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4.原罪の否定

サンダー・シングがサタンの悪は永久不変ではないと主張することにより、サタンを名誉回復させようとしていることはすでに述べましたが、これと同じ論理を彼は人間にもあてはめ、サタンの罪ばかりか、人間の原罪も否定します。「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」という彼の主張を読めば、彼が人間も生まれながらにして悪であるはずがないと考えていることは明白です。サンダー・シングが人の原罪を認めていないことは、次の文章にはっきりと表われています。

「火打ち石の中に火があるように、人の心の中にも神と交わることへの憧れがある。このような願いは罪と無知という硬い火打石の下に隠れているかもしれないが、神の人と近づきになり、あるいは神の聖霊に触れられるときに、ちょうど火打ち石が鉄で打たれたときのように、即座に火を放つ。<…>

人がどれほど悪く曲がった生き方をしていようとも、人の性質の中には、決して罪に傾かない聖なる火花、聖なる要素が存在する良心と霊的感覚が曇り働かなくなったとしても、この聖なる火花は決して消えることはない。どんな極悪人にも多少の善がみられるのはこのためである。残虐極まりないやり方で殺人を重ねた人間でさえ、貧乏人や虐げられている者たちに援助の手をさしのべるといったことが、よく起こる。

この聖なる火花が不滅のものであれば、どんな罪人にも絶望することはない。それが滅ぼしうるものであるとすれば、罪によって神から離れたときの悲しみ、地獄の苦しみといったものは決して感じられることはないだろう。悲しみや後悔の念を感じるというのは、ほかならぬこの火花が人間の中にあるからである。この感覚がなければ、地獄は地獄足り得ない。人がそのような痛みを感じるのであれば、その苦しみがいずれは人を神の御元へ回復させることになる。」(p.295-297)


これは事実上の原罪の否定です。サンダー・シングはどんなにひどく堕落した罪人の中にも、「決して罪に傾かない聖なる火花」があって、それが必ずや罪人を神の御元に回帰させるはずだと主張します。彼はここでキリストの十字架だけが神と人とを和解させる唯一の道だとは言っていません。彼はむしろ十字架を介さねば生まれながらの人は誰一人として神と和解できないという事実を否定して、人間が自力で神に立ち戻る道があると提唱しているのです。つまり、人の行いがどんなに悪くとも、人間の中に残っている「聖なる火花」が、必ず、彼を神に回帰させると彼は言うのです。

私は以前の記事の中で、サンダー・シングの言う「聖なる火花」が、グノーシス主義における「神的自己」、「本来的自己」に相当することを説明しました。これは神秘主義です。生まれながらの人間が、御子キリストの十字架を信仰によって受け入れなくとも、本来生まれながらにして持っている自己の何らかの性質や力に目覚め、それを利用することによって、自力で神と結合できるとする教えです。サンダー・シングの教えもこの点で神秘主義に属しており、これが正統なキリスト教でありえないことは言うまでもありません。

さて、サンダー・シングの言う「聖なる火花」とは具体的に何を指すのでしょうか。あまりはっきりと書かれていないので、文脈から判断するしかありませんが、彼は人間に生来備わっている良心(のとがめ、すなわち罪悪感)のことを指しているのではないかと思われます。

つまり、サンダー・シングは生まれながらの人の内に宿っている良心こそ、罪人を神に引き戻す「聖なる火花」に当たると主張しているのです。この聖なる不滅の火花がある限り、人は行いの如何に関わらず、本来的には罪のない聖なる性質を内に保存しているのであって、この聖なる要素を利用することによって、人は神に回帰できるはずだと主張しているのです。

しかし、たとえ罪人に多少なりとも良心の呵責が存在したとしても、だからといって、それは人を神に引き戻す力を持ちません。人の堕落とともに、人の良心さえも深く麻痺し、堕落し、神に対して死んだ状態で、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されたのです。その良心は、人に罪悪感を感じさせ、苦しめることはできるかも知れませんが、人を神に引き戻す橋渡しにはならないのです。もしも生まれながらの良心によって、人が義とされ、神に受け入れられるのだとすれば、人は自分自身の良心だけによって救われることができ、パウロが次のように叫ぶ必要はなかったでしょう。

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。…私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっていますもし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住むです。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです

すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ7:18-24)


パウロは律法の上では落ち度のない人でしたので、彼は自分の正しさを誰より誇って良いはずであり、彼の良心が彼を潔白とみなしたとしても不思議ではありませんでした。にも関わらず、そのパウロの良心が彼を罪に定め、彼の内には「善が住んでいない」と叫ばざるを得なかったのです。彼は自分の中には「決して罪に傾かない聖なる火花がある」などとは言いませんでした。彼はどんな人よりも罪から遠ざかっていると胸を張って言えたにも関わらず、彼が自分の中に見出したのは、「聖なる火花」とは正反対の「悪」、すなわち、「私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこに」する、私に悪が宿っているという原理だけだったのです。

聖書は言います、「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)と。人は堕落して罪深い「肉」となりました。すなわち、生まれながらの人は誰一人として、肉に働く罪と死の法則から自力で逃れられる人はいません。どんなに努力しても、肉には一切の改善の余地がないからこそ、主イエスは言われたのです、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」(ヨハネ3:5)と。

人が神に受け入れられる者となるには、信仰によって、主イエス・キリストの十字架の死を自分自身の死として受け入れ、彼の肉の死を自分自身の肉の死として受け取り、肉に働く罪と死の法則に死んで、御霊によって神に対して生きる者とされる以外にはありません。キリストは「肉において罪を処罰」するために「罪深い肉と同じような形で」「罪のために」遣わされたのです。

「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:3-4)

私たちの生まれながらの自己、アダムの古き命には何ひとつとして神に受け入れられる聖なる要素はありませんし、また、肉にはいかなる改善の余地もありません。どんなに月日が経っても、どんなに改善の努力を重ねても、肉から生まれるものは肉でしかありません。信仰によって、御子の十字架の死を自分自身の死として受け入れ、古きアダムの命に死に、キリストのよみがえりの命によって新しく生かされなければ、誰一人として神に受け入れられ、神に対して生きることはできないのです。そのために、御子はすべてのアダムを着て十字架に向かわれました。私たちは信仰によって彼の死を自分自身の死として受け取ることを通してのみ、罪と死の法則から解放されます。人の生まれながらのアダムの命、そして生まれながらの自己はサタンの座でありこすれ、そこには何ら神を喜ばせる聖なる要素はないのです。

