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9.キリストの十字架の意味の歪曲

偽りのキリスト教であるグノーシス主義においても、キリストの受肉、そして十字架は特別な意味を持っています。グノーシス主義者は必ずと言って良いほど強調します、「神が人となられた」がゆえに、と…。

しかし、グノーシス主義者の教えにおけるキリストの受肉と十字架の意味は、聖書の正統な解釈からはおよそかけ離れていることに注意が必要です。結論から述べるならば、彼らはキリストの受肉と十字架の意味を歪曲し、それを罪人が罪あるままで神に受け入れられ、生まれながらの人が神に等しい者として栄光化されるための手段として悪用するのです。

今日のキリスト教界においても、「キリストが私たち罪人を愛し、私たちのために十字架で死んで下さった」と言って、神の愛と憐みの深さに滂沱の涙を流すクリスチャンは大勢います。しかし、その中には、罪人に対する神の愛と憐みの深さを強調するばかりで、ますます悔い改めから遠ざかり、決して罪を離れようともせず、かえって罪深い自分自身に自己安堵してしまう人々がいます。
 
これまでの色々な分析を通して、そのような人々の十字架の解釈には大いなる偽りの可能性があることを、多少なりとも、明確にできたのではないかと思います。

さて、この分析においても、サンダー・シングが神の独り子なるキリストの十字架の意味をどのように歪曲してとらえているか、それがどのような点でグノーシス主義に通じているかを説明します。

ただし、サンダー・シングの文章を引用する前に、改めて、彼の文章を読む際の危険性について前もって警告しておきたいと思います。なぜなら、彼の文章は、生まれながらの人の耳には、とても道徳的で、もっともらしく聞こえるため、人々を真理から引き離す大きな危険性を持っているからです。感化力の強い、確信に満ちた独特の文体で書かれているため、本来、引用することも望ましくありませんし、クリスチャンが彼の書物に目を通すことは全くお勧めできません。

それにも関わらず、この分析においてサンダー・シングの文章を引用するのは、彼の偽りに満ちた話が、いかに生まれながらの人の耳に道徳的で、心地よく、もっともらしく響くかをあえて知ってもらうためでもあります。私たちは、偽りというものがいつも不道徳の仮面をかぶってやって来るなどと思うべきではありません。むしろ逆なのです。サタンの偽りはいつも非常にもっともらしく、正しそうに聞こえ、道徳的で、(世の)道理にかなっており、ヒューマニズムにも合致しているのです。

ですから、私たちは、ある話の内容が道徳的に聞こえるというだけの理由で、それを信用すべきではありません。肉による善行というものが存在するように、御霊を離れた人間の道徳性というものも、アダムの命から出て来るものとして、神の御前には徹底的に腐敗しているのです。ですから、欺かれないようにするためには、私たちは世の道徳基準や、ヒューマニズムの観点から物事を判断するのではなく、語られている内容が本当に聖書に合致しているのかどうかをよくよく自分で吟味する必要があります。

以下、かなり説明が長くなりましたが、一貫したテーマのため、記事を分割せずに掲載します。「続きを読む」からお読み下さい。

 

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8.見えるものを神とする――汎神論化された偽りのキリスト教

①死の否定

サンダー・シングの教えは、ただ裁き主としての神を否定し、万物に定められている滅びを否定するだけにはとどまりません。彼は何よりも、「死」という概念そのものを骨抜きにすることによって、旧創造と新創造の切り分けを否定し、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、神に属するものと、そうでないもの、一時的なものと永遠に至るものの切り分けを否定しようとします。

一言で言うならば、十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないものとを混同するこのような教えは、結局、目に見えるものこそ神であるという主張へとたどりつくのですが、まず最初に、サンダー・シングが、朽ちるすべてのものが経なければならない死という概念を、どれほど歪めて解釈しているかを見てみましょう。まず、彼の書物の冒頭の文章を引用します。

「ただ一つの生命の源――無限かつ全能の生命――がある。その創造の力が、生きとし生けるものすべてに生命を与えたのである。全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中に留まり続ける。この生命の源は、違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命を創造した。人間はその一つであり、神ご自身の姿に似せて造られた。それは、人が神の聖なる臨在の中で、永遠に幸福であり続けるためである。」(p.34)

まず、この文章を通して、サンダー・シングが事実上、目に見えるものの永遠性を主張していることがお分かりになるでしょうか? 彼は言います、神こそが全ての生命の源であり、神が全ての被造物を創造し、「全被造物はその中に生き、未来永劫にわたりその中(筆者――神の命の内)に留まり続ける」と。これは、創造の初めから今に至るまで、罪によって神と断絶した被造物は一つもなく、従って、被造物は創造からこの方ずっと神の命の中にあり、滅びを経ることなく、これからも未来永劫に、神の内にとどまり続けると言っているに等しいのです。

しかし、このような主張は「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という御言葉に反しています。人の罪のゆえに全ての「被造物が虚無に服し」、「滅びの束縛」の中に置かれたこと、神の子供たちがこの朽ちゆく肉体の中にあって、からだの贖われるときを待ち望んでいること、「被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている」(ローマ8:20-23)ことを否定しています。

サンダー・シングは全被造物には
罪のために死が入り込み、被造物が神と断絶したという事実を認めません。そして彼は「朽ちるものは、朽ちないものを相続できません」(Ⅰコリント16:50)という御言葉を無視して、被造物が持っている朽ちる命が、そのままで神の命に等しく、永遠に続くかのように主張しているのです。これは見えるものと見えないものの切り分けの否定であり、朽ちるものと朽ちないものとの混同、一時的な滅び行くものと、神の永遠の命に属するものを混同する教えです。

このような異常な考え方に立つと、新創造とは何かを理解する根拠が全く失われてしまいます。ここには旧創造と新創造を切り分ける十字架が全くありません。

さらに、サンダー・シングの使っている「発展段階」という言葉は、彼の教えが進化論の影響を受けていることを物語っています。サンダー・シングは、人は「神ご自身の姿に似せて造られた」けれども、「違った種類の、発展段階も異なる、数知れぬ生命…の一つ」に過ぎないと言っています。つまり、それぞれの生命には種類を超えた「発展段階」があると示唆しているのです。

しかし、聖書は、神がそれぞれの生命をその「種類にしたがって」(創世記第一章)造られたことは記述していますが、それぞれの生命に種類を超えた
「発展段階」があるとは全く述べていません。ですから、この言葉からも、私たちはサンダー・シングの教えが聖書に基づかず、決して神から来たのでない別の起源を持っていることをさらに明確に理解するのです。

さらに、朽ちゆく命が決して滅びを経ることなく永遠に神の内にとどまりつづけるという、絶対にあり得ない事柄を主張するために、サンダー・シングが「死」という概念をどのように骨抜きにしているかを見て下さい。


「生命は変化することはあっても、決して滅ぼすことはできない。死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するのでも、生命を加えることを意味するのでも、ましてやそこから何かを取り去ることを意味するものでもない一つの存在形態から別の存在形態へと生命を移すことにすぎないのだ。あるものが目にみえなくなっても、それは存在しなくなったのではなく、別な形と状態の中でまた現われるのである。

この宇宙の中でかつて滅ぼされたものは何一つなく、今後もそうである。それは、創造主が破滅のためにものをお造りにならなかったからである。滅ぼす意志があれば、初めから創造することはなかったであろう。被造物が何一つ滅ぼされないとすれば、被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう。神は神ご自身の形を滅ぼすことができようか。あるいは、それ以外のどのような被造物にも人間を滅ぼすことができるだろうか。決してできないのである。人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」(p.34-35)


ここでも、サンダー・シングは再三に渡り、神は絶対に人間を滅ぼしたりなさらないと、万物に定められた神の滅びの刑罰を否定せずにおれないわけですが、それはさて置き、ここで「死」という概念そのものが事実上、骨抜きにされ、否定されていることに注目して下さい。「死とは、ある存在形態から別の存在形態へと変化することを指すのであり、生命を終わらせることを意味するので…もない」と彼は言います。

このような詭弁を許すならば、死はもはや死ではなくなってしまいます。オースチンスパークスは『人とは何者か?』の中で、死についてこう述べています。「アダムのときにこれが起きた時、死が入り込みました。死の性質は、この語の聖書的意味によると、神との霊的結合からの分離です。」

人が罪を犯した時、人の霊は堕落し、神に対して死んでしまいました。全被造物も人の罪のゆえに神と断絶し、サタンと暗闇の軍勢に引き渡されました。これが死の意味です。死の真の意味は、霊的な死を指しており、神に対して死んでいるということです。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23) 肉体の死は罪が最終的に結ぶ実に過ぎません。一人の人の罪のゆえに全被造物に死が入り込んだのです。

