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前回の記事で、善悪知識の木の実を取って食べるとは、善と悪を切り分けるための議論をやめて、善と悪をごちゃ混ぜにしようとすることを意味すると書いた。

「何が善であり何が悪であるか」を議論することが、善悪知識の木の実を取って食べることではなく、むしろ、逆に、善と悪とを切り分ける議論をやめることが、「対極にあるものの融合」すなわち、相反するものを一つに統合しようとするグノーシス主義の錬金術に身を委ねることを意味するのだと。

聖書において、神の御言葉は、何が神に属する聖なるものであって、何がそうでない堕落した汚れたものであるのか、すべてのものを識別し、切り分け、分離する機能を持っていることが示されている。

「というのは、神のことばは生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。 」(ヘブル人への手紙4:13)

 
 この御言葉の切り分けの機能こそ、キリスト教の二分性、二元論、父性原理なのであって、これを否定すれば、キリスト教の神聖さは失われる。

キリスト教の神は、唯一の神であり、ご自分以外のいかなる者にも栄光を与えられることのない排他的な神である。

ところが、異端思想は、必ず、このキリスト教の排他性を非難して、そこに何かをつけ加えようとする。

たとえば、「キリスト教には父性原理ばかりが強く、二元論の排他性ばかりがあって、それは人間に狂気をもたらす。キリスト教にはすべてを包容する母性原理が足りず、それを補うべきだ」などとして、キリスト教の二分性を非人間的なものとして非難し、御言葉の切り分けを否定し、そこに「何か別なもの」をプラスアルファとして混ぜ込もうとする。

ペンテコステ運動も、キリスト教の中に「母性原理」を持ち込もうとするものであり、それは東洋神秘主義とキリスト教の合体を目指す異端思想であるということを、当ブログでは幾度も示した。

キリスト教は「父性原理と母性原理の統合」のための宗教ではない。

ここでは、父性原理とは、父なる神の戒めである御言葉を指し、母性原理とは、被造物=人類=目に見える万物を指す。

聖書の秩序においては、この世の目に見えるもの(被造物)は、見えないもの(御言葉)から成り立っているのであり、見えないものこそ、見えるものの根源であるから、そこにある支配関係は明白である。

ところが、父性原理と母性原理の「対等」を唱え始める人々は、見えるものと見えないものとの支配関係を覆す。

「対等」という言葉に注意が必要である。「対等」を主張する人々が、本当に対等な関係で満足することはない。それは必ず、支配関係を覆すために使われる。

つまり、聖書の秩序においては、見えないもの(御言葉)こそ主であって、見えるもの(被造物)は従の関係にあるにも関わらず、これらを「対等」であると主張する人々は、その秩序をこっそり逆転し、「見えるもの」を「主」として「見えないもの」を「従」とさせる唯物論を唱えているのである。

こうして、キリスト教の中に「母性原理」が持ち込まれると、人類が父なる神の戒めに服従せねばならないという関係性が失われ、目に見える被造物が、見えない神ご自身よりも高く掲げられて、唯物論が出来上がることになる。

それが、Dr.Lukeの提唱している理論である。

Dr.Lukeがフォイエルバッハを肯定し、神学を否定している背景には、「見えないもの(御言葉)」こそが「見えるもの(この世)」の根源であることを否定する唯物論の影響がある。
 
唯物論とは、端的に言えば、見えるものが見えないものから生まれたことを否定し、御言葉なるお方を否定し、退けて、その方に服従することを拒み、目に見えるものが主であって、すべての根源であると主張する思想である。

だからこそ、Dr.Lukeは「エクレシアはキリストである」などという荒唐無稽な主張に至り着き、キリストの頭首権に服さず、まるで斬首された死体のように、首を持たないさまよう体が、あたかも神であり、主であるかのようなグロテスクな結論に行き着くのである。

Dr.Lukeはついに恐ろしいことに、キリスト教の一神教なることさえ否定し始めた。彼は書いている。
 

Luke Karasawa(唐沢治)
@Doctor_Luke ·
「聖書はいわゆる一神教ではない。エロヒムとはマルチ・ゴッドsの"カテゴリー"。要するに聖書は多神ワールド。一神教は白いキリスト教が創作したものにすぎない。」


眩暈がして来るような話だ。

キリスト教の一神教なることまでも否定するとは、完全に聖書から逸脱しており、イカれている、狂ってしまっている、としか言いようのない状態である。
 
それはDr.Lukeは自分たちが「キリスト」であり、「神々」であると公然と言い始めたことを意味する。かつて杉本徳久が「神々の風景」というブログを解説していたことを思い出す。
 
Dr.Lukeは次の記事の中で、彼の言う「エロヒム」とは何であるかを解説する。
 

キリスト教のマトリックスをエクソダスせよ
2020-07-03 | by drluke 

「ここでも、メッセでも繰り返し指摘しているが、Elohimを「神」とか”God”と、YHWHを「主」とか”LORD”と訳してはならない。特に”God”は元々バビロンのいわゆる神の名称である。もとより「神」は日本の概念であり、聖書の原語におけるElohimやYHWHからは相当に離れている。

このElohimが霊的生命体の”residence”あるいは”domain”であることはDr.Heiserがその著書 “The Unseen Realm: Recovering the Supernatural Worldview of the Bible “において解き明かしていることはすでに私のセミナーでも紹介している。

これらの概念の差はいわゆるキリスト教の歴史の中で構成されたキリスト教神学が元凶であり、それはオリジナルの聖書のマトリックスとはかけ離れた人造のマトリックスである。

最近ではこのことが徐々に広まりつつあるが、たまたま発見したこのチャンネルは私とほぼ同じ見解である。

まずはElohimに関して-

最も高きElohimであるYHWHについて-

そして新しい霊的生命体としてのわれわれについて-」



こんな記述を真面目に読む必要はない。

ここで「最も高きElohimであるYHWHについて-」という言葉が使われていることに注目しよう。

そうすれば、以上の説はまさにグノーシス主義であることが分かる。

以前に当ブログでは、「キリスト教界に入り込むグノーシス主義的・東洋的神秘主義の危険⑩~」の中で、一見すると、キリスト教を宣伝するための動画のように見えるEden Mediaも、その実、グノーシス主義を広めるための媒体であることを指摘した。

たとえば、Eden Media は「【4月】全能の目・松果体のお話。」の中で、ヤコブがペニエルで神と格闘したことについて言及し、そこで「神」を「最高神」と呼んでいる。
 

 

 聖書における「松果体」について…

古代人は松果体(PINEAL GLAND)を知ってた。
マインドとの繋がりを。
それは難解だった。
実際、聖書も触れてるくらいだ。

それでは、聖書に松果体(PINEAL GLAND)が登場する
節句を挙げていこう。
「創世記 32章30節」

ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、
なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)
と名付けた。

ペヌエル=Peniel="Pineal Gland"(松果体)」 


「”ペヌエル”で何が起きていたか説明すると、
ヤコブは夜明け前になっても起きてたんだ。
そんな彼は最高神の天使と格闘中だった。
それは”YAH”(ヤハウェ)の天使だ。
ヤコブが最高神の化身の天使と格闘していると
ヤコブはももの関節をはずしてしまう。

それでも、ヤコブは最高神から
祝福をもらうのに必死で
「祝福するまでは離さない」と言った。
すると、最高神は彼に祝福を与え、彼の名前を
”イスラエル”に変えた。

ヤコブは「顔と顔とを合わせて神を見たので、
その場所を”ペヌエル”と名付けた。
「面と向かって、神を見たため…」



確かに、聖書には、父なる神、唯一の神を指す言葉として、"the most High"という言葉が使われていないわけではない。

たとえば、イザヤ書12;14では、ルシファーが神を超える存在になろうとして、

いと高き者のようになろう」

と願ったくだりは、

KJVでは
"I will ascend above the heights of the clouds; I will be like the most High."
と訳されている。

他にも、詩編73:11において、

「そして彼らは言う。
「神が何を知っていようか。
いと高き神にどのような知識があろうか。」」

というくだりは、

”And they say, How doth God know? and is there knowledge in the most High? ”
 
  また、詩編82:6-7の

「わたしは言った
「あなたたちは神々なのか
 皆、いと高き方の子らなのか」と。
 しかし、あなたたちも人間として死ぬ。
君侯のように、いっせいに没落する。」

のくだりは、

”I have said, Ye are gods; and all of you are children of the most High.
 But ye shall die like men, and fall like one of the princes. ”

また、哀歌3:34-36では、

「この地の捕われ人をだれかれなく
 足の下に踏みにじったり
 いと高き神の御前もはばからずに
 他人の権利を奪ったり
 申立を曲解して裁いたりすれば
 主は決してそれを見過ごしにはされない。」

とのくだりは、

"To crush under his feet all the prisoners of the earth,
To turn aside the right of a man before the face of the most High,
To subvert a man in his cause, the Lord approveth not. "

とある。

このように、聖書では、「いと高き方」という言葉が、"the most High"と訳されている事実はないわけではないが、それはあくまで天におられ、すべてのものを足の下にしておられる神の高貴な地位、支配的な立場のことを指しているだけであって、神々の等級(ヒエラルキー)を示したものではない。

だから、聖書では、Eden Mediaのように、"the most High"という言葉が、「最高神」などという言葉に訳されることはない。

もちろん、聖書に「松果体の話」などが述べられていないことも確かである。その意味でも、Eden Mediaの動画は、人間が悟りの境地に達することによって「神のようになれる」と教える東洋神秘主義思想を述べたものであって、聖書とは似ても似つかない内容である。

Dr.Lukeは以上に挙げた記事の中で、聖書プロジェクトの動画を紹介している。

しかし、この動画も、筆者から見ると、極めて危険である。

聖書は映像ではないし、人間による解説の言葉でもない。ところが、聖書プロジェクトの動画は、聖書を分かりやすく3分で解説するなどと言って、人々の目を平板でつまらない音声の解説と、ありきたりで面白くもないアニメに釘付けにし、聖書の御言葉そのものから逸らしてしまうのである。

聖書の御言葉は、霊的コンテクストの中で編み出されたものであって、その言葉そのものに価値があるのに、これを二番煎じ、三番煎じの内容に置き換え、似ても似つかないものを掴ませた上で、分かった気にさせてしまうのである。

どんなに大量の動画を見ても、聖書の御言葉は一つも頭の中に残らない。そういうものに熱中している人は、いざという時、真剣勝負で神に頼るために、神に願いを聞き入れていただくために、聖書に記された約束の御言葉を一つでも思い起こそうとしても、何も思い浮かんで来ないだろう。

Dr.Lukeは過去にこんな記事も書いていた。

聖書は読むというよりは聞くものである
2019-06-22 | by drluke 

こんな考え方をしているからこそ、意味のない動画に飛びつくのであろう。聖書の御言葉をただ音声として聞くだけでは、私たちはその意味内容を全く理解できず、霊的に咀嚼もできず、それゆえ、御言葉が私たちの内で実際に実を結ぶことはない。

私たちが御言葉に触れるときに、最も必要なのは、それを音声として聞くことではなく、霊的な文脈における意味内容をとらえることである。
 
さて、話を戻すと、Dr.Lukeが、「最も高きElohimであるYHWHについて-」と書いていることから、彼らの言う「エロヒム(神々)」には等級(ヒエラルキー)があるということが分かる。

東洋神秘主義思想とグノーシス主義は、もとは同じ一つの思想である。

グノーシス主義においては、「真の至高神」(虚無の深淵)とされる「最高神」がおり、そこから「存在の流出」が起きて、「アイオーンたち」(神々)が誕生したとされる。

しかし、そこで言う「アイオーンたち」は、いわゆるギリシア神話に登場する神々のようなそれぞれに個性や性格を持った神ではない。

どちらかと言えば、Dr.Lukeの言う、「エロヒムとはマルチ・ゴッドsの"カテゴリー"」という言葉に近いものである。

もっと別の言葉で言えば、アイオーンとは、この目に見える世界の被造物、すなわち、人間のことである。

グノーシス主義において、至高神から「存在の流出」により、アイオーンが誕生したとされていることの意味は、「見えない世界(父なる神の御言葉)」と「見える世界(被造物、この世、人間)」とを逆転させるためのトリックなのだということに気づく必要がある。

聖書の創世記は「初めに、神は天と地を創造された。」というフレーズから始まっており、ここには、神の主体的で能動的な命令がある。

神はこの天地を創造するに当たり、自らの意思によって力強く命令を下し、無から有を呼び出された。
「光あれ。」(創世記1:3)
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」(創世記1:6)

人間を創造される際にはこう命じられた。

我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」(創世記1:27)


そして人にこう言われたのである。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(創世記1:28)

このように、神が被造物を創造されるに当たっては、はっきりとご自分の意思により、目的を定め、主体的にこれを造られたのである。

ところが、グノーシス主義においては、神と被造物との関係性が逆転しており、被造物の側から神を「覗き見る」ことによって、誕生の力を奪うのである。

グノーシス主義において、神は「虚無の深淵」であり、「鏡」であるとされている。

そのため、神が人をご自分に似せて造られたのではなく、人が自分の姿を「鏡に映して」覗き見ることにより、そこから、神々しい存在が「流出」したという。つまり、グノーシス主義では、神を「鏡」とみなすことによって(すなわち、人間の欲望を映し出す鏡とすることによって)、人はその鏡にただ自分の姿を映すだけで、自己の存在を神の領域にまで高めることができ、神としての性質を我が物にできるかのようにみなすのである。

だが、そこには、人の側からの欲望があるだけで、神の側からの承認はない。だからこそ、神の意思を抜きにした「存在の流出」であり、とどのつまり、盗みなのである。

それはエデンにおいて、悪魔が人類をそそのかし、善悪知識の木の実を取って食べれば、目が開けて「神のようになれる」と教えたのと同じである。

そこでは、あたかも神の側に能動性、主体性、意思、力、命などがあるのではなく、それらは被造物の側にあって、被造物の誕生は、神の意思ではなく、被造物の意思によるものであったかのごとき理論が展開されていることが分かるだろう。

一言で言ってしまえば、グノーシス主義において、神は被造物の欲望に承認を与えるための単なるお飾りの存在に過ぎず、結局のところ、それは無であって、意思を持たないのである。

このようにして、グノーシス主義の世界では、ナルキッソスが水面に映った自分の姿に見惚れ、限りの無い自己愛、自己肯定に溺れ、自分をついに神としたように、アイオーンたちが「虚無の深淵《鏡)」である「父(至高神)」を見つめ、そこに映った自分の姿に見惚れ、それを勝手に自己肯定して、自分は神だと言い始めるのである。

アイオーンたちが、父なる神の同意なしに、神から神としての性質を盗み取って勝手に神々を詐称するようになった。

だが、そうして生まれた「神々」が多すぎて、「神々」の社会にはヒエラルキーが作られたのである。

このように、グノーシス主義では、まず最初に「アイオーンたち」による神の性質の盗みがあって、その次に、最下位のアイオーンであるソフィアが、序列を犯して、一足飛びに、真の至高者を知って、単独で子を産もうとする。