にも関わらず、サンダー・シングは人の生まれながらの自己の中に「聖なる火花」を見出し、それゆえに御子の十字架の死を信仰によって経ずとも、その「聖なる要素」によって人は自力で神に回帰できるとしているのです。これは恐るべき教えであり、完全に聖書に反しています。これは肉を栄化し、アダムの命を栄化し、生まれながらの人間を神化し、生まれながらの人を神とすることに等しいのです。

次の文章の中で、自らの教えの究極的な目的は何であるか、サンダー・シングはまたとないほどにはっきりと明言しています。

「人は自由な行為者であり、自由の誤用によって自分をも人をも大きく傷つける。だが自分という存在や内なる神の火花を滅ぼしてしまえるほど自分を傷つけられる人はいない。そのような力は、創造主以外、誰ももってはいないのである。また、創造主さえ、滅ぼしたりはなさらないだろう。そのようなことをお望みなら、初めから創造などされなかったはずである。滅ぼすということになれば、神は結果もわきまえずに行動したことになる。このようなことは神にあってはありえないことである。

人は自分の魂を造りえなかったし、それを滅ぼすこともできない。創造主は、どのような生き物もある特殊な目的のためにお造りになった。自分の魂、内在の聖なる火花を滅ぼすことが人間にもできず、神もなさらないというのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである迷いに導かれる者は多くとも、いつかは自分が、似せて造られた神に戻るのである。それが人間の究極の目標なのだ。」(p.297)

ここでサンダー・シングは、神の刑罰は存在しないという独自の主張を何度も、何度も、まるで自分に言い聞かせるがごとく念押ししています。彼は罪人に対する神の刑罰の存在を何としても否定せずにいられません。そのことだけを取っても、どれほど彼が内心では神の刑罰を恐れているか分かろうというものですが、しかし、そのことは今は置いておきましょう。

サンダー・シングにとっては、神が昔も今も、ご自分に不従順な者たちを滞りなく罰しておられるという聖書の記述もまるで意味をなさないようです。ノアの時代に、地に満ちている暴虐をご覧になって、神はノアにこう仰せられました、「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ている。…それで今わたしは、彼らを地とともに滅ぼそうとしている。」(創世記6:13)

また、「…主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められ」、「…ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も…好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされてました(ユダ6-7)

さらに、再臨の日には、「…主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われ」、「…神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復され」るのです。彼らは「主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けることが定められています(Ⅱテサロニケ1:7-9)


「…天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ不敬虔な者どものさばきと滅びの日まで、保たれているのです。」(Ⅱペテロ3:5-7)

しかし、サンダー・シングはこれら全ての記述を無視してでも、罪人に対する神の裁きや、滅びの刑罰はないと主張します。彼は言います、人は断じて滅びにしか値しない罪人などではなく、神は人を絶対に滅ぼしたりなさらないと。人の生まれながらの魂は不滅であり、「内在の聖なる火花」を滅ぼすことは誰にもできないと。もし自ら創造したものを滅ぼすとすれば、それは神が後先考えずに行動したことになり、それでは神の名折れになるではないかとさえ彼は言います。(それでは神が御子の十字架を通して、信じる者たちを滅びから救い出してくださったこの永遠の計画の意味はどうなるのでしょう? 御子の贖いがなくとも人は救われ得ると言うのでしょうか? それこそ、神の御心を最もないがしろにし、傷つけることではありませんか!) 

彼は言います、「というのは、人の創造された目的が、いつの日か必ずや成就するからである」と。

ここで彼は、自分の偽りの教えの究極目的が何であるのかはっきりと明言しています。「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」と。

やれやれと私たちは大きな溜息をつくしかありません。原初回帰、全てのグノーシス主義者の主張は必ずここに帰着するのです。「いつか自分が似せて造られた神に戻る」、すなわち、人類が自力で創造された当初の罪のない存在に立ち戻り、神の似姿としての自分を取り戻すと、自力で「神のようになる」と! 人が神になるのだと! アダムの古き命のままで、肉のままで、人は神になれるのだと! これがすべての福音を歪める者たちの究極目標なのです。彼らはどうしてもこの目的を告白せずにいられないようです。

彼らは言います、今は人類は自由意志を乱用したがために自分を傷つけ、互いを傷つけ、無知の中、地を這いずるように生きているかも知れないが、本来、神に似せて造られた者である以上、人の内には誰にも滅ぼすことのできない「聖なる神的火花」が宿っているのだと。そうである以上、いつかきっと人類は自分の力で、似せて造られた神に戻ってみせると。いつか自力で神のようになってみせると。いつかきっと「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」(イザヤ14:13-14) それが人間の究極的目標だと!

このような教えがどこからやって来たものか、それでもまだ分からないという人がおられるでしょうか?

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記3:5)

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3.善と悪の弁証法と、サタンの受けるべき刑罰の否定

前回では、サンダー・シングが福音を唯物論化して、「地獄」や「天界」を神の定められた絶対的なものとしてとらえず、むしろ、この世や人の心の状態に応じて作り出される相対的なものであるとみなしていることを説明しました。さらに、サンダー・シングはそれにとどまらず、善悪の概念をも同じように相対化し、悪は永久不変のものではなく、神の御前で動かせない絶対的なものではないと主張するのです。

悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるものであって、悪を悪として行なう者は誰もいない。どんな悪者も邪な者も、判断力というものがあれば、自分を傷つけたりはしないものだ。悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではないのである。人を殺し他を滅ぼす悪の有毒な作用が、自らをも永遠に滅ぼす。

永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。

このように、悪は永遠ではない――始まりあるところ終わりがある――のであるから、悪は終わりを迎えると結論しなければならない。悪は自らを滅ぼすという点で、特にそれがいえるのである。」(p.285)