生まれながらの人は、アダムの命にあって、人の目にはあたかも生きているかのように思われますが、それは、肉と罪とこの世(サタンと暗闇の世)に対して生きているのであって、神に対して彼は死んでいます(「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって…」(エペソ2:1))。「ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった」(ローマ5:17)。生まれながらの人は「一生涯死の恐怖につながれて奴隷」(ヘブル3:15)となって、死の支配下にあります。

もろもろの罪に対する解決策は赦しであり、それは神の子羊なるキリストの尊い血潮によって得られますが、死に対する解決法はただ一つ、復活しかありません。それはキリストのよみがえりの命によります。それは人が今まで生かされていたアダムの命に対して死んで、神の霊によって新しく生かされることです。復活は神の側からの奇跡以外の何ものでもなく、それはただキリストの達成された御業です。アダムの命からはどんなに努力しても、死以外のものを生み出すことはできません。ですから、人が神に対して生きるとは、ただキリストの十字架の死とよみがえりによる以外にはないのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4-6)

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブル3:14-15)

「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4:24)


このように信仰により、キリストの十字架の贖いを受け入れ、神の霊によって新しく生まれなければ、誰も神の国に入ることはできず、死の支配から解放される手立てはないのです。

しかし、サンダー・シングは生まれながらの人が一人の例外もなく、罪のゆえに神に対して死んでいることを認めず、信仰によらずとも、被造物の朽ちる命の永遠性を主張します。そして、人が罪のゆえに刈り取らなければならない最後の報酬である死さえも事実上、否定して、死とは「別の存在形態へと生命を移すことにすぎない」と、魔法のように言い換えるのです。こうして、アダムの朽ちる命のままで、人が永遠に至る道があるかのような偽りを教えるのです。


②肉の思いは死である

しかし、驚くべき結果に注目しましょう。このような詭弁を用いて、人の命は決して滅ぼされないと主張しているサンダー・シングの関心は、結局、どこへ誘われていくのでしょうか?

「人が死をもって滅びないとすれば、次のような問いが起こってこよう。人は死後、どこにいるのか、どのような状態にいるのか……。」


この問いの後、サンダー・シングの物語は、彼が瞑想中に出会ったとする様々な「死者との交流」、「死後の世界」に没入していきます。

なんと不健康極まりない発想だろうかと呆れ果てるのです。まさに「肉の思いは死であり」(ローマ8:6)というパラドックスが見事に表れているのではありませんか? これは彼の自己矛盾です。一方では、「被造物の極みにして神の形に造られたという人間が、どうして滅ぼされよう」と、旧創造の死を否定しながら、他方では、彼は生きている者についてではなく、死者について語らずにいられないのです。

この矛盾はまさに、「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:39)という御言葉の成就ではないか思います。朽ちるアダムの命に定められている滅びを否定して、アダムの命を惜しみ、主と共なる十字架の死を拒んで、自らの力で復活の領域に達し、永遠に至ろうとすると、人はこうなるのではないでしょうか。思いは死にとらわれ、ずっと死の周辺をめぐり続け、生きているうちからまるで死者のように、死の支配にとらわれて、黄泉の国に誘われていくのです…。

補記:「悟りの道から迷い出る者は、死者の霊たちの集会の中で休む。」(箴言21:16)

断じて、クリスチャンはこんな問いに誘われて、死者との交流というテーマに立ち入るべきではありません。義人であろうと罪人であろうと、生きている者が死人にお伺いを立てることを、聖書がどれほど禁じているか振り返ってください。

「あなたがたのうちに…占いをする者、卜者、まじない師、呪術者、呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならないこれらのことを行なう者はみな、主が忌みきらわれるからである。これらの忌みきらうべきことのために、あなたの神、主は、あなたの前から、彼らを追い払われる。あなたは、あなたの神、主に対して全き者でなければならない。」(申命記18:10-13)


③見えるものを神とする

さて、このように十字架の切り分けを否定して、朽ちるものと朽ちないもの、見えるものと見えないもの、旧創造と新創造との切り分けを否定すると、最後には、全てのグノーシス主義の教えがそうであるように、目に見えるこの物質世界こそが真のリアリティであり、見えるものこそ神であるという主張に至りつきます。サンダー・シングは次のように述べます。

「真の、全能かつ永遠の唯一神がいること、現世はその被造物であるというのが真実なのである。この物質世界は、ヴェーダーンタ学者やソフィストのいうがごときマーヤー(筆者注――幻影)ではなく、現に存在するものである。被造物は神そのものではなく、神から離れてもいない。神は全被造物の中に現臨するのである。『人は神の中に生き、動き、存在を得る」(p.393)

ここまで来ると、完全にキリスト教とは別の宗教が成り立っているとしか言えませんが、ここでサンダー・シングが言おうとしていることは、「神はすべての見えるもの(被造物)の中にいます」という結論なのです。これはほとんど汎神論と呼んで差し支えないと私は思います。

ここにもサンダー・シングの自己矛盾があります。一方では、彼はまことしやかに、彼一人だけが「霊眼」によって見たとする、(聖書にも反し)誰一人として存在を証明できない目に見えない死後の霊界について語りながら、他方では、目に見えるこの全宇宙こそ、まことのリアリティであり、「神は全被造物の中に現臨する」と宣言しているのです。

聖書によれば、悪魔は「偽りの父」であって「彼が偽りを言うとき、いつも本音を吐いている」(ヨハネ8:44)のですから、偽りの父を起源とする異端に、自己矛盾、支離滅裂がつきものなのは当然のことです。今しがたあれほど確信を持って述べたことを、次の瞬間には、平然と自分で否定していたとしても不思議ではないのです。

「実際、神は万物に在り、万物は神に在る。だからといって、神イコール万物でも、万物イコール神でもない、創造者と創造物を混同する人間が無明に沈み込むのである。」(p.175)

サンダー・シングは、被造物イコール神なのではない、とあくまで注釈をつけていますが、そうであるからといって、サンダー・シングが「神は万物に在り、万物は神に在る」と言って、信仰によらずとも、全ての被造物が神の命の内にとどまっているかのように主張し、キリストの体を、見えない霊の体としてとらえず、むしろ、目に見える宇宙(物質世界)と同一視し、目に見えるこの世の被造物に神の現われを見出そうとしている事実は否めません。

朽ちる命と、朽ちない命の切り分けを否定し、見える一時的な世界と見えない永遠の来るべき世とを混同する結果は、結局、見えるものを神として祭り上げる結論の他にないのです。このようなサンダー・シングの言説が、キリストは宇宙の全ての被造物の中に満ちており、人格を持たない木や石の中にさえおられるとしたグノーシス主義の一部の教えと非常に共通していることにも、注意を払いたいと思います。

以下は、『トマスによる福音書』、荒井献著、講談社、p.302から、

「イエスが言った、『私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」(七七)

 イエスは「光」として、覚知(グノーシス)者にとっては、そこから出てそこに帰る「すべて」のもの――人間のみならず、木にも石にも内在する。――こうして、「父」と「子」(イエス)と「子ら」は、「光」にあってその本質を一つにする。そしてこの「光」は、語録六一において「一人」あるいは「同じ者」と言い換えられるのである。」

このような主張は、神が唯一の神であって、キリストが人格を持っておられることさえも否定している点で、その荒唐無稽さに呆れる他ないのですが、しかし、サンダー・シングの主張もほとんどそれと変わりません、彼もまた目に見える物質世界に神の現われを見出そうとしているからです。

しかし、聖書は、サンダー・シングが万物を神の位置にまで押し上げているのとは逆に、万物こそ、キリストの足の下に従わねばならないことを述べています。聖書はキリストは万物の上に立つかしらであると述べています。(エペソ1:20-23 参照)

「…それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。『彼は万物をその足の下に従わせた。』からです。…万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神がすべてにおいてすべてとなられるためです。」(Ⅰコリント15:24-28)

このような文脈で、次の御言葉も述べられています。

「…すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(ローマ11:36)

聖書は、万物を支配する一切の権限が御子に委ねられていることを示しています。「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。」(ヨハネ3:35)「…万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ1:16-17)

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

聖書ははっきりと、見えるものは、見えない神の言葉によって成ったのであり、見えるものは目に見えるものから出来たのではないことを示しています。

しかし、サンダー・シングは、万物が御子の支配に服従せねばならないことを否定して、むしろ、万物を神の地位にまで引き上げようとするだけでなく、聖書によれば、見えないものこそが真のリアリティであって、見えるものはすべて、真のリアリティによって作り出された影のようなものに過ぎないという事実を決して認めようとしません。彼の書物の中には、「神(ブラフマン=絶対者)」を除いてはすべてが「マーヤー(幻影)」であるとするインドのヴェーダーンタ学派を彼が非難しているくだりがありますが、なぜ彼がヴェーダーンタ学派の「マーヤー」という考え方に激しく反対したのかも、これまでの文脈からほぼ明らかとなります。