そして、ソフィアは禁を犯したとして下界に転落しかかるのだが、それはグノーシス主義において、ソフィアの「罪」とみなされているのかと言えば、そうではない。

グノーシス主義においては「罪」という概念が存在しない。そこで、ソフィアのしたことは、「ソフィアの過失」という言葉で呼ばれている。

彼女が、至高者の意思を抜きにして、勝手に神を知ろうとしたことは、父なる神の戒めに背いて罪を犯したことを意味せず、彼女の単なる過失だったというのだ。

一体、ここで言う「過失」とは何なのか。

それはソフィアが、アイオーンたちの社会の暗黙の序列を乱した、すなわち、「和を乱した」ことである。

ソフィアは、本来ならば、最下位のアイオーンであるから、分をわきまえ、自分よりも上位のアイオーンたちを差し置いて、至高神を知ろうとしてはいけなかった。ところが、彼女は、至高者に対する憧れが強すぎ、それを抑えることができなくなって、自らその序列を踏み越え、自分に与えられた分以上のものを得ようと、他のアイオーンたちを差し置いて、至高者を知ろうとしたことが、彼女の「過失」であるのだという。

ソフィアが何が何でも至高神を知って、自分も神のようになりたいと願ったことは、グノーシス主義においては、盗みどころか、神への尽きせぬ憧憬や愛着の念が引き起こしたこととみなされ、一定の同情の対象にさえなっているのである。
 
言い換えれば、ヒエラルキーを飛び越えて、アイオーンたちの社会に水を差すようなことをしたことが、彼女の過失とみなされている一方、至高者から神としての性質を盗み取ろうとしたことそれ自体は、罪とみなされていないのである。

いかにグノーシス主義において、至高者の意思というものが無視され、アイオーンたちの村社会の掟ばかりが重要視されているかがよく分かる話である。それでいながら、「自分も至高者のようになりたかった」というソフィアの欲望に基づく反逆は、他のアイオーンたちにも頷ける話として、同情の対象にさえなっているわけだから、自己矛盾に満ちている。
 
つまり、グノーシス主義とは、神不在の、人間だけがすべての村社会なのであって、そこでは、父なる神の掟に背くことが罪なのではなく、人間の欲望こそが掟なのであって、人間が人間の気分を害し、上下関係を犯し、自分よりも目上の人間たちの気分や尊厳を傷つけ、面目を失わせることが、「罪(過失)」とされるのである。

そこで、Dr.Lukeが、自分たちは「エロヒムだ」と述べていることは、グノーシス主義のアイオーンたちと同じ原理に基づき、彼らが聖書の父なる神から、父なる神の意思と承認がないのに、勝手に神である性質を盗み取り、神々を詐称するようになり、さらに神々としての自分たちに等級をつけたことを意味すると言って良い。

Dr.Lukeは、「罪」という言葉を決して使わない。

そして、「悔い改め」という言葉も嫌いだとして、「悔い改め」の定義を改変する。
 
 「マインドの要塞が国も個人も滅ぼす-真のメタノイアの必要性-
2020-06-30 | by drluke 

の記事の中では、D.LukeはMMTの理論を用いて、日銀による無限の量的金融緩和がいずれ財政破綻をもたらすだろうとして緊縮財政を唱える者の理屈を打破しようとする。

そして、人間は誤った思考にとらわれているから、自由になれないのであって、その誤った思考を捨てることによって、「メタノイア」(悔い改め)を経て、自由になれる、などと主張する。
 

原則は霊的なことも、経済的なこともすべて同じだ。マインドの中に構築された要塞がその人の人格や人生を決定する。国のレベルでも集合的マインドのうちに構築された要塞が国柄や国の行く末を決める。かのハラリ氏も、人類は共同幻想を共有する認知革命により生存していると指摘しているが、この共同幻想が致命的な偽りである場合、事は深刻となることは歴史が証明してる。


メタノイアを「悔い改め」と訳することはいつもながら不適切。こういった邦語訳の罠でニッポンキリスト教が構築されることは常に指摘している。「悔い改めよ~」と叫ぶボクシが実はメタノイアしていないのだ。それはマインド・シフト(転換)。語源は”meta+noieo”、文字通り、マインド(nous)をメタ(=トランスファー)することだ。ここで宗教的な倫理や道徳と絡めるとややこしいことになる。単純に言って、すべてのことにおいてYHWHエロヒム視線の価値判断をすることだ。」



全く滅茶苦茶である。

キリスト教の悔い改め(回心)とは、人が神の御言葉に背き、神に対して罪を犯したことを認め、神の独り子なるイエス・キリストの十字架の贖いを自分の罪のための身代わりであると認め、イエス・キリストを主として、救い主として受け入れ、神に立ち帰ることを意味する。

人が救われるのは神の側からの恵み、すなわち、超自然的な介入によるのであって、回心そのものが信仰による御霊の働きにより、恵みによるものである。

罪の自覚と、信仰がなくては、回心すらも起きない。

つまり、そこには、人間の側からの罪の告白と、神の側から人間の心に対する超自然的介入が存在するのである。

ところが、Dr.Lukeの論では、回心の中から罪という概念が抜け落ちている。

彼は「YHWHを「主」とか”LORD”と訳してはならない。」として、イエスが主であるという事実さえ認めない上、悔い改め(メタノイア)とは、罪の悔い改めではなく、ただ人が誤った思考を捨てて、より適切で正しい思考を選び取ることによって、破滅から逃れることとする。

これは人間の心の中で起きる単なる思考転換である。
 
 Dr.Lukeは「マインドの中に構築された要塞がその人の人格や人生を決定する。」などと言って、体に出来た病巣を切除するように、「マインド」に出来た病巣である「要塞」(すなわち誤った思考)を切除しさえすれば、「マインド」は健全になると唱える。

これは今流行りのキリスト教カウンセリングにも通じる。人が自分の心を点検し、幼少期までさかのぼって、何かつらい、トラウマになるような体験がなかったかどうかを探り出し、そういう悲しい出来事を見つけると、それを「魂の病巣」として告白し、これを自分で「手放す」儀式を行い、そういうことを繰り返すことで、あたかも魂が健康になるかのように錯覚する。

この考え方は極めて危険である。なぜなら、マインドとは人の魂であって、人の魂も、人の肉体と同じく、罪に堕落しているにも関わらず、それを認めない考えだからである。

もともと魂も肉体も罪に堕落している以上、それをどんなに改良しようとして、どんなに多くの手術を繰り返し、「病巣」なるものを見つけ出しては切除を繰り返しても、魂がそれによって清められることは決してないのである。

聖書は言う。
 
人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。
 心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。」(エレミヤ17:9-10)

このように、人間の心を取り扱って、正常にすることができるのは、神だけである。

人間はどんなに自分で自分の心を点検しても、その病を癒すことはできないのである。

ヨハネの手紙にははっきりと記されている。

「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理は私たちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません、」(1ヨハネ1:8-10)
 
聖書における罪とは、神の戒めに背くことであって、「誤った思考」を持っていたと人前で告白することではない。

ところが、ある人々は、カウンセラーの前でトラウマを告白したり、牧師や信徒の前で「信仰の証」と称して、自分の人生の失敗を公言したり、自分で自分の思考を点検し、改造することで、あたかも健全な魂が手に入るかのように教える。

しかし、そうして人前で過去の失敗体験を告白することと、神の御言葉に服さなかったことを神の御前で罪として認めて悔い改めることは別物なのである。

また、罪とは、人間が自らの魂と肉体に働く堕落した欲望に従って生きることの結果として生まれるものであるから、人間は罪と手を切るためには、主と共なる十字架がその人の堕落した肉に深く適用されて、人が生まれながらの古き自己に対して死ぬということがどうしても必要となる。
 
ところが、Dr.Lueはボディビルなどで体を鍛え、あたかも三島由紀夫が肉体を永遠に高めようとしたことにならうかのような態度を取り、今またそれと同じ法則に従い、マインドを鍛えるためのボディビル(マインド・シフト)をすれば、人の心は健全となり、サタンのわざを打ち壊すことができるかのように教えるのである。
 
杉本徳久もかつて「健全な精神は健全な肉体に宿る」と記事に書いていたことを思い起こしたい。

こうした考え方の危険性は、人が肉体を鍛え、精神を鍛え、どれだけ自分の弱点を自力で克服したつもりになっても、人は自己の力でこれらを罪から解放することはできないことを忘れ去れ、あたかも肉体のボディビル、精神のボディビルによって、人が改造不可能な自己を健全化することができるかのように錯覚させるところである。

Dr.Lukeはいみじくも上記の記事の中で、「閉鎖社会の共同幻想」なるものに警鐘を鳴らしているが、それがそっくりそのまま、自分に当てはまる警告となっていることに気づいていない。

Dr.Lukeはかつて記した「閉鎖社会の共同幻想に思う」の記事の中でこう書いていた。
 

「ちなみに精神分析学者の岸田秀氏は『官僚病の起源』という本の中で、日本の官僚組織がどうして現在のような状態であるのかについて、閉鎖社会における共同幻想によるとして、次の諸点をまとめています:
①官僚組織は、本来、国のため国民のためのものであるにもかかわらず、自己目的化し、仲間うちの面子と利益を守るためにの自閉的共同体となっている。

②しかも、その自覚がなく、国のため国民のために役立っているつもりである。

③共同体のメンバーでない人たち、すなわち仲間以外の人たちに対しては無関心または冷酷非情である(外共同体バイアス)。

④同じことであるが、仲間に対しては配慮が行き届き、実に心やさしく人情深い(内共同体バイアス)。

身内の恥は外に晒さないのがモットーで、組織が失敗を犯したとき、失敗を徹底的に隠蔽し、責任者を明らかにしない。

したがって、責任者は処罰されず、失敗の原因は追究されないから、同じような失敗が無限に繰り返される。」

 
以上は、まさにDr.Luke率いるKFCにそっくりそのまま当てはまる理屈である。

しかし、以上はKFC、官僚集団のみならず、どんなに集団にでも起きうる現象なのである。なぜなら、それはグノーシス主義のもたらす世界観であり、誤った思想に導かれる「神々」が作り出す歪んだ「村社会」の掟だからである。

グノーシス主義とは、村社会である。そして、その村社会が閉塞的で、歪んだものとなって行くのは、それが離脱を許さない上下関係によって支配されており、しかも、その共同体では、上下関係(ヒエラルキー)に逆らうことが「罪」とされ、真の意味での「罪」の概念が失われているためである。

グノーシス主義では、「アイオーンたち」は誕生の最初の瞬間から、「自己目的化」しており、神を自分たちに箔をつけるための存在として勝手に利用して、神から存在を盗んで「神々」となった。そうして出来たアイオーンたちが己を誇るための共同体は、「仲間うちの面子と利益を守るための自閉的共同体」(いわゆる「コミュ障な社会」)であり、自己保存以外の目的がそこには全く存在しない。

従って、それは「俺様主義者」ばかりで占められる共同体なのだが、ヤクザの仁義のように、一応、そういう「俺様主義者」の社会に、見せかけの秩序を保つために、ヒエラルキーがもうけられ、厳格な序列が存在する。

そこでは、神がただ人間の欲望を裏づけるだけの存在として形骸化しているため、神に背くことが罪なのではなく、人間が社会の序列を犯すこと、上下関係を壊すこと、目上の存在の命令に背き、面目を失わせることが「罪」とされる。

そこには、人権だとか、善だとか、悪だとか、不法とかいった概念はない。弱い者には何をしても良いが、目上の者に逆らうこと、また、「神々」であるはずの彼らの存在価値に疑問を投げかける行為が、「罪」(過失)とされる。

だから、Dr.Lukeに盾突く信者は破門されたり、刑事告訴されたりする。

安倍氏に忖度しない官僚は、人事で干されたりする。

教団を離脱する教会が悪者とされてバッシングされる。

たとえるならば、SNSを開設してそこに自撮り写真を投稿しては自画自賛を繰り返している人たちの集団のようなものだ。彼らは毎日、自分たちの姿を鏡に映してそれに見惚れ、自分自身を賛美することによって、自己価値を高められると考えている。

しかし、それはすべて彼らの身勝手な自己承認に過ぎず、彼らの集団の外から、彼らを賞賛してくれる誰かがいるわけではない。

彼らは、同じ価値観を共有する身内の間では、互いにヨイショし、褒め合うことで連帯している、その連帯が保たれていることで、あたかもこの異様な自己愛に満ちた集団に、秩序があり、高い価値があるかのような錯覚が保たれる。

その価値を保つために、仲間の間で失敗があっても、決して言及せず、大目に見ることが暗黙の了解とされる。

だが、その一方で、同じ価値観を共有しない部外者に対しては、恐ろしく残忍であり、冷酷である。

たとえば、彼らが自画自賛にふけっている最中に、外来者が一人やって来て、彼らの投稿した写真を冷めた目で見つめ、一言でもけなそうものなら、その人は袋叩きにされるかも知れない。

その社会は「俺たちはすごい!」という錯覚を保つことだけを第一目的として存在しているから、彼らの存在をけなすということは、タブーを破ることを意味し、「神々」であるはずの人々を栄光の高みから引きずりおろして辱める人類に対する許されない「冒涜」行為とされるのだ。

ところで、もし以上の指摘が日本の官僚に当てはまるとすれば、一体、なぜ日本の官僚集団はそのようにまで自己目的化してしまったのか?

筆者は、鍵は天皇にあると見ている。

戦前・戦中の官僚は、「主権者」とされた天皇に仕える存在であった。それゆえ、官吏たちは、自分が神を取り巻く神々のような存在であるとの自負を持つことができ、国民の上に立つ存在であると己惚れることができた。

しかしながら、戦後、天皇は「神」ではなくなった。「象徴」という何かよく分からない、鏡のように空洞化した存在となった。

だが、プライドの高い官僚には、いきなり国民の公僕になったなどと言われても、認められないだろう。何しろ、エリートになるために勉強し、試験も受けたのに、なぜ自分よりもはるかに愚劣な人々の僕にならねばいけないのか。

現に、国民は納税、勤労、教育の三大義務を国に対して負っているではないか。

だとすれば、国は国民に対し、これらの義務を守るよう命令する立場にあるのではないのか。

そこで、現代日本の官僚たちは、国民に対する義務という鞭を振りかざし、さらに、抜け殻となった天皇という「鏡」に自分たちの姿を映し出し、そこから過去の「神々」としての栄光を引き出し、これを依然、幻想として今も身にまとおうとしている。

そんな人々ばかりではないかも知れないが、日本の官僚機構にそういう傾向が強く残っているのは確かだ。未だに彼らの多くは、自分たちが国民に君臨する存在だと自負している。

いっそ天皇制が廃止されていれば、そのような逆転現象も起きなかったかも知れない。

国事行為しか行えない、あたかも意思を持たないかのような「象徴」というものがなければ、そのような中途半端などっちつかずの状態は生まれなかったかも知れない。

それだからこそ、かえってその中途半端さを悪用して、「大日本帝国の栄光よ再び」などと、天皇を再び「神」に押し戻そうとする人たちが出て来るのだ。

また、我が国は社会主義国でないにも関わらず、なぜ現憲法が、国民に三大義務を課しているのか、筆者には理解に苦しむところである。

たとえば、コロナで失業者や倒産が増えるにつけ、国民には勤労の義務を果たそうにも果たせなくなり、納税の義務も、国の経済が落ち目になればなるほど、果たせなくなって行くことは目に見えている。

さらに、教育となれば、学校ではいじめが蔓延し、子供たちが自殺に追い込まれており、教育現場の崩壊は、もはや無視できないものになっている。
 
以上に挙げた国民の三大義務が、当然のごとくまかり通る時代は、もはや過ぎたのだ。

ならば、国民に義務を課すこともできなくなった官僚集団の栄光、存在価値はどこにあるのだろうか?