この文章は決して注意せずに通りすぎてはならないものです。まず、サンダー・シングが善悪の概念を相対化することにより、善悪の概念そのものを骨抜きにしていることに注意を払いましょう。彼は言います、永遠の神の属性である善だけが永久不変なのであり、「悪は永遠ではない」と。つまり、動かせない絶対的な悪というものはこの世に何ひとつ存在せず、どんな悪にも必ず終わりが来るのだと、あるものが今、悪であるように見えたとしても、その悪はやがて必ず悪であることを終えて、善に還元されるときが来るのだと、そう言っているのです。そして、すべての悪は最終的には善に還元され、善だけが永遠に残ると言っているのです。

これは善悪の切り分けそのものの否定です。このような考えに立つと、神の御前で、永遠に動かせない絶対的な悪というものは何ひとつ存在しないことになります。

さらに注目すべきは、サンダー・シングが「悪には用途(目的)がある」と主張している点です。彼は言います、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行われるもの」であると。つまり、彼は言うのです、全ての悪は何らかの合理的な目的があって生まれて来るものであり、必要に迫られて生まれて来るもの(=必要悪)だと。そうである限り、その用途、つまり、悪の悪たる役割を終えるならば、悪はもはや悪ではなくなって、善に還元されるのだと。

だからこそ、サンダー・シングは言うのです、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」と。彼は神の創造した全てのものは、本来的に善であるはずであり(=性善説)、それが悪のように見えるのは一時的に何らかの役割を果たすためにそうなっているに過ぎず、役割を終えれば、すべての悪がいずれ善となる、そこですべてのものは本来的に善であって、永久不変の悪などというものは何ひとつとして存在しないと主張しているのです。

このような性善説が聖書に反していることは明らかです。アダムの堕落により、生まれながらの人類は神と断絶し、キリストの十字架の死を経ずには、人は神に受け入れられない存在となりました。聖書は言います、人類は生まれながらにして一人の例外もなく「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」であると(エペソ2:1-3)。ところが、サンダー・シングは善悪の概念を相対化することにより、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」として、事実上、原罪を否定し、生まれながらの人類をそのままで罪なき者、善なる存在とみなそうとしているのです。

ところで、私は以前に記事の中で、キリスト教を政治的弱者の社会的救済のために利用しようとする解放神学の偽りに触れました。学者たちは、この解放神学が、神学を装っただけの偽りのイデオロギー宗教であると述べています。大石昭夫氏は「解放神学の基本構造」の中で次のように言います、「解放神学の基本的主張を調べれば蚕の中のさなぎのようにイデオロギーが内部にあることを否定することはできない。」(『解放神学 虚と実』、勝田吉太郎他著、荒竹出版、p.32)

これと全く同じことがサンダー・シングの教え、そして、全てのグノーシス主義に影響を受けた擬似キリスト教にもあてはまるのです。サンダー・シングの教えを調べていくと、これがキリスト教に寄生しただけのイデオロギーであることが分かります。本来、キリスト教では決してありえない異質な思想が、キリスト教を宿主としてその内側に寄生し、巣食っていることが分かるのです。

たとえば、善悪に関するサンダー・シングの主張がマルクス主義者のものとほぼ完全に一致していることにご注意下さい。マルクス主義者は言います、ある時代に悪(不合理)とされた概念でも、時代が交替し、その用途を果たし終えれば、悪(不合理)であることを終えて、むしろ善(合理的なもの)に転換すると。そして、歴史の中で、合理的なものも全て時とともに不合理となり、不合理なものも合理的となるというのです。

「…さきには現実的であったものが、すべて発展の過程のなかで非現実的になり、その必然性、その存在権、その合理性をうしなっていく。死んでいく現実的なものに代わって、新しい、生活力のある現実性が現れてくる、――古いものが反抗せずに死んでいくほど賢明な場合には平和的に、古いものがこの必然性にさからう場合には暴力的に<…>。すなわち、人類の歴史の領域で現実的であるものは、すべて時とともに不合理になるのであり、<…>人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなに現存する見せかけだけの現実性と矛盾していようと、すべて現実的になるようにさだめられているのである。」(『フォイエルバッハ論』、p.11より)

このような主張は、善悪というものが本来、神の御前に絶対に動かせないものであることを否定し、善悪の区別を消し去ってうやむやにしてしまいます。

「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」というサンダー・シングの考え方に立つならば、創造の初めから、神の善と全く相容れないものは何ひとつこの地上に存在せず、今、仮に神と人との断絶があるとしても、それも一時的状態に過ぎないので、すべての被造物が究極的には神に回帰し、神の善の中にいずれ吸収されていくということになってしまいます。つまり、このような主張に立てば、御子の十字架の死によらなければ絶対に解消され得ない神と人との断絶というものは存在せず、神の御前に永久に罪定めされる悪は存在しないことになります。

覚えていらっしゃる方もおられると思いますが、以前、私はグノーシス主義文献の『ユダの福音書』においては、イスカリオテのユダの裏切りが「善」とみなされて正当化されていることに触れました。そこでは、ユダこそが主イエスの最高の弟子であったとみなされています。グノーシス主義者がそう考える根拠として挙げているのは、ユダの裏切りが、神のご計画の成就のために必要不可欠な一部をなしていること、その点で彼の行為は必要悪として役目を果たしたということです。つまり、サンダー・シングと同じように、グノーシス主義者も、「悪はすべて、何かを得ようとの目的をもって行なわれる」と考え、その文脈で、ユダの悪は、神のご計画の成就(グノーシス主義者は神のご計画というものもきわめて独自に歪めて解釈するわけですが)を助けるという特別な「目的」を果たしたのだから、ユダの行為はもはや悪ではありえず、最高の「善」と言って差し支えないと主張するわけです。

(「…不条理な物質世界から退場できるのだから、死を恐れたり怖がったりすることはないのだ。死は悲しいものではない。イエスが肉体から解放され、天上の家に戻る手段である。そしてユダは、敬愛するイエスを裏切ることで、彼が肉体を捨て去り、内なる神聖な本質を自由にすることを手助けしている。」 『原典 ユダの福音書』、日経ナショナルジオグラフィック社、p.8、マービン・マイヤー氏による解説)

このような詭弁は、目的が手段を正当化するという恐ろしい考えを生みます。このような考えに立つと、地上における全ての善悪の概念はうやむやにされ、何らかの崇高な目的さえあれば、それを達成する手段として人はどのような悪事を犯しても構わないという結論になります。むしろ、全ての悪は善に通じるので、合理的な目的のためならば人類はためらいなく悪事を犯せばよいという話になるのです。