聖書によれば、”I AM”と言われるお方だけが真のリアリティであり、全ての造られたものは、まことの神のリアリティに比べるならば、影のようなものであって、真のリアリティとは言えません。天に属するもの、すなわち、御子の十字架を経て、神の永遠の命に属し、永遠に至るものだけがまことのリアリティであり、それ以外は一時的な、滅びゆくものに過ぎないのです。そして、見えるものも見えないものも、すべての造られたものが、見えない御子によって、御子のために造られ、御子の支配に――神の霊なる支配に――服さなければなりません。サンダー・シングにはそのこと――見えるものが目に見えるものから出来たのではなく、万物が見えない御子によって成り、御子の支配に服さねばならないこと――が認められないのです。

聖書は言います、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方」であり、「万物は、御子にあって造られ、御子のために造られたのです」(コロサイ1:15-16)、律法の定めや色々な決まりごとだけでなく、造られたすべてのものは――被造物も含め――次に来るもののであって、本体はキリストにある」(コロサイ2:17)のです。

ところが、サンダー・シングは「見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続く」(Ⅱコリント4:18)という事実、目に見えるものは、「次に来るもの影」であるという事実を思わせるような主張には、(たとえそれがヴェーダンタ哲学であっても)、異議を唱えずにいられないのです。彼は言います、「目に見える被造物は夢でもマーヤーでもなく、現実のものなのである」(p.395)と。つまり、見えるものこそが、真のリアリティであると彼は言いたいのです。

これが見えるものと見えないものの秩序をさかさまにした偽りのキリスト教であることはすでに述べましたが、このような主張は結局、見えるものを神としている点で、(まことの神を否定して物質を神とする)唯物論、また、物質に神性を見出そうとする汎神論となり、聖書からは全くかけ離れた別の教えになるのです。


④ 神の国をこの世と同一視する

こうして、見えるものと見えないものの順序をさかさまにし、朽ちるものと朽ちないものを混同し、霊によって把握すべきことを魂によってこの世の領域に還元し、地に属するものと天に属するものを混ぜ合わせようとした結果、サンダー・シングはキリストのからだを見えない霊のからだとして理解せず、むしろ、キリストを見える世界そのものに見出そうとして、ほとんど汎神論と言っても良い主張に陥るだけでなく、彼は神の国というものも、目に見える世界に還元し、神の国をこの世と同一視しようとするのです。

「全宇宙は体である。四肢はどれも全身につながっているので、一部にでも痛みが生じれば、全身にそれが響く。血清が体の一部に使われれば、全身がその作用を感じる。それと同じく、キリストはこのみえる、そしてみえざる宇宙の一部たる地球で十字架に付けられたにもかかわらず、全宇宙がキリストの死から影響を被った。また、キリストは世の救いのためにただ一つの場所(エルサレム)で十字架にかけられたにもかかわらず、今も全世界はキリストの犠牲を共にしている。霊が全身に満ちているように、神は全宇宙に存在している。」(p.291)

ここでも、「神は全宇宙に存在している」という汎神論的主張が繰り返されています。その上、サンダー・シングがここでもやはり、信仰の必要性を否定していることが分かるでしょうか。ここで彼は、まるで全世界の被造物が、歴史を通じて、キリストの十字架と自動的に一体であり、キリストと絶え間なく苦しみを共にして来たかのように述べています。しかし、きちんと聖書に戻るならば、この言説がまるで嘘であることがよく分かるのです。

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:9-12)

ここにははっきりと書いてあります。「世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」と。世は自分を救うために遣わされたキリストを受け入れることを拒み、彼を十字架につけて殺したのです。

にも関わらず、サンダー・シングは世が御子を拒んで十字架につけた罪には一切触れずに(上記の文章の続きのくだりでも、キリストの十字架は罪人に対する神の一方的な愛のボランティアに過ぎなかったことにされ、世が彼を十字架につけて殺したその罪については一言の言及もありません)、まるで全世界が初めから彼の犠牲に哀悼の意を表し、全宇宙がキリストと自動的に一体であるかのように述べているのです。これでは、世の犯した罪も、信仰の必要性も否定されてしまいます。

聖書ははっきりと述べています、「…この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」と。

このように、個人的な信仰によらなければ、誰もキリストの十字架の贖いを受け取ることはできず、神に受け入れられることもないにも関わらず、サンダー・シングは、あたかも信仰によらなくとも全世界がキリストの十字架により自動的に贖われているかのように主張し、信仰による救いを否定し、そのようにして、御子を拒んだ世の罪を覆い隠し、帳消しにして、この世をむしろ名誉回復させようとしているのです。

ですから、このようなことを考え合わせるならば、サンダー・シングが述べている全宇宙に存在している神とは、とどのつまり、この世の神を指していると言って良いのではないかと思います。
「私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19)。人の堕落とともに、この世、旧創造はサタンに引き渡されました。ですから、「この世の君」(ヨハネ12:31)とはサタンのことに他なりません。それらの文脈を一切を無視して、サンダー・シングは目に見えるこの世があたかも創世の初めから神に背いたことなど一度もなく、キリストの十字架以来、絶えず彼と苦しみをともにして来たかのように主張し、世の罪というものを認めないのです。これでは結局、彼はこの世の神をまことの神として逆転させようとしていると言っても過言ではありません。

「…この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(Ⅱコリント4:4)

サンダー・シングの次のような言説も、すべてをさかさまにしているため、決して惑わされないように注意しなければなりません。

「神が存在するところには、天国あるいは神の国がある。だが、神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある。このことを知っている真の信仰者はどこにあっても、どのような状態にあっても、苦しみや困難に見舞われているときも、友の中にいるときも敵の中にいるときも、現世にあっても来世にあっても幸せである。彼らは神の中に住み、神もまた彼らの中に永遠に住まわれる。これこそ神の国である。」(p.304)

注意して下さい、このような主張は東洋人の好みに非常に合致しているがゆえに、日本人の耳にとても良さそうに響くのです。日本人の文化的・精神風土には、「知られない神に」(使徒17:23)と刻んだ祭壇を拝んだアテネの人々のように、「神(々)はどこにでも存在する」という考え方が脈々と流れています(聖書の神は遍在されますが、この時空間の中に住まわれるのではなく、また、被造物の中に神性として宿っているのでもありません)。私たちは幼少期から、八百万の神や、石で作った道ばたの地蔵にも神が宿っているといったような考え方に慣らされて、神を人格としてとらえないことや、あたかも目に見えるどんな被造物の中にも神が宿っているかのような考えを受け入れやすい精神的土壌が作られてしまっているのです。

しかし、きちんと聖書に戻りましょう。神の国はどこにあると聖書は言っていますか?

神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:20-21)


この記述に照らし合わせるならば、「神はどこにも存在するので、天国はすべての場所にある」というサンダー・シングの主張が完全に偽りであることがよく分かります。彼の主張とは逆に、聖書は、神の国の所在をきわめて限定しています。神の国はこの世の時空間に存在するあれやこれやの場所や、あれやこれやの被造物の中にはなく、ただ御子を信じる者のただ中に存在すると聖書は言っています。ですから、サンダー・シングの述べている地上天国の夢がどんなに良さそうに響いたとしても、聖書に反して、神の国をこの地上の時空間内(全ての被造物の内)に見出そうとしている点で、それがむなしい偽りの夢に過ぎないことが分かるのです。それは地上に作り出された神の国の幻(模造品)に過ぎず、その偽りの夢を作り出したのは、ただこの世においてのみ活動を限定的に許されている者たち(暗闇の勢力)なのです。

最後に、もう一度、確認しましょう、キリストはどこにおられるのでしょうか? 「木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」と、果たして主は言われたのでしょうか? 「神は万物に在り、万物は神に在る」「神は全被造物の中に現臨する」、それが聖書の教えなのでしょうか? 