これはプロテスタントの教会の現状とよく似ている。

プロテスタントは、カトリックの聖職者階級を、聖書に定めのない、腐敗した権力として否定して、神と人との仲保者はキリストだけであるとの聖書の御言葉に立ち戻り、万民祭司を唱えて、宗教改革を行ったはずであった。

ところが、そのプロテスタントも、牧師制度という甚だ中途半端な抜け殻を内に残してしまったのである。

牧師制度は、カトリックの法王を頂点とする聖職者のヒエラルキーの残存物であり、神と人との仲保者であるキリストになり代わる可能性のあるものだからこそ、牧師のいる教会では、牧師の独裁化やら、カルト化やらが起こるのだ。

牧師とは、「象徴」であり、霊典的存在だという人もあるが、そもそもなぜ信徒とは異なる牧師階級が教会に必要なのか、なぜ役割分担ではなく、身分としての階級が必要なのか、聖書にその根拠はない。

牧師とは、結局のところ、天皇と同じように、「法王は神の代理人である」という過去の現人神の栄光を抜け殻のように身にまとっただけのどっちつかずの存在である。

この世の進歩は、キリスト教の進歩にかかっているということを、筆者は以前に書いたことがある。

資本主義は、プロテスタントの申し子であって、もしもこの先、プロテスタントから新たな宗教改革が生まれて来なければ、資本主義の行き詰まりにも、打開策は現れないであろう。

資本主義の仕組みはプロテスタントにおける教会生活を基盤として作り上げられている。

我が国において、現憲法下で国民に定められた納税、勤労、教育の三大義務も、プロテスタントにおける信者の献金、奉仕、日曜礼拝を守る(牧師の説教を聞く)義務に重なる。

しかし、今やこれらの義務は信者に重くのしかかり、信者を押し潰そうとしている。日曜礼拝の牧師の説教は、命の息吹の伴わない、恐ろしく退屈で聞くに堪えないものとなり、月曜から金曜の労働で疲弊している信者には、日曜日にまでただ働きの奉仕をする余力はない。牧師だけでなく牧師一家全員を養わなくてはならない献金は、信徒にとって重い年貢同然である。

その上、教会はさらに立派な礼拝堂の建設を目指し、教会債を発行してまで、これを賄おうとしている。この先、社会は高齢化して信者が増える見込みもなく、返済できる当てもないのにだ。

このような共同体が、神の国と何の関係があるだろうか。

このどこに一体、山上の垂訓を少しでも反映した地上天国に値する神の国の要素があると言えるのか。
 
結局、こうした腐敗現象はすべて「目に見えないもの」を「見えるもの」に従属させた結果として起きる転倒に他ならない。

安倍政権が第一次では「神国日本」などという幻想を取り戻そうとするかのごとく、「美しい国造り」などを唱えていたことを思い出せば良い。

これらはすべて地上天国の実現を目的に掲げるものである。

しかし、山上の垂訓が実現するために何より必要なのは、人間の欲望が肯定されて、繁栄が築かれることではなく、人間が正しい行いをして、悪を退け、善なるもの、正義と真実を守ることである。
 
人間は、たとえ神を信じていない人であっても、己の良心の働きにより、何が善であって、何が悪であるかを見分ける力を少しは持っている。

決して権力者に忖度して目上の人間の面目をつぶさないことが「善」なのではなく、権力者に逆らうことが「悪」なのでもなく、正義とは、この世の権力の有無とは関係がなく、かえって、自力では自分を守れないような弱い者を虐げ、追い詰め、死に追いやることが、悪であることを人は知っている。

しかし、そうした心の良心の働きを殺し、ただこの世のヒエラルキーに従い、自分よりも目上の人間に忖度して生きることを「善」とし、権力者の言い分に逆らうことや、社会に波風立てることを「悪」とみなすとき、人は良心の働きを失う。

それはあたかも自分では何が善であって何が悪であるかもわきまえることができず、ひたすら己の欲望だけに従ってさまようようになった、首を失った体のようなものである。

人の良心の機能が死んでしまうと、すなわち、罪に対する鋭敏さが失われると、人間社会は、各人が己を保つことだけを全てとする自己目的化した場となり、そこは村社会の掟だけがものを言う、弱肉強食の場となり、無法地帯と化して行くことになる。

人の良心が機能しなくなると、人間の人間たる所以が失われるのである。

かくて最高の掟である神の御言葉の権威が失われ、御言葉に逆らうことが「罪」であり、「悪」であるという認識が失われ、ただ目に見える人間社会に混乱をきたさないこと、その上限関係を壊さないこと、人間の満足に逆らわないこと、目上の人間の面目を保つことだけが「善」とされると、人間の欲望を肯定することだけを目的とした、どこまでも独りよがりで身勝手な社会が出来上がり、その社会には悪が満ちることになる。

神の栄光を、神ご自身に求めるのでなく、影に過ぎない人間が勝手に身にまとい、模倣し、横領しようとすることは、罪なのであり、その悪の上に、人間の栄光ある社会を築くことはできない。

精神のボディビル、肉体のボディビルをどんなにやって、その成果をSNSに撮影して自慢したところで、人は一切、罪なる自己を改良することはできず、神はその一切の努力を嘲笑われる。

人の堕落した魂と肉体には、十字架の死が適用される以外に道はないのであって、最も尊い人間の心の機能は、再生された霊の中に、人の良心の中にある。

そこで、人間の罪というものを認めないグノーシス主義の世界は、一見、ヒエラルキーによって保たれているように見えても、絶えず反逆が起こり続ける。

それはその社会が、初めから神に対する反逆によって成立しているからであって、それだからこそ、その社会の内では、終わりなき失敗、下剋上が起き続けるのである。

かくて罪の問題を直視することなくして、人間社会に幸福をもたらすことはできないのであって、人間が人間の罪を否定して、己を神に祀り上げるとき、社会からは法が消え、善悪の切り分けが消え、悪が満ちる。

そんなものが神の国とは何の関係もないことは明らかであり、人は堕落した自己を万死に値するものと認めてキリストと共なる十字架の死に渡し、そこにキリストの復活の命が働くことを待たずに、人としての本分を全うすることはできない。

さて、日銀による量的緩和は、グノーシス主義の「存在の流出」と同じ、錬金術なのであって、それは根本的に、グノーシス主義が、聖書の唯一の神から、神としての性質を盗んで、「八百万の神」を打ち立てようとすることと原理は同じなのである。

また、牧師を頂点にいただく目に見える組織としての教会が、神の国を詐称しつつ、全国各地に教会を建設するのにも非常によく似ている。

貨幣の価値はそれが希少だからこそ保たれるのであり、無限の「量的緩和」を行えば、悪貨が良貨を駆逐し、その希少性は損なわれる。そして、いずれその価値はゼロとなる。

それはグノーシス主義の「存在の流出」によって誕生した「神々」が、聖書のまことの神から、いずれ反逆者としての烙印を押され、ゲヘナに投げ込まれるのと同じである。

この世が終わりに至る前から、彼らは自らの悪い行いによって自滅して行くのである。

かくて錬金術は科学的にも、歴史的にも、成立したことはなく、本物から本物としての性質を盗んで、価値の劣る偽物、粗悪品をどれほど作り続けても、それが本物と同じ価値を発揮することはない。

そういうまがい物によって作り出される豊かさは、内実の伴わない見せかけだけのもので、いずれ実体のない無価値なものであって、有害であることが証明されるだけである。

それは、我が国の国民が、たとえ明日からDr.LukeとKFCのように、「私たちはエロヒムだ!」「私たちはキリストだ!」などと叫び始めたからと言って、決して、彼らがキリストにならないのと同じである。


<続く>

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今回の記事では、クリスチャンが証の言葉を公然と宣べ続けることの重要性を強調しておく。
 
今、香港では大変なことが起きている。

6月30日には周庭(アグネス・チョウ)氏が香港での政治団体からの離脱を表明した。
 

Agnes Chow 周庭
@chowtingagnes 

 「私、周庭は、本日をもって、政治団体デモシストから脱退致します。これは重く、しかし、もう避けることができない決定です。 絶望の中にあっても、いつもお互いのことを想い、私たちはもっと強く生きなければなりません。 生きてさえいれば、希望があります。 周庭 2020年6月30日」



その数日前の6月28日、27日に、周庭氏が以下のツイートをしていたことから、やむなく政治闘争をやめざるを得なかった過程が分かる。
 

「今日の香港での報道によると、香港版国家安全法は火曜日(30日)に可決される可能性が高い、そして「国家分裂罪」と「政権転覆罪」の最高刑罰は無期懲役という。日本の皆さん、自由を持っている皆さんがどれくらい幸せなのかをわかってほしい。本当にわかってほしい...」

「香港で自由や民主主義のために戦う人たちは、自由や命を失うことも考えないといけないということが、本当に悲しい。私も、たくさんの夢を持っているのに、こんな不自由で不公平な社会で生き、夢を語る資格すらないのか。これからの私は、どうなるのか... いつかまた日本に行きたいなぁ。」



さらに、6月10日のツイートにはこうある。
 

普通の23歳は就職や夢の話をする時期なのに、これから何年(中国当局に)収監されるのだろうかと考えるのが悲しい。国際社会が中国の人権状況をみているとメッセージを出すことが大事だ。」



こんなことが現代に起きているとはまことに驚きである。香港では今も国家安全法に抗議するデモが進行中だが、370人が国家安全法違反で逮捕されたとの報道もあり、もはや後戻り不可能な地点に来た様子が伺える。

香港は完全に中国共産党政権下に制圧されたのである。
 
周庭氏は過去に3回逮捕されたとツイッターに書いているため、今回は、自身の逮捕を恐れたのではなく、仲間の身を案じたのだろう。

ついに自由に発言することさえできなくなって、沈黙に追い込まれたのである。
 
こうした動きを見ながら、筆者は深く考えさせられた。やはり、何かを主張するためには、命をかける覚悟が必要なのだと思わされた。それがないことには、この世では何も主張することはできない。
 
私たちは、香港で起きていることを踏まえ、身近に何気ない日常がまだ存在しているうちに、不屈の精神を持って、命がけで、自らの主張を叫び続けることをしなければならない。それをやめてしまえば、以上は我が国の明日になるかも知れないのだ。

今、私たちがさして激しい戦いもないうちから、自己の命、身の安全、幸福な生活、生活の安寧を何より優先するならば、私たちはこのまま死人のような生活に突入して行くだけであって、我々の発言権など誰も守ってはくれないだろう。

だが、筆者が言及しているのは、政治デモのことではなく、信仰を守るための戦いのことである。

御言葉に基づき、聖書の神の正しさを主張するためには、どうしても代価が必要だ。

主イエスは言われた。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:24-27)

また、このようにも言われた。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

人をその父に、
娘を母に、
詠めをしゅうとめに。

こうして、自分の家族の者が敵となる。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイ10:34-39)

エステル書4:1-17を思い出す。大臣ハマンの差し金により、ユダヤ人の絶滅の勅書が出された際に、エステルが取った態度である。

「モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。更に彼は王宮の門の前まで来たが、粗布をまとって門に入ることは禁じられていた。勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。

女官と宦官が来て、このことを王妃エステルに告げたので、彼女は非常に驚き、粗布を脱がせようとしてモルデカイに衣服を届けた。しかし、モルデカイはそれを受け取ろうとしなかった。

そこでエステルはハタクを呼んでモルデカイのもとに遣わし、何事があったのか、なぜこのようなことをするのかを知ろうとした。ハタクは王に仕える宦官で、王妃のもとに遣わされて彼女に仕えていた。ハタクは王宮の門の前の広場にいるモルデカイのもとに行った。

モルデカイは事の一部始終、すなわちユダヤ人を絶滅して銀貨を国庫に払い込む、とハマンが言ったことについて詳しく語った。彼はスサで公示されたユダヤ人絶滅の触れ書きの写しを託し、これをエステルに見せて説明するように頼んだ。同時に、彼女自身が王のもとに行って、自分の民族のために寛大な処置を求め、嘆願するように伝言させた。

ハタクは戻ってモルデカイの言葉をエステルに伝えた。エステルはまたモルデカイへの返事をハタクにゆだねた。

この国の役人と国民のだれもがよく知っているとおり、王宮の内庭におられる王に、召し出されずに近づく者は、男であれ女であれ死刑に処せられる、と法律の一条に定められております。ただ、王が金の笏を差し伸べられる場合にのみ、その者は死を免れます。三十日このかた私にはお召しがなく、王のもとには参っておりません。」

エステルの返事がモルデカイに伝えられると、モルデカイは再びエステルに言い送った。

「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。

エステルはモルデカイに返事を送った。

「早速、スサにいるすべてのユダヤ人を集め、私のために三日三晩断食し、飲食を一切断ってください。私も女官たちと共に、同じように断食いたします。このようにしてから、定めに反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。

そこでモルデカイは立ち去り、すべてエステルに頼まれたとおりにした。 」

* * *

この国において、エステルのような覚悟を固めている人がどのくらいいるのだろうか。

政治デモではなく、クリスチャンの中に?
 
筆者はここしばらくの間、我が身を振り返り、すべてを捨てる覚悟が本当に必要であることを思わされた。

かつてオウム真理教は省庁制を取り、疑似政府を教団内に作っていたと記事で触れたことがある。その時に、筆者は書いた、もしもカルト宗教が政府に浸透すれば、そんな面倒なことをせずとも、彼らには国を内側から思い通りに牛耳ることができるようになるだろうと。

敵の狙いは、法律を自分に都合よく解釈して、悪者を守るために、そして、正しい人々を弾圧するために、法を使うことだ。

反則行為の事実を山のように積み重ね、人々に無力感を植えつけ、後からそれらを合法に見せかけ、法律を自分たちだけにとって都合の良いものに書き変えてしまうことだ。
 
だが、法はそんなことのためにあるのではない。法を悪用して自分に都合よく裁きを曲げようとする人々に対して、私たちは断固、立ち向かい、彼らの言葉の嘘を喝破し、その効力を粉砕しなければならない。

そういうわけで、周庭氏が沈黙に入る前日の6月29日、筆者は、さるぐつわを投げ捨て、立ち上がって戦うために、前に向かって歩き出した。

この日、家を出がけに、Dr.Lukeが次のようにツイッターに書いていたのを見た。
 

不毛な論争で消耗することを避けよ。



筆者は心の中で、これを見て笑った。そして、”NO”と叫んだ。

敵であるエジプト軍は、これを読んで議論など不毛だと考えて、筆者の苦労をますます嘲るだろう。そして、自己の生活に安住しようとするだろう。

だが、筆者は、命をかけてでも、守り抜かなければならない価値があることを知っているので、追っ手を振り切って、紅海を渡り、前進して行くことに決めた。

海の向こう岸を目指して、水の上を歩き出す。

たとえそれが水の上であっても、渡って行かねばならない。

私たちは生きている限り、何が正しく、何が間違っているかを識別するため、議論し、主張し続けることをやめてはならない!
 