作家ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフという人物に、「目的は手段を正当化する」というこの思想を体現させたわけですが、このような思想は、すべてのテロリズムに共通する思想であり、どんな倫理・道徳をも骨抜きにしてしまう非常に恐ろしい考えです。たとえば、共産主義建設のため、人類のユートピア建設のためという口実で、歴史を通じてどれほど血塗られた方法が用いられてきたことでしょうか。そのようなものを正当化するのがこの思想なのです。人類の幸福社会の建設という「合理的な目的」を口実にすれば、どんな悪事を犯しても、それは「善」として正当化され、容認されうるというのがこの思想なのです。

私たちが人間の弱さを弁護するために、悪を悪とせず、罪を罪として見なくなる時、神の御前に善悪が動かせない絶対的なものであることを認めず、むしろ、人間に都合の良い観点から善悪を判断しようとして、善悪の線引きを巧妙にずらしていくとき、すなわち、聖書に沿って、神がご覧になるように善悪を判断することをやめてしまうとき、それは一種の「悪の解禁」のような状態を招くのです。そこでは、最も恐ろしい悪でさえ、最も麗しい善のように咲き誇り、古くからあった善良なものが、かえって時代遅れな無用の長物として批判され、退けられるのです。目的の見せかけだけの崇高さがあらゆる悪事の忌まわしさを覆い隠し、どんなに多くの人間が苦しみに遭っても、その犠牲はかえりみられません。私たちは断じて、このような価値観の到来を許してはいけないのです。

さて、話を戻せば、サンダー・シングは、先に引用した文章の中で、サタンの悪でさえ永遠ではないと、さらに恐るべきことを述べています。もう一度引用しましょう、「永久不変とは、永遠の神の属性[善]についていえることである。悪が永遠なる実在の属性である場合に限り、それは永遠たりうる。「悪」がサタンの属性であるというのも間違いであるサタンもまた無垢な状態に造られたのであり、今のような邪悪な状態は自由意志の乱用によって起こったものだからだ。」

これも決して注意せずに通りすぎてはならない文章です、彼は「悪はサタンの永久不変の属性ではない」と述べているのです。彼は言います、サタンも本来は無垢な存在に造られたのであり、彼はただ自由意志を乱用したという点で間違っただけであって、全ての「悪は永遠ではない」以上、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではな」く、従って、神に創造されたものとして、サタンの「悪」でさえ永久不変の属性ではあり得ないのだと。

サンダー・シングはここでクリスチャンをはばかってか、あえて言葉を濁して最後まで言い切っていませんが、このことは結局、サタンの悪にもいずれ終わりが来て、サタンは善なる存在に転換すると言っているのと同じなのです。

サンダー・シングはサタンの「悪」を、「行動面」にのみ絞り込むことによって、サタンの「行動面」の悪と、彼の「性質」とを分離しようとします。すなわち、サタンは「自由意志の乱用」という行いによって、「今のような邪悪な状態(注意して下さい、彼はここで悪を「状態」とみなしているのです)に陥ったが、それによって、本来は「無垢な状態に造られた」はずのサタンの性質そのものまでが変わってしまったわけではないと言うのです。なぜなら――彼の主張からは必然的にこのような結論が出ざるを得ないのですが――、サタンが邪悪であるように見えるのは、彼の悪が悪たる役目を終えるまでの間(サタンが神のご計画を助けて一定の目的を成就させるまでの間)の一時的な状態に過ぎず、「悪は、神の創造したいかなるものにあっても生得の性質ではない」以上、必ず、サタンの「悪は終わりを迎える」時が来ると。その後、サタンは神に創造された当初からの生得の性質であった善に戻るのだと。もっと極言すれば、サンダー・シングはサタンの性質は今も造られた当初と変わらず、無垢なままであると言っているのです(サタンが邪悪であるかのように見えるのは一時的な状態に過ぎないのであって、悪はサタンの永久不変の属性ではないというのですから)。

こんな詭弁にごまかされることなく、きちんと聖書に戻りましょう。聖書はサタンの最終的な末路についてどう告げているでしょうか。「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)

このように、聖書はサタンには一切の名誉回復の余地が残されていないことをはっきりと告げています。確かにサタンは造られた当初は無垢な存在であったのです。それどころか、最も美しい完全な被造物でありさえしたのです。エゼキエル書は言います、「神である主はこう仰せられる。あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。…あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。」(エゼキエル28:12,15)。 

しかし、サタンは自分の美と栄光に心高ぶり、「神のようになろう」として神に反逆し、失敗して堕落したのです。「あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。…あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。」(エゼキエル28:16,17) 「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」(イザヤ14:12-15)

そうです、サタンには「よみに落とされ、穴の底に落とされる」ことが確定しているのです。サタンは人類を堕落させた罪のために神によって呪われ(創世記3:14)「女の子孫」である御子キリストが十字架で彼の頭を打ち砕きました。キリストはご自分の「死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださ」ったのです(ヘブル2:14-15)。そして、「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

サタンは永久に打ち破られました! 彼には永遠の敗北が決定しています! 同じように堕落した被造物であっても、悔い改めの機会が残されている人間とは異なり、サタンにはいかなる悔い改めの余地も残されていません。サタンには神の善に立ち帰る道が永久に閉ざされているのです。そればかりか、燃える火と硫黄の池での永遠の刑罰が確定しているのです。ですから、サタンには永遠の罪定めと滅びがあるのみで、名誉回復など永久にあるはずがないことは明らかです。

にも関わらず、聖書が永遠の刑罰を宣告しているサタンでさえいずれ善なる存在に立ち戻るかのように語るサンダー・シングの教えが、どんなに危険なものであるかは、これでお分かりいただけると思います。サンダー・シングに限らず、全てのグノーシス主義の教えに共通することですが、どんなに神の御名を利用して、敬虔なキリスト教のように装っていたとしても、神の御前での善悪の絶対性を否定し、サタンの悪を相対化し、サタンでさえ神に立ち帰る可能性があるかのように見せかけ、サタンに定められている永遠の刑罰を否定するような教えは、全てまことの神から来た思想でなく、むしろサタンに由来する思想であることが明らかなのです。



2.唯物論化された擬似キリスト教

サンダー・シングが神の刑罰の存在を否定していることはすでに見ました。すると一つの疑問が浮かび上がります。もしも神が人を地獄に落とされることはないと彼が考えているのだとすれば、それでは、サンーダ・シングの言う天界と地獄とは、一体、どこからやって来たものなのでしょうか?

