、むろん、正当な根拠のないこの記述が、名誉毀損に相当する可能性があることは、繰り返す必要がない。
 
さらに、村上がここで「「協力体勢(ママ)」の投影」などとして、坂井と筆者との間の存在しない「協力体制」を根拠に、これを筆者が、債務者A、Bに「投影」して、A,B,Cの間に「協力体制」があると思い込んだかのように主張していることも、極めて不可解な独自の論理の飛躍と言う他ない。一体、これらの両者(両グループ?)の間に、何の関係があるからそのような結論に至り着くのか、さっぱり理解できない話である。(しかも、筆者は一切、A,B,Cの三者が共謀関係にあるという主張を行った事実はない。)
 
いずれにせよ、杉本と同じように、他人から吹き込まれた悪口を、見境なく信じ込んでは触れ回る愚かな人間には、相応の報いが待ち受けているだけである。
 
村上は「このヴィオロンの謝罪を信じていた唐沢氏はやがて攻撃を向ける立場になった。」などとするが、不可解な主張である。自分たちは信者の謝罪を本気にしていた分だけ馬鹿だった、信頼を裏切られ、欺かれたのだ、と言いたげな自己憐憫の思いが透けて見える。
 
だが、前掲唐沢の記事の内容を読んでも分かる通り、唐沢は、信者をあからさまに断罪したり、信者に理解できない不可解な行動を繰り返すことによって、信者を戸惑わせ、信者が罪悪感を抱いて、唐沢に対して謝罪せざるを得ないような状況を作り出すのが巧みな人間である。
 
一度でも信者から謝罪があれば、それをいついつまでも引っ張り、「あの時、あなたは謝ったんだから、このことについても、あのことについても、どうせあなたが悪いんでしょ」と、一つの謝罪を拡大解釈しながら、諸々の行動を責めるための根拠としていく。和解するためでなく、言質を取るために謝罪へ追い込むのである。そのことは、唐沢が、れん氏やニュッサ氏の謝罪のメールを「必要があれば公開する」などと告げて、脅しめいたやり方で、自己正当化の証拠として提示しようとしている態度にも、はっきり表れている。

(しかし、暴力を用いて自白させても、それが有力な証拠とならないように、心理的圧迫を与えて、何を謝っているのかすら限定されていない漠然とした謝罪を取りつけても、それが相手に非があることの有力な証拠とならないのは言うまでもない。)
 
唐沢にとって信徒からの「謝罪」は、鬼の首を取ったぞ、という証拠なのである。こういう人間には、間違っても謝罪すべきではない。しかも、村上が言及しているメールは、筆者自身が一度も公開していないもののため、当然のことながら、人格権侵害の記事と合わせれば、プライバシー権の侵害に当たるだろう。

唐沢治氏の陳述書 3 」も同様に、「土下座」などそもそもクリスチャンの習慣にはないことから、唐沢が作り話をしていることは、信者にはすぐに分かることはすでに述べた。村上はあえてそのように明々白々な事実をも否定したいようである。

KFCは開かれた集会場であり、その場には、鵜川夫妻と筆者以外の他の兄弟姉妹もいたのであって、鵜川夫妻はメッセンジャーであり、筆者はメッセンジャーでなかったわけであるから、何の権威も肩書もない平信徒の立場にあった筆者が、いかなる権限に基づき、鵜川氏に土下座を命じたり、強要することなどできようか? また、何を根拠に、鵜川夫妻がその「命令」に従う義務があるのか?

村上は牧師としてこの疑問に訴訟でどう答えるのだろうか。筆者から見れば、笑い話であるが、見ものである。

しかも、村上自身が引用している唐沢の言葉に、「ヴィオロンを追放するように迫るU夫妻に対して、債務者Cは聖書的根拠がないと言っている。」とある通り、当時、唐沢にも、筆者をKFCから追放するような理由は何一つ見当たらず、鵜川夫妻が、筆者に対して行き過ぎた主張を行っていたことは明白だったのである。

にも関わらず、村上は、唐沢の記述を鵜呑みにして「土下座」の話題を引っ張り、「もし土下座が強要であればこれは強要罪(刑法223条)となる。」と根拠もなく疑いを書き立て、「もし、土下座が強要されたものであれば、ヴィオロンを追放する法的な根拠にはなる。」などとして、唐沢が筆者をKFCから追放した行為に、後付けで正当性を持たせることが可能であるかのような飛躍した論理を展開する。

このように、事実かどうかも分からない話を、想像だけで果てしなく膨らませて、自分が所属してもいないよその教会で、信者を追放する牧師を擁護するとは、村上の悪意に満ちた性格、特に、他の教会における分裂騒ぎや、裏切りや、離反の話が好きでたまらないという、異常とも言って良い嗜好をよく物語る記述ではないだろうか。

常日頃から、とことん他人の悪口が好きで、誰かを悪者にできそうな話には、正義漢ぶって、見境なく飛びつき、これを言い広めることで、達成感を得るような性格でないと、こうはならないであろうと筆者は思う。
 
つまり、これは「お互い信徒に見捨てられた哀れな牧師同士」、互いに涙を注ぎ合って、信徒の悪口を言い合って、被害者意識に溺れましょうね、ということに他ならない。
 
しかし、唐沢も「U夫妻が土下座する事件が起きました。」と書いて、(土下座の事実そのものが存在しないことは言うまでもなく)、これをあくまで鵜川夫妻の自主的土下座としていることからも分かる通り、ここには「強要罪」などという言葉を思わせる事実は、一つも口にされていない。

そのようなことが読み込める文脈ではないことは明らかであるにも関わらず、この場面に、村上が行き過ぎた想像をめぐらせて、唐沢を擁護すべく、また、鵜川夫妻を何とかして「被害者」に仕立て上げるべく、これを筆者の強要であったかのように捏造・誇張する発言をしているわけだから、その記述はただでさえ虚偽である唐沢の記述を前提に、これを想像によって膨らませて筆者の名誉を傷つける発言として、権利侵害に問われる恐れは十分にある。
 
村上が悪意により、筆者を貶める目的でこれを書いていることを、筆者は疑わないが、たとえそうでない場合にも、正体もよく分からない、信頼できない他者をかばおうとすると、行き過ぎが必ず生じて、悪人を弁護した者が、悪人よりもさらに重い罪に問われる可能性が高いのである。

そこで、クリスチャンは他者の弁護を浅はかに引き受けることは絶対にせず、そのような仕事をキリストに任せるべきだと筆者は言うのである。村上のしていることは、その点で、愚かさの極みと言えるであろう。
 
さらに村上は、「U夫妻に対して「教会の乗っ取るための工作員」と言い張る。この陳述書には債務者Cの債権者に対する性格描写が書かれてある。」などとしているが、陳述書は、そもそも性格描写を記すための書面ではない。しかも、鵜川夫妻がクーデターを起こしたことは、唐沢自身が記事にしたためているので、村上は、唐沢の自己矛盾に満ちた記述によって板挟みとなり、罠に陥れられることとなる。

さらに、村上は「債権者が横浜に転居してきた平成21年夏頃から、債務者Cとは3年数ケ月の信仰的に共に歩んだことがわかる陳述である。「同志」の関係は、第三者的には結構続いたと思える。」などと、悔し紛れのような記述を行っている。

だが、筆者から見れば、筆者は子供の頃からアッセンブリー教団にいたのであり、それに比べ、KFCで過ごした時間など、何と短かったのだろうかと思うが、村上にはそうは見えないらしい。もっと早く決裂に至らせたかったのに、3年も続いたのか、という悔しさをにじませる記述である。やはり唐沢に対する嫉妬のような思いが感じられる。

唐沢治氏の陳述書 4 」も同様で、唐沢は自分で鵜川夫妻による「クーデター」が起きたことを認めているのであるから、唐沢の主張それ自体が、自己矛盾によって成立しないものである。また、筆者は横浜に来たときに孤独感を唐沢に訴えたことなど全くないと主張しているにも関わらず、唐沢の言い分を一方的に信じ込んで嘘を記述しているわけであるから、村上はその責任も問われるだろう。

「かつては裁判を否定していたヴィオロンはこここそ自分の戦いの場であるかのごとく、準備書面の準備に多くの時間をかけている。債権者はいつ休息しているのだろうか。」
  
筆者が訴訟を起こすかどうかについて、村上はそもそも何かを言える立場にない。訴訟を起こすことは市民の権利であるが、これを否定するつもりだろうか。
  
しかも、これが昨年の一審が開かれていた間に発せられた言葉ならまだ分かるが、なぜ今、こんな言葉が出て来るのか、理解に苦しむ。何しろ、筆者は今、控訴中であって、村上に対する準備書面を書いていない。唐沢に対する訴えも、訴訟に転じるという名目で取り下げされたと、村上自身が認めているわけだから、この申立についても、準備書面の作成などなかったことになる。

それなのに、筆者が「準備書面の準備に多くの時間をかけている」かどうか、なぜ村上に分かるのか? 実におかしな話である。そもそも他人のパソコンを覗いたりでもしない限り、いかなる文書の作成に誰がいかなる時間を費やしているかなど、分かるはずもないことではないだろうか。

さらに、筆者は信仰があればこそ、他人の何倍もの仕事ができるようになると、前々から主張している。筆者の休息のことを心配するなら、そもそも村上がブログ執筆をやめることが一番の休息となる。

以上、残る部分は訴訟にて主張すれば良いが、まさしく墓穴としか言いようのない村上の記事である。どうしても、村上は軽微な罪では飽き足らず、より重い罪で自分を裁いてもらいたいらしい。
 
もしもこれらの記事が、唐沢のブログから発表されたものであれば、唐沢はあからさまな人格権侵害を犯しているわけではないので、人権侵害が成立するための要件は、少しこみいったものとなっていたであろう。しかし、村上はすでにあからさまな人格権侵害に及んでいるため、これを権利侵害として訴える前提は揃っている。

自分が控訴されている立場でありながら、このような記事を発表するとは、筆者から見れば、果てしない愚行であり、またしても唐沢に嵌められる人間が出現したというだけの笑止千万な話でしかない。今まで唐沢に関わって、さんざん負の影響を受けて来た者が、複数名乗り出ており、幸せになった信徒が見当たらないことを知りながら、なぜわざわざそんな愚行に走るのであろうか。

やはり、村上が杉本の発言を自分に都合よく利用した行為が、村上自身に報いとして跳ね返っているのであろうと言わざるを得ない。
 
もしも村上が、唐沢と組んで筆者を追い詰めれば、筆者に心理的打撃を与えられるだろうと考えているのだとすれば、それは愚かな間違いである。そもそも悪人と詐欺師がタグを組んでも、より悪に落ちて行く時間が縮まるだけで、何の勝算の見込みもない。

筆者がまことの神により頼んでおり、これらの牧師たちが、聖書の御言葉への忠実な信仰を捨てている以上、彼らがどれだけの嘘を懸命にばらまいたとしても、厳しい報いが待ち受けているだけで、一切勝ち目がない。もはやそのような嘘に騙される人数も、非常に限られている。
 
それにしても、悪人と詐欺師が互いに信頼も協力もできず、自己憐憫や打算に働きかけて、互いに騙し合い、責任をなすり付け合って、互いを破滅させる形でしか、共に悪事を遂げられないというのは、実に興味深いことである。これが悪人流の「協力体制」ということなのかも知れない。
 
* * *
  
いずれにしても、村上が以上のようにいきなり、唐沢の陳述書の話を持ち出したのは、長澤牧師の追放に近い転任や、村上一家による京都教会の私物化という問題を、これ以上、読者に追及されないためのスピンである可能性が高いということを何度でも断っておきたい。 

筆者が一連の記事を発表したことにより、唐沢の陳述書の問題などはほぼ終わっている。今、注目されるのは、カルト化して、現人神と化した牧師たちを祀り上げる母体となった京都教会とKFC が、これからどういう末路を辿るのかである。

これらの教会にはしたたかな報いがあるだろう。バビロンの倒壊には巻き込まれないようにせよと聖書にはあるから、左遷であろうと、追放であろうと、転任であろうと、このような忌むべき場所から遠ざけられた者は幸いであろう。

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5.唐沢治が杉本徳久と交わしたメール(牧師としての秘密漏示)
 
「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽預言者が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。
彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」(ペテロニ2:1-3)


彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。天使たちは、力も権能もはるかにまさっているにもかかわらず、主の御前で彼らをそしったり訴え出たりはしません。この者たちは、捕えられ、殺されるために生まれてきた理性のない動物と同じで、知りもしないことをそしるのです。そういった動物が滅びるように、彼らも滅んでしまいます。」(ペテロニ2:10-12)

当ブログ執筆者を日夜誹謗している掲示板には、多くの「杉本用語」「村上用語」「唐沢用語」が登場する。本人が書き込んでいるかどうかまではまだ不明だが、以下のコメントで使われている「脳内空転」という言葉も、唐沢治のお気に入りの用語である。



口汚い言葉で筆者を罵っているこのコメントに登場するこの言葉は、以下に示す通り、唐沢が杉本に宛てて書き送った、当ブログ執筆者を罵倒するメールにも登場している。

だが、今は掲示板について話す前に、まずは唐沢治がどのように杉本徳久の圧力に屈し、牧師としての守秘義務を破って、当ブログ執筆者の個人情報を杉本に売り渡し、筆者を陥れて、杉本を筆者に対立させるよう仕向けて行ったか、唐沢治が用いた巧妙な策略について、今回の裁判において新たに判明した事実を提示しながら、振り返っておきたい。

* * *

➀ 唐沢治が杉本徳久に2010年に民事提訴を予告した経緯

唐沢治は、KFCの元信徒が、杉本が2009年に当ブログをバッシングするために発表した記事のコメント欄に、「唐沢から密室で呪いの予言を受けた」という趣旨のコメントを書き連ねたことをきっかけに、2010年にこの元信徒を刑事告訴した上、その事件を自分に有利に解決するために、筆者に警察での証言を頼んで来た経緯がある。

さらに、唐沢治はこれと前後して、筆者に対するバッシング記事を取り下げさせることにより、都合よくKFCの元信徒の書き込みも削除させようという名目で、杉本に宛ててメールを送り、そこで筆者に(はおろか他の誰にも)何の断りもなく、一方的に杉本に民事提訴を予告するという暴挙とも言える行動に出た。

唐沢が杉本に提訴を予告した目的は、KFCの元信者の書き込みについて、杉本による幇助の責任を追及するためであったことは、杉本ブログに2010年8月23日付で投稿された記事「唐沢治からの民事提訴の通告」に、以下の通り、唐沢自身のメールとして公開されている通りである。



 

「また杉本さまにつきましては、メールや私に関する書き込みなどを当局に提出し、一応幇助罪の適用の可能性を検討していただき(あまり高くはないかと思いますが、掲示板管理人が書類送検された事案がありましたね)、また民事提訴させていただきます。法的構成は2ちゃんねるの西村氏と同じ立場になるかと思いますが、後ほど弁護士からご連絡させていただきます。

「容疑者検挙や事実関係の詳細などにつきましては、おいおい私のブログで公表してまいります。なお、私からの直接のご連絡はこれを最後とし、今後は弁護士経由でご連絡させていただきます。

ここに書かれている通り、唐沢はこの当時、杉本に対し、KFCの元信徒による書き込みについて、幇助の可能性を問うため、民事提訴を予告し、以後、杉本への個人的な連絡は一切控え、弁護士を通じて連絡する、と通告したのである。

繰り返すが、この提訴予告は、唐沢があくまで自らの権利を擁護する目的で、杉本に通告したものである。

それにも関わらず、唐沢は、誰にも何の説明もないまま、自ら行った提訴予告を実行に移さなかった。それゆえ、唐沢の提訴予告に激怒した杉本は、唐沢をブログで激しく中傷したのみならず、筆者や、エシュコル氏など、当時のKFC信者に宛てて、幾度となく、唐沢の提訴予告のことで、事の次第を明らかにせよと、信者をなじるメールやコメントを書き送った。

筆者は当時、このような杉本の行為に当惑させられていたが、唐沢はどこ吹く風といった態度であった。

なぜ唐沢は、誰にも何の説明もなく、杉本への民事提訴の予告を実行に移さなかったのか。その理由として考えられるのは、唐沢は勇み足で杉本に提訴を予告したものの、その後、調べてみると、杉本ブログに投稿されたKFCの元信者のコメントについて、ブログ管理者としての杉本に幇助の責任を問うことは、ほぼ不可能であることが分かったのではないかということである。

ちなみに、本訴訟でも、コメント投稿欄に投稿された内容について、ブログ管理者は責任を負わないという判断が出ている。

つまり、唐沢は、杉本に提訴予告した後になって、先に通告した理由では、訴訟を提起しても、勝ち目がないことを悟ったのではないかと見られる。だが、そのことを、唐沢はプライドゆえに、決して誰にも明かしたくなかった。提訴を取りやめたと言うことさえ恥であると考えたのではないか。

それゆえ、なぜ提訴を実行に移さないのか、誰にも説明しないまま、唐沢は沈黙を決め込み、時間を稼いだのではないかと見られる。

だが、もしも唐沢が誠実な人間であったとすれば、先に通告した理由で提訴が困難と判明しても、別な手段で杉本に立ち向かう道が残されていた。それは、唐沢が自分自身への誹謗中傷を理由に、杉本を訴えることである。

なぜなら、提訴を予告されて激怒した杉本は、上記の記事で、唐沢治を「精神家きどりのやぶ医者ごっこ」をしているだけの「預言者気取りでエセ精神病理学の専門家」と呼び、「ある種の痛々しさ」は唐沢の病的な心理に潜んでいるものであろう。」とか、「こういう洗脳、心理操作の台詞をいともあっさり他人に対して次々に放って恐怖心を射貫き、心理的に相手を圧して支配していく手法。」などと記し、唐沢は、心理操作の手段として、杉本に提訴を予告したのであって、これはスラップ訴訟であると決めつけ、「これが独裁カルトの新興宗教、誇大妄想信仰の恐ろしさである。」などと、あらん限りの非難・中傷の言葉を唐沢に浴びせた上で、ついには「唐沢治のキングダムフェローシップチャーチ(KFC)は、見まごう事なき異様な独裁カルトである。」とまで結論づけていたからである。

杉本が唐沢の実名に対して向けた以上のすさまじいまでの記述は、当時、十分に名誉毀損に相当する不法行為となり得たのであり、もしここで唐沢が杉本を民事提訴していれば、杉本は一巻の終わりとなっていたものと見られる。

ちなみに、杉本がこのように誰かから非難を受ける度に、より深刻な権利侵害を行っては、罪に罪を増し加えて行った様子は、筆者と杉本との間に起きた紛争においても、共通して見られた現象である。

たとえば、2017年に筆者が杉本に脅しメールやバッシング記事について反省と謝罪を促し、念書を差し入れた時点では、杉本による不法行為は成立し得たかどうか分からなかった。脅しメールは過去のものであり、バッシング記事では実名も出ておらず、権利侵害が成立したかどうかが分からないためである。

ところが、杉本は和解を断っただけで終わらず、それを機に、筆者のメール等を無断で公開しながら、筆者に対する人格権の侵害、名誉毀損・侮辱に及んだ。この時点で、杉本による明白な不法行為が成立したのである。

さらに、筆者が杉本の不法行為の存在を知って、2018年2月に、杉本を刑事告訴の上、民事調停を提起した時点でも、まだ杉本による明白な不法行為は、2、3本の記事にとどまっていた。ところが、筆者が調停を提起した後で、杉本はさらに20本ほどのおびただしい数の名誉毀損に相当する記事を投稿し、自ら賠償を重くして行ったのである。それゆえ、杉本の不法行為は、まさしく訴訟にふさわしいインパクトを持つものとなった。

杉本が唐沢に対して2010年に行ったことは、それととてもよく似ている。当時、唐沢が杉本にぶつかって行ったことにより、杉本の内側に隠れていた罪深い内面が、思い切り外にぶちまけられたのである。

このことは、神の子供たちには、霊的な視力によって、自分に害を加えようとしている敵の不法行為を、それが実際に成し遂げられるよりも前に、察知し、彼らの本質を見抜き、これを明らかにする役割が備わっていることを示している。

我々が暗闇の勢力と接触する時、我々の宣言によって、暗闇の勢力の内実が明らかにされる。村上密の場合も、同様であった。筆者が村上を訴えた時点では、村上の不法行為の証拠は固まっていなかった。しかし、第一審が終結した時点で、村上は無罪放免されたにも関わらず、自ら不法行為に及んで、自分を不利に陥れたのであり、そうなったのは、筆者が村上と接触し、村上を糾弾したことにより、村上の内面が外に現れたのだと言える。

話を戻せば、仮に唐沢が杉本に提訴を予告した時点で、杉本の明白な不法行為が成立する要件が十分に整っていなかったとしても、だからと言って、唐沢は敗北すると決まっていたわけではなく、その提訴予告に激怒した杉本が、ブログで唐沢を誹謗中傷し始めた時点で、杉本には不法行為が成立する要件が十分に揃っていたのである。従って、その機に乗じて、唐沢が杉本に対して断固たる措置に出てさえいれば、杉本にまつわるすべての問題は、それ以上拡大することなく、終了していた可能性が高い。

ところが、KFCの元信徒を訴えることにはためらいがなかった唐沢が、自分自身の名誉と人権を守るために、また、自分の率いる集会KFCの正統性を守るために、杉本の主張に毅然と立ち向かうことをしなかった。

このようなことは、唐沢が当時から真理に生きていなかったからこそ、起き得たことであると筆者はみなしている。

唐沢が、自分に盾突いたKFCの元信徒には容赦のない措置を取りながらも、杉本を訴えることを躊躇したのは、唐沢の心の中に、杉本を「延命させておきたい」という願いがあったからだではないかと考えられる。

つまり、唐沢は、真のクリスチャンを抑圧するための手段として、杉本を残しておくことに価値を見いだしたのではなかと考えらえるのだ。少なくとも、唐沢があの当時、本気で杉本に立ち向かっていれば、杉本は簡単に倒されたことであろうが、そうなることは、唐沢にとっても、まずい事態だったからこそ、唐沢はそれを実行しなかったのである。