気づくと、もはや追っ手は着いて来ていないようであった。

Dr.Lukeはツイッターで次の記事を紹介することによって、いかに議論のむなしいかを力説したい様子に見られた。それは筆者以外の人々にとっては効果があったかも知れない。
 

認識とは高次元リアリティーの投影=論争の原因=
 2019-06-29 | by drluke 

「いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。



要するに、人が「熱くなって」議論に熱中するのは、セルフ(堕落した自己)のなせるわざだというのだ。人は自分が入れ込み、その上にアイデンティティを築いたものを否定されたときに、自己を否定されたと考え、むきになって自説を主張せずにいられなくなるというのだ。

そうして、自己の正当性を主張するために議論を続けるのは、ますます善悪知識の木の実を食べて自己を肥大化させるだけの道だから、それはみっともないことであり、悪であり、避けた方が良いという。

だが、筆者は全くそれに共感しないばかりか、よくもこんな大した自己矛盾が言えるものだと呆れるだけだ。

第一に、このように言ったDr.Luke自身が、KFCの元信徒から「密室で呪いの預言をされた」ともの申された際、「熱くなって」、信徒の「誤り」を指摘して、相手を「論破」するために、しかも、ただ論破するためだけでなく、実力行使して排除するために、信徒を刑事告訴したのではなかったのか。

間違えないで欲しいのだが、筆者は刑事告訴すること自体が禁じられていると言っているのではない。

だが、Dr.Lukeの場合、彼の訴えた信徒の言い分は、真実であったかも知れず、さらに、彼は宗教指導者や、教職者という立場を利用して、ほとんど言い返す能力もない信徒を相手に告訴し、沈黙に追い込んだのである。

さらに、Dr.Lukeはブログやホームページで、当ブログも含め、気に入らない考えを述べている信徒を断罪しては、未だ自分の「正しさ」を論証し、「自説を通そうとする」ことを止められないでいる。

ニッポンキリスト教界も日々断罪されていれば、数知れぬ著名人もそこに含まれている。

彼の言葉をそのまま使えば、そのようにして、何が正しく、何が間違っているかという議論にのめり込むこと自体が、肥大化した「魂の自己主張」であり、「自己保存欲求の現れ」であり、「善悪知識の木の実」を食べて生きる人類の宿命なのではなかったのだろうか?

このように、Dr.Lukeの説は自己矛盾している。彼の理屈においては、自分が他人に論争をしかける時だけは、それは正しい行動であるが、他人から論争をしかけられる時には、それは「セルフ」のわざであり、悪しき人類の宿命であって、「善悪知識の木の実」の結ぶ議論とされるようだ。

そんな二枚舌の人間の言い分を信じてはならない。

悪徳商法は、人にものを考えることをやめさせるが、それは人を騙すためだ。

Dr.Lukeが論争を避けるように言うのは、人々に自分で物事を考えさせず、彼の教説の是非を検証させず、彼の言うことを疑わない思考停止状態を作り出すためである。

また、それは、牧師(指導者)と信徒という上下関係の中に信徒を閉じ込め、目下の立場にあるはずの信徒が、目上の立場にあるはずの指導者に異議申し立てをさせないための圧力でもある。

その考えは、戦前・戦中の国家神道、天皇崇拝によく似ている。

* * *

 『国体の本義』は、人々を上下関係の中に閉じ込め、人間に全体から切り離された個人としての存在価値を認めず、上下関係からの離脱の自由を与えなかった。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

個人は、その発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。」



このように、『国体の本義』は、人は生まれながらに国家とその歴史に連なる存在であって、そこから抜け出す道はなく、全体から切り離された個人などは、虚妄の概念に過ぎないとして、個人という概念すらも根こそぎ否定したのである。

そうして、個人は全体から切り離せない存在であると決めつけた上で、国が国民に忠君愛国、親孝行などを強要し、人は自分よりも強い者のために自己犠牲することで分を果たせるなどと教え、「天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。」などとして、人が天皇のために死ぬことまで要求したのである。

その際、人が個人として己のために生きることを「小我」として軽蔑し、自己を捨てて天皇のために身を捧げることこそ、「国民としての真生命の発揚」などと誉め讃え、人が天皇のために死すことが最大の美徳であって、人としての使命の全うであるかのように要求し、そうした異常な価値観に対して一切の異議申し立てを認めず、個人としての生き方を徹底的に侮蔑・否定したのである。
 

第一 大日本国体、三、臣節、忠君愛国 より抜粋

我が国は、天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と流動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民のすべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心とし奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て私を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民の唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御稜威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。



このように、戦前・戦中の国家神道・軍国主義が、人に権威者への異議申し立ての機会や、自己主張の機会を一切与えなかったのは、彼らが作り出したヒエラルキーの中に人を閉じ込め、その支配関係の中で、個人を最後の血の一滴まで道具として使役せんがためである。

グノーシス主義とは、人をそのように上下関係の中に閉じ込めて離脱を許さない教えである。

なぜこのように、戦前・戦中の日本社会では、「全体の中に閉じ込められた個人」の存在しか認められず、「全体から切り離された個人」が認められなかったのか、その考えの根源は、「神と人との和」という発想にあることも、前に説明した。
 

『国体の本義』、第一 大日本国体、四、和とまこと より抜粋

  更に我が国に於ては、神と人との和が見られる。これを西洋諸国の神人関係と比較する時は、そこに大なる差異を見出す。西洋の神話に現れた、神による追放、神による処罰、厳酷なる制裁の如きは、我が国の語事とは大いに相違するのてあつて、こゝに我が国の神と人との関係と、西洋諸国のそれとの間に大なる差異のあることを知る。

このことは我が国の祭祀・祝詞等の中にも明らかに見えてゐるところであつて、我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。

 又この和は、人と自然との間の最も親しい関係にも見られる。<略>

 この和の精神は、広く国民生活の上にも実現せられる。我が国に於ては、特有の家族制度の下に親子・夫婦が相倚り相扶けて生活を共にしてゐる。「教育ニ関スル勅語」には「夫婦相和シ」と仰せられてある。而してこの夫婦の和は、やがて「父母ニ孝ニ」と一体に融け合はねばならぬ。即ち家は、親子関係による縦の和と、夫婦兄弟による横の和と相合したる、渾然たる一如一体の和の栄えるところである。

 更に進んで、この和は、如何なる集団生活の間にも実現せられねばならない。役所に勤めるもの、会社に働くもの、皆共々に和の道に従はねばならぬ。夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。分を守ることは、夫々の有する位置に於て、定まつた職分を最も忠実につとめることであつて、それによつて上は下に扶けられ、下は上に愛せられ、又同業互に相和して、そこに美しき和が現れ、創造が行はれる。

 このことは、又郷党に於ても国家に於ても同様である。国の和が実現せられるためには、国民各々がその分を竭くし、分を発揚するより外はない。身分の高いもの、低いもの、富んだもの、貧しいもの、朝野・公私その他農工商等、相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。



これを読んで分かるのは、戦前・戦中の日本では、「神と人とが和合している」という誤った概念に基づいて、すべての誤った人間関係が規定されたことである。

端的に言ってしまえば、人間の罪を認めず、神と人との罪による断絶を認めない反聖書的な思想の誤りが、すべての間違いを導き出したのである。

当時の日本社会では、「我が国に於ては、神は恐しきものではなく、常に冥助を垂れ給ひ、敬愛感謝せられる神であつて、神と人との間は極めて親密である。」と書かれているように、キリスト教とは異なり、神と人とが罪によって断絶し、人間が滅びに定められたなどの事実は否定されて、神と人とが「親密」であるとされた。

そこで言われる「神」とは、天皇家のことであるから、彼らの言う「神と人とが親密」というのは、天皇と臣民とが「親密」だという意味である。

「親密」とはどいうことか。

それは結局、「和」のこと、和合しているという意味であるが、天皇と臣民は生きて会うこともほぼないわけだから、そこで言われる「和合」とは、言い換えれば、「切り離せない」関係のことである。要するに「あなたはこの上下関係からは、未来永劫、逃れられませんよ」という意味だ。

そして、「夫々の集団には、上に立つものがをり、下に働くものがある。それら各々が分を守ることによつて集団の和は得られる。」とあるように、この「親密さ」「和」は、個人が全体の中での「分を守ること」つまり、「上下関係を覆さないこと」によって保たれる。

個人はあくまで社会の中で定められた上下関係の中で、自分に与えられた分を超えないようにしながら、求められている役目を果たすことによって、「集団の和」を保たねばならないとされたのである。

相互に自己に執著して対立をこととせず、一に和を以て本とすべきである。」と書かれている通り、「上下関係を覆すこと」や「対立」を生むことは、「自己に執着」する行為として、和を乱す悪とされた。

これは、Dr.Lukeの言葉と非常に近いものである。

「いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。」



つまり、自分よりも目上の人間の誤りを公然と指摘して恥をかかせたり、その者を論破して自説の正しさを主張したり、上下関係を否定したり、そこから離脱したり、これを覆すような行為は、「自己に執着して対立」を生む、すなわち、和を乱す行為であって、悪とされたのである。

そして、目上の人間は、目下の人間が「分をわきまえて」行動しているのを見て、つまり、決して自分を乗り越えて権力を主張したり、自分との上下関係から離脱しようとしないのを見て、これを良しとしたのである。

そこで、ここで言われる(たとえば天皇から臣民への)「慈悲」「慈愛」とは、結局、「お前は私より劣った存在であって、その分をわきまえて行動することを忘れるなよ、その限りにおいてのみお前の存在を認めてやる」というディスカウントの言葉でしかなく、真の慈悲や愛情と呼べるものではない。

このような考えに基づき、当時の日本社会においては、国民は生まれながらに天皇の赤子であって、天皇との関係から離脱は許されず、天皇だけでなく、親子関係においても、職場の上司と部下との関係においても、社会のいかなる場所においても、上下関係に従って、分をわきまえて行動することが求められ、決して異議申し立ても、その関係からの離脱も許されなかったのである。

これが「親密」の意味である。人を上下関係の中に閉じ込め、異議申し立ての機会を与えず、そこから離脱する自由も与えず、果ては命まで要求するのだから、大した「和」である。

「親密」と言いながら、あなたにつきまとって来ては、カツアゲを繰り返すヤクザを想像すれば良い。そこに真の「親密さ」「慈悲」もあろうはずがない。そんな「和」など心底、ご免被りたい。

* * *

もちろん、そんな異常な教えには、終戦によって裁きが下された。戦後の民主主義も、キリスト教も、決してそのように「全体から切り離された個人」を虚妄として否定する考えの上に成り立つものではない。

むしろ、逆に、聖書においては、前述の聖句にも見る通り、主イエスは信じる者に、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」と言われた。

ここでは、親子関係が未来永劫に抜け出せないものとして提唱されているなどのことはない。それどころか、親子関係は、神に従う以上に優先されてはならないことが記されている。信仰は、家族関係に従って代々受け継がれるようなものではなく、あくまで個人としての決断であり、選択である。

また、主イエスは、狭い門から入りなさい。滅びに至る門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7:13-14)と言われた。

神の国に入る人は、「全体」ではなく、極めて少数の人々であることが示されたのである。

また、主イエスは偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたはその実で彼らを見分ける。」(マタイ7:15-16)と言われ、個人がしっかりと自らの頭で物事を考えて、御言葉に照らして、何が正しいかを識別し、誤った教えを見分ける必要性を幾度も強調された。

主イエスは、信じる者が、社会の上下関係の中で、分をわきまえて行動し、自説に固執することによって周囲に波風立てて和を乱さないように、対立を生まないように自己主張を控えるように、などとは一切、言われなかった。

むしろ、主イエス御自身が、自分は分裂をもたらすために地上に来られたと言われたほどである。

主イエスは、地上におられる時、宮の境内から商売人を怒って追い払われたり、嵐を叱りつけられたり、不正には憤り、人の苦しみの前に涙を流され、自らに論争を挑み、彼を破滅に陥れようと罠を張った律法学者や、祭司たちには毅然と反論された。常に人間としての意思と感情をはっきりと表され、自らの信じる通りに、つまり、父なる神の戒めの通りに、ご自分の信念を持って真実に行動されたのである。

従って、聖書において、主イエスは決して自己主張を殺して、世人に迎合されたことは一度もなく、自己主張をすることや、怒ったり、反対を述べたり、非難するという、世に対して「和を乱す」行為を悪とされたこともなかった。

堕落したこの世に波風立てず、対立を起こさないことを善とされたのでなく、むしろ、この世からは憎まれ、罪なくして十字架につけられるほど、この世からは憎しみを受けられたのである。

そこで、私たちも、主イエスにならう者として、御言葉に従うためならば、世からの敵対や反発を恐れず、大いに自己主張せねばならないのであって、それは自分のためではなく、聖書の神の正しさを証明するためである。

「兄弟たちを告発する者」、すなわちサタンを後退させるために、私たちは生きている限り、証の言葉を宣べ続けなければならない。

「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。
 神のメシアの権威が現れた。
 我々の兄弟たちを告発する者、
 昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、
 投げ落とされたからである。
 
 兄弟たちは、小羊の血と
 自分たちの証しの言葉とで、
 彼に打ち勝った。
 彼らは、死に至るまでも命を惜しまなかった。」(黙示12:10-11)

この御言葉を読むなら、文字通り、「死に至るまでも命を惜しまず」、「自分たちの証しの言葉」を宣べ続けることによってしか、サタンに対する勝利がもたらされないことが分かる。

主イエスは言われた。

神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」(マルコ8:38)
 
罪深い時代の風潮に迎合し、自分を惜しんで証の言葉を捨てるなら、その者は自分自身が、来るべき日に、主によって恥じて捨てられるだけだ。

このように、聖書的な観点から見れば、何が正しく、何が間違っているかを識別するための議論を行うことは、何ら悪ではなく、正統な信仰を守り抜くために、証の言葉を宣べ続けることは、決してやめてはならないことである。
 
むしろ、聖徒らの信仰の証しを迫害し、口を封じようとすることこそ、悪魔の所業なのである。

だから、人が自己主張することが、悪だという誤った考えを持ってはならない。人が何を擁護して自己主張するのか、神の側につくのか、それとも、サタンの側につくのかが問われているだけである。
  
エデンにおいて、悪魔にそそのかされて、神が食べてはいけないと命じられた善悪知識の木の実を取って食べて以降、人類の中では、善と悪がごちゃ混ぜになった。

この木の実を食べるまで、人は神の御言葉の中を歩み、何が善であるかを知っていたが、サタンのそそのかしに従って、この木の実を食べたとき、人の中に悪が入り込み、人は善と悪を見分ける力を失ったのである。

こうして、混合してはならない相反する異質な概念が、人の内で同居するようになり、人は罪に堕落し、自ら神に至り着くことができなくなり、ただ御言葉だけが、この相反する二つのものを切り分け、人が悪を捨てて、罪に対して死んで、神に対して生きるようにすることができる。
 
御言葉だけが、人の内で混ざり合った善と悪の概念をもう一度、切り分け、死の病に冒された人を救い出して、神の正しさの中に引き戻すことができる。

ただし、一度でも罪に堕落したものは、罰を受けずに正しい存在にはなれないため、キリストの十字架の贖いが存在するのである。

こうして、聖なるものと、汚れたものとを分離するために、御言葉があり、キリスト教の二分性がある。

そこで、私たちは自分の頭で、御言葉を用いて、何が真実であって、何が嘘であるか、何が神に喜ばれる正しいことであって、何がそうでないのか、自ら考え、識別することをやめてはならない。

そうして御言葉による識別を否定し、自ら考えることをやめるとき、その人の内には、グノーシス主義者の言う「相反するものの統合」が残るのである。

かくて、善悪を知る知識の木の実を取って食べるとは、善悪について議論することや、自分が正しいと思うことを主張することを意味するのではない。かえって、善と悪を識別することをやめて、正しいものを守るための議論をやめること、自ら正しいと信じることを主張するのをやめて、証しをやめ、善悪をごちゃ混ぜにして識別せずに容認する態度を取ることを意味する。