いいえ、まず、神については聖書はこう述べています、

「神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(Ⅰテモテ6:15-16)


(そうです、この御言葉にも、死のない方はただ神お一人しかおられないということが示されているではありませんか。) そして、キリストのおられる場所は、次の御言葉が示している通りです。


「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)


 



7.裁き主としての神の否定

聖書は、神は愛であられると同時に、大いなる「さばきの主」(イザヤ33:22)(ヤコブ5:9)であることを教えています。ところが、サンダー・シングは言います、「愛なる神」と、「裁き主である神」とは、決して両立し得ない相矛盾する側面であると。彼は聖書を歪曲してでも、人間にとって都合の良い「愛なる神」だけを残し、「裁き主である神」を否定しようとします。彼は言います、「『神は誰をも罰したりはなさらない。誰をも地獄に落とされたりはなさらない。そのようなことは、キリストが教えられ、十字架上での犠牲によって表された神の愛とは相容れぬものである。」(p.21)と。

このような考え方がどの点で聖書に反し、誤っているかを理解するために、まず、「神の愛」とは何なのか、もう一度、聖書を振り返ってみましょう。

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ56:8-9) 

まず、聖書は言います、神の思いは人の思いとは異なっており、人の思いよりも高いと。私は神の愛とは、神の御思い、神のご計画、神の御旨そのものを指すと言って良いと考えていますが、そもそも、神の思いは、人の思いによってはかり知ることのできないものです。従って、神の愛に、人間に理解可能な、人間に都合のよい解釈を施そうとすることに非常な無理があることは明らかです。

さらに、私たちは神が愛であることと、神が公正な裁きを行なわれるという二つのことが、何ら矛盾しないことを知っています。これを卑近な例で考えてみましょう。子供を愛する父親は、子供が従順である間は愛に溢れている親しみやすいパパですが、もしも子供が父の戒めを破り、悪戯をするならば、「鬼のように」恐るべき存在へと変わるでしょう。父親は子供を叱り、子供は恐ろしさのあまり、二度と父に近寄りたくないと感じるかもしれません。しかし、その時、たとえ子供には理解できなくとも、父の怒りは、愛ゆえの訓戒なのです。

子供が悪いことをした時に、本心から叱ることのできないような父親は、良い父親とは言えません。何でも赦して大目に見るのが愛なのではありません。父親は審判者でなくてはならず、何が正しいのかを子供に教える手本となる義務を負っています。

また、ならず者が家に侵入しようとすれば、父は一家を守るために立ち上がり、彼を撃退するでしょう。父は権威を帯び、力を持って、一家の中で自分の支配を確立せねばなりません。彼の秩序にそぐわないものは警告を受け、叱責され、それでも従わないなら排斥されます。排斥される側にとって、彼は恐れの的でしょう。しかし、それは父が家族を愛しているということに反しません。彼は自分の保護下にある者を守るために権威を帯びなければなりません。その権威を正しく行使することが彼の義務です。愛によって、彼は家族を守るために権威を行使するのです。

詩篇の作者は次のように述べています、神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。」(詩篇7:11-13)、「主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行なわれる。」(詩篇9:8)、「主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。」(詩篇19:9)

以前にヨナの話をしたのを覚えておられるでしょうか。ヨナが主の御顔を避けて逃げ出した一つ目の理由は、ニネベの人々に厳しい託宣を告げたくなかったことにあるだろうと述べました。しかし、ヨナが主の御顔を避けたもっと重要かつ直接的な理由があると考えられます。それは、ヨナが裁き主としての主の御顔を恐れたということです。

「主の御顔を避けて」(ヨナ1:3)、この言葉に注目するならば、ヨナは他のどんなものよりも、主の御顔そのものから身を隠したかったことが分かるのです。一体、なぜでしょう? もしもヨナが主の憐みに満ちた御顔を仰いだのであれば、彼は御顔を慕い求めこそすれ、それを避けて逃げ出す理由はなかったでしょう。しかし、ニネベに滅びの宣告を伝えることの恐ろしさもさることながら、何よりも、主の御顔こそ、ヨナの心に最も大きな恐れを呼び起こしたのではないかと考えられるのです。

それは、彼が裁き主としての主の御顔を見、それを恐れたためではないかと思います。黙示録の中にそう考える一つの根拠を見ます。黙示録において、ヨハネは裁き主としての主イエスを見ますが、その容貌は非常な恐れを彼に起こさせるものでした。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」(黙示1:12-16)

ヨハネの見た正確なイメージをこの言葉から思い浮かべることは難しいです。しかし、私たちは少なくとも、主の御顔を見たとき、ヨハネがどのような反応をしたのかを知っています。「…私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった」(黙示1:17)

預言者イザヤはウジヤ王の死んだ年に、高くあげられた王座に座す聖なる万軍の主を見ました。その時、イザヤが何と言ったか、私たちは知っています、「ああ。私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6:5)

ホレブの山で主が火の中から語られたとき、イスラエルの民は神にこう願い求めずにいられませんでした、「私の神、主の声を二度と聞きたくありません。またこの大きな火をもう見たくありません。私は死にたくありません。」(申命記18:16)

シモン・ペテロは主が御業をなされたとき、主の足もとにひれ伏して、こう言わずにおれませんでした、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」(ルカ5:8) 

そうです、聖なる方、いと高き方、大いなる裁き主、正しい審判者、この方の前で、肉なる者は誰一人立ちおおせません。神の聖に近づくとき、私たちはもはや自己肯定できなくなり、自分が死にしか値しない罪人であることを思い知らされ、深く恐れ、おののきながら、御前にひれ伏すしかないのです。

神の光は何よりも、私たちがいかに神の聖から遠く隔たった罪ある者であるかという事実を容赦なく見せます。神の光は、私たちがそれまで見ることを拒んでいた自分自身の真の姿を明るみに出し、私たちに旧創造の忌まわしさを見せて、それまでの自己安堵、自己肯定を打ち砕きます。御光の下で、私たちは自分の裸の恥を露にされ、自分が神の御前でどれほどまでに腐敗し切って、ただ死にしか値しない、惨めな肉に過ぎない者であるかという事実を思い知らされます。私たちは深く恥じ入り、死人のように恐れおののいて、塵と灰の中で悔い改める他ないのです。

ダビデも神の裁きを恐れてこう言わずにいられませんでした、「まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。」(詩篇90:7-9)

「主よ。私の祈りを聞き、私の願いに耳を傾けてください。…あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれひとり、あなたの前に義と認められないからです。」(詩篇143:1-2)

行いにおいては何一つ落ち度がなかった義人ヨブも、主に試みられて、こう言う他ありませんでした、「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(ヨブ42:5-6)

神は恐れおののいて崇められるべき方です! 本当に神の光に照らされて御前に立つ時、神に心を探られ、試みられる時、私たちは自己弁明の全てを捨てて、御前にひれ伏し、沈黙するしかないのです。「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ。」(ゼカリヤ2:13)

これらは、旧創造そのものが神の御前に罪に定められていることをはっきりと表わしています。ただ私たちのあれやこれやの罪が忌まわしいものであるというだけではなく、旧創造の全てが十字架の死に服さなければならないのです。私たちの生まれながらの命は何の役にも立たず、ただ死にしか値しません。私たち自身には改良の余地がありません! 私たちはただキリストの十字架の死に服すしかなく、彼とともに死を経て、彼の命によってよみがえらされたものだけが、神の御前に貴く、受け入れられるのです。そのことを、信仰によって進んで行くごとに、私たちはますます深く知らなければならないのです。

そして、神の愛とは、私たちを滅びから救うために、御子を遣わして、私たちの負うべき刑罰を御子に身代わりに負わせ、十字架上で御子がご自分の肉体を裂いて、私たちのために新創造へ至る道を開いてくださった、その御業にこそ現れています。従って、旧創造に対する神の刑罰を否定するならば、私たちは神の愛の最高の表現を否定していることになり、もはや神の愛を理解する手がかりは全く失われてしまうのです。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしがあなたがたに命じることをあなたがた行なうなら、あなたがたはわたしの友です。

わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:13-15)


恵みとは、それに全く値しない者に与えられるからこそ、恵みなのです。私たち自身のうちにわずかでも、それを受け取るべき資格があったのでは、それは恵みにはなりません。私たちは永遠に廃棄されてしかるべき厭うべき堕落した罪人に過ぎませんでした。神は私たちを大目に見て、無罪放免するために、私たちに対する刑罰を思い直され、撤回されたのでは決してありません。神は私たちに対する刑罰を、十字架で御子に余すところなく負わせ、ご自分の義を証明され、罰せられるべきものを罰せられたのです。すべては御子が成就されたのです。御子は私たちの受けるべき苦痛のすべてを十字架で受けられ、肉において罰せられ、霊において神に捨てられ、そして言われました、「完了した。」(ヨハネ15:30)と。

死に至るまで従順であった御子の名のゆえに、私たちは御父に何でも願い求めることが許されており、御子の従順のゆえに、私たちは御父に子供として受け入れられるのです。私たちは、自分が決して自力では神に受け入れられることのできない者であり、すべては神の恵みによったのであることを片時も忘れるわけにはいきません。私たちは信仰によって、御子の刑罰を自分への刑罰として受け取り、私たち自身が主とともに十字架で死に渡されたことに同意することによって、このアダムの命、旧創造に死んで、彼の復活の命へと入れられ、御子のゆえに、神に喜ばれ、受け入れられる者とされるのです。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

地上にある間、私たちは御父によって、僕として、子として訓練を受けます。私たちは御子の贖いを信じて受け取っているので、私たちを永遠の滅びに定める神の裁きからは解放されていますが、しかし、地上にあって主の訓練を避けることはできません。ある意味で、私たちは義なる裁き主によって、罰せられたり、懲らしめられる存在です。その度ごとに、主の正しさを知り、恐れを持って裁き主の御顔を仰ぐのです。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3:19) 