このようなことは、唐沢が真のクリスチャンであれば、起き得ない事態であり、むしろ、その逆であったからこそ、唐沢は杉本を上手く使えば、クリスチャンたちを弾圧する手段として利用できることを知っていたのではないかと予想できる。

また、筆者から見れば、唐沢は、自分が傷つけられたときに、正当な方法で、自らを擁護することができない性格であった。杉本も、村上も、唐沢も、みなこの点で共通している。彼らは、自分を脅かした敵に対して、いつまでも執念深く報復措置を加えることはあっても、どういうわけか、正当かつ合法的な手段を用いて、紛争を早期に終わらせ、自己の正当な権利を取り戻すために戦うことができない。

だから、彼らはどんなに戦っても、戦えば戦うほど、その成果が薄れて行き、何も成果が残らないのである。このようなことは、自己を非常に深いレベルで傷つけられて、自分を防御できなくなっている人々に共通する。
 
いずれにせよ、唐沢が杉本の主張に毅然と立ち向かうことをせず、その口を封じる行為に及ばなかったがゆえに、杉本が発した呪いのような言葉が、唐沢の身の上に徐々に成就して行くことになったものと筆者は見ている。


* * *

② 唐沢治自身が認めている2013年にKFCで鵜川貴範が起こした「クーデター」

筆者は2012年にKFCを去ったが、そうなるまでの間に、KFCは杉本が述べた通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」と呼ばれても、致し方ないのではないかというほどの惨状に陥っていた。

(とはいえ、2012年が来るまで、KFCには複数のメッセンジャーがいたため、独裁という言葉は当てはまらない。しかし、2013年にKFCが解体されて、2015年に唐沢がフルタイムの牧師になった頃には、まさに以上のような状況が生まれた。)

筆者は、2011年から2012年頃にかけて、KFCで起きたクーデター事件について、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団信徒による他教会(KFC)乗っ取り事件」にまとめている。

この事件を要約すると、当時、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の現役信徒であった鵜川貴範が、Br.Takaという名で、身元を隠してKFCに潜入、2011年頃にはKFCの中核的なメッセンジャーとなり、唐沢の信用を得た。

この頃、筆者は、他教団の信徒であるにも関わらず、身元を隠してKFCに入り浸る鵜川夫妻に多大なる疑問を持つようになり、唐沢にこの夫婦は何を目的にKFCに来ているのか分からないので、注意した方が良いと、クーデターの可能性を告げて警告したが、鵜川夫妻に心酔していた唐沢は、2012年になって、危険を警告した筆者を、夫妻と一緒になって非難、呪った挙句、KFCから追放した。

彼らは筆者を仕事の後で呼び出し、「悪霊に憑りつかれている」だの「そのままでは滅びる」だの、まさしく陳腐な呪いの予言としか言えない言葉を三人でかわるがわる浴びせて、筆者にKFCに来ないように求めたのであった。

この事件が起きたことにより、筆者は初めて、唐沢が「人を呪うような人間ではない」と考えていた以前の見解を改め、唐沢がKFCの元信徒を刑事告訴した事件でも、唐沢が嘘をついている可能性があると疑うようになった。

なお、鵜川のクーデター事件については、唐沢自身が2014年4月30日のブログ記事「お知らせとご注意」で、KFCで当時、確かに「クーデター」が起き、自分が一時、メッセンジャーを降格させられていたこと、鵜川の策略によって、KFCの会堂契約が無効になり、さらに偽サイトが開設されたままになっている事実を自分で記している。

この記事で、唐沢がクリスチャン・トゥデイに掲載された鵜川貴範に関する記事にリンクを貼っていることを見ても、この事件をおこしたのが、まさしくアッセンブリー教団所属の鵜川貴範であったことは明白である。

「*1:端的に言えば、2013年1月初旬、クーデターが起き、Dr.Lukeが一切の働きを封じられて追放された次第。
*2:チャペルに関してはそのまま彼らが使用したいとのことで、2013年9月末に私の契約解除を申し入れ、12月に彼らが契約することになっており、不動産屋との交渉も開始されておりましたが、12月になり彼らは突如チャペルから逃亡しました。こちらからと不動産屋の連絡に対しても一切の応答はなく(携帯もメールも遮断)、よって契約の意思なしとして、チャペルは契約解除され、もちろん彼らの契約下にはありません。よって「公式サイト」の記載は偽りですので、私宛の来訪者が一部おられるようですが、ご注意ください。」





以下は、唐沢が、KFCでクーデターを起こした「メッセンジャー」という文字に、リンクを貼っている鵜川貴範に関するクリスチャントゥデイの記事



このように、鵜川貴範によるKFCのクーデター(乗っ取り)事件は、唐沢治自身が、その存在を認めたものであった。

この事件のために、KFCは会堂を失い、一時は閉鎖に追い込まれていたが、KFCの残党がその後、結集して、また新たに唐沢治を担ぎ上げ、まるでエリコの町を再建するように、会堂がないまま、現在のKFCを作り上げたのである。

こうして再建されたKFCは、前よりも一層ひどいものとなり、唐沢は以前からサンダー・シングなどのオカルトに影響を受けていたことに加え、新しくリニューアルしたホームページの中では、ニューエイジ、禅など、ありとあらゆる非キリスト教的教えから無分別に影響を取り込んだことを隠し立てもしていない。

そして、唐沢自身も、以前は女学生から人気があると自慢するために続けていたような大学講師の職を、2015年に「神の啓示を受けた」として、KFCの牧師業に専念するため、自ら辞した。それによって、アカデミズムを去り、学術研究者としてのキャリアも捨てて、公に心理学の専門家を名乗ることのできた根拠をも自ら捨て去ったのである。

唐沢が大学講師の職を自ら辞したことは、KFCホームページに掲載されたプロフィール欄でも確かめられる。

 

* * *

③ 唐沢治が当ブログ執筆者の個人情報を杉本徳久に漏洩した経緯

・唐沢治が坂井―杉本裁判に当ブログ執筆者のメールを無断で提出(2013年)


筆者は、2012年にKFCを去って以後、唐沢とは何の関係もなくなっていたが、唐沢の方では、うわべは一切の関わりがなくなったように見せかけながら、水面下では、色々と筆者を争いに巻き込むために画策していたようである。

まず、唐沢は、杉本が2013年に坂井能大を民事提訴した際、坂井を支援するという名目で、筆者の了承を得ないまま、筆者の個人情報を含むメールを無断で坂井に書証として提出させた。

このメールは杉本の手に渡り、それが、杉本が筆者の個人情報を特定する根拠の一つとなったと、杉本は筆者との訴訟において認めている。

唐沢は、筆者があたかもメールの提出を許可したかのように述べ、また、筆者と坂井との間で、何らかの「協力関係」が構築されていたかのように弁明を重ねているが、それはすべて事実に反する。

筆者が、唐沢に坂井の裁判にまでメールの提出を許可したことは一度もなく、筆者は坂井とはいかなる協力関係にもあったことがなく、面識すらなく、連絡を交わしたことも一度もない。

しかも、杉本―坂井裁判が行われていた時、唐沢は筆者を呪った挙句、KFCから追放したのであって、筆者はすでにKFCを完全に離れ、唐沢の影響下にもなく、ブログも閉鎖しており、裁判のことも知らなかった。

それにも関わらず、唐沢は筆者の同意を得ないまま、あたかも筆者を遠隔操作で杉本との対立に引き込むかのように、筆者のメールを裁判に提出し、まるで筆者がこの裁判を支援しているかのように「演出」したのである。

この裁判で、坂井は杉本に敗れ(杉本の言葉によると、杉本の勝訴的和解に終わったという)、それによって、坂井と杉本だけでなく、坂井を支援していた唐沢と杉本との対立関係にも、終止符が打たれた。

唐沢は、こうしてもはや杉本の記事を、自分への名誉毀損だと主張する根拠さえ、自分から手放したのだと言えよう。

だが、唐沢は杉本に降伏したことで、KFCが杉本の予告の通り、「見まごう事なき異様な独裁カルト」へと転じる最後の歯止めを自ら外したのだとも言える。


・唐沢治が杉本徳久と交わしたメール文通(2016年―2018年)

その後も、唐沢は2010年に、杉本に対する個人的な連絡はこれを最後とし、以後、弁護士を通じてしか連絡を取ることはないと通告したことなど、全く忘れたかのように、杉本とのメール文通を重ね、そこで牧師としての守秘義務を破って、筆者の個人情報を次々とメールで杉本に提供するようになった。

その結果、唐沢が次々と筆者をいわれなく不利に陥れるような情報を杉本に伝え、杉本がそれを受けて、その情報を筆者を誹謗中傷する材料として使用するという「連携プレー」がなされた。

そのようにして、唐沢が信徒の個人情報を杉本に漏洩していた事実は、杉本が第一審で筆者に書証として提供した一連のメールを通して明らかになった。

杉本はおそらく唐沢に筆者を裏切らせたことが、よほど嬉しかったのであろうと思う。筆者を悔しがらせようと、あえてこの恐るべき悪事の証拠を自ら書証として公の場に持ち出して来たのである。

唐沢が2016年に筆者を指して「脳内空転」と罵った次のメールも、杉本が書証として出して来たものである。

 
1.唐沢が杉本と2016年に交わしたメール。この時点では、唐沢は筆者を「脳内空転」と罵っていたが、まだ秘密漏示には及んでいなかった。

ここで唐沢は、依然として杉本ブログには、唐沢を中傷する記事が掲載されているにも関わらず、杉本と対立する大義はもうなくなったなどと、杉本に対する事実上の和解宣言をしている。

さらに、このメールは、唐沢が、杉本を批判するために書いた記事の削除を、杉本から求められ、それに返信したものであるが、唐沢は杉本の怒りが自分に向かないように、巧妙に筆者の話に話題をすり替え、筆者を「脳内空転が強い」などという言葉で罵ることによって、杉本の注意を筆者に引きつけている。

杉本は、この悪口にも早速、飛びついたと見られ、あたかも筆者が精神異常に陥っているかのような根拠のない自説の裏づけとして利用して行った。

さらに、唐沢はまだこの時点では、秘密漏示には及んでいなかったが、その後も、杉本とのメール文通を重ねるうちに、ますます事実に基づかない、もしくは極度に誇張された情報を盛んに杉本に漏洩しては、杉本が筆者を中傷する行為を助長・容認するようになった。

唐沢はその過程で、杉本の怒りを自分から逸らすために、自分が過去に杉本に行った提訴予告すらも、まるで初めから唐沢の権利を擁護するためのものではなく、あたかも筆者の権利を守るために、筆者から促されて仕方がなく行ったものであるかのように、巧妙に主張をすり替え、その嘘を杉本に信じ込ませた。

そのことは、以前に書いた記事でも示した通りであるが、以下にも唐沢のメールを再掲載する。


2.2017年1月のメールでは、唐沢は杉本に対して虚偽の情報を提供しては、筆者を不利に陥れようと画策していたことが分かる。

唐沢は2017年1月に杉本に宛てたこのメールで、自分が無責任にも実行に移さなかった提訴予告のことで、責任を棚上げしようと、「彼女から提訴を何度も求められましたが、実名が出ておりませんので、彼女の件では動けなかったわけです。」などとうそぶき、2010年に自分が杉本に行った提訴予告が、あたかも筆者の権利を守るために、筆者が唐沢に杉本を訴えるよう促したものであったかのように話をすり替え、虚偽の事実を杉本に伝えた。

だが、唐沢は以上で述べた通り、そもそもの初めから、KFCの元信者による書き込み幇助の責任を問うという、自分の権利を擁護するために杉本に提訴を予告したのであって、筆者が唐沢に杉本を提訴してくれ、などと頼んだ事実はない。また、唐沢は筆者の代理人でもないのだから、仮に筆者の権利が侵害されたとしても、それを理由に唐沢が杉本を訴えることなどもとより不可能である。

それにも関わらず、唐沢治がこのように虚偽の事実を杉本に伝えたのは、自分から杉本に(勝ち目のない理由で)提訴を予告したにも関わらず、これを実行しなかった自らの責任を、巧みに筆者に転嫁することで、杉本の怒りを筆者に集中させて、矛先を逸らし、さらに筆者を杉本との争いに全面的に巻き込んで行くための巧みな心理操作であったとしか言いようがない。

さらに、唐沢はこのメールで、2012年に筆者をKFCから自ら追放しておきながら、2013年になって、唐沢とは何の関わりもなくなっていた筆者が、あたかも坂井の裁判を「応援したい」と述べた事実が存在するかのように、虚偽の事実を杉本に伝えている。そして、あたかも、筆者の許可を受けて、筆者のメールを坂井に書証として提出させたかのように自己弁明している。

だが、筆者は坂井とは現在に至るまで、いかなる面識もないだけでなく、その当時、ネットから遠ざかっていたため、坂井と杉本の二人の間で、そのような裁判が行われていた事実さえも知らず、唐沢は筆者に坂井の裁判について伝えるメールを送ったと主張するが、そのメールを筆者は読んだ記憶もなければ、返信した事実もない。むろん、見ず知らずの坂井の裁判へのメールの提出を許可した事実などあるはずもない。

だが、杉本はこのような唐沢の巧みな心理操作に乗せられ、2013年に坂井を訴えた裁判で、筆者があたかも坂井+唐沢の援護射撃に回っていたかのように信じ込んだだけでなく、さらには、坂井の裁判までが、筆者が陰で糸を引いて、坂井を巧妙に焚き付けて杉本と衝突させたものであるかのようにまで信じ、そうした虚偽を、後にまことしやかにブログで吹聴しては、筆者を断罪し、名誉を傷つけたのである。

いずれにせよ、唐沢にとって、そうした嘘を杉本に信じさせるのは、全く困難ではなかったと見られ、こうして唐沢は、筆者について嘘を吹き込むことで、筆者を杉本との全面的な対立に至らせるきっかけを作って行ったのである。

唐沢が、常日頃から、「自分には人の気持ちが読める。人を操るなど簡単だ」と豪語していたことを思い出しても、このメールで、唐沢が「杉本さんが彼女を告訴する/しないは、もはや私が関与することではありません。」と、あえて杉本が筆者を告訴することを認めるような発言を行っていることも見逃せない。

この言葉から、唐沢が、できれば、杉本がヴィオロンを訴えてくれれば、非常に都合が良いのに、と考えていた様子がひしひしと伝わって来るように感じられる。
 
この他にも、唐沢は杉本に対し、秘密漏示に当たるメールを送信している。

 
3.2017年5月に唐沢が杉本に書き送ったメール。このメールで、唐沢はいくつもの信徒の個人情報を杉本に漏洩し、秘密漏示に及んでいる。

このメールで、唐沢は以前よりもさらに積極的に、杉本が筆者を中傷する材料を得られるよう、筆者に関する情報を捏造・歪曲する形で、杉本に伝えている。

唐沢が杉本に漏示した情報は次の通りである。
1.家庭の事情(何かしら深刻重大な事情があるかのような思わせぶりなニュアンス)
2.信徒の人間関係(兄弟姉妹と「総当たりでトラブルを起こしている」という虚偽の情報)
3.実家の所在地
4.家族構成
5.家族との人間関係(家族と対立しているかのようなニュアンスを含む歪曲された情報)
6.生活状況(生活苦に落ちっているかのようなニュアンスを込めた書きぶり)

こうした情報を伝えられた杉本が、それに飛びつき、これを利用して筆者を名誉毀損する記事を書き始めたのは周知の通りであるが、その直接的なきっかけを作ったのは、唐沢治なのである。

むろん、筆者はKFCにいた時、「兄弟姉妹と総当たりでトラブルを起こした」事実もなければ、実家と対立した事実があるわけでもない。実際に、この年、筆者は700km以上の距離を走行して実家へ旅していることからも、それは明らかである。

だが、唐沢から歪曲された情報を提供された杉本は、これを鵜呑みにして、2017年から2018年にかけて、筆者が至るところで対立を引き起こし、実家とも対立して絶縁状態にある、などとする中傷を書き記して行くことになる。

その後も、唐沢と杉本は親しくメール文通を続け、二人を批判する筆者に対する「対策」を共に練っていたようである。


 
4.2018年5月、筆者が杉本と村上に対して提起した民事調停が決裂に終わる直前に唐沢が杉本に送信したメール。

以上のメールで、唐沢は、筆者の書いた記事が虚偽であるかのように述べるだけでなく、訴訟のアドバイスまで丁寧に杉本に書き送っている。

「この種の人物は些細な兆候や事実を膨らませます。杉本さんと村上さんが連携して彼女を追い詰め、さらに私が寝返って関わっていると言うわけですよね。ですから、その兆候のヒントを与えると彼女がますます増長し、彼女を利するわけです。

ゆえに杉本さんの態度としてはあくまでも「不知」がベストなのです。こうして私とメールをやり取りしていることも彼女には利益となるでしょう。」

こうして、次々と筆者を不利に陥れるような歪曲された情報を杉本に与えて、個人情報まで漏洩し、杉本が筆者を中傷・攻撃するきっかけを作っておきながら、よくも以上のように主張できるものだと呆れるばかりだ。

唐沢はこの当時、まさかこのメールを杉本が訴訟に提出することになるとは予想していなかったであろうし、それを願っていなかったと考えられるが(だからこそ、唐沢は杉本に「不知」で通すよう、余計なことを話さないよう勧めている)、それでも、独特の直観で、このメール文通の存在が、筆者の目に隠しおおせず、必ず、彼らにとって不利な証拠として利用され、いつか白日の下に晒される日が来ることを予見していたようである。

杉本はこのメールの中で、「ヴィオロンから民事調停を申し立てられていますが、卑怯なことに住所を秘しているため、こちらから反訴ができない状況です。」と述べている。筆者の情報をどこまでも集めたいがために、手あたり次第、筆者のかつての知人にメールを送りつけ、情報を聞き回っていたわけであるが、唐沢の反応を見る限り、唐沢は筆者を陥れるために、知ってさえいれば、どんな情報であれ、喜んで杉本に伝えたのではないかと疑われてならない。

筆者の目から見て、唐沢が杉本に嘘を信じ込ませることで、杉本の筆者に対する対立感情を煽った手法は、極めて狡猾なものである。下手に心理学などを学ぶと、このように他者の愚かさや弱さに付け込んで、他人の心を操り、手玉に取る術ばかりを、常人以上に身に着けてしまうのであろうか?

杉本に情報を提供してやることで、杉本を思い通りに動かし、筆者に対立させることなど、唐沢にとっては全く問題ではなかったであろう。だが、唐沢の誤算は、筆者が(信仰ゆえに)杉本よりも強く、杉本が筆者に打ち破られて終わると予測できなかったことにあった。

いや、筆者は、内におられる方のゆえに、杉本だけでなく、唐沢にも打ち破られるとは思っていない。唐沢が聖書の御言葉に立たないならば、真実なクリスチャンの前に立ちおおせる根拠は何もないのである。

* * *

④ 唐沢治の嘘とまことの混在した整合性のない矛盾だらけの主張

現在、唐沢は、筆者がKFCで起きたクーデター事件について、自らのブログ記事とは裏腹に、U(鵜川)夫妻がKFCを乗っ取った事実はないと否定し、さらに、筆者とは「牧師と信徒の関係にはなかった」などという荒唐無稽な嘘を主張している。

唐沢の巧妙な印象操作と詭弁に満ちた主張は、以下の陳述書でも如実に見て取れる。




これは筆者が昨年に申し立てた仮処分の申立に対する陳述書であるが(仮処分は訴訟に転じる予定で一旦、取り下げている)、唐沢はここで筆者が「神の啓示を受けた」などとして、あてもなく突然、横浜に尋ねて来ては、自分の孤独を切々と訴え、唐沢に面倒を見てもらおうとし、それを唐沢は親切にもケアしてやっていたかのように、虚偽の情報を記している。

しかしながら、事実は全くこのようではなかった。筆者は、2009年10月に横浜へ移住した際、確かに神が奇跡的に筆者の祈りに応えて、大きな恵みを与えて下さったことに喜んでいたが、「神の啓示」により、移住したと述べたことは一度もない。むろん、それ以後、生活について、いかなる形でも、唐沢から支援を受けたこともない。

むしろ、筆者が横浜に移住してわずか数日後に、唐沢の20年来の知己であり、ローカルチャーチ時代からの親友であったMr.Sugarを名乗る年長の兄弟が、「唐沢は非常に危険な男であるから、近寄るべきではない」と筆者に向かって真摯に忠告したため、筆者はそれ以後、杉本によるバッシング事件が起きて、年末から年明け頃になるまで、KFCには近寄らなかった。

従って、筆者が唐沢に孤独な心中を打ち明けたとか、親切に面倒を見てもらったなどという事実はない。むしろ、杉本事件が起きてから、筆者が途方に暮れて唐沢のもとに相談に行っても、それに対して、唐沢が行ったことは、KFCの元信徒の事件を自分に有利に解決するために、筆者に唐沢に有利な証言を警察で行うよう求めることだけであった。

唐沢はその後、独断で杉本に提訴を予告して杉本を激怒させた上、その提訴を実行に移さず、さらにそうした理由さえも、いわれなく筆者にかこつけ、筆者をKFCから追放した上、筆者を中傷する情報を杉本に提供したことはすでに述べた通りであり、それを考えれば、唐沢が筆者のためになした良いことなど、ほとんど何も見当たらないと言えよう。

筆者は、唐沢の信仰的見解を非常に危ぶんでいたので、唐沢に助言や忠告めいた内容を伝えたことが、幾度となくあり、何とかして唐沢に正統な聖書的見解を取り戻せないかと試行錯誤し、話し合いの機会をもうける口実として、「横浜を案内して欲しい」と頼んだことがあった。

しかし、それに対しても、唐沢はただホームレス伝道が行われている教会へ筆者を連れて行っただけであり、筆者はその伝道風景を見て、あまりにも人工的であると感じて、気分が悪くなっただけであった。もちろん、筆者がそれ以外に唐沢から横浜案内を受けたことはない。信仰についてKFC以外の場所で話し合ったことはあるが、観光などの信仰とは関係のない事柄を共に行ったことはない。