自らを地獄に突き落とすのは罪人自身の誤った生活である。生が終わり天界と地獄が迫ってくるはるか以前に、善悪の性質に応じて各人の心の中で自分自身の天界か地獄が形作られている。それゆえ、あの永遠の苦しみから救われたいと切に望む者は、心底悔いて心をわたしに明け渡すがよい。わが現存と聖霊の働きによって、永遠に神の御国の子供となるためである。」(p.210)

これはサンダー・シングの自己矛盾です。一方では、彼は地獄にさえも救いはあると説きながら、他方では、地獄には「永遠の苦しみ」が存在すると述べているのです。しかし、異端につきもののこの種の支離滅裂は今は気にせず通りすぎ、もっと重要な部分に注目しましょう。

ここで見落としてはならないのは、サンダー・シングが「天界」「地獄」もともに人の心の中で形作られるもの、つまり、天国も地獄も神の創造されたものではなくて、むしろ、人の心が生み出す「状態」であるとしていることです。

「天界と地獄は、霊の領域にある相反する二つの状態である。人間の心の中にその起源はあり、その基礎が築かれるのもこの世界である。」(p.247)

これは驚くべき発言です。サンダー・シングは天界も地獄も、「人間の心の中にその起源はあ」ると述べているのです。天界とは、彼の呼び名であって、クリスチャンにとっての御国、神の国に相当するのですが、彼は神の国も地獄も、神の創造したものではなく、被造物である人自身から出て来るもの、人の心の状態や性質が決定するもの、ひいては、この世でその基礎が築かれると言っているのです。

お分かりになりますか? これは唯物論の始まりと言って差し支えないのです。論理が飛躍していると思わないで下さい。これは神の国と地獄に対する唯物的解釈と言えるのです。なぜならば、ここでは目に見えるものと目に見えないものの順序がさかさまになっているからです。サンダー・シングは、神の国と地獄という目に見えないものは、目に見えない神ご自身に起源がある絶対的なものではなく、目に見えるもの(この世、被造物である人間)によって作り出される相対的な状態に過ぎないと言っているのです。「その基礎が築かれるのもこの世界」という彼の言葉は、神の国と地獄はこの世によってその基礎が規定されると言っているに等しいのです。

このような考え方を極みまで推し進めると、「下部構造は上部構造を規定する」というマルクス主義の主張が出て来ます。少なくとも、ここには根底に同じ(さかさまの)発想があることはお分かりいただけるでしょう。

しかし、聖書は何と言っているでしょうか、「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3) 

聖書の述べている正しい順序は、目に見えないものこそが全ての造られたものの起源であるということです。この目に見えないものとは、神の言葉であられる御子キリストです。聖書は言います、全ての目に見えるもの目に見えないものは御子によって造られたと、御子によって造られなかったものは何ひとつとしてないと。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです万物は、御子によって造られ、御子のために作られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:15-17)


「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ1:1-3)

にも関わらず、サンダー・シングはこの秩序を逆にひっくり返してしまうのです。彼は天界と地獄が見えない御子によって造られたとは認めません。むしろ、目に見えるこの世と目に見える人間の心の状態が目に見えない天界と地獄を規定すると言うのです。

このさかさまになった秩序、目に見えるもの(この世)こそが全ての造られたものの起源であるという主張こそ、唯物論なのです。しかし、これはサタンの秩序です。

以前にも書きましたが、まことの神の働きは、常に見えない神の霊から出発して、霊→魂→肉体の順序を取ります。しかし、サタンの働きは、常に外側からで、肉体(この世)→魂→霊です。神は目に見えない霊の領域から全ての物事を始められますが、サタンはその秩序を否定してさかさまにし、すべては目に見えるこの世から出発し、目に見えるこの世に帰着して終わると主張するのです。

神の事実は、見えないものが見えるもの・見えないもの含めて、全ての造られたものを規定するというものですが、サタンの主張は、見えるものが、見えるものも見えないものも含めて全ての造られたものを規定するというものなのです。サタンは見えない神の言葉であられる御子による支配がすべてを超越することを決して認めません。彼にあっては、自らが統治する暗やみの世が最高の権威でなくてはならず、従って、この世こそ全ての起源であり、アルファでありオメガであり、目に見えるものが全ての造られたものの根源であると主張するのです。サタンには、万物が見えない御子によって生まれ、万物が御子の霊的統治に服さなければならず、御子こそがこの世においても来るべき世においても永遠に最高の権威であることが絶対に認められないのです。

このことを考慮すれば、天界と地獄の基礎がこの世にあるとするサンダー・シングの主張がどのように聖書に反しているのかが分かるだけでなく、
「下部構造は上部構造を規定する」という唯物論者の主張が、まさにサタンによって息吹かれた思想であることも分かるのです。


サンダー・シングの教えをあと一歩、突き詰めるならば、無神論となります。唯物論者はサンダー・シングよりもさらに先を進んで、天界や地獄だけでなく、神そのものも、しょせん人間の心が作り出した心の状態に過ぎないと言い切っています。

参考までに、唯物論者が神をどう定義しているかを挙げておきます。

「自然の諸力の擬人化によって最初の神がみが生じた。この神がみは、諸宗教がさらに発達していくうちに、ますます世界外的な姿をとるようになった。ついには、[人間の]精神が発達していくにつれて自然に生じてくる抽象作用の過程<…>をつうじて、多数の<…>神がみから、一神教的諸宗教の唯一神という観念が人間の頭のなかに生じたのである。」(『フォイエルバッハ論』、エンゲルス著、大月書店、p.28)

この主張が誇らしげに述べようとしているのは、神が人間を創造したのではなく、人間こそが神を創造したのだ、ということです。この主張は創造主を否定しています。神はこの世界を造られた、万物を超越して支配する唯一の見えないパースンなのではなく、人間の心の状態が作り出した産物に過ぎない、と言っているのです。従って、これによれば、人間を離れて神は存在せず、神は人間の付属物、もしくは人間によって作り出された被造物、神は人間によって規定されるもの、ということになります。