私たちは、主なる神が「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18:17)と言われたアブラハムや、顔と顔を合わせて主と見えたモーセのように、主に信頼される僕、いや、友のようにまでなれるか分かりません。

それは私たちの歩み次第でしょう。それでも、恵みの中で、僕から子供へ、子供から息子へ、息子から友へと、恵みにふさわしく、主が私たちを訓戒し、生長させて下さることを疑いません。もしも私たちが主の小さな信頼に応えることができ、任されたわずかなものに忠実であるならば、より多くの信頼を受け、より多くを任されることになるでしょう。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実」(ルカ16:10)だからです。それについてはまたいつか述べることができればと思います。

とにかく、神は愛であられますが、私たちを叱ったり、懲らしめられる方なのです。そして神が愛であることと、神が裁きを行なわれ、人を罰したり、訓戒される方であるということは何ら矛盾しないのです。神は秩序の神であり、彼の秩序の中に、彼の権威と支配の中に、全ての調和が保たれているのです。

「『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』 

訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。

さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめられたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら…、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものでなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。ですから、弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。…聖くなければ、だれも主を見ることができません。」(ヘブル12:5-14)





6.復活の否定

「しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:23)

生まれながらの人の思いの奥底には、人のアダムの命、すなわち、旧創造が神によって滅びに定められているという事実をどうしても認めたくない思いがあります。それは、生まれながらの人が神の御前に腐敗し切っており、ただ滅びの刑罰にしか値しないという事実を否定して、生まれながらの人(肉)をできる限り弁護したいという自己義認の思いに基づいています。また、それは神によって罰せられることへの生まれながらの人の根強い反発と恐れでもあります。

クリスチャンになって十字架の意味を知った後でも、私たちの心の中には、依然として、十字架の死を厭う気持ちがあります。肉が死の刑罰にしか値しないとは認めず、むしろ、肉の腐敗から目を背け、肉による善行を積み上げることによって、神に受け入れられ、天にまで達したいという願いがあります。人の生まれながらの心は、自分自身に対する神の刑罰を真正面から受け止めることができません。

偽りの福音は、人の生まれながらの自己の内にあるそのような自己保存の願望、すなわち、肉を弁護し、旧創造を惜しむ気持ちに巧妙に働きかけて、また、神の愛を悪用することによって、人が十字架の死を避けて、自分の生まれながらの命を保つようささやきかけます。主イエスが、エルサレムで受けねばならない苦難や、十字架の死と三日目のよみがえりについて弟子たちに語られたとき、ペテロの口を借りてサタンが語ったのが、そのような偽りの教義でした。

サタンの偽りの教義は、旧創造が全て十字架の死を受けなければならないことを否定します。サタンは「神の愛」を拡大解釈することによって、神は憐み深い方なので、罪人を寛容に赦して下さるはずであり、人が十字架の死という重すぎる神の刑罰を耐え忍ぶ必要はない、それは人にとっては残酷すぎると説明します。そうして、サタンは主イエスに向かって、生まれながらの人(アダム)を弁護して、アダムの命を惜しむよう提案したのでした。

サタンは今日、神の子供たちにも同じ提案をささやきかけます。すなわち、クリスチャンが旧創造は十字架で死に渡されねばならないという事実を否定して、アダムの命を惜しみ、弁護するよう仕向けるのです。それは、十字架の死がなければ、復活はあり得ないことをサタンは知っているからです。

サタンは復活の命を激しく憎んでいます。なぜなら、復活の命の現われほど、悪魔とその暗闇の王国に対して、決定的な敗北を突きつける事実はないからです。復活の命が地上に現われることは、その領域に御子の揺るぎない統治が確立され、神の国が到来し、サタンの支配が追放されることを意味します。復活の命のあるところには、汚れたもの、旧創造はもはや存在する余地がありません。復活の命が現われるための前提として、旧創造は全て死んでいなければならないからです。

アダムの堕落とともに、目に見えるもの、万物、旧創造は全てサタンの支配下に引き渡されました(「私たちは…全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。」(Ⅰヨハネ5:19))。旧創造はサタンの作業場です。ですから、旧創造が真に主と共なる十字架の死によってはりつけにされ、キリストの復活の命が生じることは、悪魔にとっては自分の作業場である旧創造に対する支配権を失うという大打撃をもたらします。

それだけではありません。キリストの復活の命の現われそのものが、サタンにとっては永遠の恥辱に満ちた敗北であり、致命的な脅威でもあるのです。それは、復活の命の現われは、御子が十字架で取られた勝利――「死は勝利に飲まれた」(Ⅰコリント15:54)――を完膚なきまでに証明するからです。御子の来臨に先立って、キリストの復活の命が現われるところではどこでも、御子が悪魔の最大の武器である死をすでに打ち破って、もろもろの支配と権威の武装を解除され、彼らをさらしものにして、揺るぎない統治を確立されたことが証明され、神の国の(御子の霊なる)支配が打ち立てられることにより、悪魔の支配はすでに打ち破られ、彼にはもはや何の権利も力もなく、悪魔は御子によってすでに滅ぼされたことが、事実として証明されるからです。

ですから、サタンはクリスチャンの目から何としても復活の命を隠したいのです。何としても復活の命の現われを阻止し、復活を地上から消し去りたいのです。悪魔はあらゆる方法を尽くして、クリスチャンが復活の命に達しないように仕向けます。そのために、悪魔は復活という概念そのものを作り話であると思い込ませて嘲笑するか、もしくは、罪人に対する神の愛や憐みを拡大解釈することにより、十字架の教義を歪め、クリスチャンが十字架を厭い、自分の命を愛し、それを惜しんで十字架の死を拒むように仕向け、どんなことがあっても、決して御子の復活の命へ達することがないよう妨げるのです。

「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

それでも、もしも私たちが主と共なる十字架の死を経由して、復活の領域を実際に生き始めたならば、地獄の全軍勢が私たちに敵対して立ちはだかるのが分かるでしょう。私たちは復活の命に生きるようになって初めて、神の子供が、血肉によっては到底、立ち向かうことのできない、暗闇の全軍勢からのどれほどはかりしれない憎悪の前にさらされているかを、実際に理解し始めるのです。復活の命の現われを地上から消し去るために、サタンが人知を超えた方法で総力を尽くして神の子供たちを日夜攻撃することをも実際に分かるでしょう。その攻撃と対峙する時、復活がどれほどサタンの憎むべきものであるかを私たちは知るのです。そこには私たち個人に向けられるべき憎しみをはるかに上回る、まさに想像を絶するものがあります。それと同時に私たちは、キリストの復活の命の現われが、闇の王国に対してどれほど圧倒的な脅威となり、そして、彼らにとって大いなる敗北を意味するかも理解し始め、復活の命の中にある勝利を敵に対して実際に行使することを学び始めるのです。

「もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。」(ヨハネ15:19)

「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12:32)

ですから、「愛である神は誰一人地獄に落とし給わない。永遠にそうである」(p.210)というサンダー・シングの主張は、旧創造が神によって罰せられることへの否定、神の正しい裁きへの異議申し立てに貫かれていることが分かるでしょう。

いかに「愛」という罪人の耳にとって心地よい言葉を使っていたとしても、このように旧創造に対する十字架の死の刑罰を否定する教えは、神から来たものではありません。そこにあるのは、旧創造に対する滅びはないと主張することで、新創造(復活)が現われることを何としても阻止したいサタンの思惑であり、それが独特の美意識をまとって教義化されたものであると言って差し支えないのです。

このような主張は、表面的には神の愛を語ってはいますが、神の愛を本当に知りたいという動機から出て来たのではありません。むしろ、神が全ての旧創造を滅ぼされることに対する根強い不満がそのような教えを作り出すのです。ペテロが主を脇に呼んでいさめ始めたとき、彼の言葉には、あたかも、主に対する美しい愛があったかのように聞こえたことでしょう。それでも、人間的には美しい同情で飾られていたペテロの主張は、神の御前に悪しき動機から出て来たものとして罪定めされたのです。それは彼の述べた思想が、人間にとって都合が良くとも、神のご計画を否定し、妨げようとするものだったからです。

ですから、神の愛を口実にして、旧創造に定められた滅びを否定してはいけないのです。そのような教えの背後には必ず、目に見える全てのものに対する神の滅びの宣告を否定して、自分自身が滅びに定められていることを決して認めたくない暗闇の世の主権者の思惑があります。

聖書の記述から、私たちは邪霊や悪鬼たちが人知を超える知性を持っており、キリストが来られる時に、自分たちがどうなるかを知っていたことを見ます。(たとえば、ルカ4:34参照。)