筆者は杉本のバッシング事件において、唐沢からほとんど助力を得られなかったが、それとは別に、2012年にKFCを去るまで、唐沢が「セレブレーション」と呼んでいた礼拝に通っており、それゆえ、筆者とは「牧師と信徒の関係になかった」という唐沢の主張が荒唐無稽であることは言うまでもない。

唐沢が筆者の「カウンセラー」でなかったという事実は、何ら牧師と信徒の関係に影響を与えるものではない。

むろん、筆者が2012年に鵜川夫妻に口論をしかけた事実もなければ、鵜川夫妻が土下座したといった芝居じみた話も、事実ではない。大体、キリスト教徒が土下座などすると考える方がどうかしているが、鵜川夫妻は、当時、筆者が夫妻に疑問を感じていることを鋭く感じ取っており、2012年のある日の礼拝後、筆者が鵜川のメッセージを素直に聴かないと言って、他の信徒が見ている前で、筆者をすごい剣幕でなじった。そして、夫妻は、筆者が彼らに心を開かないことを責め立てたのであった。

唐沢は、その頃から、鵜川夫妻に入れ込んでいたので、彼らの肩を持って、その話を聞いていたのであろう。それからほんのわずかしか経たないうちに、3人で筆者を断罪し、KFCから追放したのである。

同じ頃、筆者がKFCを去る少し前に、エシュコルがKFCに対してブログで決別宣言を出し、集会を去った。だが、それについても、唐沢は「ヴィオロンがエシュコルを唆したに違いない。あんな人間に自分で物事の判断ができるはずがない」などという理由で、鵜川夫妻と一緒になって筆者を断罪し、さらに、礼拝後、信徒たちの目の前で、「彼は血潮を踏みにじり、赦されない罪を犯した。これから先、己が罪を生涯背負って、無意味な自己弁明を重ねながら生きて行くしかないだろう。」などと宣告していた。

こうした事件を目の当たりにした結果、筆者はKFCの元信徒が、唐沢から「密室で呪いの予言を受けた」と主張していたことを、全く嘘とは思えない心境に至ったのである。

その確信は、唐沢が現在、この信徒だけでなく、筆者をも事実に基づかない理由で断罪する以下の記事を公然とホームページに掲載しているところを見ても、さらに深まるばかりである。

 



この記事で、唐沢はすでに10年ほども前に、不起訴に至ったKFCの元信徒に対して、未だに尽きせぬ恨み節を向けながら、彼の家庭・精神が崩壊に至ったことを喜び、嘲笑するかのような言葉を浴びせている。

このような断罪記事には、唐沢の精神が余すところなく表れているのであって、このように信者を断罪できる唐沢が、この信徒に「密室で呪いの予言を浴びせる」ことなど、平気だっただろうという推測が生じるのは当然である。

唐沢はここで筆者についても、誇張・歪曲された事実をいくつも並べて、あたかも筆者がアッセンブリー教団で「挫折」したかのように述べたり、筆者が「現実と幻想の混濁した独自の世界観」の持ち主であるかのように、必死に印象操作をしようとしている。こうした記事が、杉本にどれほど好都合な材料となったか、あえて述べなくとも明らかであろう。

こうした唐沢の主張は、村上密が筆者に向けている非難にほぼ重なるものである。かつて唐沢は、自分から村上密を嘲笑する記事を投稿していた事実などすっかり忘れたように、ここでは筆者が村上を「憎悪」しているかのように、都合よく村上を擁護する側に回っている。

唐沢はかつてはアッセンブリー教団をも批判していたのである。しかし、2012年にアッセンブリー教団所属の鵜川夫妻がKFCでクーデターを起こして以来、唐沢はアッセンブリー教団を非難することができなくなった。唐沢が鵜川夫妻を公然と批判できないのは、鵜川夫妻と親しく交わりを重ねているうちに、夫妻に弱みを握られたためなのかどうかまでは、筆者は知らない。

いずれにしても、唐沢がこうして杉本徳久が筆者を名誉毀損することを促すかのように、格好の材料を次々と提供して行ったのは事実である。

こうした事実から、読者は唐沢という人間の極端なまでの利己主義、サイコパスのごとき冷淡さを見て取れるのではないだろうか。

とはいえ、筆者は、唐沢が筆者を呪ったり、杉本が誹謗中傷したとしても、全くその言葉には効果がないと確信している。なぜなら、私たちのためには、すでに木にかけられて呪いとなって下さった方が存在しているためであり、誰からの呪いも、十字架によって無効にされているからである。

ただし、それでも、唐沢は自らの行動の責任を取らなければならないことは確かである。

* * *

④ 偽預言者を待ち受ける破滅 異端的教説にはまることの恐ろしさ

最後に、以上のような事態が、唐沢治の内側で進行したのは、その間、唐沢治が、ニューエイジ、オカルト、東洋思想などの非キリスト教的思想をいくつも渡り歩いて、それに深く影響を受けたために他ならないと、筆者は考えている。

筆者はまだKFCにいた頃、こうした教えがどれほど危険なものであるか、再三、唐沢に忠告し、議論したこともあった。その当時、筆者は何とかして唐沢の心を変えて、正常な信仰を取り戻せるのではないかという甘い期待を持っていたのである。

しかし、唐沢はどれほど忠告しても、己が考えにしか従わず、聖書と異なる教えを捨てようとはしなかった。唐沢は自分にあまりにも自信を持ち過ぎていたため、むしろ、筆者がそれらについて警告すればするほど、筆者に対する嫌悪を深めて行ったのである。

当ブログでは、前々から述べている通り、東洋思想の基礎は、グノーシス主義にあり、グノーシス主義の本髄は、「対極にあるものを融合する」こと、すなわち、嘘とまこと、「然り」と「否」を統合し、究極的には「神」と「人」を一つにすることにこそある。

唐沢治がかつて属していたローカルチャーチでは「神と人とが混ざり合う」という異端的教説が教えられているが、唐沢はこの教えをかつては糾弾していたにも関わらず、結局のところ、自分自身がそこへ戻って行ったのだと言えよう。

唐沢治が現在、KFCにおいて、自分たちは「エロヒム(神々)だ」と主張し、「キリスト教からのエクソダス」を唱えていることは、彼らが、自ら神(々)になっていることを意味する。

生まれながらの人が、十字架の死を経ることなく、自力で神に到達すること――これは、あらゆる異端が目指している最終目的であり、神秘主義の極意である。

筆者は、目に見える教会組織や、目に見える指導者からの「エクソダス」を唱えたことはあっても、唐沢のように「キリスト教からのエクソダス」を唱えたことは一度もない。

しかしながら、禅とキリスト教の融合を唱えたり、「白いキリスト教の呪縛から解かれよ」などと唱える唐沢は、もはや自分をキリスト教徒であるとは認識していないことがよく分かる。

筆者は2010年当時から、KFCが世間からどのように見られているかを観察して来たが、もしも自分の職を捨てることがなければ、唐沢の言い分は、今でも心理学の専門家として、世間で通用したかも知れないものと思う。

しかし、今はその根拠もなくなっている。唐沢は筆者を指して「脳内空転」と嘲るが、その用語も、心理学の専門用語ではなく、唐沢が考え出した時前の罵倒語に過ぎない。そして、「脳内空転」では、告訴状は受理されず、民事での賠償命令も出ない。

年上の男性宗教指導者および信徒に対し、何の肩書もない年下で無名の女性の筆者の告訴状が受理されること自体、真に驚くべきことであるが、そのようなことが起きるほど、彼らの信用は失墜していると言うこともできよう。

実際には、キリスト教の信仰に「挫折」、「現実と幻想が混濁した独自の意味不明の世界観」を生きているのは、唐沢自身である、と筆者は断言する。さらに、唐沢はキリスト教を憎悪し、教会をも憎悪している。かねてより、キリスト教は人間に狂気をもたらすなどと述べて来たのも周知の事実である。

これまで繰り返し述べて来た通り、村上・杉本・唐沢が、筆者を陥れようとしたり、権利侵害を行ったりした背景には、彼らの聖書の御言葉に対する憎悪が存在する。ここには、単なる個人的な対立を超えた、霊的争いが存在し、彼らが滅ぼそうとしたのは、聖書に忠実な信仰であり、神の国の権益であって、個人としての筆者ではないのである。

*ちなみに、この記事を書いている最中、上記でリンクを貼った記事を、杉本は削除した模様だ。しかしながら、はっきりと物事の決着をつけておくためには、記事が削除されても、控訴審で改めてこうした一連の記事の削除を求めることは、続けて行かねばならない。また、記事を削除させるための別の強制手続きも続行中である。

だが、いみじくも、今回、断固として敵の嘘に立ち向かいさえすれば、正しい主張は通るのだという結論が出た。すべての信者には、暗闇の勢力による脅しに屈さず、毅然と立ち向かうことをやめないでもらいたい。そして、敵の要塞を打ち破ることは可能なのだと勇気を奮い起こしてもらいたい。

キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。

あなたがたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」(テモテ二3:12-17)



「「人は皆、草のようで、
 その華やかさはすべて、草の花のようだ。
 草は枯れ、
 花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。
 これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」(Ⅰペテロ1:24-25)

草は枯れ、花は散る。

以上の御言葉の前半部分は、まさに東洋的世界観にも通じるこの世の物質世界の無常をよく表している。しかし、聖書の御言葉は無常観を表すものでは全くないから、それに続く御言葉は、前半とは全く異なる永遠の世界があることをはっきりと告げる。

「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」

この最後の部分を認めるか認めないかによって、人の世界観、人の運命は真逆のものとなる。

さて、悪魔の歪んだディスカウントの鏡に映っている人間の像は、いつも嘘だらけで、信じるに値しない。当ブログについてディスカウントを続けている「鏡」があるが、その人々と彼らの言い分をこれから「彼岸」と呼ぶことにしたい。なぜなら、彼らはグノーシス(=般若)にたどり着いた面々だから、その名称がよく似合っているはずだ。

以前にグノーシス主義とは、母体となる宗教や思想の枠組みを持たない悲観的な哲学・世界観であって、どのような宗教、どのような思想の中にでも入り込み、その宗教の神話などを自在に利用して、自身に都合よく変えてしまうのだと書いた。

それゆえ、「彼岸」のグノーシス主義的世界では、筆者についても、これを一人の登場人物として、一聞しただけで、思わず笑いがこみあげて来るような、完全に妄想に満ちた虚偽の荒唐無稽なストーリーが出来上がっている。たとえば、筆者には甥など一人もいないにも関わらず、存在しないはずの甥が、筆者の家族の成員に加えられ、筆者の家庭は、クリスチャンホームでもなかったにも関わらず、筆者の「両親」は共に教会に通う敬虔な(?)クリスチャンに仕立て上げられ、その他にも、あるはずもない数々の虚偽が作り出されて、笑い出したくなるような非現実的なストーリーが出来上がっている。

そこでは、筆者に数々の栄誉ある称号も色々と取り揃えられており、筆者は極めて優秀な「御霊によって歩む」クリスチャンとなっているばかりか、ドストエフスキーやトルストイの研究者とも呼ばれ、当無料ブログのおかげで、評論家という称号まで受けている。一体、ドストエフスキーとトルストイの両方の研究者を名乗ることの困難さを、彼らは知らないのだろうか。こうなっては、まさにもう何でもありの世界だが、さわやか読者が押しかけて日夜検索結果の操作にいそしんでいるこのブログを理由に、ネット評論家を名乗るなどのことも、筆者自身は考えたこともなかった。

偉大な称号と、呆れるような中傷がミックスされて、大いに結構づくめのディストピアが出来上がっているようだが、そのデタラメぶり、根拠のなさがあまりにも可笑しく、断片を見ただけで、思わずふき出してしまう。足りないのは「ユダヤ人の王」の称号くらいか、いや、欠けているのは、聖書と、真実な信仰である。

聖書の神に忠実に従って生きるクリスチャンは、誰しもリトマス試験紙の役割を担っていると当ブログでは以前に書いた。様々な霊たちが、クリスチャンの周りで論争を繰り広げるが、クリスチャンは自覚していようといまいと、これらの霊の正体を人前ではっきり明らかにする役割を担っている。
 
当ブログにぶつかってきた霊たちは、いよいよはっきりとその正体と本音を明るみに出し始めたようだ。驚くべきことに、彼らはあからさまに聖書を否定し始めたのである。聖書に基づく純粋な信仰に生きることを、カルト扱いして、聖書の真実性を否定し、退け始めたのである。

このことは、彼らが今までうわべだけはクリスチャンを装って来たことから考えると、驚くべき事実であり、彼らが重大な分岐点を通過したことをよく物語っていると言えよう。

カルト被害者救済活動には、以前に説明した通り、当初は統一教会やその他のカルトと名指しされている宗教に入信した信者らを、暴力によって強制的に拉致監禁して、密室で聖書を使って延々と説得工作を行い、元カルト信者らの思想の誤りを暴き、彼らの誤った信仰を打ち砕いて、カルトへの信仰を棄教させた上で、キリスト教に入信させて来たという残酷な過去がある。

そんなにまでして、聖書を聖典として振りかざし、カルト信者に強制的な脱会・説得工作を行って来たカルト被害者救済活動の陣営が、ついに自ら振りかざしていた聖書の真実性を否定し始めたのである。

まさに本音が出たなという印象を受ける。筆者は以前から、拉致監禁までして他宗教から信者を奪うようなことは、決してキリスト教の信仰に基づく正しい行動ではないと指摘して来た。なぜなら、聖書の神は決して人に信仰を強制するようなことはなさらないからだ。
 
この人々は、聖書はすべてがすべて真に受けるべきものでなく、ほどほどの理解で良いなどと言っているようだが、もしそんなことを本気で考えているのなら、彼らが元カルト信者を強制的に脱会させた過去はどのように正当化されるのであろうか。そんなにもいい加減で無責任な認識で良いならば、多くのカルト宗教では、改ざんされているとはいえ、聖書も伝道に利用されているわけだから、多少、クリスチャンと認識がずれているくらいのことで、目くじら立てず、黙って放っておけばよかったのだということにしかならないであろう。身勝手極まりない理屈である。

聖書は、彼らにとってうわべを飾り、他宗教に対して優位を誇り、自己正当化をはかるためだけのどうでも良いツールだったことが、この告白によって明らかになった。彼らは本気で聖書の御言葉を信じ、従うつもりなどさらさらなかったのに、カルト信者に対して己の優位を振りかざすためだけに聖書を都合よく利用したのである。脱会工作は、おそらく、牧師たちが、カルトに入信した信者らの親から、泣く泣く頼み込まれ、しかも親たちから報酬としての謝礼金をもらって実行したことに過ぎないのだろう。それが決して信仰に基づく行動ではなかったことがますます裏づけられているのである。
 
「彼岸」では、日曜礼拝その他の各種の儀式の重要性ばかりが語られているようだが、それらの儀式をどんなに形式的に遵守しても、聖書の御言葉の真実性さえ信じようとしない、信仰のない人々の独りよがりな礼拝などは、罪人カインの礼拝として、神に受け入れられることも、喜ばれることも決してあるまい。

さて、これまで当ブログで大きなテーマを勢力的に扱おうとすると、「彼岸」では必ずこの種のネガティブ・キャンペーンが張り巡らされて来た。いつものパターンの繰り返しである。今や言いたいことがあるならば、裁判所や警察を通して、きちんと公に自分の言い分を主張する道が開かれているのに、こうした卑劣な方法しか使えないのは、よほど自分たちの主張を出るべきところに出て主張することに自信がないせいであり、かつ、よほど当ブログにおける主張が、暗闇の勢力にとって身に堪えているせいであろう。

グノーシス主義の理論の共通の骨子が暴露されることは、悪魔と暗闇の勢力にとって何としても耐えがたいことなのであろう。

彼らは筆者を狂人扱いした挙句、このままでは破滅するなどと言っているが、よくよく自分を振り返って観察してみることだ、一体、破滅の淵に立っているのは誰なのか。
  
この人々には、今までにも、決して自分の所属先の宗教団体を名乗らないという明白な特徴があった。勤務先はもちろんだが、どの宗教団体の人間なのかさえ、全くはっきりしない連中ばかりなのである。このような人々の述べる信仰論は、それだけで、最初から耳を傾けるに値しないことが明白である。他人には身元を明かせと要求し、暴力的に個人情報を暴いて、プライバシーを侵害する行為に出ておきながら、自分自身は所属教会さえ明らかにしないとは、まさに笑止千万な行動である。それでどうやって信仰を語る資格があるというのか。

このように、信仰があると自称しているにも関わらず、自分がどの宗教の信者であるかさえ明らかにしないような人々の言い分に、真面目に耳を傾けるのは愚か者のすることである。彼らは、クリスチャンであるのかどうかという最低限度の事実さえはっきりさせずに、他者の信仰告白の内容について云々できる資格などないのは当然である。

だからこそ、もとより信仰のないこの人々は、週刊誌のように他人の人間模様やスキャンダルを暴くことにばかりに熱中し、それ以外にできることがないのである。それは、彼らにはもともと聖書的な知識も信仰もなく、あるのはこの世的な関心だけかだらである。

だが、ついに彼らが最も好んで来た人間模様の中にさえ、フィクションの登場人物が作り出され、話がどんどん現実離れした方向へ向かっている様子を見ると、彼らがすでに重度の妄想に陥っていることがよく分かり、ただただ可笑しくなるだけである。

このような人々にはまさに「彼岸」という言葉がふさわしい。彼らはすでにこの世をすら去って、自ら「他界」し始めているのである。むろん、以下の御言葉の「悟りの道」がグノーシス主義のグノーシスと同じものでないことは、説明せずとも良いと思うが、死者の霊の集会に出席する者は、例外なく黄泉に誘われて行く。以上の人々はまさに「棺桶に片足を突っ込んでいる」のだと言えよう。

「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。 」(箴言21:16)
 
さて、以上のような人々の愚劣な行為がこの先、しかるべき罰を受け、そのデタラメな記述が必ず削除されることは変わらない事実だが、ただし、この先、彼らの「彼岸」の世界で、ありもしない創作物語が、どこまで大きく膨らんで行くのか、また、そのような話に騙される人々が、どの程度、この国にいるのか、それは面白い観察材料であるものと思う。

ある意味で、この手の話は、日本人の民度の高さを試す良いバロメーターになると言えよう。何の根拠もない中傷を真に受ける程度の判断能力しか持たない人々には、関わってもろくなことは起きない。良識的な人々は決してそのようなものに惑わされず、振り回されることもない。だから、このようなものは、自動的に良いフィルターの役目を果たしてくれる。

すでに多くの人々が気づき始めているように、この国は、だいぶ前からのグノーシス主義国であり、何もかもがさかさまにされているのである。安倍政権のもとで、以前からあった傾向が極度に強められ、今やこの国で良識的に生きる人々は、みな前回の記事で触れたロストロポーヴィチ夫妻のように、ソヴィエト政権から追放されたり、処罰された人々と同じく、あらぬスキャンダルの疑いをかけられ、「狂人」のレッテルを貼られ、社会から排斥されている現状がある。何しろ、グノーシス主義国だから、真実と虚偽が裏返しにされ、良識的な人々が「狂人」とされ、狂人が「健常者」の仮面をかぶって巷を跋扈しているのである。

それにしても、論拠のない稚拙な決めつけの記事もさることながら、他人のブログに便乗して二、三行の無責任なコメントを投稿するだけで、何か言ったような気分になるとは、信じがたいほどの独りよがりだと言う他ない。

筆者は、できる限り、ツイッターやフェイスブックや掲示板や他者のブログ等へのコメントの投稿を控えるよう心がけている。それは、あのように短い文章の中で、十分な論拠を示して物事を主張することは、決してできない相談であり、そういうツールを使い始めると、人はとことん怠惰になって、決めつけや、思い込みだけで、まことしやかにものを言う癖が身についてしまうと考えるからだ。

断片的な文章しか書かないでいると、思考力と文章力も、当然ながら著しく低下する。しかも、そういったコメント内容のほとんどは、他者の書いた論評に対する印象批評でしかないため、自分自身では何も生み出していないのだ。

論文で最も重要になるのは論拠である。なぜあなたはそのように考えるのかという具体的な証明プロセスのない、結論だけが決めつけのように提示されている文章は、決して誰にも相手にされない。緻密な論証過程を飛ばして、結論だけ提示して、何か言ったような気になるという無精な発言の仕方に慣れてしまうと、いざ何かを論証せねばならなくなった時、全くその要求に対応する力が自分の内に見いだせないとであろう。「彼岸」の著者の一人が、博士論文を書き上げることができなかったのは決してゆえなきことではあるまいと思う。

さらに、論証過程を飛ばしてコメントすることに慣れてしまうと、自分が無精な方法でしか発言していないため、他者が作り上げた作品にも、どれほどの苦労が込められているかが全く分からなくなってしまう。何を見ても、上から目線で傲慢な態度で、一方的な印象批評を書き記すだけの空っぽな人間が出来上がる。痴呆化と高慢さへの最短コースである。

そこで、当ブログの内容について反論がある人々は、一人一人自分でブログを開設して、引用箇所をはっきりさせた上で、ルールを守って、自分の文章を論理的に書いて反証してみれば良いのだ。多分、どんなにそれが恐ろしく手間のかかる作業であるかがすぐに分かり、ほとんどの人々が面倒になって途中で放り出すことであろう。むろん、所属先の宗教団体も当然、明かすべきであろう。その上で、しかるべき諸手続きを最後まできちんと遂行して主張を提示できる人々がいたならば、それは傾聴に値する意見であるため、ネット上で議論をする価値もそれなりに出て来よう。

だが、ブログというものは、そもそも他者への反論だけではどうやっても続かない。自分の信念に基づく確固たる意見が出せなければ、文章を書き続けること自体が無意味である。コピペだとか、ネットのニュースの転載だとか、どこかで起きた事件を、ただ右から左に報道しているだけで、自分が一体、それについて何を訴えたいのか、自分自身はその出来事にどう関与しているのか、それさえ明らかにできないブログは、読者の共感も得られず、決して続かない。