歴代教会は、異端を識別するための公会議を幾度も開いて来た。正しい教えを異端から守るために、誤った教えを識別し、それを正しい教えから切り分けるための議論の重要性は、どんなに強調してもし足りない。

にも関わらず、御言葉の切り分け機能を用いて、自分で物事の是非を考え、議論することをやめてしまうならば、その人こそ、再び、善悪知識の木の実を取って食べているのだと言えよう。

善悪知識の木の実とは、「相反する概念の統合」である。

この木の実の本質は、「善と悪を統合すること」にある。つまり、グノーシスである。

Dr.Lukeは、幾度警告されても、「自分は大丈夫」と言いながら、聖書とは異質な教えを取って食べ続けた。ペンテコステ運動、サンダー・シング、ニューエイジ、スピリチュアリズム、禅、東洋思想…。

そうして限りなく「善悪知識の木の実」を食べ続けたために、彼の教説は、何でもありの混ぜ物だらけの堕落した福音になったのである。
 
もう一度言う、私たちは、議論することによって、善悪知識の木の実を取って食べるのではなく、逆に議論しないことによって、識別しないことによって、善と悪をごちゃ混ぜにして、善悪知識の木の実を食べるのである。

だから、議論することや、自己主張することが、悪だと考えてはならない。

分をわきまえ、社会に波風立てず、自己の主張を殺し、権力者に異議申し立てを一切せず、誰とも議論しないことが、あたかも正しい所業であるかのような考えに欺かれ、まだ生きているうちから、もの言わぬ死人のようになってはいけない。

私たちは生きている限り、公然と御言葉の証を宣べ続けなければならない。

それなのに、御言葉による切り分けのために必要な議論までも、悪として退け、聖徒らに証を宣べることをやめさせて、沈黙に追い込もうとする力は、悪魔から来るものであって、神の喜ばれることがらではない。

それは親孝行を是とする儒教的精神、忠君愛国を解いた国家神道、天皇崇拝などから生まれた、人間の作り出したこの世のむなしいだましごとの哲学の下に、聖徒らを閉じ込めようとするグノーシス主義的精神であって、聖書にその根拠はないことに気づかなければならない。



とても重い反駁の作業の第一段階が終わった。筆者が、聖書の正しい教えを守り、悪魔から来た誤った教えを退けるためには、論戦が必要だと書いているのを見て、そんなのは嘘だと思っている人間がいるかも知れない。

しかし、私たちの発する言葉は、すべて霊的な論戦の材料なのだ。そして、敵(暗闇の勢力)の発する言葉には、いつも自己矛盾があって、そこには、嘘や、呪いが込められている。

私たちは、敵の理論のほころびを見つけ出し、これに丁寧かつ根気強く反論することで、彼らの蒔いた嘘を無効化できる。

以前から書いている通り、嘘は嘘たる所以を明らかにすることで、効力を失う。反論とは、単なる否定ではなく、敵の論を無効にするための作業なのだ。 
 
この先、隠れたところで行われることを見ておられ、明らかにされる神が、何をどう明るみに出されるかに注目したい。

地道な論証作業の積み重ねの必要性はいくら強調してもし足りないし、判断が下されることで、初めてその理論のほころびや、次に踏むべきステップが見えてくる。全てのことが極めて貴重な実地体験であり、それがあって初めて前進が可能となる。 

だが、筆者の論証作業だけが物事の真相を明るみに出すわけではない。隠れた事柄を明らかにして下さるのは神ご自身であるから、神の御業に信仰を持って期待したい。
 
 
* * *

さて、前回、Dr.Lukeの教説の異常性について触れたが、彼は最近、「エロヒムの増殖」なる非常に気持ちの悪い言葉を使うようになった。

神の増殖を増殖する-エロヒムとはスピリチュアル・ドメイン-」
2019-03-05 |  by drluke 

上記の荒唐無稽な記事内容には深く立ち入らないが、この記事に欠けているものがある。

それは、やはり、キリストの頭首権に服すること。すなわち、御言葉の掟を守ることだ。

御言葉の中にとどまらない者、その掟を守らない者は、神の国の住人ではない。

その視点が、Dr.Lukeの教説からは完全に欠けている。

いわば、自分は御言葉に服さないまま、恵みだけを受け取るという、いいとこどりの御都合主義の福音である。

Dr.Lukeが「エクレシアとはキリストだ」と言っていることについては、これは首のない体であるということを説明した。

エクレシアはキリストの体であって、頭ではない。そして、頭(かしら)なる方こそがキリストであるから、Dr.Lukeが主張しているものは、首のない体なのである。

ヘッドのないボディ。司令塔なくさまよう体。斬首された罪人の体。

それが「増殖」するとは何を意味するか。

自己増殖である。

頭なるキリストなしに、体だけが自己増殖するのだから、そこには「二人」ではなく「一人」しかいない。だから、自己増殖である。

グノーシス主義において、単独で神を知ろうとしたのはソフィアである。彼女は最下位のアイオーンであったが、父なる神からの承認がないのに、神のDNAを盗み、自ら神となろうとした。その結果、ソフィアの堕落(転落)が起きる。

「父」が、自分の生んだ子でないものを、自分の子と認知するはずがない。だが、神から神の性質をを盗んだそのトリックを正当化するために、ソフィアとその子孫たちは、「神の御国の後継者」を名乗り出て、正当な後継者を追い出し、自分たちこそが神の子孫だと詐称する。それがグノーシス主義である。

Dr.Lukeはこんなことも言っていた。

ジーザスがニューエイジを始められた-我々こそが真のニューエイジャーだ
2018-06-16 |  by drluke 

これは、類人猿は人類の親戚だから、人類の兄弟だと言っているのにも等しい。

Dr.Lukeは、以上のようなタイトルを通じて、イミテーションが本物を模して作られたからと言うだけで、イミテーションを本物と巧妙にすり替えようとしているのだ。

聖書とニューエイジは何の関係もなく、ニューエイジはどこまで行っても、聖書の悪しき模倣でしかない以上、キリストとは何の関係もないイミテーションに過ぎない。

ところが、本物とイミテーションをごちゃまぜにし、すり替えてしまうのである。

Dr.Lukeの記事のタイトルは、「人類と類人猿は似たDNAを持っているから、人類こそが真の類人猿だ!!」などと叫んでいるに等しい。

一体、なぜ、我々が尊い人類であることを捨てて、「真の類人猿」などという蔑称にも近い呼称を受け入れなければならないのか。

そこに巧妙なすり替え、ディスカウントがあるのに気づかなければならない。

あなたは類人猿が人類と似たDNAを持っているからと言って、類人猿があなたの親戚として名乗り出ることを認めるだろうか。ある日、類人猿があなたの家庭にやって来て、自分はあなたの兄弟だから、自分にも相続財産を分けろと言えば、それを認めるだろうか。

絶対に無理だろう。

ところが、ニューエイジは聖書のパクリだと強調することによって、キリストはニューエイジの元祖だと論旨をすり替え、キリスト教徒がニューエイジを受け入れることは罪ではないとする。

これは、全く性質の異なるものを混ぜ合わせようとするとんでもない論法であって、キリストを人間のレベルに引き下げることによって、彼から聖なる神の独り子としての性質を失わせてしまう、ペンテコステ運動にありがちな「養子論的キリスト論」と同じトリックである。

要するに、そのような教えを信じる人々は、自分たちが聖書の「まことの父」から生まれたと勝手に詐称しているだけで、実際には、そこには異なるDNA(異なる福音)がごちゃ混ぜにされており、彼らは誰から生まれたのか、誰が父なのかも分からず、結局、その教えは、父を持たない「みなし子の福音」なのである。

さらに、Dr.Lukeは、人類は地上に生きている限り、完全な贖いに達することはできず、従って、完全な聖化も有り得ず、すべての面で新創造とされることはない、という事実さえ見失っている。

スピリチュアル・ジャーニーは神との同意から始まる
2018-06-29 |  by drluke  ではこう書いている。

「私が最近強調しているニュー・クリーチャー、エロヒム属。アダムにある私たちはすでに終わり、キリストにある新創造とされた事実(2Cor 5:17;Gal 6:15)。これって、けっこう抵抗があるようだ。あるいはこの聖句を単なる文学的表現と思っているむきもかなりある。

いわく、自分のうちを見ると罪的なものや汚れているものばかり。それを無視して、新しい人類と言ってしまっていいのか? 私たちは罪ゆるされた単なる罪人にすぎない1)、だからへりくだって、自我が砕かれる必要があるし、もっと罪の告白やデボーションや修養により聖化される必要がある・・・。ところがそのような人はたいてい次から次へと問題を抱える。

大脳辺縁系の問題はもう繰り返さないが、真理は私が今現在どのような状態であるとかないとか、一切関係ない。神がキリストにあってそれをなされたゆえに私たちはすでに新創造、ピリオド。スピリチュアル・ジャーニー、すなわち神とともにスーパーナチュラルな歩みをするためには、まず神と同意する必要がある。問題を次々に抱える人は、実は真に神と同意してしないのだ。

ふたりの者が同意することなしに一緒に歩めるだろうか。-Amos 3:3

神は言われる、あなたはすでに聖であり完全である。新しい生命体であり、ニュークリーチャーであると。あなたはこれに同意するか?

サタンはすでに私たちに対して何らの権威も有していない。が、彼は私たちのマインドに接触できる(Eph 2:1-3;Col 2:20)。私たちのマインドに彼が語りかける偽りに同意するならば、彼のパワーが私たちに働くようになる。つまり自ら敵の権威の下に服することになるのだ。」

非常に危険なのは、Dr.Lukeがかねてより「魂と肉体の堕落」という聖書的事実を無視しながら話を進めている点である。

Dr.Lukeはここで、地上にある限り、私たちは堕落した魂と肉体を持ち、体が贖われない限り、地上において、完全な新創造とされることはない、という事実に言及していない。

Dr.Lukeはかねてよりボディビルで鍛え上げた自分の肉体を自慢するなど、肉体が堕落したものであって、そこに働くのが罪と死の法則であることを無視した教説を唱えて来た。

そしてついに、肉体の堕落(+魂の堕落)という事実を無視したまま、自分たちは新創造だと言い始めたのである。

これは、危険極まりない教えである。
 
パウロは言った。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則性があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんという惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ローマ7:18-25)

このように、罪と死の法則が絶えず働く堕落した肉体の中にありながら、命の御霊の法則に従って善をなそうとして生きる、パウロの言ったその葛藤が、Dr.Lukeの教説には、存在しないのである。

聖書は、肉(魂と肉体)が堕落していると言い、私たちは罪と死の法則に縛られながら、霊によって善をなそうとしてもがいている状態にあるという。

その葛藤に終止符を打つのは何か。肉に対して十字架の死が適用されることである。
  
聖書は言う、

肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ8:13)

これは、人の堕落した肉の領域には、十字架の霊的死が絶えず適用されなければ、人は肉に従って生き、すなわち、罪と死の法則に支配されることを免れられないことを意味する。

ところが、Dr.Lukeは、肉に対して十字架の死が適用される以外に、人が罪と死の法則に対して死ぬ方法がないという事実から目を背け、人が霊によって体の仕業を死に渡すのではなく、自らの「マインド」すなわち、思考パターンを変えることによって、魂の領域に働くサタンの脅威を排除できるかのごとく教える。

彼は上記の記事の中で、このように言う、「人は自分で自分を罪深いものだとみなして、くよくよ悩むから、実際にそうなるのであって、自分で自分の思いを変えて、自分はすでに新創造とされたと信ずれば、サタンの脅威に翻弄されることはない」と。
 
このような考えには、ある種のトリックがある。すでに幾度も書いて来た以上、私たちが新創造とされているのは、霊だけであって、魂と肉体は、この地上に生きている限り、新創造とはされず、逆に十字架の死に服さなければならない。

このように、魂と肉体は常に主と共なる十字架で死に渡されなければならないのに、「思考パターンを変える」ことによって、サタンの働きを排除できるとなれば、その霊的死の必要性は忘れ去られる。

そうした考えに陥ると、結局、サタンの攻撃というものは、人の外側から来るものでなく、内側に存在するものであって、人の考え方が悪いから、サタンの攻撃を受けるのだ、という結論に至り、サタンの罪が免罪される。
 
たとえば、肉体というものの堕落を認めない考え方に立つと、「病気になる人は、肉体の筋力が衰え、免疫低下が起きているから、病気に罹患するのであって、健全な肉体を持ちさえすれば、病気にかかることはない」などという考えが生まれる。

そうして、肉体を増強することで、病に打ち勝とうと、ボディビルに励んだりすることになる。しかし、どんなにボディビルに励んでも、人は病どころか、死を克服することもできず、どんなに鍛えた体も、滅びに向かって行くこととなり、そのようなやり方で、人間の肉体を永遠にまで高めようと試みるものは、逆説的に、自分で自分の肉体を滅ぼすという、三島由紀夫と同じ最期に行き着く。
 
そのような理論を、同じように魂の領域に当てはめた場合、魂そのものの堕落という事実は否定され、「人が悩んだり、苦しんだりして、精神の働きが低下したり、精神を病んだりするのは、魂(精神)の筋力が衰え、魂(精神)の免疫低下が起こるからだ。だから、マインドを鍛えれば、悩み苦しみは去る」などという理論が生まれる。

その結果、人々は、自分の「マインド」を何とかして改造し、弱みを取り除き、強い「マインド」を作れば、悩み苦しみは去って、幸福になれると考え、魂のボディビル(自己改造)にいそしむ。「マインド・セット」によって、心の筋力増強に取り組んで行くことになる。

だが、そのような考え方は、魂と肉体そのものが堕落しているがゆえに、すべての罪が生まれるのであって、これらの肉はどんなに改造しようと、良いものにはならず、死に渡される以外に結論はないという聖書的事実を否定している。

自分で自分の思考改造を行うことによって、悩み苦しみのない幸福に到達し、サタンの攻撃を免れられるなどというのは、真っ赤な嘘である。

それは「病気なんてない。病気があるのではなく、ただ人の体が弱くなった結果、病気に似た現象が起きるだけだ」と言うのにも似て、「サタンの攻撃なんかない。人の精神が弱くなるから、そういう状態が生まれるだけだ」と言っているに等しい。

サタンは、存在を隠すことによって、聖徒らからの攻撃を免れようとする。多くの人たちは考えている、「悪魔なんていない。そんなのは想像の産物だ。」と。

そのようして、悪魔は脅威ではないと思わせ、堕落した肉に働く罪と死の法則を軽視・無視することで、悪魔は逆に人々に対するステルス支配を行うことができる。

その足場を排除するためには、魂と肉体が堕落している事実を認め、それを十字架において死に渡し、体の仕業を絶つこと、自己を否むことから始めねばならないのに、罪による堕落を否定し、死に渡されなければならないものを改造することによって、あたかも悪しき働きから逃れられるかのように教えることは偽りである。
 
こうして、サタンの脅威を否定し、肉の堕落を否定し、サタンの働きを人があたかも自己努力によって克服・排除できるかのごとく教えることが、悪魔による支配の第一歩なのである。

それに対して、私たちが知らなければならないことは、「どんなに自己改造をしようとしても、人間の魂と肉体は堕落しており、人がこれを自分自身で改良することはできない」という聖書の事実であり、「これらのものは、十字架で絶えず死に渡されるしかない」という結論である。