これは何という冒涜的な考えでしょうか。すべてがさかさまです。唯物論は、見えるものこそ真のリアリティだと言うのです。見えないものが見えるものを規定するのではなく、見えるものが見えないものを規定し、神ですら、物質世界としてのこの世と目に見える人間が造りだした産物に過ぎないと言うのです。

しかし、サンダー・シングの主張も唯物論者の主張からそう遠く離れていません。サンダー・シングは神そのものまでが人間の想像の産物であるとまでは言っていませんが、しかしながら、彼の主張はその一歩手前まで来ています。

もう一度、サンダー・シングの言う「神」とは何かを振り返ってみましょう。それは、聖書のリアリティから遠くかけ離れた「神」です。それは人間に都合の良い神、人間を決して罰したり、滅ぼしたりしない神、決して人間にとって脅威にならない神です。この「神」は何によって規定されているのでしょうか? 人間の思いによってです。目に見える人間の心の欲望によってです。確かに、サンダー・シングの「神」は、人間の心によって規定されたものだと言えるでしょう。彼の教えにおいては、天界や地獄だけでなく、神までも人間の心によって規定されているのです。目に見える人間の心の欲望が見えない神を定義しているのです!

(人間自らが神を定義しようとすることの愚かさを認め、そのようなものは人の心の作り出した幻、偽りに過ぎないと言い切っていた点だけに注目するならば、唯物論者はサンダー・シングに比べればまだ幾分か正直だったと言えるかも知れません。)

どんなに「神」や「キリスト」、「神の国」などのさまざまな用語を使っていたとしても、人が聖書の御言葉から逸れて、神を自分の思いによって定義し、推しはかろうとすればするほど、そこからはまことの神のリアリティが失われていきます。そこにあるのはただ人間の心によって作り出された幻、形骸化した概念だけです。そんなものは人間の欲望に過ぎず、神ではありません。”I AM”と言われるまことの神のリアリティはそこにはありません。

被造物に過ぎない人間が自分勝手な思いによって神を定義してはならないのです。それは神に対する驕りに満ちた挑戦となります。それは人が神に服するのではなく、むしろ、神を人間に服させようとすることですから、神に対する反逆です。人が神を自分に都合良くおしはかろうとして御言葉を曲げると、その主張から、ただ”I AM”と言われるまことのお方のリアリティが失われるだけでなく、結局、そのような主張の最後に行き着く先は、まことの創造主なる唯一の神の否定であり、「神はない」という結論の他にないのです。

「悪者はおのれの心の欲望を誇り、
 貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。
 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。
 その思いは『神はいない。』の一言に尽きる。」(詩篇10:3-4)

「主を恐れることは知恵の初め、
 聖なる方を知ることは悟りである。
 わたしによって、あなたの日は多くなり、
 あなたのいのちの年は増すからだ。

 もし、あなたが知恵を得れば、
 その知恵はあなたのものだ。
 もし、あなたがこれをあざけるなら、
 あなただけが、その責任を負うことになる。」(箴言9:10-12)





「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」(Ⅰテモテ4:1)

「霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。」(Ⅰヨハネ4:1)

サンダー・シングの書物には、多くの奇蹟の物語や、彼が経験したとする天界でのエクスタシー、亡くなった聖人や死者との交流、道徳的な教訓話など、非凡な話が満ちています。これらの内容は人の心を惹きつける、わくわくするような偉大な物語のように聞こえますが、きちんと聖書に照らし合わせずに鵜呑みにすることはあまりにも危険です。

たとえば、死者との交流というテーマ、一体、これは聖書に合致しているのでしょうか。私たちは聖書のどこを調べても、信仰の偉人たちが、信仰を深めるために積極的に死者の霊と親しく交わったという記述を見つけることができません。むしろ、死者の霊と交流できるとされる巫女や、占い師、霊媒などとの関わりは、全て聖書の神の忌み嫌われるものなのです。イザヤ書にはこうあります、「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのかおしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない。」(イザヤ8:19-20)

また、これら非凡な奇跡の物語の記述がサンダー・シングの個人的な名声を飛躍的に高めるのに役立っている点に注目すれば、この書物が書かれた目的は、神ではなく人間サンダー・シングに栄光を帰すことにあるのだろうということはすぐに予想がつきます。

しかし、今はそのような非凡な体験談の詳細にこだわらず、まずは、サンダー・シングの教えの全体的な構造を把握することにより、彼の教えがどのような点で異端であり、どういう危険性を持っているのかを明らかにしましょう。以下、彼の書物の引用は全て『聖なる導き インド永遠の書』、サンダー・シング著、林 陽訳、徳間書店から行ないます。


1.「神の愛」の誤用と、「神の裁き」の否定

「神または神の民が、罪人たちを天界から締め出し地獄に突き落とすなどと思ってはならない。愛である神は誰一人地獄に落とし給わない永遠にそうである。」(p.210)

まず、この短い文章が、サンダー・シングの教えが決定的に聖書に反する異端であることを明らかにしています。神は愛であるから、誰一人地獄に落とすことはないと、彼は罪人に対する神の刑罰の存在を真っ向から否定しています。これがサンダー・シングの主張の核心であり、この神の裁きの否定という考え方が、彼の全ての主張に影響を落とし、真理と虚偽との切り分けを否定する根拠となっています。

注意すべきことは、このような主張はサンダー・シングに限らず、東洋的に(グノーシス主義的に)歪められた愛の福音(砂糖まぶしの甘えの福音)のほとんどに全て共通していることです。そこでは、「神の愛」を人間に都合良く解釈することによって、生まれながらの全ての人間(=罪人)が避けて通ることのできない神の刑罰としての十字架が否定されているのです。

ところが、この歪められた福音が、今日のキリスト教界において主流となりつつあることについては、今まで多くの人々が警告を発してきました(反カルト運動がその異端化された福音の強い影響を受けて生まれて来たものであることも、すでに述べました。)それは、「神の愛」を人間に都合良く解釈しようとした結果、聖書の御言葉を曲げてでも、人間に脅威にならない福音を生み出そうとし、生まれながらの罪人が決して十字架の死を通らなくとも、御国に到達できるかのように教えるのです。