人を貶め、中傷するためだけの「鏡」は、完全に独創性を失っているため、そこまで内容が希薄になれば、この先、放っておいても、長くは持ちこたえられないのは明白である。脅せば誰でも人は言いなりになると考えているのだとすれば、それは完全な誤りである。

主張というものは、内容が勝負所なのであって、主張と主張のぶつかり合いで勝利をおさめたければ、相手の主張を超える強度を持った主張を自ら提示せねばならない。相手の主張がダイヤモンドならば、それを超える強度が必要となる。それができなかった場合、弱い方の主張が粉々にされてしまうだけである。
 
時に、粉砕されなくても、淘汰という現象も起きる。筆者が知っているだけで、ここ5年ほどで匿名掲示板とその投稿が相当な分量、淘汰されて消え去った。当ブログに悪質なコメントを残していた掲示板があったので、その投稿の記録を保存してあったが、ここ数年の間に、掲示板ごと消失しているものが、相当数あったのである。2ちゃんねるなどは一時は広がりを見せ、人目には隆盛を極めていると見えた時期があったかも知れないが、今となっては、あまりにも悪評高いせいで、良識的な読者に見捨てられ、消滅の危機に晒されている。日本年金機構への内部告発に利用された際、消えかけた線香花火のような存在意義を見せたくらいであろうか。

匿名掲示板には訴訟沙汰なども多発しているため、人々が安心感を持てなくなり、関心が薄れつつあるだけでなく、ツイッターやフェイスブックなどで身元を明かして、同じくらいに短いコメントを発信するスタイルが今や主流になったため、そのことが匿名掲示板の衰退に拍車をかけている。

やはり、責任の所在を明らかにしない文章は、影響力を持たないのであり、その上、きちんとした論拠を示さず、とりともないおしゃべりを続けるだけとあれば、内容の希薄さゆえに、淘汰されて行くのは当然である。おそらくあと10年から長くとも15年のうちに、匿名掲示板は消え去るか、今とは全く違った形式に移行する必要に迫られるのではないかと予想する。

花が散り、草が枯れるように、聖書の永遠の御言葉に立脚しないむなしい議論は、一時は盛り上がっているように見えたとしても、時と共にすべて初めから無かったも同然に、胡散霧消して行くのである。

さて、聖書にはこんな文句もある。空中に散じて行くだけの無意味なおしゃべりのせいで、永遠に有罪を宣告される者たちが出て来るというのである。

言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:36)

「彼岸」から他者をディスカウントする発言ばかりに熱中している悪霊に導かれる者たちは、いざ神の御前で申し開きを求められたとき、その言葉のゆえに、どれほど重い罪を負わされるのであろうか。しかも、その幾分かは、この世でもリハーサルがあるのだ。すべての言葉には責任が伴い、必ずそれが追及される日が来るのである。

しかし、きちんとルールや手順を守って価値ある内容の文章を書いていれば、その記事は、三十年、四十年先になっても、いや百年先であっても、必ず、残るだろう。そのことは、ソビエト体制のような厳しい思想的統制下で秘密裏に書かれた文学作品でさえ、あらゆる方法で保存され、何十年もの時を経て、今日まで残されている事実を見ても分かる。それはこの世の文学作品の話であるが、永遠に変わらない神の御言葉に立つ信仰告白が、この世の文学作品よりも早く消え去ることは絶対にない。

悪魔の妄想でしかないフィクションの「鏡」は短期間で消え去るであろうが、真のリアリティである神ご自身という「本体」に属するものは必ず残る。筆者が自信を持って、この先、何が起こるかを見てもらいたいと言うのは、キリストとの霊的な結びつきの中を歩んでいるキリスト者の証が地上から取り去られて、悪魔の「鏡」だけが残るということは絶対にないと分かっているためである。

筆者はまだ信仰の歩みの途上にあるため、パウロと同じように、自分が学ぶべきことを学び終えてすでに完璧なクリスチャンになったなどと自己宣伝するつもりはさらさらないが、それでも、当ブログは、筆者の真実な信仰告白であるから、その内容に対しては、神が責任を負って下さると分かっている。

なぜなら、聖書に書かれていることが真実であることを証明されるのは、神ご自身だからである。だから、たとえ誰かが筆者を狂人扱いしたりしても、それによって、その人が神の御言葉までも消し去り、否定することは絶対にできないのである。

筆者は、この度、「般若=グノーシス」を根こそぎ断罪して、彼岸に投げ捨てた。うわべだけは敬虔な信者を名乗っている多くの人々が、筆者に対して、般若の顔をして、筆者を中傷したり、呪ったり、断罪したりしたが、そのようにして彼らが筆者になすりつけようとしたすべての呪いを、みなキリストの十字架を経て彼岸へと渡し、黄泉の世界に追い返したのである。

興味深いのは、「彼岸」から未だ中傷を続けている人々の言い分が、だんだん筆者個人への非難や中傷の域を超えて、ついに聖書全体への中傷、神ご自身への冒涜にシフトしつつあることだ。

ある意味で、筆者がずっと待っていた回答がやっと提示され始めたのである。いよいよこれからが本番中の本番である。彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているが、彼らの言い分を聞いて、誰が本当にそうだと信じるだろうか? 彼らはこれまで自分たちがあたかもクリスチャンであるかのように振る舞ってきたが、ついにそのかりそめの信仰も自ら捨てつつあるのだ。聖書など初めから全く敬っておらず、御言葉の真実性を信じていなかったことを彼らは自ら告白している。

おそらく、この先、クリスチャンの仮面をかぶり続けて来た彼らの内心が、とことん明るみに出され、その本心に溢れ返っているものは、神への恨み、憎悪、聖書の御言葉への憎しみ、否定であることが、この上なくはっきりする時が来るものと思う。

先に当ブログでは、彼らは必ず警察の忠告を振り切り、この世のすべての秩序を侮るだろうと予告したが、現にそうなっている。このまま見守り続ければ、いずれ彼らは必ず、聖書の神ご自身への憎しみと中傷をまき散らし、憤りを爆発させて、自分たちが神の敵であることをはっきりと万人の前で告白する時が来るであろう。それがまさに彼らの心の本質なのである。

そして、それは必ず多くの人々が目撃する形でなされるであろうから、そうなるまで、しばらくこのまま観察しておきたい。

筆者が殉教などという言葉を口にしたからと言って、まさか自ら死に支度をしているなどと勝手に考えてもらっては困る。今はまだ戦いの初歩の初歩の段階であって、およそ殉教などというレベルの話が具体的に出て来る余地はない。仮にそういう時代が来るとしても、それはまだまだかなり先のことである。

筆者がいかなる人間であろうと、聖書の御言葉で武装し、神の懐に隠れている人間を攻撃することのできる人々はいない。今起きていることは、我々はまずこの地上で、小羊の血潮と証しの言葉によって悪魔に立ち向かうことをきちんと学ばねばならない、ということを示しているだけである。

さらに、「彼岸」にいる人々がブログを失い、人生を失って破滅すれば、自暴自棄な行動に出る可能性があると思い、憂慮する人もあるかも知れないが、しかし、それすらも、全く心配の必要がないと言うのは、彼らの行動はすべて衆人環視の中で行われ、以下の御言葉にもはっきりと示されている通り、彼らが抜いた剣は、彼ら自身の胸を刺し通すだけだからだ。考えても見てもらいたいが、今まで行われた彼らの行動のすべてが、大勢の証人のいるところで行われたのだ。この人々の運命は全世界に対して指示されねばならないので、その終わりも、当然ながら、衆人環視の中となるであろう。

これまでも、彼らはただ脅すだけで、決して何事も筆者に強制することはできなかった。それは、筆者が何を信じるのか、誰からの強制によらずに、自分自身で選択し、告白することを神に求められているためである。神はすべてのことを、信者自身の意志で選ばせたいと考えておられる。強制されて行われた告白は、自由の中で自ら選んだものと言えない。よって本当にその人自身の選択なのかどうかも分からない。神は、筆者が人生における最後の選択の一つに至るまで、すべてを自らの意志で決定することを望んでおられるのである。それが神の御心であるがゆえに、筆者に対して何一つ強制できる人はいないのである。

筆者は「彼岸」のブログに自殺者の遺族のフォーラムの話題が掲載された時点で、それは彼らがすでに死者の集会の中に身を置いていることを明白に示す証拠だと受け止めている。彼らの心は絶えず死とその周辺の黄泉とをさまよっている。今後、どういう形でそれが具体的に彼らの身の上に実現するのか、今はまだ分からないが、すでに述べたように、彼らが神を公然と人前で呪う段階が訪れた後、ヨブの妻がヨブに投げつけた言葉が、おそらく、彼らの身の上に成就するであろうと思う。「神を呪って死になさい!」という彼女の言葉は、神を呪うことと、人が自死することが、分かちがたく一つであることを示している。

これが、神を知る知識を自分で退け、捨てたすべての人に働く霊的法則性なのである。それは決して誰かの意志次第で変えられるような軽い運命ではない。だから、聖書に対してどのような態度を取るか、各人は極めて慎重でなければならない。全世界の人々が見ている前で、聖書の真実性に異議をさしはさむような者は、必ずその次には神を呪ったり、冒涜・否定する段階へと進み、誰もに取って見せしめや教訓となるような最期を遂げることになるであろう。

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、”霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタイ12:31-32)

人を罵倒する罪は、悔い改めれば赦されるし、償うこともできよう。しかし、聖霊を冒涜する罪は赦されないと、前々から幾度も述べているように、人はクリスチャンや神の教会を罵倒しているうちに、いつしか取り返しのつかないところまで深く罪を犯してしまうことがありうる。さらに、聖書の真実性を否定することは、御霊によって書かれた書物を虚偽であるとみなすことと同義であり、それは、ひいては神ご自身を偽り者とみなすことを意味する。

そして、人が創造主を偽り者(=フィクション)とみなせば、その人の存在そのものがフィクションとして消えるのである。これは霊的法則性である。自分が創造主に対して吐いた言葉が、自分の運命をそのまま決することになるのである。
 
だが、いかに人を侮辱することが永遠の罪にならないと言っても、彼らはこの先、筆者を攻撃すればするほど、自分で自分の心を傷つけ、人としての尊厳を失い、罪悪感と、後ろめたさと、社会からの蔑みの目線と、孤立により、居たたまれなくなって行くだけである。

さらに、筆者はこの十年間というもの、どうやっていわれのない迫害に立ち向かうべきか、一つ一つ必要な手順を学んできたが、彼らは一度たりとも一人で神に向き合ったことがなく、迫害や圧迫に立ち向かう術をも学んでいない。

だから、彼らが孤立状態に置かれれば、その心は、それがごくごくわずかな期間であっても、大変な打撃を受け、正常には保たれるまい。彼らの言い分の内容の希薄さを見ても、彼らの終焉が近いことはすぐに分かるが、彼らに残された月日自体がそう多くはない。人を馬鹿にすることはまだ償いが可能であるとしても、神を侮り、冒涜し、自ら神になり代わろうとすることはそれとは異なるからだ。
  
肉のものは霊のものより早熟である。それは肉の性急で忍耐できない性質に由来する。それゆえ、肉のものは霊のものよりも先に絶頂に達し、先に繁栄を謳歌する。その繁栄は、ぱっと見には長く続くように見えるかも知れないが、実際には、花が散り、草が枯れるように、たちまちにして消えて行くものである。悪人は気づけばもう跡形もなく、いなくなっている。栄枯盛衰、諸行無常、聖書の御言葉を信じない悪人にあるのは、ただ滅びゆく世界の無常観だけである。その定めに抗う術は彼らにはない。だが、御言葉に立つ者は、悪人が消え去った後も、末永く平和と繁栄を享受する。

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。
 「あなたは、言葉を述べるとき、正しいとされ、
 裁きを受けるとき、勝利を得られる。」と書いてある通りです。」(ローマ3:4)

「悪事を謀る者のことでいら立つな。
 不正を行う者をうらやむな。
 彼らは草のように瞬く間に枯れる。
 青草のようにすぐにしおれる。

 主に信頼し、善を行え。
 この地に住み着き、信仰を糧とせよ。
 主に自らをゆだねよ。
 主はあなたの心の願いをかなえてくださる。
 あなたの道を主にまかせよ。
 信頼せよ、主は計らい、
 あなたの正しさを光のように
 あなたのための裁きを
 真昼の光のように輝かせてくださる。

 沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。
 繁栄の道を行く者や
 悪だくみをする者のことでいら立つな。
 怒りを解き、憤りを捨てよ。
 自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはいならない。
 悪事を謀る者は断たれ
 主に望みをおく人は、地を継ぐ。

 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。
 彼のいたところを調べてみよ、彼は消え去っている。
 貧しい人は地を継ぎ
 豊かな平和に自らをゆだねるであろう。

 主に従う人に向かって
 主に逆らう者はたくらみ、牙をむくが
 主は彼を笑われる。
 彼に定めの日が来るのを見ておられるから。
 主に逆らう者は剣を抜き、弓を引き絞り
 貧しい人、乏しい人を倒そうとし
 まっすぐに歩む人を屠ろうとするが
 その剣はかえって自分の胸を貫き
 弓は折れるであろう。

 主に従う人が持っているものは僅かでも
 主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。
 主はご自分に逆らう者の腕を折り
 従う人を支えてくださる。
 無垢な人の生涯を
 主は知っていてくださる。」(詩編37:1-18)

聖書の御言葉と、フィクションの世界はどこまで行ってもなじまない。筆者はまだ信仰に生きるようになる前、学生時代に長編小説を書こうと試みたことがあるが、完成に至らないまま放棄した。筆者はその当時、架空の世界を舞台として、冒険物語を書こうと思い、構想を練り、登場人物を揃え、プロットがほぼできあがった。だが、いくつかの章ができ、あとは細部を書き上げてつなぎ合わせるだけとなった時点で、別な用事のために、その作品は未完のまま放置された。それから、何年も月日が過ぎて、当ブログを始めた少し後で、改めてその小説を開いてみたところ、聖書とは無関係の架空の世界を舞台にして小説を書き続けることは筆者にはもうできないという結論に至った。

筆者は、キリスト者として生きることが何を意味するのかを理解するようになってから、それ以前とは大いに自分の感覚が変わってしまったと思うことがたくさんある。ここで言う「キリスト者として生きるようになってから」という言葉は、教会に通うようになってからとか、洗礼を受けてからという意味ではない。キリストご自身を実際に生きて知ってから、という意味である。

世にはクリスチャン作家が存在することは知っているが、その人たちの考えがどうあれ、筆者自身は、現実に存在しない架空の舞台で、キリスト教の神について語ることは無理であると考えている。なぜなら、神の御業を生きて知ることは、常にそれに関わる人々に現実的な代価を要求するため、人としての痛み苦しみも実際には味わうことなく、この世の時空間の中にまるで存在しない架空の登場人物に、神の貴い御業を信仰の代価なしに体験させることなど無理だからだ。どうやってそんな設定に説得力を持たせることができようか。
 
もしフィクションの物語で描ける内容があるとすれば、それは神のいない、人間だけの世界で起きる絶望的なストーリー展開だけであろう。その悲しい描写によって、人々の心にこんなにもむなしい世界は嫌だという思いを起こさせ、そのフィクションの世界を抜け出て、真実な神へ向かいたいという願いを呼び起こすことは可能かも知れない。

フィクションの世界では、このように、まことの神ご自身を物語のプロットに介入させることができないため、描けるのはどこまでも人間だけである。だが、キリスト教の神を扱えないからと言って、そこに聖書の神とは異なる別の神を作り出し、フィクションの宗教を作ったりすることは、もっと忌むべき試みであるものと思う。

そのようなわけで、架空の物語には、その物語の世界観の基礎となるべき思想がなく、それゆえ、どんなにプロットに重みを持たせようとしても、中心となる柱が欠けているため、最も主張したい重要な事実に、裏づけがなくなり、主張が消し飛んでしまうと分かり、それ以後、筆者は小説を書くことを放棄した。

この他にも、以前にはそれなりに本を読んでいたが、興味もなくなり、読めなくなってしまったという変化も起きた。感情や感覚をいたずらに刺激する文学的修辞が、物事の本質からいかにかけ離れているかが分かり、受けつけられなくなったのである。

人間の感情や感覚を刺激する描写や表現は、たとえそれが文字で書かれた文章であったとしても、ある種の悪魔的な性質としての肉の働きを含んでおり、それに没入するならば、本人を全く意図していない方向へと導く。文学的修辞は、堕落した魂の世界に属するものであり、それを通して、様々な悪しき思いが人間の心へ入り込むきっかけを作り出す。

聖書には、霊的な文脈はあるが、文学的修辞はない。聖書は人間の使う言語を用いて書かれているとはいえ、文学的修辞のような、魂に働きかける言語によって書かれたものではないのである。

以前に、筆者は、当ブログにも度々引用しているオリーブ園クリスチャン古典ライブラリーに掲載されている記事の中で、クリストフ・ブルームハルトや、セス・リースのような、ペンテコステ系の指導者の記事だけは、どうにもいただけないと疑問符を投げかけたことがあった。その理由は、こうしたペンテコステ・カリスマ運動の指導者らの記事の文章が、霊的文脈でなく、まさに通常の小説などと同じ、文学的手法を用いて書かれているためである。(それゆえ筆者自身はこれらの記事を一部を除いてほとんど読んでいない。)
 
文学的修辞は、人間の感情や感覚を揺さぶる力を持っているが、それはあくまで人間の天然の魂に働きかける力であって、霊的文脈ではない。人間の道徳観も同じである。どんなに正しい主張のように聞こえても、魂から生まれる道徳論は、神の霊的な事実とは一致しない。それゆえ、ペンテコステ・カリスマ運動の指導者の書いた記事は、どんなに霊的内容を装っていても、オースチン-スパークスやペン-ルイスなどの文章とは全く異質な別の動機によって書かれたものであると、筆者は判断せざるを得なかったのである。(このことは、オリーブ園の著者が行っている膨大な手間暇をかけた翻訳作業を筆者が評価しないという意味では全くないため、誤解しないようにしてもらいたい。いかなる人の発表したいかなる内容であれ、読者は自分自身で識別しなければならないことを述べているだけである。)
 
そうした判断に基づき、オースチン-スパークスのような霊的先人たちの主張と、ペンテコステ・カリスマ運動のような「霊的ムーブメント」とが、どのように異なるのかを追っていくと、両者は、全く源流を異にする別の霊的運動だという事実が見えて来る。そして、一体、ペンテコステ・カリスマ運動の起源は何かということを調べて行くと、これは聖書とは全く異なる東洋思想をキリスト教と合体させて出来た異端で、その本質はグノーシス主義だということが分かるのである。

「霊的」と言われているからと言って、すべてが御霊から来たものではなく、グノーシス主義のように、「肉のものを御霊のものに見せかける」トリックが存在するため、この点を見分けることができなければ、熱心なクリスチャンほど欺かれる危険がある。なぜなら、熱心なクリスチャンには、霊的な信者になりたいという真剣な熱意があるので、真理への渇望、探究という点で、怠惰なクリスチャンとは比較にならないからだ。そして、そのような熱心さにつけこんで、「あなたはかれこれの教えを受ければ、もっと霊的になって、神に近付けますよ」という甘い誘い文句で、信者を欺くのがグノーシス主義の特徴であるため、注意しなければならない。その偽りを見分けるためには、霊の偽物が存在することを理解した上で、異端の基礎構造を把握して備えておく必要がある。ちなみに、霊を識別することは、聖書が信者たちにはっきりと信者に呼びかけている事柄である。

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。」(Ⅰヨハネ4:1-3)

以上の短い御言葉を読んだだけでも、イエス・キリストを証せず、人間を証し、聖書を軽んじるカルト被害者救済活動が、神の霊から来た活動でないことは明白である。だとすれば、その運動はどこから来たのか。悪魔から以外にはあり得ないだろう。ではなぜ彼らは自分たちはグノーシス主義者ではないと言っているのか? ただ嘘をついているだけである。

我々には、ある人の主張の背後に存在する霊の性質を見分けるに当たり、その人の書いた文章以外に手がかりとなるものはない。そこで、ある主張が、本当に神の聖霊から来たものであるかどうかを確かめる有力な手がかりは、聖書の御言葉と対比することである。だが、もっと簡単に見分けるポイントをあげるなら、それは前々から書いているように、「キリストに栄光を帰しているのか、それとも、人間に栄光を帰しているのか」という違いに注目することだ。御霊はイエスを証しし、イエスに栄光を帰する。それをせず、人間を証し、人間に栄光を帰する霊は、キリストの御霊ではない。

イエスは言われた、「もし、わたしが自分自身について証しするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証は真実であることを、わたしは知っている。」(ヨハネ5:31-32)

「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。」(ヨハネ15:26)

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。」(ヨハネ16:13-15)


ペンテコステ・カリスマ運動がいかがわしい偽物の霊的運動だとはっきり言えるのも、この点によるのであり、この運動は必ずと言っていいほど、人間の指導者に栄光を帰する。彼らは人間に過ぎない指導者を、偉大な霊の器として誉めたたえ、いかにその指導者が数々の奇跡的な偉業を成し遂げたかという話に夢中になる。この類の話は、イエスを人間が栄光を受けるための手段に変えてしまっており、その「証」の内容も、ほとんどがサンダー・シングと全く変わらない奇跡物語である。それゆえ、どこからの時点で、死者の霊との語らいというテーマも出て来るであろう。なぜなら、悪魔的な思想は、死、黄泉、墓、死者の霊などに異常なほどの愛着を持っているためである。

繰り返すが、キリストから来た御霊は、キリストを証する。そしてキリストに栄光を帰する。しかし、堕落した被造物としての人間(悪魔)から来る霊は、人間自身を証し、人間に栄光を与えようとする。前者がキリスト教の正しいあり方で、後者は被造物を神とするグノーシス主義の特徴である。そこで、以上の御言葉のリトマス試験紙により、9割程度の主張の出所が明らかになる。それでも分からないものがあれば、さらなる検証が必要である。