汚れた霊でさえ、御子の権威を前にして、自分たちの支配がもはや成り立たず、自分たちが滅ぼされる他ないことを知っていたのです。まして、御言葉を曲げる偽預言者たちが、自分たちに対する聖書の永遠の滅びの宣告を知らないはずがあるでしょうか。偽りの教えを語る者たちが必死になって、神は愛だから人を滅ぼしたりなさらないと、神の刑罰を再三に渡り、否定せずにおれないその理由はそこから明らかなのです。それは彼らが神が自分たちに下された判決を知っており、自分たちがどこへ行かなければならないかを知って、それが成就するときが来るのを、心底、恐れているからなのです。

「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。強い人の家にはいって家財を奪い取ろうとするなら、まずその人を縛ってしまわないで、どうしてそのようなことができましょうか。そのようにして初めて、その家を略奪することができるのです。」(マタイ12:29)

「神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。」(コロサイ2:15)

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神の全ての武具をとりなさい。」(エペソ6:12-13)


「…彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙示20:10)




5.アダムの神格化という誤った考えについて(補足)

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ5:12)

以前の記事の中で、私はグノーシス主義の多くの教えがアダムを神格化し、アダムを神に等しい者(=神に勝る)とみなしていることについて触れました。

「いつか自分が、似せて造られた神に戻る。それが人間の究極の目標なのだ」、
というサンダー・シングの言葉からも、彼が多くのグノーシス主義者と同じように、堕落以前の「アダムは神であった」と考えていることが分かります。なぜなら、サンダー・シングはわざわざ「神に戻る」と言っているからです。もしも人が最初に神であったと考えていないのなら、神に戻るという表現を彼は用いなかったでしょう。

このようなアダムを神とする考えがどれほど聖書に反し、誤っているかを確認するために、私たちはもう一度、きちんと聖書に照らし合わせて、アダムとは何者であったのかを振り返ってみたいと思います。

(6/28 今回は相当に長く込み入った説明となってしまいましたが、補足説明ということで、分割しないで以下にそのまま掲載します。一部、正しく表示されなかった部分を修正しました。「続きを読む」ではなく、以下、本文に掲載し直します。)


 
①創造された当初のアダムの不完全性
②今や堕落して肉となったアダム
③全き人である第二のアダム、キリスト
④アダムにある地位とキリストにある地位の比べものにならない違い
⑤ キリストの十字架の死と復活 新創造に至る唯一の道
⑥ アダムの命と神の永遠の命との違い
⑦ 人の魂の危険性と、自己(魂の命)を否んでキリストのうちにとどまる必要性

①創造された当初のアダムの不完全性

アダムとエバは神の御旨に従って、全地を統べ治めるために創造されました。創造された当初、人類に罪はありませんでした。しかし、アダムは神ではありませんでした。聖書が述べているのは、アダムが神にかたどって、神のかたちに似せて造られたという事実だけです。

「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(創世記1:26-27)

私たちの神はこう言われます、「私は初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ44:6)と。このように、天地の造り主はただお一人です。神はただお一人です。人は神に造られた被造物に過ぎません。被造物を神とすることは、創造主を否定し、唯一の神を否定することを意味します。

さらに、第一の人アダムは、第二のアダムであられるキリストと比べるならば、全き人ではなかったことが分かります。オースチン・スパークスは『人とは何者なのでしょう?』の中で、アダムの不完全性についてこう説明しています。

「創造された時、アダムは罪がなく純真でした。神は彼が完全になるよう定められましたが、創造された時はまだそのように完全ではありませんでした。これを理解することが重要です。彼が神の御旨に完全に到達するには、彼の性質と目標の中に何かが加えられなければなりませんでした。人の霊を通しての神とのつながりには、一体化への潜在性や可能性はありましたが、絶対的かつ決定的な一体性はありませんでした。ですから、彼は戒めや命令という線に沿って神に従わなければならなかったのです――それは息子として以上に、僕としての地位においてでした。あるいは、新約聖書における「子供(child)」と「息子(son)」の区別を用いると、「この違いは生まれた者と成熟に達した者との間の相違である」と言えます。アダムの場合、子供から息子へ、外的統治から内的統治へ、不完全から完全へ、この地位を飛躍的に向上させたであろうものは、信仰の従順による永遠のいのちでした。」

アダムは毎時、自分の外側にある命の木を選び取ることによって神に従い、神への従順を通して、完全な存在に至ることが望まれていました。しかし、人は魂の領域に働きかけられることにより、欺かれ、神に背いて善悪を知る知識を選んで罪を犯したことにより、神の御旨を成就することに失敗しました。


②今や堕落して肉となったアダム

今やアダムの罪を通して全人類に罪と死が入り込みました。人は生まれながらにして「自分の罪過と罪との中に死んで」おり、「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」となりました(エペソ2:1-3) 

アダムは不名誉な堕落によって、肉の象徴、朽ちる命の象徴、罪と死の象徴となりました
。「あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3:19)、これが第一の人であるアダムに対する神の宣告です。

「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)「…私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。」(詩篇51:5)

生まれながらの人は「肉にすぎない」(創世記6:3)者となりました。「肉によって生まれた者は肉です。」(ヨハネ3:6)、「肉の思いは死であり…、肉の思いは神に対して反抗するもの」であり、「それは神の律法に…服従できないのです。」(ローマ8:6-7)、「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り」(ガラテヤ6:8)、「肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:8)

何という惨めな宣告でしょうか。アダムに属し、肉にあって歩んでいる限り、誰一人として、神を喜ばせることはできず、永遠に至る実を結ぶこともできません。そればかりか、私たちはもっとひどい風景を見ます、人の堕落により、目に見えるこの世界や、他の被造物までも、人類の罪の影響を受けて堕落したのです。

「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。」(創世記4:17)。神は人ばかりか、目に見える世界も、罪による堕落のために、もはや廃棄されるしかないことを決定されました。

人の罪が目に見える世界に悪影響をもたらすものであることは、聖書が随所で述べている通りです。(たとえば、ホセア4:1-3を参照下さい。)

罪による堕落のゆえに、アダムのみならず、アダムもろともに万物も、滅びを免れることができなくなりました。神は見えるものすべてに対し、全面的な廃棄を決定されました。神が創造された当初、「非常によかった」(創世記1:31)全ての見える世界が、人の罪のゆえに、むなしくなり、滅びを宣告されたのです。

「万物の終わりが近づきました。」(Ⅰペテロ4:7) 目に見えるものはこうして滅びへ向かう一時的なものとなったのです(Ⅱコリント4:18)


③全き人である第二のアダム、キリスト

神はアダムをあきらめられ、アダムを廃棄することを決定されました。しかし、アダムが失敗したことをもう一度、なし遂げて、御旨を成就させるため、そして、全世界を滅びから救い、被造物を贖うために、神は愛する御子を人として地上に遣わされました。神は人が受けるべき刑罰を、御子に身代わりに受けさせることによって、かつてノアの箱舟を通して、人々を目に見える世界の滅びから救いだされたように、御子の十字架を通して、信じる人々を見える滅びから救い、堅い基礎の上に建てられた都(ヘブル11:10)、震われない国(ヘブル12:28)、見えない天のふるさと(ヘブル11:16)、来たらんとする永遠の都(ヘブル13:14)へと連れ出そうとなさっておられます。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。」(Ⅰコリント15:21-22)


「この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。」(Ⅰヨハネ2:2)

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。」(エペソ2:14-16)

神はアダムにもはや何の期待もしておられません。アダムの命に属するもの、旧創造は滅びにしか値せず、神の御前に何の価値も持ちません。第二の人であるキリストだけが、神の御心を満足させました。ですから、信仰によって御子の十字架の贖いを受け入れ、彼とともに死と復活を経て、キリストのよみがえりの命によって新創造とされたものだけが、神に対して生き、永遠に至る実を結ぶことができるのです。アダムの命に属するものではなく、キリストのまことの命に属するもの、キリストの十字架を経て、新創造とされたものだけが神の目にかなう、神を喜ばせるものなのです。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

こうして、目に見える滅びゆく世界と、目に見えない永遠に至る来るべき世との間には、主イエスの十字架という隔てが永遠に置かれました。この御子の十字架を通らずして、神の国に至ることのできる人は一人もいません。


④アダムにある地位とキリストにある地位の比べものにならない違い

私たちは堕落以前のアダムが持っていた地位と、クリスチャンが現在、キリストにあって受け継いでいる地位とが比較にならないものであることに注意を払う必要があります。

「…神である主は、土地のちりで人を形作り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きたものとなった。」(創世記2:7)

この記述は、アダムが神と交わることのできる霊を持っていたことを示していますが、しかし、アダムが生かされていた命は、私たちクリスチャンが御子にあって、賜物として与えられている永遠の命――キリストのよみがえりの命、神の非受造のいのち――ではなかったことに注意しなければなりません。アダムは当初、罪なき者として創造されましたが、彼は神の子ではありませんでした。もう一度言いますが、アダムは(グノーシス主義者の言うような)神でなかっただけでなく、アダムは私たちクリスチャンのように神の命によって生かされる神の子供でもなかったのです。