さて、この書物の冒頭の解説ではこのようにまで極言されています。

「『神は誰をも罰したりはなさらない誰をも地獄に落とされたりはなさらないそのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。罪人自身が自らを裁くのである。欲望の奴隷、この世の奴隷が自らを滅びに定めるのである』 

しかし、地獄の中にさえ神は救いの道を開かれ、たとえ何百万年かかろうと、いつか地獄にいるほとんどの者がキリストの元に引き上げられるよう、聖徒たちを通して導きが与えられている、とも述べている。」(p.21)

なんと神の裁きが否定されるだけでなく、地獄にさえも救いはあると説かれているのです。このような主張が聖書の定める「永遠の刑罰」(マタイ25:46)、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火」(マタイ26:41)、「とこしえのさばき」(ヘブル6:2)、「永遠の滅びの刑罰」(Ⅱテサロニケ1:9)、「永遠の火の刑罰」(ユダ7)、「第二の死」(黙示21:8)などの、不従順な者たちへの神の永遠の刑罰に関する全ての記述に違反していることは一目瞭然です。

サンダー・シングの教えの異端性については、これですでにお分かりいただけたと思います。あえて、これ以上、論証する必要はないと言えます。この教えの中にどんなに「愛」や「憐み」といった人間にとって心地よい言葉が溢れていたとしても、この教えが聖書の真理から離れている以上、完全な偽りであり、それに巻き込まれて影響を受けることは大変危険であることはお分かりいただけるでしょう。

しかし、もう少し先へ進みましょう。このような教えを信じると、クリスチャンはどうなってしまうのでしょうか。まず、神の刑罰は存在しないと考えるならば、それは、何よりも、主イエスの十字架の死を、生まれながらの人間すべてに対する神の刑罰ではなかったとみなすことになります。御子の犠牲は尊いものであったかも知れませんが、彼が死ななければならなかった必然性はないということになります(ある意味で、十字架は、罪人に寄り添うための神の愛と善意のボランティアに過ぎなかったということになります)。

そうなると、罪人はどうなるのでしょうか? ただ自分たちのために「死んでくださった」主イエスの深い愛に感動して存分に涙を流し、そして、神がそんなにも愛して下さった自分自身にひたすら満悦して生きていけば良いという結論になります。そこでは、生まれながらの人間はみな十字架の刑罰を受けるべき罪人であるという事実は忘れられ、人が信仰によって御子の死に自分の死を同形化する必要もなくなります。そして、十字架において人が生まれながらの自己を否む必要もないことになります。

そのような教えは、人の生まれながらの自己に十字架の死を回避させて、むしろ、「神はありのままのあなたのために死んで下さるほどまでに、あなたを愛して下さっています、ありのままのあなたが尊いのです、あなたはそのままで生きていけば良いのです」などと教えることにより、生まれながらの自己を名誉回復させてしまいます。そうしてクリスチャンに生まれながらの自己の罪深さ、腐敗を忘れさせるのです。その教えは、人が本来、神の御前でどれほど忌むべき罪深い存在であり、地獄にしか値しない存在であるかという事実を忘れさせるのです。

ですから、それを信じてしまうと、クリスチャンの内側で、生まれながらの自己を抑圧する枷が全て最終的に取り払われてしまいます。なぜなら、その人は自分の生まれながらの自己を警戒せず、むしろ、ありのままで愛し、信頼するようになるため、生まれながらの自己を抑圧する、どのような支配にも服さなくなり、自己が肥大化し、高慢になってしまうのです。聖書に反する自己信頼が、その人の自己を過剰なまでに肥大化させ、頑なにするのだと言えましょう。

また、この教えは、神に対する大いなる侮りとあざけりの心を起こさせます。もし神の裁きが存在しないのだとすれば、どうして罪人が神の裁きを恐れ、罪を離れて身を清く保つ必要性があるでしょう? もしも神の裁きがないのだとすれば、なぜ人は神を恐れ、目を覚まして身を慎んで歩まなければならないのでしょう? もしも神が誰も罰せず、誰をも地獄に落とされないのだとすれば、なぜ人は主イエス・キリストを救い主として受け入れる必要があるのでしょう?

もしもサンダー・シングの言うように、神は愛だから、誰をも罰せず、誰をも永遠の滅びの刑罰に至らしめることがないのだとすれば、当然、人はキリストを信じなくても滅びに至ることはないという結論になります。仏教を信じても、イスラム教を信じても、神の刑罰が存在しないならば、結果は同じです。ですから、このような教えは、そもそも人がキリストを信じなければ救われないという聖書の福音の大前提をすら否定してしまいます。

もしも、どのように生きても、神は誰をも罰しないというなら、人々は大いにこの世を楽しみ、こう言えば良いのです、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」(Ⅰコリント15:32)、「やって来い。ぶどう酒を持ってくるから、強い酒を浴びるほど飲もう。あすもきょうと同じだろう。もっと、すばらしいかもしれない。」(イザヤ56:12)

ですから、このような教えは、ただ神の言葉を曲げているだけでなく、神を恐れること、そして、神に服することを完全に忘れさせてしまうのです。この教えを信じた人は、もはや神を恐れの対象としては見なくなります。そして、自分に都合の良い、決して人を裁いたり、罰したりすることのない、人類にとって少しも脅威にならない「愛に満ちた神」を自分勝手に思い描き、それぞれ自分の好みに合わせて想像した「神」、もっと言うならば、自分の欲望によって作り出された幻を「神」として拝むということになるのです。それは人間にとっては親切で、親しみやすい「神」のように映るかも知れませんが、結局、人が自分自身(の欲望)を拝んでいるわけですから、これは大変恐ろしいことです。その礼拝の対象は聖書の真実な神ではなく、人の心が作り出した偶像であり、偽りであり、幻なのです。それは神の概念のすりかえなのです。

だからこそ、十字架を骨抜きにしてしまうこのような異端の教えについて、御言葉は次のように述べているのです。

「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)



サンダー・シングの教えがあたかもキリスト教の教えのように装って登場して来たとき、私はクリスチャンの交わりの変遷を見ながら、この教えが交わりの中に登場して来たのは決して偶然ではないと思いました。しかし、その教えが偽りであることは分かったものの、これをどのように分析するのかはかなり難しい課題であると思いました。