さて、自分たちはグノーシス主義者ではないと言って、筆者の論に反対しているカルト被害者救済活動の支持者らが、イエス・キリストを証しせず、聖書の完全な真実性を認めず、クリスチャンや神の教会を迫害し、嘘とデタラメを終わりなく並べ、筆者のようなクリスチャンが聖書を捨てるべきだとまで主張していることは、思わず笑ってしまうほどの自己矛盾であり、荒唐無稽かつ愚劣な主張である。こうも支離滅裂な主張になって来ると、もはや精神の異常さえ疑われるレベルに達していると言われるのも当然であろう。

偽りの霊性がその醜い本性を赤裸々に表すのは、彼らの思想の展開が最後の段階になってからのことである。悪魔が光の天使を装うように、般若(グノーシス)は、最初は涅槃の姿をして近づいて来るのであって、その真の顔が、般若の(鬼の)面であることは、最初から示されるわけではない。現に三島もそうであった。三島が肉体を鍛え、明るい太陽の下で、人々と楽しく交流し、人生を謳歌していたように見えた時、彼は人々から見れば、涅槃に生きているようにしか見えず、まさか彼がまっしぐらに死へ向かっているのだとは、皆に思いもかけなかったであろう。彼には妻もあれば、子供たちもいたのである。その上、才能もあった。死ななければならない理由は、彼の思想に着目する以外には、どこにも見いだせなかった。

今日も、同じように、何の問題もなく人生を謳歌して安楽に生きているように見える人々の心に、御言葉という見えない霊的法則性の物差しを当てはめるなら、まるで数学の方程式を解くように、彼らの向かう先がどこであるか、その目的地をほとんど狂いなく正確に導き出すことができる。

ノアが嘲りの只中で箱舟建設の作業を進めていた時、人々は飲んだり、食べたり、娶ったり、嫁いだりして、己の欲望に邁進していた。人々は、ノアがそうした事柄に関わろうとせず、人々の振る舞いに賛同も賞賛もしないのを見て、最初はいぶかしみ、次に忠告し、彼を何とかして世に引き戻そうと試み、それがかなわないと見るや、何という変人かと呆れ、ノアはきっと偏屈なカルト信者に違いないと決めつけて、嘲りと妨害に転じたことであろう。箱舟建設に妨害は起きなかったと思う方が安易すぎる。

ロトの時代もやはりそれと同じであった。ソドムの住人は己の欲のゆえに途方もなく凶暴化しており、ロトの家に滞在した御使いたちの引き渡しを求めて、ロトの家に群衆となって殺到し、押し入ろうとさえした。だが、神はロトの家族を守ることを決めておられ、実際に彼らを守られたのである。ただロトの妻だけが、ソドムの欲に引かれ、脱出の途上で後ろを振り返って帰らぬ人となった。ソドムの凶暴化した住人たちは、当然ながら、一人残らず滅ぼされた。そこには加害者も被害者もなかった。ロトの家族を除いて、全員が滅ぼされたのである。

今、見えない箱舟建設の作業は着々と進んでいる最中であり、これを嘲っている人々は、ただ自分たちに差し迫っている滅びが見えないだけである。彼らは自分が何からエクソダスせねばならないかも分かっておらず、神と聖霊に執拗に言い逆らって、自分たちが二度と後戻りできないように、信仰の道を自ら閉鎖している。まもなく、彼らは、御使いたちを憎悪して引き渡しを求めたソドムの住人たちのように、自らの憎悪を、被造物ではなく、創造主に直接、向けるようになるだろう。通常の常識のあるクリスチャンが、彼らの境遇に置かれれば、自分たちを待ち受けている滅びの運命が、あまりに恐ろしいことに気づき、とうに嘲りとディスカウントの鏡を捨て去って、真心から悔い改めて神に立ち戻っていたことだろう。神が彼らの心をこれほど頑なにされたのである。恐るべき霊的盲目性と言うほかない。それは彼らが悔い改めて神に立ち返る道が閉ざされるためである。神はご自分が憐れもうとする者を憐れみ、心頑なにしようと思う者を頑なにされるからである。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる。<略>自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:26-33)

「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(マタイ24:36-39)

さて、いよいよグノーシス主義に関する最後のテーマに近づいて来たが、そのテーマに入る前に、もう一度、牧師制度が根本から誤っていることについて書いておきたい。

牧師制度の根本的な誤りについて書くと読者が激減する。今は当ブログを訪れる読者の数多くが検索結果の操作のための工作員という有様なので、さわやか読者が減っているならば、良いことである。

不思議なことに、アクセス履歴がどうあれ、ここで論じた話題は電撃のごとく伝わって行く。まるで閉塞した全体主義社会のようなキリスト教界において、はっきりものを言う人は極めて少ないため、影響力は少なからずあると見られる。

さて、ネットにブログを開設したり、コメントの投稿を行っている人々は読者のうちのほんの一部で、残りの8~9割はネット上ではほとんど発言しない人々である。だが、筆者が読者とみなしているのは、もの言わぬ人たちである。

日本のクリスチャン人口は1%を横這いしていると言われるが、それは統計が取られた時点で、どこかの教会に所属している人たちを指し、実際にはその何倍、何十倍もの、教会に属さない”隠れキリシタン”のような人たちが存在すると思われる。1%は入れ替わりの結果だからだ。

選挙では、無党派層が動けば、政権交代など簡単だと言われているのと同じように、以上のように教会から打ち捨てられて、統計にも挙がらず、ひっそりと個人的に信仰を守る”ドロップアウト組”のクリスチャンが動くことがあれば、キリスト教界をめぐる状況はあっさりと変わるだろうと思う。

牧師制度の前に跪拝しない、「バアルにひざをかがめない七千人」が必ず残されていることを筆者は信じる。
 
さて、「随想 吉祥寺の森から」の著者杉本徳久なる人物の誤りは、プロテスタントの諸教会の誤りを現象面だけで取り沙汰し、教義面で深く考察することをほとんどしなかったがために、ペンテコステ・カリスマ運動の根本的な誤りに気づくことなく、これと訣別もしなかったことである。さらに、それに加えて、数々の牧師を批判しながらも、牧師制度そのものが根本的に誤っていることに気づかず、牧師制度こそ、諸教会に様々なスキャンダルが引き起こされる最たる原因であるということを見失ったまま、教会バッシングに走った点にある。
 
だが、以前にも書いたように、杉本は当初はプロテスタントのあらゆる牧師に対して否定的な態度を取っており、村上密についても「全く信用していない」と断言し、活動を支援しない立場を取っていた。筆者から見れば、そのままの立場を貫けば良かったのである。

ところが、杉本は村上密から、早速、自分が村上について書いた否定的な見解にクレームをつけられた際、おそらく、水面下で、「あなたは思い込みだけで私を非難している。私(村上)は命がけでカルトと戦い、被害者を救済しようとしているのに、あなたは私の働きを否定して、被害者を見殺しにするつもりか」と責められたのだろう(そう考えるのは、村上が当ブログにクレームをつけた際に、まさにそういう理屈を用いているからである)。それを機に、杉本はあっさりと立場を翻し、前言を撤回して、ほとんど謝罪文のような文章をブログに記して、村上陣営に下って行った。

だが、杉本は過去にアッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団の教会を見放して、そこを去った経緯があったわけだから、その時に得た自分の個人的な直観を尊重すべきであった。おそらく、それまでの杉本の心の中には、何らかの体験を基に、聖霊派の教団は一切信用できず、そこにいる牧師も信用できないという直観があったのではないかと思われる。

それにも関わらず、杉本は「自分が他人にどう見られているか」という体裁にこだわるあまり、自分が体験を通して得た貴重な教訓を尊重せず、自分がかねてよりプロテスタントの教会(特に聖霊派)に対して持っていた不信感を捨て、世間からの評価を失うことを恐れて、村上のクレームに屈してしまったのである。

杉本は、村上の人物が信用できずとも、とにかくカルト被害者だけは支援しなければならないという義務感に駆られて、村上に降伏宣言をし、それを機に、自分の見解をどんどん失って行ったものと考えられる。
 
そのようなことになったのは、杉本がもともとブログにおいて、自分自身の心の問題と真正面から向き合っていなかったためでもある。杉本は、自分が一体、なぜカルト問題に関心を寄せており、カルト被害者に同情しているのか、自分自身が聖霊派の教会で受けた負の体験や心の傷と、真正面から向き合いながら、その問題を解くことを避け、自分自身の問題はすうかり脇に置いて、他のカルト被害者のことだけを論じており、そのようにして自分自身の問題を軽んじるうちに、以上のように、自分が個人的な人生で体得して来た教訓や直観すらも軽んじるようになったのである。

杉本は、神の御前で、自分が教会に対して持っている恨みや憎しみはどこから来るのか、その負の感情を正直に告白して、自分自身の心の癒しを求め、さらに、神の望まれる真実な教会の姿を求めることで、真理に立ち返る作業をしなかったのである。そうして自分自身が不在のまま、他者の問題にばかり没入して行った結果、村上密のような人間が現れた際、「カルト被害者を見捨てるのか」という問いをきっかけに、自分をあっさりまるごと村上に奪われてしまったのである。
  
ご存知の通り、それ以降の杉本の歩みは、すっかり村上密にマインドコントロールされたものとなり、聖書の御言葉の真実性を追求することや、神が満足される教会の姿を追求することなど二の次となり、ただカルト被害者の面目が傷つけられないことだけを優先するものとなった。

その後の杉本ブログは、牧師制度を批判することもなく、村上の親族である津村牧師の不祥事などは一切、取り上げることもせず、ただ村上サイドに取ってのみ都合の良い、偏った情報を延々と流し続けて、村上の活動を礼賛し、村上の政敵を貶めるための情報を発表してバッシングを加えるだけの、公平性のかけらもないメディアになり下がってしまった。自分自身の主体的考察も失い、事実上、村上密の活動のための宣伝広報係になってしまったのである。

その挙句、今となっては、杉本は村上が吹き込んだ嘘の情報を次々と公に発表し続けて来たことの責任を、一身に押しつけられ、罪にまで問われている。

だが、前々から当ブログで書いている通り、こうして自ら他人の奴隷となって、自分の考察や見解を放棄した杉本の責任は重く、また、彼がいかにクリスチャンを名乗っていても、信仰を持つ神の民でないことも確かであり、杉本ブログが嘘の温床になったことは確かであるとはいえ、だからと言って、杉本の言うことが、何から何まで100%嘘というわけではない。

敵の欺きの方法は常に真実の中に嘘を混ぜ込むというものであるから、我々は、何が真実であり、何が虚偽であるのかを鋭く切り分け、決して枝葉末節に注意を逸らされることなく、真に重要なテーマを見分けねばならない。
 
ここで最も重要なことは、教会関係者へのバッシングや、スキャンダルの細部に関する論争に明け暮れることによって、本質的な敵を見誤らないことである。

すなわち、プロテスタントの牧師制度が根本的に誤っていること、牧師制度は人間の欲望が生み出した反聖書的な制度であり、教会に生じたすべての忌むべきスキャンダルの発生源はこの悪しき制度と密接につながっているという事実を見逃さないことである。

(*筆者はここで、牧師だけが特別に悪い人種だとか、牧師制度を撤廃すれば、教会は天国になるなどと言っているのではない。ただ、牧師制度はグノーシス主義的被造物崇拝の教えであり、要するに、信徒らが自分の欲望を宗教指導者に投影した結果として生まれるものであるから、牧師は信徒らの欲望の化身であり、そのようなものを尊んでいる限り、教会の腐敗は終わらないと述べているのである。

牧師制度という悪しき制度については、牧師と信徒の双方に責任があり、牧師が罪深いだけでなく、牧師を担ぎ上げた信徒の罪も同様に重いの言うまでもない。人間の悪しき欲望がこうした現人神崇拝を作り出しているのであるから、牧師だけを非難して終われるような問題ではないのである。)
 
杉本ブログが出現した時点で、牧師制度はその悪しき本質を露わにし、すでに終焉を迎えつつあったと言えよう。その上、その後、当ブログが出現し、「カルト化教会の牧師をやっつける正義の味方」として活動していた村上密や、キリスト教界を公然と批判していたDr.Lukeの主張の欺瞞性を明らかにしたことにより、「牧師が牧師をやっつけることで、キリスト教界を浄化する」という活動も、プロレスごっこと呼んで差し支えない茶番劇であり、完全な欺瞞であることが明らかとなり、こうして、一部の牧師だけを悪者として排除することによって、牧師制度そのものは温存できるとする見解が誤っていることが明るみに出されたのである。

結局、自らが牧師でありながら、他の牧師の悪事だけを非難している人々は、自分自身が非難している対象と、同じ穴の貉であるか、より一層の深い闇でしかない。もちろん、それは村上密やDr.Lukeについて当てはまるだけでなく、「キリスト教界から出なさい、牧師制度は間違っています」と教えながら、どの牧師よりもさらに強力な「牧師」のような統率者となって集会全体をコントロールしているゴットホルト・ベックという人物にも当てはまる。

ところで、もしも機会があるならば、吉祥寺キリスト集会を見学してみるのは興味深いことである。なぜなら、聖霊派のどの教団も及ばないほどの広がりがこの集会にはあるためだ。しかも、それが組織化されずに全国各地に地方集会として拡散し、機能している様子を見るのは驚くべきことである。

御代田のセンターに行き、どれほどの数の信徒が費用の負担も惜しまず、嬉々として全国から自然に集まって来るか、すべての催しがどれほど自主的な協力のもとに構成され、平和裡に遂行されるか、一度でも見物すれば、驚きにとらわれるであろう。これは聖霊派の牧師などが見れば、さぞかし悔しがるに違いない光景である。そこには一見すると、強制された、人工的な要素がなく、これほどの規模で集会を動かしていたリーダーを、筆者は他に見たことがない。動かされる献金額も全く考えられないほどの規模に達しているはずである。

しかも、この集会では、信徒らの学歴と社会層が高いために、聖霊派の教団で起こるような低レベルの混乱は起きない。もともと平和的な性格で、争いを嫌う団体のため、筆者がここでこの集会に対する批判的な意見を書き記したからと言って、早速、目くじらを立てて、筆者を引きずりおろしてやろうなどと敵愾心を燃やし、検索結果の操作にいそしんだり、2ちゃんねるに投稿を繰り返すような信者は一人もいない。前にも書いた通り、戦後の開拓期を思わせる、純朴な羊のような信徒の群れである。

それは体験としては非常に興味深いものであった。(むろん、当時の話であるが。)だが、だからと言って、そのように一人の強力なリーダーの意志のもとに推進される集会が、正しいものであるとは、筆者は一切考えていない。そして、やはりいかに自主的に運営されているように見えたとしても、その集会には、目に見えないヒエラルキーがれっきとして存在し、年功序列などの、聖書に照らし合わせて、決して正しいと認めることのできない序列があった。

彼らが「権威と服従」として受け入れているそのヒエラルキーが、決して聖書に基づく正しい考えであるとはみなせないことは、すでにこれまでの記事で解説して来た通りである。我々はただ羊のように従順であるだけではいけない。宗教指導者に盲信的に従ってさえいれば安全だということは決してなく、何が正しく何が間違った教えであるかを自分自身で吟味することを、信徒は決してやめてはいけない。

しかし、筆者はその団体で、あたかも兄弟たちと対立して、挫折して去ったかのように虚偽の情報を言いふらされることを嫌ったため、集会を離れる前、最後にわざわざベック氏のもとへ行き、「ベック兄は、毎週、日曜日に必ず礼拝に来なければ、クリスチャン生活を維持できないなどとは決しておっしゃいませんよね?」と質問して、肯定的な返事を得て、いわば指導者本人から、言質を取るようにして、集会を離れ去ることの許可を得たのであった。

ベック氏は、筆者の質問に対し、毎日曜、集会に参加することは決して義務として信徒に強制されるべきことではなく、集会に来なかったからと言って、信仰がなくなることは決してないので安心して良いと返答した(それが証拠に、吉祥寺集会のホームページには「出入り自由」と書いてある)。

ちなみに、筆者はこの集会において一度もベック氏と対立したことはない。ベック氏の本質については、以下に記すように、この集会を離れた後で、大勢の人々から話を聞いたが、筆者自身が相手の正体を暴露するような行動に出てたり、挑戦的な行動を取ったことは一度もない。ベック氏は筆者に対して常に温和であった。確かに「理想的な父」のように振る舞っていた。

だが、だからこそ、その優しい外見が真実であったとは、筆者は少しも考えていないのである。別にわざわざ正体を暴露しようなどと考えて挑戦的に振る舞わなくとも、こうして信徒らの心を支配する数々の美談や「神話」が作り出されている様子を見ただけで、それが嘘であることは十分に分かる。
  
そうした「神話」が本当であったらどれほど良いだろうかという思いが、筆者に全く起きなかったわけではない。特に、その集会において、両親ほどの年齢の兄弟姉妹に厚遇され、彼らが両脇から筆者を挟んで席に着き、筆者を家族の一員のようにもてなし、様々な場所へ案内し、一緒に寝泊りし、祈り、讃美歌を歌ったりしていた瞬間には、もしも筆者がクリスチャンホームに生まれてさえいたならば、こういう体験がきっと幼い頃から日常的にあったに違いないと、感慨深い思いがした。

筆者の家庭は、すでに書いたように、筆者が生まれた時から、父はクリスチャンでなく、教会とも信仰とも無縁であり、それゆえ、筆者の一家は一度たりとも家族が揃って教会に通ったことはなく、両親の間でも、常に宗教観が異なるために思想的対立があり、それゆえ、子供時代から、筆者は、相当な寂しさや孤独を味わって来たものである。
 
神を信じたことと引き換えに、いわば、筆者は両親からの愛を失ってしまったと言っても過言ではない状態に置かれ、信仰をめぐって家庭内で絶えざる対立が引き起こされていたために、苦しい思いをしたものである。(だからこそ、杉本が、筆者の両親が共に教会へ通ったかのように書いている偽りは、特に許し難いと言えるのである。)

だが、どんなにベック集会の兄弟姉妹が、両親を思わせるような人々であって、筆者が子供時代に家庭内で味わった孤独感を埋め合わせるかのように行動したとしても、彼らは決して筆者の実際の両親でないだけに、そのような「理想的クリスチャンホームの像」とでも呼ぶべき関係は、やはり「フィクション」でしかないことが痛感された。そのような「美しい幻」を維持するためには厳しいコストが必要となり、それを現実であるかのように信じれば、苦い結末が待っている。

何よりも、筆者は神を信じることにより、キリストの十字架を通して、肉による絆から解放されたのである。十字架を通して、生まれながらの肉によるすべての関係に対して死に、生まれ落ちた家庭に対しても死んだのであるから、筆者のなすべきことは、自分が召されて出て来た家庭を振り返ることでもなければ、それと類似した「疑似家族」を打ち立てることによって、幼い頃に得られなかった満足を追い求めることでもない。

そして、実際に、肉による家族関係が、そのまま神の家族関係になることは決してない。にも関わらず、その集会が、肉による家族関係を集会に取り込むことで、それがあたかも神の家族となりうるかのように強調していることには、大きな問題があった。

そこで、以下に書くような事件をきっかけに、「麗しい幻想」が壊されたことは、筆者にとって、まことに良いことだったのである。

現在、筆者があたかもゴットホルト・ベック氏の集会で、他の兄弟姉妹と対立したがゆえに、そこを去ったかのように虚偽を言いふらしている情報源は、唐沢治ではあっても、ベック集会の兄弟姉妹ではない。(杉本は唐沢の言い分を真に受けて受け売りしているだけである。)

唐沢治はこの集会について何も知らない。よって初めからこのことについて証言などできる立場になく、ただ身勝手な推測に基づく虚偽を言いふらしているだけである。

さて、筆者がその集会を離れる最大のきっかけとなったのは、筆者がMr.Sugarをその集会に案内したことであった。Mr.Sugarとは、ローカルチャーチ時代からの唐沢治の長年の知己であり、兄貴分と言って良い存在である。

そのMr.Sugarが、ウォッチマン・ニーに造詣の深い上記の集会において、ウォッチマン・ニーの権威であるように振る舞い、ニーに傾倒している他の信者たちの間で信用を得た上、筆者の悪口を広め始め、兄弟姉妹との仲を引き裂いたことが、筆者が集会を離れる直接的な原因となったのであった。

おそらくMr.Sugarは、そのようなつもりは一切なかったと弁明するであろうが、実際には、筆者が知っている限り、Mr.Sugarには、どんな集会に行っても、自分がそこで中心人物として指導的立場に立って、他の兄弟姉妹たちに説教を始めてしまうという欠点があった。

長年、ローカルチャーチで長老的な存在をつとめたことの結果、そうした態度が身に着いたのであろう。Mr.Sugarはどのような集会においても、他の兄弟姉妹と対等な立場に立つことはなく、教職者然と人を教えるリーダーになってしまうのである。これはDr.Lukeと極めてよく似た欠点であると言えよう。

さらに、Mr.Sugarには、温厚で優しいカウンセラーのような役割を演じつつ(むろん、それが演技であるという認識は本人にはない)、様々な信徒の相談に乗って、心の弱みを探り出した挙句、それを簡単に言いふらしてしまうという欠点があった。

Mr.Sugarはおそらく自分は他の信者らの弱点をよく知っており、それを克服するために手助けをしているという文脈で、信徒らの弱点に言及していたのであろうが、いずれにしても、あまりにも簡単に信者らの失敗談や欠点を、他の人々に向かって赤裸々に語ってしまうのである(病的な噂好きと口の軽さという点では、村上密ともよく似ているだろう)。
 
筆者がMr.Sugarを以上の集会に案内したにも関わらず、筆者に関する否定的な見解をMr.Sugarが他の兄弟姉妹に広めていることを、筆者は兄弟姉妹から聞かされ、しかも、兄弟姉妹がSugar氏に心酔するあまり、その言い分を信じ始めていることが分かった際、筆者はそれを機に、その集会をすっかり離れ去る決意を固めた。だが、集会を離れることで誰かから断罪されたりいわれのない誤解を受けることがないよう、ベック氏のもとへ行き、指導者自身から許可と言える言葉をもらった。