メアリー・マクドゥーノフは、
『神の贖いのご計画』の中でこう説明しています、「最初のアダムは神の子ではありませんでした。その理由は生物学的に明らかです。彼は、神のいのちと同じ種類のいのちを持っていませんでした。

贖いは、最初のアダムの堕落以前の水準に人を回復する』という誤った考えがありますこの誤りの原因は、子たる身分に関する無知にあります。これは実に悲しむべきことです。私たちは贖いによって、堕落以前のアダムとエバよりも高い身分――神の子としての身分――を受けました私たちは永遠の御子を通して神の子にされました

このように、御子の贖いによって、私たちクリスチャンは堕落以前のアダムよりもはるかに高い身分、神の子としての身分(ローマ8:15-16)を受けているのです。私たちは神の永遠の命(ローマ6:23)を受けています。これはアダムが持っていなかった命です。

アダムは生きた魂でしたが、彼は血肉に過ぎませんでした。彼は土で造られ、地に属する者であり、神の国を相続できませんでした。私たちは第二の人であるキリストによって、命の御霊を受け、神の子とされ、天に属する者とされ、神の国を受け継ぐ約束の保証を受けているのです。御子を通して与えられている賜物のはかりしれない大きさを少しでも理解するなら、誰も、創造当初のアダムに回帰することが人類の目標だなどと思わないでしょう。

「聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。

第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。…朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。…朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』としるされている、みことばが実現します。

死のとげは罪であり、罪の力は律法ですしかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(Ⅰコリント15:45-57)


ですから、アダムへの回帰を主張している人々は、二つの点で完全に誤っているのです。一つは、罪のゆえにアダムの命は腐敗し、神はアダムに属するものを永遠の滅びに定められ、旧創造にはもはや何の改善の見込みもなくなったという事実を否定していること。もう一つ目は、神がキリストを通して、私たちにお与え下さっている永遠の命、神の子として神の国を受け継ぐ保証という、はかりしれない絶大な恵みを無視していることです。



⑤ キリストの十字架の死と復活 新創造に至る唯一の道

少し話が横に逸れますが、今日、クリスチャンにはもろもろの罪の贖いとしての十字架は語られますが、新創造に至るためのキリストの十字架の死についてはほとんど知らされていません。この地上での生涯において、新創造とされることの意味を知るためには、私たちはキリストの十字架の死について知ることを避けて通ることはできないにも関わらずです。

十字架で流された子羊の血潮は、私たちのもろもろの罪(複数形)を赦すことができ、それを通して私たちは神との和解を受けます。しかし、十字架の贖いの働きはそこで終わりません。血潮によってもろもろの罪に対する赦しを得ることは、私たちの旧創造、単数形の罪を対処することとは別のことです。旧創造を対処するのは、血潮ではなく、十字架です。

たとえ血潮によって何度、もろもろの罪を赦されたとしても、もろもろの罪を生み出す源となっている「罪と死の原理」(ローマ8:2)が私たちの肉のうちに、この罪のからだの内に働いている限り、私たちは依然として罪に支配され、そこから一歩も抜け出すことができません。それはちょうど悪習慣に支配されている人が、何度、悪い行ないをやめようと決意し、努力を重ねても、目に見えない強力な力によって、再び同じ悪い行ないに引き戻されていくのに似ています。一つ一つの行ないは目に見えない法則性の結果に過ぎず、その法則性が断ち切られない限り、何度でも同じ結果が現われるのです。

私たちの生まれながらの命、アダムの命の中には、ただ挫折あるのみです。肉に従って歩いている者は、肉の原理に支配されるしかなく、決して神に従い得ないのです。肉の内に、朽ちるからだの内に働く罪と死の原理が有効である限り、それは私たちに何度でも罪を犯させ、滅びという結果を刈り取らせるだけなのです。

ですから、私たちがからだの内に働く「罪と死の原理」から解放されるためには、死によって、肉の支配から解放されるという方法しかありません。それを実現するために、キリストは、(彼に罪はありませんでしたが)罪深い肉と同じようなさまで地上へ遣わされ、全てのアダム(肉)を着て十字架へと向かわれ、十字架上で肉において罪を罰せられ、ご自分の死によって罪深い肉を永遠に廃棄されたのです。私たちが信仰によって彼の死を自分の死として受け取るとき、キリストの十字架は私たちの罪深い肉に対して霊的な死を及ぼすのです。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。」(ローマ8:2-4)

「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:20)――信仰によって、この事実を受け取り、彼の刑罰を、私たちは自分自身の刑罰として受け取ります。信仰によって、私たちは彼とともに十字架につけられました、そこで私たちの厭うべき罪深い肉が処罰され、この罪のからだは、彼とともに十字架につけられて死んだのです――。「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」 キリストの死を通してのみ、私たちはもはや「肉に従って歩まず」とも良くなります、そして、彼のよみがえりの命を通してのみ、「御霊に従って歩む」者とされます、アダムの命は挫折しか招きませんが、キリストの命だけが、死に至るまでの神への従順を私たちの内側に成就することができます、聖書は言います。「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。」(コロサイ3:3)

キリストとともに十字架で死んだ――この事実に信仰によって立ち続け、彼とともに彼の十字架を通して、肉に死んで、アダムの命に死んで、彼の命によって生かされることにより、私たちは「肉に従って生きる責任」(ローマ8:12)から解放されて、それとは全く異なる新しい原理であり、神の御旨に反することのない「いのちの御霊の原理」(ローマ8:2)によって生かされるのです。

「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:13)

主イエスの十字架の死以外のどんなものも、私たちを罪と死の原理から解放できません。主イエスの十字架以外のどんなものも、私たちをアダムの古き命から解放し、キリストのよみがえりの命に至らせることはできません。旧創造は何の役にも立たず、ただキリストにあって、新しく造られた者、新創造だけが、神の御前に価値あるものなのです。第一の人アダムは失敗し、何の価値もなくなりました。第二のアダムであるキリストだけが、今や神の御心を満足させます。第一の人アダムは不完全で、自分の外側にある行ないによって神への従順を表わさなければなりませんでしたが、それに失敗し、神に従順であることができませんでした。しかし、第二の人キリストは死に至るまで従順であることにより、神の御心を完全に満足させる、完全な人となりました。今や、このキリストが内に住まわれ、彼の命によって生かされ、彼の内にとどまることを通して、人はこの栄光の望みであるお方によって、神の御旨を成就することのできる、神の御心にかなう者とされるのです。

「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるのです。」(ローマ8:11)

信仰によってキリストの十字架の死と復活の力を知ること、それは一度限りではなく、生涯かけて追い求めるべきものであることをパウロは述べています。(ピリピ3:10-12) 地上にあって、この贖われない肉体の幕屋の中にあって歩んでいる限り、私たちは完全な贖いに達することはできませんが、彼の死と復活をより深く知ることにより、霊・魂・肉体の全ての面に渡って旧創造の滅びの縄目から解放されて、新しい人とされることが許されているのです。これが御子が十字架において肉体を裂かれ、死の刑罰を受けられ、また、死を打ち破ってよみがえられたことにより、私たちのために切り開いて下さった新しい人への道です。この十字架の働きは信仰者が生涯かけて信仰によって追い求めるべきものです。


⑥ アダムの命と神の永遠の命との違い

このように、神の永遠の命はただキリストを通してのみ得られ、キリストのうちにのみあります。それは賜物であり、人が生まれながらに持っているアダムの命とは何の関係もありません。前述の『人とは何者なのでしょう?』の中で、オースチン・スパークスは、キリストの贖いを通して、人が神の永遠の命を受けて新生され、信仰によってキリストとの真の結合に至る道と、人が生まれながらのアダムの命、すなわち、自己の魂の内にある何らかの力に目覚めることによって、神と融合できると教えるグノーシス主義の偽りの教えとの違いを明確に区別して、次のように述べています。

「…永遠のいのちは賜物であることを心に留めなければなりません。<…>新生に関する二つの解釈があります。一つは真実であり、他方は真理をくつがえす美しい嘘です。

この(誤謬である―筆者)後者の解釈によると、霊のいのちは復興の類のものであり、神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化です神秘的な力が魂を取り囲み、春の陽ざしが眠れる種子を目覚めさせるように魂を昏睡から目覚めさせ、すでにあるけれども眠っている力を活動させるというのです――私たちがすでに持っているものを高い水準、満潮へと引き上げ、その結果、これまで及ぶことなく活性化していなかった領域にも満ちあふれ、抑圧されていた力と機能をただちに解放し、内側の意識と外側の奉仕に効力を及ぼすというのです。

他方の真実な解釈によると、新生は全く新しい別のいのちを受けることであり、キリストのように神聖な受胎という特別な働きによって上から生まれるために必要です――私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されることであり、元々私たちの内には備わっていない、ユニークで奇跡的な誕生による、全く別のいのちであり続けます。」