だからこそ、人は自己を否み、自分の十字架を取って、イエスに従わなければならないのである。
 
  <続く>



「あなたがたに対して、神が抱いておられる熱い思いをわたしも抱いています。

なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです。ただ、エバが蛇の悪だくみで欺かれたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔からそれてしまうのではないかと心配しています。

なぜなら、あなたがたは、だれかがやって来てわたしたちが宣べ伝えたのとは異なったイエスを宣べ伝えても、あるいは、自分たちが受けたことのない違った霊や、受け入れたことのない違った福音を受けることになっても、よく我慢しているからです。」(コリントの信徒への手紙 二 11:2-4)


* * *
 
もういい加減にしてほしいものだ。

今国会での検察庁人事介入法案の強行採決を引っ込めたかと思うと、次はこう来た。

国民投票法改正案 自民・公明は今国会で成立の方針」(テレ朝NEWS 2020/05/19 16:31)

さらにこんなのもある。

マイナンバーと銀行口座紐付け…自民提言案」(テレ朝NEWS 2020年5月18日 23:14)

政府与党が、まだ憲法改正をあきらめていない執念に驚かされる。むしろ、一つの法案が反対により見送りになったのを機に、今度はもっと厳しいしめつけを行おうと、武器を取り変えようとしているのだ。

どこまで国民を蔑視・愚弄しているのだろうかと呆れる。緊急事態宣言が解除されれば、これまでのステイホームの抑圧の反動で、国民は10万円を片手に遊びほうけ、あるいは仕事でまたしても疲弊し、国会への注意など簡単に失うと考えているのだ。

国会を、これ以上、政治家が国民を脅して震え上がらせるための悪のまつりごとの場として利用させてはいけない。息を吐くように嘘をつく連中に、もうこれ以上、口を利かせてはいけない。

だが、もしかしたら、ここから先は、個人の選択により、各自の運命が分かれる時代になるかも知れない。

マイナンバーは超重要機密情報に当たるため、マイナンバーを記した書類には、政府・自治体・企業などに特別厳重な保管が義務づけられている。

そこで、現金給付の現場では、マイナンバーは活用されておらず、むしろ、無用の長物として扱われている実情があると言っても良い。マイナンバーを給付書類に記載しないよう呼びかけている自治体もあったくらいだ。

ただし、マイナンバーを利用してオンライン申請を行った人々については、その限りではない。記載した情報が、どこへやら記録され、長期に渡り、保管され、データベース化されて秘密裏に米国などに売り渡される可能性は大いにあるだろう。

新型コロナ マイナンバー、口座と一元管理案 自民、現金給付混乱受け

.  会員限定有料記事 毎日新聞2020年5月19日 東京朝刊 . . 
 
 自民党は18日、マイナンバー制度を活用した現金給付の新制度を政府に提言する方針を固めた。全国民に一律10万円を給付する「特別定額給付金」の給付手続きを担う市区町村が、申請者の個人情報をマイナンバーや10万円の振込先口座番号と一緒にデータベース化して把握し続けることを認める。行政が口座を把握することへの慎重論もあるが、新型コロナウイルスの感染拡大で今後追加的な現金給付を行う際、迅速に給付するためだと理解を求める。議員立法も視野に入れる。

自民党のマイナンバー活用プロジェクトチーム(PT、座長・新藤義孝元総務相)がとりまとめた。10万円給付の申請は、マイナンバーを活用した電子申請と、書面申請の2種類あるが、現状はマイナンバーと口座がひも付けられているのは、金融機関で口座を新規開設する際にひも付けを了承するなどした一部国民に限られる。このため市区町村にとっては、申請口座が本人のものかどうか金融機関に一件一件確認するなど膨大な事務作業をした上で給付する必要が生じ、給付の遅れを招いている。 (後略)

 

この記事は、新たな現金給付をエサにして、マイナンバーと銀行口座の紐づけを正当化しようとしているが、そんな給付金が配られる可能性は、ほとんどない。第二次補正予算案の中では、審議されていない。マイナンバー活用プロジェクトチームなる名称も、まことに不気味である。

バビロン経済の総仕上げの時期が来ようとしているのが感じられる。すなわち、国民を総奴隷化し、その資産を国(とそのバックについている世界的権力)が、とことん吸い上げ、巻き上げるためのシステムの構築準備が始まっているのだ。

当然ながら、オンライン申請など筆者はするつもりもないし、マイナンバーカード自体を取得していない。実際に、マイナンバーの使用が必要と言われているほとんどすべての手続きは、実際には、マイナンバーを使わなくても可能だと知っている。

使わないからと言って、生きられなくなることなど決してない。むしろ、それを受け入れるかどうかの選択は、個人に委ねられているのだ。

* * *

ところで、筆者が最後に所属していた職場は、ブラック化していたと言えるであろうし、これからますますブラック化の方向へ向かって行くだけであろうが、筆者が危機的状況にあると判断するような状態になるまでには、かなりの歳月を要した。

ちなみに、組織が異常な方向へ向かっていることに、筆者が明白に気づいたきっかけは、些細なことにあった。リーダーの外見である。

たまに現場にやって来る、善良で親切そうなリーダーと、いつものように挨拶した際のことであった。実に高潔そうで親切で美しく見える外見のその人の歯が、本物でないことに気づいた。

筆者はその当時、仕事が面白く、上司の人柄にも親近感を抱いていたため、職場をブラックだとは感じていなかったし、組織がそのような腐敗状況に落ち込んでいくとは思っていなかった。

それにも関わらず、ふと上司を見上げた際の発見を機に、すべての気づきが始まったのである。

いや、その組織が、初めから協調性を主張していたことを考えれば、逸脱へ落ち込んで行くことは明らかだったのだが、そのことは置いておく。

当ブログにおいて、筆者は三島由紀夫に関する一連のシリーズ記事を発表した。その中で、肉体改造を行うことの悪を強調して来た。

ボディビルなどの肉体改造を行う者は、ただ自己の外見を変えようとしているだけでなく、自己の本質を偽り、自分の弱さを否定して、自分をありもしない大物に見せかけようとしているのであるから、そのような願望の根底には、人が自力で神に至ろうとする聖書への反逆の精神が隠されている。

ところで、そのような罪深い自己否定としての肉体改造の中には、肉体の改造だけでなく、精神の改造も含まれる。

ここ10年くらいの間だろうか、マインドセットなる言葉が流行するようになった。ちょっと検索してみれば、ビル・ゲイツなどの億万長者や有名女優を看板にしながら、自己の精神を改造するよう説いている動画がたくさん見つかる。

それらの動画は、スポーツ選手や、格闘家などの肉体改造を手本に、これを精神の領域に応用し、人が幸福になるためには、マインドセット、すなわち、精神のボディビルが必要になると説く。

さらに、こうした動画で繰り返されるのは、「考えるよりも行動を優先せよ」、「失敗を恐れず、行動せよ」などというスローガンだ。

それは、鈴木大拙のような禅の指導者が、人は考えるよりも先にまず行動し、失敗して、それから反省する(=知が芽生える)と述べ、人間は、知性よりも行動を優先する生き物だと主張していたことに重なる。

グノーシス主義者は、知性よりも行動を重んじることで、エデンにおいて、人が神の掟に背いたことを正当化する。

マインドセットを主張する人々は、ボディビルの原則を精神に当てはめることで、人が己が肉体だけでなく精神の筋肉を鍛えることで、自分の人生を完全に幸福にできるだけでなく、全能の神の領域にまで達する超人(神―人)を作り出そうとしているのだと言えよう。

だが、肉体の改造であろうと、精神の改造であろうと、自己改造によって、成功を手にしようとする者たちは、すべて同じ目的を目指している。彼らは、知性(=神の御言葉)よりも行動(=堕落した欲望)を優先することによって、完全に至れると錯覚しているだけなのだ。

彼らが守り、強化しようとしているのは、滅びゆく人の肉体(精神も含む)、すなわち、旧創造であり、それは、聖書の神が罪に堕落したものとして、廃棄を決定されたものである。

廃棄が決定されている無価値なものを守り、さらに強化までしようとしているわけだから、この人々は、神の判決に逆らって、呪われたものを再建しようとしているのであって、滅びを免れない。

そのようにして、生まれながらの人間の自己の威信――滅びゆく旧創造の世界を守ろうとする者は、三島由紀夫が破滅して終わったように、みな同じ最期を迎えることになる。

自決した三島由紀夫と、地上のエルサレム神殿の威信を守ろうとしてマサダで自決したユダヤ教徒たちは、同じ理念でつながっている。彼らは、地上の神殿――すなわち、地上の幕屋としての生まれながらの人間の肉体を守ろうと、団結して神に逆らって自己の永遠なることを主張し、結果的に、地上の幕屋と共に滅んだのである。

三島がしようとしたのは、己が鍛えた肉体を永遠の領域にまで高めることであり、ユダヤ教徒たちがしようとしたのは、地上のエルサレム神殿を永遠に守ることであった。

だが、地上の滅びゆく命を永遠にまで高めようとする人々は、みな以下の通り、同じ末路を辿る。

「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10:39)

話を戻せば、ボディビルのみならず、整形などの外見を変える手術も、ボディビルと同じ、神への反逆と自己否定という呪われた目的を目指していると言える。

筆者は、上司の外見に疑いを持ってから、彼の10年以上前の過去の写真を探し出した。その古い写真に写っていたのは、何の取り立てて注意を引く要素もない、ごくありふれた凡庸な人間の姿で、そこには、何の高潔さも、知性のひらめきも感じられず、むしろ、ただ俗っぽい一人の人間がいるきりであった。

それと比べると、現在の写真は、まるで俳優のようであった。特に、他の人々と比べると、その差は歴然としていた。上司が確かに自分を変えていることに気づいてから、筆者は、その人の美しそうに見える外見は、どこまで改造された姿なのかと疑った。

筆者にとっては、病気でもないのに、人が肉体改造をすることの中には、恐ろしい危険が潜んでいる。ただ笑顔を美しく見せるためだけに、人工の歯を取りつけるとか、増毛するとか、頬骨を削るとかいったことは、非常に薄気味悪いことである。

さらに、そのようにして改造した自分の姿を他人に見せつけて自分を誇るのは、もっと恐るべき所業だ。
 
そうまでして自分を変えて、どんな成果が得られるというのだろう。真っ先に考えるのは、そのような「よそいきの姿」で、自分の家族とどう接するのかということだ。それで真実な関わりが築けるのだろうか。

だが、その上司は一見すると、禁欲的で、努力家で、無理をしてでも、他人に尽くすというタイプであったので、ただ単に、自己満足のためだけに外見を変えたというのではなく、それも、他人を喜ばせるための手段であったのに違いない。

だが、筆者の考えでは、そうまでして、他人からの評価や歓心を勝ち得ようとすること自体が罪なのであり、自分の自然なありようを犠牲にしてまで、他人の欲望を満たすために、自己を改造するという生き方は、全く不自然で、危険なものでしかなく、魅力的ではなかった。

ルシファーは、美しい外見を持っていた。その美は、彼が罪を犯すまでは、神の目から見ても、完璧であった。悪魔は今日も光の天使を装うことができ、あらゆる高潔さ、善良さ、親切さ、勤勉などの美徳を身にまとうことができる。

だが、それはすべて「見せかけ」に過ぎず、「フリだけ」の内実の伴わないものである。

上司は、口では、自分は大変な努力家であって、人一倍、粉骨砕身して、仕事に励んでいるかのように述べていたが、その一方で、日々、嫌悪を催す事件を扱う仕事は、すべて部下たちに任せて、面倒な人付き合いもしなくて済むよう、孤高のリーダーとして生きていた。

面倒な汚れ仕事は、みな他人に任せていればこそ、自分は最も栄光を受け、脚光を浴びる場所に立ち、親切で謙虚な善人としての役目を果たせたのである。

確かに、そういうタイプの人間は、自由を好み、他者が自由を希求することの意味も知っている。そこで、その人は、筆者にも、自由を与えるように見せることは巧みであった。人心掌握の方法に長けており、多くの人々がなかなか理解し得ない筆者の苦悩を受け止め、慰めと自由を与えるように巧みに見せかけることが出来た。

確かに、その点では、凡人以上の優れた力を持っていたと言える。
 
だが、その善良そうな態度や言葉は、すべて巧妙に他人の心を操縦し、望んでいる労働の成果を引き出すためのマインドコントロールの手段でしかなかった。そのため、ひとたび、彼の配下にある人々が、もはや彼の期待に応えなくなり、労働の成果を惜しみなく提供することをやめると、早速、容赦なく、手のひらを返すのである。

それによって、彼が親切そうに振る舞っていたのも、美しい外見や、人当たりの良い態度も、すべては配下の人間を搾取するため、労働の成果を最大限に引き出すためのマインドコントロールでしかないことが分かった。
 
労働を収奪できなくなると、まるで禁断症状に陥った麻薬患者のように、望んでいるものを他人から奪い取るために、懲罰的な行動に出て、威圧したりしないわけにいかなくなる。(しかも、そのような仕事は、リーダーではなく部下が行う。)

ブラックバイトなどでは、離職しようとする労働者に、職場が罰を加えたり、損害賠償請求をちらつかせたりすると聞いてはいたが、筆者は、目の前でそうした光景を見るまでは、そんな事態を目撃したこともなかったために、どこかしら半信半疑であった。

それも、人として当然許される限度の遅刻早退欠勤までも対象に、少しでも労働を出し惜しみする態度が従業員に見られると、早速、労働者に懲罰を加え、不合理な業務を課したりして、そこから逃げだすことさえ禁じるのである。

そのように、親切で善良な外見と、残酷な本質が表裏一体となっているのを見つつも、筆者は、心の中で青髭を思い出した。

筆者の思い描く青髭は、ゾンビのように青ざめた姿で、その歯は、人間の歯の形をしておらず、牙である。

リーダーがなぜ人工的な歯を着けているのか知らないが、あなたは本当は人をかみ砕く牙を持っていることを隠そうとして、そうしたのではないかと、思わず問い正したくなった。

* * *

協調性とは、何度も書いて来たように、自他の区別を曖昧にしていき、他人の持っている優れた資質を、あたかも自分のもののように横領し、都合よく盗み取ることを正当化するために使われる魔法の言葉である。

古くは和の精神、グノーシス主義のウロボロスの輪と同じで、それは「世界は一つ、人類はみな兄弟」という理念に基づいている。

そういうスローガンを掲げているところでは、低い給与で、最大限、人を働かせ、真面目な人間の労働の成果を、不真面目な人間の怠慢を覆い隠すために、かすめ取ることが正当化される。

(ただ断っておくと、これは筆者が考えられないような低い給与で搾取されていたという意味ではない。そういう従業員もいたが、筆者自身は不当な契約を結んだわけではない。筆者を取り巻く環境が変質するまでには、それなりの時間を要した。)
 
そのような場所では、チームワークの大切さが強調される。だが、そこで言うチームワークとは、愚かで怠惰な人間の無為と無責任を、他の賢く善良な人々が肩代わりするための都合の良い連帯責任の仕組みだ。

一体、ハイエナと羊との間に、どんなチームワークが生まれるというのか。

だから、給与体系をよく調べてみれば良い。そういうところでは、正社員の給与や、求められる学歴の水準が、職務の内容に比較して、極端に低かったりする。

リーダーは高い知性を持っていなければつとまらない仕事をしているはずなのに、正社員に必要とされる学歴が、高卒以上だったりする。

一定の知的水準の人間が相当数いないと、職場は成長しないものだ。しかし、リーダーや幹部が、あまりにも無能で幼稚な人間で占められている場合には、もしくは、知識は自分たちだけが独占していれば良いと考えている場合には、彼らは、自分の知的水準に見合った人間しか雇わないため、無学な人々ばかりで周りを固める。