筆者はそうしてその集会を去った後、何が起きるのか観察して見ることにした。もしもMr.Sugarが正しいのであれば、彼は集会に残り、他の兄弟姉妹とうまくやって行けるであろう。だが、いつも自分がリーダーにならずにいられないMr.Sugarが、果たして、ベック氏を頂点とする集会に定着できるとはとても思えなかった。そこで、Mr.Sugarは必ず、どこかの時点で、ベック氏を崇拝することの誤りを兄弟たちに向かって説き、兄弟たちをこの集会から引きはがして、自分の影響力の下に置こうとして、それを機に、他の兄弟姉妹から関わりを絶たれるだろうと筆者は考えた。そして事実、そうなったのである。

だが、筆者とMr.Sugarとの縁はそれで終わりにはならなかった。次にしばらく年月が経ってから、コンタクトを取った際、Mr.Sugarは反ベック集会(ベック氏を批判して分裂した群れ)の只中にいた。そして、Mr.Sugarは「ベック集会がどんな風に誤っているか、この人々から詳しく聞いたので、あなたにも確かめてもらいたい」と筆者に向かって述べたので、筆者は今度はMr.Sugarの案内で、反ベック集会を訪れ、ゴットホルト・ベック氏について何が言われているのかを直接、彼らの口から聞いた。

Mr.Sugarは、ベック集会以上の正しい集会を見つけ、筆者をそこに導いたと考えていたのかも知れないが、筆者は、その集会に連続して通おうという気にはならなかった。なぜなら、その集会は、吉祥寺キリスト集会の影のようなものでしかなかったからである。

さらに、Mr.Sugarがその集会でメッセンジャーとなって人前で説教していることを知って、筆者は心の底から呆れた。なぜなら、Mr.Sugarこそ、筆者の前で、メッセンジャー(御言葉を取り継ぐ教師)となって、キリストになり代わって他の兄弟姉妹の心を支配し、人前に栄光を受けることの忌まわしさを、嫌というほど語った本人だったからである。

そこで、筆者はMr.Sugarに向かって、彼のしていることは自己矛盾であると述べ、Mr.Sugarがメッセージを語っている集会に行くつもりもない旨を告げた。だが、筆者はこの集会の人々がベック氏について述べたことは、本当であると考えている。そもそもベック氏について作り上げられている美談は、もはや「神話」と呼んで良い類のものであり、額面通りに信ずべき内容ではなかった。

Mr.Sugarは相変わらず、自分がこの集会に残ってメッセージを語り続ければ、人々の目を開かせることができると考え、そうすることに関心があったようだが、筆者は決して、そのようなことが人助けであるとは考えていない。
 
筆者から見れば、Mr.Sugarのしていることは、ペンテコステ・カリスマ運動の信者と同じなのである。すでに出来上がった土台を有する他の集会に入り込み、もしくはその群れから脱落しかかっている信徒を探し出し、彼らを「さらなる真理に目を開かせる」という口実でスカウトしては、自分自身の支配下・影響下に置こうとしていく。

Mr.Sugarは離散している信徒らの群れに特別な関心があり、彼らが個人的に開いている家庭集会を見つけては、交わりの中で信任を得て、定期的に集会を持つようになる。それだけならば、それは離散している群れなので、信者の強奪にも当たらず、非難されるべきことはないだろう。しかし、一度でも、そうした集会の中で、Mr.Sugarに対して何かしらの批判的な言葉を発すれば、その結果、一斉に集会全体が拒否反応を示すことになるので、それが完全にMr.Sugarの意志でコントロールされていることが分かる。

筆者が言えることは、「あなたが知っているよりも、さらに深い真理を私は知っており、私はそれをあなたに教えることで、あなたを色々な問題から助けてあげたい」と述べて、親切心を装いながら近づいて来て、信徒らの心をキリストから奪い去り、自分自身に向けさせる人々は要注意だということである。

そうしたやり方は、まさに悪魔が人間を「啓蒙」しようとして近づいて来たやり方にそっくりであり、そのささやきに耳を貸せば、真理を追求しているつもりでも、途中から人間に関心を逸らされ、依存して行くことは避けられない。
 
筆者はMr.Sugarから学んだことが数多くあったことは否定しない。KFCを出たときにも、あるいは2009年に横浜に来た時点でも、Dr.Lukeの危険性を、筆者に誰よりも説いて聞かせたのは、Mr.Sugarであった。
 
Mr.Sugarは2009年に筆者が横浜へ来た当初から「KFCはバビロンである」と断言しており、この集会のいかに危険であるかを切々と説き、Dr.Lukeの二重性を帯びた人柄について深く憂慮していた。だが、筆者から見たMr.Sugarの心理的弱点は、人と直接ぶつかることを恐れる余り、決して自分の本心を直接相手に告げて、耳の痛い忠告をしないことであった。喧嘩や対立を恐れるあまり、本人に向かって直接言うべきことを、第三者に語るので、それはただの悪口になってしまうのである。

当時、Mr.SugarもDr.Lukeと同じように「リーダーのいない兄弟姉妹の群れ」を追求していたが、それにも関わらず、自分自身がリーダーになってしまうところに、二人のどうしようもない自己矛盾があったと言える。

Mr.Sugarは牧師を名乗ったことは一度もないが、結局、自分が教師となって他の信徒らの心を自分自身に向けさせ、説教者となって信徒らの心を支配してしまう時点で、牧師も同然の存在であった。また、他の群れから信者をスカウトすることによって、自分の群れを形成しようとするところにも、非常に大きな問題点があったと言えよう。

筆者は、ローカルチャーチを出たこの二人の人物から、聖霊派では決して知ることのできなかった真理についての証言を聞かされ、そこに神の采配があったことを疑わないが、ローカルチャーチを経由しているがゆえに、この二人のふるまいには、決して油断できない二重性があったことも確かであるものと思う。

我々は、ある日、誰かから、これまでに聞いたことのないような、御言葉に関する優れた解釈を聞かされたり、ある交わりの中で、大きな真理が開かれるのを見ることがあるかも知れない。だが、そのような奇跡的な出来事が起きたからと言って、決してその集会を賛美したり、特定の人間を師のように仰いだりすべきではない。

仮にどんなに優れた兄弟姉妹と出会ったと感じることがあったとしても、真理については、ただキリストご自身から学ぶという立場を貫き通すべきであり、人間から教えを受けたかのような態度を取るべきではない。聖書の御言葉について重要な真理を学ぶきっかけを得たというだけの理由で、目に見える人間につき従って行って、彼らの人間的な弱さに巻き込まれたりすべきでもない。

そこで、真理に関する知識を、あたかも自分たちが独占的に握っているかのように振る舞うことで、福音を手段として人の心を支配し、人前に栄光を受けようとしている人たちには、よくよく注意しなければならない。
  
さて、話を戻せば、今や牧師制度が信頼失墜し、新たな時代の到来が待ち望まれているのは明白である。にも関わらず、未だそうした事実を見ずして、牧師を批判する信徒が現れると、その信者だけにすべての問題があってそうなったかのように決めつけ、信徒に対するネガティブ・キャンペーンにいそしんでいる人々がいる。

彼らは牧師制度を維持したいがために、プロパガンダをしているのである。そういうことをしている面々は、決まって宗教指導者であるか、もしくは特定の牧師の手先のように行動している信者だけである。

先の記事で挙げた杉本のメールでは、ベルシープ伝道所の牧師を名乗っている坂井能大とKFCのDr.Lukeについての記述があった。むろん、先に指摘した通り、他人へ宛てたメールの中で、第三者に対する証拠のない悪口を書き記すことは(悪口だけでなく虚偽の情報であっても)、罪に問われてもかしくない違法行為であるから、杉本はそのような行為をやめるべきである。

だが、そこで杉本が言わんとしていることの中には、見逃せない事実もある。なぜなら、そこで示唆されているのは、「坂井は唐沢から事実を知らされておらず、唐沢に騙されて焚き付けられただけだ」とする筆者の見解は甘く、坂井と唐沢は初めから確信犯的なグルであって、坂井は唐沢の正体を十分に知りながら、唐沢の罪にはそしらぬ顔をして、筆者の名を無断で使用することにより、大いに空騒ぎを起こして、筆者に害を及ぼしているだけで、そこにはいかなる善意もありはしないということだからである。

杉本のこうした指摘に対して、坂井が今後、どう反応するかは、一つの試金石になると言えよう。何しろ、唐沢と坂井は筆者のメールを無断で裁判に提出したくらいなので、他人のメールを裁判の証拠にすることにはためらいがないはずだ。当ブログで公開している杉本のメールなどは証拠として使用しても、違法行為にも該当せず、罪にも問われはしない。

そこで、この先、坂井が個人的に杉本の主張に論拠を示して抗議し、杉本を訴えるようなことがあれば、杉本の言うことは嘘だったと公然と立証される。だが、それがなければ、結局、杉本の言い分が結果として残るのである。

しかしながら、我々は、坂井が杉本を訴えるかどうかをわざわざ時間をかけて観察せずとも、坂井の本当の敵が、初めから杉本ではなく、そこには、唐沢の場合と全く同様の、信徒を貶めようとする意図しかなかったであろうことを十分に察知できる。

坂井が杉本に対立しているかのように振る舞って来たのは、唐沢と同様に、全くうわべだけのポーズなのであり、その挑発行為の真の目的は、杉本を焚き付けて、自分たちに不都合な信徒を攻撃させて、信徒を争いの中に引きずり込み、破滅させることにあったのだと十分に推測できるのである。

坂井は、杉本を憤激させて筆者を攻撃させるためにこそ、筆者の名を全面に押し出して、杉本を挑発した可能性が限りなく高い。そもそも、坂井が筆者とは一面識もないのに、筆者がブログを閉じていた間にも、筆者のブログの記述を大いに利用して、杉本に対する挑戦的な騒ぎを拡大していたこと自体が、「簒奪の模倣」に該当する。

つまり、ここにも、ペンテコステ・カリスマ運動に影響を受けた人々が常に、自分以外の信者の意志や許可をよそにして、本人に無断で本人の名を騙ってなりすましたり、まるで自分こそ、その人間の代弁者であるかのように勝手に名乗り出て、ターゲットとする人物の存在をことごとく「流出」させて、信者の弱点を言いふらして印象操作を行ったり、人間関係を分裂させて壊したりして、神に属する民を傷つけ、冒涜し、害を加えることをやめられないという悪しき性癖を見ることが出来るのである。

何のために彼らはそんなことをするのだろうか? それは第一に信徒を辱める目的と、第二に、牧師階級を守る目的のためである。坂井や唐沢は、ただ気に入らない信徒をおもちゃにして害を加えて楽しんでいるだけでなく、牧師制度の罪を告発し、この制度の撤廃を訴え、自分たちが特権階級として属しているヒエラルキーを否定するような信徒に集団で制裁を加え、破滅させて口を封じようとしているだけである。

現在、まさにそうした筋書きが進行中で、坂井は自らの主張の正当性を、裁判でも立証できずに杉本に敗れ、その馬鹿馬鹿しい挑発行為のとばっちりが、無関係な筆者に不当に呼んでいる。

筆者は2ちゃんねるにコメント投稿したこともなく、坂井を焚き付けた過去もなく、坂井とメールの一通すらも交わしたことなく、裁判が行われた事実も知らなかったのであるから、坂井の言動が筆者の差し金によるはずもなく、かえってどれほど筆者の方が、坂井と唐沢の無責任な挑発行為によって迷惑を及ぼされているかはかりしれない。

だが、そうしたことも、彼らには織り込み済みであり、彼らはもともと杉本の思い込みの強さを知っていたために、杉本なら簡単に騙せると考えて、筆者の名を存分に利用して杉本を挑発し続け、自分たちの背後にあたかも筆者が存在しており、すべてが筆者の策略であるかのように思わせようとしたのである。

それに成功しさえすれば、結果として、彼ら自身は悪しき挑発行為の責任を追及されることなく、すべての責任を筆者にかぶせることができ、杉本をして筆者を攻撃させることにより、筆者を苦しめ、葬り去ることができると計算したのであろう。もちろん、それは最終的に、牧師制度を守り、この制度を非難する者の存在をネットから消し去るために行われているのである。

こうして、唐沢と坂井がこれまで一体、何のためにタグを組んで、さんざん杉本を挑発し、むなしい騒ぎを起こし続けて来たのか、その理由は読者に十分に明らかになったと言えよう。

そこで言っておきたい。もしもこの先、唐沢や坂井のような人間が現れて、勝手に「ヴィオロンさんがいじめられている」とか「ヴィオロンさんから応援したいと言われた」などと述べて、筆者の名を使って、杉本や村上のような誰かを非難し、ネット上で「戦争」を始めたとしても、それは筆者とは何の関係もない事柄である。

村上や杉本を含め、筆者が誰かに対立して、論争をしかけたいと考える場合は、可能な限り、オープンな場で、きちんと証拠の残る、合法的なやり方を用いるつもりであり、当ブログとは異なる掲示板などの場所を利用して、責任の所在が分からない発言を行うことはない。

さらに、前々から述べている通り、筆者は誰とも協力しておらず、牧師との協力関係などは、金輪際、お断りである。そこで、杉本の嘘の主張に反駁するためであろうと、他のどんな問題解決のためであろうと、誰にも協力を仰いだりせず、代弁者を立てて行動することもない。

むろん、これまで何度も書いて来たように、唐沢が杉本に民事提訴を予告したことも、唐沢の単独行動であって、そこに筆者の依頼はない。よく考えれば誰にでもすぐに分かるはずだが、仮に筆者が依頼してみたところで、唐沢が筆者に代わって、筆者の受けた「被害」を理由に、杉本を訴えることなど、もとより不可能なのである。グレゴリウスを名誉毀損で訴えた唐沢がそのことを知らなかったはずはなく、大人なら誰でも分かるはずの常識的かつ初歩的な事実である。

そこで、唐沢が、筆者があたかも唐沢に向かって杉本に対して裁判を起こすよう焚き付けたとか、それにも関わらず、筆者の実名が表に出ていないために提訴ができなかったとか、幼稚園児の綴るおとぎ話のような、筋の通らない空想話を用いて、自分にはまるで杉本と対立する意志など毛頭なく、筆者から要求されたので仕方がなくそのような行動を取らざるを得なかったかのように、後になってすべてをごまかそうとしていることは、まさに笑止千万な作り話であり、とてもではないが、立派な学歴もあり、高い職業的地位に就いていた、大の大人の発言とは思えない。そして、そんな馬鹿げた幼稚な筋書きに騙され、振り回される方もどうかしており、両者ともにとてつもなく暗愚であるとしか言いようがない。

ただし、筆者は、唐沢は当時、杉本から実名で名誉毀損を受けていたのであるから、それに抗議するために、自分自身の名において、杉本を提訴することは、十分に可能であり、許される行為だったと考えている。また、民事提訴を取りやめたのであれば、その旨をきちんと周囲に分かるよう、説明すべきであった。にも関わらず、唐沢が筆者から説明を求められたにも関わらず、それをしなかったことは、結局、唐沢という人物の闇を証明するだけである。結局、唐沢は杉本の中傷が真実であると認めているに等しく、いたずらに騒ぎを拡大して筆者に害を及ぼすためだけに事件に関わったと自ら白状しているも同然なのである。

坂井の裁判に関しても、前から書いている通り、もしも筆者が本当にその裁判が起きたことを知っており、これを応援するつもりがあったなら、当然ながら、過去のメールを裁判資料として提出したりせず、その時点で、陳述書を書いて、自らの口で証言していたはずである。なぜなら、それが当事者以外の人々が裁判で証言するための常識的なやり方だからである。

従って、唐沢が、筆者から陳述書を取ろうともせずに、筆者が坂井の裁判を「応援したい」と述べたとか、そのために自分のメールを資料として提出することに「同意した」とか、嘘八百を述べていること自体、常識をわきまえている人間から見れば、理屈に遭わず、筋書きが破綻していることが明白なのである。

結局、こうした事実から見えて来るのは、唐沢や坂井が、常に筆者本人の意志を無視して、許可もなく、筆者の名を騙って、杉本を挑発し、ひたすら騒ぎだけが大きくなるように行動し、そうした自分たちの無責任で幼稚な行動が、あたかも筆者の差し金によるものであるかのように見せかけることで、自分たちはちゃっかりと責任を逃れた上、筆者に不当な形で害を及ぼそうと企んで来たという事実だけである。

そうした彼らの恥知らずな行動を通して、我々は、彼らの本当の目的が、杉本と対立することになど初めからなく、ただ杉本を挑発して、自分たちの気に入らない信徒に害を及ぼすことにあったと知ることができる。繰り返すが、彼らは二人とも牧師であって、筆者よりも年上であり、大の男たちが、これほど幼稚で非常識な行動を取ることは、通常では考えられない。しかし、牧師だからこそ、彼らはこういう行動に及んでいるのであり、牧師階級を批判する人間を葬り去るためならば、どんな卑劣な手段をも厭わないのである。

こうして、我々は、村上密の投げつける非難に屈し、これを受け入れた人々が、結果的には、ことごとく、村上密が描いた通りの人物像になって行った様子を見ることができる。杉本は村上に「思い込みが強い」と非難され、村上のクレームを受け入れたことで、まさにその通りになり、唐沢もまた、「非常識な主張になれあいで悪のりのコメントをしているだけの無責任なコメント投稿者」、「藪の中から石を投げて喜ぶだけの非常識で幼稚な生き方」などと非難され、その村上の非難を反駁もせずに受け入れたことで、まさにその通りの人物像になって行ったのである。

だが、筆者は上記の二人のように、村上密による根拠もない呪詛のような言葉を受け入れることは、断固拒否させていただく。
 
これまでもそうだが、この先も、誰かが筆者の名を勝手に使って、筆者の味方を装い、あるいは筆者の代弁者を装い、筆者の許可もなく、掲示板やブログなどに書き込みをしたり、裁判資料などと称して筆者のメールを流出させたとしても、そのようなことは、その人物が勝手にやっていることであるから、筆者は、その行為に一切責任を負うつもりはないし、筆者が責任を負わされねばならない理由もない。そのような騒ぎを引き起こした責任は、すべてその当人に帰する。場合によっては、関係者全員から訴えられることをも覚悟してもらわねばならない。

読者は、目を開いてよくご覧になりたい。これが、牧師というものの本質なのである。つまり、一旦、牧師となった人間は、二度と信徒の利益のために動くことはなく、彼らが信徒のために動いているように見える時にも、それはすべて自分自身の利益のための行動なのである。

牧師たちには、それぞれの主張の違いがあって、相互に対立しているように見えることもあるかも知れないが、牧師階級を守るという一点においては、彼らは完全に結託して、自分たちに刃向う信徒を敵として行動する。

だが、それにしても笑止なのは、その牧師が、信徒に過ぎない杉本に裁判で敗れたことである。筆者はかねてより、杉本に敗れるなど恥でしかなく、愚の骨頂だと主張している。杉本の主張のレベルがいかなるものであるかは、読者にも2枚の答弁書から明らかになっている通りだが、このような程度の主張も覆せない人間のレベルは、もっとお粗末で、お里が知れようというものだ。およそ論理などと呼べるものは、そこには毛筋ほどもなかったに違いない。神が味方しておられるなら、なぜそんな結末になる理由があろうか。

さらに笑止なのは、敗訴に終わったこの裁判を、かつては立派な大学講師であり、博士号まで取得した人間が支援していたという事実だ。

唐沢はかつて2009-2010年には大学講師という、社会的にもそれなりに尊重される地位にありながら、自分が杉本に実名で名誉毀損をされた際、杉本を訴えることもせず、かえって元KFCの信者を告訴し、杉本ブログの権利侵害の記事を削除させるために必要な具体的な措置を何一つ講じなかった。

そして、今になっても、「杉本と遺恨を残すことは本意ではない」などと述べて、自分は杉本によっていかなる人権侵害も受けていないという立場を貫いている。そうした行動に、唐沢という人物の本心が如実に表れていると言えよう。

唐沢はおそらく当時から、杉本が村上密を支援することを通して、牧師制度の前に跪いており、牧師階級全体を敵に回すつもりがない意図をはっきり見ていればこそ、杉本を敵とみなさず、裁判を起こして徹底的に攻撃し、打ち負かすことを控えたのだと考えられる。

むしろ、牧師の手先となった杉本をうまく利用すれば、かえって自分の地位の安泰をはかることができると考え、不都合な信徒を「消す」ために、杉本の手を存分に借りられると踏んで、わざわざ杉本を「延命」させた上で、気に食わない信徒の名をさんざん騙りながら、杉本への挑発行為に心血を注いで来たのである。

その唐沢とタグを組んでいる坂井が、自分だけ唐沢と違った考え方を持っていることなどはまずありえない。そこで、彼らの真の目的は、杉本を倒すことになど初めからなく、むろん、クリスチャンとして、自分の信仰告白の確かさを、神と人との前で証明することにもなく、ただ杉本を存分に利用して、牧師階級の利益の確保のために、牧師の利益に逆らう信徒を破滅に追い込み、抹殺することだけであったと見るのが適当である。

村上密、坂井能大、唐沢治、鵜川貴範・直子夫妻、等々、筆者を糾弾している人物は、みな牧師やメッセンジャーであるか、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団や村上密を擁護する人々だけである。
 
もちろん、何度も述べて来たように、村上密が「カルト化した」教会の牧師らに対する裁判を助長し、戦いをしかけているように見えるのも、単なるうわべだけのポーズでしかなく、それも牧師階級そのものを存続させるための目くらましのプロレスごっこなのである。

村上が真に攻撃をしかけている相手は、牧師ではなく、牧師の前に跪こうとしない信徒である。(だからこそ、被害者の個人情報を加害者の牧師に転送したり、信徒の相談内容を公開することによって信徒に恥をもたらしている。)

しかし、恐ろしいことに、そのようにして霊的な敵に妥協し続けると、人間は当初、持っていたはずの優れた知性もどんどん失って行き、最終的には敵(悪魔)と一体化してしまう。悪魔は、悪知恵だけはふんだんに持っているように見えても、本性はたとえようもなく愚かであるため、自分の手下となった人間をも、どんどん自分と同じように愚かにしてしまう。