 
オースチンスパークスがここで「真理を覆す美しい嘘」と述べているものが、まさにグノーシス主義に相当することを私たちは見ます。グノーシス主義の教えは、神の「霊のいのちは復興の類」であると解釈します。つまり、人のアダムの生まれながらの命の中に眠っていた何らかの要素が「復興」されることにより(もしくは「覚醒」されることにより)、人の自己のそれまで活動していなかった領域が活性化されて、人の自己がより高次の水準に引き上げられ、「抑圧されていた力と機能をただちに解放」し、神と融合し、神のようになると主張するのです。グノーシス主義は、生まれながらの人の自己の「神秘的な力の働きによって引き起こされる内なる活性化」こそが、人を神の命に至らせる道であると主張するのです。

マービン・マイヤー氏はこのようなグノーシス主義の立場を説明して次のように言います、「神とはおのれのなかに存在する魂であり、内なる光である」(『原典 ユダの福音書』、p.9)と。

キリストの十字架を介さなくとも人が神に至れるとしている点で、このような考えが決定的に誤っていることはすでに説明しましたが、その他の点でも、グノーシス主義は神の命というものを、人間の生まれながらの魂の内に見いだそうとし、人の命と神の命の性質を混同している点で、完全に誤っているのです。

オースチン・スパークスは新生によって人が受ける神の命についてこう説明します、「新生は全く新しい別のいのちを受けること」であり、「私たちの人間生活の中にそれまで存在していなかった全く新しい独特なものを賦与されること」、つまり、神の命とは「元々私たちの内には備わっていない、ユニークで奇跡的な誕生による、全く別のいのち」であると。

神の永遠の命は賜物であって、人自身が生まれながらに持っている命とは全く性質が異なります。アダムには神の永遠の命はありませんでした。今日、クリスチャンがキリストの贖いによって受ける命は、アダムの命とは全く別の、それまで人の内には存在したことのない、ユニークで、新しく、力強い、永遠に至る命なのです。生まれながらの人の命の中にあるどんな要素からも、神の永遠の命を作り出すことは決してできません。

しかし、グノーシス主義者は、人の生まれながらの命の中に、神の命に至る何らかの要素を見つけ出すことができると主張します(これは錬金術のようなものです)。彼らの言う人の自己の中にある「神的火花」の内容は、それぞれの説によって異なっており、サンダー・シングの主張する「聖なる火花」が、生まれながらの人の良心を指しているかと思えば、解放神学者らは、人の「社会的弱者性」の中に、神性を見いだそうとします。

すでに紹介したように、解放神学者ジェームズ・コーンは、「神の国は、社会の反逆児、見捨てられた人々、弱者のものであって、自称義人のものではない」(『解放神学 虚と実』、p.45)と述べました。このことは彼が「貧しき者たち」や「虐げられた人々」など、生まれながらの人の「社会的弱者性」のうちに「神」に至る要素を見いだそうとしたことを示しています。今日のクリスチャンの間にも同じように、聖書を歪曲して、生まれながらの人の「弱者性」や「被害者性」のうちに「神が宿っておられる」と主張する危険な考え方が広まっています。このような異端的思想が、反カルト運動を支える理念となっていたことはすでに幾度も指摘しました。

聖書によれば、私たちは確かに、貧しい者たち、虐げられた人々、心砕かれて、へりくだった者たちの信仰に、神が特別な憐れみと配慮をもって応えて下さることを知ることができます。たとえば、「あなたはみなしごを助ける方」(詩篇10:14)、「みなしごの父、やもめのさばき人は聖なる住まいにおられる神」(詩篇68:5)、第146篇他をご参照下さい。しかし、そのことは決して、人間が、信仰によらず、生まれながらの自己に属する何らかの要素――たとえば、貧しさや、弱さや、苦難や、抑圧されていることなど――によって、神に至ることができるということを全く意味しません。

救いはあくまで神の一方的な恵みであり、神の御業であり、永遠の命は賜物として与えられるものであり、人自身の内にある何かによって達成されるものではないのです。ダビデが上記の詩篇で歌ったような貧しい人々は、福音書を見るならば、ただ信仰によって、主イエスを救い主として受け入れることによって、神の御業によって救われたことが分かります。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われる主イエスが彼らを救われたのであって、人自身の弱者性が彼らを救ったのでは全くないのです。


⑦ 人の魂の危険性と、自己(魂の命)を否んでキリストのうちにとどまる必要性

オースチン・スパークスは言います、「人の魂は複雑で危険なものであり、けたはずれなことを行うことができます。後で見るように、それは私たちを完全に誤らせることができ、私たちを何度も欺くことができます。」

「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう。」(エレミヤ17:9)、この箇所は口語訳ではこうなっています、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。 」 ダビデは書いています、「人の内側のものと心とは、深いものです。」(詩篇64:6)と。人の生まれながらの魂は、偽りに満ちており、甚だしく悪に染まっており、とても深くて危険なものなのです。にも関わらず、グノーシス主義のように、人の生まれながらの魂のうちに「神性」を見いだし、人の生まれながらの自己を触発して、その内に眠っている何らかの力を目覚めさせることによって、人をより高次元な存在へと導こうとするような教えは、魂を肥大化させるという点で、大きな危険性をはらんでいます。そのような教えは人を欺いて神に逆らわせることができるだけでなく、人の魂を肥大化させることによって、その人の内なる秩序を覆し、その人の自己を崩壊に導くことさえできるのです。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

クリスチャンの内に「キリストが形作られる」(ガラテヤ4:19)過程は、グノーシス主義者が魂を肥大化させる過程とは全く異なります。私たちは、生まれながらの自己を十字架で否み、アダムの命を主とともなる十字架で死に渡すことによって、自分自身の生まれながらの魂や、アダムの命から来る肉の力によって歩むのではなく、信仰によって、キリストのまことの命によって歩む新しい人とされるのです。

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子の信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

私たちに与えられている神の命は、私たちが神を離れて所有したり、独立して行使したりすることのできる類のものではなく、「依然として神のパースンの中に保たれます。「神は私たちに永遠のいのちを与えて下さいました。このいのちは御子の中にあります」(ヨハネ第一の手紙5章11節)。」

アダムは自分の外にある命の木を選び取ることによって、神への従順を表明しなければなりませんでした。堕落の後、人は律法を守ることによって、神への従順を表明しなければなりませんでした。しかし、人はそのような外的表明に決して成功することはありませんでした。それはただ人がいかに不完全であって、神に従い得ない者であるかを証明したに過ぎません。

御子の十字架を経て、今や、従順は外面的行為ではなく、信仰によって、内なるキリストによって達成されるようになりました。完全さはキリストにのみあります。私たちは外側にあるものに手を伸ばすことによって完全になろうとするのではなく――命の木はキリストご自身です――ユニークなパースンとして私たちの内に住んで下さるキリストを通して、全ての必要の供給を受けるのです。「見えない神のかたち」(コロサイ1:15)である御子との結合にとどまり、彼の与えられた戒めを守り、御子のパースンとの生き生きとした交わりの中に、御子のうちにとどまること、それこそが私たちが御霊によって導かれる神の子供であり続けるために必要なことなのです。「あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望み」(コロサイ1:27)

グノーシス主義においては、人の生まれながらの自己のうちに神性が宿っているとしながらも、グノーシス(知恵)の啓示を受けるのには、結局、目に見える導師や導き手といった仲介者の存在が不可欠とされているのに対し、聖書の御言葉は、私たちが信仰によってキリストの死と復活と一つにされ、彼の内にとどまるとき、目に見える仲介者は不要であり(神と人との仲保者はただお一人キリスト・イエス以外にはないのですから(Ⅰテモテ2:5))、私たちは外側の何にも頼らずとも、キリストにあってすべてを得ており、私たちの内に与えられた見えない油塗りである御霊こそが必要な真理を私たちに教えて下さることをはっきりと示しています。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたをお教えるように、――その教えは真理であって偽りであはりません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。そこで、子どもたちよ。キリストにとどまっていなさい。」(Ⅰヨハネ2:27-28)

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びますわたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:4-5)

「…キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。私がこう言うのは、だれもまことしやかな議論によって、あなたがたをあやまちに導くことのないためです。」(コロサイ2:3-4)

キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。」(コロサイ2:9-10)

まことの命の供給者、知恵の供給者は、見えない神のかたちである御子ご自身であり、私たちのアダムの命の内には何もありません。私たちは内なる塗り油にとどまり、内におられるキリストにとどまり、彼の頭首権に服し、彼に従うことにより、神の御心を満足させる神の子供となるのです。私たちの内におられるキリストこそ全ての全てであられ、私たちの栄光の望みなのです。




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「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたが私の戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9-10)

「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。

しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」

こういうわけで、兄弟たちよ。 私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
(ガラテヤ4:28-31)


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