そういう仕事は、門戸が低く入りやすいので、結果的に、無能で愚かな人々がたくさん集まって来る。誰でも無差別に受け入れるので、やがて卑劣漢ばかりで占められるようになり、その分だけ、余計に、職場環境が悪化する。

そういう職場では、悪者が数の力で結託し、誠実な人間を陥れ、不実な人間が、正しい人間を犠牲にして出世する。このようにして、職場は絶えず下へ下へと落ちていくだけで、上昇することはない。

リーダーに知恵がないからこそ、自分で一からビジネスを起こそうとはせず、争いが起きても、人間関係を是正することもなく、かえって物事の真相を鋭く見抜く人間を脇へ追いやりながら、イエスマンで周りを固め、権力や知名度にすがって、出来合いのパッケージに頼ろうと、手っ取り早く下請け事業を選んだり、すべてを現場任せにしたりして、不都合な出来事の全てから手を引くのだ。

その結果、より自由な発想が圧殺されて、従業員が歯車化され、従業員同士が監視し合ったり、足を引っ張り合ったりするのだが、そのように個人を押しつぶして歯車化したことを正当化するために、「協調性」やら「協力」の美名を持ち出して、「個人の利益ではなく、会社全体の利益のために貢献せよ」などと言って、従業員に未来も与えず、個人に限界を無視したノルマを課したりする。

年々、労働市場の悪化を見て来た筆者だが、ついに最後の組織まで、そういう現象に見舞われたのを見て、もはや、労働そのものが懲罰に等しいものとなっているから、バビロン経済からは脱却しなければならないと痛感した。

日本型雇用を改善するなど、もはや手遅れであり、人間性を捨てて、搾取されるために働くこと自体が、悪なのだと思わずにいられなかった。

* * *

グローバル化と協調性は同じ概念であり、そこでは個の区別を曖昧にすることにより、強者による弱者への盗みと従属(奴隷化)が正当化される。それを「共生」とか「協力」とかいった美名で隠そうとするのは罪深いことであり、それは盗みの言い換えでしかない。

豊かな天然資源を持っていた国が、グローバル化で貧しい債務国に転落する。安倍政権下で国民の貯蓄ゼロ世帯が急増した。これらはみな「和=協調性」を要求しながら、弱肉強食の原理を押し進めた市場原理主義の下で、本来は豊かな資産や資質を持っていたはずの国民(個人)が、その強みを発揮できず、巨大企業や政治権力の歯車とされて自分を吸い取られ、ついに自給自足が成り立たなくなり、独立性を失ったものである。

人類みな兄弟とか、グローバリゼーションとか、「和」とか「協調性」とかいった美名の下、弱者が強者のわがままのためにとことん搾取され、全体に従属する歯車と化して、個としての力を失い、貧困化してきたのである。貧困化したからこそ、より一層、全体にすがってしか生きられなくなり、ついに奴隷として我が身を売る直前まで来たのである。

かくて、そのような「全体への隷属状態」から脱するには、ベクトルを逆向きにするしかない。すなわち、全体に仕えるための個人としての生き方ではなく、全体と切り離され、全体からの自由を取り戻したところでの個人(もしくは、全体が個に仕えるという構図の中の個人)に戻るしかない。

安息日のために人があるのではなく、人のために安息日があるのと同様に、組織のために人があるのではなく、人のために組織がある。

その本来の秩序が取り戻されて、自由が回復されねばならない。

狼やハイエナの集団の中で、羊が生き永らえることはできないのだから、そういう割に合わない曲芸のような「チームプレー」をやめて、羊は羊のための安全な囲いに戻って、狼の集団とは離れて生きるしかない。

さらに、仕事は「一夫一婦制」にするしかない。

もしも正社員を「正妻」にたとえるならば、派遣社員、期間業務職員、契約社員などの非正規雇用は、すべて「愛人」であると言える。「愛人」だらけの職場とは、非正規雇用ばかりで、ハーレム化した職場のことであるが、もともと不当な待遇に置かれている人々が集まっていればこそ、そういう場所では鬱憤が溜まり、争いが絶えない。しかも、「愛人」の方が、「正妻」よりも待遇が良かったりもするから、理不尽極まりない。

いつまでもそういう場所に身を置いていても、健全な生き方はできまい。

筆者は決して他人と同じことをして生きたくないし、誰とも競いたくない。まして、怠惰な人間の無為を肩代わりするために、貴重な人生の時間と労力を浪費するつもりはない。

それをケチだとか、非協力的だとか言う人もいるかも知れないが、狼とハイエナの集団からチームプレーを要求される筋合いはない。

筆者はキリスト教徒なので、最高の花婿を待っている純潔の花嫁であるから、それにも関わらず、「愛人たち」のハーレムに身を置かねばならない理由はないだろう。

神はキリストをご覧になるように、筆者をご覧になって、「完全になりなさい」と言われる。

私たちは完全を目指して生きるべきであって、それにも関わらず、初めから自分をディスカウントして、中途半端な待遇を自ら選び、心の中では憎み合い、殺意さえ抱いているかも知れない他の「愛人たち」と共に、ハレームに閉じ込められて、残酷な主人の到来を待ちわび、ライバルたちの殺意に戦々恐々と、彼らのご機嫌伺をしながら生きねばならない理由がない。

一体なぜ、自分を貶め、出し抜こうとするだけの人々と「協力」したり、愛想を振りまくことなどできようか。

筆者にとって、仕える相手は一人でなくてはならず、その相手にとっても、筆者が唯一無二の存在でなくてはならない。神と人との関係と、人と人との関係は、基本的に同じであり、さらに、仕事との関係も同じである。

筆者にとって、大切なすべてのものとの関係は、「一夫一婦制」でなくてはならず、筆者にとっての天職も、ただ一つであり、それは他の人々と分かち合えるものでない。
 
その関係においては、誰も間に入ってはいけないし、競争者はいてはならず、厳かな「一婦一夫制」の原則が守られねばならない。

「狭き門」は、自分一人しかくぐれない門である。そこでは、他の人々も連れて行くことはできないし、余計な荷物もあってはならない。しかも、自分一人さえ、死を経由しなければくぐれないのだ。

だが、筆者は、その道を一人で行きたい。その門とは、キリストのことである。

救いは、個人的なものであり、チームプレーの救いなど絶対にあり得ない。

教会の日曜礼拝に、家族全員で通っていれば、救われるということが決してないのと同様、他の社員たちと一緒に手を取り合って、毎日、会社にお参りを続けていれば、安定した人生を送れるということも決してない。

牧師の説教をどんなに聞き続けても、救いには到達せず、会社の代表の言うことをどんなに熱心に聞いても、それによって豊かな人生が保障されることもない。

むしろ、そうした偽りの「救い」の欺瞞性は、これからますます明らかになるだろう。

不信者と釣り合わないくびきを共に背負ってはならない、と聖書は言う。広き門から入れば、その先に待ち受けているのは、滅びだけである。

「釣り合わないくびき」とは、堕落した人類の罪という、途方もない債務を返済するための連帯責任のことを指す。
 
従って、「不信者とのチームプレー」に同意すれば、返済不可能な債務を不信者と一緒に背負わされることになるだけである。

そういう釣り合わないくびきを捨てて、個人的な信仰によって、ただ一人の主人だけに従い抜く道を選ぶ者は幸いである。



「イエスは、たとえで彼らに話し始められた。

「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫た
ちに貸して旅に出た。

収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。

だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう。』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』

そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。

さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。

聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。
家を建てる者の捨てた石、
 これが隅の親石となった。
 これは、主がなさったことで、
 わたしたちの目には不思議に見える。」』

彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。」(マルコによる福音書12:1-12)


* *  *

筆者はこれまでに、弱肉強食の誤った理念に導かれる組織が、疑心暗鬼に陥り、同士討ちを始めては、崩壊に至る瞬間を、幾度も見て来た。それは宗教団体だったこともあれば、企業などのこの世の団体だったこともある。

その崩壊は、いずれも筆者が組織を出る前後に起きた。そこで筆者はそういう崩壊現象は、すべてバビロンの崩壊現象の繰り返しであったと見ている。

僭越な表現と思われるかも知れないが、筆者は自分がある組織にとどまれるかどうかは、その組織の正常性を示すバロメーターであると考えている。筆者を受け入れることのできない組織に、もともと希望はないし、筆者を受け入れた組織でも、筆者がそこにいられなくなれば、崩壊は近い。

信じない人は信じないであろうが、この見方はこれまで十中八九、ほとんどの組織において裏づけられて来た。

ある宗教団体で、ありもしない濡れ衣を着せられて追い出されたことがあった。筆者は、その組織が、聖書の教えから逸れて、危機的な状態にあることが分かっていたので、リーダーに幾度も態度を改めるよう警告したが、リーダーは高慢さのゆえにこれを聞かなかった。

組織のナンバー2が、リーダーに取り入り、リーダーがますます筆者の言うことに耳を傾けなくなるように、筆者に敵意を持つように仕向けた。そして、リーダーに向かって、筆者を裏切り者として放逐するよう要求した。

リーダーは、筆者の忠告をのらりくらりと交わしながら、筆者を都合よく利用していたが、いよいよこれ以上、筆者を騙しおおせないと分かり、自分の自堕落な生き方が明るみに出される前に、筆者を追放することに決めた。

そこで、リーダーは、ナンバー2にこの汚れ仕事をさせようと、ナンバー2と共に筆者を呼び出し、高飛車な態度で筆者を断罪し、一方的な非難の言葉を浴びせ、二度と会堂には入らせないと言って、筆者を放逐したのである。

リーダーは暗い夜の道で、筆者を憐れむかのような目つきで、うわべだけの同情的な別れの言葉を告げて、複数名で、肩をそびやかして去って行った。

彼らは、聖なる会堂から、汚物を清掃した、という風に考えていたに違いない。

その時、筆者は黙って彼らに反論せず、高飛車な態度を取られても、それに抵抗しなかった。だが、心の中では、彼らが間違っていること、それゆえ、それが永久的な別れになること、聖なる会堂は、彼らのものではなく、むしろ、彼らはそれを横領した者たちであって、筆者を会堂から追い出したことで、彼らは神聖を失い、それゆえ、彼らはこの先、会堂を維持することはできなくなり、会堂は彼らから取り上げられると分かっていた。

なぜなら、筆者を連れて来て彼らに接触することを許されたのは神だからである。

それから約1年ほどで、実際に冒頭に挙げたぶどう園のたとえの通りのことが起きた。

筆者を団体から放逐した後、リーダーもナンバー2に裏切られて団体の外に放逐され、次にナンバー2も団体を放棄して逃げ、実際に会堂は失われた。

筆者の予感の通りになった。それでも、エリコを再建するように、リーダーは組織を再建しようとしたが、その組織も、手足を失って身動きも取れなくなった寝たきり患者のように、衰退へ向かっているきりだ。

真実は、彼らの側にはなく、筆者の真心からの忠告に耳を背けた時点で、彼らの敗退は決まっていた。

彼らが最も大切にしたのは、自分たちが仲間であると確認して安心できる「ムラ社会の掟」だった。すなわち、彼らが団体を築いたのは、自己保存のためであって、聖書の御言葉に沿った正しい生き方をするためではなかった。

筆者が真心からの忠告をしても、彼らにはそれが「ムラ社会の掟」を破り、彼らの「お友達ごっこ」に水を差すものにしか感じられなかったため、彼らは筆者を退けることで、「ムラ社会」を永遠に維持しようとしたのである。

だが、その「ムラ社会」では、もともと信頼関係が成立していなかったので、人間関係を維持できる基礎がなかった。筆者を共通の敵としているうちは、何がしかの連帯があるかのように思えたかも知れないが、それもほんの束の間であり、筆者がいなくなると、今度は、別な誰かを敵視するしかなくなった。

今度はリーダーが共通の敵とみなされて排斥され、その後、敵とする者がいなくなると、組織は目的を失って瓦解し、ナンバー2も逃亡してすべてを放棄したのである。

組織を支えるには、理念が必要である。欲望に基づく利己主義、自己保存願望では、個人生活は送れても、団体生活はできない。利己主義だけがすべてで、搾取や、騙し合いが横行している団体は、衰退するしかなく、脅しや、罰によって他人を引き留めておけるのには、限界がある。
 
かくて、掟を破った者を村八分にして制裁を加えることで、連帯が保たれているかのように錯覚する「ムラ社会」の人間関係とは、もともと信頼に基づかないイリュージョンであるため、その事実が明るみに出されれば、ムラ社会そのものが崩壊する。

直近の事例でも、似たようなことが起きた。

初めは意気揚々と新たな事業に船出した組織が、時を負うごとに、メンバーを搾取するようになった。不平等な格差が生まれ、搾取から抜け出せる見込みもなかった。

そのことを指摘されると、組織は事実から目を背けて自己正当化に励み、どんどん疑心暗鬼に陥り、ついに崩壊が始まったのである。

そこでは、もともと働く人の成果に便乗して、無為を覆い隠したり、他人の夢を奪っては我が物としたりする、怠慢で無責任で不誠実な人々だけが、大きな顔をして幅を利かせていた。

誠実な働き者は隅に追いやられ、悪党が大言壮語し、尊大な態度を取っては、自慢話を繰り返していた。強い者が、弱い者を押しのけながら、自分たちの仕事は、半永久的に続くから安泰だと豪語していた。

そういう光景を見つつ、筆者は絶対にそんなことはあり得ないと心の中で考えていた。

聖書の次の御言葉が思い出された。

「よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。

むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。人がなすべき善を知りながら、それを行なわないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブの手紙4:13-16)

ある事業が半永久的に続いて行くかどうかは、神の許しなしに、人が決められることではない。まだすべてが始まったばかりの段階にも関わらず、謙虚に評価を勝ち得ようとして働くどころか、自分たちの安泰は永遠だと自己安堵し、互いに優秀なライバルを押しのけ合うための競争ばかりに明け暮れている人々を見て、筆者はその高慢さを、恐ろしいと思った。

彼らの高慢さは、実際に、目に余るものがあった。施設外に出ても、自分たちはこの世の春を謳歌しているとばかりに、当たり構わず、大声で内輪の話を続け、自分たちの施設でないものを指して、これは自分たち専用の場所だと豪語していた。

何を言うにも、彼らの一言一言は、自分たちが世界の中心であることを誇示し、他者に君臨するためだけのようであった。

その高慢さがあまりにもひどかったため、ある時期から、筆者は彼らの高慢な意見に同意せず、自慢話に頷くことをやめた。当然ながら、彼らは筆者を疎んじたが、同時に、筆者の警告によって、自分たちの本質が明らかにされることを恐れた。
 
それを機に、それまで前進しているように見えた組織が、疑心暗鬼になって、自分を隠すようになり、立ち止まり、後退さえし始めたのである。

しかし、そこでは、かつて宗教団体で遭遇したのとは少し違った出来事が展開した。

組織のメンバーらは、徒党を組んで、筆者に濡れ衣を着せようと押し迫ったが、筆者はこれを退けて、そこを脱出することに成功した。

さらに、トップは、ナンバー2以下を無条件に信用してはいなかった。そこで、トップは自らその団体を放棄するがごとくに、そこに近寄らず、自ら裁いたり、君臨しようとはしなかっただけでなく、筆者の脱出を機に、主要なメンバーをみな外に撤退させた。