村上、唐沢、坂井、杉本の全員を例に取って、彼らの文章力、思考力が、2009年から現在に至るまで、どれほど著しく衰退したかを目を開いてご覧になりたい。

グノーシス主義の恐ろしさは、「情」という名の思考停止にある。この思想は、その虜となった人間に、すべてのことを「快・不快」という赤ん坊レベルの感情に基づいて決断させ、自分の感情が誘われる、自分にとって心地よく、好ましく感じられるものだけが「善」であると思い込ませるため、そのように盲目とされた人間の中では、感情による決めつけや思い込みだけが肥大化して行き、論理的な思考力が徹底的に破壊されるのである。その結果として、思考力、判断力の著しい衰退が起こり、人格の著しい幼児化という精神的退行現象が起きるのである。
 
グノーシス主義の教えは、このように、まさに人間の正常な脳を破壊する麻薬のごときものなのである。この教えが人々にもたらす致命的な害に不平等はなく、この教えを有害なものと見抜いて退けない限り、博士号があっても、何の助けにもならない。どんなに優れた知性を持つ人間であっても、自らの思考力を全く使わなければ、衰えるだけであるが、思考停止の教えは、思考力そのものを奪い去る。

さらに、信仰の世界で起きる現象は、世間で起きることよりも一層、厳しい結末をもたらす。かつては何百ページもの学術論文を書くことができ、圧倒的な読書量を誇り、記憶した情報を自在に引き出して語る知性を持っていたような人間であっても、一旦、グノーシス主義の怠慢な思考停止にとりつかれれば、幼稚園児並みに思考力が低下し、最後には2ちゃんねるの投稿以下の文章しか書けなくなり、デタラメな答弁書しか書けない人間に敗訴して終わるのである。もちろん、思考力・文章力のみならず、判断力も低下するので、誰一人として騙されるはずがない低レベルの詐欺師の言い分にまんまとひっかかって集会を乗っ取られたり、異端の書への識別力がなくなるのは当然である。
 
さて、話を戻そう。このように、牧師とは、信徒を物質的にも精神的にも金銭的にも搾取の対象としか見ておらず、自分が救済者や助言者をきどって人前に栄光を受けるためならば、信徒の弱みをとことんまで利用し尽くすのであり、そのチャンスを逃すまいと、手ぐすね引いて信者の弱みを握る機会を常日頃から伺い、さらに、自分たちに刃向う不都合な信徒の口を封じ、抹殺するためならば、どんな卑劣な手段でも厭わない連中である。

むろん、牧師は信徒の立てた功績はすべて我がものとして横領するが、同時に、信徒の弱みも利用する。少しでも信徒が心の弱みを打ち明ければ、助けてやるふりを装って、病原菌のように一斉に傷口にたかり、信徒の内側に侵入して食い尽くす。そして、まるごと食い尽くした後で、その悪事がバレないように、信徒に罪を着せて悪魔呼ばわりした上、教会の外にポイ捨てするのである。
 
彼ら牧師たちは、自分たちだけは選民であり、信徒は被差別階級だと考えているため、信徒をとことん利用した上、自分の身代わりに罪を着せて使い捨てることに何のためらいも恥の意識もない。言うなれば、彼らの目に映る信徒とは、どんなに騙して巻き上げても、決して罪にならない「ゴイム」でしかないのだ。

つまり、牧師階級全体が、信徒の弱みを握って恥をかかせることで、自分の優位性を誇示し、信徒を搾取してその上に君臨することで己を養う特権階級でしかなく、ひとかけらの誠実さや真実性や正義も期待できる相手ではないのである。
 
この事実は、司祭であろうと牧師であろうと、教職者制度の中に位置する人間には、宗派を超えて当てはまる。「いや、そんなのは極論ですよ、ヴィオロンさん。あなたはたまたま遭遇した人々が悪すぎただけです。まさかすべての牧師や司祭が、そんなに悪い人々のはずがないでしょう。どこかに良い牧師もきっといるはずです。私はあきらめません」などと、(杉本の言い分のように)安易な考えを抱いて、教会から教会へと渡り歩こうとは決して思わないことだ。この業界では、そのような信徒は「ジプシー・クリスチャン」と陰口を叩かれ、さらに、教会に属さず、信仰を守っている信徒も、「お一人様クリスチャン」などと呼ばれて揶揄されるだけだからだ。

これが、牧師から見る信徒の日常風景なのであり、彼らから見る信徒とは、まさに狼やハイエナから見る羊でしかない。彼らの目には、牧師制度の前に忠実に跪くクリスチャンだけが正しく、それ以外の信徒は、みな「挫折者」や「落伍者」としか見えていないのである。

こうしたことを聞くと、プロテスタントに絶望してカトリックに去れば、そういう残酷な階級闘争とは無縁に生きられると考える人々が現れるが、その考えも、幻想でしかない。かつて筆者の前にやって来て、プロテスタントの牧師たちの幼稚さには辟易したので、カトリックに去ると宣言した信徒がいたが、それも霊的後退でしかない。不祥事はカトリックの方がより深く大規模であり、カトリックにおけるヒエラルキーの束縛はプロテスタントの比ではない。

何より、それは歴史を逆行する行為でしかないため、信徒に霊的前進をもたらさない。プロテスタントは、カトリックの陥った腐敗と訣別し、これを改革することによって生まれた運動であるから、その改革の良い部分を全て捨て去り、カトリックに戻ったからと言って、それでいかなる前進が得られるわけでもない。

むしろ、我々がせねばならないことは、プロテスタントがカトリックから分離して守ろうとした正しい内容を継承し、さらに、プロテスタントの中からも不要なものを投げ捨てて分離した上、さらに先へ進むことである。

万民祭司の原則に基づく、宗教指導者のいない対等な信徒の交わりが必要とされているのである。宗派を問わず、教職者という特権階級制度を一旦、認めてしまえば、その時点で、その教会は必ず腐敗で終わることを運命づけられている。

こう書いても、日曜になれば、多くの信徒らが牧師の説教を聞きに教会へ向かうのであろう。だが、安易に「牧師」と名乗っている連中に関わると、どういう悲惨な結果が起きるかは、以上の警告から読者には明らかである。

はっきり言っておくが、牧師制度は忌むべき人間崇拝、偶像崇拝であるから、これときっぱり手を切らなければ、その信徒は神ご自身を知ることは決してできない。人生を食い尽くされ、悪魔の餌食となるだけである。だが、たとえそうなったとしても、その罪は、信徒自身にある。なぜなら、この世を愛すること(被造物の栄光を愛すること、人間社会で受けられる栄誉を愛すること)と、神を愛することはどこまで行っても決して両立することはないからだ。

目に見えないキリストを退けて、目に見える牧師を信用してつき従い、害を受けた結果、自分はカルト被害者であるから同情に値するなどと、どんなに人前で主張しても、その主張はかえりみられない。自分から判断を誤って人間崇拝の罠に落ち、神を裏切ったことを認めない信徒の言い分は、神の御前ではむなしいだけである。

だが、そうはいえども、牧師という連中が、どれほどまでに狡猾で陰険で卑劣であって、信者を陥れる計画を、四六時中、信者の頭越しに考え続けているかは、以上で述べた通りなので、注意されたい。特に、アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団のような、ペンテコステ・カリスマ運動を支持する盗人の団体とその指導者には決して何があっても近寄らないことである。

信者は、目に見えない神ご自身を最優先するのか、それとも、目に見える被造物を最優先するのか、生涯、常に神の御前で問われて続ける。狭き門から入る者は幸いである。
 
「たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、
「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、
 さばかれるときには勝利を得るため。」
と書いてあるからです。」(ローマ2:4)



さて、長らく記事を書いていなかったので、その間のことを補っておこう。
 
かなり前の記事ではあるが、澤藤統一郎の憲法日記「へそまがり宣言」、なかなか面白い内容だったので、ここに全文転載しておきたい。
 

有史以来連綿として、一つの妖怪が我が物顔に日本の社会を徘徊している。最近、むやみにその妖怪の威勢がよい。――妖怪の名は「同調圧力」。この妖怪、別名を「長いものには巻かれろ」「出る釘は打たれる」とも言う。「附和雷同」「寄らば大樹」「地頭には勝てぬ」「ご無理ごもっとも」などという渾名もある。この妖怪は毒気を撒き散らし、その毒気は空気感染する。多くの人をして「みんなと同じでなければ、生き苦しい」「はみ出すのは恐い」「ボッチは耐えられない」「イジメを傍観できなければ、イジめる側に付かざるをえない」と思わせている。

日本のあらゆる支配構造が、この妖怪との神聖な同盟をむすんでいる。政治・経済・教育・メディア・学問、どの分野においてもだ。アベ政権、自民党、象徴天皇制、神社庁、日本経団連、NHK、新聞協会、民放連、JOC、教育委員会、PTA、学級、町内会…、いずれもこの妖怪と結び、この妖怪に生け贄を差し出して見返りに与っている。

現代の日本において、およそこの妖怪の毒牙による被害を被らなかった者がどこにいるだろうか。この「妖怪・同調圧力」は理性や知性を目の仇として忌み嫌う。自立した個人の敵であり、民主主義の攪乱者であって、全体主義の温床にほかならない。

これまでの日本社会の歴史は、多数派による少数派に対する同調圧力に、少数の側が果敢と異を唱え困難な抵抗を試みた闘争に彩られている。多くの場合、少数派はあえなく敗れている。もともと、闘い我に利非ずなのだ。

多数派とは、現体制であり、現体制を支えるイデオロギーの担い手である。多数派に与していることは、安全で安心であって、多数派との角逐は面倒であるだけでなく、常に孤立と排斥の危険を背負い込むことになる。だから、学校も家庭も子どもに対しては、「素直に大勢に順応せよ」「現行の秩序に波を立てるな」「和を以て貴しとせよ」「敢えて強者に逆らうな」と教えこむのだ。「社会を変えようなどと不埒なことを考えず、おまえこそ社会が望む人間になれ」というのが、「妖怪・同調圧力」がもたらした恐るべき害毒の惨状だ。

多数派との対決を敢えて辞さない社会的少数者の闘いのあり方に2種類がある。ひとつは、今は少数でも明日の多数派を目指す組織的な運動。言論の自由市場において、多数派と対峙して、市場の勝利をおさめようというこれが正統派。政党を作り、民衆を説得し、選挙に訴え、やがては自らが多数派になろうという積極的で生産的な日向の存在。

もう一つ日陰の存在がある。そもそも将来の多数派形成を意識することなく、現多数派の非を徹底的に攻撃しようという立場だ。その言論が、自らが多数になるのに有効か否かを斟酌しない。この立場を「へそまがり」という。

へそまがりは、自分の言論が社会にどう受け容れられるかを斟酌しない。ひたすら正論を吐き続けることで、「妖怪・同調圧力」と対峙する。勝てる見込みがあるかどうかは、視野の内にない。青くさい、へんくつ、などの陰口を意に介さない。

へそまがりは、徒党を組まない。孤立を恐れない。そして、へそまがりは、けっして社会におもねらない。どんな権威も認めない。権力には徹底して抗う。それなくして、「妖怪・同調圧力」と対峙する方法はないものと信じるが故だ。

へそまがりはけっして天皇の権威を認めない。天皇についての敬語一切を拒否する。元号での表記は絶対にしない。天皇の就位から歳を数え始めるなんて、まっぴらご免。「日の丸」にも「君が代」にも敬意を表しない。
へそまがりは、「民主的な手続」で選定された政権や知事を大いに嗤う。アベ政権も、小池百合子都政も徹底して批判する。
へそまがりは、ナショナリズムを拒否する。オリンピックはうんざりだ。感動の押し売りはいい加減にしてもらいたい。

へそまがりは孤独であるが、孤独恐るるに足りず。国家にも、資本にも、天皇制にも、メディアにも、町内会にもなびかない「へそまがり」バンザイ。

そう、自分に言い聞かせて、「へそまがり宣言」とする。ことの性質上、けっして宣言への賛同も同調も求めない。ひとり、へそまがり精神を貫徹するのみ。
(2016年8月17日)

 
まことに面白いし、賛成である。筆者も天皇に敬語は使わない。オリンピックは聖霊派のリバイバルと同じで、決して来ない夢であり、日の丸と、アベマリオを現人神のごとく担ぎ上げ、まことの神に逆らうこの異教の祭典は、過去に幻に終わった祭典同様、我が国で開かれることは決してないであろうと、かねてより確信している。大体、その頃までこの国が持つかどうか。

筆者は世間の評価がどうあろうとも、『シン・ゴジラ』の筋書きへの失望と幻滅を隠さないし、安倍首相がロシアの経済発展に全面的に協力すると約束し、プーチン氏の訪日日程が確定したらしいことにも、決して喜んでなどない。それにしても、まったく何という愚かな外交的敗北であろうか。政治的手柄を立てたいばかりに、安倍はまたしても自分の方から、全面的にロシアに有利なカードを切ってしまった。どうしても「平和条約締結」という手柄を立てたい軽薄な首相がこの調子では、領土問題などまるでなかったことにしてでも、ロシアの前に涎を垂らして跪き、調印をお願いするのではあるまいか、と思えて来る。

それに対して、ロシア大統領は「ありがとう、晋三」と、上から目線の礼をそっけなく述べて、安倍の提案をただ検討するとしか答えていない。これまで日本の米国への片思いのゆえにさんざん肩透かしを食らったその非礼も考え合わせれば、ロシア側の回答としては当然であろう。だが、野心を見透かされているとしか思えない、到底、対等な外交からはほど遠い反応である。

それにしても、全く幼稚としか言えない安倍外交は、国益を度外視し、なおかつ、ロシア人の気質をも全く理解していない。ロシアの友情とはすなわちロシアの国益と不可分であり、かの国に対して必要なのはかの国と同じほどにしたたかな交渉である。そのしたたかさ、図太さがないと、外交的成功はあり得ない。それが政治的な手柄欲しさに涎を垂らして安っぽい笑顔をふりまき、しかも、まだ相手が何も約束しない前から、かの地へ出向いて行き、全面協力を申し出て、訪日の際にも、山口県へ招待するなどの国内他府県を全てよそにした手前勝手なパフォーマンスを繰り広げるという自己満足ぶりだから、呆れるほかない。民間の草の根外交の使節ではないのだ。一国の首相が、打算も警戒心もなしにそんな風に物欲しそうな様子を隠しもせずにうろついていたら、森の熊さんに捕えられて餌にされるか、危険な場所へ誘い込まれるだけである。いずれにしても、子供のようにしか見なされてないことであろう。こんな調子だと、仮に平和条約が結ばれたところで、我が国の国民が少しでも浮かばれるとは到底、思えないから、その意味でも、前途多難である。

筆者は、日ロ間に平和条約が結ばれさえすれば、何かが劇的に前進するとは思っていない。そもそも、主権国家としてのプライドと独立心を備えていない属国には、どこの国とも対等な外交は無理である。我が国の精神的課題はそのレベルに始まっている。

さて、話を戻せば、「同調圧力」という名の妖怪にはまだ一つ、有名な名がある。「和をもって貴しとなす」という名だ。

この「和」なるもの、非常な曲者である。そして、この「和」というものと、聖書の唯一の神への従順は決して両立しない、と筆者は確信する。「和」は世の方を向いており、神の方を向いておらず、クリスチャンにとって、神と世とを両方愛することは、不可能事だからだ。だから、「和の精神」というものは、信者にとって大敵である。それが分からないと、クリスチャンは信仰生活に大きくつまづくだろう。

全く話が変わるようだが、今でも筆者がよく覚えている出来事の中に、KFCである時に行われた聖餐式がある。すでにBr.Takaがこの団体をかき回し、団体が異端化していた頃のことだ。その聖餐式の時に、Dr.Lukeが奇妙なメッセージを前もって述べた。はっきりは覚えていないが、「あなたがたの中で資格のある(罪がない)者だけが、この聖餐にあずかりなさい」といった内容であった。

そもそも、KFCというのは非常に底意地の悪い団体で、自分たちだけの暗黙のルールを作っては、それに従わない人間を陰で中傷し、恥をかかせては、次々団体から放逐して来た歴史があった。まだ筆者がこの団体に関わる前から、そうして追放された人々は数知れず存在した。それが、KFCが公にアッセンブリーズ教団の信徒と手を結び、Br.Taka夫妻を招き入れてからは、その愚かしい集団イジメの傾向が、より一層強まった。アッセンブリーズ教団の悪質さについては、当ブログですでに幾度となく述べて来た通りであり、このような悪質な異端の教団の信者と手を結べば、仮にもとはKFCのようではないもっと優れた団体であったとしても、必ず、堕落するのは必至である。
 
当時、すでに筆者はDr.Lukeからも、この団体の信者たちからも睨まれ、危険人物としてマークされていた。それは筆者がDr.Lukeに向かって、信者との霊的姦淫をやめるよう忠告したためであった。古参信者の証言によると、KFCには二重統治のような体制があり、礼拝に出席もしておらず、信徒の交わりにも出ていない信徒が、陰で大きな実権を握って、団体全体に影響力を行使しているということであった。

この頃、KFCはすでに自己を神として、己が罪を全く認めず、真摯に御言葉に立ち戻るようにとの信徒たちからの忠告にも全く耳を貸さないまでに至っていた。筆者よりも前に、そういう忠告を彼らに行った他の信者たちがいたのである。Dr.Lukeのもとに、彼のメッセージがどんな風に聖書と相違しているのか、項目ごとに列挙して持参した信者もいたし、彼らに罪を捨てて御言葉に立ち戻るように忠告したゆえに、Br.TakaとDr.Lukeから睨まれて、呪われて団体から放逐された信者もいた。

こんな風に、アッセンブリーズ教団と手を結んでからは特に、恐怖政治が甚だしかったので、筆者はその時に行われた聖餐の儀式もまた、彼らが悪だくみによって仕組んだ一つの罠なのだということをも理解していた。

それでなくとも、この団体の信者たちは、Dr.Lukeを筆頭として、何をするに当たっても、自分たちが特別に選ばれた存在であり、他者とは違って、他者にあずかり知らぬ特権を持つ、他者とは別格の存在なのだということを、あらゆる機会に人前で誇ることを常としていた。礼拝も、結婚式などの儀式も、祈りも、賛美も、すべてが他者に対する圧倒的な優位性と、自分たちが選ばれた民であることを自己顕示し、自己満足に浸るために行われていたのである。だから、聖餐さえも、彼らは自分たちの「特権」を強調し、気に食わない他者を排除して勝ち誇るために利用したのである。

案の定、筆者が見回してみると、古参信者たちはパンにも葡萄ジュースにも手を伸ばそうとはせず、神妙な面持ちで頭を垂れたまま、全く聖餐にあずかろうとしていなかった。Dr.Luke本人も、パンも葡萄ジュースも手に取ろうとしなかったと記憶している。

しかし、筆者はその時、そんな周囲の行動と、Dr.Lukeの言い分など気にせず、全く臆することなく、聖餐に備えられていたパンと葡萄ジュースを手に取った。

そして、どこの教会でも、信者たちがみな行っている通りに、筆者は一人の信者として、信者の当然のつとめとして、主の御前に信仰告白と共に、自然に、ごく普通に聖餐にあずかったのである。

むろん、あとでさんざんKFCの連中から陰口を叩かれたことは想像に難くない。多分、「ヴィオロンはふさわしくないのにKFCの聖餐にあずかり、主の御身体を穢した」などと言われていたのであろうと想像する。現に、何か別のことについても、そのように悪しざまに言われていた他の信者が存在した。「あの信者は主の血潮を穢した」とかいった言葉で、身内の信者を非難し、呪い、排斥して行くのが、彼らの常套手段であったからである。

彼らがそのように聖餐にあずかった者たちを辱めるために、わざと聖餐式をきっかけに他の信者たちに罠をしかけたのだということも、筆者には分かっていた。

だが、そんな風に、自ら聖餐式を行いながら、その儀式に加わらないことを是とするほどまでに異常化した団体の中にいても、筆者は彼らの思惑を気にせず、聖書の御言葉だけに従って行動した。その異常な信者たちが、集団イジメと、気に入らない信者たちの排除だけを目的に、聖餐式を利用し、わざと自分は主の御身体にふさわしくないかのように振る舞い、主の御身体の一部であることを自ら否定するならば、筆者は、なおさらのこと、自分が確かにキリストの御身体の一部であることを、彼らの前ではっきりと表明しなければならないと思った。
 
信者は、常に神と人と悪魔の前で、自分が一体、神と悪魔、どちらの側に立っているのかを明白に表明しなければならない義務を負っている。我々の行動の一つ一つが、聖書の御言葉の正しさを証明するための信仰の証なのである。だから、たとえある人々から仲間でないとみなされ、敵視されたとしても、悪魔と行動を共にして自分がキリストの御身体の一部であることをわざわざ自分から否定するほどの恐るべき罪を犯すことに比べれば、人間の思惑など全く無害である。
 
キリスト者が従うべきは、人の思惑ではなく、聖書の御言葉である。さて、聖書は何と言っているか?