サンダー・シングに言及するには一つの難点がありました。それは、彼の書物が論理的に書かれていないということです。この書物は、西欧的な論理に基づいておらず、むしろ、東洋的な思考で、物語風に書かれており、子供向けのおとぎ話や寓話のように、深く物事を考えずに、ただ直感的に内容を受け入れるよう促しています。この書物は、内容について深く吟味する事を読者に求めないだけに、多くの人にとって入りやすく、しかもとても良さそうに聞こえるため感化力があり、うっかり引用できません。信仰暦の長いクリスチャンであっても、その内容をそのまま鵜呑みにしてしまいかねない危険性があります。

しかし、この教えに影響を受けた人々と向き合っているうちに、偽りの影響は予想を超えて深く、無視できないものであるため、立ち向かわなければならないことが分かりました。警告後、偽りに気づき、主イエスの血潮によりこの教えと手を切った人もいましたが、かえって教えに深く影響を受けたクリスチャンは、私が観察しているうちに、人格に以前にはなかった変化が見られるようになりました。彼らはこの教えが危険であるから公に撤回した方が良いとの警告の言葉を聞くと、強い反発を示し、彼らにそのような警告を行った私の方が正気ではないと主張し、この偽りの教えを頑なに擁護するようになったのです。いずれも、キリスト教界と深いかかわりのあるクリスチャンでした。この教えがその人の内側でどれほど深く根を張ってしまっているかを感じさせる出来事でした。

今でもこのような分析記事を書こうとすると、大々的なネガティヴ・キャンペーンを行って、決して事実を公表させまいと圧力を加える人がいます。このような人の憎しみの激しさ、敵意の深さ、陰湿さ、執拗さを見る時、私はその人の人格が以前とはすっかり変わってしまったことを思わずにいられず、また、反カルト運動の末路を思い出さずにはいられないのです。

偽りの教えの影響はいつも、クリスチャンの人格を蝕み、変わり果てた姿にしてしまいます。病気が内側から人を蝕むのと同じように、異端というものは、それを信じる人を内側から破壊するのです。それが主に結び合わされた者が、主を捨て、主の霊を離れ、真理を否定し、主以外のものを愛したことの苦い結果なのですが、偽りの教えは、その人がもともと持っていた生まれながらの愛すべき人格の特徴さえも食いつくし、その人の全人格を憎しみと敵意の炎で燃やしてしまいます。そして、神(真理)と聖徒らに対する激しい敵対に駆り立ててしまうのです。偽りに気づいて途中で立ち戻ることができた人は幸いですが、真理に敵対するようになった人々には、主が必ず御手を置かれます。

「…私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」(ピリピ3:18-19)


偽りの教えを言い広めることや、異端を擁護して正統な教えであるかのように見せかけたり、そのために真理に立つ人を罪に定めることが、どれほど大きな罪に当たるかは、聖書を見れば明らかです。黙示録に登場する預言者イゼベルとは、あたかも教師のごとく振る舞いながら、偽りの教えをクリスチャンに信じ込ませようとするクリスチャンを指しています(必ずしも姉妹ではなく兄弟の可能性もあります)。

異端とは霊的姦淫のことです。クリスチャンが真理を捨てて偽りを信じ、神の霊以外の霊と交わることは、神に対する背信行為です。淫婦バビロンも、イゼベルと同じように、霊的姦淫のゆえに裁きに定められており、バビロンの受ける災害に巻き込まれないように、そこから離れるようにとの警告がなされています。これは異端の教えには決して関わってはならないとの警告ですが、同時に、どんなに警告しても異端を離れ去ろうとしない人からは、ともに災害に巻き込まれないために離れなければならないことも示しています。

クリスチャンには、人間の面目を保つことよりも、はるかに重要なことがあります、それが神の戒めに聞き従うこと、御言葉を決して曲げないということです。御言葉は、足すことも引くこともできません。御言葉を書き換え、骨抜きにする偽りの教えを擁護することは、神の御怒りの結果としての災いをその人にもたらすと聖書に書いてあります。神の言葉を曲げる罪を決して軽く見てはいけないことが分かります。

「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられるまた、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる

これらのことをあかしする方がこういわれる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示22:18-20)


偽りの教えを拒否し、真理にとどまるかどうかは、私たちの命がかかった問題です。異端の影響とは、私たちの信仰を薄れさせる程度のものでなく、私たちを滅びに引き渡すとはっきり御言葉が述べているのです。これは永遠の命、御国での権利に関わる問題です。ですから、人前でどのように評価されるかを気にするよりも、神の言葉を曲げず、真理のうちにとどまり、神の信頼を損なわないことの方がはるかに重要であることが理解できます。偽りの教えを宣べ伝える者、その教えを離れない者がどのような報いを受けるかは、聖書に記されています。どうしてクリスチャンがそのような末路を辿ってよい理由があるでしょうか。

「しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いていますそして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです

また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません」(Ⅱペテロ2:1-3)


それにしても、異端というものはなぜ人の人格を変質させ、人を滅び(死)に至らせるほどの恐ろしい影響力を発揮するのでしょうか? それは異端の教えの全ての構造が、真理と虚偽との切り分けを曖昧にすることにより、救いはキリストの十字架にしかないという事実を否定するからです。

箴言の冒頭の章にはこうあります。「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」(箴言1:7) これは逆に言うと、人が御霊を捨てて、主を恐れることをやめ、真理にとどまることをやめたとき、その人は神を侮ることによって、「知識」を失うことを意味しています。言い換えれば、真理を離れれば、クリスチャンの思考は偽りの影響を受けて支離滅裂となり、矛盾のない首尾一貫した健全な思考が失われます。真理に逆らっては誰も正常な意識を保ち得ないのです。

異端は、あたかも十字架を語っているようでありながら、そこに巧妙に何かを付け加えることにより、十字架を介さなくても、人が生まれながらの姿のままで救われるかのように教えます。結論から言えば、多くの異端の教えは、罪人に対する神の裁きの存在を公然と否定し、人間の原罪を否定しています。それは生まれながらの人間を十字架の死にのみ値する罪ある存在としてとらえず、むしろ、十字架を回避して、生まれながらの人間を神の高みにまで至らせようとするのです。

さて、以下では、サンダー・シングの教えの何が聖書に反しているのか、誰にでも分かるよう詳しく説明していきます。
 




「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)