そして、ナンバー2以下、最も高慢で自信過剰な人々だけが、そこに取り残されたのである。彼らは、「自分たちは勝った! ぶどう園は俺たちのものになった! 俺たちにはできる!」と考えているのかも知れないが、トップに見捨てられ、主要メンバーに見捨てられ、正しい忠告をしてくれた人間を排斥した彼らが、この先、正常なものを生み出すことは、絶対にない。

他人の働きを盗むことしかできない彼らには、もともと何も恒久的なものは生み出せない。さらに疑心暗鬼になって閉鎖的になった集団が、外へ向かって成果を流し出すことはない。

そこで必然的に、中核となる人間を失った組織は、メルトダウンして行くことになる。

そのことを、筆者だけでなく、トップさえも予め察知していたために、徐々に手を引いて行ったではないかと思われた。つまり、この組織のトップは、かつて筆者がいた宗教団体のリーダーほどまでに、愚かではなかったのだ。

多くの人々は、筆者に組織を拡大するような力はないと考えているかも知れない。筆者の見かけは、あまりに平凡で弱々しいため、筆者が組織の要となる役目を果たしているなど、誰も信じはしない。

だが、筆者は、組織は目に見えるものによって成り立っているのではなく、見えない理念によって支えられ、成り立っていることが分かっているので、理念の部分が腐ると、組織は土台から崩壊することが分かっている。

筆者は、理念の人として、これまで幾多の組織に、風船のように命の息吹を吹き込んでは、これを支え、膨らませて来た。

だが、筆者がどんなに命の息を吹き込んでも、筆者がそこから排斥されるなら、その組織の理念は、イリュージョンと化し、破裂した風船のように消滅する。なぜなら、筆者以上のリアリティを持ってその理念を膨らませる人間はまずいないからである。

誰か他人が筆者のアイディアだけを奪い取って、プロジェクトを存続させて行くことはできない。他人から奪い取ったものは、どこまで行っても、我が物とはならない。

全く次元が異なる出来事とはいえ、同じようなことは、政府が進めた日露交流政策にも当てはまった。

2012年から2013年にかけての頃、筆者は日露の国交正常化、平和条約の締結、ビジネスにおける協力などを推進すべしという立場から、盛んにこれを周囲に触れ回っていた。現地の友人たちと共に、こうした構想がまもなく実現し、近いうちに、政府レベルで、長年、両国の友好の妨げとなって来た領土問題の解決と、平和条約の締結が行われるだろうと話し合っていたのである。

我が国の世論では、中露に対する反感は未だに根強いものがあるため、その構想に真剣に耳を傾ける者はあまりいなかったが、そうした構想を、役人たちが聞きつけることのできる場所で、筆者は語る機会があった。

それから間もなく、筆者のアイディアを奪い取るかのごとく、安倍政権が盛んに日露の友好やら、国交正常化やら、領土返還やら、シベリア共同開発やらを叫び始めた。

だが、それは安倍政権が、専門家の意見を重視して推し進めた計画ではなく、ただ首相が外交的な手柄を我が物としたいがために、また、シベリア開発利権によってお友達企業を富ませたいがために、専門家を蚊帳の外に置いて、ごり押しして進めたプロジェクトであった。

それゆえ、日露首脳会談は何度重ねられても、「フリだけ」のパフォーマンスに終わり、領土が返還されるという国民の期待は、詐欺同然に裏切られ、もちろん、平和条約の締結などという話は、年々、絶望的となり、むしろ、領土返還を目的として近づかれることを警戒したロシアは、より頑なに返還を拒むだけでなく、北方領土に軍事施設を建設するなどして、口先だけの友好の言葉とは裏腹に、以前よりもさらに敵対的な態度を強化した。

筆者はまだ安倍首相がしきりにプーチン氏との友好をアピールし、メディアが領土返還の期待を煽り立てていた頃に、前言を翻し、領土返還や平和条約の締結などはあり得ないこと、ロシアとの友好関係は、それ自体が幻想であって、むしろ有害なため、我が国の目指すべき目標ではなく、日露友好のプロジェクトは必ず頓挫するだろうと予告する一連の記事を書いた。

そして、実際にその通りとなっている。

筆者は安倍氏とは何のつながりもないが、自分のアイディアを他人に都合よく持ち去られるがごとくに、さんざんうわべだけのパフォーマンスを見せつけられ、勝ち誇られたことを機に、日露友好というプロジェクト自体が、本当に正しいものだったのかどうかを再検証した。

これまで、この分野の専門家は誰一人、目立った成果を上げることもなく、脚光を浴びることもなく、貧しい道を地道に歩んで来たのである。それにも関わらず、安倍氏一人が、ろくな成功もないのに、パフォーマンスだけで脚光を浴びて、まるでその道の専門家のように振る舞っている現状は何なのか。

だが、他人に奪われるようなアイディアは、もともと確かな価値でなかった可能性が高い。筆者のような人間がその実現を信じていた間は、他者から見ても、それがあたかも実現可能で、価値があるかのように見えていただけである。

しかし、日露関係については、専門家でさえ、長い間、足踏みすることしかできなかったのである。日露ビジネスとなると、さらに悲惨で、これは極めて薄利な分野であるため、中小零細企業が参入しても、ブラック化していくだけである。

大企業が参入して成功した例は、大規模エネルギープラント開発くらいしかない。

シベリアの強制収容所で死亡した日本人の遺骨の回収という厚労省の戦後処理も、嘘とデタラメばかりで何一つ前進しておらず、ロシアはこの問題について日本に謝罪したことがない。

このように、戦後70年間、我が国のすべての人々が取り組んで何の成果もなかったのが、日露関係なのである。

それをもともと外交の専門家でもない安倍氏が、戦後の歴史を打ち破って、突如、両国の関係を正常化するなどということが、できるはずもない。シベリアにおける負の歴史の清算も終わっていないうちから、我が国がシベリア領土開発に乗り出すなど、愚の骨頂である。

この問題については、ロシアの側にも何らかの政治的責任を追及せねばならない。それもないうちに、かつての悪夢を再現するかのように、よりによって、我が国が自分の方から、永久凍土の不毛の地を開発してさしあげようなどと言い出すなど、正気の沙汰ではない。

かの国も、そのことはよく分かっている。ロシアにも、領土を返す気はさらさらなく、開発という名で、我が国に進出されることに警戒感を持っている。それにも関わらず、両国が接近するのは、友好関係をエサにして、互いから最大限のものを奪い取りたいという腹づもりがあるからに他ならない。そこにあるのは、キツネとタヌキの騙し合いだけで、そんな関係から正常なものが生まれて来ることは絶対にない。

かの国は、我が国よりも、数段、したたかであるため、そんな取り組みを本気ですれば、我が国が負けて終わるだけなのは、目に見えている。

柔道で黒帯を持つ他国の相手に、白帯さえ持っていない我が国の人間が挑むという構図そのものが、笑い話でしかない。プライドがあるなら、そんなみっともない取り組みはやめて、自分が上手に出られる土俵を探すべきである。

このように、狼とハイエナが平和に共存するというプロジェクトは、あるべきではなく、そんな目標を掲げること自体が、馬鹿げているのだ。

友好関係を結べるのは、信頼できる相手だけであって、互いに騙し合い、利用し合うことしか考えていない者同士の間に、友好など成立するはずがない。

ロシアという国は、過去、ソ連時代に不可侵条約を一方的に破ってポーランドに侵攻しているし、我が国も日ソ中立宣言を破って侵攻されたのであり、そういう過去を持つ相手と平和条約を締結することが、どれほど危険な行為であるかは、考えれば分かるはずだ。

それにも関わらず、そういう相手に自ら近づいて行こうとするのは、そうする人間の側にも、それなりの魂胆があるためである。

つまり、安倍氏は、政治的パフォーマンスによって、自分の手柄が欲しいために、日露間で政治問題が解決するかのような期待を国民に持たせているだけなのであり、それが実現可能なプロジェクトなのかどうか、また、実現したとしても、それが我が国にとって真に有益なのかどうかなどという問題は、どうでも良いのである。
 
さらに、あわよくばという思いで、ロシアからの領土返還に期待をかけているに過ぎない。そしてその魂胆は相手方に見透かされている。
 
このように、かの国がかの国ならば、我が国も我が国なのであり、双方から、国民の利益など売り渡してでも良いから、自分たちの権力と栄光を強化することこそ、最優先しようとする政治的リーダーが、むなしい会談を重ね、それを見抜けず着いていく国民の後進性が響き合って、以上のような見込みのない交渉がまことしやかに続けられて来たに過ぎない。

このことは、日露関係を語るために持ち出したわけではない。

不誠実で、利己的で、高慢な生き方を貫き、他人の真面目な労働の成果をかすめ取ったり、他人の優れたアイディアを盗んでは、自分の手柄に変えようとする厚かましい人たちとの共存などあり得ないということを言いたいのだ。

そういう人間で占められている組織は、ハイエナの群れのようなものだから、そこに羊を投げ込めば、何が起きるかは自明の理である。

「協調性」とか「友好」などといった見せかけのスローガンを用いて、狼と羊の共存を謳う団体には要注意である。

筆者は羊である。そして、聖書は羊を食い物にする狼に警戒しなさいと言う。

筆者のアイディアも、能力も、ハイエナの利益となるために存在しているわけではないのだから、筆者は自分自身を守らねばならない。
 
ところで、直近の組織について言えば、これもまた誰も信じないかも知れないが、それはもともと、筆者が信仰によって呼び出して来たものであった。

2年ほど前、その組織は、その場所に存在しておらず、プロジェクトもまだ存在していなかった。だが、その当時、筆者はその付近を毎日のように通り、その場所を窓の上から見下ろして、道を行きかう人々を眺め、その場所で働くことを考えていた。

筆者は、その組織は、神が筆者の慰めのために与えて下さったぶどう園だと思っている。筆者の知っていた裁判官によく似たトップが筆者に目を留めたのも、筆者の心の願いに沿ったことであった。

ところが、そのぶどう園は、利己主義者によって横領されてしまった。筆者の働きの成果も、怠け者の悪党どもが、横柄にかすめ取って行った。

彼らは筆者を農園の外に追い出して、すべての成果を独り占めしようとした。そして、そうなったことを機に、筆者は、法曹界の人間であろうと、他の誰であろうと、地上のいかなる組織であろうと、以前にもまして、より一層、頼りにしなくなった。肉なる腕を頼りにするほど愚かなことはない。

筆者を助けることができるのは、ただ見えない神のみである。
 
そこで、かつての宗教団体にしたのと同じように、筆者は神に向かってこう述べた、「主よ、このぶどう園は、もはや正しい役目を果たさなくなりました。よって、不要な枝となりました。これはもはや私の心にかなわず、私の必要をもかえりみてもいません。あなたの栄光とも、何の関係もない場所となりました。正しい人を罪に定め、弱い者を虐げ、不法を行っています。これ以上、このようなものが、地上に存続する意味はないと私は考えていますので、あなたがこれを地上に呼び出される前の状態に、すべてがもとの通りになることを願います。」

なぜか、組織のリーダー自身が、筆者と同じように考えているように感じられた。その人は、ものの考え方が、筆者にとてもよく似たところがあり、目に見える地上の組織を維持し、そこで権力をふるうことに固執していなかった。

かつて宗教団体のリーダーは、自分が組織に残るために、筆者に濡れ衣を着せて放逐し、生意気な筆者を放逐してやったとばかりに快哉を叫び、あくまでその団体を手放すまいと固執したが、今度のリーダーは、筆者が組織から脱出すると、自分もそこから手を引いた。さらに、人々がどんなに筆者に濡れ衣を着せることを望んでも、その計画をあきらめ、筆者を解放した。

少なくとも、そのリーダーは僕に去られて快哉を叫ぶほどまでに、幼稚ではなく、愚かでもなかったし、人間の自由の価値を知っていたと見られる。

その自由の希求が、筆者とその人とでは非常に似通っていた点であった。地上のすべての目に見える価値よりも、自分の心の自由を優先する生き方である。
 
おそらく、その人は、筆者とは全く異なる見地から、「破壊と創造」を司るために、この組織を助けようともせず、なるように任せたのではないかと思われる。

すなわち、グノーシス主義の世界では、栄枯盛衰、所行無常の原則があるきりなのだ。キリスト教とは全く異なる見地からであるとはいえ、グノーシス主義者も、目に見えるものにしがみついても、それはすべて永遠ではないことを知っている。

だからこそ、そのリーダーは、目に見えるものなど、何度、滅びようとも構わないという見地から、筆者とは全く異なる観点ではあるが、地上の争いも含め、滅びゆくすべてのものを、上から超然と眺めていたのではないかと思う。

だが、それもまたどこかしら恐ろしい光景であった。
 
筆者は、目に見えるものが何度滅びようと、滅びない命を受け取ってもらいたいと願った。そのためにこそ、様々な団体を通過して来たし、必要な警告を発して来たのである。

だが、その忠告を人々がかえりみないならば、筆者にはどうすることもできない。

筆者が屋根を支えていたので、建物は倒壊を免れていたが、筆者がそこを出れば、この先、すべては夢の跡となるだろう。ぶどう園を横領した者たちが、どんなに「自分たちにはできる!」と叫び、永遠に到達するために塔を建て上げようとしても、すべては水泡に帰する。

先の記事で書いた通り、「安心」を基軸に結ばれた人間関係は、その「安心」を脅かされる状況になると、逆説的に、疑心暗鬼に陥り、意思疎通ができなくなり、滅びていくという特徴があるのだ。

そこで、神ご自身が、彼らにはできない、と言われるだろう。彼らは慢心した人々で、自分たちの力で何でもできると思い、いかなる忠告も不要であると考えて、耳を背けているが、幻想に過ぎないもののために、どんなに努力を続けても、それには彼らを生かす力がないどころか、ますます破滅へ近付けるだけだ。

「フリだけ」のパフォーマンスは、ほんの一瞬しか持たない。自己保存のために打ち立てられた地上の団結が向かう先は、マサダの自決、それしかあり得ない。欲望に生き、利己主義を貫くだけの人々が向かう先は滅びであって、彼らが永遠に至り着くことは絶対にない。そのやり方では命を保てず、繁栄もない。
 
筆者は、聖書の原則に従うのみだ。

あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。

わたしたちは生ける神の神殿なのです。神がこう言われているとおりです。

「『わたしたちは彼らの間に住み、巡り歩く。
 そして、彼らの神となり、
 彼らはわたしの民となる。
 だから、あの者どもの中から出て行き、
 遠ざかるように』と主は仰せになる。
 『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。
 そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
 父となり、
 あなたがたはわたしの息子、娘となる。
 全能の主はこう仰せられる。」(コリントの信徒への手紙 二 6:14-18)

さて、日露間の平和条約締結交渉では、我が国はロシアから、在日米軍がロシアにとって脅威にならないよう約束する文書の提出を求められているらしい。だが、その一方で、ロシアでは、憲法改正へ向けての検討の過程で、領土割譲の禁止を憲法に盛り込むことに前向きだという。

まさにカツアゲである。ロシアが日本に領土を返還することは決してない。実現することのない期待と引き換えに、どこまで我が国を譲歩させられるか、試しているだけなのだ。自国の領土の拡大という愚かしい期待を抱いて、不誠実な交渉に前のめりになるならば、最後に行き着く先は、我が国の消滅である。



「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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