「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。

食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」(ルカ22:19-20)

主はこのように「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われたのだ。パンは、私のために裂かれたキリストの御身体であり、杯は、私のために流された主の血潮である。なのに、なぜキリストを信じていると告白する者、主の血潮の価値を知っており、それによって罪赦されて、神の子供として受け入れられた者が、「自分は聖餐にあずかるにふさわしくない」とみなし、まるで主の御身体と血潮が自分には無縁であるかのように振る舞い、自ら主の御身体の一部であることを否定する必要があるのか。

そんな告白は、信者が自分で神の救いを否定し、血潮による罪の赦しを退け、自分を悔い改めない罪人とみなし、御身体の一部であることを否定するに等しく、謙遜でもなければ、悔い改めでもなく、信仰とは無縁の行動である。そのような告白をして、聖餐にあずかることを自ら拒否し、人前で主の血潮と御身体を恥じた者たちには、それにふさわしい報いが待ち受けていることであろう。そして、それはもうすでに始まっているのである。

その儀式のとき、筆者と同じく、聖餐式にあずかった信者たちが、集会全体でどれくらいいたのかは分からない。だが、その時、暗黙のルールとして、Dr.Lukeの心を満足させて、同氏と行動を共にするために、自ら聖餐を拒否した信者たちは、その瞬間に、確かに主の救いを恥じ、血潮と御身体を恥じて、これを自分とは無縁のものとして拒否したのである。

だから、もしこの時、聖餐に加わった信者が「主の血潮や御身体を穢した」と非難したい信者らがいたならば、実は、彼らこそが、信仰者を名乗りながら、自ら聖餐を拒否したその行為によって、主を恥じ、血潮と御身体を恥じて拒否するという罪を犯したのである。そして実際、彼らは恐るべきことに、確かにその後、キリストの御身体から切り離されてしまい、キリスト教そのものを敵視した上、自己の義により頼んで血潮による赦しからも遠ざかり、Dr.Lukeと共に、自己を神として、唯一の神に敵する道を歩んで行ったのである。

それを考えると、あのような異常な儀式はたとえ一回きりであったとしても、霊的には、必ず「踏み絵」としての効果を持つのだと思わずにいられない。すなわち、それはKFCの連中が、仲間を排除し、恥をかかせるために悪巧みとして考え出したような意味での「踏み絵」ではなく、「あなたは聖書の御言葉を信じて従い、神の側につくのか、それとも、人間を恐れ人間に媚びて人間から嫌われないために、御言葉を捨てて人間の思惑に従うのか」という、神の側から見た「踏み絵」だったのである。

集団の「和」から弾き出されて、他の信者の悪口やイジメの対象とされたくないという怖れから、同調圧力に抵抗できないような人間は、その瞬間、悪魔に魂を売ってしまうであろう。そして、その影響は後々まで尾を引くことになるのである。

だから、筆者は、その時点から、KFCという団体が、筆者をどう評価し、どんな風に誉め、あるいはけなし、陰口を叩くかといったことを全く気にせず、御言葉だけに従うことを選んだ。主の御身体であることを自ら否定して、生涯に渡り、我々の罪を覆うことのできる血潮を拒否するという恐るべき罪に比べれば、人間の評価など、全く恐れるに足りないと今も思うだけである。

たとえ全世界の人々が聖餐式に加わることを拒んだとしても、筆者は彼らと行動を共にすることによって神の救いを自ら失いたくないと思う。それでは、一体、何のためにクリスチャンになったのか分からない。世人と何らの違いもないであろう。人に誤解されたり、見捨てられることなど、一時的な問題でしかなく、全くさしたる影響もないが、自ら神を拒み、神に捨てられる以上に恐るべき状態は人には存在しない。それは永遠に関わる問題だからである。

だから、筆者はただ単なる「へそまがり」として、自らの主義主張や、性格のゆえに、同調圧力から外れて立っているのではなく、そこには聖書の御言葉という、れっきとした根拠が存在するのである。

すなわち、幾度となく繰り返して来た通り、

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。」(ローマ3:4)

と聖書にある通りだ。神を真実な方とするとは、神の御言葉を真実なものとみなし、御言葉に従う、ということ以外の何物でもない。

思えば、KFCに深く関わった人たちは、常に誰かを排除するという形でしか、行動できなかったように見受けられる。たとえば、その当時、Mr.SugarはKFCを批判してすでに関わりを断っていたとはいえ、それでも、筆者がデッドライン君の自慢のリビングルームに異議を唱え、彼らの聖餐に水を差すような発言をしたとき、筆者はデッドライン君の家で最初に開かれた聖餐式から、Mr.Sugarによってふさわしくないと判断されて、弾き出されてしまったことをすでに書いた。

筆者はその当時は、その事件の意味が理解できなかったので、衝撃を受けたものだが、今はそこにある排除の論理が結局、KFCと全く同じであることが良く理解できるのである。つまり、彼らにとっての儀式とは、神への従順のために行われるものでなく、常に彼ら自身の威信と栄光を高めるために行われるものでしかなく、従って、彼らの自己満足に疑問を呈し、その喜びに水を差すような発言をする人間を、彼らは徹底的に排斥し、あるいは報復するのである。

神に捧げられる儀式は、そもそも人間の自己満足や、威信の発揚のために行われるのではないにも関わらず、この人々にはそのことがどうしても分からないのである。そして彼らはそのようにして、常に親しい仲間の誰かを排除したり、見下しては、自分たちこそ、神の特権に与る恵まれた存在であり、少数の勝利者であり、そこに加われず、その価値が分からない愚かな連中とは別格の存在なのだという優越感に浸ることをやめられないのである。

KFCの聖餐式は、儀式にあずからないことによって特権意識を強調するという裏返しの形になっていたが、儀式そのものが、彼らの自己満足の手段、彼らの特権意識を確認する場として利用されている点で、原理は同じである。そういう優越感と特権意識によって他者と自分とを区別し、他者を凌駕し、圧倒し、排除することによって、自らの信仰の立派さや、優位性を強調しようとすることこそ、KFCという団体の理念と深く関わった者たちに共通して見られる病的な誘惑なのだ、と筆者は思わずにいられない。

つまり、まるで受験競争のごとく、他者と競争し、他者に対する優位を勝ち誇ることでしか、彼らは自分の信仰の正しさや立派さを認識することも証明することもできなくなってしまっているのだ。神に賞賛してもらうことを願って、神だけの評価を勝ち得ようと、人の目から隠れたところで努力するのではなく、人前で、他者に対する圧倒的な「優位性」を見せつけるために、しかも、他者を悲しませ、弾き飛ばし、酷評することによって、自分の威力を誇示するために、絶えず他者に対して罠をしかけるような暗黙のルールを作っては、誰かを蹴落とし、辱め、排除し、その一方で、自分は安全圏にいる成功者であり、選ばれた数少ない勝利者なのだと自分に言い聞かせ、こうして常に自分が他者より一段高いところに立っていなければ落ち着かないのである。

そのような見栄に憑りつかれた人々は、神の霊の内なる承認を得ようとして戦っているのではなく、ただ人の目に失格者と見られず、人前に立派な人間だと評価され、支持を失わず、己の威信を誇示し、名誉欲を叶えることだけを第一として生きているのである。だから、結局、彼らを動かしているのは、御言葉ではなく、信仰でもなく、彼らが気にしているのは神の眼差しではなく、この世の評価なのだと言える。

そういう生き方は、純粋な信仰生活とは決して両立しない。そのようにして、歪んだこの世的な価値観に染まってしまった信者たちは、飽くことなく自己の栄光だけを追い求めるようになるので、時には、我が子さえも競争相手とみなし、子供たちから徹底的に出番を奪ったり、子供たちを自分自身が栄誉を得るための手段とみなして利用する。その結果、そういう家庭では、子供の自殺という悲劇が起きることも少なくない。

親たちは自分たちの外見的な見栄を飾るために、子供を一生懸命、「立派な信仰者」に育て上げようとするのである。だが、それはしょせん、自己の見栄のためでしかないので、親の欲望をかなえる道具とされた子供たちは、精神的に追い詰められ、最悪の場合、その苦痛に満ちた束縛から逃れるために、自ら死を選ぶのである。

それは霊的搾取と呼ばれるべき構図であり、それはむろん、信者の家庭内だけでなく、信者と信者との間でも行われる。アッセンブリーズ教団を含め、既存の教団教派でも、指導者の栄光のために信徒が搾取されるということが当然のように行われるが、さらに、組織を持たないと自称している団体の中でも、同じことが起きるのである。KFCのみならず、ゴットホルト・ベック氏の集会など、複数の集会を見学した結果、そのことが、よりはっきりと筆者に理解できるようになった。

今現在、筆者はそのようなシステムをネズミ講と同じものとみなしている。信者が、他の有望そうに見える信者を、自己の栄光を築き上げる道具とするために「スカウト」しては、自分自身が教師然となって、その信者を「弟子化」し、弟子を増やすことによって自分の手柄を増やしながら、無限のピラミッドを築き上げようとするのである。

そういうことが行われているのは、断じて、献金を集めねば存続できない公の宗教団体だけではない。たとえ団体名がついておらず、公の組織が存在していないように見え、あるいはネット上の関わりしかなくとも、それでも、多くの場合、そこには何かの見えないピラミッド・システムが存在し、人間の絆を通して、霊的搾取が連綿と広がっているのである。そこから抜け出るただ一つの方法は、指導者や教師になりたがる人物に決して頼らず、神だけに依存して生きることのみである。
  
以上のような「弟子化」の際によく使われるのが、何らかの霊的先人たちの教えを記した教本である。それを教科書のようにして、古参の信者が新しい信者を自分好みに教育しながら、次第に自らの精神的支配下にからめ取り、自分の栄光を築き上げるための道具として束縛して行くのである。

もしも誰かが、それが霊的搾取のために作られた悪しきピラミッド・システムであるという異常性に気づいて、そこから離脱しようとすると、一斉に、システム全体が彼に敵対する。それまでシステムなど存在しないと思っていた信者も、その時が来ると、自分がピラミッドの末端にいたことに気づかざるを得ない。それまで優しい友・教師・助言者だと思っていた指導者が、実は残酷な支配者でしかなかったことに気づくのも、その時である。

このようなものは、信仰であるかのように装ってはいるが、実のところ、巧妙に作られた信仰生活の偽物に過ぎない。たとえそこに本物の信仰がわずかに存在していたとしても、このようなシステムの中に組み込まれ、拘束されている以上、その信仰も正常に機能しない。だから、もし健全で正しい信仰生活を送ろうと願うなら、信者はいずれこのピラミッドと訣別することが不可欠となる。

クリスチャンのほとんどは組織や団体の中で信仰を持つようになるが、その後で、もしも本当に主の御前に、真実な信仰生活を送ろうと願うならば、どこかで「踏み絵」の瞬間がやって来る。つまり、人間の理解や賞賛や励ましを失いたくないばかりに、神の御言葉を否定してでも、人間の集団の中に残るのか、それとも…。その時に、人間の集団を選ぶと、永久に後戻りが不可能となってしまう。

だから、ピラミッドに組み込まれることを拒否し、空気は読まず、指導者の意を忖度もせず、周囲に波風を立て、「和をもって貴しとしない」生き方を、筆者は恥じるつもりはない。

そのような生き方を生意気だと思ったり、疎ましく思っていた信者たちは存在するし、同調圧力に屈した人々からは、陰口も叩かれていたのであろうが、筆者はそのような非難を、全く苦にしておらず、むしろ、もっと早くから、どうして断固たる不動の決意がなかったのかと思っているくらいだ。

筆者も若く未熟なうちは、それなりの遠慮もあって、20も30も年上の連中に対し、なかなか面と向かって言い出せない数多くの確信を心の内に秘めていた。だが、そのような他者への遠慮は、恐れから来るものでしかなく、百害あって一利なく、余計なしがらみに巻き込まれて無駄に人生を失わないために、早くなくなるに越したことはない、と今は思う。

人への優しさ自体は悪いものではないが、日本人の多くの人々の空気に逆らえず長い物に巻かれる習性は、臆病さと優柔不断さの現れでしかなく、長所ではなく欠点である。何より、クリスチャンは、ご機嫌伺いするなら、人の顔色を読むのでなく、神の顔色をこそ読むべきであるのに、そのことを全く認識していない人々が多い。

もし世に媚びて人の寵愛を失わず「和」に生きたいと願うならば、クリスチャンをやめた方が良いだろう。神の福音を知りながら、世を愛し、世に媚びて、神の救いを拒むくらいならば、福音を最初から知らなかった方が罪が軽く幸福である。そのことを筆者は信者たちに向かってはっきりと断言しておきたい。

最後に、再び話が大きく変わるが、「shueiのメモ」より、「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます。」という記事も、全文に目を通す価値がある。

これは大きな参考事例だ。大量殺人を行った犯人に対して、ノルウェーはどう接したか? この記事を読むと驚かされる。かつての記事で、歌手のレーナ・マリア(旧姓ヨハンソン)について触れた際、北欧ならではの理念が彼女の教育の背景に存在すると筆者は確信したが、この記事を読むと、またしても、北欧の日本人にはない発想に驚かされる。

ノルウェーと同じ方法を、たとえば、日本で植松容疑者に適用できるだろうか? きっとこの国ではできないだろう。この国ではいつも悪い方に合わせ、厳罰によって対処したような気になって終わるという感情論以上のものがないからだ。しかし、上の記事では、厳罰を下すことによっては、犯人と同じように憎しみに生きることを助長するだけで、社会は何も変わりはしないとはっきり結論づけている。世界の考え方の多様性を学ばされる事例である。

筆者は、最近、日本的な物の考え方の限界をしきりに認識するようになった。それは特に、ピラミッド・システムの中に人を閉じ込め、決してそこから外に出そうとしない「和をもって貴しとなす」という、個性を否定する役割重視の集団性の精神の弊害を痛切に感じるためである。たとえ信仰者でなくとも、人々は、そのような価値観の中からは、既存の体制を是とする以上の何の革新的な発想も生まれて来ないので、閉塞感を覚えざるを得ないであろう。

今、日本政府の凶暴さと利己主義が余すところなく明らかになっているので、その著しい犠牲となっている沖縄の日本からの独立論もネットでは盛んだが、沖縄人でなくとも、この社会のバビロン化した体系からのエクソダスの時が本当に近づいていると感じざるを得ない。このような悪しき体制のもとでは誰も幸福に生きられはしない。

基地問題の他にも、我が国には、福島原発事故処理など、従来のものの考え方では、およそ対処できないような深刻な問題が山積みになっている。ところが、政府には解決を生み出す能力がなく、その意欲も展望もなく、人々の想像力も枯渇しつつあり、西を向いても東を向いても、「神になりたい」だけの人たちばかりの様子に、筆者もほとほとうんざりしている。日本人の謙遜はどこへ消えたのかと思うほど、悪しきイデオロギーが至る所で跋扈し、人々はより尊大に高慢に恥知らずになって行っている。そして、そこには必ず異端の影響がある。悪魔的思想だけが、人間性をそのように腐敗させることが可能なのだ。

だが、たとえそのような異端者たちが、大手を振って弱い者を侮蔑し、踏みにじっては、己が栄耀栄華を誇って、自分たちは特権階級だ、選民だ、と豪語してみたところで、ヒエラルキーの競争は果てしなく、彼らの競争に永遠にゴールはない。グノーシス主義というものは、果てしない差別の階層制なのだと筆者は述べたことがあるが、その果てしない競争こそが、この悪しき異端思想の重大な落とし穴なのである。

どんなに人前に評価を得、どんなに他者を凌駕し、圧倒して、どんなに高みに上ってみたところで、そこにはさらなる競争が待ち受けているだけで、その競争は永遠に終わりがない。だから、そんな競争は、関わった誰一人にも、幸福をもたらさないのである。

さて、天皇の生前退位の問題には、この点で、多くの示唆が含まれていたように思う。むろん、この問題には多くの議論が存在するので、通りすがりに触れられるような単純な事柄ではないが、それにしても、筆者は、天皇自らがお勤めを降りたいと表明したことに、注目せざるを得ないのである。つまり、戦後の天皇の仕事は、一見、国民を慰め、励まし、多くの人たちを支える、人に感謝され、喜ばれる、有益で尊い仕事のように見えたであろう。天皇皇后に出会った人たちはみなそれを誇りにするし、かつての大戦の犠牲者を弔うことも、重要な仕事に見えた。

だが、天皇制は、天皇自身の人間性の否定の上にしか成り立たないことが判明したのである。特に、いつまでもかつての大戦に対する反省と懺悔の仕事を、生きた一人の人間に集中して押しつけるべきなのであろうか? そうすることによって、本当にこの国は責任を果たしたことになるだろうか? むしろ、もっと重要な何かがそれによって覆い隠されてしまっているのではないか? 天皇をありがたがる人たちは、自己の満足と慰めのために他者に強いている犠牲を考えてみるべきなのである。

これと同じように、教師や牧師やリーダーといったものにも、世で考えられ、ありがたがられるような価値も栄光も、本当は全く存在しないのだと筆者は思わずにいられない。それどころか、「人の間で尊ばれるものは神に忌み嫌われる」(ルカ16:15)と聖書にある通り、人の目に貴く輝いて映るものほど、ほとんどの場合、まるで実体がなく、むしろ、そこにあるのはメッキのような偽りの栄光と、祀り上げられた人間の忌まわしい犠牲だけなのである。

だから、筆者は、人の上に立つということ自体が、ある意味で、人間にとっては呪われた所業なのだと思わずにいられない。多くの人たちに乞われて高みに上り、師となり、リーダーとなり、象徴となって、人前に栄光と賞賛を受けることは、決して人間の歩むべき道ではないのだと確信する。猿に失礼なたとえだが、猿のごとく知性の欠けた愚直な人間だけが、そのような地位にしがみつくのであって、誠実に正直に生きる人間ほど、その危険性に早く気がつき、そのような忌むべき場所からは一刻も早く降りたいと願うのではないだろうか。

だから、たとえこの国の99%が虐げられた民であり、侮蔑され、見下されているのだとしても、だからと言って、彼らを踏みにじって勝ち誇る1%に入り込むことが、人間の幸福では全くないのだと確信する。そのようにして他者を凌駕し、君臨するために、果てしない競争の階段を上って高みに立とうとすること自体が、敵の仕掛けた罠であり、それは永遠の競争に人を巻き込むだけで、何の解決も、満足も、人にもたらしはない。

人が人間らしく生きるためには、富を蓄積し高みに上り他者の及びもつかない雲上人(神)を目指すのとは、全く違う価値観が必要なのである。そして、それは自分と他者とを比較して優位を誇ったり、あるいは誰か自分よりも可哀想な人間を見つけて来ては、哀れんだり、助けてやったり、あるいは排除したりして、自分の優位を確認することによって得られるものではなく、人間そのものに生まれながらに備わった、他者との比較によるのではない、自己の個性の独自性を基にしてしか生まれて来ることのない価値観である、という気がしてならない。

たとえば、深海や、空の高いところや、人に知られない地の暗闇に、何のために生きているのかもよく分からないような生態不明の生物もたくさん存在する。そのような生物にも、おそらくは、人には理解できずとも、何かの意味が必ず隠されているのである。自分に理解できないからと言って、その生命には生きる価値がない、とか、無用な存在だ、などと誰が言えるであろうか。人もこれと同じであって、多くの人の注目を集め、賞賛され、もてはやされ、評価され、感謝されて生きることが、人間の価値なのではないのだ。むしろ、そうやって他者を喜ばせ、他者に尊ばれ、ありがたがられ、評価されることばかりを目指して、自己アピールに生きると、結局は、他者を失望させないために、絶えず人目を気にし、他人の評価に踊らされ、それに縛られることになる。他方、たとえ人から理解されず、賞賛を受けずとも、そんなものは初めから度外視して、自らの独自性を存分に発揮して、自分本来に備わった自然な役割と能力を生き生きと発揮できるならば、その方が、はるかに自然で幸福ではないだろうか?

人が生命としてのと自分自身に生まれながらに備わった個性の独自性とは何なのかを理解するためにも、世の特定の集団における人間の「役割」や「有用性」だけを至上の価値とするような、忌むべきピラミッド型収奪システムからは早く永遠にエクソダスした方が良い。

今も大勢の人々が、世の中を思うがままに牛耳り、自分たちの圧倒的な優位を他者に誇示して、弱い者たちや、気に入らない他者を辱め、排除するために作り出した儀式が、至る所で執行されている。受験競争においても、就職戦線においても、教会においても、人々が排除されている。オリンピックも、これに賛同しない人々を「非国民・テロリスト」扱いするために、利用されるのだという噂が根強い。この先、政府を批判し、オリンピックに水を差すような言動を繰り返している人間には、共謀罪が適用されるのではないかという危惧さえ囁かれている。一体、ここはどこの国だろうかというほどの有様である。

つまり、そういった一連の晴れがましい儀式は、ある人々が、気に入らない他者を排除するための「踏み絵」として利用されるかもしれないというわけである。それはKFCで行われた異常な聖餐式のように、一部の「選ばれた特権階級」を、それ以外の人々から区別し、自称「エリート」が勝ち誇るためだけに作られたものだというわけである。

だが、筆者の言いたいことはこうだ。神は不思議な方であるから、たとえそのような悪意に満ちた計画のもとに様々な行事が進められていたとしても、ある瞬間が来ると、神は上からの不思議な知恵によって、人間が考え出した意地悪な「踏み絵」をさっと裏返しにされる。そうすると、それまでエリートだと主張していた人々こそ、実は落ちこぼれであったという事実が公に判明するのである。

それはちょうど主イエスが地上に来られるまでは、人々に宗教的権威とみなされて尊敬を受けていたパリサイ人や律法学者が、主イエスの出現によって、その欺瞞が暴かれ、辱められたのと同じ構図である。聖餐式を拒否したKFCの「自称エリート」たちは、神の恵みを拒んで自己の義によりすがったので、神の恩寵から排除されてしまった。そして、彼らは今や神の敵となって歩んでいる。そして、そのような「自称エリート」からは軽蔑され、排除され、見下されて、非難の対象となっていた者たちが、かえって神の恵みに存分にあずかったのである。

自己の義によりすがり、自らを高く掲げる人間は、神の恩寵から自ら除外されて行き、最後には、神ご自身によって排除される。その法則は、イエス存命当時も今日も、何ら変わらない。

神の恵みは常に水のように低い方へ向かって流れる。また、せき止めておけない。せき止めれば、水は淀み、腐るだけである。だから、神の恵みは誰にも独占できない。それなのに、自分たちはエリートだの、義人だの、選民だの、神だのと言って、他者に対する優位を勝ち誇っては、神の恵みをまるで自分たちだけの専売特許のように誇っている連中は、必ず、最後には、神によって打ち倒され、他者を陥れようと自分がしかけた罠に落ちて終わるだろう。

むろん、そうなる前から、彼らは人々に忌み嫌われ、愛想を尽かされているので、特段、彼らを憎んだり、破滅を願うだけの価値すらもなく、まして復讐する意味など全くないが、ただ、上からの知恵によって、この高慢な愚者らに対する神の手厳しい平手打ちが、一体、どんな形で現れるのか、それだけは注目に値すると筆者は思っている。





「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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